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浅井・朝倉を語るスレ その2

1 :日本@名無史さん:04/10/29 22:25:34
まだまだ語って欲しいの

前スレ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1011084336/

2 :日本@名無史さん:04/10/29 22:35:32
2

3 :日本@名無史さん:04/10/29 22:38:12
次スレ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1099056334/

4 :日本@名無史さん:04/10/29 22:39:06
>>3
間違えた・・・

5 :日本@名無史さん:04/10/29 23:04:50
朝倉宗滴を語ろう
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1047532328/

6 :日本@名無史さん:04/10/30 08:27:38
>>1
乙!

7 :日本@名無史さん:04/11/02 08:18:08
前スレ埋め記念あげ

8 :日本@名無史さん:04/11/02 17:48:43
関連スレ
浅井長政はなぜ裏切ったか
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1074175083/

9 :日本@名無史さん:04/11/03 23:59:01
ゲーム『斬』シリーズに出ていた朝倉道景(1565年以降に登場)という人物は誰の息子ですか?

10 :日本@名無史さん:04/11/05 09:21:45
諸説ある。
三代貞景の子で波多野氏(丹波波多野氏ではない)の養子となった道郷の子
とする説と、宗滴−景紀(養子)−景恒−道景のラインとする説がある。
どちらにしても朝倉義景の従弟となる。
ちなみに、主家滅亡後道景は、織田家に圧迫された一向宗門徒とともに、
加賀国より海岸沿いにのがれ、 勝平海岸(現在の秋田県)に上陸し、下浜
方面に移住して本敬寺を建立したという話が残っている。
しかし「斬」ってなつかしいな。軍団がそれぞれ勝手に日本全国を移動して、
敵部隊とぶち当たったら戦闘するというものすごいシステムだった気がする。

11 :日本@名無史さん:04/11/05 14:58:01
宗滴−景紀(養子)−景恒−道景のラインとする説の場合は
「従弟」じゃなくて「甥」じゃないかい?
波多野氏説でも「子」じゃなくて「孫」だったような気がするが。

12 :日本@名無史さん:04/11/05 15:17:20
宗滴=景紀┬景【土光】
          └景恒─道景



13 :日本@名無史さん:04/11/05 17:08:19
>>11
義景の父の四代孝景と景紀は兄弟だから血のつながりで考えると甥なんだけど、
宗滴は二代氏景(義景にとっては曾祖父)の兄弟だから、「系図上」ではその
養子の景紀は義景にとって大叔父、景恒は叔父、道景は従弟となる。

14 :日本@名無史さん:04/11/05 18:19:56
景【土光】の子供はどうなったんだろう?


15 :日本@名無史さん:04/11/05 18:44:50
景垙の子供は「日下部朝倉家系図」では「景友」と記載がある。
景垙が死んだ時に2歳で景紀が引き取って育てたらしい。朝倉滅亡時
には11歳のはずだが、その後どうなったんだろうな。
あと、道景については、>>10の本敬寺建立説がある一方、上記の
系図では刀禰坂の戦い(1573年)で討死したとあるので詳細は不明。

16 :日本@名無史さん:04/11/05 22:28:53
一体どの系図が正しいのかわからん

17 :日本@名無史さん:04/11/06 22:51:12
景紀って姉川の戦いに参加したという史料がありますが
本当ですかねえ?

18 :日本@名無史さん:04/11/07 08:32:26
ちょっと考えにくいけどどうなんだろ・・・。
永禄7年には、既に景恒に敦賀郡代を譲って引退しているし、もし参戦していた
のなら、姉川の戦いで序列が下の景健が総大将を務めるのもおかしい気がするが。
ちなみにそれは何に載ってたの?

19 :日本@名無史さん:04/11/07 15:58:00
史料じゃないけど、
http://www.ne.jp/asahi/k/h/fujiwara/history/h03/dic/dic-anekawa_kassen.htm

金ヶ崎の合戦で景恒がすぐに開城してしまい、敦賀郡司朝倉家の
序列が下がってしまったため、こういう陣立てになったとか考え
られないか?なんちゃって。

20 :日本@名無史さん:04/11/07 18:13:24
>>19
にしても同名衆筆頭で70歳を超える老臣の景紀が先鋒で、景健が総大将はあり得ない
気がする。
開城したといっても信長の退却で取り返してるし、一気に序列が下がってたってこと
もないだろう。
なお「信長公記」や「朝倉始末記」には景紀の参陣は載ってないが、「浅井三代記」
には載ってる。ただし三代記は江戸時代成立の軍記物で元亀3年8月の戦いに景紀が
登場してるくらいだから信憑性はかなり低い(景紀は同年5月に病没している)。

21 :日本@名無史さん:04/11/07 22:43:23
では、陣立ては如何なるものであったのでしょう?

22 :日本@名無史さん:04/11/07 22:47:44
小和田哲男氏の書いた本で浅井長政の
送り仮名はあざいとなっているのですが
やっぱり読み見方はあざいなのでしょうか?

23 :日本@名無史さん:04/11/08 00:04:22
あざいです。

24 :日本@名無史さん:04/11/08 00:33:49
あざいはうざい

25 :日本@名無史さん:04/11/08 23:20:26
足利義昭の上洛要請を拒否した理由は何だったんでしょう?
義景なりに何か考えがあって義昭を迎えたんだと思うのですが。

26 :日本@名無史さん:04/11/09 12:44:05
上洛した以上、現地(京洛)を掌握・治安維持しなきゃいけない。

当然、周辺諸侯に命令できるほどの軍事力を維持しなきゃいけない。

幕府や朝廷にかかる行事費用を負担しなくてはいけない。



加賀に一揆&富樫+甲斐家残党、
国内北部に一揆、
奥越(奥越前)に不安定勢力・平泉寺、
美濃・近江に織田、
若狭に武田残党、

そんな状況では、応仁の乱当時や
それ以後の宋滴京都支配時代のような無茶はできないでしょ・・・


27 :日本@名無史さん:04/11/09 22:21:24
しかし義昭を擁して上洛した信長にしたところで、領内盤石ではなかった
わけで。まあ要はそれらの万難を排してでも、上洛し天下に号令するという
ことの重要性と旨味を見い出せた信長とそこまでの先見性と決断力が無かった
義景の差ということだろうね。
この辺りが、義景が献帝を招き損ねた袁紹に擬せられる所以だな。

28 :日本@名無史さん:04/11/10 06:23:17
それ以前に

岐阜〜京都

一乗谷〜京都

の、道中(地理)の問題だと思います。
柴田も負けた木の芽峠。
正直越前側から見たら、あれ越えて軍事行動起こすの
いやになっちゃいますよ。

木の芽峠の向こう側の敦賀に駐屯したら、なんか
独立気分と言うか見捨てられ感を抱くと思いますし・・・

29 :日本@名無史さん:04/11/10 15:36:03
>>28
行ったこと無いけど、木の芽峠ってそんなに凄い難所なのか?
距離だけで考えたら岐阜からとそんなに変わらないような気がするんだが。

30 :日本@名無史さん:04/11/10 17:57:14
難所だし、降雪期にはにっちもさっちもいかなかっただろう。
武田信玄が朝倉義景を罵倒した書状があるが酷過ぎると思ったよ。

31 :日本@名無史さん:04/11/10 18:10:24
>>22
日本歴史の座談会か何かで今の地元民があざいと読んでいるから
あざいなのだと言っていた。
それでは、戦国時代もそうだったということの確実な証にはならんのではないか?

32 :日本@名無史さん:04/11/10 18:27:12
>>22

日葡辞書とか宣教師の書いたものがあれば決め手になるが

33 :日本@名無史さん:04/11/13 12:36:43
>>27-28
本とかで読んだだけだと、どうしても27みたいに
思っちゃうよね。

34 :日本@名無史さん:04/11/17 23:06:17
浅井か・・・。

35 :日本@名無史さん:04/11/18 02:30:46
浅井朝倉は戦国最長の同盟だけど何年から始まってるの?尾張は両家滅亡の1572年
ということははっきりしてるけど。2番目に長いのは清洲同盟(1561〜1582年)

36 :日本@名無史さん:04/11/18 02:40:12
そんなに長くないよ
そもそも同盟かどうかすら疑わしい

朝倉と六角が組んで浅井攻めてた時期もある
浅井が朝倉に従った(半従属みたいな形)のは六角と縁切りした前後じゃないかな?

37 :日本@名無史さん:04/11/18 03:58:59
>>36
対等な同盟かどうかはともかく、清洲同盟より長いのは確かだろう。
朝倉と六角が組んで浅井を攻めたというのは「当国御陳(陣)之次第」の中の
「大永五年乙酉五月十九日、宗滴江州小谷御出陳」のことを言ってるんだろう
けど、これは同年に六角定頼に城下まで攻め込まれた浅井方の救援を意図した
出陣である可能性が高い。つまりそのころから浅井朝倉の同盟は続いていると
いうこと。
根拠は、
・明らかに優勢な六角が朝倉に援軍を求める理由がない。朝倉にも応じる必要がない。
・初代亮政は何度も六角に逐われるが、その都度復帰。これは後盾無しには困難。
・小谷城の郭や刈安、長比の砦に朝倉の築城技術が使われている。
・小谷城の遺構には朝倉宗滴の名を取った郭がある(金吾丸)。
・一乗谷に「浅井殿」と記された屋敷跡がある。
といったところ。

38 :日本@名無史さん:04/11/18 05:52:36
>>37
「古文状」で大永六年七月十日付の、六角定頼から三反崎氏宛の書状の記載あり。
その中で朝倉宗滴の北近江出陣に対しての謝意が書かれてる訳だが。
んで、この時に浅井亮政は小谷を放棄して、一時美濃へ退避してるんだが。
浅井氏救援に来た朝倉氏族に、どうして宗滴の出陣の謝意を書いた書状送るんだ?

>・明らかに優勢な六角が朝倉に援軍を求める理由がない。朝倉にも応じる必要がない。
優勢なら援軍は必要無いと?当時の六角と朝倉の関係と、浅井の位置付けなら
別に朝倉が援軍送っても不思議でない。

>・初代亮政は何度も六角に逐われるが、その都度復帰。これは後盾無しには困難。
京極氏という立派な名目があった訳だが。また美濃に多く逃れてるから、美濃からの支援も考えられるが?
逆に一度も越前に入ってない。これは立派に後ろ盾としてない証拠。

>・小谷城の郭や刈安、長比の砦に朝倉の築城技術が使われている。
織田との争いの最中に、何度か朝倉勢が小谷入城してるが?

>・小谷城の遺構には朝倉宗滴の名を取った郭がある(金吾丸)。
金吾丸があるが、それが「朝倉宗滴の名を取った」かどうかの確認は?

>・一乗谷に「浅井殿」と記された屋敷跡がある。
それでとしか言いようが無い。いつ作られたかもわからんのに。

39 :つづき:04/11/18 05:55:01
>>37
宗滴が浅井救援に行ったと書いてあるのは、浅井三代記・朝倉始末記の軍記物。
しかも成立年代からいえば、とても信頼できる物じゃない。
だが、宗滴が六角氏援助の為に、小谷の浅井亮政攻めたと、永禄十二年成立の朝倉家伝記にも
しっかり明記してある。

浅井と朝倉が同盟と言うか、誼を通じてると確認出来る最初の史料は
脇坂文書に、朝倉景紀から浅井久政宛に、若狭出陣の折に書状を
度々送ってきた事についての謝礼が述べられてる書状がある。
これ、日付はないが、内容は武田義統救援の事が詳しく述べられてるので
状況から永禄五年六〜八月ではないかとされてる。

これ以前は、朝倉が浅井を支援してたような行動の記録、書状、一切無し。
といったところ。

40 :日本@名無史さん:04/11/18 13:03:41
>>38>>39
佐藤圭氏の説だな。それは知ってるんだけど、いくつか疑問もある。

>優勢なら援軍は必要無いと?当時の六角と朝倉の関係と、浅井の位置付け
>なら別に朝倉が援軍送っても不思議でない。
大永五年当時の朝倉六角の関係がそれほど親密だったという話は聞かない。
美濃斉藤氏や若狭武田氏とは縁戚関係があり、援軍を送っても不自然ではない
が、六角氏との間にはそういった関係は見られないし、援軍を派遣することに
は何の得もない。
この時期の浅井氏は朝倉の脅威となりえるような存在ではなく、むしろ越前の
安定を図る意味では、六角の勢力伸長を抑えるため浅井を援助する方が自然。
大永五年の出兵に関しては、表面上はともかく、調停役を果たして浅井亮政を
無事落ち延びさせることが真の目的だったのではなかろうか。定頼の書状も調停
に対する礼と考えると説明がつく。

>京極氏という立派な名目があった訳だが。また美濃に多く逃れてるから、美濃
>からの支援も考えられるが?逆に一度も越前に入ってない。これは立派に後ろ盾
>としてない証拠。
既に傀儡状態の京極氏に復帰を援助する力があったとは思えないが。第一、京極氏
の国政を壟断している浅井氏の復帰に尽力するのも不可思議だ。
また美濃を潜伏先に選んでいるのは、地理的なものもあると思われる。当時の浅井
氏の地盤は浅井郡と坂田郡で、伊香郡の豪族は磯野氏、阿閉氏をはじめとして未だ
傘下に収まっていない。地盤に近い美濃を潜伏先にしたほうが再起には都合がよい。


41 :日本@名無史さん:04/11/18 13:14:44
城郭のに朝倉氏の影響が見られると言う点に対する反論には頷ける。
確かに遺構に朝倉氏の影響が見られるからといって、亮政の時代
から交誼があった証明にはならないよな。
ただ、同盟関係にあるとはいえ、他家の城郭内に自らの技術を用いた
郭や砦をつくるのは、異例のことであり、このことから一朝一夕の関係
ではなく、長年の緊密な関係があったと推測できると思うが。

いずれにせよ、佐藤説で最大の疑問は、「ではなぜ浅井氏は信長を裏切った
のか」という事なんだが。

42 :日本@名無史さん:04/11/19 21:49:38
先に信長が浅井を裏切ったという見方はできないのかな?

43 :日本@名無史さん:04/11/20 12:02:34
浅井久政も朝倉義景も六角氏からきた養子だって説は本当なの?

44 :日本@名無史さん:04/11/20 18:50:39
「六角佐々木系図略」ではそうなってる。
通説では、六角家の嫡流は高頼−定頼−義賢−義治となっているが、実は
高頼−氏綱−義久−義秀という嫡流があって、定頼系はその代理。
この義久の子が義景や久政であるとしている。
ただしこの氏綱系は「信長公記」など一般に知られた資料にはほとんど出て
こず、「江源武鑑」という江戸期に成立した日記スタイルの六角家の資料に
出ている。ちなみにこの資料には妖怪や超常現象が出てきたりする。

45 :43:04/11/21 00:34:25
>>44 thanks.
すると義景の義、久政の久は実父義久からもらったんだね。

46 :日本@名無史さん:04/11/21 09:51:23
いやそうと決まったわけでは・・・。一部にはそういう説もあるというだけ。
大体、久とか義とかよく使われる字だし。(特に義は足利将軍家の関係で)
しかし、そう考えると辻褄が合うことも多い。
六角定頼の花押と久政の花押が非常によく似てることや、久政の代に六角家
に従属したこと、浅井家内での久政の不人気と突然の当主交代劇など。

47 :日本@名無史さん:04/11/21 19:11:51
>>46
知らなかったんだけど、
亮政と久政の関係は明らかな親子じゃないの?


48 :日本@名無史さん:04/11/21 20:51:10
偽系図作りが作成した資料だよ・・・

49 :日本@名無史さん:04/11/21 20:54:08
義景の「義」は足利将軍家からもらったものだってばっ!

50 :日本@名無史さん:04/11/21 23:23:26
>>49
嘘付け!
普通貰うなら『輝』とか『晴』とかだろ、
『義』を直接貰うなんて聞いたことねえぞ。

51 :日本@名無史さん:04/11/22 04:49:40
だから義景の場合は特別なんだってば!
「朝倉義景のすべて」その他読んでみなよ。
背景がわかるから。

52 :日本@名無史さん:04/11/22 04:50:32
>>51
「朝倉義景のすべて」って何?

53 :日本@名無史さん:04/11/22 05:01:27
「朝倉義景のすべて」
本です。

54 :日本@名無史さん:04/11/22 05:23:47
何で特別なの?
徳川家が『家』与えるのと同じ感覚だろ。
やっぱり、普通はありえません。
途中で義昭からでも、直接拝領して改名でもしてれば別だけど・・・。
そんな話聞いたことも無いし。

55 :日本@名無史さん:04/11/22 05:49:04
普通は無いんだけど、義景の場合は特別だったんだよ。
頼むから「朝倉義景のすべて」を読んでくれ。


56 :日本@名無史さん:04/11/22 05:57:29
こんな時間に普通にこんなことを会話しているのも変なんだが、
そんな本今は手に入れられません。
浅井長政の『長』は信長由来だった気がするし・・。

・義景の『義』の由来について
覚えてる部分か、誰か知ってたらレス希望。

単なる元福井県民です。

57 :日本@名無史さん:04/11/22 14:57:56
>>54>>56
「朝倉義景のすべて」は読んだこと無いけどおおよその事情はこうです。

義景の父四代孝景の時代、朝倉家は将軍家の要請に応じて度々畿内や美濃に出兵
するなど将軍家のために粉骨砕身していた。このため当主孝景は、永正十三年に
は将軍足利義稙より白傘袋ならびに毛氈鞍覆を免ぜられた。また大永八年には
将軍義晴の御供衆に加えられ、天文四年に塗輿御免となり、同七年には相伴衆に
列するなど破格の待遇を得る存在であった。
義景についても、当初「延景」と名乗っていたが、天文二一年、将軍足利義輝
から偏諱を受け「義景」と名乗るに至った。

ちなみに浅井長政の「長」を信長の偏諱とみる説はよく見かけるが、それを示す
有力な史料は特になく、本当かどうかは定かではない。個人的には、父の名が
「久政」であることから父を超える武将という意味をこめて「武運長久」から
「長」の字をとったのではないかとも思う。

58 :日本@名無史さん:04/11/22 21:41:31
長政の前名の賢政は本当なの?

59 :日本@名無史さん:04/11/23 02:04:29
本当。元服当時は六角家に従属している時で、義賢(承禎)の偏諱を受けた。

60 :日本@名無史さん:04/11/23 02:07:24
京極氏は何してたの?

61 :日本@名無史さん:04/11/23 02:14:52
>>57
ありがとう、参考になりました。
でも、やっぱり『義』は変だし、将軍に失礼な気がするんですが?
毛利は『輝』貰ったんでしょ。
なんで、『義』をあげたんだろう?

大内とか大友、はては島津の『義』も由来はそこなの?
そこらと一緒ならかなりの名門の部類に入りますけど?

62 :日本@名無史さん:04/11/23 02:17:51
>>57
あと、『延』は何処から来たの?
聞いてばっかりですが、興味あるから聞いてるんですよ。

63 :日本@名無史さん:04/11/23 02:18:42
>>61
なんで失礼なのかわからん。
毛利輝元は今川義元と同じ名前は不吉だとかいうので下の名前にしたという説がある。
その今川も将軍家から貰ってる。
大内、大友、嶋津も同じ。
足利義晴は礼金によってどちらの文字をあげるか変わったともいうし。

64 :日本@名無史さん:04/11/23 03:17:31
>>63
いや、名前の挙げ方ってもっと作法的なものはあると思っていたから、
『義』は少なくとも将軍家では先祖から受け継いでるでしょ。
それを勝手に家臣にあげても、先祖になんとも思わんのかなあと思ったわけだ。

例えば徳川家光が『家』あげたら、大権現が夢に出そうだとか・・・。
思いませんかそういう風に。
というか、何かで家臣に名前を与える部分でそのような記述を読んだ気がして・・・。
明確には覚えていないんですが。

65 :日本@名無史さん:04/11/23 07:53:30
自分の妄想を書き連ねてスレを荒らす質問厨が粘着してやがるな
うざいから消えろ

66 :日本@名無史さん:04/11/23 09:09:06
>>65
やあだね。

67 :日本@名無史さん:04/11/23 09:31:07
朝倉家はアワビ食べないんだって。

コピペ

朝倉氏は但馬日下部氏の出とされており、
この日下部氏の守護神が赤淵大明神です。
一乗谷にも下城戸付近と山城本丸の近くに在りましたが、
この赤渕神社のご神体がアワビというわけです。

ここよく見るんだけど、いま、アワビと朝倉が下の方で並んでます。
ttp://okhome.hp.infoseek.co.jp/
時期的な偶然なんですが・・・。



68 :日本@名無史さん:04/11/23 21:46:57
武田義信の義も将軍家から貰ったもんだったはず

69 :日本@名無史さん:04/11/23 22:47:14
乱発しすぎ・・・。
ありがたみの無さが室町幕府とだぶる。
お金なのか、気を使っていたのか・・。

朝倉の子孫を名乗る人に会ったことがありますが、ぐぐると
『朝倉の子孫宣正は徳川忠長に仕えて遠州掛川を領したが、主人に連座して断絶した。』
こいつ誰?
その後、旗本とかでいたの?
でも、織豊時代に朝倉の苗字を維持できた一族はいないよね?

70 :日本@名無史さん:04/11/24 01:06:04
いやいるよ。歴史に埋没してしまったが上杉氏や足利義昭の
ところにいてお家再興を狙っていたのがいる。

71 :日本@名無史さん:04/11/24 01:38:44
>>69
朝倉宣正の子孫って、土井家の家臣として存続したんじゃなかったっけ?

72 :日本@名無史さん:04/11/24 01:45:30
明治はどうやって迎えたの?全部無名?
でも、滅亡って簡単に書かれてる家系って、全く滅亡していないんだな。
武田もそうだし・・・・。

それに対して浅井は井頼か・・・。京極氏の家臣ですよね。
無事残せたのかな?
浅井は
ttp://sengoku.or.tv/sn_diary/sn_diary.cgi

『信長に滅ぼされた浅井長政の妾の子は後、白木屋の始祖になりました。』

ttp://www.gld.mmtr.or.jp/~hiroh/ushiyama/midokoro/nagamasa.htm
を発見。
でも、女系で広く遺伝子が残せたから、朝倉に比べると浅井は歴史上重要な血筋ですね。
それとも、朝倉にも女性の隠れキャラがいるのか?

まあ、普通に江戸時代見るだけなら、浅井>>>>朝倉ていう遺伝子の繁栄ですね。


73 :日本@名無史さん:04/11/24 02:02:08
>>71
朝倉の子孫発見。
ttp://www.city.koga.ibaraki.jp/rekihaku/kikaku1/asakura.htm
土井の家老ということは、結構中央に近い重要な役どころ。
頑張ってたんですねえ。

ついでに誰が先祖かの情報も求む。


74 :日本@名無史さん:04/11/24 16:30:53
遠江の朝倉って、一族は一族だけどけっこう離れてるんじゃなかったっけ。
斯波氏が遠江も守護だったから、そこにくっついていったやつだったと思う。

75 :日本@名無史さん:04/11/25 00:17:05
朝倉の子孫の話は前スレで既出だった気がするが・・・。

76 :日本@名無史さん:04/11/25 03:03:30
>>74
朝倉 宣正 (あさくら のぶまさ:1573-1637)

1.宣政とも。藤十郎、筑後守。
2.土壇場で義景を見限った景鏡の甥。父在重(在宣)は義景のいとこにあた
  るが、越前から駿河に移って徳川家に仕えたという。いつの話だ?
3.宣正は秀忠に仕えて大番を務める。関ヶ原の戦いでは真田昌幸の籠もる信
  濃上田城攻めに加わり、小野忠明(御子神典膳)、斎藤信吉らとともに上
  田の七本槍と謳われるが、軍令違反により上野吾妻に蟄居させられた。
4.1621年、一万石を与えられて駿河大納言忠長(家光の弟)の附家老となる
  (のち遠江掛川二万六千石)。忠長には奔放の振る舞いが多かったが、諫
  言しなかったことを問われて酒井忠行に預けられた。このときは忠長の懇
  願により赦免されたが、1632年、忠長が改易(のち切腹)されると、宣正
  も所領を召し上げられて大和郡山に蟄居した。



77 :日本@名無史さん:04/11/25 03:24:45
今日は何の日

11月25日 織田信長、赤座吉家(「赤座小法師」)へ越前国内に前波長俊(「桂田播磨」:越前国守護代)の書出の如く
新知を宛行う旨を通達。〔『古案』坤〕

裏切り者が裕福になりました。

78 :日本@名無史さん:04/11/25 13:48:16
朝倉は知れば知るほど凄い存在なのがわかった。若狭武田氏は結局朝倉に屈服し、江北の浅井は
朝倉の与力大名の様なものだったといわれるし、北の加賀もかなりの部分を占領し顕如は九州の
門徒まで呼ぶほど追い詰めている。織田家一の猛将柴田勝家は加賀に侵攻したが4年もの間、越前
国境付近で足止めを食った。朝倉は加賀に進撃すると瞬く間に中部辺りまで占領した。一向宗さえ
いなかったら朝倉は天下にもっとも近い存在だったに違いない

79 :日本@名無史さん:04/11/26 22:39:58
でも肝心の当主に天下を狙う気が無かったからねえ。

80 :日本@名無史さん:04/11/27 13:31:01
勢いの落ち方がすごいね。
義景の後半だけで↓

81 :日本@名無史さん:04/11/29 23:28:24
朝倉で残ったといえば超マイナー大名溝江氏を忘れちゃダメだ

越前一揆で滅びかけ→息子が豊臣大名になるも関が原で西軍→井伊藩士

82 :日本@名無史さん:04/11/30 06:51:52
結局、大名として残ってないじゃん。

83 :日本@名無史さん:04/11/30 07:19:42
大名が偉いのかー。

滅んじゃ駄目なのかー。

と煽ってみる

84 :日本@名無史さん:04/11/30 21:02:44
一般的に言えば偉いし駄目だろうなと釣られてみる。

85 :日本@名無史さん:04/11/30 22:58:57
浅井氏の本ってあまりないね。
「戦国武将のこころ」は読んだが。
新人物往来社あたりから
「近江浅井一族」みたいなのだしてくれないかね

86 :日本@名無史さん:04/12/01 09:32:32
一般向けの本は少ないな。
浅井氏関係で代表的な本は、小和田哲男著「近江浅井氏」だろうけど手に入れるのは
難しいだろう。あとは「東浅井郡志」「坂田郡志」「長浜市史」あたりの郷土史本か。
長浜市史は以下で通販してるみたいだが、他の2つは地元図書館に行かないと見るのは
難しい。
ttp://www.city.nagahama.shiga.jp/section/rekibun/history/c_history.html
2巻に戦国期のことが掲載されてる。

87 :日本@名無史さん:04/12/01 23:33:03
「朝倉義景のすべて」は学術的価値のある良質の本だな。2800円は高いけど買っても
損は無い。

88 :日本@名無史さん:04/12/04 19:14:53
>>87
どういう内容が記載されてるのか項目だけでもあげてくれない?

89 :日本@名無史さん:04/12/05 17:24:54
>>88
ネットでぐぐれ。

しかしこのスレの伸びの悪さ。
もう終わりなんだろうな・・・。

90 :日本@名無史さん:04/12/05 23:53:50
朝倉景高は西国没落して、その後、どうなったのか知ってる人います?

91 :日本@名無史さん:04/12/10 20:57:11
どうやらいないようですね・・・

92 :日本@名無史さん:04/12/11 05:13:40
>>90
復帰。一揆勢と戦う。

93 :日本@名無史さん:04/12/11 07:44:20
>>92
嘘つけ、この野郎

94 :日本@名無史さん:04/12/11 10:38:00
>>93
本当だ、嘘つきとは何事だ、この野郎
死ね、変態ホモ野郎

95 :日本@名無史さん:04/12/11 13:21:10
>>92
どの史料によっているのか教えて欲しい

96 :92:04/12/11 21:13:24
>>95
史料見たわけじゃなくて、
インターネットの検索で引っかかっって、
誰のレスも無いので載せて、正確な情報を引き出して貰おう(煽ろう)と
思っただけです。ごめんなさい。
ttp://web.kyoto-inet.or.jp/people/sn-dos/sengoku/l_a.htm
朝倉景高(あさくら かげたか) ????〜????
○孫八郎 右衛門大夫
◇父:朝倉孫次郎貞景 室:烏丸冬光女 子:朝倉景鏡、景次、在重
 越前・朝倉氏一族。1517年、美濃・土岐頼芸に敗れて越前に逃れてきた
土岐政頼を支援し、総大将として3千の兵を率い美濃を攻めるが敗れる。
その後、朝倉氏の要職大野郡司を務めた。
1540年頃、不和となった兄孝景に背いたことから、国を逐われ、一向一揆と結んだという。
その後帰参したか、1555年には病に倒れた一族の重鎮宗滴に代わり、
加賀一向一揆との戦いの総指揮をとる。
一方で公家の娘を室とし、公家との文化交流盛んな風流人でもあった。

ただ、景鏡もかなり若い時期から朝倉の軍事行動に参加しているみたいだし
これで在重が義景に遣えている話が見つかれば、上記の確実性は高いと思うんですが?
私の空想です。スレ汚しごめん。

ちなみに、94は私ではない。
日本語が俺よりもかなり変な奴と一緒にされるのだけは勘弁。

97 :日本@名無史さん:04/12/12 08:46:55
>その後帰参したか、1555年には病に倒れた一族の重鎮宗滴に代わり、
>加賀一向一揆との戦いの総指揮をとる。

これ間違ってるよ。総指揮をとったのは、「景高」じゃなくて「景隆」。

98 :日本@名無史さん:04/12/12 08:55:37
やっぱりね。そんなところだと思ってました。

99 :日本@名無史さん:04/12/12 09:09:51
で、景高の末路は如何に?

100 :日本@名無史さん:04/12/13 13:46:40
92 :日本@名無史さん :04/12/11 05:13:40
>>90
復帰。一揆勢と戦う。


101 :日本@名無史さん:04/12/13 17:37:34
93 :日本@名無史さん :04/12/11 07:44:20
>>100
嘘つけ、この野郎


102 :日本@名無史さん:04/12/14 03:26:07
94 :日本@名無史さん :04/12/11 10:38:00
>>93
本当だ、嘘つきとは何事だ、この野郎
死ね、変態ホモ野郎


103 :日本@名無史さん:04/12/14 12:43:18
>>100=>>102
楽しいか?・・・

104 :日本@名無史さん:04/12/15 04:18:53
>>103
誰も書き込まないから寂しくて・・・。
このまま無くなっちゃうんじゃないかと不安で・・・。

すいません、ほんの出来心だったんです。

105 :日本@名無史さん:04/12/15 22:46:41
景高の末路は誰もわからないようですね。
遠江の朝倉氏についてなにか史料はあるんでしょうか?
静岡県西部の人、どうですか?

106 :日本@名無史さん:04/12/16 00:04:03
朝倉景高は、幕府で重用されてて、
その辺が当主の気に入らなかったらしいですね。

西国に逃れて、その後医者になった一族がいたはずですが・・・


遠江朝倉はよく知りませんが、
旧主家「斯波氏」の領国が越前・尾張・遠江であったことを
考えると、早期に(斯波氏の治世が機能している頃)分家した上で
現地派遣→土着した一族ではないでしょうか?

あと、北条氏にも「越前朝倉の流れをくむ」とされる朝倉氏がいますね。


ちなみに越前朝倉氏の末端は、越前国内にて名主クラスとして存続。
現在に至っています。

107 :日本@名無史さん:04/12/16 00:06:43
甲斐氏も越前・遠江両方に根を張っていることですし。

108 :日本@名無史さん:04/12/16 06:28:10
しかし、朝倉宣正(駿河大納言の家老)は在重の子で、
在重は景高の子といわれている。

朝倉在重でぐぐると、江戸町奉行朝倉在重が1658年に卒去している。
こいつ誰?既出でも教えて。

109 :日本@名無史さん:04/12/16 18:19:04
在重は在重の孫?教えて偉い人

110 :日本@名無史さん:04/12/17 02:47:41
存重−在重−宣正

111 :日本@名無史さん:04/12/17 07:08:01
存重−宣正−在重?


112 :日本@名無史さん:04/12/17 11:12:24
http://www.hanazono-jinja.or.jp/a1.htm

朝倉筑後守って、宣正ですよね?

113 :日本@名無史さん:04/12/17 12:27:41
>>112
そうだが、
寛政年代と書いてあるからかなり子孫です。
しかし旗本って、宣正の直系は土井家老じゃないんですか?



114 :日本@名無史さん:04/12/18 14:38:53
分家したとか

115 :日本@名無史さん:04/12/18 16:09:35
>>114
いい加減なこと書き込むなよ
ヴァカか、おまえは?
もう氏ねよ、冬厨クン

116 :日本@名無史さん:04/12/18 17:28:36
実は越前朝倉氏ではなく、但馬朝倉氏が奉行になったとか

117 :日本@名無史さん:04/12/23 22:19:56
長政タソの知名度は奥さんと娘達のおかげな気もする

118 :日本@名無史さん:04/12/24 01:56:28
でも、お市の方と長政ではどちらが有名かは微妙。
俺的には
淀>>長政>お市>お江与

かな。







>お初

119 :日本@名無史さん:04/12/24 08:57:15
>>116
但馬にも朝倉氏、残ってたんですか?

120 :日本@名無史さん:04/12/24 22:20:12
残っていた、というより但馬の方が本家。

121 :日本@名無史さん:04/12/25 12:11:49
>>120
だから残っていたんだろうけど、山名氏配下に朝倉氏はいたのでしょうか?
日下部氏はいたっぽいけど。

122 :朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :04/12/25 12:22:04
>>121
八木氏は居ましたね。

>>1
今更ですが乙です。

123 :日本@名無史さん:04/12/25 13:18:01
八木氏は残っていたどころか山名四天王。

但馬の朝倉は残ってないでしょ

124 :日本@名無史さん:04/12/25 14:27:56
>>123
全部移ったって言われてるの?
その時、朝倉城は廃城になったのかな。

ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/t_yagi_k.html
さきに、朝倉氏が但馬から越前に移った際に、行動をともにした八木氏もあり、その後裔が越前に広まっている。

125 :日本@名無史さん:04/12/26 02:41:13
でも但馬に”朝倉氏”はいない。

126 :日本@名無史さん:04/12/26 07:44:34
越前に一族で移るきっかけは何?

但馬の領地は南北朝期に維持できなかったのか、
それとも八木氏が全て領有して、朝倉氏だけ越前に引っ越したのかな?

詳しい史料知っているエロい人いる?

127 :日本@名無史さん:04/12/26 22:17:17
そこらへんがどうもはっきりしないんだよねえ

128 :日本@名無史さん:04/12/29 00:47:07
保全

129 :日本@名無史さん:04/12/29 00:56:38
一乗谷炎上の作者に謝罪と賠償を

130 :日本@名無史さん:04/12/29 20:56:27
>>129
何故じゃぁ〜

131 :日本@名無史さん:04/12/30 14:17:31
>>130
井之部降臨

132 :日本@名無史さん:04/12/31 22:52:05
一乗谷は一面雪化粧かな。
義景もこんな寒い日は熱燗で一杯やってたのかな。

133 :日本@名無史さん:05/01/01 07:27:04
>>132
のんびり酒飲んでばっかりで、滅んだ。

134 :日本@名無史さん:05/01/01 09:23:26
見てきたんですか?
軍記物に毒されちゃいけませんよ

135 :日本@名無史さん:05/01/01 09:36:41
正月から何必死になってんだ

136 :日本@名無史さん:05/01/01 11:23:29
必死にならなかったから義景公は敗れたのでしょう

常在戦場!!!!

137 :日本@名無史さん:05/01/01 21:59:26
一乗谷は今日も雪ですか?教えて地元の人

138 :日本@名無史さん:05/01/02 05:54:35
>>137
武生市はすごい雪らしいから、一乗谷はもっとすごい雪。
去年は福井は滅びそうな年だったから、今年はマシな年になりますように!

139 :日本@名無史さん:05/01/02 15:34:09
× 武生市
○ 越前市

140 :日本@名無史さん:05/01/02 17:02:48
嘘!もう変わったの?
っていうか越前市って何よ。『府中』入れろよ。

141 :朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :05/01/03 11:17:17
越前市。。。_| ̄|〇
喜連川町がなくなったくらいのショックかも知れないです(笑

142 :朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :05/01/03 11:25:00
しかも新生市名は西東京市と並ぶほどのセンスのなさ。
今すぐ住民投票で「武衛山市」あたりに改名すべきっすね。
http://news.goo.ne.jp/news/topics/index/20659/1.html

143 :142:05/01/03 11:29:27
>>142のリンク正しくはこちらです。スミマセン
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/seiji/20041220/K2004121900171.html

144 :日本@名無史さん:05/01/03 14:02:25
>>143
リンク見た。武生ってやっぱりアホな市だな・・・。
それも、よりによって越前市って・・・。
越前菊人形、越前高校、越前駅、越前羽二重餅・・・。
福井の何処にあるのかさっぱりだな。
全国的知名度以前に、福井人にすらイメージが湧かない名前だ。
益々帰りたく無くなる。

145 :日本@名無史さん:05/01/08 16:23:34
こんな日は小谷城も寒いんだろうなあ

146 :日本@名無史さん:05/01/09 22:44:05
小谷城の主郭は大嶽っていうんですか?
何故ここに朝倉軍が陣取っていたのか
よくわからないんですけど。
浅井は朝倉の家臣ってことでいいんですか?

147 :日本@名無史さん:05/01/10 19:50:22
>>146
いいよ

148 :日本@名無史さん:05/01/11 10:15:22
それで終わりかい!

149 :日本@名無史さん:05/01/12 14:39:36
>>146
大嶽城は小谷城と峰続きだけど一応違う山の上に建つ砦。小谷城の本丸を
見下ろすかたちで建てられていて背後の抑え的役割。
なお、禁制や遺構等から浅井を朝倉の家臣(郡代クラス)と見る説もあるが、
六角家への従属や織田家との婚姻を見る限り家臣とは言いづらく、従属に近い
同盟関係ではないかと思われる。詳しいことは過去ログ参照。

150 :日本@名無史さん:05/01/13 22:50:08
朝倉景鏡ってなんでナンバー2になれたの?
過去ログ読んだけどどうもわからない

151 :日本@名無史さん:05/01/18 09:13:47
景鏡;官位−式部大輔(正五位下)
   母−烏丸冬光女、父親謀反人
   大野郡司
景恒;官位−中務大輔(正五位上)
   母−知らん。貞景の弟筋で宗滴の養子
   敦賀郡司

ということで、敦賀>>大野で景恒の勝ち

あと、下記のようなことが堂々と他スレで言われていますが・・・
土橋に改名しても『朝倉』の家名は存続したいえるのか?
朝倉景鏡は自分が『次の正統』、だと思う意識があったのか?
どうでしょう?

ttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1092927606/
65 :日本@名無史さん :04/11/18 18:16:10
朝倉景鏡は家名を存続するため朝倉義景を切腹させる事で責任を回避した。
景鏡は信長配下の森と坂井を討ち取っても、信長には守護任命を赦されている。



152 :日本@名無史さん:05/01/19 00:41:09
>>151
>景恒=貞景の弟筋で宗滴の養子

景紀のこととごっちゃにしてる。
宗滴=景紀(孝景の弟)−景恒

153 :日本@名無史さん:05/01/19 05:51:03
>>152
ごめん、頭の中では消化してたつもりでも、
書いたら間違ってた。
貞景の弟筋⇒貞景の子供としては弟筋。


154 :日本@名無史さん:05/01/21 22:19:20
>景鏡は信長配下の森と坂井を討ち取っても、信長には守護任命を赦されている。

森を討ち取ったのは景健の兵じゃないか?
守護任命は前波吉継じゃなかったか?


155 :日本@名無史さん:05/01/22 00:22:03
>>154
どうぞ他スレに殴りこんで下さい。

156 :日本@名無史さん:05/01/22 10:26:22
>>155
おまい、何様のつもりだ?
市ね

157 :日本@名無史さん:05/01/22 10:58:12
>>156
煽りイカ?
他スレのことをここで、おまけに『?』使って言ってる
しょうも無い人間に道を教えてあげないと。みんな馬鹿になっちゃうでしょ。

158 :日本@名無史さん:05/01/22 19:25:58
>>154
それで正しいと思います。

159 :日本@名無史さん:05/01/22 19:30:11
京都に銅閣寺を建設へ
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1096197963/l50

知らなかった・・・

160 :日本@名無史さん:05/01/22 23:01:07
浅井・朝倉が銅閣寺に何の関係が

161 :日本@名無史さん:05/01/23 08:02:09
>>160
ねた切れってことだよ

162 :日本@名無史さん:05/01/23 09:47:02
そういえば、美濃の斎藤氏って最初浅井と結んでいて、後から六角に乗り換えたんだよね?

163 :日本@名無史さん:05/01/23 21:27:00
道三死後だろ

164 :日本@名無史さん:05/01/30 13:00:27
龍興の母親は浅井氏だったよな?

165 :日本@名無史さん:05/01/30 13:11:45
それより景健の活躍を詳しく。

166 :日本@名無史さん:05/01/30 22:26:32
>景健の活躍

1.加賀一向一揆戦で活躍
2.姉川の合戦で敗北
3.志賀の陣で活躍
4.小谷城救援で活躍
5.刀根坂の合戦で活躍、義景自刃で信長に降伏
6.越前一向一揆に妥協的な態度をとる
7.6がもとで信長に殺される

あと、詳しい人よろしく

167 :日本@名無史さん:05/01/31 12:27:22
1.景健⇒景隆?
2.敗北するも、織田・徳川連合軍に追撃できないほどのダメージは与える。
3.信長の弟の信治や森可成らを討ち取る。
4.京都まで包囲。義昭が和議なんぞ持ち出さなければ、信長あぼーん。
5.殿を努め、義景を逃した後、安居城まで無事撤退。
6+.がしかし、越前における一向一揆軍の大将、下間 頼照を討ち取る。
7.その首を持参したが、信長は使い道の無い蝙蝠は大嫌いなので・・

168 :日本@名無史さん:05/02/01 01:29:36
1.景隆・景健父子

169 :日本@名無史さん:05/02/05 06:09:40
景健の話題はこれでお終い?

170 :日本@名無史さん:05/02/05 11:58:58
>>169
聞きたいことがあるなら質問する。
知っていることがあるなら書き込む。

♂ならどちらかにしろ!

171 :日本@名無史さん:05/02/05 23:54:39
では、景健の話は終わりにして・・・

誰の話をしよう?

172 :日本@名無史さん:05/02/06 00:01:04
尾張の浅井氏との関係について。

173 :日本@名無史さん:05/02/06 09:16:30
遠祖はともかく、長政のころには全く別の家。
近江の浅井氏は鎌倉期の竹生島文書に浅井氏の名前が記載されていることから
かなり古くから江北で勢力を張る豪族(地頭クラス?)だったようだ。
その後尾張浅井氏が近江から分家したのか、尾張浅井の荘から出自して偶然に
同じ浅井氏を名乗ったのかはわからんなあ。

174 :日本@名無史さん:05/02/07 21:29:07
>その後尾張浅井氏が近江から分家したのか、尾張浅井の荘から出自して偶然に
>同じ浅井氏を名乗ったのかはわからんなあ

そのあたりがわかれば嬉しいんだけどね。誰か尾張浅井氏をテーマに研究する
人はいないか?いないか、そうですかそうですか。

175 :日本@名無史さん:05/02/08 09:30:56
尾張の浅井氏も「あさい」じゃなくて「あざい」なの
読みも同じなら同族の可能性も高まるが

176 :日本@名無史さん:05/02/08 12:04:20
>>174
一宮市の苅安賀城は、築城者浅井新八郎政高(政澄の父)と伝えられている。
浅井亮政の子であった父傳兵衛が某に殺害されたため、父の仇を討つため尾張
に来て、この地に城を築き、毛利(旧姓 森)の娘を娶って織田家に仕えたと
いうのが「尾陽雑記」「張州府志」の記載。
・・・・・ちょっと眉唾もの。

177 :日本@名無史さん:05/02/08 12:04:20
尾張浅井自体は歴史的には重要性は無いんじゃないの?
田宮丸にしても、秀吉が陥れるほど本当に優秀だったのか?

178 :日本@名無史さん:05/02/08 14:55:35
『彦坐王外敵討伐の時船が難破し、九穴の鮑がそれを助けたので、その鮑を養父郡枚田の赤渕神社に祀った」
と『赤渕神社由緒』に残している。

彦坐王は日下部氏の先祖で、この物語は日下部一族にとっで重要な伝承だったらしく、養父郡一円の日下部氏は現在も鮑を食さないと言い、
朝倉氏も同様に、鮑には『とっても大きなご恩』があるから食べれない。


179 :日本@名無史さん:05/02/12 17:54:23
>>177
田宮丸長時は親父の代からの世襲

180 :日本@名無史さん:05/02/12 23:21:24
親父の名前は何ていうの?

181 :日本@名無史さん:05/02/13 04:03:24
>>179
価値無さそうだね。
しかし、父親は信忠の家老で本能寺の変でも行方知れずなのに、
何ゆえ世襲と断言するの?

>>180
それぐらいはぐぐれ、新八郎!



182 :日本@名無史さん:05/02/13 07:13:42
浅井新八郎何てゆーの?

183 :日本@名無史さん:05/02/13 09:22:56
>>182
長政

184 :179:05/02/13 10:07:59
>>181
あれ、親父は信忠の家老だっけ?
普通に信雄の家老と勘違いしていた。

185 :日本@名無史さん:05/02/13 12:10:56
浅井の親父、家老なんかやってないじゃないか!
それともこのサイトの情報が間違ってて家老してましたっていう証拠があるのか?
世襲だといってた人どーよ?

http://www2s.biglobe.ne.jp/~gokuh/ghp/busho/oda_034.htm

186 :日本@名無史さん:05/02/13 22:40:17
尾張浅井氏のためにageておこう

187 :日本@名無史さん:05/02/14 04:23:57
>>185
その前に戦国時代における『家老』の定義が必要じゃないか?
江戸時代であれば重臣の中でも渦中の武士を統率し、
家務を遂行した統轄したものが家老で、通常世襲制。
残念ながら戦国時代は室町からの移行期なので、『管領や家宰』という名称から
『家老、重臣』といった名称に変わってきているみたいです(詳しくはエロイ人)。
そして、>>185のリンクにあるように(直りんは重くなるから禁止じゃないの?)
本能寺の変後、信忠の尾張の領地と家臣が信雄にそのまま引き継がれたようですから、
そのまま世襲制で田宮丸が家老へと移行したとても不思議ではない。
織田家の武将の中でも1580年には軍団制になっているので、
柴田や丹羽の家老と比較しても
家格(城も複数保持で一宮市の浅井町一帯を支配していれば結構な領域)
でいって、家老になっている可能性は十二分と勝手に推測。

ちなみに浅井新八郎某は1581年に亡くなったそうなので、
本能寺の変の前に田宮丸へと代変わりしているようです。
ttp://www.city.iwakura.aichi.jp/koho/20030315/20.pdf


188 :日本@名無史さん:05/02/15 06:20:36
それにしても「田宮丸」はないよなあ。
まだ童形だったの?

189 :日本@名無史さん:05/02/15 12:49:28
>>188
戦車のプラモが好きだったんだよ。

190 :日本@名無史さん:05/02/15 15:08:46
>>189
なぜ戦車だと特定できる?

191 :日本@名無史さん:05/02/15 15:39:57
>>190
まあ、一応右代表だから。(w
別に1/20のF-1でもWLの「大和」でも構わないんだけどね。

192 :日本@名無史さん:05/02/15 20:01:51
本当のところ田宮丸って何歳だったんだろう?

193 :日本@名無史さん:05/02/16 01:03:52
この人に質問してみれば?
ttp://www.138jp.com/bbs/hr1/
安土城を建て始めたので信長は本拠地を岐阜城からそちらに移ります。
この頃の西尾張は
・尾張と美濃は信長の嫡男、信忠の領地となります。
・苅安賀城主で赤母衣衆の一人、浅井新八郎は信忠の配下となります
 (悲劇の人、田宮丸はこの時5歳)

信忠に岐阜城を譲ったのが天正3年(1575)〜4年で、
1584年に呼び出されて手討ちされたならば、14-5歳。
大人ではあるが・・・。

194 :日本@名無史さん:05/02/16 23:29:30
何で信雄はそんな餓鬼んちょを手打ちにしたのかな?理解に苦しむ。

195 :日本@名無史さん:05/02/16 23:47:29
秀吉の企みという説もあります。


196 :日本@名無史さん:05/02/17 06:17:38
信雄=餓鬼
・伊勢長島の一向一揆攻めで初陣し負け
・信長に黙って勝手に伊賀に侵攻し、敵のゲリラ戦に翻弄され大敗
・本能寺の変の時に京に一番近い所にいたはずなのに、岡山の秀吉の出し抜かれる
・山崎の合戦後、安土城に入ったが不始末で焼失。
・秀吉に簡単に乗せられ、岐阜城の信孝を攻めて自害させる。
・秀吉台頭に危機感を感じ(自分の蒔いた種)、秀吉と内通の噂がある三家老(田宮丸含む)を殺害。
・小牧長久手で家康勝利も、信雄は勝手に単独講和。
・小田原後、徳川家の旧領への転封を拒否⇒改易

信雄の手討ちは普通で、それに仕えた奴が悪い。

197 :日本@名無史さん:05/02/17 10:03:45
>信雄の手討ちは普通で、それに仕えた奴が悪い。

言い過ぎだよw

198 :日本@名無史さん:05/02/17 12:36:02
>>196
> 信雄の手討ちは普通で、それに仕えた奴が悪い。

自分から信雄に仕えたいと言って仕えたのならその解釈でも良いが、信長から命じられて
仕えさせられたのならいわゆる「サラリーマンの悲劇」だろ。
それとも、もっと遡って「織田家に仕えたことが悪い」とでも?(w

199 :日本@名無史さん:05/02/17 14:57:27
>>197-198
反論が甘い!



もっと突っ込まないと俺が恥ずかしいだろ・・・。

200 :日本@名無史さん:05/02/17 15:16:15
>>199
> 反論が甘い!
> もっと突っ込まないと俺が恥ずかしいだろ・・・。

ならば、ここは逆切れしてみるべきでは?

201 :日本@名無史さん:05/02/17 17:55:58
うほっ


に応えなかったから、じゃないの。普通に。

202 :日本@名無史さん:05/02/17 20:37:31
>うほっ

信雄が田宮丸に迫ったってか?

203 :日本@名無史さん:05/02/18 01:07:57
尾張浅井家
 尾張を統一できなかった時点で負け組。所詮土豪の一つ。

204 :日本@名無史さん:05/02/18 03:22:39
じゃお前の先祖も

205 :日本@名無史さん:05/02/18 07:37:51
>尾張を統一できなかった時点で負け組。所詮土豪の一つ。

当たり前だ。斯波氏・織田氏を乗り越えて尾張統一など出来る訳が無い。

206 :日本@名無史さん:05/02/18 07:48:34
愚民ども・・
一番えらいのは島津義弘だよ。。。。

207 :日本@名無史さん:05/02/18 11:22:27
>>204
うちの先祖は織田信長に蹂躙されたであろう
武生で、かつ浄土真宗の百姓だ。


208 :日本@名無史さん:05/02/18 21:51:59
浅井親子の頭蓋骨で造った杯で乾杯したって本当ですか?
信長って人間じゃないな!

209 :日本@名無史さん:05/02/18 22:34:45
眺めて肴にしただけだろ

210 :日本@名無史さん:05/02/18 23:06:39
>>207
まちB投票始まってるぞ
http://kousinetu.machibbs.net/urala/vote/vote.cgi?


211 :日本@名無史さん:05/02/19 09:48:36
>>208
信長はキチガイですから。

212 :日本@名無史さん:05/02/19 12:32:19
織田氏は越前発祥な訳だが・・・。

213 :日本@名無史さん:05/02/19 13:18:41
守護斯波氏の老臣の織田大和守家の老臣に過ぎない存在だった。

信長の家は、斯波氏の家来で織田大和守家の家来の織田家



214 :日本@名無史さん:05/02/19 17:49:54
893 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/18 08:42:58
越後に落ち延びた朝倉家の子孫の人が名古屋で部品製造の社長やってるね。


894 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/18 09:51:42
それは偽ry


895 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/18 17:18:19
福井に西光寺て言うお寺があって、新潟に西遊寺という分家的なお寺があります。
そのお寺は朝倉義景の子供、愛王丸が落ち延びて建てた寺で住職さんは苗字が朝倉
です。ちなみにそこの地名が越前浜です。その社長さんそこのお寺出です。

-------------------------------------------
波乱が起きました。
愛王丸が生きていた!?

215 :日本@名無史さん:05/02/19 17:51:20
-----------------------------------------------
福井西光寺は確かに少々、朝倉とは関わりがある。
だけどね・・・

わざわざ危険分子を逃す信長ではない。

おまけにその新潟の寺の伝説、不自然過ぎ。
・家臣に抱えられて火中に消えた愛王丸は実は浄瑠璃人形(アホか)
・織田軍や一揆、落ち武者狩りをかいくぐり(無理)
・三里浜から出帆(・・・三里浜ってどんなとこか知らないとみた)
・愛王丸を連れた主従28人が逃げて(大人数ですね・・・)
・所縁のない新潟の山の中腹へ定着し
 (本物の遺児なら、他にすること、頼るとこあるでしょ)
・ほとぼりが冷めたら海岸に土着し(地元の同意は?)
・いきなり寺をおったてた(どうやって・・・地元は納得するんかい)

無理あり過ぎ。
朝倉主従が落ちてきた、となったら、
地元上杉とかも何らかのアクション起こしてもおかしくないんだけどなぁ。


216 :日本@名無史さん:05/02/19 17:52:25

http://www.makiko-doso.jp/makitalian/21.html
これを読む限り、もしかしたら朝倉がらみの落ち武者団は来たのかもしれないけど、
伝説の類は
>越前浜村開祖の28人衆は西遊寺同様、村の人から慕われ、
>中でも小川、斉藤、金子姓が越前浜の御三家となり
こいつらの捏造、に一票。


で、旗本朝倉家とか、名主朝倉家とかと交流あったのかね?
本物ならあるでしょ、普通。





217 :日本@名無史さん:05/02/19 17:56:56
902 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/19 17:24:33
>>901
どんなに調べたって

「我らは朝倉主従である」と言い張る(根拠なし)の落ち武者集団が
無人地帯に集落を作った。

という珍説以上のことは出てこないんじゃない?
愛王丸が本当に生き残ってたとしたら、江戸時代に越前の朝倉や
幕府のところの朝倉家と交流がないわけないじゃん。
あと、上杉家が放置しとくわけないじゃん。


903 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/19 17:26:43
あとこういうのは日本史板スレで聞いたほうがいい


904 名前:朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA 投稿日:05/02/19 17:38:56
古河藩家老朝倉(在重系)、水戸藩士朝倉(政景系)、幕臣朝倉(同左)、出羽朝倉(道景系)、越後朝倉(直系)、土佐朝倉(?)

英林塚を掘り起こして一斉にDNA鑑定してもらいましょう(笑

愛知の朝倉って、渥美郡に拠った一族があったですね。
伊勢朝倉もそうですがたしか日下部系譜でななかったはず。
帰ったら調べてみよー。


905 名前:朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA 投稿日:05/02/19 17:41:41
右京進が上杉で朝倉再興しようとしてたのを思い出したり。


218 :武衛山:05/02/19 20:00:41
へーへーへー。
愛王丸ってば。


まとめてみましたので訂正よろしく

219 :まとめ:05/02/19 20:01:33
古河朝倉・・・朝倉景高  貞景の子。宗家と不和になり逐電(追放)長男が景鏡。
        朝倉存重  景高の子(と言われている)。中村一氏、徳川家康に仕える。小牧長久手で功あり。
        朝倉宣正  在重の子。駿河大納言忠長の附家老。掛川2万6千石。
                忠長に連座除封。土井利勝と縁戚だったため子孫は古河藩へ。
        朝倉在重  石見守。江戸町奉行。多分ここの一族。


水戸朝倉・・・朝倉時景  義景1st.の子。織田城主。宗家に反乱を企て、失敗。
                のち小田原北条に使える。その後備前岡山へ移ったとも言われる。
                以下の政景の父「秀景」と同一人物か?
        朝倉政景  北条氏に仕える。経歴略。
        朝倉政元  彦四郎。右京進。北条氏滅亡後、秀吉、秀次に使える。
                秀次に連座して浪人。1603年、家康に出仕。
                紀州家、次いで水戸家に仕える。

幕臣朝倉・・・朝倉政明  政元の子。秀忠の旗本となり500石


220 :まとめ:05/02/19 20:02:30
土佐朝倉・・・朝倉友景  阿波の細川真之のところに亡命
                のち土佐にて一両具足となる。
                孫の代、山内忠義の頃、商人になる。
                高知に朝倉町という地名ができる。


出羽朝倉・・・朝倉道景  朝倉義景の従弟。朝倉景恒の男。彦四郎。
                刀禰坂で討死。享年17歳
                ・・・しかし生き残った説もあり、以下の伝承を残す。
                「宗家滅亡後、信長に圧迫された一向一揆衆と加賀より出帆。
                 秋田に辿り着き本敬寺を創設。」
                (・・・ちょっと無理?)
                http://www.inankuru.com/jitennsya12.html


越後朝倉・・・朝倉愛王丸 説明は過去レスに譲る。
                道景の件を鑑みるに、どうも日本海沿岸に
                「朝倉落武者が若様連れて土着伝説」がパターンとしてあるみたいですね。
                それも一向一揆系で。


越前朝倉・・・庄屋     江戸期を通じて現代まで福井郊外・旧社村に存続。大地主。
                家紋はまさにこれ。
                http://www2.harimaya.com/sengoku/html/asakra_k.html
                江戸時代になんの由来もなく、そんな名は名乗れないと思われるので
                なんらかの関わりがあると思われるが詳細は不明(不勉強ですいません)


221 :まとめ:05/02/19 20:03:17
行方不明・・・朝倉景綱  越前織田城主。刀禰坂での大敗後、本家命令
                を無視して真っ先に敗走。織田城に帰る。
                織田に帰順。
                1575年の越前一向一揆で七里三河らに攻め
                寄せられ、籠城するも籠城軍を見捨て、
                妻子を連れて逃亡。 以後行方不明。

        朝倉貞紀  朝倉景紀の末男。滅亡後、前田家に仕官した朝倉旧臣青山氏に仕える。
        朝倉景善  貞紀の子。


子孫がいてもおかしくない系統。でも知識不足。
      ・・・朝倉景恒  元僧籍。還俗して景紀家を継ぐが、手筒山城の陥落を恥じて
                永平寺に蟄居。同年死去。

        朝倉景胤  景連の子。越前一揆に加担。
        朝倉景泰  景胤の弟。越前一揆に加担せず。

        鳥羽景忠  知識不足ですんません。

222 :武衛山:05/02/19 20:04:25
しかし「滅びる」って寂しいねぇ。


さぁバスさん訂正よろしく。

223 :日本@名無史さん:05/02/19 20:34:12
>>219
水戸朝倉・・・朝倉時景  義景1st.の子。

孝景1st.の子の間違いだと思う。

224 :日本@名無史さん:05/02/22 22:56:35
俺もそう思う。

225 :日本@名無史さん:05/02/23 07:24:51
この朝倉は子孫として既出なの?
ttp://millnm.8m.com/phileo/kusakabe/html/1.html

226 :日本@名無史さん:05/02/23 08:50:44
>>225
なにこの電波????

新潟朝倉より性質悪い捏造系図で先祖巡りですか。


227 :日本@名無史さん:05/02/24 19:25:59
>>225
溝江姓なんて福井ではいくらでも居るんだが。

228 :日本@名無史さん:05/02/24 22:19:40
>>225
系図にない人物を勝手に作って「俺と系図」を繋げる。
よくある&初歩的な系図創造ですよね。

懐紙に書いて差し出した奴と同じような・・・(笑)

「どの系図にもいないよ」
「じゃ捏造じゃん」
って思えないのかねぇ。自分のことだとさ・・・。


229 :日本@名無史さん:05/02/25 00:59:36
蠣崎が武田の血筋なら、青森の溝江が朝倉の血筋と名乗ってもいい気がするのは
俺だけなのか?
言っておくが信じきっているわけでは無いぞ。

230 :日本@名無史さん:05/02/25 04:14:48
蠣崎って系図に実在する人物から分脈してないかい?

青森の溝江電波は・・・”そういう人”っぽいし・・・

231 :日本@名無史さん:05/02/25 08:46:26
分かった。電波として認定しよう。
しかし、淀君やお江の方のいる浅井と異なり、朝倉を名乗っても何の利用価値も無いはずなのに
朝倉を名乗って津軽に仕官した理由なんぞ思いつかないだろう?
朝倉の血筋を名乗るぐらいなら畠山だって武田だって滅んでるんだから
そっちを名乗った方が使い心地が良いと予想されるのだが・・・。
朝倉存重なんかが朝倉を名乗ったのも理由があるのかな?

232 :日本@名無史さん:05/02/25 10:07:16
仮にも越前若狭を支配下に置き、織田信長を追い詰めた朝倉ですよ。
その一族でーす!と言えば名声充分でしょう。
「溝江」ぐらいなら津軽くんだりじゃ(笑)誰にも真偽はわからないだろうし。
そもそも
「朝倉の本流の弟が溝江」
って津軽溝江本人らにも朝倉のことよくわかってないじゃん・・・


>朝倉存重

>>220のような関係らしいけど、実際はどうかわからない。
伊勢や尾張のほうに、越前朝倉とは別系統の「朝倉氏」が
いたと聞いたことがある。
その辺は渦中さんが詳しいかと。

するとその辺の子孫なら
「俺の先祖、マイナー過ぎ。
 ならいっそ”昔、越前国主だった”一族ってほうが通りがいいよなぁ・・・」
って感じで系図いじったのかもね。

233 :日本@名無史さん:05/02/25 11:25:27
越後には謙信を正式に頼った朝倉がいたらしいから、
既出の奴は知らないが、越後朝倉もまんざら嘘ではないのだろう。

朝倉 景嘉(あさくら かげよし)
朝倉一族。修理亮。信長により主家が滅ぼされ、その後、越前を一向一揆が支配すると、
上杉謙信を頼り御家再興のために奔走する。謙信の病死により頓挫した。
ttp://www.nul.nagoya-u.ac.jp/event/tenji/2002/komonzyo/asakura4.html


234 :日本@名無史さん:05/02/25 17:56:53
越後朝倉は「愛王丸は生きていた!」と言ってますが・・・

235 :日本@名無史さん:05/02/25 23:42:39
地元に伝わる「下へ下へ」という唄に、なにかそれをにおわすようなことがあるらしから、
よけいにそう思ってしまうんだろうなー。

236 :日本@名無史さん:05/02/27 09:53:15
みんな肥のせい。

237 :日本@名無史さん:05/03/03 18:39:02
義景には越前幕府の構想があったんじゃないかな。

238 :日本@名無史さん:05/03/04 01:15:52
釣るにしても他の言い方があると思います。

239 :日本@名無史さん:05/03/04 09:08:26
>>237
ぶっちゃけ「ない」と思うよ

240 :日本@名無史さん:05/03/04 10:27:18
昨日信長の野望を久しぶりに朝倉でプレイしたんだが

四方八方から一乗谷に攻めこまれて

惨殺された

多分漆塗りの髑髏杯にされたことであろー

241 :日本@名無史さん:05/03/04 11:32:14
>>240
少なくとも本願寺以外には攻められようが無い。
下手糞過ぎて三戦板にも行けないんだろ。


242 :日本@名無史さん:05/03/04 11:42:12
>>240、241
どうでもいいがゲームの話しは他所でやれ。
厨房

243 :日本@名無史さん:05/03/09 22:49:54
>>237
>義景には越前幕府の構想があったんじゃないかな。

「堺幕府」のようなものを考えていてもおかしくはない、と思うがどーよ?


244 :日本@名無史さん:05/03/10 01:57:25
>>237>>243もはっきりと死んでいいと思う。
義景ごときにそんな夢があるわけ無いだろう?

245 :日本@名無史さん:05/03/10 13:12:41
>>243
どーよと言われてもなぁ。
本人に聞け、としか・・・

246 :日本@名無史さん:05/03/10 14:46:41
義景って穴熊、もしくはもぐらたたきのモグラでしょ?
堺はありえないし、やっぱり京だろうな。
織田にまぐれで勝って、かつかなり運に恵まれて京を取ったとしても、
三好や六角に良いようにやられて穴熊に戻る。
朝倉の天下なんぞありえない。 

by 越前府中市市民

247 :日本@名無史さん:05/03/10 17:40:49
>>246
http://kousinetu.machibbs.net/urala/vote/vote.cgi?


福丼人は日本一謙虚かつ自己評価が低くひがみがち、というが・・・
朝倉、一時は京都を支配していたし、
もう本当に寸でのとこまで信長を追いつめてるんですよ。
自信を持ちなさい。

・・・信長を倒して、それから「天下を取る」かといえば・・・
そもそもそんな気がなかった、と思いますけど(笑


248 :日本@名無史さん:05/03/10 17:51:51
だからそこで「越前幕府」ですよw
天下を取ることには執着しなかったけど、
義昭を擁して一乗谷を根拠地として
近隣の守護大名連合を作る。
これだね、義景の考えていた路線は!

249 :日本@名無史さん:05/03/10 23:36:52
>>247
釣りか?福丼、京都支配、謙虚・・・・。
あと、信長を追い詰めたのは朝倉だけではない。
信長は人生のなかでその程度の危機には多く出会っている。
まあ、最後は謙虚さを無くし過ぎてあボーンだけどね。

>>248
ifを通り越して、異次元の世界の話しだね。
義景が信長程度でもリーダシップがあれば、家臣にもっと恵まれれば、
言い出したらきりが無いけど、あの時代に自分への権力集中を抑えるように
親戚を優遇し過ぎたんだから、信長がいなくても朝倉政権 in 越前の未来は
予想が付く。

250 :日本@名無史さん:05/03/11 15:00:57
>>249
まちBBSでは「福丼」と書かれるぞ?
京都支配は事実。一時期でしかないけど。
福丼人が僻みやすく、一見”謙虚に見える”のも事実。
「まぁどうせ俺たち福丼だからさ・・・無理無理」
と他県人に言われるより先に、自分たちで言い出すのが福丼人。

信長を追い詰めたのは朝倉だけではないが、
それはつまり「朝倉が何度か信長を追い詰めたことがある」のも事実

>>248
信長の近隣だからなにをやろうがアウト。
化け物にはいつか食われる。

251 :日本@名無史さん:05/03/11 16:39:35
同じ「福丼人」wでも越前と若狭では気質が異なるように
思えるけどどーですか?

252 :日本@名無史さん:05/03/12 15:11:37
朝倉義景の子孫、朝倉弘文さん(故人)

253 :日本@名無史さん:05/03/14 10:28:40
>>251
越前は朝倉。少なくとも福丼に対する愛着がある。
若狭は武田。所詮よそ者。京都にしか興味なし。

ちなみに教育、人口、産業 全てにおいて 越前>>>>若狭

254 :日本@名無史さん:05/03/14 19:40:31
旧国が吸収合併された形の地方の人は
やはり複雑な思いがあるのだろうか。
他にも
岐阜県飛騨地方の人とか
石川県能登地方の人とか

255 :日本@名無史さん:05/03/14 19:58:22
あざい・あさくら

長政は久政に押し切られて裏切った?


256 :日本@名無史さん:05/03/14 21:02:21
多分、自分の意志でしょう。

257 :日本@名無史さん:05/03/14 23:26:51
小谷城の「京極丸」の由来教えてください。

258 :日本@名無史さん:05/03/15 09:02:56
>>257
ググればすぐ判るんだけど・・・。

大永3年(1523)15代当主京極高清の跡目相続について、家臣団の協議(梅本坊公事)が
行われるが、長男・高延を立てようとする浅井亮政派と、次男・高慶を立てようとする
父高清,上坂信光派が対立する。
協議の結果、跡目は次男高慶に決定するが、次男高慶擁立の中心となっていた上坂氏が
権勢をかさに横暴に行ったので、反感を持った浅井亮政らは次男・高慶派を排除すること
を画策する。
 大永4年(1524)、浅井亮政らは上平寺城の京極高清,上坂信光を攻め、高延を救出。
更に上坂氏の今浜を攻略して上坂氏を追放、京極家中の実権を握る。
その後の派内抗争をも制した浅井亮政は、名目上は京極家の家臣ながらその実力で京極家
を傀儡とし、自らが擁立した高延と、前当主の高清を小谷中腹の郭に迎え入れ、事実上軟禁
した。
以降、京極父子が20数年軟禁されていたこの郭を京極丸と呼ぶことととなった。

こんな感じかな。

259 :日本@名無史さん:05/03/15 20:23:47
あんなとこに20年軟禁、はやだなぁ。


260 :日本@名無史さん:05/03/15 22:23:53
冬は寒かったろうなあ・・・

261 :日本@名無史さん:05/03/17 03:28:30
1534年近江清水谷で浅井亮政に饗応された京極父子は高延・高秀父子
との説もあるようです。高清・高慶親子は放浪し
そして、高慶⇒高吉となり足利義輝に繋がると。

京極高吉 きょうごくたかよし 1508〜1581
京極高清の男。高延の弟。別に高慶・高佳。官途は長門守・中務少輔。
近江上平寺城主。妻はマリアといい(1544〜1618。浅井亮政の娘とも言われるが、未詳。
享年75歳が事実だとすると、久政が若い頃にもうけた娘となる)、
1581年夫婦揃ってキリシタンに受洗したとゆう。
1523年の政変の際父高清とともに近江を追われ、尾張へ退去。
1528年六角氏の支援のもと、上坂信光らとともに浅井氏と戦うが敗退。
1538年六角高頼による小谷攻めではこれに参加して今浜の鳥羽上城を攻略した。
しかし、間もなく頼みの六角氏ももはや京極氏の擁立を諦め、高吉は将軍家の近習となった。
義輝に仕え、その暗殺後は義昭の将軍就任に奔走した。
義昭と信長が不和となると信長の嫌疑を受け、一子小法師(高次)を人質に出して上平寺城に蟄居した。


262 :日本@名無史さん:2005/03/24(木) 18:54:21
あげ

263 :日本@名無史さん:2005/03/29(火) 16:08:34
保守

264 :日本@名無史さん:2005/04/07(木) 05:42:45
義景の弟っていたんですか?

265 :日本@名無史さん:2005/04/07(木) 15:35:11
景弘なんていません

266 :日本@名無史さん:2005/04/07(木) 17:00:12
「朝倉義景のすべて」で佐藤圭さんがいかにもいるような書き方をしてるぞ

267 :日本@名無史さん:2005/04/08(金) 14:38:28
         / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
         /      C   \
        /   _______ヽ
        l:::.   |::(●)::::::::::::::::::::(●)| ̄
        |::::::   |            |
       |:::●  |   (○ ○)  |
       ヽ::::::::ノ \ \__/ / |
        | ̄      ヽノ   /       ここが俺のスレか?
        |     \;;;;;;;;;;;;;;;;;;/
    _,;-'"´´`ヽ、 ` - 、,   ノ``-;,_
 _,;-'"´   r‐-‐-‐/⌒ヽ '"´     ``-、_
//  ヽ、  |_,|_,|_,h( ̄.ノヽ      ヽ  ヽ
| |  ー-ヽノ| `~`".`´ ´"⌒⌒)     ',   i
| ヽ、// ノ |ヽ、_入_ノ|´ ̄      ノ   |
ヽ  / /  \ _ ,/  |     _ , イ y   ノ
 ト、l イ        /C A R P  /____|
   ヽ、      ノ    |     /|____,,ゝ
    \__/     |   6 | |    |V

268 :日本@名無史さん:2005/04/09(土) 13:32:15
なんだこいつ?

269 ::2005/04/12(火) 03:01:02

渦中はいるかな?

宮増丸ってどういう人物っすか?

270 :日本@名無史さん:2005/04/16(土) 19:23:02
宮増丸ねえ・・・わからん

271 :日本@名無史さん:2005/04/16(土) 22:13:43
佐藤圭先生に訊けば。いや、松原先生の方がいいかな?

272 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 19:37:18
>>268
広島カープの浅井選手じゃないか?
どうせなら
阪神の浅井捕手、中日の朝倉投手も出して欲しいもんだ。

273 :日本@名無史さん:2005/05/01(日) 17:28:31


274 :朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :2005/05/03(火) 22:24:00
宮増丸は武田にいたみたいっすね。詳細は明日にでも。

275 :日本@名無史さん:2005/05/05(木) 01:47:16
おーい、渦中

276 :朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :2005/05/06(金) 00:56:22
某所でものすごい誤爆を;;;;
そしてトナメでワーワーやってたため遅れました。スマンス

さて、宮増丸が一体誰でどのような人物だったかという手がかりは、
一通の書簡しか残されていないため中々難しいところです。

とりあえず書簡の内容をうpしてみますので、解釈を交えながら検証してみましょう。


                     (ママ)(ママ)       朝倉
                  武田形部太輔      宮搖ロ
                            御宿所

態以使札啓達、抑公儀入洛爲御行、太守御出馬播州表、始上月落居、被得大利之旨、珍重存候、
随而義景不慮以來、如御存知爲仁者無之故、上意并輝元江得貴意儀無御座候、兄三郎喜三切腹候、
弟三人相殘候、若輩尤憚多存、菟角罷過候、於御味方中可相續名字躰無之候、然者、
乍出物沙汰對與三家督之儀被仰出候樣ニ、元春江有御入魂、隆景ヘ被仰談、
如何樣共御才覺奉ョ存候、於然者、集諸勞人至于越前亂入、不可存由斷、與三以愚札雖可申入候、
越府之路次無合期候間、先以一札令申候、畢竟有御心中事ニ候、偏ニョ存外無他事候、
於子細者佐々木源兵衞尉方江申渡候間、不能曲筆候、恐々謹言、

                  十二月七日          宮搖ロ

                  武田刑部太輔殿
                            御宿所
                                                                       「吉川文書」

277 :日本@名無史さん:2005/05/06(金) 00:56:26
若狭武田で六角と一緒にいたの?楽しみ〜。

278 :朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :2005/05/06(金) 01:08:29
宮増丸が毛利家に宛てた書状です。
出された年代が不明ですが、「太守御出馬播州表、始上月落居、被得大利之旨、珍重存候、」と
上月落城の祝辞が述べられている事から、この戦役からほど遠くない時期、天正6年と特定できます。
その天正6年当時、「義景不慮以來」「仁者」のない宮増丸は弟三人と共に
「武田形部太輔」方に逗留しており「御味方中可相續名字躰無之候」の今、
朝倉「家督」を継ぐために何とか毛利家の力添えをお借りしたいと。
「偏ニョ存外無他事候」このあたりに宮増丸の悲痛な叫びが見て取れますね。

さて文中の「武田形部太輔」とは一体誰なのか。これは「刑部少輔」の間違いでしょう。
安芸国郡守護の武田家の当主が代々刑部少輔を継いでいますから、
恐らく安芸武田直系の人物ではないかと推測できます。
安芸武田は銀山城を追われて刑部少輔信実以降は不明ですが、
安芸安国寺には伝刑部少輔信実の墓があり、この地に細々と命脈を保っていたことが伺えます。

>>277
若狭武田の一族は天正6年当時若狭に居たとはいえ、無禄の上織田の勢力下で警戒されています。
また官途の中で「刑部少輔」に該当する人物がいないため、若狭の可能性は低いのではないかとオモウですね。


んで、整理してみますと、、、
-----------------------------------------------------------------------
朝倉与三某。宮増丸。???〜???
  主家滅亡後安芸旧郡守護武田家に潜伏。朝倉家再興を企図し1578(天正6)年頃、
  佐々木源兵衛尉を使者に毛利家へ力添えを依頼。
  通称が伝わっていないため、彼が朝倉家のどの系統に属した人物かは不明。
  三人の弟もいたらしいが、彼らのその後の消息は途絶えている。
-----------------------------------------------------------------------
こんなところでしょうか。

279 :277:2005/05/06(金) 08:14:03
武田信廉の可能性があるんじゃない?
信廉;1532-1582, 天文元〜天正十. 親族衆, 孫六・信綱・刑部少輔・逍遙軒

信長は六角次郎(佐々木義治)を匿ったとして恵林寺を焼き、正親町天皇から大通智勝の国師号を頂く、快川和尚を焚殺する。
修行僧数百名と宝泉寺の雪峯、東光寺の藍田、長禅寺の高山等を山門に追い上げ、残忍にも寺の周囲に薪を積んで火をかけ、
生身を火であぶり、焼き殺す。この時、山門の四方には軍兵が槍や刀を構え囲んでいたとされる。
【本朝高僧伝】

佐々木源兵衞=六角義治説
ttp://blog.sasakitoru.com/200504/article_14.html

こうなると、この朝倉宮増丸が宣正に繋がる可能性も出てくるわけだ。

280 :日本@名無史さん:2005/05/06(金) 21:18:05
六角が絡んでくるところを見るとやっぱり安芸じゃなくて
甲斐武田のところにいたんじゃないかと思います。

281 :日本@名無史さん:2005/05/06(金) 22:07:11
>>278は荒らし。知識もググル程度のものしかない

282 ::2005/05/06(金) 22:47:22
佐々木と六角が絡むと、「義景、六角からの養子説」も絡んできますねふふふ・・・

まぁ「対信長地下連合」という結びつきかもしれませんが。


それにしても安芸武田へ逃げる意味がわからんっす。

283 :日本@名無史さん:2005/05/06(金) 23:04:07
だから荒らしは放置しろって

284 :日本@名無史さん:2005/05/06(金) 23:08:26
というわけで>>281>>283を放置します。

285 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 20:21:24
甲斐武田家に逃げて結局ともに滅亡ですか?>宮増丸兄弟

越後上杉家にも身を寄せた一族がいたと思うがそっちはどうなったのかな?

286 :朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :2005/05/10(火) 00:49:24
まず始めに、「宮搖ロ」の略歴に付いて訂正を。。。

>>278
>通称が伝わっていないため、彼が朝倉家のどの系統に属した人物かは不明。
の部分を「高景末裔の朝倉庶流の一族。」に訂正しておきます。

調べてみたんですが「一乘録」第二冊巻三に高景の裔として「與三」、與三の兄「三郎」の名が見えます。
すなはち「右一乘族人姓名傳于世者」として挙げられた「茂景、久景、弼景、三郎、與三、月庭、
久家、景友、景重、弥七郎、四郎左衛門、勘解由左衛門、六郎左衛門、権頭、掃部、出雲守」
ですです。
----------------------------------------------------------------------------
※ ちなみにこの「一乘録」はその紹介記事など見ますと、
  朝倉広景以下歴代の庶子一族の事蹟(なにっ!!?)、
  巻四には朝倉家臣123家(なんと!!!)を挙げて枚挙した列伝まで盛り込まれてるという、
  ここの住人さんには何とも垂唾モノの内容ですね。全文の翻刻が待たれるところです。
----------------------------------------------------------------------------

んで武田刑部少輔が誰か、また宮増丸がどこに居たかということですが、、、
確かに逍遥軒信廉も刑部少輔を名乗っていたので、一応推測はしてみてたんです。
ただ毛利の「御才覺奉ョ」ってお家再興という重要な任務を遂行するために「越前亂入」を企てている以上、
甲斐から遥か遠国にあり、現地の動静を逐一把握できない状況下で毛利を頼るよりも、
毛利の膝元でその動きをつぶさに照覧できる安芸にあったからこそ、現実味を帯びた企てになったとオモウです。

また安芸国郡守護である刑部少輔信実は若狭武田からの入嗣であり、
若狭方面の勢力も少なからず期待できる事から、ここに安芸→播磨→若狭→越前という
宮増丸の侵攻ルートが想定できるわけです。

最後に「佐々木源兵衞」についてですが、どうやって彼を六角義治と見なしたんでしょうね。気になります。

287 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 10:33:22
形部太輔⇒刑部小輔にするから変なんで、そのまま刑部大輔にすれば、

ttp://okhome.hp.infoseek.co.jp/memory/me005.html
武田信実が刑部大輔
「永禄六年諸役人附」(塙保己一の群書類従 巻第五百十一)でも刑部大輔
ttp://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/syokuho/syokuho4.htm
の10月17日に足利義昭の「申次」衆として武田刑部大輔がでる〔『言継卿記』四〕

で武田刑部大輔=武田信実で足利義昭と一緒に行動していた可能性・・結論)安芸 は?

それとは別に
ttp://blog.sasakitoru.com/200504/article_13.html/
に武田に使者となったのは六角高盛となっていて、
その孫が佐々木(六角)源兵衛高重(義忠)になるらしい。

だから、『誰』が佐々木源兵衛なのかと聞かれても
ぐぐることしかできない私には分からないんだが・・・。

288 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 14:35:39
で武田刑部大輔=武田信実で足利義昭と一緒に行動していた可能性・・結論)安芸 は?

それだ!

289 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 14:45:08
今までのをまとめると

-----------------------------------------------------------------------朝倉与三某。宮増丸。???〜???
  高景末裔の朝倉庶流の一族。
  主家滅亡後武田刑部大輔信実の元で足利義昭と一緒に行動していた。
  朝倉家再興を企図し1578(天正6)年頃、佐々木源兵衛尉を使者に毛利家へ力添えを依頼。
  三人の弟もいたらしいが、彼らのその後の消息は途絶えている。
-----------------------------------------------------------------------

これでまた一つ朝倉家にトリビアが生まれた

290 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 14:46:47
修正

-----------------------------------------------------------------------
朝倉与三某。宮増丸。???〜???
  高景末裔の朝倉庶流の一族。
  主家滅亡後武田刑部大輔信実の元で足利義昭と一緒に行動していた。
  朝倉家再興を企図し1578(天正6)年頃、佐々木源兵衛尉を使者に毛利家へ力添えを依頼。
  三人の弟もいたらしいが、彼らのその後の消息は途絶えている。
-----------------------------------------------------------------------

291 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 23:36:54
えーと、
武田刑部大輔信実は毛利氏に追い払われた後、幕府に直参してて、
その後、足利義昭の都落ちに従っていた。
宮増丸はそこに居候していたということですか?

292 :日本@名無史さん:2005/05/16(月) 00:39:01
武田刑部大輔信実・・・どんな生涯を送った人だろう・・・同名異人がいた?

293 :日本@名無史さん:2005/05/16(月) 22:16:54
浅井氏は高島郡に勢力を伸ばしていた時期があるのですか?

294 :日本@名無史さん:2005/05/17(火) 13:45:38
磯野氏が臣従してたから高島郡にも勢力を伸ばしていたんだろう

295 :日本@名無史さん:2005/05/19(木) 08:20:25
>>289
>毛利の膝元でその動きをつぶさに照覧できる安芸にあったからこそ、現実味を帯びた企てになったとオモウです。

天文10年銀山城落城後、11年の一族の伴氏が再起を賭けた挙兵が討伐されてしまい、組織的な力はないよ。
家臣団は毛利に与するか、帰農している。

296 :朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :2005/05/23(月) 22:09:57
>>287
「永禄六年諸役人附」見ました見ました。オレ武田には詳しくないものですから、
吉川文書に現れる「武田形部太輔」が義昭随行の「武田刑部大輔信実」なのか
もしくは旧安芸国郡守護の「武田刑部少輔」なのか、もしくは全くの別人かは正直良くわかりません。
ともかくいずれの武田を頼ろうとも、安芸あたりに潜伏していたとみるのが妥当なカンジですね。うんうん。

>>290さんのを修正です。
以下「一乘録」巻之三より抜粋、

 高景四子、長氏景、次茂景、久(一作冬)景、次弼景、茂景称阿波賀但馬守、法諡曰不昧、
 又有三郎者?、天正三年二月、弟與三従一揆據鉢伏、久景称向駿河守法諡曰月庭、
 子久家、亦称駿河守
                                                     「一乘録」

これを見ると「三郎」「與三」兄弟は「阿波賀但馬守」すなはち朝倉茂景の系統だということがわかります。
しかも「與三」は「従一揆據鉢伏」とあるように、「天正三年二月」頃一揆勢に与していたようです。
「據鉢伏」とは、鉢伏に據(よ)ると読めば但馬国鉢伏山に籠ったと解釈できますがいかがなものでしょう?
んで総括すると、、、

---------------------------------------------------------------------------------
朝倉与三某。宮増丸。但馬守???〜???
  高景の子阿波賀但馬守茂景の末裔。朝倉庶流の一族。 [一乗録]
  主家滅亡後兄三郎は敗死、1575(天正3)年2月、但馬国鉢伏山にて一揆勢とともに蜂起。[一乗録]
  その後弟三人とともに武田刑部大輔(信実?)の元で安芸に潜伏。[吉川文書]
  朝倉家再興を企図し1578(天正6)年頃、佐々木源兵衛尉を使者に毛利家へ力添えを依頼。 [吉川文書]
  それ以後、彼らの消息は途絶えている。
---------------------------------------------------------------------------------


>>295
ふむふむ。とすると彼らが寄宿していたのは、やはり武田刑部大輔信実方ということになるのかな。

297 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 03:14:59
福井県にも鉢伏(山)城はあるじゃん

298 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 06:47:08
ttp://www.ikedakai.com/shincyokoki4.html
八月十五日、夜に入り、府中龍門寺、三宅権丞楯籠り候構へ忍び入り、乗っ取り、近辺に放火候。
木目峠・鉢伏・今城・火燧城にこれある者ども、跡を焼き立てられ、胆を潰し、
府中をさして罹り退き候を、羽柴筑前守・惟任日向守両人として、府中の町にて、
賀州・越前、西国の一揆二千余騎斬り捨てらる。手柄の程、是非に及ばず。
阿波賀三郎・阿波賀与三兄弟、御赦免の御侘言申し上げ候と雖も、御許容なく、
原田備中に仰せ付けられ、生害させられ候。

赦免を許可されずに、原田備中守直政に手討ちですか・・・。
景健同様、武生大虐殺被害者の会に入れるのも恥ずかしいかも・・・。


299 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 06:53:18
>阿波賀三郎・阿波賀与三兄弟、御赦免の御侘言申し上げ候と雖も、御許容なく、
>原田備中に仰せ付けられ、生害させられ候。
三郎と与三が死んでいたとすると、渦中が持ってきた手紙の与三は誰?

300 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 08:21:43
---------------------------------------------------------------------------------
朝倉与三某。宮増丸。但馬守???〜???
  高景の子阿波賀但馬守茂景の末裔。朝倉庶流の一族。 [一乗録]
  主家滅亡後一向宗に加担、1575(天正3)年2月信長の越前一向一揆討伐のとき、
  越前国鉢伏山にて一揆勢とともに蜂起[一乗録]。兄三郎とともに原田直政に討たれるとあるが[信長公記]
  その後弟三人とともに武田刑部大輔(信実?)の元で安芸に潜伏。[吉川文書]
  朝倉家再興を企図し1578(天正6)年頃、佐々木源兵衛尉を使者に毛利家へ力添えを依頼。 [吉川文書]
  それ以後、彼らの消息は途絶えている。
---------------------------------------------------------------------------------

301 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 10:29:44
>>295

安国寺!安国寺!

安国寺の家臣団って、旧武田家の家臣でできてるんじゃないんですか?


・・・と思いたいねぇ(涙)


302 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 10:45:46
>>298
武生なんて町は(もう)存在しない!

303 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 22:38:24
若狭で頑張ってた武田信方が甲斐武田に匿われていたのだから
甲斐にいた朝倉氏もいたに違いない 多分・・・

304 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 01:02:02
>>303
武田さんと武田さんは親戚

朝倉さんと甲斐武田さんはせいぜい同盟者

305 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 07:42:16
しかし山梨市に日下部の地名?があるのはなぜだ?

306 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 10:36:47
そういや天目山で勝頼は信勝に対して「奥州に落ち延びよ」
って言ったそうだけど南部に匿ってもらうつもりだったのかな?

307 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 10:48:51
>>305
ttp://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E6%97%A5%E4%B8%8B%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E9%89%B1%E5%B1%B1&lr=
日下部氏と鉱山は関係があると考えている人がいるみたいだよ。
そういう意味では甲斐に日下部一族が出張っていっても不思議は無いかも。

308 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 16:03:40
>>306
芦名とか。

・・・小笠原も、芦名に世話になってたような。

309 :日本@名無史さん:2005/05/27(金) 05:43:23
>>303
別にこのスレではどうでもいいんだが、
武田信方が甲斐に逃れたなんて何処に書いてあるの?


310 :朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :2005/05/30(月) 23:45:35
さてさて、朝倉宮増丸こと阿波賀余三のことが詳らかになったので次行きましょう。

>>232さん
伊勢朝倉氏は本貫三河国とされる伊勢の国人で、官途(通称)から備後守・兵庫助の二系統が確認されているようです。
また渥美郡に拠る朝倉の一族は朝倉勘解由左衛門尉貞茂という者が「伊勢貞宗譲状」に確認でき、
彼の分領である伊勢国保々御厨の記述が同状に確認されるところから、
朝倉貞茂も上記伊勢朝倉氏と同族である事が想定されます。

311 :日本@名無史さん:2005/05/31(火) 07:33:19
その前に北伊勢48家の朝倉氏はこっちでは平氏になってるけど
日下部朝倉氏と繋がるのかい?
ttp://hishiki77.ld.infoseek.co.jp/2-2shushi/2-2-7shiro/2270-48ka.htm

312 :日本@名無史さん:2005/06/09(木) 22:31:32
違うんじゃないの?

313 :日本@名無史さん:2005/06/13(月) 01:34:14
>>311-312
そうなんだよ、「違うっぽい」という点が問題なのよ。

伊勢朝倉氏→幕臣朝倉氏、つまり越前と関係なし

となるかどうかという点。
詳しくは>>310


>>310
明らかになった・・・のでしょうかwww
阿波賀はいま現在は見る影もないですが。
http://www16.ocn.ne.jp/~proto/minato1/abaga.htm
一乗谷の入り口(出口)に今でも地名は残ります。


関係ないけど便利サイト発見。意欲的ですねこれ。
http://www16.ocn.ne.jp/~proto/index.html


314 :日本@名無史さん:2005/06/14(火) 06:41:09
>>313
伊勢朝倉⇒旗本朝倉も確定情報じゃないと思うけど・・。
どうしてそう言えるの?

315 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 10:42:09
捕手

316 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 12:12:28
保守

317 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 11:36:24
捕手

318 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 18:32:46
「近江浅井氏の研究」(小和田哲男先生著)
注文しました。けど高いねえ。

319 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 09:25:51
しゃーない

320 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 08:59:38
値段の割には内容が物足りなかった。
特に朝倉氏との関係についてが。
姉川の合戦も志賀の陣もさらっと書いてあるだけ。

321 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 17:04:26
捕手

322 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 13:01:26
あさい? あざい?

323 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 17:32:20
「あざい」が正解

324 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 12:22:27
浅井亮政の出自は?

325 : ◆KVLvF19feo :2005/08/12(金) 00:52:01
正親(ry

326 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 19:42:30
朝倉宗滴の実子って仏門に入ったのですか?

327 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 20:28:13
こっちで

朝倉宗滴を語ろう
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1047532328/l50

328 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 13:21:55
長政が信長につき従っていれば、大大名になれたか?

329 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 23:04:00
多分、無理だろうな・・・

330 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 23:43:10
もらえても越後より北だろうな

331 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 23:39:07
朝倉か六角の旧領ぐらいは貰えただろうから、
本能寺まで起これば、丹羽ぐらいまでいったでしょう。

332 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 00:52:50
>>331
織田家に臣従した旧六角家臣団の領地は貰えないだろう

333 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 17:09:36
浅井長政、黒田長政、浅野長政の
三長政の長老として秀吉に臣従w

334 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 22:38:56
早川長政と山田長政もね

335 :朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :2005/08/27(土) 09:22:13
木沢長政とか(笑


ところでこんなのやってますケド今月は行けそうもないので、どなたかレポよろですー

「姉川合戦図屏風」など人気。県立歴史博物館夏休み特別公開
http://www.chunichi.co.jp/00/fki/20050825/lcl_____fki_____002.shtml

336 :朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :2005/08/28(日) 08:19:30
>>311
むぅ。も少し伊勢朝倉氏の話題で引っ張ってもらえるかな?と思ったけど
あっさり指摘されてしまいました(笑

ご指摘の通り、伊勢朝倉氏は日下部とは関係ありません。
>>310のほかに史料をあたってみると色々出てきましたので、年次・差出人・所収を挙げてみます。

1453(享徳2)年11月  朝倉備後入道常英書状          三通  「醍醐寺文書」
                     (守護一色と九鬼の対立仔細を醍醐寺に伝える文書)
1475(文明7)年. 2月  朝倉勘解由左衛門尉平貞茂書状  一通  「文明年中内宮引付」
                     (三河国神戸本領地頭貞茂と伊勢神宮との神役履行状)
1544(天文13)年8月  朝倉兵部大輔賢茂              三通  「曇花院殿古文書」
                     (伊勢国小向庄を巡る曇花院との訴訟問答三状)

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