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上杉謙信VS島津義弘どっちが勝つ

1 :日本@名無史さん:05/02/15 11:40:22
共に勇猛果敢だけに川中島以上の激戦となろう。
結果的に軍事の天才謙信の勝利と思われ

2 :日本@名無史さん:05/02/15 11:59:23
戦う場所にもよるけど謙信のほうが強いと思う


3 :日本@名無史さん:05/02/15 12:02:48
鹿児島県人をおびき寄せようとしているのが
明らかすぎて来ないんじゃないか?

4 :日本@名無史さん:05/02/16 01:11:39
いくらなんでも明らかに謙信の勝ちだろ
こんなクソエサで鹿児島人が釣れるかよ

5 :日本@名無史さん:05/02/16 07:43:58
謙信がきたーーーーーー!で島津軍は大混乱。
龍の旗の合図で島津本陣が集中攻撃され、島津軍総崩れ。
いや、島津は強いよ!敬意を表するが・・・
激突してみないとわからんけどね。


6 :日本@名無史さん:05/02/17 09:45:50
釣り野伏せVS車がかり 謙信は島津の釣り野伏せを事前に見破り、壊滅的な
打撃を与えたであろう。

7 :日本@名無史さん:05/02/17 10:22:52
鉄砲の装備率が違いすぎるからなあ。


8 :日本@名無史さん:05/02/17 11:12:58
信玄だったら信長を倒せた?
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1108262931/l50

9 :日本@名無史さん:05/02/17 21:16:37
車がかりは創作

10 :日本@名無史さん:05/02/17 21:35:18
上杉謙信は古い
島津義久は朝鮮の役で鍛え上げた精鋭を持っている
朝鮮軍がシマンズと恐れた戦国最強の部隊だろう
謙信がもたもたしてる間に、あっという間に上杉軍壊滅だろう

11 :日本@名無史さん:05/02/17 21:42:56
信長は義理で動かず理にかなった考えが最強の武器 時代が考えについてこれなかった 

12 :日本@名無史さん:05/02/17 22:18:01
朝鮮の役の主役は島津義弘だけどね 家臣の心をつかむ統率力、戦術の創造力、冷静な判断力がある 大砲に釘などをつめて散弾銃のように使っていたらしい その時の活躍がなければ日本軍は崩壊してそのまま攻めてこられて来たかもしれない危機をすくっている     

13 :日本@名無史さん:05/02/18 20:36:35
謙信ほどの武将なら時代が変わっても鉄砲や大砲をいち早く導入し天才的な戦術で打ち破っただろう。

14 :日本@名無史さん:05/02/18 20:47:31
上杉軍10人VS島津軍3万で謙信WIN

15 :日本@名無史さん:05/02/18 21:17:52
島津義久は我が軍の精鋭は、1人で敵軍の10人に相当すると
石田三成に豪語してるよ
石田三成に関が原の参戦部隊が5000人とは少なすぎると
とがめられたときに、、、。
上杉謙信が神さんに祈祷してるときに、もう首が飛んでるだろうよ

16 :日本@名無史さん:05/02/18 22:02:17
それでも隆景には勝てまへんな

17 :日本@名無史さん:05/02/18 22:16:11
>>14
どうやって勝つの?

18 :日本@名無史さん:05/02/18 22:44:25
関ヶ原では薩摩芋のほとんどは討ち取られて犬死に。
雑兵300ばかりとなって落ちのびた。

19 :日本@名無史さん:05/02/18 23:41:59
>>15
>1人で敵軍の10人に相当すると
こんなこと言ってるから地方大名のまま終わるんだよ。

20 :日本@名無史さん:05/02/18 23:42:58
>>18
退却戦とはいえそのときの奮戦があってこその本領安堵だろう。
犬死にではない。

21 :日本@名無史さん:05/02/19 00:22:48
>>15
豪語しているというだけですごいのか。おめでたいな。


22 :日本@名無史さん:05/02/19 08:30:04
まあ所詮家康に屈して減封、転封された上杉みたいなヘタレと島津とじゃ格が違うけどな。
無能を養子にせざるを得なかった時点で謙信の負け。


23 :日本@名無史さん:05/02/19 09:18:26
なぜ謙信の姉の息子景勝と他家から来た養子の景虎が二分して御館の乱を起きるきっかけを残してるのかが分からない 謙信の軍事力、政治力を教えて下さい また有名な話や人柄など

24 :日本@名無史さん:05/03/01 16:57:46
俺、島津も謙信も両方好きだけど冷静にその時代の軍備や技術向上の差を考える
と島津だと思う。


25 :日本@名無史さん:05/03/01 17:54:59
>>22
島津は僻地。
大勢に影響がないからほっといたと考えられんか?

26 :日本@名無史さん:05/03/01 18:46:50
長年に渡って武田との決着がつかない程度の上杉では、
九州最強チームである島津には勝てんよ。

27 :日本@名無史さん:05/03/01 19:13:03
>>15
島津 関ヶ原 1000人

>>18
1000→押し寄せる敵を撃退→300人程度
敵中突破→数十人となり本国へ帰還

28 :日本@名無史さん:05/03/01 19:14:21
長年に渡って九州一つも統一できない程度の島津では、
戦国最強グループである上杉には勝てんよ。

29 :日本@名無史さん:05/03/01 19:43:23
>>28
元々長尾家は領土が広いので。

30 :日本@名無史さん:05/03/01 21:14:51
鹿児島は日本の外れです。
その先に文化が違う琉球国があります。
中央から見て、参勤交代まじめにやれよ!
刃向わなければ、勝手に遣ってろ!な場所です。

31 :日本@名無史さん:05/03/01 21:24:13
琉球王国

32 :日本@名無史さん:05/03/01 21:38:57
>>27
あんたバカァ?

島津の前進退却とはいうけど、
あれば別に敵中突破とか敵の大軍を突っ切って退却したわけではない、
単に敵兵のいないとこを前に駆け抜けて退却したただけ、
基本的には勝ち戦に酔う東軍は傍観するか石田隊の追撃をするばかれで島津の前進退却は無視してた。
暫くして井伊直政らが追ってきて、それで大分損害は出したけどね。

33 :日本@名無史さん:05/03/01 21:40:56
確かに島津マンセーな小説なんかには
まるで関ヶ原の島津が十万の東軍を突き抜けて退却したみたいに
書いてあるものがあるが、
そんなの良く本気に出来るなあと思う。

34 :日本@名無史さん:05/03/01 22:05:06
でも時代とか鉄砲装備率を見る限りでは
島津の方が上だろう。

別にどちらが名将とか言ってるんじゃない。
鉄砲装備率は戦国の短い時期に飛躍的に上がってて、
大阪の陣の伊達なんて40%の装備率だしさ。
単純に時代が新しく、鉄砲の領内生産などで鉄砲装備率の高い島津の方が上だと言ってるだけ。

もしもまったく同じ条件という土俵にあげたらどちらが勝つかわからない。

35 :日本@名無史さん:05/03/01 22:09:42
>>11
冷静に考えるとそれが正解。
最強は織田、豊臣、徳川。
経済を整え大軍をようする事の出来る武将が最強。
現に島津は豊臣に負けている。

結局、戦争は経済戦。
戦場指揮の技術など
小手先の技量でしかない。

36 :日本@名無史さん:05/03/01 23:32:07
関ヶ原にいた全将兵は、

「明軍20万を5000人で返り討ちにした島津」

に正面からぶつかりたくなかっただけだよ。

必死で島津軍の進路を避けて、背後からならどうにか井伊が追う気になっただけ。

猛将として名高い福島正則でさえ、関ヶ原では自分の部隊に島津への手出し禁止していた。

37 :日本@名無史さん:05/03/01 23:47:15
叩くというより、薩長に対して負け犬丸出しの遠吠えばかり繰り返す気違いが暴れていただけという雰囲気だったが。
薩長を叩きたければもっと効果的な戦術があるよ。

38 :日本@名無史さん:05/03/01 23:50:15
>>36
おーい「5千で20万」とか、そんなのマジで信じてんの?
話しにならねえ。

確かに島津の武名も恐れただろうけど、
前進退却のさい、西軍と戦闘していた各部隊が敗退した西軍部隊への追撃にやっきになって
桃配山の徳川軍との間に間隙があいたのもあるし、
島津と戦う事にあまり意味がなかったというもある。
ましてや勝ち戦であまり無理に動かない部隊と闘う必要もなかったしね。
南宮山で動かなかった毛利、長宗我部、安国寺、長束も攻撃されなかったし。

それでも勿論、島津は凄いと言えない事はないけど、
最初の部分があまりにもデムパ。

39 :日本@名無史さん:05/03/01 23:51:23
「20万を5000人で返り討ち」なんて眉唾
島津兵自身が信じちゃいないだろw
そもそもそれなら逃げる必要ないじゃん

40 :日本@名無史さん:05/03/02 00:05:59
40倍の兵力に勝てるのなら、
関ヶ原の1500の島津勢は6万に匹敵する筈。
なら西軍、勝ってたじゃん。

でも40倍の兵力に勝ったというのは
あくまで弱体の明軍だから。
日本の軍ならそうでもないのかもしれない。


41 :日本@名無史さん:05/03/02 00:20:41
シセンの戦いは狭い範囲に密集した明軍が鉄砲の反撃でパニック状態に陥り自壊 
多くは味方に踏み殺されて圧死(火事の時に逃げようと入り口に押し寄せて死んじゃう
ってやつね)したっつーのがホントのところじゃないか。

いくらなんでも明側の死者3万数千に対して島津側の死者0人(物の本によると死者1名)
っつーのはキルレシオ比が異常すぎる罠

42 :日本@名無史さん:05/03/02 00:42:01
>>41
だからあ。そういう数字を額面通りに信じるのが異常。

実際は島津の兵力は1万。
明軍は明軍3万4千+朝鮮2千。
そして死者は明、朝鮮軍が数千〜1万程度。
島津軍については不明。

勿論、これでも滅茶苦茶凄いと思うのだが。
「20万」なんて無茶苦茶。慶長の役で明が投入した兵力は16万。
しかも3軍に分けていたのに20万なんてどこから出てくるのか。

43 :日本@名無史さん:05/03/02 00:46:16
あと慶長の役の明軍は徴兵された者の多くが、
嫌がって山奥に逃げたのを山探しまでして捕まえて
無理矢理、軍に入れて朝鮮に送ったそうで、
士気は最低だったとか。

島津の反撃にパニックを起こして勝手に壊走してのも無理ない。

44 :日本@名無史さん:05/03/02 01:18:19
つーか、こんなスレは三戦向きだ。
学問的にレスすると>>35が正しいのだが。

45 :日本@名無史さん:05/03/02 01:26:20
島津を追い払った。
大友の国崩し二門が最強だと思うが。

46 :日本@名無史さん:05/03/02 01:48:57
>>42
死者0〜1名っつーのはちゃんとした記録だよ。

47 :日本@名無史さん:05/03/02 02:16:16
明と朝鮮はヘタレだけどね。

48 :日本@名無史さん:05/03/02 02:43:41
>>46
ちと信じられない。

49 :日本@名無史さん:05/03/02 03:02:49
打者の打率と同じ。謙信の勝率は10割。従って、謙信の勝つ可能性が高い。

50 :日本@名無史さん:05/03/02 07:57:43
芋くさいとかいわれそうだが
長篠のように白兵戦を行なわず一斉射撃で相手が自壊すれば死者0は可能でしょう

51 :日本@名無史さん:05/03/02 09:04:16
謙信軍の方が強いと言う人達は謙信の詳しい情報を知っているのだろうか 詳しい理由を書かないと話にならないですよ
まずは謙信について教えて下さい。軍事、政治、人柄など

52 :日本@名無史さん:05/03/02 09:57:27
馬鹿だね
まず、実数がどうであるのかなんて無関係に、当時の日本人にとって島津軍は

「5000人で明軍20万を返り討ちにした最強軍団」

以外の何者でもない。
島津の部隊がそういう目で見られていたのは事実であり、
福島ほどの猛将が避けて通る程の存在だった事には変わりない。

次に、明軍の実数は3万どころではない。
支那では自軍の兵力を数倍に自称する事を「号する」と呼ぶが、
あまりに実数からかけ離れると嘘が露骨なので、ほとんどの場合2〜3倍程度に留めておくものだ。
日本共産党の大会に集まったと主催者側から発表される人数が、いつも係数をかけたように警察発表の数字の約2.5倍である事と同様の事情だろう。
つまり明側が20万と号していたのであれば、最低でも7万人は居た筈となる。
朝鮮に渡った島津軍は1万だが、全員が歴戦の末でも一人残らず無傷で明軍を迎え討ったとは考えられないので、
交戦時の兵力は5000程度とみなすのは妥当だ。

53 :日本@名無史さん:05/03/02 10:16:03
謙信は軍略の天才。相手の装備や地形の把握など当たり前。それゆえの生涯無敗。
島津芋ごときじゃ3分で討ち取られて終了だろ

54 :日本@名無史さん:05/03/02 10:26:44
>>48
鹿児島県に行ったときに地元で発行してた資料に載ってた。
最初、その数字を見たとき、俺もちょっと信じられなかった。
まあ普通の戦闘でなかったことは確かだろうなと思って41のような
ことを想像してみたんだよな。

55 :日本@名無史さん:05/03/02 10:33:23
5000人で明軍20万を返り討ちにした最強軍団が
なんで関ヶ原であそこまでボロボロに討ち取られるの?
相手の明が弱すぎたんだと思うけど

56 :日本@名無史さん:05/03/02 10:40:22
激弱の明軍よりは日本の弱小大名のがまだ強い罠

57 :日本@名無史さん:05/03/02 10:45:11
関ヶ原にいた島津勢は1500人で、明軍よりも精強な東軍約10万(実数)が殆ど無傷で島津に兵力を集中可能な状況だからな。

58 :日本@名無史さん:05/03/02 11:40:22
最初に無理矢理自分でこうありたいという
意図する方向に理論を導かない。誤りの元。
第三者としてみる。先入観で勝手に方向付けるのは誤り。

59 :日本@名無史さん:05/03/02 14:50:44
おいおい、ここは日本史板なんだから三戦板みたいな程度の低い解釈は止めよう
よ。謙信の強さなんて殆どが造作じゃないか、第4次川中島の戦闘すら判別でき
無いような状態で最強とはおこがましい。

謙信は戦闘より寧ろ死後の蓄財の多さこそ褒められるのじゃ無いのか?

60 :日本@名無史さん:05/03/02 16:28:50
確かに川中島については信用性のある史料にとぼしい
謙信から家臣にあてられた感状が数点残ってるので
恐らく実際あった戦いなのだろうが、規模や被害などは正確にはわからない
(まぁ詳しくわかるのがマレだが)
戦闘の流れにしろ啄木鳥や車懸かりが利にかなわず、創作である可能性が高い
ただ武田側が一門筆頭の信繁をはじめ名のある武将が討たれている
一門が討たれてることから推察するとかなり武田側の陣形が崩され
押されているのは想像に難くない
軍鑑の記述どおりではないにしろ戦術は上杉、戦略は武田の勝利をいう
評価は妥当だと思うが


61 :日本@名無史さん:05/03/02 20:13:41
謙信が雑魚なら手取川の合戦で情けない負け方をした
柴田勝家率いる織田家の軍団は雑魚中の雑魚ですな。
織田方の雑魚武将達
安藤守就、稲葉一鉄、氏家直通、金森長近、斎藤利治、佐々成政、柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉(途中で退却)、原正茂、不破光治、前田利家
信玄が雑魚なら三方ケ原の戦いで
糞ひねり出し自害寸前まで追い込まれた家康はウンコにたかるハエということになりますな。

62 :日本@名無史さん:05/03/02 22:12:55
謙信軍が強かった理由マジレス

・為影の代から内乱続きで兵が戦慣れしていた
・日本海側最大の港であった新潟港を領有し、佐渡金山の収入で豊かであった
・長槍で編成された足軽
・家臣団の力が弱く、謙信に権力が集中したため、謙信が思うように兵の編成できた
・信長軍や武田軍以上に残酷。皆殺しが当たり前。敵に恐れられる対象となった。(一向宗相手ばかりであったのもあるだろうが)


63 :日本@名無史さん:05/03/02 23:57:19
川中島以来、信玄は謙信との戦闘を嫌がってるよね。
後北条氏も逃げ回ってる感じだ。

64 :日本@名無史さん:05/03/03 07:03:32
謙信>>>>世論の壁>>>>>島津軍>>>>明軍>>親分子分の壁>>朝鮮軍

65 :日本@名無史さん :05/03/03 09:40:04
>>60
>第4次川中島の戦闘すら判別でき無いような状態で最強
を批判してる訳で川中島を否定してる訳じゃない。また信繁達が討たれたのは1
回の戦闘かどうかも判別できない。更に言えば「甲陽軍鑑」では信玄、謙信の衝
突は5回でなく12回とかになる。
>>61
手取川の合戦に至っては殆ど造作、織田軍が軍事行動をしたのは確かだが上杉軍
と衝突したような形跡は見当たらない。七尾城が陥落し援軍を止め撤退しただけ
の事だろう。

66 :日本@名無史さん:05/03/03 15:24:27
大体、謙信と義弘じゃ時代が違うだろ。

大日本帝国と北朝鮮が戦争やるようなもんだ。

67 :日本@名無史さん:05/03/03 17:04:14
>>66
大日本帝国が勝つじゃん

68 :日本@名無史さん:05/03/03 17:28:50
統率する大将も大事だが部下なしでは語れないよね

69 :日本@名無史さん:05/03/03 21:17:15
島津と上杉が戦うなら鍵になるのは鉄砲じゃないかい?
貿易と鉄砲製造能力を備えた島津には上杉謙信といえど勝てないと思うけどな。
地形学を利用した戦術で上杉が島津を引き込んで戦闘を行うことが出来れば
勝機はあるかも知れんけど、経済力が違うだろ。

70 :日本@名無史さん:05/03/03 23:01:57
同時代の島津貴久と上杉謙信を比べるべき

71 :日本@名無史さん:05/03/03 23:39:37
だからもしもって話しだろ。
上杉家(長尾家)って謙信以外ぱっとしない気がする。
それに比べれば島津は、貴久、義久、義弘、歳久、家久・・・・ばか殿がいない。
総合力から言っても島津は強い。
しかも九州での戦は全て寡でもって衆を倒す戦ばかり。戦略的には?でも戦術的には
相当な力を持っていたのでは?
ま、謙信も八千人程度の軍隊を運用するのは上手かったみたいだけど、大軍をうごか
した小田原城攻めは見事に失敗してるよね。

72 :日本@名無史さん:05/03/03 23:47:22
島津の戦った九州にはあの鍋島直茂のいた龍造寺と立花道雪がいた大友家がいたんだよ。
しかもそれだけの相手に覇権を確立する寸前までいってたんだから、信州さえまともに
平定出来なかった謙信より義弘の方がやれたと思うよ。
でも、謙信が美濃辺りにいたら信長もあそこまでやれなかったかもとは思うけど。

73 :日本@名無史さん:05/03/03 23:49:29
島津は、貴久、義久、義弘、歳久、家久・・・・ばかだらけ

74 :583:05/03/04 00:11:11
島津は兄弟それぞれ、多少の不協和音はあったにしても、
そろって家を盛り立てたイメージがある。

それに比べて謙信は兄を廃して家督継承。
一門譜代、代々にわたる抗争を抱えて孤軍奮闘だったイメージがある。

75 :日本@名無史さん:05/03/04 00:23:39
まあ、島津にわけの分からん薩摩弁でまくし立てられたら、
どんな武将も引いてしまうと思うぞ。謙信とて例外ではあるまい。

76 :日本@名無史さん:05/03/04 00:52:55
謙信にも信玄、氏康、一向宗という強敵がいたが

77 :日本@名無史さん:05/03/04 01:12:07
薩摩隼人って、何人だと思われるんだろう・・・。

78 :日本@名無史さん:05/03/04 04:04:39
そもそも謙信に領土的野心が無かったんだから
信州平定もクソも無いと思うが

79 :日本@名無史さん:05/03/04 04:48:10
むしろ島津の勝利の方が胡散臭くないか?
放蕩禿げと肥満の熊が勝手に自爆して負けただけだし
戦国の名将と評価された信玄や氏康と互角以上に戦いあった謙信の方がはるかに凄い
あと国力的にも
越後>>薩摩国+大隈国だよ

80 :日本@名無史さん:05/03/04 05:04:31
島津は戦国大名としては、他に類を見ないくらいしっかりした資料が多く在るの
だが。
それに比べて上杉には越後軍記・越後治乱記・上杉軍記・川中島合戦辨と講談物
が史実の様に扱われしまいには領土的野心が無かった等々、史実を歪曲する発想
が主流となる始末ですな。

81 :日本@名無史さん:05/03/04 05:20:36
島津は他に類をみないくらい正史から捏造入ってるしな。
だから朝鮮に行った時に同胞いっぱい引き連れて帰って来るんだよ。

82 :日本@名無史さん:05/03/04 12:35:23
>>81
お前、他に類をみないくらいの捏造挙げてからしゃべれや。

83 :日本@名無史さん:05/03/05 03:05:23
>>80
>それに比べて上杉には・・・
ってまるで軍記物か捏造史料しかないかのような書き込みっぷりだが、
上杉家の古文書群も、上杉氏、長尾諸氏それぞれに中世から近世まで、
原形のまましっかり箪笥に保管されて、
古文書学の研究には欠かせんし国宝指定だけど。

史実を歪曲する発想が主流って、そういう著書しか読まんの?


84 :日本@名無史さん:05/03/05 09:37:10
古文書学の研究、国宝指定の書物は謙信に興味を持っている人しか見ないですよ
普通に売っているのですか国が保管しているところに行って見るのでは
世間、一般の人が知っている情報しか知らないのでその本に載っている内容
詳しく教えて下さい


85 :日本@名無史さん:05/03/05 19:52:37
「島津家文書」も国宝。
頼朝からの書状など、鎌倉時代に記されたものからあり、膨大な量らしい。
古文書の中ではかなり信用度が高いって聞いたけど、捏造だらけの国宝なの?

86 :日本@名無史さん:05/03/08 19:52:18
軍神とまで言われた男と、たかだか鬼止まりの男とを
比較すること自体無理ある

87 :日本@名無史さん:05/03/08 20:34:41
誰に言われたの

88 :日本@名無史さん:05/03/08 21:12:39
上杉謙信 武力100
島津義弘 武力84

武将風雲録より抜粋


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜終了〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

89 :日本@名無史さん:05/03/08 21:46:30
謙信の方は生涯戦績大体わかるみたいだけど
義弘はどうなの?謙信並の戦績なの?
ググってもでてこない・・・

90 :日本@名無史さん:05/03/08 21:47:10
うわ〜三戦臭ぇ もうちょっとレベル高い話しなよ

91 :日本@名無史さん:05/03/08 22:57:31
上杉軍は、伝説とか幻想につつまれすぎてて、実態がイマイチつかめないな。まあ、寒い地方で戦えば勝てるんじゃない。

92 :日本@名無史さん:05/03/08 23:39:36
>>89
島津はポコポコ負けてるよ

93 :日本@名無史さん:05/03/09 00:29:55
>>91
君の資料調査能力がないだけ

94 :日本@名無史さん:05/03/09 14:45:47
上杉謙信よりも島津義弘よりも、生涯無敗の朝倉宗滴こそが最強と言ってみる…

95 :日本@名無史さん:05/03/09 15:09:22
>>93
そんな風にいうなら君が解説してよ

96 :日本@名無史さん:05/03/09 15:30:46
偉そうなだけの人だから
聞くだけ無駄だよ

97 :日本@名無史さん:05/03/09 15:33:33
>>95=91?
93じゃないけど伝説とか幻想につつまれすぎてて、って意味不明なのだが・・・
別に一次史料じゃなくても、
新人物○来社とかムックとかのデムパ系ばかりでなく、
上杉関係なら高志書院とかの本を読んでみるべし。
・・・にしても不毛なスレだなオイ。上杉も島津もどっちも好きだ。

98 :日本@名無史さん:05/03/19 12:53:28
謙信の墓ってどこにある?
まじで。

99 :日本@名無史さん:05/03/20 01:22:09
一対一なら義弘だろ。強いと言っても謙信は女性なんだから。

100 :日本@名無史さん:05/03/20 02:11:56
謙信の墓は何処にあるか聞いてるんだよ!

俺を誰だと思ってるんだ!?

101 :日本@名無史さん:05/03/20 02:20:53
米沢じゃねーの?棺おけ掘り起こして移したって聞いたけど。

102 :日本@名無史さん:05/03/20 10:19:40
>>100
誰?

103 :日本@名無史さん:05/03/21 00:59:40
だ か ら 俺だっての!

舐めると本気でヤバイらしい
じゃあ明日米沢な。コネェ奴は飛ばすぞ!

104 :日本@名無史さん:05/03/21 02:58:07
島津って結局立花道雪にも宗茂にも勝ってないから
いまいち九州最強と思えないんだよな〜

志賀親次にも追い払われてるし



105 :日本@名無史さん:2005/03/21(月) 17:27:57
領土的野心がない謙信はそもそも最強でもなんでもない

106 :日本@名無史さん:2005/03/21(月) 17:39:36
>>104
今の大相撲みたいに、一人勝ちばかりが目立って
ガチンコ勝負が延々と続くような時代が少ないって事か

107 :日本@名無史さん:2005/03/21(月) 21:42:58
俺が勝つ。

108 :日本@名無史さん:2005/03/24(木) 04:04:05
必ず最後に愛が勝つ…

109 :日本@名無史さん:2005/03/24(木) 05:07:08
謙信は野戦をほとんどしてない。
だから弱い
これが事実

110 :日本@名無史さん:2005/03/24(木) 07:32:37
上杉謙信に野戦を挑むような勇者は、そもそもあまりいない。


111 :日本@名無史さん:2005/03/24(木) 07:44:22
ここは三戦板ですよね!
対戦相手として島津義弘を挙げているところなんか、三戦板住人のスキルの高さに感動です!!

112 :日本@名無史さん:2005/03/24(木) 12:53:26
>>108
ならば、上杉の勝ちだ


113 :日本@名無史さん:2005/03/24(木) 13:03:56
>>112
直江兼継か

114 :日本@名無史さん:2005/03/24(木) 18:01:31
ばっきゃろーーーーーーーーーー!
謙信が負けるわけねえだろーーーーーーーーーーーーー!

俺は謙信の生まれ変わりだから良く分かる。

115 :日本@名無史さん:2005/03/28(月) 20:22:30
頭が痛くなるスレだな。

116 :日本@名無史さん:2005/04/17(日) 15:48:21
島津姓の奴はどいつもこいつもデカイ。
遺伝なんだろう。
だから島津が勝つんじゃないかな。

117 :日本@名無史さん:2005/04/17(日) 16:08:52
>>114
で、今回も女性ですか? 今回は男性ですか?

118 :日本@名無史さん:2005/04/17(日) 16:13:11
>>116
プロレスじゃないからw

119 :日本@名無史さん:2005/04/17(日) 17:11:21
島津は佐竹ぐらいじゃない?

120 :日本@名無史さん:2005/04/18(月) 09:50:12
佐竹ってK−1の?

121 :日本@名無史さん:2005/04/18(月) 13:15:46
私も島津姓ですが、やはり身長は高い(181cm)です。
家族も大きい人が多いです。

気になって「島津 身長」でググってみたところ、
いきなり190cmの人や172cmの女子バレーボール選手(もちろん島津姓)がヒットしてびっくりですw

島津=巨人族!?

122 :日本@名無史さん:2005/04/18(月) 17:37:10
>>121
隼人の国だからかな

123 :日本@名無史さん:2005/04/18(月) 22:38:57
おそらく謙信の方が強い。でも戦争が長引いて謙信が死ねば間違いなく
島津が勝つ。

124 :日本@名無史さん:2005/04/18(月) 22:41:55
毘沙門天の生まれ変わり=上杉謙信
上杉謙信に一票!
島津は所詮 九州の田舎大名

125 :日本@名無史さん:2005/04/19(火) 10:34:00
九州=田舎って言うのは現代人の先入観でしかないよ。
だいたい、鉄砲やカメラみたいな最新機器が真っ先に導入されてる。

126 :日本@名無史さん:2005/04/19(火) 10:55:57
現代において田舎なんだよ

127 :日本@名無史さん:2005/04/19(火) 11:27:37
いくら謙信が強いといっても所詮は女性の身、一対一なら間違いなく島津義弘が勝つ。

128 :日本@名無史さん:2005/04/19(火) 11:38:07
>>126
現代においても島津の本拠地は九州ですか?

129 :日本@名無史さん:2005/04/19(火) 17:27:47
九州は戦国時代当時は最先端地域だけど北陸は今も昔もド田舎じゃん。


130 :日本@名無史さん:2005/04/19(火) 17:38:40
しかも北陸は冬は兵動かせない。

131 :日本@名無史さん:2005/04/19(火) 17:53:51
北陸(笑)

132 :日本@名無史さん :2005/05/21(土) 17:01:20
上杉軍は冬季に何度も関東侵攻をしている
積雪3メートル以上の三国峠ごえをして。
九州が最先端?
鉄砲が最初に伝わったのが種子島であるにもかかわらず
すぐに近畿が生産の中心地になったことからみても後進的ですね

133 :日本@名無史さん:2005/06/06(月) 19:31:19
義弘、三州統一の頃から敗走ばっかじゃん

134 :日本@名無史さん:2005/06/07(火) 22:39:55
初めは島津も頑張るが、
最後は総動員令ラッシュで謙信の勝ち。

135 :日本@名無史さん:2005/06/08(水) 00:33:09
最初は謙信が押し捲るが、生理痛で生理休暇に入っている間に島津が逆転勝ち。

136 :日本@名無史さん:2005/06/13(月) 01:11:27
上杉謙信に決まってるだろ

137 :日本@名無史さん:2005/06/13(月) 02:19:37
関が原で見られたように、上杉が仕掛け島津が凌ぐ展開しか考えられない

138 :名無しさん:2005/06/13(月) 09:24:00
義弘に勝たせてやりたいが、やっぱり謙信だろうね。

139 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 07:34:20
関が原のことでひとつ島津が中央突破した後本多忠勝と井伊直正が追撃した
追撃の途中で島津は釣り伏せを使って追っ手を食い止めてそのときの鉄砲の弾で井伊は
負傷したその傷がもとで井伊は無くなるのだがな。
 そもそも、島津は東軍につくことを家康にいうてたんだが、なぜか無視されてやむなく西軍についた
んで自分からは責めずに攻めてきた敵のみを打ち払ってたんで兵が減った西軍が破れたあと
島津だけが残って中央突破した(家康を討ち取ることも可能だったからな)そのことをわからせた上で
退却したんだよ。
 それから島津の兵がすくなっかったのは当時の藩主に島津義久が兵を送らなかったからだよ。

140 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 14:41:35
>>139
だから何?

141 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 18:57:22
だから、漏れは島津が勝ったと思う

142 :日本@名無史さん:2005/06/20(月) 01:32:37
謙信って第三者の立場で横槍いれてたから優位だったわけで
別に格段に強いわけではない。

島津はそこが違う。
義久が当主になった時なんて回り敵だらけだぞ。
そんな不利な状況から九州のほとんどを制覇した島津が上杉より下なわけがない。
だいたい上杉って圧倒的大軍に勝ったこともないしね。
島津は何回もある。

143 :日本@名無史さん:2005/06/20(月) 02:02:48
↑無意味だなw
まず時代がずれるし、社会情勢やら戦闘形態やら地域状況やら、
なにかと違いがありすぎる。直接戦う状況でないとはっきりはわからない。
大鵬と北の海と千代の富士と貴乃花と朝青龍の誰か強かったかなんて、
それぞれ同時期に存在して直接対決しないとわからないと同じように、
はっきりいって意味はない。柏戸は昔の時代に生まれたからガッツも
あったろうが、現代に生まれていたらハングリーなんて無いだろう。

144 :日本@名無史さん:2005/06/20(月) 02:17:02
毛利に勝った大友を撃破した島津。
やっぱ強いのは島津だろ。

上杉って謀略に優れた奴が敵だと戦わずに撤退させられる羽目になってるから
毛利にも勝てないと思う。
毛利が隣だったら尼子みたいに内部分裂がもっと酷いことになってたんじゃないだろうか。

145 :日本@名無史さん:2005/06/20(月) 02:25:56
義弘はタイマンも強い。
伊東家の槍の達人、柚木丹波守を一騎打ちで討ち取ってる。
槍をもてば戦国最強の男ではなかろうか。
130足らずで3000に突っ込んで死なないんだからめちゃくちゃ強いよ。

146 :日本@名無史さん:2005/06/20(月) 23:57:53
上杉は謀略をしないで、真っ向から立ち向かうタイプだから信玄に苦労した
信玄は謀略を駆使してたたかうタイプで野戦も強かった・・
島津は竜造寺、大友などを激破した、漏れ的には秀吉軍を激派してくれればよかったんだが(w


147 :日本@名無史さん:2005/06/21(火) 00:00:56
九州って立花道雪や鍋島直茂がいたし、高橋紹運もいたな、そうい紹運の子供が立花宗茂だったな・・

148 :日本@名無史さん:2005/06/21(火) 19:27:42
>>146
じゃ秀吉最強ということで。

149 :日本@名無史さん:2005/06/21(火) 23:12:15
>>148
 秀吉って劉邦てきな人物だと思うのだが・・秀吉自身が優れてたのではなく家臣がすぐれててんで
そこから吸収をしたりして強くなったと思われ。
 というか小牧長久手だと秀吉は結果的には負けてるし。

150 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 16:38:46
そういや、謙信って正攻法で責めるのが得意だったんだよね
 敵が退却してることろを襲うとかしなかったらしいね

151 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 21:30:39
トップと家臣が優秀でないと何事もうまくいかないぞ=天下は取れないぞ

152 :歴史博士(自称)つーさん:2005/06/24(金) 22:47:43
やっぱり上杉だろ・・・
ってゆうか竜造寺VS佐竹の方がもっと解からん。
みなさんはどう思う?。

153 :日本@名無史さん:2005/06/25(土) 03:14:44
>>144
毛利に勝ったとは?大友と小競り合いをやったのは、毛利勢の中の
弱兵である小早川の一部で隆景が周りの国人と契約を結ぶ以前のことで
あろう。しかも大友が大内より強かったのか?島津も攻城戦、籠城戦に
実績があれば、毛利勢に対抗できるかと思うが、また九州で吉川勢に
勝った事があればの話。
中国勢は、運もあったが(古来兵法にある運も実力のうち)秀吉勢に
負けておらん。特に吉川氏は不敗。上杉等は問題外。
野戦中心の東国が攻城籠城戦の多い西国と比べても仕方が無い。
戦術に差がつきすぎる。野戦は勢いで幾度は思うよう行くこともあるが、
常ではない。野戦重視の徳川思想は東国の後進性であるが、
所詮秀吉が武田の軍法を評し田舎者の合戦の仕方(城攻めの拙劣)と
川角三郎左衛門が記している。

154 :日本@名無史さん:2005/06/26(日) 01:37:59
>>153どこが小競り合いだよ。
数万以上同士が1年近く戦って小競り合いか?
どっちにしろ九州の毛利領が大友領になったんだから大友の勝ちじゃん。
どう解釈すれば毛利の勝ちになるんだ?
多々良浜の戦いなんか大友の大勝利だろ。
それいがいにも大内輝弘を使って背後を脅かしたり謀略面でも勝ってる。
よって毛利は大友より弱い。

155 :日本@名無史さん:2005/06/26(日) 02:01:03
とはいっても、毛利は九州が本拠じゃあないしな。
イギリスのノルマン領や日本の任那を見ても。
離れ地を維持するのは難しい。

156 :日本@名無史さん:2005/06/26(日) 07:11:32
>>154
数万以上が1年近く小競り合いを繰り返した。

普通1年も戦してるといいかげん腹もすくし、飽きるだろ?
だから毛利勢はわざと帰国した。

山内氏は東照大権現様より土佐の国を下賜されたが
君はこの事を以って山内某が権現様に勝利したと主張するのか?

大内輝弘は御味方に惨敗し、切腹に追い込まれた。
これ即ち毛利方の大勝である。

結論。毛利は大友に大勝した。



157 :日本@名無史さん:2005/06/26(日) 10:46:38
戦においても経済の点に関しても謙信が上だと思う。
某ゲームの影響で戦馬鹿なイメージが定着してるが、それはとんでもない。
毎年1万近い軍勢を率いて関東に出陣していたのだから軍を維持するだけでも
かなりの経済手腕が必要。
越後では謀反が相次いで起こったりしたが、これは難民や移民を受け入れ爆発的に
人口が増えた事や国土の広さから言えば仕方がない。ちなみに新潟の地名で他の県とやたら
同じ地名が多いのはその地名から移民してきたからである。
謙信が死亡した直後、越後には二万七千両もの金が蓄蔵されていたが、
金山の開発は景勝の代になってからであり(金山の開発がされてたとしてる甲陽軍艦は江戸期に書かれた創作書物)
父の為景時代は赤字だった事から、その経済手腕はかなりのものだったと思われる。
ちなみに、そのうちの二万両は一五九八年に秀吉に上納金として巻き上げられたヽ(`Д´)ノウワァァァン


島津が強いって言っても総合的に勝つのは無理じゃ?

158 :日本@名無史さん:2005/06/26(日) 14:09:46
あの当時は戦の仕方も大事だけど、装備が一番決めてだったんだろうね。
 島津の鉄砲隊はたしか、雨でも攻撃ができたはずだしね。
 貿易の中心的な都市をもってた秀吉がかなり有利だろうがね。漏れ的には秀吉は統一する
前はよかったが、統一したあとがいかんから好きじゃない。
 
島津は明とかそれ以外の国と貿易とかしてたから結構財力あったんかも

謙信も金山をもってたから強かったのかもしれませんね。信玄みたいに使いまくったわけではないから


159 :日本@名無史さん:2005/06/26(日) 18:21:32
>>154
1年近く?永禄4年大友軍が門司城を攻撃隆元、隆景がこれを
破った。以来、永禄6年毛利軍は、松山城を攻めた大友軍を撃退。
将軍義輝の命で和睦し、大友は輝元に義鎮の娘を嫁すことを約す。
しかし永禄10年に講和が破れた。

「永禄12年4月下旬毛利軍九州遠征し、5月1日立花城攻撃大友軍と
交戦し、5月3日立花城陥落、籠城兵全員を助命。5月18日には、
大友軍の首級数百をあげる。
10月11日大内輝弘、大友義鎮の後援を得、秋穂に上陸、
翌日山口に乱入、高嶺城攻撃。10月15日守将を残し、夜、
立花城を撤退。10月20日元春兵1万を率い山口に向かう。
10月21日立花城守備兵撤退。10月25日元春、大内輝弘を破る。
輝弘自刃。10月28日元就、長府本陣撤収、厳島神社に戦勝を謝す。」

どこが、毛利より強いんか。しかも毛利が尼子勢や四国遠征時に
こそこそとちょっかいを出してくる。毛利の強敵は尼子勢であり、
大友や長宗我部等はさほどの敵では無い。

160 :日本@名無史さん:2005/06/26(日) 19:09:56
毛利厨って必死すぎ。
どう見ても大友の勝ち。
元就が凄かったのはわかるが領地取られてるんだから負けじゃん。
途中まで押してたかもしれんが立花道雪の活躍で一気に逆転。
戦略でも領地失ってるんだから大友の勝ち。
領地失ってなんで勝ったことになるのかね?

161 :日本@名無史さん:2005/06/26(日) 20:09:24
>>160
改易された大友が明治以後まで残った毛利にどう見れば勝ったといえるんだろうか・・・

162 :日本@名無史さん:2005/06/26(日) 21:03:45
>>160
領地取られたってどこが?
九州に毛利領は存在しなかった訳だが

大内の遺領を大友が抑えてたのを、毛利が侵攻して、北九州の沿岸押さえたのが事実なんですが

163 :日本@名無史さん:2005/06/26(日) 21:24:19
高橋氏や秋月氏などの筑前の諸豪族は、大友と大内の両方に従属してて
大内滅亡後に独立しようとし、毛利に後ろ盾頼んで、それで毛利が介入した。
大友にすりゃ、博多を含めた勢力圏の維持の為に毛利と戦ったんであって、
毛利からすりゃ、瀬戸内や響灘の制海権を確保する為、下関の対岸の門司を押さえた。
筑前の豪族は大友の影響下から脱却したかった。
それだけの話。

164 :日本@名無史さん:2005/06/26(日) 22:04:49
なんか毛利厨が凄い見苦しいんですけど。

165 :日本@名無史さん:2005/06/26(日) 22:06:28
10年近くも兵を送っといて何も得るものが無かったヘボい毛利。
まるでベトナム戦争のアメリカですね。

166 :日本@名無史さん:2005/06/26(日) 22:08:47
↑10年もずっといねぇよ。
とか揚げ足とらないでね。

167 :日本@名無史さん:2005/06/27(月) 00:38:32
領土失ったとか適当デタラメ言い出して、論破されたら見苦しいとか痛すぎる
何も得るものなかったとか、門司や北九州沿岸押さえて、瀬戸内や山陰の日本海航路の水運を独占してるんだが

ま、144=154=160=164=165=166が知識不足ひけらかしただけだったか

毛利厨と言ってるが、こんなの厨じゃなくても知ってる程度の九州の初歩知識だがねぇ

168 :日本@名無史さん:2005/06/29(水) 22:53:14
ここは不識庵謙信様と維新入道義弘様のスレです

169 :日本@名無史さん:2005/06/30(木) 01:25:32
不識庵謙信と法号やらきちんと書いてるのに

どうして義弘は“維”新入道義弘なんだ?


170 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 12:10:08
惟新ってどう読めばいいのだ
「いしん」か?

171 :これは無駄かな:2005/07/16(土) 06:11:57
謙信の政治力は既出だが、他にも二度に渡る上洛による莫大な出費やたびかさなる関東遠征の支度に相当な資金を要する
その問題には諸役の免除や特産品の「あおそ」の奨励など臨機応変な良政で切り抜けた
なかでも「あおそ」は経済を大きく助けた。
ちなみに柿崎景家も斉藤などと並び4人の奉行として謙信政下の内政面で活躍してるんだよ

172 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 07:47:12
イメージだけなら謙信だな。なんすっげぇ強ぇーって感じで、そういう噂だよな。
島津?ああ、徳川の仲間に入れなくて焼け糞で逃げた奴らだね。運が良かったねって噂だよな。

173 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:08:12
上杉って言う奴らは歴史を知らない糞だ

174 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:13:33
島津は地方競馬、上杉は中央競馬。
なんせ頼山陽の詩で有名だしね。

175 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:51:37
島津は、アジア・ヨーロッパまで睨んだ世界の島津。
上杉は、日本の本州の一地方の大将。

176 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 01:06:16
日本の、ちまちました戦にさほど興味のなかった島津義弘と、
必死になって戦国時代を戦ってた上杉ぐらいを比較したところで、
スケールが違いすぎ

177 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 01:18:21
ここ初めてだけど
俺が学生時代の教科書の1560年代、旧大内領が毛利領になってたな。(九州)
いろいろ本あさってみたがあんだけ肩入れしてて何も得るものが無かったんだから
毛利の負けだと思うな。

>大内輝弘は御味方に惨敗し、切腹に追い込まれた。
>これ即ち毛利方の大勝である。
別に大友からすれば大内の蜂起が失敗しようが毛利を追い払えれば
大友の戦略目的は達成なわけでしょ。
なんで毛利の大勝利になるの?

178 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 01:54:32
>>177
北九州の地方豪族と大友の争いに毛利が介入しただけ。
>159にもあるよう立花城も陥落させたわけで、しかも、
籠城兵全員を助命にしてあげたのに、どうしてからむのか?
大友も、尼子ぐらい強ければよかったのに、残念としかいいようがない。

179 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 09:20:50
はい、ここも旧大内領は毛利領になってます。
ttp://www5.airnet.ne.jp/samrai/war_jp16c/idx/idx1570.htm
あれで毛利領にならないんなら
織田領なんかも穴だらけの勢力図だよね。
あと上杉の本庄繁長、武田の木曽なんかもそうなるな。
尼子11カ国の太守。竜造寺6カ国の太守なんかも突っ込まなくちゃね。

>大友も、尼子ぐらい強ければよかったのに、残念としかいいようがない。
ん?〜
小早川隆景がいながら多々良浜の戦いで負けてんじゃん。
それと記憶が曖昧だが吉川元春もいたよね?
素直に立花道雪が勝ってたとなんで思えないのかね?
大内輝弘を使って背後を脅かしたり、尼子と挟撃したり戦略でも五分以上に
展開してるじゃん。
んで結局九州から撤退。
一体毛利は九州戦で何か戦略目的を果たしたのか?

180 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 09:33:03
>大友も、尼子ぐらい強ければよかったのに、残念としかいいようがない。
ほんとに歴史って、かってな解釈ができるもんだな。
まあ>>1が謙信の勝利と思われとか言ってる程度のスレだしな

181 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 22:26:56
>>179
立花城が、陥落しているのに、どうして大友勢が勝ったといえるのか?
多々良浜の戦闘で毛利勢の損害数は?立花城が陥落していることから、
毛利勢への打撃といえるほどでは無いであろう。
大友勢の負け戦を、あたかも勝ったようにいうとは。しかも籠城兵の
命を助けてあげたのに、毛利勢が撤退した後に、こそこそやるのは、
戦略というより、恩を仇で返し姑息な手段で、この程度の豪族に大名を
名乗る資格はあるのか。のち大友が島津に破れ豊後の住民が、奴隷として
肥後あたりで売られた責任は大友氏にある。領主失格で毛利とは関係ない。
毛利は、北九州の地元豪族の要請で遠征したまでで、四国の河野氏救援に、
長宗我部を撃破し、隊を引き上げ、その後長宗我部が、四国を統一した
ので毛利は長宗我部に負けたことになるのか?馬鹿らしい。

182 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 00:08:56
島津が強いなんぞ、片腹痛い。
九州などという地方戦では勝者かもしれないが、秀吉、秀長が軍を
率いて攻め込むや、多少の抵抗はしたが、当主の義久が頭を丸めて
「ゆるしてください」と陳謝するしまつ。
信玄や氏康(晩年には織田とも)と戦っていた謙信と比べると、
島津が勝った相手は戦上手とは思えない連中ばかり、釣り野伏せなんて
この3人からみたら幼児レベルの戦術。

183 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 01:37:29
>>179
毛利は北九州で大友と戦った結果、北九州沿岸を押さえ、瀬戸内から日本海までの航路を確保しました
これにより対尼子戦で瀬戸内の警固衆を投入できるようになり、長期的な籠城も可能となった為
月山冨田城への長期包囲が出来た

毛利の主目的はあくまで、山陰の尼子

そして毛利が筑前の占拠経営を考えてなかった証拠に、毛利の禁制はおろか
秋月氏などの反大友勢力に対してすら、一切の指示等を出していない
ここが織田や尼子と決定的に違う、所領安堵の朱印状なぞないからね
この違いが理解できないから、教科書やショボいサイトを根拠に持ってくるのだろう

対して大友は、北九州での毛利との争いの結果
元来、大友氏族であった高橋氏や、秋月氏、立花氏などが次々に反乱し
結果、支配体制が崩壊し、再構築せねばならず、立花道雪や高橋鎮種の派遣となった

この対毛利によって日向・肥前・肥後・筑後に対する影響力の低下を招き、島津・龍造寺の台頭の一因となった

184 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 18:29:03
>>183
おめーよぉ
何万もの兵を動かすだけでいくらの金に兵糧消耗するとおもってるんだ?
毛利厨はほんと痛いな。
真面目に戦ってないわけねーだろ。
ここは毛利厨の巣窟か?
>大友も、尼子ぐらい強ければよかったのに、残念としかいいようがない。
こんなこといってるレベルだもんな。
おまえの方こそ勉強してきな。

185 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 21:42:37
>>184
なら実際どのぐらいの金を必要としたのですか?
当時の毛利家の収入から言えばどのぐらいを占める割合の軍事費ですか?
妄想だけじゃない明確な数値を教えて下さい

186 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 22:38:18
はぁ?
いくらかかったかなんか知るわけねーじゃん。
お前って、あんだけの大軍何年にもわたって動かして財政にまったく
影響無かったって考えるてるの?
現在で20000万人動かすとして、一人一日食費1500円として3億円。
10日で30億。一ヶ月で90億。一年で1080億。
めちゃくちゃ金かかるよな。
もうここレベル低すぎて相手してらんない。
大友とは真面目に戦ってないなんてよく言えるよな。
せいぜい脳内妄想ではそう思ってな。
さよ〜なら〜

187 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 18:05:22
>>186
はぁ?
当時の毛利の話してるんだが?
なに現代の話してごまかしてんだよ。

>もうここレベル低すぎて相手してらんない。

>せいぜい脳内妄想ではそう思ってな。
>さよ〜なら〜

勝利宣言出して逃亡ですかw

188 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 18:59:51
>>184
何万の兵を動員とは?

つか、対尼子戦には、日本海側の水運の確保は必須だったんだが
尼子は、山陰を押さえ日本海航路を抑えてるので、勢力が弱まったとはいえ
毛利にとっては、まだまだ強力だったんだよ
だからこそ門司城などを占領し、瀬戸内から日本海側への水運を押さえ
尼子が独占していた日本海航路を封鎖する必要があった

で、>>184は真面目に戦ったなどと抽象的な言葉でしか語れないんだけど
毛利も尼子も大友も、真面目に戦ったに決まってる
その戦略的目的、政治的意図はどこだったかを述べてるんだよ
こんなのも理解できないの?アホ?

大友は対明貿易の中心地、博多の絶対確保
毛利は日本海航路から瀬戸内までの西日本における水運の独占
これに大内の遺領問題が絡んでの戦争だったんだよ

189 :188:2005/07/25(月) 19:14:05
ていうか、184の相手してる人は結構いるぞ

誰も毛利が真面目に戦ってないと書いてないし
177=179=184は
>いろいろ本あさってみたが
と書いて

>あんだけ肩入れしてて何も得るものが無かった
>あれで毛利領にならないんなら織田領なんかも穴だらけの勢力図だよね。
>小早川隆景がいながら多々良浜の戦いで負けてんじゃん。
>それと記憶が曖昧だが吉川元春もいたよね?
>素直に立花道雪が勝ってたとなんで思えないのかね?
>尼子と挟撃したり
>毛利は九州戦で何か戦略目的を果たしたのか?
こんな低レベルなレスしてるから突っ込まれるんだろ
いろいろ漁った本の程度が知れる

190 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 22:51:46
もう手取川とか神憑かってるもの。
釣り野伏とかそんな次元の戦じゃないもの。

191 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 04:28:18
攻め戦なら謙信 防戦なら義弘
軍神や鬼神も不得手はある。

192 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 09:21:54
>>191
攻め戦
攻め戦
攻め戦

193 ::2005/07/27(水) 13:03:53
義弘は朝鮮でわずか6000の兵で50万の敵を粉砕した。

194 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 13:17:11
上杉謙信>真田幸村>鈴木重秀>本多忠勝>伊達政宗>柿崎景家>島津義弘
くらいだろう。

195 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 13:29:33
伊達政宗は入らないだろ。
芦名や佐竹などのローカル大名には勝っているが、
上杉との対戦(松川の戦い)では3,500対20,000(伊達)で完敗している。

196 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 14:01:40
上杉謙信の騎馬隊など、昔ながらの戦法は天下一だと思う。
ただ、あまりの勇猛さのせいで、巨視感がないと思う。実質、局所では勝ち続けたけど、武田信玄には攻め入られるばかりで、信玄が死ぬまでじわじわと侵食されたわけだし
その点、義弘は明軍に対してやったような、釣り込みによる大砲での一網打尽や機を見ての総攻撃など、機を見て、罠を張り、効率よく戦意喪失させる、戦全体をみる巨視感がある。
話題にちらほら出てるけど、関が原の捨てかまりやホウシ戦陣など鉄砲と人をうまく使う点{徳川武将が負傷させられてるし}など、人を大事にしすぎる謙信にはできないと思う。
戦は仲間を如何に死地へ置けるかが重要だからね{孫子等曰く}

197 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 14:07:13
>>194 忠勝は関が原の退け口で義弘に打撃受けて敗退してるよ。
榊原や井伊も負傷させられてるし。それに幸村は守勢だけだし。父の昌幸ならいい勝負しそうだけど
柿崎出す時点で、>>194は戦での武将の価値知らずがわかっちゃうよ。柿崎は猛将だけど武将としてそこに名を入れられるような「将」じゃないし
・・・・・謙信より鈴木重秀のほうが守りで短期決戦なら強いぞ。義弘も短期の守勢相手なら負けるだろうし

198 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 14:12:21
引き分け。
最初は上杉が勝って、
後半は島津が勝つ。
でも、戦死者は島津のほうが多いと思う。

199 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 14:16:43
>>193そーいえば島津は朝鮮の武将に「島津勢は強敢にしてけい敵」って
いわれてたっけ。

200 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 14:21:33
>>195
>上杉との対戦(松川の戦い)では3,500対20,000(伊達)で完敗している。

ww その数字、あり得ないよ(笑)

上杉の大本営を鵜呑みにしてるだけだろw ソースは何?
福島の地元作家の電波小説や「奥羽永慶軍記」じゃないことだけ祈るよ。




201 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 15:00:03
>>200
軍勢の数は軍記ものではいい加減なものが多いが(奥羽永慶軍記もそうかも)、
本庄繁長 vs 伊達政宗で政宗が完敗したという基本構図は変わらないだろ。
景勝が後詰するまでもなかった、弱い武将ってことさ。
ちなみに、「武辺咄聞書」では5,000対15,000になっている。

202 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 15:18:32
>>201
そもそも根本的に誤解しているよ。君の「完敗」という判定が一体どこから出てくる
のか意味不明。ま、「アンチ政宗君」ということは分かるが。

>景勝が後詰するまでもなかった、弱い武将ってことさ。
 これは君の主観な。

関ヶ原時の家康と政宗との約定は、「上杉を牽制せよ」「積極的に兵を動かすな」に
尽きる。厳密に言えば白石城攻略も、家康的には出過ぎた軍事行動となる。
で、福島城の場合でも、伊達は本庄繁長をちょっと叩いてみたというレベルに留まっ
ている。(わずか1日で撤退) このとき伊達の本陣の陣幕を奪ったという話は嘘だ。

結局のところ、上杉と伊達は全面的な戦闘は行っていない。が、政宗と家康は戦略目的を
成功させた。上杉は会津にまんまと封じ込められ小山へも出れなかったわけだ。

203 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 20:11:18
現実を認めない伊達厨必死だなwwww

204 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 21:22:47
>>203
現実も何も、関ヶ原戦の対伊達に関する上杉方の資料は「古老咄」の類。
「…であったそうな」という間接話しなのが特徴だ。よって却下ねw

205 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 23:10:54
>>203
伊達正宗が侵略しようと動くのを、結城{次男}が見張ってて、手が出せなかったという話を聞いたことある。
正宗が侵攻しようとしたら、詰問の使者が・・・・って。
まあ、小説家{二、三人}の話だから「古老咄」同様、あまり信用できるものじゃないけどね

206 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 23:18:43
松川の戦いだか、福島城だかで、(上杉が誇らしげに)
伊達本陣の陣幕を奪ったという話を喧伝しているが、
実は伊達成実の小荷駄隊のものだったりする事実。

207 :海音寺:2005/07/28(木) 12:00:54
いずれにしても、どちらも戦国史上稀有の武将です。ただ、どちらが勝つかとなれば
なれば武田信玄もいったといわれるように謙信は日本一の大将。
戦上手の点では右に出る人はいません。
現代のようなハイテク装備があるわけではないし、当時の銃の多さで判断でき
るものではありません。
長篠は謙信に通用しません。謙信が一蹴するでしょう。

208 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 12:15:35
謙信の場合歴史に残るような激戦経験しとるの
絶体絶命の死地から抜け出すというような戦経験しとるの
川中島なんかガキの陣取り合戦に見えるがノン

209 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 12:30:45
>>207
まだ長篠の勝因が鉄砲だの言っている香具師がいるのか?

しかしそれ以前に背後で領地を脅かすような外部からの侵略や内紛が起きれば元も子もないな。
局地戦の戦術以前の問題だよ。

210 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 14:43:46
>>207
論点違いかもしれないが、島津の強みは、銃と言う新しい兵器を最大限に活かす戦法・兵を育成したことにある。
繰り返しになってしまうが、関が原はじめ、朝鮮での兵と銃の使い方は類を見ないものがある。
また、謙信公の戦い方は騎馬による所が大きい。騎馬においては信玄でも敵わない、まさしく日本一の武将だと思う。
だが、騎馬に対しては、島津、特に義弘公は銃を使って有効な迎撃方法を開発している。
その陣を崩すには如何に日本一の騎馬軍団でも、相当の犠牲が必要になることと考えられる 。故に、同数なら得手不得手から義弘公が勝ち、圧倒的な差が無い限り負けないと考えられる。

誤解ないように言いたいのは、対義弘公の場合、得手不得手から謙信公は不利なのであって、武将としての能力や戦略眼は同等以上だと思う


211 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 15:37:02
>>202
言ってることが支離滅裂。
松川の戦いは関が原の戦いから二十日あまりも経過してるよ。
それが上杉への牽制だなんて、お笑いだ。
火事場ドロボーをしようとしたら、本庄に負けて引き上げただけだろう。

政宗は、大阪の陣でもかつて景勝の家臣だった真田信繁に三千対一万で
負けている弱い武将だ


212 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 16:40:19
>>211たしかに、騎馬鉄砲隊の弱点をつかれたからね。


213 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 17:15:40
>>212
漏れ、その辺詳しくないんだけどよければ教えてくれない?

214 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 17:20:06
>>211
>言ってることが支離滅裂。

 何が支離滅裂なわけ?

>松川の戦いは関が原の戦いから二十日あまりも経過してるよ。
>それが上杉への牽制だなんて、お笑いだ。

「松川の戦いが」ではなく、伊達と最上連合の上杉への牽制は、「小山会議」
辺りですでに外交的に十分な効力を発揮していたわけだよ。上杉は、背後で
伊達・最上が圧力をかけたために、結局、身動きが取れなかったよね? 

>火事場ドロボーをしようとしたら、本庄に負けて引き上げただけだろう。
戦後の福島城、松川などの戦闘は、伊達、上杉双方にとって「小競り合い」
の意味合いしかもたない。そこまで「完勝」と断定的に論じるなら、まず
ソースを出すのが筋だけど。できるの?

家康のそもそもの「お墨付き」の意味は、「兵を動かさず、国境線に上杉を釘
付けにすれば加増する」というもの。だから、戦後の総攻撃は明白な約定違反と
なり、家康の不興を買う行為へ直結する。
これが、この戦闘で伊達側が淡泊に引き上げている理由だ。

>政宗は、大阪の陣でもかつて景勝の家臣だった真田信繁に三千対一万で負けている弱い武将だ
 双方痛み分けだな。この戦いで、政宗の本陣が総崩れにでもなって、甚大な損害でも被ったわけ?

感情でものを発言しない方がいいね。アンチ君w?

215 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 18:07:00
>>213伊達政宗が考えた、戦法で馬を走らせながら鉄砲を撃つという戦法。
東北は名馬の産地だから、伊達家の特権だな。この戦法は長篠の戦いで
信長が鉄砲の三段撃ちでこれを倒したことをヒントに考え出されたという。
大阪の夏の陣ではこの戦法で後藤又兵衛などの首を挙げた。
が、この後続が真田幸村。幸村は兵を茂みに隠し、騎馬隊をひきつけ、
(接近戦にさせた、)槍で一斉につかせたので、騎馬鉄砲隊は
退却を余儀なくされた。
政宗は雪辱に燃えた。しかし、幸村はもう松平忠直らにたおされ、
戦国の世は終った。騎馬鉄砲隊は完全に消滅したのである。

216 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 18:17:23
>215
レスサンクス!流石幸村だな。

217 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 19:01:57
>>214
> 「松川の戦いが」ではなく、伊達と最上連合の上杉への牽制は、「小山会議」
>辺りですでに外交的に十分な効力を発揮していたわけだよ。

なになに、「松川の戦いが」ではなくだって、
ほう、君は松川の戦いが、牽制の意味での戦いでないと認めるのかい。
それだと202での、松川の戦いは牽制で「福島城の場合でも、伊達は本庄繁長を
ちょっと叩いてみたというレベルに留まっている」というのと矛盾するね。



218 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 19:10:05
こいつ、なに興奮してんの?

219 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 19:15:34
>>217
詳しく

220 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 19:24:13
話割るようですまないけど漏れの祖先、謙信公と関係あったっぽいw
今新潟県在住なんだけどなんか本家の方々の話聞くと漏れの家は元々上越の方にあったらしいが
上杉家が米沢に移るとき、山形(当時は羽州か)を嫌って脱走したらしいw今は下越在住。
中世以前って地方領主が勝手に家来に苗字を与えたりってあったの?

221 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 20:16:20
長井秀和風に言えば、201のソースは、おそらく

『奇策〜北の関ケ原・福島城松川の合戦』(著者:風野真知男)

間違いない(藁)


222 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 20:20:46
>>220
>漏れの祖先、謙信公と関係あったっぽいw
謙信公に尻でも突かれたのか?

223 :謙信大好き:2005/07/28(木) 20:50:15
だが、島津義弘の強さはそれ以上だと思う。強すぎる!

224 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 20:57:11
関ヶ原で日和見してただけの義弘。

225 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 01:44:42
>>224
もともとは東軍派。でも、鳥居と篭城すると言ったら、断られ、仕方なく西軍に属したってのが通説。
本多正信の陰謀という話もある。
まあ、そうじゃなきゃ、いくら強豪とは言え、家康が西軍に属した島津家に加増なんかしないと思うのだが

226 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 03:21:47
>>217
>なになに、「松川の戦いが」ではなくだって、
 ほう、君は松川の戦いが、牽制の意味での戦いでないと認めるのかい。
 それだと202での、松川の戦いは牽制で「福島城の場合でも、伊達は本庄繁長を
 ちょっと叩いてみたというレベルに留まっている」というのと矛盾するね。

何ら矛盾もない。文意が錯綜して激しく勘違いしているようだが、福島城の本庄繁長と
伊達の「小競り合い」が松川の戦いなんだが、意味、理解できてる?
 大体ソースが上杉の「古老咄」とは…(w)

「本庄様があまりに強かったので、さすがの政宗殿も、家康様がこの戦いをどう思われるか、
帰路、大変気になさっていたということじゃ」と上杉の古老が回顧するあれ、だw

とりあえずは、この「福島城下の松川の戦い」における家康や伊達側(せめて「治家記録」)
のソースも出さなければ、不公平というものだ。ま、ないわけだから、出しようもないがw

要するに、家康が会津から反転した時、上杉景勝は家康をついに追撃できなかった。
これほど効果的な「牽制」もない。目的は達成されたわけで、10月時点の「松川の戦い」など
どうでもいい一掃討戦に過ぎない。OK?w

227 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 10:28:09
>1の馬鹿の狙いは、
義弘と無理やり比較することで、
謙信の凄さを強調させたいんだろうが、
例えて言うなら、
ヒョードルと永田さんを比較して、
天才永田さんが勝つと思われとか言ってるレベルのスレなんだよな。。
呆れるというか、むなしすぎる
 

228 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 15:25:40
>>222
なんか苗字が長尾なんだよw
謙信公の苗字(まあ謙信の時代からかなり昔だろうが)頂けるぐらい
昔はガンガッタのかなあw<漏れの先祖

229 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 17:55:11
>>228
話しから推測すれば上田長尾家辺りの分家の末裔なんじゃない?
ちなみに上田長尾家とは長尾政景の一族
もしくは明治時代に勝手に名乗り始めたとか

230 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 19:43:51
長尾いっぱいあるよなあ

でも何か話残ってるなら教えてよ
教えてー

231 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 19:55:33
漏れの同級生も長尾だったな。まあ、上田長尾はセクース大好きだから多いんだがな
乞食でさえ長尾姓w

232 :228:2005/07/29(金) 22:25:31
>>230
漏れがリア厨のときに親父から昔は上越で武士やってたって聞かされて、最初漏れも嘘だと思ったけど
本家改装した時に地下から槍やら刀やらぞろぞろ発見されたらしくて地元の民俗資料館に寄贈したとか。
詳しい話はその資料館に行くなり本家に行かないと分からんがとにかく足軽ではなかったらしい。部将とまでは行かないと思うがw
江戸時代は地元の大地主(新潟県は巨大地主王国)に寄生して小銭をためたらしいが今は没落w

233 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 22:58:45
他のスレにも似たような話しがあったが、伊達厨は何故に必死なんだ??



390 :日本@名無史さん :2005/07/30(土) 06:22:01
>>231
>陪臣ではあるが本庄繁長もすごい。
 関が原の戦いのあと20日ばかりして、信夫郡福島城に2万の兵力で攻め込んで
 きた伊達軍に対してわずか3,500の兵で迎撃し、これを撃破(松川の戦い)。

その記述は「軍記物語」のものであり、勝敗の経緯は全部「ガセネタ」だな。
10/7、伊達勢が相当な人数で来襲してきたのは事実だが、この戦闘で上杉・
伊達は、鉄砲の猛烈な撃ち合いだけで終了。伊達勢はたった1日で北の目城へ引
き上げている。9月末日に家康から「徳川軍大勝」の書状が届いており、以降の
長期対陣での攻撃は軍律違反(いうまでもなく伊達と上杉の私戦ではない)とな
る恐れがあると判断した形跡がある。10月8日、伊達政宗は家康に福島城攻撃の
報告を直接注進している。同日部下には総力戦をしたいが、大御所の手前できない
のでとりあえず鉾を収めておくという意味の文書を残して兵を退いている。

   「今少残多キ様に候得共、時節柄之事ニ候條、…」
               (十月八日 桑折宗長宛伊達政宗書状)

>伊達軍は本陣の幔幕を奪われ、自身も槍を入れられ落命の危機であった。
 (死傷者2,000以上)

 よって、その死傷者数もでたら目であり、政宗本人が「落命の危機」は妄想の類。
 また、上杉が拾ったとされるされるものは、「伊達政宗本陣の陣幕」ではなく、
 車丹波という豪傑侍が、伊達の小荷駄隊のものを拾ったのか捕獲したものだ。
 もし「本陣の陣幕」が残ってるとすれば、見せ物小屋で展示されてる「河童の木乃伊」
 のようなものでしかない。

234 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 04:16:26
どっちかというと、同じネタを何度もふっては木っ端微塵に論破されるアンチの存在が必死に見える

235 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 13:44:19
このスレ自体が必死だからな

236 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 11:57:43
謙信ナウい

237 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 13:07:08
そもそも○○VS○○っていうタイトルのスレで厨房相手に熱弁ふるってどうするんだ?
自分の博学ぶりを自慢する相手がほしいのか?

238 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 17:17:14
「武辺咄聞書」じゃなぁ。ソースはでっちあげ。数字も適当。
いくら2chでも、これじゃ馬鹿にされても仕方ないよ。

239 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 11:55:46
そんなに必死にならなくても.....
戦国時代の合戦などでも、教科書にものっているような戦いが、実は軍記物や
固陋話が出所などということも、かなりあるし、両者が自分が勝利したと主張
しあっている場合も多い。一方の記録では大勝となっているのに、相手方の
記録では小競り合いとなっている場合もある。自軍の大敗は記録したくない
ので、記録から削除したり、扱いを小さくする場合も当然ある。

結局わかっているのは、関が原(9月14日)後に、福島城で本庄繁長と
伊達政宗が戦い(10月6日)、伊達側が撤退したということだけだ。

まあ、結論としては、伊達政宗は関が原戦後に、福島城(上杉領)や南部領に
ちょっかいを出して100万石の約束がパーになったアホな武将でいいじゃん。

240 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 12:02:36
>>234
同意

241 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 12:16:35

>伊達軍は本陣の幔幕を奪われ、自身も槍を入れられ落命の危機であった。
 (死傷者2,000以上)

爆笑。この自己申告したのは確か、牢人の岡野左内だったけ?(笑)
自分は政宗と一騎打ちをしたが、戦っている最中は誰とも分からなか
ったが、あとでそれが政宗殿と知って大いに驚いたという(マヌケな)
逸話を残している。もちろん嘘なのだが。

アンチのこの1行は恥ずかしいよね。悔しいんだろうけど、今後もネタ
にはされるだろうw

242 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 12:22:11
いつの間にか、伊達が「完敗」したという記述が消えているね。>>239


243 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 12:41:55
>>239
>100万石の約束がパーに

このアンチは書けば書くほど、墓穴を掘るってるな。
(感情丸出しで「アホな武将でいいじゃん」などと言ってるし。
 確かに「そんなに必死にならなくても…」w)

ちなみに、家康は政宗に「100万石の約束」など一切していない。
「お墨付き」とされる例の証書は、ただの「覚書」にすぎない。

「覚」とあるから、文書をよ〜く確認してごらん。

「約束」を保証した「領地宛行状」では決してないわけだ。
また、論理が破綻したな。和賀の件になると詳しくなさそうだから、
そこはつっこまないでおくよ。

244 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 14:29:15
んもう・・・仙台は100万都市を超えているんだから昔のことはいいじゃんw
百万円たまる貯金箱みたいに考えているんかねえ?

245 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 14:45:33
必死の伊達厨が多いな、このスレは。
口約束のレベルかしらんが、伊達、刈田・伊達・信夫郡などの7郡を
貰えると思って、ぬか喜びしていたのは事実だ。
だいたい、まだ天下もとってなく、立場が秀頼の代理にすぎない家康が
正式な宛行状など出せるわけがないだろ。


246 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 15:04:03
>>245
>ぬか喜びしていたのは事実だ。

見方が甘いな。この「覚」は、むしろ伊達、刈田・伊達・信夫郡などの7郡
を実力行使されて攻略されるのを心配した家康が、政宗に与えた懐柔策の意味
合いが濃い。「消極的な牽制役」を買って出てくれた伊達の態度にほっとして
喜んでいたのは、むしろ家康の方だね。

247 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 15:23:42
>>246
なるほど、家康に手玉に取られたというわけか。
しかし、福島城攻撃や和賀一揆など、
葛西一揆の時のように暗躍?していたように見えるのだが。

248 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 15:38:04
>>247
手玉に取られる→狐と狸の化かし合い、と言い換えた方がいいね。



249 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 00:08:05
>>248
むしろ田舎大名が一人で馬鹿試合をやっただけであろう。

250 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 06:16:22
政宗が手玉に取られたって見方で正解と思うねえ。
ほぼ家康の傀儡、徳川の犬状態だもの。

251 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 06:22:08
とりえあえず、まとめてみるなw

1.関ヶ原時の上杉軍は「最上より弱かった」。これ事実ね。

最上義光は、1601年庄内討伐(志田修理らを潰走させる)したが、
上杉は全くなすすべなく敗北。あれほど固執した庄内地方約33万石
を一気にかっさらわれている。戦後最上は57万石へ躍進。上杉は
30万石へ転落。庄内での敗北は、家康の心証を一層悪くしたに違いない。
伊達の南下に怯えて、福島方面に力を注ぐあまり、老獪な義光にしてやら
れたと解釈もできる。いずれにしろ上杉は最上以下だw

2.福島城の戦いの「上杉大勝説」は上杉方のデマという事実。

「本陣の陣幕を奪った」のは嘘。岡野左内の政宗との馬上での
一騎打ち(笑)、これはもはや伝奇小説以下の嘘。
(上杉びいきでも、さすがに恥ずかしくて反論もできないだろう)

問題は、「完勝」「撃退」というものの、一切のデータなしに宣伝
していることだろう。
その証拠に「伊達方の名だたる将校級の武将は誰1人として死んでいない」。
伊達にとっては、葛西大崎一揆の宮崎城の戦い以下の「損害」だ。
伊達成実クラスの武将が戦死した、というのであれば、話は別だが。

「松川の戦い」は上杉側の「与太話」だということがよく分かる。

252 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 10:56:21
>>1

せめてどこで戦うか書けよ

それもわからずに

「○○が勝つ」

とほざけるおめえら

最高におめでてえなw

253 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 11:04:59
>>252
じゃあ、川中島と耳川でシミュレートしてみて

254 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 11:32:50
>>251
> 1.関ヶ原時の上杉軍は「最上より弱かった」。これ事実ね。

最上より弱い上杉に木っ端微塵の伊達。(w

255 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 11:53:30
と、120万石の大大名から30万石の中小大名へ転落した上杉が
悔し涙を流しております(w

256 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 12:59:00
越後時代の上杉家も謙信が在陣していない戦は派手に負けてるからね。
小田原包囲後、謙信が先に厩橋へ戻り残された越軍は手痛い反撃を食らってるし。
越中方面でも直江・河田らが一揆勢に攻め立てられ越後国境まで追い払われた事もある。
その翌年から謙信が本格的に関東から越中方面に目を向けた途端、
一年で能登七尾を経て加賀まで達すると。

257 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 17:50:52
朝鮮の役のころ、朝鮮や明は鉄砲を装備していましたか?

258 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 18:31:52
時代が違うんだから比べるのは無理なような

259 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 20:32:53
>>256そうそう。謙信いる時といない時の差がはげしいよね。 合戦時の強さだけで見たら本州最強は(四国含む)謙信。日本最強は義弘だと思う。

260 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 20:50:16
上杉家では、有能な武将が育たなかったのでしょうか?柿崎くん、斎藤くん、遅れて直江兼続くんがいましたが?

261 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 21:34:30
>>256、259
ひとつの事柄だけで決め付けるのはどうかな。謙信のいない越後兵は弱いと言ってるけど
越中攻めは柿崎にやらせて落としてるし、斉藤は圧倒的に劣勢でありながら死ぬまで越中を
織田の猛攻から防ぎきってます。
それと、不思議に思ったのですが、家臣が負けるのは上杉に限らず、どこの家でも頻繁にあったのでは?
もしかして島津は家臣も全員無敗なんですか?

262 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 21:39:18
>>260 あんまり参考にならないけど、徳川家と比べてみると、謙信があまりに有能すぎたせいだと思う。
家康は個人としてすごいけど、部下の力に頼る部分が結構ある。
それに比べて、謙信は戦略や政治に関して部下を当てにする部分が少なかった。宇佐美氏くらいにしか相談などした形跡ないしね。
それと、中央で覇を唱えるよりは、地方で室町幕府のために活動するのが主眼だったみたいだから、武断派以外の政治家を必要としなかったせいじゃないかな。
直江兼続の時代までになったら、その必要性が感じられただろうけど、その前は一応の権威が有効だったから・・・・・・

263 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 21:41:17
       / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
       | >>999 アホ!
       \
          ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                   ∧_∧      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
         ∧_∧      (・∀・)    < >>998 ウンコ!
         ( ゚Д゚ )   /⌒    ⌒ヽ    \_______
        /,  /   /_/|     へ \
       (ぃ9  |  (ぃ9 ./    /   \ \.∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        /    /、    /    ./     ヽ ( ´Д` )< >>997 鼻くそ!
       /   ∧_二つ (    /      ∪ ,  /   \_______
       /   /      \ .\\     (ぃ9  |
      /    \       \ .\\    /    /  ,、    ((( )))  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     /  /~\ \        >  ) )  ./   ∧_二∃    ( =Д= ) < >>996 バァ━━(`L_` )━━キャ!!
     /  /   >  )      / //   ./     ̄ ̄ ヽ    (ぃ9  )  \_______
   / ノ    / /      / / /  ._/  /~ ̄ ̄/ /   /    ∧つ
  / /   .  / ./.      / / / )⌒ _ ノ     / ./    /    \   (゚д゚) 1000?
  / ./     ( ヽ、     ( ヽ ヽ | /       ( ヽ、   / /⌒>  )  ゚(  )−
(  _)      \__つ    \__つ).し          \__つ (_)  \_つ   / >


264 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 22:11:49
謙信の強さの秘密は軒猿ら忍者の使い方じゃないかな。
常に敵を己の掌に入れて戦うべし。傷つく事なし…だっけ。
川中島も八幡原の情報戦においては謙信の放った忍びが一帯を掌握して始まったし。
もっとも謙信本人まで策敵が天才的に上手かったそうだし。
普通の戦国大名とは違い過ぎる。女だし。

265 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 22:42:21
>>261いや越後兵は弱いとは思わないけど、朝鮮での明の大軍相手の大勝利の話を考えると島津義弘と薩摩兵の強さは度が過ぎると思う。狂った強さでしょ。越後兵も相当強いがね。

266 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 00:02:56
>265
その明の大軍とやらもこのスレを初めから読むと眉唾物のようだが。

眉唾物ついでに聞きたいんだけど。
ある騎馬武者を刀で追い掛け回し、背中の母衣を斬り壊すも討ち果たせず
後に敵の大将だったと知らされ、
取り逃がした武将はその時刀ではなく槍を用いていればと悔いた。

この騎馬武者って村上に大敗した信玄だっけ?
慶次に襲われた政宗だっけ?
聞いた事ある人いませんか?

267 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 00:21:08
眉唾どころか明らかな嘘だし

268 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 00:25:21
まあ口伝にしろ、でっちあげにしろ誰の話だっけ?

269 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 05:37:54
武士の逸話が満載された文芸書である「武辺咄聞書」は、吉川英治ばり
の記述で、確かに臨場感があって面白い。三題咄的な「オチ」もつく。
以下が、伊達政宗が松川にて「落命の危機」に陥ったとされるシーンだ。

 >政宗も先手へ加り手を下し戦ふ。岡野は角栄螺の甲にそぼろの立物打て
  猪首になし、猩々緋の羽織に鹿毛の馬に乗、川涯にて引下り防戦。
  政宗能敵と見保て馬を乗付、左内を二太刀切付られ、左内訖と驚振返り、
  丁と切。政宗甲の真向より具足の胸板鞍の前輪迄切付、二の太刀にて政宗
  甲の錣を半分切落し、余太刀にて政宗太刀の鐔本より薙折て右の膝口迄切
  付る。太刀の先にて政宗馬おどけて飛しさり物わかれする。其隙に左内は
  川へ乗込退く。政宗拾騎計にて追掛「比興者返して勝負せよ」と呼れは左
  内ふり返り「眼の明たる剛の者は大勢の中へは返さぬ者そ」と罵りて南の
  岸へ駆上る。

 >武具殊外見苦き故、政宗とは夢にも不知。後聞て残念かりたる由。

読後、ふと疑問がよぎる。岡野左内が戦っていた武将は一体誰だったのか?…と。

270 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 06:31:52
なお、この「武辺咄聞書」には、伊達の陣幕云々の件にも触れている。

 >其後天下太平に治り、諸大名へ将軍家御成有。景勝館へ成御の時は
  公方御馬立杉垣にて縦に立其前に打取にしたる伊達の重代看経幕九曜
  星の幕を打也。政宗は秀忠将軍家の御酒の御相手にて毎度御相伴に御
  供成し故、此由を見て無念たくひもなしとかや。

よほど嬉しかったのかどうか、上杉家では松川の戦いで拾った伊達家の
陣幕を、これみよがしに江戸の藩邸に陳列しており、それを聞いた政宗が
「無念じゃ!」と悔しがったとか何とか…という逸話である。
しかし、秀忠との酒の席である。秀忠:「上杉も大人げないよのう」
政宗:「さもありなん」程度の会話はあったかもしれない。

以上が、>>233
 >伊達軍は本陣の幔幕を奪われ、自身も槍を入れられ落命の危機であった。
  (死傷者2,000以上)

の怪しげなソースということになるわけだ。

271 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 09:18:07
これまで読んで見ると伊達の動きって不自然な行動だな。
二万もの兵を動かして福島城を攻めておきながら
たった一度撃退を喰らっただけでアッサリ引き上げてしまう。
中には内府からの指示を守りたかったから、とする人もいるようだけど
膨大な兵を動かし現地に着いた後「家康にこう言われているから」
といった思考を俄かにするだろうか?

大将が命からがらと言った大敗を喫したとかいう話なら
この中途半端な侵略>撤退も分かる気がするけど。
火の無い所に煙は立たないからねえ…

272 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 09:45:29
>>262
ツッコミ入れてスマンが、宇佐美は国を二分しかけた旧長尾政景派として
一時期対立した時があったので、忠誠を誓ってはいたものの、
謙信が心から信用していたのは直江景綱です(ちなみに柿崎、色部も元長尾政景派)
重要な政治や、特に外交面では景綱が中心となって活動をしています。
それを挽回しようとして宇佐美が独断で政景を暗殺したとも言われてます。
宇佐美が謙信の相談役といったイメージが強いのは、映画「天と地と」の影響じゃないかと。

273 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 12:12:50
伊達本陣の陣幕奪取+一騎打ちは、まあネタなわけで。

274 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 12:48:40
まあ似たような状況にはなったんだろう。

275 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 20:27:11
>>272
宇佐美定満は永禄五年に武蔵上尾原で討死してる、永禄七年に野尻湖暗殺はおかしい


276 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 23:14:04
>>275
その戦死説は、江戸時代に宇佐美定祐が「北越軍記」「越後軍記」を書いたとする説を
前提にした場合であって断言はできない。まあ、どっちもどっちだがね。


277 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 00:42:06
>>276
はぁ?北越軍記と越後軍記が野尻湖で長尾政景と共に死んだとしてるんだけど
宇佐美定祐が宇佐美定行として、名前さえ違ってるのだが

278 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 00:50:34
しかも北越軍記では信濃の野尻湖で定行が政景を船に乗せ、酒飲ませて刺し殺し沈めたとなってる
でも政景が死んだ野尻湖とは越後魚沼郡の坂戸城にも近いトコロにある、同じ名前の野尻湖

北越軍記の著者以前に、内容が違うんだよ

つか北越軍記や越後軍記は宇佐美定祐が著者で間違いない
問題視されてるのは、上杉将士書上や川中島五箇度合戦之次第が、清野助次郎・井上隼人正の著書とされてるが
どこまで宇佐美定祐が関わってるかどうかぐらいだよ

279 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 07:33:47
最上には大敗し、伊達にはおちょくられ。
挙げ句には、戦後、一騎打ちなどの勝手な捏造話をでっちあげ。
謙信の威光が消えた関ヶ原の上杉は、まったく踏んだり蹴ったりですね。




280 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 08:08:12
いやいやw
戦えば連戦連敗、大敗し続けていたのは最上だから。
関ヶ原の結果を知った上杉本隊が会津に引き上げた後安心して出てきただ〜け。
本気で上杉領を切り取ろうと闖入するも鎧袖一触アッサリ跳ね飛ばされた伊達。
その後の行動から壊乱状態で引き上げていったと考えるのが自然ですな。

281 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 08:57:29
>>280
>本気で上杉領を切り取ろうと闖入するも鎧袖一触アッサリ跳ね飛ばされた伊達。
その後の行動から壊乱状態で引き上げていったと考えるのが自然ですな。

上杉必死だな〜(w
日本戦史などの資料を調べてみても、伊達が「あっさり跳ねとばされた」事実はなし。
福島−松川では、岡野左内、斉藤道二(手持ち勢150騎)、本荘らが2回敗走し、福島
城へ逃げ込んでいる。左内にいたっては、霧の中から突然現れた伊達軍に驚愕し、瀬上
で退却。なお、この時の伊達の主力は片倉景綱、茂庭綱元、屋代勘解由。松川で岡野を
叩いた主力が茂庭綱元だ。(綱元を政宗と早合点したのかな?w)

で、逃げ込んだ福島城へ伊達軍が銃を乱射して、北目城へ帰還した。これが福島−松川
の戦闘の経緯であり、伊達は首級300を捕獲。負けたのは上杉軍だよ。
脳内では勝利したようだけどね。

反論OK。お待ちしてます。伊達軍が負けたというソースがあれば、是非聞きたいのでヨロw
(ただし、講談は茶話噺のソースはNG)

で、質問だが、(A)この戦いで戦死した伊達の重臣は存在しますか? それは誰ですか?


282 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 09:43:34
おいおい…今度は日本戦史かよ(呆)
ありゃ日本陸軍が都合が良いようイメージ化した下らんゴミ資料じゃねえか。
他にも軍閥などの思惑が絡んででっち上げられたもんだろ。
>伊達は首級300を捕獲。
どちらかが敗走したとして双方の規模を考えれば首級300じゃ少な過ぎ
とか普通思う筈だがな。
この戦いは上杉に追い払われた伊達軍、主君政宗を置き捨てて我先にと大敗走。
上杉の手強さを知ったので大規模且つ意味不明な軍事行動も一度限りで終了。
これで辻褄が合うっしょ。

283 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 10:11:44
>>282
そう揚げ足とるだろうと思った。しかも突っ込みがそこしかないとは…。
その1冊は、資料の中の例に挙げてるだけだよ。大体参謀本部云々は
この版では、指摘されるまでもなく常識以前のことだし。
そもそも「などの」と念を入れて書いてるよ? 

>この戦いは上杉に追い払われた伊達軍、主君政宗を置き捨てて我先にと大敗走。
 上杉の手強さを知ったので大規模且つ意味不明な軍事行動も一度限りで終了。
 これで辻褄が合うっしょ

まさに、上杉のご都合主義もいいところだ(w 
で、それほどの大敗を喫していながら「戦死した重臣」の部分はスルーですか?w
ちなみに白石城では1日で上杉方を陥落させているが、伊達の名だたる武将の被害も相当数記録
されている。仮に政宗本陣が危機に陥っていたとすれば、相当数の重臣にも死傷者がでて当然の話。
それとも、伊達成実、片倉景綱、指をくわえて主君の危機を見てたわけ?

辻褄は確かにあってるんだが。それは上杉の脳内での話だな。
感情的にならずに、もう少し客観的にこの戦いを語ってくれないかな。
やはりまともなソースはないのかな?

284 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 10:31:49
この時期の成実は身を挺してまで政宗を守るだけの義理があるかねぇ?
成実出奔に対する政宗の処遇は戦国の習いとはいえ非情すぎ。
その一部始終を他の家臣たちも見てた訳だし。
重ねて秀吉の築いた太平な世で伊達もすっかり鈍ってたんでしょ。

大敗走時に重臣達が命を落としてまで主君を守り抜くとは限らないからね。
名だたる武将が殆ど討たれず大将が危機に陥った大敗走なんて掃いて捨てるほどあるでしょ。
川中島の越軍もそう。本当にあったとして手取川もそう。
大坂の陣における家康も見捨てられちゃった。

まあ下らない屁理屈なんかどうでもいいから一つ教えて欲しい。
>で、逃げ込んだ福島城へ伊達軍が銃を乱射して、北目城へ帰還した。
この時の伊達が優勢だったとして結局何がしたかったと思う?
わざわざ関ヶ原が終わった後に城を包囲、落城させるまでも無く
鉄砲打ちかけて退散って…政宗の意図が分からない。
「おちょくった」とか程度の低い煽り文句でなく伊達側から見た都合の良い解釈を拝聴したい物です。
これだけは幾らググっても「侵略の挫折」と評するサイトしかなく、訳が分からない。

285 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 10:44:51
>>284
ふむ。ではお互い煽り抜きにしよう。この政宗の不可解な行動については
諸説ある。で、俺なりにいろいろ推論して見たことがある。それはちと長
くなるので後で書きます。今出先なもので(笑)

286 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 16:51:33
義弘が完全に勝つのは難しいな。
雪降るから。

287 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 17:14:20
挨拶もなしに余所のスレに居座るとは伊達厨も噂に
違わぬ厚顔だわい
でも続けていいよ、面白いから

288 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 19:20:39
>>287
いや、失敬、失敬(笑)。まあ、大目に見てくれていいではないの?島津厨の方々には
申し訳ないが、「上杉」がらみってことでしばらく滞在させて頂く。で、議論再開。

>>284
>この時期の成実は身を挺してまで政宗を守るだけの義理があるかねぇ?
 男気だろうね。そもそも成実は、政宗を「一諸侯の器として終わる君主にあらず」
 とまで称える心酔者。屋代に家族、重臣を皆殺しにされ放火されようが、景勝から
 の5万石の扶持さえ辞退し、最終的に政宗に帰参したわけだ。

>秀吉の築いた太平な世で伊達もすっかり鈍ってたんでしょ。
伊達軍が、いわゆる京文化に毒されて脆弱になったとは思えない。政宗の京都滞在時代
(1591〜1598)は、桃山文化の極盛期に当たってはいるが、伊達家としては葛西大崎
一揆、九戸の乱、朝鮮への従軍とつづき、文禄2年まで相当血腥い時期を過ごしている。
そしてとどめは文禄4年(1595)の秀次事件への連座だ。死罪か遠島という修羅場を首の
皮1枚で、くぐり抜けるが、並の大名なら政治的に抹殺されていただろう。伊達家が中央
の干渉から比較的自由になっていたのは、 慶長期元年〜3年程度。この時期の前後に、
母義子の2度目の出奔(仙台市史の新解釈)、重臣の伊達成実、国分盛重の出奔と、伊達家
はお家騒動のような危機的な状況に陥るが、軍事的な力が低下したわけではない。
事実、関ヶ原前半戦の7/24日の白石城攻防戦では、700余の首級を討ち取り、登坂式部等を
翌25日に一気に降伏開城させたことからも。(その様子は今井宗薫から逐一家康へ報告されたが)

ご託が長くてすまんが、次に伊達政宗の福島城進撃の意図について。本題に入る。
(とりあえず、文が長くなるので一端ここまでw)

289 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 20:37:55
(上記のつづき)
この福島城攻撃に関しては、否定的な見解が実に多い。政宗びいきの研究者ですら疑問符
をつけている。
最もステロタイプに戯画化されたものだと、旧領回復に目がくらみ、猪突猛進に突っ込
んでみたものの体よく上杉に撃退され、尻尾を巻いて無様に撤退。家康からも不興を買い、
「百万石のお墨付きを」自らフイにした1.5流の、近視眼的なマヌケそのものの、ド田舎
大名(w)という事態にすらなるw。しかも、だ。(呆れたことに)この福島城下の戦い
では、実は伊達軍は総くずれ状態に陥るほどの大敗北を喫し、本陣の陣幕は奪われるは、
政宗本人も命からがら逃げ帰るは、不様そのものの大失態を演じていた(らしい)。
これぞ「政宗の暴走」「フラストレーションの暴発」に他ならない無益で馬鹿な進攻で
あろうww、…etc。「図星だろうが!」とアンチが手を叩いて大喜びしそうな
記述。(書いていて苦笑するしかないが)

で、真相はこの通りなのか? 政宗は目先の「百万石」に目がくらんで、10/6
の時点になって、この無謀とも思える福島城攻撃を命じたのか? 
結論からいえば、NOとなる。(つづく。結論まで長いわw)

290 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 02:13:48
>>290
まあ否定的な見解というより単なる失敗と見ている人が殆どだわねえ。
それまでも政宗の戦略自体「ちゃっかり」「小ずるい」ってイメージが強く
成功しているなら見栄えもいいんだが結局失敗ばかりだし。
福島城攻撃もそんな所じゃないかと。
あまりそれ以外の見解にはお目にかかった事がないので楽しみです。

俺様妄想で終始しない為にも出来れば参考にした資料なども合わせて書いて頂けると有り難いです。

291 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 06:30:16
>>290
「伊達政宗の福島城攻撃」を考えるにあたって、政宗関連の市販されている資料は、
郷土史家のものも含め、相当数目を通していると思っている。んで、ここに列挙した場合、
とんでもない量になってしまう(苦笑)また、引用資料は、公平を期し、できるだけ1
次資料に依って立ちたい。当然だが、軍記物語の類は無視。最も重視しているのは
1600年9〜10月の伊達政宗の心理を知る意味で格好のテキストである「今井宗薫宛対
家康11ヶ状の申し出」だ。また(原文で読んだわけでもないが)、「伊達治家記録」
「最上義子の手紙」「伊達政景宛て文書」の要約文書も念頭に置いている。

「伊達政宗の福島城攻撃」へ話を戻すと−(無論徹底的に「伊達サイド」からの論理展
開ではあり、いかなる突っ込みも歓迎するw 文が長くなるので骨子の形で書いていく)

(前提条件)
さて、家康の俗にいう「百万石の恩賞手形」の条件は、上杉を牽制し、南下を防ぐこと。
同時に伊達の軍事行動を厳しく封じ込める意図で「兵を動かさないこと」であり、10/6
の時点で政宗はこの用件をすべてクリアしていた。(白石城攻めの後は最上の後方支援
に徹した)
何も、福島表まで出張って実力行使せずとも、黙っていれば49.5万石は自然に転がり
込んでくる算段だった。こうした政治的な取引にことの他抜け目なく、積極的な口実
にして既成事実化する才能(?)に優れた政宗が、あえて戦後に、軍律違反を犯してま
で危険な侵略行為にでるのは、そろばんを弾いてみれば、このリアリストにとっては
「合わない計算」となる。

また、上杉領内に進攻したものの、体よく撃退され「上杉の強さに舌を巻いた」という
レスがあったと思うが、政宗は上杉軍の頑強さは相当熟知尽くしており(片倉景綱ら
との共通認識だった)、体力バカの体育会系福島正則よろしく、猪突猛進の力攻めが上
杉に通用しないこと等、十分了解していたことも付加しておく。



292 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 06:32:15
(つづき)
(1)では、伊達政宗にとって、この福島城への大規模かつ1日限定の進攻・撤退の意味は何
だったのか? 一見すると姑息な旧領土奪還行為(家康の約束手形が信用できずに出兵+濡れ
手に粟の「火事場泥棒」w)に映るが、名目上は「対上杉追討・掃討戦の延長」としての出兵
であり(→対最上への2次支援)、同時に(この線も濃厚だが)、南部国境で発生させた和賀
兵乱の家康への牽制、攪乱、情報戦の意味も兼ねていたことが伺える。

(2)福島城−松川の戦いは、戦闘で見る限り別に伊達は大敗を喫していないが、上杉方の反撃
も相当凄まじかった。(>>281参照。松川での戦闘で上杉は敗退し、その軍勢は福島城へと撤収。
ここまでが前哨戦。福島城の戦いは接近戦ではなく銃撃戦である。政宗は羽黒山の本陣から銃撃
戦を指揮)

(3)「福島城の戦い」は総括すれば、当初目標であった梁川城、福島城攻略が不発に終わった
まま兵を退いたため、戦略的には中途半端で失敗と解釈もできる。

(4)福島城攻撃を1日で中止した理由(→以下次回につづく。まあ気長に書いていくw)


293 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 17:56:18
と、ここまで、書いてみて、…ふとあることに気がついて相当シラケている。
最初からどうも話しがかみ合わないわけだ。(俺なりに一生懸命になって)ここで
論じている「福島城攻防戦」とは、関ヶ原の一般的な年表に必ず記載されている
「1600年10月6日」の戦役の方だ。実際、アンチ自身も次のように書いているよな?

 @> 関が原の戦いのあと20日ばかりして、信夫郡福島城に2万の兵力で攻め込んで
  きた伊達軍に対して
 A>わずか3,500の兵で迎撃し、これを撃破(松川の戦い)。
 B>伊達軍は本陣の幔幕を奪われ、自身も槍を入れられ落命の危機であった。
  (死傷者2,000以上)

なんとなく、スーっと読める文章で、初めて読んだ人はおそらく「そうだったんだろうな」
「勢い付けて攻め込んできた伊達は、10/6日大敗したんだな」と思うだろう。
俺も、「妙だな?いくら調べても10/6で伊達が大敗したデータがない」と悩んでいた。
ところが、@は確かに10/6の「福島城の戦い」に違いないのだが、ABでちゃっかり
結論がすりかわっていることが分かってしまったのだ。
ここで伊達政宗が「撃破」され、「本陣の陣幕」が奪われ、「落命の危機」に瀕したとい
う記述は、「10/6の松川の戦い」と全く関係ない代物だ。
これ(AB)は、通常の関ヶ原史や年表では完全に黙殺され、まともな研究者から相手
にもされていない文芸本「「武辺咄聞書」のものだからだ。同書はこう記述する。

慶長6年(1601)4月17日に「2万5千の兵力」で白石を発進した伊達軍は、
4月26日松川で激闘。「政宗は岡野左内に斬りつけられてあやうく一命を落と
すところであった」「伊達軍の死傷者は1,300を数えたという」「このとき分捕
られた伊達家の本陣の陣幕は、長く上杉の誇りになったという」

…っておいおい(笑)。



294 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 20:16:22
(つづき)
一言で言えば、「福島城の戦い」は、伊達の掃討戦だった。(家康との約定はすでに十分
守った上で攻略へ出たというのが、政宗の論理)
関ヶ原の終戦が届いたのは、9/29。直江兼続は10/1日には撤退を開始し、
2日には米沢へ帰還してしまった。一気に流れが、上杉不利に展開したため、伊達
政宗は隙をついて仙道方面へ追い打ちをかけたということになる。

(4)伊達は何故1日で「福島城」攻撃から撤退したのか。
史実として判明していることを、重要な部分から順に列挙する。

・敵中深く入り込んでおり、戦闘が長引けば上杉後詰の部隊に、前後から挟撃される
 恐れが出てきたため、一端兵を退くこと。福島城の攻略にも相当日数がかかると判断
 した。(「治家記録」における伊達政宗の見解)
・長期対陣した場合の家康への明らかな配慮があったこと。
 10/19日に発せられた「家康への11ヶ条申し出」に、伊達軍の福島への「出兵」
 についての弁明がある。約定違反を明らかに気にした様子で、(疑いがおありなら)
 今後会津方面へ、徳川方の要人を置いて伊達を監視して頂きたいとのべている。
・伊達方の兵の損傷もそれなりに多かったこと。
・梁川城の内応工作が不調に終わり、梁川城攻撃が中止になったこと。

辺り。(和賀兵乱への情報攪乱説は「IF」の領域でもあり、今回は省略。)
以上、長くはあったが、「10/6日福島城の戦い」に関して伊達サイドより発言させ
ていただいた。なお、島津厨の皆さん、大変、お騒がせしましたm(_ _)m。


295 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 22:05:18
壮大な思い込み乙。

296 :日本@名無史さん:2005/08/08(月) 13:00:39
上杉の嘘ばれちゃったね。

297 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 01:28:14
風俗に行ってボられた、まで読んだ

298 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 05:27:56
>>292
日本戦史というのは殆どが旧参謀本部の捏造、作り話だとの見方が最近強いですよね。
戦争の模様を克明に書き出しているとは言っても
桶狭間、長篠の戦い等有名な戦でさえ完全な捏造、創作である事は今や常識です。
その描写は「こうなる筈だ」「こうゆう見解だと都合が良い」と勝手に描かれた絵空事。
そんな彼等、旧参謀本部が福島城攻防戦だけ真相を書けるとは到底思えません。
そんな資料を一番に持ち出してきても説得力は生まれないと思いますよ?

一方よく叩かれている「武辺咄聞書」ですが
「武辺咄聞書」内で松川の戦いっぽい物語を吐露しているのは
岡野左内ではなく杉原親清でしょ?
杉原常陸介親憲に仕えていた親清が岡野左内から配置されていた方面の模様を聞き、
それをさらに親清(彦左衛門)から物語されたのが「武辺咄聞書」の記述。
そして国枝清軒が1680年編纂して出来上がったものです。
つまり又聞きしてさらに又聞きに又聞きを重ねて生まれたもの。

その又聞きの過程で年月日を勘違いor失念したり、清軒あたりが勝手に書き加えた結果
誤った記載になった可能性は充分考えられます。
しかも関ヶ原の役から100年も経っていない1680年の書物である事。
時の大老酒井忠勝の一番初めに名前が出てくる事。
滅多な大嘘を書いて伊達家からの反駁を呼び、大事になった暁には切腹じゃ済まされません。
物語している親清本人が山形戦争時に親憲からの「羽州最上表の比類なき働き感じ入り候」といった
感状が残っている程の猛将である事。

これら書かれた背景をいちいち鑑みると「武辺咄聞書」の福島城攻防戦を書いた部位が
根も葉もない捏造であるとは考えにくい。
少なくとも「日本戦史」などという絵空事と並列するほどまでは堕ちていないと思います。

299 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 05:32:01
>>298
時の大老酒井忠勝の一番初めに名前が出てくる事。

これじゃ何言ってるか分かりませんね。
時の大老酒井忠勝の名前が一番初めに出てくる事。に訂正します。

300 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 08:24:17
>>298
>そんな資料を一番に持ち出してきても説得力は生まれないと思いますよ?

というか、「武辺咄聞書」の場合、あなたが仰る通り、

   >上杉方の言い分100%で
   >又聞きしてさらに又聞きに又聞きを重ねて生まれたもので、
   >その又聞きの過程で年月日を勘違いor失念したり、
   >清軒あたりが勝手に書き加えた結果、誤った記載

満載の文書だからこそ、「都合が良い」解釈の絵空事ばかりの「日本戦記」に「すら」
完全スルーされ(失礼)、専門の研究者や学者から、一顧だにされない最大の理由だと
思いますよ。



301 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 09:15:43
日本戦史にならスルーされた方が逆に信憑性は増すって話だな。
>専門の研究者や学者
これら先生方がいかに適当な連中である事か。
今まで習ってきた教科書や国民の戦国史に対するイメージは日本戦史によって
毒され続けてきた。歪まされてきた。
今現在でさえその間違った解釈や情報を矯正できない。
日本戦史の存在の為に定着してしまった。
この流れ(教科書作成、歴史ドラマなどの考証)を推進してこられたのが他ならぬ
専門の先生や学者と言われるお偉いさん達。

302 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 09:20:46
日本戦史にならスルーされた方が逆に信憑性は増すって話ですな。
>専門の研究者や学者
これら先生方がいかに適当な連中である事か。
今まで習ってきた教科書や国民の戦国史に対するイメージは
日本戦史によって毒され、歪まされ続けてきた。
今現在でさえ日本戦史の存在の為に定着してしまった
その間違った解釈や情報を矯正できない。

この流れ(教科書作成、歴史ドラマなどの考証)を推進してこられたのが他ならぬ
専門の先生や学者と言われるお偉いさん達。
彼等が今もって尚「日本戦史」を振りかざし福島城の戦を語るならばとんだお笑い種だ。

303 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 10:10:31
大体、「武辺咄聞書」のいう慶長6年(1601)4月26日松川で激闘って話も、相当嘘くさいなあ。
何しろ、政宗の念願だった仙台入府が4月14日だもの。しかも建設の真っ最中。それに5月上旬まで、
岩出山から全住民を仙台へ移動させるなど、頭の中は「新都建設」で一杯。4月16〜18日頃「千代」を
「仙台」と改名したり。

25000人の大軍勢引き連れて、今更上杉と一大決戦する必要性も全くないし。


304 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 12:55:54
前科がある日本戦史は100%否定しきれる。
が「武辺咄聞書」なら所々の落ち度、誇張はあっても大まかになら信じていいかもしれんね。

305 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 15:40:12
>>304
 ちょっと質問なんだけど、いいかな? 「武辺咄聞書」の著者は、
 はっきりと関ヶ原の翌年の「慶長6年4月26日」に、松川で
 上杉と伊達勢が一大合戦を行ったと書いてますね。

 >上杉景勝会津に被籠て不随。政宗とひたと取合、翌年迄の弓矢也。
 >関ケ原御陣翌年慶長六年四月廿六日也。

この戦闘は、その所々の「誇張」「落ち度」ってやつの一例?
この時期(慶長6年4月下旬)にいたって、こんな大戦闘が行われたとすれば、当然、徳川にも
情報は入ったはずだ思うが、これを傍証する資料って、他に何かあるの?
別に煽りではないので、知っている範囲でいいから教えて欲しい。



306 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 16:18:40
上杉厨、ちと苦しくなってきたね。やっきになって「日本戦史」の全否定に
論点ズラそうとしてるけど…。
問題は、以下にある。「武辺咄聞書」で伊達の大敗北と特定している時期が、

   慶長5年10/6ではなく、慶長6年4/26日

としているところ。何故か半年以上も時間差がある。本荘繁長の福島城での威光と武勇を
讃えるため(関ヶ原の福島城の戦役で伊達を撃退という伝説をつくる)には、絶対に
「慶長5年10/6」でなければならないはずだよね? 


307 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 17:02:42
もともと関ヶ原が初陣の酒井忠勝が1634年〜小浜城主時代杉原親清に命じて北の関ヶ原。
つまり会津戦争の実態を掴む為資料収集、情報整理等をさせた事が始まり。
実際戦場にいて、めざましい働きをした杉原親清が仕えている訳だからこの人選は当然と言える。
その四年後に酒井忠勝は大老になる訳だが。
この間杉原以外にも関ヶ原時の生き残りが存命である中、作り話を執筆すると言うのは常識で考えて有り得ない。

杉原親清と生前親交のあった国枝清軒によって校訂、加筆された「武辺咄聞書」は延宝八年。
1680年だから当然酒井も杉原も没した後。

酒井讃岐守忠勝家来杉原彦左衛門(杉原親清)物語に〜で始まる問題の話に
国枝が年月日等ある程度加筆した事実は充分考えられる。
だからと言って杉原彦左衛門(杉原親清)物語る、と言っている以上
そして杉原親清の生涯を考えれば、これを創作として割り切ってしまうのは乱暴この上ない。

対して日本戦史を創作と断じてしまう人がいても不思議な事ではない。

308 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 19:12:42
>>298
>日本戦史というのは殆どが旧参謀本部の捏造、作り話だとの見方が最近強いですよね。
そんな話、初耳だけどな

>桶狭間、長篠の戦い等有名な戦でさえ完全な捏造、創作である事は今や常識です。
これは大日本戦史の捏造ではなく、大日本戦史に採用された資料を基に検証した結果しかないはずだが?
ていうか大日本戦史読んだことないでしょ?二部存在して、一部が史料を基にした解釈、
もう一部がその採用した史料の掲載、こういう構成

大日本戦史が捏造・作り話というのはアンタのデタラメ
これは採用した史料・逸話が、史料的価値が低く信憑性が薄いというだけ
桶狭間は甫庵信長記の奇襲説をまんま採用し、参謀部の検証結果、実現性に乏しいとなり
長篠合戦では信長公記を採用し、三段撃ちとなっただけ

大日本戦史の内容は史料に記載があるから、陸軍参謀本部の捏造じゃあないね
アンタ説得力ないよ
ていうか、かなりの嘘吐き野郎だな

309 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 19:25:13
俺も>>298>>307氏へ質問をしておくか。

>作り話を執筆すると言うのは常識で考えて有り得ない。

むろん、「武辺咄聞書」が100%正しいという前提で話しを進めてもらっても、こちら
としては何ら構わないよ。(そもそも「日本戦史」の元ネタは、白石城陥落までは、政宗
と家康の間で交わされた書簡、長谷堂支援は政宗が政景へあてた書簡、福島城への進撃と
撤退は「伊達治家記録」をベースにした節がある。)通史への意義申し立てOKですよ。

で、双方の資料の真贋価値で対立しても埒が明かないので、話しを進めるね。
俺が知りたいのは、10/6の福島城−松川での上杉方の防衛の実態なわけだ。
質問は2点ある。単純なこと。上杉サイドから答えてもらってOK。

(1)肝心の「武辺咄聞書」には、10/6の福島城の戦闘に関して、何と書いてあるの?
 何故か上杉びいきの本(小説)でも、上杉方の「善戦」の箇所は、本荘繁長が福島城
 を堅守し ぬいたこと。及び、梁川城の須田長義・車丹波が伊達の小荷駄隊を襲撃した
 こと程度情報しか載っていないが?

(2)「武辺咄聞書」によれば、慶長6年4月17日、伊達勢は25000という大軍勢を福島
 へ派遣して、26日上杉と大激闘が交わされた。
 しかし、この時期にこんな戦闘あったの?



310 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 05:05:04
>>309
> 撤退は「伊達治家記録」をベースにした節がある。

それが一番捏造されてるだろが。(w


311 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 06:30:59
>>310
「日本戦史」の次は「伊達治家記録」への異議申し立てですか。

というか、上杉大勝説の唯一の拠り所が「武辺咄聞書」でしょ?
だからこそ、(1)(2)の質問に対して答えて欲しいと言ってるだけのことです。
簡単なことでしょ? 10/6の伊達の敗北箇所の記述を引用すればいいだけの話で。
それに「武辺咄聞書」の、

     >関ケ原御陣翌年慶長六年四月廿六日也。

 この記述はかなり決定的(致命的)な意味をもっていますよ。
どういうことですかね、これは? 4/14日に政宗は仙台に入府し、仙台城の普請
がピークに達している時期。もはや伊達家の一存で数万の大群で福島へ攻め上ること
等状況的には考えられませんし。これ、事実なんですか?

312 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 11:09:40
>>309
>>311
どうも話が通じないな。「武辺咄聞書」というのは筆者が一人ではないのだよ。
もともと様々な口伝を国枝清軒(おそらく彼だけじゃない)が収集し、
(ここからが重要)加筆したものとして認知されている。
よって日付等が間違っていたり、明らかに史実と相反する部分が所々散見されるという事。

しかし「武辺咄聞書」の中でもどこの馬の骨とも分からない「老人物語に」のような部位ならまだしも
実際深い交流のあった杉原親清の物語をわざわざ一から創作しなければならない理由が国枝にあっただろうか。
資料の信憑性というのは伝える当人が「どのような人物」で
「その事件(戦)の時にどこで、何をしていた」かが重要視される。
それ故、資料的価値の高い「信長公記」でさえ本能寺の変を描いた部位は信憑性がないとされている。
筆者の太田牛一が本能寺現場にいないにも関わらず、さらに伝聞との断りすらなしに
(勿論伝聞先すら明かさず)本能寺の模様を事細かに書き記しているからだ。

翻って「武辺咄聞書」の場合、国枝清軒が伝言ゲームの真ん中に入ってしまい、
多少の歪みを発生させてはいるものの実際その戦場にいた杉原親清から伝え聞いたと言う形を取っている以上
年月日の誤りを差し引いても資料的価値は充分ある。そう考えるのが自然ではないか。

313 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 11:13:09
第一日本戦史説を採ると
>>294氏が早速混乱しているようにおかしな所が多々出てきてしまう。

>家康との約定はすでに十分守った上で(福島城)攻略へ出たというのが、政宗の論理
確かに共に出陣した武将や兵数を見るにつけ牽制の規模ではない。
最上が一番苦しかった時期には3000程度と伝えられている一方、
この時期に万の兵を動かしている訳だから明らかに福島城攻略を意図した軍事行動だろう。
しかし
>10/19日に発せられた「家康への11ヶ条申し出」に、伊達軍の福島への「出兵」についての弁明がある。
約定違反を明らかに気にした様子
と直後に書かれてしまう始末。
一体約定を守った上での総攻撃という認識なのか。やはり約定違反を気にしながらの攻撃だったのか。
ここに大きな齟齬が生まれている。
この間、政宗を弱気にさせてしまう大きな出来事があったと考えられても仕方のない変節ぶり。

もっとも
>「福島城の戦い」は、伊達の掃討戦だった。
等と書いてしまう「掃討戦」の意味も分からない彼では混乱してしまうのも無理のない話だが(苦笑)

314 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 15:02:58
日本戦史って明治35年だっけか。
薩長閥が力を持ってる状況下で会津関連の歴史考証をマトモにやる訳ねえだろ。

315 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 15:34:57
>>313
頭が固いというか…。>>313氏は話をずらしてばかりいるなあ(苦笑)。
それにしても、なぜ、「慶長6年4月26日」のデータという指摘には耳をふさぎ、
明言を避けつづけるのだろうか? やはり「武辺咄聞書」が「日付等が間違っていた
り、明らかに史実と相反する部分が所々散見される資料」であるからだろね。
まあ、この調子では、いくら「年月日の誤りを差し引いても資料的価値は充分ある」
「そう考えるのが自然ではないか。」と力説されても何ら説得力もないよ。
結局、数値的な資料価値の部分では、信憑性に疑問符がつくだけに、自分でも自信が
ないわけだろ?
何も、そんなに突っ込みを怖がらなくても大丈夫だよ?(笑)何も、君を虐めて愉しん
でいるわけでもない。要は、10/6の本荘繁長の大活躍の部分が「武辺咄聞書」では
どのように記述されているのか、「上杉サイド」から説明願えないかといっているだけ
の話に過ぎない。

316 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 15:36:47

>この間、政宗を弱気にさせてしまう大きな出来事があったと考えられても仕方の
 ない変節ぶり。

あのさ…(苦笑)。だから、その辺を「武辺咄聞書」ではどう描いているのか、教えて
欲しいわけだよ。仮に、通史に反して政宗は上杉に大打撃受け、徹底的に本荘に痛め
つけられて逃げ帰ったとしよう。しかもその部分を、小狡いことに「日本戦史」や
「治家記録」は捏造・改竄し、切り捨てていると(君の主張は畢竟そうなる。)
そこの反駁が無ければ、次に進めないだろ?
★つまり、本荘は繁長は、どのように伊達と戦い、どう撃退したのか?伊達に与えた
 損害はどのくらいのものだったのか?
特に「武辺咄聞書」の立場から通史の矛盾点をつき、説明して欲しい。
時系列的に、具体的にね。(もうこれで2回目だからね。)


*あと(2)の7ヶ月の時間的ズレの説明についてもお忘れ無く。史実的にも、伊達・
 最上・上杉間の抗争は、関ヶ原後の1601年4月下旬まで継続していたことを補説
 しておく。この「武辺咄聞書」に明記された(2)の戦闘は、もちろん、1601年4
 月下旬に松川で発生したものと考えてもいいわけだよね? 確認ヨロ(w


317 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 15:45:01
>>316への追加

慶長6年4月26日の戦闘で、伊達が2000〜25000人程度の大規模な
総力戦のような戦いを、松川で行ったのか、という意味ね。

318 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 15:46:54
2000〜25000人→20000〜250000な。

319 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 16:43:04
福島城攻防戦に参陣していた武将から話を聞いただけの他人が後年になり日付を書き加えた物が武辺咄聞書だという話でしょ?

>316以下の人は何故同じ事ばかり繰り返し質問してるの?

320 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 17:29:47
>>319
とゆーか、福島城攻防戦が2回あったって話、知ってた?

321 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 19:09:24
>>314
>会津関連の歴史考証をマトモにやる訳ねえだろ。
おまいさんは、どうしても大日本戦史を捏造本にしたいらしいが
史学出来立ての頃の、史料選別などままならない頃のだから
選んだ史料の信憑性などを考慮してないのはしょうがない

つか、大日本戦史を参謀本部の捏造と大嘘書いたと思えば、根拠もなく会津ネタと絡ませての否定か、はぁ

>翻って「武辺咄聞書」の場合、国枝清軒が伝言ゲームの真ん中に入ってしまい、
>多少の歪みを発生させてはいるものの実際その戦場にいた杉原親清から伝え聞いたと言う形を取っている以上
杉原親清から伝え聞いたと言うのは確証は何もないが?
親交があったのかさえ疑問、宮川尚古が親交あったのは裏づけが取れるけどね

国枝清軒が会津陣物語を書いた際に、杉原親清が書いた軍談(というか、小浜藩は関ヶ原始末記を編纂した
酒井忠勝の藩なのだから、関ヶ原関連の史料が豊富なのは言うまでもない)を基にしたというのが妥当な判断


今現在、大日本戦史で採用されてる話をそのまま取るのは確かに間違い
しかし武辺咄聞書をそのまま採用するのも、また間違い



322 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 19:59:34
>>298

痛すぎるな。結局、>>308氏のコメントにはまともに反駁すらできずに口閉ざしてるし。

323 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 20:21:56
松川の合戦はネット上どう調べても伊達が撃破された事になってるようだが。
繁長 福島城 伊達で検索してほぼ全てのサイトは伊達の敗退。(上杉側の撃退)
松川の戦いでも同じ。
松川の合戦でも同じ。
ヒットしたほぼ全てのサイト見回っても繁長が撃退したって内容だけ。
>>281
こんな内容は一つとしてお目にかかれなかった。
ここでは一顧だにされないとか言われてる武辺咄聞書の説を皆取り入れてるようだね。

伊達好きの知ったかぶった書き込みも当てにならないもんだ。

324 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 20:26:30
>>323
ここでの議論は、勝った負けたの「次元」じゃないよ。
お前は三戦板がお似合いだな(w

325 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 20:35:53
>>324
笑えるなぁ。
>>281
負けたのは上杉軍だよ。脳内では勝利したようだけどね。って書いてるじゃん。
>>281の脳内だけで伊達が勝ってるようにしか見えないぞw

326 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 20:43:50
>>325
その辺は、どうぞ>>281氏とご議論下さいw

>ここでは一顧だにされないとか言われてる武辺咄聞書の説を皆取り入れてるようだね。

「ほぼ全てのサイト」を回ったとか。たとえば、どの本?



327 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 20:49:41
つーか資料よりもネットのサイトを重視する奴を俺は始めて見た。

328 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 20:55:25
ん?ここに福島城の戦いを紹介したサイトを片っ端に載せろってか?
言いたい事がよく分からん。
つーか自分で調べろ。
結構簡単に見つかるぞ。

329 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 21:00:51
>>328
そんな無茶は言わないから大丈夫。サイトの文章のコピペの抜き書きでもいいよ。

何なら書籍の名前だけでもいいから、1冊あげてごらん。

330 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 21:12:10
いちいちコピペするの面倒臭え。
いいから言われた通り
「繁長 福島城 伊達」で片っ端から読んでけ。

331 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 21:24:00
やっぱり、怖いかな? 突っ込み、結構鋭いからね〜(笑)
それじゃ、おやすみ厨房ちゃん(w

332 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 23:05:28
悪い。島津だけど…
いい加減伊達厨は自分のHPでも作って
そん中で思う存分爆発したら。

333 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 08:56:55
>>331
キモイっす。

334 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 09:27:48
論拠がなくなったら、サイトに載ってるから!!とはな
夏厨全開だな

サイトに載ってたら事実だと思い込んでる頭が悪い
だったら今山合戦を含む大友との龍造寺の戦いも、龍造寺の勝ちになるな

335 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 10:41:11
>>334
伊達側は初めからやけに攻撃的且つ挑発的なカキコが目立つ。損してるからやめれ。

>論拠がなくなったら、サイトに載ってるから!!とはな
上杉側が持ち出してきている武辺咄聞書には321で突っ込みが入ってるとはいえ否定し切れていない。
よって上杉側の論拠がなくなったようにはちょっと見えない。

>サイトに載ってたら事実だ
俺も見てみたけど、川中島合戦のように評価が分かれているなら分かる。が、
松川合戦評が10あったら10のページで伊達軍は散々な目に会ってた。
これらの論評は普通なら無視できないんじゃないかな。

>夏厨全開だな
君も文面から見ればあまり人の事は言えないって。

336 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 11:48:36
漏れは>>334さんじゃないけど。

まあ「武辺咄聞書」「会津陣物語」等は上杉の武勇をこれでもかと称えた文書なんだけど、
福島城で、結局「本荘繁長は強かった。伊達を撃退した。」と叫んでいるだけだな。
(とにかく具体的な説明がなく、まったく中身がない。ソースも怪しい)
この二書を下敷きにしたと思われる「日本外史」(さらに信憑性薄いが)でさえ、

  >政宗進んで福島を攻む。本荘繁長、城を守り、撃ってこれを卻く。

  だもの。たった1行(苦笑)。いい加減伊達厨もいらついてくるでしょう。
「だから、一体、本陣の陣幕奪って、政宗に槍入れて逃げ帰らせたのは、戦いの
どの局面なわけ? 頼むから上杉厨、早く答えてくれよ」って催促してるのに、
なぜか上杉厨は沈黙。挙げ句は「ネットにそう書いてある」だと(脱力)

極めつけは、口伝を元に校正に校正を重ねて、最終的に成った「武辺咄聞書」が、
「上杉が伊達の本陣の陣幕奪って、政宗を命からがら逃げ帰らせた」のは「慶長6年
4月下旬です」って断定しちゃてる始末。いくらなんでも関ヶ原の翌年って…。
事実としても、政宗、仙台城にかかりっきりで、戦争なんかまともにやる気ない
だろうよ? 常識で考えても。まあ、わかってるのは、本荘繁長はとにかく奮闘して
福島城を死守した。また伊達は伊達の都合だかなんだかでわずか1日でさっさと帰ったと。
上杉からすれば「撃退」、伊達からすれば「撤退」で互いに対立してるだけだ。

伊達厨は伊達中なりに「伊達の立場」で論をはったんだし、こんどは上杉が「福島城
の真相」を語る番だと思うけどね。ネットでなく、自分の意見でさ。



337 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 13:29:36
>>336
スレを読み直す限り、この論争の発端から上杉厨は武辺咄聞書等を元にして同じ論を張ってるでしょ。
少なくとも>>281程度の局面説明なら。
>福島城で、結局「本荘繁長は強かった。伊達を撃退した。」と叫んでいるだけだな
武辺咄聞書の一節はこんな薄い内容じゃなければ上杉だけの書物でもないw
ここで頓珍漢な事を言い出した挙句、
直後の文章では誰一人話題にしていない日本外史の一行を持ってきて
「政宗進んで福島を攻む。本荘繁長、城を守り、撃ってこれを卻く」=「本荘繁長は強かった。伊達を撃退した。」
まるで武辺咄聞書=日本外史だとでも言いたげな誘導は卑怯だねえ。
一体誰が、何時、こんな一行描写で伊達厨を苛つかせていたか提示して欲しい。
要するに貴方の主張は妄言、言いがかりの類。

「慶長6年 4月下旬」という日付が変。という指摘に対する答えは
上杉厨から(伊達厨からでさえも)散々出尽くしているにも関わらず、今もって
>>政宗、仙台城にかかりっきりで、戦争なんかまともにやる気ないだろうよ?
この考察にしがみ付く意味が分からない。ここまで話が通じないと会話にならんね。

>伊達は伊達の都合だかなんだかでわずか1日でさっさと帰ったと。
福島城を落とす意欲で大軍を発したのに(伊達厨の言い分では)落城寸前で退却。
ないなに?既に家康との約定を守った上で侵略するも家康との約定を気にして退却だって?w
伊達厨なりに捻り出した矛盾だらけ&稚拙極まりない論を上杉厨に幾ら力説した所で
「撃退」した武辺咄聞書等の資料を持っている彼等としてはただただ呆れ返る他ないだろう?

338 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 16:32:06
>>337
あなた、何か必死だよ。大丈夫? あなたは、「日本戦史」での思いこみを>>308氏に
かなり鋭く指摘されて黙り込んじゃった人だよね。結局、反論すらできず、>>308
の意見に降参したけれども。そんな人だから、冷静な議論もできようもない。
焦って、興奮してヒステリックになって、われを忘れて口汚い罵りに堕落する。
以下の文章は、もはや批評ではなく、ピントのずれた醜い中傷だよ。

   「頓珍漢」「妄想」「言いがかりの類」「誘導」「矛盾だらけ」
   「卑怯だねえ」「ただ呆れかえる他はない」
   「話が通じない」「稚拙極まりない」

それに、その「妄想」とやらの>>288>>294のレスで述べた福島攻防戦は、一応例
に挙げた「資料」をベースに組み立て、特に伊達政宗の発言−「戦況報告」「撤退理由」
を順を追って再構築したものに過ぎない。同時に、これは徳川家康が追認した福島の役
の経緯でもある。よって、政宗の言動に「自家撞着」「矛盾」がおありであれば、それ
こそ上杉方の視点で論じて欲しい。いつでも、歓迎しますよ。ただしご冷静に。

福島の役:参考資料(以下5点):
   「伊達治家記録」「今井宗薫宛対家康への11ヶ条申出」(慶長6年10月)
   「伊達政景宛て政宗文書」「政宗宛最上義子文書」(慶長6年9月)「日本戦史」



339 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 16:33:37
(つづき)
冷静に物事を論じられないというのは、結局、上杉ファンにとっても決して好まし
ことではない。実際本荘繁長を過大評価するあまり、以下のようについ「うっかり」
書く人が続出してしまうわけだ。(★部分に特に注意)

 >陪臣ではあるが本庄繁長もすごい。
 >関が原の戦いのあと20日ばかりして、信夫郡福島城に2万の兵力で攻め込んで
 >きた伊達軍に対してわずか3,500の兵で迎撃し、これを撃破(松川の戦い)。
★>伊達軍は本陣の幔幕を奪われ、自身も槍を入れられ落命の危機であった。
★ (死傷者2,000以上)
 >また、これより十数年前の、十五里原合戦(対最上)でもわずか3,000の兵で
 >1万を超える最上軍(当事は庄内地方も支配)を撃破、なんと死傷者は3,000
 >以上という大勝であった。
 >これ以降、最上氏は庄内の支配を失った。
 >福島城の前の城代は水原親憲で、水原では心もとないというので本庄に城代を
  交代させたわけだが、その水原親憲でも、
★>大阪冬の陣では2万の大阪方に5000の上杉軍で迎撃し(鴫野の戦い)
★>完全に撃破しているので並みの武将ではない。
 >伊達は、景勝が後詰めにいくまでもなく、しっぽを巻いて逃げ出すくらいだから
 >全然強くないでしょう。

福島の役の「時期の誤認」はここで検証したとおり完全な勘違い。
次の大坂冬の陣の「完全に撃破」という表現に至っては…(以下ry)



340 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 17:17:52
上杉厨にとって、本荘繁長って武将は、不可侵の領域。ある意味、信仰の対象なんだよ

341 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 17:36:12
>>338
俎上にさえ上がってない資料まで持ち出されて
意味不明な批難を受ければやっとられん気分になるだろ。
>>336が書いた
「武辺咄聞書」「会津陣物語」の解釈だって叩かれて当然。
ただ言質だけとって醜い中傷呼ばわりする君の方が、ピントがずれまくってる。

342 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 18:08:23
別スレつくれば?

343 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 18:15:11
このスレの展開を楽しみにしていたんだが、少しガッカリした。
冷静に話そうぜ?馬鹿みたいな煽りや中傷はしないでさ。
同じ歴史者好き同士、また〜りいきましょうや。

344 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 19:07:14
誰も「武辺咄聞書」「会津陣物語」の中味を否定する事は出来ない。
年月日が不自然という程度では否定できる部分も限られてくる。

伊達好きが主張している内容は、政宗の判断を匂わす発言、手紙、家康への
申し開きくらいであって、実際行われた松川合戦が、どのような物であったのか
説得力の生じる資料が希薄。その為我々は上杉側の一武将が残した
「武辺咄聞書」「会津陣物語」により具体的な戦闘状況、出来事を知る運びとなる。

つまり視点の高さが違う。一方は福島城下の山河を駆け巡り、戦った武者が
口伝し、残した現場状況。もう一方は、大将としての見通し、戦略を窺わせる物。
これでは初めから話が噛み合う筈も無く、双方ズレが生じ、苛立ちが募ったまま
推移するだけ。堂堂巡り。

伊達好きは「武辺咄聞書」「会津陣物語」を打ち消す事など未来永劫出来ず。
上杉好きに政宗の本音が何処に有ったのか確定し切れる日など絶対訪れ得無い。

345 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 21:16:26
まあ、確かにマタ〜リ「日本史版」らしく検証した方がいいね。上杉・伊達とも、双方
の主張を声高に叫んでも永久に話はかみ合わない(幕末の某スレでもなし)。ここは
帰納的に、小石を積み重ねるように残された資料から類推してみるのがベターかもね。
(何故かスレタイとはズレちまったが)

実際、この「福島の役」は相当謎が多いため、非常に憶測が入りやすい。中央からすれば、
関ヶ原以後の奥州の動きなど省略の対象でしかないわけだし。ましてや、1600年10月上旬
〜1601年4月下旬に至る「上杉・伊達の小競り合い」ともなると、わからないことだらけだ。
(特に、この時期の伊達の出兵意図など、面白いテーマではある)

小説なども、双方でそれぞれの主張を言い合っている。ほんの一例だが、
 
 ・「独眼流政宗」(津本陽)/立場:「日本戦史」「治家記録」「関ヶ原役(蘇峰)」(?)
 ・「伊達政宗」(山岡壮八)/立場:      〃

 ・「直江兼続」(江宮隆之)/立場:「武辺咄聞書」「会津陣物語」
・「常羽有情」(土居輝雄)/立場:      〃  +「日本外史」

伊達、上杉、佐竹の三者間で180度評価が違うから笑える。互いに「英雄」と「極悪人」
の間を往還するので、まあ贔屓の読者からすれば、それぞれ面白く痛快ではあるが。

346 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 07:43:11
>>338
例えば>>294
1:>福島城の攻略にも相当日数がかかると判断した。
2:>約定違反を明らかに気にした様子
3:>伊達方の兵の損傷もそれなりに多かったこと。
これらを>>281の経過と比較すると腑に落ちない事ばかり。
これだけ伊達勢が終始圧倒しているのに何故伊達方の兵の損傷が多くなったのか?
その情報、描写がまるっきり欠落している。
城攻めを期して福島城へ大挙来襲し、野戦で上杉方を撃滅し、
反撃させる余力を大きく削って城に追い込んだ。という政宗としては願っても無い展開。
懐に飛び込んだ好機であるのに2,3日城を包囲し降伏勧告もせずに撤退。
ではそれまで伊達方で損傷した(?)多くの兵は犬死ににも等しい。
伊達はわざわざ兵を損傷させる為だけに福島城へやってきたのだろうか?
つまり>>281の「逃げ込んだ福島城へ伊達軍が銃を乱射して、北目城へ帰還した。」
で終わってしまったのでは伊達が何をしに福島城へやって来たのか
現存する資料だけでは意味が通じなくなる。

347 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 07:48:00
会津陣物語にも松川合戦における上杉方の敗走は書かれていて、(尤も二回あったという事になっているが)
城へ向かって逃げ惑う上杉方は槍を捨て武具を捨て、逃げ遅れて討たれ、
松川から福島城の道は上杉方の死骸と武具で埋め尽くされたと書かれている。
これでは敗走というより壊走だろう。
ただしこれで終わらず、それまで優勢だった伊達は梁川城から須田の急襲を後方に受けて小荷駄隊が壊滅、
さらに須田は福島城攻撃に向かった政宗の不在だった陣屋も襲って伊達家の陣幕を奪ったとされている。
その後伊達の後陣を破った須田と城側の本庄とで城下の伊達を挟撃→伊達側大被害という流れ。
この会津陣物語に書かれた部分を読めば「なるほど伊達側の損傷も多い訳だ」と納得できるし
上杉側の思わぬ反撃に重ねて、景勝来援の報に接した政宗が一日で攻撃を取りやめて退却する。
これらは伊達側の記録だけでは到底埋まらない不可思議な部分。謎とされてきた部分。
いわばジグソーパズルにおける空白だったピースを綺麗に埋めて一枚の絵に仕上げている。
2:>約定違反を明らかに気にした様子
だが、福島城攻撃から日が経っているという事もあり、実際撤退を決意した政宗に浮かんだ思考ではなく
福島城下で手痛い撃退を受けて北目城に引き上げた後「自らの手で多く切り取る」方針の挫折を知った彼が
従来の「家康の心証を良くして領地を貰う」方針に立ち返っただけなのではないか。 と憶測してみる。

348 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 10:02:32
須田大炊介は小荷駄隊を襲って兵糧、弾薬も奪ったらしいね。
伊達政宗が一日で撤退せざろうえなかった理由になったのかも。

349 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 12:36:19
しかし「会津陣物語」と「日本戦史」では、相当な食い違いが見られますな。
(1)までの流れは、ほぼ両書とも一致してます。問題は(2)と(3)の部分。
 見事なまでに真逆です。

>(1)それまで優勢だった伊達は梁川城から須田の急襲を後方に受けて小荷駄隊が壊滅
 →小荷駄奉行の宮崎内蔵助のこと? 相当数の人足討たれたらしいのは確か。
  いわゆる「伊達の陣幕」が奪われたのは、このポイント。

 問題は、ここから。この後の経緯は「会津陣物語」では、

(2)さらに須田は福島城攻撃に向かった政宗の不在だった陣屋も襲って伊達家の陣幕を奪ったとされている。
(3)その後伊達の後陣を破った須田と城側の本庄とで城下の伊達を挟撃→伊達側大被害という流れ。

一方「日本戦史」では、こうなる。

(2)(上記に関連した記述全くなし)
  →かわりに、瀬上での敗報に動揺した本荘義勝(繁長の次男)は松川に出るものの、
   片倉景綱、茂庭綱元、屋代景頼と激突して敗北を喫し、福島城へ撤退する。

(3)(上記に関連した記述全くなし。)


結局「日本戦史」では(1)以降の伊達方の損害の記述は一切無く、最後に、政宗の撤退理由
として、「さらに羽黒山に進んだが、福島城がたやすく落とせないことを見とおし、景綱が撤退
をすすえめたのを機会に退却と決めた。」と淡々と記述するのみ。

>>347さんは、この食い違い(「会津物語」伊達側が大被害を出した。「日本戦史」は一切無視)
をどう思う?あるいは「会津陣物語」の(2)(3)の部分は信憑性に疑問をもたれたため、
カットされてしまったのではという疑念も生じますが。

350 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 13:19:01
「武辺咄聞書」「会津陣物語」も著者は同じ

351 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 00:10:56
こりゃ「日本戦史」の編纂者の素性を洗う必要がありますな

352 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 00:48:30
方向が逆の羽黒山に進軍してる時点で日本戦史の信憑性が低くなった気がした。
どうでもいいが大宝寺義勝ってあのあともちゃんと上杉家臣やってたんだな…

353 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 07:23:05
日本戦史のあらまし
伊達側の茂庭が長倉町を戦わずして捨てた上杉方小田切安芸隊を撃退し、
残兵を鎌田で殲滅。斬獲した首は「頗る多かった」と。
瀬上へ援軍に来ていた岡内、齋藤は伊達の大軍を見、衆寡敵せずとして、これ又戦わずに撤退。
交代で殿を務めて福島城の帰路に着く。これを伊達軍が追撃した描写はない。

しかし「瀬上の敗報」を聞いた福島城内が色を失う程だから岡内と齋藤も大打撃を受けたのだろう。
これを聞いた繁長の息子義勝が数十騎で出陣、途中瀬上から敗退してきた残兵と会って一緒に松川へと向かう。
岡内、齋藤本人らも義勝の援軍には心強くなって、Uターンでもしたのだろうか。
しかし伊達軍の政宗、茂庭、片倉、屋代は松川を既に渡っており、
先を争って進みながら義勝軍を蹴散らす。

松川が羽黒山(現・信夫山)南麓を流れていたとすれば福島城(現・福島県庁)との距離は1.23キロか。
義勝は松川で敗退>城内に入る、と簡単に逃げ込んだように戦史では書かれてはいるものの、
先述のように伊達軍は渡河した後、先を争って進軍し、義勝を蹴散らした訳だから
松川〜福島城1キロ間で行われた追撃戦は凄惨を極めた事だろう。

さて、先を争って進軍して来た筈の片倉は急に悠々と城側の反抗を観察しだしたぞ。
どうやら実は遥か後方の伊賀崎、桑折方面から茂庭、屋代らとは別行動を取っていたようだ。
そろそろ自分も戦に参加しようと駆けつけた時には城外で反抗していた上杉方は屋代によって蹴散らされ
城に逃げ込もうとしている!
これを追った片倉は何と城の外郭を制圧し、その上杉側の死者は隊長格も含め、これまた「頗る多かった」

354 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 07:24:03
素晴らしい戦果を挙げ続ける優秀な伊達軍は1キロ以上も離れた羽黒山南から福島市内を銃撃だ。
射程距離100m、飛んでも500mと言われる当時の銃で撃たれたら叶わない。
上杉側は皆城内へ逃げ込んでしまった。
しかし、この虚仮おどしが城側は相当悔しかったようで、
この銃撃をした砂金実常が一番手薄な所を攻めてきても激しく抵抗して、見事追い返した。
さあ政宗はと言えば松川を渡った後、やる事が無かったらしく、再び松川を渡り直して羽黒山へ登山。
福島城の外郭を破った片倉を何とか羽黒山まで呼び出して今後の方針を相談。
片倉の考えでは白石城陥落の時と違い、福島城側が降伏するとは考えられなかったようだ。

かたくら「もっと攻めれば城は陥とせるだろうけど、兵が多く死ぬので止めときましょう」
まさむね「後ろに置き去りにしてきた荷駄も奪われたようだし、
梁川に何の抑えもしてこなかったから後方の連絡も閉ざされるかもしれないな。よし、帰ろう!」

その撤退中、夜陰に紛れ福島城内齋藤兵部なる者から内応を知らせる密書が届いた。
まんべんなく名前を登場させてあげたい心優しい政宗は今度は石川昭光に城攻めの再開を相談してあげる。
「今日勝ったのは運が良かっただけ」「城側と梁川の挟撃を受けますぞ」とにべも無い。
結局伊達軍は朝から戦ってほぼ全てに圧勝し、城の外郭も破り、内応者まで出たにも関わらず引き返しましたとさ。

間違ってる点があれば指摘してください。

355 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 16:25:23
確かに大日本戦史読んだ時、
伊達の武将がまるで白浪五人男、プロパガンダ映画に似た物を感じた。
瀬上では綱元が大暴れ、松川〜福島城外で景頼が席巻し、
いよいよ城内に攻め込む盛り上がり所で、景綱が大活躍。
伊達政宗も松川を渡った後、大将として軽く受け取られるのが嫌だったのか
慌てて、後方の羽黒山に登っちゃってるし。
ま、こっちの方が確かに大将らしいけどね。
實常の威嚇射撃も、明治時代の軍人が好みそうな、机上の空論っぽい。
最後に昭光が
これ以上攻めたら、反撃を受け、今日の戦功がなくなるから駄目。
とか言って政宗を止める台詞が多分あったと思う。
何も得られずに引き上げたあの時点で、戦功も何も有ったもんじゃない(笑)

356 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 18:54:00
>>344
長文乙。参考にさせて頂きます。ここで、気になるのは伊達が装備していた
鉄砲の数だね。何丁程度で、副島城を銃撃したのか? 伊達政景3000人
の部隊にもたせた鉄砲が1200丁というから、仮に20000人規模の部隊
とすれば、半端じゃない膨大な数だったのは確かだろう。

>>355
どうだろうか…。「日本戦史」の記述には、武勇伝的な要素はあまりないよ。
別に伊達、上杉のいずれかに肩入れすることもなく、状況を淡々と描写している
だけで。それに、「日本戦史」は直江兼続の最上の退き口など、日本の戦役史上
希に見る優れた撤退戦、といった位置づけで、どちらかといえば、上杉中心の
小説などでよく引用されている。伊達を揶揄する材料として「日本戦史」を
ことさら貶める必要もないかと。
とにかく、福島城の扱いは、全体的に伊達有利の展開・記述ではあるし、編者の
力点が「福島城」ではなく、最終的に片倉景綱の調略がうまくいかなかった「梁川
城」の方に力点が置かれている印象だ。


357 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 11:00:52
>>356
羽黒山南から超遠距離射撃をし、上杉方の将兵を尽く城内に逃げ込ませる事に成功した
その偉大なる砂金実常の鉄砲隊は数十騎だったそうな。(この時城の外郭は片倉によって破られた後。)
500mから1k離れた大きな目標を撃てば味方にも当たっちゃうかもしれない。
こんな魔法的な戦術をやるには数十騎が限界でしょ。
一人も死なないだろうけど、城を囲んでいる膨大な伊達軍から怪我人が出てしまう。

>武勇伝的な要素はあまりないよ。
10月5日から書かれる松川合戦の記載は伊達の第一軍から第六軍に配置された武将の仰々しい列挙から始まる。
華々しい武将の列挙の後、その他大小30隊と謳い上げ、その数二万。
対して上杉側の勢力は「福島城は繁長の兵一千(!)で水原親憲と共に守る。」
「梁川城は須田長義と横田大学が本丸、二の丸は車丹波で総勢六百」だそうな。
幾らなんでも、恣意的と勘繰られても仕方がないくらい兵力が少なすぎ。
伊達を防ぐ為に著名な武将を送り込んだ筈の福島城・梁川城が、兵数合わせて1600人の勢力。
日本戦史がこれから一体何を書きたがっているのか、なんとなく分かりそうなもの。

>状況を淡々と描写している
前田桑折間に置いてけぼりを食った伊達の荷駄隊は梁川城を発した車丹波の率いる100人の兵に奪われる。
ここでは戦の記載はなし。
梁川城を発した後は淡々と「(阿武隈川を渡った車丹波は)輜重を奪い帰る」とのみ表現。
伊達の荷駄隊には100人を追い返すだけの守兵が配備されていなかったようだ。
第一二万の兵を養う輜重ともなれば膨大な量だと思うが、車丹波は百人の兵で大河を渡りこれを輸送したのだろうか。
あっさり帰還してしまうと言う魔法使いぶり。

358 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 11:23:22
瀬上に援軍に出した岡内、齋藤軍は各々150だそうで合計300!戦わずに逃げ出すのは当然だ。
しかし、折角福島城に帰って来たのに義勝率いる50騎(!)の兵と共に松川へとUターンw
岡内、齋藤軍がまったくの無傷だったとしても義勝らと合わせて兵数400で松川へ布陣。
一方政宗麾下と合流した伊達軍諸隊は川を越えた後「先を争うて進み、義勝の兵と戦い、之を破」ったそうな。
直後に「義勝即ち城に入る」と非常に淡々と書かれてわいるが、よく生きて帰ってこれたもんだ。
上杉側の将士が討ち死にしたという記述も一切なし。みんな無事に城内へ逃げ込んだのだろう。本当によかった。
これが日本戦史の書いた「松川合戦」。上杉軍には敵の半渡を討つ余裕など到底有りませんでした。

逃げ帰ってきた義勝らを収容した福島城は、残った兵を繰り出し屋代隊と城下で戦うも当然撃退される。
さらに城へ入ろうとした所を追ってきた片倉隊に外郭を攻め破られる。「隊長以下戦死する者頗る多し」
抗う兵力が初めから無かった哀れな上杉の虐殺ショーが淡々と描かれていく。
この時点で城内の兵力がどれだけ矮小な物になったのか、と考えるにつけ涙を禁じえない。
そして数十騎を率いた砂金の銃撃に恐れをなし、城内に閉じこもる上杉勢。だけど手薄な所をしっかり守っちゃう。
この淡々とした描写はさすがだ。さすが日本戦史。非常に説得力がある。

>最終的に片倉景綱の調略がうまくいかなかった「梁川城」の方に力点が置かれている印象だ。
調略は成功している。片倉は梁川城内で内応する横田大学の書を政宗に見せるも、桑折口を進むとの方針を変えず却下。
その政宗本人が福島城を撤退する理由として俄かに梁川城を警戒しだす描写は非常に不思議。
10月5日〜6日の瀬上〜福島城の戦いは5ページに渡って記載されている中、
梁川工作を示す文章は横田大学と家康の関係を紹介する2,3行と上の政宗と片倉のやりとり部分(2行)
しか割かれていないよ。大して力点なんか置かれてない。

359 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 18:30:49
>>358
>調略は成功している

いや、失敗した。念のため調べ直した方がいいよ。ここで「力点を置いた」と
するのは、そもそも10/6の攻撃は、参謀片倉景綱のプランでは当初から
梁川城にあったため。その景綱主導の下に横田大学との調略工作を進めていたが、
最終的に、横田の梁川城内の兵との意見が不一致となり、調略は失敗した。
これが10/7伊達が撤退する一要因になったことは確実だ。

また、政宗は終始羽黒山に布陣しており、みずから福島城下へ直接本陣を移動して、
接近した上で戦うような危険も冒していない。その必要もなかったといえる。

以上が「日本戦史」の記述。

360 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 21:48:15
>調略は失敗した。
じゃあこれはどう読むの?10月5日の記述
<大学ハ初メ家康ト約スル所アリ 家康鞍馬銃器旅費等ヲ給シ
会津ニ下リ仕ヘシム 是ニ至リテ其約束ヲ履ミ 
欵ヲ景綱ニ送リ内応ヲ為ス 而シテ城中未タ之ヲ知ラス>
【大学は家康と繋がっていた 家康は道具、金を与え
上杉に仕えるよう命じ会津に送り込んだ 今このような状況(伊達が上杉を攻めに来た)になったので
内応を知らせる密書を景綱に送った。 この事を城中で気付いている者はいない。】

10月6日早々の記載。上の文からたったの五行後
<景綱ハ大学ノ書ヲ政宗ニ送呈シ 今日梁川ニ向フヘシト勧ム
政宗既ニ桑折口ニ進軍シタルヲ以ッテ 聴カス>
【景綱は大学の内応承知の密書を政宗に見せながら 今日は梁川を攻めようと勧めた。
政宗は 既に軍が桑折方面へ向かってしまっていたので この意見を退けた。】
(伊達崎→桑折方面を進んだのは景綱 という記述が後述される事から
政宗の言い訳は意味不明)

>政宗は終始羽黒山に布陣しており
じゃあこれは何なの?10月6日松川を伊達軍が渡る描写
<綱元景綱景頼ノ兵 皆松川ヲ渡リ(随分簡単に渡っちゃうもんだ…)
政宗ノ麾下モ又 至リ
共ニ先ヲ争フテ進ミ 義勝ノ兵ト戦ヒ 之ヲ破ル(15000超 VS 350人の戦いw)>
これって【渡河した綱元景綱景頼の兵と本隊とが、共に先を争って進んだ】って意味でしょ。

はっきり言ってこの「松川合戦」は非現実的な事をサラリと書きすぎていて
下手な軍記物より笑える部分、微笑ましい部分がかなり多い。
ここの一部の方達から、好評を得ている淡々とした語り口だが、
単に詳しく書いちゃうと破綻するから、こういった書き方しか出来ない、というのが真相だろう。
突っ込み所が山のように有って、実に愉快な書物でした。

361 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 06:46:59
>>360
●「梁川城」調略工作は失敗した
(上段の2行の部分)これは、10月6日早朝までの情勢。家康の息のかかった横田大学
と片倉景綱との間で内応工作が着々と進んでいたことが、逆に明白に分かる部分だ。

>政宗の言い訳は意味不明
 なぜこれが「政宗の言い訳」になるのか、意味不明。横田の内応工作が届き、景綱の
進言が発せられたのは「既に軍が桑折方面へ進軍している途中」とすれば適切な状況
判断といえる。内応が見られる梁川城は内部崩壊する可能性もあるだろうし、返す刀
で翌10月7日に行えばよい。

さて、翌10月7日にいたって、結局、横田の内応は工作は城内で上手くいかず挫折
した。これにより10月7日に予定していた梁川城攻撃は中止となり、伊達軍は北目城
へ帰陣した。つまり、景綱が進めてきた「調略は失敗した」わけだ。そういう意味。

●「福島城」の真下まで伊達本隊は接近するような危険行為は犯していない。
 そこでとりたてて白兵戦など戦っていない。

>綱元景綱景頼ノ兵 皆松川ヲ渡リ政宗ノ麾下モ又 至リ共ニ先ヲ争フテ進ミ
  義勝ノ兵ト戦ヒ 之ヲ破ル
 それは、本荘義勝の軍勢を蹴散らし、松川を渡河した時の記述。で、その後羽黒山から
数千丁の鉄砲での大銃撃戦。上杉方は城に立て籠もって必死に耐えている。結果的に
伊達が1日で撤退してくれたおかげで、壊滅を逃れたわけだ。政宗本人が、何もわざわざ
馬で福島城の真下までのこのこ出掛けていく戦況でもなかったことが、ここで如実に証明
されている。


362 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 06:48:18
>単に詳しく書いちゃうと破綻するから
「日本戦史」における 「淡々」というのは「主観」を入れて記述していないという
こと。この福島城攻防の経緯は恐ろしいほど「詳細」に描かれており、当時の戦況が
見えてくるだろう。おそらくここまで読んできた人は、「おや?」と思っただろう。
新鮮な発見だったかもしれない。
なにしろネットなどで流されている「福島城では、本荘繁長が圧倒的に強かった
はず」という言説に反し、「日本戦史」には関連記述がほとんどないことに、だ。
それは以下の理由による。「松川の合戦」は実は2回あったのだ。 

1回目:慶長5年10月6日「松川の合戦」
2回目:慶長6年4月26日「松川の合戦」

*慶長6年4月までの伊達政宗と上杉方の武将が盛んに小競り合いを繰り返した。
慶長6年1月(二本松)、2月(川俣)3月(伊達・信夫)
慶長6年4月26日「松川の合戦」

 慶長5年のものは資料が示すように伊達の圧勝。上杉はせいぜい小荷駄隊から陣幕を奪って「勝利宣言」するしかなかった状態である。
 慶長6年のものは(4月26日という期日に特に注目してもらいたい。4月14日は
政宗の仙台入府の日)、なぜか伝によれば、上杉の大活躍する様が描かれており、
岡野左内が直接政宗と大立ち回りを展開。政宗は左内の陣羽織を2回斬りつけるは、
左内も政宗の兜を撃つはの組み討ちがあったとされている。ここで本陣の陣幕も奪わ
れたと。(眉唾以前の「伝説」ではあるが。)

つまり、この福島城の戦いではこの「慶長6年にあったとされる2回目の松川の戦い」
が誤ってリンクされ、本荘繁長伝説が補強され、そう信じ込んでいる人間もまた多い
ということを、指摘しておきたい。



363 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 19:38:00

要するに日本戦史が伝えたかった事って
×「梁川城」調略工作は失敗した
○「梁川城」調略工作は政宗の優柔不断で頓挫した
でしょ。
貴方も信奉してる日本戦史を読み返さなくちゃ。
10月6日の記述中「景綱は伊達崎を経て桑折に至る」って書いてある。
つまり早朝景綱が軍を発した位置は伊達崎より以北だったんだよ。
それなのに一日の方針「今日は梁川城を攻めるべし」を政宗に勧めた場所が
桑折にも達っしようとする場所だったらまるでコントだよw
景綱と政宗が相談してる最中、主を置いて兵達だけ勝手に桑折に進む筈がない。
よって桑折口に進軍していたのは、
後の文章で景綱隊より先行していた事が判明する茂庭、屋代隊だと普通分かるでしょ。
例え伊達崎まで南下した場所において景綱が献策したとしても、
桑折口なら充分彼らの馬首を巡らせられる位置である事は言うまでもない。
「ちょっと先に進んでしまった部隊があるから、内応者が出た城があっても無視するしかない」
こんな思考、冷静に考えて有り得ると思う?

>内応が見られる梁川城は内部崩壊する可能性もあるだろうし
そこまで梁川を舐めている政宗が何故福島城からの撤退理由に梁川を挙げるの?
福島城の落城を目前にして
急に「梁川に後方を絶たれるかもしれない」等と不安になり撤退してしまう政宗w なんだそりゃ。
梁川城が横目に見える位置を進んでいる時には「先の部隊が進んでしまったから」と素通り。
さらに貴方の言い分では「内部崩壊するかも」等と馬鹿みたいな楽観主義。
ここまで酷い描写だと逆に政宗が哀れに思えてくる。参謀本部乙といった所か。

その日、二万の伊達諸隊は奮戦し、たった1000人前後しかいない上杉勢を葬り続けるも徒労。撤退。
この脚本を書いた参謀本部は、総大将が愚物だと、例え内応に成功しようが、
諸将がいかに努力しようが、全て水泡に帰す悪例だ、とでも位置付けたようにも見える。

364 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 19:38:55
>「福島城」の真下まで伊達本隊は接近するような危険行為は犯していない。
松川を渡ったのだから福島城は目と鼻の先。
鉄砲が届く位置だと勘違いしてしまう者が伊達軍の中から出てきてしまうくらい近い。
その間を本隊と茂庭屋代片倉隊が競争したって書いてあるんだからさ、
「本隊は城下に接近していない。」なんてとても言い切れないよね。

>本荘義勝の軍勢を蹴散らし、松川を渡河した時の記述。
義勝が布陣した位置が小坂後方だって「日本戦史」は言ってるしw
松川を渡河して、先を争って進み、義勝を蹴散らした時の記述。
勢いから政宗本隊も義勝追撃に参加したと見るのが自然でしょ。もうそこは福島城。

>その後羽黒山から数千丁の鉄砲での大銃撃戦。
こらこら。「日本戦史」ですらそんな記述は何処にもない。 届 か な い し。
届いたとしても伊達軍の頭上にもバラバラ落ちてくるだけ。
当時の日本で砂金実常だけが所有していた新式銃、数十丁でもって福島城内だけを狙い撃ちしたと。
さらに砂金はゴルゴ13真っ青の射撃技術を持った人材にまで恵まれていたと。
それらの技術がその後伝わらなかったのが非常に残念ですね。

365 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 19:39:31
>「日本戦史」における 「淡々」というのは「主観」を入れて記述していない
下手な情報操作をしてる時点で充分肩入れしてるんだよ。
福島城1000人?梁川城600人?馬鹿馬鹿しいにも程がある。
梁川〜瀬上への援軍が300人?荷駄隊を襲った梁川勢は100人?…アホか。
日本戦史は自ら墓穴を掘ったんだよ。

>この福島城攻防の経緯は恐ろしいほど「詳細」に描かれており
それじゃ松川で上流中流下流から渡河した伊達軍一万五千と戦った義勝軍350人が
いかに城まで帰って来たのか詳細に説明して欲しいもんだよ。
650人に減った福島城側がその直後、城外に兵を一体何人繰り出して万単位の伊達軍と戦ったのか。
何故繰り出したのか?その戦闘の模様は?その寡兵を率いてた武将は誰?生きて帰ってこれたのか?
普通全滅だわな。その後片倉隊の追撃を城内にまで受けてる訳だし。
はっきり言ってこんな自殺行為は有り得ない。「撃退セラレ」で済ますな日本戦史w

桑折で梁川勢100人に奪われる荷駄隊の様子も詳細に知りたいね。
政宗は後陣も配せず福島へ猪のように向ったようだけど、それだって普通救援に向う部隊が居るだろうと。
100人に負けたの?車丹波は阿武隈川をどうやって邪魔もされずに膨大な荷駄を運べたの?

あと砂金実常の鉄砲は元込め式だったのかな?
日本戦史があまりにも淡々と書くものだから、知りたい事が沢山ありすぎて困ってしまうw

>「日本戦史」には関連記述がほとんどないことに
伊達側の記録主体で書いてる筈なのに
繁長が城内で槍を揃えさせ、搦め手から突撃させる寸前の描写があるんだよね。何故だろう?
まるで通説にある繁長反撃の一歩手前の部分がさ。もっとも通説では繁長隊は二千人。
対してこれまで日本戦史の挙げた数字、描写を考えると
この時点で戦闘行為可能な兵は多く見積もっても400人前後しか城内には残っていない。
伊達が退却していなければ繁長による城内カラッポ攻撃は行われていたようだが…
本当にね。馬鹿馬鹿しい。有り得ないの連続。日本戦史バンザーイ!!

366 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 21:56:04
「大日本戦史」を信じてる人は松川の合戦で焼かれたとされる信夫山の社寺をどう説明するんだろう。
信夫山といえば政宗の本陣。
「大日本戦史」に書かれた戦闘経過を読む限りでは
上杉の兵はとても信夫山に近づける状態ではなかったようだが。

367 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 21:58:38
まあチョチョイのチョイでしょう

368 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 22:12:54
大日本戦史の基の資料で論じ合えば?そうじゃなきゃ話にならんと思うが
「武辺咄聞書」は史料的価値低いし、「会津陣物語」も同様だし

大日本戦史は、あくまで史料の解釈による概要だから

別の史料はないの?


ところで参謀部の捏造と書いた>>298が、いまだに何食わぬ顔してレスしてるが
捏造の件はどう説明すんの?

369 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 02:54:50
>>368
何言ってる。 「武辺咄聞書」も「会津陣物語」も「伊達治家記録」よりは余程史料価値が高いぞ。
とにかく政宗は松川で危なく命拾いするほどの大敗を喫してるんだ。
これは、郡山の対陣で佐竹の捕虜になったのを見逃してもらったこと、領地に戻る時に相馬に謀殺されそう
になったのを土下座して帰国させてもらったのに続く失態だな。

370 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 05:17:09
まあ、政宗じゃないだろうけど
他の武将(小十郎or勘解由)だった可能性はあるよね。
武辺咄聞書や会津陣物語は創作された部分とそうでなさそうな部分を
嗅ぎ分けながら読むと面白い。
伊達治家記録内の福島城攻防戦は誰が書いたのだろう?
これって結構重要な事だと思う。

371 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 05:53:47
>>369
>何言ってる。 「武辺咄聞書」も「会津陣物語」も「伊達治家記録」よりは余程史料価値が高いぞ。

  「聞き書」「物語」VS「記録」。さてどちらが創作色が濃いか…(以下ry

>とにかく政宗は松川で危なく命拾いするほどの大敗を喫してるんだ。

ところが、いくら調べてもその記述は見あたらない。上杉びいきの小説
 ですら「本荘が撃退」程度。そして、ここが重要なポイントだが、
 「武辺咄聞書」で景気よく描かれているのは何故か慶長6年の4月下旬。

>これは、郡山の対陣で佐竹の捕虜になったのを見逃してもらったこと、

 話を勝手に捏造しないでくださいな 

 >領地に戻る時に相馬に謀殺されそうになったのを土下座して帰国させてもらった

 与太話をここで持ち出されても。




372 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 09:14:56
「日本戦史」は他の資料や言い伝えを意識的に否定しにかかっている気がする。
本庄側に虚を突かれた伊達政宗が信夫山へ後退した、と俗に言われているが
「日本戦史」では、政宗はいつのまにか羽黒山に移っての小十郎景綱との軍議&
本庄突出直前に伊達撤退と、完全に差し替えている印象。

あったとされる須田と本庄の挟撃も、
「日本戦史」内では、わざとらしく登場した石川昭光が予見し諫言する都合の良さ。
(それまで「日本戦史」が経緯説明した梁川城と福島城の矮小な兵数では
挟撃すら出来ないと思うが)

>>366でも書いてある、追い詰められた政宗本陣への上杉勢による焼き討ち。
上杉から三方より信夫山を攻め立てられた政宗は、
寺寂光院に守られ、裏山よりほうほうの体で北目城へ帰ったとされている
その時、信夫山にある建物は民家も含め焼失した、と地元でも言い伝えらる。
これも「日本戦史」では
10/7に上杉兵が三方より来るが伊達は遠く兵を引いていた
等と記述。
このように「日本戦史」では
伊達が負けたとされる情報を何とか打ち消そうと躍起になっている様が
所々見受けられる。が、
その打ち消し方があまり上手じゃないから
殆どの人から相手にされていない、というのが実情。

373 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 09:31:07
>>372
訂正
寺寂光院に守られ>別当寺寂光院で守られ

374 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 13:46:57
でさぁ、大日本戦史で採用されてる史料で話をしないのはあれか?わざとか?
大日本戦史を否定しても、「武辺咄聞書」「会津陣物語」の肯定にはならんしさ

陸軍参謀部戦史研究科の捏造説まででっち上げてる時点で、かなり説得力ないけどな

ちなみに
「武辺咄聞書」「会津陣物語」「伊達治家記録」の史料的価値、信憑性から言えば
全然「伊達治家記録」の方が上、んなもん普通に論文等で使用されてるか否かで判断できるぞ
というか、「武辺咄聞書」「会津陣物語」の上杉の話は滅茶苦茶なもの多いじゃん
家康の会津征伐の迎撃構想とか、辻褄の合わないものばかりだし

それでも「伊達治家記録」は、あくまで伊達側の記録だから、割り引いて読む必要はあるのだけどね


375 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 15:16:00
>>374
上杉側が松川合戦をネットで検索してみろと言えば
伊達側は論文での資料的価値はこっちが上と言い返す始末。

んなもん伊達治家記録内での松川合戦のくだりは一体誰が書き残した物なのか、
もったいぶらず書けばいいだけだ。
武辺咄聞書と会津陣物語は筆者と編纂した奴の素性は明らかになんだし。
これを読む大抵の奴は江戸時代に手を加えられた物だと知って読んでるよ。
書いてある全てが100%正しくない=全部嘘だ、なんて普通思わんて。
そうやって情報を差っぴきながら読まれても尚、
武辺と会津陣に書かれた説の方が世の中に容れられてるって事。

376 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 15:31:53
福島城の戦いは、政宗が1日で撤退したから歴史の謎とされているだけで、大日本戦史が
記述するように、別に上杉に大敗したわけでもないことは歴然としている。
逆に上杉の自慢話に都合良く尾ひれがついて伝わったものが「武辺咄聞書」「会津陣物語」。

大日本戦史の記述を捏造と全否定するのは、さすがに無理があるね。

377 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 19:58:54
こうして見ると大日本戦史も充分変だ。
戦闘の記載といい、政宗の判断といい、確かに無茶が多すぎる。
負けずに引き帰して行ったのなら途中で梁川城を攻めればよかったのに。
戦の概観も眉唾物なら一日で撤退する動機もおかしい。

信じられる部分があんまりないね。

378 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 22:37:20
>>375
>伊達治家記録内での松川合戦のくだりは一体誰が書き残した物なのか
>もったいぶらず書けばいいだけだ
え?これは藩史で、編纂に関わった人間は多数いるから、誰がというのはわからないが
綱村の時に編纂されたのは事実だが
で、内容をいえば「伊達治家記録」の書かれてる内容は、伊達家文書などで確認取れるのが多数あり
信憑性が高く認知されてる

「武辺咄聞書」「会津陣物語」も延宝八年に国枝清軒が校訂したという事になってるが
どこまで校訂してるのかは知れず

>武辺と会津陣に書かれた説の方が世の中に容れられてるって事。
残念、君の世の中はどうか知らないが、多くの論文・研究本で「伊達治家記録」を論拠として
使用し、「武辺咄聞書」「会津陣物語」は使用されてないのが現状
もっとも、大日本戦史捏造をでっち上げした時点で説得力皆無だけどね

では、「武辺咄聞書」「会津陣物語」を論拠に取り上げてる研究本とか紹介して
信憑性高いのを証明すれば良いんじゃないの?
「武辺咄聞書」「会津陣物語」を題材にした本ではないよ、論拠だからね

俺としては伊達日記に、この件の事、またはこの時期の事がどう書かれてるか気になるところだけど
>>371の人が読んでたら聞きたいね
わからなければ、自分で図書館行って見てみようかと思うけど


379 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 22:42:23
盛り上がってるねえ
どっちにも地縁・血縁のない俺のような野次馬には面白い
毎日ROMしてる人結構いるんじゃないかな

380 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 23:22:27
耳川合戦・・・島津軍3万 対 大友軍4万5千

こんな大規模な野戦をガチでやって結果が大友軍の戦死者2万にも達するという
一方的な大勝利を収めている。
稀な大勝利、武田信玄 対 上杉謙信 の川中島合戦に比べるとその大勝利ぶりが
際立っている

木崎原合戦・・・島津軍300 対 伊東軍3000

この圧倒的な戦力差を凌ぎ奇跡的な大勝利を得ている

泗川合戦・・・島津軍5千 対 明・朝鮮連合軍 20万

圧倒的な戦力差を逆に利用し相手を上手に誘い込み、再起不能になるまでに
叩き、戦果として3万8千人の首を上げ、島津軍の犠牲は2人という大勝利を挙げる

関ヶ原合戦・・・8万の大軍に囲まれた中に取り残された300の兵で中央突破に成功し
        大坂城に残された妻を取り戻し、薩摩へ無事帰還する

沖田畷合戦・・・島津軍3000 対 竜造寺軍 5万7千
        
        竜造寺隆信を巧く誘い込み、見事に討ち取り5万の大軍を総崩れにさせる

戸次川合戦・・・九州に上陸してきた豊臣軍第1軍を壊滅させる
        長宗我部信親など討ち取る
        沖田畷でも大名・竜造寺隆信を討ち取るが指揮官を討ち取るというのは
        野戦では珍しく、それを何度もやり遂げている島津家久は戦国一の戦上手であろう

381 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 23:26:12
「武辺咄聞書」「会津陣物語」は信憑性低い
「伊達治家記録」は伊達側の記録だから、差し引いて考えるべき
「大日本戦史」は史料ぜはなく資料、引用元で議論すべき

だから、松川合戦を伝える他の史料は?となるのだけどね
伊達日記や伊達家文書など、伊達関係は活字化されてる史料多いから、その辺の状況はどうなの?
上杉関連の史料見ようにも、戦国史料叢書の上杉史料集で他に載ってるのは
「北越耆談」や「上杉将士書上」だし、碌なもんじゃない
上杉系で良質の史料求む、本当に少ない

382 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 03:56:54
>>381
素朴な疑問だが、「大日本戦史」というのは「日本戦史」(参謀本部編)とは別物なの?

383 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 06:24:57
「伊達治家記録」の資料的価値は相当高い。否定しきるには
それ相応の根拠を示す必要があると思う。

一方、伊達家にとって「武辺咄聞書」「会津陣物語」に相当する
ものは、「東奥老士夜話」(仙台文書)辺りだ。
これは、伊達藩の古老からの「聞き書き」をまとめたものだが、奥山大炊
(1615〜1689)が語り部となって登場する。

ここには元和期の伊達謀反という世情を反映されていたとみえ、対幕府へ
の伊達藩の対応策が「御内試」として論じられている。広瀬川、名取川の堰
を切り、幕府軍を迎撃、松島の瑞願寺を城郭として迎撃。誇り高き政宗はそ
こで腹を切ることまでが想定されていた、と。

>>381氏がいうように、松川の合戦は上杉方の「良質の史料」から論じる必要が
あるだろう。いくら力説しても「夜話」「古老咄」の域を出ないために。

384 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 06:26:16
>>378
つまり伊達治家記録において松川合戦を記述した人物は不明ということか。
その記録した人物が松川の戦場に居たとも限らず、実は本国に居た可能性まである訳だ。
福島から戻ってきた敗残兵の作り話を鵜呑みにし、藩史としたのかもしれないと。

つーか、本当に日本戦史に書かれてるような事が伊達治家記録に書かれているのかと。
堕とせる要素が揃っていた梁川城にも関わらず、不可解な理由で素通りした、たった数時間後、
その梁川城に後方を寸断されると恐れだす哀れな政宗が描かれてるんだろうか?

持矢倉の10倍近い距離を、敵味方関係無く射撃したとされる砂金実常の勇姿も描かれてる?

守兵も後陣も置かず、人足と共に置き捨てられた桑折の荷駄車はどう表現されてるんだろう?
万一これらが伊達治家記録に書かれてないとすれば、一体日本戦史は(本庄繁長が槍を短く切り揃えさせながら檄を飛ばす場面も含め)
一体どの資料に拠った物なのか、皆目見当がつかなくなるね。

>多くの論文・研究本で「伊達治家記録」を論拠として使用し
その松川合戦研究本とやらの名前を何故書かないの?
これだけ「政宗は撃退された」「逃げ帰った」とされる見方が定着してるんだからさ。
それらを翻す研究本があるのなら初めから挙げて欲しいもんだ。

385 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 06:50:43
>>383
信長公記だって全体的に信憑性は高いといわれているよ。
しかし本能寺の記述は低いとされている。筆者がその場に居ないとされてるからね。
根拠も無しに資料の全部を信じ込むというのは大きな誤り。
伊達治家記録だって膨大な量なんだから。
その伊達治家記録内で出来事を書いた各文章毎に、検証や考証、根拠が求められるのは当然の話。
「その部分だけ嘘」という可能性は幾らでもある。
それを受けて伊達日記と照らし合わせたい人が出てくる訳でしょ。
上杉側の資料も本庄氏文書や愛宕公園一帯に残された伝聞の元資料(各神社が保有してると思うが)
これらに一般人も接する事が出来れば良いのだが。

386 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 09:35:11
>>384
>これだけ「政宗は撃退された」「逃げ帰った」とされる見方が定着

 寡聞にして、上杉を主人公にした小説本の中でしか聞いたことがないけど。
「武辺咄聞書」「会津陣物語」側に立った研究者って誰かいるの?


387 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 11:12:34
>>384
会津陣物語同様、書いた人物が戦場に居ない
どういう経緯で書かれてるかは謎だが、残されてる書状等で確認できる箇所多数なので信憑性が高く
研究本等の論文で論拠として使用されてるのが現状

>堕とせる要素が揃っていた梁川城にも関わらず、不可解な理由で素通りした、たった数時間後、
>その梁川城に後方を寸断されると恐れだす哀れな政宗が描かれてるんだろうか?
どんな史料でもそうだが、合戦の内容などは信憑性薄い
そして、落とせる要素がそろっていたというのは、あくまで君の文面での判断でしかなく、
通常、こういう場合は、伊達は、どういう理由で無視したのかという理由を考える

>その松川合戦研究本とやらの名前を何故書かないの?
松川合戦の研究本なぞ、自分の知る限りありません
極局地的な、大勢に影響のない事象のみを扱う研究本は稀です
地元の郷土研究家が自費出版してるかも知れないが
でも伊達や奥羽等の研究には、確実に使用されます>「伊達治家記録」

翻って、「武辺咄聞書」「会津陣物語」は使用されてない
使用されているなら、それを紹介して欲しいと書いたが、そこは無視と
大日本戦史捏造や「武辺咄聞書」「会津陣物語」の説が一般に受け入れられてる等、
とんでもないですね
ちなみに伊達日記と照らし合わせてと書いたのは自分
1史料のみで語ってもしょうがないからね
「武辺咄聞書」「会津陣物語」は話にならないけど、上杉側のこの辺りの良質な史料は聞かないよなぁ
宇佐美定祐が悪いのだけど

>>382
大日本戦史が正式名称、日本戦史とは簡略化された再販本でしょ
日本戦史は読んだことないから知らないけどね

388 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 13:18:30
>>387
> 大日本戦史が正式名称、日本戦史とは簡略化された再販本でしょ

ぐぐると、「大日本戦史」っていうのは高柳光寿氏が編集して三教書院から昭和12年〜17か18年頃まで
刊行されたシリーズの模様。一方、「日本戦史」は参謀本部が編纂して明治末年に刊行されたシリーズ
なので、前者を要約したのが後者というのは物理的にありえないんだが。

> 日本戦史は読んだことないから知らないけどね

ちなみに、「日本戦史」の方は昭和40年代に徳間書店、50年代に村田書店から復刻され、一部が徳間文
庫で地図を割愛した形で復刻されています。故にこちらの方が現在は圧倒的に読まれていると思われ。
また、今年発刊された「日本の合戦」の創刊号〜6号くらいまでに特別付録として地図が1枚ずつついて
います。

389 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから

復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから

というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?

390 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 13:51:39
>>385
つまりこうゆう事か。
○その戦に参加していた者○
福島城攻防戦→杉原親清(会津陣物語の原作者)
本能寺の変→本城惣右衛門(光秀軍の一人として記録を残した)
■戦に参加していたか疑わしい者&していない者■
福島城攻防戦→伊達治家記録の筆者&国枝清軒(会津陣物語の校正)
本能寺の変→太田牛一(信長公記の筆者)
やはり戦全体の流れを掴む為、「会津陣物語」を、ある程度参考にするのは、あながち間違った行為でもないな。

391 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:19:33
>>390
杉原親清が書いたと言われてるのであって、事実は不明
杉原親清が参加していたかすら確認が取れません
親清が伝承を収集編纂したとも言われてる

甲陽軍鑑だって、春日虎綱著が原作、甥と名乗る春日惣次郎がそれを書き継いで、
編纂は小幡景憲となってるが、実際のトコは不明と似たようなもの
宇佐美定祐と同レベル>春日惣次郎

>伊達治家記録の筆者&国枝清軒(会津陣物語の校正)
筆者という意味がわからないが、少なくとも「伊達治家記録」は現存してる書状等の一級資料から
裏付けが取れる内容だし、編纂時には伊達家の記録から編纂してるのは間違いない

逆に「会津陣物語」の裏付けが取れる記述はあるの?誤差などの間違いが甚だしいのだけれど
それと校正だと誤字や脱字だけを国枝清軒が直した事になるが、いいのかいな?

ちなみに「本城惣右衛門覚書」は信憑性は?だぞ
伏見城の件といい、他の史料と余りにかけ離れてる内容だから
内容確認して発言しないと恥晒すよ
現状では史料の所在が不明になってて、武功夜話よりタチが悪い

392 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:37:47
>>389
釣るほど暇じゃないんですが。

393 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:46:50
>>392
あら、マジレスでgoogleで調べたらって言い返してきたのか…orz
ごめん、もう勘弁してください


394 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:02:06
>>393
国立国会図書館の蔵書索引なわけだが。

検索条件: タイトル=大日本戦史
結果件数: 和図書 6件
タイトル順著者・編者順出版年順 正順逆順 / 20件50件100件200件
--------------------------------------------------------------------------------
和図書 1−6(6件)
1. 大日本戦史. 第1至6巻 / 井上一次,辻善之助[他]. -- 三教書院, 昭12至15
2. 大日本戦史. 第1-8巻 / 高柳光寿[他]. -- 三教書院, 昭和17-19
3. 大日本戦史. 第1-2巻 / 高柳光寿. -- 三教書院, 1942
4. 大日本戦史. 第4巻 / 高柳光寿. -- 三教書院, 1942
5. 大日本戦史. 第6巻 / 高柳光寿. -- 三教書院, 1942
6. 大日本戦史大観 / 日本歴史研究会. -- 日本歴史研究会, 昭11

検索条件: 著者・編者=参謀本部 and タイトル=日本戦史
結果件数: 和図書 4件
タイトル順著者・編者順出版年順 正順逆順 / 20件50件100件200件
--------------------------------------------------------------------------------
和図書 1−4(4件)
1. 日本戦史. 〔第1,2〕 / 参謀本部[他]. -- 元真社, 1911
2. 日本戦史. 小田原役 / 参謀本部. -- 元真社, 大正3
3. 日本戦史. 朝鮮役 / 参謀本部. -- 偕行社, 大正13
4. 日本戦史 / 参謀本部. -- 元真社, 明26-44

395 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:04:52
はぁ…自分で足運んで確認してね
もうそれしか言いようがないから


396 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:13:54
>>395
首都圏某県の県立図書館の蔵書索引なわけだが。

検索条件: 【書名='*大日本戦史*'】
--------------------------------------------------------------------------------
■書名をクリックすると詳細情報を見ることが出来ます。No 資料区分 書名 著者 出版者 出版年 分類 資料種別
1件目 図書 大日本戦史 第1巻 高柳光寿/著 三教書院 1937 391  
2件目 図書 大日本戦史 第2巻 高柳光寿/著 三教書院 1938 391  
3件目 図書 大日本戦史 第3巻 高柳光寿/著 三教書院 1939 391  
4件目 図書 大日本戦史 第4巻 高柳光寿/著 三教書院 1938 391  
5件目 図書 大日本戦史 第5巻 高柳光寿/著 三教書院 1938.11 391

検索条件: 【書名='*日本戦史*'】 AND 【著者='*参謀本部*'】
--------------------------------------------------------------------------------
■書名をクリックすると詳細情報を見ることが出来ます。No 資料区分 書名 著者 出版者 出版年 分類 資料種別
1件目 図書 日本戦史 〔1〕 参謀本部/編 村田書店 1977 210.4  
2件目 図書 日本戦史 〔2〕 参謀本部/編 村田書店 1977 210.4  
3件目 図書 日本戦史 〔3〕 参謀本部/編 村田書店 1977 210.4  
4件目 図書 日本戦史 〔4〕 参謀本部/編 村田書店 1978 210.4  
5件目 図書 日本戦史 〔5〕 参謀本部/編 村田書店 1978 210.4  
6件目 図書 日本戦史 〔6〕 参謀本部/編 村田書店 1978 210.4  
7件目 図書 日本戦史 〔7〕 参謀本部/編 村田書店 1978 210.4  
8件目 図書 日本戦史 〔8〕 参謀本部/編 村田書店 1978 210.4  
9件目 図書 日本戦史 〔9〕 参謀本部/編 村田書店 1979 210.4  
10件目 図書 日本戦史 〔10〕 参謀本部/編 村田書店 1979 210.4  
11件目 図書 日本戦史 〔11〕 参謀本部/編 村田書店 1979 210.4  
12件目 図書 日本戦史 〔12〕 参謀本部/編 村田書店 1979 210.4  
13件目 図書 日本戦史 〔13〕 参謀本部/編 村田書店 1980 210.4

「日本戦史」の元本の「大日本戦史」ってあなたの脳内図書館蔵?(w
そうでなければ所蔵館を具体的に明記してくださらんかなぁ。

397 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね


398 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:18:03
>>397
勝利宣言でつか?(w

399 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:18:08
俺も「日本戦史」で検索して、書庫から引っ張り出してもらった記憶があるな。
大日本戦史とは別物だよ。

400 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:23:57
>>399
それは、全てあなたの思い込みです
勝手に悦に入ってくださいね


401 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:26:33
あらら、煽るだけじゃなく、ついに騙りまで始めたよ>>400

402 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:28:40
>>399-401
自作自演うざい。

403 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:29:28
騙りまでやり始めたから、>>400-401を自演とするかもね


404 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:31:18
どんぴしゃ…>>402

荒らす気みたいね、「会津陣物語」を妙に推すヤシのやり口わかったから、もういいや
まともな話するきじゃないようだ

405 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:34:13
「日本戦史」の元本になったという「大日本戦史」の所蔵館を明記できないヤシのやり口わかったから、もういいや
まともな話するきじゃないようだ

406 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから

まぁ捏造したりする輩だから、煽り騙りや自演は日常茶飯事なんだろうな

407 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:45:09
>>406
今時稀少本を初めて見に行くのに、最初に蔵書検索をかけて所在の有無を確認しないんですか!?
行き当たりばったりで出かけて、なかったら回れ右して帰ってくるんですか。
随分効率の悪い調べ方をなさるんですね。
ああ、できたら首都圏の図書館で置いてあるところを教えてくださいよ。
蔵書検索でないのがわかってる国会図書館と都立図書館とS県立図書館でお願いしますね。

408 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:46:10
>>407
訂正
> 蔵書検索でないのがわかってる国会図書館と都立図書館とS県立図書館でお願いしますね。
                          ↓
蔵書検索でないのがわかってる国会図書館と都立図書館とS県立図書館以外でお願いしますね。

409 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:50:15
>>407
その図書館で初版か第三版読んでるから、そこで撮ろうかと思ったんだけど?
百聞は一見にしかずでしょ、何か問題あるのかな?
なんかやけに絡むなぁ、あぁ捏造して煽り騙り好きな輩か、どうりでねぇ

ついでに上杉系の良質な史料が“あれば”、見てこようかと思うが
どうもなさそうね、捏造する輩は、「武辺咄聞書」「会津陣物語」しか出さないし
ま、調べてきますよ

410 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:16:05
>>409
いやぁ、近所の図書館にそんな本があれば是非後学のために拝見したいと思ったもんで。
ところで、「大日本戦史」って当然「日本戦史」の元本なんだから当然明治中期以前に編纂された本な
んでしょ?
個々の資料の内容を捏造する人はよくいるけど、資料自体の存在を捏造する人は珍しいなぁと感心し
ているところですよ。

411 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 17:42:20
資料の内容を捏造する人は少ない

もっとも
>>298
>日本戦史というのは殆どが旧参謀本部の捏造、作り話だとの見方が最近強いですよね。
>戦争の模様を克明に書き出しているとは言っても
>桶狭間、長篠の戦い等有名な戦でさえ完全な捏造、創作である事は今や常識です。
>その描写は「こうなる筈だ」「こうゆう見解だと都合が良い」と勝手に描かれた絵空事。
>そんな彼等、旧参謀本部が福島城攻防戦だけ真相を書けるとは到底思えません。
>そんな資料を一番に持ち出してきても説得力は生まれないと思いますよ?

>>369
>何言ってる。 「武辺咄聞書」も「会津陣物語」も「伊達治家記録」よりは余程史料価値が高いぞ。
と書いて、最後には煽り騙り自演して、後学の為…、誰が信じるんでしょうねぇ

というか
>個々の資料の内容を捏造する人はよくいるけど、
これは自分がやった捏造にを、よくある事とする布石ですか?

まぁいいや、「武辺咄聞書」「会津陣物語」の内容の裏付けを取れる上杉側の文書等はないのかな?
ここにいる上杉を推してる輩(約1名)は捏造するし、知ってるとは思えんけどね
伊達は、有名所で「伊達日記」あるしなぁ
福島在住の人がいたらいいんだけどね、郷土史の叢書があって、ちょっとした寺社関係の文書あったりして
それに載ってたりしたりするんだけど

412 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:22:30
>>411
だから、早く「日本戦史」の元本になった方の「大日本戦史」を所蔵している図書館をいくつか教えてよ。

413 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:51:57
日本戦史の元本なんだ>大日本戦史

再販本とは書いた覚えあるけどな

それと、知らない図書館の事なんか知らない
自分で探せば?捏造君

414 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:38:34
>>413
単なる「再販」じゃなくて「簡略化された再販」ならば元本じゃないか。まったく等質のものじゃないんだから。
自分で>>387に書いておいて曖昧なこと言っちゃいけないねぇ。

415 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:56:30
>>414
地図簡略化、関ヶ原役では文書を簡略化してるのでは?
これを簡略化して再販と言わないのか?
それを元本とは言わないけどな

もう少し日本語勉強したほうがいいな、国語辞典で「元本」とは何か調べるといい

>日本戦史というのは殆どが旧参謀本部の捏造、作り話だとの見方が最近強いですよね。
これの言い訳考えた方が(ry

>「武辺咄聞書」「会津陣物語」
の裏付け取れる書状等なんかも探したら?

論点ずらして、揚足取ろうと必死なのはわかるがね

416 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 22:24:50
IDが出ないから誰と誰が言い争ってるのかわからん
たった一人の自作自演による壮大な釣りのような気がしてきた

417 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 22:47:08
あの〜伊達側だって羽黒山から数千丁の鉄砲射撃しただの。
政宗は羽黒山にずっと居て動かなかっただの。
脳内日本戦史を捏造してたんじゃ…まぁいいや。くわばらくわばら

渡邊三省が書いた「正伝 直江兼続」って本の中にも松川合戦の事が書かれているけど
日本戦史内の無茶苦茶な描写をバッサリ無かった事にして、
あとは会津陣物語っぽかったけど、微妙に全然違う描写も混入してるんだよな。
「福島陣之人数」(本庄家文書)など部隊の構成なんかも書かれていて、かなりリアリティがあった。
同氏が書いた「本庄氏と色部氏」と合わせて「本庄家文書」も是非目を通してみたい。

あと伊達治家記録か日本戦史だか分からないけど
政宗が信夫山まで攻め立てられ、羽黒山別当慶陰にかくまわれ落ち延びた事にならないと
慶陰が羽黒山を一時期離れたとされる切っ掛けがなくなってしまうのだけど…
そこらへんの日本戦史(伊達治家記録?)との矛盾点はどうなるんだろう?

418 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 23:19:13
まあ、少し冷静になった方がいいよ。何かわけわからん状態だな(苦笑)
おそらく一般的に、一番普及したと思われるタイプの奴(文庫)を持っている
が、内容はこんな感じだ。

   「旧参謀本部編纂 日本の戦史 関ヶ原の役(監修:桑田忠親・山岡荘八)」
    徳間文庫 定価¥590
    1994年1月15日初刷/1996年7月31日4刷

 ・福島城の戦闘状況は、p301〜303までの約2.5ページに記載されている。
 ・サブタイトルは「政宗、梁川城攻撃に失敗」
 ・松川の戦いで上杉を圧倒したこと。陣幕が奪われたこと。
 ・福島城の長期攻略化を憂え、銃撃指示後退却指示。
 ・梁川城への内応工作が失敗したため、梁川城の攻撃を中止したこと
  (=梁川城攻撃「失敗」の件)が記載されている。
  ・編者の視点は、梁川城に始まり、梁川城に終わっている。
  ・福島城での戦いの記載はほとんどなく、本庄繁長の「ほ」の字すら出
   て来ない。

この文庫本は手軽だし、「大坂の役」と一緒に購入して読んだ人は多いはずだ。
が、これを読んでも「本庄が伊達を撃退した」などという印象・感想を持つこと
など到底できないだろう。

本庄最強伝説は、何らかの小説で誇大に誤った形で流布されたものだと考えられる。


419 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 23:27:43
上の文は、>>384の「これだけ「政宗は撃退された」「逃げ帰った」とされる見方が定着
してるんだからさ」へのレス。この文庫本はそうした見方・世論形成は果たさなかったと
意味において。

420 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 23:46:40
そりゃ全然説得力ないからねえ。参謀本部の受け売り+αじゃ、ね。
たった一日が長期化とか言われてもピンとこないし。
福島城を引き上げても梁川城は兵数が600人、後顧の憂い(福島城)を折角絶って来たのに
内応が発覚しただけで攻めません。
それじゃ内応者が出ていない、兵数も多い、天然の要害である福島城を何故攻めたのか?
説明つかない部分が多すぎる。
この伊達軍の行動は現実味が無い。

421 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 05:01:24
>>420
>参謀本部の受け売り+α

  えっ? この本って「参謀本部の受け売り」なの?
  それに大体、「参謀本部」の何が問題なわけ?

  自分でも、おそらく、言っている「意味」わかって
  書いてないと思うが…

422 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 09:29:35
「旧参謀本部編纂」って書いてるでしょ。
参謀本部が参考にしたと言われてる「伊達治家記録」も
文書、他資料で裏を取れる記載が幾ら多い所で、全てを
信じる訳にはいかない。これは逆に出鱈目が書いてある
資料、著者でも全部を否定できない事にも繋がるという
事だが。それは置いといて…

資料とは一つ一つ書かれた、その行為の信憑性、整合性、
地域伝聞との一致等が求められる。が、「日本戦史」=
「伊達治家記録」の場合、この多くの部分が矛盾、破綻、
非現実的な描写で満ち満ちている。
「伊達治家記録」を庇いたいが為、政宗の行為が「謎」等
という訳の分からない結論でお茶を濁す輩まで出てくる始末。
別の記載で正しい情報が書かれている、だからその余勢で、
この部分も正しい。何故なら「伊達治家記録」なのだから。
こうゆう考え方は駄目。

政宗が梁川城に固執していたとする場合、何故内応者が出た
時点で攻めなかったのか?充分軍を向わせる事が出来る位置
にありながら、何故あえて福島城へ向ったのか?
みすみす内応者の登場、といったチャンスを見送ったのか。

この本の中で、それらを一体どのようにして弁明されているか
知りたい物だ。

423 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 11:06:53
>>422
全ての謎は、簡略化される前の「大日本戦史」に答えが載ってるんだろ。(w

424 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 17:39:00
悪いな、今日図書館いけなかったよ
明日には行くように確実に明けたから、辛抱汁

>「伊達治家記録」の場合、この多くの部分が矛盾、破綻、
>非現実的な描写で満ち満ちている。
これは当然の指摘だ、だから他の史料との検討をと書いてる

>別の記載で正しい情報が書かれている
この別の記載で正しい情報というのがわからない

「伊達治家記録」だけをもって肯定するのは間違い
しかし>>422がいう事は、そのまま「武辺咄聞書」「会津陣物語」にも当てはまる
だから、双方とも他の史料のは?と書いてるが、誰も何もその件について述べない

伊達側には、伊達日記と伊達文書(文書は多分、福島か宮城在住じゃないと、
活字化された資料見るのは困難だ)があるが、上杉には?
「武辺咄聞書」「会津陣物語」という、多くの部分が矛盾、破綻、
非現実的な描写で満ち満ちている軍記物では、根拠にならない

というか、「伊達治家記録」の描写は「多くの部分が矛盾、破綻、
非現実的な描写で満ち満ちている」と指摘して、「武辺咄聞書」「会津陣物語」には
触れない理由が知りたいね

425 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 19:29:27
まだ「伊達治家記録」と「日本戦史」との比較をしていないから
「伊達治家記録」をこきおろすのは抵抗を感じる。
(上杉側の詳細な兵数といい、本庄繁長の言動といい、当時伊達家が分かる筈の無い情報まで書かれているから)

「武辺咄聞書」「会津陣物語」は読み物として面白くさせる為の脚色を除けば、
その中に描かれた政宗の行動、思考に不自然さは感じないんだよね。
つまり「謎」と言われる物が少ない。
伊達の小荷駄隊にも護衛がついてるし、松川での上杉側の混乱も嘘っぽくない。
大敗北を喫して、城に逃げ込もうとするも、背負った旗が邪魔して入れないなど
なかなかリアル。

ただ渡邉三省の研究本「正伝 直江兼続」との描写が若干異なる。
本庄軍が城門を開き、密集体形を取り、短い槍でもって伊達軍へ一気に猪突する。
須田率いる梁川城側が、松川を渡りきっていなかった伊達軍を後ろから襲い、
川中で壊滅させる。
こんな描写は「会津陣物語」には書かれていない。
しかし渡邉三省が書いた他の本、他の考察を読む限り、何か裏付けがあって書かれたようにしか思えない。
まったくの空想で物を書くようなスタイルの人ではない、と感じる。
氏は、「本庄氏と色部氏」という昔書いた本の中で、既に一度詳細を書いているから、
そこから引用する。といった事を書かれている。
実際「正伝 直江兼続」にはよく(本庄家文書)(本庄家資料)といった注釈をよく目にする事が出来る。

自分もこの繁長が行った反撃の拠り所となった資料を目にしてみたいが
どうやら「本庄家文書」も閲覧は難しく、「本庄氏と色部氏」という本でさえ
どこの大学図書館にすら置いていないというのが現状。

そして上杉軍により劣勢に立たされた政宗が信夫山に「かくまわれた」事を顕す本として
福島県の考古学者梅宮茂氏の著作「信夫山めぐり ほんとの信夫山の歴史」がある。
しかしこれも他府県では読めず、今では入手も困難。
福島県の図書館内でしか見る事は不可能なのだそうな。

426 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 19:49:55
>>425
> まだ「伊達治家記録」と「日本戦史」との比較をしていないから

違う。比較するのは「大日本戦史」だろ。
孫引きと比較してどうするんだよ。少しでも一次資料に近い方を比較対象にしなけりゃ。

427 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 05:55:39
>>425
>「武辺咄聞書」「会津陣物語」は読み物として面白くさせる為の脚色を除けば、
 その中に描かれた政宗の行動、思考に不自然さは感じないんだよね。
 つまり「謎」と言われる物が少ない

実際、こんなことを本気で語っているとすれば、まずはその神経を疑わざるを得ない。
内容、数字とも出鱈目な「武辺咄聞書」「会津陣物語」に立脚点を置いているため
結局伊達厨の1人すら納得させることもできていない。
たとえば、同書には以下のようなことがまことしやかに描かれているが、記述のあまりの恥ずかしさに
口を閉ざすしかないだろう。いかなる上杉ファンであろうと。

  慶長6年4月26日、25000の軍を率いた伊達軍と甘粕・杉原らの6000
  の兵が激突。「福島城の柵ギリギリまで接近した伊達政宗は、青木兵衛という
  武者に槍を付けられ、落命の危機に陥った」という。
 
同日、岡野左内にも斬りつけられ「落命の危機」に陥ったとのことではあるそうなので、
政宗は短期間に2回生命の危機に瀕したという話になる。

ともあれ、まずは大日本戦史と伊達治家記録の検証が先だろう。この上杉マニアのお
手並み拝見といったところだ。期待して待ちたい。

428 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 06:31:17
 ×青木兵衛>○青木新兵衛

青木新兵衛は、小説『奇策』(風野真知雄著)では、時空を超え、慶長5年
10月6日に福島城で槍を入れたことになっているが、原著では慶長6年。
伊達政宗の兜は有名は三日月の弦月だが、それも分からずに槍を入れ、
あとで「あれは伊達政宗だぞ」との指摘に「なにっ」と地団駄を踏んで悔しがる
という「オチ」までつく。

429 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 18:24:26
書物全体が上杉礼賛に彩られ、必要以上に政宗を貶める手法により、
景勝を持ち上げる形を取っている面は否めない。

よって、脚色が強すぎる場面も見受けられるが、
だからといって、他の場面や出来事全体の流れを否定する事は出来ない。
大部分の場面における描写は自然であり、現場に居た者ならではの息吹きが感じられる。
そして戦の流れを掌る、重要な政宗の決断にも日本戦史に見受けられるような「不自然さ」
いわゆる「ブレ」や「揺れ」が見受けられない。

「会津陣物語」に登場するオッチョコチョイな政宗が似合うのは、実は「日本戦史」の方ではないか。
内応者が出ても重要な城を攻めないばかりか、抑えの部隊すら置かなかったり、
小荷駄隊を十キロ近く後方へと引き離した挙句、孤立させたり、
北方から数回の合戦を経て福島城に至り、外郭まで攻め落とし、敵の数も寡少だと分かった上で
軍をその日、たった一日で撤退させてしまう。
その理由は梁川城w
双葉山南から見下ろせば、福島城など小指の爪ほどにしか見えないだろうに、
そこから射撃をし、何の意味も無い弾薬の浪費をする砂金隊を、後方の本陣から見つめる政宗(苦笑)
しかも松川を行ったり来たりした挙句、登山した後の出来事。

福島から帰る道すがら、大好きな梁川城(600人)を、無敵且つほぼ無傷の伊達軍二万で攻めれば良かったのに。
優しくてオッチョコチョイな政宗は、城内で内応者が一人発覚しただけで尻込み。 何のこっちゃ。
福島城の戦いを読む限り、上杉軍は伊達軍の発する甘い匂いにでも惹き付けられてしまうのか、
三桁の兵力でもって、五桁の敵兵が待つ城下へと幾度も出て行ってしまうようだ。柵の意味なしw
そんな素晴らしい戦法を持つ「日本戦史」の政宗は、どうして梁川城を攻めなかったのだろう。

列挙したように「日本戦史」の描く福島城攻防戦というのは、一行読み進める毎に狂った世界が広がっている。
こんな物で納得出来る上杉ファン(戦国時代ファン)は誰一人としていない。

430 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 18:29:09
>>429
訂正
双葉山南から見下ろせば→羽黒山南から見下ろせば

431 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 21:18:20
大日本戦史の報告マダー????

432 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 06:27:19
>427
軍記物なんて話半分で読むものだし。あまりムキになって突っ込むもんでもな
いと思う。ただ当たらずとも遠からじ。で、落命の危機にあったのは伊達政宗
ではなく他の有力武将だったかも知れず。伊達政宗が自ら刀を抜かなければな
らない状況になっていたという事なのかも知れず。
書いてある事を額面通りに受け止め、アリかナシか二極選択するのはどうかな。
それは日本戦史を否定し続けている上杉厨にも言える事なんだが。要するにど
っちもどっちだな。

433 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 10:18:29
>>432
> それは日本戦史を否定し続けている上杉厨にも言える事なんだが。

誤:日本戦史
    ↓
正:大日本戦史


434 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 10:53:27
そういえば、小和田哲夫氏などの学者にさえ、「武辺咄聞書」「会津陣物語」は
軽くスルーされているよな(苦笑)

435 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 12:33:36
これ何人の自演?

436 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 14:16:15
結局大日本戦史と日本戦史の違い分かったの?
まぁ俺もそのうち大学図書館行って覗いてくるつもりだけど。

437 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 15:07:02
>>436
うん。基本的には同じもの。大日本戦史の記述や図表を簡略化したのが日本戦史。
粘着してた1人以上数人未満には、この場を借りて居所・実名を晒した上で謝罪してもらいたいな。

438 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 17:52:01
いかに言い逃れしようが、上杉景勝が戦略眼のない、臆病者の口先だけの
ヘタレ三流武将であることには変わりはない。未来永劫に。

要するに、家康が小山へ反転した時点で、一気に結城秀康軍を撃破し、関東へ
出て、江戸を占領する位の大勝負に出なければならなかった。景勝はみすみす西軍
の足を引っ張ったのだ。あれだけ「直江状」でタンカを切っておきながら。
そもそも会津は捨てなければならなかった。当然、がら空きになった会津は
最上・伊達に蹂躙され尽くされるだろう。問題はここだ。このスレタイの一流武将・
上杉謙信ならば、当然会津をガラアキにし、一気に結城秀康を撃破、江戸へ進撃しただろう。
そして歴史は大きく変わったはずだ。景勝はある意味馬鹿正直な武将とも言える。

家康は、ヘタレ景勝など、伊達・最上の牽制が怖くて決して西上はできないと、初めから舐
めてかかったわけだ。そして、その見通しどおりになった。景勝は見当違いな最上攻めなど
をして自滅してしまった。なお、福島城の攻防の同時期、伊達に力を注ぐあまり、上杉の庄内の
勢力範囲は、最上義光にいいように蹂躙され尽くし、ほとんど「草刈り場」と化していた情けない
現実も記述しておかなければなるまい。

無論「武辺咄聞書」「会津陣物語」には、最上義光のこの武勇には一行も触れていないだろうも。


439 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 19:02:46
どうかねえ。
景勝と家康・秀忠親子って憎み合ってる様には見えない。
会津に帰っても良いと言ったのは家康、その帰路、江戸で歓待しようとした秀忠。
家康は元々名家好きで朴訥で武骨な人物を好む。本音では下手に媚びる大名を嫌う人じゃないかな。
秀吉在命時、顔を合わせていた頃は案外ウマが合ったんじゃないかと思う。
確かに小山反転では直江の主張通り、追撃して欲しかったけどね。
ただ伊達も思っていただろうけど、
西軍と東軍の戦いが関ヶ原のような短期決戦で終わらず、長期化すると睨んでたんじゃないかな。
そうすれば伊達と講和状態にあった上杉が最上領を併呑した場合、
佐竹・最上・上杉・伊達と一大勢力で徳川、石田らを圧迫する事が出来た。
関ヶ原が長期化していれば西軍東軍、双方から落伍して国に戻ってしまう大名も出てきただろうし。
そうなれば応仁の乱再びという事で。
家康が何も得られず、疲弊して江戸に戻ってきたその時、
東北&北関東がスクラム組んでジワジワと徳川領&堀領を侵食していたとしたら。
天下の中心に東北の諸侯が立つ時代が来ていたかも。
その前に九州を纏めた如水、島津連合軍と一大決戦が待っていただろう。
そこで初めて上杉と島津、伊達と黒田どっちが強いか?というスレタイ通りの展開になる。

440 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 17:06:51
まだ>>424の住む世界では8月18日(木)なんだろうか。

441 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 17:29:21
それより直江兼続と島津家久はどっちが勝つか決めようぜ

442 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 20:22:39
>>440
粘着ウザい。

443 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 09:11:06
もし島津義弘が指揮する島津軍団が会津にいたとしたら、果たして家康は
小山から易々と反転できたかどうか。

1600年時点での戦闘力は、圧倒的に島津が上をいくだろう。

444 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 11:23:53
>>443
義弘が討って出ようとしても義久は止めただろう。
土壇場で極力危ない橋を渡らなかったという意味では上杉と似たような物。
豊久と義弘を見殺しにしてまで、本国を固める方針を選択していた。

445 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 22:26:29
>>441
何故直江

446 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 23:52:22
>>443の状況を、どうやって作るのかワカランゾー。
会津征伐に島津が先発して出立してたとなっちゃうよ。

最悪、東軍につく罠。

447 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 01:00:51
>>445
おれが上杉家は景虎と景勝と兼続しか知らないから

448 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 08:42:56
この頃の上杉で活躍した武将は直江の他には杉原、安田、上泉、甘粕、前田くらいか?
確かにパッとしないな。
特筆すべきなのは本荘と須田が3000の兵で伊達二万を幾度も叩きのめしたくらいか。

449 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 10:30:09
>>448
おそらく伊達の幻影におびえて、上杉にはそう見えたのだと思う。
それほど、上杉にとって伊達は恐ろしい対象でありつづけたわけだ。
まあ、松川でも霧の中から伊達の影がみえただけで遁走する部隊だ。
言ってみれば、水鳥の羽音におびえて逃げまくった平氏に近かったに違いない。



450 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 12:59:27
>>449
>松川でも霧の中から伊達の影がみえただけで遁走する部隊

つーか「日本戦史」にすらそんな事書かれてないんだが。
またデマかよ。

451 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 16:45:07
>>448
>3000の兵で伊達二万を

苦笑

452 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 18:53:11
>>450
「大日本戦史」には書かれているよ。簡略化する時に伊達家の陰謀で削られたんだな。

453 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 19:48:06
>>450
>つーか「日本戦史」にすらそんな事書かれてないんだが。

いいや。上杉の狼狽の有様は、その「日本戦史」には書かれている。

  このときあたりは朝霧が立ちこめ、一寸先も見えない見えぬあり
  さまであった。しかし、霧がはれると、伊達の先鋒が上流で川を
  渡っているのを発見し、後方を断たれるのを恐れて(岡野左内と
  斉藤道二は)退却した。

いずれにせよ、揃いも揃って、情けない武将どもではある(w

  福島城中は瀬上の敗報を聞いて、おおいに動揺した。
  綱元・景綱・景頼の兵は松川を渡り、(本庄)義勝の兵と
  戦ってこれを破った。

上杉、弱すぎ(苦笑)


454 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 23:08:47
島津も上杉も伊達も強いで納得できる大人はいないのか

455 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 23:24:18
>>453
この時、伊達軍総勢二万の先鋒は茂庭、屋代隊で数千。
対する岡内、齋藤軍は各々150。合計三百だと日本戦史では書かれている。
数千VS三百で戦えば後方を断たれる等と懸念するのは当然の事で、
これをもって「情けない武将ども」と評する馬鹿は普通いない。

>>449の馬鹿さ加減はそこだけに留まらず、この撤退が行われた場所は松川ではない、
といった事さえ分かっていない惨めさも窺える。

岡内、斎藤軍は当初梁川城〜瀬上への救援部隊であった事。
この文章の直前に瀬上宮代を守る小田切敗退の描写がある事。
伊達軍(茂庭、屋代隊含む)による松川渡河の様子は別に書かれている事。
以上から岡内、齋藤軍が引き返した場所は摺上川ではないか。
と、日本戦史を実際読んでいる者なら誰でも思い至る。
つまり福島城から松川を隔てて、まだ遠く、信夫山の脇を抜けた先の位置に摺上川はある。
こういった位置関係を知っていて尚、
福島城を守る僅か千の兵から割かれた、岡内齋藤軍三百の摺上川における撤退を嘲う者がいれば、
そいつは逆に他人から評されねばならない。
お前は真性の馬鹿だと。

456 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 23:48:17
×綱元・景綱・景頼の兵は松川を渡り、
政宗も渡ってるっつうのに。
皆松川ヲ渡リ 政宗ノ麾下モ又至リ 共ニ先ヲ争フテ進ミ
伊達の米沢方面への抑えを差し引いたとしても一万五千は渡河したという事になる。

>本庄)義勝の兵と戦ってこれを破った。 上杉、弱すぎ(苦笑)
アホ?
義勝率いる兵は五十。瀬上から帰ってきた兵(岡内齋藤軍)は三百
あわせて義勝軍三百五十。 伊達は一万五千以上。これで負けてどうする政宗w
ま、これでも政宗は結局信夫山に追い詰められて山伏に匿われる醜態を演じる訳だが。

457 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 02:21:17
上杉は、上山で最上に目を覆うばかりの大敗を喫した弱兵集団。
白河口へ出る勇気すらなく、関ヶ原の敗報を聞いて米沢へすぐに遁走したり、速いのは逃げ足だけ…w
政宗にも相当馬鹿にされていたんだろう。

無論、戦争の経緯は日本戦史、大日本戦史の記述の通りで間違いはない。


458 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 09:16:02
>>456
>政宗は結局信夫山に追い詰められて山伏に匿われる醜態を演じる訳だが。

妄想乙w ほほう、そのソースは?(勿論「武辺咄聞書」「会津陣物語」以外で)
まともなソースを出せない限り、所詮独り相撲で誰にも相手にされないと思う。



459 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 09:16:36
この前の日曜、図書館行ったついでに日本戦史を書庫から出してもらって読んだよ。
書いてある事が本当ならば、この戦場にいた伊達政宗は愚物に類する武将。
上杉に負けた説を採っても愚物。
伊達優勢だった日本戦史説を採っても愚物。
どっちにしても政宗にしては愚かしい采配ぶり。

460 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 09:28:08
松川の合戦で、上杉は霧の中を右往左往して逃げまどい、大敗した挙げ句
福島城へ逃げ込み、鉄砲の音におびえていたという歴史的事実。

さすがの上杉厨もこわれたようだw

461 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 10:29:33
歴史的事実を見れば、
上杉と島津の武勇比べの間に伊達が割って入ることはありえないw
唯一の特技の姑息さですら、間抜けの部類に入る伊達がw

462 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 10:41:15
上杉は戦術面では「最上」以下。戦略面では「島津」に遠く及ばない。
伊達は最上の後方支援でいわば高見の見物をきめこんだ。

さて、戦後、島津は武勇と共に巧みな恫喝外交を展開。領土の一片
すら、徳川に手を付けさせなかった(実に見事である)。
一方、上杉は直江が平謝りの末、120万石〜30万石の中小大名へ
転落。挙げ句は、大坂の陣では家康の使い走り状態。

さて、上杉の「義」とやらはどこへ行ったのか?w

463 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 11:26:34
直江が平謝りするのは当然。そもそも三成に挙兵を促されたのは直江でしょ?結果として直江が上杉を巻き込んだ(家康の専横に異を唱えた景勝を利用した)。上杉の「義」の問題じゃない。直江は身命を賭して上杉をまもらなきゃならなかったんでないかな。


464 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 11:50:28
日本戦史に書かれてある事は実際有り得ない事ばかり。
辛うじて読めるのは伊達各隊の進軍経路くらいで。(そこにも矛盾があるけど)
これをそのまま信じてしまう人って思考力がないんだろう。
釣りのつもりで始めたんだろうけど…哀れすぎる。

465 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 11:58:23
>>464
だから、「大日本戦史」読めって。真実はここにある。

466 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 12:01:56
>>464
残念ながら、史実は大日本戦史が記述する通り。上杉にとっては、
ふがいない戦争であり、「そうあって欲しくない現実」なのだろうが、
現実には「そうあった」。

そして、この大日本戦史を覆すには、古老咄ではない、まともなソース
で反駁しなければならないのも紛れもない事実。


467 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 12:39:15
>>462
仮に島津と上杉の領土が逆だったとしても同じ処分じゃないかな。
会津と江戸(関東)の距離、薩摩とのソレを比較すれば、
双方の処分に差が出てくる事くらい、分かりそうなもんだが。
>>466
本庄が大反抗に転じ、伊達を撃退した説は何も杉原親清の書物だけじゃないから。
本庄家文書、本庄氏資料、信夫山一帯の神社に伝わる羽黒山別当慶陰の伝記。
これらの資料を徹底的に研究した学者が何人もいて、
松川合戦は結果的に伊達の惨敗という事実が浮かび上がった。
その中でも、貴方が古老咄と断じている杉原親清の書は、ほんの一部しか扱われてないよ。

468 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 12:48:28
>これらの資料を徹底的に研究した学者が何人もいて、
>松川合戦は結果的に伊達の惨敗という事実が浮かび上がった。
それならば論文紹介できますな。

本の名前と論文書いた研究者名どうぞ。

469 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 13:05:17
いよいよ福島城の戦いの核心に迫ってきたのかな。
漏れも非常に興味があるので、資料の紹介よろしく。>>467

470 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 13:17:18
本庄家文書は16点しかないけど、松川合戦の状況を窺えるのが含まれてるとは知らなかった。

471 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 13:22:24
>>468
まず何度も上に書かれてはいるが
渡邉三省著作「本庄氏と色部氏」
上記の本から平易に書かれた一部転載物なら「正伝 直江兼続」
あと
元福島県考古学会会長
福島県文化財保護審議委員をされていた故・梅宮茂
著作「復刻・信夫山」「信夫山めぐり」

472 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 13:34:34
>「本庄氏と色部氏」
この本は、史料引用が不明確で、とても徹底的に資料研究したと認識するには遠い本だと記憶してるが。

>「正伝 直江兼続」
読んでないので不明。

>「復刻・信夫山」「信夫山めぐり」
同上、しかしタイトルから史料引用などされてないように窺えるけど。

473 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 14:15:48
で、>>424は「大日本戦史」(参謀本部編の方の)を閲覧できたのかよ。全然その報告がないようだが。

474 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 14:28:55
>>471
学者が何人もいるという割には2人だけ?

>著作「復刻・信夫山」「信夫山めぐり」

これって、地元の郷土史家の人の紀行文かエッセイのような気もするが。
それに考古学が専門とすれば、戦国とはジャンルが違うんじゃないのか。
たとえば、この書ではその伊達の惨敗についてどう触れているのか、
具体的に紹介してもらえると有難い。


475 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 15:17:43
>史料引用が不明確
今までの流れを読んでると、まさに日本戦史がこれだよな〜。
各文章毎に一体何を参考にして書かれた物なのか不明確な部位だらけ。
上杉側の詳細すぎる兵力や城内の様子なんて、一体どこに書かれた物なんだろう。

476 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 18:17:16
>>474
俺としては「日本戦史」に幾つもある伊達軍の謎を学者レベルで研究して欲しいよ。

477 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 19:02:11
>>471
ちょっと質問だけど。以下の本は最近のものといえるわけだけど、

>正伝 直江兼続─別篇 関ヶ原戦縦横─  渡邊三省 著
  上杉謙信・景勝に仕え、文武両道を極め、越後・会津・米沢を舞台に、名執政として
  経世済民の策を実行し、戦国の世を正々堂々と生きた武将、直江兼続伝の決定版。
 A5判上製箱入り/448頁/1999年6月刊 5,800円 

福島城の攻防は一体、どう描かれてるのかな? 大日本戦史との違いとか。
教えてくれませんか?

478 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 22:18:46
日本戦史は嘘臭い記述だらけ。いわゆる「謎」。
多くの記述が「謎」(嘘?)で、どれを信じていいか分からないくらい酷い資料。

1:伊達の小荷駄隊一人ぼっち
伊達軍の荷駄は、政宗が本陣を置いたとされる場所から10km後方で百人の上杉軍に奪われる。
この襲撃に気付いた伊達側の部隊は無し。
つまり梁川勢百人は阿武隈川を渡って二万人分の輜重を奪い、
大河を渡り直して悠々と城へ帰ってしまう。政宗は後陣、護衛を配さなかったのか?

2:砂金実常の有り得ない遠距離射撃
羽黒山南から数十丁で福島市街を射撃とあるが、福島城〜羽黒神社は2km。
羽黒山南端でさえ1K2,300mある。当時の火縄銃の殺傷能力は100mまで。
弾が飛ぶ距離はせいぜい500m。
この射撃で福島城側の兵士は尽く城内に逃げ込んだらしい。
この距離で弾が届いたのか?銃撃の音すら微小にしか聞こえないと思うが。

3:二万の兵を前に篭城しない数百の上杉
350人前後の本庄義勝軍が松川で敗れて、義勝が福島城内へ逃げ戻った後、
何と上杉側は新手(数百人)を城外に繰り出し、伊達軍屋代隊(数千)と対決。当然敗れる。
堪らず城内に逃げ込む所を景綱隊に追われ、城の外郭を破られたそうな。
ここでも本庄親子、杉原、岡内、齋藤、小田切ら誰一人死なず。
さらに死んだ武者頭レベルの名前さえ聞かれない。こんな戦闘本当にあったの?

479 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 22:20:05
4:政宗、内応者が出た目前の梁川城を攻めず
伊達崎以北で景綱より進言された梁川城の内応。伊達崎から梁川城へは4、5km。福島城へは12、3km。
しかし「部隊が桑折口に向ったから梁川へは向かわない。」という政宗の意味不明な決断。
桑折口は伊達崎の目と鼻の先。政宗が屋代、茂庭隊に進軍変更を命じられなかったのは何故?
ちなみに、梁川勢が伊達の小荷駄隊を襲った場所は前田桑折間。
福島城は天然の要害。兵数も梁川城の倍近く。内応者もいない。そんな敵地深くの福島城へ何故?

5:その数時間後、梁川城を恐れて福島城を撤退。
この日伊達軍は、松川で350人の部隊を破り、さらに城下で新手と戦い之を破り、
城の外郭を攻め、ここも討ち破ってしまった。
当初千人の兵しかいない福島城側は、再三の敗戦で風前の灯だったはず。
そんな伊達軍が、俄かに撤退をした理由が「これ以上攻めたら兵を損失する」からだそうな。
そして中でも異常なのは「後方を梁川城に裁断される」と恐れ出す政宗の思考。
4:の政宗とはまるで別人。
戦国時代これだけ優勢だった城攻めを、たった一日で撤退したアホな軍勢は伊達軍くらいか?

6:悠然と帰路に着いた伊達軍、梁川城を攻めず
前日、伊達軍は連戦連勝。上杉と戦って兵を損失した戦場も、日本戦史では殆ど見受けられない。
福島城の戦闘力を大幅に削ったその帰路、たった六百人が篭る問題の梁川城が、政宗の目前に再び。
周囲は平地。福島城から挟撃される心配も無い。伊達軍は二万。
しかし梁川城内の内応者が一人発覚しただけで政宗は攻撃中止。これも無茶苦茶。
本当は「攻めなかった」のではなく、「攻める余裕がなかった」のでは?
政宗敗退説のルートとされる信夫山の裏口から国見山伝いでは、とても梁川城なんて拝めないしなあ。

480 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 22:30:42
残っている飼料では事実の再構成は無理なようだな
タイムマシンが欲しいな 俺は行かないけどな

481 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 06:49:53
福島城攻防で上杉に大勝した後、状況を適切に判断し、さっさと兵を退いた
政宗は実に賢明な武将だったといえるだろうね。まあ「勝ち逃げされた」上杉
はさぞや悔しく、地団駄を踏んだに違いないが。

「日本戦史」をよく読めば、相手が必死になった城を落とすのが如何に難しい
かわかるだろう。最上勢が立てこもる長谷堂城を兼続は力攻めで攻め抜いたものの
何度も空しく撃退されたことなども、良い参考事例になったかもしれない。

 17日、兼続は銃隊で長谷堂を攻撃させたが、落とすことはできなかった。

結局、上杉は長谷堂を「10日以上かかっても」陥落させることもできなかった。
焦った挙げ句に、上泉泰綱まで戦死させるという大失態すら演じて。
他山の石ということわざもある。

482 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 09:02:50
>>481
これだけ追い詰めた話が真実ならニ、三日包囲して降伏勧告くらい出すよ。どうもウソっぽい。
「日本戦史」はキャッチセールスやカルト宗教と同じ手口じゃないかな。適当な情報を数多く列
挙して押し通せば、例え話全体の整合性が滅茶苦茶でも、相手が馬鹿なら騙す事が出来る。
個人的な謎を付け加えると政宗本隊が松川対岸に「至った」かと思えば、その数行後には国見山
から羽黒山に「至った」政宗はそこで福島城攻防戦を終始観望していたかのような書き方を始め
る。>>479にある政宗の変貌のように、前後の文章で噛み合ってないケースが目立つ。情報が氾濫
しているだけで右往左往しっぱなし。
勝ち逃げって言われても…結果として上杉は領地を失ってないからね。地団駄踏んで悔しがるのは
寧ろ政宗の方で、何も得られなかった空しい御出陣何度もご苦労さんといった所でしょう。

483 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 09:17:11
>>482
>結果として上杉は領地を失ってないからね

福島城の防衛に力をそそぐあまり、これ幸いとばかりに、手薄になった
庄内地方を義光にがっさりもってかれているって(苦笑)。33万石も。

いかに伊達が怖くて神経を使ったのか、よく伺えるね。

484 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 09:40:47
>>482
>「日本戦史」はキャッチセールスやカルト宗教と同じ手口じゃないかな

 おいおい、言うに事欠いても…。 結局、何度催促しても、まともな
 ソースすら出せないんだな。
 「復刻・信夫山」「信夫山めぐり」も相当怪しくなってきたぞ。


485 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 10:05:30
「大日本戦史」もまともなソースには到底見えないような…
あれだよ。
きっと政宗は福島城を奪う振りを見せて梁川城に兵糧弾薬をプレゼントしに来たんだよ。
そろそろ突っ込まれっぱなしな「大日本戦史」の引用元を詳しく知りたいんだが。

486 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 13:04:52
日本戦史というのは一つ一つの描写も変だし
脈絡も繋がっていない。
これは「伊達治家記録」と他の資料(何かは分からないが)を闇雲に混入した結果
数多くの齟齬や矛盾が生じている感じがする。
来週にならないと大学図書館へ行けないから確かな事は分からないけど。(大日本戦史の謎も含めて)
>>474
今晩か明日の晩にでも倉庫から「復刻・信夫山」か「信夫山めぐり〜ほんとの信夫山の歴史〜」
どっちか引っ張り出してココに書いてみるよ。

487 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 16:04:35
>>485
いや、高柳光寿氏の「大日本戦史」は信用できないが参謀本部編の「大日本戦史」は正確無比だ。
「日本戦史」に簡略化する時に、様々な圧力がかかって記述の正確さを欠いたのだ。

488 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 23:17:03
>>483
庄内地方がどこなのかもよく分かってない馬鹿がいるなあ。

西軍が敗れ、いつ徳川が南から攻め込んでくるか分からない時分
遥か北の飛び地を救援できる訳ないだろ。

別に伊達が怖いとか関係ないからw

お宅、頭おかしいんじゃない?

489 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 01:43:52
読解力が無い為か、自分が信奉してる資料さえ改鼠しちゃう人だし。
地理的背景や勢力分布、取り巻く状況なんて彼の頭に無いって。
摺上川と松川を混同。その挙句
後方を截たれると判断した。→驚いて逃げ出した。なんて幼稚な解釈、
どこにも載ってない事を書き込むしな。
数十丁とはっきり書いてある實常の鉄砲が、いつのまにか数千丁に増えてしまう脳内お花畑。
碌に資料を読みもせず「政宗は羽黒山を動かなかった」と力説するも、簡単に論破され。
もうね…彼が語ってるのは参謀本部編の「日本戦史」なのか、
それとも全然別の「大日本戦史」とやらなのか、理解しがたい。

この参謀本部編「日本戦史」だって明治期に書かれた物。
そんなに「日本戦史」に拘泥したいのなら、最低
「伊達治家記録」に拠った記述とは思えない部分くらい、いい加減ソースを出せば。
上杉の兵数、色を失った城内、繁長の突撃準備etc…伊達に分かるわけ無いわな?
ただでさえ支離滅裂した八方破れの資料なんだからさ。

490 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 04:55:22
このスレ面白い。上杉厨の相当痛い部分を衝いたため、これだけ釣れているw
>>488などは顔を真っ赤にしているに違いない。

白石城の陥落の後、最上戦での上山大敗、長谷堂城の敗退、最上による庄内討伐戦とたてつづけ
に負け続けの上杉家。最悪なのが、よりにもよって、一番厭な相手伊達にさえ、福島城、松川でも
大敗北を喰らい、勝ち逃げされていた事実まで指摘され、面子丸つぶれなわけだw

大日本戦史を捏造と否定するも、その根拠も示せず。無理もない。ソースは古老咄のみだから
説得力のかけらすらないw

491 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 07:08:34
上杉は蔭では最上に裏工作をして(金まで与えて)何とか中立を保って貰いたかったのが本音だ。
それをすげなく断られたのは有名な話。これで頭に血が上った景勝が見当違いな最上侵攻を図った
上、格下とみていた最上に負けてしまった。家康がこれを見てどう思ったかは、
戦後の島津と上杉との扱い方を見れば、歴然としている。

そもそもスレタイ自体がナンセンス。武勇の面では(知力の面においても)、上杉景勝など、島津とは
比較の対象にすらならない。伊達にも負けたことでもあるし。

492 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 07:09:40
おや失礼。謙信だったねw

493 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 07:11:11
と、荷駄を「持ち逃げ」され地団駄踏んだ政宗君が書き込みましたとさ。

494 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 08:44:35
資料だけじゃなくて、地元になにか口伝って残ってないのかな?
絶対的な資料じゃなくて参考までに聞いてみたいです。


495 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 10:53:52
信夫山の神社一帯(現・愛宕山広場)は1600年の兵火で上杉に全社寺、民家共に焼き払われた。
と地元では伝わってる。
大日本戦史にはここが激戦区になったとは一言も書かれていないんだがね。

496 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 11:52:13
>>495
> 大日本戦史にはここが激戦区になったとは一言も書かれていないんだがね。

その大日本戦史は、参謀本部編のものと高柳光寿編のもののどちらですか?

497 :日本@名無史さん:2005/08/29(月) 01:25:57
オレは伊達厨だが・・・島津厨の人はこのスレの流れ・・・これでいいの?w

498 :日本@名無史さん:2005/08/29(月) 08:46:26
島津厨的には、鉄砲装備率が違い過ぎるんでスレタイの勝敗は、
見えてると思ってるから別に気にしてない。
兵の士気とかその他の要因は、有意なほど共に差は、無いだろうし。


499 :日本@名無史さん:2005/08/29(月) 14:03:41
島津厨の人の心は寛大だな。この差が幕末で(ry

500 :日本@名無史さん:2005/08/29(月) 16:57:43
>>496
当然参謀本部編に決まっているでしょ。

501 :日本@名無史さん:2005/08/29(月) 18:06:47
頼山陽も、上杉の古老咄を吟味もせずに信じ込んで、恥ずかしい文章を後世
に晒すことになった。これも慶長6年の4月の話だという。実際3月で事実
上、伊達・上杉のセコイ小競り合いは終了していたという説もあるのだが。

 六年(一六〇一)二月、政宗また来り侵す。繁長また撃って、これを卻く。
 政宗、転じて逢隈河を渡って梁川を攻む。城将須田大炊、四伏を設け、与
 に戦ってこれを破る。四月、政宗、兵を留めて須田に備へ、還って本荘を
 攻む。本荘出でて松川に拒ぐ。敵を侮って備えず。政宗、暁に乗じて済り、
 撃ってこれを敗る。本荘走って福島に入る。須田これを聞き、逢隈河を済
 ってその兵を破る。遂に政宗の軍後を襲い、本荘と夾み撃ってこれを走らす。
 景勝、乃ち自ら将として出づ。政宗驚いてその軍を舎て、独り十余騎と間道
 より白石に走る。

政宗は何度も何度も、上杉の「挟撃」にあい、会津の「間道」を疾風のように走
り抜けたらしい。さぞや政宗もいたずら小僧のように、愉しかったに違いないw
しかし本荘の活躍は、これだと1601年4月になってしまう。1600年10/6の
「大活躍説」がまたまた嘘くさくもなる訳だ。

502 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 01:46:47
「復刻・信夫山」「信夫山めぐり〜ほんとの信夫山の歴史」両方見つかったので内容を書
いてみる。この著者は伊達側の資料では「伊達治家記録」上杉側の資料では「上杉家記」
「慶長上杉軍記」「東国太平記」黒沼神社(政宗本陣)の記録として「御山村誌」等を参考に
している模様。ここには「本庄氏と色部氏」を著した渡邉三省が参考にした「本庄家文書」
「本庄氏記録」といった資料名は見られない。

梅宮茂氏が「伊達治家記録」に拠った文章は、まず戦の日付(10/6)。瀬上の柵、宮代の
古城、鎌田、本内両砦これらの戦。摺上川渡河の様子。そして政宗本隊を除く伊達軍各隊
の進軍経路(景綱、景頼、綱元そして米沢との連絡を絶った伊達別働隊)。砂金実常による
羽黒山南からの砲撃(治家記録内では「鉄砲による射撃」とあるが)福島城から出た内応者
(元藤田信吉の家来)+町人による永井川の橋引き落とし。国見山へ退却する政宗。上杉
の夜襲を恐れ、一杯森に茂庭。小山荒井に陣取る成実の様子。最後は本庄繁長による伊
達の追撃は結局出来ずに終わった、と治家記録通り書いている。

それどころか「東国太平記」(会津陣物語と同じ著者)に書かれてある政宗大敗走ルート、
政宗本人と十騎ばかりの飯坂→茂庭→白石敗走説は地理上に矛盾があると指摘、景勝が
福島へ援軍に来た記述も併せて「有り得ない」と否定している。そして政宗が寂光寺に匿わ
れた話も、後世の民話だと切り捨てている。が、ここは梅宮茂氏も後年思う所があったのか、
1941年初版であるこの「(復刻)信夫山」と違い、1990年に出版された「信夫山めぐり」では
「羽黒山別当慶印に守られ〜寂光寺にかくれ〜茂庭経由で仙台へ帰ったと伝えられてい
る。」説のみ紹介。逆に上杉説&民話説よりへと文意が変化している。

503 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 01:51:25
ほぼ全ての内容で治家記録を参考にした梅宮茂氏だが、戦の要所では上杉側の記述も
織り交ぜている。松川合戦(上杉軍が松川北岸、南岸に分散した戦術の不徹底、乱れ)
の様子。「東国太平記」に書かれてあると紹介した、岡左内が羽黒山麓で旗を立て、松
川で敗れた軍を立て直す様子。梁川城主須田大炊が阿武隈川を渡り、(治家記録では
車丹波のみ荷駄を奪って帰る)伊達勢の後備を急襲。竹に燕紋の帷幕、兵糧、玉薬類
を奪い取る。その攻撃に動揺した伊達軍へ城側の齋道二が斬り込み、政宗は危うく難を
逃れた。とし、この上杉の手厳しい反抗を受けた政宗は国見山へ退却。そこで夜襲を警
戒する。といった地家記録の流れへと繋げている。

景綱が外曲郭を攻め破り、その後政宗への諫言。「間も無く福島城は落ちますが、我が
軍も兵を多く損ないましたので撤退しましょう」(日本戦史とは若干違う)それを聞き、梁川
城に後方を絶たれる事を案じ出す政宗。これら治家記録内の描写を梅宮氏はカットした
代わりに政宗本陣への急襲。といった上杉側の記述を挿入している。

明治9年の「御山村誌」によると、政宗が本陣を置いた黒沼神社裏手には上杉氏と伊達氏
が合戦し、その戦死者が埋まった塚が、開拓した今猶12有る。と書かれ、梅宮氏本人も
戦後、8基の小円墳を実際その目で確認している。現在は道の拡幅工事その他で塚は全
て取り壊されたそうだ。他にも信夫山山上まで当時の刀が発見されるなど、政宗本陣周辺
が主戦場であった可能性が非常に高まって見える。

この戦で信夫山の社寺、山伏村、民家が全て上杉により一字も残さず焼き払われ、山上の
宮人、六供坊らすべての山伏が仙台に移り住み、信夫山の古名「青葉山」がそのまま青葉
城になったのだと「寂光寺因縁記」「残月台本荒萩」といった書を交えて解説している。伊達
家と信夫山の関りは古く、圧倒的な軍勢で終始優勢だった政宗が黙って社寺の焼き討ちを
見ている筈も無い。
やはり両軍、信夫山を舞台に死力を尽くし戦ったとする説は非常に説得力がある。そして伊
達軍に比べ20分の一とも言われている上杉軍が奮戦勇躍。互角以上の戦いを繰り広げ
た結果、伊達軍国見山への退却を見事勝ち取ったと言えるのではないだろうか。

504 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 03:35:24
>>502
>政宗本人と十騎ばかりの飯坂→茂庭→白石敗走説

 これらの上杉の史料では、いずれも日付の矛盾とダブリを説明できない
 (慶長5年10.6と慶長6年4.26の2回にかけて、政宗は十騎ばかりで
  白石へ走っていることになる)

上杉方は盛んに伊達を撃退した喧伝するものの、奇妙なことに、福島城の戦いでは、伊達方の名の
ある有力武将(陣代や軍奉行クラスの将校)はただの一人も死んでいない事実。
実際は、10.7に退却に入った伊達の小荷駄隊を追尾し、人足、雑兵を急襲して、陣幕を奪うのがや
っとであったろう。

伊達の史料では、総崩れ・撤退の記録は、後にも先にも、天正16年の大崎合戦(中新田城攻防)
の1回きりしかない。

505 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 05:12:40
伊達治家記録では景綱の武者頭、国分外記が町内にて戦死。
須田助総がその兄と相働くも討死。その死骸を兄が引き揚げる。とあるが。


506 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 07:27:43
>>505
それだけ? ちなみに、天正18年の葛西・大崎一揆鎮圧時の宮崎城の戦いでは、伊達が総力を
挙げた戦いだった(総兵力24000人)が、先陣を切った重臣の伊豆景隆が討ち死にしている。

浜田は、大崎合戦の軍団責任者で陣代をつとめた大物だ(この下に、二将として留守政景、
泉田重光、軍奉行・小山田筑前、目付・小成田重長がいた)

伊達軍は、決死の覚悟で籠城を決めた敵の怖ろしさは十分知り尽くしている。
福島城への攻撃が長期化することを憂え、力攻めを中止したのも、片倉らの意見の通りで
正しい判断だったといえるだろう。

507 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 09:43:17
まさか、籠城なんて初めから計算内でしょ。
結局は上杉が撃退したことになる。

508 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 12:46:15
その日の内に退却した先が、国見山ってのもな。
一日中押し気味だったにしては、あまりにも北過ぎるし性急すぎる。
勝ち戦だけだったら普通ここまでは下がらないと思う。

509 :日本@名無史さん:2005/08/31(水) 00:32:17
503さん乙!俺の中では、ある程度答えが出た感じで嬉しい。
しかし良識ある伊達ファンじゃなく、良識ない伊達厨はキモイな。
都合の悪い文はスルーで、揚げ足取り連携で満足か?
圧勝じゃなくていいじゃん。お互い死力を尽くしたでさ。

510 :日本@名無史さん:2005/08/31(水) 14:50:48
>>509
そんなんで納得する連中ならココまで伸びないよ(w
イタイ上杉厨とキモイ伊達厨ががんばった結果

511 :日本@名無史さん:2005/08/31(水) 16:08:38
そして参謀本部編「大日本戦史」の謎が残った。

512 :日本@名無史さん:2005/08/31(水) 16:19:56
>>504
それは上杉も同じ。本庄繁長は勿論、その子義勝、杉原、斉藤、岡野、小田切、須田、車等
伊達治家記録内では圧勝を謳っている割に、
上杉側の各隊を率いた、これら野戦軍の武将達が討ち取られていない不自然さ。

伊達勢が大坂夏の陣で真田に撃退された誉田の戦において
一説によると八百mも後退した事になっているが
「陣代や軍奉行クラスの将校」は誰か討たれたか?

戦で敗走状態になる度に、軍奉行がいちいち討たれる訳がない。
まして陣代ってw

513 :日本@名無史さん:2005/08/31(水) 16:22:33
>>503
 >これら治家記録内の描写を梅宮氏はカットした
 代わりに政宗本陣への急襲。といった上杉側の記述を挿入している。

 おいおい、また、上杉に都合の良い捏造か(w

514 :日本@名無史さん:2005/08/31(水) 16:25:37

 慶長6年4月26日の松川の合戦? 伊達と上杉が戦闘?
 何、それ?(苦笑)

515 :日本@名無史さん:2005/08/31(水) 16:41:53
>>513
いや、何も伊達治家記録だけが100%正しいとは限らない。
伊達の記録だけでは政宗本陣裏にあったとされる夥しい戦没者塚を説明できない。
その部分が上杉の記述と合致しているのなら、
それをもって補完するのは理に適っている。
どちらかが丸々真実で、どちらかが全て嘘と言い切ってしまう単純な思考こそ
人から嘲笑されるべき。

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