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改易大名の子孫を追う
- 1 :日本@名無史さん:04/10/09 03:32:00
- 宇都宮、葛西、大崎、福島、最上、加藤、有馬
などの改易大名たちの子孫について研究してみましょう
- 2 :日本@名無史さん:04/10/09 03:47:52
- やっぱ切腹でしょ
- 3 :日本@名無史さん:04/10/09 03:48:56
- ありがち、旗本入り。
- 4 :日本@名無史さん:04/10/09 06:11:21
- 宇都宮・・・水戸藩士
葛西・・・仙台藩士、盛岡藩士
大崎・・・盛岡藩士
福島・・・旗本
最上・・・旗本
加藤・・・庄屋
有馬・・・大名
- 5 :日本@名無史さん:04/10/09 07:26:48
- ggggg
- 6 :日本@名無史さん:04/10/09 12:25:22
- >>1
お前糞スレ立てまくってるな
死ね
- 7 :日本@名無史さん:04/10/09 16:39:16
- 宇都宮って水戸藩士になったんだ……
それにしても鎌倉南北朝時代からの名族が田舎の藩の
下級藩士に身を落とすってのは悲しい事だな
- 8 :日本@名無史さん:04/10/09 16:44:22
- >>7
天狗党スレのところ読んできてから書け。
- 9 :日本@名無史さん:04/10/09 19:59:23
- >7
御三家は名門集めまくりだよ
- 10 :日本@名無史さん:04/10/09 21:03:48
- そりゃまあ新興の大家だから
「名門さんいらっしゃい」状態なんだろうな 御三家のはじまり
- 11 :日本@名無史さん:04/10/10 10:13:40
- 本多正純の子孫は?
- 12 :日本@名無史さん:04/10/10 10:22:27
- >>4
> 宇都宮・・・水戸藩士
秋田藩にもいるべ。
- 13 :日本@名無史さん:04/10/10 15:56:04
- 下総千葉氏はなんで拾ってもらえなかったの?
- 14 :日本@名無史さん:04/10/10 16:01:14
- 有馬っていつ改易されたの?明治まで久留米21万石で残ってるけど
- 15 :14:04/10/10 16:04:05
- あっ、ごめん。有馬ってキリシタン大名の有馬(晴信)家のこと?
- 16 :日本@名無史さん:04/10/10 16:11:03
- キリシタン有馬はどうなったの?
- 17 :日本@名無史さん:04/10/10 17:15:07
- 加藤は山形に流されたから、清正の位牌はそこにある。
- 18 :日本@名無史さん:04/10/10 18:11:38
- >>17
初耳。
子孫は庄屋って聞いたけど、山形の庄屋になったの?
- 19 :日本@名無史さん:04/10/10 18:13:08
- 加藤の子孫の庄屋になった家って、持高どれくらいあったの?
- 20 :日本@名無史さん:04/10/10 18:48:38
- 忠広公の時は一万石あったはず。
ただし、一応大名だけどね。
- 21 :日本@名無史さん:04/10/10 22:00:20
- 三島由紀夫
- 22 :日本@名無史さん:04/10/10 22:15:25
- >11
正重の一族が前田家に5万石という
陪臣では最高の石高で明治維新までつかえました。
- 23 :日本@名無史さん:04/10/11 13:34:17
- 正重の子孫は大名だけどね。
- 24 :日本@名無史さん:04/10/12 17:01:26
- >>17
秋田で飯田に改名したんでは・・・
- 25 :日本@名無史さん:04/10/12 18:48:38
- 42 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/10/12(火) 17:05
改名しても子孫は生きてる
真田→飯田
- 26 :日本@名無史さん:04/10/12 20:24:27
- >>24
どこの眉唾話だよ。
ちゃんと加藤家は、町民籍にはなったが未だに続いている
- 27 :日本@名無史さん:04/10/12 21:04:38
- >>13
たまたま、北条〜家康の時期に、的確な当主がいなかったから。
&その頃までに衰退しまくってたから。
&コネがなかったから。
&由緒正しくはあったけど、「格式」はなかったから。
うまく行けば高家ぐらいには・・・
- 28 :日本@名無史さん:04/10/13 10:54:57
- 改易じゃないけど、尼子とか戦国で没落した家の子孫は?
- 29 :日本@名無史さん:04/10/13 10:58:36
- >>28 長州藩客分で昭和で断絶だったはず。
- 30 :日本@名無史さん:04/10/13 15:25:14
- 細川備中守護家と首藤山内家も毛利家家臣
- 31 :日本@名無史さん:04/10/29 02:03:37
- イスラム過激派が香田の首切るに10000ウォン
- 32 :日本@名無史さん:04/10/29 02:19:54
- r;ァ'N;:::::::::::::,ィ/ >::::::::::ヽ
. 〃 ヽル1'´ ∠:::::::::::::::::i
i′ ___, - ,. = -一  ̄l:::::::::::::::l
. ! , -==、´r' l::::::/,ニ.ヽ
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- 33 :日本@名無史さん:04/11/12 20:26:22
- hage
- 34 :日本@名無史さん:04/11/13 10:12:06
- >>16
肥前島原→日向延岡→越前丸岡と移るが大名の列から落ちてないよ。
- 35 :日本@名無史さん:04/11/13 18:08:54
- >>13
家康が召し抱える為に呼び出そうとした時に、家康の意図を勘違いした旧臣が
死んだ(行方不明だったかも)という事にしたから。
まぁ秀吉が天下様の時代の話だから、庇おうとする旧臣の気持ちも解るが…。
- 36 :日本@名無史さん:04/11/14 00:56:03
- >>28 津和野の亀井氏は一応尼子の一族
- 37 :日本@名無史さん:04/11/14 08:55:31
- ということは、亀井静も尼子子孫の一人だな。
- 38 :日本@名無史さん:04/11/14 10:38:31
- >37
もう一人の国会議員のほうが尼子子孫で大名の亀井。
静はどん百姓の子孫
- 39 :日本@名無史さん:04/11/14 16:32:51
- 鴻池家は山中鹿之介を祖としているので、それも尼子一門
長崎事件の時親をさらしもんにしろといった鴻池議員は
亀井の家来筋?
- 40 :日本@名無史さん:04/11/14 16:34:45
- 静香は農民だから関係ない
- 41 :日本@名無史さん:04/11/14 20:25:26
- >>38
久興だよね?善之は違うよね?
- 42 :日本@名無史さん:04/11/16 04:58:54
- >>39
大名と旗本が徳川将軍の直臣という意味においては同格だったように
山中氏(の末流たる鴻池家)と亀井氏も尼子一門という意味では同格だよ
- 43 :日本@名無史さん:04/11/16 11:14:14
- 加藤紘一は清正の子孫?
確か山形出身だよね?
- 44 :日本@名無史さん:04/11/17 02:40:49
- 幕末に大目付?やってた滝川具挙(だっけ?)は
一益の末裔ってことでいいの?旗本だよね?
- 45 :日本@名無史さん:04/11/17 18:48:32
- 加藤紘一は、加藤家の明治以前の分家になります。
- 46 : :04/11/17 22:53:06
- 長曽我部康豊 酒井家重臣
- 47 :日本@名無史さん:04/11/18 00:45:22
- >>45
清正子孫の直系の分家ってこと?
じゃあ彼は清正子孫なのか!?
……ショックだ
- 48 :日本@名無史さん:04/11/18 00:57:04
- >>47
歴代のどっかで養子とか入ってそうだが・・・
- 49 :日本@名無史さん:04/11/18 10:29:32
- そうか?
名門だったら入るかもしれないけど、農民になった家に
養子って入るのか?
- 50 :日本@名無史さん:04/11/18 10:50:38
- 清正の子孫だったら、そういう話がもっと一般に広まっている
んじゃないか?
- 51 :日本@名無史さん:04/11/18 14:16:47
- 清正の子孫は史学上いないんだから、堂々と名乗れないのでは?
伝説では忠広の側室と男子が酒田(山形の市)の方に逃げたって伝説はあるけど
裏づけはないからね
- 52 :日本@名無史さん:04/11/18 14:51:12
- 母の実家が浮田家だな
八丈いい島ですよ
- 53 :日本@名無史さん:04/11/18 16:03:29
- >>49
なら実子がいない場合、誰に家屋や田畑を継承させるんだ?
- 54 :日本@名無史さん:04/11/18 16:14:44
- 清正子孫が持っている領地とか土地あるのか?
- 55 :日本@名無史さん:04/11/18 18:02:25
- 庄屋になった系統の嫡流は江戸期に田20町山林50町歩ぐらいもっていた。
- 56 :日本@名無史さん:04/11/18 18:42:15
- 面白そうどんどん語ってくれ
- 57 :日本@名無史さん:04/11/18 23:29:13
- >>55
ソースだせ
- 58 :日本@名無史さん:04/11/18 23:50:28
- 地元の郷土史を調べると、それぐらいのことは簡単にわかるんだな。
図書館に逝って調べれ。
- 59 :日本@名無史さん:04/11/19 15:18:25
- どこの庄屋だったの?
鶴岡方面?酒田方面?
- 60 :日本@名無史さん:04/11/19 23:40:57
- 鶴岡でし。
- 61 :日本@名無史さん:04/11/20 00:25:10
- >>47
清正の一番嫌いなタイプになってそうだな…。
- 62 :日本@名無史さん:04/11/21 00:18:45
- 加藤紘一が清正の子孫なわけがないな。
加藤なんてありふれた名字だし・・・
分家の子孫でも、紘一が脚光を浴びていた際にマスゴミが取り上げないわけがない
- 63 :バロン曽志崎:04/11/24 15:52:06
- >>44
その滝川家は、滝川(木造)雄利の子孫
- 64 :日本@名無史さん:04/11/24 17:53:25
- >>63
おまえうざい。
- 65 :日本@名無史さん:04/12/01 15:30:16
- 保守
- 66 :日本@名無史さん:04/12/01 16:37:11
- 亀井静香の先祖亀井吉助は尼子家の家老で津和野の亀井久興の先祖と兄弟だから同族だよ。静香の先祖は江戸時代百姓だが苗字帯刀ゆるされていた家柄。
- 67 :日本@名無史さん:04/12/01 18:01:44
- ↑
別に改易大名の子孫じゃないじゃん、おまえうざい
- 68 :日本@名無史さん:04/12/02 17:57:57
- 尼子家臣亀井って亀井秀綱と同族?だとしたら宇多源氏佐々木支流?
- 69 :日本@名無史さん:04/12/02 18:12:29
- リキプロがクリスマスイベント開催−焼き肉&ちゃんこパーティー
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1101976654/l50
- 70 :日本@名無史さん:04/12/02 18:51:11
- 亀井静香の先祖吉助と津和野の殿様の末裔亀井久興の先祖新十郎は兄弟。共に宇多源氏佐々木氏流。
- 71 :日本@名無史さん:04/12/02 20:06:37
- また武田が自演してるのかよ
- 72 :日本@名無史さん:04/12/02 20:10:58
- 亀井家は改易大名じゃないだろ。
スレ違いの話題で保守するな。
- 73 :日本@名無史さん:04/12/02 22:27:59
- >>51
忠広の子孫は忠広の配流先にいたはずだよ。鶴岡の辺りには加藤姓が多い。少なくとも紘一は直系ではない。多分血縁家系はないと思われる。
- 74 :日本@名無史さん:04/12/03 00:25:59
- おいおい加藤なんて名字、鶴岡じゃなくても何処にでも多いだろ
- 75 :日本@名無史さん:04/12/03 08:51:57
- >>74 そりゃ最近の話だろと横レス!みんな都会に集まってきたからいろんな苗字が散らばってるわけで・・・今でも田舎に行けば
同じ苗字が密集してるぞ。
- 76 :日本@名無史さん:04/12/03 10:19:39
- >>75
それでも多いっしょ。
全国十位以内に入ってる名字だよ?
- 77 :74:04/12/04 00:17:37
- 鶴岡の南には加藤姓が以上に多いよ。部落全員が加藤さんだとか・・・。
- 78 :日本@名無史さん:04/12/04 07:51:59
- >>77 田舎行けば大体そうだろ!維新時に地主である庄屋さまの苗字をいただいたのがほとんどだと思う。
- 79 :日本@名無史さん:04/12/05 10:29:35
- 部落って被差別なんとかじゃないよな?
- 80 :日本@名無史さん:04/12/05 11:38:07
- >>79
今で言えば、大字に相当する範囲の村を「部落」と称することはよくある。
だから本当は被差別部落=部落ではなく、被差別部落<(本当は集合の含む記号を使い
たいが変換できない)部落なのだが、略称の「部落」が一人歩きして使うのに躊躇する名称
になってしまった。
同和問題を学校で教わりだした頃、年寄りが「うちの部落じゃ」とか「隣の部落は」と発言す
るのを聞いて、いろんな意味でヒヤヒヤした。
- 81 :日本@名無史さん:04/12/06 11:14:47
- え?
じゃあ鶴岡には、清正子孫が構成している集落があるの?
- 82 :日本@名無史さん:04/12/06 11:49:50
- a
- 83 :日本@名無史さん:04/12/08 13:59:11
- >>77
俺、鶴岡出身の加藤なんだけど清正と関係あるの?
家紋は確かに蛇の目だけど……
- 84 :日本@名無史さん:04/12/09 03:55:00
- >>80
それは、全てあなたの思い込みです。
- 85 :日本@名無史さん:04/12/10 01:51:31
- 記念AGE
- 86 :日本@名無史さん:04/12/12 12:36:52
- >>80は差別主義者。
- 87 :日本@名無史さん:04/12/12 21:11:30
- 80が正しいっつーの。 84,86はネタだろ?
東日本では集落の意味で「部落」を使うよ。
うかつな人だと「被差別部落」の存在さえ知らない場合もある。
- 88 :日本@名無史さん:04/12/12 21:32:26
- >>87
それは、全てあなたの思い込みです。
- 89 :日本@名無史さん:04/12/12 21:54:55
- 部落なんかどうでもいいから。
改易大名について語ろう
- 90 :日本@名無史さん:04/12/12 22:24:18
- >>87
いや、東日本だけじゃなくて九州でもそうだよ。
>>88
厚顔無恥な奴だな。
無知無教養を恥じて勉学に励まないと進歩が無いぞ。
- 91 :日本@名無史さん:04/12/12 23:42:01
- 部落児童会なんて普通にあったよ。大字のなかの小字単位だな。
- 92 :日本@名無史さん:04/12/12 23:54:52
- 部落という言葉は被差別部落だけに使う言葉じゃないよ。
田舎では村のことを部落ということある。つーか91がいうように小学校の
児童会でも部落児童会といってたし。
- 93 :日本@名無史さん:04/12/13 13:24:41
- >>92
それは、全てあなたの思い込みです。
- 94 :日本@名無史さん:04/12/17 17:30:43
- >>92
小学校の運動会だと「部落対抗リレー」というのもあるしな。
最近はさすがに使われてないと思うが。
- 95 :日本@名無史さん:04/12/29 21:12:15
- age
- 96 :日本@名無史さん:04/12/29 21:58:17
- >>93
つまらん釣りだが乗ってやろう
俺のところは東京だが古老は普通に部落という
それともおまいは
少年といえば、非行少年
交際といえば、援助交際なのか?
つくづく可哀想なやつだ
- 97 :日本@名無史さん:04/12/30 02:50:48
- 部落が集まって集落になるのかな?
- 98 :日本@名無史さん:04/12/31 22:14:01
- >>96
それは、全てあなたの思い込みです。
- 99 :日本@名無史さん:05/01/12 13:48:34
- 部落だけにブラックなイメージがあるな
- 100 :日本@名無史さん:05/01/14 11:07:26
- >>99
それは、全て貴女の思いやりです
- 101 :日本@名無史さん:05/01/14 11:41:59
- >>98
それは、全てあなたの思い込みです。
- 102 :日本@名無史さん:05/01/14 15:26:04
- 幕初の駿府の老中首座・本多上野介正純は宇都宮十五万五千石を召し上げられ、身は羽州久保田の佐竹右京大夫預け、
子孫は近江で五千石を安堵されたということだがその後どうなりましたか、と聞いてみるテスト。
- 103 :日本@名無史さん:05/01/14 17:01:36
- 宮部継潤の子孫はどうなった?
南部に配流になった後は??
- 104 :バロン曽志崎:05/01/14 18:57:43
- >>102
そのまま旗本として明治を迎えた。
直系の方かは知らないが、たしか某歴史雑誌の「あの人の子孫は今」みたいの
に寄稿していた。
>>103
そのまま南部藩士におさまった。
- 105 :日本@名無史さん:05/01/15 01:01:58
- じゃ、元福岡藩筆頭家老で南部藩に預けられた栗山大膳も?
- 106 :バロン曽志崎:05/01/15 01:21:58
- >>105
大膳の長男、次男は配所で没したけど、三男・孫之丞利政が内山姓を称して
召し出され、120石を与えられ家臣になった。
- 107 :日本@名無史さん:05/01/15 19:27:28
- >>106
おまえうざい。
- 108 :日本@名無史さん:05/01/22 14:36:13
- 宇都宮
長男・国綱
男子なし、養子も家内分乱でトタキャンに
次男・朝勝
兄の改易後には佐竹氏を仕える
真壁誰だっけの息子を養子にして「宇都宮光綱」として名乗る
三男・高武
?
確かにこんな感じだっけ
- 109 :バロン曽志崎:05/01/22 17:49:24
- >>108
国綱も高武も子孫は水戸藩士。
- 110 :日本@名無史さん:05/01/22 18:33:18
- >>109
おまえうざい。
- 111 :日本@名無史さん:05/01/22 22:18:25
- >>17>>51>>73>>77>>83
加藤家は、改易後加藤忠廣が、庄内藩預かりとなった。
山形県東田川郡櫛引町丸岡の天澤寺境内に、実は清正公の御尊骨がある・・・
従って、山形県庄内地方の加藤姓は、清正の子孫と言える・・・・
- 112 :日本@名無史さん:05/01/22 23:34:34
- 工エエェェ(´д`)ェェエエ工工
俺庄内地方出身の加藤だけどそんなこと聞いた事ないぞ
確かに家紋はそうだが
- 113 :112:05/01/22 23:40:43
- 既出だった、すまそ
>>83親戚同士仲良くやろうぜ
- 114 :日本@名無史さん:05/01/23 02:51:58
- >>108
朝勝の子孫も水戸家中だよ
- 115 :日本@名無史さん:05/01/23 03:17:43
- 紀伊の鈴木佐大夫の子孫が水戸家家老として、山野辺兵庫頭、中山備後守同様の家格だったって本当ですか?
- 116 :日本@名無史さん:05/01/23 10:18:55
- >>114
じゃあ、佐竹家中の宇都宮家は?
- 117 :日本@名無史さん:05/01/23 11:05:14
- >>112
加藤清正公・忠廣公遺蹟顕彰会ってところがあって、ちゃんと出版もしてるゼ・・
なんなら櫛引町役場 商工観光係 0235−57−2111に電話して聞いてみナ・・
- 118 :日本@名無史さん:05/01/23 11:14:54
- >>17>>51>>73>>77>>83
忠廣には、正室(蒲生秀行娘)の他に二人以上の側室がいた。
そのうち一人は二代目玉目丹波の守長女で、一男正良一女の母で法乗院、
沼田に歿した・・・・・
この他同じく玉目氏の女で、忠廣配流先の庄内に下って側室があると伝えられる・・・
(つづく)
- 119 :日本@名無史さん:05/01/23 11:20:59
- >>118
忠廣の幽居に対して、庄内藩は非常に同情的な行為を寄せ、忠廣の胸中を
やわらぐためにと、三人の侍女をはべらせ、一男一女をあげ、
その子孫は酒田市新堀の素封家加藤勘右衛門氏と、
鶴岡市大山町の酒造家加藤有倫氏と伝えられております・・・
- 120 :112:05/01/23 16:20:11
- >>117-119
かなり詳しいね。地元の方?
しかし親戚にはいないんだがw
>酒造家加藤有倫
>素封家加藤勘右衛門
- 121 :日本@名無史さん :05/01/23 16:49:04
- >>120
漏れは、東京生まれで、現在は横浜在住ですが、両親が庄内出身です・・・・
子供の頃は、夏休みによく庄内に行きました・・・湯の浜とか羽黒とか月山とか
で、母の実姉つまり伯母が、地元で教職に就いてまして、無類の歴史好きです
漏れも、その血を受け継いで、無類の歴史好きで、日本中の史跡めぐりが趣味です・・・
加藤家終焉の地、庄内の丸岡には、昔伯母に連れてってもらいました・・・
その時、天澤寺の住職に教えて頂いたのです・・・
- 122 :日本@名無史さん:05/01/23 17:21:43
- >>120
で、後日と言っても当時のことだけど、天澤寺の住職齋藤隆参氏から漏れんところに、
加藤清正公・忠廣公遺蹟顕彰会著の『加藤清正公の墓と丸岡城跡』と言う本が、
送られてきて、そこに書いてあったんで紹介したと言うわけだけど・・・
でもその本の26Pには、忠廣公の庶子、熊太郎の末孫と言われる酒田市新堀の加藤勘右衛門氏が
秘蔵する仏像の写真が掲載されているヨ・・・
- 123 :日本@名無史さん:05/01/23 17:30:07
- それで、紘一はチョン顔なのね。
- 124 :日本@名無史さん:05/01/23 19:37:35
- 忠廣に隠し子いたってのは裏づけが取れてるの?
商家が人気を取るために落としだねを自称したのでは?
- 125 :日本@名無史さん:05/01/23 19:46:40
- >>124
そういや、UFJの元オーナーも山中鹿之助の末裔と名乗っていたが、ただの自称?
- 126 :日本@名無史さん:05/01/23 20:11:18
- >>124
丸岡は、実は庄内藩領ではなく、幕府直轄の天領。
忠廣は、改易されたと言っても、かっては、豊臣系の西国屈指の雄藩の藩主。
忠廣の近辺には、幕府の検使役人の目が絶えず光っていた。
従って、忠廣の隠し子だなんて、名乗れるわけもないです
落としだねは、あくまでも民間伝承です・・・・
商家が人気を取るために落としだねを自称したのでは?
まさに現代感覚での解釈・・・
忠廣の子孫は、むしろ名を憚って、ひっそり暮らしていたと思われます・・・
- 127 :112:05/01/23 21:47:02
- >>126
ということは、我が家に清正の先祖だと伝わっていないのは
そういう理由と考えられるのでしょうか?
- 128 :日本@名無史さん:05/01/23 22:15:02
- >>127
加藤忠廣は、寛永九年幕府から二十一ヶ条の審問状がつきつけられたうえ、
改易され領地没収された、言わば天下の大罪人・・・と言うか幕府の要注意人物・・
やはり当時、江戸期をとおして、その子孫と名乗るのは、かなりの憚りがあったはず。
末裔は、むしろ人目を避けてひっそりと暮らしてしてと思われ、
いつしか先祖のことが伝わらなくなったのかも・・・・
推測だけど・・・・
- 129 :日本@名無史さん:05/01/23 22:58:12
- >>127
忠廣の嫡男豊後守光正は、飛騨高山の金森出雲守に預けられ墓は、
高山の法華寺にあるし、
次男の忠良とその妹のその母つまり忠廣の側室法乗院は、上州沼田の真田家に預けられ、
墓は沼田の妙光寺にあります・・・・・
つまり直系の子息は、幕命により処断され、史実として残ってるんですが、
庄内の方は、あくまで配流先でのこと・・・・
歴史の闇に閉ざされているようです・・・
そう言えば、しばらく庄内には行っていないんです・・・・
なんか久し振りに悲劇の加藤家終焉の地に行ってみたくなりました・・・
- 130 :日本@名無史さん:05/01/23 23:11:09
- >>112
例えば、出身地が同じで同姓だからと言って、親戚とは限らんと言う
理屈と同じだろうヨ!
- 131 :112:05/01/23 23:43:33
- >つまり直系の子息は、幕命により処断され
詳細キボンヌ
>>130
いや、でも家紋も一緒だし…
昔っから関係あるかな?程度に思っていたんだけど加藤は熊本の大名でしょ?
東北の片田舎には関係ないと思っていたらなんと関係がバリバリあるじゃないですか
もう妄想の渦中に入って困ってますよw
- 132 :日本@名無史さん:05/01/24 00:24:28
- >>112
実は、漏れも加藤清正の墓が、清正と何の縁もゆかりも無い
東北の地にあると知って、そして目にした時は、妙な興奮と感動に包まれたものであったけど・・・
でも、この『加藤清正公の墓と丸岡城跡』には、直系の子息の記述は、殆ど書かれてないので・・・
でも、よく読んで、また情報をお届けしますヨ・・・・
- 133 :日本@名無史さん:05/01/24 00:41:32
- >>112
直系の末路
長子・光正は飛騨高山の金森家に預けられ百人扶持を賜り、寛永十年自殺。
次子・忠良とその妹は上野沼田の真田家に預けられ、兄・光正の自殺を知った忠良は同じ年に自殺。
一人生き残った妹は、5年後の万治元年(1658)紀州徳川家に引き取られた。
こうして、加藤家の男系は絶えた。
- 134 :日本@名無史さん:05/01/24 00:45:58
- >>112
ちなみに忠廣は、承応二年(1653)病死。
光正・忠良が死んだ寛永十年とは、1633年。つまり加藤家が改易」された年。
- 135 :日本@名無史さん:05/01/24 00:57:21
- >>112
光正・忠良が死んだ寛永十年とは、1633年。
つまり加藤家が改易された年の翌年でした ← 訂正します。
光正の自殺については、また後日( 早ければ明日 )述べます。
それでは、また!
- 136 :112:05/01/24 01:09:36
- >>133-135
もっけだの。
明日また来ますね
- 137 :日本@名無史さん:05/01/24 23:09:49
- >>112 加藤家改易の理由
徳川幕府内では将軍継嗣問題で長子・家光と次子・忠長と対立の図式があった。
大御所と君臨していた家康の一声で三代将軍は家光に決まるが、秀忠と正室・達子は忠長を溺愛していた。
このとき、家光の乳母・春日局が、駿府城の大御所・家康に対して直接訴えたともいわれている。
こういった状況では、諸大名の間で家光につくか忠長につくか・・・ゆれるのは火を見るよりも明らかだっただろう。
そして、忠長派の筆頭が加藤家であった。
忠長は一時は55万石・大納言となり、「駿河大納言」と称されるが、寛永八年、実の兄にあたる将軍・家光から蟄居を命じられて蟄居が解けぬまま、
翌・寛永九年に父である大御所・秀忠が亡くなると同年十月に改易となり、一時、高崎城主安藤重長に預けられるが、
翌・寛永十年、高崎にて自害することとなる。
この事態にいたって、忠長派の大名家はどのように感じたことだろう。
派閥に敗れた者たちは古今を問わず、心境は似ているのだろうが・・・。
幕府としては、忠長派全ての大名を改易にするわけにもなかなかいかず、見せしめ的要素もあり、
大大名である加藤家に白羽の矢を立てたと考えられる。
表向きの理由としては、忠広の子の光正が不届きな書類を書き廻したこと、江戸で生まれた子を母とともに密かに国許に帰したことをあげ、
改易・流罪を加藤忠広に申し渡した。
- 138 :日本@名無史さん:05/01/25 01:19:31
- 結局忠広には分かっているだけで何人の子供がいるの?
- 139 :日本@名無史さん:05/01/25 22:45:11
- >>138
歴史の闇のベールに包まれた謎です・・・・神のみぞ知る・・・・
昭和24年に地元の遺蹟保存会の手で3度にわたって発掘調査が行われた。
第一回目の9月2日、天澤寺境内にある清正閣←清正公の墳墓の伝承あり
の地下2mから小さな五輪塔56cmと44cmが発掘された。
忠廣公が丸岡に来てから生まれた二人の子供の墓碑と言われている。
55cmの方は、熊太郎と呼ばれた男子で寛永19年(1642年)3月24日の刻印があった。
44cmの方は、女子で名は不詳 正保4年(1647年)正月11日とある。
- 140 :日本@名無史さん:05/01/26 08:57:55
- どこかのスレに、山形庄内地方の加藤姓の人は
みんな清正ゆかりの人達って書いてあるけど
人目を気にしてひっそりと暮らしていたのに、庄内地方に埋まるほど
子孫が繁栄することってあるの?
- 141 :日本@名無史さん:05/01/26 22:41:44
- 明治になって、庶民に名字が許された時に、郷土にゆかりのある清正にちなんで、
加藤姓を名乗った人も中にはいたかも・・・
なんたって、清正は、菅公・楠公・清正公の日本三公の一人として称讃され、
虎退治で、国民的英雄として全国津々浦々の庶民に親しまれてるしネ・・・・
- 142 :112:05/01/26 22:49:08
- ちなみに、当家はなぜか江戸時代から名字を名乗ることを許されていたそうです。
やっぱりそういう背景もあり…?ww
あと、その三公って戦後の教育界から一掃されちゃいましたよね。
非常に残念です。
思想は別として伝記としておもしろいからなあ
- 143 :日本@名無史さん:05/01/26 23:15:58
- 忠廣は、何と言っても西国雄藩の大大名、しかも実父清正は、天下人・秀吉の側近中の側近、
朝鮮外征での数々の武勲とその名声は、まさに戦国第一級の人物、
そんな忠廣には、正室の他に少なくとも二人以上の側室の存在は知られており、
実際は、もっと大勢いたかもしれないし・・・・・もっと大勢いたと考えた方が普通
それに庄内藩は、忠廣の無聊を慰めるために、3人の侍女をはべらせた事実も
伝えられてます・・・・
当然大勢の子宝に恵まれ、その子孫が庄内一帯に、住み着いていることは、
想像に難くないのでは・・・・
- 144 :112:05/01/26 23:53:07
- 親戚多いけど、一人も聞いたことがないです(^_^;)
山形で清正の子孫を自称しているのはこのスレにも出てきた酒造屋くらいじゃないですかね?
系図でもあるんでしょうか?
- 145 :日本@名無史さん:05/01/27 00:07:29
- 地元では、加藤家の末裔よりも、むしろ加藤清正の墳墓が、熊本ではなく、
実は、庄内にあったと言うことの方が、むしろ驚愕の事実として語り継がれているようですが・・・
加藤一族の末裔については、それこそ遺蹟顕彰会とか天澤寺とか、
櫛引町役場の商工観光係の方に照会された方がよろしいのでは・・・・・
- 146 :日本@名無史さん:05/01/28 08:19:25
- それはいえてる。
アメリカに溥儀の墓があるようなもんだね
- 147 :日本@名無史さん:05/01/28 16:57:23
- ttp://wolfpac.press.ne.jp/haizetsu04.html
ここの一番上に加藤家のことが書かれてるけど
なんで無嗣断絶になってるんですかね?
忠広には子供がたくさんいたんでしょ?
- 148 :日本@名無史さん:05/01/29 00:35:26
- >>147
ttp://wolfpac.press.ne.jp/haizetsu04.html ← 嫁ませんが・・・
加藤家改易の原因として、
江戸にあった忠広の正妻(宗法院・秀忠の養女)が、忠広が熊本にお国帰りの際
同伴した側妾に嫉妬してして幕府の執政土井利勝に『忠広反逆の意あり』と
訴えさせたことが、発端とも言われているようですけど・・・・
幕府としては、肥後五十四万石・豊臣恩顧の西国の太守である加藤家を、
とにかくなにがなんでも取り潰したかった。
だからいわれ無い罪をかぶせて、どんどん外様大名を潰していった。
無嗣断絶なんて口実に過ぎないでしょう。
- 149 :日本@名無史さん:05/01/29 01:01:04
- 加藤で思い出したが、家老の堀主水と紛議を起こして領地返上した会津の加藤左馬助明成の子孫は下野壬生→近江水口で二万五千石で細々と幕末にいたるが、
堀主水の一族の消息は全く不明?
- 150 :日本@名無史さん:05/01/29 01:01:55
- 忠広の子孫と伝えられている人は、どの側室の子供と言われてるの?
庄内藩からあてがわれた人?
- 151 :日本@名無史さん:05/01/29 15:10:06
- >>148
hが抜かれてるんだよ
http://wolfpac.press.ne.jp/haizetsu04.html
- 152 :日本@名無史さん:05/01/29 16:31:50
- ・佐藤清五郎氏が『旅とルーツ』誌に
「加藤清正と子孫の動向」(第67号、1994年)
「(子孫訪問)加藤清正の末裔 十四世孫加藤醇さん」(第77号、1999年)
という記事を書いており、後者では忠広を初代として、第2代光秋、第3代道久以下現代の当主までの略系を記載しています。
なお、佐藤清五郎氏は、加藤清正の子孫探究ということで、日本家系図学会の平成七年度学術賞を受賞されています。
・『別冊歴史読本』21巻27号「豊臣一族のすべて」1996年7月。これにも加藤清正一族が取り上げられています。
- 153 :日本@名無史さん:05/01/29 16:37:32
- 忠広が出羽に配流になったとき、これに随った家臣のなかにも加藤を名乗る者があり、
加藤頼母、加藤主水、加藤左平太があげられます。
あるいは、これらの人達が、ルーツなのかも・・・・
- 154 :日本@名無史さん:05/01/29 21:05:01
- あとですね、言いたかないですけど在日さん(元・在日)は
滅びた大名や過去の名家の苗字を自称することが
多々ありますよ。
誰も証拠を持ってない、どこにも確たる子孫がいない。
イコール、誰も成りすましだと気がつかない上に、敬意も集められる。
という理由で。そういう捏造「一族会」も。
有名なところでは、九州に「豊臣」を名乗る在日さんが(笑)
その人はカミングアウトしてますが。
- 155 :日本@名無史さん:05/01/29 22:42:39
- >第2・第3代道久
誰か手元に持っていたら、現代までの系図キボンヌ。
加藤氏に詳しい山形出身の方もご存じないですか?
- 156 :日本@名無史さん:05/02/03 17:42:30
- 俺の苗字本多だけど徳川の家臣だった香具師の子孫なのか?
父親の実家が長崎で長崎には割と本多って苗字が多いと思う
墓参りしたら本多が沢山あった?家紋は○のなかに◆これが4つ
入ってる、まぁどうでもいいんだけどね俺の親父の年収400万って
現実は変わらないしOTL
- 157 :日本@名無史さん:05/02/04 01:08:13
- 私は庄内出身です。大山の加藤さんは昔からよく知っています。
彼はまさに清正の直系です。
地元鶴岡市大山では「加藤様」と呼んでおります。
彼の家には先祖伝来の槍がありまして体の調子が悪い時などはその槍の柄を
少し削って飲むということです。
現在もその槍は残っておりますが柄の部分がかなり短くなっておりました。
- 158 :日本@名無史さん:05/02/04 01:10:06
- 清正の槍って、日本中にいっぱいあるよねぇ(しみじみ)
- 159 :日本@名無史さん:05/02/04 21:17:37
- 昭和24年9月〜12月に行われた天澤寺の発掘調査では、清正の槍は、
出土されませんでした。
- 160 :日本@名無史さん:05/02/04 21:46:26
-
一生の間、一本の槍しか使用しなかった。てなことは有り得ないしナーー
しょせん道具だし・・
- 161 :日本@名無史さん:05/02/05 00:16:19
- たまたま読んでた本に、
「早雲寺の山門を出て、湯本のえきに向かいかけると「北条」の表札をかけた民家が眼に入った。
気になるので声をかけると、若奥さん風の女性がタオルで汗をふきながら現れた。
北条氏のご子孫であるかと訊ねると、怪訝そうに私の風体を眺めてから「末孫だそうです」と答え、
玄関の戸を閉めた。」
(宮脇俊三・徳川家康歴史紀行5000キロ)
とあったけど、ほんとにこんなとこに北条の子孫なんているのかね?
- 162 :日本@名無史さん:05/02/06 00:12:17
- いや、それより北条という苗字を見ただけで
声をかけるところが(ry
- 163 :日本@名無史さん:05/02/06 00:58:39
- そら怪訝そうに見られるわな
- 164 :日本@名無史さん:05/02/06 01:13:34
- 商店かなんかならまだしも民家だろ?
ただの迷惑じゃんw
- 165 :日本@名無史さん:05/02/06 12:25:32
- いや、漏れも北条という苗字を見たら、しかも早雲寺の近所だし、
たちまち好奇心が、頭をもたげて、同じく声をかけただろう・・・
さすが宮脇俊三さん、亡くなられてしまったが、漏れと同じ思考回路だ・・・
- 166 :日本@名無史さん:05/02/06 17:10:22
- >>161
殺されなかった子孫は河内狭山藩(大阪狭山市)藩主とその分家
早雲寺の檀家ではなく、大石寺の檀家だったかと思うが
- 167 :日本@名無史さん:05/02/06 20:00:29
- 後北条家とは限るまい。
- 168 :日本@名無史さん:05/02/06 21:09:50
- 北条氏邦とか佐野氏房とかって子供いなかったの?
- 169 :日本@名無史さん:05/02/06 22:01:06
- >168
北条氏邦は実子はいたが、みな早世したようだ。
後を継いだのは養子の氏定(氏政の子)。前田慶次の娘婿。
- 170 :日本@名無史さん:05/02/06 22:15:33
- >>165
>>154
- 171 :日本@名無史さん:05/02/08 15:51:23
- >>166
草加の元会長だろ?
- 172 :日本@名無史さん:05/02/13 12:02:18
- 藤沢周平の義民が駆けるの中に、加藤・松平と名乗る家臣がいたが
やっぱり加藤が庄内は多いのか?
あと松平ってなんだ?酒井家に将軍家親類の人間がいるのか?
- 173 :日本@名無史さん:05/02/13 12:35:20
- >>172
家康以前に分かれた家だろ。酒井も初代で分かれた親戚。
- 174 :日本@名無史さん:05/02/14 03:27:02
- >>172-173
庄内藩の筆頭家老松平家は、藩主家の分家。
もともと酒井家出身。
- 175 :日本@名無史さん:05/02/14 21:22:10
- >>156
徳川に仕えていたのは立ち葵門、丸に本の字、一本松だね
官位スレにいるよ、本多さん
- 176 :日本@名無史さん:05/02/15 21:43:46
- へぇ〜
松平って結構居るんですね
- 177 :日本@名無史さん:05/02/15 22:10:18
- ところで相撲の貴ノ浪の本名は浪岡というのだが、
浪岡北畠家の末裔なのかな?
- 178 :日本@名無史さん:05/02/15 22:15:11
- 浪岡町ってのがあるからそこら辺の人はみんな浪岡さんなんじゃないかな
波乃花という力士も居たし
- 179 :日本@名無史さん:05/02/26 01:06:54
- 土民化した人の子孫って、養子に出されたり出家されたりする大名に
なるより栄えるよね。みんな同じ苗字で。
前述の加藤や浪岡とか。
- 180 :日本@名無史さん:05/02/26 06:03:21
- >>179
騙っても、捕まらないしな。
- 181 :日本@名無史さん:05/03/06 02:50:19
- >>174
酒井了次の子孫だっけ?
- 182 :日本@名無史さん:05/03/06 14:50:55
- 清正の出身地、愛知県の者です。
私もそうですが、愛知県には加藤姓が非常に多い。
全国的にも多いようですが、この県では特に多いです。
加藤晴彦も加藤あいも愛知県人です。
治安維持法と普通選挙で有名な加藤高明首相も愛知県人でした。
このことは清正と関係あるでしょうか?
それとも、元々たくさんいた加藤姓のうちの一人が清正だった、というだけのことでしょうか?
- 183 :日本@名無史さん:05/03/06 22:36:35
- 清正の子孫は庄内に捨扶持与えられたんだよね(お預かりだったっけ)
おれの知り合いで子孫がいゆよ。ちなみに諏訪の何某も庄内にいてその血も流れてる
そうで、諏訪系の親戚は年とってもエライ美人で若ぶりだったそうだ。
- 184 :日本@名無史さん:05/03/06 23:47:14
- >元々たくさんいた加藤姓のうちの一人が清正だった
そーゆーこと
- 185 :日本@名無史さん:05/03/08 12:03:56
- >>183
私の先祖は庄内に配流された清正と伝わっていますが…
結構そういう話を耳にします。
ということは、土着して繁栄したんでしょうか?
それとも私も含めてみんな眉唾?
- 186 :日本@名無史さん:05/03/11 16:07:58
- 旗本五千石の最上家と水戸家で一万石貰ってた山野辺家。
立場としては最上が上なんだろうけど
石高的には羨ましかったりするのかな?
- 187 :日本@名無史さん:05/03/13 04:36:49
- >>186
水戸家家臣と旗本 立場はそう変わらんと思う。
両方、中途半端な
- 188 :日本@名無史さん:05/03/14 00:37:34
- そして陰では「昔は大大名だったのにね」と言われて
- 189 :日本@名無史さん:2005/03/29(火) 16:14:08
- age
- 190 :日本@名無史さん:2005/04/13(水) 20:01:08
- 保守
- 191 :日本@名無史さん:2005/04/13(水) 20:10:34
- 水戸の俸禄は実際は表高の半分しか貰えない。
- 192 :日本@名無史さん:2005/04/14(木) 10:10:06
- >>182
尾張の熱田に東加藤、西加藤と言われる有力者がいたんでその分家かも
加藤清正も一説にはその流れと言われている
>>168
氏房は佐野じゃなくて太田だよ
氏光の子孫は旗本、養子の子孫だが千葉直重は蜂須賀家臣で、佐野氏忠は娘が毛利の家臣と結婚した
あと氏政の6男は紀州家につかえてしばらく続いた
- 193 :日本@名無史さん:2005/05/01(日) 16:17:26
- 保守age
- 194 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 19:31:25
- 保守
- 195 :日本@名無史さん:2005/05/20(金) 18:50:23
- 加藤の話の中で、蒲生が出てきたが
蒲生の子孫については確実な話し無いのか?
- 196 :日本@名無史さん:2005/05/27(金) 12:16:15
- 保守
- 197 :日本@名無史さん:2005/05/28(土) 10:58:23
- 蒲生家については、ちょいとした話があるんだが・・
俺の連れ、蒲生の子孫だと言うことなんだが、普通は
眉唾もんだと思うよな・・
でも、彼は色々物的人的証拠があってな・・
俺にいくつか古文書を見せてくれた。
その中でも憶えてるのは、関白九条家からの書状。
こいつは新しくて、幕末のもの。内容は、単に物の貸し借りの
礼状だったな。後は、江戸初期の物で、秀行の落書きw
かなりぼろぼろで、読みにくい。ただ、文中に狸の文字が結構
見られるwのが印象的。家康の悪口らしいw
他にもあるらしいが、見る機会は今のとこ無い。
言えば見せてくれると思う。
あまり書き込むと人の家のことで、プライバシーにも関わるので
詳しくは書かないけど、血統的には彼は忠知・忠郷の姉の子孫とのこと。
忠知・忠郷の姉は、取り潰し後、山中家の男と結婚してその子孫が
近江に住んだと。因みにこの婚姻を薦めたのは冬姫と聞いたw
まだ生きてたんだなとw近江には、幕府から派遣された武士(旗本か?)
が監視か護衛かわからんが、就いてたそうだ。
- 198 :日本@名無史さん:2005/06/09(木) 21:29:30
- 姉?
- 199 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 23:20:34
- 姉の子孫でも蒲生家の子孫というのか?
- 200 :日本@名無史さん:2005/06/23(木) 04:19:56
- >>199
その間夫婦養子とかで全く血縁関係が切れていなければ広義の子孫と言えないこともない。
- 201 :日本@名無史さん:2005/06/23(木) 07:38:08
- まあ日本王室も韓国系だしね。
- 202 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 00:03:00
- 朝鮮系ではあっても韓国系というのはおかしいだろ
- 203 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:37:06
- 本多正純の子孫はどうなったの?
それから駿河田中の本多伯耆守って譜代大名は本多正純の子孫なの?
- 204 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 22:33:29
- >>203
前田家スパイ
- 205 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 02:56:48
- >>203
駿河田中の本多家は、たしか正純の弟の正重の子孫。
もっとも養子続きだけど
- 206 :日本@名無史さん:2005/07/19(火) 12:16:34
- age
- 207 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 12:15:06
- 子孫など、どうでもよい
当時の人達が好き。
- 208 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 18:47:53
- 赤穂浅野家の浅野大学(内匠頭の弟)は、討ち入り後
旗本に取り立てられたと聞いた事あります。
- 209 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 13:14:13
- 会津藩を返上した加藤越中守は?
- 210 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 14:47:02
- 下忍の反乱で改易くらった桑名の服部半蔵の子は?
- 211 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 22:28:06
- >>209
近江水口藩藩主 バカだけど家康のひ孫だったから
- 212 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 18:14:09
-
- 213 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 18:38:28
- 蒲生家の子孫
滋賀県に行くべし
- 214 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 17:56:29
- >>210
大坂の陣で戦死したんじゃなかったっけ。
後方にいたのに死んでるから暗殺じゃねえか?
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