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浅井・朝倉を語るスレ その2
- 278 :朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :2005/05/06(金) 01:08:29
- 宮増丸が毛利家に宛てた書状です。
出された年代が不明ですが、「太守御出馬播州表、始上月落居、被得大利之旨、珍重存候、」と
上月落城の祝辞が述べられている事から、この戦役からほど遠くない時期、天正6年と特定できます。
その天正6年当時、「義景不慮以來」「仁者」のない宮増丸は弟三人と共に
「武田形部太輔」方に逗留しており「御味方中可相續名字躰無之候」の今、
朝倉「家督」を継ぐために何とか毛利家の力添えをお借りしたいと。
「偏ニョ存外無他事候」このあたりに宮増丸の悲痛な叫びが見て取れますね。
さて文中の「武田形部太輔」とは一体誰なのか。これは「刑部少輔」の間違いでしょう。
安芸国郡守護の武田家の当主が代々刑部少輔を継いでいますから、
恐らく安芸武田直系の人物ではないかと推測できます。
安芸武田は銀山城を追われて刑部少輔信実以降は不明ですが、
安芸安国寺には伝刑部少輔信実の墓があり、この地に細々と命脈を保っていたことが伺えます。
>>277
若狭武田の一族は天正6年当時若狭に居たとはいえ、無禄の上織田の勢力下で警戒されています。
また官途の中で「刑部少輔」に該当する人物がいないため、若狭の可能性は低いのではないかとオモウですね。
んで、整理してみますと、、、
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朝倉与三某。宮増丸。???〜???
主家滅亡後安芸旧郡守護武田家に潜伏。朝倉家再興を企図し1578(天正6)年頃、
佐々木源兵衛尉を使者に毛利家へ力添えを依頼。
通称が伝わっていないため、彼が朝倉家のどの系統に属した人物かは不明。
三人の弟もいたらしいが、彼らのその後の消息は途絶えている。
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こんなところでしょうか。
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