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平安時代にはまとも軍隊もなかったのに

1 :日本@名無史さん:04/12/24 11:25:45
なぜそれなりの統治ができてたのか?
藤原氏が楽しそうに暮らしてるのを見て、
反乱を起こす人がもっといてもよかったのでは?
語ってくだされ。

2 :日本@名無史さん:04/12/24 12:45:34

絶えず起きてますが何か?

3 :日本@名無史さん:04/12/24 13:30:21
外国が攻めてこないと軍隊の必要性は薄いかもな


4 :日本@名無史さん:04/12/24 13:59:56
平安時代の主な地方での反乱。

935-940 平将門
939-941 藤原純友
1028-1031 平忠常
1050-1062 安倍頼時・貞任
1093 平師妙・師季
1108 源義親
1156 保元の乱→源平の争乱へ

後三年の役は清原氏の内紛なので除外。
他にあれば、要追加。
上記全部足して24年間。絶えず起きてるといえるか?
特に794〜935年の間。

5 :日本@名無史さん:04/12/25 05:51:16
貴族は傭兵雇ってたから軍隊イラネ(゚听)

6 :日本@名無史さん:04/12/25 07:57:19
全然統治出来てないような

7 :日本@名無史さん:04/12/26 01:02:39
>>4
外国から、大海賊団が着ただろ

8 :日本@名無史さん:04/12/26 12:15:01
774年 3月、新羅大使が大宰府に着いたが、無礼の為しりぞける。
811年12月、新羅の賊船が対馬近海に出没するので、警備させる。
813年 2月、新羅人百人余、肥前小近島に来て土民を殺傷する。
814年10月、新羅商人が長門に漂着、また帰化を求めて博多にも来る。
816年10月、新羅人180人が帰化する(このころ新羅人の帰化が多い)。
820年 7月、新羅人40人が帰化する。
863年11月、丹後・因幡に漂着した細羅人・新羅人に兵糧を与えて返す。
864年 2月、石見に漂着した新羅人を返す。
869年 5月、新羅の海賊、博多で掠奪する。
     12月、新羅の海賊に備えて諸国の俘夷を大宰府に在番させる。
893年 5月、新羅の賊、肥前・肥後を襲う。
894年 4月、新羅の賊来る。大宰府に討たせる。
1049年 9月、対馬、高麗の漂民20人を送り返す。
1080年 3月、高麗国、医者を求める。10月、日本、断る。

9 :日本@名無史さん:04/12/27 13:08:35
実際に交戦したのは、

894年 4月、新羅の賊来る。大宰府に討たせる。

のみ??
逆に言えば、俘夷を集めたような軍でもそれなりにやれたってこと?

10 :昔、名無しありけり:04/12/27 17:11:06
狩人が守ってくれていたんだろ

11 :日本@名無史さん:04/12/27 18:45:01
北面の武士とか西面の武士という集団がいたんではないのかね?

12 :日本@名無史さん:04/12/27 20:42:14
>>11
せいぜい、御所の警備程度だろう。

13 :日本@名無史さん:05/01/03 04:49:59
>>3
権力抗争に伴う武力クーデタの方が、時の政権には身近な危惧だったろうし、現に
810年の薬子の変では、武力衝突には至らなかったが、薬子を自殺に追い込む軍の
出動があったはず。その後も9世紀では蝦夷制圧軍も出動してるのに、その正規軍
組織はその後どうなったのかな。

14 :日本@名無史さん:05/01/03 13:03:02
平安前期は天皇、あるいは摂関家が一声かければ、
正規軍がすぐに編成、出動できる状態にしてあったのだろうか。
そうであれば、すばらしき政府組織。
武士の時代への過渡期にいかにそれがグズグズになってしまったのか。

15 :日本@名無史さん:05/01/03 13:17:52
>>1が言う「軍隊」というのは、ええと俺専門用語とかわからないんだけど
中央軍隊というか国営軍隊というかそういうのがないのに、という感じじゃ
ないかなぁ?

中央政府は軍務(責任者なり)につくものを命じているけれど、
その配下として軍事行動するのは「私兵」なんじゃないの?

>>14さんがいうような「正規軍」の制度ってあったんですか?
古代には、防人とかはいた気がしますが。

16 :日本@名無史さん:05/01/03 14:20:17
>>14
律令時代は諸国に軍団があり、農民から兵士を徴発していた。
しかし、財政難のため平安初期に廃止し、志願制の健児に切りかえたが、
それもいつしかあやふやになって「私兵」の時代へ移行していった。

17 :日本@名無史さん:05/01/03 14:32:43
>>15
>中央政府は軍務(責任者なり)につくものを命じているけれど、
>その配下として軍事行動するのは「私兵」なんじゃないの?
それは、源平に代表される在地武士が発生してからだろ。10世紀前半の純友の乱討滅
軍を率いた宮廷貴族の小野氏がそういった「私兵」を有していたとは思えないよ。

18 :日本@名無史さん:05/01/03 15:07:24
押領使とか追捕使というのは、地方豪族が「私兵」を率いているの?

19 :日本@名無史さん:05/01/03 15:22:56
>>17
桓武天皇による延暦年間の数次の征夷軍の最高指揮官には、紀古佐美とか
大伴弟麻呂といった律令以前の武門豪族出身者が選出されてるね。奈良期
以降も族兵というか私兵を持っていたんだろうか。

20 :日本@名無史さん:05/01/03 18:34:25
>>19
律令体制下で私兵養いは不可能だろ。紀氏、大伴氏には伝来の軍事技術が期待
されたんだと思う。

21 :日本@名無史さん:05/01/04 00:13:07
>>19
征夷軍の征東大使には、武門でない藤原氏の藤原南家継縄727〜796や
藤原北家小黒麻呂733-794も任命されてるね。
歴代の征夷大将軍一覧 ttp://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m043.html

22 :日本@名無史さん:05/01/04 20:01:48
>> 16

摂関政治の時代に国軍の兵士調達費などをケチったのが、
私兵の時代、武家政権の時代への呼び水となったと考えてよい??

律令時代に機能していた兵士徴発ができなくなった、「財政難」の原因は?
教科書どおり荘園の発達のせい??

23 :日本@名無史さん:05/01/04 20:41:39
gh

24 :日本@名無史さん:05/01/04 20:57:51
>>22
律令制度自体が当時の生産力に比べて分不相応なんですよ。

25 :日本@名無史さん:05/01/04 21:08:10
無理して作った律令制度下の国軍の残滓が
平安前期は多少なりとも機能しており、
地方に対して睨みが利いていたのであろうか。
それとも平安前期は「善政」が行われており、
地方豪族に不満もなく、反乱も少なかったと見るべきか。

26 :日本@名無史さん:05/01/04 21:18:49
「律令制度」だの、「尊皇攘夷」だの、「富国強兵」だの、「構造改革」だの、
この国の歴史で四文字熟語が踊る時代は、後から見てろくな時代ではない。

27 :日本@名無史さん:05/01/05 00:52:31
>>25
>平安前期は「善政」が行われており...
朝議の場で、晩年の桓武帝の前で「方今、天下の苦しむ所は軍事と造作と
なり。この両事を停めば百姓安んぜむ」と帝に諫言した青年参議藤原緒嗣
もいたからねえ。

28 :日本@名無史さん:05/01/05 01:32:03
>>11
北面はともかく、西面は後鳥羽天皇の時代。

29 :日本@名無史さん:05/01/05 02:50:46
>>26
「文明開化」だの、「神武景気」だの、「昭和元禄」だの、いい時代もありますよ。


30 :日本@名無史さん:05/01/05 03:00:53
>>29
その三つのうち「文明開化」以外は単なる事象であって
スローガン的要素はない。

31 :日本@名無史さん:05/01/05 05:44:41
>>16
軍団廃止(ただし辺要の地をのぞく)は、財政の圧迫もあるだろうが、
ちょうどこの頃唐や新羅が国内混乱で衰退し、国際的な緊張が
緩和されたことが大きい。

また財政の圧迫も、要するに班田農民の没落によるものであり、
それは同時に軍団の担い手の減少も意味する。

32 :日本@名無史さん:05/01/05 05:45:05
国際的な緊張の緩和は、律令体制のゆるみをもたらし、
土着国司らの富裕層にも私兵が「横行」、ついに反乱を
起こすようになる。。それらは騎馬や軍船など、機動力の
高い兵団であり、それまでの歩兵中心の軍制では対処
しきれなくなっていた。

しかしここで国衙は、党と呼ばれたそれらの
私兵集団の一部を組織化し、新たな軍制をしいた。
これらの国衙軍は、平安末期に至るまで
(特に西国においてよく)機能した。

33 :日本@名無史さん:05/01/05 05:57:53
ただし東国における反乱は大規模で頻度も高く、
9世紀末には深刻な争乱状態が発生するに至る。
そこに桓武平氏らの貴族・皇族の末裔が下向し、
独自に群党を組織し、中央貴族とのつながりを維持する中で
国衙と対等の地位を有する辺境軍事貴族の立場を築いた。

彼らの存在が、摂関の、ついで王権そのものの権威が低下するに
至って、武士の自立をもたらすことになる。東国で特に
反乱が頻発しかつ大規模であった原因としては、
朝廷の支配化に入ってよりの年月が十分でなかったことが考えられる。

34 :日本@名無史さん:05/01/05 06:04:07
>>22
やっぱり班田農民の没落だろう。
荘園が発達したのも、富裕層が「党」を形成し得たのも、
過酷な班田制のもとから逃亡した農民が大勢いたからだ。

35 :日本@名無史さん:05/01/05 10:38:23
班田農民の没落の原因は?

36 :日本@名無史さん:05/01/05 16:16:28
>>35 事実上の私有財産の否定だったから。
要するに働いても働いても天皇の物なので、自分の所得にならん。
さすがにそれで律儀に働く人はおらんでしょう。

37 :日本@名無史さん:05/01/05 16:47:00
>>27
その「徳政争論」は、最初から結論ありきの
桓武天皇の演出、出来レースだったと言うのが通説。


38 :日本@名無史さん:05/01/05 17:08:47
>>35,36
税の重さも半端無かったんだと思う。

39 :日本@名無史さん:05/01/07 09:39:36
以上をまとめると...

律令制度の下、農民から兵士を徴発。国軍を整備。

@当時の生産力が律令制度に見合わず、農民への負担が大
A私有財産否定に無理があった
以上の理由から律令制度を支える班田農民が没落、逃亡。

農民の没落が財政を圧迫。国際的な緊張の緩和などもあり、
軍備に金をかけなくなる。

財政難のため徴発による国軍は平安初期に廃止。志願制へ。

律令体制のゆるみにより、土着の富裕層に私兵が横行。

国衙は私兵集団の一部を組織化し、新たな軍制をしく。
(平安前期までは全国的に割合機能していた?)

西国では国衙軍は、平安末期までよく機能した。

東国は古来から独立志向が高いため、
私兵による大規模な反乱を起こすことになる。
(平将門や、陸奥の反乱)

私兵を有した武家が政治的優位に。
武家政権へ。


これでよい??


40 :日本@名無史さん:05/01/07 13:54:38
私有財産の否定って、あの時代にはもともと「自作農」なんかいないだろ。

41 :日本@名無史さん:05/01/07 17:49:36
>>40
いみわからん。自作農の定義は?

42 :日本@名無史さん:05/01/08 01:09:30
>>33
>東国における反乱は大規模で頻度も高く、 9世紀末には深刻な争乱...
って、どの国での反乱を指してるんですか?

43 :日本@名無史さん:05/01/08 03:15:28
>>42
イ就馬党(しゅうばのとう)の人達とか。

44 :日本@名無史さん:05/01/08 03:35:20
>>26

構造改革は、まだ、後の時代になってないから、判断できないのでは?

45 :日本@名無史さん:05/01/08 04:26:03
死刑も廃止だったんだよね?

46 :日本@名無史さん:05/01/08 11:30:31
律令制の時代に完全に公地公民が行われたと思ったら大間違いだよ。
各地に跋扈する豪族の存在を完全否定することなんかできないだろ。
地方豪族の多くは郡司に任命されたけど、支配のフリーハンドをかなり認められていた。国司は徴税官と同じだった。
従って律令期の軍隊も事実上地方豪族である郡司の軍である。
律令崩壊は郡司である地方豪族走の没落が原因である。支配民が逃散し、国府役人である在庁官人や国司の私領に逃げ込む。
旧豪族層は没落し、中央下級貴族の天下りが多い新豪族層が育った。新豪族は国司と密接に関係を持っていたので国司の権限が大きくなり受領化し、強引な徴税でトラブルが増えていった。

47 :日本@名無史さん:05/01/08 11:59:15
>>46
悪代官のような郡司により農民が苦しめられ逃走...、
という水戸黄門のようなお決まりのストーリーだが、
郡司も皆が皆馬鹿ではないので、
自分が没落するほど農民を苦しめるだろうか。
46のようなことが全国一律に起きるとは信じられない。
郡司が没落した本当の理由はなんでしょう?

48 :日本@名無史さん:05/01/08 12:07:14
>>47
郡司の任用について
http://mentai.peko.2ch.net/history/kako/1012/10124/1012478702.html

49 :日本@名無史さん:05/01/08 12:08:16
旧豪族と下級貴族が通婚して融合したのではないのか?

50 :日本@名無史さん:05/01/08 12:59:34
>>46
>旧豪族層は没落し、中央下級貴族の天下りが多い新豪族層が育った...
没落でなく、>>49による改名だろう。平安末期の清和源氏や藤原氏を名乗る有力
東国武士はすべからくその類なのでは。在京下級貴族が地方官の官職を得て、下向
し免官後も定住するにしても家族だけでは、到底有力武士にはなれなかっただろう。
平安末期の西国有力武士団もそうだったのかな。

51 :日本@名無史さん:05/01/08 16:44:41
>>50
藤原秀郷の後裔を称している下野の小山氏なんかそうかもね。
城内に祇園神社を祀っていたりして明らかに疑わしい。

52 :日本@名無史さん:05/01/08 18:27:49
>>50
日本史板に来てまで、「すべからく=すべて」のような日本語の誤用はやめなされ。
すべからく、というのは「すべからく〜すべし」という漢文の「須」という文字の読み下しで、
「〜すべきだ」というほどの意味。
すべて、をかっこよく言いたいんなら、軒並み、とか、ことごとく、とかでどう?
ふつうに「すべて/みんなといってよいほど」とか。

53 :日本@名無史さん:05/01/08 22:16:21
>>46,49
通婚による下級貴族との融合が正しそうだが、
仮に郡司の没落で、国司の権限が大きくなったとしても、
それがすぐに律令崩壊とはならないだろう。
国司は律令制度の役職であり、
国司が全国一律に無茶した、と考えるのは無理がある。

54 :日本@名無史さん:05/01/08 22:32:21
国司の権限拡大が郡司層の没落になったのでは?「百万町歩の開墾計画」とかで郡司を無視した動員とかが可能になって国司は自分の私領の開墾だけに勤しんだとか?

55 :日本@名無史さん:05/01/08 22:55:03
>>54
>国司は自分の私領の開墾だけ...
在京国司が任地に私有地をどうやって持ったのですか?

56 :日本@名無史さん:05/01/08 23:15:02
オーソドックスなのは地元の小金持ちからの寄進。

57 :日本@名無史さん:05/01/08 23:49:24
>>56
その寄進地の租は、誰が誰に納めるのですか?

58 :日本@名無史さん:05/01/09 15:46:59
>>57
平安以降の国司は実質的には徴税請負人だから、自分の土地は事実上不輸田。

59 :日本@名無史さん:05/01/09 19:21:33
>>54
私領ではなくて国司直営田みたいのか?代々の国司が報酬みたいな形で上がりをもらうやつ。

60 :日本@名無史さん:05/01/09 19:27:06
平安時代の推定人口ってどんぐらい?
朝廷の統治範囲って
畿内から西ぐらいでしょ、平安時代は

61 :日本@名無史さん:05/01/09 19:34:23
>>60
福島県の白河関以南は一応統治範囲じゃないの。

62 :日本@名無史さん:05/01/09 22:15:52
伊沢城〜秋田城を最北と考えると、今の盛岡〜秋田ラインが支配範囲。

63 :日本@名無史さん:05/01/09 22:19:25
平泉までだから。蝦夷へは武田とかが
進出するまではあまり関心がなかった。

64 :日本@名無史さん:05/01/11 09:36:25
東国の民がはるばる京都まで租税を送るメリットなんて感じられんからな。
中央政権が公共事業でもやってくれれば別だが。

65 :日本@名無史さん:05/01/11 16:46:09
国司は常陸のような大国でも在庁官人を含めて70人くらいしかいなかったらしい。
中国では宋代に県(日本の郡に相当)でも官+吏+役で100人以上いたというから、その上の府州だともっといただろう。

66 :日本@名無史さん:05/01/22 06:38:44
江戸時代だって代官所にはほとんど人いなかったし

67 :日本@名無史さん:05/01/24 23:14:02
奥州って柵だけで城だしなぁ・・・でも戦国時代でも伊達と芦名
くらいしか知られてないし

68 :日本@名無史さん:05/01/24 23:45:00
東国人の俺から言わせると西国の戦国大名出知られているのは島津と毛利、龍造寺ぐらいだな。
まして西国で城って・・・大野城の後無くなり名護屋城で復活??て感じだよ。

69 :日本@名無史さん:05/01/24 23:55:03


70 :日本@名無史さん:05/01/25 00:28:19
東夷

71 :日本@名無史さん:05/01/25 09:39:41
>> 67
平安時代の城は一般に簡単な柵と堀だけでしょう。
盛岡の志波城跡に行ってきたことがあるが、
4,5mくらいの高い土塀が再現されていた。
この復元の学問的根拠がどのくらいあるかわからんが、
当時の武器を考えると十分、防御機能がありそうな城でした。
http://homepage1.nifty.com/isla3/010614.htm

72 :日本@名無史さん:05/01/27 21:07:54
>68 古代平安時代に北九州とか城塞だらけになります。
環濠と山城だらけ。鎌倉期に水城とか築かれてるけどこれって
もう既に平安期から技術があったらしいよ。元寇で一気に巨大化
したんじゃなくて昔からある程度下地があったとのこと。


西国は、人名録とかスデにあったり、大名関係は、かなり当時から知られていた。
武田信玄が九州の武将に手が出したりしてたりするのもそういうこと。

奥州は・・・まじで芦名と伊達しか知られてなかった。

73 :日本@名無史さん:05/01/27 21:54:30
京都扶持衆
伊達、葦名、白河、石川、小野寺、南部など

自分の無知をさらけだすのは恥ずかしいよ

74 :日本@名無史さん:05/01/28 07:58:34
沼足柵、多賀城、秋田城、志波城、徳丹城、城輪柵、雄勝城、桃生城・・・
自分の無知を自慢するのはやめたほうがいい

75 :日本@名無史さん:05/01/28 10:31:06
日本史において大要塞を必要とした巨大な相手自体があんまりいない。

76 :日本@名無史さん:05/01/29 17:24:11
>>51
下野の小山氏の自称は、秀郷流でなく粟田関白藤原道兼流でなかったか。

77 :日本@名無史さん:05/01/29 23:56:21
伊達、芦名・・・以下はその眷属だと思われていた。
戦国期にそれが現実のものとなるのだが。

78 :日本@名無史さん:05/01/30 11:16:39
>>55
本人がいかないだけだろう>在京国司

79 :日本@名無史さん:05/01/30 11:52:30
城に関しては東北の状況は寒々しいね。

80 :日本@名無史さん:05/01/30 12:14:12
それ別に城に限ったことじゃないから。

81 :日本@名無史さん:05/01/30 19:08:48
>>79
いつの話しをしているのかわからないが、平安初期に「城」と呼ばれる公的施設があったのは東北と北九州だけだけど?

82 :日本@名無史さん:05/01/31 00:00:31
本当に平安時代だったんだな(初期から中期)

83 :日本@名無史さん:05/01/31 20:49:55
いや全然平安じゃない。遷都の理由が暗殺がらみだし。
反乱や遠征、大土木。悪政のオンパレードで反乱続発。

84 :日本@名無史さん:05/02/01 09:19:37
>>83
だから、その反乱がどんなんで、どーやって鎮圧したんだよ。
平将門の乱以前について。記録を示せ。
参照→4

85 :日本@名無史さん:05/02/01 11:26:03
都以外は
その地方の有力な豪族が仕切ってたんじゃないの?

86 :日本@名無史さん:05/02/01 14:32:00
>>85
その豪族が反乱しまくることがなかったのはなぜ、
というのが議論の流れ。

87 :日本@名無史さん:05/02/01 14:39:57
>>46 発展途上国というか、今のイラクなんかと似てるな。本当だとしたら。
中央政府が地方の既存勢力と手を結んで妥協し、トラブルが起きるというのはよ
くある話なんだよね。
地方勢力が形式上消滅した明治維新というのは非常に特異なケースなんでしょう。

>>45 死刑は無かったけど手を切り落とすとかはあったみたいっす。

>>86 質問し返すようで悪いが、真に天皇を敵に回して戦った連中がいない
というのも不思議だ。

88 :日本@名無史さん:05/02/01 15:13:00
>87
>真に天皇を敵に回して戦った連中がいないというのも不思議だ。

まさに。


89 :日本@名無史さん:05/02/01 20:59:12
基本的に有志による討伐です。悪人を倒せば
罪を帳消しにするので基本的に悪人です。
平将門を倒したのも流人。官軍じゃないし。
藤原の海賊団も総司令官の小野が行く前に
倒されていた。

土蜘蛛とか酒呑童子も要は反乱勢力。騙し討ちに
してるのが後の武士の原型。人を殺せば
祟られるという妙な風習があったので人以外のモノに
擬されているが実在の人間だろう。アテルイなども。
ただ自殺は、祟り信仰外のようで長屋王時代から
自決と言うことにしている点が興味深い。

90 :日本@名無史さん:05/02/01 21:14:16
天皇が戦場に行かないだけなんじゃないかな・・・。前の時代の仲哀とか行ってる
天皇は、結構あっさり戦死してるし。平安時代は、貴族もそうだけどとにかく上級将官がいいかげん。
プラス動員兵も役立たず。重装歩兵の軍団はコスト高で小回りが利かないから平安末期には
有名無実化。弓馬を持って機動力のある武士の時代になる。、

91 :日本@名無史さん:05/02/01 21:17:27
馬鹿なことを言う。
自殺こそ恨みを呑んで死んでるんじゃないの。

92 :日本@名無史さん:05/02/01 21:27:18
最後に殺した人間が祟られますから。

あと自分で死んだ場合、祟神にならない。

93 :日本@名無史さん:05/02/01 22:25:22
>>87
やっぱ近代になって通信、交通手段が発達する前は一つの政府が全国を治めるのは無理だったんかな。
平安時代の朝廷も鎌倉幕府や江戸幕府みたいに、地方の有力者を権威で従わせる程度だったですかね。
>>90
清の末期みたいだね。
正規軍が役に立たなくなって、李鴻章とか曽国藩の私兵で治安が保たれてたのと似てる。


94 :日本@名無史さん:05/02/01 22:42:39
義勇兵の方が安上がりだからねぇ・・・。勝手に私費で軍隊作って
勝手に領土広げてくるし。源義朝ってそのまんま自分で部下に
領地やって棟梁になったやつだし。

95 :日本@名無史さん:05/02/01 23:24:49
>>94
>源義朝ってそのまんま自分で部下に領地やって...
って自分の領地はどこの地方に持っていたのですか?義朝って、国司に
任命されたことってあったのですか?

96 :日本@名無史さん:05/02/02 10:41:31
>土蜘蛛とか酒呑童子も要は反乱勢力。

あんまり根拠ねーよな。推測の域。
反乱勢力というより、盗賊、山賊クラスのような気が。

97 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/02 14:05:34
伝説の成立した時代が下り過ぎ、根拠と成り得る史実も確認出来ませんからね。
高橋昌明先生の疫神説などを考えた方がよさそうな。

98 :日本@名無史さん:05/02/02 21:10:20
ただ渡辺綱とか実在の人物がいるのも事実。

99 :日本@名無史さん:05/02/03 00:50:22
>>90
>天皇は、結構あっさり戦死してるし....
どの天皇のこと?

100 :日本@名無史さん:05/02/03 02:30:00
蝦夷(奥州)追討に連れて行かれた兵隊って、

・どっから、どういう義務で集められるんですか?
・そのまま駐屯ですか?
・任期ってないんですか?
・給料ってないんですか?
・誰が受け取るんですか?
・そのまま屯田(開拓土着)するとして、女どうするんですか?

101 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/03 21:10:51
>>98
初出は『古今著聞集』(1254年)。創作上の人物の様です。
そろそろ石井進先生の国衙兵制についての研究が出てもよさそうですが。

102 :日本@名無史さん:05/02/03 22:16:08
山ほど子孫がいる人物だが・・・伝説ってことでヨロ

103 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/03 22:23:51
系譜関係も曖昧で、渡邊党が系譜伝承を創作したと考えた方がいいのでは。

104 :日本@名無史さん:05/02/03 22:24:42
>100 そのまま任地にいついちゃったみたいだな。ローマ軍と
基本的に同じ。ブリテンからルーマニア戦線に行った連中は、やっぱ
二度と戻ってこなかった。領土が拡大すると辺境から辺境に移動して
そのままという現象が起こる。戻るコストより新たに派遣した方が安上
がりになってくる。膨張限界点ということだな。輸送の革新がなければ
その傾向がさらに強まる。東だけでなく西に行った防人とかも同じ。
現地徴募すればよさそうなものだけど・・・それやると現地勢力と結びついて
反乱軍になるから。結びつかないような遠国から派遣する。戻るコストが
高くなるからそのまま放置。

105 :日本@名無史さん:05/02/03 22:26:23
渡邊一族って本当に多いよね。名前が一文字なのも
綱からの伝統らしいけど・・・。

106 :日本@名無史さん:05/02/03 22:27:43
          r‐、   __ __
        /   ̄`ヽ /
      // /   、 V}
      N从リハヽハ iハ
      / ic> <c| l|イ〉
      んへ i ̄! ノ从j   金太郎はー!?
       /⌒Y⌒`ヽヽ.


107 :日本@名無史さん:05/02/04 15:02:50
>>105
綱以前から一文字だよ

108 :日本@名無史さん:05/02/13 20:56:49
>>87
>真に天皇を敵に回して戦った連中がいない...
戦を文字通りの武力抗争に限っても、古くは吉備氏、葛城氏から恵美押勝、北条義時、
足利尊氏といるが。政治抗争に広げれば、枚挙にいとまないが。

109 :日本@名無史さん:05/02/13 21:10:21
>>100
・どっから、どういう義務で集められるんですか?
奈良末には現仙台以南は律令政府の完全な支配下にあったので主に現福島宮城から集められた兵隊を主力に関東からの増援部隊で戦った。

・そのまま駐屯ですか?
基本的には戦が終われば原隊である軍団に帰還するけど、長引けば駐屯です。家族ごと移民の屯田兵もいた。

・任期ってないんですか?
兵役は税の一種ですから任期はあります。防人は3年交替、衛士は1年交替が原則。

・給料ってないんですか?
無給です。武器や食料も原則自弁です。

・誰が受け取るんですか?
無給なので誰も受け取れない。

・そのまま屯田(開拓土着)するとして、女どうするんですか?
山形、秋田、宮城北部、岩手南部には城柵と呼ばれる施設が作られ、兵士が常駐し、中に家族も住んでいたようです。周囲を開墾して農業も営んでいたようです。

110 :日本@名無史さん:05/02/13 22:30:56
>>108
挙げられた例は全部平安時代じゃないし...

仮に平安時代という枠を外しても、
武士が天皇を倒して自分が天皇に、という戦いは日本ではなかった。
(南北朝は両方天皇だから...)
外国ではよくあることなのに。
独立戦争という意味では、平将門くらいかねぇ。

111 :日本@名無史さん:05/02/13 22:34:35
>>110
万が一、平将門が勝利していたとしても、
平将門も天皇家の傍系に過ぎないわけで、
ルーツの系図作ろうとしても、高見王とか出てきて、
結局は万世一系となってしまう予感。

112 :日本@名無史さん:05/02/13 22:46:28
承久の乱
武家政権に全国支配を出来る実力がなかったので新天皇を立てたけど

113 :日本@名無史さん:05/02/13 23:12:20
平治の乱は天皇VS上皇だから一応「天皇」に真っ向から戦いを挑んでる。

114 :日本@名無史さん:05/02/13 23:33:01
元弘の乱も天皇ボロ負けで簒奪されて隠岐に流されたな

115 :日本@名無史さん:05/02/13 23:45:01
アビニョン補囚みたいだな。

116 :日本@名無史さん:05/02/14 01:12:09
鎌倉幕府は、清和源氏の直系である頼朝・頼家・実朝までは天皇系の権威が
あったが、北条氏になるとそれがなくなるため、京都から摂家将軍・親王将軍
を戴き、幕府の権威づけを行った。
歴代幕府は常にこういう権威づけを必要とした。

117 :日本@名無史さん:05/02/14 09:37:46
いずれにせよ新王朝を立てるような戦いにはならんかったわけだ。

118 :日本@名無史さん:05/02/14 09:43:15
>>116
そこまで必死にお飾りを連れてこなくても自分が将軍になってもよさそうだけど、
日本だとそうはいかないんだね。

119 :日本@名無史さん:05/02/14 17:58:45
>>118
江戸幕府なんかは、徳川が「源朝臣」を捏造して将軍になったわけだが、
それでも権威づけのために朝廷との関係を深めた。幕府にとってはこの
権威づけが非常な重大事で、これがなされないと諸大名を統率できなかった。


120 :日本@名無史さん:05/02/14 21:55:34
>>117
朝廷が幕府にすり寄ってヘコヘコしていたからその必要性はなくなったわけだ。
後醍醐みたいに幕府に謀反を起こすと簒奪されて配流されるけどな。
室町以降になると朝廷は完全に武家政権の寄生虫と化するからな。施しを受ける代わりに権威を与えるというギブアンドテイクだな。

121 :日本@名無史さん:05/02/15 00:53:04
>>50
概ね同意。

>>76
それは宇都宮。

>>91-92
なんとなく「もののけ姫」思い出した。

122 :日本@名無史さん:05/02/15 10:21:27
わたしの>>100での質問に答えてくださった方、ありがとうございました。
スレ活性化のために、と思いつついろいろ書いてみました。

さて、皆さんの御好意にまた甘えてみたりなんかして。
また質問なんですけど

・鎮守府とかの「将軍」って、種類どれぐらいあるんですか?
 その差はなんななんですか?
・将軍以下の将は、やっぱり任命されるんですか?
 それとも将軍が自分で選抜するんですか?
・将(候補)に軍事を教える学校なり、養成機関はあったのですか?
・じゃあ兵卒は軍事訓練(錬兵)ってどうしてたんですか?
・兵は手弁当、無給ということですが、
 武器防具はどうしてたんですか?


123 :日本@名無史さん:05/02/15 19:28:45
ちょっと質問の答えからずれるが、
私の知ってる限りで古代には、中国からもらった称号として、

438年、倭王珍が安東将軍
478年、倭王武が安東大将軍
479年、倭王武が鎮東大将軍

段々出世してるようだが、さらに上には征東将軍があるようだ。


124 :日本@名無史さん:05/02/15 19:39:52
日本国内の役職に戻ると、平安以前には、

陸奥鎮東将軍
征蝦夷将軍
征越後蝦夷将軍
左将軍
右将軍
持節征夷大将軍
隼人征討将軍
出羽鎮狄将軍
陸奥鎮守将軍
征東大将軍
征夷大将軍

などの役職があるようです。いくつかかぶってるかも。

125 :日本@名無史さん:05/02/15 19:48:53
時代が下ると、征夷大将軍以外には、

鎮守府将軍(平良将・貞盛、藤原利仁、藤原秀郷、源頼信・義家、
足利尊氏、北畠顕家・顕信)
征西将軍(南朝の懐良親王、良成親王)

があるよう。

126 :日本@名無史さん:05/02/15 19:56:41
将軍以外にも鎌倉時代以降は、

六波羅探題
奥州探題(斯波氏、大崎氏、伊達氏)
羽州探題(最上氏)
大宰少弐(少弐氏)
鎮西探題
中国探題(足利直冬)
九州探題(一色氏、渋川氏、今川貞世)

なんかも重要ポストか。

127 :日本@名無史さん:05/02/15 20:44:03
朝鮮より渡来して来た最強の軍隊である、サムラビ達の活躍によるものが大きいからです。
ですから軍隊など必要なかったのです。
そのあまりの活躍に憧れ
サムラビ→サムライ
となったのは世界で有名な話しです。
日本だけは今も捏造を続けていますけどね。


128 :日本@名無史さん:05/02/15 21:49:37
将軍について
 常設の将軍は本来的には鎮守(府)将軍のみ、長官である将軍の下に判官の軍監・主典
の軍曹が有り。制度として固まる以前には副将軍・権副将軍等が存在していたこともある
そうです。他に事務官の府掌、技術関係の医師・陰陽師・弩師等の下役がいました。
 なおこれらの属官は当然中央が直接任命するものです。指揮下の中隊長クラス以下は、
現代の軍で言えば下士官のようなものですので将軍に任命権があったものと思います。
 おそらく軍団に準じて校尉(200人長)、旅帥(100人長)、隊正(50人長)、火長(10人
長)等が存在したと思われます。
 また鎌倉幕府成立までは、単に将軍と言えば鎮守将軍でした。
 どの本で読んだか忘れましたが、護衛かなにからしいケン(イ+兼)仗は将軍が自由に
任命できたようです。

 鎌倉幕府成立後、鎮守将軍はは事実上廃絶(確認される最後の将軍は1179年11月離任の
藤原範季)していたようです。ちなみに1198年に軍曹が任命された例があるようです。
 後に建武の中興の際の足利尊氏の任命で再興。その後北畠顕家が尊氏に変って将軍とな
り、参議以上での兼任のため鎮守大将軍と称しています。

 天平年間に太宰府が廃止され、その後一時的に鎮西将軍以下の鎮西府が置かれたことこ
ともあります。
 将軍・副将軍・判官二名・主典二名、軍監・軍曹でなく判官・主典なんところが意味深。

 非常設のものとしては、陸奥鎮東将軍・征越後蝦夷将軍・征東大使(征東大将軍)・持
節征東将軍等が鎮守将軍・征夷大将軍の前史として存在しています。
 また出羽方面には鎮狄将軍が置かれたこともあります。
 中央では前後騎兵大将軍、御前御後騎兵将軍・副将軍、左右将軍・副将軍、検校兵庫将
軍、禁守兵庫将軍等が置かれたことも有りますが、皆一時的なものです。

129 :日本@名無史さん:05/02/15 21:50:28
 以上は概ね奈良時代以前のもので、平安時代では鎮守府将軍のほかでは、将門・純友
対応の征東・征西大将軍の藤原忠文くらい?
 この時期に置いても幹部は中央の任命ですが、高級幹部が家臣を私的に幕僚にすること
はあったと思います。

 建武から南北朝期には、征東将軍(足利尊氏)・征西将軍(懐良親王)等が任命された
こともあります。

 士官学校のようなものは、ローマ帝国や唐でさえないのですから、あの時代の日本にあ
るわけないです。
 士官教育も練兵も指揮官が独自に行っていたものでしょう。

「令義解」によると、1万人以上の軍で将軍1・副将軍2・軍監2・軍曹4・録事4、5
千人以上で将軍1・副将軍1・軍監1・軍曹4・録事2、3千人以上で将軍1・副将軍1
・軍監1・軍曹2・録事2、三軍を統べるために大将軍を置き、三軍の官員は大将軍1・
将軍2・副将軍4・軍監4・軍曹10・録事8となるそうです。

130 :日本@名無史さん:05/02/15 21:51:48
参考になりそうな本
 近藤出版社「日本史小百科25将軍」高橋富雄著:平成2年1月10日初版発行
 新人物往来社「歴史読本昭和五一年臨時増刊号人物中心日本の組織図」所収の「坂上田
村麻呂と古代の軍事組織」高橋富雄著
 新人物往来社「歴史読本昭和五四年臨時増刊号征夷大将軍系譜総覧」
 新人物往来社「別冊歴史読本官位と組織のしくみがわかる本」2001年4月13日発行に所
収の「坂上田村麻呂と征夷大将軍のしくみ」高橋崇
 中公新書「征夷大将軍」高橋富雄著:昭和62年3月25日発行
 中公新書「古代国家と軍隊」笹山晴生:昭和50年7月25日初版発行
 東京大学出版会「日本古代衛府制度の研究」笹山晴生:1985年4月25日初版発行
 教育社歴史新書「防人と衛士」野田嶺志:1980年1月20日発行
 吉川弘文館「律令国家の軍事制」野田嶺志:昭和59年4月20日初版発行
 講談社学術文庫「新訂官職要解」和田英末著・所功校訂:1983年11月10日初版発行

上とかなりダブってますが、今更書き直すの面倒くさいのでそのまま投下。

131 :日本@名無史さん:05/02/16 08:22:38
将軍    その作戦・方面の軍事統括者
大将軍   ↑より権力が大きい。行政にまで踏み込む?

鎮守府将軍 常設。在日米軍長みたいなもん?
征夷大将軍 非常設。イラク作戦総責任司令官みたいなもん?


132 :日本@名無史さん:05/02/16 10:54:18
江戸時代には鎮守府将軍はいなかったのかな。
明治維新以後の海軍には、横須賀、呉、佐世保、
舞鶴に鎮守府が置かれ、
そこの司令長官は海軍大将であったようだけど。

133 :日本@名無史さん:05/02/16 13:12:44
>>131、鎮守府大将軍もいたよ-->北畠顕家

134 :日本@名無史さん:05/02/16 13:55:54
>>131
将軍と大将軍は日本の律令制度においては単なる上下の差、どうやら率いる兵数によって
区分された模様。
征夷大将軍と征夷将軍は本質的には違いがない。

>>132
北朝側は任命していない模様。これは征夷大将軍を相対化する存在である為だと思う。
南朝側は顕家以後も任命したかもしれないけど良くわからない。
どっちにしろたいして重要でなかったため概説書程度では不明なのだと思う。
続いていたにしろ、どのみち南北朝の合一で消滅。
あくまで仮定の話ですが、もしかして戦国時代に伊達家あたりが朝廷に献金して成りたがる
ことがあったら、与えると言う結論が出たかもしれない。

135 :日本@名無史さん:05/02/16 18:21:59
>>122
将軍については概出なので省略
・将(候補)に軍事を教える学校なり、養成機関はあったのですか?
家伝に近かった。従って武専門の軍事貴族である秀郷流藤原氏とか清和源氏とか桓武平氏が出てくる

・じゃあ兵卒は軍事訓練(錬兵)ってどうしてたんですか?
平安前期の律令制が残っている頃は兵役で集められた正丁は各地の軍団で軍事訓練を受けていた。平安後期に武士が登場すると、武士は当然日常的に自己で訓練するし、郎党や戦時に動員する直属する隷属的な身分の小者にも訓練はほどこしていたと思われる。

・兵は手弁当、無給ということですが、 武器防具はどうしてたんですか?
原則として食料武器は自弁、無給というのは明治維新まで続くルール。例外はあるけど。室町時代から出現した足軽は臨時雇用の傭兵だから給料はあった。ま、恩賞を歩合給と見なすと給料有りになるけど。(w
ただし、いつの時代でも戦時には食料だけは支給されたようだ。戦国時代以降は刀などの個人装備以外の武具、具足を兵に支給する例が多くなるな。
平安時代の兵役は一戸から正丁何人という決まりがあったから、使い回しをしていたんだろうね。たとえば兄貴が使った武具を弟が使うとかね。

136 :日本@名無史さん:05/02/16 22:12:43
兵隊は正丁総員が十組に分かれて10日間の訓練を交代で受けてなかったっけ?一年で30日、多い組で40日、年間で訓練していたと記憶してます。

137 :日本@名無史さん:05/02/16 22:26:38
健壮がいたじゃないか!

138 :日本@名無史さん:05/02/17 21:15:41
>>130
>中公新書「古代国家と軍隊」笹山晴生:昭和50年...
>東京大学出版会「日本古代衛府制度の研究」笹山晴生:1985年...
前者はともかく、後者は¥5,460と高価な上、品切だから下記の方がよいと
思う。武門の豪族たる大伴氏の軍事力零落の推察記事もあり。
古代国家と軍隊―皇軍と私兵の系譜 笹山晴生 講談社学術文庫 2004/06
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061596616/qid=1108641583/sr=1-17/ref=sr_1_2_17/250-2907611-2910627#product-details

139 :日本@名無史さん:05/02/18 00:49:03
>>90
>弓馬を持って機動力のある武士の時代に...
なり、武具も発達したようだ。
中世的武具の成立と武士 近藤好和 吉川弘文館 2000-03刊 \12,600 ISBN:4642027882
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9973334930

140 :日本@名無史さん:05/02/19 15:29:15
近藤好和著「騎兵と歩兵の中世史」&「弓矢と刀剣 中世合戦の実像」
 ともに吉川弘文館歴史文化ライブラリー 1800円くらい
元木泰雄著「武士の成立」吉川弘文館日本歴史叢書 2500円くらい
高橋昌明著「武士の成立・武士像の創出」東京大学出版会 5500円くらい


141 :日本@名無史さん:05/02/20 19:37:15
いちいち動員するより志願兵を送った方が早いってことだな。
承平天慶

142 :日本@名無史さん:05/02/20 19:48:39
というより脱走が多くてダメダメだったらしい。

143 :日本@名無史さん:05/02/27 18:20:39
北朝の内輪もめの時に院宣で足利直義が鎮守府将軍に任命されたことがあるようですね。
これが最後の鎮守府将軍でしょうか?

144 :日本@名無史さん:05/02/28 01:44:58
徳川将軍って、鎮守府将軍も兼任してませんでしたっけ?


145 :日本@名無史さん:05/02/28 17:45:17
戊辰戦争で親王達が鎮守府将軍になってたよ

146 :日本@名無史さん:05/03/10 22:29:40
徳川家は源氏の長者もやってたような気がする。平安趣味やな。

147 :日本@名無史さん:05/03/12 15:16:12
大宝律令はまだ廃止されていないので
現代でも本当は日本人は3年間の防人の任につく義務がある。

148 :日本@名無史さん:05/03/12 16:29:00
それじゃあ班田を支給される権利もあるわけ?

149 :日本@名無史さん:05/03/13 20:59:41
俺は班田もらったよ。

150 :日本@名無史さん:05/03/13 21:54:55
俺、衛士に選ばれたよ。所属は衛門府だって。羅生門は鬼がでるっていうから、配置は朱雀門か大極殿がいいなぁ。

151 :日本@名無史さん:05/03/14 22:13:07
俺は開墾してる。班田じゃやる気にならない。開墾して私財にするんだ。

152 :日本@名無史さん:05/03/15 01:31:16
藤原秀衡が死んだ後に一族から鎮守府将軍に任じられたやついなかったんですか?

153 :日本@名無史さん:05/03/15 22:36:41
藻前ら日本の法律を知らんなあ
大宝律令なんか、とっくに死文化してるだろうが
日本人なら養老律令に従えよ

154 :日本@名無史さん:05/03/15 23:18:23
プ!お前らな・・・。日本で最も権威ある法律は貞永式目だぞ。

155 :日本@名無史さん:05/03/16 00:20:59
俺は御家人じゃねえから関係ねえよ

156 :日本@名無史さん:05/03/19 22:30:42
御家人って地頭とか税の徴収権もってる職を貰えるんだっけ?

157 :日本@名無史さん:2005/03/22(火) 06:30:25
押領使と追捕使の違いについて。
初心者スレで火付盗賊改めと町奉行と同じと教えて貰いましたがどんなもんでしょうか。
博識な皆様におききしたいです。
よろしければ参考になる書籍なども。

158 :日本@名無史さん:2005/03/22(火) 10:33:34
>146
源氏の長者というのは、象徴的な意味において、武家の代表者ということ。
別に源氏、平家には関係ないのです。
家康から秀忠に将軍が譲られたときにも、征夷大将軍は変わっても源氏の長者は
しばらく家康が務めたということもある。(小説ネタだが)

159 :日本@名無史さん:2005/03/22(火) 10:44:42
>>157
東と西

160 :日本@名無史さん:2005/03/22(火) 14:52:31
>>156
事実上死法化していましたが、律令の建前上は土地は国家のものです。
御家人の受ける最大の恩恵は、自分の所領の所有権を鎌倉が認め、
保護してくれるということです。

161 :日本@名無史さん:2005/03/23(水) 05:02:53
>>159
ありがとうございます
つまり同じ役割でありながら肩書きが違うだけということでしょうか?
すると、一国に押領使と追捕使が置かれることはなかったと…。
(東:藤原秀郷=押領使・西:小野好古=追捕使)
では、国検非違使はどういう運用であったのでしょうか?



162 :日本@名無史さん:2005/03/24(木) 17:32:00
国検非違使は警察官。
押領使・追捕使は軍事指揮官。

163 :日本@名無史さん:2005/03/24(木) 19:40:11
|┃三      , ‐'" ̄` '⌒ `''‐、
|┃     /     ミ〃    \
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|┃三  L.H ,‐=・‐ lニl ‐・=-、トL.! <  畠山は名門。松平はそうでもない
|┃   /ハ{ ` ― ‐'  `― ‐ ' lハ.〉  \
|┃   { l_.|   ,.ィ′  :、   jク/       ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|┃三三 ヽ._l   / 'ーー'‐' ヽ.   Lノ
|┃      !    -──- l  /
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|┃三   /:ト、 ` ー---‐ '´/|\_ ガラガラッ


164 :日本@名無史さん:2005/04/09(土) 23:36:18
なんで?

165 :日本@名無史さん:2005/04/10(日) 22:08:28
NHKアナウンサーネタ。 松平はお殿様だが乱暴狼藉で
たまに自分がニュースになる。

畠山は、かむかどうかで実況で話題になる正当派アナ。
鎌倉室町期の名門中の名門 畠山の血筋。

166 :日本@名無史さん:2005/04/10(日) 23:08:30
畠山スレに来い、と

167 :日本@名無史さん:2005/04/13(水) 23:59:19
武士って役職でもなんでもなくて自ら始めた商売なんでしょ?そんな律令制
違反の職業の人が国を治めたのって変じゃない?それに建前上は貴族に逆らえ
ないんでしょ?

168 :日本@名無史さん:2005/04/14(木) 19:59:48
源氏も平家も貴族だから。あと大江とか頭のいい貴族がついたのよ。

169 :日本@名無史さん:2005/04/14(木) 22:42:35
>>167
それはえらい勘違いですな。
北面の武士て知ったはります?
それから、「侍」というのは「侍(さぶら)ひ」、つまり皇族や貴族、寺社に
「お仕えする(侍ふ)」人のことですわ。

170 :日本@名無史さん:2005/04/14(木) 23:15:31
それは由緒正しい正式な武士で、私兵業から身を興した者も多いよ。

171 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/14(木) 23:21:36
元々、六位の人間を指したものです。>侍
10世紀には、今日「軍事貴族」と呼ばれる4〜5位の、諸大夫層の中でも
武芸・殺生を専門家した「兵の家」が成立します。
11世紀末になると、彼らと地方に点在する彼らの末裔である在地領主達
が「武士」と呼ばれる様になりますが、彼らの儀礼・故実は元々中央から生
じたものであって(一説)、「武士」としての公認は、ただの武装に止まらず、
朝廷や国衙への奉仕にあったのではないかという説があります。
故石井進先生が、国衙軍制について色々と書いてらっしゃいますよ。

172 :日本@名無史さん:2005/04/14(木) 23:40:53
なんか納得いかんのは、平家とかの武家が京都で身分が上のはずの公家を
退けて政権を取ってしまう事なんだが・・・天皇の直接的な承認を得ていれば
公家も武家も関係ないのか?

173 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/14(木) 23:51:13
公家とか武家とかいう区分自体、あの頃ちょうど生じ始めたものですからね。
元々公家といえば天皇・朝廷を指した言葉ですし、対立概念と考えない方が。
地位が低かったのは確かですが、清盛の場合は妻の実家が公卿も輩出してい
た所謂堂上平家の出身で、その助けもあった。
武力と聞くと、何やら高圧的な支配のイメージが先行してしまいますが、武
力による「安全保障」が必要とされていた事も、想起する必要があります。
清盛がのし上がれたのも、頼朝が承認されたのも、「静謐」をもたらせる人間
がほかにいなかったからで。

174 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/15(金) 00:07:55
逆に言えば、源義仲の場合は、そうした信頼性とか支持といったものが、ま
るで得られ無かった。その点、京での記憶のある頼朝の方が有利です。
奢りや個人レベルの贅沢や粗暴だけで政権は倒れません。
それに代ってよりましな政権を樹立してくれそうな勢力が現れませんと。
で、義仲の場合は「後よりも先よりもましでない」と判断されてしまった。

175 :日本@名無史さん:2005/04/15(金) 00:21:25
武士という言葉自体は『続日本紀』にもありますが、、、
宇多天皇(887−895)のときに置かれた滝口の武士 あたりが所謂正式な武士のおこりですね。
蔵人所に属する禁中警護を主な目的とし六位以上の武勇(特に弓術)に優れた者が選ばれ雑役も行いました。
>北面の武士
平安後期に白河上皇が院の御所の北面においた院警固の武士。
上皇は応徳3年(1086)の院政開始後まもなく身辺を警固したり御幸に供奉するものたちをおいた。
この人々は北面とよばれ、その中の武士が北面の武士である。
のちに後鳥羽上皇が新設した西面の武士とともに、院直属の武力として有名。
北面は院庁の一機関としての性格をもち、定数はなかった。
のち上下の別ができ、上北面は四位、五位などの諸大夫以上、下北面は五位、六位の侍層で、
白河上皇の晩年には80余人をかぞえたという。
役割は院・上皇の日常的な警備だけでなく雑事もおこない、僧兵の強訴などを阻止するために動員される場合もあった。

176 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/15(金) 00:32:05
言葉だけなら『万葉集』にもありますし、有名な『古今和歌集』の序にも
「猛き武士」とありますよ。10世紀〜11世紀前半にかけての場合は、兵
(つはもの)と表記する場合が多い。

177 :日本@名無史さん:2005/04/15(金) 19:43:16
律令制度に正式な役職として記載されていないため強引な話、武士とは豪族が今日からオレらは武士だ
と名乗れば武士になれたんでは?画家や漫画家と一緒で。

178 :日本@名無史さん:2005/04/15(金) 20:33:33
京と地方では違うだろ。
京では、授刀舎人から中衛・近衛ときて、衛門府に検非違使、蔵人所に滝口、院に北面だし、
地方では、受領層とその郎党とか荘園警護のゴロツキとかだし。
また、どちらともいえない僧兵とか神人の類もいるしさ。

179 :日本@名無史さん:2005/04/15(金) 21:07:45
平安時代の甲冑や武器の詳細な変遷はどういった感じ?

180 :日本@名無史さん:2005/04/15(金) 23:35:26
ちょっと乱暴だが、地方の武士団は広域暴力団と同じ

181 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/16(土) 00:12:17
>179
とりあえず、『伴大納言絵巻』に、古風な鎧が出て参りますよ。
大鎧は11世紀初頭に成立したものです。

>180
説話世界では恐怖が煽られていますが、実際には支配者でもあったという事
で、彼らの実力を恐怖以外に「保証」の面から見る試みがあります。

182 :日本@名無史さん:2005/04/17(日) 01:26:11
開発地主だからちょっと違うよ。貴族に奉仕したのは、土地の権利を
確保するため。民法とか整備されてないから相続とかで同族同士でも争うし
いわゆるお墨付きが必要だった。

183 :日本@名無史さん:2005/04/17(日) 03:45:44
開発した土地を寄進して管理人として実質支配するって形式ですな。
あと、受領階級の土着化の動きも盛んだよな。
現地で稼いだ金で現地で投資して、土着化って。

184 :日本@名無史さん:2005/04/19(火) 21:49:20
大和朝廷が統一したものが、再び分裂して行く過程ですね。
列島の住民は、基本的に分国的な状態を好むようです。

185 :日本@名無史さん:2005/04/19(火) 22:16:15
>>181
源平の争乱時のような甲冑が普及するのは
具体的に何時ごろから?

186 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/20(水) 03:04:56
『伴大納言絵巻』が制作されたのが、後白河院のサロンです。
『前九年合戦絵巻』も、原本はこの頃の成立。

187 :日本@名無史さん:2005/04/20(水) 17:31:45
>>186
絵巻物が成立した当時の鎧で描かれているのでしょうか?

188 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/20(水) 18:34:39
逆です。当時の風俗が反映されていない方がおかしい。
少なくとも、10世紀当時のものとは考えられません。
近世以前に描かれた絵で、対象とした時代を再現しようとしたものは、皆無
と言っていいのでは。
『伴大納言絵巻』自体、『宇治拾遺物語』と同一原拠と見られ、内容も史実では
なく、後世成立した説話を題材にしたものです。

189 :日本@名無史さん:2005/04/20(水) 20:33:24
>>188
前九年の役の時の甲冑はどのようなものだったのでしょうか?

190 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 06:11:21
東北の人々の武装がどのようなものだったのか、
どのような社会でどのような軍事組織を持ち、
どのような戦術をつかったのかよく解る本はないものですかね。
蕨手刀の影響で日本刀が生まれたという説は、
素人ながら、説得力があると思う。
初期の、毛抜型太刀は刀身は直刀で、柄と刀身の境界のところが主に大きく反っていて、
まさに蕨手刀の形ですよね。
段々、刀身の部分が反っていく。
その変遷を見ていくと、まさに日本刀のルーツは蕨手刀と思える。
律令体制下の軍は弩を装備する部隊もいたそうですし、
これもいわゆる、武士とはかなり違う感じですね。
古代から中世の武具の変遷とか、軍事組織の変遷というのを理解する本があれば教えてください。
感じとしては、律令体制の正規軍が廃止された後に、自警団的に発生したのが武士だと思うのですが、
前者と後者の間にどのような関係、変遷の歴史があるのか、
ちょっと歴史好き程度の史学の素人にはわかりません。


191 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 08:27:29
>自警団的に発生したのが武士

かなり古びた説です。

192 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 09:53:14
>>191

他人のカキコにちゃちゃ入れるだけで、自説をもたない(書けない)典型的2ちゃん厨

193 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 23:39:37
はい、私には自説などありません。
学会の常識にのっかってるだけです。



194 :日本@名無史さん:2005/04/23(土) 00:51:12
>>190
>東北の人々の武装がどのようなものだった
残念ながらわかりません

>蕨手刀の影響で日本刀が生まれたという説
定説化していますね



195 :日本@名無史さん:2005/04/29(金) 12:23:01
まぁ単純に刃を片方にした方が作るのが
簡単だってのがあったらしいよ。

斬るときも片方でしか使わないし。

196 :日本@名無史さん:2005/05/01(日) 22:21:52
でも実戦では必ず刃こぼれが生じるから両刃の方が実戦的な気がする

197 :日本@名無史さん:2005/05/02(月) 10:58:31
いや実践に使うと刃こぼれを修復するのに研ぐから
片方のみの方がいいわけ。

両刃だと両方研いで強度的に摩耗とか。
実際切るのは一方向だからメンテナンスも一方向だけで
済む方がいいし。

そのへん包丁が両刃じゃなくて片刃なのと理屈は同じ。

198 :日本@名無史さん:2005/05/03(火) 04:45:47
諸刃(両刃)の剣というは相手だけでなく自分にも刃が向いているわけで・・・

199 :日本@名無史さん:2005/05/03(火) 22:04:28
単純に片刃で充分だからだろ

200 :日本@名無史さん:2005/05/03(火) 22:37:29
>>193
自分は>>190氏では有りませんし、煽りでも無く、単純にスレの流れを見て、
現在の主流の学説に興味を持った者ですが、
現在での学術研究で、主流とされる武士の成り立ちと言うのはどんな形ですか?

201 :日本@名無史さん:2005/05/03(火) 23:01:36
地方下りの下級貴族が在庁官人として土着化し、地元の武装勢力を配下においていく。
それら在庁官人も国司級の貴族と主従関係を結んで大樹の陰によっていく。
乱暴な区分けだと在庁官人クラスでは藤姓秀郷流や平姓高望流なんかが多いね。清和源氏は国司クラス。

202 :日本@名無史さん:2005/05/03(火) 23:50:13
>201
>>193氏かな?レス有難う御座いました。大筋では自分の認識と同じでしたね。
>>191で、”自警団的に発生したのが武士”と言う部分を否定されて居たので、
てっきり↑で書いて有る

>地元の武装勢力を配下においていく。

の”地元武装勢力”の存在自体を否定されている新説が有り、それが主流なのかな?
と思い質問させて頂きました。

203 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 15:27:24
摂関家全盛期は日本の暗黒時代

204 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 21:58:43
わりと勝手に自治やってるけどね・・・。名目だけ摂関家や寺院にして
税金レスなとこが多かったそうな。

205 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 22:19:46
それが荘園だろ。国衙領だと国司がケツの穴の毛まで抜いて行くから、毎年名義料払っても荘園にしたほうがマシだったのだろう

206 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 22:25:41
実際は、国司は名目だけらしいよ。把握率が低くて検知とかもしてないからいい加減。
遠国になればなるほどそうだから、みんな畿内とかを任官希望してたとか。
逆に在地官僚と結託してそのまま帰ってこない連中も多い。

207 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 04:17:53
>国司は名目だけ
>遠国になればなるほど

摂関・院政期はむしろ受領の時代。
遠近は関係ない。熟国かどうかが重要。

208 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 06:43:13
僧兵が悪さして手におえなくなったから武士と組むしかなかった。
でも武士は僧兵よりもヤバかった。

209 :日本@名無史さん:2005/05/14(土) 00:56:24
左翼を押さえるために宗教と手を組んだらいつのまにかカルト宗教に支配されていた某自民党と同じ

210 :日本@名無史さん:2005/05/14(土) 09:46:09
何と幼稚な‥‥

211 :日本@名無史さん:2005/05/29(日) 00:54:13
え?

212 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 21:21:14
健児の制 ほしゅ

213 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 21:55:01
え?

214 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 22:11:34
ホント、よくも恥ずかしげもなく

215 :日本@名無史さん:2005/06/23(木) 06:12:59
許されるのも北面の武士が寛容なうちだけじゃぞ

216 :ノリキヨ:2005/06/23(木) 12:21:11
あ〜やだやだやだ!
この世も勤めも家族も嫌になった。


217 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 00:40:38
969年 安和の変

覚え方:く(9)るしいシックスナイン(69)、アンナ(安和)変になっちゃう(*゚∀゚)=3

218 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 22:26:35
反乱とかは流刑人に任せます。

勝っったら許してやるよ。

本当に将門を倒す藤太がカッコヨスギ

219 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 19:53:42
最近の武士論については、例えば次を見ろ。

「武士=職業的殺し屋」説ってどうよ?
http://mentai.2ch.net/history/kako/993/993371399.html

220 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 09:19:03
生産に寄与しない豚だろ。

221 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 18:11:10


222 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 19:21:17
222ダ━━━<`∀´ >━━━ !!!!!

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