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◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART11

1 :日本@名無史さん:04/09/26 15:13:15
邪馬台国や狗奴国はどこ? 大和朝廷との関係は??
西日本に統一政権はあったか? 統一されたのはいつか??
どのような過程を経てそれらが進行していったのか??

倭人伝の信憑性や如何に? 記紀はどこまで真実を伝えているのか??
最新の発掘状況と最新の資料解釈を元に、古代王権の正体を推理する!!

根拠を明記した意見交換・情報提供・問題提起で活発に議論しよう!!

前スレ
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART10
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1095042260/

過去スレ
PART 9 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1092815302/
PART 8 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1091455684/
(ただし、スレッド名間違いでPART7となっているので注意。本PART7は以下参照。)
PART 7 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1090293717/
PART 6 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1088171034/
PART 5 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1083108954/
PART 4 http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1078618831/
PART 3 http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1077874356/
PART 2 http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1076418632/
PART 1 http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1045719732/

関連スレ(単なる邪馬台国の場所問題や倭人伝の解釈についてはこちらでどうぞ)
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか14)
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1093794804/

2 :日本@名無史さん:04/09/26 15:50:05
チキンマ○ク2ゲット

3 :日本@名無史さん:04/09/26 15:52:39
畿内説って

反論もできないで脊髄反射的に否定や拒絶のみに終始してるね。

持論といえばマキムクの特異性やら吉備との連合やら、ワンパターンだよ。


4 :日本@名無史さん:04/09/26 16:37:33
新スレ乙。
基地外が相変わらず吠えているな。啓蒙が必要だ。

5 :日本@名無史さん:04/09/26 16:55:33
どうせスレの使い分けできないんだから、
新スレ、必要なかっただろ。

中身が変わらない邪馬台国関連スレ、いくつあると思ってんだよ。
いいかげんにしろよ

6 :日本@名無史さん:04/09/26 17:20:23
>>5
少ししかないし、ここが本スレだろ。

7 :日本@名無史さん:04/09/26 17:27:58
>>5
倭人伝を読む限り、邪馬台国九州説が優位になるんだよ。
ただ、「邪馬台国は九州にありました」という結論だけでは、もの足りないというか。
やはり、邪馬台国→大和朝廷へと至る3〜4世紀に興味があるんだ、少なくとも俺は。
倭人伝の畿内VS北九州の余裕のない喧嘩は、読んでいて気分の良くないものだし。
だから、倭人伝を一時横に置いておいて、論争する事が重要だと思う訳だ。
このスレには、そういった冷静な議論を期待したい。

8 :日本@名無史さん:04/09/26 17:33:27
>>7
方角の弱点を除けば
水行は瀬戸内海と考えるのが常識的だし
邪馬台(ヤマト)国と地名もあっている。

9 :日本@名無史さん:04/09/26 17:36:40
>>8
九州説は距離っつー弱点あるしな

10 :日本@名無史さん:04/09/26 18:53:13
畿内説に論証なし!

ちょっとは論証しろよ、>>8さんと>>9さん。

11 :日本@名無史さん:04/09/26 19:06:29
畿内説に論証なし!

>水行は瀬戸内海と考えるのが常識的だし

その「常識的」なるものの結論は、論証を経て導き出されたものなのか?
なぜ水行=瀬戸内海 と考えるのが常識的なのか?
その説明をせよ。

12 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/26 19:10:30
方角だけじゃなく距離も畿内だとめちゃくちゃなんだけどw

13 :日本@名無史さん:04/09/26 19:21:51
ジャワだよ。

14 :日本@名無史さん:04/09/26 19:23:54
ちがうちがう。
司馬仲達の捏造だよ。
邪馬台国なんてはなっからなかった。

15 :日本@名無史さん:04/09/26 20:45:11
>>14
>司馬仲達の捏造だよ。

これは論証を経て導き出された結論なのか?
説明を求む!

16 :日本@名無史さん:04/09/27 19:05:25
俺も>>7に同意だな
結論は九州で決着がついてるんだけど
それからの過程(歴史)に興味がある。

・学会の権威云々
・マキムク
・個人中傷

これしか言えない畿内説はできるだけ放置の方向で
俺はNGワードに入れてるよ。

17 :日本@名無史さん:04/09/27 19:08:38
考古学板では九州説というだけで電波扱いされるわけだが。

18 :日本@名無史さん:04/09/27 19:28:57
>>16
スレの質が下がるから基地外は基地外板でやれよ。

19 :日本@名無史さん:04/09/27 20:11:07
>>18
基地外っておまえのことだろ。

20 :7:04/09/27 20:39:11
>>16
悪いが、俺は畿内説だ。

21 :日本@名無史さん:04/09/27 20:49:17
>>20
>だから、倭人伝を一時横に置いておいて、論争する事が重要だと思う訳だ。

なるほど、たしかに畿内説の主張だ。

22 :日本@名無史さん:04/09/27 21:33:18
畿内説・九州説は置いといて、

>倭人伝を読む限り、邪馬台国九州説が優位になるんだよ。

をじっくりと、具体的にやりたいな。

23 :日本@名無史さん:04/09/27 22:02:43
>>22
ここでやれば?

「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか14)
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1093794804/l50

24 :日本@名無史さん:04/09/27 22:17:36
このスレでは、畿内と一括りにされているが、葛城については、どう考えれば
良いのだろう。
後世、国造も置かれ、大和国とは違う「葛城国」とされていたし、
欠史八代の多くの天皇が、葛城に縁を持っている。5世紀には大王家の外戚として
権力を振るい、後裔には有力豪族多数。
何より、大和から河内に至る交通の要衝を押さえているという地の利。
三輪王朝以前の葛城王朝の存在の可能性はあるのか?

25 :日本@名無史さん:04/09/27 22:22:58
>>23
ここが本スレなんだろ?
14は無駄だから落とせ。

26 :23:04/09/27 22:38:04
>>25
要するに、俺は、倭人伝に拘る邪馬台国所在地論争に飽き飽きしてるわけだ。

邪馬台国が北九州にあったにしろ、畿内と北九州の力関係が逆転したのは
何世紀くらいのことで、それはどのようなものであったのか?東遷はあったのか?
について論じてくれよ。

27 :日本@名無史さん:04/09/27 22:41:24
>>26
好きにやれば?
議論がパラレルに動いても問題ないだろ?

28 :日本@名無史さん:04/09/27 23:08:02
俺として、どうして学会が畿内に拘るのか、
本当に「考古学的物証」だけで畿内説をとってるのか、
それ以外の、(皇室関係とかの)「しがらみ」があってのことなのかが気になる。

俺としては「しがらみ」が裏にあるようで、いまいち近畿説は信じ難い。

29 :日本@名無史さん:04/09/27 23:25:42
近畿説が立証されれば、紫綬褒章がもらえます。
九州説が立証されても、園遊会にも呼ばれません。

30 :日本@名無史さん:04/09/27 23:27:45
京大では畿内説が絶対前提条件、九州説を唱えるなど不可能だし自殺と同意。

例えるなら

宮内庁職員や侍従などが『天皇制度反対』を唱えるようなもの。

31 :日本@名無史さん:04/09/28 00:10:24
>>29-30
池沼は出てくるなよ。池沼板へ逝け

32 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/28 00:15:45
なぜ今から1700年以上昔の古代で
日本を統一した畿内の王族が、いまだに
日本の頂点に君臨しているのか・・
不思議じゃありませんか?

33 :日本@名無史さん:04/09/28 00:15:54

>宮内庁職員や侍従などが『天皇制度反対』を唱えるようなもの。

ワラタ、その通り。

34 :日本@名無史さん:04/09/28 00:22:30
畿内説で学会は、決着してる話なのにまだやんのかね?
ほんとの古田信者はこりないね。


35 :日本@名無史さん:04/09/28 00:27:00
>26
そうだよね。
そこはまだ学会でも論争中だよ。
時期は、大きな動きがあったのは、2世紀後半〜3世紀初頭
というのは確定しているがね

36 :日本@名無史さん:04/09/28 00:27:07
俺も>>7に同意だな
結論は九州で決着がついてるんだけど
それからの過程(歴史)に興味がある。

・学会の権威云々
・マキムク
・個人中傷←>>34は之を嫁、行動を見透かされてるんだよ(藁

これしか言えない畿内説はできるだけ放置の方向で
俺はNGワードに入れてるよ。


37 :日本@名無史さん:04/09/28 00:27:08
>>32
結束力と軍事力が強い島国で他民族に征服されなかったから。
日本以外に同様な例は皆無だな。

38 :コテコテの畿内説ですー:04/09/28 00:30:27
マキムクは学会の権威により邪馬台国です
古田や吉田や鈴木や中曽根や小泉などは池沼でう(藁

というか池沼ってどういう意味?

39 :日本@名無史さん:04/09/28 00:36:58
>28
ねえよ。アホか。
文献主流派の津田と考古学主流派の小林は、神武及び東遷など記紀の記述を
概ね否定。
記紀に忠実なのは逆に文献傍流の田中卓や考古学傍流の原田
くらいなもんだ。
そんなことも知らないとは呆れたな。


40 :日本@名無史さん:04/09/28 00:48:27
学会では絶滅した九州説ってなんで度素人に人気なの?

41 :日本@名無史さん:04/09/28 00:50:13
>>28
倭国の権力の座は元々北九州にあり、その後畿内に移ったのは畿内説でも認めている。
邪馬台国だけを畿内に持ってきたところでどうなんだ。
つまり邪馬台国所在地論争は、北九州→畿内に権力が委譲されたのは何時の頃かという
議論であってさ。別にイデオロギー的なモノとかは無いと思うよ。

42 :日本@名無史さん:04/09/28 00:51:37
井沢が捏造した卑弥呼殺人事件ってアホすぎです

43 :日本@名無史さん:04/09/28 00:56:49
>43
35を読め

44 :日本@名無史さん:04/09/28 00:57:46
邪馬台国の子孫である神夏磯媛は、榊に三種の神器をぶら下げて、景行の
西征軍に帰順した。
3世紀後半〜4世紀初めのことだろう。

45 :日本@名無史さん:04/09/28 01:08:43
>44
なことをいう考古学者はいません。

46 :日本@名無史さん:04/09/28 01:09:12
モーニング娘加護ちゃんとののが韓国歴史捏造

許せません。
優秀な世羅高校生のように真の歴史を学ぶべきです。

↓ココ読め
http://plaza.rakuten.co.jp/saurabi/diary/200408200000/






47 :日本@名無史さん:04/09/28 01:16:58
>>45
景行紀にははっきり書いてあるがな。
問題は、考古学的見地に立って、その記載をどう解釈するかだと思うよ。



48 :日本@名無史さん:04/09/28 01:20:08
卑弥呼時代の出雲についてはこの小冊子を見れ。
保存版としてPDFファイルを印刷することをお勧め
http://www.pref.shimane.jp/new/inishie/inishie/2kan.html
第二巻◆邪馬台国時代の島根/目次
第一部 古代島根に輝いた荒神谷の銅剣
第二部 栄光の時代と四隅突出型墳丘墓
第三部 古代島根の新生、卑弥呼の鏡と四角い古墳

49 :24:04/09/28 01:23:51
葛城国について書いたんですが、誰もレスしてくれない(ToT)
初期ヤマト政権を語る上で、重要な氏族だと思うのですが。
大和水軍の中核をなした紀氏とも関係が深そうですし。

畿内勢力と一括りにするのではなく、大和川水系、淀川水系など、重層的に
捉えるのが大切だと思います。

50 :日本@名無史さん:04/09/28 01:41:41
>>41

それは、九州王朝から畿内の邪馬台国に権力移譲があったということ?

51 :日本@名無史さん:04/09/28 01:50:59
そこで東遷ですよ。

52 :41:04/09/28 01:57:19
倭国王がいたであろう博多湾周辺にも、初期前方後円墳があることから、
畿内vs北九州は全面衝突したのではなく、比較的平和裡に北九州が
畿内傘下になったのではないかと思っています(しかし、少なくとも磐井の頃
までは、北九州は先進国として割と自主性は保っていたと思うよ。装飾古墳
とかもあるし)。

邪馬台国=北九州なら、少なくとも3世紀後半までは、北九州は畿内に
対して優位性を持っていた(倭王であった)ということ。
近年の考古学の成果では、難しい設定ではあるけどね。

53 :日本@名無史さん:04/09/28 02:22:09
『翰苑』の「邪国が伊都に届き、傍ら斯馬につながる」という記述は
どのように考えたら良いのでしょうか。
俺は畿内説なんだけど、斯馬は三重県の志摩で、畿内女王は伊都に一大卒を置き
監視していて、その威名が伊都にまで届いていたという解釈はどう?
「届」の字をどう考えるかで、意見が全く変わってくるな。

54 :日本@名無史さん:04/09/28 02:34:26
>>53
太宰府に伝わる『翰苑』唯一の写本は誤記が多く
意味を取りにくい箇所が多すぎる。
ttp://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/kanen-wa.html

55 :日本@名無史さん:04/09/28 05:35:56
門脇さんはどっちになるの?
平野さんは?堀さんは?

56 :日本@名無史さん:04/09/28 06:18:02
>>54
しかし、それは「写伝者」の責任であって、翰苑の著者である張楚金の責任ではない。
そもそも倭人伝では、「斯馬国」の位置は書かれていないのに、この翰苑では
ズバリ、「伊都に連なる」と書かれている。
伊都=怡土  斯馬=志摩  なら、この翰苑の記述は正確である。

57 :吸収キッズ:04/09/28 06:22:43
卑弥呼の先祖は朝鮮半島からやってきたの?

58 :日本@名無史さん:04/09/28 06:32:04
天国から新羅に行くことを「天下る」と表現してるから、ちがうだろうな

59 :日本@名無史さん:04/09/28 08:33:49
>>52

九州に邪馬台国があり、畿内に大和朝廷があったとは考えられてないの?

どうして邪馬台国=大和朝廷と同一視する必要があるんだろうと思う。
アマテラスや神功皇后が卑弥呼と考えるのも、デンパと変わらないように思う。


60 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/28 08:39:31
3世紀にすでに畿内と九州が
統合されていたの?

61 :日本@名無史さん:04/09/28 16:24:32
>>59
江戸時代の国学者には、朝廷が魏に朝貢して冊封された記事を嫌って
そのように考えた人たちがいるが、恣意的な考えでしかない。

学問的には邪馬台(ヤマト)国は畿内で決着しています。

62 :日本@名無史さん:04/09/28 16:32:34
最近武光誠が九州説の本を出していた(本っていっても新書だが)


63 :日本@名無史さん:04/09/28 17:10:47
>>62
武光誠はあるとあらゆる歴史本を出すダボハゼ著述業
123 件ヒットしました。
http://sch.jbook.jp/s.asp
1. 地名から歴史を読む方法 (KAWADE夢文庫K648)
2. 海から来た日本史 (KAWADE夢新書S292)
3. 世界史に消えた海賊 (プレイブックスインテリジェンスPI097)
4. 古代出雲王国の謎邪馬台国以前に存在した (文庫た17-6)
5. 地名の由来から知る日本の歴史
6. 日本人なら知っておきたい武士道 (KAWADE夢新書S289)
7. 邪馬台国と大和朝廷 (平凡社新書224)
8. 日本地図から歴史を読む方法 (KAWADE夢文庫K624)
9. 海外貿易から読む戦国時代 (PHP新書291)
10. 完全版日本史の全貌 (武光誠の図説シリーズ)
11. 世界地図から歴史を読む方法 (KAWADE夢文庫K620)
12. 目からウロコの古代史イザナギ神話から壬 (文庫め1-4)
13. 速読術が日本史でマスターできる本
14. 歴史地図で読み解く三国志 (プレイブックスインテリジェンスPI076)
15. 意外と知らない迷走の近代日本史 (KAWADE夢新書S276)
16. 日本人なら知っておきたい神道 (KAWADE夢新書S271)
17. 合戦の日本地図 (文春新書321)
18. 藩から読む幕末維新 (PHP新書251)
19. 大和朝廷と天皇家 (平凡社新書180)
20. 大坂商人 (ちくま新書411)
・・・

64 :日本@名無史さん:04/09/28 18:11:28
>>61

>学問的には邪馬台(ヤマト)国は畿内で決着しています。

基本的な問いですが、以下の件は、どう決着してるの?

1、卑弥呼の墓が見つかってない
2、金印が見つかってない
3、卑弥呼に送られた100枚の鏡が見つからない
4、「邪馬台」と「ヤマト」は発音が違う
5、魏志倭人伝に書かれた、「のべ1万2千里」の距離は、九州内を示唆する
6、魏志倭人伝に書かれた「南」の表現は、九州内を示唆する
7、大和朝廷すら、「銅鐸」の使用用途が不明
8、記紀神話に銅鐸の記述が一切ない
9、邪馬台国と大和朝廷が結びつく証拠は無い(記紀神話に匂わせる程度)


考古学に基づけば、1、2、3を無視してはいけないはず。
4、5、6は、すべて魏志倭人伝の書き間違いなのですか?
7、8、少なくとも、4の銅鐸文化が滅んでから、大和朝廷が誕生したとしか思えないが。
9、記紀神話から畿内説を論ずるのは、それこそファンタジーではないのですか?





65 :日本@名無史さん:04/09/28 19:29:20
>>64
よくもそれだけ歪曲できるものだ。

卑弥呼の墓は箸墓が最有力なのは有名すぎる。
卑弥呼が倭に使者を送った時期の紀年鏡が何枚も見つかっているだろ。

銅鐸は最新の型式でも鉛同位体は前漢〜後漢初めの鏡と同じタイプで
大和朝廷が誕生する遙か昔。大国主に関するものなら構わないだろ。

66 :日本@名無史さん:04/09/28 19:54:21
>>65

>卑弥呼の墓は箸墓が最有力なのは有名すぎる。
掘ってもいないのに、有名とはこれいかに。

>卑弥呼が倭に使者を送った時期の紀年鏡が何枚も見つかっているだろ。
「卑弥呼」の使者かどうかなんで断定できない。

>銅鐸は最新の型式でも鉛同位体は前漢〜後漢初めの鏡と同じタイプで
>大和朝廷が誕生する遙か昔。大国主に関するものなら構わないだろ。
古代のオオクニヌシノの時代だからといって、
邪馬台国イコール大和朝廷とはならない。

古代の情報が少なすぎるからといって、現在知られてる情報だけを結びつけて、
邪馬台国=大和朝廷とするのは、陳腐すぎる。


67 :日本@名無史さん:04/09/28 20:10:53
畿内説、九州説 
まだ決着つかないの?

68 :日本@名無史さん:04/09/28 20:25:28
実際、物的証拠が無いのに、畿内説は決着を付けたがってるだけなんだな。

しかも魏志倭人伝という客観的資料を「書き間違い」と言い切り、
そのくせ、記紀神話のアマテラスや神功皇后は、卑弥呼を暗示させるという都合の良さ。
東征も実際あったかどうかわからない。

邪馬台国は九州で内乱で消滅し、
代わりに近畿の豪族一派が銅鐸文化を滅ぼして、大和朝廷に発展したとしても矛盾はない。


69 :日本@名無史さん:04/09/28 22:41:35
>>68
年代が全く違っているだろ。
銅鐸文化が終わったのは卑弥呼より遙かに昔のこと

70 :日本@名無史さん:04/09/28 22:57:17
遥かは嘘だろ

71 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/28 23:40:32
邪馬台国=大和国=大和朝廷というのは
古代連合国家体制における首都のことだと
いい加減理解しましょうよ。

72 :日本@名無史さん:04/09/29 00:30:44
>>71

それはつまり、九州〜畿内すべてが邪馬台国連合で、
首都が移動しただけという意味か?


73 :日本@名無史さん:04/09/29 00:42:36
>67
学者の間ではとっくに畿内で決着しました


74 :日本@名無史さん:04/09/29 00:51:34
>47
考古学的には布留期以降に九州と畿内が統一されたなんという珍説を
唱えるバカはいないです。

75 :日本@名無史さん:04/09/29 00:54:02
学会で消滅した九州説の行方はどうなるのでyそうか?

76 :日本@名無史さん:04/09/29 01:04:03
どうして畿内説論者は「論証」をしたがらないのでしょうか?
それは「論証」していくと、邪馬台国を畿内にもってくるのが不可能になるからです。

「最初に畿内にありき」 これが畿内説論者の特徴なのです。

77 :日本@名無史さん:04/09/29 01:28:10
>>76
畿内説は、邪馬臺=ヤマト という音韻上の問題すら論証しようとしないよね。
臺=ダイであって、「ト」という音韻は実例すらないのに。

78 :日本@名無史さん:04/09/29 01:46:55
>>77
現在の音読みかよ、池沼だな。( ´,_ゝ`)
奈良時代の日本語は二重母音が存在しなかったことも知らずに吠えているのだろう。

第一日:「邪馬臺」を読む
http://www.d8.dion.ne.jp/~kouji-kd/hougen/7Days/yamato.html

79 :日本@名無史さん:04/09/29 01:47:53
後漢書、隋書、通典では、「臺(タイ)」だけど、
三国志では、そもそも「壹(イチ)」だったよね。

つまり「ヤマイチ」。

大和(ヤマト)に結び付けようとしてるだけなんだろうけど。
畿内の「やまと」とは別に、九州に「やまいち」という国があっても不都合は無い。
魏志倭人伝の、都合の悪い箇所は全部誤植で片付けるのは歴史への冒涜だよ。


80 :日本@名無史さん:04/09/29 01:52:23
>>78
だから「論証」をしろっての。
とりあえず 臺=ト の実例をあげて見ろ。
そして、その「実例」について、論証する。

これが出来ないのなら、臺=ト は成立しない。よって邪馬臺=ヤマト説は破綻する。

81 :日本@名無史さん:04/09/29 01:55:15
>>78

なんで「邪馬臺」を奈良時代の日本語で読もうとしているのか?

古代の中国大陸の人が、倭人の発音を聞いて「邪馬臺(壹)」の漢字をあてたのだから、
古代の中国大陸での「臺(壹)」の発音を検証すべきだろう?

どっちが池沼なんだろうね。やれやれ。

82 :日本@名無史さん:04/09/29 01:56:07
>>78よ、>>1をよく読め。
>根拠を明記した意見交換・情報提供・問題提起で活発に議論しよう!!

アンタの言論はすでに「論議」とは言えない低レベルなシロモノなのだ。

83 :日本@名無史さん:04/09/29 02:15:53
>>79
書写ミスを考慮して江戸時代の学者でも重視していた校合作業を
古田信者の池沼は理解していないようだ。

隋書に「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」と書いてあるのに。

84 :日本@名無史さん:04/09/29 02:19:28
邪馬台国=大和朝廷なら、「親魏倭王」の金印は案外大和神社にあったりして。
調べる事は出来ないのか?

85 :日本@名無史さん:04/09/29 02:44:49
>>83
三国志に「隋書に曰く」「後漢書に曰く」という注釈がないことは
スルーですか?
翰苑には「壹」と「臺」の中間のような、ヘンチクリンな文字が使われていることは
どう説明するのですか?

その「校合作業」はあくまでも「隋書」「後漢書」でのもの。
肝心の「倭人伝」の邪馬壹国の項には「隋書に曰く」「後漢書に曰く」などという
注釈はないのである。


86 :日本@名無史さん:04/09/29 04:03:39
>>85
三国志の校注は隋の成立よりも遙かに古い。
三国志の成立はさらに古いが。

後漢書とて、三国志の校注よりは少し新しいはず。

だから、三国志で
>「隋書に曰く」「後漢書に曰く」などという注釈はない
のは当然至極。

>>78
漢〜三国時代頃までは、壱・臺とも、tの発音を含む読み方をされていた。
のち、臺はダイのような濁音化し、さらに子音発音が無くなって「イlとなった。
壱も似たようなものだが濁音付きになったことはない。

そういう音韻の研究書を読めば、ヤマイチやヤマイという読みがあり得ないと分かるだろう。

なお、三国志から引用した諸文献の記述がのきなみ「臺」であって「壱」ではないことから、
(詳しい論考は省略)三国志も当初は「臺」と書かれていたのが、
宋の頃に「壱」に文字化けした(半ば人為的?)と考えられるようになった。
従って、「邪馬壱」ではなく「邪馬臺」というわけだ。

87 :日本@名無史さん:04/09/29 07:12:48
>>86
>漢〜三国時代頃までは、壱・臺とも、tの発音を含む読み方をされていた。
実例を示せ。上古音でも、臺=ダイだろ

88 :日本@名無史さん:04/09/29 09:43:22
三国志と、後漢書は、成立に100年程度の開きがある。
その間、中国大陸と交流する日本列島のクニが、
「ヤマイチ」から「ヤマト」に変わり、そのことが反映したとしてもおかしくない。
(正しい発音はともかく)

邪馬壹・邪馬臺・やまとは、発音が違うのだから、
それぞれ、別のクニを示していたという可能性は否定できない。

そのくせ、畿内論者は、九州の「山門(やまと)」と近畿の「大和(やまと)」とは、
発音に甲乙の区別があるなどと言っている。
その論理から言えば、邪馬壹・邪馬臺は、大和とは別のクニということになる。

さあ、説明しろ。




89 :日本@名無史さん:04/09/29 10:10:20
>>88
歴史書が成立した時期と、現存する最古の刊本を混同させる池沼か。
古田信者の池沼は池沼板でやれよ。
その問題を解明するために江戸時代の学者も校合を行っていたのに。

隋書に「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」

90 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/29 10:11:08
>>72
まあそんなとこです。九州の
神武一族が3世紀より前に東征してますからね。
3世紀は首都は九州邪馬台に置かれてましたが
4世紀になると完全に畿内のほうが力が強くなったので
畿内に首都=邪馬台国が移動したわけです。
そして政権争いをなくすために各国が話し合い、
神武一族が子々孫々にいたるまで連合国家の王と
することに決めたのです。共立王では争いが絶えませんからね。

91 :日本@名無史さん:04/09/29 10:19:42
邪馬壹なんて単なる書き間違いだろ
なんでそこまで拘泥するんだ

92 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/29 10:36:46
そこまで邪馬台のタイの字にこどわるほど
文献主義なのに、なぜ倭人伝の記述は無視して
考古学的見地のみからみんな畿内説を押すのか
不思議でしょうがないんですがw

93 :日本@名無史さん:04/09/29 12:08:41
>>89

×その問題を解明するために江戸時代の学者も校合を行っていたのに。

○その問題の辻褄あわせのために江戸時代の学者も校合を行っていたのに。

94 :日本@名無史さん:04/09/29 12:14:29
>>89

隋書には、こうもある。
「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里 在會稽之東與耳相近」


「樂浪郡から1万2千里の距離」という記述が続くことも、
意図的に無視してるだろ。
それとも無知か? 反省しろ馬鹿。


95 :日本@名無史さん:04/09/29 13:09:11
また同じ議論を蒸し返してる〜。
もう幾らやっても堂々巡りの議論じゃないかなあ。
「ひみこのはか」とか書かれた遺跡でもでてこない限り。。。

96 :日本@名無史さん:04/09/29 15:30:03
ひみこのばか

97 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/29 16:03:24
考古学というものも曖昧なものでしょ。
ミステリー小説でいう、死亡推定時刻を
割り出すみたいな感じでしょ。実は3世紀だと
思っていた遺跡が4世紀だったと強弁しても
不思議でもなんでもない。

98 :日本@名無史さん:04/09/29 16:33:02
>>95
畿内説論者が逃げてばかりで議論のレベルではないだろ。


99 :日本@名無史さん:04/09/29 18:19:08
>>93
校合の重要さを理解できない古田信者は池沼

100 :日本@名無史さん:04/09/29 18:19:49
>>98
古田・安本信者が池沼すぎるから

101 :日本@名無史さん:04/09/29 18:21:00
>>97
例え話に逸らすのは無知な証拠

102 :日本@名無史さん:04/09/29 18:28:13
>>100
それなら、翰苑の

 憑山負海、鎮馬臺以建都……邪届伊都、傍連斯馬。

について論証しろ。出来なければお前は自らが述べる
「古田・安本信者が池沼」の影すら踏めない低レベルである。

103 :日本@名無史さん:04/09/29 18:39:14
>>102
54 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:04/09/28 02:34:26
>>53
太宰府に伝わる『翰苑』唯一の写本は誤記が多く
意味を取りにくい箇所が多すぎる。
ttp://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/kanen-wa.html

104 :日本@名無史さん:04/09/29 18:51:54
>>89
後代の人が倭人伝(古写本・刊本とも)に「隋書に曰く」「後漢書に曰く」と
注釈をしていないのだから、隋書や後漢書に存在する注釈はあくまでその史書に
おいて理解するものである。その史書は、「その時代の人たち」が読者なのだから。

ようはその時代、「ヤマタイ・ヤマダイ」と呼ばれていた、というわけである。
なんで「後代の史書・注釈」の理解を三世紀にまでさかのぼらせなければならないのか。
陳寿も、そして三国志の読者も、はるか後代に成立する後漢書、隋書のことなど
知るはずがないのであるから。

翰苑の注釈をよく読むがいい。「後漢書に曰」と書きながら、後漢書が書きもしない
「宗女台与」についてまで述べている。「後代の校合」というのをタテに
「翰苑の注釈により、もともとの後漢書には台与のことも述べられていた」
などと言えるだろうか? 言えはしない。
「後代の校合」はあくまで「校合作業による仮説の導きだし」という方法の一つであって
資料としては当然、元資料>校合作業で得られた仮説 でなければならないのである。

105 :日本@名無史さん:04/09/29 18:55:13
>>103
翰苑に「誤字」が多いのはあくまで「写伝者」の責任である。
そんなこともわからんのか、低レベルものめ。

倭人伝では「傍国」のひとつとしてその位置さえ書かれていなかった
「斯馬国」について、翰苑では「伊都に連なる」と正確に示している。
これを見ても、翰苑そのものの筆致は信用できるのである。


106 :日本@名無史さん:04/09/29 19:36:53
>>104
注釈する人物の緻密さによる。
校合は重要な作業で、古田は知っているはずなのに
著述業で素人を騙すために敢えて目を瞑っているのだろ。

107 :日本@名無史さん:04/09/29 19:45:58
>>106
ちがうね。「重要な作業」ということは認識しているが、所詮は「仮説を導き出す作業」
であって、元資料より重要とはいえない。

たとえば「新唐書」その他後代の資料に「目多利思比孤」とあるからといって、
それを「校合」と称して「隋書の多利思北孤は誤り」と言うことは出来ない。
こんなことは校合作業のイロハなのである。


108 :日本@名無史さん:04/09/29 19:56:38

1.邪馬台国は、どういう発音だったか
2、邪馬台国は、九州、機内のどちらにあったか
3、邪馬台国は、大和朝廷の前身か、別々のクニか
4、記紀神話には、本当に邪馬台国の歴史・事件が反映されてるのか

これらは、お互いに関係のないこと。
たとえ、機内に邪馬台国があったとしても、
他から来た大和国に滅ぼされたかもしれないということ。
どうして各論ごとに検証しようとしないのか?



109 :日本@名無史さん:04/09/29 20:32:41
>>107
校合が分からない池沼発見。
「北」を固有名詞の音を当てるのに使うか調べてみるべきだな。
「比」は稲荷山鉄剣銘など、しばしば使われている。

110 :日本@名無史さん:04/09/29 22:42:43
>>109
どっちが「池沼」なんだか・・・
「多利思北孤」は本人が隋朝に渡した「国書」に記載された自署名であることが濃厚。
そしてその「自署名の記載された国書」がそのまま唐朝に残っていてもおかしくない年代に
「隋書」は編纂されているのである。

つまり、後代、その自署名入りの国書を知らない者で、「ヒコ」等が日本名に
頻出することを知っている者が、改変(本人は誤りを正したつもりであろう)した
可能性が高いのである。
ちなみに「多」「利」「思」「北」「孤」はすべて佳字である。

正直、「同時代資料」の価値の高さより、「校合」を重用視している方が
はるかに「池沼」だぞ。


111 :日本@名無史さん:04/09/29 22:52:54
おっと、>>110にちょっと訂正。
>つまり、後代、その自署名入りの国書を知らない者で、「ヒコ」等が日本名に
>頻出することを知っている者が、改変(本人は誤りを正したつもりであろう)した
>可能性が高いのである。

これは「多利思比孤」の方についての解説な。

112 :日本@名無史さん:04/09/29 23:04:54
>>110
原本ではなく後生の刊本・写本だからこそ
校合が重要なのだ。それを分かりたくないのが古田信者。

113 :日本@名無史さん:04/09/29 23:36:32
>>105
>倭人伝では「傍国」のひとつとしてその位置さえ書かれていなかった
>「斯馬国」について、翰苑では「伊都に連なる」と正確に示している。
>これを見ても、翰苑そのものの筆致は信用できるのである。

傍連斯馬
は邪馬台国の場所の記載だと思うが。糸島半島の志摩町に斯馬国を持ってきたい
気持ちは分かるが。
倭人伝を素直に読む限り、邪馬台までの行程途中に、伊都→奴→不彌→投馬
があり、その邪馬台の隣に斯馬があると書いてある。伊都の隣に斯馬があるとは
書いていない。
「邪届伊都」の記述は判断が難しいところですが、別に「伊都に一大卒を置かれて、
邪馬台の支配下にあった」という解釈でいいのでは?
「届」という字のニュアンスからすると。

あと翰苑を読む限り、唐代の人が歴史書を読んで、パッチワークで書いたような
印象だなあ。まあ、伝わっていない史書を読んでいたという可能性は
否定できないが。

114 :日本@名無史さん:04/09/29 23:43:45
>>112
ちがうね。あくまで「原本」は原本として扱うべき物だ。
そして校合の結果はそれとして尊重はしなければならない。
しかし、はるか後代成立の「隋書」にあるからといって、「同時代資料」の方を
修正するのは、本来の「校合」の方法ではない。
(なぜか古代史の、特にこの分野だけ、「校合」というものの扱い方が変なのが
不思議でしかたがないのだが)

115 :>>113以前貼られたもの:04/09/29 23:50:04
倭人伝の行程文には、「行動を示す動詞」があるのとないのがある。
つまり「ない」のは郡使の旅程がなかったことを示す、と考える。

循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國 [水行あるいは歴]
始度一海、千餘里至對馬國 [度=渡]
南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國 [渡]
又渡一海、千餘里至末盧國 [渡]
東南陸行五百里、到伊都國 [陸行]
東南至奴國百里 [ナシ]
東行至不彌國百里 [東行]
南至投馬國水行二十日 [ナシ](この場合の水行は至〜国名の後であるから里数の代わり)
南至邪馬壹國、女王之所都 [ナシ]

つまり奴国、投馬国、邪馬台国に行くのに「郡使の旅程」がなかったことを示している。
奴国、投馬国は里数・日数が書かれているから明らかに離れた場所にある傍国の記載。
その点、邪馬台国の場合は里数記載がない。これは「不彌國」と「邪馬台国」が接している
ことを示す。いわば「同一地域の別行政区画」なのである。
邪馬台国の戸数記載は「魏の制式単位」である「戸」であるのに対し、
不彌國については「家」であらわされている。これは「行政区画が別」だからだと
考えられるのである。

116 :>>113以前貼られたもの:04/09/29 23:50:32
そして、この解釈を補強する資料が「翰苑」の

憑山負海、鎮馬臺以建都……邪届伊都、傍連斯馬

の記事だ、と言っているのである。ここでは斯馬−伊都−邪馬台国が並んでいる、
と述べている。不彌國が無視されている形であるが、「同一地域の別行政区画」
であるなら、略しても不思議ではない。あるいは後年、行政区画が合併された
可能性もあろう。
倭人伝では傍国として行程文から外されていた「斯馬国」が、翰苑ではちゃんと
その位置が正確に示されている。翰苑に誤字脱字が多いのは写伝者の責任であって
資料そのものは、信憑性があると私は判断する。


117 :日本@名無史さん:04/09/29 23:53:51
>>114
原本ではなく刊本や写本。古田信者は池沼

118 :日本@名無史さん:04/09/29 23:57:44
このスレッドには小林恵子と某国工作員、西都厨=古田信者=アズマ
の立ち入りを禁止します。

(西都厨=古田信者=アズマ隔離スレッド)
九州王朝はなかったのか?※ 9
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1081624257

(小林恵子と某国工作員隔離スレッド)
【古代史電波】小林恵子の妄想を語ろう
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087908201/l50
朝鮮人が日本を作った可能性は
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1057493325/l50




















119 :日本@名無史さん:04/09/29 23:58:03
>>115
> 南至投馬國水行二十日 [ナシ](この場合の水行は至〜国名の後であるから里数の代わり)
> 南至邪馬壹國、女王之所都 [ナシ]

歪曲するなや。上は水行、下は水行+陸行と書いてあるだろ

120 :日本@名無史さん:04/09/30 00:01:14
>>117
同じことだよ。同時代資料の「刊本・写本とも例外なし」という文字を
「校合」で得られた結果で修正してしまうのは、なんとしてもやりすぎ。


121 :日本@名無史さん:04/09/30 00:10:51
>>120
基地外は基地外板でやれや

122 :日本@名無史さん:04/09/30 00:15:00
>>121
その言葉はそっくりお返しする。
そんな「校合」など、もっともっと資料の多い中世以降の資料批判法では
通用しないのだから。

123 :日本@名無史さん:04/09/30 00:17:26
>>119

至○○国 の後に記述してあるものが、「行動を示す動詞」のわけがないでしょ。
アンタ、中国語の初歩でもいいから、勉強してきなさい。

124 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/30 00:24:09
聖書の暗号って本書いた人じゃあるまいし、
うさんくさいことにはまりこむのはやばいですよw

125 :日本@名無史さん:04/09/30 00:27:50
>>116
>不彌國が無視されている形であるが、「同一地域の別行政区画」
>であるなら、略しても不思議ではない。あるいは後年、行政区画が合併された
>可能性もあろう。
このあたりが普通に弱いな。
ていうか、それらを読んだ上で、そんな倭人伝の読み方は牽強付会だと言ってる
んだが…
倭人伝の解釈にしても、邪馬台国に至るまでの行程が書かれている文脈の流れで、
いきなり行程から逸れるという考え方は違和感有りまくりだし、無理矢理、博多湾
周辺に邪馬台国を置こうという意図が見える。
動詞の有る無しとか、なぜそんなややこしい、勘違いするような書き方をしたんだ?

126 :日本@名無史さん:04/09/30 00:42:17
>>125
いや、「軍事報告書」であるからには、2万戸、5万戸の大国が特記されるのは
当然だといえる。
魏軍が倭国に進駐する事態を想定しての軍事報告書である以上、食糧の確保が
最優先であるのだから。
  對馬國・・・・・有千餘戸、無良田、食海物自活
  一大國・・・・・差有田地、耕田猶不足食
こういった記載は郡使の「倭国見物録」ではない。軍事報告書として、
「食糧の確保が出来るかどうか」といったことを記述しているのである。

それから、
>動詞の有る無しとか、なぜそんなややこしい、勘違いするような書き方をしたんだ?
これも誤解である。動詞の有無は中国語にとって「重要」なこと、今も昔も変わりがない。


127 :日本@名無史さん:04/09/30 00:48:36
>>116
倭人伝で都合が悪い箇所は、別の都合のいい資料を持って来て、
「倭人伝に書かれていない事が書かれているから、この資料は正しい」って、
論理のすり替えだよ。

倭人伝には、「伊都と邪馬台の間には数カ国があって、邪馬台の隣に斯馬がある」
と書かれていて、邪馬台と伊都と斯馬が並んでいるなんて書かれていないのに、
「翰苑にそう書かれているから三国は並んでいた(僕はそういう読み方は
しないけど)。逆に倭人伝に書かれていない事が書かれているから、翰苑は
正しい」ってねえ…。完全否定はしないけど、強引だとは思わないか?
翰苑を初めて見た博多湾周辺説の人は、喜んだんだとは思うけど。

128 :日本@名無史さん:04/09/30 00:49:35
ひょっとすると、誤解している人がいねかも知れない。翰苑の

 憑山負海、鎮馬臺以建都……邪届伊都、傍連斯馬

は、翰苑が書かれた「唐代」の認識であり、決して「三世紀・魏晋朝代の倭国」の
邪馬台国の地図ではない、ということだ。
つまり唐代の「倭都」は魏代の邪馬台国と同じ場所にあり、伊都の斜めに接し、
その向こう側に斯馬がある、と述べているのである。

129 :日本@名無史さん:04/09/30 00:57:18
>>127
どこが強引なんだか。「從郡至倭」と明記されているのだから
郡使の「行動を示す動詞」が有るか無いかで解釈が違ってくるのは当然だ。

>倭人伝には、「伊都と邪馬台の間には数カ国があって、邪馬台の隣に斯馬がある」
これはどこの資料だ???

130 :日本@名無史さん:04/09/30 01:11:50
>>129
動詞うんぬんで解釈するのは、あくまでお前の主張で、倭人伝を素直に読めば、
伊都→奴→不彌→投馬→邪馬台になるよ。同じ事を書かせるな。

131 :日本@名無史さん:04/09/30 01:14:51
>>130
ならないね。「投馬国」は傍国になる。
至○○国 の後に「行動を示す動詞」が置かれる中国語など存在しない。
だから水行二十日は里程の代わりである。

132 :日本@名無史さん:04/09/30 01:15:48
>>128
>唐代の「倭都」は魏代の邪馬台国と同じ場所にあり、伊都の斜めに接し、
>その向こう側に斯馬がある、と述べているのである
で、唐代の「倭都」って何処なの?
まさか…、九州王朝説の人?

133 :日本@名無史さん:04/09/30 01:17:41
>>130
現代の中国語でも、実際に「行動する」場合は、行動の動詞が付けられるのだよ。
それは現代中国の地図にも書かれる「至○○里」の「至」とは別のものだ。

134 :日本@名無史さん:04/09/30 01:19:51
>>132
そういうことになってしまうな。翰苑の記述に従うかぎりな。

135 :日本@名無史さん:04/09/30 01:28:16
>>115
> 南至投馬國水行二十日 [ナシ](この場合の水行は至〜国名の後であるから里数の代わり)
> 南至邪馬壹國、女王之所都 [ナシ]
「水行十日陸行一月」を書かないあたりが、確信犯だな。
同じような文章が続けて書かれているのに、邪馬台の水行十日陸行一月を、
投馬の水行二十日とは全く違うように読んでいる。
漢文がお前が言うように厳密なら、なぜ同じような文章なのに、その様に違った
読み方が出来るのかを教えてくれ。
いい加減、「倭人伝等の文献解釈だけで、邪馬台国が分かる」みたいな幻想は
捨てろよ。

136 :日本@名無史さん:04/09/30 01:31:44
至○○国○○里 という構文を無視して読まないようにね。

だから「南至投馬國水行二十日」の水行二十日は、里程の代わりである。

137 :日本@名無史さん:04/09/30 01:35:38
>>135
「從郡至倭」で始まる行程文の最後が「水行十日、陸行一月」なのであるから
「水行十日、陸行一月」は帯方郡から邪馬台国までの総日数なのである。
これが「軍事報告書」を元にして書かれたものである以上、
「総里数」と「総日数」が記載されているのは当然なのである。

138 :日本@名無史さん:04/09/30 01:50:50
>>137
不彌国と邪馬台国は距離を書かなくてもいい程近かった、ってことだな。
まあ、言わんとする事は分かるが、かなり色んな前提がいる読み方だな、
というのが正直な感想。否定も出来ないが、肯定も出来ない。

お前の倭人伝の解釈はもういいから、博多湾周辺にあった邪馬台国は3世紀後半から
4世紀にかけてどうなったか、について書いてみてくれ。

139 :日本@名無史さん:04/09/30 02:04:47
>>136
南至投馬國、水行二十日
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月

同じ構文に思えるがな。

140 :日本@名無史さん:04/09/30 02:08:16
>>138
邪馬台国は「戸」 不彌国は「家」で書かれている。
「戸」は魏晋朝の制式単位であるが、「家」はちがう。
「同一地域の別の行政区画」というのは、まあ、アイデアのひとつではあるが、
決して根拠のない立論ではないことが、わかっていただけると思う。

で、4世紀であるが、時間がないので詳しい論拠は今は控えさせていただくが、
「西晋の滅亡」とともに、消滅した楽浪郡・帯方郡をめぐって高句麗と激突した
「倭国」とは、邪馬台国の後継国である、というのが私の立場。
南斉書に「倭國、在帶方東南大海島中、漢末以來、立女王。土俗已見前史」と
あるのがその根拠。

141 :日本@名無史さん:04/09/30 03:09:43
>>112
二十四史のうちに、原本が今まで伝わっているものが
いくつあるというのか。
大半は、写本や刊本のみが現存している状態で、
原本は遙か昔に失われている。

「原本は失われている」という事実を受け入れられないのは池沼ですか?

142 :141@名無史さん:04/09/30 03:11:34
すまん、間違えた。
>>110-111 >>114
と書くべきところに、
>>112と書いてしまった。
112には同意見。

143 :25歳♂投馬国王の子孫:04/09/30 10:45:33
私、宇佐説から山門説に転向します。
井沢に惑わされてました。

144 :日本@名無史さん:04/09/30 21:16:04
山門の「と」が大和(邪馬台)の「と」と音が違うのはどう説明しますか?

145 :日本@名無史さん:04/09/30 21:25:12
考古学的には、いちはやく鉄器を輸入し、
鉄製の武器を用いて戦うことのできた九州地方が、他を圧倒していたと言えますね。

後に、出雲が、鉄器の国産化に成功しますと、
出雲の鉄器を争って、九州勢と、畿内勢が争うわけなんです。
結果、出雲を取り込んだのは畿内で、九州は敗北して衰退していきます。

魏志倭人伝の頃は、まだ出雲では鉄器の生産をしておりません。
つまり、九州勢が、畿内よりも戦いに有利であったと考えるしかなく、
遠くの畿内から、九州が支配されていたなどとは考えられないわけです。


146 :日本@名無史さん:04/09/30 21:42:08
弥生時代晩期になっても、畿内では、鉄器はほとんど使われておりません。
その頃、九州では、大陸から輸入された鉄器が豊富に使われておりました。

このような状況からみても、
畿内に邪馬台国があって、九州を押さえていたとは、とうてい思えません。


147 :日本@名無史さん:04/09/30 22:24:47
>>146
卑弥呼は古墳時代で畿内でも多量の鉄器を出土しています。

ウワナベ古墳(宇和奈辺陵墓参考地)その3

さて、この白いタワーのある この付近が、おそらく大和6号墳があった場所だと思います。
この陪塚は、径約30メートル程度の円墳だったそうです。上下、2段の円筒埴輪があったとのこと。
で、封土の中央から、872点(総重量128キログラム)の鉄が出土したとのことでした。
う〜ん 128キログラムって? うっ。どれぐらいの容積になるんやろ。

さっぱりイメージが湧きませんが、鉄が、この古墳に大量に埋められていた・・・この事実は、当時、大きな話題となったようです。
http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/burial-mound/uwanabe-kofun-03.htm

148 :寛恕不如意背反網倫理:04/09/30 22:44:55
大和の国に太陽崇拝が持ち込まれたのは高皇産霊尊の神勅による大国主命の国土
献上に従い、奴国連合の宗教が持ち込まれたのであろう。魏志倭人伝によれば邪馬
台国を盟主国とする倭国の初代国王は男王であったが、国中が収まらず遂には卑弥
呼を共立したという。これは神話では天の忍穂耳が撤退し、(奴国連合以外、長門、
又は、吉備出身か)ニニギの命が任命されるようであるが、直ちに九州南部に転封
されている感じである。万幡姫は失脚した記録がないのでそのまま魏との国交が始
まっても卑弥呼として活躍したのかもしれない。

149 :日本@名無史さん:04/09/30 23:04:31
>>147
神戸市東部における前期古墳について −神戸市東部には海岸線に沿って西から西求女塚古墳、処女塚古墳、東求女塚古墳の3古墳が東西に約2キロの間隔で並んでいる。

西求女塚古墳からは250点にも及ぶ多くの鉄製品が出土した。短剣や、槍先、刀、鏃などの武器のほか、ノミ、オノ、ヤリガンナ、ヤスなどの工具、漁具である。
当時としては貴重な鉄製品を埋納していることは、その入手が継続的に可能であったことを意味している。
豊富な鉄製品を入手し、山陰系祭祀土器をもつこの古墳の被葬者は、当時朝鮮半島からの鉄素材交易に関わっていた豪族だったのではないか。

当初半島からの鉄素材の入手では北九州が有利な地位を占めていた。弥生後期の何時ごろか、鉄素材の入手で大和が優位に立ち、その地位が逆転した。その結果大和の強大化が進行したとされる。
最近但馬地方で発見された「茶すり山古墳」などをはじめとして、この地域に何代かの豪族拠点を認め、この地域を通ずる鉄の交易ルートを想定し、但馬、播磨、摂津と続く鉄の交易ルートを通じて、
摂津の前期古墳の被葬者も大和への鉄供給の一端を担っていたのではないかとする考えが披露されている(ふるさと全史<46・47>神戸新聞)。
神戸市東部に存在する前期古墳の被葬者が大和政権の誕生前後の時期にどのような役割を演じたのか興味は尽きない。
http://world-reader.ne.jp/time-slip/m-maeda040527.html

150 :寛恕不如意背反網倫理:04/09/30 23:06:05
その高皇産霊尊神勅が高天原(奴国連合)から出た時代は帥升が倭国の鉄器にもの
を言わせ倭国最強の座にあった時代で、調子に乗って国津神の神妻、ミホツヒメ、まで
地元出身者登用を禁じて、奴国連合出身者を押し付けているが、三輪神社では村屋座
彌冨都比売神(むらやにいますみふつひめかみ)として別途お祭している。大物主は
近畿、摂津三島出身のイスケヨリヒメを登用している。すなわち、この頃奴国連合が
ソフリ(背振)の日向の国、夜須川の国(旧オオクニヌシの版図)の攻撃を受けて弱対
しつつあったと見たいのだが。


151 :日本@名無史さん:04/09/30 23:30:30
>1
学会では邪馬台国=大和朝廷で決着しました。
これ以上何を議論するの?


152 :日本@名無史さん:04/09/30 23:41:34
学会必死だな。

153 :日本@名無史さん:04/10/01 00:00:57
学会で滅びた九州説ってなんで素人に人気なの>?


154 :日本@名無史さん:04/10/01 00:01:58
>152
べつに必死じゃないよ。
古田が何言っても世間が相手にするわけないし。

155 :日本@名無史さん:04/10/01 00:04:13
そもそも畿内説の根拠がわからない。

魏志倭人伝に、12000里、南の方角と明記してあるのに。

156 :日本@名無史さん:04/10/01 00:06:56
このスレッドには小林恵子と某国工作員、西都厨=古田信者=アズマ
の立ち入りを禁止します。
(西都厨=古田信者=アズマ隔離スレッド)
九州王朝はなかったのか?※ 9
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1081624257

(小林恵子と某国工作員隔離スレッド)
【古代史電波】小林恵子の妄想を語ろう
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087908201/l50
朝鮮人が日本を作った可能性は
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1057493325/l50






















157 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/01 00:09:26
3世紀に畿内・吉備に大勢力があったのは
考古学的見地からみても間違いないですけど
なぜそれが邪馬台国になってしまうのでしょうか?
私はそれは物部王国のものだと思うのですが
みなさんはどう考えますか?

158 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/01 00:21:00
邪馬台国の王族の末裔である、
神武=崇神が東遷して、国を
譲ってもらったというのが真相でしょ。

159 :日本@名無史さん:04/10/01 00:23:41
>157
違います。
仮に神話に事実の反映があるとして、2世紀後半までだね、


160 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/01 00:39:39
>>159
いやいや、そんなことはないでしょw
3世紀後半に畿内物部王国の力が
九州の邪馬台国にまで及んだけど、
邪馬台国には中国からのバックアップがあるのと
戦争を避ける目的で、邪馬台国王を
連合国家の王に共立したっていうのが
真相でしょ。その代わり、物部氏は
大和朝廷内で重要な地位をしめるということに
すればかまわないしね。これが誇張されて
神武東征になったんでしょ。

161 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/01 00:59:32
神武以下欠史8代が
実在したか否かで結構
違ってくる。どっちよ?

162 :日本@名無史さん:04/10/01 01:29:18
普通に考えれば、系統の違う豪族がごっちゃになってるものだろう。

163 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/01 06:25:07
>>149
五百木と伯耆、なんか関係がありそうだ。

164 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/01 08:13:22
AD107年倭国代表団を率いて訪漢した帥升につき「王権誕生」では伊都国王としている。
このころ、伊都国は新兵器「鉄器」の流通を握り、倭国で最強の国、倭国の首都という
意味での高天原、となった。この国は平原の女王が多くの「八咫鏡」と共に埋葬されること
までが高天原であったのだろう。ところが倭人伝では伊都国が世帯数2万、投馬国が5万、
邪馬台国が7万という風に世帯数の多い国が出現する。150年も経過するのだから栄枯
盛衰があり、鉄の流れもこの世帯数の変化のコースをたどって流れを変えたのだろう。
この間の鉄器増加に寄与したのはどこなのかを示す時系列データはまだ出来ていない。だが、最近の古墳発掘情報を見ていると山陰の伯耆、丹後、播磨等に集中が顕著なようである。供給源である狗邪韓国(クサカの国)に対する伊都国の影響力低下か?



165 :日本@名無史さん:04/10/01 08:21:36
>>164
九州における鉄器の導入は遙かに古い。

弥生時代の新年代
早期の始まりは紀元前930年。前期の始まりはだいたい紀元前800年、
中期の始まりは紀元前390年から紀元前350年の間にあるというのが私たちの考えです。
私はいま、鉄器が日本列島に登場するのは古くて弥生中期初め、早・前期には鉄器は
まだなかったと考えています。九州では、弥生時代の最初の500年間は鉄器がない時代、
鉄器を用いないで稲作を行っていた「新石器時代」ということになります。
http://www.pref.toyama.jp/branches/3041/maitym-pdf/maitoya87.pdf

166 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/01 09:12:51
寺沢薫「王権誕生」186頁、「ナ国と周辺の国々の呪禁(じゅごん)」という分布図を見ると:
奴国連合:   早良、奴国、粕屋・・・(伊都国も入るとみられる)
周辺国:    御笠、安、御原、基肄、朝倉、浮羽、養父、三根、神崎
特に奴国の原町、紅葉丘対御笠の片野山、御原の隅・西小田、三根の検見谷に埋納
件数が多い。38度線の地雷原よろしく武器型銅器を埋納してある。この呪禁カーテンで
仕切られた周辺国と出雲は同じような銅鐸等を分有している。吉野ヶ里銅鐸=出雲邪視
文銅鐸、荒神谷銅鐸=鳥栖本行遺跡鋳型文様、出雲大社銅矛/命主神社中細型銅戈=
北部九州武器型祭器等がそれである。寺沢薫は宍道湖以西の出雲、神門、杵築は
九州と関係があるといっている。



167 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/01 09:13:54
一方で出雲は大物主(大黒さん)、事代主(恵比寿さん)の分布地域とも関係がある。
そうすると前のレスで述べた天の安川はこの筑紫中南部(筑紫日向国、プロト邪馬台国)
の安とし、オオクニヌシはこの地域の王でもあったと考えられる。国譲りの条件にある又、
汝(いまし)が海に遊び往來の具(そなえ)の爲に、高橋・浮橋及び天鳥船(あまのとり
ふね)、亦(また)供え造らん。又、天安河(あまのやすかわ)に亦(また)打橋(うちはし)
造らん。・・・ということは「大国主命が出雲から海路筑紫に御巡幸ある際に当っては、
離発着の岸壁、及び、快速帆船を提供し、筑紫日向国の首都を流れる夜須川にはパイル
を打った橋脚の耐久力のある橋を建設申し上げます。」という風に読める。大国主命は
こんなインフラ話に乗って隠居したのであろうが、天孫は名を残してものの、
大国主命は日本全国でお参りされることとなる。

168 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/01 09:15:10
又、オシホミミオの交替としてクサカから出馬したものであろう、ニニギは神武記にある
紀伊、大和の豪族の殺戮と収奪の結果、タギシミミのように東国勢による暗殺等のゲリラ
戦を受け九州南部に一時逃げ込み、同族の卑弥呼の力に甘えてやっと伊都国首長、
一大卒の監視下にある県知事クラスのポストを得たものでこれが伊都国のニギではない
のか。いずれにせよ、伊都国の関東から中国地方の政策については書紀の一書に詳述
され、天津磐境(楯築)、天津神籬(箸墓)を始め、三輪神社のカンナメに至るまでの細か
い意思決定のあったことが判る。


169 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/01 09:25:01
筑後を中心に鉄製品を拡販していた日下部は狗邪韓国と同体といっていい関係にあった
と見られるが強大な鉄製品の売り先を東国に求め山陰、投馬国(丹後から神戸)、に進出
筑後での石材業どうよう楯築建設などに参加して勢いを増したのではなかろうか。これが
河内経由奈良盆地にはいり、箸墓建設でも陰の力となったのではなかろうか。石上、兵主
等に神社をウラで支えたものかもしれない。

170 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/01 09:42:03
まー、こういうことを背景として邪馬台国特使をみると、これは生部(ナシメと読む、
鉱石濃縮)、十市ゴリ(鏡作の鋳型関係本部長クラス)、邪馬台国諸官は御座(ミマシ)、
御垣(ミマカキ)などであり、こうした整然とした制度は先行する伊都国の高天原で
反映の極みを尽くした帥升の末裔によって設計され、後年投馬国において開化した
文化によってインキュベートされたものと考える。だが、こうした動きのきっかけは山門
方面からの伊都国への攻撃にあったのかもね。

171 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/01 09:45:24
大和の王だったニギハヤヒが
あっさり神武に国を譲ってしまったことが
おかしいとは思いませんか?
これこそ、邪馬台国の王である神武=崇神が
西日本連合国家の王に共立されたことを
物語るものだと思います。ちなみにニギハヤヒは
物部氏の先祖です。つまり、畿内で発見されてる
3世紀の遺跡は物部王国とそれ以前の王のもので
4世紀前後に神武=崇神の勢力が入ってきたのです。
なのでこのころから古墳は前方後円墳に統一されているのです。

172 :日本@名無史さん:04/10/01 10:08:38
>>171
時期がずれているな。
畿内では200年頃に纒向石塚古墳など前方後円墳が登場しているし
西日本では250年頃に箸墓などを初め多く見られるようになり
出雲が方墳で粘っている以外は、前方後円墳に組み込まれるようになった。
東日本では東海中心に前方後円墳体制が対峙していたが
350年頃には前方後円墳体制に組み込まれた。

173 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/01 10:20:06
魏と倭の国交は三韓の鉄器が筑後・熊本平野をすぎて岡山・播磨・大阪平野に達する頃
に行われたた。それは西高東低の東遷というよりは三韓と日本海を扇状に結ぶ、冬の
高気圧の噴出しにも似たものであった。魏志倭人伝はこれを目撃した歴史的証人では
ないであろうか。


174 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/01 10:20:07
邪馬台勢力の畿内流入は4世紀前後と
いうことでよろしいですね?考古学的見地から
畿内にその時代の遺跡が多くあるから
それが邪馬台国だっていう論理はおかしい。


175 :日本@名無史さん:04/10/01 10:48:07
>>174
邪馬台(ヤマト)国の中心は奈良県オオヤマトだから意味不明

176 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/01 10:53:11
12000里、南、神武東遷、銅鐸消失

これだけのファクターを提示しても
まだ邪馬台国が畿内にあったという人が
いるんですか?

177 :日本@名無史さん:04/10/01 10:53:49
>>173
後漢書によると、倭国大乱は桓霊の間(147−189年)としています。
考古的にも卑弥呼の時代には畿内・吉備が鉄でも卓越しているので
もう少し前のことでしょう。

178 :日本@名無史さん:04/10/01 10:55:28
>>176
神武東遷があったとしてももっと古い時代。
銅鐸は鉛同位体から見てずっと昔に消失している。

179 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/01 10:59:30
>>178
>>160を読んでください。これが真相でしょ。
出雲の物部氏が、九州邪馬台国から王を
ひっぱりだしてきて、連合国家の王に共立させて
自分らはのちの藤原氏のような地位に就こうと
いう思惑でしょ。

180 :日本@名無史さん:04/10/01 11:14:45
>>178
>銅鐸は鉛同位体から見てずっと昔に消失している。

具体的に、いつ頃ですか?

181 :日本@名無史さん:04/10/01 11:28:19
>>177
>考古的にも卑弥呼の時代には畿内・吉備が鉄でも卓越しているので

そんなことはない。

182 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/01 11:33:56
書紀国譲り一書にある大和に対する、大国主命から行政権を買い取った、高天原
(伊都国)の政策はにおいて、三輪神社人事、楯築遺跡、箸墓建設と同じレベルで、
大和新政府の構造を述べているが、それによる官僚は神官としては(1) 天兒屋命
(あまのこやねのみこと)、(2) 太玉命(ふとためのみこと)に勅(みことのり)す。
「惟(これ)爾(いまし)二~(ふたはしらのかみ)、亦(また)同(とも)に殿の内に侍
(さぶら)いて、善く防ぎ護るを爲せ」。 又、勅(みことのり)して曰く、「吾が高天原
(たかまのはら)に所御(きこしめ)す齋庭(ゆにわ)の穂(いなほ)を以ちて、亦
(また)當(まさ)に吾が兒に御(しら)せまつるべし」。一般行政官としては(1)たてぬい、
(2)かなだくみ、(3)ゆうつくり、(4)たまつくり、などを定めている。このうちの神官が倭人伝
の御座(ミマシ)、御垣(ミマカキ)、かなだくみはヌカダと変化したものと考えたい。新都
建設に先立ち吉備高島、丹後、淡路、葛城などに仮庁舎が置かれたこともあろうが、
こうした人事制度の残滓が倭人伝に反映されていることは邪馬台国地域特定上は
畿内説を強化するものと考える。予断であるが関東のカナサナ、秩父方面にオフサイド的
に走る「星信仰」探鉱集団が摘発されているようであるが、倭人伝のカナサナ国の所在を
示唆する。


183 :日本@名無史さん:04/10/01 11:37:11
箸墓古墳が、卑弥呼の墓だと言われてるのは、
日本中の土器が集まってて、交易の中心地だからと言われてるけど、
鉄器は、全然出てこないんだよね。

畿内は、まだ「遅れた時代の交易センター」だったということ。

184 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/01 11:47:04
箸墓の鉄器についてはやがて宮内庁が発掘を許可すれば何が出てくるかわからないが、
三輪神社神主が販売する著書によると神殿の前から製鉄の金糞(鉱滓)が発掘されてい
るし、この辺には金屋子神が祭られていたり、金屋という地名もある。

185 :日本@名無史さん:04/10/01 12:33:02
>>183
そんなことはない。箸墓より古いホケノ山古墳から鉄製品が出土している。

ホケノ山古墳第4次研査 報道発表資料
2000年3月27日、大和古墳群調査委員会
5.出土遺物
 現在までに、画文帯同向式神獣鏡1面、内行花文鏡片・半肉彫表現の鏡片若干、素環頭大刀1口を含む鉄製刀剣類10口前後、銅鏃60本以上、
鉄鏃60本以上、農工具などの鉄製品多数、二重口縁壺20体以上が出土している。
http://www2.begin.or.jp/sakura/maho1.htm

186 :日本@名無史さん:04/10/01 12:35:25
>>180
最も新しい形式の銅鐸でも、前漢〜後漢初めの銅鏡の鉛同位体タイプで
後漢中期以降のタイプは見つかっていない

187 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/01 12:35:50
「王権誕生」p213、県別に見た鉄器の出土数では2000年のデータであるが、AD50まで、AD50-200、AD200-250の三段階で佐賀、長崎の急減と石川、長野、千葉の急増が印
象的である。流通は安曇海人、日下部族などが関与していたにせよ、利益率がこの格差
を生んだと思われる。これに伴い裏日本長野関東という新しいルートが出来上がるのだと
思う。でも古墳時代阿蘇の石棺を製造していたとみられるタケイワタツなどは農業以外に
第二次産業の道をつけた企業家であったのではないか。

188 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/01 12:42:10
文献・考古学の両面から判断するに
邪馬台国は九州にあり4世紀に東遷したと
いうのが最も妥当な判断だと思います。
畿内にある3世紀の遺跡は邪馬台国より
前に機内を治めていた王のものでしょう。
これに異論を唱える人はよもやいないでしょうね?w

189 :日本@名無史さん:04/10/01 12:51:17
>>188
( ´,_ゝ`)

190 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/01 12:58:51
↑昔の色町には太鼓持ちというのがいたが、話を途切れないようにする。腹のよじれるほど
おかしな漫才みたいなことをやったもので、売春禁止後も相当残っていた。プロだね。
まー、当時はひっちゃかめっちゃかだから何があってもおかしくないとは思うが、一応
海人族というのが海の通行を仕切っていた。それが半島の政情不安が発生し、意味の
ある動きを始めるのは石上神社に七支刀が献納される頃かな。国内戦の規模は小さく、
移動距離も兵站がないに等しく何キロも伸びなかったと思う。神功 の偉業もマツラあたりの
一部の海人族の働きじゃないんかな。決して野木対象みたいなもんじゃなかったと思う。
敵は大きく宣伝するからね。



191 :日本@名無史さん:04/10/01 13:02:14
>>185
その程度なら、北九州の方がもっと多くの鉄製品を出土してる。

192 :日本@名無史さん:04/10/01 13:05:54
九州説は、神武東征を持ち出すからバカにされる。

単純に北九州の邪馬台国連合が滅び、
畿内の大和の豪族が台頭してきただけ。

193 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/01 14:43:17
>>192
私も最初はそう考えましたが、
倭人伝にも隋書にも倭国・都はヤマト
と書いてあるので、政権の一貫性が
あると思い、邪馬台国東遷説をとっています。
邪馬台国と大和朝廷が異なるとすれば
もっと違った記述があるはずなのにそれがありません、

194 :日本@名無史さん:04/10/01 16:17:17
>>191
根拠を示せよ
===
神戸市東部における前期古墳について −神戸市東部には海岸線に沿って西から西求女塚古墳、処女塚古墳、東求女塚古墳の3古墳が東西に約2キロの間隔で並んでいる。

西求女塚古墳からは250点にも及ぶ多くの鉄製品が出土した。短剣や、槍先、刀、鏃などの武器のほか、ノミ、オノ、ヤリガンナ、ヤスなどの工具、漁具である。
当時としては貴重な鉄製品を埋納していることは、その入手が継続的に可能であったことを意味している。
豊富な鉄製品を入手し、山陰系祭祀土器をもつこの古墳の被葬者は、当時朝鮮半島からの鉄素材交易に関わっていた豪族だったのではないか。

当初半島からの鉄素材の入手では北九州が有利な地位を占めていた。弥生後期の何時ごろか、鉄素材の入手で大和が優位に立ち、その地位が逆転した。その結果大和の強大化が進行したとされる。
最近但馬地方で発見された「茶すり山古墳」などをはじめとして、この地域に何代かの豪族拠点を認め、この地域を通ずる鉄の交易ルートを想定し、但馬、播磨、摂津と続く鉄の交易ルートを通じて、
摂津の前期古墳の被葬者も大和への鉄供給の一端を担っていたのではないかとする考えが披露されている(ふるさと全史<46・47>神戸新聞)。
神戸市東部に存在する前期古墳の被葬者が大和政権の誕生前後の時期にどのような役割を演じたのか興味は尽きない。
http://world-reader.ne.jp/time-slip/m-maeda040527.html

195 :日本@名無史さん:04/10/01 16:19:29
>>193
倭国大乱の頃に神武東遷があったとすれば無問題だろ

196 :日本@名無史さん:04/10/01 16:50:51
>>194

>当初半島からの鉄素材の入手では北九州が有利な地位を占めていた。
>弥生後期の何時ごろか、鉄素材の入手で大和が優位に立ち、その地位が逆転した。
>その結果大和の強大化が進行したとされる。

「いつごろか」が、不明じゃないか。
卑弥呼の時代の前とは限らない。


197 :日本@名無史さん:04/10/01 17:09:22
>>196
卑弥呼は古墳時代初期だから明確

198 :日本@名無史さん:04/10/01 18:27:46
だから、邪馬台国は、鉄器を手にした畿内勢力の大和に滅ぼされたんだろ。

日本書紀にも、九州征伐とある。

199 :日本@名無史さん:04/10/01 18:36:11
>>198
邪馬台(ヤマト)国の拠点は奈良県オオヤマト

200 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/01 19:11:47
倭人伝に12000里、南と書いてあり
隋書に邪馬台国=大和朝廷と書いてある。

これだけでも九州邪馬台国が東遷したことなんて
素人でもわかるのになぜ議論が長引いてるの?

201 :日本@名無史さん:04/10/01 19:36:20
>>200
三国志と隋書は方角が違うだけで
長い水行の後で陸行して邪馬台=邪靡堆にたどり着くのは同じ

202 :日本@名無史さん:04/10/01 20:57:17
隋書に、方角と水行の記載なんてあったか?

203 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/01 22:10:31
出雲出身の物部氏が、邪馬台国の王を
畿内に招いて連合国家の王とした。
その代わり、皇后は出雲からだすことで
外戚となり実権を握った。日本は合議制重視だから
トップに意味がないことを知っていたんだろ。


204 :日本@名無史さん:04/10/01 22:24:39
>>202
↓の記述から水行の後で陸行したことと
筑紫の東に向かって都に着いたことが分かる。
「又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。」

205 :日本@名無史さん:04/10/01 22:26:30
>>203
出雲は前方後円墳体制に入らず、畿内と手を結んだ様子がない。
特殊器台の伝搬から、吉備が出雲から畿内に乗り換えたと見るべき。

206 :日本@名無史さん:04/10/01 22:45:30
学会で消え去った九州説ってなんで電波に人気なんですか?

207 :日本@名無史さん:04/10/01 22:52:10
邪馬台国はウタリの国という説があるそうだ。

208 :日本@名無史さん:04/10/01 23:10:05
「広開土王碑」には、倭国が朝鮮を攻めたとありますが、
日本書紀にはそんな記述はないでしょ?

九州の邪馬台国が、朝鮮を攻めたと考えたほうが自然だよ。

209 :日本@名無史さん:04/10/01 23:14:21
>>208
池沼かよ、神功皇后の三韓征伐も知らないのか。
好太王の時代に百済が皇太子を新羅が王子を朝廷へ人質に出した話もある。
これは朝鮮正史「三国史記」にも書かれている。

210 :日本@名無史さん:04/10/01 23:26:39
>>209
神功皇后は、201〜269年。

広開土王碑に書かれた倭との交戦は400年以降。

時代が合わない。

211 :日本@名無史さん:04/10/01 23:31:35
>>210
卑弥呼の時代に合わせるように
干支2運=120年繰り上げたのは常識。

212 :日本@名無史さん:04/10/01 23:42:56
>>211
それも、ある種恣意的な解釈だと思うが

213 :日本@名無史さん:04/10/01 23:43:33
それって、ただの捏造じゃん。

214 :日本@名無史さん:04/10/01 23:49:03
好太王碑文時代の人質記事
<日本書紀>
応神8(277=397)年に百済が阿花王の王子直支を朝廷に遣わした。
<三国史記>
百済・阿辛6(397)年に太子月典支を倭国への人質とした。
新羅・実聖元(402)年に王子未斯欣を倭国への人質とした。

215 :日本@名無史さん:04/10/01 23:50:04
>>212
池沼は日本書紀と三国史記に書かれた百済王の名前を比較してから言え

216 :日本@名無史さん:04/10/01 23:55:03
古田信者ってクジラの骨を源のナントカさんの遺骨といったのですあlk?

217 :日本@名無史さん:04/10/01 23:59:33
>>212はある種ただしい
応神の時代がそれであるからやってるだけで神功紀はあくまで伝説だよ

218 :日本@名無史さん:04/10/02 00:00:32
三国史記はずっと後代の撰述だろ。
どのくらい信憑性が有るものやら。

219 :日本@名無史さん:04/10/02 00:03:52
>>217
伝説は神武以前で、神功皇后はばりばりの歴史時代。
反日鮮人が歴史捏造のために伝説としたがっているだけ

220 :日本@名無史さん:04/10/02 00:07:37
まともな歴史論してるのかと思ったら、
反日、鮮人、か・・・
このスレもタカが知れてるな。

221 :日本@名無史さん:04/10/02 00:23:53
>>220
戦後はブサヨと鮮人による歴史捏造の悪影響が大きいことはデフォ
誤魔化そうとしても無駄だ。

222 :日本@名無史さん:04/10/02 01:06:19
卑弥呼の時代は、240年前後
広開土王碑に書かれた倭との交戦は400年以降。


神功皇后が400年頃なら、卑弥呼とは時代が合わない。

時代が合わない。


223 :日本@名無史さん:04/10/02 01:10:39
神功皇后の160年前の時代に、卑弥呼に相当する天皇はいない。

邪馬台国と大和朝廷は別の政権と見るべき。

224 :日本@名無史さん:04/10/02 01:16:10
>>223
卑弥呼は巫女であって国を治めていたのは弟。
箸墓に葬られたヤマトトトヒモモソヒメ(8代孝元天皇の異母姉妹)がいるだろ。

225 :日本@名無史さん:04/10/02 01:47:44
>>224

なんで、魏に朝貢したことが記録されてないの?

226 :日本@名無史さん:04/10/02 04:50:38
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1095881195/60
60 名無しさん@5周年 sage New! 04/09/26 00:16:31 ID:zwgv+aGd

<関東を開拓したのは、朝鮮人>

その昔、多くの朝鮮人が戦火を逃れようと日本にやってきましたが、
朝廷は当時僻地だった関東地方に移住するよう勧めた。
有名な話、あれだけ弱かった関東武士が、三河武士のように強くなったのは、
朝鮮人の血が色濃く流れているからだ、と広く言われていた。

ttp://www.d4.dion.ne.jp/~arai-n/test76.htm

朝鮮人が関東に移住たびに、関東は発展していったんだ。
関東人は、朝鮮人の子孫であることを認め、祖先を敬うべきである。
現実逃避は、祖先に対して失礼だぞ。



227 :日本@名無史さん:04/10/02 04:51:13
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1095881195/74
74 名無しさん@5周年 sage New! 04/09/29 20:55:02 ID:87AJROxf
>>73
関東は、朝鮮人が入植して作られた地域であったことが歴史学上証明されてますよ。
現在でも関東では朝鮮人が大量流入中!

東京圏の大多数が 400年以内の ■  帰 化 朝 鮮 人 の 子 孫  ■

    そもそも徳川家康が嫌がった「江戸」の背景となった
  武蔵の国そのものが海外からの亡命者や入植者、★百済人による入植地だった。
  府中は国の司(つかさ)が百済人 と決められていた時期があります。
    崩壊した百済の支配層を受け容れ亡命させるためですね。
    桓武天皇以来、東夷(あずまえびす!!)が住む関東の姿とは
  アイヌ系の先住民と朝鮮の百済の人の入植地であり、時代ごとの政権からの派遣の
  源氏や平氏が割拠する土地だった。  ( 「 海老〜 」、「 蝦〜 」 )
    7世紀後半以降、 新羅が朝鮮半島を統一するという情勢を受けて、政治的には、
  これまでの日本各地の渡来人を東国の  武  蔵  にまとめる必要がおきた。

   〓 666 年  「  百済人男女 2千余人 東国移住     」
   〓 716 年  「  高麗郡の設置 関東の高麗人 1779人を武蔵国に移す  」
   〓 760 年  「  新羅人131人を武蔵の地へ移り住む  」
      1600年  1700年   1800年    1920年   1960年
      15 万人  85 万人  130 万人  400 万人*  1000万人*

    武家に対し、 町人は江戸の全体面積の  15 〜20%の土地に65万人が生活。
    多摩川以西はおろか新宿区、世田谷区、目黒区なども帰化大陸、朝鮮人だらけ!
    隅田川以東の  足立区〜江東区は 上総の国 で、 江戸ではない。 大凶の地。
      外堀以外の地、  埼玉、 千葉、 神奈川も帰化系の人間が大多数にのぼる。
  明治以降の不法入国者(関東)も100万以上にものぼる。消えるどころか現在でも急増しているのだ。

  信じない奴は、自力で昔の文献を読んでみろよ!マジで書いてあるから。

228 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/02 07:57:36
「東遷」という倭国の弥生時代ではありえそうにない概念が導入されたのは高句麗鄒牟
(朱蒙)が南遷、在地の松譲王を征圧するという神話に基づき神武、長髄彦を創造した
際に作られたものだが、邪馬台国論争においてこのような架空の東遷で九州説を補強
しようとするのはいかなるものか。しかし、このことで筑前国の九州南部征圧、投馬国
の近畿南部(大和、紀伊)征伐の史実までもは否定できないであろうが。奇しくも高句麗
神話同様倭国においても小規模の南遷はあったようだね。

229 :日本@名無史さん:04/10/02 08:02:44
>>228
チョンの歴史捏造に乗せられるなよ

230 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/02 08:05:41
大和の古墳時代の始まりが3世紀後半からであれば九州説でないと困るし、3世紀全般
であれば九州説であっては困る。全ては考古学者が決定的な指針に欠けていることに
起因するものと思うがね。

231 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/02 08:09:19
>>229
「日本の神話を考える」上田正昭という本の受け売りだよ。テポドンじゃネーから
心配スンナ。

232 :日本@名無史さん:04/10/02 08:15:08
そもそも天皇陵さえ調査できてないのに古代のことをなんともいえない罠
無限のループに陥っているのでこの疑問は解決不能
よって
邪馬台国の発音が「ヤマト」に似ているので大和にあったことにする

233 :日本@名無史さん:04/10/02 08:20:48
>>230
年輪年代の研究だと、纒向石塚古墳の周濠出土木片は177+α(≒200)年
同じ纒向の勝山古墳では199+α年の数字が得られています。

234 :日本@名無史さん:04/10/02 08:27:02
ここで論じられてるのが、
・邪馬台国は大和にあって大和朝廷に発展した
・邪馬台国は大和にあったが大和朝廷とは直接関係ない
・邪馬台国は九州にあって東遷して大和朝廷になった
・邪馬台国は九州にあって大和朝廷とは関係ない
のどれなのかもう一つ分からない。

235 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/02 08:34:34
「東遷」なしに三種の神器は天の鳥船に乗って大和に降着したのか。こう考えると
海人族による物品、神話の輸送が考えられるが、ヤマト運輸的なものであったのかどうか。
いまいちよく判らないんだ。

236 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/02 09:29:47
倭地、狗邪韓国(クサカの国)から銅鏡、鉄テイ等を満載した舟は水と食料を補給し、
対馬を離れると壱岐に寄航せず、親潮に任せて隠岐の島を目指し、そこから風向き、
潮を見ながら伯耆、丹後(投馬)に向かった方が消費地関東平野等に対しては伊都国
経由に比較すると大幅なコストダウンとなる。倭人伝のコースでも東に行く時にはこれを
通り丹後から川沿いに水行を続けて大和に入ったものと思われる。又、このコースの開発
が伊都国の衰退と投馬国の繁栄をもたらしたものでもあったのではないか。クサカベが
筑後から丹後に移るのもこのころのことであろう。

237 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/02 09:31:15
畿内の王ナガスネヒコが、出雲のニギハヤヒを
畿内に招き王としています。そして神武東征のさい
ナガスネヒコを殺して神武に恭順しています。
神武とニギハヤヒは元々同族であったため恭順したらしいです。
イザナギーアマテラスー二二ギの陽ラインと
イザナミースサノオーオオクヌシの陰ラインが
神武をもって融合して一つになったことがわかります。

238 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/02 09:37:08
筑後から豊前にかけて太陽観測の遺跡、日田、日の隈、日向の地名が多く、太陽の
道に即した遺跡が多いが、これが丹後にも多い。そしてそれは南下して紀伊、大和、
伊勢、飛騨へと向かっている。これはアマテラスをキーワードとする、鏡と山岳、海辺
太陽崇拝カルトの伝播であり、三種の神器もこのコースをたどって筑前、筑後、豊前、
丹後、紀伊、葛城、大和、伊勢といったコースをたっどったのかなとも思う。


239 :日本@名無史さん:04/10/02 09:38:34
>>236
余りにも非現実的すぎる。はるか後世でも、朝鮮から日本に渡る場合に、
天気が良く波が穏やかな日を待っているくらいだ。
渤海使がしばしば遠隔地に流れ着いた例などあるように
日本海の真っ直中を進むのは危険すぎる。

240 :日本@名無史さん:04/10/02 09:38:45
>>237
いい読みしてるね

241 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/02 09:48:34
アマテラスとは米に対する課税の根拠であり、天皇が高天原で田植えをし、稲刈りを
するために地上で米が取れる。スサノオなどの災いをなす神を駆逐し、収穫を確保する。
このため収穫は神の所有物であり、高倉に収めなくてはならない。又、調読みとは上記の
アマテラス所得以外の一切の「ムーンライト」ビジネスならぬ、狩猟、漁労、繊維、縫製そ
の他もろもろの所得に対する課税の根拠であり、国家歳入の基本。これは経済的に
国家の成立したことを表し、大規模工事、古墳が建設しえる時代に入ったことを意味する
ものと考えるが。

242 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/02 09:48:50
伊勢神宮も天照ではなく実は大物主(ニギハやヒ)を
祭ったものらしいです。そして、天皇即位の大嘗祭の
しきたりもほとんどが物部氏が決めたものとのこと。
つまり、邪馬台国王である神武(崇神)を畿内に招き
傀儡王として擁立して実権は物部氏が握るというシステム
だったのでしょう。皇后は出雲から出すことで物部氏の
地位を確保するという確約もあったように思います。
邪馬台国王を畿内に招いたのは、九州勢力との衝突を
回避する目的があったのだと思います。九州の裏には
中国がついているので戦争になったらやっかいですしね。
ならばいっそのこと形式上の恭順を示して実権は物部氏の
ものとするほうがいいわけです。日本独特の和の精神が
この時代からあらわれているのですね。極力戦争は避け
話し合いで妥協点を見出す思想がね。

243 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/02 09:57:29
のちに称徳女帝が道鏡に帝位を譲ろうとする事件が
発生します。道鏡の先祖は実は物部守屋。道鏡は
物部氏だったのです。つまり称徳女帝は天皇中心の
政治にいきずまりを感じ、旧来の物部氏が統治する
体制に立ち返ろうとしていたわけです。

244 :吸収キッズ:04/10/02 10:26:34
外国で三種の神器を使っていたところはあるのかな

245 :日本@名無史さん:04/10/02 10:42:50
>>244
古代日本のように多数の鏡を副葬する例は少ない。
楽浪郡の漢人の墓ではせいぜい1〜2枚で
半島土着の墓では副葬しない方が多い。

古代の巨大な墓では、日本以外にエジプト・中国・メキシコにもあるが
いずれも墓室が地平面下に置かれているのに、日本だけ頂上付近と
世界的に見ても異例なことが目立つ。

246 :日本@名無史さん:04/10/02 10:47:09
古代東アジアにおいて、ヒスイ産地は日本の糸魚川周辺しか知られていない。
縄文時代前期からヒスイ大珠が貴重な交易品として流通しており
縄文時代晩期になって加工技術が進歩して勾玉へと発展した。

ヒスイ勾玉は日本列島以外に、任那・百済・新羅の故地でも多く見られる。

247 :ゴジンム:04/10/02 10:52:43
>>242
プププッ!W

248 :日本@名無史さん:04/10/02 11:00:42
畿内で決着したのに素人があれこれ言ってもしょうがない。
今更九州説を唱えることは「アポロは月にいってない」というようなもの。

249 :日本@名無史さん:04/10/02 11:04:39
>>248
陰謀論の副島隆彦は、真顔でアポロの月着陸を否定して嘲笑されている。
http://soejima.to/

250 :日本@名無史さん:04/10/02 11:21:53
>>245
空や鳥に対する信仰と関わりがあるのでしょうね。

251 :日本@名無史さん:04/10/02 11:29:00


なんで、魏に朝貢したことが、日本書記の記録にないんだよ!




252 :日本@名無史さん:04/10/02 12:15:40
>249
古田信者も陰謀が好きそう。

253 :日本@名無史さん:04/10/02 12:32:55
>>251
最初の遣隋使ものってないし
書紀にすべてが記録されてるわけじゃないだろ

254 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/02 13:20:23
畿内説を信じてる人は戦前の教育を
受けた年配の方ですか?権威というものを
信じ込み疑わなかった人たちがいたから
日本はあっさり戦争に負けたのですよ。
もっと客観的に物事を見る目を養ってください。
ていうかもう遅いかw

255 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/02 13:33:31
日本書紀は天武紀に藤原不比等が
作ったものなので、信頼できるかどうか
疑問の残るところです。自分の都合のいいように
解釈しているふしがありまくりです。

256 :日本@名無史さん:04/10/02 13:51:18
>>255
お宅の説だと、不比等はノーベル文学賞に推挙しないといけなくなるのですが。
それに、権威を疑えば戦争に勝てるというような論理は学術上、忌々しいですね。

257 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/02 14:02:02
>>239
「親潮新幹線」とでもいうか、こんなものが成立するのは季節風、台風発生期を除外した
時期だから11月と3-6月だね。倭人伝の南行の実感は平壌から上海に下るような季節の
変わりが感じられ、3-6月の出来事であったと思う。これらの5ヶ月を除く残りの季節に若し
この海域に入った場合生還の確立は極めて少なかったであろうと思う。

258 :日本@名無史さん:04/10/02 16:38:01
>>254
「畿内説論者はみんな皇国史観」なんて、
激しくデンパな盲信にすがりつくのがあなたの墓穴。

天皇も宮内庁もなくなってしまえとか
古墳を全部掘らせろとか思っている畿内説論者もいる。
...オレダケジャナイハズ

259 :日本@名無史さん:04/10/02 17:18:25
kusukusu!(w

260 :日本@名無史さん:04/10/02 17:21:51
邪馬台国と大和朝廷が同一でなければならない根拠が無い。

魏志倭人伝も、日本書紀も、そのようには書いてない。

261 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/02 18:13:54
>>260
隋書には書かれています。
考古学的にみても3世紀に
畿内・中国・四国がまず
ヤマトに集まり、後から九州が
加わったふしがあります。
邪馬台国が東遷した可能性が極めて高いです。

262 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/02 18:22:15
学界で邪馬台国が畿内にあったと言っているのは
第一次邪馬台国のことでしょ。ニギハヤヒの一族が
出雲経由で九州から最初に東遷してますからね。
卑弥呼の時代の邪馬台国は第二次邪馬台国です。
そして4世紀にニギハヤヒは神武にヤマトの王位を
譲っています。元同族同士なので争うのはできないと
思い、戦争を避けるべく王位を譲ったのでしょう。


263 :日本@名無史さん:04/10/02 18:24:55
滅亡した九州説信者最後の砦2ちゃんねる

264 :日本@名無史さん:04/10/02 18:38:34
天皇が人民服を着て、「労働天皇」とかいう名前だったら社会党や共産党も
歓迎したんじゃないか?
そしたら左翼は反対しようがないだろ?

265 :日本@名無史さん:04/10/02 18:55:50
3世紀の時点で倭と大和朝廷を別物と認めると、
中国側資料は旧唐書まで一直線だから、
7世紀の倭と大和朝廷もまた異なるものとなる。
これを最初に指摘したのは古田武彦で、
俺はこれを勝手に古田の連続モデルと呼んでいる。

このモデルのもつ論理性を否定することは難しい。

したがって、
資料処理上は多少フェアでなくてもしゃにむに
魏志倭人伝の邪馬台国は大和朝廷であるということにしないと
4世紀には大和朝廷が日本をほぼ統一していた
という現在定説?は成立しない。

同様にこのモデルは
3世紀時点では九州に邪馬台国があり、
4世紀時点では大和朝廷が日本を支配していたという
それまでの「無邪気な九州説」を葬り去った。
学会が畿内説で決着しているというのは、
その辺の事情をさすのだろうと思う。

また、このモデルの論理は逆にも働き
4〜7世紀のいずれの時点でもいいから
大和朝廷が九州を支配下に置いていたことを証明できれば、
3世紀以降大和朝廷が支配していたことになり、
古田の九州説は成立しない。

で、俺が古田の九州説を成立しないと考える
根拠は古墳の存在だ。巨大古墳は大きな
余剰生産力の証で近畿地方を中心に連続的に分布している。
5世紀には権力の中枢は畿内にあったと考えるほうが合理的である。


266 :古代史アマチュア電波リスト作りました:04/10/02 19:04:40
どんどん追加して下さい。

【買ってはいけないアマチュア著述家一覧】
武光誠(騎馬民族説)
安本美典(邪馬台国九州説、関川編年と柳田編年を組み合わせ
     驚異の土器編年を編み出す)
井沢元彦(邪馬台国九州説、卑弥呼殺人事件w)
古田武彦(九州王朝を妄想、詐欺師和田に荷担)
小林恵子その他在日工作員(将軍様の夢でオナニー)
関祐二(旧事本記でオナニー)
藤原明(旧事本記偽書説でオナニー)
黒岩重五(邪馬台国九州説の妄想作家)
大和岩雄(同上)
大山誠一(聖徳太子はいなかった(驚)



267 :日本@名無史さん:04/10/02 19:48:37
>>265

>同様にこのモデルは
>3世紀時点では九州に邪馬台国があり、
>4世紀時点では大和朝廷が日本を支配していたという
>それまでの「無邪気な九州説」を葬り去った。

ここのところ、もっと詳しく解説希望。

九州の邪馬台国と、畿内の大和朝廷が並立存在していた可能性は否定できないよね?
そして、その可能性が最も高い。

268 :日本@名無史さん:04/10/02 19:56:09
古墳についていえば、
すべての古墳が、大和単独政権の元に作られたとするのはナンセンス極まりない。

地方の万単位の住民を従えていた豪族なら、
それぞれが古墳ぐらい作るだろう。

269 :日本@名無史さん:04/10/02 20:12:08
>>267
三国志から旧唐書にいたるすべての史書で
邪馬台国からの連続した王朝として記述されているということです。
これを同時代の異なる王朝に交替したとするのはなかなか難しいと思います。
(論証が必要となります)

270 :日本@名無史さん:04/10/02 20:20:07
>>269

1行程度で記載されたもので、
他の史書の引用ばかり。

実際倭国とは100年以上交流が無い。
倭国は、野蛮なクニの集まりと思われていたわけで、
もともと倭国を代表する連続した政権があったという認識は中国側にはなかった。

271 :日本@名無史さん:04/10/02 20:28:11
>>270
でも、
3世紀時点では九州に邪馬台国があり、
4世紀時点では大和朝廷が日本を支配していた、
と考えている人は少なくとも専門化には誰もいません。
時代遅れです。

272 :日本@名無史さん:04/10/02 20:40:53
>>271

専門家に頼らずに、自分で論証してくれよ。
専門家の歴史観に、どれほどの説得力があるというのか?

ぶっちゃけ畿内説をとるのは、学会で権威の中心にいたい専門家達の都合だろう。
百歩譲っても、「不明」が正しい答えなはずだ。

273 :日本@名無史さん:04/10/02 20:58:48
>>272
言いたかったのは畿内説をとる人が邪馬台国をヤマトを固執するのも
連続性を維持したため、
九州説が廃れたもの王朝の連続性が維持できないためということです。
もちろん確かさは相対的なもので、ぶっちゃければすべてが不明ともいえます。

論証は>>265を見てください。

274 :日本@名無史さん:04/10/02 21:20:54
>>273

その連続性の根拠が、中国の史書だけで、
それも引用だらけで、著者が自分で確かめたわけではない、ってことですよ。

275 :日本@名無史さん:04/10/02 21:21:44
【買ってはいけないアマチュア著述家一覧】
武光誠(騎馬民族説)
安本美典(邪馬台国九州説、関川編年と柳田編年を組み合わせ
     驚異の土器編年を編み出す)
井沢元彦(邪馬台国九州説、卑弥呼殺人事件w)
古田武彦(九州王朝を妄想、詐欺師和田に荷担)
小林恵子その他在日工作員(将軍様の夢でオナニー)
藤本由香(万葉集は韓国語で読める)
金達寿(古代日本人は全員在日)
関祐二(旧事本記でオナニー)
藤原明(旧事本記偽書説でオナニー)
黒岩重五(邪馬台国九州説の妄想作家)
大和岩雄(同上)
大山誠一(聖徳太子はいなかった(驚)


276 :日本@名無史さん:04/10/02 22:03:08
最後はアマチュアじゃないだろ。

それに・・・・おまい中身、読んでないな?

277 :日本@名無史さん:04/10/02 22:30:38
>>274
引用は引用もとの史書が指し示す王朝の後裔であると理解されます。
真偽はともかく史書はそのように主張していると理解されます。

278 :日本@名無史さん:04/10/02 22:33:33
梅原先生を忘れてました。
【買ってはいけないアマチュア著述家一覧】
武光誠(騎馬民族説)
安本美典(邪馬台国九州説、関川編年と柳田編年を組み合わせ
     驚異の土器編年を編み出す)
井沢元彦(邪馬台国九州説、卑弥呼殺人事件w)
古田武彦(九州王朝を妄想、詐欺師和田に荷担)
小林恵子その他在日工作員(将軍様の夢でオナニー)
藤本由香(万葉集は韓国語で読める)
金達寿(古代日本人は全員在日)
関祐二(旧事本記でオナニー)
藤原明(旧事本記偽書説でオナニー)
黒岩重吾(邪馬台国九州説の妄想作家)
大和岩雄(同上)
大山誠一(聖徳太子はいなかった(驚)
梅原猛(法隆寺五重塔は、飛鳥寺の移築だった)


279 :日本@名無史さん:04/10/02 22:36:51
古田武彦ははずしてほしいな。

280 :日本@名無史さん:04/10/02 22:41:32
ご指摘に従い、著述家「等」と致します。追加お願いします。
【買ってはいけないアマチュア著述家等一覧】
武光誠(騎馬民族説)
安本美典(邪馬台国九州説、関川編年と柳田編年を組み合わせ驚異の土器編年を編み出す)
井沢元彦(邪馬台国九州説、卑弥呼殺人事件w)
古田武彦(九州王朝を妄想、詐欺師和田に荷担)
小林恵子その他在日工作員(将軍様の夢でオナニー)
藤本由香(万葉集は韓国語で読める)
金達寿(古代日本人は全員在日)
関祐二(旧事本記でオナニー)
藤原明(旧事本記偽書説でオナニー)
黒岩重吾(邪馬台国九州説の妄想作家)
大和岩雄(同上)
大山誠一(聖徳太子はいなかった(驚)
梅原猛(法隆寺五重塔は、飛鳥寺の移築だった)


281 :日本@名無史さん:04/10/02 22:44:00
>279
古田こそもっともコアな電波だろが。

282 :日本@名無史さん:04/10/02 23:11:18
神武天皇をまともに研究しようとしない学者は、学者とは言えません。
結局戦後の記紀無視は、戦前の記紀盲信の裏返しで、全く同じ態度に過ぎない。

283 :日本@名無史さん:04/10/02 23:23:53
>>277

じゃあ、なんで隋書には、畿内から遠く離れた「阿蘇」の記述があるの?
「三輪山」とかの記述はないのに、おかしいよね。


284 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/02 23:30:51
関裕二という人の本読みましたがたしかに
この人、知能が低いんじゃないでしょうか?
神武=崇神だと主張しながらも、欠史8代は
実在してるふうに主張を展開してますし
読んでて混乱しましたwあと神一行という人も
邪馬台国西都説をとってるみたいですし
ちょっとおかしいでしょ。

285 :日本@名無史さん:04/10/02 23:31:24
阿蘇どころか畿内から遠く離れた対馬のことが書かれているだろ。

286 :日本@名無史さん:04/10/02 23:37:36
>284
もしかしてその人「西都厨」じゃないの?

287 :日本@名無史さん:04/10/02 23:50:31
対馬は、ただの経由地だろ。

288 :ゴジンム:04/10/03 00:01:54
>>284
今度はgoodな論也。

289 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/03 00:08:46
邪馬台国の存在は魏志倭人伝が存在して
始めてその存在がわかるものです。
すなわち倭人伝の記述の信憑性を
疑う人は本末転倒も甚だしい。倭人伝あっての
邪馬台国。ゆえに倭人伝を疑うことなく素直に
読めば邪馬台国は九州です。

290 :日本@名無史さん:04/10/03 00:23:36
>>289
ギャグのつもりか?

お前、記紀とかを読んで妄想を爆発させているようだが、
少しは根拠のある話をしろよ…

291 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/03 00:28:25
3世紀の畿内の遺跡からは
なぜか九州の土器は出てきていません。
その他の地域のものは出てきてますけどね。
これは九州には畿内と別勢力があったことを
示唆しているんじゃないんですか?
倭人伝にも東の海を渡ると倭種の国ありと
書かれているように、東の国との隔絶が見られます。

292 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/03 00:56:08
しかし安本美典氏の主張もめちゃくちゃじゃないですか?
近大の天皇の在位機関の平均が約20年で、奈良時代の
平均は約10年だから古代は5年くらいだったと。
そうやって考えていくと神武は280年前後の人で
邪馬台国東遷が成り立つと。この人の主張を応用すれば、
100年前のオリンピック100mの世界レコードは
10、08くらいで、現代は9.78なので、22世紀になれば
8秒台になると言ってるのと変わらないじゃないですかw
そんなはずはないでしょ。偉い学者様の意見とは思えない。

293 :日本@名無史さん:04/10/03 01:28:17
偉い学者様じゃないから・・・・・

294 :追加お願いします:04/10/03 02:08:56
みなさんも電波作家を見つけたら教えて下さいね。
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武光誠(騎馬民族説)
安本美典(邪馬台国九州説、関川編年と柳田編年を組み合わせ驚異の土器編年を編み出す)
井沢元彦(邪馬台国九州説、卑弥呼殺人事件w)
古田武彦(九州王朝を妄想、詐欺師和田に荷担)
小林恵子その他在日工作員(将軍様の夢でオナニー)
藤本由香(万葉集は韓国語で読める)
金達寿(古代日本人は全員在日)
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藤原明(旧事本記偽書説でオナニー)
黒岩重吾(邪馬台国九州説の妄想作家)
大和岩雄(同上)
大山誠一(聖徳太子はいなかった(驚)
梅原猛(法隆寺五重塔は、飛鳥寺の移築だった)


295 :日本@名無史さん:04/10/03 02:31:34
マルチウザイ。失せろ。

296 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/03 08:59:27
イチロウおめでとう。これってどうかね。↓
後漢書の伝えるところから解釈すると武帝が楽浪郡を設置する以前、倭国は後の
邪摩堆国と狗奴国に分裂しておらず、合計百余国、楽浪郡設置後70余国は狗奴国
となり、対漢国交を断絶したようだ。倭国の国号を維持し、後漢と国交を持ち、金印を授
与され、盟主国を邪摩堆国とし、後漢のシステム化に組み入れられたのは奴国連合を
母体とし、狗邪韓国から沖縄にかけての環東シナ海国家で30か国を含むものであった。
後の筑前、肥前、肥後を主体としたものであったのであろう。これを邪摩堆倭国と呼ぶこと
にする。この国は大倭王帥升の頃、繁栄の極みに達し、後漢鏡及びその半島の租界で
ある狗邪韓国からの鉄製品を狗奴国に輸出していたが、遂には山陰山陽にまたがる
狗奴国の大狗奴王の支配する投馬国に圧力を強め、狗奴国に国土献上を迫ることに
なる。当時、狗奴国は筑後から瀬戸内海、玄界灘沿岸以東の日本列島を統治し、
大狗奴王のことはオオクニヌシと呼ばれていたが、鉄の専売権を背景に武力で威嚇する
邪摩堆倭国に屈し、東部に若干の勢力を保全しながらも、後世の徳川幕府の大政奉還
の如く邪摩堆国に行政権を委譲、投馬国から南遷する勢力を主体として葛城の東方、
纒向、に盟主国として邪馬台国が建国された。日本書紀の国譲りとはこうした背景に
おいて検討して見る必要がある。


297 :265:04/10/03 09:04:46
>>283
九州説に有利であること認めます。
俺は畿内説だけど、
古田の九州王朝説は仮説として死んでいるとは主張していません。
生き残っている唯一の九州説でしょう。
そう思っている畿内説立場の研究者は少なくないはずです。


298 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/03 09:10:06
金印が箸墓から出てきてから
邪馬台国は畿内だと主張してください。
3世紀の遺跡がでてきた=邪馬台国
だなんて子供の発想ですよ。
普通に考えればそれは邪馬台国とは別の国のものです。
邪馬台国は北九州。4世紀に東遷。これが
一番しっくりきます。

299 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/03 09:14:45
邪馬台国が大和朝廷か狗奴国に滅ぼされていたら
なんらかの伝承・伝説があるはずです。しかし
そんなものはどこにも見当たりません。

300 :265:04/10/03 09:19:52
>>298
4世紀に東遷って誰の説ですか。

301 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/03 09:27:58
>>300
私の説ですw
3世紀後半かもしれませんけどね。

302 :265:04/10/03 09:39:29
>>301
そうですか。がんばってください。
日本書紀に記述がないというのは、かなりイタイかも知れません。

303 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/03 09:44:10
>>302
あるじゃないですか。神武東遷がw
本当は崇神と同一人物なんでしょうけど
わけあって東遷までを神武、大和に
入ってからは崇神とわけて描写してるんですよ。
二人ともハツクニシラスで名前も一緒ですしね。
崇神が3世紀後半〜4世紀前半の人物だと仮定すれば
ちょうど年代的に合うでしょ。

304 :ゴジンム:04/10/03 10:11:12
神武≠崇神

305 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/03 10:50:27
>>296 から続く

日本書紀国譲りの一書に「・・・又、汝(いまし)が海に遊び往來の具(そなえ)の爲に、
高橋・浮橋及び天鳥船(あまのとりふね)、亦(また)供え造らん。又、天安河(あまの
やすかわ)に亦(また)打橋(うちはし)造らん。・・・」とあるが、これは極めて難解で重要
な部分。これは甘木朝倉の「山門」がまだ奴国連合に屈してはおらず、オオナムチの統治
下にあった頃、国譲り高所が行われ、ここにある打橋とは、↓

http://members.jcom.home.ne.jp/1614661501/jinja/tanboo/miwa-yasu/oonamuchi.htm

ここにある「・・・
また町の中に浮殿の地あり、切石ありて里人は神輿休と云う。社内に祇園社・黒殿社・
八幡宮・現人社・水神・神池あり」」・・・この浮殿ではないかと見る。この国譲り交渉に
従って「山門」は邪摩堆国に併呑されていったと見る。

306 :日本@名無史さん:04/10/03 10:56:42
電波作家のリストです。みなさんも電波作家を見つけたら教えて下さいね。
【買ってはいけないアマチュア著述家等一覧】
武光誠(騎馬民族説)
安本美典(邪馬台国九州説、関川編年と柳田編年を組み合わせ驚異の土器編年を編み出す)
井沢元彦(邪馬台国九州説、卑弥呼殺人事件w)
古田武彦(九州王朝を妄想、詐欺師和田に荷担)
小林恵子その他在日工作員(将軍様の夢でオナニー)
藤本由香(万葉集は韓国語で読める)
金達寿(古代日本人は全員在日)
関祐二(旧事本記でオナニー)
藤原明(旧事本記偽書説でオナニー)
黒岩重吾(邪馬台国九州説の妄想作家)
大和岩雄(同上)
大山誠一(聖徳太子はいなかった(驚)
梅原猛(法隆寺五重塔は、飛鳥寺の移築だった)




307 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/03 11:05:23
>>305 の続き
なんだ、三輪山ってここにあるじゃないか、てことは大和の三輪山はオオクニヌシが呼ん
でいるように「三諸山」だったんだなあーと合点が行く。大和三輪神社の前にある「村屋
座彌冨都比売神(むらやにいますみふつひめじんじゃ)」というのは国譲り交渉の結果
この山のオーナーが、変わり急遽交渉の結果を反映し、邪摩堆国の姫を招いてて作ら
れたということになる。

308 :日本@名無史さん:04/10/03 13:26:45
ところで、畿内説の拠り所の一つ、三角縁獣鏡は中国で見つかったのか?
まあ、倭と既に交流があったから、数枚は見つかっても不思議ではなく、
数百単位で見つからねば、中国製とはいえないだろうがな。

309 :日本@名無史さん:04/10/03 13:36:38
「景初三年」鏡の稚拙な韻は中国人が作ったとは思われない。
「青龍三年」鏡の「龍」の字が、後漢・魏晋朝時代にはなかった後年の字体を
用いているのは、どう考えても新しいしな。
畿内に鏡が出土するのは当たり前。鏡作神社でさんざんつくったんだろ。

310 :日本@名無史さん:04/10/03 13:40:42
卑弥呼は、巫女であったこと。
宇佐神宮そのものが、古墳の上に立てられているという言い伝えがあること。
(明治40年と昭和8〜17年の改修工事で石棺が発見されたらしい)
境外に「百体神社」があり「奴婢百余人」の埋葬地に相当?
(ここも甕棺が数個づつ数回にわたり出土)
宇佐神宮は全国八幡宮の総本社で中心に祭られている神は、ヒメ大神。
歴史的に朝鮮との繋がりも深く、古代日本の先進地域であった。
宇佐神宮は古代、広大な土地・荘園を有する強大な勢力であった。
奈良の大仏の建立にも宇佐神宮が関与している。
道鏡事件では天皇家が、伊勢神宮ではなく宇佐神宮に和気清麿を遣わして
天皇後継問題の支持を仰い。
奈良時代以降1100年間も天皇家は近くの伊勢神宮に参拝すらしたことが
無いのに、国家の大事や天皇の即位時には、宇佐神宮に必ず勅使が遣わされ
ている。
付近に京都(みやこ)郡、山国(やまくに)=邪馬国?=邪馬台国=大和(やまと)国、耶馬溪、
豊前(豊〔とよ〕の国とも昔からいわれている)中津=下毛郡中津(毛には豊の意)=豊葦原中つ国、
三毛門(みけかど)(上毛と下毛の境)…ミケヌノミコト(御毛沼命=三毛入野命=御毛入尊)と関連?
山国には雲八幡と呼ばれる神社がある。
など、記紀や邪馬台国と関連の深い地名が多く残っている。
大分県中津には宇佐八幡神が降臨したとされる薦神社がある。
薦神社の御神体は、渡来人によって作られた灌漑用溜池である。
八幡(やはた)は「多くの秦氏(渡来人一族)?」。

311 :日本@名無史さん:04/10/03 13:43:21
宇佐には宗像氏の伝説は、微塵も残ってなく、ヒメ大神の素性が
不明であったことから、後年に結び付けられた可能性が高い。

ヒメ大神は宇佐八幡建立よりも更に古くからこの地で信仰されており
記紀では神宮後背の御許山に天降られたとされているが、古来、この山は、
入山禁制の地とされ、ピラミッド伝説もあるくらいである。
おそらくは、自然の山であるとは思うが、この御許山か、現宇佐神宮境内
の亀山に卑弥呼が眠っている可能性があるのではないかと思われる。

宇佐神宮の上宮には、
一之御殿 八幡大神=応神天皇
二之御殿 比売大神
三之御殿 神功皇后
が祀られており、一見八幡神が主神のように思われるが、宇佐神宮に
行くと、その実、二之御殿が中心に大きくあり、その脇を両御殿が固めて
いるのが明らかである。
ヒメ大神が真ん中に祀られており、社門も他のものと比べ、ヒメ
大神のものは一回り大きい。
つまり、ヒメ大神は、記紀にて歴史上偉大とされる応神天皇と神功皇后を
両脇に従えさせる程の神であり、天皇家も代々これを認めているのである。

それを代々の天皇家は認めてきたわけである。
常識的に考えて一地方神の方が古いからという理由だけで、自分たちの
祖先の上に祀ることを代々の天皇家が認めるだろうか?
自分たちの大祖先だから認めていると考える方が、自然ではないか?

312 :日本@名無史さん:04/10/03 13:49:00
宇佐には、宇佐神宮とは別に、3世紀後半に作られたとされる九州最古の
前方後円墳赤塚古墳がある。

3世紀半ばに卑弥呼の墓が魏をまねて作られたとして、その子孫
(傍系?)が赤塚古墳に葬られたと考えられる。
4世紀にはいると、宇佐勢力の分派と思われる日向勢が興隆し、
西都原にも古墳が見られるようになる。
日向と宇佐、筑紫の連合郡(神武=崇神?)が東征したと
考えられる。
その後、九州より持ち込まれた古墳文化が畿内に持ち込まれ
流行する。

ttp://yamatai.cside.com/tousennsetu/hasihaka.htm
箸墓は350年ごろと考えられ、豊前説は矛盾しない。

313 :日本@名無史さん:04/10/03 13:51:09
纒向石塚古墳やホケノ山古墳は、

倭人伝の「棺あって槨なし。」

とは異なり、木槨のなかに木棺があったのでは、「魏志倭人伝」の
記述に合っていない。
しかも、赤塚古墳をはじめ、北部九州で見られる古墳は木槨がなく、
倭人伝に一致。
つまり、土器編年は当てにならないうえに、畿内の古墳形式は進化した
ものと考えられ、馬具の出土からもやはり4世紀半ばが妥当と考えられる。

よって赤塚古墳などの方が古い可能性が高い。
豊前説での東征の時期とも一致する。

その他、畿内説は、倭人伝での位置など説明するに不十分なことが
多過ぎるのに、何も解決してない。
根拠のあやふやな鏡(これも東征を考慮すると九州説に優勢)や
不確かな土器編年に固執して、他の根拠との整合性が得られてない。

314 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/03 13:51:37
>>307 の続き。
奴国連合は大国主命から譲渡された新国土の内、筑紫の背振山から東方日田にかけて
の福岡・筑紫平野に付き次のような声明を発している。

-----------------------------------------------------------------------------
かくて、天照大御~・高木の~の命は奴国連合太陽カルト集団のニニギの命に詔り(み
ことのり)て、ニニギは天の石位(いわくら)を離れ、天の八重の棚雲を押し分けて、天の
浮橋(うきはし)の土台が固まって天にそそり立つのを上る儀式を行なった後に、筑紫の
東向きの高山である奇降岳、すなわち、背振山に天下りされた。故、爾くして天忍日(あめ
のおしひ)の命、天津久米(あまつくめ)の命の二人、天の石靭(いわゆき)を取り負い、
頭椎(くぶつち)の大刀(たち)を取り佩き、天の波士弓(はじゆみ)を取り持ち、天の
眞鹿兒矢(まかごや)を手挾(たばさ)み、御前(みさき)に立ちて仕え奉りき。 故、
其の天忍日(あめのおしひ)の命【此は大伴連(おおとものむらじ)等の祖(おや)】、
天津久米(あまつくめ)の命【此は久米直(くめのあたい)等の祖(おや)也】。 
是に詔らさく、「此地(ここ)は韓國(からくに)向かい、糸島半島を迂回し、
陽の道の観点からは冬至の朝日が日田方面に向けて真直ぐ刺す國、夕日の日照る
國也。故、此地(ここ)は方位的に甚(いと)吉(よ)き地」と、詔りて、前原の高天原に
固い地盤に届く太い宮柱を設計建設し、氷椽(ひぎ)を高く設計建設された。



315 :日本@名無史さん:04/10/03 13:52:02
よく考えてもらいたいのは、邪馬台国の条件として、一部のみが満たす
ために邪馬台国だと主張される場所は国内に多々あるが、宇佐ほど多く
の条件を矛盾なく説明できるところはないと思う。
一部の条件のみを持って、主張することはどうであろうか。

例えば、倭人伝の 「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、みな倭種」。
距離については、様々な解釈があるのでここでは触れないが、これ一つとっ
ても既に畿内説とするには無理がある。紀伊半島の東には伊勢湾があるでは
ないかといわれそうだが、倭人伝ではたかだか末盧国(佐賀県唐津市付近)
から伊都国(福岡県糸島郡三雲付近)までの短い陸路をわざわざ記載している
のである。伊勢湾に出るには山を越えねばならない。当然記載されるはず。
しかも、海を渡ったら倭人の国があるのである。一方、宇佐(大分県)から
東には当然四国がある。何のこじつけも必要とせずに、自然に説明できる。

316 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/03 14:09:36
宇佐説なんて言ってるのは
井沢と高木なんとかって人だけでしょ。
帯方郡から狗耶韓国までで7000里、
そこから伊都国へいくまでで3000里前後
消費してるから邪馬台国は伊都国の近くにあるよ。
宇佐じゃ遠すぎる。

317 :日本@名無史さん:04/10/03 14:10:40
ころころ変わる人だね。

318 :日本@名無史さん:04/10/03 14:13:18
>>316
邪馬台国は人口なども考えて豊前全体とみるべき。
宇佐には卑弥呼の墓があった(ある)と考えればよい。

319 :日本@名無史さん:04/10/03 14:15:12
別に卑弥呼自信が邪馬台国出身だと書いてあるわけではないし、
邪馬台国は宇佐以外の場所であり、卑弥呼は死して故郷の宇佐に
葬られたということでもいいんでないの?

320 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/03 14:22:02
いずれにせよ、豊前全体が邪馬台国で
宇佐に墓があったとしても、邪馬台国は
伊都国の若干南の北九州内にあり、
東遷して大和朝廷になったというのは
間違いないよね?人口を収容できるかなんて
九州いったことないから想像できないわ。
東遷したから道鏡のとき宇佐が絡んでくるんだよね?

321 :日本@名無史さん:04/10/03 14:22:10
わざわざ宇佐以外に持ってこなくても、宇佐を含む豊前で説明可能。
甘木などとすると、東に山地を超えねばなくなる。
豊前の東は海、そして四国がある。

322 :日本@名無史さん:04/10/03 14:36:20
>>320
>伊都国の若干南の北九州内にあり、
実際は、南東になるが、古代中国の地図では、日本が多少時計方向に
回転して描かれているのは有名であり、それだとほぼ南で合致する。

>東遷したから道鏡のとき宇佐が絡んでくるんだよね?
記紀の神武の東征は、卑弥呼よりも古いとする説もあるが、だとすると
その時代に畿内に九州系の出土物が沢山あってよいはずだが、実際は
もっと後年の古墳時代になってから。
神武らは、日向を出発し宇佐に寄っているが、おそらくそれぞれの軍が
合流したのであろうと思う。日向軍だけでいいのなら、そのまま船で
四国に渡ればよいのだから。
道鏡事件が絡むのは、宇佐が天皇家の祖先(卑弥呼一族)だからと思う。

323 :日本@名無史さん:04/10/03 14:42:46
>>320
>人口を収容できるかなんて
ちなみに現宇佐市の人口は5万人ちょっと。中津市が7万人弱。
中津平野は現在も穀倉地帯で収容は十分可能。
ただ、そういう問題ではなく、古代の都市規模を考慮してのこと。

324 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/03 14:45:13
神武東遷をそのまま鵜呑みにしてしまっては
いけません。日向から出発するのは日に向かう
という意味をこじつけようとしてるだけで
なんの関係もありません。しかも本当は連合国家で
あったはずなのにさも自分たちの王朝であると
主張しまくりですし、これは明らかに天皇家を
美化しようとした逸話です。本当の歴史は邪馬台国が
東遷して大和朝廷になったというのが正しいでしょう。

325 :日本@名無史さん:04/10/03 14:45:53
>>320
もちろん現北九州も東部・中央部が豊前に含まれ、(ほぼ)百万都市
であることもご存知ですよね。

326 :日本@名無史さん:04/10/03 14:49:17
>>324
???
いまいち趣旨が不明。
>本当の歴史は邪馬台国が東遷して大和朝廷になったというのが
>正しいでしょう。
自分もそう思うが、いずれも仮説であり「本当の」という言葉は
使うべきではないと思うが。

327 :日本@名無史さん:04/10/03 14:54:00

畿内の古墳時代の石棺が、

阿蘇山の凝灰岩で出来ているんだよね。

畿内の王は、なぜか、阿蘇山をことのほか崇拝していたんだよね。


328 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/03 14:56:21
>>325
佐賀は田舎だってことくらいしかしらんw
>>326
神武東遷は天皇家の王権を正当化しようとして作った
フィクションだってことですよ。日向なんて土地は
全く天皇家に関係ないですよ。そうとも知らずに
騒いでる西都説の人が哀れでしょうがないw

329 :日本@名無史さん:04/10/03 15:20:36
>>324
>日向から出発するのは日に向かう
>という意味をこじつけようとしてるだけで
>なんの関係もありません。
やはり日向から向かったと考える方が理にかなうと自分は思う。
なぜなら、途中戦死した神武の兄、五瀬命が本来のトップだったと
思うから。五瀬といえば、九州の人なら宮崎北部の五ヶ瀬スキー場や
五ヶ瀬川を連想する。
また、伊勢神宮で神に使えた斎王。古墳で有名な西都原は古来、斎殿原
といわれていたため、この地域の有力者が祖先であろう。
では、なぜ、宇佐ではなく日向なのか。
北九州で連合国家を樹立した邪馬台国だが、南に熊襲があり、これを制圧
するため、卑弥呼らののち、主力軍は南に向かい日向を拠点にしたと
思われる。このため西都原古墳群が、宇佐の九州最古の前方後円墳・赤塚
古墳より若干時代が下がるのも矛盾しない。
そして、熊襲と和解したため、今度は東征に出たのであろう。
そのため仁徳天皇以下の皇室には、熊襲系と思われる姫が嫁入りしている。
なお、前述した御毛沼命=三毛入野命=御毛入尊は、神武、五瀬と兄弟と
思われるが上記のとおり、御毛・三毛は豊前、特に中津・宇佐地域を示す
ため、神武も故郷は豊前だった可能性もある。
なお、御毛沼命=神武とする説もある。

330 :日本@名無史さん:04/10/03 15:29:44
>>328
記紀を重んじるならば、神武にしても軽んじるわけにはいくまい。
神武東征は、実際あったと思う。
だから、銅鐸>銅剣銅矛文化の交代が生じた。
豊前説では、神武が日向から出発し、宇佐に寄ったことも、矛盾なく
説明可能。
そして、前スレでも書いたが、神武=崇神であったと思う。

331 :ゴジンム:04/10/03 15:31:24
>>328
結論早計。

332 :日本@名無史さん:04/10/03 16:03:22
329の続き。
御毛沼命について補足だが、沼の字も面白い。
前述のとおり、宇佐八幡の前身といわれる社が、中津の薦神社だが
その御神体は、池であり、渡来人による灌漑用溜池であると考え
られている。少なくとも人工的なものであることは間違いない。
そうして、中津周辺には、このような溜め池が、古来沢山あった
ようである。よってこれをもって沼と称したのかもしれない。
記紀の記録も、些細なところでも、それぞれやはり深い意味が
あるようであり、面白い。
さて、これ以上明かすのは、もう止めにしておこう。

333 :日本@名無史さん:04/10/03 18:57:57
>>265

>で、俺が古田の九州説を成立しないと考える
>根拠は古墳の存在だ。巨大古墳は大きな
>余剰生産力の証で近畿地方を中心に連続的に分布している。
>5世紀には権力の中枢は畿内にあったと考えるほうが合理的である。

古田はともかく、古墳を例にして権力の集中があったとはいえないでしょう。
長持山古墳の石棺が、阿蘇溶結凝灰岩であるという事実から、
古墳を作った首長(の一族)が、独自に九州から石材を運ばせたもので、
けして大和朝廷が古墳造成仕様を、一様に決めていたわけではないということ。


334 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/03 19:21:35
神武東征ではなく、神武東遷でしょ。
真相はおそらく、前にも書いたとおり、
畿内の王であり、神武とは同族のニギハヤヒが
九州連合と畿内との全面戦争を避けるために
神武に恭順して畿内ヤマトの王位を
譲ったというのが正しいと思われます。
譲歩する変わりに、大和朝廷内での地位は
保障されるという約束でもしてね。そのため
物部氏は大和朝廷内の軍事・警察といった
主要部分を担い、皇后も初期のころは物部氏から
出していたのですよ。

335 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/03 19:38:51
いずれにせよ、このスレの結論は
邪馬台国は北九州、神武東遷は
3世紀後半〜4世紀前半における
邪馬台国東遷のこと。3世紀前半にあった
畿内の遺跡はすべて邪馬台国のものではなく
物部王国のもので、3世紀後半から4世紀に
おける畿内の遺跡は東遷した邪馬台国=大和朝廷のもの。
ということでいいですね?学界が間違っているんですよね?


336 :265:04/10/03 20:28:36
>>333
分布の問題です。
九州か近畿かという大きな地域での問題ですから、
個別の墓の議論よりは分布で判断するほうが妥当性があります。

より大きな墓を作るのは、小さな墓をつくるより
より多くの金もしく労力がかかります。
より大きな墓に眠る人がより大きな権力を持っていた
とうい推測は不当ですか。妥当性のある推定と思います。
また、権力を誇示するためにより大きな墓を作るように
なったという想像も不当なものではありません。

5世紀で考えた場合、列島の中で一番豊かだったのは
近畿地方と推測されます。支配関係を考えた場合、
九州の勢力が近畿地方を支配していたと考えるより、
近畿地方の勢力が九州地方を支配していたと考える方が
合理的と思います。

もちろん可能性としては逆の可能性も残ります。しかし、
この可能性を言い出せば、なんの出土品の無いところでも、
巨大な権力がそこにあったかもしれないといえるわけです。
このようなやりかたを恣意的な手法と言います。

東遷の問題も同じです。現在では根拠の無いまま東遷を
持ち出せば恣意的だと非難されると思います。


337 :日本@名無史さん:04/10/03 20:37:32
邪馬台国の人口として魏志倭人伝が主張する人口と、
2世紀頃の弥生時代推定人口(のうち、九州全体)を比較すると
5倍以上の差がある。

九州全土を統一した程度では零細すぎ。

>>323
古代の都市?
平安京が1万戸ちょい、越中国が2000戸ちょい。
7万戸ってのは、壮絶に広域だ。

338 :日本@名無史さん:04/10/03 21:14:42
>>336

なんで、九州、近畿のどちらかが、どちらかを支配していたと考えないといけないの?
台湾はちっぽけだけど、独立してるじゃん。



339 :日本@名無史さん:04/10/03 21:22:24
>>336
>より大きな墓を作るのは、小さな墓をつくるより
>より多くの金もしく労力がかかります。
>より大きな墓に眠る人がより大きな権力を持っていた

これは正しいでしょう。しかし、
小さい墓を造った首長が、必ず畿内に支配されていたという根拠にはならない。

大きい墓をつくった首長が、その他の地域を支配していたとしてもいいけど、
推古天皇陵とされる植山古墳や、大きさで第4位の造山古墳も、
石棺には、阿蘇の石が使われているということを、どう考えますか?


340 :日本@名無史さん:04/10/03 21:31:20
ようするに、古墳の大きさや埋葬品だけで、
古墳のある地域をすべて大和政権が支配していたという論拠にはできないということ。
物流や習慣が伝播していた問題でしかない。
支配者、被支配者かどうかなんて特定できない。


邪馬台国の位置や、東遷があったかどうかなんて別問題。
地方の首長が、好き勝手に古墳をつくったとしてもおかしくない。
必ず、上が下を支配していたはずと考える日本の考古学はおかしいんだよ。
江戸時代から進歩してないの。


341 :日本@名無史さん:04/10/03 21:38:20
三種の神器を埋葬したことが、大和朝廷の支配下の証明であるなら、
石棺が、九州阿蘇の石ということにも注目しなければフェアではない。

石棺が、九州阿蘇のものだったという事実は最近明らかになったことであり、
その時点で、畿内中心の考古学は、再考を迫られるべきことなんだよ。

仁徳天皇の石棺も、阿蘇の石だったりしたら、考古学はひっくり返るだろうね。



342 :日本@名無史さん:04/10/03 21:45:25
別に。

343 :日本@名無史さん:04/10/03 21:47:56
参考書
間壁忠彦『石棺から古墳時代を考える』同朋社出版

344 :日本@名無史さん:04/10/03 21:51:55
神武東征に関しては、邪馬台国時代の文献が日本書紀の編纂した時代に
残ってる訳ないから、九州の方から私達の先祖がきましたよという伝承が
フィクションで作られただけで、それを真に受けるのはナンセンス。

卑弥呼はおそらくアマテラスでしょう。箸墓古墳が卑弥呼の墓です。
宮内庁が所有してるため、遺跡の発掘はできませんし、この事実が
邪馬台国の所在地論争が決着しない原因でもあると思います。

箸墓を調べればわかる事なんですが…。

ちなみに、神武東征はアマテラスの神話の前の出来事だと思います。
卑弥呼はアマテラスとして神格化されていたので、物語の一番最初に
出てきたのだと思います。

345 :日本@名無史さん:04/10/03 21:56:02
ちなみに、ヤマトトヒモモソヒメ=卑弥呼=アマテラスという可能性も
あると思います。

346 :日本@名無史さん:04/10/03 21:57:17
>>343

ほう。そんな本があるのか? 
俺はまだ未見だから、今度手に入れて読んでみる。
さんくす。

347 :265:04/10/03 21:58:12
>>339
歴史、特に古代史の場合、必ずとか、絶対にとかつけれらたら
ほとんど何もいえません。可能性だけ論ずればあらゆる方向にあります。
恣意的でなく、より合理性のある推定は何かという方向で考えます。
普通はそのように議論を進めていくと思います。

阿蘇の石は何を言わんとしているのか分かりません。
阿蘇から石を運ぶのは大きな労力がかかるでしょうから、
自ら運んだにせよ、阿蘇近辺の勢力に運ばせたにせよ、
畿内説に有利な材料ではないでしょうか。

348 :日本@名無史さん:04/10/03 22:05:45
>>340
>地方の首長が、好き勝手に古墳をつくったとしてもおかしくない。
>必ず、上が下を支配していたはずと考える日本の考古学はおかしいんだよ
好き勝手に造っていたとしても、前方後円墳が全国各地に分布しているのは確かで、
大きい古墳を造っていた勢力の方が相対的に大きかったのは間違いない。

対高句麗戦、倭の五王、江田船山太刀銘、稲荷山鉄剣銘などを考えても、
少なくとも4世紀末には、ある程度の統一政権の存在を想定するのが自然だし、
その場合の中心は、より労働力を所有していたであろう畿内政権だと考える訳だ。

349 :ゴジンム:04/10/03 22:09:37
>>345  オール別人だよ。

350 :日本@名無史さん:04/10/03 22:21:21
>>347
>畿内説に有利な材料ではないでしょうか。
なんで?

>その場合の中心は、より労働力を所有していたであろう畿内政権だと考える訳だ。
なんで?

畿内の政権は、地方に古墳を作る資金と労働者を出稼ぎにいかせたのかよ?
バカなことを言うな。

地方の古墳は、古墳を作れるくらいの、
独立した経済力、労働力を持ってるから古墳を作れたのだ。

地方で古墳が作られなくなった時期こそ、中央が地方の経済を管理した証で、
統一された国家が出来たのも、地方の古墳が消滅する頃と考えるのが自然。

古墳が出来始めた頃に、大和朝廷が日本統一を成したのではない。
それは、地方の豪族が台頭してきたというだけだろう。







351 :日本@名無史さん:04/10/03 22:33:17
>>344
>神武東征に関しては、邪馬台国時代の文献が日本書紀の編纂した
>時代に残ってる訳ないから、九州の方から私達の先祖がきましたよ
>という伝承がフィクションで作られただけで、それを真に受ける
>のはナンセンス。
別に文献が残ってなくても、東征した事実があれば、人々の記憶として
語り継がれるものだろう。また、朝廷が正史として残した記録に記載
されていることを、理由もなく否定すること自体、それこそナンセンス。

東征が事実でないなら、自分の祖先が九州から来たと書く必要はない。
大和朝廷の正当性を主張したいなら、むしろ畿内を古くから治めていた
と書いた方が都合がよいはず。それをわざわざ九州から来たと記載されて
いる。

352 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/03 22:39:57
では5万戸もあった投馬国とはどこのことなのでしょう?
熊本や宮崎あたりか、もしくは出雲か、いずれにせよ、邪馬台国に
次ぐ強国っぽいのでどこにあったか気になりますね。

353 :265:04/10/03 22:41:06
話がかみ合っていない。

354 :日本@名無史さん:04/10/03 22:51:10
>大和朝廷の正当性を主張したいなら、むしろ畿内を古くから治めていた
>と書いた方が都合がよいはず。それをわざわざ九州から来たと記載されて
>いる。

畿内説論者はこの疑問に答えて欲しい

355 :日本@名無史さん:04/10/03 22:54:48
>>352

畿内論者は、魏志倭人伝の「南」は「東」の間違いだといいつつ、
5万戸の表記には拘るんだな。おそれいった。

356 :日本@名無史さん:04/10/03 22:55:03
>>327
それは技術的な問題で、阿蘇の溶結凝灰岩は石棺に加工しやすいから。

関東では千葉の硬質砂岩(房州石)が広く石棺に用いられ
群馬・栃木の結晶片岩(三波石)が石室の蓋に用いられる。

357 :日本@名無史さん:04/10/03 22:59:17
>>337
漆紙文書が出土して、平安初期の常陸国の人口が判明している。

石岡市(茨城県):わがまち自慢 石岡市長  横田 凱夫
そのとき漆紙文書が出土し、赤外線カメラによってその文字が判読されました。
漆紙文書は再利用された行政文書で、当時の戸籍や土地台帳といえるものでした。
 その記録から、常陸国の人口は22、3万人で、その1割の2万人程度が国府であるわが石岡に住んでいたと推測されています。
http://www.mayors.or.jp/shisei/shisei02.11/wagashi/ishioka.htm

358 :日本@名無史さん:04/10/03 23:04:29
>>356

加工しやすさと、畿内まで石の塊を運搬する費用・労力とでは、
ビジネスとして折り合うとは思えんがね。
瀬戸内海の水運屋が、畿内まで格安で石を売りにきたのか?
いや、費用は相当かかったはずだ。

仮に安かったとしても、貴重品としても値がはったとしても、
石棺につかうからには、阿蘇石に思い入れが必要だろう。
埋葬者の王が、九州出身者と考えるのが一般的だよ。
そして、天皇陵にも阿蘇石の石棺が使われていたということだ。


359 :日本@名無史さん:04/10/03 23:18:19
>>大和朝廷の正当性を主張したいなら、むしろ畿内を古くから治めていた
>>と書いた方が都合がよいはず。それをわざわざ九州から来たと記載されて
>>いる。

>畿内説論者はこの疑問に答えて欲しい

そんなことがあったとしても邪馬台国以前の話にすぎません。
なので権力が九州からきたとしても邪馬台国は畿内に変わりない
考古学的にそれは確定している。



360 :日本@名無史さん:04/10/03 23:20:50
電波作家のリストです。みなさんも電波作家を見つけたら教えて下さいね。
【買ってはいけないアマチュア著述家等一覧】
武光誠(騎馬民族説)
安本美典(邪馬台国九州説、関川編年と柳田編年を組み合わせ驚異の土器編年を編み出す)
井沢元彦(邪馬台国九州説、卑弥呼殺人事件w)
古田武彦(九州王朝を妄想、詐欺師和田に荷担)
小林恵子その他在日工作員(将軍様の夢でオナニー)
藤本由香(万葉集は韓国語で読める)
金達寿(古代日本人は全員在日)
関祐二(旧事本記でオナニー)
藤原明(旧事本記偽書説でオナニー)
黒岩重吾(邪馬台国九州説の妄想作家)
大和岩雄(同上)
大山誠一(聖徳太子はいなかった(驚)
梅原猛(法隆寺五重塔は、飛鳥寺の移築だった)




361 :日本@名無史さん:04/10/03 23:21:44
考古学的に確定してるのは畿内に強力な王権があったというだけで
畿内に「邪馬台国」があったことではないはずだが?

362 :日本@名無史さん:04/10/03 23:29:55
>>359

>そんなことがあったとしても邪馬台国以前の話にすぎません。

邪馬台国以前、つまり2世紀より前に権力をもった集団が、
九州から畿内へ移動したという証拠はあるわけ?

少数部族単位で九州から畿内へ移動したことはあったろうけど、
神武の東遷というフィクションが、わざわざ必要になるほどの説得力はないね。
いつの時代かはともかく、九州出身の首長が、畿内に移動したことは確か。
阿蘇石の棺に、亡骸を納めるという習慣は、九州のものだからな。

問題は、民族の移動がいつ起きたか、その時期の解明だろう。
邪馬台国以前なら、いつの時代の話なんだということだ。


363 :日本@名無史さん:04/10/03 23:30:20
>>358
費用がかかる貴重な物だからこそ、あえて用いるというのも、権力者の考え方としては
ある。莫大な金をかけて古墳を造るのもそう。
まあ、石に関しては、九州の豪族に搬送させれば金はかからないのだが。

>埋葬者の王が、九州出身者と考えるのが一般的だよ。
一般的ではない。「いい石があったから阿蘇から持ってこさせた」という考え方
が普通。阿蘇の石に必用以上の意味を付与するのは、止めた方がいい。
ていうか、東遷説の論拠としては弱いよ。

364 :日本@名無史さん:04/10/03 23:35:28
>>336
>東遷の問題も同じです。現在では根拠の無いまま東遷を
>持ち出せば恣意的だと非難されると思います。

>>359
>そんなことがあったとしても邪馬台国以前の話にすぎません。

記紀に記載されていることを、根拠のないまま否定することの方が
恣意的ではないだろうか。

そもそも古墳・遺跡の出土品から東征は、古墳時代以前とは考えにくい。
記紀でも、神武は天照の子孫とされている。
つまり、東征が事実とすれば、畿内説は困るのである。だから、都合の
悪い東征は、記紀に記載されているにもかかわらず嘘だと主張せざるを
えないのである。それこそ、恣意的ではないか。

倭人伝に残る邪馬台国のの方角や距離にしても風土にしても、箸墓の
つくりにしても、またヤマトトヒモモソヒメにしても、いずれも畿内と
するには矛盾だらけではないか。

365 :日本@名無史さん:04/10/03 23:39:20
>362〜364

素人がいくらわめいても考古学的には確定なの。
いやなら考古学雑誌に投稿して学者どもを論破してみろよ。
お前らそんなことできんの?



366 :日本@名無史さん:04/10/03 23:41:06
>>327
>畿内の古墳時代の石棺が、
>阿蘇山の凝灰岩で出来ているんだよね。
>畿内の王は、なぜか、阿蘇山をことのほか崇拝していたんだよね。

流してしまっていたが、重要な情報をありがとう。
いよいよ豊前説を確信した。

中津を流れる山国(邪馬国?)川の上流にある耶馬溪は、九州では
渓谷と紅葉で有名だが、この渓谷は阿蘇山の噴火により出来たと
されている。確か地質学的に認められているはず。
だとすると、畿内古墳の石棺は、耶馬溪から切り出された可能性も
出てくる。

367 :日本@名無史さん:04/10/03 23:45:43
はぁ・・・・

デンパは続くよどこまでも。
野を越え山越え、谷超えて〜

368 :日本@名無史さん:04/10/03 23:46:24
>>365
はなから九州説を締め出し、畿内説論者で固めた学会(というにも
お粗末?)に投稿しても意味ないのでは?
ttp://yamatai.cside.com/index.htm
九州説も軽んじられているわけでない。

369 :日本@名無史さん:04/10/03 23:47:53
>>367
目先をそらす幼稚な書き込みではなく、少しは、まともな反論を
したら?

370 :日本@名無史さん:04/10/03 23:49:16
別に締め出してるわけじゃない。
九州だと主張できる材料が何もなくなり、


そして、誰もいなくなった。

371 :日本@名無史さん:04/10/03 23:50:29
まあ、本気でやる気のある学者がいないのだろう。

372 :日本@名無史さん:04/10/03 23:51:02
>>363

阿蘇山で、祭祀が行われていたのに、その意味は無いものとして、
「いい石があったから阿蘇から持ってこさせた」で済ますとは。

阿蘇石には、宗教的な理由があったわけで、
天皇など位の高い人間の棺に、阿蘇石が使われていたということは、
天皇家や取り巻きが阿蘇山の祭祀を信奉していたと見るべきだね。




373 :いやなら投稿しろよ:04/10/03 23:51:51

素人がいくらわめいても考古学的には確定なの。
いやなら考古学雑誌に投稿して学者どもを論破してみろよ。
お前らそんなことできんの?





374 :日本@名無史さん:04/10/03 23:55:24
>>358
この例とか知らないのか。関東の古墳を見ても、遠隔地から良い石を持ってくるのは当然だ

 大阪城の石垣には50t以上の巨石が10個も使われている。ベスト10のうち7つは岡山藩、残りは熊本藩が運んだもの。
瀬戸内海の小豆島などから船で運ばれたものが多い。桜門枡形の蛸石、京橋門枡形の肥後石、桜門枡形の振袖石が120t以上でベスト3。
すべて岡山藩が運び入れている。岡山藩は領内に良質の花崗岩を産出する島をもっていたので、城主の池田忠雄は、大阪城へ巨石を運ばせた。
京橋門枡形などは、2代将軍の徳川秀忠が視察に訪れ、直接指示を出したというから「大きい石をドンと置いて」と注文を出したのかもしれない。
大阪城ではロックガーデンのような巨石にも注目を。
http://kanko.tabimado.net/kanko/jsp/specialissue/v02/town/sub1.jsp

375 :日本@名無史さん:04/10/03 23:55:32
366の続き。
地図を見てもらえれば分かると思うが、耶馬溪から瀬戸内海までは
わずかな距離。山国川を下れば、あとは瀬戸内海の海運で畿内までは
困難ではなかろう。

耶馬溪、山国川、阿蘇山系凝灰岩、そして畿内古墳の石棺。
ここでもまた、1本の線が見えてきた。
これでもまだ、偶然で済ませるのか。

376 :日本@名無史さん:04/10/03 23:56:24
>>350
>>その場合の中心は、より労働力を所有していたであろう畿内政権だと考える訳だ。
>なんで?
>畿内の政権は、地方に古墳を作る資金と労働者を出稼ぎにいかせたのかよ?
>バカなことを言うな
畿内勢力を中心とした大和朝廷ができ、前方後円墳の祭りを創始。それが全国各地に
広まっていった。各地の王は、安定的に供給される鉄や先進技術の見返りとして、
都に出仕するなどの軍役を勤め、労働力や産物を献上した。
初期ヤマト政権はあくまで畿内を中心とした連合国家で、各地の王には、ある程度の
自主性はあっただろう。前方後円墳を造るのは、自分にはヤマトの後ろ盾があることを
誇示する意味もあったと思う。強国・ヤマトの権威・ブランドは、地方での紛争において有効に
働いただろうし。
中央集権化の流れは、大悪大王・雄略の頃から急速に進み、継体の磐井討伐を経て、
聖徳太子の政治へと繋がっていくと思われる。

377 :日本@名無史さん:04/10/04 00:00:41
>>373
自分で反論できないから、必死だね。

378 :日本@名無史さん:04/10/04 00:01:56
素人がいくらわめいても考古学的には確定なの。
いやなら考古学雑誌に投稿して学者どもを論破してみろよ。
お前らそんなことできんの?







379 :日本@名無史さん:04/10/04 00:03:35
>>372
阿蘇の溶結凝灰岩や千葉の房州石は、手頃な堅さの巨石を使って
中をえぐって石棺にし易いから重宝された。それだけのこと。

一方、関東から四国に掛けて帯状に分布する、変成帯に産する結晶片岩(三波石)は
薄く剥がれやすいので、石室の天井石に重宝される。いずれも技術的な理由。

380 :日本@名無史さん:04/10/04 00:04:48
橿原市 植山古墳

植山古墳の横穴式石室 西側に推古天皇、
東側に竹田皇子を葬ったと考えられる。

玄室には、熊本県宇土(うど)半島で産出する
阿蘇溶結(あそようけつ)凝灰岩(所謂、阿蘇ピンク石)で造られた
刳り抜き式の家形石棺(身・蓋(ふた))が完存していました。

阿蘇ピンク石で造られた石棺が運ばれていることや
西石室の玄門閉塞に扉が採用されていること。
これら植山古墳の各部を構成する要素や規模から、
この古墳の被葬者は当時(飛鳥時代)の日本で
一、二の権力を有していた人物と想定してよいでしょう。

ttp://www2.begin.or.jp/sakura/ueya.htm


381 :日本@名無史さん:04/10/04 00:07:03
>>378
>いやなら考古学雑誌に投稿して学者どもを論破してみろよ。
畿内説妄信論者が編集する雑誌に投稿してもねえ。
まあ、別の手段を選ぼう。

382 :日本@名無史さん:04/10/04 00:08:00
>>376
>畿内勢力を中心とした大和朝廷ができ、前方後円墳の祭りを創始。それが全国各地に
広まっていった。

でも、自分の遺体を収める石棺には、遠く九州の阿蘇石を選んだわけだ。
不思議に思わないほうがどうかしてる。

383 :日本@名無史さん:04/10/04 00:08:28
>>380
飛鳥時代は時代が下がるなあ。

384 :日本@名無史さん:04/10/04 00:09:11
>>362「問題は、民族の移動がいつ起きたか」
         ↑
「民族の移動」じゃないよ。移動した先の東も
 同じ倭族だったのだから。 

 邪馬台国を記した魏志倭人伝にも、ちゃんと、
「女王国の東で、海を渡った所にも、やはり国があるが
 皆倭種である。」と書いてあるだろう。

 つまり、同じ民族内での異なる氏族の覇権争いだった。

385 :日本@名無史さん:04/10/04 00:09:42
素人がいくらわめいても考古学的には確定なの。
いやなら考古学雑誌に投稿して学者どもを論破してみろよ。
お前らそんなことできんの?









386 :日本@名無史さん:04/10/04 00:10:45
>>385
自分で反論できないから、必死だね。


387 :日本@名無史さん:04/10/04 00:14:23
>386
じゃあ、こんなとこでわめいてないで投稿して学者に反論しろよ。

388 :日本@名無史さん:04/10/04 00:14:25
というか、わざわざ阿蘇ピンク石を近畿に運ばせたという事自体、
その時すでに九州を勢力下に置く権力が近畿大和にあった
という証拠だわな。
その権力者の出身地が九州も含む日本の地方のどこであれ、
何が問題なの?


389 :日本@名無史さん:04/10/04 00:17:26
>>384
362は自分ではなく、民族云々は確かにあなたの言うとおりだが
今、このスレの流れでは、そんなことどうでもいい。

>「女王国の東で、海を渡った所にも、やはり国があるが
>皆倭種である。」と書いてあるだろう。
四国のことだろう。近畿が邪馬台国なら何処とするのか?

390 :日本@名無史さん:04/10/04 00:17:41
>>372
>阿蘇山で、祭祀が行われていたのに、その意味は無いものとして、
>「いい石があったから阿蘇から持ってこさせた」で済ますとは
感情的な人だな。まあ、
>天皇家や取り巻きが阿蘇山の祭祀を信奉していた
とかが仮にあったとしてもさ、だからと言って「大王家が九州から東遷してきた」
とか声高に言われてもなー。根拠薄弱なんだよ。
倭王は「倭国を治めている」んだから、倭国内に良い物(宗教的価値でもいい)が
あれば、普通に使うと思うがなあ。この場合の「治める」は直接支配の意味では
書いていないよ。
単なる思い付きだが、九州勢力の財力を削る、江戸初期の天下普請のような意味合い
もあったものかも知れない。

391 :日本@名無史さん:04/10/04 00:19:03
>>388
飛鳥時代は、既に大和朝廷が畿内にあり、強権を誇っていたのは
周知の事実。

392 :日本@名無史さん:04/10/04 00:21:31
>>390
>だからと言って「大王家が九州から東遷してきた」
>とか声高に言われてもなー。根拠薄弱なんだよ。
>>351>>364

393 :日本@名無史さん:04/10/04 00:26:49
阿蘇石厨は、根拠薄弱と論破されたのだから、
阿蘇石のことはひとまず横に置いておいて、
違う視点から東遷説を語るように。

394 :日本@名無史さん:04/10/04 00:29:01
>>393
はあ?
論破されたのはあなたでしょう。

>違う視点から東遷説を語るように。
既に語られており、あなたが反論も出来ないのに受け入れて
ないだけ。

395 :日本@名無史さん:04/10/04 00:33:00
>>390

>単なる思い付きだが、九州勢力の財力を削る、江戸初期の天下普請のような意味合い
>もあったものかも知れない。

他のことならいざしらず、石棺ですよ?石棺。
より、縁起のよいものを選ぶはず。

九州の古墳の石棺は、ほとんど阿蘇石。 それはあたり前として、
畿内の大和朝廷が、どうして九州の風習に合わせる必要があるのか?
畿内の風習に九州を合わせるならまだしも。

理由は、大和朝廷の日本統一以前から、
阿蘇山の石は宗教的に縁起がよいものと、倭人達の間で共通認識されてたということ。
それはつまり、かつては天皇家も阿蘇山を信仰していたということだよ。

>>391
そういう問題じゃない。
九州での埋葬形式に、畿内の権力者が同調したということを、
単純に「物好き」ですますのか、ということだ。

396 :日本@名無史さん:04/10/04 00:34:54
>>393
東征が事実でないなら、自分の祖先が九州から来たと書く必要はない。
大和朝廷の正当性を主張したいなら、むしろ畿内を古くから治めていた
と書いた方が都合がよいはず。それをわざわざ九州から来たと記載されて
いる。

そもそも古墳・遺跡の出土品から東征は、古墳時代以前とは考えにくい。
畿内では、古墳時代に銅鐸から九州の銅剣銅矛の文化への転換が起こって
おり、三種の神器も明らかに九州がルーツ。

そして記紀では、神武は天照の子孫とされている。
つまり、東征が事実とすれば、畿内説は困るのである。だから、都合の
悪い東征は、記紀に記載されているにもかかわらず嘘だと主張せざるを
えないのである。それこそ、恣意的ではないか。

倭人伝に残る邪馬台国のの方角や距離にしても風土にしても、箸墓の
つくりにしても、またヤマトトヒモモソヒメにしても、いずれも畿内と
するには矛盾だらけではないか。

397 :日本@名無史さん:04/10/04 00:38:24
>>395
おいおい、。>>391はそういう意味ではない。
邪馬台国の時代について書いてるのに、わざわざ畿内論者が
ずっと後年の飛鳥時代をもってきたから書いたまで。

398 :日本@名無史さん:04/10/04 00:39:32
>>376
前方後円墳=山菱みたいなものですか?

地方は政治的安定のために、中央権力の承認、後ろ盾を求めるものだ。
記紀を読んでいても、地方の後継者争いにヤマト朝廷が介入したという
記載もあったよな。
ヤマトはその抜群の調整能力で、権力を拡大していったのだろう。

399 :日本@名無史さん:04/10/04 00:43:00
あの〜、飛び込みですみません。
ある説では、東征伝説はどこぞの氏族の持っていた伝承を、
対熊襲(隼人)政策の一環として、大和朝廷が利用した、
となっているのですが、これは既出なんでしょうか?


400 :日本@名無史さん:04/10/04 00:46:33
>>399
記紀は、どうしても直解が出来ないなら、曲解をする必要が
あると思うが、直解が矛盾なく説明できるのに、曲解を
するのはこじつけだと思う。

401 :日本@名無史さん:04/10/04 00:47:00
>>395
おいおい、まだ阿蘇石の話を続けるのか…

>倭王は「倭国を治めている」んだから、倭国内に良い物(宗教的価値でもいい)
>があれば、普通に使うと思うがなあ。
だと俺は思うし、完全に平行線だろ。論点も出尽くしたようだし。
お前の考えは飛躍があり過ぎて、少なくとも俺は納得出来ないが。

402 :日本@名無史さん:04/10/04 00:54:42
だからさあ、何を問題にしてるんだろ、一部の九州派は?
万世一系? でもさあ、万世一系って、もともと「奈良県出身者だけが
皇統を引き継いできた」なんて出身地で定義してないですが?
定義は血統でしょ?

もともと天皇家となったある氏族は、
日本各地を治めるために各地の国主ファミリとの婚姻を進め、
同じ血をひく直系または親族に、屯倉(宮家)を作らせ、
一夫多妻で自分の血をひく各地の子供の中から
後継を選んでいったのだから。

出身地が奈良・近畿だけが天皇だ、なんて、そもそも誰も言っていないのに。
出身地で大騒ぎすること自体が、誤解を基にした議論であるように思う。

403 :日本@名無史さん:04/10/04 00:57:08
>>400
おいおい。流石に、神武東征を「矛盾無く説明できる」は嘘だろ。

神武東征伝承は、自説の補給資料として解釈するくらいならいいのだが、
それを根拠に畿内説に反論するという態度は学術的にどうか?と思うぞ。
あくまで神話の解釈の問題なんだから…。
神武東征を真実としながら、その後に続く欠史八代を無視するなど、
恣意的な解釈と言われても仕方がないしな。

404 :日本@名無史さん:04/10/04 01:02:51
395は自分ではないが、よい石は別に阿蘇ではなくてもよいはずで
やはり無視は出来ないであろう。

九州中央部は、かなりの岩石が阿蘇山由来だと思われるため、
九州の石棺が阿蘇山系凝灰岩だとしても、
耶馬溪、山国川、阿蘇山系凝灰岩、そして畿内古墳の石棺、それを
結ぶ便利な瀬戸内海。
そして、その他、ヒメ大神や宇佐神宮など>>310-315
を単なる偶然で片付けるわけにはいくまい。

405 :日本@名無史さん:04/10/04 01:03:20
>>401

なるほど。それなら、

古墳や、三種の神器を埋葬する習慣も、大和朝廷起源じゃないかもしれないよね?
熊襲の習慣だったのを、いいものだから真似したかもしれないね?

406 :日本@名無史さん:04/10/04 01:06:35
>>402
同意。
神武東征の解釈は、「天皇家の遠い先祖が九州出身だったかもしれない」
くらいでいい。

407 :日本@名無史さん:04/10/04 01:10:07
>>405
古墳は吉備か出雲。三種の神器は北九州起源と思われる。
だから、どうしたんだ?

408 :日本@名無史さん:04/10/04 01:13:13
>>407
そこまで認めて、まだ畿内説を主張するとは……。

409 :日本@名無史さん:04/10/04 01:22:40
>>408
おまえ、このスレに常駐して何読んできたんだ?
パート2〜4あたりを読み返せ。

410 :日本@名無史さん:04/10/04 01:26:35
>>409
ポイントをまとめて反論しろよ。

411 :日本@名無史さん:04/10/04 01:29:37
>>410
これまでに何度も出てきたのに、いまだに>>408みたいなこと書くってことは、
まったく読んでないってことだろ。

書くだけ無駄。勝手に嫁。

412 :日本@名無史さん:04/10/04 01:29:57
逆に、畿内説の人は、そんなに確定してるなら
九州説の人たちのホームページいろいろあるみたいだから
その確定証拠をそれぞれつきつけてつぶせばいいんじゃないの?
それはできないの?



413 :日本@名無史さん:04/10/04 01:31:47
>>412

畿内説論者って、かんじんな所で議論を避けるからね。
>>411みたいに。

414 :日本@名無史さん:04/10/04 01:40:56
ありゃ、レスが止まった?

415 :日本@名無史さん:04/10/04 02:23:13
>>407
埴輪の起源も吉備らしいね。

416 :日本@名無史さん:04/10/04 02:26:37
>>403
>おいおい。流石に、神武東征を「矛盾無く説明できる」は嘘だろ。
そうだな。根拠なく頭ごなしに否定する輩がいるためつい熱くなった。
矛盾なくは言いすぎだが、しかし理論的には説明可能。

>神武東征を真実としながら、その後に続く欠史八代を無視するなど、
>恣意的な解釈と言われても仕方がないしな。
欠史八代については、畿内説、九州説ともいずれも直解では説明できない。
だから前スレでも述べたが九州説に立って曲解する。

神武、崇神はともに「ハツクニシラス」を意味する名を持つ同一人物と
思っている。
神武は即位までのが詳細に記載されているにもかかわらず、即位後は
全く不明。一方、崇神はハツクニシラスであるにもかかわらず、その
功績が不明で、即位後から詳細に記載されている。
そして、欠史八代は全く不明。これはあまりに不自然すぎる。

では、なぜ一人を二人に分ける必要があったか?
それは、日本の歴史を古く見せかける必要があったため。

417 :日本@名無史さん:04/10/04 02:27:05
日本史では卑弥呼は天皇家の大祖先に当たり、皇室の伝説になって
いたのだと思う。
ところが、記紀を編纂するに当たり、中国史を調べたらやたら
卑弥呼の名が出てくる。卑弥呼は倭人伝で明らかに3世紀半ばの人。
しかも、卑の字を当てられたり、汝と呼ばれたり、貢物したり、
明らかに格下。
これは大和朝廷にとって都合が悪い。
そこで、これをうやむやにし、更に日本の歴史を古く見せかけ、
邪馬台国と大和朝廷は別物と見せる必要が生じた。
つまり、記紀から卑弥呼、邪馬台国の名を敢えて隠してしまった。

よって、卑弥呼を想定しながらも、別に見せかける天照を神話に
誕生させた。更に子孫の崇神を神武というある意味架空の天皇と
して古くに創出し、時代をありえない弥生時代初期にまで遡らせた。
ただ万が一、後世このからくりがばれた際には、卑弥呼を皇室の
トップではない誰かに押し付ける必要があった。
そこで選ばれたのが神功皇后。実在の人物であったかもしれないが
記紀では意図的に別人の卑弥呼に結び付けられた。
後世、卑弥呼が大和朝廷の祖先であるとばれても、皇后であれば
邪馬台国のトップが魏に従ったわけではないと言い逃れが出来るから
である。
そして、宇佐神宮にヒメ大神の他に神宮皇后が後年祭られたのも
これで説明がつく。

418 :日本@名無史さん:04/10/04 02:28:59
結局、陪審(日本国民)を納得させる決定的証拠・論はまだ無い、
ということでよろしいか?

二十年前、駿台の日本史の先生は
社会主義革命が起こったら天皇陵を全部発掘したい、と言ってた。
そうすればこんな議論したことが愚かな事に思える事態になるかもしれない。
夢のまた夢か……。

419 :日本@名無史さん:04/10/04 02:42:55
>>418
ただ、これまでの根拠を客観的に眺めて欲しい。
考古学会で当然?とされる畿内説が本当に正しいのか?
土器編年などの未だ絶対的とはいえない考古学的根拠以外では、
矛盾が多すぎる畿内説で決めてしまってよいのか?
一方、九州豊前説では、もちろん絶対とはいえないにしても
少なくとも畿内説以上には論理的に説明が可能な点を無視して
よいのか?

420 :日本@名無史さん:04/10/04 02:53:31
畿内説では、伊勢神宮が全国の神社の頂点であることを主張し
宇佐神宮を格下とするが、これにも説明が可能である。

宇佐神宮が神社として設立する以前、この地で渡来人を受け入れ
あるいは自分たちが渡来したかもしれないが、大陸より稲作をはじめ
武器など先端技術を持ち込み、太古において勢力を拡大したのは
否めない。
しかし、当然、このことは日本が独立国家として誕生した以上、
天皇家にとって当然都合が悪い。つまり、公には出来なかった。
(そもそも日本人自体、大陸との混血を古来より引いているのだが)
だから、大陸色が強い宇佐を公に頂点とすることが出来なかった。

421 :日本@名無史さん:04/10/04 03:15:12
宇佐神宮ファンに一読をお勧めの本。

飯沼賢司 「八幡神とは何か」 角川選書

今まで考えられていた八幡神とは別の姿が見えてくる。


422 :日本@名無史さん:04/10/04 03:21:38
>>416
>欠史八代については、畿内説、九州説ともいずれも直解では説明できない。
畿内説の一部の人は、欠史八代を葛城王朝と考えているがな。
三輪王朝、マキムク建設以前の話。
欠史八代を架空とするのも、神武と同じく慎重でなければならないと思うのだが、
簡単にバッサリと切り捨てておいて、神武東征は積極的に検証しようとする。
欠史八代が九州説に都合が悪いからですか?

423 :日本@名無史さん:04/10/04 03:34:24
>>416
国の範囲が拡大すると、それに応じて、神話世界も拡大していかなければ
ならない。
「九州からきた男が、三輪山の神の娘を娶り、ヤマトの国の王になった」
みたいなシンプルな王権神話がそもそもの原型で、ヤマト国の勢力が拡大
するにつれ、出雲や伊勢、日向が神話に加わったのだろう。

424 :日本@名無史さん:04/10/04 05:16:55
神話を語るなら吉田敦彦さんの本は必読だよね。
(古田武彦さんと間違えられてるかも?)

聖書を読んでると「これって天孫の神話と同じジャン!」ってことが
けっこうあったよ。

山田宗睦さんだったか、神武伝承にはふたつの物語が
まざってるって説を聞いたな。

425 :日本@名無史さん:04/10/04 05:22:54
>>422
>欠史八代が九州説に都合が悪いからですか?
畿内説でも都合は悪かろう。
別に都合云々でもなく、前述のように論理的に説明可能。

>畿内説の一部の人は、欠史八代を葛城王朝と考えているがな。
では、葛城王朝だとして畿内説を論理的に説明してくれ。

426 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/04 06:47:40
欠史8代は大国主命の国土献上により、天孫族が大和に降臨し、卑弥呼の下で魏との
交渉を行なっていた。大倭王の座は卑弥呼にあるため男王はあくまでも邪馬台国の官
に過ぎなかった。卑弥呼、トヨ(イヨ)等女王時代が終わって初めて国を治めるスメラミコト
が登場する。神武というのは高句麗、鄒牟、長髄彦は松譲王の建国神話にパターンを
あわせたのであるが、若彦、忍穂耳、ニニギ等大和に派遣された九州の統治者は数多
かったが、東遷ではなく単身赴任的な少人数によるものだったらしく成功せず、共立
女王制度となっていた。記紀は高句麗の滅亡の頃の中国に対する周辺民族の極度の
警戒を基に作られたので中国に足元を見られる憐憫を受けた女王、冊封の証拠の
金印などは決してこの世に存在することは許されなかったと思う。亡命した高句麗の
王の回顧談に耳を澄ましていたのだろう。


427 :日本@名無史さん:04/10/04 09:32:24
>>426
高句麗に対して意識過剰に思うのは
チョンの歴史捏造に洗脳されているぞ

428 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/04 09:33:07
だから畿内の遺跡は邪馬台国じゃなくて
物部王国のものだといってるでしょ。
どこかに邪馬台国って書いてある物証でも
でてきたんですか?国内産の三角縁神獣鏡が
でてきただけでしょw

429 :ロム:04/10/04 09:39:31

畿内である積極的理由が見当たらないよ、畿内説さん達
自立的に説を主張してみてくれないかね。

430 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/04 10:27:06
あそこは高句麗とそれほど関係あるとは思えんがな。

スサノオは江原道春川市、牛頭山に天下ったとする説もある↓
http://www.chuncheon.go.kr/Jap/sub02/sub02_06.asp?ShowHideNum=3
他方、韓国では日鮮同祖論と高天原・朝鮮という説もある↓
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/dousoron.html
しかし、隠岐産黒曜石で出来た石器がロシア沿海州(ウラジオストック、ナホトカなど)
の遺跡 で見つかる(昭和63年)、また朝鮮半島でも見つかっているし↓
http://www.e-oki.net/kankou/study/rekisi/nenpu_1.html
箕子朝鮮、衛氏朝鮮等韓国の神話と日本海沿岸は余り結びつきがない感じがする。
スサノオには蘇民将来等倭国とは無関係の半島の他民族雑居地を舞台にした話が
多い。草薙という鉄剣を得たというが、半島には弁辰狗邪國、 弁辰走漕馬國、弁辰
安邪國などという国があった。私はスサノオは走漕馬国王で、多分隣国弁辰狗邪國、
これは草部吉見神
の統治する国であるが、この国から草薙剣を得たものと見る。弁辰安邪國というのは
多分阿蘇の国の租界であろう。欠史8代の初期草部吉見神は狗邪韓国から投馬国
北部(丹後)に入ったものであろう。
阿蘇の石棺がよく売れたり、讃岐経由で阿波に大麻比古が入るのもその出発点は
狗邪韓国であると見たい。


431 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/04 11:09:36
狗邪韓国(クサカの国)は八井国の租界であり、多分草部吉見神(くさかべよしみのかみ)
が肥前吉野ヶ里、土佐、阿波の吉野川、大和吉野、吉野川流域の丹沙、半島狗邪韓国
の鉄資源を独占する実力者で、越中のヒスイと鉛を独占するカムヌナカワミミに匹敵する
経済的実力を持っていたものと思われる。西の正横綱というべきか。
この甥が健磐竜(たけいわたつ)命といって名前からして岩を裁断する、すなわち、石材
業者であり、成功の秘訣は鉄器にあったと思われる。しかし、ヤイのイという語素に焦点
を当てると「馬韓の西、海上の島に州胡国がある。その人々は背が小さく、頭髪を剃り、
韋衣(革の衣)を身に着けるが、上だけで下は無い。牛・豕(豚)を飼う事を好む。船に
乗って往来し、韓の国内で売買を行う。

432 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/04 11:10:40
(※沈瑩(しんえい)の臨海水土志に曰く。夷洲は臨海の東南、郡を去る事二千里である。
土地は霜や雪が降らず、草木が枯れる事は無い。四方を山や谷に囲まれている。人は
皆髪を剃り、耳に穴を開けるが、女人は耳に穴を開けない。土地は肥沃で五穀が全て
実り、また魚肉が多い。犬がいるが、尾は短く麕(のろ)の尾のような形をしている。この

夷人は舅・姑・子・妻がともに一つの大きな床で寝て、互いに避ける事はほとんど無い。
地には銅・鉄があるが、ただ鹿格(鹿の角)で矛を作って戦闘し、青石を研いで矢の鏃を
作る。生魚の肉を取り、大きな素焼きの器の中に混ぜ貯めて塩漬けにし、一月余りした
後これをに食べ、上等の肴だとする。)」等と言う中国の記録からして相当昔から半島南部
との直接貿易に従事してきたもののようである。国王八井耳(やいみみ)命には一九人の
皇子がいた。その人脈をみると、阿蘇君のほか、肥後・日向・大隅・薩摩を合せ統治した
のが健磐竜命で六番目の皇子であった。また筑後・肥前は四男の火(肥)の君が治め、
豊前・豊後国造を五男の大分君が統治した。阿蘇神社は、健磐竜命の臣であった
速瓶玉(はやみかたま)命に、孝霊7天皇九年勅命があって、健磐竜命が祭祀された。
同社を創建した速瓶玉命が合祀されたのは、景行12天皇以後である。また速瓶玉命は、
健磐竜命の子神ともいわれる。・・・といわれている。



433 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/04 11:55:16
大国主命は九州男児か

スサノオは3貴神に祭り上げられたが野糞、平気で異物を田圃に投げ入れる、生剥ぎ
毛皮を簡易藁葺き屋根に投げつけるなど弥生人の幼児のマナーも知らないワイ人
などに近い出自のようである。アマテラス、オオクニヌシとのDNAのつながりはなかった
のであろう。一方オオクニヌシこと、大己貴~(おおあなむちのかみ)は九州男児のような
人間。以下の場面は極めて人間的な激情のほとばしりと王者の貫禄である。
「經津主~(ふつぬしのかみ)・武甕槌~(たけみかづちのかみ)が大己貴~にむかい
「汝(いまし)、將(まさ)に此の國を以ちて天~(あまつかみ)に奉らんや不(いな)や」と
いった時、大己貴~は「疑う、汝(いまし)、二~(ふたはしらのかみ)は是(これ)吾が處
に來つる者に非ざるか。故、許(ゆる)さず」
「お前ら2名は自分のところへ使いに来たものではないのではないかと疑う。従って
お前らに許可を出すことなどは出来ぬ。」・・・カッチョイーイ。こういう気質とか出雲
西部への筑紫からの移住の伝承からすると、大国主命は夜須の出身者ではなかった
ではなかったのかと思うのだ。勝と西郷で、勝の役目を演じたが、腹の太さは九州男児
の西郷ドンに勝るともおとらない。



434 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/04 12:42:32
応神天皇は邪馬台国と関連があるのでしょうか?

435 :日本@名無史さん:04/10/04 12:50:25
>>424

記紀神話は、景教徒が持ち込んだ聖書の話がモチーフだよ。
神武なんて、モーゼそのものじゃないか。
ギリシャ神話も意識してる部分もあるし。

436 :日本@名無史さん:04/10/04 13:03:39
>>430-433
もう少し分かりやすく書いてくれ。

437 :日本@名無史さん:04/10/04 13:29:26
>>434
断定的に書くかと思えば、ころころと意見を変えるし、書くことが
支離滅裂。
あなたにはもう、教えてあげない。

438 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/04 15:42:13
では、応神天皇は第2次大和朝廷の創始者ということで
いいんですね?第一次大和朝廷は邪馬台国東遷で成立しましたが
3代で血統が絶え、九州出身の豪族であった応神が東征して
河内王朝成立。第一次大和朝廷を発展させて中興の祖となり
宇佐に祭られる。そして継体王朝にとって変わられると。
いわゆる3王朝交代説が正しいんですね?

439 :日本@名無史さん:04/10/04 16:22:01
>>438
お前、思いつきだけで、偉そうに書くなよ。もっと慎重に、謙虚な態度で書け。
何の根拠もない話なんだからさ。

まあ、応神が九州から来た簒奪者というのは、俺も賛成だけどな。

440 :日本@名無史さん:04/10/04 16:56:48
>>439

>まあ、応神が九州から来た簒奪者というのは、俺も賛成だけどな。

なにを根拠に?

441 :日本@名無史さん:04/10/04 18:13:44
まあ、九州にしても畿内にしても、古代西日本大和朝廷万歳ってこった
九州人も畿内人も今や世界に冠たる栄光の大和朝廷の子孫という幸せを
噛みしめようではないか

442 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/04 18:29:02
>>436 スマソ。三韓に付き研究中で手一杯。判ったところは(ほんとに参考までだが):

三韓自由貿易区倭国セクター<弁辰>には夫々が邑に細分される12国があり、
首長に下に シンチ、 ケンソク、バンワイ、サッケイ、ユウシャクの職階があった。
・<弁辰接塗國>スエツ・・・河内
・<弁辰古資彌凍國>コシミツ・・・敦賀(越御津)
・<弁辰古淳是國>コズシ
・<弁辰甘路國>カンロ
・<弁辰狗邪國>クサ・・・熊本。
・<弁辰安邪國(馬延國)>アサ(マエン)・・・熊本・
・<弁辰走漕馬國>スソマ・・・出雲。
・<弁辰?盧國>ドロ
・<弁辰半路國>ハラ・・・壱岐。
・<弁[辰]樂奴國>ナノ・・・奴国。
・<弁辰彌烏邪馬國>ミオヤマ・・・夜須。
・<弁辰彌離彌凍國>ミリミツ

以下は名義だけの国なのかね。

・<難彌離彌凍國>ナメリミツ・・・富山県滑川河口だろう。
・<軍彌國(弁軍彌國)>クミ・・・丹後久美浜。
<已 國>イセ・・・丹後元伊勢。
・<勤耆國>キギ・・・紀伊かな。
・<?斯國>フシ
・< 奚國>ジョケ
・<如湛國>ゴタン
・<?路國>コロ
・<州鮮國(馬延國)>スセン(マエン)
・<斯盧國>シロ
・<優由國>ユウユ


443 : :04/10/04 18:42:46
>>438
第2次大和朝廷:応神天皇(神功皇后と百済王の合作)
第3次大和朝廷:継体天皇(百済王の末裔)
第4次大和朝廷:天武天皇(唐のスパイ)

・・・でファイナル・アンサー!

444 : :04/10/04 18:54:00
>>265
亀レス。いいですね、結論以外は。
>3世紀の時点で倭と大和朝廷を別物と認めると、
>中国側資料は旧唐書まで一直線だから、
>7世紀の倭と大和朝廷もまた異なるものとなる。

詳細を知りたいです。「倭の五王」までが九州朝で
継体から畿内王朝じゃ駄目ですか?



445 :日本@名無史さん:04/10/04 21:29:57
記紀に描かれる、崇神天皇〜仲哀天皇の歴史は
もともと畿内にあった王権(=畿内説論者が邪馬台国だと主張している王権)の
王朝史を、天皇家の歴史になかば強引に組み込んだものだと考える。

崇神天皇は、畿内王権を打ち立てた人物。(神話ではスサノオに投影)
景行天皇および息子のヤマトタケルは、畿内王権が
九州及び関東の征伐を企図したときの支配者。
仲哀天皇は、九州まで延びた畿内王権の最後の支配者(神話ではオオクニヌシに投影)

景行天皇が九州征伐に行った際、九州が天孫降臨の地であることや
神武天皇が旗揚げした土地であることに対して、
思いを馳せるとか感慨深げになったなどの記述が全く無く、
あたかも九州が蛮地だと考えていたかのような記述、
仲哀天皇の死の際、応神以後の天皇と血の繋がりがないと暗示する
記述などをあわせて考えると・・・

446 :日本@名無史さん:04/10/04 22:30:07
>>445
その場合、応神=神武になるね。
神功皇后=天照、武内宿禰=高木の神か。
ただ、応神以降の河内王朝も、前方後円墳の祭りを引き継いでいるので(むしろ
大々的に)、応神は畿内の倭国王位を簒奪した(取り戻した)北九州の
王位継承権者の一人と考えた方がいいかも。

447 :日本@名無史さん:04/10/04 22:30:58
中国人が、日本の情勢をこと細かく把握できるわけがない。

大和朝廷が、魏志倭人伝の邪馬台国が、自分達の系統だといえば、
そのように中国人は受け取るだろう。それが中国の史書に残っただけ。

448 :日本@名無史さん:04/10/04 22:34:40
>>442
それ韓国じゃん。なんで日本なんだよ?

449 :日本@名無史さん:04/10/04 22:43:40
素人がいくらわめいても考古学的には畿内説で確定。

悔しかったら考古学雑誌に投稿して学者どもを論破してみろよ。
お前らそんなことできんの?

オナニー雑誌の「季刊邪馬台国」じゃなくてさ。









450 :日本@名無史さん:04/10/04 23:00:12
>>443
チョンの歴史捏造乙

451 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/04 23:12:37
チンギスハンの墓が見つかったようですが
卑弥呼の墓はまだですかね?

452 :日本@名無史さん:04/10/04 23:37:30
>>451
チンギスハンの墓など見つかっていない。針小棒大な報道だ、よく見ろ!
おまいのような粗忽な香具師が歴史について語るな。

453 :日本@名無史さん:04/10/04 23:46:30
>>450

日本の歴史は朝鮮の歴史を知らないと理解できないよ

454 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/04 23:50:39
実は今の天皇家って、継体天皇の子孫だから
単なる福井の豪族の子孫なんだよねw

455 :日本@名無史さん:04/10/04 23:59:02

畿内派の人も、東遷があったことは認めてるんだな。
東遷したあとで、畿内に邪馬台国が出来たと。


456 :日本@名無史さん:04/10/05 00:05:49
>>455

東遷は否定はしないけど、確定はしていないので。

>>454

万世一系というのはありえないでしょう。


457 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/05 00:12:12
卑弥呼の末裔の神武が作った第一次大和朝廷=信長
応神が東征してのっとった第二次大和朝廷=秀吉
継体がたなぼたで作った第三次大和朝廷=家康

ってなかんじでしょ。鎌倉幕府みたいに源氏の
血統が絶えても北条氏を中心に幕府が機能したように
創始者である神武の血統が絶えても大和朝廷の
システム自体は受け継がれたってことだね。

458 :日本@名無史さん:04/10/05 00:17:46
>>457
だから、「思いつきで書くな」って言ってるだろうが…

459 :日本@名無史さん:04/10/05 00:28:52
>>455
私は畿内説ですが、東遷説は非現実的だと思います。
兵站面からも、北九州から畿内へ本拠へ移すのは、現実的に考えられない。
東遷・東征が現実的に難しい事は、前スレでも書かれてました。
北九州から畿内への移住は、何世代もかけて行われたとは思いますが、短期間に
行なわれたとは思えない。理由も根拠もないし。
王権が確立した4世紀末なら、本拠地移動もあったかもしれません。
つまり、応神東征のことを言ってるんだけどね。

460 :日本@名無史さん:04/10/05 00:57:55
>>459

吉野ヶ里の事など考えると、東遷の可能性もあるとは思うのですが。

ところで、日向(宮崎県)、肥前、肥後など、ヒという地名があるのは
やはり、日が語源なのかな?
宮崎県には、まだ、未発掘の遺跡などあるのでしょうか?

461 :日本@名無史さん:04/10/05 01:03:38
>>459
兵站??
畿内のサヌカイト斧を持った半裸の野蛮人を征服するのに戦争を想像してないか?

「狩」だよ(w

462 :日本@名無史さん:04/10/05 01:07:08

まあ、現代で言えば
大阪西成の浮浪者ジジイ1000人を制圧する機動隊位想定すればいいよ
戦争にさえならない制圧殖民だよ。

463 :日本@名無史さん:04/10/05 01:41:40
>>461
東遷の時期が、何世紀頃かによるな。
三世紀なら、畿内は鉄を持っていたし、たとえ、それ以前だったとしても、
北九州勢力が、自らの地理的有利さを捨ててまで、当時としては辺鄙で、
敵国の真っ只中である大和に本拠を移す意味は考えられない。
領国内の本拠の移動ならともかく、瀬戸内海は強国吉備が控えているし、
なぜそんな危険を冒す必要があるのか?

464 :日本@名無史さん:04/10/05 01:49:24
>>461
東遷勢力がマキムクを築いたと思ってる?
マキムクからは九州系土器が出てこないことから、北九州勢力の大規模な
征服戦争があったとは、到底思えないんだが。大戦争の跡も見つかっていないし。

つまり、東遷を裏付けるような考古学的発見は、何一つ無いんだ。
やはりマキムクは、山辺の道で通じる、唐古・鍵の人々が造ったものだよ。

465 :日本@名無史さん:04/10/05 01:52:34
>>463

>なぜそんな危険を冒す必要があるのか?

簡単なことだよ。
九州の覇権争いに敗れて、吉備に泣きついて畿内に逃亡したってこと。
日本書記では東遷って格好つけてるけど、実際は負け組み。
熊襲征伐は、リベンジ。



466 :日本@名無史さん:04/10/05 02:04:20
「3世紀の北九州に大規模な鉄の軍隊がいた」というのは、到底信じられない。
少なくとも、日本では戦国時代になっても、投石が有効な戦法として使用されて
いるんだぜ。自国で製鉄が行なわれてから何世紀も経ってからの話だ。
つまり鉄は、その当時はとんでもなく貴重だったということ。
だから、畿内、吉備などは、北九州の鉄ルートを奪取せんがため、大同団結した
んだ。
数の上で圧倒した大ヤマト連合は、北九州小国家群(倭人伝には多くの小国が記載
されている)を逐次撃破・懐柔していき、伊都(もしくは奴)の倭国王の座を
奪い取った。中国の史書に見える倭国大乱がそれ。2世紀末〜3世紀初め頃か。

467 :日本@名無史さん:04/10/05 02:10:39
>>465
「神武、退役軍人」説の人ですか。
お久しぶりです。

468 :日本@名無史さん:04/10/05 02:16:18
「伊都国に一大卒を置いて諸国を監察させた」って倭人伝に書いてるんだから、
少なくとも、「邪馬台国は北九州勢力が畿内に東遷して造った」なんていう説は
信じられないな。

469 :日本@名無史さん:04/10/05 02:23:59
所詮、東遷説は、元・九州説論者の、最後の生き残る道なんだと思うよ。
まあ、頑張って「東遷」を論証してみてくれ。

470 :日本@名無史さん:04/10/05 02:27:16
頼朝は京都でいい血筋の生まれだったんだろ。
ほいで、流されたはずが関東武士にかつがれて天下を取った。
鎌倉幕府を開いても、京都には六波羅探題おいて監視。

ってとこじゃない?


471 :日本@名無史さん:04/10/05 02:42:36
>>464
>つまり、東遷を裏付けるような考古学的発見は、何一つ無いんだ。

断言できない。
銅鐸>銅剣銅矛は旧畿内文化の崩壊と九州文化の流入の可能性が
大きい。

472 :日本@名無史さん:04/10/05 02:49:42
>>468
>少なくとも、「邪馬台国は北九州勢力が畿内に東遷して造った」なんていう説は
>信じられないな。
北九州(豊前)にあった勢力が東遷・東征して造った。

>「伊都国に一大卒を置いて諸国を監察させた」って倭人伝に書いてるんだから、
当時は、もともと筑紫地方に沢山の小国が分割して存在しいがみ合っていたと
考えられ、邪馬台国が豊前だったとすれば、伊都に支所をおいて、それらの
国々を調停役として見張っていたとしても不思議はない。

473 :日本@名無史さん:04/10/05 02:56:45
そもそも、交通の発達した現代ならまだしも、この時代、
畿内から、すぐには応援を送ることの出来ない伊都に、
孤軍を送り込むことのほうが不自然。

豊前なら、伊都、筑紫に変事があったとしても、すぐに
応援に向かえたであろう。

474 :日本@名無史さん:04/10/05 03:02:55
>>472
あれ?
>北九州(豊前)にあった勢力が東遷・東征して造った。

つまり、畿内に東遷して邪馬台国を造ったのではなく、
邪馬台国をはじめとする連合国の連合軍が、東征をして
大和朝廷を造ったと言いたかった。

475 :日本@名無史さん:04/10/05 03:11:28
ねぇ、八幡やはた と邪馬台 って似てるって言う人はいないの?
特に宇佐、豊前説の人はそう思ってるんじゃないの?

諸星大二郎のうけうりなんだけど。

476 :日本@名無史さん:04/10/05 03:23:35
>>475

秦氏は主に、任那滅亡などの時に渡ってきたのでは?

問題は出雲が何時から鉄を産出し製鉄していたか。



477 :日本@名無史さん:04/10/05 05:53:48
畿内説の人は鉄を甘く見てるね、認識不足だよ

鉄製道具があれば食料三倍増=人口三倍増だよ

当時の畿内より九州のほうが都会であり文明人も多かった

江戸期の江戸と未開の蝦夷地のようなものだよ。

478 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/05 07:01:54
>>448 韓国はワイといって三韓の東北、中国は楽浪といって三韓の西北、三韓はワイ、
楽浪、倭国が共有する自由貿易ゾーン、勿論地元の人の国もあった。九州邪馬台国
はこの自由貿易ゾーンを経由して投馬国の日本海沿岸から大和に入ったというのが
私の説。ウガヤハブポート論というかね。

479 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/05 07:17:46
↑補足すると後漢書韓伝「初め、朝鮮王準が衛満に破れると、その残りの部下数千人
を率いて逃走して海に入り、馬韓を攻めてこれを破り、自立して韓王となった。
準の子孫が滅んで絶えると、馬韓の人間がまた自立して辰王となった。」
にある通り、馬韓の朝鮮族は滅亡したが、この時ワイで生き延びたと考えている。

480 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/05 07:24:32
同時に九州邪馬台国の同盟国乃至は構成国であった九州南部の「八井国」は四国北岸を経由して紀ノ川から葛城にはいって北から来た連中と合流したようだね。

481 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/05 07:44:43
古代日本の中心は諏訪にあり、松本を流れる宮入川の新潟までの信濃川の呼称
であったと考えると「ミリミツ」という弁辰の国は「宮入御津」ということで越後の国
の領地であったという推定も出来るが、どうかね。

482 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/05 08:12:44
ウガヤフキアエズ、葺合というのは皇居の吹上か、神戸の葺合くらいしか
見当が付かないんだが、神戸の葺合であると半島の上伽耶から北の丹後経由南下
する軍と四国、淡路方面から北上する軍の合流地点、会津、ということで説明が付く。
すなわち、この地域で軍を再編成した際に統合参謀本部長となった人物といった意味かな。

483 :日本@名無史さん:04/10/05 08:14:52
>>481
意味不明すぎる

484 :日本@名無史さん:04/10/05 08:15:49
チョンの歴史捏造に洗脳されるなよ

485 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/05 08:20:19
>>482 論理がないよなー。「フキアイ」これは潮待ちの様に風向き変更を待つための
避難港という意味かな。

486 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/05 08:23:55
>>484 神武というのがそうらしいぞ。あの辺がおかしいようだ。

487 :日本@名無史さん:04/10/05 08:30:56
>>486
朝鮮正史「三国史記」を見ても
倭人が新羅王になったり、倭国に攻められて百済・新羅が王子を人質に出しても
その逆の記事はない。目を覚ませ。

488 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/05 08:38:42
>>487
九州の倭国が半島の自国租界経由で近畿には良いたのではないかといっておる。
注意するように。

489 :日本@名無史さん:04/10/05 08:41:35
>>488
意味不明、目を覚ませ。

490 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/05 08:44:59
つまりだ。神武っつうのは高句麗亡命者の入れ智恵だってことさ。おわかり?

491 :日本@名無史さん:04/10/05 08:45:59
>>490
チョン電波すぎる

492 :日本@名無史さん:04/10/05 08:47:57
>>490
もう一度、良く読むように。
*****
朝鮮正史「三国史記」を見ても
倭人が新羅王になったり、倭国に攻められて百済・新羅が王子を人質に出しても
その逆の記事はない。目を覚ませ。

493 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/05 08:49:28
それこそ将軍様の裏返しだ。もうやめた。

494 :日本@名無史さん:04/10/05 08:55:14
中国と関係の深そうな遺物は出るかも知れないが、朝鮮とは関係が薄いのは
これまでの古墳の発掘から確実視される。

前方後円墳は日本独特なもので、巨大な墳墓は日本以外に
エジプト・中国・メキシコなどにも存在するが、他の地域では墓室は
地平面以下に作られているのに対して、日本の竪穴式石室は頂上近くに作られることも
極めてユニークで日本の独自性を顕著に示すもの。

三種の神宝のうちで、東アジアでは糸魚川特産のヒスイで作られた勾玉は
縄文時代から続く日本伝統のもの。剣は世界各地にあるもの。
銅鏡は、中国の祭祀を流用したもので、中国の影響が強く見られる。
ただし、弥生時代の銅鐸同様に銅鏡も日本で著しく巨大化している特徴がある。
銅鏡は日本での出土が非常に多く、朝鮮半島では楽浪郡の漢人の墓では出るが、
土着の墓には殆ど見られず、日本との大きな違いを見せている。

文献では「魏略」逸文に、邪馬台国の使者が呉の太伯の末裔と自称した話がある。
「日本書紀」では南九州に天孫降臨しており、黒潮ルートが考えられる。
魏志倭人伝に記された倭人は南方系の特徴が強く、中国南東部の民族との関連を示唆する。

495 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/05 09:08:40
神武東征を見ればわかるでしょ。
大規模な戦はありませんでした。
畿内王ニギハヤヒもあっさり神武に恭順しています。
これは単なる政権移譲とさえ言えるでしょうね。
畿内王であるニギハやヒがなぜあっさり神武に
政権を譲り渡したかは謎です。みなさんで推理してみてください。

496 :日本@名無史さん:04/10/05 09:17:27
古墳時代前期における畿内の墓で多量の銅鏡が見られるのは
弥生時代後期における九州の墓と似ている。

497 :日本@名無史さん:04/10/05 09:31:23
東征説話を史実の反映とみなせるか否かという問題と
東征説話を邪馬台国東遷の史実の反映とみなせるか否かという問題は
分けて考えるべきでしょう。
畿内説が否定しているのは邪馬台国の東遷であって、それ以外の東征を
否定しているわけではありません。

498 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/05 09:37:35
邪馬台国東遷が神武東遷の元ネタでしょ。


499 :日本@名無史さん:04/10/05 10:08:27
>>497
記紀では、神武は天照、すなわち卑弥呼の子孫とされており、
東征があったなら、邪馬台国建国後となる。
つまり、東征を認めれば、畿内説は成り立たなくなる。
それとも、天照=卑弥呼を否定するのかな?

500 :日本@名無史さん:04/10/05 10:38:05
>>499
日本書紀でも歴史時代は神武からとしている。
卑弥呼はヤマトトトヒモモソヒメ(8代孝元天皇の姉妹)に当たる。

501 :日本@名無史さん:04/10/05 10:39:54
天照大神は卑弥呼+台与が神話化したものだろう。

502 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/05 12:07:44
筑紫三家連は大和に東遷した天孫(物部)の旧家であり、後漢倭奴王国時代には伊都、
早良、奴の三国、であり、それらの弁辰における租界は夫々、已柢國(辰国に属す)、
弁辰半路國(純倭国)、弁樂奴國(倭辰半々) 。伊都県主はウルサン(辰国)出身である
と自称するし、その本国は伊蘇と呼ばれていた。正しくは已柢(イチョ)国であったのだ
ろう。

503 :日本@名無史さん:04/10/05 12:18:33
>>500
何度も繰り返されているが、たかだか天皇の叔母であるヤマトトトヒ
モモソヒメと女帝である卑弥呼とでは格が違うし、伝説からも別人
でしょう。

504 :日本@名無史さん:04/10/05 12:21:48
倭人伝の倭国乱れると、記紀の天の岩戸伝説は関連性があるのでは?

また、畿内の古墳から、卑弥呼が遣使したという景初三年が記された銅鏡
が出土されています。つまり、当時の畿内は魏となんらかの接触があった
のではないでしょうか?

魏の景初三年には、邪馬台国は畿内にあってもおかしくはない証拠です。

また、鉄は再生産が可能なので、鉄の需要が多かった畿内では再生産された
可能性が高いかもしれません。

505 :日本@名無史さん:04/10/05 12:30:22
ないはずの景初四年も発掘されている。
中国人が書くはずのないおかしな韻文の刻まれた鏡もある。
その当時にまだ使われていないはずの字が使われていたりする。
三角神獣鏡は中国では出土してない。

つまり日本製。

506 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/05 12:35:55
割り込んで失礼します。太陽の運行を基にする宗教的遺跡の位置決め用には八咫烏
ではないかといわれる内行花文鏡、コンパスではないかといわれる方格規矩鏡、夜間
における北極星(アメノミナカヌシ)の観測が必要といわれます。一方、神獣鏡は卑弥呼
の鬼道の理解なしに広まることはないと思います。すなわち、邪馬台国の建国時代には
九州に広がる後漢今日である方格規矩鏡、内行花文鏡が使用され、邪馬台国のインフラ
整備が終了し、卑弥呼の鬼道体制が起こった後にその卑弥呼の所在した地方を中心と
して三角縁神獣鏡の配布が始まるとするのが筋かと思います。

507 :日本@名無史さん:04/10/05 12:38:47
>>505 三角神獣鏡は中国では出土してない。つまり日本製。

もう大八島国オリジナルが作られていたんだね、近畿では。

508 :日本@名無史さん:04/10/05 12:43:33
そう。だから、神獣鏡は日本製。
それが沢山出土するから畿内が邪馬台国とするのは早計。
九州で邪馬台国が建国された後、東征、そして日本製の神獣鏡が
製造される。そのため、古墳でも神獣鏡は無造作に埋められた。

509 :日本@名無史さん:04/10/05 12:46:29
>>507
どこで作られたかは知らんが、その頃には、国を追われた呉の職人でも
流れ込んできたのだろう。

510 :日本@名無史さん:04/10/05 12:50:32
三角神獣鏡といい、大きな立体成形の銅鐸といい、多々羅鉄といい、
近畿・出雲勢力には、九州が持てなかったオリジナリティや
工夫から産み出された独自技術の高さがある。
九州は大陸の直輸入に頼り過ぎて単なる輸入屋に堕落したのでは?

511 :日本@名無史さん:04/10/05 12:50:55
鏡作神社付近で作られたんだろう。
http://www.kiis.or.jp/kansaida/tawaramoto/tawaramoto02.html

512 :日本@名無史さん:04/10/05 12:52:29
>>510
畿内の銅鐸文化は、九州の銅剣銅矛銅鏡文化に滅ぼされた。
畿内がオリジナルではなく、九州の文化が根付いた。

513 :日本@名無史さん:04/10/05 12:55:58
それが東征の結果。

514 :日本@名無史さん:04/10/05 12:58:30
この文化の交代は、卑弥呼の時代からわずかに下がり、
神武の東征とぴったり一致する。

515 :日本@名無史さん:04/10/05 13:00:20
三角縁神獣鏡は中国から出土されていますよ。たしか、山東省のあたりで。

日本で出土したのと同笵鏡が。
また、魏の遺跡自体があまり発見されていないのでなんともいえないですよ。

景初四年も前年に予測して作っていれば、無い事もないです。昭和64年の
硬貨みたいに。

また、国内産を認める事は畿内で漢字を理解できる人が存在していた事を
認める事になると思いますよ。

516 :日本@名無史さん:04/10/05 13:02:02
>>509 国を追われた呉の職人でも流れ込んできたのだろう。
      ↑
それも憶測にすぎないけどね。

517 :日本@名無史さん:04/10/05 13:09:10
そりゃ、日本と中国に既に国交があったのだから、日本から中国に
何百枚かは献上されただろうから、数枚は見つかるだろう。
中国産なら日本で何百枚も見つかっているのだから、中国では、何千枚も
見つかっていてもおかしくない。

魏の遺跡があまりなくても、鏡というものは、代々家宝として伝えられた
ものだから、それ以降の墓からも、もっと沢山でてくるはず。ところが
皆無に等しい。
>>511 4世紀から神獣鏡を作っていたrしいぞ。

>また、国内産を認める事は畿内で漢字を理解できる人が存在していた事を
>認める事になると思いますよ。
そりゃそうだ、飛鳥時代に突然字が読めるようになったわけではあるまい。
卑弥呼の時代から既に魏と交流があるのだし、既に鏡を作る職人が渡って
きていたのだから、字の読める人はなおさらいただろう。

518 :日本@名無史さん:04/10/05 13:12:56
>景初四年も前年に予測して作っていれば、無い事もないです。昭和64年の
>硬貨みたいに。
昭和64年は存在したが、景初四年は存在しない。中国では、改元した年全部
が変えていた。
仮にも国の貢物として、間違って作ってしまったものを卑弥呼の渡す
だろうか?
仮にそうだとして、
>中国人が書くはずのないおかしな韻文の刻まれた鏡もある。
>その当時にまだ使われていないはずの字が使われていたりする。
はどう説明する?

519 :日本@名無史さん:04/10/05 13:14:46
>>512  
近畿で銅鐸が消滅したとされている時期は260〜280年前後だろ。
つまり邪馬台国の東征があった頃。その前から出雲には銅鐸文化が
きわめられていたのだから、九州の文化がきたのではない。


520 :日本@名無史さん:04/10/05 13:19:13
>近畿で銅鐸が消滅したとされている時期は260〜280年前後だろ。
早く見積もりすぎだろう。

521 :日本@名無史さん:04/10/05 13:29:56
そういえば銅鐸が副葬されている前方後円墳は無いな


522 :日本@名無史さん:04/10/05 14:05:12
>>517

しかし、魏の年号にこだわっているという事は、3世紀の大和の有力者達は
魏に憧れの気持ちがあったのではないでしょうか?

魏になんの関心もなければ、鏡を古墳に埋葬する事もなかったでしょうし。

という事は、魏誌倭人伝にその痕跡が記載されていてもおかしくはありません。
何の記載もないというのはおかしいと思います。

523 :日本@名無史さん:04/10/05 16:16:50
鏡は中国産ってのが通説だぞ
当時の日本にちゃんとした鏡を作る技術はない


524 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/05 16:29:15
鏡なんて東遷したときいっしょにもっていっただけでしょw

525 :日本@名無史さん:04/10/05 16:40:38
九州邪馬台国は下賜された銅鏡を畿内との交易に使っていたのかもw
そんで畿内の連中は手に入れた銅鏡を銅鐸製作の原材料にしただけとかw

526 :日本@名無史さん:04/10/05 17:08:03
>>360
マルチはうざいけど、俺みたいに安本に結構貢いで
しまった者にはこのリストはありがたいw
安本先生、ネタならネタとはっきり書いてくれればいいのに。
ぐすん


527 :日本@名無史さん:04/10/05 18:23:36
>>523
当時の日本には、平面の鏡より難しい立体の
円錐形の超薄型銅鐸(模様入り)を作る技術はありましたねw 
鏡も必要で材料があれば作れたでしょ。

問題は鏡製作の技術の有無じゃなくて、権力側が鏡を
権力の象徴(神器)としたグループかそうでないか、
が分布から分かるということですよ。

近畿でも鏡が発見されるということは、九州と同じ勢力が
その地域を覆った可能性はある。
しかし鏡の質が違うということは、九州と同じく中国王朝の認知を
求めていた異なる権力だった可能性もある。

528 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/05 19:12:15
ただ単に、畿内物部王国と、九州邪馬台国が
合併しただけなんじゃないですかね?
皇后は物部氏から出し、畿内の神を祭ることを
条件に王位は邪馬台国のものにしたってことでしょ。


529 :日本@名無史さん:04/10/05 19:30:35
物部氏が歴代天皇に后妃をだしたっていう伝承がないしそれはいかがなものか


530 :日本@名無史さん:04/10/05 19:53:53
>>528
藻前は気軽に妄想を垂れ流しすぎ。自分がそういう見解に
至った史書の部分や考古学的な資料を提示しながら語れよ。
学問板なんだから。

531 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/05 22:48:57
私はプロの研究家ではなくアマチュアなんで
専門的なことはよくわかりませんよ。ただ
いろいろな書籍を読んでみて自分なりの結論を
導き出しただけです。

532 :日本@名無史さん:04/10/05 22:54:18
だいだい、瑣末な小国がどこにあろうが、世界史はおろか日本史にも大して影響しないだろう。

533 :466:04/10/05 22:55:34
>>477
>畿内説の人は鉄を甘く見てるね、認識不足だよ

そんなことはない。当時、鉄はとてつもなく貴重だったと思うよ。
ただ、北九州勢力とは言え、畿内・吉備勢力を駆逐できる程の鉄は持っていなかった
のでは、と言ってるんだ。
つまり、鉄鏃は非常に強力だけど、数を揃えなければ意味がないということ。

>少なくとも、日本では戦国時代になっても、投石が有効な戦法として使用されて
>いるんだぜ。自国で製鉄が行なわれてから何世紀も経ってからの話だ。
をちゃんと読んでね。

534 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/05 22:59:13
では学問板とのことですので自分もアマチュアなりに
ですが専門的に頑張ってみましょうか。
>>529
古事記によると、神武天皇の正妃イスケヨリヒメは
畿内王ニギハヤヒの娘だったとのことです。以下3代
までの皇后はいずれも物部氏から出しています。

535 :ゴジンム:04/10/05 23:02:24
>>534
冷静な論を望む。×→神武が崇神と同一だとか。それは推理小説の世界。

536 :日本@名無史さん:04/10/05 23:22:32
>>533
鉄で世界を席捲したとされるヒッタイトにしても、
「戦車の車輪軸を鉄製にできたから」という説をどこかで聞いた。戦車の
機動力が飛躍的に増したと。
日本は平地が少ないし、戦車戦は無理。
少数の鉄製武器で、畿内と吉備の大兵力を撫で斬りに出来たなんて、
やっぱり幻想だよ。
第一、倭人伝でも、戦争じゃなく、大同団結したって書いてるじゃないか。

537 :日本@名無史さん:04/10/05 23:35:06
>>533
>少なくとも、日本では戦国時代になっても、投石が有効な戦法として使用されて
>いるんだぜ。自国で製鉄が行なわれてから何世紀も経ってからの話だ。

詭弁の典型だなおい。
鉄が足りてても、大砲が発明されるまでは、投石は有効だろ。

538 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/05 23:36:25
古事記、日本書紀によると天照大神よりも前に
すでに大和に神々が降臨していたそうです。
つまり大和の神である大物主神のほうが天照より
先に降臨しており偉いのです。更に天皇即位の際、
天皇霊を身体に付着させるための儀式である大嘗祭に
おいても大嘗祭で祭られている最高神が天照ではなくて
大物主神なのであります。更に、伊勢神宮における
心の御柱とよばれる柱も天照が祭られる以前に伊勢神宮に
祭られていた大物主のことなのです。これらのことから
導き出される結論として、大和の天皇たる条件はニギハヤヒ(大物主)
の霊を受け継ぐことだったのです。このように物部氏の
神が大和の神であるという事実がまかり通っている間は
物部氏が朝廷の祭祀神道を管理することで、物部氏主導による
天皇体制が確立していったのです。

539 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/05 23:43:56
つまるところ、九州邪馬台国と畿内物部王国の
合併における条件としては、神武一族が物部氏の女人を
娶ることでニギハヤヒの霊を受け継ぐものこそが
大王であるというシステムを守るという点に
あったのだと思うのです。考古学的にみても
4世紀に大きな戦があったことは想像できません。
ゆえにこのような合併により極々平和的に
畿内と九州の合併が進んだと考えるのが妥当なんじゃないでしょうか?

540 :日本@名無史さん:04/10/05 23:46:55
古代の日本で重要だったのが、海軍。
中世では倭冦が韓国迄行っていたように。

だから、伊勢や出雲、吉備なんかは重要な訳ですよ。

ちなみに、投馬国は出雲だと思います。倭人伝の径路は日本海経由、
丹波越えでしょう。あの奥深い山は、荷物などしょっていったら1月は
かかるでしょう。

541 :日本@名無史さん:04/10/05 23:51:21
>>539

だから、3世紀には大和に魏の鏡がありますって。
3世紀にはすでに、大和に邪馬台国があったでしょう。
合併をいうなら、1世紀か2世紀が妥当です。

2世紀の中ごろには邪馬台国は大和にあったでしょう。

九州に邪馬台国があったとしても、紀元0年頃でしょう。

542 :日本@名無史さん:04/10/05 23:54:49
瀬戸内海って、渦潮とかあるから、大きい船は通れないんだよね?

543 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/05 23:55:52
>>541
それは国内産でしょ?w
もしくは東遷後に畿内に持ち込まれたものか、
景初4年の鏡も出てきてるようですし、
信憑性に欠けますね。

544 :日本@名無史さん:04/10/05 23:56:34
>>537
大砲って…。鉄鏃でいいだろ。
お前でも、戦場で最も有効な武器は飛び道具だというのは分かるだろうか。
俺が言いたいのは、
>ただ、北九州勢力とは言え、畿内・吉備勢力を駆逐できる程の鉄は持っていなかった
>のでは、と言ってるんだ。
>つまり、鉄鏃は非常に強力だけど、数を揃えなければ意味がないということ。

つまり、「戦国時代ですら鉄鏃は不足していたのに、鉄を半島から輸入していた
当時に、大量の鉄鏃を揃えるのは難しかったのでは」と言ってる訳。

545 :日本@名無史さん:04/10/06 00:01:27
>>544
「大量の鉄鏃を揃えるのは難しかった」から、なんですか?
何か不利に作用するの?
飛び道具に関して、敵も同じ条件というだけでしょ。

546 :日本@名無史さん:04/10/06 00:10:37
>>545
だから、戦争の勝敗に決定的に影響を与えるほど、鉄の武器は多くなく、
結局は兵力の多寡で勝敗は決まったのではないか。

もっと言えば、「当時、鉄において、北九州が畿内を圧倒していたのだから、
北九州が畿内に負ける筈はなく、北九州が畿内に東遷して大和朝廷になった
のは間違いない」みたいな安易な理屈だけでは、
東遷の証明にはならないと言ってるんだ。

547 :日本@名無史さん:04/10/06 00:16:34
>>540
なぜ、瀬戸内海を通らなかったのかが、問題だよな。
ハイセイセイはちゃんと瀬戸内海を通ってるし。
狗奴国の邪魔があったのか? その場合の狗奴は熊野?

548 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/06 00:17:32
畿内説のよりどころは、鏡が出ただの、
古墳が3世紀っぽいとかそんなのばかりですねw
鏡は東遷後の国内産、古墳は東遷前の前王国の
ものだと説明がつきますが、果たして、倭人伝の
記述や、道鏡の事件の際、宇佐神宮にいったことに
ついて説明ができるのでしょうか?

549 :日本@名無史さん:04/10/06 00:23:59
おい九州説バカ
考古学雑誌に早く投稿しろよ。

できねえのか?

550 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/06 00:26:05
ちなみに「キテレツ大百科」の勉三さんも
九州説です。ご存知ない?こりゃまた失礼w

551 :羽狗狸法師:04/10/06 00:44:29

我々ヨーロッパ人は、互いの間では賢く写るが、日本人に比べると
  はなはだ、野蛮であると思う。私は毎日、日本人から教えられることを
  告白しなければならない。私は世界の中で、これほどまで天から才能を
  与えられた民族はないと思う。」

  「京都は、ヨーロッパならローマにあたるが、科学、見識、文明はローマ
  よりはるかに高尚である。信仰さえ別にすれば、我々は日本人よりも
  あきらかに劣っている。」

         16世紀 イエズス会本部への報告書より
         宣教師 ニエッキ・ソルド・オルガンティーノ

552 :日本@名無史さん:04/10/06 00:47:04
>>546
日本語がおかしいのは見逃してやる。

鉄の武器が多く無いって、いったいどういう根拠で言ってるのか?
北九州から出土する鉄剣・鉄刀類は、機内を圧倒してるというのに。

それに、鉄が武器にしか使われないと思うのも思考が単純。
農具として使えば生産性が上がるし、兵力も増やせる。

553 :日本@名無史さん:04/10/06 00:48:35
>>547
狗奴(熊野)国=葛城国というのは、どうでしょうか?
以後、妄想〜
神武〜孝元までの葛城王朝は銅鐸祭祀の呪術的王朝であったが、3世紀初め、
淀川水系豪族や吉備の支援を受けた開化(三輪王朝)に取って代わられた。
開化の墳墓が葛城地方を離れ、佐紀地方にあるのはそのため。
開化の妹がトトヒモモソ媛。卑弥呼にあたると思われる。
やがて三輪王朝はマキムクを建都し、大和・柳本古墳群を築く。
狗奴は紀の水軍で海上封鎖をし、開化は仕方なく残された日本海航路から魏へ
遣使。狗奴との和平の斡旋を願った。
葛城国が最終的に大和国に併呑されたのは、4世紀末。その頃より、葛城地方
でも漸く前方後円墳が築かれる(馬見古墳群)。
葛城や紀の始祖・武内宿禰は孝元の子孫とされるが、葛城王朝の最後の
大王の子孫だとすると、意味深である。

554 :日本@名無史さん:04/10/06 01:01:40
>>552
お前、ちゃんと読んでから書けよ。
「当時、鉄は北九州>畿内だとしても、必ずしもそれが東遷説の証拠にはならない」
と言ってるんだ。分かったか?

ちなみに、お前は東遷説か? 違うならこれ以上の議論は無意味だし、もし
東遷説なら、もっと違う根拠を挙げてくれ。

555 :日本@名無史さん:04/10/06 01:07:32
>>554

鉄の「北九州>畿内」は、東遷を肯定する理由にはなっても、
否定する理由にならないということ。

同時に、

「東遷を肯定する理由になる」=「東遷があった」とはならない。

おまえこそ、もっと別の角度から東遷を否定してみろよ。

556 :日本@名無史さん:04/10/06 01:17:08

アメリカの学者が国境の無い世界の方が現在の世界よりはるかに
人類を滅亡に導く危険性の高いということを完璧に証明。


557 :日本@名無史さん:04/10/06 01:21:51
>>555
東遷の否定については>>459>>463>>464を読んで。

俺は、

>兵站??
>畿内のサヌカイト斧を持った半裸の野蛮人を征服するのに戦争を想像してないか?
>「狩」だよ(w

>まあ、現代で言えば
>大阪西成の浮浪者ジジイ1000人を制圧する機動隊位想定すればいいよ
>戦争にさえならない制圧殖民だよ。

っていう馬鹿な発言に対して異議を言っているだけ。
どこにも証拠のない東遷説を唱える以上、お前の方に説明責任があると思うが。

558 :日本@名無史さん:04/10/06 01:27:31
>畿内説のよりどころは、鏡が出ただの、
古墳が3世紀っぽいとかそんなのばかりですねw

現実に発掘されている訳だから、信憑性はありますね。
現に、九州には邪馬台国に相当する遺跡や遺物は出ていないではありませんか?

現に遺跡があり、証拠として提示できる訳ですから。
その点では、九州説は机上の空論の域から出ていないのではありませんか?

邪馬台国九州説が大盛況だったのは、当時畿内に相応する遺跡が発掘されて
いなかったからで、近年実際に発掘されたり、銅鏡がでたり、年輪年代法
で正確な年がわかるようになり、邪馬台国畿内説の信憑性が高まってきました。

559 :日本@名無史さん:04/10/06 01:54:49
>>557

>っていう馬鹿な発言に対して異議を言っているだけ。
それ自体は、馬鹿な発言じゃないだろう。
武力でぶつかれば、九州勢が勝つに決まっている。

実際に戦って東征したかどうかは別問題だということだ。
他の論拠を示して東征を否定すべき。

560 :日本@名無史さん:04/10/06 01:54:59
卑弥呼が活躍した古墳時代初期には、鉄も畿内>北九州
===
神戸市東部における前期古墳について −神戸市東部には海岸線に沿って西から西求女塚古墳、処女塚古墳、東求女塚古墳の3古墳が東西に約2キロの間隔で並んでいる。

西求女塚古墳からは250点にも及ぶ多くの鉄製品が出土した。短剣や、槍先、刀、鏃などの武器のほか、ノミ、オノ、ヤリガンナ、ヤスなどの工具、漁具である。
当時としては貴重な鉄製品を埋納していることは、その入手が継続的に可能であったことを意味している。
豊富な鉄製品を入手し、山陰系祭祀土器をもつこの古墳の被葬者は、当時朝鮮半島からの鉄素材交易に関わっていた豪族だったのではないか。

当初半島からの鉄素材の入手では北九州が有利な地位を占めていた。弥生後期の何時ごろか、鉄素材の入手で大和が優位に立ち、その地位が逆転した。その結果大和の強大化が進行したとされる。
最近但馬地方で発見された「茶すり山古墳」などをはじめとして、この地域に何代かの豪族拠点を認め、この地域を通ずる鉄の交易ルートを想定し、但馬、播磨、摂津と続く鉄の交易ルートを通じて、
摂津の前期古墳の被葬者も大和への鉄供給の一端を担っていたのではないかとする考えが披露されている(ふるさと全史<46・47>神戸新聞)。
神戸市東部に存在する前期古墳の被葬者が大和政権の誕生前後の時期にどのような役割を演じたのか興味は尽きない。
http://world-reader.ne.jp/time-slip/m-maeda040527.html

561 :日本@名無史さん:04/10/06 01:58:33
>>558
>現に、九州には邪馬台国に相当する遺跡や遺物は出ていないではありませんか?
古墳時代が始まる前で、古墳など目立つ遺跡がないのは当然だろう。

そういう詭弁は大嫌いだ。

562 :日本@名無史さん:04/10/06 02:04:04
>>558
>現に、九州には邪馬台国に相当する遺跡や遺物は出ていないではありませんか?

立派な遺跡がある。>>310-315
また同じ話題を繰り返すつもり?
今までの流れからして、畿内説は提起された疑問に回答もせず、
話題をそらすばかり。
むしろ畿内説の方が、すべてを系統立てて論ずることが出来てないでは
ないですか?

563 :日本@名無史さん:04/10/06 02:06:47
>>560
>弥生後期の何時ごろか、鉄素材の入手で大和が優位に立ち、その地位が逆転した。

「何時ごろか」がはっきりしないことには話しにならない。

564 :日本@名無史さん:04/10/06 02:10:23
>>557
>どこにも証拠のない東遷説を唱える以上、お前の方に説明責任があると思うが。

はあ?記紀に書かれているだろう。しかも、天照=卑弥呼の後に。
むしろ、それを否定する根拠をのべよ。
前方後円墳が作られるようになってからは、銅鐸が姿を消してしまった。
文献、遺跡の両者が東征を証明している。

565 :日本@名無史さん:04/10/06 02:14:16
>>564
銅鐸が消滅したのは遙かに古い。
最も新しい型式でも、鉛同位対比は前漢〜後漢初めの銅鏡と同じタイプ。

566 :日本@名無史さん:04/10/06 02:16:46
卑弥呼は8代孝元天皇の姉妹ヤマトトトヒモモソヒメだろ。
日本書紀では神武以降を歴史時代として扱っている。

卑弥呼+台与が神話化したのが天照大神。

567 :日本@名無史さん:04/10/06 02:18:30
>>565

じゃ、その頃には東征があったと認めるのね?
具体的には、何世紀頃?

568 :日本@名無史さん:04/10/06 02:18:50
安本は滅茶苦茶な年代観で電波説をごり押しする
厚顔無恥な著述業で逝ってよし

569 :日本@名無史さん:04/10/06 02:19:48
>>567
神武東遷があったとしても倭国大乱の2世紀頃だな。

570 :日本@名無史さん:04/10/06 02:21:19
>>566
ヤマトトトヒモモソヒメは、たかだか天皇の叔母。
女帝卑弥呼とは格が違うだろ。

>卑弥呼+台与が神話化したのが天照大神。
厳密に言えばな。
そして、「台与の国」が「豊の国」、すなわち「豊前」。

571 :日本@名無史さん:04/10/06 02:22:23
>>569
だから根拠を述べよ。
記紀では、神武は卑弥呼の子孫とされている。

572 :日本@名無史さん:04/10/06 02:23:30
>>570
卑弥呼は巫女であって、実際の政治は弟が行っている。
日本書紀を見れば、ヤマトトトヒモモソヒメの巫女としての役割は重要だし
巨大な墓に祭られた伝承もしかり。

573 :日本@名無史さん:04/10/06 02:25:48
>>569
2世紀に九州を支配して、吉備とも連合して、
畿内に東征し、銅鐸文化圏を滅ぼし、邪馬台国を興したというのですね?
貿易の窓口「一大卒」は、九州に置いたということでいいの?



574 :日本@名無史さん:04/10/06 02:25:50
>>571
池沼か、日本書紀では卑弥呼を神功皇后に対応させているぞ。
そのために百済史料を120年も繰り上げるという無理まで行っている。

575 :日本@名無史さん:04/10/06 02:26:34
>>565
鉛同位対比はあてになるのか?
結局、畿内の古墳や銅鐸を古いとする根拠はこれだけだろ。
今でさえ、畿内説の根拠は薄いのに、
これがずれると、畿内は完全に崩れ去る。

576 :日本@名無史さん:04/10/06 02:27:15
>>573
神武は東征ではなく東遷だ!
当初は大和付近のローカル勢力に過ぎない。

577 :日本@名無史さん:04/10/06 02:27:42
>>574
また繰り返しか?
神宮皇后は、日本を古く見せかけるための卑弥呼の投影。

578 :日本@名無史さん:04/10/06 02:28:35
>>576
で、その根拠は?
畿内説は、根拠なく叫びすぎ。

579 :日本@名無史さん:04/10/06 02:29:01
>>575
九州説は砂上の楼閣になっているのに呆れる

580 :日本@名無史さん:04/10/06 02:30:05
>>577
神功皇后を否定したがるのはチョンの歴史捏造

581 :日本@名無史さん:04/10/06 02:31:26
>>578
ローカルだったからこそ、崇神天皇になって四道将軍を派遣しているだろ。

582 :日本@名無史さん:04/10/06 02:35:10
>>572
豊前説で卑弥呼の墓とする宇佐神宮は、未だに全国八幡の総本宮として
残存している。
一方の箸墓は?

卑弥呼の墓なら、子孫代々、大きく祭られているのでは?
しかも宇佐に祭られているている神はヒメ大神という女性の神で
応神天皇や神宮皇后よりも格上。道教事件では、大和朝廷がお伺いに
使者まで送っている。
ヤマトトトヒモモソヒメよりも名前も卑弥呼に近く、格も段違いに上。

583 :日本@名無史さん:04/10/06 02:39:01
>>579
それは何の反論も出来ない畿内説だろう。

>>580
否定はしてない。ただ、卑弥呼(+台与)の本像が天照で
投影像が神宮皇后といっているだけ。
そして、宇佐神宮では、ヒメ大神を中心にまつり、
その両脇に応神と神功皇后を祭っている。
箸墓に、これほどの一致はない。

584 :日本@名無史さん:04/10/06 02:44:44
>>581
四道将軍が派遣されたのは北陸道、東方十二道、山陽道、丹波路だろ。

585 :日本@名無史さん:04/10/06 02:46:49

箸墓のヤマトトトヒモモソヒメは、九州とは縁もゆかりもありません。



586 :日本@名無史さん:04/10/06 02:49:15
九州からは、別に山陽を必ずしも制覇しなくても、
瀬戸内海もしくは四国づたいに畿内を攻められるな。
あるいは、歴史上よくあるようにあとから山陽、丹波で
残党勢力が怒ったかもしれないし。

根拠としては脆弱すぎるな。

587 :日本@名無史さん:04/10/06 02:50:43
>>585
>箸墓のヤマトトトヒモモソヒメは、九州とは縁もゆかりもありません。

そりゃただの大和人だからね。
そして、卑弥呼とも神功皇后とも関係ない。

588 :日本@名無史さん:04/10/06 02:51:24
今までの流れからして、畿内説は提起された疑問に回答もせず、
話題をそらすばかり。
むしろ畿内説の方が、すべてを系統立てて論ずることが出来てないでは
ないですか?

589 :日本@名無史さん:04/10/06 02:56:20
記紀に関して言うと、ヤマトトビモモソヒメがちょうど卑弥呼に合致して
いるのかな。

当時、起こった倭の大乱で卑弥呼が他の国に対し箔をつける為に魏に遣使。
そして、一応、倭を邪馬台国を中心に安定させた。

しかし、ヤマトトビモモソヒメ(卑弥呼)は天皇家と血のつながりがなかった為、
後に王とは認められないとなり、天皇の系譜からはずされたという
可能性もあるかと思います。しかし、重要な史実なので、倭の大乱の
話はアマテラス神話になり、実際の年代的な事に関してはヤマトトビ
モモソヒメとして分けて書かれた可能性も否定はできません。

590 :日本@名無史さん:04/10/06 03:00:46
宇佐、中津をはじめ、北九州から大分にかけては、古くより
豊前・豊後といわれ、「とよのくに」ともいわれてきたし、今も
いわれている。

また、この地を走る鉄道は日豊本線。
太陽神をまつわる卑弥呼と台与からきたのか?
あるいは、豊の国と日向を結ぶからそう呼ぶのか?
日向は、豊の国からみて、日のある方向だったから
日向と呼ばれたのかもしれない。

591 :日本@名無史さん:04/10/06 03:01:42
ちなみに、アマテラスは伊勢神宮でしたっけ?大和のすぐ東隣にあるよ。

592 :日本@名無史さん:04/10/06 03:03:22
>>589
馬耳東風

593 :日本@名無史さん:04/10/06 03:05:27
>>591
道教事件では、伊勢神宮は無視され、宇佐が重んじられた。
なぜなら、天照は、東征後の畿内で創出された卑弥呼=ヒメ大神
の偶像だから。

594 :日本@名無史さん:04/10/06 03:05:54
ところで、台与をトヨと読むなら、邪馬台国をヤマトコクと呼んでも
よいのでは?

595 :日本@名無史さん:04/10/06 03:06:21
宇佐神功が本物の墓で、伊勢神宮が神棚か仏壇。

596 :日本@名無史さん:04/10/06 03:07:05
ヤマトトビモモソヒメが卑弥呼なわけないだろ。
卑弥呼はオオクニヌシと結婚してないぞ。


597 :日本@名無史さん:04/10/06 03:09:01
>>594
むしろヤマト国といわれたのであろう。
しかしだから畿内が邪馬台国と思うのは早計。
邪馬台国の分派が東征し、大和を名乗ったのだろう。

598 :日本@名無史さん:04/10/06 03:13:27
>>597

そこが、おかしい。
どうして、「国名」と「人名」の2箇所も誤字があるんだよ。

「邪馬壹(邪馬壱)」→「邪馬臺(邪馬台)」
「壹與(壱与)」→「臺與(台与)」

「壹→臺」となる論証が必要なのに、誰もしない。


599 :日本@名無史さん:04/10/06 03:17:47
「邪馬壹」「壹與」は、「ヤマイ」「イヨ」と読んでも、
九州説には、不都合はない。

東征説には不都合があるかも知れないが、また別問題。

「壹與(壱与)」→「臺與(台与)」とするなら、
「壹→臺」となる論証を、畿内説も九州説も行う義務がある。

600 :日本@名無史さん:04/10/06 08:31:27
書写ミスに過ぎないものを校合で正さない古田はペテン師

601 :ゴジンム:04/10/06 08:32:25
>>599
彼はいいことをいう。またA=Bとやるとまず外れる。
古代史を推理小説のやり方でやるイコール説は間違い。探偵小説式は駄目。
天照と卑弥呼と神功とモモソ姫は全部別人。

602 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/06 08:34:36
日本という国名は神武東征の際、
物部氏の領土であった日下(くさか)を
併呑したことから、この日下が日本という
国名の元になったのえあります。
ゆえに東征がなかったとしてしまうと、矛盾が
生じてしまうのです。だって今の国名は日本でしょw

603 :日本@名無史さん:04/10/06 09:16:03
>>602
池沼か、「日本」は中国に対する位置関係に由来することは
隋書の「日出る処の天子…」から明白だ。

604 :日本@名無史さん:04/10/06 10:32:40
>>603
思慮が浅いな。

605 :日本@名無史さん:04/10/06 10:35:41
>>604
池沼乙

606 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/06 11:04:16
ゆえに東征はあった。そしていつあったか?
考古学的にみても3世紀後半から4世紀前半に
かけて銅鐸が消失し、九州の銅剣文化にとって代わられてる
のが分かるでしょ?九州勢力が畿内に移動した証拠です。
各地の古墳が4世紀から前方後円墳で統一されてるのも
おそらくは畿内・吉備・出雲・九州の連合の証として
前方後円墳で統一したと考えれば筋が通します。

607 :日本@名無史さん:04/10/06 11:13:52
>>599
古田説も東遷諸説も畿内説もそれぞれ有利な材料
不利な材料を持っている。
自論に有利な材料をあげて、どうだ反論できないだろう
といばってみてもあまり意味はない。

現存する三国誌の写本には邪馬一とあり、
九州説に有利な材料であるのは事実。
一方、後漢書、隋書など複数の史書に邪馬台国とあり、
邪馬台国系列の写本が存在した可能性は否定しきれない。
これが現在の状況。
この状況を評価すれば、古田の詳細な研究もあり、
九州説に若干有利とみなされている。
ただそれだけのこと。

歴史では論証できないことはたくさんある。
論証できないという事実がなにかの決定的な証拠になるわけではない。
論証を迫るのはお門違い。はっきり言えば古田が広めた害悪。

608 :日本@名無史さん:04/10/06 12:24:07
>>607
>現存する三国誌の写本には邪馬一とあり、

「壹與(壱与)」は、魏志倭人伝以外では、どういう漢字になってる?
それとも、他の歴史書には「壹與(壱与)」の記載はないのかな?

資料を探しても全然無いんだけど。




609 :日本@名無史さん:04/10/06 12:41:00
>>599 「壹→臺」となる論証が必要なのに、誰もしない。
「壹→臺」となる論証を、畿内説も九州説も行う義務がある。
     ↑
日本人に非難めいたことを言われてもねえ。。。
書いたのも間違えた(?)のも、中国人だし。

当時の中国人に当時の日本の音がどう聞こえて、その音に、
どういう意図で特定の漢字を当てはめたのか?
なぜ史書により違うのか。書き間違えたのか、音が近かったのか?

全て中国人の方が推測できるんじゃないの?
誰か在日華僑の人いないの?

610 :日本@名無史さん:04/10/06 12:45:30
>>608
梁書には「復立卑彌呼宗女臺與爲王」とある。

611 :日本@名無史さん:04/10/06 12:50:24
北史にも「復立卑彌呼宗女臺與爲王」とある。

612 :日本@名無史さん:04/10/06 12:55:26
>>609
三国志の最古の刊本は南宋時代のもので
後漢書、宋書、梁書、北史、隋書などが成立するより遙か後世であることを知れば
どちらの蓋然性が高いか明らかだろう。
特に隋書の記述は決定的。
「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」

613 :日本@名無史さん:04/10/06 12:59:03
古田や安本などが著述業で成功しようと
素人を妄言で釣った害悪は大きい。

614 :日本@名無史さん:04/10/06 13:06:01
>>612
有難う。で、それぞれ
「邪靡堆」と「邪馬臺」は、どういう音なのですか?


615 :日本@名無史さん:04/10/06 13:14:47
>>610-612

だから、どうして、「国名」と「人名」の2箇所も誤字があるんだよ。

「邪馬壹(邪馬壱)」→「邪馬臺(邪馬台)」
「壹與(壱与)」→「臺與(台与)」

どちらか、一方の間違いなら納得できるが。
どうして学者は誰も不思議に思わないのか?
後世の、中国史書の、校合間違いとも考えられるだろ。

「邪馬臺」が「やまと」と読めるなんて、仮説の上の仮説にすぎない。

616 :日本@名無史さん:04/10/06 13:48:54
>>615「邪馬臺」が「やまと」と読めるなんて、仮説の上の
    仮説にすぎない。

って、だから中国人に聞いてるんじゃない。
邪馬臺」がどう発音されるのか。

617 :日本@名無史さん:04/10/06 13:55:21
>>615
はぁ?近接した部分に書かれた固有名詞の当て字だから
間違うなら一緒の方が自然だろ。

隋書の刊本では帝紀は全て倭と書かれているのに、東夷伝では全てイ妥となっている。

中国人がヤマトを邪靡堆と呼んだことは確実で、邪馬臺とも音がほぼ等しいんだろ。

618 :日本@名無史さん:04/10/06 15:06:03
ところで、九州説論者は、邪馬台国を宇佐神宮と絡めて語るやつがいるが、
宇佐神宮の歴史なんて7世紀までしか遡れない。

とても卑弥呼の時代と関係してたとは思えない。
日本書記に出てくる人名、風格が、「似てる」ってだけしか根拠がないんだから笑う。

「邪馬臺」を「やまと」と読もうという試みも、同じ次元。

619 :日本@名無史さん:04/10/06 17:27:28
学会は畿内説でほぼ決着してるならば、
畿内説の人は卑弥呼の墓をどこに比定してるの?


620 :日本@名無史さん:04/10/06 17:32:03
箸墓

621 :日本@名無史さん:04/10/06 17:34:41
だったら、早く掘れよ。
天皇家とも関係ないんだからOKだろ?

622 :日本@名無史さん:04/10/06 17:40:34
>>621
池沼か、関係大ありでヤマトトトヒモモソヒメの墓だ。

623 :日本@名無史さん:04/10/06 17:41:09
>>621
宮内庁所管と書いてますが・・・
http://www2.begin.or.jp/sakura/hasihaka.htm


624 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/06 17:46:50
皆さんこんばんわ。これ見てください。↓
【三輪山】「箸墓=卑弥呼の墓」は本当か?【巻向】
>>http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1044029517/
これって古墳じゃなくて神籬っていうのか、天体観測宗教儀式用みたいですね。
>>http://yamataikoku.hp.infoseek.co.jp/



625 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/06 18:51:11
箸墓は限界でも3世紀後半までしか
遡れないというのが通説らしいので、
卑弥呼ではないですよ。可能性があるとしたら
イヨのほうですね。280年前後に東遷が
完了しており、そして大和に箸墓が作られたのでしょう。
3世紀の畿内の遺跡から鏡が出てくるのもこれで
説明がつきます。それにしても黒岩重吾さんの本は
読みづらいですねw

626 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/06 19:06:36
箸墓は布留0式土器時代といわれます。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2091/makimuku/makimuku.html

「1998年の調査で報道が熱心だったのは、布留0式土器がみつかり築造年代が布留0期(
280年頃)であることが確定したというものでしたが、この事実自体は95年に解っているこ
とであり目新しいものではありません。しかし、後円部からでたことで前方部と後円部が
ほぼ同時期に作られた可能性が高まったことは重要なことです。というのは、箸中山古
墳を卑弥呼の墓であると思いたい方々の中に箸墓円墳説を唱え前方部は後で作られた
と主張される方がおられるためです。この発見によって箸墓円墳説はかなり否定的に
なったと見ていいでしょう。また、2000年の調査でやはり周濠(状遺構)が確認されそこか
らも布留0式土器が出土したことから、築造当時から前方後円形であったことはほぼ疑
う余地がなくなったと思われます」
しかし、重要なことは土器による時代表示は変数であり定数でないということです。
ですから、いわゆる、参考資料としてしか意味がないってことですね。


627 :日本@名無史さん:04/10/06 19:11:01
>>625
そんなことはなく、250年頃で問題ない。
黒岩重吾は電波だし面白くない。

3)古墳の成立
箸墓古墳の築造終了を廻間III式1段階の中にあるとすると、248年前後に死亡したとされる倭の女王「卑弥呼」と極めて近い時期を想定できることになる。
箸墓古墳に卑弥呼が眠っている可能性が高くなることは間違いない。三角縁神獣鏡は廻間II式期中頃以前の墳墓から発見されてはいない。

以上の暦年代と編年観を前提にすれば、三世紀前半期には、すでに九州島から関東地域にかけて40mから60mクラスの前方後円墳や前方後方墳が数多く存在することになる。
例えば千葉県木更津市の高部古墳群や市原市の神門古墳群などは三世紀前葉を中心とした古墳群となる。三世紀を古墳時代と考える方向性がますます強くなっていくであろう。

最後に奈良県のホケノ山古墳であるが、配置された東海系加飾壺から、廻間II式2段階に造営が終了している墳墓と想定することができた。
すると239年に卑弥呼が魏に使いを派遣する以前の墳墓である可能性が高いということなる。
http://agatazin.jp/niwazin/sji/2003-11/2003-11.html

628 :シャクシャインに乾杯:04/10/06 19:11:18
問題 ペリー来航は西暦何年に起きたか?
http://nakagawamasaharu.hp.infoseek.co.jp/index.html

629 :日本@名無史さん:04/10/06 21:01:48

欠史八代=倭の五王

630 :日本@名無史さん:04/10/06 21:02:39
デジタル邪馬台国とか言うホームページ面白いです。
上のほうにurlがありますので行ってやってください。

原資料に東とあった邪馬台国の方角を陳寿が南に
修正したという説を結構マジに言っています。
ついでに翰苑の耶馬嘉国の方角も東に間違いたので
南に修正してあげたそうです。陳寿って親切ですね。
まあ、ジョークだと思いますので大いに笑ってあげてください。


631 :日本@名無史さん:04/10/06 21:10:20
箸墓古墳は、どうして最古って言われてるの?

前方後円墳は”円墳”+”方墳”の組み合わせだから、
比較的新しい様式のはずでは?

632 :日本@名無史さん:04/10/06 21:38:30
>>631
はぁ? 最古の巨大前方後円墳

633 :日本@名無史さん:04/10/06 21:55:24
>>632

最古の「前方後円墳」なんだよね?
円墳、方墳は、もっと古代からあるんだよね?
で、卑弥呼の墓は「円墳」なんでしょ?

なんで、箸墓が卑弥呼の墓につながるのかさっぱりわかりましぇん。

634 :日本@名無史さん:04/10/06 22:21:55
>>633
箸墓は後世の前方後円墳とは形状が異なっている。
巨大な円墳に低めの突起が付いたような形。

635 :日本@名無史さん:04/10/06 22:57:23
>>618
>宇佐神宮の歴史なんて7世紀までしか遡れない。
宇佐神宮が建立されたのが7世紀だけで、ヒメ大神はそれ以前から
その地で信仰されていた神。そして、それ以前より、宇佐は広大な
土地をもつ地方勢力であった。
宇佐には3世紀後半には、九州最古の前方後円墳、赤塚古墳をはじめ
とする古墳 群がある。
よく知りもしないのに適当なことを書くな。

636 :日本@名無史さん:04/10/06 22:58:10
卑弥呼の墓に突起がついてるという記述は魏志倭人伝にはありません。


637 :日本@名無史さん:04/10/06 22:58:59
「爪の皮は二枚剥がれる」
ということを知らない愚か者が多いな。

「歴史は繰り返される」という意味とは違うぞ。

君達も、もう少し人生経験を積みたまえ。

さすれば、知識だけでは感じえない、
経験の奥深さを会得できるであろう。

638 :日本@名無史さん:04/10/06 23:02:47
>>636
基地外はまだいるのか

639 :日本@名無史さん:04/10/06 23:05:31
>>637
同意。
畿内から関東に遷都したことはあっても、
九州から畿内に遷都があった歴史は無い。

640 :日本@名無史さん:04/10/06 23:10:47
>>635

比売大神は、天津神なんだから、人間より威張ってるのは当然。
なんで卑弥呼に結びつくんだ?

641 :日本@名無史さん:04/10/06 23:30:47
「二礼、四拍手、一礼」。これが宇佐神宮での拝礼の作法だが、
この拝礼作法があるのは全国で出雲大社と宇佐神宮だけである。

宇佐神宮は、出雲系(吉備)の豪族を祀ったとみるのが妥当。

642 :日本@名無史さん:04/10/06 23:58:32
知っていますか?煙草による化学物質過敏症。
http://quc.fc2web.com/t_allergy/ BCC

あなたは知っていますか?
タバコによる化学物質過敏症の存在を。
何気ない一服。
その煙で命を落としてしまう人達が居ます。
タバコによる化学物質過敏症は命に関わる病気なのです。

化学物質過敏症とは、中毒よりもはるかに微量の化学物質でも長期間にわたって吸い込んだり、一度に大量に暴露することで症状が出てくる状態です。
一度発症すると、極めて微量な化学物質に接触しただけで、症状が出てしまいます。
症状は個人個人によって違い、特異的な症状というのはありません。
タバコによる化学物質過敏症とは、タバコに含まれる成分に対して、
体が化学物質過敏症の症状を起こしてしまう病気です。

私の友人は、主にニコチンに対して症状を引き起こしてしまうようです。
ニコチンは肌からも吸収されるため、タバコに触るだけでも発疹等の症状が出てしまいます。

しかし、知名度が低いため、タバコ嫌いと間違われやすく、
「煙草が嫌いだから過敏に反応しているだけではないのか」「精神的なものではないのか」
「煙くらい我慢すればいいじゃないか」「たかが煙で大げさな!」という認識をされがちです。
タバコが嫌いなだけなら我慢すればいいのかもしれません。
ですが、タバコによる化学物質過敏症は、タバコ嫌いとは違います。
タバコによる化学物質過敏症は、病気なのです。
我慢するしないの問題ではありません。
我慢していたら死んでしまいます

643 :日本@名無史さん:04/10/07 00:20:32
滅亡した九州説って哀れ

644 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/07 00:24:36
遷都ではなく合併だということが
まだわからないのですか?国譲りの
神話にも反映されてるでしょ。
畿内・吉備・出雲・九州が集まって
合併することで合意したのですよ。


645 :日本@名無史さん:04/10/07 00:52:29
>>564
>>どこにも証拠のない東遷説を唱える以上、お前の方に説明責任があると思うが。
>はあ?記紀に書かれているだろう。しかも、天照=卑弥呼の後に。
>むしろ、それを否定する根拠をのべよ。
記紀に書かれている神武東征は日向を出発しているだろ。筑紫から出発している
訳ではない。お前は西都説なのか?
卑弥呼=アマテラスもねえ。安易に、神様を実在の人物にしてしまうのはどうか
と思うぞ。
なんで、神武東征みたいな神話的な記述で、東遷説を強弁できるのか、むしろ
聞きたい位だ。
神武は日向を出発して瀬戸内海航路を通るあたりは、航路にある寄港地を順々に
書いているだけ。
神武一行が日下の敗戦後、紀の国に行ったあたりからは、割と信憑性があるように
思う。もとは葛城王朝の始祖王が紀の国、宇陀を経由して、大和盆地を征服した伝承
だったのかもしれない。

646 :日本@名無史さん:04/10/07 01:13:53
なぜ記紀の編纂者は、神武が橿原で即位する前に、出雲、日向の記述を
持ってきたのだろうか? 吉備や北陸、東海ではなく。
そこに、神武東征が記紀に書かれた意味が、隠されているように思う。

647 :日本@名無史さん:04/10/07 01:24:22
>>645
結局、東遷説とか言っても、記紀の神武東征しか根拠がないんだな。

648 :日本@名無史さん:04/10/07 01:36:55
>>645
「記紀に神武東征が書かれているから、北九州勢力の東遷はあった」って、
幼稚な理屈だな。もっと積極的根拠を示せよ。
同じく記紀に書かれている欠史八代や、景行西征については、全く無視してる
し。

649 :日本@名無史さん:04/10/07 01:50:54
箸墓のことになると近畿説の連中が
急に元気が無くなるように見えるんだが
気のせい?


650 :日本@名無史さん:04/10/07 02:20:01
欠史八代の天皇は、みんな吉備の神社に祀られてるから、
吉備地方の豪族王朝が組み込まれたものだろうな。

651 :日本@名無史さん:04/10/07 02:52:11
>>649
もうかなり前にカシケン自身が否定してただろ。

652 :日本@名無史さん:04/10/07 03:16:27
>>650
欠史八代の漢風シ号って、淡海三船も決めるのが大変だったろうな。
ろくに伝承が無いんだから。
それとも、記紀編纂時に抹殺された豪族らの伝承の中には、何か欠史八代の
事が書かれていたのか?都合が悪いから、敢えて記紀には書かなかった?

孝昭・孝安・孝霊・孝元って、やたら「孝」の字がつく天皇が続くけど、
ひとまとまり、みたいなイメージがあったのか? もっと言えば、吉備系
の天皇たちではなかったのか?
孝昭の前のイ徳は、縁起の悪い「徳」の字が付くし、この時に吉備勢力
の畿内侵攻があったのでは…

と妄想してみました。

653 :日本@名無史さん:04/10/07 03:38:07
>>652
伊香色謎命って、孝元の妃でありながら、開化の妃になって、崇神を生んでる
よな。
孝元→開化の時にも、なんらかの政争があったのかもしれない。
開化の時に葛城地方を離れ、奈良県北部に移っているし。

654 :日本@名無史さん:04/10/07 07:32:07
>>640
>比売大神は、天津神なんだから、人間より威張ってるのは当然。
比売大神は天津神との記録はないはず。おそらく記紀では天照に
変えられてしまったからだろう。

もし違うなら、ただの地方神ということになるが、その地方神を
皇族よりも上に祀るかと問うている。
しかも、神社に祭られた以上、応神も神功も神となったわけだ。
神となっても、地方神よりも格下とされるのか?
お稲荷さんの下に祀られるか?

ここまで来るとなんくせだな。

655 :日本@名無史さん:04/10/07 07:36:09
>>645
>なんで、神武東征みたいな神話的な記述で、東遷説を強弁できるのか、むしろ
>聞きたい位だ。

>もとは葛城王朝の始祖王が紀の国、宇陀を経由して、大和盆地を征服した伝承
>だったのかもしれない。


畿内説は、都合のよい記録は存分に主張するのに、都合が悪いと
ばっさり切り捨てるか、わざわざ記録に書かれている字を強引に
すりかえるばかり。

656 :日本@名無史さん:04/10/07 07:55:34
>>641
>宇佐神宮は、出雲系(吉備)の豪族を祀ったとみるのが妥当。

おいおい、根拠もなくいきなり決め付けか?
まあ、両社とも天皇の祖先だったからという可能性があるからかも
しれないし、強引に言えば、あるいは、宇佐から出雲に移った可能性も
あるということにもなろう。
とにかく、何か特別な意味があるのだとは思うが、根拠なく決め付ける
のは無謀。

657 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/07 09:52:31
現在の天皇家の祖先は百済の王の可能性が高そうですね。
おそらく名前に神がつく天皇が王朝の始祖なので、
応神天皇が現在の天皇家の始祖でしょう。邪馬台国東遷王朝である
崇神王朝はあっさり断絶していますwあたかも鎌倉幕府の
源氏のようにね。応神天皇って百済王の末裔っぽいですよね。
継体天皇は、薄くではありますが、応神と血のつながりが
あるのではと考えます。

658 :日本@名無史さん:04/10/07 10:19:30
>>652

欠史八代の時に、実際の東征があったんだよ。
東征の記録は、神武に投影されたから、
欠史八代は、記録をかけなかったのさ。
カラクリがわかれば簡単な話だね。


659 :日本@名無史さん:04/10/07 10:23:04
また決め付けかよ。

660 :日本@名無史さん:04/10/07 10:24:02
>>657
もしそうなら朝鮮正史「三国史記」などに書いてあるだろ、でもそんな記述はない。
逆に倭人が新羅4代王になった話が書かれている。

漢風諡号は古事記・日本書紀より後の、奈良時代に付けられたのも知らないのか。

661 :日本@名無史さん:04/10/07 10:31:03
現在まで生き残っている東遷説って誰の説があるの。
「俺の説」不可

662 :日本@名無史さん:04/10/07 10:37:34
欠史八代

綏靖天皇 神沼河耳(かむぬなかはみみ)命←「みみ」が付く名前は投馬国の首長
安寧天皇 師木津日子玉手見(しきつひこたまでみ)命←「しきつひこ=し吉備こ」
懿徳天皇 大倭日子鉏友(おほやまとひこすきとも)命←「おほやまと」一族
孝昭天皇 御眞津日子詞惠志泥(みまつひこかえしね)命←「かえしね=根の国を返せ」
孝安天皇 大倭帯日子国神押人(おほやまとたらしひこくにおしびと)命←「おほやまと」一族
孝霊天皇 大倭根子日子賦斗邇(おほやまとねこひこふとこ)命←「ねこひこ=根の国の彦」
孝元天皇 大倭根子日子国玖流(おほやまとくにくる)命←「くにくる」=国できる
開化天皇 若倭根子日子大毘毘(わかやまとねこひこおおびび)命←「若大和+根の国」

天皇の名前に、国譲りの記録がちゃんと残ってる。




663 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/07 11:06:44
では応神は九州の豪族でしょ。
神功皇后は、万世一系を守るために
創作された架空の人物。仲哀天皇は
殺されている可能性が高いですね。
応神王朝が征服王朝だとする根拠は
仲哀の子供を応神が殺して王位についているからです。

664 :日本@名無史さん:04/10/07 11:52:39
王位、皇位を継ぐために、身内で争うことは、古今東西を
問わず珍しくなかろう。

665 :日本@名無史さん:04/10/07 11:54:36
>>662
だとしたら、欠史八代は、各国の王族を無理やり持ってきて
当てはめただけなのか?

666 :日本@名無史さん:04/10/07 12:24:39
>>663
神功皇后を抹殺したがるのは朝鮮人の歴史捏造

667 :日本@名無史さん:04/10/07 12:39:17
実在したにしても、身ごもったまま戦場に出かけるなんて
話など、かなり創作されているだろうな。

668 :日本@名無史さん:04/10/07 13:53:40
なんかさ、百済の王族を日本に派遣するとき
王様の側室?で臨月の女を一緒につけたって話があったよね。
で、生まれた子がシマ王でブネイ王。
これが神功皇后伝説に反映されてないか?


669 :日本@名無史さん:04/10/07 16:11:04
北九州の「甘木」周辺と畿内の「大和」周辺の地名が一致するというけど、
北九州には、「大宰府」が置かれたわけだから、
その時代に、畿内大和と同じ地名が付けられたと思うんだけど。
つまり、北九州から畿内に人の移動は無かった。

どう?


670 :日本@名無史さん:04/10/07 17:26:36
>>668
百済の王族は日本への人質だ。歪曲するな。
武寧王の墓誌が日本書紀引用の百済系史料と一致していたことで話題になったが
王冠には糸魚川特産のヒスイ勾玉が付いているし、木棺は日本製のコウヤマキと
日本との関係が非常に密接だ。

671 :日本@名無史さん:04/10/07 17:58:58
>>670

>王冠には糸魚川特産のヒスイ勾玉が付いているし、木棺は日本製のコウヤマキと
>日本との関係が非常に密接だ。

日本から輸入しただけだろ。


672 :日本@名無史さん:04/10/07 18:12:38
>>671
ヒスイ勾玉は日本での権威を示すもので
半島では日本の勢力下にあった新羅・百済・任那の領域でも多く出土するが
高句麗の領域では殆ど出土しない。

673 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/07 18:24:57
考古学板でみたのですが、桃太郎だか浦島太郎だかと
邪馬台国が関連しあってて、畿内説を主張している
本が売れているそうですw

674 :日本@名無史さん:04/10/07 18:25:17
>>672
ぷぷぷ
それを主張するなら、畿内は、九州の支配下にあったことになるよ。
九州阿蘇石が、畿内の古墳の舟形石棺に使われてるんだから。
長持山、茶臼山とか。


675 :日本@名無史さん:04/10/07 18:53:15
>>674
はぁ?同じ勢力圏にあったと見ればいいだろ。
百済・新羅・任那は倭国の勢力圏。

676 :日本@名無史さん:04/10/07 18:55:01
>>673
考古学板にまで遠征して恥を晒すなよ。

677 :ゴジンム:04/10/07 20:41:25
>>657 >>663
pupu!! ウアッハッハw!


678 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/07 22:38:12
公務員試験落ちてしまいました・・ぐすん。
古代史関連の就職先とかないですか?
スレチガイかもしれませんがww

679 :日本@名無史さん:04/10/07 23:04:41
民明書房

680 :Love Korea ◆LOVe0g6KBs :04/10/07 23:34:30
というか、なぜ日本書紀は年齢を捏造しているのですか?
後ろめたいのですね。

681 :Love Korea ◆LOVe0g6KBs :04/10/07 23:36:13
邪馬台国は大百済帝國になったとです。
そゆこと。ハン板がダウンです。
記念真紀子です。

682 :日本@名無史さん:04/10/08 00:18:17
なんで九州説ってアマチュアに人気ですか?


683 :Love Korea ◆LOVe0g6KBs :04/10/08 00:24:05
>>682
プロうざい。そゆこと。
それと「幻の五世紀」を合理的に説明できるから。
アンド、韓日友好マンセー!

684 :日本@名無史さん:04/10/08 00:44:03
「欠史八代=葛城王朝」で考えてみました。

葛城王朝とは大和川、紀ノ川水系を押さえた有力豪族で、畿内周辺地域に影響力を
行使出来た、最初の大王だったのではないか。
葛城王は銅鐸を各地に配り、祭祀王として絶大な権力を保持していた。
では、マキムクを築いた三輪王朝とは?

私は、奈良県南東部・三輪山付近の豪族が、淀川水系豪族と同盟し、県西部・葛城王
から権力を奪取したのではないかと思っている。開化の頃か。
次代の崇神の時、吉備、越、東海、丹波勢力と大同団結し、初期ヤマト政権となる。
彼らは前王朝の正統なる後継であることを主張(四道将軍の記述)。
王たちは、葛城王の忘れ形見・王女トトヒモモソ媛を女王として共立した。

685 :日本@名無史さん:04/10/08 00:57:08
>>646
>なぜ記紀の編纂者は、神武が橿原で即位する前に、出雲、日向の記述を
>持ってきたのだろうか?
そうだよな。おそらくは、大和朝廷の前身であった筈の、畿内(もしくは筑紫)の神話
を書かなかったのは、何故なんだろう?

686 :日本@名無史さん:04/10/08 01:08:57
>>685
つまり、ヤマト朝廷の領域が拡大するにつれて、神話世界も拡大された。
もともとは、畿内(もしくは筑紫)の地方神話であったものを、
倭国全体の神話として、ピザの生地のように引き伸ばしたのではないか。
国譲りも、天孫降臨も、本来は畿内(もしくは筑紫)地域の局所的な伝承
であった。

687 :日本@名無史さん:04/10/08 01:34:50
>>686
日向に天孫降臨させてしまったため、畿内に初代天皇を持ってくる必要が生じ、
そのために作られたのが神武東征神話なんだよ。

688 :日本@名無史さん:04/10/08 02:27:17
なぜ日向なんだ? 
四国でも佐渡でもよかったろうに。

689 :日本@名無史さん:04/10/08 05:03:54
高天が原ってどうせ高麗の原をもじったんだろ。ばればれ。
神になれるやつはそっちからやって来たんだよ。

冬ソナブームで困ってるやつらがいる。
だって日本庶民が韓国語勉強したらばれてしまうこと多いもんな。

おっと、古代韓語の証拠がない、なんてのは無しよ。
日本だってやまととかやまだいとかたりしほことかみみなりとかおほきみとか
今の語感であてずっぽやってるもんなー。

690 :日本@名無史さん:04/10/08 08:30:57
>>688
魏略逸文によると、倭国の使者は呉の太伯の末裔と自称しており
黒潮ルートで来たら南九州になるのは自然。

691 :日本@名無史さん:04/10/08 08:34:06
チョンによる日本関係の歴史捏造を知るには、この文庫本を見れ

小学館文庫 韓国人の日本偽史 / 日本人はビックリ!
■著者名: 著/野平俊水 ■ISBNコード: 4094027165
■判型/頁: 文庫 /224頁 ■定価: 本体 476円+税 ■発売日: 2002/04/05

なぜ韓国では日本の歴史が歪曲されて教えられているのか。韓国で信じられている「日本の偽史」をユーモラスに紹介する。

 「古代の天皇は韓国人だった」「日本海は韓国海だった」「Koreaという国名は日本の陰謀」「高天原は韓国にあった」「『くだらない』は『百済ない』だった」「法隆寺の金堂壁画の作者は韓国人」「万葉集は韓国語で書かれた」・・・・。
“最大の反日国にして最大の親日国”の韓国で一般に伝わる日本史の常識の中には、歪曲され、意図的に捏造された「偽史」が多くみられる。韓国TVにレギュラー出演し、「最も有名な日本人」として人気を博す大学講師の著者が、
韓国人の日本に対する優越思想がいかに歴史を歪めてきたかをユーモラスに紹介する。韓国人が信じたい「日本史」に、日本人はただア然!
http://www.s-book.com/plsql/sbc_book?isbn=4094027165

692 :日本@名無史さん:04/10/08 09:43:28
>>690
別に黒潮でつくのは南九州だけではない。
瀬戸内海沿岸だって可能性はあるし、東海地方や三陸沖だって
ありうる。
根拠なさ杉だろう。

693 :日本@名無史さん:04/10/08 10:21:05
>>692
アフォか、漂流ではなく島嶼を伝った計画的な航海を考えろ

694 :日本@名無史さん:04/10/08 11:02:15
>>651
橿研はどこに比定してるの?


695 :日本@名無史さん:04/10/08 11:18:33
>>693
お前こそアフォか?
瀬戸内海沿岸、東海地方、三陸沖いずれも沿岸伝いに
航海可能だろうが。

696 :25歳♂投馬国王の子孫:04/10/08 11:21:10
桃太郎と邪馬台国、こんな本で金儲けしてる人も
いますが、信憑性はあるのでしょうか?誰か読んだ方
いらっしゃいますか?

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061497375/250-8170739-8072212#product-details

697 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/08 12:09:58
桃太郎と邪馬台国という本ですが考古学板でも御紹介しましたが読みました。
桃太郎については第3章「桃太郎」と吉備国平定伝承があり、その細目は
「帝国主義桃太郎」
気比の桃太郎
吉備津宮と細川幽斎
天皇・桃太郎・鬼の基本構造
桃太郎の尾に胎児の特質
桃太郎の原郷はどこか
なぜ、「犬」「猿」「雉」なのか
「作者は幽斎」と想定すると
大吉備津彦の鬼退治
「丑寅岬はおそろしや」
「犬飼武」と6世紀の犬養部
弥生時代の「聖地」の痕跡
吉備津宮の神官家「賀陽氏」の正体
なぜ備前・備中・備後に分かたれたか
「鬼の温羅は吉備西部の勢力の象徴」
播磨が吉備平定の戸口となった
邪馬台国vs吉備国の対立の反映
・・・以上の通りです。
わたしはむしろ興味があるのは
第2章邪馬台国vs吉備国、そして丹後半島---のほうですが
その細目は
北九州の国々-紀元前一世紀頃
倭国大乱、そして卑弥呼登場
「生口百六十人」の謎
邪馬台国の北部九州統制策
「投馬国」は出雲国だった
「狗奴国」の所在地を再検討する
邪馬台国が「クナ」にこめた意味とは
焦点は丹後半島と吉備国


698 :日本@名無史さん:04/10/08 16:58:04
>>694

奈良新聞 2003年1月9日

 県立橿原考古学研究所は、"卑弥呼の墓,,とも呼ばれている大型前方後円墳
「箸墓古墳」(桜井市箸中)の周濠(しゅごう)部で行った発掘調査の報告書を発行した。
過去の調査データを加えて周濠は二重だったと想定、復元図を掲載したほか、
墳丘の規模がこれまでの推定より一回り大きくなることを明らかにした。

 周濠やふき石が確認されたのは平成6年12月から行われた第7次調査で、
前方部北側の内濠は、幅10メートル以上、深さ2メートル以上と分かった。
築造時期の解明につながる土器も出土。

 報告書では、内濠の外側に馬蹄形の中堤を想定。
そこから広がる落ち込みを外濠と判断し、墳丘の周囲に内濠、馬蹄形の中堤、
外濠が順にめぐる復元図を作製した。

 墳丘の推定規模は全長約290メートルで、これまでの推定より約14メートル大きい。
後円部の直径は約160メートル前方部の長さは約135メートルとなる。

 くびれ部も両側に15メートルほどの拡張がみられ、想定よりも太めの墳形と分かった。

 さらに、出土した土器の形式から、築造時期を260-280年ごろと推定。
被葬者について、248年ごろに死んだ女王卑弥呼や続いて即位した女王壹与ではなく、
その次に擁立された男王だった可能性を示した。

 このほか、第9次調査(平成8年)と第10次調査(同9年)の調査報告も掲載している。
橿原市畝傍町の同研究所付属博物館内の売店で販売中。

699 :日本@名無史さん:04/10/08 19:09:45

邪馬台国=環濠集落遺跡が発見されてないのに、墓だけあっても証拠にならない。
墓じゃないかも知れないのだし。

700 :日本@名無史さん:04/10/08 19:21:04
日本書紀が書かれた720年頃、すでに箸墓古墳は、その由緒が忘れられている。
箸墓古墳は、古く見積もっても280年頃の造営。
日本書記に記録されるまでおよそ、400年開きがあるが、
はたして、国家の女王の墓が、400年で忘れられるものなのか?
もともと、女王の墓ではないということ。

ヤマトトトホモモソヒメも、架空の人物だろう。
なぜなら、夫は、ヘビの化身のオオモノヌシだし、
モモソヒメの父親もまた架空の天皇だからだ。
モモソヒメにまつわるエピソードはすべて、後世の創作というのが、現在の定説。

701 :日本@名無史さん:04/10/08 19:55:15
畿内大和地方では、大規模な環濠集落が見つかっていない。
だから、邪馬台国畿内説では、昔は、魏志倭人伝の環濠集落描写を疑っていた。

しかし、吉野ヶ里が発見されてから、魏志倭人伝の信憑性が高くなり、
畿内説は考古学的にも窮地に立っている。
吉野ヶ里を上回る環濠集落を畿内で発見しなくてはならなくなったからだ。


702 :日本@名無史さん:04/10/08 20:12:37
>>701
竹内環濠集落でOK

703 :日本@名無史さん:04/10/08 20:24:52
>>700
歴史時代である神武以降を架空にしたがるのは
共産主義者の歴史破壊に洗脳されている。

704 :日本@名無史さん:04/10/08 20:27:14
>>698
つまり橿研は箸墓は新しすぎるって見解なのね。
ならば、どこだと思ってるんだろ。
箸墓がダメだとしたら次の候補は?
径百余歩、殉葬奴卑百余人・・・





705 :日本@名無史さん:04/10/08 20:34:25
>>704
年輪年代やAMS年代を考慮せずに
旧来の年代観に引きずられている香具師の発想だろ。
今では箸墓を卑弥呼の年代と見るのが主流だ

706 :日本@名無史さん:04/10/08 20:37:15
前方後方墳研究の第一人者・赤塚氏の年代観

3)古墳の成立
箸墓古墳の築造終了を廻間III式1段階の中にあるとすると、248年前後に死亡したとされる倭の女王「卑弥呼」と極めて近い時期を想定できることになる。
箸墓古墳に卑弥呼が眠っている可能性が高くなることは間違いない。三角縁神獣鏡は廻間II式期中頃以前の墳墓から発見されてはいない。
以上の暦年代と編年観を前提にすれば、三世紀前半期には、すでに九州島から関東地域にかけて40mから60mクラスの前方後円墳や前方後方墳が数多く存在することになる。
例えば千葉県木更津市の高部古墳群や市原市の神門古墳群などは三世紀前葉を中心とした古墳群となる。三世紀を古墳時代と考える方向性がますます強くなっていくであろう。
最後に奈良県のホケノ山古墳であるが、配置された東海系加飾壺から、廻間II式2段階に造営が終了している墳墓と想定することができた。
すると239年に卑弥呼が魏に使いを派遣する以前の墳墓である可能性が高いということなる。
http://agatazin.jp/niwazin/sji/2003-11/2003-11.html

707 :日本@名無史さん:04/10/08 20:53:30
古墳の年代をいくら定めても、特定の個人の墓につながる証拠にはならない。
不毛だな。

708 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/08 21:26:11
http://agatazin.jp/niwazin/sji/2003-11/2003-11.html
前方後円墳だけど鏡のないのがあったり、前方後方墳でも鏡がたくさんあったりしている。
前方後方墳の方が旧家だとか、実力者だったのかなー。いずれにせよ鏡は邪馬台国時代
だろうな。

709 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/08 23:04:43
塞曹F史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りて
これに告喩す。・・・これって
神奈備さんで
>>卑弥呼は天孫降臨関係では万幡姫の位置に来る。卑弥呼のヒミという言葉は太陽崇拝
という意味ととれる。そうすると卑弥弓呼にもその意味がある。男性の太陽神はホアカリ
であり、これを祀るのは香語山である。大和三山は太陽の射す東方から香久山、
耳成山、畝傍山となっている・・・として・・・池坐朝霧黄幡比賣神社
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=34.33.45.068&el=135.48.38.506&la=1&fi=1&skey=%cb%a1%b5%ae%bb%fb&sc=5
を照会しているが、黄幢=黄幡とすればこの場所はまさに国の中央だ。いい線だと思う。

710 :日本@名無史さん:04/10/08 23:05:11
魏志倭人伝に吉備の記述が無いのはおかしい。
投馬国が、吉備や出雲くらいの強大な国なら、
地名に名前が残るはず。

711 :日本@名無史さん:04/10/08 23:05:49
>>700
>ヤマトトトホモモソヒメも、架空の人物だろう。
>なぜなら、夫は、ヘビの化身のオオモノヌシだし、
アホですか。神婚という言葉を知りませんか?

>モモソヒメの父親もまた架空の天皇だからだ。
欠史八代を完全否定するのは、戦前教育の反動だろう。
欠史、つまり敢えて偽りの伝承を記さなかった記紀編纂者の態度に、私はむしろ
出来るだけ史実を語ろうという、歴史家としての謙虚な態度を感じるが。
当時の権力者におもねる事は、当然あったとしても。

>モモソヒメにまつわるエピソードはすべて、後世の創作というのが、現在の定説。
ふーん。崇神紀を否定するわけね。じゃあ、記紀の記述で信憑性があるのは、
どの天皇からですか?

712 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/08 23:13:34
香具山・香語山は海部・尾張の祖だ。出雲も国譲りで責任を取らされている。
するといい子になったのは物部、天孫か。これらは同じ穴の狢だもんナー。

713 :日本@名無史さん:04/10/08 23:16:14
>>701
無知にも程がある。
唐古・鍵遺跡や池上・曽根遺跡を知らないのか?
九州説の人って、本当に古代史が好きなの?

714 :日本@名無史さん:04/10/08 23:32:45
>>692
お前は、大隅半島南端の上野原遺跡を知らないみたいだな。
9500年前の遺跡だ。

715 :日本@名無史さん:04/10/08 23:37:34
環濠集落というだけなら竹之内の環濠集落なんてものもあるな。
中世〜戦国ぐらいだけど。

いや、だからどうということはないんだけど・・・・3ヘーぐらい頂戴。

716 :日本@名無史さん:04/10/09 00:01:49
>>713
邪馬台国とは時代が合わないぞ。

717 :日本@名無史さん:04/10/09 00:12:10
>>716
環濠集落は卑弥呼より前の時代だ。
卑弥呼の時代の西日本は統一に向かって、環濠集落は影を潜めている。

中国やヨーロッパでは、城壁都市の類は歴史時代を通じてみられるが
日本では弥生と室町戦国時代に限定して多く見られる。

718 :日本@名無史さん:04/10/09 00:13:34
>>713
考古学に不勉強だから九州説に留まれるのだろう。

719 :日本@名無史さん:04/10/09 00:18:17
唐古・鍵遺跡って、あのヘンテコな渦巻き飾りの楼閣を復元したところだね。

畿内の考古学者は、正気とは思えんな。
青森の三内丸山の6本柱は、慎重すぎるくらいの控えめな復元がされてるのに。

720 :日本@名無史さん:04/10/09 01:36:54
ttp://homepage1.nifty.com/tadahiko/NANI/012-KARAKO.HTML
ぎゃははははは。

なんじゃこのチョビヒゲみたいなのは?
畿内の学者は、どうしてクレームつけないのか不思議だな。

721 :日本@名無史さん:04/10/09 02:01:32
>>720
ハクション大魔王かよw

畿内説って学会を席巻してると言う割に、
卑弥呼の墓の場所を明確に示さないのはなぜ?


722 :日本@名無史さん:04/10/09 02:03:04
>>714
それで?

723 :日本@名無史さん :04/10/09 02:08:20
>岡山県吉井町石上布都魂(いそのかみふつのみたま)神社の東16キロの吉井川流域は、
>刀剣など多数の鉄製武器の出土で名高い地域で、5世紀中頃の月の輪古墳がある。
>この付近は古墳時代の製鉄地帯であり、岡山・広島・福岡などとともに早くから鉄生産が
>軌道に乗った地域で、出雲より早く活発になったと考えられている。

724 :日本@名無史さん:04/10/09 02:30:14
>>721
箸墓と言っているだろ、基地外

725 :日本@名無史さん:04/10/09 02:32:12
>>724
>>698を読め。畿内説の中心が否定。

726 :日本@名無史さん:04/10/09 02:35:24
>>720-721
ちょびひげみたいと言うが、同じような渦巻きは
現代の御神輿にも使われている結構普遍的な形状だぞ。
ttp://www.sanja.or.tv/matsuri/2003/1526.html

また日本の社寺や鳥居は心持ち屋根が反っているが、
もともとは反りの先に渦巻きがついていたのかもしれない。
俺はあの渦巻きは雲を表していると思う。
つまり雲上の楼閣ってわけ。

727 :日本@名無史さん:04/10/09 02:35:42
卑弥呼、台与後の男王だって。
邪馬台国の根拠もないのによく言う。
畿内説論者は、箸墓が卑弥呼の墓だから畿内説を主張してたのに
その箸墓が卑弥呼の墓じゃなけりゃ、全く根拠ないじゃん。

畿内説、脆すぎ。

728 :日本@名無史さん:04/10/09 02:38:14
>>713
で、規模は?

729 :日本@名無史さん:04/10/09 02:47:22
男王って、まさかこっそり石棺開けてみたら
男の骨とか副葬品だったんだろうか……

730 :日本@名無史さん:04/10/09 02:55:16
だったりして。でないと、そんなこといえない気がするな。
畿内説を信じる研究員が、この論争に決着をつけたくて、居ても立っても
いられなくなり、こっそり(あるいは公に)見てしまったとか。
で、残念なことに、男であることが分かってしまったために、今まで
畿内説を主張していたため、公表できず、男王の可能性が高いと
トーンを落としたとか。

731 :日本@名無史さん:04/10/09 02:58:51
724が出てこなくなったな。
まあ、無理もないか。

732 :日本@名無史さん:04/10/09 03:05:56
学会で滅亡した九州説って哀れですね。

733 :日本@名無史さん:04/10/09 03:12:53
>>732=>>724

734 :日本@名無史さん:04/10/09 03:13:50
箸墓を否定された畿内説って惨めですね。

735 :日本@名無史さん:04/10/09 03:18:05
>>734
基地外は基地外板でやれよ。
前方後方墳研究の第一人者・赤塚氏の年代観

3)古墳の成立
箸墓古墳の築造終了を廻間III式1段階の中にあるとすると、248年前後に死亡したとされる倭の女王「卑弥呼」と極めて近い時期を想定できることになる。
箸墓古墳に卑弥呼が眠っている可能性が高くなることは間違いない。三角縁神獣鏡は廻間II式期中頃以前の墳墓から発見されてはいない。
以上の暦年代と編年観を前提にすれば、三世紀前半期には、すでに九州島から関東地域にかけて40mから60mクラスの前方後円墳や前方後方墳が数多く存在することになる。
例えば千葉県木更津市の高部古墳群や市原市の神門古墳群などは三世紀前葉を中心とした古墳群となる。三世紀を古墳時代と考える方向性がますます強くなっていくであろう。
最後に奈良県のホケノ山古墳であるが、配置された東海系加飾壺から、廻間II式2段階に造営が終了している墳墓と想定することができた。
すると239年に卑弥呼が魏に使いを派遣する以前の墳墓である可能性が高いということなる。
http://agatazin.jp/niwazin/sji/2003-11/2003-11.html

736 :日本@名無史さん:04/10/09 07:22:12
>>734=>>732=>>724
うざいな。
畿内説のよりどころ、橿研が「卑弥呼、台与後の男王」と
いってるのにな。

邪馬台国の根拠もないのによく言う。
畿内説論者は、箸墓が卑弥呼の墓だから畿内説を主張してたのに
その箸墓が卑弥呼の墓じゃなけりゃ、全く根拠ないじゃん。

畿内説、脆すぎ。

737 :日本@名無史さん:04/10/09 09:43:37
ずっと不思議に思うのだが、このスレッドって複数の人間が語ってるわけだろ?
何も2人で論議しているわけじゃないよな?
なのに、「畿内説」「九州説」とあたかもそれを一個人のように攻撃するのは
なぜだ?
大きく分けて2つ。というだけで、畿内説論者の中では、九州説論者の中では、
また細かく分かれているのにな。
不思議な世界だ。

738 :日本@名無史さん:04/10/09 09:57:18
だって、細かく分かれていようが、畿内説主張する時点で
負け組みだろう。

739 :日本@名無史さん:04/10/09 10:02:53
さて、畿内説論者さん達よ

>橿研が「卑弥呼、台与後の男王」といってる

このことについて明確な所感を聞かせてもらおうか(w

740 :日本@名無史さん:04/10/09 10:21:00
>>737
九州説は大きく分ければ古田説と東遷説がある。
東遷説は学会では死んでいるが、アマチュアには人気がある。
数多くの説があり、九州の諸地方はもとより、四国、中国地方に及んでいる。
簡単に新説を作ることができる点も特徴でこのスレでも
「俺の説」を主張している人がいる。

741 :日本@名無史さん:04/10/09 10:32:30
>>739
橿研の一部にいるだけで
今では箸墓説の方が一般的だな

742 :日本@名無史さん:04/10/09 11:03:55
>>741
そんなことはない。そういう明らかにわかる嘘(ハッタリともいう)はいいかげんやめてくれ。
九州説に突っ込みのネタを提供するようなもんだ。

743 :日本@名無史さん:04/10/09 11:12:59
>>742
これを読めよ。
>>735

744 :日本@名無史さん:04/10/09 11:23:09
>>743
赤塚はもともと年代を古く見すぎる人で、むかしっから古すぎると批判されつづけてる人だ。
そんなもの『一般的』の理由にならんよ。

745 :日本@名無史さん:04/10/09 11:24:17
>>744
捏造するなよ、最近になって年代観を変えた。

746 :日本@名無史さん:04/10/09 11:31:24
>>745
おまえ、何も知らないんだなぁ・・・
で、自分が知らないことは何でも捏造扱いかよ。

はあ、なんとも迷惑な話だ。

747 :日本@名無史さん:04/10/09 11:33:39
邪馬台国東遷が支持されない理由。
@東遷を支持する考古学的な証明する証拠は何も無い。
A記紀に東遷の史実を反映したと見られる記事が存在しない。
神武東征説話をこの史実の反映とみなす人もいるが、
東征説話は大和朝廷の建国英雄譚であり、記述内容の性格がまるで違う。
邪馬台国はこの時点で魏と外交交渉を行うようなれっきとした王朝であり、
徴税などの官僚機構も備わっていたと考えられる。
これらを移すことは平和時の遷都である。このように両者の性格はことなり、
卑弥呼朝貢を含む遷都以前の歴史がなくなってしまう不都合もある。
東征説話をもって、邪馬台東遷の根拠とははみなせない。
B中国資料の地理的認識は一貫しいるように見える。少なくとも
遷都の根拠となるような記述はない。
C東遷説自体がワイルドカード。これを用いればどこにでも
邪馬台国をおくことが出来る。恣意性が高い。


748 :日本@名無史さん:04/10/09 12:30:46
>>746
知っているぞ。何年か前に、那須の県立博物館で赤塚氏の講演を聴いたことがある。
当時の年代観は違っていた。

749 :日本@名無史さん:04/10/09 13:05:30
>>747

邪馬台国=大和朝廷と考えることも不自然。

2世紀までに畿内が九州を制覇していた証拠は無い。

750 :日本@名無史さん:04/10/09 13:18:30
畿内説では、実際に金印をもらった九州の倭奴国について、どう評されているのか?

畿内勢力が、西暦100〜150年の間に九州を討伐して支配権を奪ったという
考古学的証拠が無ければ、邪馬台国=畿内は成立しえない。

751 :日本@名無史さん:04/10/09 13:23:01
魏志倭人伝では、女王国、東、千里の海を渡ると、別の倭種の国があるという。

魏志倭人伝では、朝鮮半島から倭国まで3千里だが、
倭国の島の周囲は5千里余りだと書いてある。これは九州のみを女王国と言っている。
本州を含めると計算が合わない。



752 :日本@名無史さん:04/10/09 13:24:31
>>750
はぁ?違うだろ。倭国大乱の後で畿内・吉備連合が北九州を支配下に置いた。
年代を改竄するなよ。

 出現期の最大規模の前方後円墳は、奈良盆地東南部の三輪山の麓に位置する箸墓古墳(奈良県桜井市、墳丘長約二八〇メートル)であり、
次が椿井大塚山古墳(京都府山城町、約一九〇メートル)である。
このほかでは、浦間茶臼山古墳(岡山市、約一四〇メートル)、石塚山古墳(福岡県苅田町、約一二〇メートル)が大きい方である。
前方後方墳では、元稲荷古墳(京都府向日市、約九四メートル)が最大規模である。
当時、大陸からの新しい文物の受け入れ口である玄海灘沿岸地域には、那珂八幡古墳(福岡市、約七五メートル)が所在するのみである。
 これらの事実から、前方後円(方)墳の創出は、畿内と瀬戸内海沿岸地域の有力首長が大陸の鉄をはじめとする新しい文物を安定的に手に入れるために連合し、
九州北部を制圧する必要性を契機になされたと考えられている。この連合政権をヤマト政権と考古学者はよんでいるのである。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2・3-01-01-01-02.htm

753 :日本@名無史さん:04/10/09 13:29:21
畿内説では、銅鐸文化が盛んだった西暦100〜150年の間に、
畿内が九州に攻め入り、倭奴国を滅ぼし、九州統一をしなければならない。

そのとき、征服王朝の畿内は、九州にほとんど銅鐸を持ち込まずに、
自分自身で銅鐸文化を完全に捨てなければならない。
一方、古墳の石棺に、九州阿蘇石を使う習慣を畿内に持ち込んだりしている。


754 :日本@名無史さん:04/10/09 13:38:13
畿内説の人は、銅鐸文化が完全に消えたことをどう説明するのか?

銅鐸は、古墳に埋納もされないし、埴輪にもなっていない。
銅鐸文化と、古墳文化は、まったく別の文化と見るべきだろう。

畿内・吉備が大和朝廷につながったと考えるのは愚考としか言えない。

755 :日本@名無史さん:04/10/09 13:48:22
>>752
粘着だな。
いい加減、根拠もなく決め付けて書くのは止めろ。
見苦しい。

756 :日本@名無史さん:04/10/09 13:53:32
>>753
しつこく年代を改竄するなよ。
畿内・吉備連合が北九州を制圧したのは倭国大乱の後。

銅鐸の鉛同位対比は最新の型式でも前漢〜後漢初めの銅鏡と同じタイプで
銅鐸の時代はもっと前だ。

757 :日本@名無史さん:04/10/09 14:01:26
>>756
前漢〜後漢初めって、具体的に、年代を言えよ?
恣意的に銅鐸の時代を古くみつもってるつもりか?
西暦100〜150年は、後漢初めだぞ。


758 :日本@名無史さん:04/10/09 14:07:46
吉野ヶ里遺跡からも、銅鐸一個が見つかっている。
銅鐸の時代が古いとはいえない。

759 :日本@名無史さん:04/10/09 14:07:49
>>748
話をそらすなよ。『一般的』であるかどうかだろ。
昔から古いと批判されていた年代をさらに古くした。
そんなもの支持するやつがどこにいるんだい?え?

760 :日本@名無史さん:04/10/09 14:09:03
畿内説は邪馬台国の東遷を否定しているのであって、
神武東征を否定しているわけではありませんよ。
さらに言えば卑弥呼の朝貢前における邪馬台国の東遷すら
否定していません。

おれは神武東征説話のような戦いが何回もおこり、
銅鐸文化から鏡文化への移行が起きたと考えています。


761 :日本@名無史さん:04/10/09 14:17:55
>>760
その神武東征は、卑弥呼の後だろ。

で、箸墓が否定された以上、卑弥呼の墓は、何処に
比定するのか?

762 :日本@名無史さん:04/10/09 14:24:00
で、畿内説は2パターンがあるということでいいのか?

1、出雲・畿内連合が大和朝廷になった
2、卑弥呼以前に東遷があり、銅鐸文化が失われ、邪馬台国・大和朝廷になった。





763 :日本@名無史さん:04/10/09 14:30:33
>>762

1、銅鐸文化消滅を説明できない。
2、倭奴国を滅ぼすほどの軍事力が吉備・畿内にあったのか?

764 :日本@名無史さん:04/10/09 14:31:32
>>757
呆れた、後漢の年代も知らないのかよ。
後漢初めとは西暦では1世紀だ。

765 :日本@名無史さん:04/10/09 14:35:46
実は、ここで畿内説をほざいてるのは、一人か二人と
言うことに気づいた。

766 :日本@名無史さん:04/10/09 14:54:57
>>763
倭国大乱までに銅鐸文化が滅ぼされ、銅鏡文化に移行(神武東遷?)した。

畿内・吉備の人口は北九州を圧倒しているだろう。
古墳時代初期までには多量の鉄器を有するようになった。

767 :日本@名無史さん:04/10/09 15:11:05
>>764
だから、具体的に銅鐸の年代を言えと。
西暦何年だ?

768 :日本@名無史さん:04/10/09 15:23:12
>>767
銅鐸は単独で出土する例が大部分で
正確な年代を知ることが困難なことくらい知っておけ。

墓に副葬されることはなく、鏡・勾玉・剣のような個人の権威を示すものではない。

769 :日本@名無史さん:04/10/09 15:51:11
>>768
だから、どうして畿内の大和朝廷は銅鐸文化を終了させたんだよ?

埴輪にも痕跡を残さずにだ。ありえないだろ。

>墓に副葬されることはなく、鏡・勾玉・剣のような個人の権威を示すものではない。
だったら、なおさら、一般家庭や神社に銅鐸が伝わるはずだろ。

770 :日本@名無史さん:04/10/09 16:14:36
>>769
倭国大乱までに銅鐸文化が滅ぼされ、銅鏡文化に移行(神武東遷?)した。

771 :日本@名無史さん:04/10/09 16:23:42
ということは、吉備・大和連合という妄想は成り立ちませんね?w

772 :日本@名無史さん:04/10/09 16:26:02
>>771
意味不明。神武の末裔が畿内を統一して
吉備と結んで北九州を支配下に置けば問題ないだろ。

773 :日本@名無史さん:04/10/09 16:50:36
銅鐸は葛城王朝のレガリアで、三輪王朝成立で遺棄された。
精霊崇拝→首長霊崇拝への移行。銅祭器→古墳の流れ。

別に、大規模な「東遷」なんかを持ち出さなくても充分説明できる。

774 :日本@名無史さん:04/10/09 16:54:54
(畿内)近畿式銅鐸→前方後円墳体制

(東海)三遠式銅鐸→前方後方墳体制

775 :日本@名無史さん:04/10/09 17:10:48
銅鐸を祭壇に祀ってありがたくピーシャラ唱える。
         ↓
ある日中国から来たボートピープルのおっさんに
「お前ら何釣鐘拝んでんの?プゲラ」
「これはこうやって音をならすもんなの。クス」
         ↓
大和人愕然 恥ずかしさのあまり銅鐸を埋める。
         ↓
     葛城王朝面目丸つぶれ
         ↓
    三輪王朝に取って代わられる

776 :日本@名無史さん:04/10/09 17:31:08
>>769
【沈鐘伝説】
鐘を霊物とし、水界を支配する主と密接な関係を有すると考え、池沼・湖海
などの水に縁のある所に多い。わが国では諸所にある「鐘ヶ淵」は、普通に
この伝説を持っているが、俵藤太の竜宮の鐘を奪う伝説が最も著名。
(広辞苑)

777 :日本@名無史さん:04/10/09 17:33:29
>>773
銅鐸と鴨(加茂)族との関係は、どうなんでしょう?

778 :日本@名無史さん:04/10/09 17:44:22
倭国王の地位が、3世紀頃、筑紫→大和に委譲されたのは間違いない。
邪馬台国の所在地論争は、「その委譲の時期がいつの頃だったのか」の議論であって、
畿内説なら3世紀初頭、九州説なら3世紀末。
別に、どっちでもいいと思うが。

ただ、東遷説はありえねー、と思う。
「記紀の神武東征の記載が根拠」って、頭は確かか?

779 :日本@名無史さん:04/10/09 18:40:15
>>722
氷河期 が1万3千年から1万年前にかけて終結。南九州は東日本に先駆けて温暖化。
食料が豊かになり、国内最古、最大級の定住集落が南九州に発達した。
6千300年前の鬼界カルデラ大爆発で、縄文人は東へと向かって移住を始めた。
南九州は、大陸から黒潮に乗って最初に辿りつく所で、最初に縄文文化が花開いた
所。原日本人の故郷なんだよ。

780 :日本@名無史さん:04/10/09 19:26:13
葦って、食べられるの?

781 :日本@名無史さん:04/10/09 19:46:11
>>780
芽とか食べられるが。

782 :日本@名無史さん:04/10/09 19:47:22
じゃ、稲作が始まる前から定住してたってことだね。

783 :日本@名無史さん:04/10/09 20:13:20
>>779
縄文人が樺太に入ったのが約25000年前。
どんどん南下して九州に入ったのが、分かっているところで少なくとも12000年前。
九州の方が先に温暖化によって人口増によって東に流れたのなら、それは
ただ単に祖先の血に出戻りしただけかと。

約8000年前に縄文人は鯨、鮪を追って海洋民化している。

琉球に九州縄文人が船で渡ったのもこの頃。
無人の朝鮮半島に縄文土器を持ち、捕鯨をする人類集団が入ったのもこの頃。

6000年前に鹿児島南部に入ってきた南方系の石斧や甕は、
南方人が持ってきたという人骨などの証拠が無く、
縄文海洋民が南方から輸入した可能性が高い。
稲もこの頃日本に入ってきている。
やはり縄文海洋民が海を越えてアジア各地から輸入した可能性が高い。

784 :日本@名無史さん:04/10/09 20:19:09
×祖先の血
○祖先の地

785 :日本@名無史さん:04/10/09 20:35:05
弥生人も縄文人が輸入したのか。

786 :日本@名無史さん:04/10/09 21:09:39
弥生人は朝鮮を侵略して西日本まで広がった古代華北人。
漢の朝鮮侵略前と後で、大きく分けて2派ある。

当時、日本から朝鮮南部の土着民に伝わっていた水田稲作を
古代華北人が朝鮮侵略の際に華北人風にアレンジして、
九州北部に渡来の際、それを持ち込んだ。日本にとっては逆輸入した形。

787 :日本@名無史さん:04/10/09 21:22:23
その後、朝鮮は満州人に何度も何度も侵略され、
朝鮮の土着民の血のみならず、最初の侵略者だった古代華北人の血も
縮小し半減していった。

日本人の方が朝鮮人より人種的に華北人に縁が深いのはこのため。

788 :日本@名無史さん:04/10/09 21:30:20
>>786-787
地理・人類版でやれよ。
うぜーからでてくんな

789 :日本@名無史さん:04/10/09 21:30:40
>>778
これこれ。君はこのスレの現実が見えてないね。
今このスレの九州説は、「その委譲の時期が」7世紀だか8世紀だかという変な人ばかりなんだよ。

790 :日本@名無史さん:04/10/09 21:34:17
>>788
チョンが火病かよ

791 :日本@名無史さん:04/10/09 21:39:14
岩井の乱までは、九州は独立国だろ。
せいぜい、ゆるやかな連邦といったところだ。

792 :日本@名無史さん:04/10/09 21:43:45
>>790
馬鹿丸出しだぞ。顰蹙かっているのわかってないようだな。


793 :日本@名無史さん:04/10/09 22:28:38
>>791
邪馬台国から分派が畿内に大和朝廷を設立した後、
九州で磐井が勢力を得て、本家の邪馬台国を圧倒した。
だから、これを取り戻すため大和朝廷がこれを
打ち破った。

794 :日本@名無史さん:04/10/09 22:32:59
>>767
>銅鐸は単独で出土する例が大部分で
>正確な年代を知ることが困難なことくらい知っておけ。

じゃあ、あれだけ断定的に言っていたのに、結局
銅鐸がいつのものか、考古学的には説明できないわけか。
やはり、畿内説は脆いな。

記紀に従えば、邪馬台国の後、神武により東征があり
そして、畿内の銅鐸文化が、銅剣銅矛銅鏡文化に
滅ぼされたとした方が、自然だな。

795 :日本@名無史さん:04/10/09 22:35:21
>>767ではなく
>>764だった。

796 :日本@名無史さん:04/10/09 22:42:27
>>794
土器編年との関係がはっきりせず決め手に欠けるから、
鉛同位体で年代幅を絞ったのだ。1世紀頃に終わったと見る。
そちらこそ根拠なく新しく言っただろ。

797 :日本@名無史さん:04/10/09 23:25:21
倭国内でいち早く古墳築造(首長霊崇拝)を始めた地域・出雲では、
荒神谷やら加茂岩倉に青銅祭器を埋納した。埋められた青銅器の数より、
その変化は短期間に劇的に起きたように思われる。

銅鐸消滅を東遷の根拠として挙げている人は、これをどう捉えているのか?
北九州による出雲征服戦争があったって言うの?
(図らずも、国譲りの神話と合致してしまうのだが)

798 :日本@名無史さん:04/10/09 23:54:41
>>797
刀狩・キリシタン弾圧と同じでしょ。
銅鐸を廃棄しないものは、新政府(やまと)によって処罰されたんだよ。

銅鐸の没収を恐れて隠したと考えるのが普通。

799 :日本@名無史さん:04/10/10 00:11:05
>>798
じゃあ、その時期(1世紀前後?)に、出雲はヤマトに征服されたってこと?
出雲〜越に分布する四隅突出型墳丘墓は、出雲勢力の独自性を示している
と考えるのが一般的だが。

3世紀前〜中期にだけ、出雲地方に高地性集落が出現するが、近畿の土器
が入ってくると同時期にそれも消滅。
逆に、出雲の土器が北九州や近畿で出土するようになる。
これを、畿内・ヤマト朝廷の攻撃→出雲屈服の時期と見る。
崇神紀に、出雲征討の記載があるよね。

800 :日本@名無史さん:04/10/10 00:12:47
1世紀とは、またトンデモ説が出てきたなぁ・・・・
勘弁してくれよほんとに。

801 :日本@名無史さん:04/10/10 00:14:11
>>800
どこがトンデモなのか説明してください。
ただ単に「トンデモ説が出てきたなぁ・・・」と言ってるだけでは困ります

802 :日本@名無史さん:04/10/10 00:17:40
>>799
ちがうよ。3世紀に出雲は征服されたんだよ。
銅鐸が古いのは、新しい銅鐸が作られないまま、
3世紀まで祭祀に使われてたとみるべき。

803 :日本@名無史さん:04/10/10 00:25:19
やれやれ。付き合いきれねぇよ、ほんとに。

銅鐸は後期後半の土器との共伴例がいくつかあるんだよ。
だから、どんなに早く見る人でも銅鐸祭祀の終焉は後期末なんだよ。
ほんとの終わりがそこからどこまで新しくなるかは、判然としないけどね。

庄内式と共伴した大福銅鐸の例もあるし。
ただこれはやや特殊なケースかもしれないので、
類例待ち。

804 :日本@名無史さん:04/10/10 00:26:19
>>802
出雲の銅鐸祭祀が3世紀まで続いていたなんて、本気で言ってるの?
四隅突出型墳丘墓から銅鐸は出土していましたか?

805 :日本@名無史さん:04/10/10 00:37:02
>>802
四隅突出の出現後、出雲地方で銅鐸が完全に消滅する。
「畿内の銅鐸消滅」を東遷説の根拠にしたい気持ちは分かるけど、
もうちょっと、説得力のあることを書けよ。
少なくとも、出雲の人々は、自ら青銅の神々を棄てた。

806 :日本@名無史さん:04/10/10 01:09:11

四隅突出墳墓と銅鐸の因果関係がどこまで証明できるんだよ。

807 :日本@名無史さん :04/10/10 01:18:04
>>697
>なぜ、「犬」「猿」「雉」なのか

風水で丑寅の反対側が戌・申・酉だからという話を聞いた事が・・・

808 :日本@名無史さん:04/10/10 01:20:02
>>806
四隅の出現後、銅鐸が消えるのは、考古学的事実。
そこから因果関係を考えたもの。
普通は、精霊崇拝→首長霊崇拝への転換が行なわれたと考える。
お前はどう考えるの?

809 :日本@名無史さん:04/10/10 01:26:15
畿内勢力も、出雲のように自主的に銅鐸を棄てて、前方後円墳祭祀を始めた
と考えられる。
無理に、東遷勢力の征服→大規模戦争なんてものを想定する必要はない。
そんな証拠は存在しないし。

つまり、「北九州勢力の畿内への東遷」を裏付けるものなんて、何も無いんだよ。

810 :日本@名無史さん:04/10/10 01:48:03
邪馬台国が畿内にあったという証拠もないけどね。

811 :日本@名無史さん:04/10/10 02:10:08
NHKの受信料拒否について。コピペ。

0120-151515(当然フリーダイヤル)に電話する。

アナウンス「該当する番号を押して下さい」と流れるので、
受信料等の「1」を押す

オペレータが出る(最近は繋がりにくいらしい)ので
解約したいと伝えると、
理由を聞いてくるので「テレビが壊れた」旨伝える。
(いつ壊れたか?他に受信機はないか?
購入、修理の予定は無いかと聞いてくる)

お客さま番号、住所、電話番号を確認してくるので答える。

確認が出来たら、書類を送付するので期日までに郵送する旨説明してくる。
(この時に現在の支払い状況も確認されると思います。)

送付された廃止届を郵送する。
※想像してるような引き止めとか、しつこく聞いてくる
とかありません。ホントに淡々と説明されます。
何の勇気もいりません。今がチャンス。



812 :日本@名無史さん:04/10/10 02:12:23
畿内論者が、証拠至上主義で東征を否定すればするほど、
畿内に邪馬台国があったという証拠が無いことを認めなくてはならなくなる。

皮肉なものだ。



813 :日本@名無史さん:04/10/10 02:16:12
銅鐸だけじゃなくて、ほぼ同時期に九州の大型銅矛の
祭祀も終わるという現実を直視したほうがいいな。

814 :日本@名無史さん:04/10/10 02:27:52
九州の邪馬台国は、自主的に銅剣銅矛を捨てたんだよ。

なぜなら、鉄が手に入ったから。

815 :日本@名無史さん:04/10/10 02:40:37
>>812
>畿内に邪馬台国があったという証拠が無いことを認めなくてはならなくなる
俺は畿内説だが、倭人伝だけを素直に読めば、九州説が有利なのは認めるよ。
考古学的には畿内説有利だが。

文献上の邪馬台国の解釈は、>>778でも書いたが、
>倭国王の地位が、3世紀頃、筑紫→大和に委譲されたのは間違いない。
>邪馬台国の所在地論争は、「その委譲の時期がいつの頃だったのか」の議論であって、
>畿内説なら3世紀初頭、九州説なら3世紀末。
でいいと思う。

俺は東遷説のいい加減さを指摘しているのだが、まともな回答がない。
壮大で夢のある仮説だとは思うけど、それだけなんだよな。

816 :日本@名無史さん:04/10/10 02:48:29
「鉄をより多く持っていた北九州が、畿内に負ける筈がない。だから、
倭国統一にあたって、北九州の東遷があったのは確実」って言ってる奴。

「なぜ鉄を産していなかった4世紀末の倭国が、半島に進出できたのか」について
答えてみろよ。
当時は明らかに鉄において、半島>畿内だろ。

817 :日本@名無史さん:04/10/10 02:49:30
というわけで、九州に邪馬台国があったが、3世紀に滅び、
代って畿内に大和朝廷が誕生したということで、ファイナルだな。



818 :日本@名無史さん:04/10/10 02:54:14
>>816

倭国が、半島に進出したとか占領したなどという事実は無い。
任那日本府も存在しなかったというのが現在の学会の常識。


819 :日本@名無史さん:04/10/10 03:12:07
>>818
じゃあ、好太王の碑文は関東軍の捏造って思っている訳ね。

820 :日本@名無史さん:04/10/10 03:20:13
逆にいえば倭で算出すれば半島に進出しなくともすんだかもな。
皮肉なもんだな。

821 :日本@名無史さん:04/10/10 03:28:30
>>819
倭が攻め込んだけど、追い返したとあるだろ。
日本が朝鮮半島の鉄を独占できたかのように錯覚してるのか?
バカだなあ。


822 :日本@名無史さん:04/10/10 03:30:14
>>821
広開土王碑だけではないよ。
三国史記、日本書紀それらは倭の半島進出につき年代とも整合的。
百済、新羅は人質差し出している。


823 :日本@名無史さん:04/10/10 03:32:16
三国史記、日本書紀って、あんた……

中国側の資料にあるならともかく……

824 :日本@名無史さん:04/10/10 03:35:04
宋書にもあるな。
「渡平海北九十五國」

んで
「詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王」
http://www.bekkoame.ne.jp/ro/fumi/koten/souwa.htm

825 :日本@名無史さん:04/10/10 03:54:42
>>824
プゲラ
そりゃ、日本が朝貢にいってそう言わせただけじゃん。
実質的な支配権なんてない。しかも百済は除外。

倭国が実質的に半島を支配してた証拠は無い。
支配してたなら、支配が終わったのはいつよ?


826 :日本@名無史さん:04/10/10 04:01:46
>>825
短甲など出土する鉄量で半島を上回るでいいんじゃないか?
倭からはおそらく出ないんだから。

827 :日本@名無史さん:04/10/10 04:06:04
魏書には倭人が半島でせっせと鉄を取ってなかったっけ?
韓人も取ってて独占ってわけじゃないけど、半島に影響力がないと取れないんじゃないの?ヽ(´ー`)ノ

828 :日本@名無史さん:04/10/10 04:28:20
>>827
軍事力で攻めて支配してたというより、
こそ泥のごとく横取りしてただけだろ。

日本が半島を支配してたなら、任那が消滅するわけがない。
安東大将軍なんて、名目だけで実態などないというのが定説。

829 :日本@名無史さん:04/10/10 05:57:27


830 :日本@名無史さん:04/10/10 08:42:47
>>828
糞チョンが必死だな

831 :日本@名無史さん:04/10/10 08:50:42
応神天皇は金官加羅から来た傭兵隊長。
継体天皇は北陸の在日オヤジ。

832 :日本@名無史さん:04/10/10 12:30:27
>>815
>考古学的には畿内説有利だが。
卑弥呼の墓に比定されるものすらない状態で、ぜんぜん有利ではないぞ。

>俺は東遷説のいい加減さを指摘しているのだが、まともな回答がない。
いい加減って言ってもね。もと記載が少ないからしょうがない。
そんなこと言い出すと、この時代の記録がすべていい加減ってことになる。
畿内説が唱えてる欠史八代なんてその際たるもの。
むしろ、この文に限り、その記載を否定する根拠を提示すべき。

833 :日本@名無史さん:04/10/10 13:01:14
>>832
現実を直視しろよ。

834 :日本@名無史さん:04/10/10 13:05:46
>>833
なんじゃそれ。
そのことば、そのまま返そう。

835 :日本@名無史さん:04/10/10 13:16:48
>>834
なんじゃそれって、考古学をやってる人間で九州説なんてほとんどおらんだろ。
この現実から逃避しつづけても、得るものは一つもないぞ。

836 :日本@名無史さん:04/10/10 13:48:39
>>830
現実を直視しろよ。


837 :日本@名無史さん:04/10/10 14:07:35
>>825 日本が朝貢にいってそう言わせただけじゃん。
     ↑
「言わせただけ」なんて事実を矮小化しようとしてもダメですよ。
中国皇帝ともあろう者が、日本(倭国王)が無理に言わせたとおりに
素直に従ったのですかあ? じゃあ倭国王の発言力は
すごかったという事になりますよ(百済は漢の直営でしたから
除外があってもね。)

とにかく中国の史書に書いてある事実さえ受け容れようとしない、
その態度は学問的ではない。

838 :日本@名無史さん:04/10/10 14:19:41
ただ、ナントカ諸軍事と大将軍号は最初の頃認められてないよな。
最終的に認められた官位も高句麗や百済の下位だし。

839 :日本@名無史さん:04/10/10 14:31:44
>>837

バカだなあ。
「実際に倭国が朝鮮半島で実権を握ったら、中国は支持してもいいよ」
という意味でしかない。
けして、「朝鮮半島諸国は、倭国に従え」と命令を出したわけではない。
勘違いするな。

中国にとっては、倭国も朝鮮も属国扱いなのであって、
東の辺境を経営する窓口をどこの国にするか、
ということだけを考えてただけで、尻尾ふって朝貢してくる倭国に目をかけただけ。





840 :日本@名無史さん:04/10/10 16:13:03
>>835
>考古学をやってる人間で九州説なんてほとんどおらんだろ。
またまた、考古学マンセーか?
懲りないな。

841 :日本@名無史さん:04/10/10 16:16:07
>>833
>>832の問いにぜんぜん答えてないじゃん。
また、いつもの話題そらしだな。

842 :日本@名無史さん:04/10/10 16:44:32
>>832
>>考古学的には畿内説有利だが。
たぶん、この表現が使われるときの有利のあいては九州王朝説だと思う。
九州王朝説より考古学的には畿内説のほうが有利の意味で使われている。
ただし、このときの畿内説には東遷説も含まれることに注意。
九州王朝説からすれば畿内説も東遷説も本質的に変わらない。
両説とも邪馬台国=大和朝廷が一貫して列島を
代表(中央支配)していたという説である。

843 :日本@名無史さん:04/10/10 17:48:37
>>842
>両説とも邪馬台国=大和朝廷が一貫して列島を
>代表(中央支配)していたという説である。

それこそ、なんの根拠もない戯言だな。
「漢倭奴国王印」は九州から出てきてるのに、
どういう理論で九州優位を否定するのだ?

844 :日本@名無史さん:04/10/10 17:48:43
(438年)
「自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王」

(477年)
「自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王 」

自称とはいえ百済が入っているな。
倭が百済を属国としてみていたことは間違いがあるまい。
百済はそのような倭の態度に対して文句をいえない立場
であったのであろう。

845 :日本@名無史さん:04/10/10 17:59:47
>>844
「宋書」が倭国の言い分と宋の立場を併記しているのは注目されるな。
宋は山東半島まで領土が広がっており、半島事情にも詳しかったはずで
倭国が荒唐無稽な要求をしても通用しなかったはず。

846 :日本@名無史さん:04/10/10 18:50:40
>>845
それ以上にそのような要求を倭がしても百済が
沈黙することの方が重要だろう。


847 :日本@名無史さん:04/10/10 19:03:52
>>843
九州の古墳の被葬者が大仙を中央支配していたというのか。
ありえないだろ。

848 :日本@名無史さん:04/10/10 19:15:12
>>835
考古学はどういう証拠を提出できるの?
考古は近畿でほぼ決定、でも卑弥呼の墓はわからん魏から貰った鏡は
どこにあるかわからん倭人伝の方位?ありゃ知らん。じゃわかりにくいよ。


849 :日本@名無史さん:04/10/10 19:18:45
>>846

韓国が日本の領土を侵犯しても、
日本は沈黙してますが何か?

850 :日本@名無史さん:04/10/10 19:31:49
>>849

実態が伴わずそのような要求を倭がしたら百済は国交断絶だろ。


851 :日本@名無史さん:04/10/10 19:34:28
>>850
おまいがどんなに泣き叫んでも
任那日本府は存在しなかったんだよ。
いまどき教科書にも載ってないね。

852 :日本@名無史さん:04/10/10 19:37:09
>>851
論理的な反論ができなくて気の毒だな。

853 :日本@名無史さん:04/10/10 19:54:18
不公正な叙任などしたら宗主国としての権威に傷がつくだろ。
厳正な審査をしてると思うがね。

854 :日本@名無史さん:04/10/10 19:59:21
日本書紀によればこの時期百済からは人質ぞろぞろだろ。
武寧王もこの時期倭で生まれている

855 :日本@名無史さん:04/10/10 20:03:59
前方後円墳は九州から関東まで分布しています。
その分布の中心は地点は畿内です。
古墳の大きさでも密度でも畿内が中心です。
考古学者は古墳が作られた時代、その中心地域に大きな権力が存在し
ほぼ分布圏を支配していたものと考えます。
世界に共通な考古学の考え方です。


856 :日本@名無史さん:04/10/10 20:05:38
今NHKラジオ第2で森浩一さんがお話してるぞ。


857 :日本@名無史さん:04/10/10 20:17:13
人質の百済人は、どうして畿内じゃなくて九州にいたんでしょうかね?



858 :日本@名無史さん:04/10/10 20:18:46
>>856
後 08:00 NHKカルチャーアワー
「古代人との対話」(2)
               同志社大学名誉教授…森  浩一
http://www3.nhk.or.jp/hensei/r2/20041010/frame_18-24.html

859 :日本@名無史さん:04/10/10 20:22:58
>>857
> 人質の百済人は、どうして畿内じゃなくて九州にいたんでしょうかね?

誰のことだ?そして出典先は?

860 :日本@名無史さん:04/10/10 21:02:50
>>858
終わった。いつもながら極端な話が多かった。
沖縄について、北海道の遺物との共通性や中国貨幣の出土とか。

861 :日本@名無史さん:04/10/10 21:06:58
>>859
武寧王のかあちゃん

862 :日本@名無史さん:04/10/10 21:15:03
>>859
横スレだが、「日本書紀」雄略5(461)年4〜6月条に載っている
加須利君(蓋鹵王)の弟・軍君(昆支君)の有名な話だろ。

863 :日本@名無史さん:04/10/10 21:26:04
>>857
九州にいたのではなくて、途中九州の各羅島で臨月でうまれたんだろ。


864 :日本@名無史さん:04/10/10 21:33:30
>>863
子供が生まれた後も、とおちゃんは九州にしばらく留まってる。なぜか?

865 :日本@名無史さん:04/10/10 21:35:24
>>864
約一ヶ月のことか?

866 :日本@名無史さん:04/10/10 21:36:32
>>863
正しくはそう言うことだな。
「百済新撰」を引用して「蓋鹵王遣弟昆支君、向大倭侍天王。」

867 :日本@名無史さん:04/10/10 21:37:01
>>865
そうだよ?

九州には、来賓をおもてなしできる宮殿があったということだよ。

868 :日本@名無史さん:04/10/10 21:42:37
>>867
> 九州には、来賓をおもてなしできる宮殿があったということだよ

くだらねー。
生まれたばかりの子供すぐにおくりかえすかよ。
送り返すまで船の手配もあるだろう。
書いてもいないことを妄想でおぎなってまぁ。


869 :日本@名無史さん:04/10/10 22:37:57
だいたい、人工衛星も方位磁石もない時代の方角を、真に受けるなんて
バカげてる。

当時は太陽が地球を回ってるって考えられてた時代なんだから。

邪馬台国はマキムク遺跡です。卑弥呼の墓は箸墓。

九州説は机上の空論で、比定できる遺跡や墓もない状態。
実態がないのによく主張できるね。

870 :日本@名無史さん:04/10/10 22:42:19
>>842
>九州王朝説からすれば畿内説も東遷説も本質的に変わらない。
>両説とも邪馬台国=大和朝廷が一貫して列島を
>代表(中央支配)していたという説である。

九州王朝をどう定義しているか分からないが、
あの文書を書いた香具師は、邪馬台国が九州に存在し
その派生勢力が畿内に大和朝廷を設立したという九州説の
王道を否定している。

871 :日本@名無史さん:04/10/10 22:42:46
>>832
別に、畿内説の人全部が「欠史八代が葛城王朝だった」と主張している訳ではない。

872 :日本@名無史さん:04/10/10 22:46:56
九州説って、邪馬台国東遷→ヤマト朝廷を主張するのが王道なの?
マキムクの時代が遡った今日、無理な設定だなあ。


873 :日本@名無史さん:04/10/10 22:53:25
九州説の場合、邪馬台国や投馬国に比定できる遺跡が存在しないのが
弱点。
倭人伝を無理矢理都合良く読んで邪馬台国を博多湾周辺に持ってくるか、
九州内の考古学的発見の無い空白地域に巨大遺跡でも発見されなければ。

874 :日本@名無史さん:04/10/10 23:00:03
>>872
マキムクは石棺すらなく、古墳である証拠もないし、そもそも時代を
故意に遡らせている可能性が高い。

>>873

宇佐神宮周辺は、十分な巨大遺跡。
畿内のほうが、東に倭人の国もないし、南に島もないし、
更には、朝鮮、対馬と邪馬台国の距離を換算すると、
全くあわないで無理やり。風土も合わん。

875 :日本@名無史さん:04/10/10 23:04:21
風土といえば、畿内の人間がイレズミをしてたなどと想像もできんな。

876 :日本@名無史さん:04/10/10 23:05:05
弱点というより、それがないと考古学的には九州説は唱えられない。
だから、文献、史観に頼るしかないのだが、
文献のほうは文献史の研究者はもう「わからん」と、とっくにさじを投げた状態。

結局史観だけが残る。

877 :日本@名無史さん:04/10/10 23:08:55
>>875
久保田穣氏などは「奈良に海はない、これだけで大和を否定できる」と言ってた。
この人は最初古田氏に傾倒したが、どうもおかしいと思って転じた。
結局大分県南部説を出している。

近畿説の反論は「だって九州も版図に含んでいるから
九州の風俗がかかれていてもかまわない」だ。

878 :日本@名無史さん:04/10/10 23:10:30
邪馬台国が北九州か畿内かは別にして、

北九州勢力の畿内侵入(東遷)があったのかについて、意見を聞きたい。
邪馬台国以前にしろ以後にしろ、「マキムク建設は東遷勢力による」
というのは共通認識なのか?

879 :日本@名無史さん:04/10/10 23:12:50
文献はちょっと前平野邦雄氏の「邪馬台国の原像」が出ている。
九州説だ。しかし倭の五王になるとヘゲモニーは近畿に移っていると唱える。

880 :日本@名無史さん:04/10/10 23:15:07
平野さんは「委奴」を「やまと」とよめないか、などと面白かった。

881 :日本@名無史さん:04/10/10 23:15:54
邪馬台国東遷説の根拠って、「甘木市付近の地名が〜」だけだろ。
九州説の王道は、「九州邪馬台国は3世紀後半に畿内大和政権の軍門に降った」だ。

882 :日本@名無史さん:04/10/10 23:25:52
>>874

東には関東があるよ。

海を渡るというのは伊勢湾の事じゃない?だから、伊勢志摩は重要な
ポジションだったという

883 :日本@名無史さん:04/10/10 23:30:09
>>878

日本語は北部九州で誕生した可能性はあると思います。
そして、南部の縄文人を沖縄へ追いやった可能性もあるかと。
そして、西の方へ広がっていったと

884 :日本@名無史さん:04/10/10 23:33:38
倭人伝の解釈が袋小路である以上、
それぞれの立場を分類するのに「北九州の東遷はあったのか」をキーワードで
やってみてはどうか?

A 北九州の東遷はあり、3世紀(倭人伝の邪馬台国)以前
B 北九州の東遷はあり、3世紀(倭人伝の邪馬台国)以後
C 北九州の東遷はなかった

885 :日本@名無史さん:04/10/10 23:35:45
絶対C
邪馬台国は吸収
大和朝廷は畿内

886 :日本@名無史さん:04/10/10 23:36:18
邪馬台国論争を
九州か畿内かという場所問題に矮小化するから悪い。

これは九州の各勢力や、出雲・越を始めとする日本海勢力及び畿内が、
どの時代に、どのように敵対・協力をしながら、最終的に
中央集権にまとまっていったか、
という大きなテーマの中の一部として語るべきなのにね。



887 :日本@名無史さん:04/10/11 00:03:04
>>878
>「マキムク建設は東遷勢力による」というのは共通認識なのか?
纒向遺跡に環濠がないことから、外来の征服者が造った都とは考えにくい。
唐古・鍵の人々が中心になって造ったと考えるのが妥当。


888 :日本@名無史さん:04/10/11 00:07:35
http://www.asahi.com/culture/update/1010/005.html

歴史に残らなかったさまざまなものごと……

889 :日本@名無史さん:04/10/11 00:11:18
>>884
少なくともBは無いな。
3世紀初頭に始まる三輪山麓の前方後円墳祭祀は、以後数世紀に亙って大和政権に
受け継がれていく。

890 :日本@名無史さん:04/10/11 00:17:20
>>886
まったくそのとおり。
倭人伝とは、3〜4世紀倭王権胎動期におけるダイナミズムの「ある瞬間」を切り取った、
写真みたいなもの。

891 :日本@名無史さん:04/10/11 00:24:21
唐は百済を統治始めるが,それに対抗して,百済の元有力貴族等が反乱軍を結成す
その中心人物となったのが鬼室福信(きしつふくしん)だった。660年10月,鬼室福信は百済王朝を再建させるために
倭国に次のような要請をしてきた。
 *「631年から人質として倭国にいる王子(豊璋:ほうしょう)を国王位につかせるため送還してほしい。」
 *「倭国から百済復興のための援軍を送ってほしい。」

朝鮮半島は唐に支配されるまでは倭国の支配で皇太子は人質として日本にいた。
敗れた百済人の一部は日本へ亡命することになり、朝廷や豪族の技術者となった
ものや地方の開拓をさせられた者がいた。渡来人として一箇所に集められ
その身分は低いものであった。
その多くは未開地の関東地方豪族に預けられたため、関東には渡来人村の名残が
今でもある。

892 :日本@名無史さん:04/10/11 00:25:34
>>886
全面的に賛成。
同意エネルギー充填120%。

893 :日本@名無史さん:04/10/11 01:16:30
>>886
畿内としている方は吉備・出雲・東海などとの関わりに目を配っているが
九州の方はどうなっているのか?

894 :日本@名無史さん:04/10/11 01:17:54
>>886
『「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか14)』
に真っ向から喧嘩を売るような内容だな。

まったく同意だが。



895 :日本@名無史さん:04/10/11 01:22:01
土器の共通性から、吉備は連合相手を出雲から畿内に変えたと見られている。

 島根大学の渡辺貞幸教授は、列島の政治勢力の中で、山陰は西谷3号墓に代表される
独自で巨大な四隅突出型墳丘墓を築き「吉備や北陸と外交を展開した」と強調。
 しかし、吉備との蜜月は短期間に終わり、女王・卑弥呼(ひみこ)の邪馬台国が連合勢力に
よって築かれたと想定すると「大和と吉備、丹後の連携により、山陰は孤立させられた」と述べ、
邪馬台国時代の山陰の歴史像を描き出した。
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/2004/07/05/01.html

896 :日本@名無史さん:04/10/11 01:45:08
>>895
出雲が吉備や越と親密だった頃
http://www.pref.shimane.jp/new/inishie/pdf/28.pdf
出雲が孤立して没落する頃
http://www.pref.shimane.jp/new/inishie/pdf/34.pdf

897 :日本@名無史さん:04/10/11 01:51:09
出雲って筑紫と仲よかったみたい。
「宝をよこせ」「兄は筑紫にでかけてますので……」

神武天皇は宇佐(豊前)と吉備に滞在してた。
どちらも新羅文化の痕跡があるところ。

じゃ神武は新羅系かと思うと
日向には百済王伝説があるし

岡山には王子が岳というところがあって
流れ着いた百済のお姫様が子供を産んだというところがある。

いろいろ旅をすると、各地には「まさかっ?」と思うような
昔の話がつたえられているんだな。



898 :日本@名無史さん:04/10/11 02:37:36
>>897
チョンが必死だな

899 :日本@名無史さん:04/10/11 02:43:14
>>882
>東には関東があるよ。
他の記述を考慮しても、陸続きなら、歩いた場合の記載が
あるはず。
倭人伝では、明らかに海の向こうを意味しており、陸続きと
とるのは強引だろう。

900 :日本@名無史さん:04/10/11 02:47:59
>>869
>だいたい、人工衛星も方位磁石もない時代の方角を、真に受けるなんて
>バカげてる。
日が東から昇り西に沈むことは、古代文明でも当たり前に知っていた。
地球が丸いことは知らなかっただろうから、旅で来た中国人が、日本の
正確な東西南北を知ることは困難だったであろうが、東と南を間違える
なんて論外だろう。
相変わらず、畿内説は都合が悪いと、強引な主張だな。

901 :日本@名無史さん:04/10/11 02:56:20
>>890
>倭人伝とは、3〜4世紀倭王権胎動期におけるダイナミズムの「ある瞬間」を切り取った、
>写真みたいなもの。
一部同意だが、歴史上、分割されていた小国が初めて連合国家を
作り上げ、奴国王以来、ようやく使者を送れる程に安定した状態に
なったと言う意味で、歴史上の重要な節目であり、その存在が、
大和朝廷の源流である可能性が否定されない限り、日本国家の原点
として重要な可能性を持つからこそ、注目され、かつ「おらが村こそ
邪馬台国」論争がおきるのだろう。

902 :日本@名無史さん:04/10/11 03:02:37
おまいら、中国人が羅針盤を発明したのは、紀元前300年ですよ?

903 :完全理論武装論者:04/10/11 03:10:22


    聖 徳 太 子 は テ ロ リ ス ト


ブッシュいわくテロには決して屈しない

904 :日本@名無史さん:04/10/11 03:25:06
>>902
●羅針盤 らしんばん
 磁石,つまり天然の磁鉄が北を指し,鉄を吸引することは,中国では少なくとも戦国時代後期
(前3世紀)にわかっていたと思われる。そしてこのころか,遅くとも後漢の初め(後1世紀)に,
南北を指示する器械をつくり始めたらしく,これを司南または指南針と呼んだ。くだって
11世紀になると人工の磁針が発明され,沈括の『夢渓筆談』によると,磁針を安置する
最善の方法として,糸で空中にぶらさげることが提議され,また磁針が最北をささず,
少し東に偏することも指摘されている。12世紀になると磁針は航海に用いられ,当時の
広州の中国船では,夜は星,昼は太陽,天気の悪い日には指南針を見ると記し,
また高麗へ使した徐兢(じょきょう)も,航海に浮針を用いると記している。ヨーロッパ・
アラビアの文献では,羅針盤の記載の最も早いものでも1200年前後である。おそらく
中国からの伝来によるものであろう。
http://www.tabiken.com/history/doc/T/T036L100.HTM

905 :日本@名無史さん:04/10/11 03:42:57
>>876
自分に都合の悪い豊前は無視か?

平行線をたどる東征・東遷説はひとまずおくとして、
宇佐以上に倭人伝に適した地を、畿内で比定できるのか?

              宇佐               箸墓
卑弥呼          ヒメ大神          ヤマトトトホモモソヒメ
身分          天皇よりも格上           天皇の叔母
                        (近年、橿研は男王としている)  
棺             石棺             木槨のなかに木棺
       (詳細不明だが近くの赤塚古墳
           は棺あって槨なし)
墓        自然の丘陵を利用し円墳に近い      前方後円墳
奴婢百余人       百体神社               なし
現在         全国八幡宮総本社           古墳のみ
         (大和朝廷に厚遇された)
東渡海千餘里復有國皆倭種  四国            陸続きの東海・関東?
其南有狗奴國        熊襲                 ?
有裸國黒齒國復在其東南  薩南・琉球諸島             ?
魚や蛤を捕る      中津は遠浅でアサリの収穫      盆地で海なし
             が以前は日本一と豊富


906 :日本@名無史さん:04/10/11 03:58:46
帯方郡から邪馬台国まで一万二千余里。
帯方郡から末盧国(唐津)まで約一万里。
つまり、末盧国(唐津)から邪馬台国まで二千里。
対馬−壱岐の間が、千里余。
ならば、末盧国(唐津)−宇佐は、筑紫山地があり直線では進めず、
海沿いに行けば、ほぼ二千里だろう。
畿内までを二千里とは遠すぎる。

ttp://channel.goo.ne.jp/map/map.php?MAP=E129.17.22.4N34.11.58.3&ZM=0&SZ=0&MT=%C2%D0%C7%CF&sw=1&OPT=e0000011&KN=0&COL=1&P=e23E129.17.22.4N34.11.58.3&P=j12E129.17.22.4N34.11.58.3&MAP_ORG=E129.17.22.4N34.11.58.3


907 :日本@名無史さん:04/10/11 04:01:32
>>902
魏使が羅針盤を使ったかどうかは、分からないしね。
しかし、羅針盤を使っていたとして、更に不利になるのは
畿内説であるに間違いあるまい。

908 :日本@名無史さん:04/10/11 04:08:35
>>877
>結局大分県南部説を出している。
大分県南部に、邪馬台国に相当しそうな地は残念ながらない。
上の2千里を直線で引いて、大分県南部としたのであろうが、
同じ大分県に上述の如く、倭人伝に一致する宇佐があり
これを無視するわけにはいかないだろう。

909 :日本@名無史さん:04/10/11 04:10:49
卑弥呼は、巫女であったこと。
宇佐神宮そのものが、古墳の上に立てられているという言い伝えがあること。
(明治40年と昭和8〜17年の改修工事で石棺が発見されたらしい)
境外に「百体神社」があり「奴婢百余人」の埋葬地に相当?
(ここも甕棺が数個づつ数回にわたり出土)
宇佐神宮は全国八幡宮の総本社で中心に祭られている神は、ヒメ大神。
歴史的に朝鮮との繋がりも深く、古代日本の先進地域であった。
宇佐神宮は古代、広大な土地・荘園を有する強大な勢力であった。
奈良の大仏の建立にも宇佐神宮が関与している。
道鏡事件では天皇家が、伊勢神宮ではなく宇佐神宮に和気清麿を遣わして
天皇後継問題の支持を仰いだ。
奈良時代以降1100年間も天皇家は近くの伊勢神宮に参拝すらしたことが
無いのに、国家の大事や天皇の即位時には、宇佐神宮に必ず勅使が遣わされ
ている。
付近に京都(みやこ)郡、山国(やまくに)=邪馬国?=邪馬台国=大和(やまと)国、耶馬溪、
豊前(豊〔とよ=台与?〕の国とも昔からいわれている)中津=下毛郡中津(毛には豊の意)=豊葦原中つ国、
三毛門(みけかど)(上毛と下毛の境)…ミケヌノミコト(御毛沼命=三毛入野命=御毛入尊)と関連?
山国には雲八幡と呼ばれる神社がある。
天津など、記紀や邪馬台国と関連の深い地名が多く残っている。
大分県中津には宇佐八幡神が降臨したとされる薦神社がある。
薦神社の御神体は、渡来人によって作られた灌漑用溜池である。
八幡(やはた)は「多くの秦氏(渡来人一族)?」。

近年天皇が朝鮮半島にゆかりを感じると発言したが、天皇家と
宇佐−朝鮮半島に深いつながりを感じる。

910 :日本@名無史さん:04/10/11 04:17:04
>>近年天皇が朝鮮半島にゆかりを感じると発言したが、

もっと後の時代のことを言っているのだよ。

911 :日本@名無史さん:04/10/11 04:18:55
>>910
で、そのほかは?

912 :日本@名無史さん:04/10/11 04:31:41
糞チョンが必死だな。捏造を図っても通用しないぞ

913 :日本@名無史さん:04/10/11 04:40:21
>>912
で、いいたいことはそれだけ?

914 :日本@名無史さん:04/10/11 05:30:37
>>901
で、同じ論争の繰り返しになる訳だな。

915 :日本@名無史さん:04/10/11 05:40:38
>>905
>平行線をたどる東征・東遷説はひとまずおくとして
ひとまず置かずに答えろよ。
お前の言う宇佐勢力は何世紀頃畿内に東遷して、記紀でいうところの何天皇の頃で、
マキムク建設以前か以後か。
これらに答えていけば、如何に宇佐説が強引かが分かるよ。

大体、具体的に女王の都に比定できるような巨大な2〜3世紀の遺跡は
宇佐にあるのか?

916 :日本@名無史さん:04/10/11 05:45:07
>>915
お前こそ、自説の矛盾には触れずだな。
悔しければ、畿内の墓を比定してみろ。

917 :日本@名無史さん:04/10/11 05:50:10
マキムクって生活感がないんだってね ボソッ

918 :日本@名無史さん:04/10/11 05:52:36
>>916
おいおい、宇佐厨(大分県出身)は何も答えられないのか?
3世紀の宇佐勢力(?)が大和朝廷になったと主張する以上、
その論証が必要だろ?
それがなければ、誰もお前の言う事なんか信じないぞ。

919 :日本@名無史さん:04/10/11 05:54:45
>>915
ほう。倭人伝や記紀を軽視しているのは畿内説なのに。

920 :日本@名無史さん:04/10/11 05:56:39
>>918
今までのスレを読み返せば?

921 :日本@名無史さん:04/10/11 05:57:52
まあ、同じことの繰り返しで
>>918は何を言っても受け入れないだろうがね。 

922 :日本@名無史さん:04/10/11 05:58:36
              宇佐               箸墓
卑弥呼          ヒメ大神         ヤマトトトホモモソヒメ
身分          天皇よりも格上          天皇の叔母
                        (近年、橿研は男王としている)  
棺             石棺             木槨のなかに木棺
       (詳細不明だが近くの赤塚古墳
           は棺あって槨なし)
墓        自然の丘陵を利用し円墳に近い    前方後円墳
奴婢百余人       百体神社              なし
現在         全国八幡宮総本社          古墳のみ
         (大和朝廷に厚遇された)
東渡海千餘里復有國皆倭種  四国           陸続きの東海・関東?
其南有狗奴國         熊襲                ?
有裸國黒齒國復在其東南  薩南・琉球諸島           ?
魚や蛤を捕る      中津は遠浅でアサリの収穫      盆地で海なし
             が以前は日本一と豊富

923 :日本@名無史さん:04/10/11 06:05:06
宇佐厨とは、宇佐が大和朝廷の故郷ではないか(故郷であって欲しい)と
ボンヤリ考えている、郷土愛に溢れた大分県出身の人なんだよ。
論証とか考古学的根拠とか遺跡などは端から無視して、色んな
データの中から宇佐に都合のいい部分を引っ張り出しているだけ。
別に積極的に宇佐であるという理由・根拠はなく、最初に宇佐ありきの
人だ。

924 :日本@名無史さん:04/10/11 06:08:51
>>923
自演乙。

925 :日本@名無史さん:04/10/11 06:10:20
>>920
今まで読んできたが、「宇佐=邪馬台説が如何にして大和朝廷になったのか」の
具体的な論証なんかなかったぞ。
少なくとも記憶に残るような説得力のあるものはなかった。

926 :日本@名無史さん:04/10/11 06:10:27
>>923
で、畿内で卑弥呼の墓はどこを比定してるの?

927 :日本@名無史さん:04/10/11 06:22:37
宇佐説は応神の頃、4世紀末頃に東遷して河内王朝をつくった、
という話だったと思う。
河内王朝も大和の前方後円墳祭祀を継承していることから、
俺は東遷というより、北九州に縁のある応神の畿内王権簒奪だと
思っているが。

928 :日本@名無史さん:04/10/11 06:28:08
>>927
宇佐に、北九州の旗頭になったり畿内を征服したり出来る程の国力はない。
ていうか、そのようなことを物語るような遺跡は見つかっていない。
空想なんだよ。

929 :日本@名無史さん:04/10/11 06:34:51
畿内説が宇佐を否定する理由は、
>宇佐に、北九州の旗頭になったり畿内を征服したり出来る程の国力はない。
>ていうか、そのようなことを物語るような遺跡は見つかっていない。

という漠然としたものだけ。
それに、宇佐と比べ、畿内だという有力な根拠が見つからないよ。

930 :日本@名無史さん:04/10/11 06:36:36
畿内説は
>>906
>帯方郡から邪馬台国まで一万二千余里。
>帯方郡から末盧国(唐津)まで約一万里。
>つまり、末盧国(唐津)から邪馬台国まで二千里。
>対馬−壱岐の間が、千里余。
>ならば、末盧国(唐津)−宇佐は、筑紫山地があり直線では進めず、
>海沿いに行けば、ほぼ二千里だろう。
>畿内までを二千里とは遠すぎる。

にどう応戦するの?

931 :日本@名無史さん:04/10/11 06:37:51
豊後は後世、大友宗麟を輩出したり九州文化の中心になるが、
大友が島津に負けて以来、その地位は転落する。
日田の杉を使った強力な水軍でも持っていたのかな?


932 :日本@名無史さん:04/10/11 06:38:52
豊の国が繁栄したのは、あくまで畿内勢力に真っ先に通じた九州の国としてで、
古くから畿内の影響の強い所だったとは思うよ。

933 :日本@名無史さん:04/10/11 06:40:35
>>932
だから、そのように書く根拠がないよ。
逆に、畿内が宇佐の影響を受けたと書かれても、否定できないよ。

934 :日本@名無史さん:04/10/11 06:45:36
>>929
おいおい。宇佐を積極的に肯定するような根拠こそないだろ。
記紀の編纂者は、なぜ宇佐が皇室の故郷であると書かなかったのか?

記紀では、日向への天孫降臨の記載、大和での初代天皇即位しか書いてないぞ。

935 :日本@名無史さん:04/10/11 06:47:44
>>934
今まで、結構述べられてるよ。
反対に、畿内は全く反論できてないよ。
自分は、宇佐に1票。

936 :日本@名無史さん:04/10/11 06:54:30
>>929
漠然としてるか?
宇佐に邪馬台国に比定できるような大きな遺跡が見つかっていないことが?

記紀にも記載がなく、考古学的証拠もない。倭人伝は恣意的解釈。
残されたのは、7世紀以降皇室の尊崇を集めたとされる宇佐神宮と、
歪んだ郷土愛だけ。

937 :日本@名無史さん:04/10/11 07:01:12
朝早くから、何ムキになって、2人で論争してるんだ。
こんな早くから多くのレスがつくのは、お互いに自演してるからだろ?

只でさえ少ない古代史好き同士なんだから仲良くしろよ。

938 :日本@名無史さん:04/10/11 07:07:37
>>937
朝早くに起きた古代史好きの老人二人(奈良県出身と大分県出身)が論争してる
とすれば、微笑ましいじゃないか。

939 :日本@名無史さん:04/10/11 07:21:49
>>930
倭人伝は恣意的解釈に陥るので、ひとまず横に置いておこうよ。
同じ話を何度も読まされても。別スレで延々やっていることだし。

魏志倭人伝等を読む(邪馬台国はどこですか14)
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1093794804/l50

940 :日本@名無史さん:04/10/11 08:13:46
>>938
老人たちというより、昼夜逆転しているヒキコモリたちだろ。

941 :日本@名無史さん:04/10/11 09:33:23
海外なら、夜とは限らない。

942 :日本@名無史さん:04/10/11 09:36:00
>>870
九州王朝説はもちろん古田武彦の九州王朝説です。
この説は邪馬台国と大和朝廷が別王朝であると主張しています。
東遷説は4世紀ごろ、邪馬台国が畿内に東遷し、大和朝廷と
なったとしているのですから、王朝交代はありません。
卑弥呼朝貢以前の古い時代に東征なり、東遷が有ったとする
考え方は畿内説に分類されますので間違えないようにしてください。
ただし、畿内説自体は必ずしも古い時代の東征・東遷を必要としません。
ここは論者によって異なります。
仮に畿内説を古い時代に東遷があったとする立場におくとすると、
畿内説と東遷説は東遷時期が異なるだけです。
ま、似たような説といえます。
それに対し九州王朝説だけが思いっきり異なっています。

943 :( ゚Д゚)<ボクメーツ ◆uhiboKUMEQ :04/10/11 10:05:16
( ゚Д゚)<たった二千文字が今に伝える
( ゚Д゚)<卑弥呼の歌

944 :日本@名無史さん:04/10/11 10:40:36
>>942
東遷・東征説が根拠が無いと否定された今、
@畿内在地勢力→邪馬台国→大和朝廷(畿内説)
A畿内在地勢力→大和朝廷→九州邪馬台国を併合(九州説)
の2つに絞られたわけだ。

九州王朝説? ああ、そんなものもあったね。

945 :日本@名無史さん:04/10/11 11:10:37
>>944
Aは邪馬台国を併合した時期が問題でしょう。
旧唐書、新唐書に合わせると九州王朝説そのものになってしまう気がします。
それよりも前と考えると中国側は邪馬台国が滅んだことを
知らなかったことになり多少無理があるかと思います。
さらに前の卑弥呼朝貢以前となると、なぜ併合した側の国名が記されているのか
という疑問が残ります。

946 :日本@名無史さん:04/10/11 11:14:19
945
併合した側の国名×
併合された側の国名○

947 :日本@名無史さん:04/10/11 11:39:49
畿内説としては
畿内の在地勢力が成長して大和朝廷を形成した。
卑弥呼朝貢以前に九州の勢力が東遷し、畿内に大和朝廷の基礎を築いた、
の二種類とするのが相場と思います。
おれ自身は後者の立場を取ります。

948 :日本@名無史さん:04/10/11 11:41:55
>>942
>東遷説は4世紀ごろ、邪馬台国が畿内に東遷し、大和朝廷と
>なったとしているのですから、王朝交代はありません。
は?
既に畿内にあった銅鐸・古墳文明が、九州の銅鏡文明に滅ぼされたんだろ。

949 :日本@名無史さん:04/10/11 12:14:32
>>既に畿内にあった銅鐸・古墳文明が、九州の銅鏡文明に滅ぼされたんだろ。
銅鐸・古墳文明

950 :日本@名無史さん:04/10/11 12:20:32
>>945

>それよりも前と考えると中国側は邪馬台国が滅んだことを
>知らなかったことになり多少無理があるかと思います。

どこに無理が?
倭奴国が滅んだという記述がどこかにあったか?
辺境の国の政権交代劇をいちいち知ってられないだろ。



951 :日本@名無史さん:04/10/11 12:36:00
>>950
知らないにもかかわらず
代々、倭国伝を立ててきたという意見には賛成しかねる。


952 :完全理論武装論者:04/10/11 15:44:27
        邪馬台国は中国大陸にあった1(完全理論武装論者作)

古代国家邪馬台国は中国大陸南部にあったのです。
邪馬台国の場所はほぼ特定できますが、詳細な位置は現地に行かないと判明しないでしょう。

古代国家邪馬台国を知ろうとするには、過去の文献や遺跡発掘に頼る考古学のみで
知るには到底無理です。
邪馬台国を知るには、「紅海方位の法則」と「万里の長城理論」を学び、さらには
理法書の「理法理論」と「理法軍事学」と「理法歴史学」等を学ばなければ到底無理でしょう。
※「紅海方位の法則」「万里の長城理論」「理法理論」「理法軍事学」「理法歴史学」は
この板にて書き込み中です。http://jbbs.livedoor.jp/music/6270/

上記の法則や理論を知らない人にも、邪馬台国がなぜ中国大陸にあったのかを大まかに説明しましょう。
邪馬台国誕生の歴史には、雑種民族である日本人誕生のルーツと古代中国大陸での歴史に密接に関わっています。
なぜ邪馬台国が忽然と消滅したのかも、中国大陸での国家間の覇権争いと大きな関係があるからです。

953 :完全理論武装論者:04/10/11 15:45:06
 邪馬台国は中国大陸にあった2(完全理論武装論者作)

1では古代国家邪馬台国は中国大陸南部にあったと書きましたが、厳密に言えば
邪馬台国は中国大陸南部から台湾、琉球列島、九州へとつながる広大な国家だったのです。
東シナ海を挟んで東西に広がった海洋国家といっていいでしょう。

しかし国家といっても完全な統一国家ではなく、各地域が複数の集落としてつながり
それらの複数集落がそれぞれ小さな国家として成り立ち、その小さな国家の集合体が邪馬台国なのです。
つまり現在でいう共和国制みたいなものです。

現在の州ごとに独自の法律があるアメリカ合衆国や、かってのソビエト連邦共和国とよく似た形態の
国家だったのが古代の邪馬台国だったのです。
そしてその邪馬台国の政治の中心となる場所(アメリカ=首都ワシントン・ソビエト=首都モスクワ)が
中国大陸南部にあったということです。

共和国制邪馬台国の政治の中心は中国大陸南部にありましたが、ここはあくまでも政治の中心であり
経済の中心や軍事力の中心ではなかったということです。
アメリカの経済や軍事力の中心が首都ワシントンにないのと同じことです。

さらに中国大陸南部のある地域が邪馬台国の政治の中心といっても、その政治は
宗教と一体化した政治であり、宗教を司る者が政治の指導者として共和国制邪馬台国に
君臨していたに過ぎません。

954 :完全理論武装論者:04/10/11 15:45:37
邪馬台国は中国大陸にあった3(完全理論武装論者作)

2で書いた、宗教を司る者が政治の指導者として共和国制邪馬台国に
君臨していたに過ぎません。

これはキリスト教を崇拝するバチカン司教を政治の中心として、成り立っていた
中世の西ヨーロッパ諸国や、イスラム教を崇拝する指導者が政治を司っている
近世や現在のイランに代表されるイスラム国家にもあてはまります。

つまり古代の邪馬台国は宗教指導者を政治指導者にもした共和国制国家だということです。
この宗教指導者は政治も司どることはしても、経済や軍事力を掌握はしてはいませんでした。
あくまでも宗教的政治を通してのみ、邪馬台国内各共和国に経済力や軍事力を依存していた
ことになります、これはイタリアのローマにあるバチカン司教国と同じです。

ヨーロッパ中世の各国はこのバチカン司教の司る政治によって、強大なキリスト教
集合国家として誕生しました。

なぜこんな強大なキリスト教国家が誕生したかといえば、当時西アジアや中東地域で爆発的に
広がったイスラム教とイスラム教指導者を政治指導者にして、イスラム教を崇拝する各国が
強大なイスラム統一共和国国家を誕生させたからで、そのイスラム統一共和国国家の
ヨーロッパ地域へのイスラム勢力拡大を防ぐために、独自の国家のみで防ぐことができずに
同じキリスト教を崇拝する国家同士が連携しあい、イスラム勢力へ対抗するために
バチカン司教を政治の中心とした強大なキリスト教集合国家が誕生したわけです。

955 :完全理論武装論者:04/10/11 15:46:14
邪馬台国は中国大陸にあった4(完全理論武装論者作)

古代邪馬台国もまた3で書いたことと同じ時代背景で誕生したわけです。
古代中国大陸や朝鮮半島、日本列島の西半分を含む東アジア地域は、それぞれ地域ごとの
小さな集落国家として成り立っていました。

しかし「万里の長城理論」によって大きな圧力の発生した地域は次々と小さな集落国家が消滅していきました。
やがてその圧力はどんどん拡大して大きくなり、「紅海方位の法則」によって民族大移動が発生しました。
その民族大移動に巻き込まれた小さな集落国家の中には、消滅していく国家もあれば民族の流入を受けて
より大きな集落国家へ発展していき、民族流入による紛争や争いから防衛力を高めるための軍事国家へと
成長していく国家もありました。

また「紅海方位の法則」によって莫大な富を蓄えた経済集落国家も数多く誕生しました。
その集落国家の中から、さらに経済的にも富にも軍事的にも発展していった国家が生まれ
それらの国家は経済力と軍事力を背景に「万里の長城理論」による混乱から収束を図るために
平和と生活の安定を大義名分にして、周辺の集落国家を侵略したり併合したりして
次第に大きな国家が生まれていくようになりました。

もちろん大きな国家を誕生をさせようとするな勢力に対抗する、既存の集落国家も数多くいました。
「万里の長城理論」による大きな圧力を真っ先に受けた中国大陸北部地域では、小さな集落国家は
すでに消滅するか侵略による併合によって、複数の大きな統一国家誕生への流れとなっていました。
それによって複数の大きな統一国家同士の侵略と併合も活発化していきました。
魏志倭人伝の書かれた三国志でも有名な三国時代につながっていく大規模戦争時代の突入です。

一方、朝鮮半島や中国大陸南部は、「万里の長城理論」による民族大移動の力を受け始めたばかりで
小さな集落国家が消滅していくか大きな集落国家へと発展していく最中でした。
そのころの日本列島はといえば小さな集落国家全盛の時代で、まだ「万里の長城理論」による
民族大移動の圧力もそれに伴う争いや混乱からも無縁の地域だった。

956 :完全理論武装論者:04/10/11 15:46:52
邪馬台国は中国大陸にあった5(完全理論武装論者作)

しかし小さな集落国家全盛の日本列島も、「万里の長城理論」による圧力から
逃れることができずに、次第に朝鮮半島経由や琉球列島経由や東シナ海を
直接渡ってくる民族大移動の波に巻き込まれていきました。
やがて日本列島西半分(特に九州地域から)でも、民族流入によって
小さな集落国家が消滅したり混乱や紛争に巻き込まれて、その圧力から
防衛するためにより大きな集落国家へと移行する流れとなりました。

そうした混乱が発生しだした日本列島西半分の中で、勢力を急激に
拡大しだしたのが、北部九州地域に勢力を置く集団(現在の福岡市中心部付近)で
この勢力は「紅海方位の法則」によって経済力が高まり、その経済力を使って
軍事力をも高めていきました。

一方民族の大移動は琉球列島経由や東シナ海を直接渡ってくることで、たどり着く先の
九州南部地域や九州西部地域にも「紅海方位の法則」が、北部九州地域に比べれば
小さいながらも発生しており、その力によって九州南部地域や九州西部地域にも
経済力や軍事力が発展していった。

957 :完全理論武装論者:04/10/11 15:47:32
邪馬台国は中国大陸にあった6(完全理論武装論者作)

やがて時代が経つにつれて、中国大陸では各地の小国は大国となった魏、呉、蜀の国へと
併合されていき、三国が治癒動く大陸での覇権を争う三国時代の幕開けとなっていった。

そのころの日本列島西部地域でも、ようやく小さな集落国家の時代に終わりがきて
次第に三大勢力による覇権争いの時代に突入していった。
三大勢力とは、九州北部地域を支配する奴、九州中部地域を支配する熊襲、
九州南部地域を支配する隼人で、この三大勢力が経済的にも軍事的にも日本列島西部
で最も勢いがあった。

やがてこの三大勢力による九州の覇権争いが、大規模に活発化していき
(これまでも小さな勢力争いはたびたびあった)この紛争が活発になっていった
この九州地域からも、平和と生活の安定を求めて逃れる者が増えて、日本列島内でも
さらに東へと移動していく者が多くなっていった。

この日本列島内の民族移動圧力のたどり着いた先が、出雲地方や近畿の大和地方で
ここでもまた「紅海方位の法則」の力が発生して、この地域は経済的に豊かになっていった。

一方九州での三大勢力による覇権争いは次第に二大勢力による覇権争いへと移行していった。
元々九州中部勢力の熊襲と九州南部勢力の隼人は、

なんか書くのと考えるのが疲れてきた。もうやめた、今日はここまで

958 :完全理論武装論者:04/10/11 15:55:00
>大体、東夷の倭の話しが何で、中国大陸なのよ。中国南部は当時、呉の領域だろうが(藁)

あなたは考古学には詳しいけど軍事的なことはさっぱりのお方ですね。
中国大陸の地図をよーくご覧なってください。
中国国内では県ではなく省に分かれていますね、その省の中に
何々自治区という文字を発見しましたか?
その何々自治区となっている省は中国大陸のどこに多く分布していますか?

自治区と省の違いは何でしょうか?どうして昔の呉の国や蜀の国があった地域に
何々自治区が多く点在しているのでしょうか?
また戦争による侵略とか併合とかの軍事行動はすべて面制圧ではなく点制圧で行われます。

これは古代の戦争でも近代の戦争でもまったく変化はありません。
面制圧とはすべての集落に対して軍事制圧することで、点制圧とは制圧したい地域の
重要な拠点や都市集落などのごく一部を軍事制圧したに過ぎません。

959 :完全理論武装論者:04/10/11 15:55:47
>大体、東夷の倭の話しが何で、中国大陸なのよ。中国南部は当時、呉の領域だろうが(藁)

続く
古代の呉の国が中国大陸南部を軍事制圧した場合も、当然重要な拠点や集落のみを占領する
点制圧だけだったのです。
ところが文献や地図上では中国大陸南部全域が呉の領土になったかのようになってしまします。
実際には点制圧しかしていない歯抜けだらけの呉の領土なのです。

これは第二次世界大戦の大日本が軍事占領した領土の地図を見ても同じことです。
地図上では日本の占領した領土は北はアリューシャン列島のキスカ島から、
西太平洋全域、東南アジア全域、インドシナ半島全域、中国大陸の東半分、朝鮮半島
となっていますがこれらのすべてを面制圧したわけではありません、ところどころの
重要な拠点や島、都市などを軍事制圧しただけで、すべての地域を軍事占領したかのように
なっているのです。

地図上では日本の占領領土となっていても、実際には日本軍など一度も来たことがなく
日本の支配下に置かれていない集落は数多くありました。
昔の呉や蜀の国もそうだったのです。
文献や地図上では呉の領土となっていても、実際には漢人の軍隊は一度も来なくて
現地の少数民族が独自に支配している地域が数多くありました。

その名残が現在の今でも何々自治区や自治省という形で残っているわけです。

960 :完全理論武装論者:04/10/11 15:56:25
>大体、東夷の倭の話しが何で、中国大陸なのよ。中国南部は当時、呉の領域だろうが(藁)

続き
次に東夷の話ですが、邪馬台国は東夷だけの話となっていますが実際はそうではなかったのです。
当時の中国大陸と密接に関わりあっていたのです。

このことを詳細に説明しだすと本1冊書けるくらい長文になるので、ヒントだけでやめときますが
三国志の時代、日本列島の中の一地域の小国に過ぎない奴国が、はるか遠くの大陸の魏に使者を
わざわざ派遣して金印を授かる必要があったのか?

なぜ大陸の魏の力をバックに頼ろうとしたのかを、考古学的見地だけではなく
軍事的見地や歴史的見地で考えれば、私のいってることが理解できると思います。
この魏と奴国の関係を現在にあてはめれば、魏がアメリカで呉がロシアで
蜀がドイツに例えて、奴国をポーランドに例えればよくわかるでしょう。

現在のポーランド国が何の関係もないイラクに、軍隊を派遣してアメリカ軍の
占領統治の手助けを必死でやっていますね、なぜでしょうか?

961 :完全理論武装論者:04/10/11 16:22:25
生物であり動物でもある人間の行動は、「理法理論」によってすべて予測可能です。

よく「完全理論武装論者」の書き込んだ文章を、妄想だとか脳内とか言う人は多いですが
これらはすべて、「理法理論」に基づいて人間が次にとる行動を予測しているのです。

「理法理論」の「理法」とは「理にかなった法則」のことで、自然界のありとあらゆる現象は
すべて「たったひとつの理にかなった法則」によって発生しています。
その「理にかなった法則」のことを「理法」と呼び、その「理法」を使って理論を
組み立てたものを「理法理論」と呼びます。

さらに自然界のすべての現象を理法理論で組み立てて、それらを1冊の本に
まとめたものを「理法書」と呼びます。

人間は動物の中に含まれます。
その動物は生物の中に含まれます。
さらに生物は物質の中に含まれます。 物質>>>生物>>>動物>>>人間
そして生物、動物、人間にはそれぞれ役割を持って活動しています。

つまり役割を持った人間が次に行う行動は
物質的行動、生物的行動、動物的行動、人間的行動の4つで構成されています。
そうした4つの行動を「理法」で解析して理論づけしているのです。

962 :完全理論武装論者:04/10/11 16:50:24

さらに私はその「理法書」を使って、世界民族が共有できる新しい憲法草案
「生産者第一主義・女性中心社会」を作って、「生産者党」によって
万民に普及させようと考えています。

963 :日本@名無史さん:04/10/11 17:52:57
>>947
>卑弥呼朝貢以前に九州の勢力が東遷し、畿内に大和朝廷の基礎を築いた
東遷の時期は倭国大乱のあった2世紀後期あたりってことか? 

卑弥呼以前以後にかかわらず、根拠なく北九州勢力の大規模な東遷に拘る人がいるのは
何故なんだろう?

964 :完全理論武装論者:04/10/11 17:58:48
「ののたん」ですよ

さらに私はその「理法書」=『ののたん』を使って
世界民族が共有できる新しい憲法草案
「ののたん第一主義・ののたん中心社会」を作って
「ののたん党」によって万民に普及させようと考えています。

∋oノハヽo∈
  ( ´D`)
  (⌒)つつ  ののたん党れす てへてへ
    (__ノ


       ┌─┐   ┌─┐
       │の│   │の│
       └─┤   └─┤
          ∩       ∩ ののたん!
    ( ‘д‘)彡  ( ´D`)彡  ののたん!
 ┌─┬⊂彡┌─┬⊂彡
 |た|    |ん|
 └─┘    └─┘

965 :日本@名無史さん:04/10/11 18:16:55
こらまたすごい電波発信源が来たなw
人材豊富だなこのスレw


966 :日本@名無史さん:04/10/11 18:30:29
邪馬台国は台湾だと思う。

邪馬台国は、九州の「やま」と、「台湾」の連合国、共同体みたいなものだったんだなあ。
卑弥呼の都が台湾なら、魏志倭人伝のすべての記述が無理なく解けるわけ。

2世紀の台湾は、北側の邪馬台国と、南側のクナ国に分かれていたんだよ。


967 :日本@名無史さん:04/10/11 18:41:08
【北九州東遷の根拠に対する反論】

・鉄は北九州>畿内 >>816
・甘木付近の地名が〜 >>669
・神武の記載 >>686-687

968 :日本@名無史さん:04/10/11 18:42:36
【北九州東遷の根拠に対する反論 その2】

・銅鐸の消滅 >>797 >>799 >>805 >>808
・マキムク建都 >>887
・阿蘇石 >>356 >>379 >>363

969 :日本@名無史さん:04/10/11 19:53:35
>>967-968
反論って言っても、その根拠があやふや、疑問を呈されているものに
基づいて書かれていることを元に書かれてもねえ。
説得力ないと思うが。

970 :日本@名無史さん:04/10/11 20:11:32
>>969
うん。
ただ東遷説自体がそもそも根拠の無いものであり、無から有を生み出す作業
なのだから、東遷を主張する以上、積極的証拠を示してもらいたいということ。
壮大でロマンのある仮説だから、飛び付いてしまう輩が多いのは分かるが。

971 :日本@名無史さん:04/10/11 20:21:44
だって本当のことだもん。

972 :日本@名無史さん:04/10/11 20:46:29
東 遷 説 は ま と も な 反 論 が 出 来 て い な い

東遷が卑弥呼以前にしろ以後にしろ、きちんとした根拠を示してくれ。

973 :日本@名無史さん:04/10/11 20:55:34
>>972
「反」はいらないんでないの?

974 :日本@名無史さん:04/10/11 22:05:20
滅亡した九州説信者ってアホですね。

975 :日本@名無史さん:04/10/11 22:09:17
 || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
 || ○アンチは放置が一番キライ。アンチは常に誰かの反応を待っていますぅ。
 || ○放置されたアンチは煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
 ||  ノセられてレスしたらその時点であなたの負けりんこ。
 || ○反撃はアンチの滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。アンチにエサを
 ||  与えないでちーだいです。             ノハヽヽヽ
 || ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて   \(*^ヮ゚*从 キホン。
 ||  ゴミが溜まったら削除が一番ですよぉ。   ⊂  ⊂ |
 ||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_      | ̄ ̄ ̄ ̄|
      (  ∧ ∧__ (   ∧ ∧__(   ∧ ∧     ̄ ̄ ̄
    〜(_(  ∧ ∧_ (  ∧ ∧_ (  ∧ ∧  は〜い、優子先生ぇ。
      〜(_(   ,,)〜(_(   ,,)〜(_(   ,,)
        〜(___ノ  〜(___ノ   〜(___ノ


976 :日本@名無史さん:04/10/11 22:19:43
日向への天孫降臨って、やっぱ、朝鮮半島から?

977 :日本@名無史さん:04/10/11 22:56:21
>>970
969は東遷を根拠なく批判することを否定してるのだ。

記紀に書かれてるのに、都合のいいとこは用いて、都合の悪いとこは
なかったことにするのね。畿内説。

978 :日本@名無史さん:04/10/11 23:33:24
>>976
そうでしょう
大陸系の神話だね

979 :日本@名無史さん:04/10/11 23:37:17
卑弥呼ってムカつくよな
日巫女にすりゃいいのにな

980 :日本@名無史さん:04/10/11 23:44:27
「エレガント卑弥呼」というブティックがある。
「卑弥呼」はヤメロと。

981 :日本@名無史さん:04/10/11 23:59:37
韓国の建国神話は日本の天孫降臨とよく似ており、
「亀旨峰(クジボン)」という山に6個の卵が降りてきて、
卵から生まれた王たちは、それぞれ6伽耶の王になったというもので、
その最初がこの「首露王」なのである。亀旨峰という名前も、
古事記にいう「久士布流岳」(くじふるだけ)と似ていて、
その類似性に注目する学者も大勢いる。
なお、首露王は金の卵から生まれたというので、姓を「金」と名乗ったとされている。

982 :日本@名無史さん:04/10/12 00:02:30
檀君神話で、天神が子に三種の宝物をもたせ、風、雨、雲の三種の職能神を供として天下らせ話は、
日本神話の三種の神器との類似が指摘される。
また檀という樹の意味は、日本神話の高御巣神の別名高木神と関係があるとも云われる。
また、降臨した土地が高千穂の久士布流岳であるのは、首露王神話の亀旨に通じ、
降臨場所が高千穂のソホリの峰であったのは、朝鮮語の都の意味のソウルに重なるともされる。
また、同じく日本書紀によれば、邇邇伎命は降臨するときにマドコオウフスマに包まれているが、
これが首露王が黄金の卵にはいって天からくだって来るのと共通している。こうみてくると、
「三国遺事」が伝える朝鮮古代神話が日本の天孫降臨神話に影響をあたえていることはほとんど疑問がない。

983 :日本@名無史さん:04/10/12 00:05:16
>>982
「三国遺事」が成立したのは平安末期だぞ。
糞チョンは年代の新旧も分からないのかよ。(プ

984 :日本@名無史さん:04/10/12 00:31:03
>>
ということは日本神話が朝鮮神話に影響を与えたってことか。すげーな。

985 :日本@名無史さん:04/10/12 04:36:58
あーぁ、バカなやつのおかげでレスが止まった……。

986 :日本@名無史さん:04/10/12 05:05:40
養蚕は九州の門外不出の技術で、九州が日本の絹文化を独占していた。

弥生時代後期までの絹の出土は全て九州の遺跡からであり、
近畿やその他の本州で絹が出土するのは古墳時代になってからである。
出土地は筑後川北岸の福岡県と、有明海北岸の佐賀県に集中している。
福岡県甘木市の栗山遺跡、佐賀県吉野ヶ里などが有名である。

魏への貢物は絹織物であり、畿内は、絹の生産でも九州に遅れをとっていた。
これでも畿内に邪馬台国があったと言えるのか?


987 :投馬国東遷説:04/10/12 08:32:30
邪馬台国じゃなくて日向にあった投馬国が
東遷したんですよ。

988 :日本@名無史さん:04/10/12 08:44:15
>>987
俺もその説を考えていたんだよ
投馬国と北九州邪馬台国との関係が不明だが・・・

989 :日本@名無史さん:04/10/12 09:04:53
>>986
卑弥呼は古墳時代だから無問題

990 :日本@名無史さん:04/10/12 14:04:58
>>989
でも、箸墓、三輪、ホケノ一帯からは、
絹製品は出土してませんよ?

991 :日本@名無史さん:04/10/12 14:13:37
マキムク遺跡から発掘される地方からの搬入土器の出身地を調べてみると、
約半数の49%が東海系の土器で、
北陸系と山陰系が17%、河内系が10%、吉備系7%、関東系5%、
近江系5%、西部瀬戸内系3%、播磨系3%、紀伊系1%となる。
北九州の土器は、1%に満たない。
このことは、九州とマキムクの断絶を意味し、
畿内が九州を支配していたなどとは到底言えない。


992 :日本@名無史さん:04/10/12 14:42:00
>>991
地方政権だった可能性は有ると思うけど。

993 :日本@名無史さん:04/10/12 15:11:45
最近の考古学では、箸墓古墳を古く見積もるようになったが、
出土土器を、炭素C14などで調べたわけではなく、
形が似ている、というだけを根拠にしているだけ。
調査しようとすると、妨害もされる。

これは、石器の捏造と同じ過ちを繰り返そうとしているだけ。
「成果が先」という日本の考古学の体質は変わっていない。

994 :日本@名無史さん:04/10/12 15:13:37
地名の一致度の高さから考えて、邪馬台国かどうかはともかく、
筑後川流域から奈良への大きな勢力移動(東遷)があったことは確かだろう。

995 :寛恕不如意背反網倫理:04/10/12 16:42:52
>>994
御説の通りコピーでなくて、カット&ペーストであったとは思うが、丹後にも阿蘇、竹野、鉄、
太陽崇拝、女王等類似キーワードを含む集団が到来する。どうも半島、九州と関係があり
そう。吉備では箸墓の前段階の楯築古墳の建設がある。前後するが伊都国では平原
女王が崩御する。日向において岩戸儀式が執行される。又、河内、紀州西部から太陽関係
の神社が分布している。こういうことを考えてみると単に九州のカットを大和にペーストした
というのではなく、建設労働者、土器、金属技術者集団は広域に展開しつつ、大和に入り
一部は更に東方へと向かったのではないかという感じがしますね。東遷は動かぬとしても
その動きは九州を出発点とするのではなく、例えば辰韓・弁韓とかから放射状に広がった
ということも視野に入れる必要があるのではないでしょうかね。当時の半島南部は各国の
入居地ですから、民族的侵略とかがあったというのではなく、何らかの儀式の移動があったのではないかと。・・・


996 :日本@名無史さん:04/10/12 16:53:08
>>995
十分考えられます。脊髄反射の反論くるでしょうが。


997 :日本@名無史さん:04/10/12 17:10:23
>>990
嘘ばかりいうな。下池山古墳から出土した銅鏡を包んでいたのが
倭絹だと判明したのは有名な話だ。

998 :日本@名無史さん:04/10/12 17:16:25
>>995
なぜ朝鮮人の歴史捏造に荷担したがるのやら。
文献では「魏略」逸文に、邪馬台国の使者が呉の太伯の末裔と自称した話がある。
「日本書紀」では南九州に天孫降臨しており、黒潮ルートが考えられる。

巨大な墳墓は日本以外にエジプト・中国・メキシコなどにも存在するが、
他の地域では墓室は地平面以下に作られているのに対して、日本の竪穴式石室は
頂上近くに作られるのはユニークで、日本の独自性を顕著に示すものだ。

三種の神宝のうちで、東アジアでは糸魚川特産のヒスイで作られた勾玉は
縄文時代から続く日本伝統のもの。剣は世界各地にあるもの。
銅鏡は中国の祭祀を流用したもので、中国の影響が強く見られる。
ただし、弥生時代の銅鐸同様に銅鏡も日本で著しく巨大化している特徴がある。
銅鏡は日本での出土が非常に多く、朝鮮半島では楽浪郡の漢人の墓では出るが、
土着の墓には殆ど見られず、日本との大きな違いを見せている。

999 :日本@名無史さん:04/10/12 17:17:08
銀河鉄道999

1000 :日本@名無史さん:04/10/12 17:17:44
仙人

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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