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浅井・朝倉を語るスレ その2
- 1 :日本@名無史さん:04/10/29 22:25:34
- まだまだ語って欲しいの
前スレ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1011084336/
- 293 :日本@名無史さん:2005/05/16(月) 22:16:54
- 浅井氏は高島郡に勢力を伸ばしていた時期があるのですか?
- 294 :日本@名無史さん:2005/05/17(火) 13:45:38
- 磯野氏が臣従してたから高島郡にも勢力を伸ばしていたんだろう
- 295 :日本@名無史さん:2005/05/19(木) 08:20:25
- >>289
>毛利の膝元でその動きをつぶさに照覧できる安芸にあったからこそ、現実味を帯びた企てになったとオモウです。
天文10年銀山城落城後、11年の一族の伴氏が再起を賭けた挙兵が討伐されてしまい、組織的な力はないよ。
家臣団は毛利に与するか、帰農している。
- 296 :朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :2005/05/23(月) 22:09:57
- >>287
「永禄六年諸役人附」見ました見ました。オレ武田には詳しくないものですから、
吉川文書に現れる「武田形部太輔」が義昭随行の「武田刑部大輔信実」なのか
もしくは旧安芸国郡守護の「武田刑部少輔」なのか、もしくは全くの別人かは正直良くわかりません。
ともかくいずれの武田を頼ろうとも、安芸あたりに潜伏していたとみるのが妥当なカンジですね。うんうん。
>>290さんのを修正です。
以下「一乘録」巻之三より抜粋、
高景四子、長氏景、次茂景、久(一作冬)景、次弼景、茂景称阿波賀但馬守、法諡曰不昧、
又有三郎者?、天正三年二月、弟與三従一揆據鉢伏、久景称向駿河守法諡曰月庭、
子久家、亦称駿河守
「一乘録」
これを見ると「三郎」「與三」兄弟は「阿波賀但馬守」すなはち朝倉茂景の系統だということがわかります。
しかも「與三」は「従一揆據鉢伏」とあるように、「天正三年二月」頃一揆勢に与していたようです。
「據鉢伏」とは、鉢伏に據(よ)ると読めば但馬国鉢伏山に籠ったと解釈できますがいかがなものでしょう?
んで総括すると、、、
---------------------------------------------------------------------------------
朝倉与三某。宮増丸。但馬守???〜???
高景の子阿波賀但馬守茂景の末裔。朝倉庶流の一族。 [一乗録]
主家滅亡後兄三郎は敗死、1575(天正3)年2月、但馬国鉢伏山にて一揆勢とともに蜂起。[一乗録]
その後弟三人とともに武田刑部大輔(信実?)の元で安芸に潜伏。[吉川文書]
朝倉家再興を企図し1578(天正6)年頃、佐々木源兵衛尉を使者に毛利家へ力添えを依頼。 [吉川文書]
それ以後、彼らの消息は途絶えている。
---------------------------------------------------------------------------------
>>295
ふむふむ。とすると彼らが寄宿していたのは、やはり武田刑部大輔信実方ということになるのかな。
- 297 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 03:14:59
- 福井県にも鉢伏(山)城はあるじゃん
- 298 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 06:47:08
- ttp://www.ikedakai.com/shincyokoki4.html
八月十五日、夜に入り、府中龍門寺、三宅権丞楯籠り候構へ忍び入り、乗っ取り、近辺に放火候。
木目峠・鉢伏・今城・火燧城にこれある者ども、跡を焼き立てられ、胆を潰し、
府中をさして罹り退き候を、羽柴筑前守・惟任日向守両人として、府中の町にて、
賀州・越前、西国の一揆二千余騎斬り捨てらる。手柄の程、是非に及ばず。
阿波賀三郎・阿波賀与三兄弟、御赦免の御侘言申し上げ候と雖も、御許容なく、
原田備中に仰せ付けられ、生害させられ候。
赦免を許可されずに、原田備中守直政に手討ちですか・・・。
景健同様、武生大虐殺被害者の会に入れるのも恥ずかしいかも・・・。
- 299 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 06:53:18
- >阿波賀三郎・阿波賀与三兄弟、御赦免の御侘言申し上げ候と雖も、御許容なく、
>原田備中に仰せ付けられ、生害させられ候。
三郎と与三が死んでいたとすると、渦中が持ってきた手紙の与三は誰?
- 300 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 08:21:43
- ---------------------------------------------------------------------------------
朝倉与三某。宮増丸。但馬守???〜???
高景の子阿波賀但馬守茂景の末裔。朝倉庶流の一族。 [一乗録]
主家滅亡後一向宗に加担、1575(天正3)年2月信長の越前一向一揆討伐のとき、
越前国鉢伏山にて一揆勢とともに蜂起[一乗録]。兄三郎とともに原田直政に討たれるとあるが[信長公記]
その後弟三人とともに武田刑部大輔(信実?)の元で安芸に潜伏。[吉川文書]
朝倉家再興を企図し1578(天正6)年頃、佐々木源兵衛尉を使者に毛利家へ力添えを依頼。 [吉川文書]
それ以後、彼らの消息は途絶えている。
---------------------------------------------------------------------------------
- 301 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 10:29:44
- >>295
安国寺!安国寺!
安国寺の家臣団って、旧武田家の家臣でできてるんじゃないんですか?
・・・と思いたいねぇ(涙)
- 302 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 10:45:46
- >>298
武生なんて町は(もう)存在しない!
- 303 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 22:38:24
- 若狭で頑張ってた武田信方が甲斐武田に匿われていたのだから
甲斐にいた朝倉氏もいたに違いない 多分・・・
- 304 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 01:02:02
- >>303
武田さんと武田さんは親戚
朝倉さんと甲斐武田さんはせいぜい同盟者
- 305 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 07:42:16
- しかし山梨市に日下部の地名?があるのはなぜだ?
- 306 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 10:36:47
- そういや天目山で勝頼は信勝に対して「奥州に落ち延びよ」
って言ったそうだけど南部に匿ってもらうつもりだったのかな?
- 307 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 10:48:51
- >>305
ttp://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E6%97%A5%E4%B8%8B%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E9%89%B1%E5%B1%B1&lr=
日下部氏と鉱山は関係があると考えている人がいるみたいだよ。
そういう意味では甲斐に日下部一族が出張っていっても不思議は無いかも。
- 308 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 16:03:40
- >>306
芦名とか。
・・・小笠原も、芦名に世話になってたような。
- 309 :日本@名無史さん:2005/05/27(金) 05:43:23
- >>303
別にこのスレではどうでもいいんだが、
武田信方が甲斐に逃れたなんて何処に書いてあるの?
- 310 :朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :2005/05/30(月) 23:45:35
- さてさて、朝倉宮増丸こと阿波賀余三のことが詳らかになったので次行きましょう。
>>232さん
伊勢朝倉氏は本貫三河国とされる伊勢の国人で、官途(通称)から備後守・兵庫助の二系統が確認されているようです。
また渥美郡に拠る朝倉の一族は朝倉勘解由左衛門尉貞茂という者が「伊勢貞宗譲状」に確認でき、
彼の分領である伊勢国保々御厨の記述が同状に確認されるところから、
朝倉貞茂も上記伊勢朝倉氏と同族である事が想定されます。
- 311 :日本@名無史さん:2005/05/31(火) 07:33:19
- その前に北伊勢48家の朝倉氏はこっちでは平氏になってるけど
日下部朝倉氏と繋がるのかい?
ttp://hishiki77.ld.infoseek.co.jp/2-2shushi/2-2-7shiro/2270-48ka.htm
- 312 :日本@名無史さん:2005/06/09(木) 22:31:32
- 違うんじゃないの?
- 313 :日本@名無史さん:2005/06/13(月) 01:34:14
- >>311-312
そうなんだよ、「違うっぽい」という点が問題なのよ。
伊勢朝倉氏→幕臣朝倉氏、つまり越前と関係なし
となるかどうかという点。
詳しくは>>310
>>310
明らかになった・・・のでしょうかwww
阿波賀はいま現在は見る影もないですが。
http://www16.ocn.ne.jp/~proto/minato1/abaga.htm
一乗谷の入り口(出口)に今でも地名は残ります。
関係ないけど便利サイト発見。意欲的ですねこれ。
http://www16.ocn.ne.jp/~proto/index.html
- 314 :日本@名無史さん:2005/06/14(火) 06:41:09
- >>313
伊勢朝倉⇒旗本朝倉も確定情報じゃないと思うけど・・。
どうしてそう言えるの?
- 315 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 10:42:09
- 捕手
- 316 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 12:12:28
- 保守
- 317 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 11:36:24
- 捕手
- 318 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 18:32:46
- 「近江浅井氏の研究」(小和田哲男先生著)
注文しました。けど高いねえ。
- 319 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 09:25:51
- しゃーない
- 320 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 08:59:38
- 値段の割には内容が物足りなかった。
特に朝倉氏との関係についてが。
姉川の合戦も志賀の陣もさらっと書いてあるだけ。
- 321 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 17:04:26
- 捕手
- 322 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 13:01:26
- あさい? あざい?
- 323 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 17:32:20
- 「あざい」が正解
- 324 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 12:22:27
- 浅井亮政の出自は?
- 325 : ◆KVLvF19feo :2005/08/12(金) 00:52:01
- 正親(ry
- 326 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 19:42:30
- 朝倉宗滴の実子って仏門に入ったのですか?
- 327 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 20:28:13
- こっちで
朝倉宗滴を語ろう
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1047532328/l50
- 328 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 13:21:55
- 長政が信長につき従っていれば、大大名になれたか?
- 329 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 23:04:00
- 多分、無理だろうな・・・
- 330 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 23:43:10
- もらえても越後より北だろうな
- 331 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 23:39:07
- 朝倉か六角の旧領ぐらいは貰えただろうから、
本能寺まで起これば、丹羽ぐらいまでいったでしょう。
- 332 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 00:52:50
- >>331
織田家に臣従した旧六角家臣団の領地は貰えないだろう
- 333 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 17:09:36
- 浅井長政、黒田長政、浅野長政の
三長政の長老として秀吉に臣従w
- 334 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 22:38:56
- 早川長政と山田長政もね
- 335 :朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :2005/08/27(土) 09:22:13
- 木沢長政とか(笑
ところでこんなのやってますケド今月は行けそうもないので、どなたかレポよろですー
「姉川合戦図屏風」など人気。県立歴史博物館夏休み特別公開
http://www.chunichi.co.jp/00/fki/20050825/lcl_____fki_____002.shtml
- 336 :朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA :2005/08/28(日) 08:19:30
- >>311
むぅ。も少し伊勢朝倉氏の話題で引っ張ってもらえるかな?と思ったけど
あっさり指摘されてしまいました(笑
ご指摘の通り、伊勢朝倉氏は日下部とは関係ありません。
>>310のほかに史料をあたってみると色々出てきましたので、年次・差出人・所収を挙げてみます。
1453(享徳2)年11月 朝倉備後入道常英書状 三通 「醍醐寺文書」
(守護一色と九鬼の対立仔細を醍醐寺に伝える文書)
1475(文明7)年. 2月 朝倉勘解由左衛門尉平貞茂書状 一通 「文明年中内宮引付」
(三河国神戸本領地頭貞茂と伊勢神宮との神役履行状)
1544(天文13)年8月 朝倉兵部大輔賢茂 三通 「曇花院殿古文書」
(伊勢国小向庄を巡る曇花院との訴訟問答三状)
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