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◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART10

1 :日本@名無史さん:04/09/13 11:24:20
邪馬台国や狗奴国はどこ? 大和朝廷との関係は??
西日本に統一政権はあったか? 統一されたのはいつか??
どのような過程を経てそれらが進行していったのか??

倭人伝の信憑性や如何に? 記紀はどこまで真実を伝えているのか??
最新の発掘状況と最新の資料解釈を元に、古代王権の正体を推理する!!

根拠を明記した意見交換・情報提供・問題提起で活発に議論しよう!!

前スレ
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART9
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1092815302/

過去スレ
PART 8 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1091455684/
(ただし、スレッド名間違いでPART7となっているので注意。本PART7は以下参照。)
PART 7 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1090293717/
PART 6 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1088171034/
PART 5 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1083108954/
PART 4 http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1078618831/
PART 3 http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1077874356/
PART 2 http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1076418632/
PART 1 http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1045719732/

関連スレ(単なる邪馬台国の場所問題や倭人伝の解釈についてはこちらでどうぞ)
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか13)
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087799602/

2 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/13 11:32:48
記紀や最近の発掘状況から考察してみて最も
納得のいく結論は、邪馬台国以前にすでに畿内を
中心とした西日本統一政権があったと思います。
倭人伝に載ってる奇術はすべて九州の記述。
それから先は、邪馬台国が畿内政権と交代して
国を譲ってもらったか、もしくは畿内政権が邪馬台国を
滅ぼしたかのいずれかでしょう。畿内に邪馬台国があったと
主張するのは少し無理がある気がします。

3 :日本@名無史さん:04/09/13 19:11:15
邪馬台国時代に畿内にも別の倭人国家があったとは思うが、
西日本を統一するほどのものではなく、地方国家でしょう。

もし、倭人伝より九州に邪馬台国があったとすると、当時に
畿内に強大な国家があれば、記載されていたはず。
少なくとも琉球と思われる国家が記載されているのであるから。
畿内の古墳が更に古いものとされつつあるが、大本営発表的で
信憑性が乏しく、惑わされてはだめ。

4 :日本@名無史さん:04/09/13 19:18:09
 出現期の最大規模の前方後円墳は、奈良盆地東南部の三輪山の麓に位置する箸墓古墳(奈良県桜井市、墳丘長約二八〇メートル)であり、次が椿井大塚山古墳(京都府山城町、約一九〇メートル)である。
このほかでは、浦間茶臼山古墳(岡山市、約一四〇メートル)、石塚山古墳(福岡県苅田町、約一二〇メートル)が大きい方である。
前方後方墳では、元稲荷古墳(京都府向日市、約九四メートル)が最大規模である。当時、大陸からの新しい文物の受け入れ口である玄海灘沿岸地域には、那珂八幡古墳(福岡市、約七五メートル)が所在するのみである。
 これらの事実から、前方後円(方)墳の創出は、畿内と瀬戸内海沿岸地域の有力首長が大陸の鉄をはじめとする新しい文物を安定的に手に入れるために連合し、九州北部を制圧する必要性を契機になされたと考えられている。
この連合政権をヤマト政権と考古学者はよんでいるのである。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2・3-01-01-01-02.htm

5 :日本@名無史さん:04/09/13 19:32:01
箸墓古墳の年代がはっきりしない以上、
豊前の石塚山古墳(苅田)、赤塚古墳(宇佐)の方が古く、
その後、東征とともに前方後円墳が畿内に移行した可能性も
否定できない。


6 :日本@名無史さん:04/09/13 19:38:03
瀬戸内海に面した石塚山古墳(福岡県京都郡苅田町富久町1丁目・町役場隣)付近は
畿内・吉備連合の九州における拠点とするのに相応しい場所だな。
投馬国(吉備)へ向かう不弥国はこの地域と見るべきか?

7 :日本@名無史さん:04/09/13 19:39:28
1:石塚山古墳 (苅田町富久町1丁目)昭和60年1月31日国指定史跡
 九州最大・最古の定型化した典型的な畿内型前方後円墳である。
古墳の立地は低い尾根上で、当時の海岸線にきわめて近い。前方部は海に向かい、全長約110m。墳丘の後円部径約60mで二段築造。
墳頂は径22mが平坦で、そのほぼ中央に長大な縦穴式石室がある。また、墳丘には人頭大の葺石が敷き詰められている。前方部はくびれ部から細長く伸び、先端でやや広がって撥形を呈す。
 後円部の竪穴式石室は1796(寛政8)年に開口し、当時の庄屋銀助の記録には銅鏡10数面・剣・矛・鏃が出土とある。
現存する出土品は三角縁神獣鏡7面・素環頭太刀片・銅鏃である。これらは現在、国指定重要文化財に指定されている。
 1987(昭和62)年に後円部が苅田町教育委員会によって学術調査され、この時の出土品は三角縁神獣鏡片・後漢鏡片と勾玉・管玉・刀片・鉄鏃・冑片・鉄斧など、
京都椿井大塚山古墳や奈良黒塚古墳の出土品に類似していることが指摘されている。石室は大破してしていたが、幅1.4m×長さ約7m程度の長大なものである。
http://pinebooks.cool.ne.jp/kanda/walkmap/isizukayamakohun.html

8 :日本@名無史さん:04/09/13 19:47:22
>>5
箸墓は出土した土器が布留0式であり、吉備発祥の特殊器台(埴輪の前身)を並べた
最古期の巨大古墳であることが判明している。
纒向石塚古墳・ホケノ山古墳などは土器型式から更に古いことが判明している。

3)古墳の成立
箸墓古墳の築造終了を廻間III式1段階の中にあるとすると、248年前後に死亡したとされる倭の女王「卑弥呼」と極めて近い時期を想定できることになる。
箸墓古墳に卑弥呼が眠っている可能性が高くなることは間違いない。三角縁神獣鏡は廻間II式期中頃以前の墳墓から発見されてはいない。
以上の暦年代と編年観を前提にすれば、三世紀前半期には、すでに九州島から関東地域にかけて40mから60mクラスの前方後円墳や前方後方墳が数多く存在することになる。
例えば千葉県木更津市の高部古墳群や市原市の神門古墳群などは三世紀前葉を中心とした古墳群となる。三世紀を古墳時代と考える方向性がますます強くなっていくであろう。
最後に奈良県のホケノ山古墳であるが、配置された東海系加飾壺から、廻間II式2段階に造営が終了している墳墓と想定することができた。
すると239年に卑弥呼が魏に使いを派遣する以前の墳墓である可能性が高いということなる。
http://agatazin.jp/niwazin/sji/2003-11/2003-11.html

9 :日本@名無史さん:04/09/13 19:58:49
>>5
豊と大和の最初の絆
 宇佐赤塚古墳は、豊の国大分の古墳時代の開幕を告げる 前方後円墳 である。
 5面の鏡は、いずれも中国製とみられる優秀なできばえのもので、 三角縁神獣鏡 が4種4面、 盤龍鏡 が1面である。
このほか、 碧玉(へきぎょく)製の 管玉(くだたま) 、 鉄刀 、 鉄斧(てっぷ) 、 土器 片などが棺内から出土したという。
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n12.htm

10 :日本@名無史さん:04/09/13 20:02:23
 赤塚古墳の性格を特徴づける重要な要素である副葬鏡−三角縁神獣鏡は、同じ元型から数面が鋳造されたようで、
これらは細部まで全く同一の文様をもっており、 同笵鏡(どうはんきょう) と呼ばれる。
赤塚古墳出土の三角縁神獣鏡にも以下のように各地の古墳で多くの同笵鏡が知られている。
 1 鋸歯文(きょしもん)帯四神四獣鏡
   赤塚古墳 京都府椿井大塚山古墳 同長法寺南原   古墳 奈良県桜井茶臼山古墳
 2唐草文帯二神二獣鏡
   赤塚古墳 (伝)岡山県鶴山丸山古墳
 3獣文帯三神三獣鏡A
   赤塚古墳 (伝)京都府物集女 滋賀県六地蔵岡山   古墳 三重県筒野古墳
 4獣文帯三神三獣鏡B
   赤塚古墳 福岡県原口古墳 同天神森古墳 同石   塚山古墳(2面) 京都府椿井大塚山古墳

11 :日本@名無史さん:04/09/13 20:18:09
>>8
>纒向石塚古墳・ホケノ山古墳などは土器型式から更に古いことが判明
>している。

畿内の土器編年そのものが当てにならないし、伝説の倭迹迹日百襲姫
と卑弥呼はどう考えても別人。
ttp://yamatai.cside.com/tousennsetu/hokenoyama.htm
庄内式土器の年代については、考古学者のあいだで、一致した見解がえら
れているわけではないのだ。



12 :日本@名無史さん:04/09/13 20:18:13
>>5
> 豊前の石塚山古墳(苅田)、赤塚古墳(宇佐)の方が古く、
> その後、東征とともに前方後円墳が畿内に移行した可能性も

>>6-10 で述べたように、いずれも九州における最古期の前方後円墳であるが
三角縁神獣鏡が出土しており、纒向石塚古墳やホケノ山古墳よりも時代が下る。
前方後円墳は畿内発祥、埴輪は吉備発祥と考えられている。
なお三種の神宝の組合せは北部九州発祥と見られる。

13 :日本@名無史さん:04/09/13 20:21:24
>>11
畿内の土器編年は東海などとも調和しており、新旧関係は信頼度が高いとされる。
以前は土器編年の暦年換算が不自然だっただけ。

14 :日本@名無史さん:04/09/13 20:27:35
纒向石塚古墳やホケノ山古墳は、

倭人伝の「棺あって槨なし。」

とは異なり、木槨のなかに木棺があったのでは、「魏志倭人伝」の
記述に合っていない。
しかも、赤塚古墳をはじめ、北部九州で見られる古墳は木槨がなく、
倭人伝に一致。
つまり、土器編年は当てにならないうえに、畿内の古墳形式は進化した
ものと考えられ、馬具の出土からもやはり4世紀半ばが妥当と考えられる。

よって赤塚古墳などの方が古い可能性が高い。
豊前説での東征の時期とも一致する。

15 :日本@名無史さん:04/09/13 20:32:07
その他、畿内説は、倭人伝での位置など説明するに不十分なことが
多過ぎるのに、何も解決してない。
根拠のあやふやな鏡(これも東征を考慮すると九州説に優勢)や
不確かな土器編年に固執して、他の根拠との整合性が得られてない。

16 :日本@名無史さん:04/09/13 20:40:07
>>14
倭人伝の「棺あって槨なし。」は実見した小さな墓の例だろう。
纒向石塚古墳は戦時中に高射砲の陣地として埋葬部が削平され、記録が残っていない。
土器型式の新旧関係や地域ごとの対比は精緻化している。

箸墓の馬具は周濠から出土したもので後世。
http://www2.begin.or.jp/sakura/topix10.htm

17 :日本@名無史さん:04/09/13 20:47:55
>箸墓の馬具は周濠から出土したもので後世。

ttp://yamatai.cside.com/tousennsetu/hasihaka.htm

「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄されたと推定され、国内最古の馬具で
ある可能性が高い」と発表した。

輪鐙は落葉などが20〜30年にわたってたい積して固く締まった層から、
四世紀初めの大量の土器とともに出土。同時期に投棄されたとみられ、後
世に混入した可能性は低いという。

当初は上記のように説明しており、畿内の考古学者は、邪馬台国畿内説に
都合よく解釈しようとしているのが明らか。

18 :日本@名無史さん:04/09/13 20:57:15
>>16
九州では、小さな墓でなくとも「棺あって槨なし。」
無理なく合致するが、畿内説では、その都度言い訳が必要で
不自然すぎる。

19 :日本@名無史さん:04/09/13 21:02:00

年老いた神父さんに若者が物理学を教えているようなスレだね・・・


20 :日本@名無史さん:04/09/13 21:03:23
邪馬台国の条件として、一部のみが満たす ために邪馬台国だと
主張される場所は国内に多々あるが、宇佐ほど多く の条件を
矛盾なく説明できるところはない。
一部の条件のみを持って、主張することはどうであろうか。

例えば、倭人伝の 「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、みな倭種」。
距離については、様々な解釈があるのでここでは触れないが、これ一つとっ
ても既に畿内説とするには無理がある。紀伊半島の東には伊勢湾があるでは
ないかといわれそうだが、倭人伝ではたかだか末盧国(佐賀県唐津市付近)
から伊都国(福岡県糸島郡三雲付近)までの短い陸路をわざわざ記載している
のである。伊勢湾に出るには山を越えねばならない。当然記載されるはず。
しかも、海を渡ったら倭人の国があるのである。一方、宇佐(大分県)から
東には当然四国がある。何のこじつけも必要とせずに、自然に説明できる。

21 :日本@名無史さん:04/09/13 21:35:49
>>20
瀬戸内海に面する宇佐の小さな前方後円墳は、畿内との繋がりが密接だから注目されているだけ。

 全長約58mとさして大きいとはいえない赤塚古墳がとりわけ重要視されるのは、
初期ヤマト政権の九州進出の拠点として、宇佐地方が大きな役割を果たしたからにほかならない。
後世、仏教の受容、 八幡神 の登場といったこの地方の重要な節目に、それぞれ大和との強い絆で結ばれるが、
その最初のきっかけは、宇佐赤塚に始まるといってよいだろう。
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n12.htm

22 :日本@名無史さん:04/09/13 21:40:50
>>4
> 当時、大陸からの新しい文物の受け入れ口である玄海灘沿岸地域には、那珂八幡古墳(福岡市、約七五メートル)が所在するのみである。

那珂八幡古墳(なかはちまん こふん)
博多区那珂一丁目44/西鉄バス「竹下」から徒歩5分
 古墳時代初期に築かれた墳長75m以上、高さ8mの前方後円墳。墳丘は地山整形と盛土でなり、その周囲には鍵穴形に周溝がめぐる。葺石、埴輪はない。
内部主体は後円部の中央に2基あり、第1主体は未調査、第2主体は長さ2.3mの割竹形木棺の直葬で、三角縁神獣鏡と玉類が出土した。
福岡平野の首長墓の系譜では最古に属する。市指定史跡。
http://www.city.fukuoka.jp/contents/7d14c2131b2/7d14c2131b285.htm

23 :日本@名無史さん:04/09/13 21:51:00
>>21
八幡神以前のヒメ大神はどのように説明しますか?
宇佐神宮亀山の石棺や百体神社、皇室との結びつきは?
倭人伝での地理、気候、風土の合致性は?
記紀神話との地名、人名の合致性は?
これだけ多くの条件があり、それに対しての否定される
根拠が全く述べられず、ただ畿内ありきの断定な書き方
はいかかでしょう?

一方で、畿内の矛盾には全く答えが出てませんね。

24 :日本@名無史さん:04/09/13 22:12:06
>>23
畿内(邪馬台国)・吉備(投馬国)連合の九州における拠点として
いずれも三角縁神獣鏡が出土した石塚山古墳(120m、福岡県京都郡苅田町)
那珂八幡古墳(75m、福岡県福岡市)、赤塚古墳(58m、大分県宇佐市)などがある。

宇佐が魏志倭人伝に列挙された国の一つに対応する可能性はあるな。
強大な勢力があった証拠はなく、瀬戸内海に面した畿内・吉備連合の出先だろう。

25 :日本@名無史さん:04/09/13 22:30:23
>箸墓古墳の年代がはっきりしない以上、
>豊前の石塚山古墳(苅田)、赤塚古墳(宇佐)の方が古く、
>その後、東征とともに前方後円墳が畿内に移行した可能性も
>否定できない。
マキムク勝山、石塚の方がもっと古い。
考古学をちゃんと勉強しろ




26 :日本@名無史さん:04/09/13 22:37:39
>強大な勢力があった証拠はなく、

???
宇佐神宮は、既に大和時代は広大な領地を有しており、神社というよりは
一種の地方勢力だったのだが。
遠征先に古墳を作ること自体、しっくり来ないし(普通に考えて、死後は
故郷で眠りたいと思うだろう)、大体、畿内勢力の大規模な九州遠征自体、
あまり根拠のない仮説でしょ。
もともとの土着勢力の古墳であって、記紀に記される東征がむしろ行われた
と考える方が自然。

27 :日本@名無史さん:04/09/13 22:44:59
宇佐なんて言っているのは今時井沢電波じゃん。
九州説唱えている時点で既に電波だけど

28 :日本@名無史さん:04/09/13 23:16:05
>>24
赤塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の同笵鏡は
京都府・椿井大塚山古墳、奈良県桜井茶臼山古墳、滋賀県六地蔵岡山古墳
岡山県鶴山丸山古墳、福岡県石塚山古墳などにある。>>10

赤塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の同笵鏡は
京都府椿井大塚山古墳、奈良県黒塚古墳、大分県赤塚古墳など。
http://pinebooks.cool.ne.jp/kanda/walkmap/isizukayamasyutudohin.html

奈良県黒塚古墳から大量に出土した三角縁神獣鏡の同笵鏡は多く
群馬県から宮崎県までに及ぶ。
http://www.musicaderosa.com/kurotuk8.html

京都府椿井大塚山古墳や岡山県車塚古墳には同笵鏡が多いことは
以前から有名だった。

29 :日本@名無史さん:04/09/13 23:23:41
>>28
訂正です。
×赤塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の同笵鏡は
京都府椿井大塚山古墳、奈良県黒塚古墳、大分県赤塚古墳など。

○石塚山古墳から出土した三角縁神獣鏡の同笵鏡は
京都府椿井大塚山古墳、奈良県黒塚古墳、大分県赤塚古墳など。

30 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/13 23:47:11
邪馬台国は明らかに九州にあったでしょ?
57年に光武帝に奴国が金印もらってますよ。
107年あたりに末櫨国の師升が九州連合の長と
して朝貢してますよ。それから倭人伝の記述によると
2世紀前半から半ばにかけて倭国大乱があり
このため卑弥呼が擁立されたんでしょ。歴史の流れで
いけばすべて九州内で起こってることと解釈できるでしょ。

31 :日本@名無史さん:04/09/13 23:48:20
九州説の最後の拠り所が、倭人伝だという事は分かった。
畿内説は、魏使は伊都国までしか来ておらず、北九州で見た風俗を記載している
と主張しているのだが。

ただ、邪馬台国が九州だろうと畿内であろうと、3世紀頃、倭国の中心が
北九州→畿内に移ったのは間違いなく、また畿内中心の前方後円墳体制の王権が
初期大和朝廷であったことには、異論がないだろう。
邪馬台国の所在地論争は止めて、「北九州勢力の東遷・東征は果たしてあったのか?」
を議論の中心にすべきではないだろうか?
倭人伝だけを読めば、「畿内っぽくないなあ」と思うのは尤もだと思う。あの
新井白石もそう思ったのだから。白石の場合は「神国日本が朝貢する筈がない」
という皇国史観もあったのかもしれないが。

32 :日本@名無史さん:04/09/13 23:52:39
すまんがここで強烈な電波を出すんで注意してくれい。
(発信源は清水義範の「おそるべき邪馬台国」と井沢元彦の「逆説〜」
 あとちょっと原田実の「優曇華花咲く邪馬台国」。)

実は邪馬台国の勢力圏は
南は鹿児島、東は畿内、
北は海を越えて朝鮮半島南部にまで及んでいた。

んで、

@最初?に畿内に移ったのが神武天皇の一派で、

A神武天皇系の政権を簒奪したのが崇神天皇の一派、

Bその次に畿内に移ってきたのが、
朝鮮南部から追い出されて宇佐に拠点を置いていた
神功皇后〜応神天皇の一派ではないかいなと。

んだから、宇佐神宮が大和朝廷の廟所となったんじゃないかいなと。

33 :日本@名無史さん:04/09/13 23:53:21
>>31
儒学者の新井白石は畿内説と九州説の両方を書いていてブレている。
江戸時代以降の国学者たちは皇室が朝貢し冊封された記録を嫌って
感情的に九州に押し付けようとしただけ。

34 :日本@名無史さん:04/09/13 23:53:53
>>32
それはあなたの思い込みです。

35 :日本@名無史さん:04/09/13 23:55:42
>>30
おまえはここに書き込む前に、自分が立てちまったクソスレの後始末ちゃんとしろよ。
話はそのあとだ。

36 :日本@名無史さん:04/09/13 23:58:53
>>32
宇佐神宮には八幡信仰の神功皇后・応神天皇を祭っているが
大和朝廷の廟所ではないだろ。
「延喜式」には日向三陵が諸陵寮に列記されている。

37 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/14 00:01:39
>>32
それは私が前スレで主張した説と
ほとんど同種のものですw

38 :日本@名無史さん:04/09/14 00:04:05
>>30
師升が末櫨国の国主というのは、どの文献から?

39 :日本@名無史さん:04/09/14 00:06:06
応神天皇の廟所はあくまでも誉田山御廟=応神天皇陵で
聖徳太子陵とともに江戸時代まで絶えず祭られていた。

40 :日本@名無史さん:04/09/14 00:07:23
とんでも宇佐説は禁止しろ

41 :日本@名無史さん:04/09/14 00:09:03
>>32
> 朝鮮南部から追い出されて宇佐に拠点を置いていた
> 神功皇后〜応神天皇の一派ではないかいなと。

好太王碑文・宋書倭国伝・日本書紀などに書かれているように
史実は日本→半島で全く逆なのだが。

42 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/14 00:10:34
頭をやわらかくして他の可能性も考慮してみましょうか。
つまり、すでに2世紀には大和朝廷が
成立していて、九州の倭国大乱を治めるために
九州連合の盟主で一番大きい邪馬台国に
卑弥呼を派遣したと。つまり卑弥呼とイヨは
大和朝廷から九州を治めるために派遣された
巫女だったということです。こう仮定すれば
3世紀に畿内にマキムク遺跡といった大勢力が
あったことも、倭人伝の記述をたどれば邪馬台国が
九州にあったのも証明できるでしょ。

43 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/14 00:14:04
>>38
一番有力な説だとどっかの本に書いてありましたよw

44 :日本@名無史さん:04/09/14 00:23:34
>>42
考古学のデータを全く無視した話だな。
卑弥呼の墓は年代・規模・伝承ともに箸墓と調和している。

45 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/14 00:29:39
箸墓って前方後円墳でしょ・・
たしか卑弥呼の墓って円墳じゃなかったけ?w

46 :日本@名無史さん:04/09/14 00:38:24
>>45
円墳などとは一言も書いていない。
初期の前方後円墳は円墳に低い祭壇部分が付いているような形だ。
中期・後期と徐々に前方部の幅が広く高くなっていく。

47 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/14 00:53:37
畿内説は南を東と勘違いしてると
無理やり強弁しないといけないのが
笑えるw

48 :日本@名無史さん:04/09/14 01:01:48
>>47
それしか叩くところはないだろ。

49 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/14 01:11:02
>>48
邪馬台国の東の海を渡ったとこに倭種の国があるそうです。
東の海ってどこですか?あと邪馬台国の「北」にある
伊都国に一大率を派遣していたそうです。北ですよ北。
畿内説にたつと倭人伝の記述がほとんどでたらめになってしまいますよw

50 :日本@名無史さん:04/09/14 01:15:14
ムー大陸にあったとか?

51 :日本@名無史さん:04/09/14 01:20:51
>>49
畿内で矛盾するのは方角くらい。
卑弥呼の墓の年代・規模・伝承は箸墓だと合う。

52 :日本@名無史さん:04/09/14 01:55:45
>>51
???
>>14の矛盾が全く説明されてないのに?

箸墓の時代さえ疑わしいのに年代など当てにならない。
土器編年も怪しいのに、その他に木槨があって、実際は
新しいことを示唆している。馬具の出土にしても然り。

伝承も倭迹迹日百襲姫という天皇の叔母など女帝卑弥呼とは格が違う
し、全く一致しない。
宇佐のヒメ大神は偉大な応神天皇より更に格上。しかも、円墳とも
いえる亀山に石棺があることも分かっている。
方角くらいというが、これほど明らかに違うのも致命的。
全てを豊前説で矛盾なく説明できるのに、なぜそこには触れず
畿内を持ち出したがるのか?

53 :日本@名無史さん:04/09/14 01:59:06
>>42
倭人伝を読むと、邪馬台国が九州にあったとも読めることは認めるよ。

ただ、邪馬台国が九州にあったからと言って、どうしてそのような妄想を自信満々
で書けるのかを教えて欲しい。記紀や倭人伝の記述を自分勝手にパッチワークして、
それらしい物語を作ってるだけだろ。そんなのならいくらでも作れるよ。
具体的な根拠を示してくれないか。

54 :日本@名無史さん:04/09/14 02:10:20
>>52
古墳時代の土器編年は精緻化が進んでおり、上下関係や他の地域との関係が
詳しく判明している。

墓の中から出土するのと、周濠から出土するのでは全く意味が違うことを
何度言っても理解できないのはどう言うわけ?

いまどき九州説に拘泥している連中は考古学の知識がなさ過ぎる。

55 :日本@名無史さん:04/09/14 02:11:18
>>31
>畿内説は、魏使は伊都国までしか来ておらず、北九州で見た風俗を
>記載していると主張しているのだが。

文の書き方より魏使は不弥国より先は伝聞であろう。
しかし、明らかに邪馬台国のことを描写している部分を北九州で
みた風俗だと片付けてしまうところにも畿内説の無理がある。
当然豊前説では、そのようなこじつけも必要ない。

もともと、倭人伝の距離と大和朝廷が奈良にあったことくらいしか
近畿説のよりどころはなく、その距離についても短里、短日で豊前
説は説明できてしまう。

56 :日本@名無史さん:04/09/14 02:15:44
>>54
土器編年に固執して、他の矛盾は1つも解決できないのはなぜか?
土器編年の上下関係は正しいとしても、他地域との比較は完全では
ない。1箇所誤ると、大幅に狂う可能性も十分ある。
土器編年に固執するのは、木を見て森を見ずではないか?

57 :日本@名無史さん:04/09/14 02:17:29
>>53
>倭人伝を読むと、邪馬台国が九州にあったとも読めることは認めるよ。
畿内にあったとはとてもじゃないが読めません。

58 :日本@名無史さん:04/09/14 02:30:19
>>53
冷やかしでなく本当に真実を追い求めたいと思うなら、実際に
宇佐神宮・国東半島を訪れてその空気に触れるといい。
宇佐神宮のみならず国東に残る古来の遺跡をたどると、ここが
歴史上、いかに重要な場所であったかを感じることが出来るはず。
それから議論をしても遅くはあるまい。

59 :日本@名無史さん:04/09/14 02:30:42
宇佐の人、必死だな。

>>52
>宇佐のヒメ大神は偉大な応神天皇より更に格上。
なぜ、こんなことが言えるのか?

60 :日本@名無史さん:04/09/14 02:33:50
>記紀や倭人伝の記述を自分勝手にパッチワークして、
>それらしい物語を作ってるだけだろ。そんなのなら
>いくらでも作れるよ

そうであろうか。現にどんなに畿内説を当てはめてみても、
ほころびがすぐみえるではないか?
可能なら矛盾ないストーリーをつくって見せて欲しい。

61 :日本@名無史さん:04/09/14 02:41:09
宇佐神宮が朝廷の尊崇を集めたことについては、継体以降、直接の先祖
である応神を神格化する必要性から、とも考えられる。
つまり、別に宇佐に皇室の故地を持ってこなくても説明可能。
宇佐は、昔から畿内と関わり深い土地だったとは思うけど。


62 :日本@名無史さん:04/09/14 02:53:03
邪馬台国と大和朝廷って、どうしても関係がなきゃだめなの?
別に関係がなくてもいいと思うけど・・・

・邪馬台国は、2-4Cの九州一円の首長国(邑)。魏の探検隊に発見される。
・大和朝廷は、同時期に近畿の部族連合として発生し、
 西日本一帯に影響力を拡大し、
 やがて7Cに律令を取り入れるに至り国家の体をなしたもの。

無理矢理「東遷」とか辻褄を合わせるよりは、そもそも別物と
考える方が自然だと思うけど・・・

63 :日本@名無史さん:04/09/14 03:27:10
>>62
> ・邪馬台国は、2-4Cの九州一円の首長国(邑)。魏の探検隊に発見される。

ヲイヲイ、楽浪(帯方)郡の使者は伊都国に留まる慣例だったのに
発見とか意味不明だな。

64 :日本@名無史さん:04/09/14 04:34:26
64

65 :日本@名無史さん:04/09/14 05:01:41
>>59
宇佐神宮に行けばすぐに分かる。宇佐神宮は全国八幡宮の
総本社でありながら、八幡神(応神天皇)は、神功皇后と
共に、真ん中のヒメ大神の両脇をかためるように祀られて
いる。
あたかも助さん、格さんのようにね。

66 :日本@名無史さん:04/09/14 05:12:23
>>61
では、なぜ応神天皇を畿内ではなく、関係のない九州にわざわざ祀る
必要があったのか?宇佐でなくてはならなかったのか?

すなわち応神天皇を宇佐に祀ることによって、神格化することが可能と
なるからで、その訳は、天皇家のルーツが宇佐にあったからと考えると
自然ではないか。

67 :日本@名無史さん:04/09/14 05:25:54
>>66
ルーツとは考えられない伊勢で最高神として天照大神を祭っているだろ。
尾張の拠点の熱田社に草薙の剣を納めているし
大和朝廷と関係が深いことは事実だろうが、ルーツと関係なくても良い。

68 :日本@名無史さん:04/09/14 06:03:15
>>31
東征の話をするときに、あわせて考えねばならないのは、欠史8代の
ことであろう。
神武(初代)
 初めて国を作った帝の意。即位までは詳細な記録が
 あるが、以降は突然不明。
2-9代は、名前のみで詳細な記録なし。
崇神(10代)
 初めて国を作った帝の意。即位までの詳細な記録は
 ないが、即位以降は突然詳細な記録。
まともに計算すると、神武の時代は、まだ弥生の真っ只中。
稲作がようやく根付いた時期。とてもじゃないが統一国家
なんてあるはずもない。
よって欠史8代は、モデルは別にあったとしても、実際の
天皇は、神武=崇神が初代の同一人物で、また、初期の
天皇の寿命が異常に長い時期は、邪馬台国暦とみて1年を
半年と計算すると、東征の時期も現実味を帯びてくる。
崇神天皇は豊前とかかわりがありそうなことも分かって
きたが、これ以上ばらすのは時間の無駄なので止めとく。

69 :日本@名無史さん:04/09/14 06:04:51
>>67
だから伊勢神宮は、代々あまり重要視されてこなかった。

70 :日本@名無史さん:04/09/14 06:08:48
>>69
はぁ?重要視されているだろ。

71 :日本@名無史さん:04/09/14 06:17:28
>>68
> 2-9代は、名前のみで詳細な記録なし。

稲荷山鉄剣銘が祖先の名前と続柄だけを記しているのと似ているな。

> 崇神(10代)
>  初めて国を作った帝の意。即位までの詳細な記録は

前にも指摘されていたように新領土を開いたの意味で違うだろ。

> まともに計算すると、神武の時代は、まだ弥生の真っ只中。
> 稲作がようやく根付いた時期。とてもじゃないが統一国家

神功皇后の時点ですら120年繰り上げられていることが分かっているのに
単純に計算する方が非常識。

> 天皇は、神武=崇神が初代の同一人物で、また、初期の

古い妄説にいつまでも拘泥するなよ。

72 :日本@名無史さん:04/09/14 06:33:34
>>67
もし宇佐が、邪馬台国の条件の1つか2つしか満たしていなければ、
他と同様に仮説の1つとして片付けてよいかもしれん。

しかし、倭人伝との風土・地理的一致、朝廷との深いつながり、
卑弥呼に相当するヒメ大神の存在、卑弥呼の墓に相当する古墳、
奴婢百余人が殉葬されたと考えられる百体神社、古代よりの渡来人
とのつながりと進んだ文明、古代よりの広大な領土、記紀神話や
邪馬台国につながりの深い多くの地名、稲作に十分な平野と城壁
となりうる周囲の山々と海の存在、九州最古(日本最古?)の前方
後円墳、「棺あって槨なし。」の古墳群、日向とともに神武東征の
出発地などなどこれだけ多くの根拠がある。

他にこれほどの条件を備えた場所があるなら、具体的な例をあげて
ほしい。

73 :日本@名無史さん:04/09/14 06:41:42
>>70
銅鏡事件のみならず、
宇佐神宮は、大正時代まで新天皇の就任などの天皇家で重要なときは
必ず勅旨が報告に来ていた(大正以降は10年定期的に変更)にもかか
わらず、伊勢神宮には全く音沙汰なかった。
なぜなら、天照はヒメ大神(卑弥呼)の偶像に過ぎなかったから。

>>71
>前にも指摘されていたように新領土を開いたの意味で違うだろ。
指摘も何も、ただ勝手に解釈していただけ。具体的な根拠はない。

>神功皇后の時点ですら120年繰り上げられていることが
>分かっているのに
そもそも神功皇后が実在の人物であったかも定かではないのに。

74 :日本@名無史さん:04/09/14 06:44:06
>>72
よくそれだけ捻じ曲げて書けるものだな。
候補地に相応しくないから宇佐は相手にされないわけで。

75 :日本@名無史さん:04/09/14 06:52:23
>>73
> わらず、伊勢神宮には全く音沙汰なかった。

いい加減なことを言うな。三種の神宝の一つの鏡を納めている伊勢神宮は最重要だっただろ。

 かつては斎内親王(いつきのひめみこ)が天皇に代わられて神宮にお仕えになっていましたが、
現在では、祭主が天皇の御名代(ごみょうだい)としてお仕えになっておられます。
 祈年祭、月次祭、神嘗祭、新嘗祭には、皇室より幣帛(へいはく)の奉納があり、
月次祭を除くお祭りには勅使を遣わされます。
http://www.isejingu.or.jp/maturi/maturi.htm

> そもそも神功皇后が実在の人物であったかも定かではないのに。

三韓征伐の話が都合悪いから鮮人がわめいているだけ。

76 :日本@名無史さん:04/09/14 07:12:26
>>73
ヲイヲイ、宇佐の祭神である神功皇后の実在を疑うとは
おまいの主張に矛盾しているぞ。場当たり的過ぎる。( ´,_ゝ`)

77 :日本@名無史さん:04/09/14 07:21:19
>>74
どこをどう捻じ曲げたか指摘できますか?

>>75
勅使を送るようになったのは、比較的最近のこと。奈良時代以降
1100年間も天皇家は近くの伊勢神宮に参拝すらしたことが
無かった。

78 :日本@名無史さん:04/09/14 07:26:22
>>76
別に矛盾してはないが。
あくまでも大切なのはヒメ大神。神功皇后は、記紀で整合性を
とるため神功皇后を卑弥呼のもう一つの化身とした可能性を
説く説もあることを述べたまで。

79 :日本@名無史さん:04/09/14 08:14:18
>>77
斎宮がいたことも無視かよ。でたらめすぎる。

80 :日本@名無史さん:04/09/14 08:18:10
>>78
皇室で大切なのは応神天皇と神功皇后(+仲哀天皇)だろ。

81 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/14 08:33:08
やはり、邪馬台国は宇佐にあり
のちに畿内政権にとってかわり大和朝廷になったと
考えるのが一番しっくりきますな。

82 :日本@名無史さん:04/09/14 08:36:16
>>81
デンパ野郎だけだな

83 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/14 08:47:20
3王朝交代説がすでに通説と化してる今、
神功皇后は万世一系の建前を守るために
でっちあげられたつなぎとしての役割でしょう。
お腹に石あてて出産遅らせたってなんなんですか?w
そんなんで出産は遅らせませんよ。

84 :日本@名無史さん:04/09/14 08:53:18
>>83
3王朝交代説は妄説そのものだろ。
畿内の狭い範囲でのコップの中の荒らしに過ぎない。
神功皇后を架空にしたいのは鮮人。
お前はやはり鮮人だったか。

85 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/14 09:00:46
私の先祖は徳川家康に仕えたれっきとした武士です。
朝鮮なんて関係ありません。

86 :日本@名無史さん:04/09/14 09:14:45

まあどちらにしろ
京都大学の某教授群とマキコウケンの某は
己の為に世間に虚偽を広めて社会不安を巻き起こしているので
失業しても仕方ないんじゃない?
嘘吐き考古学者を実刑にできる法整備を進めてほしいよ
とりあえず早く死んで欲しいね。

87 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/14 09:17:45
なんにせよ、413年に
倭王讃が東晋に朝貢したとき
もう少し詳しくどういう経緯で
大和朝廷ができたか詳しく書いていて
ほしかったね・・もしかしたら
邪馬台国の延長上に大和朝廷があったから
何も書かなかったのかもw

88 :日本@名無史さん:04/09/14 09:27:33
>>87
隋書には邪馬台国の延長上にあると書いてあるけどな。
「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。」

89 :日本@名無史さん:04/09/14 09:30:40
倭王武=ワカタケル大王=雄略天皇の上表文が記録されたのは幸いだった。
「自昔祖禰躬環甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」

90 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/14 09:32:39
日本書紀でも神功皇后=卑弥呼と言ってるし
大和朝廷と邪馬台国はやはりなんらかの
関わりがあったとみるほうが妥当なんじゃないですか?

91 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/14 13:01:21
邪馬台国は2つあったんですよ。
3世紀に卑弥呼の弟が九州から
東遷して畿内を中心としたもう一つの邪馬台国を
打ち立てています。本家邪馬台国は
九州の宇佐近辺にあり4世紀に入ると
弱体化して九州を追われ、畿内に東遷して
卑弥呼の弟の子孫から国を譲り受けたのです。
これがいわゆる国譲りの神話として伝わっているものです。


92 :日本@名無史さん:04/09/14 17:08:50
畿内にも何らかの政権があったであろうという意見には賛成。
でも魏志倭人伝に記載されているクニはやはり北九州にあったのでは、と思う。
畿内にあったクニは遠すぎたか、あまりにも小さすぎたかで記述する必要なし、と判断されたのでは。

93 :日本@名無史さん:04/09/14 17:26:05
畿内説、邪馬台国=大和朝廷説、神武東征を同時に満たす説。

奈良の邪馬台国は倭人の黎明期から地理的条件により、自然発生的に、
首都機能を担う専門家・商人・官僚的豪族による「文人」の国として発展。
一方、倭国の一国である日向の神武は田舎者で、
政治や国家運営についてはてんで分からない。
しかし、熊襲との抗争で軍事力はそこそこ有る。
トヨが衰えた後、各国は自国を中心とした国家像にこだわったのに対し、
国家運営のノウハウにうとい神武は、手っ取り早く邪馬台国を制して、
そこに君臨する王となることにした。
邪馬台国としても武人の力が欲しいし、
実務に口出ししない田舎者の神武は最適。
で、大和朝廷。
天皇は軍事方面を指揮し、土着の豪族が国家運営を担う。

これで問題無いね。


94 :日本@名無史さん:04/09/14 19:08:58
ちんこ立った

95 :日本@名無史さん:04/09/14 20:10:37
箸墓から人骨が発見された?
殉葬者100体くらい発見された?

96 :日本@名無史さん:04/09/14 20:17:24
>>65
神功皇后が平安時代に祀られるまで、社は応神と比売大神の二つだったと思ったが。
真ん中とか言っても意味がないのでは?

97 :日本@名無史さん:04/09/14 21:30:55
>>66
>すなわち応神天皇を宇佐に祀ることによって、神格化することが可能と
>なるからで、その訳は、天皇家のルーツが宇佐にあったからと考えると
>自然ではないか。
記紀の神功や応神の記述に、宇佐神宮のことが全く触れられていないのが、辛い
ところだな。

98 :日本@名無史さん:04/09/14 21:49:08
宇佐は、九州諸国の中では、いち早く畿内=前方後円墳体制に参加した国という事
で、昔より畿内との交流が深い地域だったと思われる。
ただ、邪馬台国やら初期大和朝廷の故地とか、全てを宇佐に持ってこないと気に入らない、
その妄執は、正直気味が悪い。
大分県出身の人ですか?
宇佐神宮には、本来、比売大神という土着神が祀られていて、後世、応神や最新の
仏教を取り入れて、霊威ある社として尊崇を集めた、でいいのでは?

99 :日本@名無史さん:04/09/14 21:50:36
八幡=ヤハタ=邪馬台

100 :日本@名無史さん:04/09/14 21:59:23
>>98
そこら辺が妥当だな。
日向は記紀でルーツと書かれていて
「延喜式」諸陵寮にも日向三陵が列記されている。

101 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/15 00:01:22
もしかしたらやっぱり、邪馬台国は
畿内だったんじゃないかと思い始めた
今日この頃w

102 :日本@名無史さん:04/09/15 00:53:27
このスレッドには小林恵子と某国工作員、西都厨=古田信者=アズマ
の立ち入りを禁止します。

(西都厨=古田信者=アズマ隔離スレッド)
九州王朝はなかったのか?※ 9
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1081624257

(小林恵子と某国工作員隔離スレッド)
【古代史電波】小林恵子の妄想を語ろう
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087908201/l50
朝鮮人が日本を作った可能性は
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1057493325/l50














103 :日本@名無史さん:04/09/15 00:56:00
倭國、在帶方東南大海島中、漢末以來、立女王。土俗已見前史。
建元元年、進新除使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓〔慕韓〕六國諸軍事【據南史補】
安東大將軍、倭王武號爲鎮東大將軍。(南斉書)

倭の五王の国は、卑弥呼の後継だと述べているようですね。

104 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/15 01:10:18
1世紀に神武が東遷。
第一次大和朝廷成立。
ただし規模は小規模。
   ↓
3世紀後半に邪馬台国の崇神が東遷。
これにより第2次大和朝廷成立。
邪馬台国の流れをくむとあって
周辺諸国からの支持を集め徐々に
中央集権化。
     ↓
4世紀に邪馬台国の王族のはしくれだった応神が東遷。
九州勢力をまとめて東遷してきた応神が
第2次大和朝廷に打ち勝ち、第3次大和朝廷成立。


これで決まりでいいですか?


105 :日本@名無史さん:04/09/15 01:19:48
>>104
考古学のデータと全く合わないから不可。
3世紀半ばには畿内・吉備連合が西日本を席巻していることを考慮しないと。
その後は5世紀後半まで畿内・吉備連合を破れるような存在は考えられない。

106 :日本@名無史さん:04/09/15 02:18:11
>>97
>記紀の神功や応神の記述に、宇佐神宮のことが全く触れられて
>いないのが、辛いところだな。
祀られたのは後のことだから、問題ない。

107 :日本@名無史さん:04/09/15 02:23:25
>>98
>ただ、邪馬台国やら初期大和朝廷の故地とか、全てを宇佐に
>持ってこないと気に入らない、
邪馬台国=初期大和朝廷の故地というのは、異論はあるかもしれんが
概ね統一的な見解な訳で、全てというが、それ一つを主張してるのに
過ぎない。
ただ、その根拠を沢山並べているだけ。

108 :日本@名無史さん:04/09/15 02:28:00
>>96
>神功皇后が平安時代に祀られるまで、社は応神と比売大神の二つ
>だったと思ったが。真ん中とか言っても意味がないのでは?
意味がないことはないでしょう。
2神時代にどのように祀られていたかは知る由もないが、3神以降、
ヒメ大神が真ん中に祀られており、社門も他のものと比べ、ヒメ
大神のものは一回り大きい。

109 :日本@名無史さん:04/09/15 02:31:57
それを代々の天皇家は認めてきたわけである。
常識的に考えて一地方神の方が古いからという理由だけで、自分たちの
祖先の上に祀ることを代々の天皇家が認めるだろうか?
自分たちの大祖先だから認めていると考える方が、自然ではないか?

反豊前論者は、どうしてこれほど明らかな事実を過小評価しようと
するのだろうか?

110 :日本@名無史さん:04/09/15 02:39:06
>>108
地元の扱いと中央の扱いはちがう。あくまでも応神>ローカル神だ

740年,広嗣の乱により初めて封戸20戸を奉り,
741年,「八幡神宮」に,経典・度者・三重塔などが奉られ(続日本紀)神仏一体の様式を示し,
以後聖武天皇の祈請を度々うけ,東大寺大仏造立に大きく貢献,八幡神に一品,比売神に二品,
会計1,400戸を施入,一躍最大の神社になり
http://www.tabiken.com/history/doc/O/O287C100.HTM

111 :日本@名無史さん:04/09/15 02:41:51
宇佐神宮が中央に対して力を持つようになったのは
奈良時代になってからだからな。デンパを発信しすぎ

112 :日本@名無史さん:04/09/15 03:00:15
>>110
「続日本紀」によると、この741(天平13)年正月に聖武天皇が恭仁宮に遷都したと
伊勢大神宮と七道の諸社に遣わせたと書いているように、伊勢の権威が圧倒的だった。

宇佐神宮の権威が上がったのはこれ以降なのを認識しろよ。

113 :日本@名無史さん:04/09/15 03:07:29
>>112
自分を批判してどうする。
まあ、どうでもいいが、都合のいいとこだけ引用か?
しかし、痛くも痒くもないな。
より条件を満たした候補地を挙げることもできなくてはね。

114 :日本@名無史さん:04/09/15 03:10:53
それにしても、畿内論者は、主張するにも批判するにも、1つのことに
固執するきらいがあるね。
なんか、必死だね。

115 :日本@名無史さん:04/09/15 03:16:49
>>113-114
宇佐基地外へのレスは↓でいいな。

98 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:04/09/14 21:49:08
宇佐は、九州諸国の中では、いち早く畿内=前方後円墳体制に参加した国という事
で、昔より畿内との交流が深い地域だったと思われる。
ただ、邪馬台国やら初期大和朝廷の故地とか、全てを宇佐に持ってこないと気に入らない、
その妄執は、正直気味が悪い。
大分県出身の人ですか?
宇佐神宮には、本来、比売大神という土着神が祀られていて、後世、応神や最新の
仏教を取り入れて、霊威ある社として尊崇を集めた、でいいのでは?

116 :日本@名無史さん:04/09/15 05:31:11
この論争そんなに大事?
天皇家の祖先が日本列島のどこかの出身であるのは
当たり前なのだが。

時代によって引越し(遷都)とか、血縁者が継いだことも
あったろう。だから
九州、出雲、近畿エリアのどこか、決めつけは難しい。
だが、本質は、出身地がどこだって何が問題なの?

117 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/15 08:56:09
推理小説みたいなもんです。
限られた情報から真実を暴く作業が
面白いんですよ。天皇家の由来など
おそらく朝鮮から九州に渡り畿内に入った
単なる豪族でしょう。古代に畿内周辺を
統一した一族がそのまま日本の天皇家として
今の今まで存続してるのも奇妙な話ですねw

118 :日本@名無史さん:04/09/15 08:59:22
>>117
> おそらく朝鮮から九州に渡り畿内に入った

糞チョンが正体を現したな。( ´,_ゝ`)
どこの史書を見てもそんな可能性は見えない。

「魏略」逸文によると呉の太伯の末裔と自称しているし
日向に降臨するにしても黒潮ルートが考えられる。

119 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/15 09:02:43
>>118
私はチョンではないといってるでしょw
ただのちに大和朝廷が任那日本府に
執拗に固執しているので天皇家の起源は
朝鮮にあったんじゃないかと考えただけです。

120 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/15 09:05:09
>>105
えー。じゃあそうすると畿内邪馬台国が
そのまま大和朝廷になったと考えるしか
ないじゃないですか・・男王中心の国家と
巫女が統治する宗教国家とじゃ毛色が違う気が
するんだけどなあ・・

121 :日本@名無史さん:04/09/15 09:08:52
>>119
領土に固執するのは当たり前だろ、頭がおかしいのか。

122 :日本@名無史さん:04/09/15 09:10:33
>>120
それで何も問題ないだろ。
前期古墳の副葬品は鏡や玉類など呪術的な要素が多いが
中期古墳になると武具が多くなり、性格が徐々に変わっているぞ。

123 :日本@名無史さん:04/09/15 09:16:58
同じ種族なら支配に権威は大きな要素となるが
異なる種族を支配するなら軍事力が最優先となる。
日本列島の支配から半島に勢力を伸ばしていくにつれて
性格を大きく変えるのはむしろ当然だろう。

124 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/15 09:17:54
>>121
いや、固執しすぎでしょうw
朝鮮での権益を失ってからも
必要以上にこだわってますよ。
明らかに何か大事な土地なのでしょうね。
聖地エルサレムみたいなものかな。

125 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/15 09:20:09
>>122
記紀のどこにも卑弥呼や壱与が
女王になり国を治めたなんて書いてないじゃ
ないですかw

126 :日本@名無史さん:04/09/15 09:21:00
>>124
そういう意味で大事なのなら正史に書いているはずだぞ。
糞チョンの妄想に取り付かれているだけ。

魏略逸文や記紀を見れば、呉など華南にルーツを求めるべきだな。

127 :日本@名無史さん:04/09/15 09:22:44
>>125
卑弥呼は人目につかずに奥に引っ込んで呪術的な活動をしていただけで
弟が実際に政治を行っていたと書いてあるだろ。よく読めよ。

128 :日本@名無史さん:04/09/15 09:26:48
推古天皇と聖徳太子と蘇我馬子の関係を見れば
古代においても権威のトップが政治の中心とは限らない。

129 :日本@名無史さん:04/09/15 09:29:38
そもそも「邪馬台」や「卑弥呼」って魏語ではどう発音されていたんですか?

130 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/15 09:35:13
>>127
倭国大乱を治めるために
諸国が共同して卑弥呼を「王」
にしたと書いてありますよ。
諸国共同で王にした?
万世一系の天皇家と色合いが異なりやしませんか?

131 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/15 09:38:29
>>129
邪馬台はヤマドゥ。
卑弥呼は日巫女に
賎しい字をあてただけでしょう。

132 :日本@名無史さん:04/09/15 09:50:25
>>130
邪馬台国の王を、西日本共通の大王に擁立したと言う意味だろ。
それに卑弥呼の宗女の台与が世襲しているし、何も変わりない。

133 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/15 10:00:33
邪馬台国の王って、天皇家で言えば誰になるんですか?
3世紀に大和朝廷が成立していて、邪馬台国が大和朝廷の
ことならその王って後の天皇のことでしょ?

134 :日本@名無史さん:04/09/15 10:05:08
>>133
ヤマトトトヒモモソヒメの兄弟なら8代・孝元天皇に当る。

135 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/15 10:07:57
>>134
王は卑弥呼なんじゃないんですか?
倭人伝にも女王国と書いてありますがw

136 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/15 10:44:33
あてずっぽの推論ではなく確実な事実から
真実を暴き出していきましょう。
@魏は長里制ではなく短里制をとっていた。
A隋書には大和朝廷は邪馬台国と同一のものだと書いてある。
B3世紀にはすでに畿内・吉備を中心とした勢力があったことが
 考古学上証明されている。

これら3つの確実な情報から判断するとAとBからだと
邪馬台国は畿内でいいんじゃないかという結論になりますが、
いかんせん、魏は短里制だったので畿内では遠すぎます。
しかも方角も合わない。こうして考えていくと、3世紀後半から
4世紀前半に九州にあった邪馬台国が畿内政権から政権を
譲り受けたという仮定が予測されます。そうです。あの国譲りの
神話のようにね。




137 :日本@名無史さん:04/09/15 11:53:27
>>136
おまえ、旧唐書も読めよ。倭国と日本国は別国になってるんだよ。
畿内=日本国はもとは小国だったが、後世あの倭国を併呑したのさ。

138 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/15 12:09:18
もう情報が錯綜しててなにがなにやらわかりませんw

139 :日本@名無史さん:04/09/15 13:29:36
>>138
考古学、民族学、中国史書、全てが示唆しているのは、
倭人がもともと半島南部にも居住していて、
そこに馬と鉄を持った民族が華北から侵略して来たために
倭人がジリジリと列島側に追い詰められてきたと見る方が正しい。
もともと倭人の居住地域だったから半島に固執していたのだよ。

140 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/15 13:36:18
日本国は物部王国のことでしょ?
それを九州から東遷してきた勢力が
倒したときに国の名前もそっくりそのまま
いただいたというわけ。倭国を併呑したんじゃなくて
倭国が併呑したんだよw

141 :日本@名無史さん:04/09/15 16:40:13
ちがう。倭国系王が畿内を制覇して、倭国系日本国に化けたあと
旧倭国を併呑したんだよ。

142 :日本@名無史さん:04/09/15 17:16:30
そいでもって倭国系と日本国系の王統は互いに皇位を争いあって来た
とか来ないとか。便宜上血統はつないであるがね・・・。
そしてその隠微な対立は今も続いているとかいないとか。

143 :日本@名無史さん:04/09/15 18:23:38
ヒミコ=日巫女の根拠ってなんでしょう?無いですよね。
記述を読むと火巫女の方が近いように思います。
日向の地にあった神武の国が、東に面したなだらかな海岸線を持つ地形から、
太陽信仰の性格を持つのは理解できます。
日本という地名はここから来たとすれば納得できます。
倭国と日本の名称の関係も理解できます。

144 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/15 20:59:40
日本書紀では神功皇后=卑弥呼と言ってますが、
ヤマトトヒモモソヒメ=卑弥呼と主張する
畿内説の方々はこれをどう説明されますか?

145 :日本@名無史さん:04/09/15 21:01:03
【倭王権の流れ】
@北九州の奴→伊都
A3C初、北九州の鉄資源独占に反発した畿内、吉備が連合。大和政権の誕生。
首都はマキムク。北九州は屈服し、一大卒の監視下に置かれる。
この頃の大王位は有力王族による持ち回りであった。
B4C末、北九州で熊襲征伐の任にあった応神が、葛城氏らの協力で畿内に攻め上り
王権を簒奪。以後、大王位は応神の血統に限られる(河内王朝)。
C内乱の続発。風雲に乗じ、越の王・継体が応神の裔を僭称し、王権を奪取する。
応神の神格化。

146 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/15 21:13:48
つまり九州にあった邪馬台国は
マキムク畿内政権の勢力化にあった
単なる九州の統括をまかされただけの
国だったってことですかね?

147 :ゴジンム:04/09/15 21:21:38
>>144
日本書紀のどのあたりに 神功皇后=卑弥呼 と説明があるのかい?

148 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/15 21:31:01
>>147
神功皇后の条に、魏志にいう〜というくだりがあります。

149 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/15 21:34:21
まあ邪馬台国が九州にあったのはほぼ間違いないでしょ。
女王国の「北」を伊都国に任せてたと書いてありますし
いくらなんでも東と南を間違えても、北の間違いはありえない。
古代人もそこまで馬鹿じゃないでしょ。女王国の東に海があるとも
書いてありますし、畿内じゃ説明がつかない。


150 :ゴジンム:04/09/15 21:35:14
>>148
神功の条も長いです。〜の文に 神功皇后=卑弥呼 と明文あるの
ですか? それとも、それに準じた記載がされているのですか?

151 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/15 21:38:54
>>150
明文であるようです。
私がいくつか読んだ
邪馬台国関連の本にも
同じことが書かれてました。

152 :ゴジンム:04/09/15 21:49:06
ようです とおっしゃっておられますが、
その関連本が云々だそうですが、関連本のほうは横において、
日本書紀のその該当文はあなたは、しかと読んだんですか?
関連本は読まれたそうですが。

153 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/15 21:50:24
いえ。私は日本書紀を読みこなせるほど
博学ではないので、関連本しか読んでません。

154 :ゴジンム:04/09/15 21:57:12
>>153
紀は私も過去にひととおり読みましたが、
『魏志でいう、卑弥呼とは神功皇后なり。』などというような文は
無かったと想いますが。

155 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/15 22:09:55
では畿内説の方々の意見をまとめると、
九州の豪族であった神武一族が1世紀あたりに
東遷して大和朝廷成立。しかし成立当初は
1地方国家にすぎなかった。2世紀に入り倭国は
乱れ、徐々に九州は衰退し畿内の力のほうが
強まったと。これにより3世紀前半になり、
西日本諸国は連合国家としての王として大和朝廷の
卑弥呼を擁立。卑弥呼=ヤマトトトヒモモソヒメ。
大和朝廷=邪馬台国の政治は弟の大王が行っていたと。
倭人伝の方角については、明代の地図で説明。
すなわち本州は九州の南にあったと仮定すると。
4世紀に入り、徐々に大和朝廷の中央集権化が強まり
現在我々が知ってる大和朝廷になったと。

これでいいですか?


156 :日本@名無史さん:04/09/15 22:42:50
九州説なんて学者の世界では滅亡したのに井沢に騙されるアホがいるんだね

157 :日本@名無史さん:04/09/15 22:51:00
>155
マジレスすると、アカデミズムでは邪馬台国については畿内説で決着している。
ただ、倭王権の成立や起源については諸説あって今のところは、定説はない。

昔は学会主流つまり、小林行雄、佐原真達は畿内の在地勢力が成長し、倭王権
が誕生したという説を唱えていたが、若い学者でこれを鵜呑みにする連中はいない。
いまは過渡期といえるだろう。






158 :日本@名無史さん:04/09/15 22:59:00
海部氏系図でもヤマトトトヒモモソヒメのことを
「日神」
としている。
もう、決定だろ。

159 :日本@名無史さん:04/09/15 22:59:34
神武東遷にしても実際は畿内にて敗戦を重ねている。負けすぎている。
河内以西まではつつがなく連勝していたのに。
ヤタガラス軍を無条件降伏させ先鋒を担がせてから調子が悪い。

結局、戦略変更をして敵内部に内応を募ってかろうじて勝っている。
というよりも敵内部になんとか潜り込めている。

こんな東遷などないでしょう。
神聖なる征伐軍にあるまじき恥辱行為だと思うのだが。

160 :ゴジンム:04/09/15 23:05:38
>>158
それ、単なるあだ名でしょう?決定はまだ早計ですな。

161 :日本@名無史さん:04/09/15 23:20:41
>160
決定だよ。学者はみんな畿内説。
九州説は詐欺師古田と電波安本。

162 :日本@名無史さん:04/09/15 23:21:13
ヤマトタケルは変態行為のあげく熊襲を討っている。
とても神聖な行為とは思えない。

思うに『邪馬台国=大和』は侵略戦争の基本戦略を
外からの破壊ではなく内からの崩壊という作戦で行動していたのだ。

神武東遷や神武東征というよりも『神武の婿入り』という作戦なのだ。

この仮説に基づけば、後年、百済の王妃との姻戚も当然である。

古今東西、たとえばハプスブルク家やロスチャイルド家などのように
力が拮抗する敵とは姻戚による同盟によって勢力拡大を謀ってきたのである。

邪馬台国においては女王制度がみられるように女権主義だったので、敵の娘を篭絡
させることに腐心したのである。

163 :日本@名無史さん:04/09/15 23:21:52
そんなに邪馬台国九州説が正しいと思うなら、考古学雑誌に投稿すりゃいいじゃん。
相手にされないだろうけどさ。

164 :日本@名無史さん:04/09/15 23:42:12
>>157
じゃあ、やっぱり東遷はあったってこと?
東遷説は非現実的という話が前スレ後半にあったけど、若い学者たちは
東遷を具体的にどう考えているのかな?非常に興味深い。

このスレのメインテーマは、「北九州勢力の東遷(征)はあったのか?」
「あったとすればいつ頃のことか」に絞られてきた気がする。

165 :日本@名無史さん:04/09/15 23:45:45
>>159

そんな惨めな東征を捏造するわけないから、史実ということだな。
邪馬台国畿内説、かつ、神武東征による大和朝廷成立という、
本来の自然な姿に帰るべきだろう。

166 :ゴジンム:04/09/15 23:47:39
>>161さん モモソヒメと日神とは時代が違うし卑弥呼と日神も全然時代が違う。
あなたの結論は今後百年千年と時が経過した未来の人の決定早計論者が
 平城天皇=平成天皇 と結論付けるのと同類。
3女性は全部別々の人。同一人物というのは誤り。


167 :日本@名無史さん:04/09/15 23:48:46
凄い電波だな。皇国史観の畿内説で学会は全員一致だと?笑わせるなよ。

168 :ゴジンム:04/09/15 23:51:52
>>167
まったく、同意! 

169 :日本@名無史さん:04/09/16 00:54:25
>>144
日本書紀の編者は神武天皇以前は神話時代としている。
天照大神はヤマトトトヒモモソヒメの別の伝承だろ。

170 :日本@名無史さん:04/09/16 01:00:47
>>153
> いえ。私は日本書紀を読みこなせるほど
> 博学ではないので、関連本しか読んでません。

愕然。原典も読まずに吠え続けていたのかよ!
漢字が読めないチョンが捏造本を信じてデンパを出しているのと同じだな。

まずは講談社学術文庫の現代語訳本を買って読め。
その次は原文、読み下し文、注釈が載っている本へと進むべし。

171 :日本@名無史さん:04/09/16 01:08:16
>>162
> ヤマトタケルは変態行為のあげく熊襲を討っている。
> とても神聖な行為とは思えない。

例えば、倭系新羅王子アメノヒボコの血を引く神宮皇后が、新羅は金銀財宝の国だから
征服しようと主張して成し遂げたことを、江戸時代の儒者は大義名分がないと
批判していたが、漢意(からごころ)だと本居宣長は批判していた。

古代日本は儒教文化圏ではないから、現代人の発想で批判するのは無意味。

172 :日本@名無史さん:04/09/16 01:11:19
>>162
> この仮説に基づけば、後年、百済の王妃との姻戚も当然である。

池沼か。百済が滅びて何代も経った後に百済系帰化人を娼にしただけだ。
デンパ本を読まずに原典を読め。

173 :日本@名無史さん:04/09/16 01:28:00
倭人伝に記載されている「倭錦」「倭絹」「中国絹」「矛」「鉄鏃」などの
出土状況をみれば、畿内説の成立する余地はない。


174 :日本@名無史さん:04/09/16 01:57:14
>>173
基地外は何度言っても分からないらしい。
古墳時代初期の畿内で出土しているのを理解しろよ。

175 :日本@名無史さん:04/09/16 01:58:59
畿内の年代判定がめちゃくちゃなことも理解しろよ。話はそれからだ。

176 :日本@名無史さん:04/09/16 02:02:16
>>173
倭人伝の記述で、「邪馬台国は九州」って人が定期的に現れるけど、不毛だから
もう止めて。倭人伝の解釈による邪馬台国所在地論争は平行線。要は、「間違
っている箇所をどう解釈していくか」だから、自説に都合が良いようにどうと
でも解釈できる。倭人伝の解釈からだけでは、おそらく永遠に答えは出ないよ。

「邪馬台国はどこですか?」より
畿内勢力、北九州勢力、吉備、東海、北陸、出雲などの王国の中から、如何に
して初期ヤマト朝廷(マキムク政権)が生まれたを論じた方が建設的だと思う
けど、どう?

177 :日本@名無史さん:04/09/16 02:15:10
>>176
> でも解釈できる。倭人伝の解釈からだけでは、おそらく永遠に答えは出ないよ。

不可知論者か。
魏志倭人伝に加えて考古学と他の史料から畿内に決着している。

178 :日本@名無史さん:04/09/16 02:16:02
>>175
何をもってめちゃくちゃと言うのか説明しろよ、池沼。

179 :日本@名無史さん:04/09/16 03:12:58
>基地外は何度言っても分からないらしい。
>古墳時代初期の畿内で出土しているのを理解しろよ。

畿内から「中国絹」「銅矛の鋳型」「鉄鏃の鋳型」が出土した事実はない。
またその「量」「質」ともに、

古墳期の畿内<<<<弥生期の北部九州

である。ようするに、九州は畿内を「圧倒」しているのである。

180 :日本@名無史さん:04/09/16 03:18:05
つまり、「中国絹」「倭錦」「倭絹」「銅矛」「銅矛の鋳型」「鉄鏃」「鉄鏃の鋳型」
という、これら倭人伝に記載されている物の出土状況を「まったく無視」している
畿内説の論者の良識を疑うのである。

181 :日本@名無史さん:04/09/16 03:20:17
>>176
>「間違っている箇所をどう解釈していくか」だから・・・

倭人伝の記述が「間違っている」ことを前提にしないと、畿内説は成立しない
ということを認めるのですね?

ちなみに九州説は「間違っていない」ことを前提にしても、じゅうぶん成立するのです。

182 :日本@名無史さん:04/09/16 03:25:20
>>179
中国絹ではなく必要なのは倭絹だろ。
現物が多数出土しているのだから、発見頻度の少ない鋳型にこだわる必要はない。

183 :日本@名無史さん:04/09/16 03:26:27
>>174
>古墳時代初期の畿内で出土しているのを理解しろよ。

たしかに一部は出てきてますね。古墳期の畿内からもちょこっとだけ。
で、どっちゃり出てきている弥生期の北部九州よりも、ちょこっとの畿内の方が
有力だという、その根拠は?

184 :日本@名無史さん:04/09/16 03:26:35
>>181
基地外乙。箸墓に相当する墓は九州には存在しない。

185 :日本@名無史さん:04/09/16 03:28:35
>>183
鉄製品が腐るほど出ていることは、前スレにも紹介されていただろ。

785 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:04/09/07 17:05
ウワナベ古墳(宇和奈辺陵墓参考地)その3

さて、この白いタワーのある この付近が、おそらく大和6号墳があった場所だと思います。
この陪塚は、径約30メートル程度の円墳だったそうです。上下、2段の円筒埴輪があったとのこと。
で、封土の中央から、872点(総重量128キログラム)の鉄が出土したとのことでした。
う〜ん 128キログラムって? うっ。どれぐらいの容積になるんやろ。

さっぱりイメージが湧きませんが、鉄が、この古墳に大量に埋められていた・・・この事実は、当時、大きな話題となったようです。
http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/burial-mound/uwanabe-kofun-03.htm

186 :日本@名無史さん:04/09/16 03:29:14
786 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:04/09/07 17:10
神戸市東部における前期古墳について −神戸市東部には海岸線に沿って西から西求女塚古墳、処女塚古墳、東求女塚古墳の3古墳が東西に約2キロの間隔で並んでいる。

西求女塚古墳からは250点にも及ぶ多くの鉄製品が出土した。短剣や、槍先、刀、鏃などの武器のほか、ノミ、オノ、ヤリガンナ、ヤスなどの工具、漁具である。
当時としては貴重な鉄製品を埋納していることは、その入手が継続的に可能であったことを意味している。
豊富な鉄製品を入手し、山陰系祭祀土器をもつこの古墳の被葬者は、当時朝鮮半島からの鉄素材交易に関わっていた豪族だったのではないか。

当初半島からの鉄素材の入手では北九州が有利な地位を占めていた。弥生後期の何時ごろか、鉄素材の入手で大和が優位に立ち、その地位が逆転した。その結果大和の強大化が進行したとされる。
最近但馬地方で発見された「茶すり山古墳」などをはじめとして、この地域に何代かの豪族拠点を認め、この地域を通ずる鉄の交易ルートを想定し、但馬、播磨、摂津と続く鉄の交易ルートを通じて、
摂津の前期古墳の被葬者も大和への鉄供給の一端を担っていたのではないかとする考えが披露されている(ふるさと全史<46・47>神戸新聞)。
神戸市東部に存在する前期古墳の被葬者が大和政権の誕生前後の時期にどのような役割を演じたのか興味は尽きない。
http://world-reader.ne.jp/time-slip/m-maeda040527.html

187 :日本@名無史さん:04/09/16 03:30:54
>>182
>現物が多数出土しているのだから・・・

現物ですら北部九州からの出土例が、畿内のそれを圧倒しています。
それも、勝負にならんくらいね。

ちなみに、半島南部(倭地とされる地域)から出土する「中広矛」「広矛」は
北部九州に大量に出土するものと同類です。

188 :日本@名無史さん:04/09/16 03:39:45
>>184
徑百餘歩に相当する「冢」が箸墓などの古墳でないことも明かですね。
ちなみに3〜6世紀の墳墓について、「北部九州」は高句麗や百済など半島側の
王墓と同類の規模である。
また「倭地」とされる半島南部の「装飾古墳」は、北部九州の墳墓にも
多く見られるものである。
ただ近畿・吉備のみが、東アジアの墳墓としては異例の、やたらと巨大墳墓を作っている。

189 :日本@名無史さん:04/09/16 03:52:43
>>188
> 徑百餘歩に相当する「冢」が箸墓などの古墳でないことも明かですね。

基地外だな。

> ただ近畿・吉備のみが、東アジアの墳墓としては異例の、やたらと巨大墳墓を作っている。

特筆すべき事象だから報告書に記載したわけで
三国志の編者も採用したのだろう。そのくらい理解しろよ。

190 :日本@名無史さん:04/09/16 03:55:00
>>187
> 現物ですら北部九州からの出土例が、畿内のそれを圧倒しています。

古墳時代では鉄製品も鏡も畿内・吉備>>北九州だ。

>>186
#当初半島からの鉄素材の入手では北九州が有利な地位を占めていた。
#弥生後期の何時ごろか、鉄素材の入手で大和が優位に立ち、その地位が逆転した。

191 :日本@名無史さん:04/09/16 03:56:32
僕が「近畿説」の考古学に不信感をもつのは、「学者」たちが意図的に
「畿内からの出土」を過大に評価し、「九州からの出土」を無視してかかることなんだよね。

たとえば、これは6世紀の古墳のケースだけど、「藤ノ木古墳」から「象のデザイン」が
出てきたことはさかんに報道されたけれど、同時期に九州の、同じ時代の古墳である
宮地嶽古墳から「黄金の龍のデザインの冠」が出ていることは、なぜかスルーされてしまう。
「象」と「龍」じゃ、格が違う。当然、龍の方が格上である(龍は天子のシンボルである)。
なのに考古学の分野では「評価」されない。
何か理由があって評価が低い、というのならともかく、「話題」にすら上らない。
こんな考古学会、信用しろって方が無茶なのだ。

192 :日本@名無史さん:04/09/16 03:58:15
>>191
考古学会と中央マスコミを混同している池沼かよ。( ´,_ゝ`)

193 :日本@名無史さん:04/09/16 04:09:05
マスコミは読者の気を引く記事を載せる必要があるから
最古・最大のキーワードや魏志倭人伝・記紀に関連しそうな記事に飛びつく。

地方でも旧石器捏造に飛びついたのは「最古」、三内丸山遺跡は「最大」
吉野ヶ里遺跡は「魏志倭人伝」、出雲の銅鐸銅剣の大量出土は「記紀」。

194 :日本@名無史さん:04/09/16 06:22:12
90年代、吉野ヶ里遺跡の発見に対抗するかのように、
畿内では考古学上の新発見が続いた。
数十年に一度、あるかないかの大発見が続いた。続きすぎた。乱発した。

隣人が宝くじに当選すれば、おめでとう、と思う。
その隣人が、次の年にまた、宝くじに当選したならば、奇跡だ、と思う。
次の年にもまた当選すれば、神! と思う。
そして、その次の年にも当選すれば、
そろそろ怪しい、と感じる。

考古学においては、このようなことが実際に起こっている。
ゴットハンドの遣い手がいるのだと思う。

もちろん、大多数の考古学者、関係者は地道な研究を
一生懸命に続けられている方々です。

195 :日本@名無史さん:04/09/16 06:34:29
>>194
吉野ヶ里の全盛期は1-2世紀だから空騒ぎだったけどな。
陰謀論に陥っている人物の病理の方に興味がある。

196 :日本@名無史さん:04/09/16 07:02:27
陰謀論は行き過ぎかもしれない。
ただ、畿内説は強引だと思います。

197 :日本@名無史さん:04/09/16 07:11:16
日本書紀の編者は邪馬台(ヤマト)国を畿内に比定していたのを
江戸時代の国学者たちがイデオロギー的に朝貢・冊封の記事を嫌って
九州の土豪に押しつけようとしたのが混乱の始まり。
対米敗戦後は共産主義者たちが日本弱体化工作の一環で
日本史を攪乱しようとして、九州説や騎馬民族説などを声高に唱えた。

ここ数百年の研究史をみると、九州説の方がイデオロギー的な臭いが強い。

198 ::04/09/16 07:51:56
諸々の論が現出してますが、また古田説を電波等とおっしゃる方もかなり
お見受けしますが、余が諸説を見回したところでは古田氏の論説がほぼ
正解です。前にも書き込みましたが、映画館のように2本立にして
畿内に皇統が続き
九州では王統が存在し、豊祖父尊の世あたりまでで途絶えました。
神功皇后は畿内にして、卑弥呼は九州にて統治し、
双方とも天照大御神でもモモソヒメでもありません。
4名の女性はおのおの別人であります。

199 ::04/09/16 08:00:30
>>198
申し遅れました。2本立てといっても映画館の順次上映ではなく、
双方並行に同時上映式であります。
倭の五王を考えれば、3本立ての時期もありました。五王は皇統とは別です。
さらに、卑弥呼の王朝の統とも別です。

200 :日本@名無史さん:04/09/16 08:16:03
倭人伝のどこをどう読むと畿内にできるのかよ。
逆だろ。九州に比定していたのを、近畿が上方との誇りに傷を
つけられて、客観的にみても強引なまでの力ずくであくまでも
畿内にもってこようとするその態度の方が、イデオロギーくさい。

201 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/16 08:25:16
>>200
現在の私たちの認識で考えてはいけません。
当時の中国人にとっては本州は九州の南にあると
認識していたことが重要なのです。真実は違っていても
それが当時の常識だったのです。ヨーロッパでは天動説が
長く信じられていて異を唱えるものは処刑みたいなことも
ありましたし、時代によって常識は違うんですよ。


202 :日本@名無史さん:04/09/16 08:30:22
>>198
安本編の「江戸の邪馬台国」で読んだ、鶴峯戊申「襲国偽僭考」の焼き直しだな。
古田は江戸時代の国学者による歴史捏造工作を繰り返しているだけ。

古田や安本の話は、考古学特に自然科学研究の進歩に取り残された妄説。

203 :日本@名無史さん:04/09/16 08:33:48
>>200
陰謀説に凝り固まっている知識不足のドキュソには何を言っても無駄だな。

204 :日本@名無史さん:04/09/16 08:36:28
>>200
そんな発想だとしたら、関西以外の考古学者が黙っていないぞ。
ちょっと考えれば分かりそうなのに呆れる。

205 :日本@名無史さん:04/09/16 08:41:52
>>201
本州を九州の東南東と思っていた可能性はあるが、南とは思ってない。

206 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/16 08:47:34
西日本連合の王=卑弥呼
邪馬台国大王=弟

ってこと?倭人伝には邪馬台国は
女王国と書かれているがこれはつまり
女王が統治する国じゃなくて、西日本連合の
王がいる国ってことでいいの?

207 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/16 08:58:19
倭の5王のうち武は雄略天皇で
ほぼ決定してるんじゃないの?

208 ::04/09/16 09:31:32
>>207
ワカタケル命ではありません。全くの別人です。
>>202
妄説というのは貴殿の早計的お考えです。
古田氏の擁護の津軽の書は偽書とのもっぱらの声ですが、余もその考えに
傾いています。だからといって、古田氏の九州説までも誤とは云えません。
津軽のそれとこれはまた別です。
日神、卑弥呼については、すでに民俗・神話学のスレで少し具体的に
どのようなお方か太国グループが説明してますので、そこの
「お前等、天照大神について教えて下さい」の板の70のスレと
「天照大御神は人物として実在していたか」の板の172と176をお読み下さい。
天照大御神は12chの新スーパーマンTに登場するロイス・レーンさんに
ちょっと似た美人です。ミス・ユニバース級の小柄な美女です。ただし
新スーパーマンU以降のレーンさんはヘア・スタイルが違うので似てないです。
本日では、ageになっていない限り、板の「お前等〜」の方は250段あたりに
「〜人物として〜」の方は300段あたりにスレがあるはずです。

209 :日本@名無史さん:04/09/16 09:35:43
>>208
> 天照大御神は12chの新スーパーマンTに登場するロイス・レーンさんに
> ちょっと似た美人です。ミス・ユニバース級の小柄な美女です。ただし
> 新スーパーマンU以降のレーンさんはヘア・スタイルが違うので似てないです。

幻想が見える人は幻想板でやってください。ここは日本史板です。

210 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/16 09:37:32
当時の美女と現在の美女は全く違うだろw
現在の不細工がタイムスリップして
古代へいったらモテモテだろーなw

211 ::04/09/16 09:38:51
>>209
おおむね真物です。真物は具体的にその姿を示していますのでね。
他者では分からないから、具体性が無いでしょう。
ならば貴殿は云えますかな?

212 :日本@名無史さん:04/09/16 09:44:14
>>211
幻想など見えないから言えるわけがない。
古田信者の痛さを物語る話だな。

213 ::04/09/16 10:35:52
>>212
何か忘れ物ない?

214 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/16 12:30:36
1万2千里で畿内まで届くのでしょうか?

215 :日本@名無史さん:04/09/16 12:58:06
よく中国4千年の歴史って言うけど日本はどの位歴史がある国なの?
学校の教科書とかに、紀元57年に倭の奴国が朝貢し光武帝から印綬を
授けられたことがみえるって書いてあるんだけど、日本にも紀元前からちゃんとした国があったの?

216 :日本@名無史さん:04/09/16 13:15:29
亀レスだが

「冢」=前方後円墳だとか
1歩=120cmだとか

  トンチンカンな電波はやめろよ>>189などのドアホよ

冢は古墳じゃないだろ。
1歩は約25cmだろ。

217 :邪馬台国=古墳発生地:04/09/16 13:18:46
中国中原4千年を国際的尺度として日本、中国周辺地域の歴史を見ると、最初の千年
の中原古代奴隷制国家時代は日本の縄文時代末期、次の千年、中原の殷、商の古代
封建は日本の弥生時代、古墳時代以降が中国の分裂/統一国家時代といったとこで、
余りしっくりと対応していないね。
おっしゃるように紀元57年に倭の奴国が朝貢し光武帝から印綬を授けられたことと
いうのがポイントと思うがその辺のことは「寺沢薫/王権誕生」辺りが詳しい。
私はこの辺がアマテラス、国譲りの時代だと思うんだけど。この辺のことになると
誰も手が出ないのが現状でしょうね。なんかいいアイディアがあればお聞かせください。

218 :邪馬台国=古墳発生地:04/09/16 13:23:00
弥生時代は春秋戦国から三国志までだった。スマソ。

219 :邪馬台国=古墳発生地:04/09/16 13:39:20
さて、邪馬台国というのは吉備の特殊器台等を主要な葬具とする集団、
メンバーとしてはキビツヒコ神社に祭られているお歴々が、己利と生部
(ナシメ)を鏡調達のために公孫に派遣した時に思いがけなく魏との国交
瓦解しされ、神獣鏡という辟邪用、古墳用の鏡調達の道が付いで始まった
魏と倭の短期の国交のことと解釈する。これが私の基本的立場ですね。
ただこれは吉備の特殊器台、布留1式あたりを50年程度引き上げることを
前提としているので土器編年ぐらつくとぐらつくんだけどね。


220 :邪馬台国=古墳発生地:04/09/16 13:49:26
この吉備政権というのはヒミコのカリスマで割り込んだような政権であり、大和は
国のマホロバというか、各地の要素が入り組んでおり、吉備政権も長くは持たず
政権は本流の崇神、日子坐など丹後との関係の深いものに帰っていく。この辺
にしておきます。

221 :中学3年生@不登校児:04/09/16 15:09:57
すでに学界でも畿内説が定説と化しつつあります。
私も畿内説に賛同します。以下なぜ邪馬台国が畿内にあり
大和朝廷となったのかを列挙していきたいと思います。
@隋書に大和朝廷は邪馬台国と同一のものだと書いてること。
A明代の地図には本州は九州の南にあるように書かれている事。
B考古学的遺跡からマキムクに当時、諸国からの物資が
 集まっていたこと。
などです。1世紀に九州の豪族だった神武一族が東遷して
大和朝廷が成立しますが、この当時はまだ一地方国家に
すぎませんでした。2世紀に入り倭国は戦国時代に入り
九州勢力が衰退し、畿内・吉備勢力が台頭します。そして
3世紀の前半に西日本をひとつにまとめるために各国で
話し合い、大和朝廷=邪馬台国の王族だった卑弥呼を
西日本連合の王として擁立します。ただし、大和朝廷の
政治は弟の大王が担当してたので記紀からではわかりにくいのです。
そして4世紀に入ると徐々に中央集権化が強まり、
5世紀に入ると我々が知っている時代へと突入していくのです。

222 :中学3年生@不登校児:04/09/16 15:20:51
ではこの論文を考古学雑誌に投稿してきます。ではでは

223 :日本@名無史さん:04/09/16 15:33:25
金印と阿蘇山を畿内で探してきてください

224 ::04/09/16 15:56:48
神功皇后と卑弥呼が別人だということをしっかりと認識することだよ。
そう分かれば九州王朝が眼前に浮かぶのだよ。 >>221さんへ。

225 :日本@名無史さん:04/09/16 16:37:57
>>216
基地外が暴れているな。

「冢」を漢和辞典で引くと「塚」の正字で
意味は1.つか、大きな墓、2.もりつち、3.おおきい、4.おさ、かしら

「歩」は身長160-170cmで約120-140cm、度量衡としては120-160cm。

226 :日本@名無史さん:04/09/16 16:43:43
>>224
神功皇后は4世紀後半に三韓征伐を行った女傑で
卑弥呼はヤマトトトヒモモソヒメに対応し箸墓に葬られた可能性が高い。
また卑弥呼+台与が天照大神として神話にもなっている。

227 :邪馬台国=古墳発生地:04/09/16 16:59:58
阿蘇には日下部という名前が多い。火の下の草部、いまだに草千里がある。阿蘇の石材
ピンク石は近畿の古墳に多用されている。阿蘇の人が火の元国だといったら倭国中で
通じる。対外的には日の本の国といって貿易した方が火の元の国というよりはいい。
日本国王なんていうハンコを使っていたとしても倭国人は「なかなかやryじゃないか」程度
だったんだろう。だが何時の日にかトンデモな天皇とやらが勝手に日本国を名乗ったら
大変なこととなる。国号の詐称だよな。

228 :日本@名無史さん:04/09/16 17:09:57
>>222
どうでもいいけどそんなの何十年も前からわかってるだろ

229 :邪馬台国=古墳発生地:04/09/16 17:10:35
神武が上陸したあたりにクサカなんてのがあるが、あの辺には古墳が多い。
クサカという地名はあの辺の古墳建設時代にできた地名じゃないかな。
神武の話というのは高句麗滅亡後に渡来した連中による高句麗神話の
焼き直しらしい。新しい地名など平気で使ったのだろう。

230 :日本@名無史さん:04/09/16 17:36:36
>>229
雑な話だな。いつ頃の古墳だ。
チョンは平気ででっち上げるから、高句麗ネタとかまともに信じるなよ。

231 :日本@名無史さん:04/09/16 17:44:10
>>227
阿蘇の溶結凝灰岩は石棺用に加工しやすいから西日本で重宝された。

関東では房総半島の砂岩(房州石)が石棺に多く用いられ
群馬や栃木の結晶片岩(三波石)が石室の蓋に多く用いられている。

232 :日本@名無史さん:04/09/16 17:54:45
日本では太古から石材を選んでおり、縄文時代でも流通は広範囲に渡っていた。
ガラス質の黒曜石や微晶質の讃岐石は、切断面が鋭利になるので
矢尻や包丁などに多用された。
関東では和田峠や神津島の黒曜石が広範囲に分布し
瀬戸内海周辺では讃岐石の類が用いられ
九州や半島南部では腰岳などの黒曜石が分布している。

阿蘇の石を使うのは純粋に技術的な問題だろう。

233 :日本@名無史さん:04/09/16 19:21:41
>>221
「学会では近畿説が通説」という言葉を連発する人がいる
けど、どうなんだろ。九州説の人が学会に顔を出さなくなった
だけじゃないのかな。

@九州の邪馬台国が東遷して大和朝廷になったのなら、二つは
「同一」ということになるよね。この問題がトピの主題では。
A3世紀は南北に長い九州島だけが「倭」として認識された。
明代にもそのイメージが残っており、あのような地図になった。
B物資の集積は必ずしも権力の集中を意味しない。また、
土器の出土状況は近畿説のキモである狗奴国東海説と矛盾する。

矛盾だらけの文献解釈でしか説明できない畿内説が有力とは
正直、納得できない。

234 :日本@名無史さん:04/09/16 19:45:23
↑狗奴国東海説はべつに近畿説のキモではないよ。

235 :日本@名無史さん:04/09/16 19:52:37
九州説の人は

九州→畿内

と首都?を移したのは説明できるのかな?
首都移すのって大変なことじゃないの?

厨房発言スマソ

236 :日本@名無史さん:04/09/16 20:15:04
>>225
>「歩」は身長160-170cmで約120-140cm、度量衡としては120-160cm。

実際にその長さの「一歩」で歩き続けてみな。たとえ「ふたまたぎ」で120pだとしても
ひとまたぎ約60p。これで長距離を歩き続けるのはかなりしんどい。
そもそも「歩」などという単位が制度として制定されるには、「行軍」による測量方法が
先に採用されていたことが大前提。1歩=約120p(ひとまたぎ60p×2)の
行軍など、まずありえない。やはり1歩=約30p(ひとまたぎも同じ)が
行軍時の1歩としては、自然なのである。

237 :日本@名無史さん:04/09/16 20:30:20
問題は畿内の遺跡から「漢字」が表記された鏡や遺物が出ている事でしょうか。
すなわち、卑弥呼の時代にはすでに、畿内には中国と流通していたと。

よって、巍誌倭人伝に大和の記述があってもおかしくないのではないですか?


238 :日本@名無史さん:04/09/16 20:30:42
>>235
考古学者はまず東遷した証拠ない、そもそも北九州に大規模な遺跡がない
ってところで九州説を一蹴してるからな

その辺はもともと両方に国があって九州の邪馬台国はなんらかの事情で滅び、
畿内の大和政権が発展した、と考えてるんじゃないの?
つまり九州説は九州→畿内じゃなく、九州完結と

実際のところ九州説ってどうなってんの?

239 :日本@名無史さん:04/09/16 20:31:45
また、鏡が国産と力説される方もいますが、国産だとしたら、当時の畿内に
は漢字を表記する知識人がいたことになりますよ。

240 :日本@名無史さん:04/09/16 20:38:17
中国と流通があったからといって、魏志倭人伝にその地域が
必ず載るということはないような気がするのだが・・・

241 :日本@名無史さん:04/09/16 20:45:15
>>240

巍の国号の書かれた鏡が何百枚も贈られるというのにその地域の名前が何も
書かれていないというのはどうなんでしょうか?

242 :日本@名無史さん:04/09/16 20:51:03
>>217

中国4千年の内訳がおかしい。
最初の1000年は、
(伝説上の)夏王朝の成立から殷周革命・周初まで。
次の1000年は周初〜前漢末期だが、
周初と早期弥生の始まりがほぼ対応。
春秋時代末期ごろから(日本では)前期弥生時代。
以後、戦国・秦の始皇帝による統一・再度の戦乱・漢。
同時期には、弥生時代中期・後期・晩期までかな?

年代論の革新をちゃんと計算に入れないと、対応が狂う。
入れても狂うのが難点か? (って、それじゃ意味無い)

243 :日本@名無史さん:04/09/16 22:08:29
>>239
鏡に記載された文字は、通意しがたい物も多く、特に「韻」を踏んでいない物が
目立つ。中国製だとしたら「韻」を踏まないなどということはまずありえず、
そのことが国内産説の論拠となっている。

244 :日本@名無史さん:04/09/16 22:14:36
倭人伝の解釈による邪馬台国所在地論争は荒れるもとだから。
>>176の言うように、邪馬台国無しでも、充分に初期大和政権のことは語れる。
畿内勢力→大和朝廷は動かせない。

九州説の人は、3世紀に魏と交流のあった北九州の女王国は、どうなったと思っているのか?
それを書いてみてくれ。
このスレは「邪馬台国がどこか」ではなく「邪馬台国は大和朝廷になったか」なんだからさあ。

245 :日本@名無史さん:04/09/16 22:23:34
>>244
>畿内勢力→大和朝廷は動かせない。
このことを否定する九州説論者はいない。

>このスレは「邪馬台国がどこか」ではなく「邪馬台国は大和朝廷になったか」なんだからさあ。
気持ちはわかるけれど、「邪馬台国と大和朝廷は別」、と結論だけを述べて納得する人は
いないでしょ?
「なんで?」と聞かれたら、九州説支持者は、その論拠を述べるのが当然なのだから。

ただ、>>176の言う「荒れるもと」というのは不同意。アマチュアレベルとしては、
かなり学問的に有意義なことも多く述べられており、それについて来れない者が
「荒れている」ように見えているだけだと思う。

246 :日本@名無史さん:04/09/16 23:04:55
>>245
>ただ、>>176の言う「荒れるもと」というのは不同意。アマチュアレベルとしては、
>かなり学問的に有意義なことも多く述べられており、それについて来れない者が
>「荒れている」ように見えているだけだと思う。
そうかあ? 同じ話のループだろ?

>「邪馬台国と大和朝廷は別」、と結論だけを述べて納得する人はいないでしょ?
>「なんで?」と聞かれたら、九州説支持者は、その論拠を述べるのが当然
あなたは北九州説ですか?
北九州にあった邪馬台国はどうなったのさ。畿内の大和政権に屈服したのか?
畿内中心の三角縁に景初や正初などの卑弥呼ゆかりの年号があるのは、どう考えるの?

247 :日本@名無史さん:04/09/16 23:05:22
>>238
レスありがと。
じゃあ九州説は邪馬台国と大和朝廷との繋がりはないってことなんだね。

古代のことに関しては知識ないまま発言するけど,男の王を立てたら国が
乱れたので女性(卑弥呼)を王にしたら治まったてのがあるやん。あれは
邪馬台国ってのが畿内を中心に九州まで勢力下に治めていて,大陸との
窓口として九州北部に何かを設けていたって考えはヤバすぎ?
畿内には邪馬台国の王がいて,窓口に男の外務大臣を派遣したら,結構勢力
持ち始めて乱れたので女にしたと。
中国が外務大臣を「王」と認定することがありえるかって疑問とかあるけど。

妄想でつねこれわ。

248 :日本@名無史さん:04/09/16 23:06:55
魏志倭人伝記載の人口が正しければ、
邪馬台国は日本列島の過半を制圧している必要があり、
まさに「日本列島を代表する国」だったはず。

すると、あとは
・当時は畿内の勢力は九州の勢力の支配下にあった

・当時、九州の勢力は畿内の勢力の支配下にあった
か、どちらかになるだろう。
あれ?
第三案、
・当時、九州は独立勢力がいた、魏使は九州を経由せず畿内直行?
ってのもありうるか?(たぶん無理)

畿内の古墳の規模からして、
「2世紀の時点で畿内派九州勢力の支配下」とは考えられないという
見解が、考古学で支配的になった結果として、
邪馬台国畿内説へと大勢が傾いたんでは?

249 :日本@名無史さん:04/09/16 23:28:29
考古学では九州の人間が畿内を制圧した証明など出しようがなかったからでしょう。
明治維新の志士の活躍を、出土品だけで理解できないのと同じです。

250 :日本@名無史さん:04/09/16 23:35:33
>>249
お前、酷いな。
じゃあ、お前は考古学を完全無視するというのか?
九州説の悪あがきにしか見えないぞ。

251 :日本@名無史さん:04/09/16 23:41:25
「中国絹」「銅矛の鋳型」「鉄鏃の鋳型」の出土の量と質を無視するのは、畿内説の専売特許ですが何か?

252 :日本@名無史さん:04/09/16 23:42:32
そんなに畿内説がいやなら考古学雑誌に投稿しろよ。
相手にされるかしらんけど。



253 :日本@名無史さん:04/09/16 23:47:42
>251
それは邪馬台国の前だ。
考古学を勉強しろ、古田信者。

254 :日本@名無史さん:04/09/16 23:54:48
金印と阿蘇山無視するのも畿内説の専売特許

255 :日本@名無史さん:04/09/16 23:55:27
短里を無視するのも畿内説の専売特許

256 :日本@名無史さん:04/09/16 23:55:31
学会には九州説なんかいないのにアホだねえ。

257 :日本@名無史さん:04/09/16 23:56:14
現代の隠れ皇国史観、畿内説って電波でしょ

258 :日本@名無史さん:04/09/16 23:57:21
橿原だけに通じる「学会」って、カルトですか?

259 :中学3年生@不登校児:04/09/17 00:00:51
東遷は3世紀よりも前にあったんですよ。
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソヒメだとすると
初代神武から数えて、8代目あたりの大王の時代になる。
1代20年と仮定すると、卑弥呼の時代から約150年前くらい。
つまり1世紀に東遷は行われた。

260 :中学3年生@不登校児:04/09/17 00:03:26
あー不登校だから暇だなあー
意見を投稿できる考古学雑誌や
研究発表会みたいなものないの?
引きこもりから脱するきっかけにしたいんだけどさ。
中学校の勉強なんてレベル低すぎて
つまんねーよ。

261 :日本@名無史さん:04/09/17 00:06:06
今時九州説なんか唱えるアホはいるの?
安本古田以外でさ

262 :日本@名無史さん:04/09/17 00:12:55
>258
>橿原だけに通じる「学会」って、カルトですか?

k研のみならずアカデミズムはみな畿内説。
k研なんてまだ柔軟な方だよ。寺澤とかさ。
九州説なんか唱えてたらマジで就職ないよ。


263 :中学3年生@不登校児:04/09/17 00:20:42
ポイントとなるのは、邪馬台国王=卑弥呼だと
皆さん勘違いしているから、女王が治める国と
天皇中心の大和朝廷じゃあ全く質が異なるものだ。
という思考回路に陥ってしまうのですが、
実際に卑弥呼は連合国家の王として擁立されただけの
巫女ですよ。邪馬台国の王はおそらく卑弥呼の弟のほうです。
倭国大乱を収拾するために各国が協議の末に
卑弥呼を連合国家の王にしたというだけの話です。

264 :日本@名無史さん:04/09/17 00:37:42
>>250
考古学的方法によって事実として知り得ることと、ただの
想像に過ぎない部分とがごちゃごちゃになっているんじゃないか。
例えば、マキムクから出る土器からマキムク王権が北九州を含む
西日本全域に及んでいるとするのは、ただのファンタジーだろ。
「仮説」と呼ぶレベルでもない。

265 :中学3年生@不登校児:04/09/17 00:44:55
卑弥呼の時代のマキムク王権は
室町時代初期のように、各国の
連合国家という形をとっており
邪馬台国はその連合国家の議長に
選出されただけですよ。

266 :日本@名無史さん:04/09/17 00:46:50
この本を読めば謎が解明されるかも。
http://japanese.joins.com/html/2004/0916/20040916191641700.html

267 :日本@名無史さん:04/09/17 00:47:51
>>243
中国で出土した鏡はちゃんと韻を踏んでいるのか?

268 :日本@名無史さん:04/09/17 00:54:45
>>266
糞チョンは基地外。↓の本に詳しい

http://www.s-book.com/plsql/sbc_book?isbn=4094027165
韓国人の日本偽史 / 日本人はビックリ!(小学館文庫)
■著者名: 著/野平俊水(天理大朝鮮学科卒・韓国全南大博士課程修了)
■定価: 本体 476円+税 ■発売日: 2002/04/05

なぜ韓国では日本の歴史が歪曲されて教えられているのか。韓国で信じられている「日本の偽史」をユーモラスに紹介する。

 「古代の天皇は韓国人だった」「日本海は韓国海だった」「Koreaという国名は日本の陰謀」「高天原は韓国にあった」「『くだらない』は『百済ない』だった」「法隆寺の金堂壁画の作者は韓国人」「万葉集は韓国語で書かれた」・・・・。
“最大の反日国にして最大の親日国”の韓国で一般に伝わる日本史の常識の中には、歪曲され、意図的に捏造された「偽史」が多くみられる。韓国TVにレギュラー出演し、「最も有名な日本人」として人気を博す大学講師の著者が、
韓国人の日本に対する優越思想がいかに歴史を歪めてきたかをユーモラスに紹介する。韓国人が信じたい「日本史」に、日本人はただア然!

269 :日本@名無史さん:04/09/17 01:07:46
皇国史観学会では全員畿内説。例外なし。

270 :日本@名無史さん:04/09/17 01:12:07
>>269
基地外か、江戸時代の国粋主義者が九州説をわめいたんだぞ。

197 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:04/09/16 07:11:16
日本書紀の編者は邪馬台(ヤマト)国を畿内に比定していたのを
江戸時代の国学者たちがイデオロギー的に朝貢・冊封の記事を嫌って
九州の土豪に押しつけようとしたのが混乱の始まり。
対米敗戦後は共産主義者たちが日本弱体化工作の一環で
日本史を攪乱しようとして、九州説や騎馬民族説などを声高に唱えた。

ここ数百年の研究史をみると、九州説の方がイデオロギー的な臭いが強い。

271 :日本@名無史さん:04/09/17 01:27:36
ば〜か、戦後の皇国史観は逆だよ。皇国史観=畿内説。

272 :日本@名無史さん:04/09/17 02:06:41
>>271
馬鹿はお前。戦後はアカとチョンが跋扈しただけで
皇国主義研究者は事実上根絶やしになった。

273 :日本@名無史さん:04/09/17 02:28:18
と妄想するのだった

274 :日本@名無史さん:04/09/17 02:34:17
>>244
記録がないから推測となるが。

邪馬台国の子孫・分派の神武らが3世紀半ば東征。
それまであった畿内勢力にかわり、邪馬台国系の大和朝廷が設立。
(大伴氏・中臣氏・物部氏は、九州系の名と考えられる。大和発生と
考えられる三輪氏・磯城氏・宇陀氏は、地祇とされている。また宇佐
・壱岐・対馬・松浦などの九州の古い氏族は天孫とされている。)
同時代にも邪馬台国をはじめとした九州の諸国連合は存在するが
あくまでも連合国家のため、国内や国同士でいざこざが絶えず。
その間に、中央集権体制を固めた畿内大和朝廷が強大化。
並行して、邪馬台国とは別系統の磐井一族が徐々に北部九州を
制圧。
故郷を奪われた大和朝廷は、継体天皇21年についに磐井と
全面対決。これを制圧し倭国統一が完成。

275 :日本@名無史さん:04/09/17 02:39:45
>>267
実見はしていないが、王仲朱氏が「三角縁神獣鏡=日本産」説の立場を取ったのは
この「韻」の問題から。

276 :274:04/09/17 02:41:40
>神武らが3世紀半ば東征。
4世紀の前半に訂正しとく。

277 :日本@名無史さん:04/09/17 02:53:55
古墳の規模を畿内説の根拠にする人がいるが、本格的な
古墳時代は東征後に始まるから当然。
九州にも少なくとも同じくらい古い古墳があるわけで、
規模が小さいこと、つくりが稚拙なことは、むしろ
東征の証明ともいえる。

278 :日本@名無史さん:04/09/17 03:06:24
>>277
九州説の連中は考古学のデータも満足に知らない無知が多いな。
最古の前方後円墳は畿内で、埴輪の前身は吉備だぞ。

初期の天皇陵が示す場所に目立った古墳がないのは、弥生墳丘墓なのだろう。
神武東遷があったとしたらもっと前だ。

279 :日本@名無史さん:04/09/17 03:47:58
>埴輪の前身は吉備だぞ。

卑弥呼の墓は埴輪が無いから奴隷を生き埋めにしたんじゃなかった?
前方後円墳と埴輪の組み合わせは「邪馬台国ではない」と言ってるのと同じでは?



280 :日本@名無史さん:04/09/17 04:09:54
黒板勝美直系が坂本太郎氏らしいから皇国史観は戦後もあったと考えてもいいかもな
坂本太郎の後継がどういう人らかわからんけど

>>274
推測にしてもとりあえず
>大伴氏・中臣氏・物部氏は、九州系の名と考えられる
いきなり電波ですね

281 :日本@名無史さん:04/09/17 04:20:07
>>279
前スレにも書いたように、人や動物の代わりは形象埴輪だ。
箸墓に並べられた特殊器台は棺桶に使っている例があり
特殊器台に奴隷を入れていた可能性がある。

282 :日本@名無史さん:04/09/17 04:24:26
>>281
 特殊器台は、弥生時代の終わり頃(2世紀末〜3世紀)に、吉備地方で作られ始めた葬送用の器台(壷などをのせる台)です。
特殊器台を出土する弥生墳丘墓などの遺跡の分布は、備中南部を中心に、備前・美作・備中北部・備後にわたり、かって「吉備」と呼ばれた地域に集中しています。
特殊器台が注目されたのは、この器台の発展が、これまで謎とされていた古墳時代の円筒埴輪の起源に直接結びつくものであることが判明したことによります。
 この特殊器台は、昭和38年(1963)に宮山墳墓群(総社市三輪)の土壙墓から棺に転用された状態で発見されました。
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kenhaku/hakubu2.htm

283 :日本@名無史さん:04/09/17 04:28:31
>>282
同様に円筒埴輪も棺桶として使っている。

 平成11年5月におこなった明石海峡大橋直下の舞子浜遺跡(神戸市垂水区)の発掘調査で、2基の埴輪棺が出土しました。
円筒埴輪などを組み合わせて造られた埴輪棺は、近畿地方では95遺跡確認されています。
http://www.hyogo-c.ed.jp/~maibun-bo/iseki36.htm

284 :日本@名無史さん:04/09/17 04:34:55
埴輪といっても巨大な円筒埴輪から人や動物や物をかたどった形象埴輪まである。
古墳や博物館へ行って現物を見て考えろ。

285 :日本@名無史さん:04/09/17 08:31:43
畿内説支持者は、まともな議論に詰まると考古学の権威を引き
合いに出すが、生物科学系の学会と比べると、せいぜい研究会って
行ったところ。たった一人嘘つく権威ある人がいると、その嘘の
検証も行われず、その嘘にもとづいて次々と、研究成果が積み上げ
られる。嘘が一つばれると、一挙に何百年も時代がずれる。

生物化学系の学会では、ありえない。たとえ誰かが嘘を発表しても
必ず検証がなされ、嘘は嘘とはっきりする。
対象とするものが違うので、考古学に完全を求めるのは酷かもしれ
ないが、考古学はそういうものだということを認識するべき。
今主張されている、古墳の時代だって、また、いつずれるか知れた
もんではない。
畿内に見られる前方後円墳は、どう考えても九州最古とされるものと
比較すると構造的に新しい。
よって、古墳に関しては、一歩譲って決着つかずとして、まずは他の
根拠を検証していくべきだろう。

286 :日本@名無史さん:04/09/17 08:38:09
邪馬台国と狗奴国の境目だな

 近江町教育委員会は十五日、同町日光寺の「定納古墳群一号墳」が前方後方墳であることが判明し、古墳の木棺跡から筒形銅器一点が出土したと発表した。
町教委は「四世紀に北近江を支配した王の墓で、筒形銅器は王族の副葬品ではないか」としている。
 他方、古墳の前方部から南に陸橋が掘られていたことも判明。墳墓に陸橋を付けるのは弥生時代の墳丘墓の特色で、
愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎主査は古墳の年代が三世紀にさかのぼる可能性を指摘している。
 調査に参加した森下章司・大手前大助教授(考古学)は「墓制は東海地方の影響が見られる一方、西からもたらされたとみられる筒形銅器を埋葬している。
定納古墳群は東西の古墳文化の接点として位置づけられる」としている。
http://www.chunichi.co.jp/00/sga/20040916/lcl_____sga_____000.shtml

287 :日本@名無史さん:04/09/17 08:38:52
>>279
>卑弥呼の墓は埴輪が無いから奴隷を生き埋めにしたんじゃなかった?
>前方後円墳と埴輪の組み合わせは「邪馬台国ではない」と言ってるのと同じでは?

そのとおり。実際に百体神社の名まで残っている場所から、人骨が発掘されている
にもかかわらず、論点をずらして、埴輪だのなんだのを議論にもっこざるをえない
畿内説は無理があることをここでも露呈している。

288 :日本@名無史さん:04/09/17 08:39:49
>>285
> 畿内に見られる前方後円墳は、どう考えても九州最古とされるものと
> 比較すると構造的に新しい。

具体的に説明しろよ、基地外。

> よって、古墳に関しては、一歩譲って決着つかずとして、まずは他の
> 根拠を検証していくべきだろう。

よほど都合が悪いようだ。

289 :日本@名無史さん:04/09/17 08:49:15
>>286
>墳墓に陸橋を付けるのは弥生時代の墳丘墓の特色で、
>愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎主査は古墳の
>年代が三世紀にさかのぼる可能性を指摘している。

たかだか陸橋一つで、他に何の根拠もないのに、時代を3世紀も
繰り上げようと考える時点で思慮がなさ杉。では、今までの
研究は何なのか。古墳時代初期の円墳に始まり、全盛期での前方後円墳
の興隆という流れもいきなり否定か?

いかにも邪馬台国との関連付けをしたいという意思が見え見え。
考古学はせいぜいそのレベルってこと。

290 :日本@名無史さん:04/09/17 08:51:41
>>288
また、すぐに逆切れか。
どうせ何を言っても、頭から否定するだけだろ。
本当に知りたいなら自分で調べな。

291 :日本@名無史さん:04/09/17 08:52:50
前方後方墳研究のリーダー赤塚氏のコメント

September 14, 2004三角縁神獣鏡の製作年代その1
現状の調査事例を概観すると、廻間II式前半期に伴う三角縁神獣鏡は存在しない。もっと言えば廻間II式2段階を遡る明確な資料はないようだ。
すると三角縁神獣鏡はおおむね廻間II式後半期の中で製作が始まったと考えておくことができるようだ。
新暦年代に照せば三世紀第2四半期と言うことになり、何かはまったような気がするが・・・・。

因に三角縁神獣鏡を大きく3つに区分した、第2番目の波文帯三神三獣鏡群の登場は廻間III式を遡ることはない。
そして箸墓古墳の造営終了は廻間III式1段階だ、土器から見ればね。箸墓の被葬者を受け継いだ人物、そしてそのグループが仕掛けたメッセージであるとしたら。だから・・・。
土器編年から見た三角縁神獣鏡を考え中。
http://agatazin.jp/archives/2004_09.html

292 :日本@名無史さん:04/09/17 08:56:31
>>289
日本語が理解できないようだな。
4世紀から3世紀に遡る可能性を述べて「3世紀も繰り上げ」かよ、アフォか。
古墳時代最初期の西日本は前方後円墳、東日本は前方後方墳が特徴的だ。

293 :日本@名無史さん:04/09/17 09:04:10
>すると三角縁神獣鏡はおおむね廻間II式後半期の中で製作が
>始まったと考えておくことができるようだ。
>新暦年代に照せば三世紀第2四半期と言うことになり、何か
>はまったような気がするが・・・・。

土器編年、古墳信奉者は、逆に古墳の暦年が下がって、漢式鏡の
コピーである三角縁神獣鏡の作成がその頃に確立されたとしても
矛盾しないことには気づかないんだろうな。

294 :日本@名無史さん:04/09/17 09:14:39
>>293
はぁ?従来の編年が不自然であることに気付いたのだぞ。

1)山中I式が遅くても西暦一世紀中頃にはじまっているとしたら
この時点で流入した象徴する出土遺物としては、濃尾平野最古の鏡である名古屋市高蔵遺跡のき龍文鏡や岐阜市瑞龍寺山山頂墳出土の内行花文鏡などが存在する。
今回の暦年代からはほとんど長期の使用・伝世を想定する必要がないことになる。

箸墓古墳の築造終了を廻間III式1段階の中にあるとすると、248年前後に死亡したとされる倭の女王「卑弥呼」と極めて近い時期を想定できることになる。
箸墓古墳に卑弥呼が眠っている可能性が高くなることは間違いない。三角縁神獣鏡は廻間II式期中頃以前の墳墓から発見されてはいない。

最後に奈良県のホケノ山古墳であるが、配置された東海系加飾壺から、廻間II式2段階に造営が終了している墳墓と想定することができた。
すると239年に卑弥呼が魏に使いを派遣する以前の墳墓である可能性が高いということなる。
http://agatazin.jp/niwazin/sji/2003-11/2003-11.html

295 :中学3年生@不登校児:04/09/17 09:33:49
っていうかさ。
あのこんげんなんたらっていう地図が
見つかった時点でもう畿内だと
わかってたんじゃないの?
なんでこんなに議論が長引いてるのかわかんねー。

296 :日本@名無史さん:04/09/17 09:33:54
そればっかだな。他に根拠はないのか?
古墳がひっくり返ると終わりだね。
大切な鏡は、家宝とされて代々受け継いだあと、埋葬された可能性も高く、
埋葬時期と製作時期が一致するとは限らないから、それだけでは、古墳の
造成期の根拠にはなるまい。

297 :日本@名無史さん:04/09/17 09:40:19
>>295
あの地図も、畿内は南ではない。せいぜい東南東。
むしろな奴国(福岡)の南はまさに、豊前。
そして、その東には四国。
畿内の東もしくは北東に海とさらに倭人の住む島はないだろ。
もうちょっと勉強してから書き込みなさい。

298 :中学3年生@不登校児:04/09/17 09:54:40
>>297
貴方も現在の常識にとらわれすぎていますね。
現在の地理と1800年も昔の地理が同一の
ものだったとなぜいえるのでしょうか?
例えば、昔は京都には大きな湖があったそうです。
今はないですけどね。

299 :日本@名無史さん:04/09/17 10:01:53
結局吸収説のよりどころは何なの?
箇条書きで教えて

300 :日本@名無史さん:04/09/17 10:07:28
>>298
その地理を根拠に畿内説で決定としたのはあなたでしょ。

301 :中学3年生@不登校児:04/09/17 10:09:01
>>299
・倭人伝の方角
・倭人伝に載ってる国がほとんど九州
・天孫降臨したとこが九州
・九州説を採る人には九州出身者が多いから。

などですwちなみに倭人伝の記述に関してですが
邪馬台国の部分は倭の中枢部にあたるとこなので
詳細に他国に道筋を教えたとは考えづらいです。
よって倭人伝を鵜呑みにして畿内・九州どちらかを
論ずるのには無理があります。マルクス史学の影響で
皆さん合理的に物事を考えすぎです。

302 :日本@名無史さん:04/09/17 10:15:44
>>301
九州説の最大の弱点は、
魏志倭人伝所載の人口が、当時の九州の10倍にも上ること。

303 :中学3年生@不登校児:04/09/17 10:18:21
>>300
じゃあ伊勢湾を渡ってそこに国があり
紀伊半島に侏儒国があったんでしょ。
これで万事解決。ってまてよ。。
帯方群から倭国の入り口までが7000里。
帯方群から邪馬台国までが12000里。
つまり九州の先端から邪馬台国までは5000里。
畿内には届かない・・どうなってるんですか陳寿さん?

304 :中学3年生@不登校児:04/09/17 10:23:22
わかりました。ではこうしましょう。
魏の使者は伊都国までしかいってなくて
そこで倭人から伝聞したことを倭人伝に書いた。
倭人は邪馬台国の場所についてだけは
でたらめに答えた。これで万事解決。

305 :日本@名無史さん:04/09/17 10:24:45
>>302
機内だっていっしょでしょ。
それよりも、なぜ当時の九州の人口がわかる?

>>303
畿内説の矛盾ってこと。九州に邪馬台国があったって言うこと。


306 :日本@名無史さん:04/09/17 10:26:05
>>304
それも前述。
いくら伝聞といっても、でたらめとするのはご都合主義。
九州なら矛盾なく説明できるでしょ。

307 :中学3年生@不登校児:04/09/17 10:30:28
>>306
九州なら矛盾ありまくりですよw
水行10日陸行1月南へいくんですよ。
これをどう説明されますか?
伊都国からの放射説という苦し紛れの
方法を使っても説明するのは無理がある気がしますが。

308 :中学3年生@不登校児:04/09/17 10:34:14
>>305
いや、伊都国で魏の使者に
邪馬台国は九州にあったかのように
みせかけたというのが正しい気がしますね。
倭人伝は所詮は他国のものなので鵜呑みには
できません。

309 :日本@名無史さん:04/09/17 10:50:52
厨3の馬鹿まで議論に加われるまでレベルが落ちたか・・・

おい、厨3の馬鹿、おまえの疑問はそれだけか?
九州説の水行陸行を明確に説明したら終わりか?


310 :中学3年生@不登校児:04/09/17 10:54:26
九州に邪馬台国はあったとしたら九州のどこですか?
また大和朝廷とのつながりは?
隋書に、邪馬台国=大和朝廷と言ってる記述をどう説明されますか?
東遷説を採るなら東遷した証拠は?
私は倭人伝で信憑性のある記述は魏の使者が通った伊都国までの
記述だと思います。その証拠に、伊都国以降の記述はどことなく
曖昧に書かれています。

311 :日本@名無史さん:04/09/17 11:27:30
水行10日ってのはまだ分かるけど,
陸行1月...1か月間吸収のどこをウロウロすればいいわけよ。
309さんこの際教えて

312 :日本@名無史さん:04/09/17 11:41:45
短日を知らんのだろうな。

313 :日本@名無史さん:04/09/17 11:43:22
厨3=26歳だろう?

314 :日本@名無史さん:04/09/17 12:00:12
>>310
もうその質問に対しては既に書いたから、過去レスみてくれ。

315 :中学3年生@不登校児:04/09/17 12:14:41
やはり邪馬台国は九州にあって
大和朝廷とは別物。邪馬台国はのちに
大和朝廷の支配下に入ったと考えるほうが
正しいのでしょうか?

316 :日本@名無史さん:04/09/17 12:28:17
吸収の宇佐のような気がしてきた
考古学的に宇佐はどうなんだろうか

317 :中学3年生@不登校児:04/09/17 12:33:40
私もやはり九州のような気がしてきてしまったw
普通に邪馬台国は九州にあった国で、のちに
大和朝廷の支配化に入ったと考えるほうが
矛盾が少なくてすむ気がする。もしかしたら
邪馬台国を併呑したのでヤマト朝廷って名前がついたりしてw

318 :中学3年生@不登校児:04/09/17 12:35:59
3世紀に畿内に考古学的にみて
大きい勢力があったとしても
それが邪馬台国だと考える必要はないんじゃないですか?

319 :日本@名無史さん:04/09/17 12:55:15
まさかの井沢説が俄然真実味を帯びてきた気が。
そもそも「姫」ってのは卑弥呼を表す固有名詞だったのかも。
吸収説もなかなかやるねー

320 :日本@名無史さん:04/09/17 12:56:18
列島各地にクニがあったんだから、そのうちの北九州だけは大陸側と深い交流があった。
そのクニは名称は時代とともに変遷したが、委奴国、邪馬壱国、邪馬台国、ダイ国と呼ばれ
その実態は一連のひとつにクニであった。

321 :寛恕不如意背反網倫理:04/09/17 13:05:30
宇佐の辺りとか、筑紫全般についてヒミコの時代の文化である古墳は
東から西に向かっている。↓
http://www.sewayaki.jp/ken39/yasu/rekichi/rekichi8.html
あの頃の宇佐は勿論、伊都、マツラ、壱岐、対馬、狗邪韓国など全ては
奈良県の統治下にあったといっても良い状態だったんだろうね。

322 :中学3年生@不登校児:04/09/17 15:00:09
やはりどう考えてみても倭人伝からは
畿内に邪馬台国があったとは読めません。
倭人伝に信憑性があったらの話ですが。
合理的に解釈するならやはり九州にあったことに
なってしまいます。考古学的遺跡のみから
畿内に邪馬台国があったと主張される方の
頭脳はいったいどうなっているのでしょうか?
という僕も昨日まで畿内説派でしたけどw

323 :中学3年生@不登校児:04/09/17 15:13:06
これからは邪馬台国はどこにあったかではなく
3世紀の時点で邪馬台国は大和朝廷の勢力化に
あったか、なかったか、で議論の進めていきましょうか。
邪馬台国は北九州にあったのはもうほぼ確実でしょ。
問題なのはマキムク政権の支配下にいつ入ったかと
いうことです。

324 :中学3年生@不登校児:04/09/17 15:20:26
僕は大和朝廷がヤマト朝廷と呼ばれるように
なった時期から邪馬台国は大和朝廷に併呑されたのだと
思います。大和と書いてヤマトとは読めないでしょ。
明らかに当て字です。倭国の一派が東遷して日下を
併合したとき、国名もそっくりそのまま日本にしたように
マキムク政権が邪馬台国を併呑したときに自分たちの
政権を大和政権と名づけたのではないでしょうか?
ゆえに、隋書では邪馬台国=大和朝廷と言ってるのだと
思います。

325 :中学3年生@不登校児:04/09/17 15:25:45
間違っても邪馬台国が東遷したということは
ないでしょ。力関係からいっても、3世紀後半では
すでに畿内>九州だったと思います。狗奴国との
戦いに苦しめられて中国に助けを求め朝貢してる国が
東遷して畿内勢力に勝てたとは思えない。
っと1人でレスしてばかりですねw
夜まで外にでてきます。皆さんの意見を聞かせてくださいね。

326 :日本@名無史さん:04/09/17 15:55:40
吉備が出雲から畿内に乗り換えたのも大きかっただろうな。

 島根、鳥取両県の古代史にスポットを当てた山陰弥生文化シンポジウム「山陰に弥生王国は実在したか?」が四日、東京・芝公園のメルパルクホールで開かれた。
 島根大学の渡辺貞幸教授は、列島の政治勢力の中で、山陰は西谷3号墓に代表される独自で巨大な四隅突出型墳丘墓を築き「吉備や北陸と外交を展開した」と強調。
 しかし、吉備との蜜月は短期間に終わり、女王・卑弥呼(ひみこ)の邪馬台国が連合勢力によって築かれたと想定すると
「大和と吉備、丹後の連携により、山陰は孤立させられた」と述べ、邪馬台国時代の山陰の歴史像を描き出した。
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/2004/07/05/01.html

327 :日本@名無史さん:04/09/17 16:04:04
>>326
> 「大和と吉備、丹後の連携により、山陰は孤立させられた」と述べ、邪馬台国時代の山陰の歴史像を描き出した。

古墳時代初期には、西日本は前方後円墳が東日本は前方後方墳が卓越していたのに
出雲では弥生中期から続く四隅突出型墳丘墓の流れをくむ方墳が卓越しており
全く浮いています。
古墳時代後期になって、前方後方墳を作り始めたりと独自路線が目立ちます。

328 :日本@名無史さん:04/09/17 19:53:08
邪馬台国が東遷したことはないけれど
邪馬壱国の更迭軍人五瀬命や神武が低い身分で東侵したことはある。
後世かっこつけて、東遷と呼んだが、都も国も遷してないからこれはウソ。

329 :日本@名無史さん:04/09/17 19:56:15
マキムク政権は半島の戦乱を避けて逃避してきた、負け組政権。
時代を経て、一気に滅ぼされちゃったから、マキムクは九州邪馬台国を支配しないまま露と消えた。

330 :日本@名無史さん:04/09/17 21:07:41
当時の日本は倭(和)の国と呼ばれていて、この名称は和風という言葉で
残っています。

伊都国など、魏誌倭人伝に載っている国の名称も糸島半島や壱岐、対馬など
今でも残っています。

では、当時、倭の中心だったという邪馬台国は、その規模の大きさから
現在でもその名称の名残が残っていてもおかしくないのではないでしょうか?

一番妥当なのが、奈良の大和だと思います。

日本書紀などを見ると、最初に国が出来たのは瀬戸内海を中心にした地域。
これは、大和、波速と吉備、九州の瀬戸内海一帯が海路を通じて、頻繁に
交流があったからではないでしょうか?

この交流を掌っていたのがアマ(海人)と呼ばれる人達だったのだと思います。

また、当時の重要拠点として、出雲、吉備、伊勢、熊野などがあげられる
と思います。あとは、東海地方の勢力

331 :日本@名無史さん:04/09/17 21:29:01
>例えば、マキムクから出る土器からマキムク王権が北九州を含む
>西日本全域に及んでいるとするのは、ただのファンタジーだろ。
>「仮説」と呼ぶレベルでもない。

マキムクから九州の土器はあんまり出てないよ。
統一政権の樹立は、初期の前方後円墳が九州から関東まで
ほぼ一斉に発生することから言われていることです。
もっと考古学を勉強しなさい。



332 :日本@名無史さん:04/09/17 22:20:23
マキムクは一気に滅亡したんだから、邪馬台国には無縁。

333 :日本@名無史さん:04/09/17 22:27:15
あいかわらず、箸が転んだから邪馬台国は九州みたいな香具師が多いな、ここは。

334 :日本@名無史さん:04/09/17 22:39:49
福岡平野の須玖岡本遺跡群、那珂比恵遺跡群が弥生集落では最大級で、遺物の質や集落の計画性がダントツ。
糸島の三雲遺跡も匹敵する可能性があるが、調査範囲が少なく不明瞭。これらは規模的にマキムクに匹敵する。
これら3遺跡は弥生中期中ごろに巨大化し、須玖は弥生終末まで、他は古墳前期にも繁栄が存続するようだ。
唐古鍵遺跡は30ha、須玖岡本や那珂比恵は100ha以上。
那珂では2kmの直線道路痕跡が存在するらしく、また須玖岡本の青銅器鋳型の出土数や出土頻度は唐古とは比べ物にならない。
福岡の研究者に言わせると、吉野ヶ里と唐古鍵が同程度の規模と構造と言う。
あと、壱岐の原ノ辻も同じぐらい。
邪馬台国は大和でもいいけど(マキムク出現以降ね)、畿内派は九州のこともよく調べておいてね。
あと九州派の人も、伊都国、奴国が質的規模的に最高ランクで、他地区はその下であることをわかってね。






335 :日本@名無史さん:04/09/17 22:52:10
箸墓の規模から、卑弥呼の墓でないことは明白。
マキムクはさっさと滅亡するから、邪馬台国じゃないことは明白。
金印と阿蘇山のゆかりの地が邪馬台国だろう。

336 :日本@名無史さん:04/09/17 23:13:20
>吸収の宇佐のような気がしてきた
>考古学的に宇佐はどうなんだろうか

全然駄目。考古学者で宇佐を上げる奴はいない。
九州は、奴国伊都国が圧倒的すぎて他は候補にならない。
もっとも考古学者で九州説ということ自体がありえないが。

337 :日本@名無史さん:04/09/17 23:15:47
>>305
九州説論者の多く(?)がいうように、
「マキムクは卑弥呼より新しい」とすると、
卑弥呼は古墳時代より少し古い人なんでしょ?

弥生時代人口は、日本列島全体(九州から東北まで)を
総合計しても、魏志倭人伝の邪馬台国の人口の2倍以下。

日本列島の過半、ひょっとすると大半を統合する国でなくてはならない。

畿内説では、卑弥呼は古墳時代初期の人。
弥生時代より人口が増えたこの時代だと、
九州に独自の地域政権が対立していても、
近畿地方に近接する複数地域まで併せていれば、
まあ、列島の1/3程度まで制圧してれば人口が事足りる。

九州説であれば、大和までを支配下におかないで人口をまかなうのはかなり困難になるから、
困難さが上昇してしまうわけ。

338 :日本@名無史さん:04/09/17 23:29:45
はあ?衛星国として傘下に置いてましたが?

339 :日本@名無史さん:04/09/17 23:37:13
邪馬台国は当て字なのでどうもよくない。ヤマト国と呼ぼう。

大倭→大和=大いに和する=大きな連合=連合政府=共立王=ヒミコ=ヤマト国

これでヤマト国=大和朝廷は100%決定。

初期連合政府は九州にあり、九州の国々によって運営される。
しかし、次の連合政府トップの座を巡って戦乱。この戦乱の過程で
中国、近畿が関与し、西日本全体の連合政府が必要となった。
このときに築かれたのが奈良のヤマト連合政府である。
次期連合政府トップの座を巡って常に戦乱があり、
倭国大乱、ヒミコ死後の混乱も、「誰が連合政府のトップとなるか」の戦争である。
トヨ後その争いに勝ったのが、小国日向の神武である。
「ヤマト国=連合政府の意」かもしれない。

これで、九州説、畿内説、邪馬台国=大和朝廷、神武東征が
全て満たされた。論争終了です。


340 :ゴジンム:04/09/17 23:41:52
>>339
ウアッハッハ??? 玉虫色???

341 :中学3年生@不登校児:04/09/17 23:47:27
>>339
おおすばらしい。僕もほぼ賛同いたします。
ただ神武を4世紀前後の人にしてしまうと
つじつまが合わない気が・・それ以外は同意です。

342 :中学3年生@不登校児:04/09/18 00:12:11
>>339の方の意見を若干修正して僕の意見をまとめて
みたいと思います。邪馬台=大和=大いに和するであり連合国家の
中心部が邪馬台国だったというのはそのとおりだと思います。
聖徳太子も和をもって尊しとなすといってますし、明らかに
日本の古代からの精神文化を継承してると考えられます。
そして、連合国家の中心が4世紀に入り九州から畿内に移ったのも
想像に難くないです。ただ神武東征ではなく、畿内に元々あった
勢力が連合国家の中心となったのではないでしょうか?すなわち
神武東征はもっと前の時代であり、崇神の時代に畿内に連合国家の
中枢部である大和朝廷が成立したのです。ゆえに崇神もハツシラスと
呼ばれてるのだと思います。こう考えれば時代的にもつじつまが
合います。

343 :日本@名無史さん:04/09/18 00:16:22
だから論争終了ったってさ
もうとっくに終了してるんだよ
結構前から畿内説で決まり
九州説書いてるのなんてその辺でうってる新書だの逆説のなんたらだのそんなんばっかでしょ?


344 :中学3年生@不登校児:04/09/18 00:21:53
いやあ。ここまで議論してきたかいがありましたよ。
やっとすっきりしました。納得のいく解答ができあがって
ほっとしています。皆さんどうもでした。

345 :日本@名無史さん:04/09/18 00:23:23
神武東征はもっと前の時代であり、崇神の時代に畿内に連合国家の
>中枢部である大和朝廷が成立したのです。ゆえに崇神もハツシラスと
>呼ばれてるのだと思います。こう考えれば時代的にもつじつまが
>合います。

全然あわない。崇神陵を定説の元比定陵としても、あるいは
もっと上げて西殿塚とか箸墓にしても、その前に勝山やマキ
ムク石塚古墳がある。

で、同様の形態の古墳が畿内の次では北九州にもっとも早期に出現
しているだから(那珂八幡とか津古生掛とか)、既にこの時点で統
一されていると考えられる。
どっちにしろ343の言うとおり学会は畿内説で決まり。


346 :中学3年生@不登校児:04/09/18 00:28:58
畿内説は99%ありえません。
帯方郡から邪馬台国までが1万2千里なのに、
朝鮮から倭国に入国するまでにすでに
7千里を消化してしまっています。
どうしたら畿内だとそこまで強弁できるのか
不思議でしょうがありません。

347 :日本@名無史さん:04/09/18 00:55:47

東夷伝に見える国名ですが、学会ではおおむねどこまでが
合意というか比定されているのでしょうか?

狗邪韓國、對馬國 一大國 末盧國 伊都國 奴國 不彌國 投馬國 邪馬壹國
----
斯馬國、已百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、
呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、爲吾國、鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國、奴國

私は機内説・九州その他説どちらを支持するものではありませんが
「女王之所都」の前より耶馬以降の執拗なまでの記述が気にかかります。



348 :中学3年生@不登校児:04/09/18 00:59:34
女王国の「北」を統括するために伊都国があり、
女王国の「東」の海を渡ったところに倭種の国があります。
畿内説では方角がめちゃめちゃすぎて話しになりません。
倭人伝の記述の信憑性を疑うのも吉野ヶ里遺跡等の発見により
厳しい気がします。

349 :中学3年生@不登校児:04/09/18 01:17:29
>>345
では百歩譲ってこういう考えもあります。
神武東遷はほとんど戦いという戦いもなく
ただ単に都を移してるだけです。これは
連合国家の中枢部が九州から畿内へと移り
その王として、なんらかの理由で神武の一族が
選ばれたと。途中で邪馬台国があった宇佐に
立ち寄ったりしてるのもこれで納得がいくでしょう。
神武が架空の人物だったとしてもこの神話は
連合国家の中枢部の移し変えと連合国家の王に
即位すべく九州から畿内へ渡るそのことを示していたのです。

350 :日本@名無史さん:04/09/18 01:20:16
キミねえ
邪馬台国は単に方角がどうとか距離がどうとか単純なもんだいじゃないんだよ
魏志倭人伝の価値を活かし、史料の限界を踏まえ、記紀批判と結びつけて
3〜7世紀の王権、国家、民族の形成史を把握し、その時代の考古学資料との整合性に配慮し
東アジア全体のなかの倭国ていう視点で捉えるってことがまず必要
それ抜きで方角があってるから九州だのそんな簡単にいくかっての

351 :中学3年生@不登校児:04/09/18 01:23:02
>>350
その難しいことを把握したら
南が東になってしまうのですか?w


352 :日本@名無史さん:04/09/18 01:25:18
>349
まず、邪馬台国=宇佐という学者はいない。

そのほかは、原田、柳田一派の説に近いが、
彼らは東遷は、邪馬台国より前の時代としている。



353 :日本@名無史さん:04/09/18 01:29:13
中国の史書は三、五、七世紀の「倭王」を連続的に見ている
三世紀の中国人は倭地を朝鮮半島の南から福建省の東までに点在する群島と考えていた
三世紀の「邪馬台」は飛鳥時代のヤマトだとする『隋書』がヤマトをツクシの「東」と訂正している


354 :中学3年生@不登校児:04/09/18 01:31:45
ではやはり神武が東遷して1世紀あたりに
畿内に国を作り、崇神のときに九州から
畿内へ連合国家の中枢部が移されたのにさいして
その連合国家の王となった。これでいいでしょ。
おそらくその当時、すでに九州は衰退していたので
最も力のある一族が畿内を支配していた神武の子孫の一族だった。
なので連合国家の大王となった。これで問題なし。

355 :日本@名無史さん:04/09/18 01:36:26
まず神武東遷を当然と思うような考えはやめないと
九州説に多いのが記紀神話を積極的に活用することらしいが

しかも神武東遷して
>畿内に国を作り、崇神のときに九州から
>畿内へ連合国家の中枢部が移されたのにさいして
>その連合国家の王となった
ってめちゃめちゃだよ

356 :中学3年生@不登校児:04/09/18 01:39:15
>>355
南を東だと強弁して、
考古学的見地のみから
畿内が邪馬台国だと主張する方々の
ほうがめちゃめちゃでしょw

357 :日本@名無史さん:04/09/18 01:41:22
>>353とかみてよ
考古学的見地だけじゃないでしょ
九州説はその考古学的見地すら無視してるし

358 :日本@名無史さん:04/09/18 01:41:27
>354
ダメ。まず1世紀まで上げる学者がいない。

九州と畿内が統一された時点(庄内期の始まり=2世紀末〜3世紀初頭)
では、古墳規模、古墳数などからあくまで畿内がトップで北九州は2番手。

しかもその時には鉄器の流通の広がり、墳墓の類似などから畿内と北九州
は政治的に統一されているとするのが定説。

それからマキムク型古墳と箸墓以降の古墳は特に断絶がないとされている。



359 :中学3年生@不登校児:04/09/18 01:43:06
では抽象的にこうしておきましょう。
4世紀前後に連合国家の中枢部である
大和国は九州から畿内へと移った。
そして大王はどっかの高貴な一族を
連れてきたか、卑弥呼の一族だったか
はたまた実力主義で選んだか、まあそんなとこかな。



360 :中学3年生@不登校児:04/09/18 01:45:10
>>357
筑紫の東ですか。宇佐ですね。
なんの問題もありませんw

361 :日本@名無史さん:04/09/18 01:47:19
>359
4世紀というのは昔の説。小林行雄とかの時代の話。
以下では上がって、早い人で2世紀末、遅い人で3世紀前半としている。
崇神初代大王説というのは昔の年代感では通用しても今では通用しない
説。



362 :中学3年生@不登校児:04/09/18 01:47:53
>>358
では2世紀の倭国大乱に呆れ果てて
九州から畿内へ引越ししたのが神武一族
だったのでしょうw

363 :日本@名無史さん:04/09/18 01:50:00
佐なんてなんの遺跡もない。
考古学的には0点。
安本の上げている川添遺跡の方がまだまし。
これも全然駄目だが。

364 :中学3年生@不登校児:04/09/18 01:50:22
>361
歴史学界は権威がある人が黒だといえば
本当は白くても、みんな黒だと言ってしまうのですねw


365 :中学3年生@不登校児:04/09/18 01:52:22
遺跡遺跡といいますが、
2000年近くも昔のものが
完全に残ってるとは限らないでしょ・・
残ってるほうが奇跡だと思いますが・・

366 :日本@名無史さん:04/09/18 01:58:09
>365
なことはない。
鉄器などはともかく青銅器などは比較的よく残る。
宇佐というのは考古学的に真空地帯だから論外。

367 :中学3年生@不登校児:04/09/18 02:01:43
まあやはり、普通に考えて
3世紀は九州のみの諸国連立の宗教国家だったのに
4世紀には西日本全域に渡り、最も力の強かった
畿内神武一族を中心とした連合国家に変貌していったと
考えればOkでしょ。すなわち連合国家の中枢部のことを
邪馬台国=大和国と言ったのですね。

368 :中学3年生@不登校児:04/09/18 02:04:03
>>366
宇佐神宮をお忘れなく。
あれこそ考古学的に、邪馬台国が
宇佐にあったことを証明していますよ。
もう書くのも疲れてきたので詳しくは
井沢元彦氏の「逆説の日本史第1巻」を
読んでみてください。

369 :日本@名無史さん:04/09/18 02:04:38
相変わらず権威ない考古学学会の錦の御旗を振りかざして、
論理的な説明なしに、畿内説を押し付けようとする輩がいるな。

370 :日本@名無史さん:04/09/18 02:06:27
>368
井沢なんて電波だろ。学者じゃないから論外。

371 :中学3年生@不登校児:04/09/18 02:09:32
だから畿内説はありえないと言ってるでしょw
もし畿内説を採るとしたら倭人伝の信憑性にも
疑いを向けてることになりつまるところ、邪馬台国の
存在自体疑問視してるってことですよ。

372 :中学3年生@不登校児:04/09/18 02:10:31
>>370
高木なんとかって人も言ってたきがします。

373 :中学3年生@不登校児:04/09/18 02:13:00
卑弥呼と神武のつながりってあったんでしょうか?

374 :日本@名無史さん:04/09/18 02:36:32
>>341-373
中学3年生@不登校児=宇佐基地外の自演かよ。( ´,_ゝ`)
「w」を多用することもそっくりだ。

375 :日本@名無史さん:04/09/18 02:42:46
卑弥呼の100年後が神武の時代だが、神武は王様ではないただの軍人。
東侵して、畿内の小領主となった。

376 :日本@名無史さん:04/09/18 02:44:39
畿内は交易立国。大阪などは江戸時代も天下の台所だった。
畿内がやられたのは、天武の乗っ取りによる。

377 :日本@名無史さん:04/09/18 02:52:22
>>375
神武東遷があったとしても卑弥呼の時代よりずっと前だな。
卑弥呼は8代孝元天皇の妹であるヤマトトトヒモモソヒメ(箸墓)に比定すべき。
初期天皇陵の比定地に目立った古墳がないのは、弥生墳丘墓の時代だったからだろう。

378 :日本@名無史さん:04/09/18 02:53:46
>>376
年代もめちゃくちゃで支離滅裂な池沼だな

379 :日本@名無史さん:04/09/18 03:09:25
>>374
俺は宇佐を主張してきたが、wなど1度も使ってない。
中学生とは別だ。
それにしても、>>377はあれだけ矛盾を突いたにもかかわらず
相変わらずだな。

380 :日本@名無史さん:04/09/18 03:20:52
それから、宇佐神宮以外にも赤塚古墳をはじめとする古墳群。
(あなたの好きな鏡も出土している。)
中津や行橋周辺には更に古い横穴墓群が存在している。
考古学的に真空という自体、何も知らないな。
宇佐八幡の前身とされる中津薦神社は、古代渡来人らが中心に
作ったと考えられる灌漑用溜池を御神体としている。
地名にしても耶馬渓、山国(邪馬国)、京都郡、三毛(御毛)、
豊(台与)の国をはじめ名残と思われるものも沢山ある。
そして、宇佐神宮と卑弥呼の墓の類似性は述べたとおり。

381 :日本@名無史さん:04/09/18 03:28:30
>>380
宇佐については、この文章が良く言い表しているな。

98 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:04/09/14 21:49:08
宇佐は、九州諸国の中では、いち早く畿内=前方後円墳体制に参加した国という事
で、昔より畿内との交流が深い地域だったと思われる。
ただ、邪馬台国やら初期大和朝廷の故地とか、全てを宇佐に持ってこないと気に入らない、
その妄執は、正直気味が悪い。
大分県出身の人ですか?
宇佐神宮には、本来、比売大神という土着神が祀られていて、後世、応神や最新の
仏教を取り入れて、霊威ある社として尊崇を集めた、でいいのでは?

382 :日本@名無史さん:04/09/18 03:30:49
高句麗や百済の王墓を見ても、九州の装飾古墳などの方が、その規模なども
整合性がとれている。
やたらと巨大古墳をつくっている近畿・吉備はちょっと異様すぎ。


383 :日本@名無史さん:04/09/18 03:31:14
>>379
宇佐基地外の「25歳♂投馬国王の子孫」は「w」を使いまくっているぞ。
過去ログを読み直してみろ。

384 :日本@名無史さん:04/09/18 03:34:50
>>382
> やたらと巨大古墳をつくっている近畿・吉備はちょっと異様すぎ。

卑弥呼の墓が異様に巨大だったからこそ、魏の使者の報告書に記載されたし
それに注目して三国志の編者も採用したわけだ。
仁徳天皇陵を見たときは、平野の真っ直中にそびえる余りの巨大さに驚いた。

385 :日本@名無史さん:04/09/18 03:49:12
>>384
卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩

作大冢 ではありませんね。つまり「大」は「作」にかかっているわけで
「盛大に」といったニュアンスで読むべきものですね。

386 :日本@名無史さん:04/09/18 03:59:36
>>385
はぁ?「大作冢、徑百餘歩」だから
直径120m以上の塚を作ったと報告しているだろ。
陳腐な規模なら、三国志編集者の目に止まらずにスルーされる。

387 :日本@名無史さん:04/09/18 04:05:41
大作冢の日本語訳は「大いに冢を作る」ですから、盛大に冢作りがされた、
という理解でいいと思います。
むしろこの部分は「葬儀」のことも含め、「埋葬」が盛大に行われた、といった
ニュアンスだと思います。
倭人伝は卑弥呼の死について述べるより以前に、倭人の葬儀風習について詳しく
述べています。そのあと卑弥呼の死のところで「大作冢…」とあるわけですから、
この今述べられた風習で、「盛大に」葬儀が行われ、卑弥呼は埋葬された、と読者は
理解するはずなのです。

388 :日本@名無史さん:04/09/18 04:06:42
>>386
120mなら「墳」ですね。

389 :日本@名無史さん:04/09/18 04:06:56
>>387
その次に規模が書かれているだろ、誤魔化すなよ。

390 :日本@名無史さん:04/09/18 04:08:49
>>388
意味不明。「冢=塚」であり「徑百餘歩」と具体的な規模も書かれている。
年代・規模・伝承ともに箸墓が相応しい。

391 :日本@名無史さん:04/09/18 04:10:39
>>386
倭人伝は、倭人の葬儀風習として
「其死、有棺無槨、封土作冢…」
と述べています。その後、卑弥呼の死のところで、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩」
と述べているわけですから、
「普通の倭人の葬儀よりも、盛大に行われた」と理解するのが自然です。
著者はここで「作冢」と「大作冢」と、書き分けているのですよ。

392 :日本@名無史さん:04/09/18 04:11:42
>>390
「徑百餘歩」なら、直径30M程度の規模ですね。

393 :日本@名無史さん:04/09/18 04:14:04
>>390
冢と墳の区別がつかないのね。
中国ではハッキリと使い分けているですよ。

394 :日本@名無史さん:04/09/18 04:17:47
>>392
基地外は逝ってよし。
「歩」は度量衡としては全時代を通じて120-160cmの範囲に入っている。
実測なら身長160-170cmで「歩」は約120-140cmになる。

395 :日本@名無史さん:04/09/18 04:19:30
>>393
冢も墳も意味は似たようなものだ。
「徑百餘歩」と規模も書かれている。

396 :日本@名無史さん:04/09/18 04:19:57
>>394
「周髀算経」という後漢〜魏代の書物により、魏代の1里=76〜77メートル
であることは証明されている。
つまり1歩=約25pである。

397 :日本@名無史さん:04/09/18 04:20:52
>>394
http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page003.html

398 :日本@名無史さん:04/09/18 04:23:48
>>396
でたらめな解釈で捏造するな。>古田信者の基地外

399 :日本@名無史さん:04/09/18 04:24:26
>>394
韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里

韓国が「方四千里」なんだから、計算しても
>「歩」は度量衡としては全時代を通じて120-160cm
なんてことはありえない。このスレでもさんざん論破されてきたこと。

400 :日本@名無史さん:04/09/18 04:28:26
>>398
全然反論になってませんね。
しかし「周髀算経」については谷本茂氏がそこに書かれている里単位を解読し、
さらに難波氏によって追計算がなされ、谷本氏の計算の正しかったことも
実証されています。

401 :日本@名無史さん:04/09/18 04:34:14
さらにだめ押し。

至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里

壱岐が「方三百里」と書かれているわけですから、
1歩=120-160cm なんてことはありえませんね。

402 :日本@名無史さん:04/09/18 04:36:03
>>400
そんな妄言は通用しない。
中国では各時代の度量衡の標準が出土しており
魏の時代の尺は23cm前後と確定している。

「中国古代度量衡図集」 ISBN:4622014718

403 :日本@名無史さん:04/09/18 04:38:14
基地外古田信者は中国の度量衡さえ改竄する。
偽書を宣伝してきた古田の信者らしいことだな。

404 :日本@名無史さん:04/09/18 04:39:01
>>402
じゃあ、魏志韓伝・倭人伝の

韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里
至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里

について、どう解釈するのかな?
その出土した「魏の時代の度量衡」なるものが間違っている、とは
考えられないのかな?


405 :日本@名無史さん:04/09/18 04:40:10
反論できないと、すぐに「古田信者」などと言うからな。
そう言えば反論になる、とでも思っているのかな?

406 :日本@名無史さん:04/09/18 04:49:57
>>402
>魏の時代の尺は23cm前後と確定している。

魏代の短里でも、1尺の長さに変化はない。
問題は 6尺=1歩 と秦の始皇帝が定め、前漢・後漢が継承してきた
この里(歩)単位を、魏晋朝は破棄して、周代の「短里」に戻したのではないか、
ということ。

407 :日本@名無史さん:04/09/18 05:07:16
>>406
基地外は「歩」の本来の意味も無視して妄言を吠える。
歴史時代を通じて1歩は5〜6尺となっている。

408 :日本@名無史さん:04/09/18 05:12:25
>>407
六尺=1歩 と定めたのは秦の始皇帝。
これはまぎれもない事実なのだ。

つまり、「それ以前は違うかった」のである。

409 :日本@名無史さん:04/09/18 05:49:06
>>408
それ以前の定義が不明なら戻せないだろ、基地外

410 :日本@名無史さん:04/09/18 05:51:48
>>409
不明じゃないよ。
周代の里単位がわかる書物は、なにも「周髀算経」だけじゃないし。

戦国策に出てくる里単位は、「短里」でないと解釈不能だしね。

411 :日本@名無史さん:04/09/18 05:58:12
「史記」秦始皇第六には以下の記述がある。
始皇帝以降は1歩=5〜6尺で、それ以前は6.4〜8尺だったりする。
どちらにしろ尺より遙かに大きな単位で、基地外古田信者はアウト。
【禮記王制曰「古者八尺為歩」,今以尺六尺四寸為歩,歩之尺數亦不同.】

412 :日本@名無史さん:04/09/18 06:10:48
>>411
その注釈の「今」はいつ?

413 :日本@名無史さん:04/09/18 06:16:31
>>411
そりゃ唐代の注釈だろ


414 :日本@名無史さん:04/09/18 06:24:56
>>413
そうだったか。
どちらにしろ歴史時代を通じて、歩>>尺は変わらない。

415 :日本@名無史さん:04/09/18 06:26:13
結局、歩=5〜8尺の範囲に入ると言うことでFA

416 :日本@名無史さん:04/09/18 07:02:37
>>383
>宇佐基地外の「25歳♂投馬国王の子孫」は「w」を使いまくっているぞ。
彼のことか?しかし、彼の意見は宇佐とは限らず、右往左往しているようだが。

417 :日本@名無史さん:04/09/18 07:04:05
>>386
>直径120m以上の塚を作ったと報告しているだろ。
宇佐神宮の亀山もそれくらい優に超える。

418 :日本@名無史さん:04/09/18 07:07:29
>>416-417
sage厨房か。盛土の大きさだぞ、この時代だと箸墓くらいしか合わない。

419 :中学3年生@不登校児:04/09/18 07:18:45
私は中学3年生ですよ。
結論はだいたい出てるからもういいでしょ。
神武東征は卑弥呼の時代よりももっと前ですよ。

420 :日本@名無史さん:04/09/18 07:26:25
>sage厨房か。
幼稚な反論だな。

中国では冢(ちょう)と古墳は区別されており、冢はいわゆる高塚古墳
ではないと言われている。
「径百余歩の冢」も、魏の薄葬にならい、自然の丘陵を利用して頂上部分
に手を加えた可能性が高い。
宇佐神宮の亀山の頂上は、北麓の菱形池を掘った土で盛ったと伝承されて
おり、これだけで径百余歩に相当。さらに、その下の自然の丘陵を含めると、
大規模な古墳となり、女帝卑弥呼の墓にふさわしい。

421 :中学3年生@不登校児:04/09/18 07:28:29
考古学では完璧に年代測定ができるものなのでしょうか?
考古学に絶対の信頼をおくのは僕はあまり好きではありません。

422 :中学3年生@不登校児:04/09/18 07:32:13
結局倭人伝に書かれてる邪馬台国までは12000里という
記述がすべてを著してるように思えますが・・・
なぜここまで議論が長期化するのでしょうか?
中国では歴史を記すことは極めて厳格なので信頼するに
値すると思います。畿内説に拘泥する方々はおえらい学者様たちの
権威主義に洗脳されてるだけですよ。目を覚ましてください。
日本人は集団体質なので権力や権威に弱いですからね・・

423 :日本@名無史さん:04/09/18 07:32:14
さて、マキムクを根拠にする畿内説だが、埋葬施設、人骨、副葬品は
出土したのかな?
これさえなければ、古墳とさえ言い切れないが。


424 :中学3年生@不登校児:04/09/18 07:34:40
マキムクは神武が東征して作った国でしょ。
大和朝廷はその神武の子孫が中心となった
西日本連合国家の首都。

425 :中学3年生@不登校児:04/09/18 07:38:31
畿内と九州の古墳が同時代に同じ系列のものが
あるのは、九州の神武が東征したからです。

426 :日本@名無史さん:04/09/18 07:48:11
巻向を古墳と思っている人がいるのか?

427 :日本@名無史さん:04/09/18 08:04:22
>>421-422
そのとおり。
畿内説論者は、大和朝廷が奈良にあったということと、巨大な古墳が
ある、鏡が沢山出土しているということのみで、他の矛盾は一切無視
している。
まず畿内説ありきで、他の説を頭から否定し、他所に可能性があり
しかも、矛盾なく符合していても、訳のわからない理屈をこねて否定。
古墳の古さも、同じ様式の土器があるところから出土したからとして
他所に出土したものが同時代のものとは言い切れない。
なぜなら現在と違い、文化の伝播は数十年、もしくは100年単位でかか
っている可能性もあるから。したがって、古墳の古さに絶対はない。
近年の某権威者のいんちきのより、石器時代が何百年もずれたように
意図的なものも否定できないし、他の要因でずれる可能性も大いに
ありうる。


428 :日本@名無史さん:04/09/18 08:25:37
>>427
俺も九州にあってほしいとは思うけどさ、
そんなに畿内説を罵倒して一体何になるんだ?
「まず畿内説ありき」って言うけど、「まず九州説ありき」
には絶対になっていないと言えるのか?
「まず九州説ありき」と思っているからこそ
「訳のわからない理屈をこねて否定」されていると思うのではないか?

邪馬台国は宇佐だと思うけどさ。

429 :日本@名無史さん:04/09/18 09:00:39
アメリカで発見された伊勢神宮の伊能図
http://www2s.biglobe.ne.jp/~auto/ise.html
同奈良
http://www2s.biglobe.ne.jp/~auto/nara%20city.html

430 :日本@名無史さん:04/09/18 09:04:21
>>422
> なぜここまで議論が長期化するのでしょうか?

考古学者・古代史学者の中では畿内で結論がついている。
ごく一部のドキュソな一般人と著述業で儲ける香具師らが騒いでいるだけ

431 :日本@名無史さん:04/09/18 09:42:19
>それから、宇佐神宮以外にも赤塚古墳をはじめとする古墳群。
>(あなたの好きな鏡も出土している。)
>中津や行橋周辺には更に古い横穴墓群が存在している。
>考古学的に真空という自体、何も知らないな。

全然意味なし。赤塚古墳は布留期で、2世紀後半以降。
布留期の古墳なんてのは北九州はおろか他にも数十ある。
横穴式なんてのはもっと後で論外。
北九州で庄内期と推定される古墳は、那珂八幡と津古生掛のみ。
邪馬台国ではあり得ないし、邪馬台国の前身でもない。
古墳の編年くらい勉強しろ。


432 :日本@名無史さん:04/09/18 09:44:25
考古学では既に終わった九州説が2ちゃんえらーに人気なのはなぜでしょうか?
キティガイ井沢や安本がデマをとばしているからでしょうか?


433 :日本@名無史さん:04/09/18 09:52:44
>巻向を古墳と思っている人がいるのか?

思っていない学者はいない。

434 :日本@名無史さん:04/09/18 10:04:09
そもそも「頭の固い権威にしばられた学会」っていうけど
研究してる人に失礼だぞ
新書とか「歴史読本」とか読んでたってなんの意味もない
ああいうのはいい加減に書いてるしな
430の言うとおり
論争なんてない
未だに新聞だの雑誌だので九州説は云々とかいってるだけ

435 :日本@名無史さん:04/09/18 10:04:47
このスレッドには小林恵子と某国工作員、西都厨=古田信者=アズマ
の立ち入りを禁止します。

(西都厨=古田信者=アズマ隔離スレッド)
九州王朝はなかったのか?※ 9
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1081624257

(小林恵子と某国工作員隔離スレッド)
【古代史電波】小林恵子の妄想を語ろう
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087908201/l50
朝鮮人が日本を作った可能性は
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1057493325/l50
















436 :日本@名無史さん:04/09/18 10:25:04
頭が固い学会というのは井沢とか安本とがが言ってるだけだろ。
k研の研究者なんか土器編年なんか変えまくってみんな困ってるじゃん。
同じ研究所出身で違う編年だしてるしさ。むしろ柔軟すぎだよ。

だいたい井沢とか安本って京大系阪大系の一部の学者が唱えているにすぎない
△魏鏡説とか弥生期鉄器普及説をあたかも考古学者全員が唱えているかのよう
にデマをとばして素人を騙そうとしてるわけでやり方が汚いよね。


437 :日本@名無史さん:04/09/18 10:31:35
桜井市で決着ついてるのに

438 :日本@名無史さん:04/09/18 10:37:26
鏡は中国製でしょ
あの時代に日本にそのような鏡をつくるような技術はない

439 :日本@名無史さん:04/09/18 10:46:20
結局、卑弥呼の墓は30mぐらいなんだよ。箸墓じゃない。
マキムクも魏志倭人伝の記述に全然合わない。
畿内説は破綻してるんだよ。

金印と阿蘇山は、畿内にないだろ。


440 :日本@名無史さん:04/09/18 13:22:19
>>422
当時の中国で現実に使われていた度量衡だと、
「魏志倭人伝」などの、魏志東夷伝諸国の地理が
あまりにも現実離れした地形になってしまうため、

「そんな地形菜はずはない、度量衡が間違っている」と、
測定能力(他国で測量できるという盲信)過信、または、
地図は国家機密で他国に漏らさないということも知らない、

いささか現代の常識に汚染されすぎた人の奇妙な反論により、
議論が巻き戻ってしまうから決着しないのです。

実在しなかった度量衡を偽作する、
>>439 の例が典型。


441 :日本@名無史さん:04/09/18 14:37:20
>>440
はあ?度量衡はあんたが決めるんじゃないんだよ。
魏志でどうだったかを、科学的に判定することが大事なの、ワカル?

442 :日本@名無史さん :04/09/18 16:38:44
『旧唐書(くとうじょ)』に、こんなふうに書いてある。
「日本国は倭国の別種なり。その国、日辺にあるをもって、ゆえに日本をもって名となす。
あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと」

443 :日本@名無史さん:04/09/18 18:00:44
学会が畿内説で決着ならば、
ここまで一般人の関心事なんだからさ、
九州その他の電波説を完膚なきまでに叩きのめす
本なりメディアを出して社会に還元して欲しいとおもうなあ。



444 :日本@名無史さん:04/09/18 18:37:38
>>438
もっと前の時代に巨大で立体的な銅鐸を作る技術があったし
前原弥生古墳では直径40cmもある巨大な銅鏡を作っている。

技術的には楽勝だったが、飛鳥時代より以前は銅の生産がなかったので
中国から原料を得ないと作れなかった。

皇朝十二銭は末期になると銅原料が枯渇して鉛銭になってしまっている。
平清盛が宋銭を大量に輸入して流通させたのを思い出す。

445 :日本@名無史さん:04/09/18 18:38:27
>>439
基地外は低脳コピペを繰り返すなよ

446 :日本@名無史さん:04/09/18 18:42:27
>>445
妄想畿内説の脊髄反射、ご苦労さん

447 :日本@名無史さん:04/09/18 18:43:15
>>443
一般向けには邪馬台国の場所をあいまいに言っておいて
畿内以外でも卑弥呼ネタで遺跡発掘を盛り上げようと言う邪念が
考古学者の側にもあったりするから、息の根を止めないのだと思われ。

旧石器捏造で考古学者への不信感が高まっただけに
ご都合主義なことを続けているとますます不信感を持たれそうだ。
そろそろ一般向けにも邪馬台(ヤマト)国は畿内だと最終宣言をすべき。

448 :日本@名無史さん:04/09/18 18:46:20
>>447
>そろそろ一般向けにも邪馬台(ヤマト)国は畿内だと最終宣言をすべき。

ますます不信感を持たれてどうすんの。

449 :日本@名無史さん:04/09/18 18:48:44
いい加減皇国史観はやめよう
邪馬台国はジャワにあったの。

450 :日本@名無史さん:04/09/18 18:51:30
ここで「度量衡」なんてのを持ち出すヤツいるけど、度量衡で判明することは
「尺」だけなんでしょ?

6尺=1歩 の概念が論議の焦点なんだから、尺の長さしか判明しない度量衡など
持ち出しても無意味なんじゃないの?

451 :日本@名無史さん:04/09/18 19:02:05
>>450
中国の歴史を通じて、1歩=5〜8尺だから大いに意味があるだろ。
古田とその信者は中国の度量衡も改竄するドキュソだと分かる。

452 :日本@名無史さん:04/09/18 19:05:04
>>451
古田はもはや関係ないでしょ。
短里説はすでに確立されたと言える。

453 :日本@名無史さん:04/09/18 19:06:39
>中国の歴史を通じて、1歩=5〜8尺だから大いに意味があるだろ。

その前提がすでに崩れてるから問題なんだよね。
6尺=1歩は始皇帝が「強引に」決定した制度。

454 :日本@名無史さん:04/09/18 19:09:26
>>453
前提など崩れていない。「中国の歴史を通じて、1歩=5〜8尺」だ。
捏造体質の古田が度量衡の記事でないものを歪曲して使おうと
醜態を晒しているだけ。

455 :日本@名無史さん:04/09/18 19:09:43
>>451
「戦国策」の里単位をすべて調べてみな。

そこに登場する「すべての里単位」は、 1里=400m以上の長里を証明できる
事例は1例もない。
が、1里=74m〜90mの「短里」を証明する事例は豊富に存在する。

456 :日本@名無史さん:04/09/18 19:12:24
>>455
目で見て分かる「歩」の話をしているのに
「里」の話にそらす改竄体質が、古田信者らしいな。

457 :日本@名無史さん:04/09/18 19:16:22
>>456
目で見てわかる「歩」の話?
1歩=30p弱の方が、ずっと自然にかなった「1歩」ですよ?
たとえ1歩=ふたまたぎ120p強だしとても、ひとまたぎ60p以上。
正直、こんな1歩で歩き続けるのは不自然。まして行軍など不自然を通りこして
滑稽ですらある。

458 :日本@名無史さん:04/09/18 19:23:25
>>456
「歩」が距離を測るための単位である以上、「測量のしやすさ」が大前提。
なにより長距離を「歩き続けられる」歩幅が自然の一歩です。

偶然なのかどうかわからないが、旧日本陸軍は行軍の際、「歩数」でもって
行軍行程を測ることを常としていた。今に残る「行軍風景」の映像を見るかぎり、
一歩が60pもあるようにはとても見えない。せいぜい30p程度である。

459 :日本@名無史さん:04/09/18 19:31:52
ついでに、曹操が「短里」を採用した理由は、よくわかる。そもそも曹操は
「実用性」を最も重んじた人で、たとえ「嫂と密通した人物」であっても才能が有れば
登用するように、と命令していたほど。逆に孔融のように「弁は立つけど実務はダメ」と
いう人物は大嫌いだった。
そんな曹操であるから、1歩=120pなどという、軍人にとって使いにくい単位など
すぐにでも改革してしまいたかったはずなのだ。
陳寿は「古聖を重んじ…」などと美辞麗句を言ってはいるが、実際、曹操は
「実利を以て貴し」と考えて里単位の改革を断行したと思う。

460 :日本@名無史さん:04/09/18 19:35:35
>>458
> 一歩が60pもあるようにはとても見えない。せいぜい30p程度である。

基地外か、伊能忠敬の話は有名だぞ。
中国の「歩」は左右セットだから69*2=138cm

伊能忠敬は歩数で距離を測っていました。忠敬の一歩は69センチ。
同じ歩幅で歩き続けるって大変そうですが、かなり正確だったようです。
他にも間縄(けんなわ)という巻尺のような道具も使っていました。
http://www.1350.jp/gogo1/yori/040602.htm

461 :日本@名無史さん:04/09/18 19:38:28
>>459
>思う

この最後の二文字がすべてを物語ってるな。

462 :日本@名無史さん:04/09/18 19:42:10
実証的にいえば、魏志の1歩は25cmだな。

463 :日本@名無史さん:04/09/18 19:42:53
>>460
伊能忠敬は一人で歩いたんでしょう。
(あるいは走ったことも考えられる)

制度としての「歩」である以上、軍隊などによる「行軍」が前提ですよ。


464 :日本@名無史さん:04/09/18 19:43:22
>>462
基地外乙

465 :日本@名無史さん:04/09/18 19:44:58
このスレッドには小林恵子と某国工作員、西都厨=古田信者=アズマ
の立ち入りを禁止します。

(西都厨=古田信者=アズマ隔離スレッド)
九州王朝はなかったのか?※ 9
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1081624257

(小林恵子と某国工作員隔離スレッド)
【古代史電波】小林恵子の妄想を語ろう
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087908201/l50
朝鮮人が日本を作った可能性は
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1057493325/l50


















466 :日本@名無史さん:04/09/18 19:45:22
>>460
とりあえず自分の足で「長距離」を歩いてみることをお薦めする。
ひとまたぎ60pで歩き続けることのしんどさを実感してみなはれ。

467 :日本@名無史さん:04/09/18 19:48:00
>>463
違うぞ、基地外。数人で歩いて、それぞれの歩幅と歩数から得られた距離を照合して
ミスって飛び離れた数字をはじいて、誤差を小さくするように努めた。
それ以外に山など目標物の方位角や緯度を測定することにより
誤差が累積しないようにと細心の注意を払ったから、あれだけ正確な地図が作れた。

468 :日本@名無史さん:04/09/18 19:48:01
このスレでは
「短里説」については多くの論証がなされているけれども、
「調理説」はまるで論証がなされていないじゃないの。
>>464よ、とりあえず自分で論証してみろよ。

469 :日本@名無史さん:04/09/18 19:58:13
>>466
歩測のチャンピオン伊能忠敬の例も挙げているのに、基地外はどうしようもないな。
実際に歩測を数えた人の話とかもあるぞ。
http://www2.ocn.ne.jp/~isone/hosaka/nanba/1/nanba1.htm

470 :日本@名無史さん:04/09/18 19:59:13
>>468
今の話は「歩」についての議論だ。「里」ではない。

471 :日本@名無史さん:04/09/18 20:00:07
>>467
それでも「数人」でしょうが。しかも最初から「測量」のみが目的の。
「行軍」とはわけがちがう。行軍はあくまで軍団の移動が目的であり、
その距離を測るということは、軍団の「現在地」や「行軍日程」などと
大いにかかわりあること。
古代中国における「里単位」の制度が、第一に「軍団の行軍」を基準にして
制定されたこと、当然でしょう。

邪馬台国にやってきた帯方郡使だって、ただ「郡使。副使」などだけがトコトコと
倭国へやって来たのではない。たとえ小さくとも(小隊・中隊規模であっても)
必ず「軍団」を形成して行軍し、その中の兵たちが「歩数」を記録し、それを元に
あの行程文が書かれたはずなのだ。

472 :日本@名無史さん:04/09/18 20:00:43
このスレッドは以後、

「かわいそうなプロ市民九郎に日本史学習法を教えるスレ」

に変わりました。




473 :日本@名無史さん:04/09/18 20:01:21
古田信者もういいから、隔離スレッドに行け

474 :日本@名無史さん:04/09/18 20:03:25
四川省の戦国墓(戦国の七雄の一つである秦の時代)から出土した木牘(もくとく=
木簡)によれば、阡陌(せんぱく=あぜみち)の幅が3歩と記されております。これを
上記の歩(長歩)で考えると4メートル以上の幅となり畦道としては広すぎると思われ
ます。  通常あぜ道は人が一人通れる程度と考えれば80センチメートル弱で十分
と思われます。このことは、1歩が25センチメートル程度の短歩の存在を示唆してい
ると考えられます。

475 :日本@名無史さん:04/09/18 20:03:53
>一般向けには邪馬台国の場所をあいまいに言っておいて
>畿内以外でも卑弥呼ネタで遺跡発掘を盛り上げようと言う邪念が
>考古学者の側にもあったりするから、息の根を止めないのだと思われ。

たとえば、森浩一とかな。

476 :日本@名無史さん:04/09/18 20:04:55
>>471
基地外はお前の数字が全く間違っていることを認めろよ。
伊能忠敬という歩測のチャンピオンが物語っている。
卑弥呼の墓(箸墓説が有力)を歩測した魏の使いを思い浮かべろ。

477 :日本@名無史さん:04/09/18 20:06:47
>>476
ザンネンでしたね。実際に出土した「短歩」の例がここにカキコされたようです。
>>476さん、負けを認めてくださいね。

478 :日本@名無史さん:04/09/18 20:07:15
「戦国策、韓一」に強い弓に関して、天下の強弓は六百歩の外を射る、という記述が
あります。天下の強弓は六百歩以上の射程があると言っているわけです。弓といっ
ても日本の弓とは異なり、現在の洋弓に近い形のものですが、これを長歩で考える
と射程が900メートル以上となり、いくら強弓といっても現実離れの観がします。何よ
りも900メートルも飛ぶとなれば、滞空時間が長すぎて容易に身をかわすことが出来
るため、弓で射る意味をなさないと思われます。これが短歩であれば160〜170メート
ルとなりまさに強弓の名に値すると思われます。因みに日本の弓場(的場)は古来、
約76メートルで変わっていないそうです。約76メートルといえば短里の長さです。これ
を単なる偶然とは思いにくいのですが、それはともかく、短歩の存在を考えないと上
記二つの例はすんなり理解が出来ないようです。従来からわかっている「里」と「歩」
の関係とは別に、「短歩」と短歩に基づく「短里」の系統があったことは疑えないよう
に思います。

479 :日本@名無史さん:04/09/18 20:08:49
>>468
中国国家計量総局主編の『中国古代度量衡図集』という本がある。
中国で編集されたものだが、みすず書房から邦訳が出ている。

この本は、これまでに出土した度量衡の出土資料の写真が集められている。
巻末には、一覧表もある。

そして、この中には「短里」系になるものは何一つとしてない。

古代中国の度量衡は、このような出土資料ですでに中国において証明済み。
日本のアマチュアがゴタゴタ騒いだところで変わるようなものではないのだよ。

480 :日本@名無史さん:04/09/18 20:09:17
>>476
さあ、反論をどうぞ。
出来なければ負けを認めたとみなしますよ。

481 :日本@名無史さん:04/09/18 20:12:11
>>479
度量衡には「歩」「里」を示すものはないはずですよ?
あるのは「尺」だったはず。
尺については、後漢代も魏代も大差はない、と「短里説」論者も述べています。
ようは6尺=1歩 という秦の制度を、曹魏が採用したか、それとも廃棄したか、
ということなのです。

482 :日本@名無史さん:04/09/18 20:17:17
>>479
そこに書かれている「歩」「里」については、6尺=1歩から換算された
いわゆる「度量衡換算表」だけどね。

483 :日本@名無史さん:04/09/18 20:17:52
>>474
阡陌を発掘した結果を示してから言え、基地外。

ちなみに古代日本の街道は、江戸時代から推測して狭いと想像する人が多かったが
中国の立派な街道に対抗して、律令時代に幅10m以上の直線道を全国に張り巡らせた。
分不相応とも言うべきもので平安末期には全く寂れてしまった。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9974204895

484 :日本@名無史さん:04/09/18 20:19:22
長里説支持派の人たちは、「短里説」についてもっとよく調べろよ。
ハッキリ言って論戦にすらならないレベルだよ。
度量衡なんて、また「古くさい物」を持ち出してさ・・・

485 :日本@名無史さん:04/09/18 20:20:17
>>484
「歩」についての議論から話をそらすなよ。>捏造体質の基地外

486 :日本@名無史さん:04/09/18 20:22:24
>>483
阡陌は街道ではない、「あぜ道」なのだよバカタレ。

487 :日本@名無史さん:04/09/18 20:23:17
>>486
こらこら、そのような「長里説論者」のような言葉遣いはつつしめ

488 :日本@名無史さん:04/09/18 20:24:27
>>485
出土した「度量衡」は「尺」であって、「歩」「里」などを示すものは一切ない。

これでいいか?

489 :日本@名無史さん:04/09/18 20:27:10
調理説の人、ちょっとオソマツすぎですよ

490 :日本@名無史さん:04/09/18 20:29:08
つまり1歩は約25cm。卑弥呼の墓は直径25m。
箸墓は卑弥呼と無関係。

491 :日本@名無史さん:04/09/18 20:29:58
>>488
中国の歴史時代を通じて、1歩=5〜8尺の範囲にあるから
「尺」の出土品から「歩」が計算できる。

492 :日本@名無史さん:04/09/18 20:31:57
基地外は破綻している九州説に拘泥しているから醜態を晒す。

安本も古田の偽書を暴いていた頃は威勢が良かったが
九州説に固執して醜態を晒しまくり。

493 :日本@名無史さん:04/09/18 20:34:32
>>491
だから、1歩=5〜8尺が、魏代では「違うんでないかい?」というのが
今まで短里説の人が述べてきたこと。
で、1歩=6尺 が、「秦の始皇帝」による新制度であって、それ以前は違っていたらしい
ということも、今まで散々に論証されてきたこと。
それについて、「長里説」の人からの、魏代の1歩=6尺 を証明する論証が
いっさいなされていないのですよ。

494 :日本@名無史さん:04/09/18 20:36:15
>>492

485 :日本@名無史さん :04/09/18 20:20:17
>>484
「歩」についての議論から話をそらすなよ。>捏造体質の基地外

これは「長里説」の人が私(短里説支持)に発した言葉ですが?

495 :日本@名無史さん:04/09/18 20:37:24
>>492
醜態を晒しているのは「長里説支持論者」の方のように見えますが?

496 :日本@名無史さん:04/09/18 20:38:41
長里説支持論者=邪馬台国が畿内にないと困る人
短里説支持論者=邪馬台国の位置にはあまりこだわりのない人

497 :日本@名無史さん:04/09/18 20:45:21
正直、ここで「短里説」を述べている人は、「九州説」「畿内説」などとは
無関係に論じていると思うぞ。

498 :日本@名無史さん:04/09/18 21:01:01
>>493
はぁ?始皇帝以前について1歩=8尺と言う説が紹介されているのだが。

「史記」秦始皇第六の注釈には以下の記述がある。
【禮記王制曰「古者八尺為歩」,今以尺六尺四寸為歩,歩之尺數亦不同.】

魏の度量衡に変更がなければ、史書に記載がないのは当たり前で
変わったと主張する側が示せないくせに、逆に求めるのは基地外らしい言い分だな。

499 :日本@名無史さん:04/09/18 22:33:48
>>498
「三国志」が同時代資料であることを忘れているのだろう。
この書物の読者は「西晋」の人たち。1歩が何尺にあたるのか、わざわざ記述など
されなくても、充分すぎるほどわかっているのである。


500 :日本@名無史さん:04/09/18 22:37:45
>>498
しかし、1歩=8尺 の実用例は、誰も紹介していませんね。

短里(短歩)の実用例は、このスレでも何度となく挙げられていますが?

501 :日本@名無史さん:04/09/18 22:54:57
>>498
安易に資料に飛びついてはいけません。
資料批判、実例をしっかりと確認してくださいね。
つまり「実証」をもとに「論証」し「資料批判」もしてください。

以前、私はその箇所の「譙周曰く」の注釈を引用し、「なぜ蜀朝の重臣であった
譙周が、そのようなことを述べたのか」ということまで突っ込んで説明しました。

>>498氏も、できれは、なぜそのような注釈文があるのか、あなたなりの考えで結構ですので
論じてみてください。

502 :日本@名無史さん:04/09/18 23:04:07
中国では冢(ちょう)と古墳は区別されており、冢はいわゆる高塚古墳
ではないと言われている。
「径百余歩の冢」も、魏の薄葬にならい、自然の丘陵を利用して頂上部分
に手を加えた可能性が高い。
宇佐神宮の亀山の頂上は、北麓の菱形池を掘った土で盛ったと伝承されて
おり、これだけで径百余歩に相当。さらに、その下の自然の丘陵を含めると、
大規模な古墳となり、女帝卑弥呼の墓にふさわしい。

503 :日本@名無史さん:04/09/18 23:24:43
しかし凄いなこのスレ。
学会が畿内説で決着という話があったけど
卑弥呼の墓は箸墓でほぼ合意されてるの?


504 :日本@名無史さん:04/09/18 23:33:03
「学会」というのがくせ者。
考古学では、畿内説しかおらんくらい、片寄ってる。

文献学では、畿内説は九州説に太刀打ちできないでいるんだけどね。

505 :日本@名無史さん:04/09/18 23:35:20
文献学と考古学を合わせても、やっぱり畿内説派が多いかな。

506 :日本@名無史さん:04/09/18 23:43:43
三国時代を専門にしてる中国の学者は
多いと思うんだけど、どういう意見なのかな?

東夷のことなんぞあんまり熱心にほじくってない?w


507 :日本@名無史さん:04/09/18 23:50:49
>506
そのうち、政治的に利用するんじゃないか?
今は、ダンマリカ。

508 :日本@名無史さん:04/09/18 23:51:23
文献史はほとんど手を引いてるというのが実情だな。

最近だと九州説の平野じいちゃんが「邪馬台国の原像」を出せば、
対抗して、畿内説の山尾じいちゃんが「古代王権の原像」を出してるが、
どちらも隠居じいさんで、古い自説を再論してるだけ。

文献史のほうからは最近はこのくらいだろう。
自称・・を除けば。

509 :日本@名無史さん:04/09/19 00:06:25
文献史学のほうでも畿内説だよ
ただ508のいうようにそもそも邪馬台国の話をする人は
最近では考古学でも文献史学でもあまりいないのかな

510 :日本@名無史さん:04/09/19 00:10:35
しかし短里を使えば吸収ということになるの?
今暑くやりあってるから気になったもので。
多分短里を使っても近畿が揺るがないから
近畿に決定されているんだと思うけど、どうなんだろう。
宇佐の亀山で吸収は玉砕となるのでしょうか。
百体神社とか説得力あるんだけどな〜
人骨が何体くらい出てるんだろう

511 :日本@名無史さん:04/09/19 01:00:16
畿内説の思い込みは
「箸墓=卑弥呼の墓」

ところが、卑弥呼の墓は100歩=約25mだから
          卑弥呼の墓≠箸墓

512 :日本@名無史さん:04/09/19 01:01:33
>しかし凄いなこのスレ。
>学会が畿内説で決着という話があったけど
>卑弥呼の墓は箸墓でほぼ合意されてるの?

なことはない。箸墓は布留0なので卑弥呼の死より少し後
という学者が多い。卑弥呼としている学者もいるが。
いずれにせよ学者に九州説はいないのは事実だが。


513 :日本@名無史さん:04/09/19 01:02:27
畿内説の思い込みは
「マキムク=邪馬台国」

ところが金印も阿蘇山も九州
さらにマキムクはある時代突然消えてなくなるから

         マキムク≠邪馬台国

514 :日本@名無史さん:04/09/19 01:19:45
>>511
まじかよ
それじゃ宇佐の亀山もアウトじゃん
宇佐だからこそ吸収説にロマンを感じるのに

515 :日本@名無史さん:04/09/19 01:29:13
>>510
短里での畿内説の説明は無理。

帯方郡から邪馬台国まで12000里に対し、伊都国(福岡県糸島郡)まで
10500里となっているから、短里にこだわらなくてもむりだが。

これを現実の地理に当てはめて、「1里=85〜90メートル」の短里で
記載されているのは明らか。
福岡から畿内まで、わずか1500里=130km位になってしまう。

516 :日本@名無史さん:04/09/19 01:30:47
この距離も福岡−宇佐間でほぼ一致。

517 :日本@名無史さん:04/09/19 01:32:46
>「学会」というのがくせ者。
>考古学では、畿内説しかおらんくらい、片寄ってる。
>文献学では、畿内説は九州説に太刀打ちできないでいるんだけどね

古田信者、恥ずかしいウソはつくな。

518 :日本@名無史さん:04/09/19 01:39:01
「隋書倭国伝」「旧唐書倭国伝」「新唐書日本伝」での倭国=日本の
領域を示した「東西五月行」は、九州西端〜日本アルプスの約800km、
「南北三月行」は、対馬北端〜九州南端の約440km。
倭国=日本の領域が日本アルプスまでということは、『旧唐書日本伝』
で言う「東界北界は大山有りて限りを為し、山外は毛人の国なり」。
よって、1日当り約5.1kmの「倭人の短日制」で示されており、
日数の問題も解決。

519 :日本@名無史さん:04/09/19 01:41:38
ガンダム

520 :日本@名無史さん:04/09/19 01:44:49
不弥国以降は倭人からの伝聞と考えられるから、日というのも
もともと倭の同音異句の単位であったものを、中国人が当ては
めただけかもしれないし、あるいは、荷物を運んで、食料を
探しながら旅をすると、実際は1日、5km進むのがやっとだった
のかもしれない。

521 :日本@名無史さん:04/09/19 01:48:11
ありもしない短里という仮想を存在すると吠える
古田とその信者の捏造体質には呆れる

522 :日本@名無史さん:04/09/19 01:58:16
>帯方郡から邪馬台国まで12000里に対し、伊都国(福岡県糸島郡)まで
>10500里となっているから、短里にこだわらなくてもむりだが。

この矛盾を畿内説ではどう説明する?
東に海の向こうに倭人の住む国があるか?
  豊前なら四国がある。
南に狗奴国に相当する史実上明らかな勢力があるか?
  豊前なら南に有名な熊襲が存在。南は東とする畿内説は
  熊野というかもしれないが、それなら、熊野は東にないと
  矛盾する。
更に南の海の侏儒国、更に裸国・黒歯国をどこに比定するのか。
  豊前なら、奄美、種子島、沖縄で説明がつく。

523 :日本@名無史さん:04/09/19 01:59:14
しかも、その距離は矛盾なく短里で説明可能。

524 :日本@名無史さん:04/09/19 02:04:32
>>521
都合が悪くなると、「古田信者」「捏造体質」としか
叫ばなくなるのはなぜですか?

525 :日本@名無史さん:04/09/19 02:06:24
九州王朝野郎、隔離スレッドにいけ

526 :日本@名無史さん:04/09/19 02:10:14
このスレッドには小林恵子と某国工作員、西都厨=古田信者=アズマ
の立ち入りを禁止します。

(西都厨=古田信者=アズマ隔離スレッド)
九州王朝はなかったのか?※ 9
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1081624257

(小林恵子と某国工作員隔離スレッド)
【古代史電波】小林恵子の妄想を語ろう
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087908201/l50
朝鮮人が日本を作った可能性は
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1057493325/l50


















527 :日本@名無史さん:04/09/19 02:12:37
そういや九州説って「短里説」「距離の誇張説」をとるのが特長で
最大の弱点はその誇張を証明できないこととあったな
あと特長は方角の「南」は正しいっていうのか

528 :日本@名無史さん:04/09/19 02:29:11
おいおい、
>帯方郡から邪馬台国まで12000里に対し、伊都国(福岡県糸島郡)まで
>10500里となっているから、短里にこだわらなくてもむりだが。
この矛盾も、まだ畿内説では説明でしょ?


529 :吸収キッズ:04/09/19 02:37:05
亀山って25メートル程度なの?

530 :日本@名無史さん:04/09/19 02:38:45
>>522
万二千里は女王国までの距離であって、邪馬台国までの距離ではない。
この女王国は魏略や広志などの逸文から奴国の誤写であるとわかる。
(正確には奴国→女国→女王国)
もし邪馬台国までの里数がわかっていたのなら里数で示せばいいのであって
日数で示す必要はなかったはず。

531 :日本@名無史さん:04/09/19 02:43:35
>>514
>>401
>壱岐が「方三百里」と書かれているわけですから、
>1歩=120-160cm なんてことはありえませんね。
など、1歩=25-30cm説は自分はなんともいえない。なぜなら、
「方」の解釈、面積とすべきか、周囲とすべきかなどいろいろな
説があり、しかも当時、正確な面積を把握していたとは言い切れ
ないから。
だから、歩は参考にとどめておくべきだと思う。
この点のみに関しては、宇佐はむしろ旧来の歩を採用しても矛盾ないので
畿内説どのと同様の見解である。

532 :日本@名無史さん:04/09/19 02:45:54
遙かに時代が下る隋書ですら、倭人は中国の里数を知らないとして
日数で国の大きさを示しているのに、三国志でトータルの里数が分かるはずもない。

「夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。」

533 :日本@名無史さん:04/09/19 02:47:38
>>530
???
>万二千里は女王国までの距離であって、邪馬台国までの距離ではない。
>この女王国は魏略や広志などの逸文から奴国の誤写であるとわかる。
>(正確には奴国→女国→女王国)
それは、ちょっと無理があるのでは内海?

534 :日本@名無史さん:04/09/19 02:54:48
お互い真実を突き詰めるために真摯になろうぜ。どっちが勝ち負けじゃなくてさ。
「知ってる奴」の特権階級意識には辟易するし、きっちり反論しないことが大杉。

偉そうにごめんなさいね。


535 :日本@名無史さん:04/09/19 02:54:56
>>532
倭人が知らなくても、魏使は知っていたんでしょう。
倭人伝自体は不弥国以降の距離は伝聞であると思うが、
イコール魏使が邪馬台国にいってないとは限らない。
倭人伝は、書写されて伝えられていくうちに、
魏使ではなく、その後の商人か誰かが付け加えたかも
しれん。

536 :日本@名無史さん:04/09/19 02:57:47
>>532
> 「夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。」

街道が整備された律令時代になると、行程はぐんと改善されて
「延喜式」によると、常陸国は上り30日下り15日、太宰府は上り27日下り14日で
荷物満載でも東西二月行、身軽なら東西一月行に短縮されています。

537 :日本@名無史さん:04/09/19 03:00:53
>>535
倭人が知らないものを、魏使が知るすべはありません。
隋書の時代ですら日数でしか分からない。
律令時代になると出雲国風土記に詳細な里数が記されている。

538 :日本@名無史さん:04/09/19 03:02:53
>>534
確かに、あなたのような見方を全く否定することはもちろん出来ません。
しかし、他の方角や、女王国を邪馬台国と置き換えて矛盾なく説明できる
ところを、敢えて、誤写とする説を採るのもどうかと思います。
この文章の前後では、明らかに女王は卑弥呼を指していますし。

539 :日本@名無史さん:04/09/19 03:10:17
>>537
それはどうかな?
魏使が実際に邪馬台国までいっていれば、それまでの経験で
その旅程が、大体何里に相当するか、把握できたでしょう。

540 :日本@名無史さん:04/09/19 03:24:27
>>534
>「知ってる奴」の特権階級意識には辟易するし、きっちり反論しないことが大杉。
スレを読み直していただきたいのだが、宇佐説を主張する自分は
目に入った反論には、ことごとく論破したつもりだが、それに対して
畿内説は、矛盾を無視して説明していないはず。

自分の信念とする宇佐説を主張するために、根拠を並べ、
それがあなたにとって、「特権階級意識」と映ったならば
誤るが、根拠を述べなければ、納得してもらえないと
言うことも分かってください。

541 :日本@名無史さん:04/09/19 03:26:44
それから、分かりやすいように宇佐説と書いているが、
厳密にいうと豊前説です。

542 :日本@名無史さん:04/09/19 04:42:50
>>539
陸路はともかく海路は全く推定不能だろ

543 :日本@名無史さん:04/09/19 04:44:41
この発言で尽きている

98 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:04/09/14 21:49:08
宇佐は、九州諸国の中では、いち早く畿内=前方後円墳体制に参加した国という事
で、昔より畿内との交流が深い地域だったと思われる。
ただ、邪馬台国やら初期大和朝廷の故地とか、全てを宇佐に持ってこないと気に入らない、
その妄執は、正直気味が悪い。
大分県出身の人ですか?
宇佐神宮には、本来、比売大神という土着神が祀られていて、後世、応神や最新の
仏教を取り入れて、霊威ある社として尊崇を集めた、でいいのでは?

544 :日本@名無史さん:04/09/19 06:46:30
明確な根拠を伴った反論ができず、あるいは畿内説として
匹敵しうる例を挙げることも出来ずに、ひたすらコピペ
しまくるあなたの態度の方が気味が悪い。

545 :日本@名無史さん:04/09/19 08:15:03
魏志倭人伝やってる人って大変だよな。
「全記述が正確」というには明らかに地理的な無理があり、
かといって、比較検証すべき他の文献も無い。(日本に関する最古文献だから。)
仕方が無いので、考古学的裏づけを試みるも半世紀の間に決定的な成果ない。

証拠も反証もないため、魏志倭人伝に関しては変な輩が跋扈。
まじめな(?)学者まで眉唾で見られる始末。
まさに両刃の剣。


546 :日本@名無史さん:04/09/19 08:57:00
>>545
倭人伝上では九州で決着がついています
考古学上では最近畿内で新たな発見があっているので畿内説の人々が色めき立っているだけで
発見の内実は後世の遺物を無理に卑弥呼の時代まで遡らせたりして
畿内に邪馬台国を作り上げようとしているだけです。

>魏志倭人伝に関しては変な輩が跋扈。

これについては倭人伝が都合の悪い一派、何説の馬鹿かわかるよね

547 :日本@名無史さん:04/09/19 10:01:36
「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
郡使は卑弥呼の「宮室」を実見している。

「詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼…」
郡使は卑弥呼に「詔書」をもたらしている。

したがって「郡使は邪馬台国まで行っていない」ということはありえない。

548 :日本@名無史さん:04/09/19 10:12:06
憑山負海、鎮馬臺以建都・・・邪届伊都、傍連斯馬・・・

翰苑のこの記述から、邪馬台国が九州であることはわかるんだけどね。
問題は「翰苑」自体の資料性格がわからないこと。しかし、誤字が多いのは写伝者の
責任としても、倭人伝では「旁國」として国名だけが投げ出されるように記述されていた
「斯馬國」の位置を正確に記載していることは、重要なポイントだ。

549 :日本@名無史さん:04/09/19 10:38:55
しかしここまで根拠がないものかね、畿内説は・・・
学会は全員畿内説だというのは、カルト学会ですか?

550 :日本@名無史さん:04/09/19 13:00:27
ワテら九州説派の人間からしたら、なんで畿内勢力=邪馬台国にこだわるかなー、
と思うよ。
畿内に相当の勢力圏があったのはまぎれもない事実。
たとえば、銅鐸。また時代はやや下がるが巨大古墳など、多大な勢力・権力がないと
出来ないことだよ。
これらの真相解明は、畿内勢力と邪馬台国を切り離して考えることが不可欠だと思うのだ。
でないと、天皇家が畿内勢力の中心だったのか、「そのひとつ」だったのかさえも
論議されず、不明のままいたずらに年月ばかりが過ぎていくように思うのだ。

551 :日本@名無史さん:04/09/19 13:50:47
>>550

>>546-550は同一人物でしょうか? レスを読むと、

・当時日本には近畿と九州にそれぞれ大国があった。
・魏志倭人伝の邪馬台国は九州の大国。
・最近の考古学的発見によると近畿の大国の方が大きかった模様。
・近畿の大国の朝貢はなく、史書にも言及なし。

と理解したのですがよろしいでしょうか?


552 :日本@名無史さん:04/09/19 14:03:15
>>550
全く誤解しているな。銅鐸は墓に納められず個人の権威権力を示す物ではない。
弥生時代最大の墓は吉備の楯築墳丘墓で、畿内には目立った墓はない。

ところが200年頃の纒向石塚古墳から始まって、250年頃の箸墓以降は
巨大古墳を作り続けた。吉備も畿内に次いで巨大古墳を作っている。

553 :日本@名無史さん:04/09/19 14:48:31
>>552
次の理解はどうでしょうか?

命題:権力を示すのは銅鐸ではなくて墳墓である。

傍証1:弥生時代(200年以前)、近畿では銅鐸が用いられたが、巨大墳墓は作られていない。
結論1:弥生時代近畿には大国は無かった。

傍証2:弥生時代最大の墳墓は吉備楯築墳丘墓。
結論2:弥生時代に吉備には大国があった。

傍証3:200年代前半になって近畿に古墳が出来始めた。
結論3:200年以降、近畿に大国が現れた。

554 :日本@名無史さん:04/09/19 14:55:57
>>553
弥生時代には吉備と出雲に共通した出土品が多かったのに、古墳時代になって
吉備が畿内発祥の前方後円墳を受け入れ、畿内が吉備発祥の円筒埴輪を受け入れた。
大勢力の吉備が提携相手を出雲から畿内に変えたのは大きそうだ。

 島根、鳥取両県の古代史にスポットを当てた山陰弥生文化シンポジウム「山陰に弥生王国は実在したか?」が四日、東京・芝公園のメルパルクホールで開かれた。
 島根大学の渡辺貞幸教授は、列島の政治勢力の中で、山陰は西谷3号墓に代表される独自で巨大な四隅突出型墳丘墓を築き「吉備や北陸と外交を展開した」と強調。
 しかし、吉備との蜜月は短期間に終わり、女王・卑弥呼(ひみこ)の邪馬台国が連合勢力によって築かれたと想定すると
「大和と吉備、丹後の連携により、山陰は孤立させられた」と述べ、邪馬台国時代の山陰の歴史像を描き出した。
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/2004/07/05/01.html

555 :日本@名無史さん:04/09/19 15:15:09
>>554
このシンポでは、弥生時代(後期?)九州・山陰・大和に王国があった、という認識で一致してますね。
渡辺教授は邪馬台国は大和(と吉備・丹後の連合)と考えているみたいですね。この主張に関しては他のパネリストの意見は不明ですが。

556 :日本@名無史さん:04/09/19 17:56:35
>>555
> 渡辺教授は邪馬台国は大和(と吉備・丹後の連合)と考えているみたいですね。

朝鮮正史「三国史記」に以下の話が載っている。
新羅第4代王の脱解尼師今は、倭の女王国の女と多婆那国(丹波?)の男から生まれ
捨てられたのが朝鮮半島に流れ着き、新羅の倭人重臣・瓢公が有能さを認めて
新羅王にしたと言う記述がある。

丹波?と畿内の血を引く倭人が新羅王になったと言う話だ。

557 :日本@名無史さん:04/09/19 18:08:34
丹後には弥生時代後期から弥生墳丘墓が目立っており
古墳時代に入って、大田南5号墳出土の青龍三年・方格規矩四神鏡は有名で
日本海側最大の銚子山古墳も存在する。

なぜ、この京都府の北の果てに、巨大な前方後円墳があるのか?           
他にも丹後一帯には、神明山古墳(丹後町)182m、蛭子山古墳(加悦町)145m等
いずれも日本海側においては際だっており、古代における大国の偉容を今に伝えている。
 この銚子山古墳が作られたのは、4世紀後半から5世紀初頭といわれており、
銚子山古墳は全長198m、後円部径115m、
同高16m、前方部幅80m、同高10mの日本海側最大の前方後円墳。
http://www2.nkansai.ne.jp/org/adventure/densetu02.html

558 :吸収キッズ:04/09/19 18:19:39
会場は水を打ったように静まりかえり・・・

邪馬台国丹後説の乱入を固唾を飲んで待ちかまえております

559 :日本@名無史さん:04/09/19 18:43:14
タンゴといえば、クロネコ。
クロネコといえば、ヤマト。

以上、ヤマト(邪馬台)タンゴ説、証明終わり。

560 :日本@名無史さん:04/09/19 19:07:56
>>552
では問う。
淡路海峡を挟んで、「銅矛圏」「銅鐸圏」とがキッチリと別れ、別の勢力として
分布している状況を、どう説明するのか?
(当然、その境界は両方が重なり合って分布しているが、中心は別領域である)

これは「矛をシンボルとする勢力」と「銅鐸をシンボルとする勢力」と考えられはしないか?
日本書記を読むかぎり、「矛」は国生み神話の筆頭に登場し、その重要な役割を担っているのである。

561 :日本@名無史さん:04/09/19 19:20:11
>>551
>>547>>548>>550がワテです。
おおむねその理解でよろしいかと。九州が飛躍的に発展したのは、地理的に
金属文明と稲作文化をいち早く取り入れることが出来たからだと推察します。
近畿・吉備は、その点、九州に遅れを取ったのでしょう。
土器文明、石器文明については、九州は決して他領域にさきがけて進歩していたとは
考えられませんので、金属器文明の伝播がキーポイントだと考えます。

562 :日本@名無史さん:04/09/19 19:30:31
>>551
ついでだけど、ワテとしては比定地を中心とした「邪馬台国論争」には、
それほど強い関心があるわけではないのです。
邪馬台国以前、近畿の「銅鐸圏を中心とする勢力」が、いったいどんなものだったのか、
また、その後の三角縁神獣鏡や古墳の時代は、天皇家は「その中心」だったのか、
それとも「そのひとつ」だったのか、そっちの方にすごく関心があるのです。

あれだけの巨大古墳を作り上げた勢力、それも「丸邇氏」と「葛城氏」が天皇家に
かかわった時に、なおいっそうの超巨大級の古墳が出現する、この謎を、ぜひとも
知りたいのです。

563 :日本@名無史さん:04/09/19 19:33:56
>>561
弥生時代の始まりは紀元前400年頃と言われていたのが
AMS年代測定によって紀元前950年頃に繰り上がりそうだ。
水田の始まりや青銅器・鉄器の使用もずっと早まり
弥生時代像が大きく変わる。
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/sousei/yayoinoukou/index.html

564 :日本@名無史さん:04/09/19 19:36:41
>>563
それは知っている。
しかし、その文化の導入に際して、九州が「優位」な地理条件には、変わりはない。

565 :日本@名無史さん:04/09/19 20:02:12
>>564
実際に当初は青銅器も鉄器も北九州に偏在していたのが
弥生時代の終わり頃には畿内や吉備にシフトしているわけで
畿内・吉備連合が北九州の小国群を圧倒したと考えられています。

566 :日本@名無史さん:04/09/19 20:07:19
>>565
はあ?北九州+半島南半分+周辺諸国=環玄界灘大部族連合国ですが?

>北九州の小国群

567 :日本@名無史さん:04/09/19 20:20:52
>>566
韓炳三・前韓国国立中央博物館長(1995)「韓国の古代文化」(日本放送出版協会)によると
狗邪韓国=金官加羅に比定されている金海大成洞古墳群では
弥生時代の遺跡からは、北部九州に特徴的な多量の小型倣製鏡と中広形・広形銅矛が
古墳時代の遺跡からは、大和の首長墓に特徴的な巴形銅器・筒形銅器・碧玉製品類が出土している。

日本本土の権力が北部九州→畿内に移ったことに対応しているのだろう。

568 :日本@名無史さん:04/09/19 20:37:32
銅剣、銅矛文化は一貫して九州→畿内で見られるわけだから、
東征が起こり、その後、巴形銅器・筒形銅器・碧玉製品類は畿内で
発展的に発明され、前方後円墳も畿内で発展、巨大化したと
考えれば、説明がつく。
畿内→九州に前方後円墳が広まったとすれば、畿内であれほど
興隆したのに、九州で初期型のものばかり見られることの
説明がつかないし、九州→畿内とすれば、倭人伝、記紀全ての
整合性がつく。
畿内では矛盾ばかりでばらばら。

569 :日本@名無史さん:04/09/19 20:42:01
>>566
三国志東夷伝の記述を見ると、倭では邪馬台国と投馬国の戸数が群を抜いているだろ。

夫餘8万、高句麗3万、東沃沮5千、キ邑婁は不詳、シ歳2万
馬韓50数カ国で、大国は1万余・小国は数千家で計10万余。
弁辰24カ国で、大国は4〜5千・小国は6〜7百で計4〜5万。

対馬1千余、一支3千、末盧4千余、伊都1千余、奴2万余、不弥1千余
投馬5万、邪馬台7万、21カ国は不詳、狗奴は不詳

570 :日本@名無史さん:04/09/19 20:43:36
>>568
> 畿内→九州に前方後円墳が広まったとすれば、畿内であれほど
> 興隆したのに、九州で初期型のものばかり見られることの
> 説明がつかないし、

意味不明、基地外だな。

571 :551:04/09/19 20:45:22
>>562
レスありがとう。
比定地論争には興味はないですか?
確かに明確な証拠が無い以上、各説が好き放題言うだけで不毛ですよね。
私はそもそも邪馬台国や卑弥呼の実在もアヤシイと考えています。

572 :日本@名無史さん:04/09/19 20:46:15
箸墓古墳の遠景写真を見ました。
なんか、巨大墳墓というより、ただの丘のようです。
雑木林が生い茂げる丘の上に卑弥呼の墓を土盛りした程度?、
って感じです。

竣工当初から樹木を植林していたのだろうか?
それとも、芸術的な石組みが施されたピラミッド
のような外観だったのだろうか?

人工的建造物とは思えないほど自然に調和し、
和の精神を表現したのだろうか?


573 :551:04/09/19 20:48:59
>>572
雑木林の木は樹齢1500年以上に見えましたか?


574 :日本@名無史さん:04/09/19 20:52:45
最初期の前方後円墳は、オオヤマト地域の纒向石塚古墳・ホケノ山古墳・勝山古墳などがある。
それらに続いて、西日本に広まっていく。

 出現期の最大規模の前方後円墳は、奈良盆地東南部の三輪山の麓に位置する箸墓古墳(奈良県桜井市、墳丘長約二八〇メートル)であり、
次が椿井大塚山古墳(京都府山城町、約一九〇メートル)である。このほかでは、浦間茶臼山古墳(岡山市、約一四〇メートル)、石塚山古墳(福岡県苅田町、約一二〇メートル)が大きい方である。
前方後方墳では、元稲荷古墳(京都府向日市、約九四メートル)が最大規模である。
当時、大陸からの新しい文物の受け入れ口である玄海灘沿岸地域には、那珂八幡古墳(福岡市、約七五メートル)が所在するのみである。
 これらの事実から、前方後円(方)墳の創出は、畿内と瀬戸内海沿岸地域の有力首長が大陸の鉄をはじめとする新しい文物を安定的に手に入れるために連合し、
九州北部を制圧する必要性を契機になされたと考えられている。この連合政権をヤマト政権と考古学者はよんでいるのである。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2・3-01-01-01-02.htm

575 :日本@名無史さん:04/09/19 21:05:37
>>571
もちろん、興味はありますよ。邪馬台国がどこか、わかればいいと思う。

だけど、不毛な論議というか・・・
畿内の勢力がどのようなものだったのか、とか、出土物から、記紀に書かれていることを
どう解釈するのか、とか、そういった論議をもっとして欲しいんですよ。
もし記紀や風土記など日本側の資料が多少なりとも信用に足る物であれば、当然
出土物は無関係であるはずはないですからね。
神武以後の天皇家は間違いなく畿内勢力で、げんにそこにある遺跡から
貴重なものが出土しているわけなのですから。

576 :日本@名無史さん:04/09/19 21:57:06
箸墓古墳の樹林は樹齢200年程度だろう。
(それよりも若いかも?)
で、私の知りたい疑問は
箸墓が竣工当時にどのような外観だったのか?ということ。

当時の土木技術の粋を集めた、幾何学的な建造物だったのだろうか?
遠目で見て、人工的とわかる巨大な建造物を目の当たりにした
魏の使者は、
「でかっ! 秦の始皇帝陵より大きいです。」みたいに、
倭人伝に記さなかったのだろうか?
「卑弥呼が死んだので、大きな塚を作った。直径100歩ぐらい。」
それだけ?



577 :日本@名無史さん:04/09/19 22:00:37
比定地考察好きの人へ

だから、九州の倭国は何度も遷都してるんだってば。
畿内政権だってちょろちょろ遷都を繰り返したでしょう?
なんで九州政権を考察するときだけ遷都しないでいたと仮定するんだろ。

578 :日本@名無史さん:04/09/19 22:03:58
>>576
発言する前に確認しましょう。
秦の始皇帝陵は1辺350m・高さ47mだから、箸墓よりは大きい。

579 :日本@名無史さん:04/09/19 22:12:30
>>571
どういう点がアヤシイというのか?

580 :日本@名無史さん:04/09/19 22:23:22
>>562
「墓の大きさ=権力の強さ」を証明してくれ。
漢や魏は薄葬だったから権力が弱いのか?
笑わせるなよ。

581 :日本@名無史さん:04/09/19 22:23:46
やっぱり秦の始皇帝陵のほうが大きかったのか。
それもそうだよな。
そもそも、仁徳陵の頃だって、朝貢してたのに、
「倭の王の墳は、秦の始皇帝陵より大きい!」なんて
どこにも記載されていないし、墓の規模なんて興味の対象外だったのかもね。


582 :日本@名無史さん:04/09/19 23:07:09
>>576
葺石(ふきいし)とか段築製(だんちくせい)とか聞いた事ないのか?
写真で見たりしないで、現地の箸墓に登ってみろよ、すべて解る。


583 :日本@名無史さん:04/09/19 23:24:24
>>582
>現地の箸墓に登ってみろよ、すべて解る。

タイーホ・・・・はされないだろうけど、やめれ。


584 :日本@名無史さん:04/09/19 23:32:40
>次の理解はどうでしょうか?

>命題:権力を示すのは銅鐸ではなくて墳墓である。

ちょっと違う。特定個人のための墳墓(平原、楯築)、特定個人のための威信材(金印、銅鏡)

>傍証1:弥生時代(200年以前)、近畿では銅鐸が用いられたが、巨大墳墓は作られていない。
>結論1:弥生時代近畿には大国は無かった。

中堅より下の学者はほとんどそういう考えだが、それ以上は弥生期の畿内王権を
想定している人が多い。




585 :日本@名無史さん:04/09/19 23:35:40
>>582
>写真で見たりしないで、現地の箸墓に登ってみろよ、すべて解る。

東京で生活している者は奈良に出向くことは大変なんだよ。
せいぜい、東京タワーの下の古墳らしきものを見るぐらい。

でも、今年の秋は奈良に行ってみたいなぁ。


586 :日本@名無史さん:04/09/19 23:39:18
>>564
>実際に当初は青銅器も鉄器も北九州に偏在していたのが
>弥生時代の終わり頃には畿内や吉備にシフトしているわけで
>畿内・吉備連合が北九州の小国群を圧倒したと考えられています。

それは、古い定説。
小林説の前提である弥生時代の鉄器普及が比定された今では
このまま通用すると思っている学者は少ない。
それから北九州は、考古学的に弥生期の政治ブロックが唯一
証明できる地域なので小国群ではない。


587 :日本@名無史さん:04/09/19 23:49:29
>>580
人を大勢使役出来なければ、巨大古墳は作れない。
「陵墓が小さい」からといって、権力が弱かったとは言えないが、
「陵墓が大きい」ことは、間違いなく、権力基盤は大きかった。

したがって、「笑わせるなよ」とは、あなたへ向けられべき言葉。

588 :日本@名無史さん:04/09/20 00:01:52
>>581
倭の五王の頃は、宋が中国の南側しか支配下においておらず
日本に来たという記録もないぞ。少しは勉強してから発言しろよ。

589 :日本@名無史さん:04/09/20 00:09:07
>575
>もちろん、興味はありますよ。邪馬台国がどこか、わかればいいと思う。
>だけど、不毛な論議というか・・・
そのとおり、不毛な論争。学者はあんまり興味ないね。
学会で九州説が消滅したのは古墳時代の年代が上がったからというだけなのだが。

>畿内の勢力がどのようなものだったのか、とか、出土物から、記紀に書かれていることを
>どう解釈するのか、とか、そういった論議をもっとして欲しいんですよ。

考古学的には、弥生期の畿内の勢力の存在というのは証明されていない。
畿内というのは銅鐸とか家族墓のような村落共同体しか出てこない西日本では
珍しい地域なので。
大和王権が誕生した地域だから、前行する勢力があった「はず」と推定されていた
だけです。かつては。
文献的には、物部氏の先祖がいたことになっているが、田中卓みたいな皇學館、国
士舘系以外の学者はスルーしてるんじゃないかね。


590 :日本@名無史さん:04/09/20 00:10:19
>>586
> それから北九州は、考古学的に弥生期の政治ブロックが唯一
> 証明できる地域なので小国群ではない。

政治ブロックが認められるのは、後漢書に朝貢記事がある頃だろ。
後漢が衰退した頃に倭国でも内戦が激しくなって
魏志倭人伝の記述だと九州は小国群に過ぎず
畿内・吉備(邪馬台国・投馬国)連合に支配される状況に陥ってしまった。

591 :日本@名無史さん:04/09/20 00:15:07
>590
それは、倭国統一の後。
その前の終末期まで北九州の政治・経済ブロックは認められる。





592 :日本@名無史さん:04/09/20 00:15:53
九州説ってキティガイですね。

なんと言っても古田ですから


593 :日本@名無史さん:04/09/20 00:17:55
九州説2巨頭の安本と古田はどちらもキティガイなのになぜ
中が悪いですか?


594 :日本@名無史さん:04/09/20 00:18:33
そうか・・・
その頃は中国から誰も来なかったのか・・・

やっぱり、巨大古墳なんて国家の威信をかけた
建造物では無いのか。

とすると、なぜにあんな無駄遣いをしたのだろう?

595 :日本@名無史さん:04/09/20 00:19:52
矮小な小国群が、300年間半島で戦争できたとは、笑わせるな。
高句麗や唐とも戦ったんだぞ。何が矮小な小国群だ?

596 :日本@名無史さん:04/09/20 00:20:05
古田信者はなぜ隔離スレッドにいかないの?


597 :日本@名無史さん:04/09/20 00:21:56
古墳の背景には、権力者の霊が護国する思想があったんだろう。

598 :日本@名無史さん:04/09/20 00:22:02
>>593
著述業でドキュソを騙して金を巻き上げるのに
相手が邪魔という近親憎悪だろ。

599 :日本@名無史さん:04/09/20 00:23:10
>>587
スターリンの墓の大きさでも測って来いよ、ドアホ!

600 :日本@名無史さん:04/09/20 00:24:04
で、箸墓とマキムクにすがって生きる畿内説は全滅ですか?

601 :日本@名無史さん:04/09/20 00:25:47
卑弥呼の墓は直径25mだから、箸墓は別物だね。

602 :日本@名無史さん:04/09/20 00:26:10

なんで弥生時代の畿内って何もでないんでしょうか。
昔は「低地なので鉄が溶けた」と言うひとまでいましたが、
いまはあんまし聞きませんね。


603 :日本@名無史さん:04/09/20 00:26:57
マクムクは突然滅亡してるけど、邪馬台国は663年まであるから別物だね。

604 :日本@名無史さん:04/09/20 00:28:17
サヌカイトで高句麗と戦えないから、畿内は邪馬台国じゃないね。

605 :日本@名無史さん:04/09/20 00:29:19
井沢、安本、古田
強いて順番を付けるならどうなるのだろうか?

個人的には偽書造りをたくらんだ古田が最強だと思うが。


606 :中学3年生@不登校児:04/09/20 00:42:39
邪馬台「国」というから勘違いしてしまうのです。
古代の「首都」が最初は九州にありそして奈良に移り
京都に移り、そして現在の東京へといたるのです。

607 :日本@名無史さん:04/09/20 01:05:57
邪馬台国の住戸が7万戸だとして、
たった、それだけしかいない住民で
箸墓、勝山等の巨大古墳を次々と、よく造れたと思う。

やっぱり、不可能でしょう。
その当時のマキムク近辺には100万人都市が成立していたと思う。
魏に朝貢しない、謎の勢力が存在したのでしょう。
魏のほうも、朝貢しない田舎者など無視していたのでしょう。

朝貢してきた邪馬台国を可愛がって、親魏倭王の称号を与えたのでしょう。
その称号で、倭人種の国々を平定せよ、と檄を飛ばしたのでしょう。

608 :日本@名無史さん:04/09/20 01:22:29
やれやれ。今度は百万都市かよ。
どうしてこう妄想を次々と爆発させられるかね、九州説のお人は。

609 :日本@名無史さん:04/09/20 01:36:05
三国志みるとわかるけど戸数比較において7万戸は巨大すぎる
と思えるくらい。でもまあ、古墳の規模をみて納得するといった
感じかな。

610 :日本@名無史さん:04/09/20 01:39:18
畿内の勢力は邪馬台国より巨大国家だったでしょう。
あれだけの巨大古墳を乱造できるのは、農業振興を可能にする
豊かな土壌にめぐまれた、畿内だけしかありません。

九州は山ばかりで、水気も少なく、7万戸のクニが
限界だったのでしょう。

611 :日本@名無史さん:04/09/20 01:41:28
>>610
それだと倭が巨大になりすぎる。

612 :551:04/09/20 02:22:57
>>579

壱岐や松浦、糸島のあたりまでは想定される比定地に対して
行程も合理的だし、地名も現在に通じるものがある。
そして何よりも考古学的裏づけが取れている。

一方、先に進むにつれて行程も無理が出始めて同時に地名も現在とはなじみの無いものになる。
7万戸は大げさでも、万戸単位の国の候補地は限られるはずなのに、
戦後50年以上にわたってこれといった考古学上の発見は無い。
古代史で最大の関心が払われているのにもかかわらずだ。
記述のエキゾチック度が大きくなるにつれて物証が乏しくなる、ってのは
典型的な都市伝説の類だと思うよのね。

魏志倭人伝が何次資料か判らないが、邪馬台国に関しては相当誤伝が多くて、
もはや事実とは大きくかけ離れてると思う。

もちろん、邪馬台国のモデルになった国があって朝貢したかもしれないが、
倭人伝にあるような大国でもなく、卑弥呼もいなかったと思うよ。

613 :日本@名無史さん:04/09/20 03:08:13
>>612
> もちろん、邪馬台国のモデルになった国があって朝貢したかもしれないが、
> 倭人伝にあるような大国でもなく、卑弥呼もいなかったと思うよ。

それはない。何度も交通があったことが記載されている。

614 :日本@名無史さん:04/09/20 04:32:13
>>612
邪馬台国には「張政」という人物がやってきて、20年間駐在している。
張政の肩書きは「塞曹掾史」というもので、いわば公使と駐在武官を兼任しているようなもの。
彼は卑弥呼の死にも接しており、おそらく、彼の「報告書」を元に、倭人伝は書かれたものと
思われる。

>魏志倭人伝が何次資料か判らないが、邪馬台国に関しては相当誤伝が多くて、
>もはや事実とは大きくかけ離れてると思う。

というのは、だから、まったく根拠がない。

615 :日本@名無史さん:04/09/20 09:23:24
20年なんていってるのは、古田と愉快な仲間たちだけだろ。

616 :日本@名無史さん:04/09/20 09:24:48
>>607
池沼か、江戸時代中期でも世界の百万都市は日本の江戸などごくわずかだったぞ。

大林組の見積もりによると、仁徳陵を作るのに
ピーク人数2000人で工期15年8ヵ月と見積もっており、法外な人数は必要ない。
http://www.obayashi.co.jp/kikan/ouryo/index.html

ちなみに応神・仁徳の頃には関東の住居遺跡が減っており
陵墓作りなどの土木工事や戦争などに動員されたのだろう。

617 :日本@名無史さん:04/09/20 09:29:01
>>612
> 行程も合理的だし、地名も現在に通じるものがある。

邪馬台(やまと)国も、初期古墳が作られた「おおやまと」地域と合致しているのだが。

「隋書倭国伝」にも以下のように書かれているだろ。
「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。」

618 :日本@名無史さん:04/09/20 10:36:40
>>616
それって、現代文明を利用しての推定人数ではないか。
大昔に高速道路や貨物船など無かったと思うぞ。

もっと、昔の社会状況を考慮した見積もりしてよ。大林さん。

619 :日本@名無史さん:04/09/20 10:40:26
>>618
池沼か、ちゃんと古代工法と現代工法の両方を示しているだろ。

620 :日本@名無史さん:04/09/20 10:44:32
九州邪馬台国っていうのは、倭人伝のいい加減さが生み出した想像の国なんだよ。
大まかに言って、奴→伊都→邪馬台国(畿内)へと倭国王権が移動していったというのは
決着してるだろ。奴と伊都を除いて、北九州で旗頭になれる国なんてあったか?
倭人伝に「ヤマト」とはっきり書いている以上、あえて九州だと考えるのはどうかと思う。
ヤマトが東遷したなら別だが。

621 :日本@名無史さん:04/09/20 10:50:14
皇居のそばで、古くから受け継がれたお屋敷を
マンションにする建設現場に携わると、
地ならしするときから、江戸時代の陶器のかけらが、
出るは出るは、二合徳利が無傷で見つかったりもします。

そんな上にマンションを建設するのですが、
後世の考古学者が、
『このマンションは江戸時代に建設されたものだ。』
と間違わないように、
チタン製の円盤に竣工予定日を彫って埋めておきました

622 :日本@名無史さん:04/09/20 10:54:18
>>621

623 :日本@名無史さん:04/09/20 10:56:22
池沼か、古銭壺が発見されたときに、最新の銭よりも新しいと判断するように
いくら江戸時代の陶器が混じっていようとも、より新しい遺物が混じっていれば
間違いようがない。低脳は考古学の基礎も全く知らないんだな。

624 :日本@名無史さん:04/09/20 10:57:16
>>619
古代工法そのものが、現代文明の恩恵を浴びてる。
築造に重機を使用しなくとも、建材の採掘、加工、搬入はどうするの?

625 :日本@名無史さん:04/09/20 10:58:28
>>624
池沼はリンク先を読んでから発言しろ

626 :日本@名無史さん:04/09/20 11:03:08
学会で滅亡した九州説2ちゃんねるで大暴れ

627 :日本@名無史さん:04/09/20 11:05:05
いちいち「池沼か」を入れずに書き込みキボン
おながいしみす

628 :日本@名無史さん:04/09/20 11:06:51
邪馬国=八女 鬼国=三養基郡基山町
など邪馬台国周辺の国とされている国の場所も九州説では確定されている。
天皇の祖とされるアメ族アマ族は今の甘木という地名で残っている。

629 :日本@名無史さん:04/09/20 11:10:59
>著述業でドキュソを騙して金を巻き上げるのに
>相手が邪魔という近親憎悪だろ。

原田実も同じ狢


630 :日本@名無史さん:04/09/20 11:15:29
>>627
専用ブラウザ使って「池沼」をNGワード登録しとくといいかもね。

631 :日本@名無史さん:04/09/20 11:19:23
原田は最近著書を出したり雑誌に寄稿している?
古田や安本ですら「著述業でドキュソを騙して金を巻き上げる」のは
年々厳しくなっていると思われ。

632 :日本@名無史さん:04/09/20 11:45:40
で、結局畿内説は論理破綻でダウン?

633 :日本@名無史さん:04/09/20 11:53:53
>天皇の祖とされるアメ族アマ族は今の甘木という地名で残っている
なんで、記紀にその事が記載されないかに答えるように。

>>604
>サヌカイトで高句麗と戦えないから、畿内は邪馬台国じゃないね
お前、ちゃんとスレ読んでから書き込めよ。最低限のマナーが守れないなら、
もうこれ以上の書き込みはするな。

634 :日本@名無史さん:04/09/20 11:56:48
>大まかに言って、奴→伊都→邪馬台国(畿内)へと倭国王権が移動していったというのは
>決着してるだろ。奴と伊都を除いて、北九州で旗頭になれる国なんてあったか?
>倭人伝に「ヤマト」とはっきり書いている以上、あえて九州だと考えるのはどうかと思う。

九州説の人はこれに答えて。

635 :中学3年生@不登校児:04/09/20 12:21:09
>>634
国というから惑わされるのです。
当時の国は現在でいう県です。
すなわち九州全体が倭という国で
伊都国や奴国が県で、邪馬台国という
のは首都です。九州という国が作り出した
首都なのです。のちに国が西日本全域に拡大して
首都を畿内のほうに移しただけなのです。
つまり首都のことを邪馬台国=大和国=ヤマト国と
呼んだのです。

636 :日本@名無史さん:04/09/20 12:24:17
>>635
「中学3年生@不登校児」=「25歳♂投馬国王の子孫」=宇佐基地外の自演乙

637 :日本@名無史さん:04/09/20 12:27:42
邪馬台国なんて無かった派というのもいるのかw



638 :日本@名無史さん:04/09/20 12:30:50
>>636
誰もが知っていたことに
わざわざ、マジレス。
おつかれさん。

639 :中学3年生@不登校児:04/09/20 12:32:50
私は、中学3年生ですよ・・
はぁそれにしても昨日の公務員試験は難しかったなあ・・

640 :日本@名無史さん:04/09/20 12:35:03
建設現場の実情をわかってないな。
表の顔と裏の顔の使い分けをわかってない。

どの業界もそうだろうし、
考古学という集団も、表の顔と裏の顔があるはずだと思うけどね。

641 :日本@名無史さん:04/09/20 13:11:03
で、畿内から何が出てきたの?

 木片と土器とサヌカイト・・・だけ?(w

642 :日本@名無史さん:04/09/20 13:16:18
http://comic6.2ch.net/test/read.cgi/comic/1094128188/479
漫画板に邪馬台国も卑弥呼も全否定する人降臨。
ご指導おながいします。

643 :サヌー畿内:04/09/20 13:17:34
畿内説さん

サヌカイトは非常に高度な文明だよ(w

畿内サヌカイト軍最強!


644 :中学3年生@不登校児:04/09/20 13:20:43
藤原カムイの漫画「雷火」では
邪馬台国東遷を最後ににおわせて
終わっていました。

645 :日本@名無史さん:04/09/20 13:48:12
>>641
縄文時代かよ

646 :日本@名無史さん:04/09/20 14:03:08
>>643
意味が分からん。
まあ確かに、戦国時代になっても投石は主要な武器だったみたいだが。

3世紀の九州に、鉄の武具を装備した大規模な軍隊がいたというのは妄想。
装備で劣る畿内であるが、兵力の圧倒的な差で、九州勢力を屈服させた模様。

647 :日本@名無史さん:04/09/20 14:19:09
>>637
誤解を恐れず言えば、俺は「なかった派」だなぁ。

敗戦までは、「よくわからんこと書いてあるが、まあ当時の中国にはそんな感じで伝わってたのだろう。」ぐらいの扱いだったと聞いている。
「邪馬台国」や「卑弥呼」の存在をそのまま信じてたらトンデモ君扱い、
邪馬台は大和、卑弥呼は天照大神の伝承が伝わったものだと解釈するのが関の山だった。

ところが戦後GHQの天下になった後、古代史学者は難しい立場に追い込まれる。
彼等は、彼等の仕事(記紀研究)が天皇の権威を裏付けを通じた軍国主義の幇助、とみなされることを恐れた。
そのような時勢の中、倭人伝は天皇と関係がなく、無難なテーマだったし、
赤い学者にとっては記紀を打ち砕く最大の武器だった。
古代史学会は一転して、倭人伝に関しては否定資料が発見されない限り信じる、という態度になってしまった。
要は記紀を否定できれば何でも良かったのだ。
騎馬民族征服王朝説なんかがでてきたのも、この時期だった。

もう戦後60年も頑張ってきたのに、邪馬台国の場所もわからないんだ。
同時代の他文献・考古学的発見がない以上、邪馬台国研究は一未確認情報として、
「あったかもしれない、なかったかもしれない」という態度に戻るべきだと思うよ。


648 :日本@名無史さん:04/09/20 14:27:22
>>647
意味不明。日本・中国・朝鮮の古代史書の記述は概ね調和的だろ。

649 :中学3年生@不登校児:04/09/20 14:43:35
邪馬台国の場所なんて簡単に割り出せるでしょ。
帯方郡から狗邪韓国までが7000里。
帯方郡から邪馬台国までが12000里。
狗邪韓国から邪馬台国が5000里ですから
だいたい宇佐近辺になるんじゃないですか?w


650 :日本@名無史さん:04/09/20 14:49:28
>>649
「中学3年生@不登校児」=「25歳♂投馬国王の子孫」=宇佐基地外の自演乙

651 :日本@名無史さん:04/09/20 15:10:15
>>648
???
200年代に関しては、中国、しかも魏志倭人伝しかないのでは?
当時の日本・朝鮮の文献ってあるんですか?

700年以降なら概ね調和的だが。



652 :日本@名無史さん:04/09/20 15:14:57
>>646

釣り乙

653 :日本@名無史さん:04/09/20 15:16:20
>>651
ローマ商人やインド商人とかの記録とかが、どっかにあったりしてw

654 :日本@名無史さん:04/09/20 15:49:22
>>647
同意。
考古学の成果で、邪馬台国無しでも、ある程度は古代史を考えられるようになった。
倭人伝は、「その当時、北九州が畿内政権(ヤマト朝廷)に服属していたかどうかが分かる」
くらいの扱いでいい。
九州説なら、北九州は団結してまだ畿内の傘下ではなかったということ。

655 :日本@名無史さん:04/09/20 16:50:43
>>654
銅鐸文化の畿内が北九州に駆逐され参加に入ったと考古学文献学から読み取れる
つまり、九州が畿内を傘下に入れて古日本が完成したのが古墳時代
マキムクは今で言うイギリスにとってのニューヨークのようなものだよ
畿内の原住民は
一部は九州からの支配階級に同化し、一部は東北関東に逃れて朝廷から夷と呼ばれる蛮族になったんだろう
東北に多い粘着気質の恨の精神はこの歴史的敗北で出来上がって今でも受け継がれていると思うよ。


656 :日本@名無史さん:04/09/20 18:20:52
>>654
文献史学と考古学は両輪なのに、一方を無視するのは良くない。
自然科学を積極的に導入した最近の考古学の成果によると
魏志倭人伝の示すことを、より具体的に描写できるようになった。

 出現期の最大規模の前方後円墳は、奈良盆地東南部の三輪山の麓に位置する箸墓古墳(奈良県桜井市、墳丘長約二八〇メートル)であり、
次が椿井大塚山古墳(京都府山城町、約一九〇メートル)である。このほかでは、浦間茶臼山古墳(岡山市、約一四〇メートル)、石塚山古墳(福岡県苅田町、約一二〇メートル)が大きい方である。
前方後方墳では、元稲荷古墳(京都府向日市、約九四メートル)が最大規模である。
当時、大陸からの新しい文物の受け入れ口である玄海灘沿岸地域には、那珂八幡古墳(福岡市、約七五メートル)が所在するのみである。
 これらの事実から、前方後円(方)墳の創出は、畿内と瀬戸内海沿岸地域の有力首長が大陸の鉄をはじめとする新しい文物を安定的に手に入れるために連合し、
九州北部を制圧する必要性を契機になされたと考えられている。この連合政権をヤマト政権と考古学者はよんでいるのである。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2・3-01-01-01-02.htm

657 :日本史@名無しさん:04/09/20 18:41:06
奈良だけ必死になって自然科学を導入するのはやめてホスイ

あほらしすぎ。

658 :中学3年生@不登校児:04/09/20 19:28:47
考古学なんかより人の書いた書物のほうが
信頼できる。

659 :日本@名無史さん:04/09/20 19:43:53
>>634
>大まかに言って、奴→伊都→邪馬台国(畿内)へと倭国王権が移動していったというのは
>決着してるだろ。奴と伊都を除いて、北九州で旗頭になれる国なんてあったか?
>倭人伝に「ヤマト」とはっきり書いている以上、あえて九州だと考えるのはどうかと思う。

答えろと言われても、これら論証を経ていない、いわば「根拠のない」説に
どう答えろと言うのか。
倭国の歴史上、「奴国」なるものが倭国の中心国になったことは一度もない。
それに関しては伊都国もまたしかり。また、倭人での記述を信用するかぎり、
邪馬台国を畿内にその勢力を求めるのは無理。
そして決定的なことであるが、邪馬臺を「ヤマト」と読むことは出来ない。
日本、中国とも資料上、臺=ト という音韻の実例が存在しない。

660 ::04/09/20 19:51:52
>>659
読めないとなると、邪馬壱国であります。

661 :日本@名無史さん:04/09/20 19:59:10
>>659
>倭国の歴史上、「奴国」なるものが倭国の中心国になったことは一度もない。
奴国は後漢の光武帝から印綬をもらっていると思うが。

>倭人での記述を信用するかぎり、邪馬台国を畿内にその勢力を求めるのは無理。
畿内説は倭人伝の記述を信用できないとしている訳で、無限ループだな。
あんたは、邪馬台国は北九州の何処だと思ってるのか?

662 :日本@名無史さん:04/09/20 20:03:28
>>661
「漢倭奴国王」を「倭」の「奴」国と区切って読むことは出来ない。
実例がない上、国名の並びも不自然。

>畿内説は倭人伝の記述を信用できないとしている訳で、無限ループだな。
「信用できない」としないことには、邪馬台国を畿内に持っていきようがない、
という現実を示している言葉だな。

>あんたは、邪馬台国は北九州の何処だと思ってるのか?
博多から太宰府近郊。おそらく平和台球場のあったあたり。

663 :日本@名無史さん:04/09/20 20:07:14
>>661
「漢倭奴国王」の金印を「奴国」とする説は根拠がありません。
もし「奴国」がもらったものなら、「漢奴国王之印」もしくは「漢奴倭国王の印」
という形になったはずです。

664 :日本@名無史さん:04/09/20 20:12:53
>博多から太宰府近郊。おそらく平和台球場のあったあたり。
もの凄く具体的で笑ってしまった。

665 :日本@名無史さん:04/09/20 20:35:33
>>662
>博多から太宰府近郊。おそらく平和台球場のあったあたり
伊都国や奴国から近過ぎないか? 倭人伝をどう読めば、そんなことになるのか?
投馬国はどこになるの?

666 :日本史@名無しさん:04/09/20 21:15:41
博多湾岸説は経済的には有力だが、里程問題が難点だな。放射状でも無理がある。

667 :日本@名無史さん:04/09/20 21:41:00
邪馬台国というものが存在したのならば、九州で決定だな。
畿内から発生した大和王朝とは別物である。

しかし、4世紀までの奈良の地は平和な小集落だったのに、
ある日突然、巨大古墳群が大地から噴出してくる。
この現象は、どう説明できるのか。

誰かがマキムクに鉄文化を持ちこみ、
銅から鉄に変わる産業革命があったのだろう。

2世紀にマキムクに婿入りした九州の豪族の息子は
大陸の進んだ文明を持ちこみ、これらをうまく活用した。

新技術に基づく新製品は生活様式を変え、
食料、土木、衛生、軍備等の生産を大向上させた。
人口は飛躍的に伸び、豊かで文化的な生活を享受した。
一方で、近隣の豪族を次々に平定し、その権威を示すため
巨大古墳を築造した。

畿内の爆発的発展がどれほどであったかを表現するのは難しいが、
さしづめ、大東亜戦争後の『神武景気』のようであっただろう。


668 :日本史@名無しさん:04/09/20 21:45:29
>さしづめ、大東亜戦争後の『神武景気』のようであっただろう。



( ´_ゝ`)フーン  

669 :日本@名無史さん:04/09/20 22:00:46
卑弥呼はアマテラスだと思う。

ヤマトトヒモモソヒメとかけている可能性あり。

奴の国は那の博多、鬼国は紀州。

670 :日本@名無史さん:04/09/20 22:16:29
>>634
はあ?
倭人伝にヤマトなんて一切書いてありませんし、
奴→伊都→邪馬台国(畿内)へと倭国王権が移動などしてませんが。
倭人の代表国は
委奴→邪馬壱国→邪馬台国→たい国と移動しています。
邪馬台国かたい国からは熊本に遷都したかもしれません。



671 :日本@名無史さん:04/09/20 22:28:38
>>670

台はトとも読めるんですよ。当て字なので

672 :日本@名無史さん:04/09/20 22:36:48
>>670
>倭人の代表国は
>委奴→邪馬壱国→邪馬台国→たい国と移動しています

なんだかなあ。
わざとややこしく曲解していない?

673 :日本@名無史さん:04/09/20 22:39:19
>>635
>>667

弥生時代人口で考えると、
(というのも、九州説の主流は「卑弥呼は弥生時代末期」だから)

魏志倭人伝の記す邪馬台国人口は、九州の5倍ほどになる。
九州だけを統率する小国などではあり得ない。

畿内説の主流である「古墳時代初期」ならば、
もうすこし問題が緩和される。
とはいえ、やはり「本州の半分を制圧する大国」でないとマズイ。

人口の問題は非常に大きな意味があるだろう。

674 :日本@名無史さん:04/09/20 22:57:41
>>655
>一部は九州からの支配階級に同化し、一部は東北関東に逃れて朝廷から夷と呼ばれる蛮族に
>なったんだろう
>東北に多い粘着気質の恨の精神はこの歴史的敗北で出来上がって今でも受け継がれていると
>思うよ。
これは東北人に対して失礼。東北が中央政権に搾取され続けたのは確かだが。

東遷(征)説は非現実的だけど、人気があるな。「イギリスのニューヨーク」という喩えは
上手いなあと思う。
ただ北九州の畿内への移住は数世紀をかけて行われたもので、
神武のような人物を想定して一世代で行われたというのはどうかと思うぞ。
神武が北九州から来た大王なら、なぜ宮崎県から出発したのか? 何故奈良県の橿原で
即位したのか?、などの疑問もあり、どうもしっくりこない。

675 :日本@名無史さん:04/09/20 22:59:50
>>665
憑山負海、鎮馬臺以建都・・・邪届伊都、傍連斯馬

翰苑のこの記事を見るかぎり、邪馬台国は斯馬・伊都と並んでいるからね。


676 :日本@名無史さん:04/09/20 23:04:07
>>662
>博多から太宰府近郊。おそらく平和台球場のあったあたり
おいおい、お前も倭人伝を自分の都合のいいように無理に解釈してるだろ。
倭人伝を普通に読めば、邪馬台国はそんな場所にはならない。
畿内説を非難はできないな。

677 :中学3年生@不登校児:04/09/20 23:46:49
宮崎県から神武が東征したのは
2世紀の倭国大乱から逃れるため。
中国地方にも強い勢力があったのでさらに
東へと一族もろともお引越しをしたのでしょう。
そこで進んだ技術を取り入れ大豪族へとのしあがった。



678 :日本@名無史さん:04/09/21 00:01:23
>>677
妄想、垂れ流しは止めて。
なんか根拠らしい事も、たまには言えよ。

679 :日本@名無史さん:04/09/21 00:07:46
>これらの事実から、前方後円(方)墳の創出は、畿内と瀬戸内海沿岸地域の有力首長が大陸の鉄をはじめとする新しい文物を安定的に手に入れるために連合し、
>九州北部を制圧する必要性を契機になされたと考えられている。この連合政権をヤマト政権と考古学者はよんでいるのである。

弥生期に畿内「有力首長」なんてないよ。
村落はあるけど。
北九州を制圧したというのも否定されてるでしょ。


680 :日本@名無史さん:04/09/21 00:14:09
>>676
いあ、奴国、投馬国の行程にのみ、「行」など行動を示す動詞がないからね。
東南至奴國百里・・・南至投馬國水行二十日
他は「渡」「行」など行動を示す動詞がちゃんとある。
又渡一海、千餘里至末盧國
東南陸行五百里、到伊都國

行動を示す動詞がない以上、「奴国」「投馬国」は「傍国の行程」である。
末盧國→伊都国→不彌国→邪馬台国 と郡使はやってきた。

681 :中学3年生@不登校児:04/09/21 00:18:21
奴国があった島から金印がでたことと
吉野ヶ里遺跡の発見により、倭人伝の
信憑性は裏づけられました。よって
邪馬台国は九州です。反論の余地はないですね?

682 :日本@名無史さん:04/09/21 00:32:21
>>681
小学校からやり直してね。

683 :676:04/09/21 00:33:36
>>680
「倭人伝を自分の都合のいいように無理に解釈」してますな。


684 :日本@名無史さん:04/09/21 00:40:21
>>682
お前より、小学校のほうが正しいね。

685 :日本@名無史さん:04/09/21 00:47:38
>>683
実例を挙げて反論すべし。


686 :日本@名無史さん:04/09/21 01:24:36
>行動を示す動詞がない以上、「奴国」「投馬国」は「傍国の行程」である。
>末盧國→伊都国→不彌国→邪馬台国 と郡使はやってきた。
この部分が普通に弱いと思うが。あくまで、こういう解釈も出来るというレベル。
畿内説と大差がない。

あと、伊都がこんなに近かったら、一大卒を置く意味があんまりないように
思うな。

687 :日本@名無史さん:04/09/21 02:02:30
>>681

奴国の金印は邪馬台国の200年前の出来事。
吉野ヶ里も200年以上前の集落。

688 ::04/09/21 02:07:32
邪馬台国は委奴国の後継国。
その後継国には阿蘇山があった。

689 :日本@名無史さん:04/09/21 02:13:53
奴の国の官はシマコ副官はヒナモリ。

要するに鄙守。奴は中央からかなり遠い所だよ

690 :日本@名無史さん:04/09/21 02:18:45
委は倭の略字だよ

691 :日本@名無史さん:04/09/21 02:21:38
一大卒というのはいわゆる太宰府のようなもの

692 :日本@名無史さん:04/09/21 03:14:27
>>656
九州北部制圧の必要性を痛感して連合した畿内・
瀬戸内連合はのんきにお墓を作ってる場合じゃない
のでは?大型墳墓の造営は政治的安定期じゃないと
無理だと思うよ。

それに、古墳の所在地のすぐ近くにそれを造営した
政治権力があるとは限らないでしょ。江戸に幕府を構えた
徳川家康のお墓が日光にある例を考えれば済む。
むしろ、多くの人民を搾取して墓を作るのだから、自国の民
ではなく、被征服民を動員しやすい場所に建設する方が
合理的だと思われ。したがって、九州勢力が新領土である
畿内に巨大墳墓を作らせた可能性も十分ある。

693 :日本@名無史さん:04/09/21 03:25:25
>>686
別に近くてもよい、一大卒が遠くにないといけないというのは思い込み
東京に警視庁があるような感じと思えばいいのでは?


694 :日本@名無史さん:04/09/21 04:53:20
伊都國はかつて王が居て重要な拠点となっていますが、
千余戸しか人口が居ません。おかしいですね。
つまりこうなります。
イト国は北部九州(或いはもっと広範囲)を治めていた王の国の首都で、
金印をもらった委奴国のことです。
その東部のどこかにヤマ国という大国があってそこと合体して共立王を立てます。
これがヤマイト国のヒミコです。漢字を当てると邪馬壱國になります。
場所は奈良?
ヤマイト国には首都機能を担うため、イト国とヤマ国から民が移住します。
その結果イト国の人口が減少したのです。
このヤマイト国が後にヤマト国になります。

695 :日本@名無史さん:04/09/21 07:37:51
ファンタジーあふれるスレになりましたね。
学問スレに戻れる日は来るでしょうか。

696 :日本@名無史さん:04/09/21 07:51:21
>>679 弥生期に畿内「有力首長」なんてないよ。

畿内にはいなかったが、出雲や鳥取(大山)や越や鹿児島などに
国際交易をしていた海人(あま)系の有力首長達がいた。



697 :日本@名無史さん:04/09/21 08:08:53
>>692 江戸に幕府を構えた徳川家康のお墓が日光にある例

この例えはダメすぎ。弥生時代と江戸時代では特定の権力が
日本の別の地域を支配できる力が、全然違う。
信長、秀吉、家康と、中央集権的な全国統一形成の試みが続いた後で、
制度的に江戸幕府からの意向が強力に反映された江戸時代と
そういう安定性が食糧兵站面でさえ全く保証されていない
弥生・古墳時代における特定勢力の別地域での行動を
同じように語るなんて、ペテンもいいとこだ。




698 :日本@名無史さん:04/09/21 08:33:06
>>692
応神・仁徳の時代は関東の住居遺跡が減っている。
地元民は慰撫して征服した土地から徴用するのが基本だろ。

卑弥呼の時代は畿内・吉備連合が成立して西日本を制圧しているから
箸墓のような巨大な古墳を作る余力はできたのだろう。

699 :日本@名無史さん:04/09/21 09:28:46
>>698
 円に方形が接続した形で、茶臼山や車山と名付けられた山、実はその多くが前方後円墳である。
岡山県下に茶臼山の名をもつ前方後円墳は七基が知られるが、ここでは古墳時代前期の吉備の実力と政治情勢を物語る三基の茶臼山古墳をとりあげてみよう。
いずれも最古段階の古墳(三世紀後半)で、特殊器台が変化した文様のある埴輪・特殊器台形埴輪が使用されている。
 第一は、岡山市東部、吉井川と砂川の間の丘陵に築かれた浦間茶臼山古墳である。墳丘全長138mの大形前方後円墳で、
前期古墳のなかで最大の規模をもつ奈良県箸墓古墳と同じ設計で、二分の一の大きさに築かれたとみられる。
古墳時代前期初めに築かれた吉備の古墳のなかで最も大きいだけでなく、その時期の古墳としては全国第四位、大和・山城(近畿)以外では最大の古墳である。
 大和と吉備の首長が同盟し前方後円墳成立の際の中核勢力となったと考えられているが、
浦間茶臼山古墳の墳丘の形状や規模はそれを具体的に示す資料であり、吉備勢力の大きさを物語るものである。
 二つめは岡山市街地の東、操山の西端に所在する網浜茶臼山古墳である。
古くから墓地となっているため墳丘がかなり削られてはいるが、大形古墳の威容をとどめている。全長92mを測り、箸墓古墳の三分の一規模で築造されたと考えられる。
また、この古墳で注目されるのは立地であり、岡山市街地からも仰ぎ見ることもできるが、むしろ南側の瀬戸内海(現在の児島湾)に視界が開けており、
内海航路からの遠望を意識して築かれた古墳とみられる。
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/sagu15.htm

700 :日本@名無史さん:04/09/21 14:40:17
特殊台器やら埴輪やら言ってるけど
九州では前時代から鉄剣やら製造工場やら中国貨幣やらザクザク出てるよ
岡山県はさほど重要ではないのではない
九州勢の征服中継点でしかないようだしな。

701 :寛恕不如意背反網倫理:04/09/21 15:46:01
鏡分配による支配、八咫鏡じゃないかといわれるくらい大きな銅鏡、鉄鏡は筑紫が起源。
九州は鏡つくりの先進国。ところが大型古墳という土木作業はこの吉備を含む東瀬戸内
の朝鮮積石墳系がルーツのようだ。九州の鏡と朝鮮系積石古墳をどうやって結びつけるか
大きな疑問。皆さんどうお考えですかな。

702 :中学3年生@不登校児:04/09/21 15:46:52
さあ澄み切った師走の空気を切り裂いて最後の力比べが始まります!!
第4コーナーまわって直線!!大歓声だ!!内で筑紫説がんばった!
そして日向説!日向説が伸びてくるのか!!しかし宇佐説先頭!
宇佐説先頭だ!200を切った!外から畿内説きた!(畿内)
畿内説きた!(畿内)しかし宇佐説先頭!!!!
宇佐説1着!宇佐説1着!宇佐説1着!!
見事に引退レース!引退の花道を飾りました!!
邪馬台国です!!!宇佐説キャップです!!!

703 :日本@名無史さん:04/09/21 16:12:42
九州邪馬台国は何度も遷都してるってば。
筑前・筑後・肥前・肥後をぐーるぐる。

704 :日本@名無史さん:04/09/21 16:24:34
>>701
> の朝鮮積石墳系がルーツのようだ。

北チョンが吠えているだけの妄説を主張するとは
こいつはチョン総連?

705 :日本@名無史さん:04/09/21 16:32:25
>>700
九州は弥生時代後期から斜陽になった。
吉備では弥生最大の墓・楯築墳丘墓が建てられたことを知っておけよ。
http://www.city.kurashiki.okayama.jp/bunkahogo/shitei/sub4_tatetuki.htm

706 :日本@名無史さん:04/09/21 16:37:01
半島側の倭人領土における文化だから別にいいんじゃない?
ゴーヤチャンプルやいくらドンブリみたいに、周縁文化が中央に波及することもある。


707 :日本@名無史さん:04/09/21 16:48:39
>>706
そうじゃなくて、チョンは高句麗の積石塚をルーツにする工作に必死なのだ。
今は高句麗の歴史を支那史に組み込まれそうで
チョンはそれどころではないだろうが。

708 :日本@名無史さん:04/09/21 17:00:29
>>705
おまえな、簡単に斜陽とか言うけど少しは事例出せよ
具体的にどの古墳群がいつ頃まで栄えたとか、
おまえは次のレスで具体的な古墳群を述べよ、それについて確実に返答してやる
誤魔化すなよ、カス
畿内説は自説の為に古跡の時代を早めたり遅くしたりして
歴史の空白期間作ったまま喚いてるだけだな
だれがおまえの都合の良い妄想を信じるかよ、ボケ

709 :日本@名無史さん:04/09/21 17:02:54
>>708
池沼が火病を起こしたか(プ

710 :日本@名無史さん:04/09/21 17:56:03
最近は考古学関連のHPが充実している。

愛知県埋文センターは報告書などがPDFファイルで提供されている。
http://www.maibun.com/index01.html

詳細な福井県史が読める。継体天皇について詳しい。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/digitalarc.html

711 :日本@名無史さん:04/09/21 19:41:48
>>708
何、ムキになってんだ。いい大人が。
ちょっと時間を置いて、冷静になった方がいいよ。

712 :日本@名無史さん:04/09/21 20:43:18
考古学でいう土器の編年とかいうのがあるけど、
布留式?とか巻向式?とかを決定したのは、考古学会の
お偉いさんの思い付きでしょ。

非科学的な主観で決められているものだから、
違う別の新発見があると、すぐにぐらつく。

弥生時代が500年も遡ったのも
放射線年代測定という新兵器のおかげ。

713 :日本@名無史さん:04/09/21 20:46:27
>>712
基地外乙

714 :日本@名無史さん:04/09/21 21:07:50
畿内説は予定調和的に、万世一系天皇=邪馬台国王=畿内王に読み替えます。
何が発掘されようと、漢籍がどう解読されようと、おかまいなしです。

715 :日本@名無史さん:04/09/21 21:10:18
>>714
基地外の病状は悪化する一方だな。

716 :日本@名無史さん:04/09/21 21:29:44
マキムクの巨大古墳群の中に、ホケノ山古墳だったかがあったと思う。
その古墳から木材が発掘されて放射線年代測定をしたら西暦150年頃のものだったという。
卑弥呼が死んだのが西暦250年頃、とすると100年もの開きが出てしまう。
もし仮に箸墓を調査できたら築造年代は西暦180年頃になってしまう。
卑弥呼の生まれる前から箸墓古墳が存在したことになる。

畿内説の論者は何を焦っているのだろうか?
まるで勇み足ではないか。
畿内説論者よ!
マキムクを徹底的に発掘せよ。そして・・・
『墓穴』を掘ってくれ!

717 :日本@名無史さん:04/09/21 21:57:38
>>716
ホケノ山古墳のAMS補正年代は幅広い。
建安年間以後と見られる画文帯神獣鏡が副葬されていたホケノ山の年代としては古すぎます。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2091/doki/hokeno.html

718 :日本@名無史さん:04/09/21 22:13:22
そういえむかし
邪馬台国と書いてヤマトコクとルビを振っている本があったな

719 :日本@名無史さん:04/09/21 22:38:51
「やまたいこく」って通称だしな
そう読んでもいいだろう

720 :日本@名無史さん:04/09/21 22:40:44
卑弥呼の国は邪馬壱国だがな。

721 :日本@名無史さん:04/09/22 00:13:12
>九州は弥生時代後期から斜陽になった。
>吉備では弥生最大の墓・楯築墳丘墓が建てられたことを知っておけよ。
>http://www.city.kurashiki.okayama.jp/bunkahogo/shitei/sub4_tatetuki.htm

衰えてないよ。たとえば吉野ヶ里などが衰退していくのは3世紀後半以降。
那珂遺跡では庄内期に律令時代の道路に匹敵する大道が建設されてます。
鉄器も庄内期でも九州が圧倒的です。

それから特殊器台は、最初期の古墳からは出てこないよ。箸墓以降だね。



722 :日本@名無史さん:04/09/22 00:17:39
だからさー。倭人伝を重要視し過ぎると、話が袋小路になるんだよ。
結局、畿内説と北九州説が罵り合う事態になる。
北九州説にしろ倭人伝の解釈には無理が出てくる訳で、もっと倭人伝の記述が
シッカリしていれば、このような論争にはならなかったのにと残念に思う。
だから、倭人伝は一旦横に置いておいておこうよ。別スレで延々やってる事だし。
北九州説の人は「3〜4世紀にかけての倭国がどのような状態で、いかにして
大和朝廷誕生となったか」を語って欲しいな。
東遷説やら高地性集落など、色々語るべきことがあると思う。

723 :日本@名無史さん:04/09/22 00:20:22
弥生時代の畿内勢力なんて実証されてないですよ。
全く証拠がありませんね。


724 :日本@名無史さん:04/09/22 00:30:46
だから少なくとも邪馬台国九州説なんて学者の世界ではもう
おわってんだって。それと倭王権の成立過程の話は別の話。
九州説は古田とか井沢が金儲けのために喚いているだけだよ。


725 :日本@名無史さん:04/09/22 00:58:36
>>723
>弥生時代の畿内勢力なんて実証されてないですよ。
>全く証拠がありませんね。
意味が分からん。唐古・鍵とか池上・曽根とかはどうなるんだ?

726 :日本@名無史さん:04/09/22 01:34:48
えsdfg

727 :日本@名無史さん:04/09/22 01:41:52
>725
そりゃ、村落はあるでしょうが、それ以上のものはありません。
北九州ややや劣るが吉備にあるような特定個人墓や特定個人のため
の威信材が畿内から全く出ていない以上、統一的な「畿内勢力」の
存在は否定せざるおえんでしょうが。



728 :日本@名無史さん:04/09/22 01:42:48
学会で滅亡した九州説大暴れ

哀れな奴らだ。

729 :日本@名無史さん:04/09/22 01:49:16
村落ねえ…

730 :日本@名無史さん:04/09/22 02:24:49
、『隋書』倭国伝には「倭国…邪靡堆(やまと)に都す。則ち魏志の謂うところの邪馬台なり」とあり、七世紀の中国人にとって邪馬台が大和であることは自明のことであった。

731 :日本@名無史さん:04/09/22 03:56:31
>>722
倭国は3世紀、部族連合だったが、4世紀の半島の激動にあわせて、軍事国家の道を歩み始める。
このころ倭国で更迭された軍人、神武らは雇用主を求めるが、畿内にわずかな領土を得て人生を終わる(東侵)。
半島の長期国際戦争を避けた勢力は、東海勢力のリードでマクムクに交易国家を建設していた。
しかし九州倭国は筑前・筑後・肥後と遷都しながら、畿内を衛星国として傘下に収めつつ、
300年の戦争を戦った。663年倭国は戦争に負け、倭国系の天武が機に乗じて畿内を制圧、
倭国文化を引き継ぎつつ、畿内倭国を建国し、本家倭国を討伐し始め、持統天皇時代に
九州の本家残党狩りは終了した。

732 :日本@名無史さん:04/09/22 05:23:42
邪馬台国の歴史を見てみると、
男王(大乱)

ヒミコ(安定)

男王(大乱)

トヨ(安定)
となっていますね。
宗教的カリスマの強い女性でないと安定していませんね。
畿内説では、倭国内に祭祀性の異なる複数の大国が含まれるわけですが、
これらの国が、王のパワーに従属するならともかく、
なんだか良く分からない宗教の巫女に従属するわけがありませんね。
これほどはっきりと祭祀によって安定するのは、同一の宗教観を持つ
国々でしかありえませんね。つまり、倭国は九州に限定されるはずですね。
つまり、九州説ですね。

733 :日本@名無史さん:04/09/22 05:35:51
九州説だとこんな感じでしょうか。
当時九州島は大きく3つの勢力に分かれていた。
北部のイト国、南東部のヤマ国、南西部のクナ国です。
さしずめ九州三国志とでもいいましょうか。
イト国は金印をもらった国ですね。
このうちイト国とヤマ国が反クナ国で団結します。
これがヤマ国+イト国=ヤマイト国(邪馬壱国)です。
しかし、王が力で治めようとしても、反発しあってうまく行きません。
そこで宗教に頼ります。もともと宗教感が似通っていたのでしょう。
国をまとめるのに巫女が必要だったのですね。
つまり、ヒミコ、トヨでぴったりと戦乱が止む理由が分かります。
九州説だと、矛盾なくすんなり行きますね。

734 :日本@名無史さん:04/09/22 07:57:41
>>733
それで、ヤマイト国はどうなったの?

735 :日本@名無史さん:04/09/22 08:14:37
>>721
> それから特殊器台は、最初期の古墳からは出てこないよ。箸墓以降だね。

これが重要。箸墓になって吉備発祥の円筒埴輪の前身を並べ
一方の吉備では箸墓のちょうど半分の前方後円墳(浦間茶臼山古墳)を作り
この時点で畿内と吉備の連合が成立したことを強く示唆する。

736 :日本@名無史さん:04/09/22 08:17:54
ヤマ国は、南東部ではなく、豊前の山国ではないか?
その方が、もっと矛盾ない。

737 :中学3年生@不登校児:04/09/22 08:43:34
宇佐神宮に応神天皇、神功皇后とともに比売大神が
祭られてることですでに邪馬台国論争は終結していますよ。

738 :日本@名無史さん:04/09/22 11:02:56
宇佐が浮上するのは、九州系天武が畿内から本家九州倭国の残党狩りをするため、
宇佐を拠点にしてからでしょう。邪馬台国の繁栄史に、宇佐は登場しません。
逆に、邪馬台国の滅亡史にだけ出てくるわけです。

739 :日本@名無史さん:04/09/22 12:11:49
繰り返し書いてるみたいだが、勝手な思い込みだろ。

740 :日本@名無史さん:04/09/22 12:48:15
勝手な思い込みは

  畿内国家=邪馬台国=マキムク

  卑弥呼の墓=箸墓

世界が笑う↑この電波説から、早く目を覚まそうよ!!

741 :日本@名無史さん:04/09/22 13:25:53
箸墓はトヨの墓だよね。

742 :中学3年生@不登校児:04/09/22 14:03:05
マキムクと邪馬台国をいい加減切り離して
考えましょうよ。

743 :日本@名無史さん:04/09/22 15:13:25
マキコウケンの職員のように
マキムクと邪馬台国を切り離されたら仕事が減るか失業する連中がいるかぎる
嘘と解っていても畿内説を叫ぶ連中は消えないと思うよ。

744 :日本@名無史さん:04/09/22 15:51:17
>>743
病人は病人板に逝ってやれよ。
安本や古田のような著述業が商売あがったりになるから
幻の九州説に執着しているだけ。

745 :日本@名無史さん:04/09/22 16:53:20

槙考研関係者ですか?

世間と自分を欺くことで飯が食えるなんて良い身分だな

実際自分自身で邪馬台国は畿内には無いということが解っている癖に

話題性維持のため必死な虚偽捏造、哀れとしか言いようが無い。

畿内説が個人攻撃に走るなら職員の自宅住所電話番号公開しようか?



746 :日本@名無史さん:04/09/22 17:01:39
>>735
ちょうど半分なら連合じゃなくて服従じゃないの?
あるいは大和から来た支配者の墓とか。「連合」の
根拠はそれだけ?

747 :日本@名無史さん:04/09/22 17:18:21
>>698
応神・仁徳のような巨大墳墓を造営するには
全国的な動員が必要だっただろうと言われているけど、
その動員がもし集落が消滅するほどの過酷な
ものだったらすぐに陳勝・呉広が現れるよ。無茶な話し。

748 :日本@名無史さん:04/09/22 17:31:42
>>747
はぁ?畿内で巨大古墳が次々と作られているのは事実だぞ。
一方、同じく巨大古墳を作ってきた吉備では5世紀後半から失速している。
日本書紀では雄略紀の前後で吉備の反乱と敗退を記述しており
畿内と吉備の対立の結果と考えるのが妥当だろう。

他方、埼玉県では急に古墳群が作られるようになっており
稲荷山鉄剣銘によるとワカタケル大王(雄略天皇)に派遣されたようだ。

749 :日本@名無史さん:04/09/22 17:41:06
>>748
別に巨大墳墓の造営という事実を否定しているわけじゃない
でしょ。698に答えただけだよ。雄略紀を引くなら、その前の
崇神紀も読んでね。吉備と仲良くしましたなんてどこにも書いて
ないから。


750 :日本@名無史さん:04/09/22 17:48:50
巨大古墳は丘陵を整形したモノに過ぎないよ。農業用の堤や池を作った残土を
利用したものだし。その意味では平和的に雇用を生み出した大規模公共事業と
いったところかな。

751 :日本@名無史さん:04/09/22 17:58:05
邪馬台国は巨大古墳国家じゃなくて
女王ですら直径25mしかない「冢」程度で済ませた

        薄 葬 国 家

                     だったんだけどな。

752 :日本@名無史さん:04/09/22 17:59:14
>>750
最初期は丘陵を整形した古墳が多いが
仁徳陵は沖積平野の真っ直中に作っているぞ。

753 :日本@名無史さん:04/09/22 18:05:44
>>749
古代吉備王国の姫君たち
http://www.infonet.co.jp/nobk/hime/kibi.htm

754 :日本@名無史さん:04/09/22 19:04:14
>>751
短歩厨キター

755 :日本@名無史さん:04/09/22 19:51:00
「冢」ならそうでしょ。

756 :日本@名無史さん:04/09/22 21:00:27
>>745
>畿内説が個人攻撃に走るなら職員の自宅住所電話番号公開しようか?

こいつ、ヤバ過ぎるな。余裕が無さ過ぎると言うか、被害妄想と言うか。
読んでいて不愉快だから、お前は二度と書き込みをするなよ。

757 :日本@名無史さん:04/09/22 21:18:45
>>735
箸墓が周囲に置かれた円筒埴輪から、元々は土師墓(はしのはか)と呼ばれていたのだ
とすれば、やっぱり特別な墓だったんだと思う。
卑弥呼の墓かどうかは別にして。
しかし、トトヒモモソ姫が箸(当時は日本に箸は無かったそうですが)で陰部を突くという、
滑稽味さえ感じられる死に方を遂げなければならなかった理由は、果たして何なのだろうか。
女陰=出産の否定。なぜ、モモソ姫は神の子を産めなかったのか。

758 :日本@名無史さん:04/09/22 23:11:27
>735
>これが重要。箸墓になって吉備発祥の円筒埴輪の前身を並べ
>一方の吉備では箸墓のちょうど半分の前方後円墳(浦間茶臼山古墳)を作り
>この時点で畿内と吉備の連合が成立したことを強く示唆する。

重要じゃありません。
箸墓の前には、同系統の九州の那珂八幡古墳やマキムク勝山古墳があり、
すでに西日本は統一済みです。



759 :日本@名無史さん:04/09/22 23:16:49
>畿内説が個人攻撃に走るなら職員の自宅住所電話番号公開しようか?

こいつやばすぎ。
安本か古田の信者かよ。

760 :日本@名無史さん:04/09/22 23:22:39
だ〜か〜ら〜

安本と古田は、無防備で批判され好きだから、信者はいないの!


761 :日本@名無史さん:04/09/22 23:25:40
マジでやべえよ。
警察か橿原研にメールしといた方がいいんじゃないの。


762 :中学3年生@不登校児:04/09/22 23:36:58
畿内に3世紀の遺跡がでたから
なぜそれが邪馬台国になってしまうわけ?
それって神武の一族のものなんじゃないの?

763 :日本@名無史さん:04/09/22 23:38:49
>760
ウソ付け

764 :日本@名無史さん:04/09/22 23:54:35
ここレベル低すぎ。
東アジアの古代文化を考える会の掲示板の足下にも及ばない。

765 :日本@名無史さん:04/09/23 00:17:54
>>758
箸墓が重要な理由の一つは、それ以前の畿内の墓には見られなかった
吉備発祥の円筒埴輪の前身を並べるようになったことだ。
一方で吉備には箸墓の1/2モデルの浦間茶臼山古墳も建てられたし
畿内・吉備連合を示すものだ。

766 :中学3年生@不登校児:04/09/23 01:09:58
3世紀の時点で西日本が統一されていたとしても
その当時の中心はまだ九州にあったということでしょ。
4世紀に入り中心が大和に移っただけの話。

767 :日本@名無史さん:04/09/23 08:11:38
>>766
7万戸の邪馬台国(畿内)と5万戸の投馬国(吉備)の勢力が強大で
北九州には一大率を置いて睨みを効かせていた。

768 :中学3年生@不登校児:04/09/23 09:54:35
7万戸の宇佐と、5万戸の熊本の勢力が強大で
畿内には神武一族がほそぼそと暮らしてるだけだった。

769 :日本@名無史さん:04/09/23 09:59:25
>>768
福岡の奴国ですら2万戸なのに
他の北部九州で7万戸や5万戸は無理。
古墳時代の強大さを考えると畿内と吉備しかあり得ないな。

770 :寛恕不如意背反網倫理:04/09/23 10:03:17
 東南して、奴国に至るまで百里。官を@馬觚と曰い、副を卑奴母離と曰う。二万戸あり。
 東行して不弥国に至るまで百里。官を多模と曰い、副を卑奴母離と曰う。千余家あり。
 南のかた投馬国に至る、水行三十日。官を弥弥と曰い、副を弥弥那利と曰う。五万余戸可り。 
南のかた邪馬台(壱)国に至る、女王の都する所にして、水行十日・陸行一月。官に伊支馬あり、次を弥馬升と曰い、次を弥馬獲支と曰い、次を奴佳Aと曰う。七万余戸可り。

この辺の地理を考える時には沖縄から福島県あたりの当時の倭国の耕地面積を考慮して判断されるべきだ。余りにも小さくとらえてはならない。

771 :中学3年生@不登校児:04/09/23 10:12:32
>>769
そりゃ勘違いしすぎだわw
畿内と吉備に強大な勢力があったからって
それを投馬国と邪馬台国にあてはめてしまう
その心が理解できない・・
7万戸、5万戸っていうのは倭人伝に書いてあること。
倭人伝を素直に読めば北九州で決定。
畿内説は倭人伝の都合のいいとこだけひっぱってくれ
無理やり畿内にしようとするから醜いw

772 :日本@名無史さん:04/09/23 10:32:30
>>771
邪馬台(ヤマト)国と箸墓などが位置するオオヤマトとは地名も合っている

773 :日本@名無史さん:04/09/23 10:33:36
「中学3年生@不登校児」=「25歳♂投馬国王の子孫」=宇佐基地外の自演乙

774 :日本@名無史さん:04/09/23 10:39:29
邪馬台=ヤマト=畿内なんていう

 電 波 語 呂 合 わ せ は 飽きたな

775 :中学3年生@不登校児:04/09/23 10:46:22
だから邪馬台=ヤマト=大和っていうのは
地名じゃなくて、大いに和するっていう意味で
連合国家の首都だってことがわからないかな?
4世紀に九州から畿内に首都が移動しただけだよ。

776 :日本@名無史さん:04/09/23 10:52:18
>765

とっくの前に吉備は大和王権に組み込まれている。
少しは考古学を勉強しろ

777 :日本@名無史さん:04/09/23 10:58:29
学会で消滅した九州説が生き残っている2ちゃんねるってレベル低い。

778 :日本@名無史さん:04/09/23 11:02:54
>>775
ヤマトに「大和」を当てる過程も知らないのかよ。

日本書紀では「大倭国」を当てている。
続日本紀では「大倭国」から伝染病が大流行した時期に一時「大養徳国」として
最終的に「大和国」になったもので、元々そんな意味などない。

ちなみに、万葉集ではヤマトを音や訓として様々な文字で当てている。
山跡、倭、日本、山常、八間跡、夜萬登、夜末等、夜麻登

779 :日本@名無史さん:04/09/23 11:06:21
>>776
はぁ?吉備では日本第4位の造山古墳を建てているように
5世紀半ばまでは大きな勢力を維持しているぞ。
畿内・吉備連合が崩れて吉備が没落したのは
考古的には古墳時代中期後半(5世紀後半)だ。

780 :日本@名無史さん:04/09/23 11:07:06
>>777
レベルの低いのが暴れているが
全員のレベルが低いわけでもない

781 :寛恕不如意背反網倫理:04/09/23 11:10:11
土器編年のゆらぎから九州説/近畿説にゆらぐのは致し方ないところもある。
スレの趣旨は倭人伝記述内容と記紀に接点はあるかということだ。私は記紀が
倭人伝内容を神功 皇后のあたりに意図的に入れていると見る。
大卒の駐在する伊都国の官、ニキがニギハヤヒ、ニニギに似ている。雄略朝の丹後の
ウラ−シマコのシマコは奴国の官名に似る。シマノスクネという言葉もある。シマとは何なんだろう。


782 :中学3年生@不登校児:04/09/23 11:11:03
>>778
問題なのは、なぜ大和と言う文字がヤマトの当て字に選ばれたかです。
これは古来よりの日本の精神文化をあらわすものだからです。
すなわち、和をもって尊しとなすといわれるように、できるだけ
争いを避け話し合いで解決しようという考えです。大和朝廷が
成立し、中央集権化が進むまでは、日本は、連合国家であり、
その中心地がヤマト国だったというわけです。

783 :日本@名無史さん:04/09/23 11:16:15
>>782
池沼は、これだけ説明しても分からないのか。
「日本書紀」が書かれた時代にはヤマトは「大倭国」だった。
「大和国」と当てるようになったのはもっと後だ。
いい加減に理解しろ、池沼。

784 :日本@名無史さん:04/09/23 11:18:38
>>781
正確には相対的な土器編年は揺らいでいない。
かつての根拠のない暦年換算から科学的な換算に変わる過渡期だ。

785 :日本@名無史さん:04/09/23 11:18:48
>>771
倭人伝を素直に読めば北九州にはならない。
大体、奴国や伊都を除いて、投馬国や邪馬台国の戸数を満たせそうな国は、
北九州には存在しないよ。

>7万戸、5万戸っていうのは倭人伝に書いてあること。
>倭人伝を素直に読めば北九州で決定。
どういう事? 7万、5万戸は記述が間違っているって言うのか?
お前も、倭人伝の都合のいいとこだけひっぱって無理矢理に北九州に
しようとしてるだろ。

786 :日本@名無史さん:04/09/23 11:32:39
>>771
>>680のような特殊な読み方をしない限り、邪馬台国を北九州に持ってくる
ことは不可能。
奴国までの行程はほぼ確定しているし、
・東に百里で不彌国に至り
・南に水行二十日で投馬国
・南に水行十日陸行一月で邪馬台国へ漸く到着するわけで、
どう考えても、北九州に邪馬台国があったとは思えない。
お前の好きな「倭人伝を素直に読む限りでは」な。
いい加減に、自分も畿内説と同じく、倭人伝を自説に都合がいいように解釈
していると、素直に認めろよ。
別にそれは悪いことじゃない。出来れば、倭人伝以外の根拠を示して、畿内説に
反駁して欲しいということだ。
九州説の拠り所が倭人伝しかないのは、分かるけどさ。

787 :寛恕不如意背反網倫理:04/09/23 11:41:53
>784 暦年換算の過程に出てくるC14放射線半減期による決定はその過程が素人に
判りにくい。いわゆる較正の際の確固たる尺度がふらついているようだ。その問題は
専門家の領域であるからわれわれはもっと他の部分で論戦をはるべきかと思う。
伊都国にあるニキという官名ニニギ、ニギハヤヒなどに共通する高天原神話に近い
ものがある。平原古墳の近辺に立っていたとされる「回向柱」のようなものは高木の神
又はタカミムスビを考えさせられる。高天原がこの近所ではないかと思うんだけど。

788 :日本@名無史さん:04/09/23 11:43:41
>779
一般的にでっかい古墳があるから、独立していたとはされていない。
電波系では関東大王とか吉備大王とかいう主張をするのはいるが
基礎的な考古学の本を読んではいかがか。


789 :日本@名無史さん:04/09/23 11:44:25
>>786
倭人伝以外で、出土物などから「邪馬台国」の文字を見つけたことがあるのかよ?
バカじゃないんですか?

790 :日本@名無史さん:04/09/23 11:50:58
>>758
だから、箸墓は大ヤマトの初期古墳で最初に円筒埴輪を並べたから、重要なんだろ。
地元民は初めて見る異様な墳墓を、土師墓と呼んだんだろう。

791 :日本@名無史さん:04/09/23 11:58:52
>>789
だからさー。
倭人伝の記述が正確ではなく、解釈しないといけない代物なら、
「倭人伝を素直に読めば畿内説は有り得ない」みたいな不毛な反論は止めろ
って言ってるんだよ。

792 :日本@名無史さん:04/09/23 12:01:03
金印と阿蘇山は無視?

793 :日本@名無史さん:04/09/23 12:14:19
>>788
歪曲するなよ。隷属しておらず同盟といった方が良いと述べたのだ。
造山・作山古墳を見れば理解できる。

794 :日本@名無史さん:04/09/23 12:17:40
>>790
箸墓の巨大さと特殊器台(円筒埴輪の前身、棺にも用いる)が
ずらりと並んでいるのには驚いただろうな。
箸墓の作り方まで記載されているし、何百年たっても語り草だった。

795 :寛恕不如意背反網倫理:04/09/23 12:21:55
割り込み御免m(_ _)m
>>790 地元民は初めて見る異様な墳墓を、土師墓と呼んだんだろう
心理的にはこの通りだとおもう。
「土師」については勿論この意味は非常に強い。特に特殊器台があるからね。
しかし、前方から後円にいたる部分は、いわゆる、鞍馬と言うかクラというか、
そんな形をしているが、機能的には四隅突出古墳の土俵入り部分というか、
結界へ入る部分、通過儀礼の「橋」であり、いまだに全国の神社に見られる。
これが本格的に作られえたことに儀式上に意味があったのではないかと思う。

796 :日本@名無史さん:04/09/23 13:04:22
孝昭〜孝元あたりの大王が、吉備と縁が深いのも、大和・吉備連合を物語っている。
もしくは、吉備から大和への侵入→王権樹立があったのかもしれん。

797 :日本@名無史さん:04/09/23 13:17:39
>>757
>トトヒモモソ姫が箸(当時は日本に箸は無かったそうですが)で陰部を突くという、
>滑稽味さえ感じられる死に方を遂げなければならなかった理由は、果たして何なの
>だろうか。
>なぜ、モモソ姫は神の子を産めなかったのか
そもそもは、崇神は大物主神の子供で、ハツクニシラスになったみたいな伝承が
あったのではないか。それを思わしく思わない勢力(九州から来た簒奪者・応神)
によって抹殺されたのでは?
それで、崇神はタタリガミ(祟神)になったと。そう考えると鎮花祭も興味深いよな。
初期ヤマト政権の成り立ちは妄想が尽きなくて面白い。

798 :日本@名無史さん:04/09/23 13:23:12
>>797
崇と祟は全く違う漢字だぞ

あが・める 3 【▽崇める】
(動マ下一)[文]マ下二 あが・む
(1)この上ないものとして扱う。尊敬する。敬う。
「一生の師と―・める」
(2)大切にし、寵愛(ちようあい)する。
「昨日まで高き親の家に―・められかしづかれし人のむすめ/源氏(若菜上)」

たた・る 0 2 【▼祟る】
(動ラ五[四])
(1)神仏・怨霊・物の怪(け)などが災いをする。
「悪霊が―・る」「ふりにし恋の神さびて―・るに/古今(雑体)」
(2)ある行為が原因となって悪い結果をもたらす。
「無理が―・って病む」

799 :日本@名無史さん:04/09/23 13:26:04
>>798
分かってるってw
詳しくは、【「崇」字をもつ天皇たち】スレを参照してくれ。

800 :寛恕不如意背反網倫理:04/09/23 13:34:42
纒向搬入土器からは東海、すなわち、ヨソタオ姫を娶った孝元辺りから箸墓建設も
開始されたと思われるのだが、特殊器台が入ってくる時点で、廻間土器系統との
土師間で抗争が発生し、東海勢力が敗退で覇権が一時吉備に移るも、巻き返しが
狗奴国との内戦の形で開始され、ちょうどこの頃卑弥呼時代が終り、丹後と縁の深い
崇神が御垣イリヒコからハツクニシラスに浮上してくると見たい。

801 :寛恕不如意背反網倫理:04/09/23 13:40:09
割り込み御免m(_ _)m

>>797 陰部を突くという
これは箸墓の「橋」の部分で円墳の頂上から陰部に射す朝日に感応する秘儀を行
なっている最中高齢のために過労死したとかとの英雄的(?)逸話と考えたい。

802 :日本@名無史さん:04/09/23 13:40:21
崇神天皇が吉備津彦(孝霊天皇の息子)を
四道将軍の一人として西道に派遣したとある。

803 :寛恕不如意背反網倫理:04/09/23 14:37:27
「崇神10年9月条に大彦命を北陸(くぬがのみち)に、
武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海(うみつみち)に、
吉備津彦(きびつひこ)を西道(にしのみち)(山陽)に、
丹波道主(たにわのちぬし)命を丹波(山陰)に遣わし・・・」
とここにいう「くぬがのみち」こそ、倭人伝の「狗奴国」、
「クガチヒコ」と読みたい。越中氷見の国の「ヒミキコ」
というのも全くはっきりし、狗奴国戦争の相手国とは
まさに信長が制圧した浅井、上杉等との戦争の様相を
呈したのでなかったのであろうか。

804 :日本@名無史さん:04/09/23 14:58:22


関  西  は  箸  墓  の  話  題  し  か  で  き  な  い

805 :日本@名無史さん:04/09/23 15:01:01
>>804
基地外が発狂した

806 :日本@名無史さん:04/09/23 16:04:38
>>804
箸墓の特異性は、記紀を読んでも分かるだろ。
少しは、近年の考古学の成果にも目を向けた方がいいぞ。

807 :日本@名無史さん:04/09/23 16:18:29
>>804
卑弥呼と一緒に箸墓に埋めてやろうか?
それともトヨが眠る勝山に埋めてやろうか?

808 :寛恕不如意背反網倫理:04/09/23 16:33:56
箸墓は徳川時代の江戸城よりはスケールがはるかに大きい古墳時代
の江戸城のようなもんだし、日本の国土統一、すなわち、日本の生誕の証し
という意味がある。この時代、世界でこれほど明確に建国の跡を残す遺跡は
秦の始皇帝の建造物くらいだろうが、建国となると箸墓のほうが純粋だ。
こういう遺跡があることは日本人として幸せだよ。胸を張れ。

809 :日本@名無史さん:04/09/23 17:01:46
九州説は首都を移動した理由が説明できるのか?
首都移すって大変なことじゃないのか?
畿内でほいほい動かしたのと同レベルじゃないんだが。

あ,九州とは別の巨大国家があったってのも出てたか。

とりあえず邪馬台国がどこかという議論はもういいから
九州にあったと仮定した場合の大和朝廷との繋がりを説明してくれエロい人

810 :日本@名無史さん:04/09/23 17:03:22
>>806
で、その「箸墓の特異性」なるものが、卑弥呼の墓と、どう関係があるのですか?


811 :806:04/09/23 17:12:21
>>810
卑弥呼の墓で確定とは言っていないよ。
箸墓は、初期ヤマト政権成立期において、特別な意味を持った墳墓だ
と言っているだけ。


812 :日本@名無史さん:04/09/23 17:18:55
結局のところ、畿内説の場合、箸墓=卑弥呼の墓と見るのが、文献、考古学など、
概ね調和的ということ。
九州説の場合は、箸墓≠卑弥呼の墓なのだから、邪馬台国は大和朝廷にはならなかった
ということ。
倭人伝の解釈はこの程度でいいだろ。もっと、違う視点で話そうぜ。
箸墓=土師墓という説とか、結構面白いよな。

813 :中学3年生@不登校児:04/09/23 17:22:17
倭人伝を否定することは邪馬台国の存在自体を否定することです。
したがって邪馬台国が存在してるとすれば倭人伝の記述に
すべて従うのが道理です。ゆえに帯方郡から12000里でたどり着く邪馬台国は
九州にあります。これに異を唱える方々は、頭がどうかしていますw

814 :日本@名無史さん:04/09/23 17:31:19
>>813
「中学3年生@不登校児」=「25歳♂投馬国王の子孫」=宇佐基地外は、いい加減にしろよ。
「大倭国」→「大和国」も知らない、おまいのような基礎知識もないのが吠えるから
議論の質が下がる。少しは勉強しろよ。

815 :812:04/09/23 17:40:04
>>813
倭人伝を否定している訳ではないよ。
俺は倭人伝の解釈のみの、邪馬台国所在地論争の不毛さを言っているんだ。
延々話題がループしていて、畿内説VS九州説の罵詈雑言合戦になっている
のは読んでいて分かるだろ。
だから一旦、倭人伝を横に置いておくことは意義があると思うんだよ。

倭人伝の解釈は、別スレでやっていることだしな。

816 :中学3年生@不登校児:04/09/23 17:44:30
>>814
井沢元彦の本に書いてあったからそれくらい
知ってますよ。私が言いたかったのは、
日本の精神文化のことです。邪馬台国を国として
見るのではなく、みんなで決めた首都として
見るほうが正しいのではないでしょうか?

817 :日本@名無史さん:04/09/23 18:18:42
で、

 25mしかない卑弥呼の墓 と 280mの箸墓

     何か関係あるの?・・・無関係でしょ >>804-812

818 :日本@名無史さん:04/09/23 18:20:12
洪思翊(こう・しよく)

朝鮮半島出身の人で洪思翊(こう・しよく)という名前の日本帝国陸軍中将がいました。
明治40年9月(1909)に純宗は大韓帝国の軍隊の解散を命じ、明治42年9月、36名を選抜し日本の中央幼年学校に入学させました。
その中のひとりが後の洪中将です。
その1年後に日本に併合されましたが、36名はそのまま訓練を続け、任官してから出処進退をきめることにしました。
この時の一人池晴天(のちに池大亨と改名)は大正八年、3・1独立事件後陸軍中尉のときに脱走して上海の金九の上海の大韓民国臨時政府に馳せ参じ、重慶に移動して光復軍の司令官となりました。
しかし、洪氏は亡命せずに当時のエリート校であった陸軍大学校に進学し、中将にまで栄進しました。
 終戦時には南方軍総司令部の兵站(へいたん)総監を勤め、戦後、捕虜虐待の罪を問われてフィリピンで刑死しましたが、もちろん洪中将が捕虜を虐待したという事実はなく、
当時現地で行われたB・C級戦犯の裁判は、東京裁判と同様、被告に不利な証言だけが証拠として採用された。
はじめから結論ありきの、戦勝国による"復讐"裁判でした。


819 :日本@名無史さん:04/09/23 18:32:44
>>816
「中学3年生@不登校児」=「25歳♂投馬国王の子孫」=宇佐基地外は
怪しげな通俗書ではなく、原典を読めよ。

820 :日本@名無史さん:04/09/23 18:37:43
九州説ってキティガイだね。

821 :日本@名無史さん:04/09/23 18:42:53
>孝昭〜孝元あたりの大王が、吉備と縁が深いのも、大和・吉備連合を物語っている。
>もしくは、吉備から大和への侵入→王権樹立があったのかもしれん。

その前にマキムク型前方後円墳は、全国にひろがってるのでそんな無理な設定
をする必要なし。
考古学の勉強をするように。



822 :日本@名無史さん:04/09/23 18:51:37
で、金印と阿蘇山と邪馬台国は、九州なわけだが

823 :日本@名無史さん:04/09/23 19:28:19
>>820のような畿内説論者の言動がすべてを物語っている。
論証できない畿内説、というのは定着してしまった感があるな。

824 :日本@名無史さん:04/09/23 19:38:30
>>821
その前にマキムク型前方後円墳が全国に広がるって、孝昭の前ってことか?
孝昭って、記紀での第5代天皇なんだが。

唐古・鍵遺跡にも吉備地方との交流の跡が見え、遠い昔、吉備とヤマトの王家が
縁続きだったと考えても不思議はないと思うが。まあ、あくまで推測だけど。
考古学的に明白な誤りを書いたつもりはないのだが。

825 :日本@名無史さん:04/09/23 20:03:49
>>821
箸墓以前の纒向型前方後円墳は、吉備発祥の特殊器台(円筒埴輪の前身)を
並べておらず、箸墓以降ほどには吉備との密接さは見られないぞ。

826 :中学3年生@不登校児:04/09/23 21:13:39
邪馬台国が畿内だったらえらく九州から遠いですね・・
西日本全域にわたってすでに統合されてたということですか?

827 :日本@名無史さん:04/09/23 21:25:20
>>826
畿内・吉備連合が瀬戸内海を制圧して、北九州にも勢力を伸ばしたのだろう。

 出現期の最大規模の前方後円墳は、奈良盆地東南部の三輪山の麓に位置する箸墓古墳(奈良県桜井市、墳丘長約二八〇メートル)であり、次が椿井大塚山古墳(京都府山城町、約一九〇メートル)である。
このほかでは、浦間茶臼山古墳(岡山市、約一四〇メートル)、石塚山古墳(福岡県苅田町、約一二〇メートル)が大きい方である。
前方後方墳では、元稲荷古墳(京都府向日市、約九四メートル)が最大規模である。
当時、大陸からの新しい文物の受け入れ口である玄海灘沿岸地域には、那珂八幡古墳(福岡市、約七五メートル)が所在するのみである。
 これらの事実から、前方後円(方)墳の創出は、畿内と瀬戸内海沿岸地域の有力首長が大陸の鉄をはじめとする新しい文物を安定的に手に入れるために連合し、
九州北部を制圧する必要性を契機になされたと考えられている。この連合政権をヤマト政権と考古学者はよんでいるのである。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2・3-01-01-01-02.htm

828 :中学3年生@不登校児:04/09/23 21:35:37
畿内・吉備に3世紀にすでに大きな勢力が
あったのは事実でしょうけど、まだその時点では
歴史の中心は九州だったってことでしょ。

829 :日本@名無史さん:04/09/23 21:48:15
>>828
九州には一大率を置いて睨みを効かせている。
前方後円墳が北部九州にも広がり始めているように
畿内・吉備連合の傘下に入っていた。

830 :中学3年生@不登校児:04/09/23 21:49:27
>>829
邪馬台国の「北」に一大卒をおいていると
書かれてますが、これはいったいどういう
ことなのでしょうか?w

831 :日本@名無史さん:04/09/23 22:00:48
>>830
池沼はいまさら何を言っているのだ。
方角については間違っているとするしかないだろ。
「一大率」を置いているのは、本拠地が遠隔地にあることを示す。

832 :日本@名無史さん:04/09/23 22:08:35
>>831
>「一大率」を置いているのは、本拠地が遠隔地にあることを示す。

だからそれを論証してみろよ。
一大率=本拠地が遠隔地  というのは、どこから導き出された命題なのだ。
倭人(あるいは他の資料)のどの部分を解釈し、そういう結論に至ったのか。

833 :日本@名無史さん:04/09/23 22:13:06
>825
特殊器台の存在を知った厨房が知ったかをしてるんだけだろ。
ホケノ山の調査報告書でも読むべきですね。


834 :中学3年生@不登校児:04/09/23 22:14:34
>>831
では北と西を間違えたとでもいうのでしょうか?w
それに遠隔地というのは現代の感覚であり、
その当時は、宇佐あたりと伊都国でも十分
遠い距離だったように思いますがw

835 :日本@名無史さん:04/09/23 22:16:53
憑山負海、鎮馬臺以建都……邪届伊都、傍連斯馬。

翰苑では、「邪馬台国」は「伊都」と「斯馬」と並んでいる、と書かれていますね。
つまり 斯馬−伊都−邪馬臺 と連なっているのです。

836 :日本@名無史さん:04/09/23 22:21:12
>睨みを効かせている
>傘下に入っていた
そんなフレーズを使うと、たいそう立派な中央権力に聞こえますね。
王(女王)ですら共立であり、器量の無い王のときは国内が纏まらなかった。
そう書いてありますよね。
もっとルーズな纏まりの国と考えましょう。


837 :日本@名無史さん:04/09/23 22:23:47
>>833
誤魔化さずにちゃんと説明をしろよ

838 :中学3年生@不登校児:04/09/23 22:27:00
単純に、倭国の地域が九州のみから
西日本全域に拡大したのが4世紀前後ってことでしょ。
首都も宇佐=邪馬台国から畿内に変更したというだけです。
旧首都であった宇佐=邪馬台国に道鏡の事件の際
わざわざ聞きにいったのはそのためです。これですべて解決。

839 :日本@名無史さん:04/09/23 22:27:07
>>836
過渡期だからな。
吉備発祥の特殊器台を並べるようになるのは、箸墓からだし。

840 :日本@名無史さん:04/09/23 22:30:33
>>832
831ではないが、倭人伝を読む限り、邪馬台国は伊都国から遠く離れた所にあったと
考えられる。少なくとも、博多湾近くとは考え難い。
だから、本拠地から遠いが重要地である博多湾近辺に、他国の監視機関(一大卒)を置いた
と考えるのが順当。
後世の六波羅探題や京都所司代みたいなものだな。

841 :日本@名無史さん:04/09/23 22:35:33
屁理屈を、百万言こねくり回して、畿内説にしちゃっても

  所詮、金印と阿蘇山は九州

842 :日本@名無史さん:04/09/23 22:41:25
>>841
レベル低いな。もう少し何か言えないものか…

843 :日本@名無史さん:04/09/23 22:42:22
>>841
意味不明。金印は後漢書、阿蘇は隋書

844 :日本@名無史さん:04/09/23 22:43:24
>>842
レベルの高い人物が、九州説に拘泥しているなどあり得ないから

845 :中学3年生@不登校児:04/09/23 22:48:58
えっ????????
12000里の距離も誤り????
方角も全部誤り????
じゃあ邪馬台国の存在自体誤りでいいんだね?w

846 :日本@名無史さん:04/09/23 22:56:32
九州説は>>745とか>>841>>845みたいな奴しか、いないのか…
「通俗本を読みました」レベルだな。
もう少し議論の出来そうな、九州説の人に出てきて欲しい。

847 :日本@名無史さん:04/09/23 22:57:42
>>845
水陸と日数と地名は問題ないだろ。
万葉集の遣新羅使、室町時代の朝鮮使者、江戸時代のオランダ商館員など
時代を超えて水行するのは瀬戸内海。

848 :日本@名無史さん:04/09/23 22:59:14
>>846
少し勉強をすると、九州説を捨てて畿内に落ち着くから
議論のできそうな九州説の香具師は事実上存在しない。

849 :日本@名無史さん:04/09/23 23:02:40
ていうか、畿内説はすべて妄想だから、畿内説派は九州説が理解できない。

850 :日本@名無史さん:04/09/23 23:03:43
>>840
畿内説について納得できないのは、「九州」についてばかりやたらと国名が詳しく、
邪馬台国の近くになると、ポツン、と女王国が一国のみ記載されている、ということになる。

その異常さに気づいていないのだろうか? と思うのだ。
「翰苑」の記事を読むかぎり、邪馬台国は伊都国の隣だと中国側の認識が示されている。


851 :日本@名無史さん:04/09/23 23:04:53
漢籍読めないのは、畿内説の専売特許です。

852 :日本@名無史さん:04/09/23 23:06:47
突然滅亡したマキムクが、邪馬台国じゃ無いことすらわからないのは
畿内説の専売特許です。

853 :日本@名無史さん:04/09/23 23:09:05
魏志では、湾を半周しても方向は初動方向を記載するので
全体としては方向がズタズタになることもわからないで
妄想しちゃってるのは、畿内説の専売特許です。

854 :日本@名無史さん:04/09/23 23:28:44
>>835
>憑山負海、鎮馬臺以建都……邪届伊都、傍連斯馬。
>翰苑では、「邪馬台国」は「伊都」と「斯馬」と並んでいる

邪国を邪馬台国と決め付けるのはどうかと思うがな。

だけど、倭人伝の記述で畿内説を非難しながら、倭人伝で都合が悪い部分については
別の資料を持ち出すんだね。

855 :日本@名無史さん:04/09/23 23:30:57
>>850
小国乱立の北部九州と違って、戸数が多い投馬国と邪馬台国しかないから

856 :日本@名無史さん:04/09/23 23:43:12
>>854
邪国じゃないよ、馬臺だよ。
しかし倭人伝で都合が悪いのは畿内説であって、九州説はなんら都合が悪くはないな。

857 :日本@名無史さん:04/09/23 23:46:01
>>855
「投馬国」から水行十日、陸行一月で「邪馬台国」と解釈するのが畿内説なら、
投馬国の所在を畿内に求めるのは無理。

858 :日本@名無史さん:04/09/23 23:46:50
>837

だから
ホケノ山に特殊器台があるか?
勝山にあるか?
那珂八幡にあるか?

この程度は考古学の初歩だぞ。


859 :日本@名無史さん:04/09/23 23:50:28
学会で滅亡した九州説ってもはや学問史の対象だろ。
天動説とかルイセンコ説のようなもんじゃん。


860 :日本@名無史さん:04/09/23 23:51:51
「從郡至倭」で始まる行程文であるから、邪馬台国に至った後の記述「水行十日、陸行一月」は
帯方郡から倭(の首都)に至るまでの総日数と解釈するべき。

861 :日本@名無史さん:04/09/23 23:54:03
>>857
投馬国は鞆(吉備)だろ。

862 :日本@名無史さん:04/09/23 23:57:29
>>856
>>しかし倭人伝で都合が悪いのは畿内説であって、九州説はなんら都合が悪くはないな。
邪馬台国を博多湾周辺に持ってきたくて、あえて倭人伝とは違う資料を
出してきてる、と思っていたけど違うのか?

863 :日本@名無史さん:04/09/23 23:58:46
>>859
学会って、創価学会????

ちなみに「考古学」では畿内説が優勢だが、「文献学」では、九州説が優位。
史学界では、九州説に対して畿内説側が反論をなしえていない、というのが現状。
ようするに「反論できない」から、九州説を無視して畿内説だけが勝手に自分たちだけで
論議を進めている状態、だな。

そりゃそうだろ。邪馬台国が本当に畿内にあったんなら、郡使は但馬か丹後半島あたりに
上陸するのが普通だわな。わざわざ九州を巡回する理由がわからん。

864 :日本@名無史さん:04/09/24 00:02:02
倭人伝なんていいかげんな外伝じゃん。
文献の連中でこんなもの逐一精査している人って最近はいないだろ。
井上さんくらいまでだよな。

865 :日本@名無史さん:04/09/24 00:02:09
>>862
ちがうね。「翰苑」はあくまで補助資料。
基本的に、倭人では「奴国」「投馬国」は戸数が多い大国であるから特記されている
「傍国」であって、伊都国→不彌国→邪馬台国 というのが郡使の経路。

そして、それを「補強する資料」として、翰苑の記事をあげたのだ。

866 :日本@名無史さん:04/09/24 00:11:38
>ちなみに「考古学」では畿内説が優勢だが、「文献学」では、九州説が優位。
>史学界では、九州説に対して畿内説側が反論をなしえていない、というのが現状。

考古学では畿内説は優勢どころでなく、九州説は2、3人だけしかいない。
それから、文献で九州説が強いなんてことはない。
畿内から大和王権が発生したという一部考古学者の主張に神道系の連中が
記紀に反すると反論しているくらいだろ。これは邪馬台国論争とは別の話。

デタラメを言うのはやめろ。

867 :日本@名無史さん:04/09/24 00:26:44
倭人伝の行程文には、「行動を示す動詞」があるのとないのがある。
つまり「ない」のは郡使の旅程がなかったことを示す、と考える。

循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國 [水行あるいは歴]
始度一海、千餘里至對馬國 [度=渡]
南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國 [渡]
又渡一海、千餘里至末盧國 [渡]
東南陸行五百里、到伊都國 [陸行]
東南至奴國百里 [ナシ]
東行至不彌國百里 [東行]
南至投馬國水行二十日 [ナシ](この場合の水行は至〜国名の後であるから里数の代わり)
南至邪馬壹國、女王之所都 [ナシ]

つまり奴国、投馬国、邪馬台国に行くのに「郡使の旅程」がなかったことを示している。
奴国、投馬国は里数・日数が書かれているから明らかに離れた場所にある傍国の記載。
その点、邪馬台国の場合は里数記載がない。これは「不彌國」と「邪馬台国」が接している
ことを示す。いわば「同一地域の別行政区画」なのである。
邪馬台国の戸数記載は「魏の制式単位」である「戸」であるのに対し、
不彌國については「家」であらわされている。これは「行政区画が別」だからだと
考えられるのである。


これに対する畿内説の反論は、ない。
デタラメでもなんでもなく、これが文献学界の方の現状なんだ。

868 :日本@名無史さん:04/09/24 00:28:10
>>865
邪馬台国までのルートが書かれている倭人伝で、何故いきなり、枝分かれして
しまうのか。無理があるなあ。
大国だから特記ねえ。まあ、そういう解釈もありだとは思うけど。
不彌国と邪馬台国の比定地は何処になるの?

869 :日本@名無史さん:04/09/24 00:36:24
>>867
俺が当時の人なら、そんなややこしい書き方をするなと怒るよ。
動詞の有る無しとか、推理小説じゃあるまいし。
かなり強引な解釈というのが、率直な意見です。

870 :日本@名無史さん:04/09/24 00:36:51
そして、>>867の解釈を補強する資料が「翰苑」の

憑山負海、鎮馬臺以建都……邪届伊都、傍連斯馬

の記事だ、と言っているのである。ここでは斯馬−伊都−邪馬台国が並んでいる、
と述べている。不彌國が無視されている形であるが、「同一地域の別行政区画」
であるなら、略しても不思議ではない。あるいは後年、行政区画が合併された
可能性もあろう。
倭人伝では傍国として行程文から外されていた「斯馬国」が、翰苑ではちゃんと
その位置が正確に示されている。翰苑に誤字脱字が多いのは写伝者の責任であって
資料そのものは、信憑性があると私は判断する。

871 :日本@名無史さん:04/09/24 00:42:47
>>868
中国語というのはいい加減なようで、解読にルールがあります。
「至○○国」の前に「行」「渡」などの行動を示す動詞があるのとないのとでは
全然違うんですよ。今でも中国では地図の説明などで「至○○・△里」という記載が多い。
でも、実際に「誰かが行った」ことを説明するのには、「去(行くという意味)」などの
「実際の行動を示す動詞」が書かれていますよ。

872 :日本@名無史さん:04/09/24 00:43:32
>邪届伊都、傍連斯馬
私は普通に、邪=奴で、この続きに書かれている光武帝に金印を貰った
奴国の位置についての記述だと思いましたが。
邪馬台国までの行程が書かれ、次に国内の記述。またいきなり、邪馬台国の
位置を記述するって、文章としておかしくないですか?

873 :日本@名無史さん:04/09/24 00:52:11
>>869
倭人伝の行程文が、帯方郡からもたらされた「軍事報告書」であるなら
傍国であっても大国を記載するのは当然。
軍隊を派遣する場合、食糧の確保が最重要課題であることは当たり前だから。

對馬國…無良田食海物自活
一大國…差有田地、耕田猶不足食
末盧國…好捕魚鰒
これらは何も倭人の国の見聞録ということだけではない。もし魏が倭国に軍隊を
派遣することになった場合(現実に狗奴国と邪馬台国は交戦している)、
食料の確保が可能かどうか、を「軍事報告書」は記載していたのである。
(むろん陳寿はそれを見て書いただけであって、倭人伝自体に軍事報告書的意味はない)

874 :日本@名無史さん:04/09/24 00:59:55
>>872
>邪馬台国までの行程が書かれ、次に国内の記述。またいきなり、邪馬台国の
>位置を記述するって、文章としておかしくないですか?

翰苑の最初の「行程文」とあなたが指摘している箇所は、おそらく注釈文のことで
翰苑の本文ではないと思います。本文は以下に示すとおり、いたって簡潔です。


憑山負海、鎮馬臺以建都
分[扁身旁右職]命官、統女王而列部
卑彌娥惑翻叶群情、臺與幼齒、方諧衆望
文身點面、猶稱太伯之苗
阿輩[奚隹]弥、自表天兒之稱
因禮義而標[ネ失]、即智信以命官
邪届伊都、傍連斯馬
中元之際、紫綬之榮
景初之辰、恭文錦之獻

翰苑の本文はいたって簡素な文章に徹底されていて、その少ない文字数でもって
倭国のことを記述する、という姿勢が特徴として有るようです。

875 :日本@名無史さん:04/09/24 01:05:22
>邪届伊都、傍連斯馬
うーん。倭人伝でも邪馬台国の隣に志摩国があると書かれているけど、
確かに畿内説では「伊都に届く」が理解出来ないよね。
伊都に一大卒を置いていたのと関係があるのかなあ?


876 :日本@名無史さん:04/09/24 01:12:19
>>875
それはわかりませんけどね。伊都がかなり特殊な国として記載されていることは
間違いありませんね。私は九州説支持派だけれど、この伊都国の特異性をみれば
畿内説が魅力的に感じるのは当然だと思いますよ。
一大率という言葉自体、「大宰率」によく似ているわけですからね。

877 :日本@名無史さん:04/09/24 04:16:20
古墳時代になると特殊器台は、吉備地方だけでなく、箸墓古墳などを代表例として、
畿内の最古型式の前方後円墳からも出土する。その形態は器台としての機能を完全
に失い、むしろ円筒埴輪の類に入る。特殊器台は円筒埴輪へと変化していくのである。

 この様な特殊器台の変化は、墳丘墓から前方後円墳への変化の過程、さらには弥生
時代から古墳時代への変化の過程で起きており、時代の変革を説く鍵となっている。
3世紀後半最大のプレ古墳の吉備楯築遺跡の存在、つまり考古学的には卑弥呼の時代、
吉備に国内最大規模の政権があった。

878 :日本@名無史さん:04/09/24 04:31:17
●3世紀後半最大のプレ古墳の吉備楯築遺跡の特長
大和箸墓につながる埴輪の源流の特殊器台の故郷
縛り模様の亀石(道教的四神獣・玄武石)を中心に
よりしろとなる四方の磐座等にべっとり朱(水銀)をぬっていた
水銀30キロ相当使用の事例は他にない(魏か呉から輸入できた権力)
鬼道といえば、道教の不老不死思想=卑弥呼は朱好き(魏志倭人伝)
女性の歯(卑弥呼?)が発掘され、中円双方墳の片方に男の親族が埋葬
吉備三輪のシャーマン巫女集団の存在(後に大和三輪の巫女祭事?)

879 :日本@名無史さん:04/09/24 04:41:54
吉備楯築遺跡だけでなく、4世紀後半の最大前方後円墳は吉備の造山古墳
吉備から大和に政務は移動してるが、大王(神武、応神等)は書記では吉備に長期逗留してる
つまり、こういうこと?
中円双方墳→古墳 →前方後円墳
3世紀後半の吉備楯築遺跡→大和箸墓 →造山古墳(4世紀後半)
亀石(道教的四神獣・玄武石)、特殊器台→特殊器台型埴輪 →埴輪
卑弥呼、吉備三輪のシャーマン巫女集団→大和三輪の巫女祭事 →応神天皇?

880 :日本@名無史さん:04/09/24 04:47:31
卑弥呼の墓が「前方後円墳」という特異な形をしていたとしたら、張政からの
報告書に記載され、倭人伝に記述があるだろう。
「徑百餘歩」としか書かれていないのは、中国人にとって珍しくもない「円墳」
だったからだろう。

881 :日本@名無史さん:04/09/24 04:54:50
ちなみに日本書紀で応神と縁の深い渡来系最大の秦氏の初期根拠地が
吉備の秦(はだ/書紀では葉田)で、赤穂、京都の秦氏より古いと思う。
高梁川のたたい堰きは 今でも活用され、祭事の岩倉は30メートルある巨石
でたたい堰の正面に鎮座。 隣には霊山正木山があり、付近の未発掘の古墳は、国内最古候補。
秦氏は初期皇室の祭祀を隼人と独占した。現在の宮内庁雅楽に至迄取り仕切る。
国家神道、仏教、律令、税制、酒造、蚕、巨大土木の導入者。華僑説あり。

882 :日本@名無史さん:04/09/24 04:57:53
吉備楯築遺跡は中円双方墳(作成当初は変型円墳)で、前方後円墳ではない。

883 :日本@名無史さん:04/09/24 05:08:19
楯築遺跡は弥生時代後期(3世紀)の全国最大の巨大な墳丘墓である。
双方中円墳で全長78m、円丘部は直径40m、高さ4〜5m。突出部は東北(丑寅)10m、
南西(未申)22mであったが、造成工事と給水塔建設工事で切断されてしまい、
東北への突出部の一部だけが復元されている。
円丘部の上には5つの巨石が円環状に立てられており、人々を圧倒する。
温羅伝説によると、吉備津彦が温羅と戦う時、ここに陣を構えて、矢を防ぐために築いた石の楯であるとされており、
楯築の名の由来となっている。

全長78mは倭人伝の「徑百餘歩」に符合するね


884 :中学3年生@不登校児:04/09/24 08:22:57
投馬国、邪馬台国に関しての記述は、帯方郡から
の投馬国、邪馬台国までの全日程の合計距離のことですよ。


885 :日本@名無史さん:04/09/24 09:58:19
マキムクに固執するヤツはなにを考えてるのかねえ?
成立期の「王都」がそれほど巨大なモノなのになぜ拡大・強盛化してゆく
大和朝廷の「王都」はそれに反比例してみすぼらしくなってゆくのかね。
なかには勝手にマキムクを卑弥呼=大和朝廷の○○とか比定している
ヤツもいるようだが、ここに大和朝廷の「王都」が置かれていたという
記述は一切ないよね。

886 :日本@名無史さん:04/09/24 10:22:30
>>885
> 大和朝廷の「王都」はそれに反比例してみすぼらしくなってゆくのかね。

意味不明。

887 :中学3年生@不登校児:04/09/24 11:48:10
3世紀の時点で西日本が統合されてたとしても
中心は九州の邪馬台国。のちに畿内のほうが
力が強まったから、畿内に首都を移した。
これでいいでしょ。これ以上の結論はありえないw

888 :寛恕不如意背反網倫理:04/09/24 12:10:17
>>885 モヘンジョダロとか、中近東、ギリシャ、ローマと比較すると上下水道網の
インフラに弱く、これが多少良くなるのは2000年後、ここ数十年のこと。四季の変化
が激しいこと、大理石等が潤沢に入手できなかったことなどが原因だろうね。
纒向建設が完成期に入るのは孝霊が田原本町黒田に入ってくる頃であり、その前
の代は葛城を中心にしていた、というか、葛城近辺の高天原を中心に活動していた
のだろう。で、纒向は第12代景行までで、その後は滋賀県に移るようだ。その前の代
はいわゆる古墳の定番のない頃だから、纒向の古い古墳が案外孝霊より前の天皇陵
かもね。



889 :日本@名無史さん:04/09/24 12:47:11
>>887
九州から畿内に遷都したんじゃなくて
九州内で遷都していると思う。
半島三百年戦争で疲弊しているから豪華絢爛な都ではないが。

畿内は交易で栄えた別な国。
九州系の天武が、この畿内を簒奪してから、邪馬台国と畿内が合流した。

890 :日本@名無史さん:04/09/24 16:09:11
>>888
古代とは関係ないが認識が誤っているので指摘。
江戸には玉川上水が引かれていたことは余りにも有名で
「水道橋」の地名もそこから来ている。

 玉川上水は、徳川家康が幕府を開いてから50年後の承応2年、西暦1653年につくられました。
当時江戸では、湧き水や溜池、周囲の小さな河川の水を使っていましたが、人が増え、町が広がるにつれて、それだけでは足りなくなってきていました。
そのころの技術では山の手の台地に井戸を掘ることは難しく、また海に近いところでは塩分が混じってしまうため、身近なところで良質の水を確保することができなかったのです。
 そこで、水量の豊かな多摩川から水を引くことになりました。武蔵野台地に堀を掘って人工の川をつくり、江戸まで水を流すわけです。
地形をよく考え、谷などを横切ることなく江戸まで水を引いて来ることのできるルートが定められました。
取水地点の羽村から四谷大木戸(現在の新宿区四谷)までの約43キロメートルは堀で、さらに先の江戸城と江戸の町へは、石や木でつくった水道管(石樋・木樋)が地面に埋められて配水されたのです。
http://www.city.hamura.tokyo.jp/river/river.html

891 :日本@名無史さん:04/09/24 16:13:24
>>889
半島での日本製の遺物も、九州→畿内に変わっているからアウト

韓炳三・前韓国国立中央博物館長(1995)「韓国の古代文化」(日本放送出版協会)によると
狗邪韓国=金官加羅に比定されている金海大成洞古墳群では
弥生時代の遺跡からは、北部九州に特徴的な多量の小型倣製鏡と中広形・広形銅矛が
古墳時代の遺跡からは、大和の首長墓に特徴的な巴形銅器・筒形銅器・碧玉製品類が出土している。

892 :日本@名無史さん:04/09/24 17:24:40
>>891
だから、その古墳時代とやらは何時から?
畿内説亡者は捏造してまで早めようとしているのだがね
もう古墳時代や弥生時代などという曖昧な時代設定で語るのはやめろや、チンカス。

893 :寛恕不如意背反網倫理:04/09/24 17:28:21
>>890

ご指摘のように世界最大の大都市であった江戸には進んだ上水のあったことは有名。
一方、奈良盆地で遷都がよく行われるがその原因については「下水道」の不備による、
寄生虫、伝染病の発生などが言われる。纒向についても当時は水洗便所だったらしいが
人口集中が激しく回虫の遺物が残っているという。今有名な藤原京なども日本最大と
いわれながらも10年前後の短期間で引っ越すという異常さ。その一因は衛生的なことに
もあるかもね。

894 :日本@名無史さん:04/09/24 17:41:25
>>892
原著によると3世紀末から
お前のような不勉強な池沼は消えろよ

895 :日本@名無史さん:04/09/24 17:47:39
>>893
遷都にそういう説があることは知っていますが
平安京が1000年も遷都されなかった理由が説明できませんね。

896 :寛恕不如意背反網倫理:04/09/24 19:44:20
>>895 これは大きな謎ですね。まー、しかし、欧州の大都市も昔は衛生状態は悪かっ
たようだし。・・・

897 :日本@名無史さん:04/09/24 19:59:46
>>891
>古墳時代の遺跡からは、大和の首長墓に特徴的な巴形銅器・筒形銅器・碧玉製品類が出土している

巴形銅器・筒形銅器・碧玉製品類は九州からも出土している。「大和に特徴的」というのは根拠がないよ。

898 :日本@名無史さん:04/09/24 20:07:14
>>897
> 巴形銅器・筒形銅器・碧玉製品類は九州からも出土している。「大和に特徴的」というのは根拠がないよ。

著者の韓炳三・前韓国国立中央博物館長はそう判断したわけだ。
反論の根拠を詳しく説明しろよ。

899 :日本@名無史さん:04/09/24 20:25:06
>>895
秦氏が派手な治水をしたから。

900 :日本@名無史さん:04/09/24 20:25:51
>>899
ソース

901 ::04/09/24 20:27:31
http://www.kyotokanko.co.jp/hata/hatashi5.html

902 :日本@名無史さん:04/09/24 20:28:40
>>898
肩書きで判断するんかい。
そもそも巴形銅器・筒形銅器・碧玉製品などは九州が主で、近畿がその伝播だと
考えられている。近畿の「古墳期」から出土する巴形銅器・筒形銅器は、
九州の「弥生期」からの伝播なのである。時間帯から見て、この逆はありえない。

弥生期の九州=主
古墳期の近畿=従
この位置取りは動かせない。そしてこれを補強するのが、開津面良田洞の
「装飾壁画古墳」である。これらは明らかに九州からの伝播であって、
近畿からのそれではない。
「大和に特徴的」なのは、あくまで「古墳期の」という限定的なものであり、
弥生期からも含めれば、出土品も、壁画も、三種の神器のセットも、九州→半島の倭地
という伝播状況を示している。

903 :日本@名無史さん:04/09/24 20:40:47
もともと朝鮮半島に「大和の痕跡なし」ということが言われていたんだよね。
それが、大成洞古墳から出土した巴形銅器が、「古墳期の近畿」のスタイルに
似ていることで、「大和の痕跡なし」に対する反論の材料にはなった。
これは事実。
しかし、それはあくまで「大和の痕跡なし、とは言えない」というにとどまる。
理由は、他の出土品や壁画など、九州の痕跡があまりに明白だから。
弥生期の九州に特徴的な銅矛類が、半島から出土。
古墳期の九州に特徴的な壁画が、半島にも出現。
これらの状況を考えれば、巴形銅器について、弥生期九州→古墳期金海 という伝播だと
考えるのが自然だと思う。

904 :日本@名無史さん:04/09/24 22:19:02
>>902
巴形銅器は九州に多いが、筒形銅器・碧玉製品は違うぞ。

弥生後期から古墳早期にかけて筒状銅器が存在することが明らかとなってきた。その分布は、現状では近江・東海地域以東に偏在する。
ところで古墳時代になると筒形銅器が出現する。当初から完成された姿であり、おそらく木製品などを写したものと思われる。
http://agatazin.jp/archives/000153.html

 足羽川沿いの福井市足羽山上に築かれた足羽山古墳群は、前方後円墳1基と円墳32基からなり、
4世紀後葉から5世紀後葉にかけて造営されたもので、三角縁神獣鏡・貝釧・碧玉製品など畿内色の濃い遺物を出土している。
http://www.fukui-moc.go.jp/siryou/hen1/syou4/1gensi4_2.html

905 :日本@名無史さん:04/09/24 22:48:51
>>904
筒形銅器は対馬から出ている。弥生時代のものだ。
また、碧玉製品も、前原などから出土している。弥生期である。
903でも書いたが、大成洞古墳出土のそれらが「近畿のスタイル」を
持っていることは、まぎれもない事実。

が、「それだけが近畿色」ということも、また事実。近畿の古墳期のそれらが
「九州弥生」からの伝播であるからには、古墳期の韓国のそれらも、同じく
「どこかからの伝播」と考えるのがすじ。
金海地方の遺跡が、甕棺墓・銅矛(弥生)→壁画・三種の神器(古墳)という
九州からの伝播状況を示している以上、巴形銅器・筒形銅器・碧玉製品なども
その一環とみるべき、というのが私の立場だ。

九州→近畿→金海(あるいは 九州→金海→近畿)
九州┬→近畿
   └→金海

このいずれかだ、ということなのだ。

906 :日本@名無史さん:04/09/24 23:10:03
>>904
日本書紀によれば、「近江毛野」の軍6万が任那(安羅)に派遣され
その地に駐屯していたことが述べられている。だからあなたの提示したソースの
出土状況 近江−金海の関連性によって、日本書紀のこの部分の記述について
信憑性が増してきた。これは間違いないことです。

が、それでも、やはり金海の出土状況について、「ここで突然、近畿色」
という状況に違いはないのです。
つまり、近江毛野臣が「将軍」として任那に赴任し、その期間のみ埋葬状況が
「畿内色」だった、と私は理解します。

907 :日本@名無史さん:04/09/24 23:21:29
九州説って学会から消えたのに電波には人気がありますね。


908 :日本@名無史さん:04/09/24 23:26:21
畿内説って、カルト学会だけで人気ですね。

909 :日本@名無史さん:04/09/24 23:31:05
>908
なことはないよ。
九州説なんか主張したら完全に就職先ないよ。

910 :日本@名無史さん:04/09/24 23:32:23
カルトって古田とか井沢ですか?
ああいう素人しか九州説は唱えてないよ。


911 :日本@名無史さん:04/09/24 23:33:40
>908
ほお、じゃあ、九州説のまともな考古学者を教えてくれるかな?


912 :日本@名無史さん:04/09/24 23:37:33
このスレッドには小林恵子と某国工作員、西都厨=古田信者=アズマ
の立ち入りを禁止します。

(西都厨=古田信者=アズマ隔離スレッド)
九州王朝はなかったのか?※ 9
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1081624257

(小林恵子と某国工作員隔離スレッド)
【古代史電波】小林恵子の妄想を語ろう
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087908201/l50
朝鮮人が日本を作った可能性は
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1057493325/l50






913 :中学3年生@不登校児:04/09/24 23:39:02
で、結局日食って意味あったの?w

914 :日本@名無史さん:04/09/24 23:42:13
>913
ない。そんなことを言ってるのは安本、井沢のみ。
学者にはいない。

915 :日本@名無史さん:04/09/24 23:44:11
この地図すごい。初めてみた。大朝鮮帝国が拡大してるぞ。


西洋のローマ帝国 VS 東方の高句麗
韓国の古代史は素晴らしいですね!
大百済帝国、恒国、古朝鮮に続き大高句麗帝国の歴史も明らかになりつつあります!





http://plaza.rakuten.co.jp/saurabi/diary/200403250000/






916 :日本@名無史さん:04/09/24 23:50:29
投馬国はおそらく出雲だと思う。

岡山は桃太郎の昔話の発祥地というけど、これは、邪馬台国、古墳時代の
吉備国の伝承が発祥では?倭国大乱の頃とか。



917 :日本@名無史さん:04/09/24 23:50:37
話を戻して悪いけど、
「翰苑」の

憑山負海、鎮馬臺以建都……邪届伊都、傍連斯馬

の記述については、畿内説ではどのように解釈しているの?

918 :中学3年生@不登校児:04/09/25 00:20:33
皆さん、倭人伝の記述を完全に
無視して、発掘された遺跡やら
地方に伝わる伝承やらから想像を
膨らませてあることないこと
考えすぎですねw

919 :日本@名無史さん:04/09/25 00:39:41
お前、wとか使った文章ばかり書き込んで、煽ってるとしか思えないなあ。
間違いを指摘されて、悔しかったのかもしれないが。
大した内容も書いてないし、出て行ってくれないか。
もう少し勉強してから、戻ってきてくれ。

920 :中学3年生@不登校児:04/09/25 00:56:54
えーこんな不毛なマニアックなこと
勉強したくないです^^なんかヲタクと
思われそうでキモいし。でも邪馬台国に
関して自分なりの解答はでたのでこれで
満足します。では出て行けとのことですので
出て行きますwさようなら

921 :日本@名無史さん:04/09/25 01:29:34
>>920
ある意味、幸せな奴だと思うよ。
まあ、頑張ってくれ。

922 :日本@名無史さん:04/09/25 01:30:30
917 名前:日本@名無史さん :04/09/24 23:50:37
話を戻して悪いけど、
「翰苑」の

憑山負海、鎮馬臺以建都……邪届伊都、傍連斯馬

の記述については、畿内説ではどのように解釈しているの?

923 :日本@名無史さん:04/09/25 02:05:59
そんなに畿内説がいやなら考古学雑誌にでも投稿してみな。
相手にされないだろうけどさ。

924 :日本@名無史さん:04/09/25 02:18:15
九州説のまともな考古学者っているのかな?
まさかねえ。

925 :日本@名無史さん:04/09/25 02:32:40
佐原真や白石太一郎やらの古い人は九州説だった?
それとも邪馬台国東遷説?

926 :日本@名無史さん:04/09/25 02:40:07
>925
二人とも昔から畿内説。
元倭王権権力の移動も否定している。


927 :日本@名無史さん:04/09/25 03:20:09
っていうか、電波学会は畿内説

928 :日本@名無史さん:04/09/25 03:24:03
>>926
じゃあやっぱり九州説ひっぱってたのは文献学者か
江上波夫・騎馬民族説→井上光貞・邪馬台国東遷説
の影響が大きかったらしいが

929 :日本@名無史さん:04/09/25 05:57:56
日本でも朝鮮でも、文献学者に九州説は多いよ。
ただ「熊襲偽僭説」の影響からか、北九州の倭=海賊説・豪族説が目立つ。
好太王碑に出てくる倭=海賊説は、一時期半島側の定説にすらなりかかった。
年代的にみても、好太王の対手は「讃」のはずなんだけどね。

930 :日本@名無史さん:04/09/25 07:22:15
ところで、もし考古学会というのが畿内説ばかりだとしたら、
いったいどんな学会なんだ?
偉い人が白っていえば、みんな黒と思っていても、白といわなければ
いけない学会なのか?
考古学者が唱えているという説を考えても、そこばかり矛盾している
気がする。考古学的知見を除くと、ほぼ九州説で矛盾なく説明可能な
わけだし。

例の「神の手」事件を考えても、どうも胡散臭い学会のような気がして
信用できない。誰か、内部の人、告白して。

931 :日本@名無史さん:04/09/25 07:30:25
一つ一つの発見の後、第3者の誰かがちゃんと、客観的な評価を
下しているのか?
もし、それがなされていないなら、この分野は過去の知見に基づいて
新たな知見を積み重ねていかねばならないのであるから、もし、
きちんとした検証がなされていないならば、意識、無意識的に
かかわらず嘘の上塗りをしてしまう可能性をぬぐえない分野だと
思うが。

932 :日本@名無史さん:04/09/25 08:32:30
>>916
水行は一般的に瀬戸内海をイメージするし
弥生時代後期〜古墳時代中期にかけての吉備の勢力を見ると
吉備を想定するのが妥当だろう。

933 :日本@名無史さん:04/09/25 08:38:21
>>930 >>931
つまり、この二人(か一人)は何も知らずにここで好き勝手ほざいてるというわけか。

934 :日本@名無史さん:04/09/25 08:40:58
>>930-931
池沼はまだ暴れていたのか

935 :日本@名無史さん:04/09/25 09:39:19
ガッカイガッカイって・・・

中傷しつつ学会の権威のみでダダ捏ねてる子供みたいだな、畿内説
考古学会の畿内説を納得いくように説明してみな。
穴だらけ嘘だらけ、おまけに都合の悪い所は無視
だから信じるほうが無理なんだよ。

936 :日本@名無史さん:04/09/25 09:42:19
素人考えですが、卑弥呼がいた時代の最大の遺跡が瀬戸の吉備に
あり、前方後円墳の源流もあるなら、邪馬台国は吉備、そういう学説はないのでしょうか? 
吉備の遺跡はキリキリの4倍規模なんでしょ。
あと、桃太郎は3世紀頃の百済王子のウラ伝説で、舞台は7世紀最大規模の
周囲4キロの山城である鬼の城。付近のたたら跡は国内最古説も。
後の蘇我馬子直轄地。説話としての桃流され伝説の構造は、
聖徳太子の財務パトロンで政策の右腕だった族長(ウズマサ)秦河勝誕生伝説と同じ。

937 :日本@名無史さん:04/09/25 10:01:44
>>935
もうちょっと、内容のある反論をしろよ…

938 :日本@名無史さん:04/09/25 11:21:47
>>936
吉備にある弥生時代後期の楯築墳丘墓は、前の時代です。
卑弥呼の頃には箸墓の1/2モデル浦間茶臼山古墳を立てています。

 出現期の最大規模の前方後円墳は、奈良盆地東南部の三輪山の麓に位置する箸墓古墳(奈良県桜井市、墳丘長約二八〇メートル)であり、次が椿井大塚山古墳(京都府山城町、約一九〇メートル)である。
このほかでは、浦間茶臼山古墳(岡山市、約一四〇メートル)、石塚山古墳(福岡県苅田町、約一二〇メートル)が大きい方である。
前方後方墳では、元稲荷古墳(京都府向日市、約九四メートル)が最大規模である。
当時、大陸からの新しい文物の受け入れ口である玄海灘沿岸地域には、那珂八幡古墳(福岡市、約七五メートル)が所在するのみである。
 これらの事実から、前方後円(方)墳の創出は、畿内と瀬戸内海沿岸地域の有力首長が大陸の鉄をはじめとする新しい文物を安定的に手に入れるために連合し、
九州北部を制圧する必要性を契機になされたと考えられている。この連合政権をヤマト政権と考古学者はよんでいるのである。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2・3-01-01-01-02.htm

939 :日本@名無史さん:04/09/25 12:10:29
カルト学会では、
突然滅亡しちゃったマキムク=邪馬台国がなぜか白村江で戦い
25mの卑弥呼の墓が280mに成長する。

  何でもありだな、カルト畿内学会

940 :日本@名無史さん:04/09/25 12:27:32
>>939
「百余歩」は中国の度量衡でも実測でも120m以上だ。
基地外は消えろよ。

941 :日本@名無史さん:04/09/25 12:31:04
ば〜か、1歩は実測25cmだ。
お前の度量衡は無知度量衡。

942 :日本@名無史さん:04/09/25 12:43:31
>>938
「連合政権」と言っても公明党と自民党みたいに
力関係ははっきりしていたんだろうね。それでごくたまに
吉備から大王が出た、ということかな?


943 :日本@名無史さん:04/09/25 12:46:59
>ところで、もし考古学会というのが畿内説ばかりだとしたら、
>いったいどんな学会なんだ?
>偉い人が白っていえば、みんな黒と思っていても、白といわなければ
>いけない学会なのか?
>考古学者が唱えているという説を考えても、そこばかり矛盾している
>気がする。考古学的知見を除くと、ほぼ九州説で矛盾なく説明可能な
>わけだし。

「として」じゃなくてほぼ例外なく畿内説です。
90年代までは考古学者でも九州説はいましたが、土器編年の改訂や
年輪年代法などの知見によりすべて転向しました。
なお、政権の東遷説はあるが、畿内説というのは昔からいて、
これはまだそれなりの勢力があるね。


944 :日本@名無史さん:04/09/25 12:48:57
>中傷しつつ学会の権威のみでダダ捏ねてる子供みたいだな、畿内説
>考古学会の畿内説を納得いくように説明してみな。

じゃあ、古田でも安本でも九州説の画期的論文を考古学雑誌に投稿すりゃいいじゃん。
自分のオナニー雑誌じゃなくてさ。


945 :日本@名無史さん:04/09/25 12:53:49
>>941
ヴァカに付ける薬はない、合掌。

946 :日本@名無史さん:04/09/25 13:06:31
安本もいいとこもあるのに九州説にこだわって自滅したね。
あんまり言うと恥ずかしいけど地名比較と言語年代法の研究は
それなりなのにね。こういうの他誰もやってないからだけだけどさ。


947 :日本@名無史さん:04/09/25 13:11:21
ヤマトトビモモソヒメは、記紀では皇族、勘注系図では、
物部系。先代旧事記にもそれらしき人の記述があって
これも物部系です。
吉備出身というのは文献的には根拠がないですね。

948 :日本@名無史さん:04/09/25 13:22:10
>>939
>突然滅亡しちゃったマキムク=邪馬台国がなぜか白村江で戦い

ここまでおバカな主張ができるって言うのは、ある意味才能だな。いや感服した。

  何でもありだな、カルト九州説

949 :日本@名無史さん:04/09/25 13:23:19
まあ、そもそも今は文献で5世紀より前のことやる人すくないけどね。
記紀研究も奈良時代以降ばっか。
国学館、皇學館以外は。


950 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/25 15:03:20
みなさん、お久しぶりです。
邪馬台国というのは九州連合が共立した
王の住む国だということがわかりましたか?
のちに、西日本連合が共立した王の住むとこが
大和なのですよ。そして共立体制では戦乱が
耐えないため、万世一系の天皇家が統治するという
形態を話し合いできめたのです。ちょうど、のちに
最も優れた子供が家督を継ぐという制度がうまくいかず
長子相続制をとったのと似たような感じですね。
何事も話し合いが第一。なので倭国なのであり、のちに
和国と改め、その中心が大和朝廷なのです。

951 :日本@名無史さん:04/09/25 15:39:55
>>950
そんなわけないだろ。いつまで逝ってんだよ

952 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/25 15:47:00
そんなわけないだろ??
どれが正しいかなど誰にも
わからないと思いますがw

953 :日本@名無史さん:04/09/25 15:52:22
>>938
吉備にある弥生時代後期の楯築墳丘墓は、前の時代です。
卑弥呼の頃には箸墓の1/2モデル浦間茶臼山古墳を立てています。

御丁寧にどうもありがとうございます。
つまり、楯築は水銀30キロ相当使用の事例があるが、卑弥呼以前の大規模
遺跡で、4世紀後半の最大の前方後円墳、吉備の造山古墳で再び頂点を極めるまで大和に下ると?
しかし、吉備大和の軍事、文化、宗教は簡単に融合するものなのでしょうか?吉備側の勢力は道教的な楯築後継として、侵攻してきた大和側は誰でしょう?
四道将軍ですか。ウラ、アメノヒボコ伝説と倭国大乱?
でも疑問は後の巨大造山古墳の存在。やはり吉備の拡大移動があったのでしょうか。

954 :日本@名無史さん:04/09/25 15:57:14
当時の風俗について書かれた個所を読むと、
南国の香りが漂ってくるんですが。
どうも畿内とは思えないんだけど…

955 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/25 16:02:15
えっ!!?
畿内だなんて思ってる人がほんとにいるんですか?
それはオウムばりの洗脳をうけてるかただけでしょw
大昔、天動説をみんな信じてたみたいにお偉方の
意見が正しいと信じ込む愚純なタイプが畿内畿内と
わめきちらしてるだけでしょw

956 :日本@名無史さん:04/09/25 16:18:32
>>950
中学3年生@不登校児=25歳♂投馬国王の子孫=宇佐基地外
 ↓
920 名前:中学3年生@不登校児[] 投稿日:04/09/25 00:56:54
出て行きますwさようなら

957 :日本@名無史さん:04/09/25 16:21:15
>>950
名前を変えても書く内容は同じ。程度が低すぎ。

782 名前:中学3年生@不登校児[] 投稿日:04/09/23 11:11:03
>>778
問題なのは、なぜ大和と言う文字がヤマトの当て字に選ばれたかです。
これは古来よりの日本の精神文化をあらわすものだからです。
すなわち、和をもって尊しとなすといわれるように、できるだけ
争いを避け話し合いで解決しようという考えです。大和朝廷が
成立し、中央集権化が進むまでは、日本は、連合国家であり、
その中心地がヤマト国だったというわけです。

783 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:04/09/23 11:16:15
>>782
池沼は、これだけ説明しても分からないのか。
「日本書紀」が書かれた時代にはヤマトは「大倭国」だった。
「大和国」と当てるようになったのはもっと後だ。
いい加減に理解しろ、池沼。

958 :日本@名無史さん:04/09/25 16:26:36
>>953
いえ、ヤマトが攻めてきたと言うより同盟を結んだと思います。

箸墓に至ってヤマトは吉備の特殊器台(円筒埴輪の前身)を受け入れ
一方の吉備はヤマトの前方後円墳を受け入れています。

ヤマトと吉備が対決したのは、日本書紀では雄略紀の前後で
考古的には中期後半(5世紀後半)になって、吉備の古墳が急に縮小しており
吉備がヤマトに敗退したのを反映していると考えられています。

959 :日本@名無史さん:04/09/25 18:01:58
すげー詳しくて良スレぽいけど、たまに変なのがいるな。
何十年も学者が研究してまだわからないことを、
さも自分がわかってるように言う痛い奴が。

でもいいなー、古代史は近現代みたいに変なウヨサヨが乱入してこなくて。

960 :日本@名無史さん:04/09/25 19:11:07
金印は畿内から出ていないんだよ。
カルト畿内学会だけ、天動説って大バカだな。

961 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/25 20:25:42
なぜ日本は中国のように湯武放伐は許されず、
万世一系の天皇家が統治する国になったか。
これが邪馬台国や大和朝廷成立の鍵だと思います。


962 :日本@名無史さん:04/09/25 20:32:53
>>950
最も優れた子供が家督を継ぐ制度なんて、いつ頃あったわけ?

・古墳時代〜飛鳥時代ごろは、
 「親族一同の中で」最も優れた者が大王になってた。
 先王の子供らのうちで、というわけではない。
・その後、奈良時代ごろからは(=持統以後)
 ほぼ一子相伝型になった。
 まあ、「長子相続」ですな。

現実に適用された制度をよく知らないから、
あなたのような説が成り立つというわけでしょう。

現実を知れば唱えようがない説、すなわち妄想です。

963 :日本@名無史さん:04/09/25 20:35:34
>>957
微妙に違うような?

古事記が書かれた頃までは確実に「大倭国」。

でも日本書紀の時期には、すでに改訂されてなかったっけ?

964 :日本@名無史さん:04/09/25 20:41:50
良スレに見えるのか・・・世も末だな。

965 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/25 20:49:07
>>962
鎌倉時代の惣領制のことです。
これがきっかけでのちの室町時代には
相続争いのオンパレードになり応仁の乱へと
発展するのです。そして江戸時代になると、
こうした経緯から長子相続制は徹底されます。
8代将軍吉宗が障害者の長男に将軍職を
譲ったのは有名でしょ。万世一系の天皇家が
日本を統治するという考え方もこれと同種のものだと
思っています、すなわち、古代、争いが絶えなかった為
各国が話し合い、畿内の神武一族が日本を統治すると
いうルールを決めたのでしょう。こうすることで
政権争いをなくそうと考えたのだと思います。

966 :日本@名無史さん:04/09/25 20:57:01
まあ吉備国の成り立ちと桃太郎はなんらかの接点がありそうですね。

尾張には強い勢力はなかったのかな?

967 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/25 21:02:08
すなわち3世紀までは各国が共立して
卑弥呼やイヨといった王を擁立して
首都である邪馬台国が日本のイニシアチブと
とるというルールだったのが、4世紀に入ると
そうしたシステムがうまくいかなくなり、
畿内勢力の台頭もあいまって、日本は再び乱れ、
一番力の強かった神武一族が王位を相続する形で
統一国家が形成されていったのでしょう。
王を各国が共立するとなると、戦がおこりやすいことが
わかったのでしょう。こうしたことから首都である
邪馬台国が九州から神武一族のいる畿内に移されたのです。

968 :日本@名無史さん:04/09/25 21:06:31
>>960
基地外は出てくるな。
奴国王がもらった金印が志賀島から出て来たのがどうした?

969 :日本@名無史さん:04/09/25 21:09:19
>>963
無知な奴は出てくるな。

778 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:04/09/23 11:02:54
>>775
ヤマトに「大和」を当てる過程も知らないのかよ。

日本書紀では「大倭国」を当てている。
続日本紀では「大倭国」から伝染病が大流行した時期に一時「大養徳国」として
最終的に「大和国」になったもので、元々そんな意味などない。

ちなみに、万葉集ではヤマトを音や訓として様々な文字で当てている。
山跡、倭、日本、山常、八間跡、夜萬登、夜末等、夜麻登

970 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/25 21:11:05
>>968
そういうことを言ってるのではありません。
和の精神のことを言っているのです。
どうして倭を改名するときに和という文字を
選んだのか、これが重要なポイントなのです。

971 :日本@名無史さん:04/09/25 21:12:35
>>970
お話にならない。原典を読め。

972 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/25 21:16:52
そもそも倭というのは中国側の表記であり、
正しくは、輪か環でしょ。まだ国という概念が
なかったため、原住民が自分の国のことを環と
言っただけですよ。

973 :寛恕不如意背反網倫理:04/09/25 21:41:07
〈アイヌ〉はアイヌ語で〈人〉〈人間〉〈男〉意味であるが、アイヌの先祖である縄文人は
多分「ワヌ」と自称したのであろう。朝鮮語の日本人の蔑称「ウェヌ」は「アイヌ」に近いが
、後漢の時代「ワヌ」というのは列島の倭人にとっては正しい呼称ではなかったのだろうか。
漢のワヌ国という金印は伊都国に存在した倭国王に与えられたものと考えたい。


974 :日本@名無史さん:04/09/25 22:26:46
学者にいないのに素人には大人気の九州説っておもしろいね。
カイキニッショクとか言うと素人は簡単にだまされちゃうんだね。

975 :日本@名無史さん:04/09/25 22:42:20
特殊台器は、布留0以降の古墳からしか出ない。画期的なもんじゃないよ。
櫻井市の教育委員会埋文の人がわざわざ「出ない」って特記してました。
近藤義郎が宣伝のしすぎたんだよね。


976 :日本@名無史さん:04/09/25 22:57:41
ロマンだろロマン
日食で「卑弥呼殺人事件」なんて面白すぎだよ。
もちろんこんなの歴史の真実とは何の関係もないけどね。

977 :日本@名無史さん:04/09/25 23:04:25
>>974
247年3月24日の日食は北九州の食分が深く
248年9月4日の日食は畿内の食分が深い

978 :日本@名無史さん:04/09/25 23:29:46
>>968
無知なのはお前の方だ。
「金印」は奴国のような小国に送られるものではない。
小国を率いる大国のような存在の国王がもらうものである。
したがって「漢倭奴国王之印」は、「倭王」がもらったものである。

反論できるものならやってみろ。ちゃんと実例を挙げて論証してな。

979 :日本@名無史さん:04/09/25 23:43:02
しかし、池沼学会って困りますね。
未だに畿内説=万世一系思想にかぶれちゃってて
素人から大笑いされてるのに、気付かないんですね。

980 :日本@名無史さん:04/09/25 23:50:02
考古学ってのは実証主義だからね。
文献学は論証主義。
「近畿説に論証なし」というのが言われて久しいけれど、これは畿内説が
考古学に偏重しすぎているからなんだよね。
本来、古代史ってのは、考古学+文献学でないといかんのに。
そういう点でも、畿内説はいびつなんだよ。

981 :日本@名無史さん:04/09/25 23:52:49
ってか、邪馬台国論争では△縁神獣鏡鏡にばかり重点を置いて、
絹・錦・矛・鉄族(鋳型を含む)などを無視してしまう。

これじゃ考古学ではなくて「骨董学」だよ。

982 :日本@名無史さん:04/09/26 00:01:48
ゾクの字がまともに書けないやつに言われたくはないな。
まあ、本・資料をろくに読んでない証拠なんだけどな。

983 :日本@名無史さん:04/09/26 00:07:06
>>967

そういう、共立システムによる王族相互の殺し合いによって、
「雄略」前後の世代に大王家の後継者が激減していますね。
その結果として、候補者不在を解決する切り札「継体天皇」の登場と相成るわけです。

967式だと、一旦は安定した後に、
再び同じ問題によって、今度は王家の断絶の危機に瀕したわけですか。

984 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/26 00:08:22
倭人伝は無視して、
日本書紀とかの都合のいいとこ
ひっぱりだして畿内にもっていこうと
する人たちばかりですよねw


985 :日本@名無史さん:04/09/26 00:14:09
倭人伝はもとより、
日本書紀だって記述からすれば、九州説を暗示してるしね・・・

986 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/26 00:20:28
文献主義を否定して考古学的見地から
畿内にもっていこうとしてるくせに、
都合のいいとこだけ文献からも畿内だと
主張してるよね。

987 :日本@名無史さん:04/09/26 00:39:26
日本書紀の編者が「倭国の女王」たる卑弥呼(及び壱与)を以て、誰人に比定しようとしたか。
明晰である。神功皇后その人だ。三国志の魏志倭人伝の卑弥呼に関する記事三回、
壹与に関する記事一回(西晋の起居注)が引文されていることによってそれは疑いようがない。
けれども、周知のように、現代の古代史学者、一般の研究者の中にも、この立場に立つ者は
一人もいない、すなわち「絶無」と言っても、おそらく過言ではないであろう。
そのために、次の重要な一命題が看過されたのではあるまいか。それは

 なぜ書紀の編者は卑弥呼と壱与の二人を一人の神功皇后に当てる、
 というような無理を犯さねばならなかったのか

この一点だ。もちろん、八世紀当時の日本書紀成立時、一般のインテリもまた
「魏志倭人伝」などを机辺におく人は少なかった。まして「西晋の起居注」が
卑弥呼とは別人(壱与)の時代に当ることなど、ほとんどの人が知らなかったであろう
(もちろん、当の編者たちを除く)。それが当時の実情であったとしても、
なおあえて編者が「神功皇后」を正面に立てて「比定」したか。
その根本は「大義名分」問題だ。すなわち「卑弥呼乃至壱与」は、倭国内の第一の王者、
すなわち「女王」だった。
それ故、歴代の「天皇位」に列名されている王者の一人でなければならない。
しかし、古事記が明白に示しているように、それはなかった。

そこで日本書紀の編者は、仲哀天皇の九州における死亡後、次の応神天皇の即位まで、
かなりの長年月が「空位」とならざるをえない、この事実に着目しその「空位」部分に関し、
神功皇后が事実上、「天皇位」に準ずる地位にあったものとして扱った。そしてあえて、
古事記にはなかった「神功紀」を“創建”したのであった。
これによって「卑弥呼及び壱与」との「比定可能の王者」を“強引に”見出しえたのである。


988 :日本@名無史さん:04/09/26 00:40:57
このような、すでに学界周知の事実を、ここに再説したのはなぜか。それは日本書紀の編者が
「倭国の女王である限り、『天皇位』にある者(或はそれに準ずる者)でなければならぬ。」
という、至理至極の「大義名分」論に立っていたことをしめしている。当然だ。
編者たちは、無論、「倭迹々日百襲姫命」の存在を知っていた。知っていながら、
あえてこれに「比定」しようとしなかったのは、右の正当な「大義名分」論を
捨てえなかったからである。
これに反し、現代の古代史学者、考古学研究者たちは、右の「大義名分」論を棄て去った。
これを弊履のごとくほうり投げざる限り、「倭迹々日百襲姫命」を
「卑弥呼」や「壱与(或いは「台与」)」に比定することなど、到底不可能なのである。

「倭迹々日百襲姫命は、事実上の『女王』であった、という説もある。」
といった言論をなす研究者もあるけれど、研究者の拠って立つところは
「後代の学者の説」ではなく、史料そのものでなければならぬ。当然だ。

「早良国王墓」(吉武高木)などという、史料にも存在せぬ「国王名」を、次々と「独創」し、
王墓の被葬者たちに「賜与」して怪しまぬ現代の考古学者や古代史学者を、
後代の研究者たちが見て何と批判することであろうか。寒心にたえない。
これも、或はそれと「同類」でなければ幸いである。


989 :日本@名無史さん:04/09/26 00:55:12
>>988
まあ、最後の部分だけは共感できる部分がないではない。

もちろん学術・学問のレベルではそんなことはないわけだけれども、
こういうことを続けていると学術レベルと素人さんのレベルで認識の違いが非常に大きくなって、
ひいては学問への不信という形で>>988のように跳ね返ってくる。

まあ、財布を握ってる行政担当者を説得しなきゃいけないとか、
派手なキャッチコピーがないと報道機関が振り向いてくれないとか、
いろいろ事情はあるのだろうけど・・・・

990 :日本@名無史さん:04/09/26 01:37:07
>>984-986
おおざっぱに言えば、>>980のような感じ。

ただ、文献学的手法を使うなら、
「複数の系統の、独立して成立した文献を使うことで、
 互いの記述の信憑性を検証する」
という手続きが必要だが、邪馬台国に関する文献は少なすぎて、
そういう手続きが困難。
どうしても、文献より考古学を偏重する必然がある。

文献学的手法によって、記述の信憑性を検証されにくい以上、
魏志倭人伝の記述が「不完全な信憑性しか持たない」として、
「参考にはするけど重視しない」扱いを受けるのは必然だ。

その結果として、考古学者の多くが畿内説に傾く現状が、
考古学者の内部で不審に思われることがない。

991 :日本@名無史さん:04/09/26 01:38:33
すみません、いと とか うぇぬ とかのことが載ってるページが
あるのですが、読んでるとホントかな?……と思えてきます。
皆さんから見てどうですか?

http://www5.tok2.com/home2/okunouso/edo.htm

992 :日本@名無史さん:04/09/26 01:59:42
>>987
>日本書紀の編者が「倭国の女王」たる卑弥呼(及び壱与)を以て、
>誰人に比定しようとしたか。明晰である。神功皇后その人だ。
これには異論はない。

>けれども、周知のように、現代の古代史学者、一般の研究者の中にも、
>この立場に立つ者は一人もいない、すなわち「絶無」と言っても、
>おそらく過言ではないであろう。
???

993 :日本@名無史さん:04/09/26 02:02:19
>>992
その通りじゃん。

994 :日本@名無史さん:04/09/26 03:00:30
>けれども、周知のように、現代の古代史学者、一般の研究者の中にも、
>この立場に立つ者は一人もいない、すなわち「絶無」と言っても、
>おそらく過言ではないであろう。
>>987-988って、ひょっとしてあの御方ですか?

995 :日本@名無史さん:04/09/26 06:03:32
出雲神話が史実を元にしたものと思われるようになったのは、
荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の発見によるものだけど
日向神話が史実を元にしたものだと証明される日は来るのだろうか?

996 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/26 09:57:07
タイムマシーンができるその日まで・・

997 :日本@名無史さん:04/09/26 10:53:21
>本来、古代史ってのは、考古学+文献学でないといかんのに。
>そういう点でも、畿内説はいびつなんだよ。

文献でも九州説は少数派。
でためらを言うな。



998 :日本@名無史さん:04/09/26 10:56:13
>ってか、邪馬台国論争では△縁神獣鏡鏡にばかり重点を置いて、
>絹・錦・矛・鉄族(鋳型を含む)などを無視してしまう。

>これじゃ考古学ではなくて「骨董学」だよ。

これもデマ。
魏鏡説は、主に考古学者の京大系一部が主張しているだけ。
安本珍電波らしい決めつけだね。



999 :日本@名無史さん:04/09/26 11:01:37
>倭人伝はもとより、
>日本書紀だって記述からすれば、九州説を暗示してるしね・・・

これもデマ。記紀からは年代は判明できない。
東征があったとしても年代は考古学でしか分からないね。


1000 :日本@名無史さん:04/09/26 11:03:12
うんこ

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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