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欽明天皇と周辺環境
- 1 :日本@名無史さん:04/05/01 03:41
- 継体天皇論や蘇我馬子論、聖徳太子論などの登場人物でありながら、
なぜかスレッドが見当たらない第29代欽明天皇。
継体天皇の子にして仁賢天皇の孫といわれるこの帝と、その周辺人物
や環境をトロ〜ンと語りまっしょい。
(なお、規約は守って下さい)
- 331 :日本@名無史さん:04/07/08 21:54
- 物部尾輿
- 332 :ty270410:04/07/08 22:16
- >>330
>>331
もしや,物部氏は南部朝鮮半島出身者でしょうか・・・・
歴代の名前を検討してみると面白いでしょうね!
- 333 :日本@名無史さん:04/07/08 22:59
- >>328
穂積は物部と同祖、というか穂積から物部が分家した。
で、穂積押山は蘇我稲目の叔母を嫁さんにしていて
物部荒山の養子になった尾輿の実父だ。
- 334 :日本@名無史さん:04/07/09 00:05
- >穂積押山は蘇我稲目の叔母を嫁さんにしていて
>物部荒山の養子になった尾輿の実父だ。
典拠は何だっけ?
- 335 :日本@名無史さん:04/07/09 01:44
- >>332
先祖が九州であっても、問題はないかもよ。
現代の親が自分の子どもに「まりお」とか「まいく」とかつけてるし、
あれってオシャレと思ってつけてるのよねー。
んで、この時代は「任那語?」がトレンドだったのかも知れないし。
ちなみに物部氏族出身で百済王室に仕えた軍人がいたよね。誰だっけ?
これは継体帝〜欽明帝の外交政策と関連あるのかな?
- 336 :日本@名無史さん:04/07/09 04:47
- アロシ=降ろし(下)、オコシ=起こし(上)
日本語とも語源か関係あるかもね
- 337 :日本@名無史さん:04/07/09 09:38
- >>335
物部施徳麻奇牟と物部奈率奇非と物部奈率用奇多ですな。
このうち施徳と奈率は品名なので、
物部麻奇牟(まがむ)と物部奇非(きひ)と物部用奇多(ようがた)か。
百済には物部おおい。物部連との表記があるので、麁鹿火や尾輿らと同族のはずだが、
天孫本紀には、さすがに同様の名前は見当たらず。
- 338 :日本@名無史さん:04/07/09 14:07
- 物部施徳麻奇牟
物部奈率奇非
物部奈率連用奇多
上部奈率物部烏
竹斯物部莫奇委沙奇
「連」は用奇多だけですね。莫奇委沙奇は日本人の一般兵みたいです
つまり他の物部の人も姓が同じなだけで朝廷の麁鹿火たちとは関係ないかも
「連」といえば日本府の首魁の佐魯麻都は身分が低いとしながらも
「大連」なんですが、この人を大連にしたのはやはり欽明ですかね?
それとも僭称?新羅の官位も持っていて任那滅亡後の消息は不明ですが
おそらく新羅に行ったのかな?
欽明崩御の時、新羅から弔使が来てるけどこの人の影響では?
- 339 :日本@名無史さん:04/07/09 14:13
- ×物部奈率連用奇多
○物部連奈率用奇多
訂正
- 340 :日本@名無史さん:04/07/09 16:20
- >>338
百済で奈率になった物部についての情報はみあたらないが、
例えば、紀臣奈率弥麻沙については、紀臣と百済女性の間の子とある。
ただし、どの紀臣なのか日本書紀を編纂して時点では分らなかったとある。
物部についても、同様の事情である蓋然性が高い。
佐魯麻都については謎が多いな。ほとんど聖明王の発言からだが、
・佐魯麻都たちが安羅にいると任那再建は困難
・佐魯麻都たちのせいで任那復興会議をしようとしても集まらない
・日本府の的臣・吉備臣・河内直らはみな、佐魯麻都たちの指揮に従っているのみ
・佐魯麻都たちは身分の低い卑しい出身の者
・聖明王としては佐魯麻都たちを日本へ帰らせて欲しいと欽明へ訴えている
・佐魯麻都は半島生まれでありながら、位は大連
・佐魯麻都は新羅からも奈麻礼の位をもらっており新羅寄り
これらの情報は欽明にも伝わっているはずだが、
ほとんどなにも手を打っていない欽明には、あきれるばかりだ。
- 341 :日本@名無史さん:04/07/09 19:02
- >>300
2週間前に和歌山の隅田八幡神社行ってきたよ。結婚式やってたな。
ちなみに鏡自体は上野の博物館にあるらしい。その後橋本駅前で
あゆ寿司を食べました。大阪から南海高野線。
- 342 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 17:42
- 3>>
奈良の欽明天皇稜もいいがお勧めは
神戸市垂水区の五色塚古墳。瀬戸内海・明石大橋・
淡路島を睥睨するすばらしい古墳。
- 343 :日本@名無史さん:04/07/12 03:32
- 阿賢移那斯はオケエナシと読むのかな?
なんだか仁賢の諱に似てますね
- 344 :日本@名無史さん:04/07/17 08:25
- 佐魯麻都=猿松?
- 345 :日本@名無史さん:04/07/17 08:55
- >>340さんの出典の
佐魯麻都たちは身分の低い卑しい出身の者
気になるなあ。額面どおり受け取れば山賊・海賊の頭領から地方の顔役、
そして事実上の独裁者になったような印象を与えてくれるが、しかし。
例えば元・筑紫国造磐井の庶子だったりすれば・・・?
- 346 :日本@名無史さん:04/07/18 01:36
- オケエナシ、か。なるほど。
- 347 :日本@名無史さん:04/07/18 04:09
- 「阿賢」「佐魯」は他に例を見ないがおそらく(任那の?)官職名。
- 348 :日本@名無史さん:04/07/18 04:14
- 欽明記には、それらの、日本府や任那とのやりとりが盛んに出てくるが、
なぜか、欽明天皇と日本府や任那諸王などとのやりとりは、一切ない。
それどころか、他の皇族や大伴・物部・蘇我などと、日本府や任那の間も全くなし。
日本府や任那関係の記載は、すべて、百済の聖明王とのやりとりとなっている。
すごいのは、任那日本府の吉備臣らに欽明天皇の詔書を伝えているのも、聖明王。
他の記述を見ても、阿賢移那斯や佐魯麻都など含め、任那日本府における人事権を
欽明天皇や日本側が握っているように見えず、コントロール下にないようにみえる。
継体〜欽明朝においては、もはや、百済を通してしか、任那を制御出来なくなっていたのではないか?
なぜ、そのようになったのであろうか?
- 349 :日本@名無史さん:04/07/18 09:18
- >>348
それが最終的には任那放棄につながるということですか。
- 350 :日本@名無史さん:04/07/18 14:45
- 聖明王も欽明の詔書を無視して任那下韓に郡令城主を置いていた。
日本府の佐魯麻都ら任務は任那の地を侵食する百済と新羅勢力を牽制することだったのではないかな?
- 351 :日本@名無史さん:04/07/18 19:11
- 日本府の連中は「親新羅・反百済」だったことはまちがいない。
朝廷は百済と力を合わせて新羅を牽制し任那を復興することを望んでいたが、
現地の日本府は新羅と結託して「反百済」で結束していた。
- 352 :351:04/07/18 19:18
- >>348
日本府の役人はもともと四県二郡の国司。四県二郡が百済に割譲されたため
こいつらは仕事がなくなった。でも他に行き場がないから、任那の残存部分である
加羅諸国に逗留するしかない。管轄する領地もないまま居候してるわけだから
自然と政治監督官もしくは政治顧問みたいな存在になっていた。
こいつらは、ただのムダ飯食いで今でいえば特殊法人みたいなもの。
とにかく中央からの命令には関係なく四県二郡を奪った百済憎しで凝り固まった連中。
- 353 :日本@名無史さん:04/07/18 20:44
- >>352
なぜ、彼らと、本国(欽明や有力豪族)との間に、直接やりとり記載が一切ないのか?
なぜ、欽明からの任那・加羅諸国・日本府への勅命が、聖明王を通して伝えられているのか?
もちろん、百済は欽明からの勅命のうち、
『任那の下韓にある百済の郡令・城主は日本府の旗下へ入るべし。』に対してのみは従っていない。
また、百済から任那・日本府に対してはほとんど制御できていない。
任那復興会議の集合をかけても、言い訳してずるずる伸ばしたり、
ようやく来ても身分の低いものを送ってきたりと、主従関係があるどころではない。
- 354 :日本@名無史さん:04/07/18 21:32
- >なぜ、彼らと、本国(欽明や有力豪族)との間に、直接やりとり記載が一切ないのか?
>なぜ、欽明からの任那・加羅諸国・日本府への勅命が、聖明王を通して伝えられているのか?
本国からの命令は現地では握りつぶされてるでそ。
百済は日本府が抵抗勢力になってるからなんとか言う事を聞かせようと
朝廷からの命令を盾にしてるだけ。
>もちろん、百済は欽明からの勅命のうち、 『任那の下韓にある百済の
>郡令・城主は日本府の旗下へ入るべし。』に対してのみは従っていない。
そんなメチャクチャなとんでもない命令に従うわけがないよ
>また、百済から任那・日本府に対してはほとんど制御できていない。
>任那復興会議の集合をかけても、言い訳してずるずる伸ばしたり、
>ようやく来ても身分の低いものを送ってきたりと、主従関係があるどころではない。
そりゃそうでしょう。任那日本府はべつに百済の配下じゃないもん
- 355 :日本@名無史さん:04/07/18 23:50
- とすれば、大和朝廷圧倒支配論や百済圧倒支配論などすべて、ありえなくて、
日本府は、佐魯麻都に支配された全く制御下にない集合体なの?
日本府の位置付け(大和朝廷から見た&百済から見た)と、
任那復興の具体的意味と位置付けについて、どなたか教えて。
- 356 :日本@名無史さん:04/07/19 00:08
- >>355
今の日本だって、政府の首長たる総理大臣(もしくは主権の存する国民)の圧倒的な
支配の下に「各省庁」があるかといえば、そんなことはないでそ。
各省庁は総理大臣の命令もねじ曲げ政治家を形式だけ奉って実はあやつり
国民の福祉も国益もすべて無視して、利権確保と省益のためだけで動いてるじゃん。
財務省・厚労省・宮内庁・国交省・外務省、みんなロクでもないことばかりしてる。
任那日本府は初期・前期・中期・後期・末期でかなり性格がちがう。
末期はただの天下り法人みたいなもの。中央からの命令をまともにきいていたら
その方がむしろおかしい。
- 357 :日本@名無史さん:04/07/19 03:08
- 任那日本府の初期〜後期はどういう性格だったのかな‥
継体〜欽明はどうして真面目に手を打たなかったのかな‥
- 358 :日本@名無史さん:04/07/19 03:43
- 任那日本府は当初から百済人の管理下にあった
- 359 :日本@名無史さん:04/07/19 21:50
- てか、欽明天皇に対して任那の実状&解決策って奏上されていたのかな?
なんだか家来どうしで足の引っ張り合いをしているうちに悪化したような。
- 360 :日本@名無史さん:04/07/20 00:42
- >>357
昔の任那スレに詳しい解説あったYO
- 361 :日本@名無史さん:04/07/20 13:25
- 欽明紀の大半は百済の史料(百済本記)が元になっているらしいが
欽明以前の国内史料は磯城嶋宮が火災に遭った時焼失した可能性があるから
一方的に聖明王の言を信用するわけにはいかないなぁ
- 362 :日本@名無史さん:04/07/22 13:41
- 継体〜欽明朝から、百済資料の影響を取り去って、そのうえで再評価しなくっちゃね。
そういう方向で既に行なわれた試みや成果についてなにかおしえて。
- 363 :日本@名無史さん:04/07/31 12:02
- 天皇が不利になるスレは人気ないね
- 364 :日本@名無史さん:04/07/31 22:42
- 久々に語ろう。
話の続きをきぼ〜ん!
- 365 :日本@名無史さん:04/08/01 13:12
- 欽明は政治に関心のない後宮王って感じがするな
- 366 :日本@名無史さん:04/08/01 23:54
- >>365
ワロタw
- 367 :日本@名無史さん:04/08/03 06:53
- 欽明は蘇我氏に飼われていた種馬みたいなものだから
政治に口出しする能力があったかどうか疑問です
- 368 :日本@名無史さん:04/08/03 09:51
- 継体・安閑・宣化の親子は近江・越前・尾張にかけて大勢力もあり
仁賢天皇在位中から一応中央貴族にも列して上流階級ではあったが、
それでも皇室からみれば民間出身な感覚があって、継体・安閑・宣化は
通常の天皇よりはかなり世間の事情に通じていたし
実権は継体の皇后の手白髪命が握り、一家でマスオさんみたいな立場で
苦労人な親子(美智子様・雅子様の男版みたいなもの)。
継体は外交にはちょっと弱いけど優秀・有能な人物。安閑・宣化はもっと
できがよくて継体をサポートしていた。
そこにいくと欽明は生まれながらにして正統の嫡子。
大事に育てられた苦労しらずのボッちゃん。
群臣にしてみれば、ある意味あやつりやすい。
- 369 :日本@名無史さん:04/08/04 03:14
- 欽明朝で実権を握っていた皇族がいたとするなら春日山田皇女ではないか?
手白髪のことは系図以外の説話に欠き、存在感が薄いのでよく分からない。
- 370 :日本@名無史さん:04/08/04 21:30
- 仁賢の3人の娘=継体后・安閑后・宣化后は、それぞれ発言力も権力もあったろう。
継体后=手白髪命と宣化后=橘中津姫は世継ぎも生んだし、ある意味種馬のダンナは
もういらない、という理屈もある(夫婦仲わるかったとはいわないけど)。
でも安閑后=春日山田皇女だけは世継ぎに恵まれなかったから、
他の2人よりは他人に優しかったんじゃないかな。
だからマスオさん組からは慕われていて、なんかの時に即位してくれ、みたいな
話になったこともある。ダンナの安閑も人望ありそうだったし。
- 371 :日本@名無史さん:04/08/07 03:19
- 春日山田皇女は手白髪命・橘仲皇女とは母や支持豪族が違うのも背景にあるのかねぇ
- 372 :日本@名無史さん:04/08/09 17:11
- >>368-371
面白いですね。もっと聞きたい。もっと知りたい。
個人の独学だけでは限界があるので。
- 373 :日本@名無史さん:04/08/13 11:45
- 橘仲姫の子に上殖葉皇子という人がいるが、
記では「恵波王」の名で河内若子比売の子とされ系図に混乱がある。
何れにしろ宣化崩御時、姉の石姫は八田王と他田王の二王子を生んでいて
血統も薄く、まだ成人もしていない上殖葉皇子に皇位継承権はなかった。
(ここから妄想)
のちに上殖葉皇子は蘇我氏の娘を娶り、敏達朝に至って皇族の長者として権勢を振うようになる。
時の大臣蘇我馬子は影で池沼皇子と呼び事実無根の噂を流し上殖葉失脚の機会を伺っていた。
皇位を狙っていた息子の厩戸王は皇太弟穴穂部皇子を唆し敏達后を襲わせ…
- 374 :日本@名無史さん:04/08/14 00:34
- 上殖葉皇子
1、巨勢男人の女を娶って、十市王を生む。
2、欽明27(566)年に48歳で薨去。
多治比氏の系図だとこうなってる。
- 375 :日本@名無史さん:04/08/14 09:28
- ttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1029739403/l50
- 376 :日本@名無史さん:04/08/14 22:52
- >>373-374
蘇我氏と巨勢氏って当時、利害を争う立場だったのでは?
武内後裔氏族同士だし。
ということで、十市王一門は辛い境遇だったのでは?
宣化帝の流れを汲む王族の人って、後の乙巳の変に際して、
クーデター側を黙認したような。
欽明帝が蘇我稲目を取り立てたのとは対照的に、宣化帝の
子孫方は非蘇我色が明確になっていく。
こうやって見ると、蘇我・物部戦争も乙巳の変も起こるべく
して起こったというか、欽明帝の時代に火種の元があったと
いうか。
- 377 :日本@名無史さん:04/08/15 09:02
- >>376補足。
十市王のくだりですが、抜けているものがありました。
「巨勢男人がいなくなってからは」
この文章を入れないと、話がつながらない。
- 378 :日本@名無史さん:04/08/15 14:47
- すると、上殖葉皇子は継体13(519)年生まれで宣化4(539)年には21歳、
継体紀によると継体23(529)年9月に「巨勢男人大臣薨」とあり、
おそらく十市王が生まれる前に男人大臣は亡くなっていますね。
孝謙紀天平勝宝3(751)年2月26日の条に安閑朝も大臣だったとあるから
太子時代に安閑に仕えたという考え方もありますが、
もう少し長生きだったかも…、
丹比神社に上殖葉皇子の一族とともに河内若子比売も祀られている
ようなので橘仲姫の子ではなかった様子。男人大臣が亡くなった後は
そちらの関係者に身を寄せていたのかも知れません。
- 379 :日本@名無史さん:04/08/15 17:38
- 宣化天皇─上殖葉皇子─十市王─多治比王(=多治比彦武)─多治比島─丹遅広成─丹遅家嗣─丹遅貞成─丹遅峰成(以下略)
上殖葉皇子の子孫は、多治比島は左大臣までなってるしその子や孫も一族の数が多く
みんなそれなりに出世している。出世がしらは丹遅広成で遣唐使や中納言になっている。
その後はぱっとしないけど。家嗣は造東大寺使、貞成は木工頭。
- 380 :日本@名無史さん:04/08/16 23:55
- 島も天皇の御落胤ですか?
- 381 :日本@名無史さん:04/08/17 01:36
- ご落胤とは言わない。
多治比真人(後に丹(土+犀)真人・多治真人)は
宣化天皇を祖とする皇別氏族だったということ。
- 382 :日本@名無史さん:04/08/18 11:53
- 不比等に皇胤説があるように島にもあるかと踏んだんだが…
無いか、やっぱり。
嶋は多治比公家を興しただけ、あってそれなりの才覚がある人だと思う。
…まあ、人脈を駆使して出世した感じだけど
代々敏達系の皇族と確執があったように思えるし
同じ宣化系の姫王達の存在も大きかっただろうな。
- 383 :日本@名無史さん:04/08/18 21:00
- >敏達系の皇族
難波皇子の後(橘朝臣、路真人等)、百済王の後(大原真人等)など
が考えられますな。
>宣化系の姫王
一説に宣化系と言われる鏡女王、額田王とか?(((( ;゚Д゚))) ガクガクブルブル
- 384 :日本@名無史さん:04/08/21 07:42
- つまり、鏡王(威奈公高見)の父海部王が敏達に家を奪われた事件が原因だと思う。
家を継承(?)する行為は天武と草壁の代まで見られる。
敏達は兄王と母后を追放し王位に就いた異説もある実は凶悪な人みたい…。
また同じ宣化系の宅部皇子がついでに殺された後、
討伐軍に参加した難波皇子らとも関係が悪かっただろうな。
- 385 :日本@名無史さん:04/08/21 12:06
- 鏡王=威奈公高見という説は個人的に賛同し難いな。
鏡王=威奈鏡公である可能性はあると思うんだけど。
あと、敏達紀に見える海部王って鏡王の父なんですか??
- 386 :日本@名無史さん:04/08/22 03:50
- 敏達は欽明の嫡子だろ?即位するために誰かを追い払う必要あったのか?
- 387 :日本@名無史さん:04/08/22 15:09
- 墓誌には威奈鏡公が紫冠を授けられたのが斉明朝とあるけど
天智が正式に即位するまでは、一応斉明朝という考え方も出来るわけで
天武元年に亡くなった高見の授冠が時期が斉明崩御後天智即位前なら
墓誌の記載も間違いではないだろう。
そもそも、大村の一族は近江朝に否定的だったのではないだろうか?
壬申の乱で近江朝の命令で東国に遣わされた韋那公磐鍬(高見の子?)が
伏兵に襲われて自分だけ逃げているのは、その存在を知っていた
(天武側に通じていた)からではないのか?
高見≠鏡?の件については…
仲哀の異母兄弟「蘆髪蒲見別王(足鏡別王)」の名前にヒントを得て
鏡=蒲見(カマミ)→鎌見→高麗見(コマミ)→高見=鏡
というのを思いついたんですが、なんか強引過ぎますな…
ま、高見=鏡ではなくても威奈公なら宣化の子孫なので
特に問題ないけど…個人的に高見=鏡と思いたいね。
- 388 :日本@名無史さん:04/08/22 15:14
- 海部王の件…
> 火焔皇子─阿方王─額田鏡王
この系図の出典どこなのかな?
阿方ってのがよく分からんので「阿万」の誤植ってことにして
阿方王=阿万王=海部王、とまたまた強引な解釈
記紀では威奈公は丹比公と同じ上殖葉皇子の子孫なんだが…
阿方王=十市王として十市あたりに住んでいたら
海部王の家地と位置が重なるような気がしません?
欽明天皇の後継者争いに敗れた長子(箭田珠勝大兄皇子?)がその地に逃れた。
と、福島の信夫山にいい伝わっているらしい。
敏達は欽明の第二子と敏達紀にあり、立太子の年が欽明紀と異なるのが謎。
欽明13年の箭田皇子薨去の記事は百済史料に「皇太子薨去」とあったのを
箭田皇子に当てたんじゃないのかね?実際には箭田皇子は死んでない可能性あり。
即位前の敏達は皇后(正室?)広姫と近江にいて
欽明崩御後、大和に初めてやって来たわけだから住むところが無い。
- 389 :日本@名無史さん:04/08/22 17:57
- >>388
なるほど。
為名真人系図の出典は明治時代の系図学者である
鈴木真年編『百家系図』や中田憲信編『皇胤志』の類。
史料性の問題は系図中に「鏡王」ではなく、
「額田鏡王」とあって独自に「額田」を冠している点(それだけではないのだが)。
そもそも「威奈大村墓誌銘」と鏡王・額田姫王の関連性を初めて説いたのは、
紀伊藩の国学者加納諸平の「額田鏡王攷」(『嚶々筆話』所収)。
この中で鏡王(額田姫王の父)と「威奈鏡公」を同一と見做し、
更に『紀』の韋那公高見とも同一とする説が述べられている。
また、『万葉集』の額田王は(女性ではなく)鏡王のことであって、
額田は氏(威奈に改姓)、王(=公)は姓、鏡は名であったとする珍解釈を示している。
それ故に、諸平は文中に於いて「額田鏡王」や「額田王鏡」の表記を多く用いており、
後代の真年や中田の系図にそれが反映されているのは
史料性の欠陥を示す一つの証拠ではないか?
- 390 :日本@名無史さん:04/08/23 01:56
- >>388
阿方は普通に読めば「アガタ」じゃないのか?
『続紀』に県女王という人物も見えるし。
>>389
ただし、真年や中田の系図では額田鏡王の子として、
高見・磐鍬・大村・額田姫王・鏡女王を掲げているので、
鏡王=高見の説は採っていないね。
- 391 :日本@名無史さん:04/08/23 19:52
- 紀記についての良い本ありますか?出来れば教えてもらいたいのですが…。
サイトに行ってもろくなのが無いし…。
- 392 :日本@名無史さん:04/08/23 20:21
- ないです。残念ながら。。
- 393 :日本@名無史さん:04/08/23 20:53
- >>391
あちこちから新書(文庫本)で、1冊1000円前後にて、
原文でも書き下し文でも現代語訳でも、数冊分割で各社から買えますよ。
大きな本屋ならば、どこでもたいてい置いてるし。
ただし、岩波本とかの注釈は古い解釈や特定史観になっているから注意してね。
- 394 :日本@名無史さん:04/08/23 21:17
- 391は記紀そのものじゃなくて記紀についての論文をきいてるんじゃないのかな?
- 395 :日本@名無史さん:04/08/24 00:08
- 論文のことを本とは言わないような
それに論文だとしても長い記紀の時代のどの時代かで分野違いすぎるし
特定時代の切口でなく全体としての分析とかの話にしてもどの方向なのか
どちらにしてもまずは読んでみるのが一番かも
- 396 :日本@名無史さん:04/08/24 02:17
- >389
すると十市王と阿方王の系図は偽作の可能性が大きいという事ですね。
確かに十市は竹取物語で石作皇子の条に登場する場所で、
そこから着想を得た創作かも知れません。
- 397 :日本@名無史さん:04/08/24 11:18
- いや、少なくとも十市王(多治比真人系)の存在は否定できない。
『六国史』に系譜の記述があったと思うので。
- 398 :日本@名無史さん:04/08/24 16:36
- 393>>ありがとうございます。
最近、日本史に興味が出て勉強し始めているところです。
その中で「記紀」という本があることを知って読んでみたいな、と思ったのです。
来年は社会人大学に行ってみようと思います。この書物はいつ頃書かれたもの
なのですか?質問ばかりですみません。
- 399 :日本@名無史さん:04/08/25 13:54
- 『三代実録』貞観八年(八六六)二月廿一日丁夘
左中弁正五位下丹眞人貞峯等に姓を多治眞人と賜ふ。是より先、貞峯等上表して曰く、
(中略)宣化天皇皇子惠波皇子、十市王を生む。十市王、多治比古王を生む。
(中略)奏請して姓を求む。因りて姓を多治比公と賜ふ。便ち名を以て姓とす。
(中略)飛鳥淨御原天皇十三年十一月一日、八姓十三氏を定む。是の時、
多治比古の男左大臣正二位志摩公に姓眞人を賜ふ。志摩眞人は是、貞峯の高祖なり。
(後略)
- 400 :日本@名無史さん:04/08/25 18:51
- 丹比神社にも"十市王子"の名で合祀されている。
- 401 :日本@名無史さん:04/08/31 02:04
- 保
- 402 :日本@名無史さん:04/09/13 01:31:28
- さあ、続きだ!
- 403 :日本@名無史さん:04/09/13 12:52:29
- 欽明天皇の時代ってまだ末子相続なんですね。
親世代晩年の子供が多い気がします。
- 404 :日本@名無史さん:04/09/28 03:23:37
- 播磨風土記に仁賢天皇の母として手白髪命が登場するけど、記紀では欽明の母とされている。
二人の天皇は同一人物なんですか?
- 405 :日本@名無史さん:04/09/28 05:22:16
- まちがいでそ
- 406 :日本@名無史さん:04/10/10 01:09:17
-
- 407 :日本@名無史さん:04/10/24 01:23:57
- 保
- 408 :日本@名無史さん:04/10/24 03:20:26
- なんかネタふった方がよいのでは?ただのカラ保守より。
- 409 :日本@名無史さん:04/10/24 11:30:27
- では初心(?)に返って欽明の和風謚号などを…
諸本いろいろあるけど日本書紀なら「天国排開広庭」天皇といって
皇子時代の名前は何故か伝わっていない。
実際は磯城嶋皇子とでもいったのかな?
- 410 :日本@名無史さん:04/10/24 18:57:29
- 欽明は生まれた時からお世継ぎとして期待された嫡子だから、
とくに名前がなかった可能性もあるね。
うまれた時からずっと「ひつぎのみこ」で通ってしまって。
- 411 :日本@名無史さん:04/11/01 03:54:48
- 「生まれながらの大王」と言ったところですか…
- 412 :日本@名無史さん:04/11/12 06:35:14
- 半島経営の失敗したという印象が強いね
- 413 :日本@名無史さん:04/11/12 07:51:04
- 名は広庭
- 414 :日本@名無史さん:04/11/12 08:12:38
- こういうすれって古代史研究してる学生、学者?の集まり
日本書紀みると、欽明天皇のあたりは、渡来秦氏の登場、伊勢と2匹の狼のケンカ
半島経営など、仏教、大陸系文化流入が課題だよね、あと天国
なにをここで議論してるの?
- 415 :日本@名無史さん:04/11/12 09:55:20
- ただの系図スレだよ、見てわかんないの?
- 416 :日本@名無史さん:04/11/13 07:35:18
- >>411-412
安閑・宣化の兄弟は、オヤジに皇位が回ってくる以前は豪族クラスのヒラ皇族だったし
少しぽけっとしてるオヤジを補佐したりして、苦労人で頭もよさそう。
欽明は生まれながらのボンボンで、惣領の甚六って感じがするな。
抜け作なところが継体の血を引いたというか。
- 417 :日本@名無史さん:04/12/02 00:38:05
-
- 418 :日本@名無史さん:04/12/02 17:09:47
- 安閑宣化は支持層が旧勢力派なので半島領地に固執していた感じだ。
任那割譲の件などで苦労人だとか頭が良いとか大げさ。
継体の判断は当時の現状として半島経営は倭国には負担が大きかった
と考えただけではないか?
継体と安閑宣化の和風諡号の構造的な違いは後世の評価が
安閑宣化>継体 と考えられたからだと思う
- 419 :日本@名無史さん:04/12/03 14:31:08
- 安閑宣化の支持層として考えられるのは尾張氏とかかな?
半島経営に利権をもってたとおぼしき吉備氏らとはちがうな。
継体の判断は、弱体化した百済の再建が主眼だよ。
倭風諡号については、本当に死後の諡号なのかどうか疑問。
生前の尊号である可能性もある。その場合は即位前か即位後かという問題も。
- 420 :日本@名無史さん:04/12/05 09:33:16
- この時代が、古代日本政権にとって一種の転換点になったのは、揺るがしがたい。
議論を進めよう。
- 421 :日本@名無史さん:04/12/19 03:07:08
- と言っておきながら、2週間もカキコがない様子
- 422 :日本@名無史さん:04/12/23 16:54:06
- 進めよう
- 423 :日本@名無史さん:05/01/03 03:12:12
- >>416
欽明朝と安閑・宣化朝の対立ってホントにあったの?
http://mentai.peko.2ch.net/history/kako/997/997791505.html
- 424 :日本@名無史さん:05/01/03 05:02:55
- だから、このスレの最初の方で>>1にさんざんやったネタだよって逝ったのに。
>>423は名スレなので読んだらいいよ。
- 425 :日本@名無史さん:05/01/04 09:41:43
- やっぱね。対立ってのの根本は、対百済政策にあったと思うよ。
- 426 :日本@名無史さん:05/01/04 12:24:45
- せっかくいい流れできたのにいきなり外してる奴がいるなw
- 427 :日本@名無史さん:05/01/19 15:30:05
- 安閑と宣化は、四縣分譲に反対だったわけだが、
やっぱ継体がアホすぎる。
日本史上で悔やむべき点の一つだね。
- 428 :日本@名無史さん:05/01/20 01:27:44
- いや四県割譲には問題なかったんだけど、百済が
四県に隣接する二郡までドサクサ紛れにもらってしまおうとしたから
揉めたんじゃないのかな、と言ってみるテスト。
- 429 :日本@名無史さん:05/02/02 02:49:21
- 四県割譲が本質であろう
- 430 :日本@名無史さん:05/02/02 18:06:53
- 二郡割譲だよ
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