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欽明天皇と周辺環境

1 :日本@名無史さん:04/05/01 03:41
継体天皇論や蘇我馬子論、聖徳太子論などの登場人物でありながら、
なぜかスレッドが見当たらない第29代欽明天皇。
継体天皇の子にして仁賢天皇の孫といわれるこの帝と、その周辺人物
や環境をトロ〜ンと語りまっしょい。
(なお、規約は守って下さい)



2 :日本@名無史さん:04/05/01 03:44
カキコよろしく〜。

3 :日本@名無史さん:04/05/01 14:00
旅行で欽明天皇行って見たよ。

蚊がすごかった。

4 :日本@名無史さん:04/05/01 19:36
>>4
スレタイが気に入らない。

5 :日本@名無史さん:04/05/01 20:40
>>4
ごめんなさい。
スレタイ作り直してみたけれど、うぷできなかったす。
(【仏教伝来】欽明天皇【第29代】とか、いろいろ考えたけれど。)

ところで本題ですが、この人の和風謚号って意味深よね。

6 :日本@名無史さん:04/05/01 22:17
欽明天皇は安*天皇を殺害した可能性ありますか?

7 :日本@名無史さん:04/05/01 22:19
壱の肛門に付着しせしめる蟯虫一同をば代表仕りそれがしが書き込みをばさせて頂きたく御座候。
この度、主君がこのような糞すれつどをば立てし候故皆々様にご迷惑をおかけ致しまし候段、
この場を御借り申し候にて深くお詫びをば申し上げ候也。
壱の肛門で生活するこの身なれば、大変主君の身の上を心配申し候なれど、
この弐ちゃんねるという瓦版を知り申し候以来、主君も少しく聡明に也申し候。
「本日幕府登用板でね、台所方がさあ…」 と、
とても楽しそうに蟯虫であるそれがし共に話しかけて頂きまして御座候。
おかげさまで主君の便秘気味の体質も改善され申し候故、毎日新鮮な三度に
ありつける次第で御座候。漸く幕府登用活動も開始した様にて御座候。
どうぞ皆々様、壱を暖かく迎えてやってくださいますれば恐悦至極にて御座候。
重ね重ねよろしくお願いをば伏して御願い奉りて申し上げ候。
    
              壱に寄生する蟯虫一同より


8 :日本@名無史さん:04/05/01 22:24
奉ずる群臣は大事に大事に守ったのかな?当時の政情からみて対抗する勢力は?


9 :日本@名無史さん:04/05/01 22:31
>>6
欽明天皇を即位させたい勢力が安閑天皇のブレーンを失脚させた可能性はあるだろうけれど
暗殺はしていないんじゃないかな。暗殺を仕掛けていたらもっとイワクありげな記紀の記述
になってるんじゃないのか。

10 :日本@名無史さん:04/05/01 22:31
対抗する勢力は、当然、異母兄たちと、尾張氏。

11 :日本@名無史さん:04/05/01 22:35
>>9
百済記には、殺されたような記述がありますよね。

12 :日本@名無史さん:04/05/01 22:36
皆さんは
安閑・宣化←→欽明
並立説?

13 :日本@名無史さん:04/05/01 22:36
日本史上、すごく重要なポイントは、
安閑天皇が、史上初の生前譲位にて即位した天皇であること。

14 :日本@名無史さん:04/05/01 22:38
>>12
宣化の娘を欽明は皇后としているし、
そもそもその二人の間の子が嫡流として今の天皇に繋がるでしょ。

15 :日本@名無史さん:04/05/01 22:41
>>11
どうなんですかねえ。真相は。
>>13
そうそう、そこなんだよね。

16 :日本@名無史さん:04/05/01 22:49
安閑天皇の新嫁の名前なんだっけ? 武烈の妹の。

んで、その二人の間に子供って出来なかったの?

17 :日本@名無史さん:04/05/01 22:51
外国本の解釈次第では継体・安閑・宣化の3人ともが同時に死んでいるようなのだが。そうなると
継体天皇から欽明天皇に直接皇位が移ったということにはならないのか。


18 :日本@名無史さん:04/05/01 22:55
欽明天皇には子供がめちゃくちゃ多いが、
皇太子にして次に即位した敏達天皇の母は石姫皇女で、宣化天皇の娘。

もしも宣化天皇が敵対勢力であるならば、
欽明天皇には他の子供も多いので選択肢を変えたはず。

19 :日本@名無史さん:04/05/01 23:19
>>16
その間に生まれたのが息長真手王。
さらにその娘が敏達の皇后。

20 :日本@名無史さん:04/05/01 23:41
>>18その辺、果たしてどうなのか。
>>19どうしてこうも「真手王」の世代が上に行ったり下に行ったりするのでしょうね。


21 :日本@名無史さん:04/05/01 23:54
>>11
欽明天皇側が安閑天皇を暗殺したんだとしたら、中心は旧武烈グループだろうか?
皇位に就いてからならいざ知らず、当時の彼の命令では実行不能と思われるが。

22 :日本@名無史さん:04/05/02 00:52
>>20
>どうしてこうも「真手王」の世代が上に行ったり下に行ったりするのでしょうね。

どういうこと?詳しくプリーズ!

23 :日本@名無史さん:04/05/02 00:55
敏達天皇の母は石姫皇女ではない説があるの?

24 :日本@名無史さん:04/05/02 00:58
上殖葉皇子って、当時どういう位置付けにされていたんでしょうか?

25 :日本@名無史さん:04/05/02 01:00
継體天皇って手白香皇女と結婚したのは武烈時代ですか

26 :日本@名無史さん:04/05/02 01:01
>>22-23困惑させてゴメンナサイ

息長真手王の姫が継体天皇の配偶者になっているという話があり、その一方、
息長真手王の父が安閑天皇という話がある、ということです。



27 :日本@名無史さん:04/05/02 01:05
>>25
それはないと思われ。

28 :日本@名無史さん:04/05/02 01:06
ちゃうちゃう。息長真手王は二人いて、
6世紀の息長真手王の娘の荳角皇女は継体天皇の后妃になっている。

29 :日本@名無史さん:04/05/02 01:10
息長真手王の娘って広姫で、敏達天皇の皇后だよね。
広姫と敏達天皇の息子が押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父)で、
娘が菟道皇女(伊勢神宮第8代斎宮)ですな。

30 :日本@名無史さん:04/05/02 01:15
26です。>>28サンクス。ゴメンナサイ。論議続けてちょ。


31 :日本@名無史さん:04/05/02 01:21
>>27
しかし、武烈天皇の崩御のあとでは、
武烈の姉の手白香皇女は高齢になりすぎていて、
継体天皇との婚姻も形式的なものになってしまうのではないか?

32 :日本@名無史さん:04/05/02 01:26
息長真手王が、もしも安閑天皇の息子だとすると、
息長真手王の娘の荳角皇女は、安閑天皇の孫娘である。
つまり、荳角皇女は、継体天皇の曾孫娘である。

ここで、荳角皇女は継体天皇の后妃になっているので、
継体天皇は自分の曾孫娘を后妃としたことになる。

さすがに自分の孫娘や曾孫娘を后妃とする例は他にもなく、
さらに曾孫娘ということは3世代も異なるわけで、
二人の息長真手王の混同による間違った結果に過ぎないと結論づけることができる。

33 :日本@名無史さん:04/05/02 01:31
息長真手王の孫娘の菟道皇女について質問です。

池辺皇子が斎王の菟道皇女を犯したという有名な事件がありますが、
この池辺皇子は結局だれだったのでしょう?

34 :日本@名無史さん:04/05/02 01:38
菟道皇女は用明天皇の同母妹、推古天皇の同母姉ですね。
これら3人は息長系です。つまり、息長真手王の孫たち。

菟道皇女は池辺皇子に姦されて伊勢神宮の斎宮を解任されていますが、
そのあとを継いだ酢香手姫皇女は用明天皇の娘なので、
依然として息長真手王の曾孫娘が斎宮になったことになります。

35 :日本@名無史さん:04/05/02 01:38
>>31
ということは武烈時代に欽明天皇は生まれていたということ?
となると欽明天皇の出生地は近江になるわけ?
大和じゃあぶないでそ。

36 :日本@名無史さん:04/05/02 01:40
26です。ホントにありがとう。>>32

37 :日本@名無史さん:04/05/02 01:41
>>35
琵琶湖から淀川沿岸にかけても継體天皇の勢力圏だぜ。

むしろ、それらまでが即位後も勢力圏の限界であったため、
大和入りするまでの長い間はそれらの地域に首都が置かれてただろ。

38 :日本@名無史さん:04/05/02 01:44
池辺皇子は、欽明天皇の息子のどれか。

ただし、息長系皇子を除く。

39 :日本@名無史さん:04/05/02 01:52
崇峻天皇=池辺皇子 ですか?

40 :日本@名無史さん:04/05/02 01:52
>>37
じゃあ、手白香皇后は在樟葉だったと考えるのね。

41 :日本@名無史さん:04/05/02 01:55
樟葉で即位した時点で、手白香皇后を伴っていなければ、
手白香なしでも皇統の継承に支障がないのでそれ以降ではない、という見方。

42 :日本@名無史さん:04/05/02 01:59
>>40
継體天皇の樟葉宮での即位を、大和勢力は認めていなかったと仮定すると、
20年後に手白香皇女との婚姻によりようやく継體天皇が大和入りできたことになる。

しかし、20年後の手白香皇女の年齢を考えてみよう。
20年前に亡くなっている武烈天皇の姉なのである。
そしてさらにそのあとに欽明天皇は生まれるであろうか。

43 :日本@名無史さん:04/05/02 02:03
欽明天皇の孫娘である酢香手姫皇女の母は葛城広子

葛城系はこの時点ではまだなんらかの勢力を持っていたと思われ

44 :日本@名無史さん:04/05/02 02:06
菟道皇女の前の斎王の磐隈皇女も、
同様に密通の疑いで解任されています。

こちらの犯人も池辺皇子?

45 :日本@名無史さん:04/05/02 06:06
当麻皇子や酸香手姫皇女は聖徳太子の異母兄弟姉妹になるわけだけど、
外祖父の葛城磐村って欽明政権下での位置付けはどうだったんですか?

46 :日本@名無史さん:04/05/02 07:16
>>31>>35
日本書紀によれば、武烈天皇の崩御時の年齢は18歳らしい。
なのでその同母姉の手白香皇女は、継体天皇即位時には20代前半くらいだと思われる。
また、欽明天皇は571年に63歳で崩じたという記録に基づけば、509年(継体即位の2年後)生まれになる。
ただ、これらの日本書紀の年齢がどこまで信頼できるかは、微妙だが、欽明の崩年が571年であることはほぼ事実である以上、
欽明の生年が継体即位より前だとすると、欽明は崩年時には当時としてはかなりの高齢だったことになり、やはり考えにくい。
もちろん、欽明が生まれたのが継体即位後だとしても、継体と手白香の結婚は即位前ということも十分あり得るが。


47 :日本@名無史さん:04/05/02 07:20
むしろ記紀は、欽明は在位期間が長い割にさほど長生きをしていないような論調で書かれている節がある。

48 :日本@名無史さん:04/05/02 07:42
それよりも、>>40がいっているように、
樟葉で即位の時点で手白香皇女を后としていたのかどうかでしょう。

かなり遅れて大和入りができた理由として、
手白香皇女を后にしたという可能性。

49 :日本@名無史さん:04/05/02 08:52
アカデミックじゃないかもしれないけど、他の有名人の伝説のように、
欽明天皇の生誕地について、例えば民間伝承のようなものはあるのかな。
あくまで参考ということで。

50 :日本@名無史さん:04/05/02 09:10
>>43>>45の話が気になる。他氏が隆盛を極める中での葛城氏は
完全には政治パワーを失っていなかった、ということか。


51 :日本@名無史さん:04/05/02 11:52
昔々、ある大学教授が言うには「欽明天皇は大伴一族の出自である可能性がある」ということだったが、
他にもそういう学説を唱える人はいるのか。それともデムパ?

52 :日本@名無史さん:04/05/02 15:01
>>51
そうすると、応神〜武烈の王朝は葛城氏、崇神から仲哀の系統は息長氏ってことか?

53 :日本@名無史さん:04/05/02 18:08
いや、葛城襲津彦の頃が全盛で、
雄略天皇に、葛城円が殺されてからはそうではないと思う。

しかし、その後も葛城磐村が娘を用明天皇に嫁がせたりしている。

54 :日本@名無史さん:04/05/02 19:20
>>52
というか、「記紀にある大王自体の存在も数も系譜も全く信用ならん」という主張だったと
記憶している。
ちなみに私自身はそうは思わず、記紀の記述には某かの史実が投影されていると見るのだが。


55 :日本@名無史さん:04/05/02 19:26
>>53
欽明政権下で何らかのポストにはいたんだろうね。<葛城磐村
後の紀貫之ほど下がってしまっていてはできない芸当だもんね。
ま、これは極論としていったまでだけど。

56 :日本@名無史さん:04/05/02 21:43
葛城烏那羅は一部で根強い人気が‥‥

57 :日本@名無史さん:04/05/02 22:40
話が飛び飛びになって申し訳ないが、手白香皇后が欽明天皇の母であるということには
みなさん異論はないわけだ。>>51に紹介されている論以外は。
樟葉宮にて欽明天皇が生誕ということでいいのかな?

58 :日本@名無史さん:04/05/02 23:41
樟葉宮って、京阪の樟葉駅のあたり?

59 :日本@名無史さん:04/05/03 01:19
樟葉モール汽車の広場

ここで結婚して即位すれば幸せになれる

60 :日本@名無史さん:04/05/06 21:54
しかし父帝はご高齢であったから、???という意見もあるわけだ。

武烈天皇の皇子が匿われていて、継体天皇の子として即位して、で
も実の父の名は言えないで、ということは考えられるのか?
というのは、あの大伴金村でさえも仁賢ファミリーの存在は無視で
きないわけで、皇太后あたりの意向で内密に皇統を戻したという可
能性がなくもないからだ。
詳しい史料はないのでしょうか。

61 :日本@名無史さん:04/05/06 22:04
生没年不明なのが、どうも引っかかるんで。
もちろん、武烈天皇に子なし、という伝承が記紀には伝わっているけれど、
それとは別に、仮に欽明天皇が武烈天皇の皇子だったという伝承があった
としても、舎人親王や太安麻呂は収録しないだろうな、と思うわけ。
後の皇族は武烈天皇の子孫ということになってしまい、記紀の構成自体が
おかしくなってしまうから。

ということで、こういう仮説を立てられるのか、それともキレイに排除で
きるのか、知りたい。

62 :日本@名無史さん:04/05/06 23:53
葛城氏は雄略の時に、大王家の後継者争いに巻き込まれ
衰退したが、尾張氏とは古くから縁戚関係にあり、
尾張氏と強いパイプを持つ継体が擁立されたことで、
政界に復帰するチャンスを得た。
ということかな?

63 :日本@名無史さん:04/05/09 09:35
>>62
その後の復帰状況の詳細をキボンヌ。

64 :日本@名無史さん:04/05/09 09:37
武烈や仁賢なんて架空の天皇なのに、無意味な議論やってるなw

65 :日本@名無史さん:04/05/09 11:28
てか記紀ってさー、継体からはマジメに書いてんのに
何でそれより前は改竄してんだろ。
全部が全部とは言わんが。不思議だ。

66 :日本@名無史さん:04/05/09 12:12
>>58 樟葉モール
字が違う。正しくは糞袴モール。現在工事中。

67 :日本@名無史さん:04/05/10 00:08
>>65
根拠は?
>>64
だったらみんなが納豆食うする持論を出してよ
>>66
枚方し今日行く委員会の方ですか?


68 :65:04/05/10 00:20
>>67
年齢

69 :日本@名無史さん:04/05/10 00:29
>>68
それは改ざんというより、バイアスがかかってしまったんじゃないの?
大王に仕えていた者達の記録はそれぞれの一族の記録として伝えられて
いて、必ずしも記紀のなすがままに丸写しというわけでもないでしょ?
その記録が全く違うというのならまだしも、整合性の取れる部分もある
わけで、そうなると伝承上のバイアスが考えられるけれど。

70 :日本@名無史さん:04/05/10 00:31
>>64
それは、実在の大王は雄略→継体→欽明の順に即位、ということですか?
(欽明スレなんで)

71 :日本@名無史さん:04/05/11 02:32
わからない。謎だ。

72 :日本@名無史さん:04/05/18 04:56
>>68
継体・安閑・宣化だって年齢はかなり怪しいと思うぞ。
以下、日本書紀準拠の年齢。
継体 450−531 享年82歳
安閑 466−535 享年70歳
宣化 467−539 享年73歳

ちなみに、欽明と武烈も書いておく。
欽明 509−571 享年63歳
武烈 489−506 享年18歳


73 :日本@名無史さん:04/05/18 18:05
今はじめてこのスレみたんだが、要するに論点は何?

74 :日本@名無史さん:04/05/18 18:50
手白香皇女は初婚だったのかどうか、について。けっこう核心。

75 :日本@名無史さん:04/05/18 19:05
そんなことがどうして重要な論点なんだよ?

76 :日本@名無史さん:04/05/18 22:20
>>74
日本書紀での武烈の年齢が事実なら、その同母姉である手白香皇女も年齢的に初婚でしょう。

77 :日本@名無史さん:04/05/19 01:18
漏れも初婚だと思うが、仮に初婚じゃなかったら何だってんだ?

78 :日本@名無史さん:04/05/19 11:37
天皇の姉が、なんで都合良く、未婚のまま行き遅れていたんだろう??

79 :日本@名無史さん:04/05/19 14:58
なんで行き遅れってわかるの?

80 :日本@名無史さん:04/05/20 01:39
>>73-79
二朝並立説の是非(百済本紀の記述は何を表しているのか?)
手白香皇女の成婚は樟葉か大和か(武烈崩御以前なら定説転覆)
有力豪族の権力構図(特に蘇我氏の台頭)
etc
分かるようで意外と謎の部分も多い
よって欽明天皇という存在が当時の日本にとってどういう意味
を持っていたのか、日本の方向性に関与した時代といえるのか
等が論点だと思われ。

81 :日本@名無史さん:04/05/20 03:00
そんなにいろいろ風呂敷広げても漠然としすぎでわかんねーよ
もっとしぼれ、論点を。

82 :日本@名無史さん:04/05/20 03:57
>>72タソの書いているとおり武烈が506年に享年18歳(数え)で死んだ時に
手白香皇女が独身でいたら、同母姉の皇女も当然数え18歳以上なわけで、
当時としたら年増だろうな。

83 :日本@名無史さん:04/05/20 05:35
じゃ、誰かと結婚してたのを離婚させられたのかも知れないし、
武烈生前から継体が有力皇族として存在してたのかも知れないし、
そのどっちかでそ

84 :日本@名無史さん:04/05/20 09:39
少し後の時代のことを考えれば、20歳前後で未婚の内親王は結構いると思うけどな。

85 :日本@名無史さん:04/05/20 17:40
皇統がやばい状況で、なんにも対策の手を打っていなかったのはありえない。

つまり、手白香皇女は既に有力傍系皇族のもとに嫁入りしていた。

ところで、資料間の整合性などを考慮しても、
武烈崩御の時点では、子供はまだ誕生していなかったんですよね?

86 :日本@名無史さん:04/05/20 17:44
武烈なんて架空の人物なのに・・・

87 :日本@名無史さん:04/05/20 22:30
>>85
そこが気になる。仮に記紀の年数に狂いがあった場合、欽明天皇が武烈天皇の・・・
という仮説は可能なのか不可能なのか。
(あの人のことだ、庶子があってもおかしくない)
安閑・宣化両天皇の弟となる皇子にしては若すぎないか?
武烈天皇を忌み、継体天皇の皇子「として」育てられたという可能性はゼロか?

88 :日本@名無史さん:04/05/20 22:32
なんでそんな訳の和漢ないことを時の朝廷があえてする必要があるんダヨ

89 :日本@名無史さん:04/05/20 22:32
武烈自体が架空の存在なんだからナンセンス

90 :日本@名無史さん:04/05/20 22:37
>>88
反大伴金村派の工作という線は?
大物ほど敵も多い

91 :日本@名無史さん:04/05/20 22:39
武烈天皇が架空の存在とする説はもう古い。
前之園亮一がその実在を詳細に考証して以来、実在したとするのが
現在の学界の通説。その説の詳細は昭和61年に出た
「古代王朝交替説批判」(吉川弘文館)にも収録されている。
ちなみにこの本は仁徳以前はすべて架空だから王朝交代もしようがない
という説。

92 :日本@名無史さん:04/05/20 22:40
>>90
大伴金村は継体以後も一貫して権力の座にいるのだから
そんな想像自体ナンセンス。

93 :日本@名無史さん:04/05/20 22:44
>>92
なるほどなあ

94 :日本@名無史さん:04/05/21 06:52
産経新聞の八木説についてどう思いますか?

95 :日本@名無史さん:04/05/21 07:21
つっこみどころ大杉でわかんねーもっと絞れよ、話題を

96 :日本@名無史さん:04/05/21 07:35
中国に朝貢した倭の五王は直接の先祖ではないと言うために
継体を倭の五王の前の応神の子孫にした可能性は?
継体は清寧天皇の子 欽明は武列の子

97 :日本@名無史さん:04/05/22 00:17
そんなの蘇我氏みたいな悪い臣下がいて勝手にすたことだとか
いくらでも捏造のしようがあるじゃん
日本書紀の編集者は本当に判断の材料がなかったので
ニュートラルに編集したら倭五王の話は出てこなかったというだけだろう

>継体は清寧天皇の子 欽明は武列の子

なんでそんな思い付きに固執してるのかまったく理解できん
なんか具体的な根拠でもあるの?憶測でなく。

98 :日本@名無史さん:04/05/22 00:37
>>87
欽明天皇は、571年まで生存している。
そして、欽明の子である推古は、628年に75歳で死んだことから換算すると、554年生まれ。
また、用明・崇峻は推古の弟とされる。
欽明の生年を武烈存命中とすると、欽明はかなり高齢になってから、これらの子供をもうけたことになる。

99 :日本@名無史さん:04/05/22 01:07
>>96氏へ
>>97氏ではないが、どういう根拠なのか知りたい

>>95氏やその他いろんな人の意見により、とりあえず、欽明天皇の父母と
欽明天皇の子を含めて、それぞれの生没年を整理することからはじめるか?
その後はここのメンバーで頃合いを見て順次テーマを決めて逝くと。

100 :日本@名無史さん:04/05/22 01:16
ぜひ、いらしてくだはい
ttp://www.chunichi.co.jp/00/ach/20040513/lcl_____ach_____005.shtml

101 :日本@名無史さん:04/05/22 02:26
まとめますた。
雄略帝   479崩62歳(紀)、489崩124歳(記)、80歳(神皇正統記)、93歳(一代要記・水鏡)、104歳(紹運録)
清寧帝   484崩、39歳(神皇正統記)、41歳(水鏡・一代要記)、42歳(皇代記)
飯豊皇女  484崩、45歳(一代要記・紹運録・水鏡)
顕宗帝   487崩、38歳(記)、48歳(一代要記・神皇正統記・紹運録)
仁賢帝   498崩、50歳(水鏡・紹運録・神皇正統記)、51歳(帝王編年記・一代要記)
武烈帝   506崩、18歳(扶桑略記・水鏡)、57歳(帝王編年記・皇代記)、58歳(神皇正統記)、61歳(天書)
継体帝 531崩82歳(紀/通説)、534崩(紀一書)、527崩43歳(記)、80歳(神皇正統記)
安閑帝   535崩、70歳(紀・神皇正統記)
宣化帝   539崩、73歳(紀)、70歳(神皇正統記)
欽明帝   571崩、62歳(一代要記)、63歳(皇年代略記)、81歳(神皇正統記)
敏達帝   585崩(紀/通説)、584崩(記)、24歳(愚管抄・扶桑略記)、48歳(皇代記・紹運録)、61歳(神皇正統記)
用明帝   587崩、41歳(神皇正統記)、69歳(皇年代略記)
崇峻帝   592崩、72歳(神皇正統記・一代要記・紹運録)、73歳
推古帝   628崩、75歳(紀)、70歳(神皇正統記)、73歳(一代要記・紹運録)

102 :日本@名無史さん:04/05/22 03:40
>>101
すごい。ありがと。
ところで、各年齢は、各資料に一次的に記載されている崩御時の数え歳なの?

たとえば、途中のある時点での年齢が記載されていてという二次的なものもから
計算した結果のものも含むのかどうかってところを知りたくて。

103 :日本@名無史さん:04/05/22 05:16
>>101
何のことわりもなく「484崩」のように書いてある場合の崩年は、日本書紀準拠ですか?

104 :日本@名無史さん:04/05/22 05:34
武烈天皇が、もしも崩御時に18歳だったとすると、
即位したのが小学3年生の時になってしまう。

子供を大王にするのは当然なので、武烈以外の時代では避けている。
どうしようもなくても、皇后などが中継ぎをして成長を待っている。

したがって、武烈が崩御したときの年齢は、
帝王編年記による57歳あるいは神皇正統記による58歳というのが正しい。

105 :日本@名無史さん:04/05/22 06:06
神皇正統記はどんな史料をもとに書かれたものですか?

106 :日本@名無史さん:04/05/22 06:45
>>101
親子関係にある人物が、それぞれの史料で何歳のときの子供かということも算出していただけませんか?
あと、それぞれの史料における欽明と武烈の年齢差も知りたいです。
欽明の母である手白香皇女は、武烈の同母姉妹とされていますので、おおよその目安にはなると思います。

107 :日本@名無史さん:04/05/22 08:56
捏造された系図とデタラメな年齢なんか、何の根拠にもならない。

108 :日本@名無史さん:04/05/22 09:38
>>104
他に後継ぎがいなかったのだから10歳で即位もありえなくはないでそ
有力皇族や母親が補佐(事実上摂政)してた可能性もあるし

109 :日本@名無史さん:04/05/22 10:52
>>101
凄いですな。
崩御年をどうやって算出したのか教えてくれんか。
大体合ってると思うんで。

あと飯豊皇女は崩御じゃなくって譲位っしょ。

110 :日本@名無史さん:04/05/22 11:06
>>109
飯豊皇女って不感症だったて本当ですか。

111 :日本@名無史さん:04/05/22 12:24
後世の後付け年齢なんか、いくら列挙しても意味がない。

112 :日本@名無史さん:04/05/22 17:35
>>108
もし、本当に10歳でオオキミに選ばれていたとしたら、
その補佐していたという有力皇族の名前を教えてください。

もしかして、補佐していた有力皇族が、のちの継体だという論ですか?

113 :日本@名無史さん:04/05/22 18:12
 欽明天皇陵って最後の前方後円墳と
呼ばれてるね。
 樟葉で生まれたのかな?今枚方樟葉の交野天神社の
樟葉宮跡に行ってきたよ。鬱蒼とした森の中の小高い丘。
庶民を治める開かれた宮というより、軍事的な防御施設
の側面が強そう。5年後に今の京田辺に移ったらしい。
そこも丘の上にあり、同じ印象(同志社大学の中)。

114 :日本@名無史さん:04/05/22 23:50
>>112
春日大娘皇女

115 :日本@名無史さん:04/05/23 02:12
>>114
春日大娘皇女は、雄略天皇が認知していないのでダメ。

116 :昨日の101:04/05/23 02:42
あ、色々とレスして下さったようで、ありがとう。
手許に以前集めた資料があったので、それをもとにしてます。

>>103 >>109
はい、崩年は日本書紀準拠です。タネも仕掛けもありませんw
>>102
殆どが一次的なものですが、唯一<雄略帝 479崩62歳(紀)>だけは、
允恭紀七年十二月紀に「大泊瀬天皇を産みたまふ夕に適りて云々」と
出生記事のあることから算出したもので、崩御記事に併記されていたものではありません。
(書紀紀年で允恭天皇七年は418年に当たります。)
>>108
『神皇正統記』は北畠親房によって小田城中で書かれたものなので、参考書などは無く、自身の記憶に頼った部分が多いようです。
ただし、親房は簡潔な『皇統記』(詳細不詳)が一冊だけあったと記しており、数字などの細かい資料をそこから引用した可能性は充分に考えられます。
>>109
飯豊皇女(飯豊青尊)は顕宗即位前紀に崩御記事があります。

>>107>>111といった厳しい意見も尤もです。
例えば、武烈帝を57歳崩とする説は継体紀の誤読でしょうし、
崇峻帝を70余歳崩する説では系図に符合しないことになります。
しかし、私はこれらの数字が全くの根拠無しに書かれたとも思われません。
それゆえ参考資料としてここに掲げたまでであって、
「信じろ」などと言うつもりは全くありません。

117 :昨日の101:04/05/23 02:43
×>>108
>>105

118 :日本@名無史さん:04/05/23 19:12
色々な意見があるけれど、このスレではオーソドックスなラインで進める
ことにしよう(あれもなかった、これもなかった、だけでは進まない)。
根底的に疑問を持つのだったら、このスレに書かなければならないことも
ないわけで。


119 :日本@名無史さん:04/05/23 20:28
>>116
こういう本もある
聖徳太子暗殺論(農耕民族と騎馬民族の相克)/高野勉/光風社出版/昭和60
この本の附論に武烈暗殺・仁賢復位&残虐行為説が載っている。
これによると仁賢は病死ではなくて武烈への譲位であったが、直後に「18歳」で平群真鳥により暗殺される。
このため、仁賢が再出馬して真鳥を撃って再び皇位につくが、重臣による息子の死に対するショックで疑心暗鬼になりついには残虐行為に走る。
そして、8年後に仁賢が「58歳」で病死した。
これなら、武烈の二重人格も諸書による武烈崩年齢の大きな誤差も説明できるというのだが…。




120 :119:04/05/23 20:36
参考までに
仁賢帝   498崩、50歳(水鏡・紹運録・神皇正統記)、51歳(帝王編年記・一代要記)
武烈帝   506崩、18歳(扶桑略記・水鏡)、57歳(帝王編年記・皇代記)、58歳(神皇正統記)、61歳(天書)
50(水鏡・神皇正統記での仁賢崩年)+(506年−498年)=58歳(神皇正統記での武烈崩年)

121 :日本@名無史さん:04/05/24 00:31
すごい。。。

122 :日本@名無史さん:04/05/24 01:13
んだとすると、手白香皇女はそのときいったい何歳で、
既婚だったのかどうか、子持だったのかどうか。。

123 :日本@名無史さん:04/05/24 03:22
中世の史書の後付け年齢なんか、いくら検討しても無意味だろうに。

124 :日本@名無史さん:04/05/24 04:39
>>123
後付けだという証拠は?

125 :日本@名無史さん:04/05/24 05:21
仁賢が「58歳」で病死した時点で、
手白香皇女の年齢は少なくとも27歳。

まず既婚だろうね。

126 :日本@名無史さん:04/05/24 15:20
武烈と手白香皇女の母(春日大娘皇女)は雄略の娘。
顕宗・仁賢兄弟は、雄略存命中は人目を忍んで生活していた。
よって、仁賢と春日大娘皇女の結婚は、最低限、雄略の死後(おそらくは顕宗の即位後)であるはず。
そう考えれば、武烈死亡時の手白香皇女の年齢はそんなに高くはならないはず。

127 :日本@名無史さん:04/05/24 16:05
>>126
なるほど。白髪部の継承というポイントにも矛盾せず、頷ける話だね。
語り部の伝えるところでは、「白髪の大王は2人の王子が見つかって喜び、
後継者問題が解決した」という流れになっているから、2王子出現を機に
婚儀が進んだとも考えられるね(これは例え清寧架空説であっても矛盾は
しない、念のため。)。
やはり手白香皇女の年齢はもっと武烈天皇に近かったのかな。

128 :日本@名無史さん:04/05/24 17:40
記紀は、大陸から独立している日本の歴史の正当性を記述しているのは、
漢の将軍位 倭の五王記載がない事から明らか。

であれば、倭の五王が天武朝の、直系先祖でない事を記載しなければならず、
そのように改竄したのだろう。
応神から継体をつなげてその直系の天武朝である。
改竄前なら、武列から継体、きんめいまで 何の問題もなく繋がっていたというのが
真実である。 しかしこの場合、天武の先祖は漢帝の臣になってしまう。

129 :日本@名無史さん:04/05/24 22:52
>>126-127
自作自演

130 :>>128:04/05/24 23:56
>倭の五王が天武朝の、直系先祖でない事を記載しなければならず、
そのように改竄

この説はよく聞きますが、どうなんでしょう?
紀は、卑弥呼=神功皇后を意識して書かれていますし、
説得力に欠けるかと思いますが。
天武の八色の姓も、継体以降の臣籍降下の氏族を真人に
していますし、武烈〜継体に皇統の断絶(危機)があったのは
信じて良いかと思います。


131 :日本@名無史さん:04/05/25 00:20
>>128
もうちょっと分かり易い文章を書いてくれない?

132 :日本@名無史さん:04/05/25 03:35
記紀成立時代の背景

1・漢帝が大陸消滅。非漢帝系の時代突入。
2・漢南朝の遺臣系、大将軍臣(百済王と倭王)は、白村江で唐に敗退。
3・天武朝は、倭を正式に日本と宣言。非漢帝系の皇帝と日本の皇帝は
  同格であると天皇号。 そして記紀を作る。

(許されない記述)
天皇の直系祖先が、落ちぶれた漢帝の大臣であった等許されない。
(卑弥呼は直臣の礼はとってない)

(改竄すべき記述)
倭の五王にあたる武列以前の五王は、天武の直系祖先ではないとする。
応神から継体に5代を飛ばし繋げた系譜により、天武帝の直系祖先は、
栄光に曇りがなくなる。

(フォロー)
八色の姓の真人(第一位)
皇系豪族のうち、継体帝以前の嫡流家は真人にしない。
神聖な皇族は、継体帝以後の嫡流のみとする



133 :日本@名無史さん:04/05/25 23:17
>神聖な皇族は、継体帝以後の嫡流のみとする

「何故、継体以後とされたのか」という疑問が残りますね。
継体以前は真人としないという政策に、継体以前の皇族が黙って従った理由は?
断絶がなければ、説明できないように思いますが。
 

134 :日本@名無史さん:04/05/26 01:27
>>132
>(許されない記述)
>天皇の直系祖先が、落ちぶれた漢帝の大臣であった等許されない。

じゃあそれを記紀に書かなけりゃ済むことじゃないの?実際書いてないし。
系譜の改竄云々は全く必要ないじゃん。

135 :127の日本@名無史さん:04/05/26 01:38
>>129さまへ。残念ながら別人です。お勉強しなおしてくだちゃいね

倭の五王隠蔽説については、>>135-134に同感。

ただ、どうも腑に落ちないところがある。諸説があるけど、意外に
記紀の方が説得力があったりする。とはいえ100%とも言い難い



136 :日本@名無史さん:04/05/26 01:43
>>133-134の誤りですた。ごめんちゃい。

137 :日本@名無史さん:04/05/26 04:12
天武朝が倭の五王時代の事を恥じていたのは、
記紀に、その記載がない事から明らか。
恥じていたのであれば、天武の祖先との絡みを隠蔽するはず。
事実、倭の五王の系統が外れてる。

黙っていればいいか?といえば、
天武朝の時代は、天皇の権威を、内外に高めている時代。
内外の識者は中国史に無知とは言えない。
特に中国側は、倭の五王と漢の関係を知る立場にある。
したがって、日本正史として、五王の事をいつ突っ込まれても良いように、
天武の直系ではないことにしたのだろう。
改竄する動機は十分だろう。

大事な事は、五王の記載がない事から、記紀はその事を恥じているという事である。



138 :126:04/05/26 04:25
>>129
俺と>>127は別人。
残念でした。

139 :日本@名無史さん:04/05/26 06:33
>>137
系図を捏造するなら
倭の五王を皇族(応神の傍系)の世襲大臣にしたらいいのでは?
末裔は武列のようなヤシで断絶
武大臣の先祖の応神天皇が国土を拡大

140 :日本@名無史さん:04/05/26 15:43
そうでなくて、よその国の臣なんかになったため、断絶したわけです。

141 :日本@名無史さん:04/05/26 15:46
八色の姓で、継体以前を差別したのは、
史実が先なのか、(五王や、漢が没落して後ろ盾喪失)
天武代の権力争いが先なのか、

どちらもありえるね。
真人による皇族差別という執拗さから言って、天武朝の時、
記紀側が排除したい具体的ターゲットが当然あったのだろう。
 
>>139 のように幾つもの捏造方法があるなかで、皇統そのもので
捏造したというのは、当時の実力者は全てが皇統からの縁者だったからだろう。
キーマンの武列の記載が、恣意的な悪意があるとおり、そこに
記紀の意思の表れがあるだろう。

142 :日本@名無史さん:04/05/26 17:45
五王ネタは五王スレに逝け

143 :日本@名無史さん:04/05/26 21:25
ちがうちがう、全ては 欽明の周辺環境の割り出しの為。
記紀記載時の状況から、五王や継体のからみは重要。



144 :日本@名無史さん:04/05/26 23:08
記紀編纂の時には編纂局の役人の手許には「宋書」がなかったんだろ
だからそもそも倭の五王のこと自体、知らなかったんだろ

145 :日本@名無史さん:04/05/27 02:01
皇別の氏族で、そっちの断絶系の子孫もいたはずだけど、だれ?


146 :日本@名無史さん:04/05/27 03:46
>>144

倭の五王を知らない・・・・ んなアホな
宋書を見ずとも
漢の大将軍位として半島覇権を競ってた事を知らない事などありえん。

それはさておき
きんめいの時は、南朝があるのに朝貢してないんだが、
継体以前は南朝が後ろ盾の政権が、武王の時、
宋の支援を受けられなかった事で、
継体から欽明にかけて、 非南朝政権が生まれたのかもしれんなー
倭王は、宋朝で文明の産湯を使ってたので、宋朝が滅んだ事がきっかけとなり、
日本は真に独立する事となったのかもしれんね。 

147 :日本@名無史さん:04/05/27 06:58
南朝の後期って、倭から朝貢にいってないのに、
面目のためか倭王に位を与えてしかも上がっていってるよね?

継体朝とのそのへんの関係はどうなんでしょうか?

148 :日本@名無史さん:04/05/27 12:27
「宋書」の編纂は何年?
それで日本での存在の確認できる上限は?

149 :日本@名無史さん:04/05/27 12:35
まもなく150にクソでんしゃ(田舎)が入ります
御注意ください

150 :日本@名無史さん:04/05/27 12:36
.┌"" ̄〔二二二〕 ̄""┐
 ┌'"" ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄""┐
 |゙        .(○○).       ゙|
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 |..____________ |
 | | | ̄ ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ | | |
 | | |   <・>   <・>   | | | みんなで広げようクソ田舎の輪
 | | |____|____|____| | |
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 |        ⊂ニニ⊃     .JR  | < よゆうで150ゲット クソ田舎 マジック!
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  l」''豆||豆''H l×ロl H jj''||豆''l」
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     ノ二ニ.'ー、`ゞ         ズビーシ
    Y´⌒` r‐-‐-‐/`ヽ、≡=─
    |; ⌒ :; |_,|_,|_,hに丿ヽ ≡=─
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    . |; ; ; ; 人  入_ノ´~ ̄ ≡= -
     l ; ;/   // /''  ≡=─

151 :日本@名無史さん:04/05/27 18:51
>>147

日本の成立の謎って、実は全てそこなんだよね、

滅び行く呉漢、後楯喪失の朝廷、台頭する北朝、
渡来系の里に屋敷を作る欽明。




152 :日本@名無史さん:04/05/28 12:43
>>148
成立は488年

153 :日本@名無史さん:04/05/28 22:46
北魏とか北周とかの北狄の蛮族がつくった国へ倭が朝貢するわけなく、
もちろん、それらの後継の隋に対しても、倭としては、サイアクでも対等。

154 :日本史@名無しさん:04/05/28 23:30
倭の五王は記紀には登場しない

155 :日本@名無史さん:04/05/29 00:48
応神、仁徳〜武烈までの5世紀の天皇は実在しない。

156 :日本@名無史さん:04/05/29 08:14
南朝に記録されている、いわゆる”倭の五王”の件ですが、
天皇家の系譜ばかり見ているんじゃなくて、家来の系譜や
動きにも注意した方が、見えてくると思うのですが。

でないと系図スレと変わんなくなっちゃう。

157 :日本@名無史さん:04/05/29 09:57
>>153
真理だね。

欽明は、南朝に挨拶にさえ行かないところを見ると、
このころ既に、漢文明の後継を自分と考えていたかもしれん。
だって、宋までは仮にも「劉氏」漢室。漢帝である。

斉や梁、陳なんて、南北朝の歴史区分では漢だが、
漢室と縁もゆかりもないので、
当時、散らばった残存漢勢力に正統認証されてるとは限らない。
ただ、漢文明の継承国だったにすぎない。
ならば、宋の劉氏亡き後、欽明がスッカリ漢文明の継承国の皇帝として
自認していたとしても何の不思議もない。



158 :日本@名無史さん:04/05/29 12:30
>>153
高句麗なんかも朝貢先は南朝側だったし…。

>>119
そういえば、その本って欽明=金官国王の後身説を取っていたよな。

159 :日本@名無史さん:04/05/29 16:50
>>158
高句麗は、北と南、双方に長貢
どちらかといえば北を主としてた。
北朝と隣接している上、近親民族だったはず

>>157
欽明は、呉系と百済系の渡来人の里と縁が深かったので、
少なくとも、北朝(漢化は唐代)をバカにしてただろうな


160 :日本@名無史さん:04/05/29 18:39
岡山の吉備氏との関係に
関する考察なしに欽明天皇は
語れないが。

161 :日本@名無史さん:04/05/29 23:41
>>160
考察してちょ

162 :日本@名無史さん:04/05/30 01:13
4県譲渡のところってもともとは吉備の利権だったんだっけ?

163 :日本@名無史さん:04/05/30 06:36
宋も沙陀突厥だから異民族なのですか?

164 :日本@名無史さん:04/05/30 06:38
隋が南朝の建康を更地にしてしまったので倭は憎んでいた

165 :日本@名無史さん:04/05/30 11:09
>>159
高句麗は領土問題とかで対立する北朝を牽制するためにむしろ南朝の方に朝貢していたのを北朝の隋が統一したので記録を破棄して「なかったこと」にしたというのを本で読んだ記憶があるが。

166 :日本@名無史さん:04/05/30 11:16
高句麗
http://www.fortunecity.com/victorian/twain/1279/royalhouse/Korean/Koguryo5.htm

167 :日本@名無史さん:04/05/30 11:49
もしかして、
日本は領土問題とかで対立する北朝を牽制するためにむしろ南朝の方に朝貢していたのを北朝の隋が統一したので記録を破棄して「なかったこと」にしたと
いうのを説を考えて提案してみる。

168 :日本@名無史さん:04/05/30 21:30
日本語を組織的の勉強している中国人は日本語と古代中国語の語順が似ているという。
その民族とは古代中国から朝鮮半島、日本へと入ってきたものであって、漢民族とは異なったものであろう。

169 :日本@名無史さん:04/05/31 00:35
継体が琵琶湖・巨椋湖・淀川水系周辺にもともと勢力を持っていたことは
各宮を定めた位置からも蓋然性が高いが、

170 :日本@名無史さん:04/05/31 01:17
高句麗は、
支配民族が非漢の北朝と近親民族だが、
もともと、500年にわたり(漢直轄地の楽浪郡等)だった為、
居住民族の多くが漢化していたと思われる。
その為、漢の南朝と北朝と通じる事が可能だったんだろう。

欽明朝以降、漢化渡来系保護政策を、蘇我氏と東漢氏が進めているが、
帝自ら漢化している、当時の日本は、
東アジアの亡命漢化民族にとって夢のような土地だったのは
間違いない。

171 :日本@名無史さん:04/05/31 01:26
>>168
>日本語を組織的の勉強している中国人は日本語と古代中国語の語順が似ているという。
初耳だけど

172 :日本@名無史さん:04/06/01 16:02
判跛国と伴跛国が、継体を…

173 :日本@名無史さん:04/06/01 19:19
筑紫君磐井が近江毛野臣に同じ釜の飯を喰った仲と発言しているが、
なぜ、両者が同じ釜の飯を喰うような関係になったのであろう。

一つとしては、継体が両者を参勤交代のように都へ一時的に集めていた。
もう一つとしては、ずばり半島経営において両者が共に渡っていた。

174 :日本@名無史さん:04/06/02 03:18
日向諸県君牛

175 :日本@名無史さん:04/06/02 06:16
毛野臣=狗奴国王

176 :日本@名無史さん:04/06/02 12:48
481年 高句麗と靺鞨が新羅に侵攻、百済・加耶との連合軍によって撃破。(新羅本紀)

177 :日本@名無史さん:04/06/02 13:38
ha?


178 :日本@名無史さん:04/06/05 08:09
>>170
なるほど。

179 :日本@名無史さん:04/06/06 22:48
雄略天皇以降の政権構図や文化・経済が、継体天皇の時期を経て、欽明天皇の頃には
ドラマチックといえるほど変わっていた、というイメージがある。

180 :日本@名無史さん:04/06/07 09:23
イメージはどうでもいいので、
具体的に何がどう変わって、
それらには断絶があるのか連続的なのかを教えてくれ。

181 :日本@名無史さん:04/06/07 23:24
倭の五王以降の外交積極策が、継体以降、消極策に変換
したように思います。金村の任那割譲とか。
磐井の乱も、外交策の転換がもたらしたものなのでしょうか?

182 :日本@名無史さん:04/06/08 00:25
そりゃ、 五王のときの漢帝がいなくなったんだから、
後の王朝なんて知るかってなもんだろ

183 :ty270410:04/06/08 00:25
>>176
>481年 高句麗と靺鞨が新羅に侵攻、百済・加耶との連合軍によって撃破。(新羅本紀)

脱線しますが,この年代が信頼できるとして,これを契機に新羅が高句麗の
支配から脱したとされます.
これ以前は新羅は高句麗の支配下にありました.

脱線すみません! ものに戻ってください!


184 :ty270410:04/06/08 00:28
>>144
>記紀編纂の時には編纂局の役人の手許には「宋書」がなかったんだろ
>だからそもそも倭の五王のこと自体、知らなかったんだろ

私も同じ見解です.


185 :日本@名無史さん:04/06/08 07:52
呉として記述はあるんじゃなかったかな。
まあ、たとえあったとしても引用したくはなかったんじゃないか?

186 :日本@名無史さん:04/06/08 10:39
>>184
そう思いたい。 というなら判るが?

大陸との国交は常に継続しているのだから、大陸側との交流史は
知識のベースとなるだろ、それに当時の文官そのものが
漢朝との交流で日本に渡ってきた渡来人の子孫が多数いる。
自らのルーツを含め知らないというのは合理的でない。

187 :ty270410:04/06/09 21:54
>>181
>倭の五王以降の外交積極策が、継体以降、消極策に変換
>したように思います。金村の任那割譲とか。

任那4県割譲は実は百済が南下して占領したのを追認したのでは
ないでしょうか?
さらに,想像するならば,任那4県をめぐって倭と百済の間に
戦闘があり,倭が大敗して任那4県を放棄したのではないでしょうか?
それが壊滅的大敗であったためにその後の外交の消極化につながった
とするのは,いい過ぎでしょうか?

188 :ty270410:04/06/09 22:11
>>144
>記紀編纂の時には編纂局の役人の手許には「宋書」がなかったんだろ
>だからそもそも倭の五王のこと自体、知らなかったんだろ
>>184
>私も同じ見解です.

日本書紀撰述時点では,倭の王室文書は僅かな王統譜に関するものの
ほかはほとんど全く残っていなかったのではないでしょうか?
諸氏の伝承とか,百済系の史書,中国の典籍などを典拠として撰述したのだと
考えます.

倭の武王の宋への上表文の案文(写し)など,当然王室に遺存すべきものが,
恐らくは,内乱などで失われてしまったと推察します.
また,中国典籍の輸入も決して系統的におこなわれたわけではないでようし,
マイナーな「宋書」が輸入されていなかったとしても不思議ではないと
考えられます.

ですから,日本書紀に倭の5王の記載がないのは不思議ではないと考えます.



189 :日本@名無史さん:04/06/10 18:51
>>188
国内の資料喪失の
可能性を論じても仕方ないんじゃないの?
倭の五王のネタは、宋だけでなく、実際には朝貢しなくなった斉や梁でも
正史に継続して残ってるほどメジャーなので、知られてないってのは無理がある。


190 :日本@名無史さん:04/06/12 01:07
継体のときの判跛国と倭国の関係がポイントですね。

191 :日本@名無史さん:04/06/13 00:05
伴跛と百済の争いで、倭としては伴跛を当然援護すべきなのに、
なぜ百済のほうに利する行動をとったのか、そこが半島政策失政のポイントかと。



192 :ty270410:04/06/13 00:16
>>190
>>191
そうですね!失敗ですね!

因みに伴跛は後の大加羅ですね!

193 :日本@名無史さん:04/06/13 04:35
百済も伴跛も、倭に対して、己文および多沙を欲しいと言ってきていますが、
このときの、己文および多沙の状況はどうだったのでしょう?

この件に関していえば、継体政権はどうみても百済に肩入れしすぎですね。

194 :日本@名無史さん:04/06/13 09:14
そのへんの話は大伴金村スレでやってる

195 :日本@名無史さん:04/06/13 14:50
蘇我稲目と秦氏について語らないか?

196 :日本@名無史さん:04/06/13 17:14
そもそも、己文と多沙ってどこの支配下にあったんだ??
なぜ、大和政権はこれらをどちらのものにするかの決定権があるんだ?

197 :日本@名無史さん:04/06/13 17:33
だからそのへんは金村スレで。

198 :日本@名無史さん:04/06/13 18:05
金村スレは4県割譲問題であって、全く別の話。
己文・帯沙割譲事件には、大伴金村は出てこない。

百済本記にある「委の意斯移麻岐弥」てのは、
「倭の押山君」とすれば、穂積臣押山ってことになる。

百済からは五経博士が次々に倭に訪れて、
倭は百済に対して己文と多沙を与えてしまったわけだ。

伴跛は倭に裏切られたので、子呑と帯沙に城を作って倭に対して備えている。
その後の任那滅亡の原因の大きな一つになったに違いない。
継体〜欽明政権の大失政ではないかと思われる。

199 :日本@名無史さん:04/06/13 19:55
513年11月5日に、百済の姐弥文貴と、新羅の文得至と、安羅の辛己奚と賁巴委佐と、
伴跛の既殿奚と竹文至が、日本に集まって、己文と帯沙の所属が決定されてるね。

伴跛は、別個に珍宝を日本へ献上して、己文の所有を願ってるけど、だめだったみたい。

200 :日本@名無史さん:04/06/13 21:10
四県割譲のはずが己紋・帯沙までやっちゃったんだろ、金村が。

己紋・帯沙は四県割譲と深い前後関係があり
関係ないという理屈はムリ。
一連の事件として「四県二郡の割譲」といわれている。
これは歴代の任那スレでも普通に言われてたはず。


201 :日本@名無史さん:04/06/13 21:19
>>200
いや、はっきりいって、半島経営の失敗は、金村ではなくて、
継体天皇が半島へ遣わせた毛野臣が無能すぎて、
おまけに半島の人たちの反感を買ったところに行き着くと思う。

202 :ty270410:04/06/13 21:20
>>196
己文・帯沙について,考古学から洛東江の下流が新羅に占領された
ため,海への出口を失った伴跛(大加羅)が海への出口に使って
いたのだと論証している報告を見たことがある.
己紋・帯沙については,どこにも任那に属するとは書いてないので,
私は任那に属せず,当時は伴跛(大加羅)の支配下にあったのでは
ないかと憶測している.(証拠がないので「憶測」!)

203 :日本@名無史さん:04/06/13 21:37
>>202
己文の推定地は、全羅北道南原郡と任実郡および全羅南道谷城郡の一帯じゃないっけ?
海への出口って感じに見えないんだけど。

204 :日本@名無史さん:04/06/13 21:39
天皇は朝鮮の血を受け継ぐ。

朝鮮を征服し植民支配していた
朝鮮を征服し植民支配していた
朝鮮を征服し植民支配していた
朝鮮を征服し植民支配していた
朝鮮を征服し植民支配していた
朝鮮を征服し植民支配していた
朝鮮を征服し植民支配していた
朝鮮を征服し植民支配していた
朝鮮を征服し植民支配していた
朝鮮を征服し植民支配していた
朝鮮を征服し植民支配していた
朝鮮を征服し植民支配していた

華北人の血を受け継ぐ。

205 :日本@名無史さん:04/06/13 22:22
脱線スマソ。

多沙=帯沙ですが、これって吉備臣田狭と関連あるネーミングですか?
吉備氏の影響力を感じるのだが。
大伴金村は百済に媚びるだけでなく、吉備氏を弱体化させたいために
ここを割譲したわけですよね?
継体〜欽明期、それほど吉備氏の存在は許せないものだったんだろうか?
それ以前に葛城・平群両氏が誅されたり、後の蘇我→物部とかあるけど、
それに比べるといささか影が薄いようにも見えるんですが。

酔っ払いでスマソ。

206 :日本@名無史さん:04/06/13 22:28
続き
大伴連金村政権に痛い目にあわされた豪族って、みな「臣」のようですが。
完全に脱線しました。ゴメヌナサリ。

207 :ty270410:04/06/14 00:49
>>203
手元に資料がないので確言できませんが,
朴天秀先生が
高霊から南原を経てセンシン江を下って河東へ出る
ルートを考古学から想定しておられました.

南原付近が己文で,センシン江下流域が帯沙です.
高霊から金海へのルートを失った後の重要なルートだった
と私も思います.
倭は百済の攻撃に耐えかねこの地域から退却したのだと憶測して
います.



208 :日本@名無史さん:04/06/14 01:12
>>207

>倭は百済の攻撃に耐えかねこの地域から退却したのだと憶測しています.

倭ってまさか「九州王朝」じゃないよね?などと言って見るtest

209 :日本@名無史さん:04/06/14 02:27
>>202
帯沙は慶尚南道河東郡なので、これが海への出口ではないでしょうか?

210 :日本@名無史さん:04/06/14 10:09
>>205
え?

百済がもらった帯沙って、
加羅国の多沙津(倭との重要な港湾)のことなの?

211 :200:04/06/14 13:07
漏れは205ではないが
>>210
それは基本的な認識。日本と韓国を結ぶ基本航路の韓国側の主要港
のうち、「韓国→日本」の出発港が「多沙津」。
(ちなみに金官は日本からの到着港。対馬海峡は西から東への
潮流が激しいので、日本側も韓国側も出発港と到着港が別になる)

伴跛国が百済への割譲に反対した理屈のひとつに
「多沙は加羅諸国の日本への朝貢路だから」というのも
あって日本書紀にでている。

己文は上己文、中己文、下己文と区別することもあり、
韓国の各地にあった地名らしい。

490年に、百済は四県に相当する地に王族貴族7人を王や侯に
冊封している。従って四県の割譲は、実際には日本書紀のいうより
だいぶ前に起こったこと。金村の失脚は四県ではなく、二郡割譲
に関係しているんだろう。

二郡は四県と同じく倭の直轄領なので、これもなくなるということ
は、緩衝地帯もなく百済と加羅が直接に領土を接するということ
になるばかりか、加羅が倭に朝貢するたびに百済から通行税を
とられるということになりかねない。伴跛(=大加羅)が猛反対
するのは当たり前。
事件。

212 :日本@名無史さん:04/06/14 13:20
>>211
2つの事件をごっちゃにしていませんか?

己文と帯沙の百済所属決定は、513年です。
伴跛が己文などを奪ったと百済が6月に訴えてきて、
11月に己文と帯沙の百済所属を決定しています。
伴跛からも貢物と訴えがありましたが退けています。

一方、多沙津の百済所属決定は、529年です。
3月に百済が加羅の国の多沙津を朝貢時の港として欲しいと訴えてきて、
そのまま百済の言い分を認めてしまっています。
加羅王は朝貢時の港として百済に与えるのに反対したが退けています。

結果として、加羅王は新羅から嫁をもらって、反日本の道を進んでいきます。

213 :日本@名無史さん:04/06/14 16:39
いやいや、そうじゃないよ

日本書紀は史料的価値が高いとは思うが二つ欠点があり、
漢文の文飾が多いのと記事の編年に誤りが多いこと。

二つの事件は原資料が二つあったから
そのまま取り入れてしまっただけで
二つの事件はもともと同一の一つの事件だと
解釈するのが普通の説だと思うが。
岩波の古典文学大系の日本書紀の
注釈・解説でもそういう立場で説明されている。

岩波の古典文学大系じたい出版されたのが古くて、今では
「なんだこりゃ?」みたいな説がさも通説であるか
のように書かれてたりするのは困りものだが、
今でも通用する部分だってたくさんあるよ。

214 :日本@名無史さん:04/06/14 16:49
>>213
そういえば、513年の己文と帯沙の件は、百済vs.伴跛ですね。
伴跛は日本を恨んで、子呑や帯沙に城を築いて対日本に備えています。
さらに、新羅へも攻め込んでいます。

もう一つの、529年の多沙津の港の件は、百済vs.加羅ですね。
加羅は日本を恨んで、日本と敵対する新羅王の娘を娶っています。

この両者を同じ事件とすると奇妙なことになるのですが?

215 :日本@名無史さん:04/06/14 21:33
>>214
それが奇妙ではない。

前者の記事は長いスパンの一連の話をひとまとめにしてる。
新羅との婚姻は結局新羅の野望が察知されて破綻してる。
なので新羅に攻め込んだのも事実。

216 :日本@名無史さん:04/06/14 23:16
伴跛国=加羅国なの?

なにか理由とか根拠とかあればすごく知りたいです

217 :日本@名無史さん:04/06/15 00:46
加羅というか、大加羅ね。(加羅というだけではたくさんある)
この大加羅と伴跛国が同じ国か別の国かというのは
直接の根拠がないため、長いこと決定的な説がなく
曖昧に「同一かも知れん」といわれてきたけど、
最近は状況証拠から同一説がほぼ定説化してる。


218 :日本@名無史さん:04/06/15 01:35
どういう状況証拠があるのかしら

219 :日本@名無史さん:04/06/15 02:25
だから、日本書紀でみると同じような役回りだからでそ。
それだけではないだろうが、主なものはそれかと。

220 :日本@名無史さん:04/06/15 05:19
513年のは、百済曰く「伴跛国が百済の己文地方を奪ったので審判のうえ返還してほしい」
529年のは、百済曰く「加羅の国の多沙津を、我が国の朝貢の航路として頂きたい」

どうみても、全然別のことを言っており、明らかに別の事件。

221 :日本@名無史さん:04/06/15 09:39
伴跛国が百済の己文地方を奪ったのは
大和朝廷が己文は百済のものと裁定したので
倭には任せておけなくなったからでそ。
数年間にわたっていたかも知れないが一連の事件なんだよ。
日本書紀の編年のままでは順番がめちゃくちゃ。

222 :日本@名無史さん:04/06/15 12:08
513年6月 百済が将軍と五経博士を倭へ派遣し、伴跛が奪った己文の返還を要望。
513年11月 百済と新羅と安羅と伴跛が倭に集まり、倭は己文と帯沙の百済所属を決定。

日本書紀によれば、こうなってるねー。

ってことは、>>221のいうように裁定→不満で奪う、という不自然な流れでなく、
先に伴跛が奪って、そのため裁定、ってことだね。

223 :日本@名無史さん:04/06/15 22:36
その決定会議って、六ヵ国会議の古代版みたいなものと解釈してもOK?

224 :日本@名無史さん:04/06/16 00:05
栄山江の前方後円墳の年代を考えると、日本書紀の任那四県割譲の年代が
案外正しいのではないかと思いますがどうですか?


225 :日本@名無史さん:04/06/16 05:05
南加羅(ありひしのから)って、金官ですか?

多沙津の所属事件の529年の3年後の532年に、
金官が新羅のもとへくだっているのがタイミングとして気になります。

226 :日本@名無史さん:04/06/16 15:39
そのころの継体天皇の状況と対応は、
526年にようやく大和入りして完全に基盤を確立したみたいで、
527年に近江の毛野臣が新羅に向けて兵6万が出発していますね。
もちろん、新羅と結んだ磐井に妨害されてしまうのですが。

227 :日本@名無史さん:04/06/16 17:37
継体19年頃の状況が書かれてる、故宮博物院にある梁職貢図を見てください。

228 :日本@名無史さん:04/06/16 21:41
任那四県割譲は継体6年。
整合してるだろ。


229 :日本@名無史さん:04/06/16 22:41
継体7年(513年)の、伴跛国と百済国の、己文と帯沙の領有争いだが、
この伴跛国って、梁代職貢図で百済の近くにあると記述されている叛波国と同じ?

この件、梁の資料と日本書紀の整合性もちゃんとあるってことか。

230 :ty270410:04/06/16 23:58
何年か前に梁職貢図に関する論文を読んだ記憶が
あります.

梁職貢図の百済の傍余小国には任那はもうありません.
百済から見ると任那はもう滅びたということでしょうか?

一方,倭ではこの後任那復興と言っています.どうも
符合するように感じます.

一歩譲って,4県割譲後,任那の実態はずたずたになり
有名無実になり,百済はそれを無視し,倭は名前に
こだわったということでしょうか?

ちなみに,新羅は百済の傍余小国の一つでした.

231 :日本@名無史さん:04/06/17 00:26
>>230
いや、任那復興に一番力を入れていたのは百済の聖明王。

聖明王は欽明天皇のからの要請があったのでと言っているが、
やりとりを見ていても最も任那復興にむけて色々しているのが聖明王なのは明らか。

一方、欽明天皇も聖明王からのリクエストには応えているが、
肝心の弁辰地域諸国はむしろ足を引っ張っているような感じだ。

232 :日本@名無史さん:04/06/17 02:31
>>222
そりゃちがうだろう
裁定がでる前に軍事行動おこすメリットがないし
普通考えにくいことだよ

>>224
そこまで正確に同定できるほどの材料はないんじゃないかな
しかしほぼ合ってることにはちがいないけど

>>230
叛波,卓,多羅,前羅,斯羅, 止迷,上己文,下枕羅
のうち少なくとも4国、多ければ6国は加羅諸国(任那諸国)でそ
任那の実態がばらばらになったという表現はどうかと思うが
たしかに四県二郡割譲事件から諸国の足並みがそろわなくなった。
やはり倭国の采配がへたくそで、百済の野心や新羅の面従背覆
といった両国の狡猾な外交に翻弄されたんじゃないのかな

233 :日本@名無史さん:04/06/17 02:54
>>232
なぜ、百済周辺諸国のリストから、麻連だけ故意に抜いているのだ?

234 :232:04/06/17 03:58
別に故意にではないが…?コピペ元がもう抜けてたんですよ

235 :日本@名無史さん:04/06/17 04:25
コピペでなく自分の意見を書くべきですな

倭国の采配がへたくそという見方には同意

236 :日本@名無史さん:04/06/17 17:38
欽明朝における最大のポイントは、やはり外交政策だな。

しかし、任那復興会議を目指したり主催しているのは、
なぜか欽明天皇ではなく百済の聖明王。

そして、息子を救援に行った聖明王が新羅で殺され、
任那への手を打つ者がいなくなったあと、
新羅によって任那は完全滅亡させられてしまった。

237 :ty270410:04/06/17 22:43
>>233
>別に故意にではないが…?コピペ元がもう抜けてたんですよ

すみません.私が以前に別の掲示板に書いたもののようです.
「麻連」を書き忘れていました!


238 :232=234:04/06/17 22:56
>>237
謝罪と賠償を(ry

239 :日本@名無史さん:04/06/17 23:57
新羅に敗けて聖明王しんだときに、その次男にむかって、
蘇我稲目が、『あんたの国では祖神を祀らないのがいけない。
悔い改めて、神宮を整備して神霊を祀るべき。』と言っているが、

・百済ではほんとに祖神を祀ってなかったのか?

・蘇我稲目は仏教にはまって仏教を勧めるんじゃないのか?

240 :232=234:04/06/18 00:37
>>239
>蘇我稲目は仏教にはまって仏教を勧めるんじゃないのか?

蘇我稲目は、政治政略として仏教を利用してただけで
本当に信仰してたとしてもそんなに熱心に信じてたわけではないだろう。
近現代(明治〜最近)の日本人クリスチャンと同じで
海外文化というファッションの要素が強いんじゃないのかな。

>百済ではほんとに祖神を祀ってなかったのか?

稲目がいってんのは「最近では」という話。
三国史記みると昔から祖神を祀ってるのは確か。
でもこの時代は仏教全盛でおろそかになってたんだろう。
その「祖神」とやらの神話がどうも日本の天孫降臨神話と共通のもので
現在に残る日本神話と現代には伝わらない百済神話とが
同じものと考えられていたふしがある。
おそらく百済・新羅・高句麗・倭の4者みな類似した神話を
共有していて、当時の人々は同じものと認識していたのだろう。

241 :日本@名無史さん:04/06/18 04:48
欽明天皇『賛成派の蘇我稲目に仏像を授けて、試しに礼拝させてみよう。』

しかし、しばらくすると国中で疫病が流行で死者続出。

物部尾輿『仏を祀ったことことが原因。返すべき。』
中臣鎌子『仏を早く投げ捨てて、後の福を願うべき。』
欽明天皇『そのようにせよ。』

役人が出向き、仏像を難波の堀江に流し捨て、寺に火をつけて焼いた。
すると、なぜか宮の大殿に火災発生。この年、百済は漢城と平壌とを捨てた。
(百済と新羅が共同で高句麗から奪返したものだが、新羅が裏切り占領のため。)

242 :日本@名無史さん:04/06/18 22:36
>>240
>> 百済・新羅・高句麗・倭の4者みな類似した神話を共有していて、

百済と高句麗は夫余神話ではないの?

243 :240:04/06/19 02:34
>>242
> 百済と高句麗は夫余神話ではないの?

それはわからん。そうであった可能性は高いけど。

244 :日本@名無史さん:04/06/20 17:38
今日高槻の今城塚古墳に行ってきました。
釣りしてる人が多かったです。書紀の天国排開広庭
のところなんて朝鮮半島の記事ばっかだね。ただ、
初めの狼に関する秦大津父を大蔵司にしたエピソードが
鍵だと思う。

245 :日本@名無史さん:04/06/20 18:22
>>244
そう、欽明天皇よりも聖明王が主役です。(ってのも言い過ぎでないほど)

とはいえ、半島関係の記事には、日本側の天皇・皇子や大連・大臣から下っ端まで、
すべてからんで来て、さらには権限関係や、当時の日本国内事情が盛りだくさん。

じっくり解明していくと、6世紀の国内事情と国際関係が浮かび上がってきます。

246 :ty270410:04/06/21 23:29
>>245
>じっくり解明していくと、6世紀の国内事情と国際関係が浮かび上がってきます。

続きをお願いします.

247 :日本@名無史さん:04/06/22 05:34
日本書紀に、『継体2年12月、南の海にある耽羅(済州島)が、百済国に初めて使いを送った。』とある。

・なぜ、日本書紀に日本と関係ないことが書かれているのだー?
・そもそも、日本はどうやってこんな細かいことまで情報を入手してるのだー?

・済州島は南の海にはないぞー。九州の北というか北西だー。

248 :日本@名無史さん:04/06/22 05:40
百済の記録が紛れ込んだんでそ

249 :日本@名無史さん:04/06/22 05:47
なんで継体天皇のしょっぱなに百済の記録が紛れ込むんだろう…

すごく重大な意味あり?

250 :日本@名無史さん:04/06/22 05:47
ないよ

251 :日本@名無史さん:04/06/22 06:03
そもそも、継体紀には、即位いきさつと家族の紹介記事など標準項目のあと、
いったい最初に何が書かれてるか、あんまり有名ではないのかな。

最初が、なんと、その耽羅と百済の記事。
次が、任那にすむ百済人の三世四世を百済へ戻して戸籍登録した記事。
その次に、筒城宮への遷都(理由もなくそれだけ)が間にはいるけど、
さらに次は、穂積臣押山を百済へ派遣した記事。

そしてその次に、有名な、百済への四県割譲の記事です。
ちなみに、のちに安閑天皇になる皇子は、四県割譲に異議を唱えています。

その次が、伴跛と百済による、己文をめぐる領土争いの記事で、
次が、百済の太子が亡くなったという記事です。

252 :日本@名無史さん:04/06/22 17:56
継体天皇は、なんで、百済へ、ほいほいと、領土を与えまくったんでしょう?
任那諸国が同様に求めていたのに与えず、百済びいきが目につきます。

253 :日本@名無史さん:04/06/22 19:45
>>252
そういう話は金村スレでやっております

254 :ty270410:04/06/22 21:38
>>247
>>249
>>251
面白いご指摘ですね!続きが楽しみです!

255 :日本@名無史さん:04/06/22 23:12
>>251
その亡くなった百済の太子の子孫が、桓武天皇ですね。

256 :日本@名無史さん:04/06/22 23:19
自演スレとなりますた

257 :日本@名無史さん:04/06/23 03:27
そういえば、日本の太子が同時に死んだとかいうのは?

258 :日本@名無史さん:04/06/23 12:28
531年3月 日本の天皇および皇太子・皇子が全員死んでしまった

259 :日本@名無史さん:04/06/23 13:01
>1
だから百済vsやまと、新羅vsやまと
じゃなくて、
百済=やまとvs 中国北方遊牧民系民族国家
だろ。

これに先立つ燕や漢の時代には、百済(半島)も天津と同様、
海洋民族の「わ人」同盟国の一員だったわけだし。

朝鮮人も日本人と同様、
燕族や漢民族に奪われて消された歴史を思い出すのだ。


260 :日本@名無史さん:04/06/23 13:03
>259
ゴメン誤爆した、違うスレだった。

261 :日本@名無史さん:04/06/23 18:37
結局、531年3月に、継体と安閑と宣化が同時に死んだということでいいんだろうか?

そして、欽明(=仁賢の孫)が即位した、と。

262 :日本@名無史さん:04/06/23 19:46
継体が死んだのは古事記によって527年とすべきだろう。

その年は磐井の乱で、天皇崩御のニュースは一時隠さざるをえなかった。

後で発表しようと思ったら多沙の帰属問題で近江臣毛野が加羅で戦争状態に。

で、結局、発表が531年になってしまった。

あるいは暦の錯誤かも知れんな。
三国史記の新羅本紀と、三国遺事では聖明王即位年が4年ずれてる。
継体崩御の527年と、伝聞記事の531年はちょうど4年差だから。

263 :日本@名無史さん:04/06/23 20:25
欽明即位は531年でいいんっすかね?

だとすると、対外的に継体の死の公開を527年から531年まで遅らせたため、
発表して531年に対外的に伝わったときには、
天皇(継体)・皇太子(安閑)・皇子(宣化)の全員が確かに亡くなっており、
百済本記に書かれていたという天皇・皇太子・皇子の全員が死んだという記述と整合性がある。

264 :日本@名無史さん:04/06/23 20:35
531年の倭王とは、日本じゃなくて金官国の王。

265 :日本@名無史さん:04/06/23 23:58
安閑・宣化と欽明の並立説がまちがって出てきてしまったのも、
>>262のいうように継体天皇崩御を伝えるのが遅れたための百済資料混乱が原因かね?

266 :日本@名無史さん:04/06/24 02:47
>>265
欽明の在位は30年だけど法皇帝説に「卅」の縦線の一本多い字になっており
これを四十と誤読したため「在位40年説」が生まれ、531年即位という錯誤が生まれた、
ゆえに欽明天皇にかんする限り、日本書紀が正しい。

…というのが王朝交代説で有名な水野佑が推古遺文を精査研究してだした結論。

267 :日本@名無史さん:04/06/24 02:50
安閑の崩年は記紀で一致しているけど都合が悪いので無視した方がいいのかな〜?
后の春日山田皇女は欽明紀に皇太后とされているのはなんでかな〜?

268 :日本@名無史さん:04/06/24 03:35
仁賢の娘とされる、手白香皇女、春日山田皇女、橘仲皇女の3人は同一人物。

匈奴を始めとして北アジアで一般的に見られる習慣と全く同じで、
嫂婚制により、継体の皇后を、安閑および宣化も同様に引き継いでいった。

ところが、中華主義の視点からは、その習慣は野蛮なものと見られており、
少なくとも、後の時代、記紀を記載した頃には日本でも同様の価値観であり、
継体・安閑・宣化の皇后を、3人の別人であるかのように扱った。

>>267
春日山田皇女=手白香皇女=欽明の母なので、
欽明天皇からみて皇太后とするのは自然。

269 :日本@名無史さん:04/06/24 06:06
>>267
なんで?別に無視しなくていいんじゃない?
安閑の崩年は記紀で一致しているから問題ないよ。
百済本記の記事はあくまで戦乱の中でそういう噂があったという“伝聞”記事。
継体の崩御と金官王家の滅亡がごっちゃになってるんじゃないかと思う。

>后の春日山田皇女は欽明紀に皇太后とされているのはなんでかな〜?

安閑崩御後も生きてたからではないの?

270 :日本@名無史さん:04/06/24 06:45
春日山田皇女はおそらく即位していたのだと思われ。
日本書紀にも、欽明が即位前に、春日山田皇女にお願いしている。

271 :日本@名無史さん:04/06/24 17:45
即位じゃなくて称制だろうな。
で、その期間(安閑崩御から宣化即位まで)は何年から何年まで?

272 :日本@名無史さん:04/06/24 18:52
>>271
なんと、安閑→春日→宣化→欽明という順序??

273 :日本@名無史さん:04/06/24 19:15
さあ。
安閑→春日→宣化→欽明なのか
安閑→宣化→春日→欽明なのかよく知らんが。

270にきいてくれ。

274 :日本@名無史さん:04/06/24 20:22
上宮法王帝説では、継体朝に続く安閑・宣化朝がなく、継体が531年に没して、翌532年が欽明元年になっている。

275 :日本@名無史さん:04/06/24 22:50
↑なってないよ。藻前みたことないだろw

276 :日本@名無史さん:04/06/25 08:50
『上宮聖徳法王帝説』『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』の「シキシマ天皇」を欽明天皇と考えると、
欽明天皇の元年は、532年にしなければなりません。

しかし、そうすると、安閑・宣化両天皇の在位期間と重なってしまいます。
いわゆる「二朝並立」ということになってしまいますね。

277 :日本@名無史さん:04/06/26 17:38
今日、京田辺市の筒城宮跡に行ってきました!
継体天皇が樟葉の後、ここに移ったんだよね。欽明も
筒城宮に住んでたのかな?

278 :日本@名無史さん:04/06/26 23:59
欽明が生まれた場所もどっちかわからないんだよね
あまりにも両者の生まれた年と亡くなった年がなぞで

天武はもっとひどくて子供の舎人皇子が編纂したのに不明だらけ
書かれてないのは隠したいときと本当に分からないときと区別難しいけども

279 :日本@名無史さん:04/06/27 04:25
欽明の生まれた場所は忍坂宮という可能性もある

280 :日本@名無史さん:04/06/27 07:19
>>279
和歌山県隅田八幡神社蔵の銅鏡銘文の
『癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟』の
「癸未年」は503年、「男弟王」は男大迹すなわち継体、「意柴沙加宮」は忍坂宮である。

つまり、継体の即位は503年で、鏡は継体の即位を祝って造られたもの。
そして、忍坂宮にて欽明は生まれたのであろう。

281 :日本@名無史さん:04/06/27 15:43
欽明紀の冒頭にある説話は百済本紀東城王23年の条に出てくる二匹の虎と関連性があるかもね

282 :日本@名無史さん:04/06/27 17:40
欽明天皇は中世の61歳説と古事記の崩御年から計算すれば
511年生まれだろうな。

283 :日本@名無史さん:04/06/27 18:17
前王朝から女系で血をひく欽明が最初から本命だったんだろう。
ただ、継体が死んだ時、欽明の生年511年として
古事記の崩年干支に従うと欽明は17歳。
武烈が18歳で若死にしてるので、若い天皇は縁起が悪いと思われたんだろう。
そこで安閑・宣化が中継ぎで即位したんじゃないかな。

284 :日本@名無史さん:04/06/28 11:08
この頃の家来筋の権力闘争にも興味がでてきたぞ。
意外なトリビアはないんだろうか?
武烈帝お気に入りの家来の子孫で欽明帝のお気に入りは、とか。

285 :日本@名無史さん:04/06/28 14:33
>>284
武烈帝お気に入りといえば金村。

欽明朝になって、老齢の金村が『みんなが賄賂をもらって百済に領土を売ったと
噂をしてつらい』と悩みを打ち明けていたね。

欽明は、気にするな、とかなぐさめていたきがする。

安閑は皇太子の時に百済への譲渡反対派だったから、
欽明朝になるまで、金村は形見の狭い思いをしていたのだろうか。

286 :日本@名無史さん:04/06/30 01:04
>>285
肩身は狭かったかも。某家来の羽振りが良い時期だったと考えられますから。

287 :日本@名無史さん:04/06/30 07:45
某家来ってだれよ?

288 :日本@名無史さん:04/06/30 09:58
>>287
物部尾輿
金村を失脚させ、稲目との崇仏論争で政治的優勢なり、
敏達の次の天皇は物部派の穴穂部皇子というくらいな勢いです。

289 :日本@名無史さん:04/06/30 13:25
>>288
武烈・継体・安閑・宣化とずっと大連は物部麁鹿火だったと思うのですが、
物部尾輿って、物部麁鹿火の子孫ですか?

290 :日本@名無史さん:04/06/30 13:51
ちがいます。麁鹿火の曾祖父の兄弟の孫

291 :日本@名無史さん:04/06/30 16:12
>>285
どこにそんな事書いてんの?

292 :日本@名無史さん:04/06/30 16:14
日本書紀でそ

293 :日本@名無史さん:04/06/30 19:26
麁鹿火の子供っていなかったんだっけ?

294 :日本@名無史さん:04/06/30 23:13
>>290
「天孫本紀」に書かれた物部氏の文章系譜の読み方ついては
異説もあるから、一概にそうとは言えない。
何れにしろ、麁鹿火と尾輿は別系統だろうがね。

>>293
影媛
石弓若子
毛等若子

295 :日本@名無史さん:04/07/01 00:26
安閑のときの大連は物部麁鹿火だが、
宜化のときの大連は物部押甲となっている。ちなみに押甲は麁鹿火の弟。

ところが、宜化の途中で物部内にクーデターがあり、
大連は物部荒山へ変更。ちなみに荒山は尾輿の父。
そして、欽明のときの大連は物部尾輿となるわけだ。

で、仁賢のときの大連である物部木蓮子や、
武烈のときの大連である物部麻佐良なども含めて、
物部麁鹿火や物部押甲まで、大連はすべて、物部布都久留の子孫であった。

しかし物部内のクーデターによって、
それ以降の大連はすべて、物部荒山の子孫となる。
ちなみに、物部守屋や石上麻呂などもすべて物部荒山の子孫である。

296 :日本@名無史さん:04/07/01 03:57
クーデターってほどのことか?

297 :日本@名無史さん:04/07/01 14:22
宜化→欽明において
天皇家だけでなく物部家においても異変が起きたことは明らか

298 :日本@名無史さん:04/07/03 15:17
>>279-280
それは563年「男弟王」は即位前の敏達、「斯麻」は馬子
鏡そのものと「日十」は太陽信仰を表している
敏達元年と六年に関連記事がある

299 :日本@名無史さん:04/07/03 22:08
>>264
金官王が亡命先の日本を乗っ取って欽明天皇になったという本もあった気がしたが。

300 :日本@名無史さん:04/07/04 02:36
>>298
和歌山県隅田八幡神社蔵の銅鏡銘文の
『癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟』の

「癸未年」は503年、「男弟王」は男大迹すなわち継体、「意柴沙加宮」は忍坂宮である。

「癸未年」は563年、「男弟王」は即位前の敏達であり、「意柴沙加宮」は…

ほんとかよ?

301 :日本@名無史さん:04/07/04 04:30
443年かもしんねーじゃん

302 :日本@名無史さん:04/07/04 07:04
>>301
443年 倭王済、宋に朝献して、安東将軍倭国王とされる。

303 :日本@名無史さん:04/07/04 15:16
ソレダ!

304 :日本@名無史さん:04/07/04 20:19
欽明の正体は百済の聖明王です

305 :日本@名無史さん:04/07/05 01:34
それはない。

306 :日本@名無史さん:04/07/05 01:35
>>302
倭王済は前倭王と血縁関係はない(薄い)
倭王済は継体であり男弟王、男大迹である

307 :303:04/07/05 01:58
じゃやっぱりソレダ!

308 :日本@名無史さん:04/07/05 02:02
>>306
血縁関係はあっただろう。姓が同じ「倭」だから少なくとも同族ではあっただろ。
梁書の系図(済が弥の子供という説)は一般的には信用されてないわけだが、
平西将軍(九州の担当?半島の担当?)の倭隋(珍の弟)の子供かもしれんな。

309 :日本@名無史さん:04/07/05 05:08
継体はむしろ血統だけで王位についた世間知らずな田舎育ちのお坊っちゃんて感じだから
戦争王の臭いがする五王の済なわけ無いな
政治的才能があった二人の息子(安閑・宣化)がいなかったらどうなっていたことか…

310 :日本@名無史さん:04/07/05 06:15
>>309
それにほぼ同意。

百済への直轄領譲渡(=現在の全羅南道)のときは、
日本書紀によると、当時皇太子だった安閑(=勾大兄皇子)の不在を狙って、
大伴金村が継体天皇へ持ちこんで決済してしまったようで、
直後に知った安閑が阻止しようとしたが、決済後であとの祭だった

この件をとってみても、継体は国家の重要政策決断で大伴らのいいなり、
一方、息子の安閑は、正しい決断ができている。

311 :日本@名無史さん:04/07/05 09:31
安閑・宣化が生まれたのは継体がまだ若い時のことで
二人の息子が長いこと補佐してたような気がするな。
継体もそれなりに名君だったと思う。越前・山城あたりの
日本海ルートおさえていて海外事情にうとかったとは思えないけど、
任那割譲の時はあれはあれで正しいというその場の理屈はあるわけで
大伴金村の顔を立てざる得なかったんだろう。


312 :日本@名無史さん:04/07/05 10:05
>>311
しかし、当時の豪族No2である物部麁鹿火は、任那割譲に反対しているぞ。

313 :日本@名無史さん:04/07/05 13:41
やっぱ金村がナンバーワンだったんでしょう。
?鹿火と意見が割れてたって、結局はどっちかの意見を採用せざるをえないんだし。

314 :日本@名無史さん:04/07/05 15:52
日本書紀における百済への四県割譲の記事の骨格をまとめてみよう

  大連である大伴金村と、多利国守の穂積臣押山が、四県割譲を奏上
                ↓
  (なぜか継体天皇の言動記載はなく)大連である物部麁鹿火が勅を伝える使に決定
                ↓
  物部麁鹿火は、妻のアドバイスを得て病気と称して、割譲の勅の伝え役を辞退
    →別の者が使いになり四県割譲
                ↓
  後で割譲を知った勾大兄皇子(=安閑)は、割譲反対を百済の使者に伝える
    →天皇が既に決定したことだとして覆らず
                ↓
  世間では、大伴金村と穂積臣押山が百済から賄賂を得ている、との流言

315 :日本@名無史さん:04/07/05 18:14
荒鹿火は主体的な考えもってなさそうだな。
この問題については除外してもよさそうな気がする。

316 :日本@名無史さん:04/07/05 18:41
物部麁鹿火の妻が偉いな。

誉田天皇以来の由緒ある領土を割いて他国に与えたら、
後世長く非難を受けることになるでしょうと言って、麁鹿火を説得している。

実際に、大伴金村は後世長く非難を受けることになるわけだが。

317 :日本@名無史さん:04/07/05 21:50
徳川光圀の「大日本史」の烈女伝にも、
「物部麁鹿火之妻」という列伝があって絶賛されてた。

318 :日本@名無史さん:04/07/05 22:30
先代旧事本紀に、物部のうちメジャーな人物の妻については情報があるのだが、
残念ながら、麁鹿火の妻の情報は載ってないな。

麁鹿火の子孫がメジャーになっていれば載ってたんだろうけど、
麁鹿火のあとに弟の押甲が継いだあと、
なぜか物部氏の主流は全然別の傍系へ移っちゃってるからな。

麁鹿火の子の二人の男子は、石弓が今木連の祖、毛等若子が屋形連の祖と、
その後はむしろ傍系扱いされて、物部氏から離れてますな。

そういや、麁鹿火と押甲の兄弟は、万葉仮名で書くとわかりにくいが、
「あらかひ」「おしかひ」なんだろうか?

319 :日本@名無史さん:04/07/05 22:56
ごめん、起きたばかりで寝惚けてた。「おしかふ」ですな。

物部麁鹿火の息子たちは全然メジャーではないですが、
麁鹿火の娘はメジャーなだけでなく最強。

結果的に、当時最強豪族の平群真鳥大臣の一族がまるごと滅んでいる。

320 :日本@名無史さん:04/07/06 01:09
かげひめあはれ

5世紀の内乱や反乱伝承を見ると、
イヤというほど女が関わってくるんだよな。

321 :日本@名無史さん:04/07/06 03:03
>>318-319
古事記には物部荒甲とある
荒は「上」押は「下」といふ意味

322 :日本@名無史さん:04/07/06 09:16
ふむむ。するとこの物部兄弟は、麁鹿火=荒甲(あらかひ)と押甲(おしかひ)で、
荒(あら)は「上」の意味で、押(おし)は「下」という意味なのか。

ところで、百済へ割譲された任那4県は、
上多利(おこしたり)・下多利(あるしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)だが、
多利に注目すると、「上(おこし)」と「下(あるし)」となっている。

   物部の兄弟:「上=荒(あら)」と「下=押(おし)」
   任那の多利:「上(おこし)」と「下(あるし)」

めちゃくちゃ対応しているように見えるのだが、なぜ対応が逆なんだ?
そもそもこれらは大和言葉なんだろうか?
それとも、任那と物部をむすぶ大和言葉ではない消滅した言語??

323 :日本@名無史さん:04/07/06 15:19
よく見たら古事記の金村は「大連」ではなく「連」、
しかも磐井討伐には荒甲大連の次に金村の名がある。
金村はNo2だったのではないか?

324 :日本@名無史さん:04/07/06 15:53
>>323 日本書紀ベースだと、
大伴金村が大連になったのは、武烈が即位した498年12月。
一方、それより前の498年8月の影媛事件の時既に物部麁鹿火大連とある。

したがって、日本書紀ベースでは、麁鹿火のほうが先に大連になっている。

一方、先代旧事本紀の天孫本紀ベースだと、
物部布都久留−木蓮子−麻佐良−麁鹿火という親子関係のうち、
木蓮子が仁賢のときの大連、麻佐良が武烈のときの大連、
そして、麁鹿火は安閑のときの大連となっている。

325 :日本@名無史さん:04/07/08 02:19
>>322
アルは「下」の意の古代朝鮮語。シは連辞「の」


326 :日本@名無史さん:04/07/08 04:03
>>325
古代朝鮮語という、特定の言葉は、当時の朝鮮半島には存在しません。

当時の朝鮮半島は、高句麗・新羅・百済・任那加羅諸国と数多くの国があり、
さらにそれぞれの国・地域において倭や大陸各地から来た人々が多数おり、
使用する言語もまちまちで、支配層と非支配層の間でも異なるという状況です。

確実に複数の言語が用いられていた中で、古代朝鮮語とはいったい何ですか?
のちの時代に形成される朝鮮民族・朝鮮国家につながる言葉ということでしょうか?

それとも消滅してしまった国などによる、消滅してしまった言語でしょうか?

327 :日本@名無史さん:04/07/08 13:43
荒甲、押甲、荒山、押山…
同じ一族で似たような名前が多いと紛らわしい。

328 :日本@名無史さん:04/07/08 17:52
物部押山って、聞いたことないな。
穂積押山は、金村と一緒に任那を売った売国奴だが。

で、任那語で、荒と押が、上と下なんですか?

329 :くま:04/07/08 20:53
知ってる方いたら教えてください!

『三国仏法伝通縁起』という仏教の名著があるんですが、
その中の一節で、欽明天皇が新羅や百済といろいろあって
檜隈櫨に葬られちゃう話、詳しいことわかる人おしえてください

330 :ty270410:04/07/08 21:46
>>322
荒(アラ),押し(オシ)を「アルシ」と「オコシ」に対比させるのは
卓見だと思います.
末松保和先生の『任那興亡史』に次のように書いてあります.
アロシ:前,下,(南)
オコシ:背後,上
末松先生は古代朝鮮語と書いておられますが,
>>326さんが言われることから,当時南部朝鮮で
話されていた一つの言語というべきでしょうか!

末松先生に従うとよく理解できます.
荒:前に(先に)生まれたから兄
押:後から生まれたから弟

南加羅(アリヒシノカラ):加羅(高霊)の前方(南方)にある
同名の加羅

331 :日本@名無史さん:04/07/08 21:54
物部尾輿

332 :ty270410:04/07/08 22:16
>>330
>>331
もしや,物部氏は南部朝鮮半島出身者でしょうか・・・・

歴代の名前を検討してみると面白いでしょうね!

333 :日本@名無史さん:04/07/08 22:59
>>328
穂積は物部と同祖、というか穂積から物部が分家した。
で、穂積押山は蘇我稲目の叔母を嫁さんにしていて
物部荒山の養子になった尾輿の実父だ。

334 :日本@名無史さん:04/07/09 00:05
>穂積押山は蘇我稲目の叔母を嫁さんにしていて
>物部荒山の養子になった尾輿の実父だ。

典拠は何だっけ?


335 :日本@名無史さん:04/07/09 01:44
>>332
先祖が九州であっても、問題はないかもよ。
現代の親が自分の子どもに「まりお」とか「まいく」とかつけてるし、
あれってオシャレと思ってつけてるのよねー。
んで、この時代は「任那語?」がトレンドだったのかも知れないし。

ちなみに物部氏族出身で百済王室に仕えた軍人がいたよね。誰だっけ?
これは継体帝〜欽明帝の外交政策と関連あるのかな?

336 :日本@名無史さん:04/07/09 04:47
アロシ=降ろし(下)、オコシ=起こし(上)

日本語とも語源か関係あるかもね

337 :日本@名無史さん:04/07/09 09:38
>>335
物部施徳麻奇牟と物部奈率奇非と物部奈率用奇多ですな。
このうち施徳と奈率は品名なので、
物部麻奇牟(まがむ)と物部奇非(きひ)と物部用奇多(ようがた)か。

百済には物部おおい。物部連との表記があるので、麁鹿火や尾輿らと同族のはずだが、
天孫本紀には、さすがに同様の名前は見当たらず。

338 :日本@名無史さん:04/07/09 14:07
物部施徳麻奇牟
物部奈率奇非
物部奈率連用奇多
上部奈率物部烏
竹斯物部莫奇委沙奇

「連」は用奇多だけですね。莫奇委沙奇は日本人の一般兵みたいです
つまり他の物部の人も姓が同じなだけで朝廷の麁鹿火たちとは関係ないかも

「連」といえば日本府の首魁の佐魯麻都は身分が低いとしながらも
「大連」なんですが、この人を大連にしたのはやはり欽明ですかね?
それとも僭称?新羅の官位も持っていて任那滅亡後の消息は不明ですが
おそらく新羅に行ったのかな?
欽明崩御の時、新羅から弔使が来てるけどこの人の影響では?

339 :日本@名無史さん:04/07/09 14:13
×物部奈率連用奇多
○物部連奈率用奇多

訂正

340 :日本@名無史さん:04/07/09 16:20
>>338
百済で奈率になった物部についての情報はみあたらないが、
例えば、紀臣奈率弥麻沙については、紀臣と百済女性の間の子とある。
ただし、どの紀臣なのか日本書紀を編纂して時点では分らなかったとある。
物部についても、同様の事情である蓋然性が高い。

佐魯麻都については謎が多いな。ほとんど聖明王の発言からだが、

 ・佐魯麻都たちが安羅にいると任那再建は困難
 ・佐魯麻都たちのせいで任那復興会議をしようとしても集まらない
 ・日本府の的臣・吉備臣・河内直らはみな、佐魯麻都たちの指揮に従っているのみ
 ・佐魯麻都たちは身分の低い卑しい出身の者
 ・聖明王としては佐魯麻都たちを日本へ帰らせて欲しいと欽明へ訴えている
 ・佐魯麻都は半島生まれでありながら、位は大連
 ・佐魯麻都は新羅からも奈麻礼の位をもらっており新羅寄り

これらの情報は欽明にも伝わっているはずだが、
ほとんどなにも手を打っていない欽明には、あきれるばかりだ。

341 :日本@名無史さん:04/07/09 19:02
>>300
2週間前に和歌山の隅田八幡神社行ってきたよ。結婚式やってたな。
ちなみに鏡自体は上野の博物館にあるらしい。その後橋本駅前で
あゆ寿司を食べました。大阪から南海高野線。

342 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 17:42
3>>
奈良の欽明天皇稜もいいがお勧めは
神戸市垂水区の五色塚古墳。瀬戸内海・明石大橋・
淡路島を睥睨するすばらしい古墳。

343 :日本@名無史さん:04/07/12 03:32
阿賢移那斯はオケエナシと読むのかな?
なんだか仁賢の諱に似てますね

344 :日本@名無史さん:04/07/17 08:25
佐魯麻都=猿松?

345 :日本@名無史さん:04/07/17 08:55
>>340さんの出典の

佐魯麻都たちは身分の低い卑しい出身の者

気になるなあ。額面どおり受け取れば山賊・海賊の頭領から地方の顔役、
そして事実上の独裁者になったような印象を与えてくれるが、しかし。

例えば元・筑紫国造磐井の庶子だったりすれば・・・?

346 :日本@名無史さん:04/07/18 01:36
オケエナシ、か。なるほど。

347 :日本@名無史さん:04/07/18 04:09
「阿賢」「佐魯」は他に例を見ないがおそらく(任那の?)官職名。

348 :日本@名無史さん:04/07/18 04:14
欽明記には、それらの、日本府や任那とのやりとりが盛んに出てくるが、
なぜか、欽明天皇と日本府や任那諸王などとのやりとりは、一切ない。
それどころか、他の皇族や大伴・物部・蘇我などと、日本府や任那の間も全くなし。

日本府や任那関係の記載は、すべて、百済の聖明王とのやりとりとなっている。

すごいのは、任那日本府の吉備臣らに欽明天皇の詔書を伝えているのも、聖明王。
他の記述を見ても、阿賢移那斯や佐魯麻都など含め、任那日本府における人事権を
欽明天皇や日本側が握っているように見えず、コントロール下にないようにみえる。

継体〜欽明朝においては、もはや、百済を通してしか、任那を制御出来なくなっていたのではないか?
なぜ、そのようになったのであろうか?

349 :日本@名無史さん:04/07/18 09:18
>>348
それが最終的には任那放棄につながるということですか。

350 :日本@名無史さん:04/07/18 14:45
聖明王も欽明の詔書を無視して任那下韓に郡令城主を置いていた。
日本府の佐魯麻都ら任務は任那の地を侵食する百済と新羅勢力を牽制することだったのではないかな?

351 :日本@名無史さん:04/07/18 19:11
日本府の連中は「親新羅・反百済」だったことはまちがいない。
朝廷は百済と力を合わせて新羅を牽制し任那を復興することを望んでいたが、
現地の日本府は新羅と結託して「反百済」で結束していた。

352 :351:04/07/18 19:18
>>348
日本府の役人はもともと四県二郡の国司。四県二郡が百済に割譲されたため
こいつらは仕事がなくなった。でも他に行き場がないから、任那の残存部分である
加羅諸国に逗留するしかない。管轄する領地もないまま居候してるわけだから
自然と政治監督官もしくは政治顧問みたいな存在になっていた。
こいつらは、ただのムダ飯食いで今でいえば特殊法人みたいなもの。
とにかく中央からの命令には関係なく四県二郡を奪った百済憎しで凝り固まった連中。

353 :日本@名無史さん:04/07/18 20:44
>>352
なぜ、彼らと、本国(欽明や有力豪族)との間に、直接やりとり記載が一切ないのか?

なぜ、欽明からの任那・加羅諸国・日本府への勅命が、聖明王を通して伝えられているのか?

もちろん、百済は欽明からの勅命のうち、
『任那の下韓にある百済の郡令・城主は日本府の旗下へ入るべし。』に対してのみは従っていない。

また、百済から任那・日本府に対してはほとんど制御できていない。
任那復興会議の集合をかけても、言い訳してずるずる伸ばしたり、
ようやく来ても身分の低いものを送ってきたりと、主従関係があるどころではない。

354 :日本@名無史さん:04/07/18 21:32
>なぜ、彼らと、本国(欽明や有力豪族)との間に、直接やりとり記載が一切ないのか?
>なぜ、欽明からの任那・加羅諸国・日本府への勅命が、聖明王を通して伝えられているのか?

本国からの命令は現地では握りつぶされてるでそ。
百済は日本府が抵抗勢力になってるからなんとか言う事を聞かせようと
朝廷からの命令を盾にしてるだけ。

>もちろん、百済は欽明からの勅命のうち、 『任那の下韓にある百済の
>郡令・城主は日本府の旗下へ入るべし。』に対してのみは従っていない。

そんなメチャクチャなとんでもない命令に従うわけがないよ

>また、百済から任那・日本府に対してはほとんど制御できていない。
>任那復興会議の集合をかけても、言い訳してずるずる伸ばしたり、
>ようやく来ても身分の低いものを送ってきたりと、主従関係があるどころではない。

そりゃそうでしょう。任那日本府はべつに百済の配下じゃないもん

355 :日本@名無史さん:04/07/18 23:50
とすれば、大和朝廷圧倒支配論や百済圧倒支配論などすべて、ありえなくて、
日本府は、佐魯麻都に支配された全く制御下にない集合体なの?

日本府の位置付け(大和朝廷から見た&百済から見た)と、
任那復興の具体的意味と位置付けについて、どなたか教えて。

356 :日本@名無史さん:04/07/19 00:08
>>355
今の日本だって、政府の首長たる総理大臣(もしくは主権の存する国民)の圧倒的な
支配の下に「各省庁」があるかといえば、そんなことはないでそ。

各省庁は総理大臣の命令もねじ曲げ政治家を形式だけ奉って実はあやつり
国民の福祉も国益もすべて無視して、利権確保と省益のためだけで動いてるじゃん。
財務省・厚労省・宮内庁・国交省・外務省、みんなロクでもないことばかりしてる。

任那日本府は初期・前期・中期・後期・末期でかなり性格がちがう。
末期はただの天下り法人みたいなもの。中央からの命令をまともにきいていたら
その方がむしろおかしい。

357 :日本@名無史さん:04/07/19 03:08
任那日本府の初期〜後期はどういう性格だったのかな‥
継体〜欽明はどうして真面目に手を打たなかったのかな‥

358 :日本@名無史さん:04/07/19 03:43
任那日本府は当初から百済人の管理下にあった

359 :日本@名無史さん:04/07/19 21:50
てか、欽明天皇に対して任那の実状&解決策って奏上されていたのかな?
なんだか家来どうしで足の引っ張り合いをしているうちに悪化したような。

360 :日本@名無史さん:04/07/20 00:42
>>357
昔の任那スレに詳しい解説あったYO

361 :日本@名無史さん:04/07/20 13:25
欽明紀の大半は百済の史料(百済本記)が元になっているらしいが
欽明以前の国内史料は磯城嶋宮が火災に遭った時焼失した可能性があるから
一方的に聖明王の言を信用するわけにはいかないなぁ

362 :日本@名無史さん:04/07/22 13:41
継体〜欽明朝から、百済資料の影響を取り去って、そのうえで再評価しなくっちゃね。
そういう方向で既に行なわれた試みや成果についてなにかおしえて。

363 :日本@名無史さん:04/07/31 12:02
天皇が不利になるスレは人気ないね

364 :日本@名無史さん:04/07/31 22:42
久々に語ろう。
話の続きをきぼ〜ん!

365 :日本@名無史さん:04/08/01 13:12
欽明は政治に関心のない後宮王って感じがするな

366 :日本@名無史さん:04/08/01 23:54
>>365
ワロタw

367 :日本@名無史さん:04/08/03 06:53
欽明は蘇我氏に飼われていた種馬みたいなものだから
政治に口出しする能力があったかどうか疑問です

368 :日本@名無史さん:04/08/03 09:51
継体・安閑・宣化の親子は近江・越前・尾張にかけて大勢力もあり
仁賢天皇在位中から一応中央貴族にも列して上流階級ではあったが、
それでも皇室からみれば民間出身な感覚があって、継体・安閑・宣化は
通常の天皇よりはかなり世間の事情に通じていたし
実権は継体の皇后の手白髪命が握り、一家でマスオさんみたいな立場で
苦労人な親子(美智子様・雅子様の男版みたいなもの)。
継体は外交にはちょっと弱いけど優秀・有能な人物。安閑・宣化はもっと
できがよくて継体をサポートしていた。

そこにいくと欽明は生まれながらにして正統の嫡子。
大事に育てられた苦労しらずのボッちゃん。
群臣にしてみれば、ある意味あやつりやすい。


369 :日本@名無史さん:04/08/04 03:14
欽明朝で実権を握っていた皇族がいたとするなら春日山田皇女ではないか?
手白髪のことは系図以外の説話に欠き、存在感が薄いのでよく分からない。

370 :日本@名無史さん:04/08/04 21:30
仁賢の3人の娘=継体后・安閑后・宣化后は、それぞれ発言力も権力もあったろう。
継体后=手白髪命と宣化后=橘中津姫は世継ぎも生んだし、ある意味種馬のダンナは
もういらない、という理屈もある(夫婦仲わるかったとはいわないけど)。
でも安閑后=春日山田皇女だけは世継ぎに恵まれなかったから、
他の2人よりは他人に優しかったんじゃないかな。
だからマスオさん組からは慕われていて、なんかの時に即位してくれ、みたいな
話になったこともある。ダンナの安閑も人望ありそうだったし。

371 :日本@名無史さん:04/08/07 03:19
春日山田皇女は手白髪命・橘仲皇女とは母や支持豪族が違うのも背景にあるのかねぇ

372 :日本@名無史さん:04/08/09 17:11
>>368-371
面白いですね。もっと聞きたい。もっと知りたい。
個人の独学だけでは限界があるので。

373 :日本@名無史さん:04/08/13 11:45
橘仲姫の子に上殖葉皇子という人がいるが、
記では「恵波王」の名で河内若子比売の子とされ系図に混乱がある。
何れにしろ宣化崩御時、姉の石姫は八田王と他田王の二王子を生んでいて
血統も薄く、まだ成人もしていない上殖葉皇子に皇位継承権はなかった。

(ここから妄想)
のちに上殖葉皇子は蘇我氏の娘を娶り、敏達朝に至って皇族の長者として権勢を振うようになる。
時の大臣蘇我馬子は影で池沼皇子と呼び事実無根の噂を流し上殖葉失脚の機会を伺っていた。
皇位を狙っていた息子の厩戸王は皇太弟穴穂部皇子を唆し敏達后を襲わせ…

374 :日本@名無史さん:04/08/14 00:34
上殖葉皇子
1、巨勢男人の女を娶って、十市王を生む。
2、欽明27(566)年に48歳で薨去。
多治比氏の系図だとこうなってる。



375 :日本@名無史さん:04/08/14 09:28
ttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1029739403/l50

376 :日本@名無史さん:04/08/14 22:52
>>373-374
蘇我氏と巨勢氏って当時、利害を争う立場だったのでは?
武内後裔氏族同士だし。
ということで、十市王一門は辛い境遇だったのでは?
宣化帝の流れを汲む王族の人って、後の乙巳の変に際して、
クーデター側を黙認したような。
欽明帝が蘇我稲目を取り立てたのとは対照的に、宣化帝の
子孫方は非蘇我色が明確になっていく。
こうやって見ると、蘇我・物部戦争も乙巳の変も起こるべく
して起こったというか、欽明帝の時代に火種の元があったと
いうか。



377 :日本@名無史さん:04/08/15 09:02
>>376補足。
十市王のくだりですが、抜けているものがありました。
「巨勢男人がいなくなってからは」
この文章を入れないと、話がつながらない。

378 :日本@名無史さん:04/08/15 14:47
すると、上殖葉皇子は継体13(519)年生まれで宣化4(539)年には21歳、
継体紀によると継体23(529)年9月に「巨勢男人大臣薨」とあり、
おそらく十市王が生まれる前に男人大臣は亡くなっていますね。
孝謙紀天平勝宝3(751)年2月26日の条に安閑朝も大臣だったとあるから
太子時代に安閑に仕えたという考え方もありますが、
もう少し長生きだったかも…、
丹比神社に上殖葉皇子の一族とともに河内若子比売も祀られている
ようなので橘仲姫の子ではなかった様子。男人大臣が亡くなった後は
そちらの関係者に身を寄せていたのかも知れません。

379 :日本@名無史さん:04/08/15 17:38
宣化天皇─上殖葉皇子─十市王─多治比王(=多治比彦武)─多治比島─丹遅広成─丹遅家嗣─丹遅貞成─丹遅峰成(以下略)

上殖葉皇子の子孫は、多治比島は左大臣までなってるしその子や孫も一族の数が多く
みんなそれなりに出世している。出世がしらは丹遅広成で遣唐使や中納言になっている。
その後はぱっとしないけど。家嗣は造東大寺使、貞成は木工頭。




380 :日本@名無史さん:04/08/16 23:55
島も天皇の御落胤ですか?

381 :日本@名無史さん:04/08/17 01:36
ご落胤とは言わない。
多治比真人(後に丹(土+犀)真人・多治真人)は
宣化天皇を祖とする皇別氏族だったということ。


382 :日本@名無史さん:04/08/18 11:53
不比等に皇胤説があるように島にもあるかと踏んだんだが…
無いか、やっぱり。

嶋は多治比公家を興しただけ、あってそれなりの才覚がある人だと思う。
…まあ、人脈を駆使して出世した感じだけど

代々敏達系の皇族と確執があったように思えるし
同じ宣化系の姫王達の存在も大きかっただろうな。

383 :日本@名無史さん:04/08/18 21:00
>敏達系の皇族
難波皇子の後(橘朝臣、路真人等)、百済王の後(大原真人等)など
が考えられますな。

>宣化系の姫王
一説に宣化系と言われる鏡女王、額田王とか?(((( ;゚Д゚))) ガクガクブルブル

384 :日本@名無史さん:04/08/21 07:42
つまり、鏡王(威奈公高見)の父海部王が敏達に家を奪われた事件が原因だと思う。
家を継承(?)する行為は天武と草壁の代まで見られる。
敏達は兄王と母后を追放し王位に就いた異説もある実は凶悪な人みたい…。

また同じ宣化系の宅部皇子がついでに殺された後、
討伐軍に参加した難波皇子らとも関係が悪かっただろうな。

385 :日本@名無史さん:04/08/21 12:06
鏡王=威奈公高見という説は個人的に賛同し難いな。
鏡王=威奈鏡公である可能性はあると思うんだけど。
あと、敏達紀に見える海部王って鏡王の父なんですか??

386 :日本@名無史さん:04/08/22 03:50
敏達は欽明の嫡子だろ?即位するために誰かを追い払う必要あったのか?

387 :日本@名無史さん:04/08/22 15:09
墓誌には威奈鏡公が紫冠を授けられたのが斉明朝とあるけど
天智が正式に即位するまでは、一応斉明朝という考え方も出来るわけで
天武元年に亡くなった高見の授冠が時期が斉明崩御後天智即位前なら
墓誌の記載も間違いではないだろう。
そもそも、大村の一族は近江朝に否定的だったのではないだろうか?
壬申の乱で近江朝の命令で東国に遣わされた韋那公磐鍬(高見の子?)が
伏兵に襲われて自分だけ逃げているのは、その存在を知っていた
(天武側に通じていた)からではないのか?

高見≠鏡?の件については…
仲哀の異母兄弟「蘆髪蒲見別王(足鏡別王)」の名前にヒントを得て
鏡=蒲見(カマミ)→鎌見→高麗見(コマミ)→高見=鏡
というのを思いついたんですが、なんか強引過ぎますな…
ま、高見=鏡ではなくても威奈公なら宣化の子孫なので
特に問題ないけど…個人的に高見=鏡と思いたいね。

388 :日本@名無史さん:04/08/22 15:14
海部王の件…
> 火焔皇子─阿方王─額田鏡王
この系図の出典どこなのかな?
阿方ってのがよく分からんので「阿万」の誤植ってことにして
阿方王=阿万王=海部王、とまたまた強引な解釈
記紀では威奈公は丹比公と同じ上殖葉皇子の子孫なんだが…
阿方王=十市王として十市あたりに住んでいたら
海部王の家地と位置が重なるような気がしません?

欽明天皇の後継者争いに敗れた長子(箭田珠勝大兄皇子?)がその地に逃れた。
と、福島の信夫山にいい伝わっているらしい。
敏達は欽明の第二子と敏達紀にあり、立太子の年が欽明紀と異なるのが謎。
欽明13年の箭田皇子薨去の記事は百済史料に「皇太子薨去」とあったのを
箭田皇子に当てたんじゃないのかね?実際には箭田皇子は死んでない可能性あり。
即位前の敏達は皇后(正室?)広姫と近江にいて
欽明崩御後、大和に初めてやって来たわけだから住むところが無い。

389 :日本@名無史さん:04/08/22 17:57
>>388
なるほど。
為名真人系図の出典は明治時代の系図学者である
鈴木真年編『百家系図』や中田憲信編『皇胤志』の類。
史料性の問題は系図中に「鏡王」ではなく、
「額田鏡王」とあって独自に「額田」を冠している点(それだけではないのだが)。

そもそも「威奈大村墓誌銘」と鏡王・額田姫王の関連性を初めて説いたのは、
紀伊藩の国学者加納諸平の「額田鏡王攷」(『嚶々筆話』所収)。
この中で鏡王(額田姫王の父)と「威奈鏡公」を同一と見做し、
更に『紀』の韋那公高見とも同一とする説が述べられている。
また、『万葉集』の額田王は(女性ではなく)鏡王のことであって、
額田は氏(威奈に改姓)、王(=公)は姓、鏡は名であったとする珍解釈を示している。
それ故に、諸平は文中に於いて「額田鏡王」や「額田王鏡」の表記を多く用いており、
後代の真年や中田の系図にそれが反映されているのは
史料性の欠陥を示す一つの証拠ではないか?

390 :日本@名無史さん:04/08/23 01:56
>>388
阿方は普通に読めば「アガタ」じゃないのか?
『続紀』に県女王という人物も見えるし。

>>389
ただし、真年や中田の系図では額田鏡王の子として、
高見・磐鍬・大村・額田姫王・鏡女王を掲げているので、
鏡王=高見の説は採っていないね。

391 :日本@名無史さん:04/08/23 19:52
紀記についての良い本ありますか?出来れば教えてもらいたいのですが…。
サイトに行ってもろくなのが無いし…。

392 :日本@名無史さん:04/08/23 20:21
ないです。残念ながら。。

393 :日本@名無史さん:04/08/23 20:53
>>391
あちこちから新書(文庫本)で、1冊1000円前後にて、
原文でも書き下し文でも現代語訳でも、数冊分割で各社から買えますよ。

大きな本屋ならば、どこでもたいてい置いてるし。

ただし、岩波本とかの注釈は古い解釈や特定史観になっているから注意してね。

394 :日本@名無史さん:04/08/23 21:17
391は記紀そのものじゃなくて記紀についての論文をきいてるんじゃないのかな?

395 :日本@名無史さん:04/08/24 00:08
論文のことを本とは言わないような

それに論文だとしても長い記紀の時代のどの時代かで分野違いすぎるし
特定時代の切口でなく全体としての分析とかの話にしてもどの方向なのか

どちらにしてもまずは読んでみるのが一番かも

396 :日本@名無史さん:04/08/24 02:17
>389
すると十市王と阿方王の系図は偽作の可能性が大きいという事ですね。
確かに十市は竹取物語で石作皇子の条に登場する場所で、
そこから着想を得た創作かも知れません。

397 :日本@名無史さん:04/08/24 11:18
いや、少なくとも十市王(多治比真人系)の存在は否定できない。
『六国史』に系譜の記述があったと思うので。


398 :日本@名無史さん:04/08/24 16:36
393>>ありがとうございます。
最近、日本史に興味が出て勉強し始めているところです。
その中で「記紀」という本があることを知って読んでみたいな、と思ったのです。
来年は社会人大学に行ってみようと思います。この書物はいつ頃書かれたもの
なのですか?質問ばかりですみません。

399 :日本@名無史さん:04/08/25 13:54
『三代実録』貞観八年(八六六)二月廿一日丁夘
左中弁正五位下丹眞人貞峯等に姓を多治眞人と賜ふ。是より先、貞峯等上表して曰く、
(中略)宣化天皇皇子惠波皇子、十市王を生む。十市王、多治比古王を生む。
(中略)奏請して姓を求む。因りて姓を多治比公と賜ふ。便ち名を以て姓とす。
(中略)飛鳥淨御原天皇十三年十一月一日、八姓十三氏を定む。是の時、
多治比古の男左大臣正二位志摩公に姓眞人を賜ふ。志摩眞人は是、貞峯の高祖なり。
(後略)


400 :日本@名無史さん:04/08/25 18:51
丹比神社にも"十市王子"の名で合祀されている。

401 :日本@名無史さん:04/08/31 02:04


402 :日本@名無史さん:04/09/13 01:31:28
さあ、続きだ!

403 :日本@名無史さん:04/09/13 12:52:29
欽明天皇の時代ってまだ末子相続なんですね。
親世代晩年の子供が多い気がします。

404 :日本@名無史さん:04/09/28 03:23:37
播磨風土記に仁賢天皇の母として手白髪命が登場するけど、記紀では欽明の母とされている。
二人の天皇は同一人物なんですか?

405 :日本@名無史さん:04/09/28 05:22:16
まちがいでそ

406 :日本@名無史さん:04/10/10 01:09:17


407 :日本@名無史さん:04/10/24 01:23:57


408 :日本@名無史さん:04/10/24 03:20:26
なんかネタふった方がよいのでは?ただのカラ保守より。

409 :日本@名無史さん:04/10/24 11:30:27
では初心(?)に返って欽明の和風謚号などを…

諸本いろいろあるけど日本書紀なら「天国排開広庭」天皇といって
皇子時代の名前は何故か伝わっていない。
実際は磯城嶋皇子とでもいったのかな?

410 :日本@名無史さん:04/10/24 18:57:29
欽明は生まれた時からお世継ぎとして期待された嫡子だから、
とくに名前がなかった可能性もあるね。
うまれた時からずっと「ひつぎのみこ」で通ってしまって。

411 :日本@名無史さん:04/11/01 03:54:48
「生まれながらの大王」と言ったところですか…

412 :日本@名無史さん:04/11/12 06:35:14
半島経営の失敗したという印象が強いね

413 :日本@名無史さん:04/11/12 07:51:04
名は広庭

414 :日本@名無史さん:04/11/12 08:12:38
こういうすれって古代史研究してる学生、学者?の集まり
日本書紀みると、欽明天皇のあたりは、渡来秦氏の登場、伊勢と2匹の狼のケンカ
半島経営など、仏教、大陸系文化流入が課題だよね、あと天国

なにをここで議論してるの?

415 :日本@名無史さん:04/11/12 09:55:20
ただの系図スレだよ、見てわかんないの?

416 :日本@名無史さん:04/11/13 07:35:18
>>411-412
安閑・宣化の兄弟は、オヤジに皇位が回ってくる以前は豪族クラスのヒラ皇族だったし
少しぽけっとしてるオヤジを補佐したりして、苦労人で頭もよさそう。

欽明は生まれながらのボンボンで、惣領の甚六って感じがするな。
抜け作なところが継体の血を引いたというか。

417 :日本@名無史さん:04/12/02 00:38:05
 

418 :日本@名無史さん:04/12/02 17:09:47
安閑宣化は支持層が旧勢力派なので半島領地に固執していた感じだ。
任那割譲の件などで苦労人だとか頭が良いとか大げさ。
継体の判断は当時の現状として半島経営は倭国には負担が大きかった
と考えただけではないか?
継体と安閑宣化の和風諡号の構造的な違いは後世の評価が
安閑宣化>継体 と考えられたからだと思う

419 :日本@名無史さん:04/12/03 14:31:08
安閑宣化の支持層として考えられるのは尾張氏とかかな?
半島経営に利権をもってたとおぼしき吉備氏らとはちがうな。

継体の判断は、弱体化した百済の再建が主眼だよ。

倭風諡号については、本当に死後の諡号なのかどうか疑問。
生前の尊号である可能性もある。その場合は即位前か即位後かという問題も。

420 :日本@名無史さん:04/12/05 09:33:16
この時代が、古代日本政権にとって一種の転換点になったのは、揺るがしがたい。

議論を進めよう。

421 :日本@名無史さん:04/12/19 03:07:08
と言っておきながら、2週間もカキコがない様子

422 :日本@名無史さん:04/12/23 16:54:06
進めよう

423 :日本@名無史さん:05/01/03 03:12:12
>>416
欽明朝と安閑・宣化朝の対立ってホントにあったの?
http://mentai.peko.2ch.net/history/kako/997/997791505.html

424 :日本@名無史さん:05/01/03 05:02:55
だから、このスレの最初の方で>>1にさんざんやったネタだよって逝ったのに。
>>423は名スレなので読んだらいいよ。

425 :日本@名無史さん:05/01/04 09:41:43
やっぱね。対立ってのの根本は、対百済政策にあったと思うよ。

426 :日本@名無史さん:05/01/04 12:24:45
せっかくいい流れできたのにいきなり外してる奴がいるなw

427 :日本@名無史さん:05/01/19 15:30:05
安閑と宣化は、四縣分譲に反対だったわけだが、
やっぱ継体がアホすぎる。

日本史上で悔やむべき点の一つだね。

428 :日本@名無史さん:05/01/20 01:27:44
いや四県割譲には問題なかったんだけど、百済が
四県に隣接する二郡までドサクサ紛れにもらってしまおうとしたから
揉めたんじゃないのかな、と言ってみるテスト。

429 :日本@名無史さん:05/02/02 02:49:21
四県割譲が本質であろう

430 :日本@名無史さん:05/02/02 18:06:53
二郡割譲だよ

431 :日本@名無史さん:05/02/05 17:18:46
欽明の本名は広庭(ヒロニハ)でいいのかな?

432 :日本@名無史さん:05/02/05 19:25:50
広庭は即位後の名前じゃないかと思う。本名は不明。

生まれた時からのお世継ぎだから、お世継ぎ様とか若君とか
に相当する呼ばれ方してて、子供の頃からあまり本名使われなかったんだろう。

433 :日本@名無史さん:05/02/06 11:47:54
勘違いがあれば須磨素。
>>432
どうなんでしょ?本名は使わないもの、という習慣はこの時代からあったでしょうか。
いわゆる今日的な厄払いやゲン担ぎ等に通じるものなので、この時代にあったと考え
られます。
和風謚号の中にも、没後に使われたのみで生前の状況が伝わらないものも多いですね。
もっとも本来的には、謚号というもの自体は没後のものなんですがw
生前の名乗りを伝えているようなものもあり、釈然としませんね。

434 :日本@名無史さん:05/02/07 09:09:01
欽明は子供の頃は何処に住んでいたのか?
おそらく乳母の春日氏のところだろう。

435 :日本@名無史さん:05/02/07 11:24:50
それじゃ、春日皇子にケテーイ


んなこたーない

436 :日本@名無史さん:05/02/07 22:18:12
>>433
和風諡号ってのは天武か持統あたりから始まったんだろう。
神武〜天智のは、慣例的に和風諡号とよんでいるだけで実際に死後のものなのかどうか不明。

437 :日本@名無史さん:05/02/10 10:38:42
磯城嶋皇子

438 :日本@名無史さん:05/02/15 20:43:45
>>418
>安閑宣化は支持層が旧勢力派なので半島領地に固執していた感じだ...
大和中央政権内の最大支持者は、四県割譲を認めた大伴氏のはずだが。

439 :日本@名無史さん:05/02/16 05:27:42
>>436
ホムタワケとかアナホとかオケとかオホトって本名でしょ。

440 :日本@名無史さん:05/02/18 00:33:06
和風諡号に本名が取り込まれたケースもある

441 :436:05/02/18 02:53:44
>>439
たぶんそうだろうね。

442 :日本@名無史さん:05/02/27 02:18:45
>>440
どれくらいあるの?

443 :日本@名無史さん:05/02/27 07:06:30
いや、そんなケースはないよ。

444 :日本@名無史さん:05/02/28 03:16:57
ワカタケル?


445 :日本@名無史さん:05/02/28 05:15:20
「大長谷若建」

これを和風諡号というのは慣例的便宜的にそうみなしているだけで
実際に死後の諡号だったという記述はない。
生前からそう呼ばれていた可能性の方が高い。

446 :日本@名無史さん:05/03/16 04:23:15
大泊瀬幼武の表記の方をよく見るね

447 :日本@名無史さん:05/03/16 21:37:29
大泊瀬幼武は和風諡号じゃなくて本名だと思われ
そして和風諡号が始まったのは推古天皇からでしょう

漢風諡号 推古 和風諡号 とよみけかしぎやひめ 本名 額田部
       舒明        おきながたらしひろぬか    田村
       皇極        あめとよたからいかしひたらしひめ 宝
       斉明 
       孝徳        あめよろずとよひ        軽
       天智        あめみことひらかすわけ    葛城・中大兄
       天武        あまのぬなはらおきのまひと 大海人
       持統        おおやまとねこあめのひろのひめ 鵜野讃良
       文武        やまとねことよおおじ      珂瑠
       元明        やまとねこあまつみしろとよくにになりひめ 阿閇
       元正        やまとねこたかみずきよたらしひめ 氷高

448 :日本@名無史さん:05/03/16 21:40:56
>>447
やまとねこあまつみしろとよくにになりひめ×
やまとねこあまつみしろとよくになりひめ○

449 :日本@名無史さん:05/03/17 09:44:31
生前(即位後)尊号と思われ。諡号は天武か持統くらいから。

450 :日本@名無史さん:2005/04/06(水) 00:13:24
和風諡号を奉献した最初の記録は続日本紀の持統天皇。
それ以前の神武から天武までは和風諡号だという証拠がない。
持統天皇には
「高天原広野姫」(日本書紀)
「日本根子天之広野姫」(続日本紀)
と二通りの和風諡号がある。
おそらく「日本根子天之広野姫」が和風諡号の最初で、
「高天原広野姫」はそれ以前の天皇の名前と同じく生前尊号だろう。

451 :日本@名無史さん:2005/04/23(土) 02:10:59
age

452 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 01:33:56
欽明は、任那復興をやる気あるのか無いのか?

453 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 11:06:19
あったんだけど、命令するだけで詳しいことは家来にまかすだけの人だったんだよ

454 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 07:12:49
age

455 :日本@名無史さん:2005/05/16(月) 13:32:05
堅塩媛は子沢山みたいだけど子孫を残せた子が少ない
そもそも一人で何人も産みすぎ、これに匹敵するのは八坂入姫くらい。
欽明の系譜は混乱していることもあり、実は同人異名が子として
重複列挙されているのではないか?

456 :日本@名無史さん:2005/05/16(月) 20:22:27
蘇我堅塩媛所生の子女、用明天皇、推古天皇等

457 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 08:25:33
457

458 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 12:51:10
欽明の本名は広庭?

459 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 13:24:56
嶋皇子

460 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 23:08:41
460

461 :日本@名無史さん:2005/06/07(火) 12:43:19
その名前から堅塩媛の養家は製塩業関係の氏族と推測できる。
宣化系に連なる一族も河内の鋳物製造の担い手でもある。
この両者が組むことで生み出される商業ルートが
北陸-畿内に対するそれら影響力を薄め、後に用明、推古等蘇我系の
天皇の出現の基盤となったと思う。

462 :日本@名無史さん:2005/06/11(土) 02:00:47
>>447
おきながさん家とあめ(ま)さん家とやまとさん家?

とよさんは卑弥呼の後継いだとよさん?
エネッチケーで継体応募の特番やってたとき、発掘された埴輪の配置をCGで
再現してて、おぼろげながら、祭祀を司っていた勢力の埴輪と、武具をまとった
勢力の埴輪があったと記憶してる。
この祭主を=卑弥呼とすると、推古=とよってのは年代的に合いますか?

463 :日本@名無史さん:2005/06/11(土) 13:27:57
時代的にぜんぜん合ってないと思うけど。

464 :日本@名無史さん:2005/06/13(月) 09:19:02
百済資料以外に、書くことなかったんだろうか?

465 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 03:20:21
外丙→安閑
仲壬→宣化
大甲→欽明

466 :日本@名無史さん:2005/06/30(木) 22:46:34
なんですか、それ?

467 :日本@名無史さん:2005/07/01(金) 00:30:15
成湯(殷の初代王)が死んだ後は太甲の元年だとする史料がある一方、「孟
子」のように「(太甲の二人の兄の)外丙が2年、仲壬が4年在位した」と
言うものもある。この関係が安閑・宣化・欽明に類似しているといいたいの
だろう。ただし太甲は外丙の兄で成湯の長男の太丁(父より早く死んだため
即位しなかった)の子(すなわち成湯の孫)とする系図が多い。


468 :日本@名無史さん:2005/07/01(金) 14:50:03
安閑と宣化は最初から欽明が即位するまでの中継ぎだったんでそ。

469 :日本@名無史さん:2005/07/01(金) 22:05:52
安閑・宣化と欽明が争ったのではなく、安閑と宣化が争ったの。

470 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 11:45:01
殷の系図の真偽は別にして安閑・宣化代の不明な
在位期間の算定は「孟子」を参考にしたっぽいね。

471 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 05:14:30
age

472 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 01:29:41
そうなん?

473 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 05:46:04
編纂段階で不明だったのは宣化だけじゃね?
継体と安閑の没年は資料あったと思われ。

474 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 16:15:42
安閑は正式な妃や子女がないことから、自分の立場をわきまえてたっぽいし
古事記基準で30代と早死にだけど過労死じゃないかな?

宣化と稲目は正統な皇位継承者の外戚として殺しあったんでねーのかな?
宣化、橘仲皇女、石姫とその妹たちは同時に死んでるようだし
生き残った宣化系の皇族は堅塩媛が亡くなるまで
しばし冷や飯を食う羽目になったと…
この影響で古事記に宣化の没年や御陵の記載が無いんだわ。きっと。

475 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 07:29:57
>>474
仮にそういうことがあったとしても
それじゃ没年や御陵の記載が無い理由にはならないでそ。

476 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 02:37:45
「天皇、皇太子、皇子、すべて死んでしまった」というのはどうなの?


477 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 13:17:36
>>475
たしかにそーだね、雄略以降の場合
清寧・仁賢・宣化・欽明の四天皇が御陵に関して無記載だけど
この例を宣化以外に当てはめるのは難しいか…
崇峻暗殺の件もあるしな。

顕宗武烈安閑の在位期間がいずれも8年間だったり
仁賢と欽明の妃子女の名が一部類似したり
前後の系図に不備不明な点多かったりするのは
やはり、雄略以降敏達以前の皇室が混乱期で
正確な伝承を伝えるのが難しい時代だったからなのかね?

その実情が思わず百済に伝わってしまったのが
> 「天皇、皇太子、皇子、すべて死んでしまった」
という継体紀の引く百済本紀の記事だと思わない?

478 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 23:10:25
継体紀が引用する百済本記は、あくまで当時百済で流れた噂を拾ったものにすぎない。

この時すでに継体は崩御していた(古事記の崩御年が正しい)が、
磐井の乱や近江臣毛野を将軍とする三韓への派兵などがあり
崩御の事実を公表していなかったのだろう。
そこへ辛亥年になって金官国が新羅に併合され、加羅諸国の
重要な大国が奪われてしまった。(金官の王の仇衝(仇次)とその王子らは
殺され、親新羅派の弟の仇衡(仇亥)が即位してすぐ新羅に併合された)

倭国の王家が天皇の崩御を隠して何年もたつのだから噂は出るだろう
そこへこのような大事件がおこったからいろいろな事実が混同されていると思われ。

479 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 00:11:50
白村江の時に、斉明の崩御を隠したかどうか?

480 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 02:43:48
このスレに書き込んだの忘れてました。
>>463
推古=とよ(とよみけかしぎやひめ)と仮定して
継体陵の武人王の埴輪=継体天皇・祭祀王の埴輪=不明とします。
それで祭祀王の埴輪が誰なのかですが
この埴輪が後世卑弥呼の伝承のモチーフになった女王で
継体王朝の前の王朝に出自を持つ人物=武烈天皇の姉妹で継体天皇の后になって
欽明天皇を生んだ手白香皇女に比定するとしたら
卑弥呼ととよの関係などと比べてどんなもんでしょうか?

481 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 04:00:32
魏志倭人伝に書いてあるんだから、モチーフも何も無いだろ

482 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 13:52:06
百済本記の「辛亥年天皇太子…云々」は前年に死んだ近江臣毛野宿祢の事を指すんじゃないの?

483 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 00:09:31
はあ?

484 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 04:57:57
>>479
斉明崩御は白村江の際中ではなくその前。

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