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浅井・朝倉を語るスレ その2

1 :日本@名無史さん:04/10/29 22:25:34
まだまだ語って欲しいの

前スレ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1011084336/

2 :日本@名無史さん:04/10/29 22:35:32
2

3 :日本@名無史さん:04/10/29 22:38:12
次スレ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1099056334/

4 :日本@名無史さん:04/10/29 22:39:06
>>3
間違えた・・・

5 :日本@名無史さん:04/10/29 23:04:50
朝倉宗滴を語ろう
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1047532328/

6 :日本@名無史さん:04/10/30 08:27:38
>>1
乙!

7 :日本@名無史さん:04/11/02 08:18:08
前スレ埋め記念あげ

8 :日本@名無史さん:04/11/02 17:48:43
関連スレ
浅井長政はなぜ裏切ったか
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1074175083/

9 :日本@名無史さん:04/11/03 23:59:01
ゲーム『斬』シリーズに出ていた朝倉道景(1565年以降に登場)という人物は誰の息子ですか?

10 :日本@名無史さん:04/11/05 09:21:45
諸説ある。
三代貞景の子で波多野氏(丹波波多野氏ではない)の養子となった道郷の子
とする説と、宗滴−景紀(養子)−景恒−道景のラインとする説がある。
どちらにしても朝倉義景の従弟となる。
ちなみに、主家滅亡後道景は、織田家に圧迫された一向宗門徒とともに、
加賀国より海岸沿いにのがれ、 勝平海岸(現在の秋田県)に上陸し、下浜
方面に移住して本敬寺を建立したという話が残っている。
しかし「斬」ってなつかしいな。軍団がそれぞれ勝手に日本全国を移動して、
敵部隊とぶち当たったら戦闘するというものすごいシステムだった気がする。

11 :日本@名無史さん:04/11/05 14:58:01
宗滴−景紀(養子)−景恒−道景のラインとする説の場合は
「従弟」じゃなくて「甥」じゃないかい?
波多野氏説でも「子」じゃなくて「孫」だったような気がするが。

12 :日本@名無史さん:04/11/05 15:17:20
宗滴=景紀┬景【土光】
          └景恒─道景



13 :日本@名無史さん:04/11/05 17:08:19
>>11
義景の父の四代孝景と景紀は兄弟だから血のつながりで考えると甥なんだけど、
宗滴は二代氏景(義景にとっては曾祖父)の兄弟だから、「系図上」ではその
養子の景紀は義景にとって大叔父、景恒は叔父、道景は従弟となる。

14 :日本@名無史さん:04/11/05 18:19:56
景【土光】の子供はどうなったんだろう?


15 :日本@名無史さん:04/11/05 18:44:50
景垙の子供は「日下部朝倉家系図」では「景友」と記載がある。
景垙が死んだ時に2歳で景紀が引き取って育てたらしい。朝倉滅亡時
には11歳のはずだが、その後どうなったんだろうな。
あと、道景については、>>10の本敬寺建立説がある一方、上記の
系図では刀禰坂の戦い(1573年)で討死したとあるので詳細は不明。

16 :日本@名無史さん:04/11/05 22:28:53
一体どの系図が正しいのかわからん

17 :日本@名無史さん:04/11/06 22:51:12
景紀って姉川の戦いに参加したという史料がありますが
本当ですかねえ?

18 :日本@名無史さん:04/11/07 08:32:26
ちょっと考えにくいけどどうなんだろ・・・。
永禄7年には、既に景恒に敦賀郡代を譲って引退しているし、もし参戦していた
のなら、姉川の戦いで序列が下の景健が総大将を務めるのもおかしい気がするが。
ちなみにそれは何に載ってたの?

19 :日本@名無史さん:04/11/07 15:58:00
史料じゃないけど、
http://www.ne.jp/asahi/k/h/fujiwara/history/h03/dic/dic-anekawa_kassen.htm

金ヶ崎の合戦で景恒がすぐに開城してしまい、敦賀郡司朝倉家の
序列が下がってしまったため、こういう陣立てになったとか考え
られないか?なんちゃって。

20 :日本@名無史さん:04/11/07 18:13:24
>>19
にしても同名衆筆頭で70歳を超える老臣の景紀が先鋒で、景健が総大将はあり得ない
気がする。
開城したといっても信長の退却で取り返してるし、一気に序列が下がってたってこと
もないだろう。
なお「信長公記」や「朝倉始末記」には景紀の参陣は載ってないが、「浅井三代記」
には載ってる。ただし三代記は江戸時代成立の軍記物で元亀3年8月の戦いに景紀が
登場してるくらいだから信憑性はかなり低い(景紀は同年5月に病没している)。

21 :日本@名無史さん:04/11/07 22:43:23
では、陣立ては如何なるものであったのでしょう?

22 :日本@名無史さん:04/11/07 22:47:44
小和田哲男氏の書いた本で浅井長政の
送り仮名はあざいとなっているのですが
やっぱり読み見方はあざいなのでしょうか?

23 :日本@名無史さん:04/11/08 00:04:22
あざいです。

24 :日本@名無史さん:04/11/08 00:33:49
あざいはうざい

25 :日本@名無史さん:04/11/08 23:20:26
足利義昭の上洛要請を拒否した理由は何だったんでしょう?
義景なりに何か考えがあって義昭を迎えたんだと思うのですが。

26 :日本@名無史さん:04/11/09 12:44:05
上洛した以上、現地(京洛)を掌握・治安維持しなきゃいけない。

当然、周辺諸侯に命令できるほどの軍事力を維持しなきゃいけない。

幕府や朝廷にかかる行事費用を負担しなくてはいけない。



加賀に一揆&富樫+甲斐家残党、
国内北部に一揆、
奥越(奥越前)に不安定勢力・平泉寺、
美濃・近江に織田、
若狭に武田残党、

そんな状況では、応仁の乱当時や
それ以後の宋滴京都支配時代のような無茶はできないでしょ・・・


27 :日本@名無史さん:04/11/09 22:21:24
しかし義昭を擁して上洛した信長にしたところで、領内盤石ではなかった
わけで。まあ要はそれらの万難を排してでも、上洛し天下に号令するという
ことの重要性と旨味を見い出せた信長とそこまでの先見性と決断力が無かった
義景の差ということだろうね。
この辺りが、義景が献帝を招き損ねた袁紹に擬せられる所以だな。

28 :日本@名無史さん:04/11/10 06:23:17
それ以前に

岐阜〜京都

一乗谷〜京都

の、道中(地理)の問題だと思います。
柴田も負けた木の芽峠。
正直越前側から見たら、あれ越えて軍事行動起こすの
いやになっちゃいますよ。

木の芽峠の向こう側の敦賀に駐屯したら、なんか
独立気分と言うか見捨てられ感を抱くと思いますし・・・

29 :日本@名無史さん:04/11/10 15:36:03
>>28
行ったこと無いけど、木の芽峠ってそんなに凄い難所なのか?
距離だけで考えたら岐阜からとそんなに変わらないような気がするんだが。

30 :日本@名無史さん:04/11/10 17:57:14
難所だし、降雪期にはにっちもさっちもいかなかっただろう。
武田信玄が朝倉義景を罵倒した書状があるが酷過ぎると思ったよ。

31 :日本@名無史さん:04/11/10 18:10:24
>>22
日本歴史の座談会か何かで今の地元民があざいと読んでいるから
あざいなのだと言っていた。
それでは、戦国時代もそうだったということの確実な証にはならんのではないか?

32 :日本@名無史さん:04/11/10 18:27:12
>>22

日葡辞書とか宣教師の書いたものがあれば決め手になるが

33 :日本@名無史さん:04/11/13 12:36:43
>>27-28
本とかで読んだだけだと、どうしても27みたいに
思っちゃうよね。

34 :日本@名無史さん:04/11/17 23:06:17
浅井か・・・。

35 :日本@名無史さん:04/11/18 02:30:46
浅井朝倉は戦国最長の同盟だけど何年から始まってるの?尾張は両家滅亡の1572年
ということははっきりしてるけど。2番目に長いのは清洲同盟(1561〜1582年)

36 :日本@名無史さん:04/11/18 02:40:12
そんなに長くないよ
そもそも同盟かどうかすら疑わしい

朝倉と六角が組んで浅井攻めてた時期もある
浅井が朝倉に従った(半従属みたいな形)のは六角と縁切りした前後じゃないかな?

37 :日本@名無史さん:04/11/18 03:58:59
>>36
対等な同盟かどうかはともかく、清洲同盟より長いのは確かだろう。
朝倉と六角が組んで浅井を攻めたというのは「当国御陳(陣)之次第」の中の
「大永五年乙酉五月十九日、宗滴江州小谷御出陳」のことを言ってるんだろう
けど、これは同年に六角定頼に城下まで攻め込まれた浅井方の救援を意図した
出陣である可能性が高い。つまりそのころから浅井朝倉の同盟は続いていると
いうこと。
根拠は、
・明らかに優勢な六角が朝倉に援軍を求める理由がない。朝倉にも応じる必要がない。
・初代亮政は何度も六角に逐われるが、その都度復帰。これは後盾無しには困難。
・小谷城の郭や刈安、長比の砦に朝倉の築城技術が使われている。
・小谷城の遺構には朝倉宗滴の名を取った郭がある(金吾丸)。
・一乗谷に「浅井殿」と記された屋敷跡がある。
といったところ。

38 :日本@名無史さん:04/11/18 05:52:36
>>37
「古文状」で大永六年七月十日付の、六角定頼から三反崎氏宛の書状の記載あり。
その中で朝倉宗滴の北近江出陣に対しての謝意が書かれてる訳だが。
んで、この時に浅井亮政は小谷を放棄して、一時美濃へ退避してるんだが。
浅井氏救援に来た朝倉氏族に、どうして宗滴の出陣の謝意を書いた書状送るんだ?

>・明らかに優勢な六角が朝倉に援軍を求める理由がない。朝倉にも応じる必要がない。
優勢なら援軍は必要無いと?当時の六角と朝倉の関係と、浅井の位置付けなら
別に朝倉が援軍送っても不思議でない。

>・初代亮政は何度も六角に逐われるが、その都度復帰。これは後盾無しには困難。
京極氏という立派な名目があった訳だが。また美濃に多く逃れてるから、美濃からの支援も考えられるが?
逆に一度も越前に入ってない。これは立派に後ろ盾としてない証拠。

>・小谷城の郭や刈安、長比の砦に朝倉の築城技術が使われている。
織田との争いの最中に、何度か朝倉勢が小谷入城してるが?

>・小谷城の遺構には朝倉宗滴の名を取った郭がある(金吾丸)。
金吾丸があるが、それが「朝倉宗滴の名を取った」かどうかの確認は?

>・一乗谷に「浅井殿」と記された屋敷跡がある。
それでとしか言いようが無い。いつ作られたかもわからんのに。

39 :つづき:04/11/18 05:55:01
>>37
宗滴が浅井救援に行ったと書いてあるのは、浅井三代記・朝倉始末記の軍記物。
しかも成立年代からいえば、とても信頼できる物じゃない。
だが、宗滴が六角氏援助の為に、小谷の浅井亮政攻めたと、永禄十二年成立の朝倉家伝記にも
しっかり明記してある。

浅井と朝倉が同盟と言うか、誼を通じてると確認出来る最初の史料は
脇坂文書に、朝倉景紀から浅井久政宛に、若狭出陣の折に書状を
度々送ってきた事についての謝礼が述べられてる書状がある。
これ、日付はないが、内容は武田義統救援の事が詳しく述べられてるので
状況から永禄五年六〜八月ではないかとされてる。

これ以前は、朝倉が浅井を支援してたような行動の記録、書状、一切無し。
といったところ。

40 :日本@名無史さん:04/11/18 13:03:41
>>38>>39
佐藤圭氏の説だな。それは知ってるんだけど、いくつか疑問もある。

>優勢なら援軍は必要無いと?当時の六角と朝倉の関係と、浅井の位置付け
>なら別に朝倉が援軍送っても不思議でない。
大永五年当時の朝倉六角の関係がそれほど親密だったという話は聞かない。
美濃斉藤氏や若狭武田氏とは縁戚関係があり、援軍を送っても不自然ではない
が、六角氏との間にはそういった関係は見られないし、援軍を派遣することに
は何の得もない。
この時期の浅井氏は朝倉の脅威となりえるような存在ではなく、むしろ越前の
安定を図る意味では、六角の勢力伸長を抑えるため浅井を援助する方が自然。
大永五年の出兵に関しては、表面上はともかく、調停役を果たして浅井亮政を
無事落ち延びさせることが真の目的だったのではなかろうか。定頼の書状も調停
に対する礼と考えると説明がつく。

>京極氏という立派な名目があった訳だが。また美濃に多く逃れてるから、美濃
>からの支援も考えられるが?逆に一度も越前に入ってない。これは立派に後ろ盾
>としてない証拠。
既に傀儡状態の京極氏に復帰を援助する力があったとは思えないが。第一、京極氏
の国政を壟断している浅井氏の復帰に尽力するのも不可思議だ。
また美濃を潜伏先に選んでいるのは、地理的なものもあると思われる。当時の浅井
氏の地盤は浅井郡と坂田郡で、伊香郡の豪族は磯野氏、阿閉氏をはじめとして未だ
傘下に収まっていない。地盤に近い美濃を潜伏先にしたほうが再起には都合がよい。


41 :日本@名無史さん:04/11/18 13:14:44
城郭のに朝倉氏の影響が見られると言う点に対する反論には頷ける。
確かに遺構に朝倉氏の影響が見られるからといって、亮政の時代
から交誼があった証明にはならないよな。
ただ、同盟関係にあるとはいえ、他家の城郭内に自らの技術を用いた
郭や砦をつくるのは、異例のことであり、このことから一朝一夕の関係
ではなく、長年の緊密な関係があったと推測できると思うが。

いずれにせよ、佐藤説で最大の疑問は、「ではなぜ浅井氏は信長を裏切った
のか」という事なんだが。

42 :日本@名無史さん:04/11/19 21:49:38
先に信長が浅井を裏切ったという見方はできないのかな?

43 :日本@名無史さん:04/11/20 12:02:34
浅井久政も朝倉義景も六角氏からきた養子だって説は本当なの?

44 :日本@名無史さん:04/11/20 18:50:39
「六角佐々木系図略」ではそうなってる。
通説では、六角家の嫡流は高頼−定頼−義賢−義治となっているが、実は
高頼−氏綱−義久−義秀という嫡流があって、定頼系はその代理。
この義久の子が義景や久政であるとしている。
ただしこの氏綱系は「信長公記」など一般に知られた資料にはほとんど出て
こず、「江源武鑑」という江戸期に成立した日記スタイルの六角家の資料に
出ている。ちなみにこの資料には妖怪や超常現象が出てきたりする。

45 :43:04/11/21 00:34:25
>>44 thanks.
すると義景の義、久政の久は実父義久からもらったんだね。

46 :日本@名無史さん:04/11/21 09:51:23
いやそうと決まったわけでは・・・。一部にはそういう説もあるというだけ。
大体、久とか義とかよく使われる字だし。(特に義は足利将軍家の関係で)
しかし、そう考えると辻褄が合うことも多い。
六角定頼の花押と久政の花押が非常によく似てることや、久政の代に六角家
に従属したこと、浅井家内での久政の不人気と突然の当主交代劇など。

47 :日本@名無史さん:04/11/21 19:11:51
>>46
知らなかったんだけど、
亮政と久政の関係は明らかな親子じゃないの?


48 :日本@名無史さん:04/11/21 20:51:10
偽系図作りが作成した資料だよ・・・

49 :日本@名無史さん:04/11/21 20:54:08
義景の「義」は足利将軍家からもらったものだってばっ!

50 :日本@名無史さん:04/11/21 23:23:26
>>49
嘘付け!
普通貰うなら『輝』とか『晴』とかだろ、
『義』を直接貰うなんて聞いたことねえぞ。

51 :日本@名無史さん:04/11/22 04:49:40
だから義景の場合は特別なんだってば!
「朝倉義景のすべて」その他読んでみなよ。
背景がわかるから。

52 :日本@名無史さん:04/11/22 04:50:32
>>51
「朝倉義景のすべて」って何?

53 :日本@名無史さん:04/11/22 05:01:27
「朝倉義景のすべて」
本です。

54 :日本@名無史さん:04/11/22 05:23:47
何で特別なの?
徳川家が『家』与えるのと同じ感覚だろ。
やっぱり、普通はありえません。
途中で義昭からでも、直接拝領して改名でもしてれば別だけど・・・。
そんな話聞いたことも無いし。

55 :日本@名無史さん:04/11/22 05:49:04
普通は無いんだけど、義景の場合は特別だったんだよ。
頼むから「朝倉義景のすべて」を読んでくれ。


56 :日本@名無史さん:04/11/22 05:57:29
こんな時間に普通にこんなことを会話しているのも変なんだが、
そんな本今は手に入れられません。
浅井長政の『長』は信長由来だった気がするし・・。

・義景の『義』の由来について
覚えてる部分か、誰か知ってたらレス希望。

単なる元福井県民です。

57 :日本@名無史さん:04/11/22 14:57:56
>>54>>56
「朝倉義景のすべて」は読んだこと無いけどおおよその事情はこうです。

義景の父四代孝景の時代、朝倉家は将軍家の要請に応じて度々畿内や美濃に出兵
するなど将軍家のために粉骨砕身していた。このため当主孝景は、永正十三年に
は将軍足利義稙より白傘袋ならびに毛氈鞍覆を免ぜられた。また大永八年には
将軍義晴の御供衆に加えられ、天文四年に塗輿御免となり、同七年には相伴衆に
列するなど破格の待遇を得る存在であった。
義景についても、当初「延景」と名乗っていたが、天文二一年、将軍足利義輝
から偏諱を受け「義景」と名乗るに至った。

ちなみに浅井長政の「長」を信長の偏諱とみる説はよく見かけるが、それを示す
有力な史料は特になく、本当かどうかは定かではない。個人的には、父の名が
「久政」であることから父を超える武将という意味をこめて「武運長久」から
「長」の字をとったのではないかとも思う。

58 :日本@名無史さん:04/11/22 21:41:31
長政の前名の賢政は本当なの?

59 :日本@名無史さん:04/11/23 02:04:29
本当。元服当時は六角家に従属している時で、義賢(承禎)の偏諱を受けた。

60 :日本@名無史さん:04/11/23 02:07:24
京極氏は何してたの?

61 :日本@名無史さん:04/11/23 02:14:52
>>57
ありがとう、参考になりました。
でも、やっぱり『義』は変だし、将軍に失礼な気がするんですが?
毛利は『輝』貰ったんでしょ。
なんで、『義』をあげたんだろう?

大内とか大友、はては島津の『義』も由来はそこなの?
そこらと一緒ならかなりの名門の部類に入りますけど?

62 :日本@名無史さん:04/11/23 02:17:51
>>57
あと、『延』は何処から来たの?
聞いてばっかりですが、興味あるから聞いてるんですよ。

63 :日本@名無史さん:04/11/23 02:18:42
>>61
なんで失礼なのかわからん。
毛利輝元は今川義元と同じ名前は不吉だとかいうので下の名前にしたという説がある。
その今川も将軍家から貰ってる。
大内、大友、嶋津も同じ。
足利義晴は礼金によってどちらの文字をあげるか変わったともいうし。

64 :日本@名無史さん:04/11/23 03:17:31
>>63
いや、名前の挙げ方ってもっと作法的なものはあると思っていたから、
『義』は少なくとも将軍家では先祖から受け継いでるでしょ。
それを勝手に家臣にあげても、先祖になんとも思わんのかなあと思ったわけだ。

例えば徳川家光が『家』あげたら、大権現が夢に出そうだとか・・・。
思いませんかそういう風に。
というか、何かで家臣に名前を与える部分でそのような記述を読んだ気がして・・・。
明確には覚えていないんですが。

65 :日本@名無史さん:04/11/23 07:53:30
自分の妄想を書き連ねてスレを荒らす質問厨が粘着してやがるな
うざいから消えろ

66 :日本@名無史さん:04/11/23 09:09:06
>>65
やあだね。

67 :日本@名無史さん:04/11/23 09:31:07
朝倉家はアワビ食べないんだって。

コピペ

朝倉氏は但馬日下部氏の出とされており、
この日下部氏の守護神が赤淵大明神です。
一乗谷にも下城戸付近と山城本丸の近くに在りましたが、
この赤渕神社のご神体がアワビというわけです。

ここよく見るんだけど、いま、アワビと朝倉が下の方で並んでます。
ttp://okhome.hp.infoseek.co.jp/
時期的な偶然なんですが・・・。



68 :日本@名無史さん:04/11/23 21:46:57
武田義信の義も将軍家から貰ったもんだったはず

69 :日本@名無史さん:04/11/23 22:47:14
乱発しすぎ・・・。
ありがたみの無さが室町幕府とだぶる。
お金なのか、気を使っていたのか・・。

朝倉の子孫を名乗る人に会ったことがありますが、ぐぐると
『朝倉の子孫宣正は徳川忠長に仕えて遠州掛川を領したが、主人に連座して断絶した。』
こいつ誰?
その後、旗本とかでいたの?
でも、織豊時代に朝倉の苗字を維持できた一族はいないよね?

70 :日本@名無史さん:04/11/24 01:06:04
いやいるよ。歴史に埋没してしまったが上杉氏や足利義昭の
ところにいてお家再興を狙っていたのがいる。

71 :日本@名無史さん:04/11/24 01:38:44
>>69
朝倉宣正の子孫って、土井家の家臣として存続したんじゃなかったっけ?

72 :日本@名無史さん:04/11/24 01:45:30
明治はどうやって迎えたの?全部無名?
でも、滅亡って簡単に書かれてる家系って、全く滅亡していないんだな。
武田もそうだし・・・・。

それに対して浅井は井頼か・・・。京極氏の家臣ですよね。
無事残せたのかな?
浅井は
ttp://sengoku.or.tv/sn_diary/sn_diary.cgi

『信長に滅ぼされた浅井長政の妾の子は後、白木屋の始祖になりました。』

ttp://www.gld.mmtr.or.jp/~hiroh/ushiyama/midokoro/nagamasa.htm
を発見。
でも、女系で広く遺伝子が残せたから、朝倉に比べると浅井は歴史上重要な血筋ですね。
それとも、朝倉にも女性の隠れキャラがいるのか?

まあ、普通に江戸時代見るだけなら、浅井>>>>朝倉ていう遺伝子の繁栄ですね。


73 :日本@名無史さん:04/11/24 02:02:08
>>71
朝倉の子孫発見。
ttp://www.city.koga.ibaraki.jp/rekihaku/kikaku1/asakura.htm
土井の家老ということは、結構中央に近い重要な役どころ。
頑張ってたんですねえ。

ついでに誰が先祖かの情報も求む。


74 :日本@名無史さん:04/11/24 16:30:53
遠江の朝倉って、一族は一族だけどけっこう離れてるんじゃなかったっけ。
斯波氏が遠江も守護だったから、そこにくっついていったやつだったと思う。

75 :日本@名無史さん:04/11/25 00:17:05
朝倉の子孫の話は前スレで既出だった気がするが・・・。

76 :日本@名無史さん:04/11/25 03:03:30
>>74
朝倉 宣正 (あさくら のぶまさ:1573-1637)

1.宣政とも。藤十郎、筑後守。
2.土壇場で義景を見限った景鏡の甥。父在重(在宣)は義景のいとこにあた
  るが、越前から駿河に移って徳川家に仕えたという。いつの話だ?
3.宣正は秀忠に仕えて大番を務める。関ヶ原の戦いでは真田昌幸の籠もる信
  濃上田城攻めに加わり、小野忠明(御子神典膳)、斎藤信吉らとともに上
  田の七本槍と謳われるが、軍令違反により上野吾妻に蟄居させられた。
4.1621年、一万石を与えられて駿河大納言忠長(家光の弟)の附家老となる
  (のち遠江掛川二万六千石)。忠長には奔放の振る舞いが多かったが、諫
  言しなかったことを問われて酒井忠行に預けられた。このときは忠長の懇
  願により赦免されたが、1632年、忠長が改易(のち切腹)されると、宣正
  も所領を召し上げられて大和郡山に蟄居した。



77 :日本@名無史さん:04/11/25 03:24:45
今日は何の日

11月25日 織田信長、赤座吉家(「赤座小法師」)へ越前国内に前波長俊(「桂田播磨」:越前国守護代)の書出の如く
新知を宛行う旨を通達。〔『古案』坤〕

裏切り者が裕福になりました。

78 :日本@名無史さん:04/11/25 13:48:16
朝倉は知れば知るほど凄い存在なのがわかった。若狭武田氏は結局朝倉に屈服し、江北の浅井は
朝倉の与力大名の様なものだったといわれるし、北の加賀もかなりの部分を占領し顕如は九州の
門徒まで呼ぶほど追い詰めている。織田家一の猛将柴田勝家は加賀に侵攻したが4年もの間、越前
国境付近で足止めを食った。朝倉は加賀に進撃すると瞬く間に中部辺りまで占領した。一向宗さえ
いなかったら朝倉は天下にもっとも近い存在だったに違いない

79 :日本@名無史さん:04/11/26 22:39:58
でも肝心の当主に天下を狙う気が無かったからねえ。

80 :日本@名無史さん:04/11/27 13:31:01
勢いの落ち方がすごいね。
義景の後半だけで↓

81 :日本@名無史さん:04/11/29 23:28:24
朝倉で残ったといえば超マイナー大名溝江氏を忘れちゃダメだ

越前一揆で滅びかけ→息子が豊臣大名になるも関が原で西軍→井伊藩士

82 :日本@名無史さん:04/11/30 06:51:52
結局、大名として残ってないじゃん。

83 :日本@名無史さん:04/11/30 07:19:42
大名が偉いのかー。

滅んじゃ駄目なのかー。

と煽ってみる

84 :日本@名無史さん:04/11/30 21:02:44
一般的に言えば偉いし駄目だろうなと釣られてみる。

85 :日本@名無史さん:04/11/30 22:58:57
浅井氏の本ってあまりないね。
「戦国武将のこころ」は読んだが。
新人物往来社あたりから
「近江浅井一族」みたいなのだしてくれないかね

86 :日本@名無史さん:04/12/01 09:32:32
一般向けの本は少ないな。
浅井氏関係で代表的な本は、小和田哲男著「近江浅井氏」だろうけど手に入れるのは
難しいだろう。あとは「東浅井郡志」「坂田郡志」「長浜市史」あたりの郷土史本か。
長浜市史は以下で通販してるみたいだが、他の2つは地元図書館に行かないと見るのは
難しい。
ttp://www.city.nagahama.shiga.jp/section/rekibun/history/c_history.html
2巻に戦国期のことが掲載されてる。

87 :日本@名無史さん:04/12/01 23:33:03
「朝倉義景のすべて」は学術的価値のある良質の本だな。2800円は高いけど買っても
損は無い。

88 :日本@名無史さん:04/12/04 19:14:53
>>87
どういう内容が記載されてるのか項目だけでもあげてくれない?

89 :日本@名無史さん:04/12/05 17:24:54
>>88
ネットでぐぐれ。

しかしこのスレの伸びの悪さ。
もう終わりなんだろうな・・・。

90 :日本@名無史さん:04/12/05 23:53:50
朝倉景高は西国没落して、その後、どうなったのか知ってる人います?

91 :日本@名無史さん:04/12/10 20:57:11
どうやらいないようですね・・・

92 :日本@名無史さん:04/12/11 05:13:40
>>90
復帰。一揆勢と戦う。

93 :日本@名無史さん:04/12/11 07:44:20
>>92
嘘つけ、この野郎

94 :日本@名無史さん:04/12/11 10:38:00
>>93
本当だ、嘘つきとは何事だ、この野郎
死ね、変態ホモ野郎

95 :日本@名無史さん:04/12/11 13:21:10
>>92
どの史料によっているのか教えて欲しい

96 :92:04/12/11 21:13:24
>>95
史料見たわけじゃなくて、
インターネットの検索で引っかかっって、
誰のレスも無いので載せて、正確な情報を引き出して貰おう(煽ろう)と
思っただけです。ごめんなさい。
ttp://web.kyoto-inet.or.jp/people/sn-dos/sengoku/l_a.htm
朝倉景高(あさくら かげたか) ????〜????
○孫八郎 右衛門大夫
◇父:朝倉孫次郎貞景 室:烏丸冬光女 子:朝倉景鏡、景次、在重
 越前・朝倉氏一族。1517年、美濃・土岐頼芸に敗れて越前に逃れてきた
土岐政頼を支援し、総大将として3千の兵を率い美濃を攻めるが敗れる。
その後、朝倉氏の要職大野郡司を務めた。
1540年頃、不和となった兄孝景に背いたことから、国を逐われ、一向一揆と結んだという。
その後帰参したか、1555年には病に倒れた一族の重鎮宗滴に代わり、
加賀一向一揆との戦いの総指揮をとる。
一方で公家の娘を室とし、公家との文化交流盛んな風流人でもあった。

ただ、景鏡もかなり若い時期から朝倉の軍事行動に参加しているみたいだし
これで在重が義景に遣えている話が見つかれば、上記の確実性は高いと思うんですが?
私の空想です。スレ汚しごめん。

ちなみに、94は私ではない。
日本語が俺よりもかなり変な奴と一緒にされるのだけは勘弁。

97 :日本@名無史さん:04/12/12 08:46:55
>その後帰参したか、1555年には病に倒れた一族の重鎮宗滴に代わり、
>加賀一向一揆との戦いの総指揮をとる。

これ間違ってるよ。総指揮をとったのは、「景高」じゃなくて「景隆」。

98 :日本@名無史さん:04/12/12 08:55:37
やっぱりね。そんなところだと思ってました。

99 :日本@名無史さん:04/12/12 09:09:51
で、景高の末路は如何に?

100 :日本@名無史さん:04/12/13 13:46:40
92 :日本@名無史さん :04/12/11 05:13:40
>>90
復帰。一揆勢と戦う。


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