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【存在?】「2倍年暦」の真実【虚妄?】

1 :鄭聲之:05/03/05 07:24:56
継体天皇の時代に中国から暦が入ってくるまで、日本では今の1
年を2年として数えていたという説、いわゆる「2倍年暦」説が
ありますが、この説の是非・可否を詳細に論じ尽くしましょう。

2 :1:05/03/05 07:28:33
テンプレがわりのコピペ

441 :日本@名無史さん :05/02/28 16:52:02
春秋暦=2倍暦の話。

春秋年(暦)は我が国に元嘉暦が渡来する以前に使われていたと考
えられる。これは春分・秋分のころの満月の日をもって「年の初め」
とするもので、「魏志倭人伝」に見える裴松之注に「魏略に曰く、其の
俗正歳四節を知らず、但、春耕秋収を計って年紀となすのみ」[16]と
あるのは、三世紀ごろの我が国の春秋暦のありさまを述べたもので
あろう。太陰暦が導入されて以降、春と秋の「年の初め」の儀式は次
第に正月と盆(七月)の行事に吸収されていった。民俗学者の柳田國
男は「盆と正月とは春秋の彼岸と同様に、古くは一年に二度の時祭」
[17]であったと言っている。春秋年の豊富な例は記・紀に見えている
古代天皇の宝算である。そのいずれも四五歳から一六八歳であるか
ら、一年に二回歳を取ったと考えれば、合理的な数値であろう。こうし
た考えは、すでに明治十三年にイギリス人ウィリアム・ブラムゼンが表
明している[18]。『日本書紀』は安康三年以降に元嘉暦を使っている
ので、それ以前の紀年には春秋年(暦)が使われていたと思われる。

http://www.h2.dion.ne.jp/〜taki99/kodaisi02htm.htm


3 :1=2:05/03/05 07:30:17
[姉妹スレ・関連スレ]

神武天皇を無視した日本古代史研究に喝だぜ!
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1107078207/l50

日本書紀はどこからが史実なんでしょう?
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/988620461/l50


4 :日本@名無史さん:05/03/05 12:51:06
24 名前:日本@名無史さん 投稿日:05/02/03 18:46:03
>>16
以前どこかのスレにあったが日本書紀の
崇峻紀までは記事に出てくる日付がほとんど1〜15日
つまり15日で1ヶ月の暦(今の半年が1年)ではないかと
超長命な天皇の多くが120歳程度までで死んでいることや
継体の没年齢が記紀で倍くらい違うことも理解できる
ただし神武紀・崇神紀・神功紀・応神紀は例外らしいので
これらの紀には奈良時代の史官による筆が入っている
当然記紀編纂の時点では1ヶ月は30日あったわけだからね

5 :日本@名無史さん:05/03/05 12:51:40
35 名前:25 投稿日:05/02/04 16:20:11
>>27-29
日本書紀の詳細な年紀・編年はいくつかの例外を除いて基本的に後世のもので、
古事記のような素朴なものだったろうというのが通説かと思うんだが、そこは賛同するよな?
ただしだからといって古事記が一方的に正しい、とは学界の通説にはなってないが
漏れはプロの学者ではないので個人的な説としては、寿命や在位年数は古事記に拠るべきと思う。
この場合、2倍暦を一律にあてはめると、確かに神武や雄略の寿命はいい具合だが、
半面やけに寿命が短くなる例が多すぎないか?
それに(むろん日本書紀の年代にもところどころ古い伝承と思われるものもなくはないが)
2倍暦を使おうが何を使おうが、日本書紀を全体的に構成する編年という、基本的に
信用できないものをいくらいじくってもあんまり意味ないと思う。

>>30-31
漏れは「捏造説」も「2倍暦」説もとらない。誤伝や訛伝ならありうるとは思うが。

>>33
>なんらかの伝承があってそれをそのまま記載という立場なら、その説明は不要だが。

漏れはその立場。
しかし、実際の歴史とのズレが生じた経緯は説明できたらなおよいだろう。
あまり欲をださず不可知論で打ち切るべき部分も残さないとならんが。

>>32,>>34
漏れの印象だと雄略までは寿命の長さを問題視しうる天皇が時々いるが
清寧以後はとくに問題ないように見える。むろん2倍暦云々とは関係なくね。

6 :日本@名無史さん:05/03/05 12:52:02
49 名前:日本@名無史さん 投稿日:05/02/05 11:19:13
で、それに対する反論が、これ。

679日本@名無史さんsage03/09/18 21:34
>>88
>1、奈良時代の日本書紀編纂者が「讖緯説(の1320年周期説)によって神武
>即位年をきめた」ということはありえない。
辛酉革命できめました。60年の倍数。奈良時代以前から中国から伝わってた。
易姓革命も伝わってた。
>2、神武即位がもし讖緯説(の1320年周期説)によるのならばそれは天智朝を
>神武即位に次ぐ日本史の重要事件と認めることになるが、
>このような日本書紀の特色からはかなり不自然に思われる。
不自然でない。自然なこと。天武の目的は、自らの皇位天孫の正当化。
神武が天孫ということが必要であって、天智は別にあがめる必要がない。
>3、讖緯説は、当時の人にすればそれは現代人にとっての科学のようなもの
讖緯説の神秘な予言を最初に利用したのは、前漢を簒奪した王莽である。上円
下方の白石に〈安漢公裸,皇帝と為れ〉という符命が朱で書かれていたといい、
多くの瑞異、白い雉とか金匱図とか、吉讖が各地から奉られた。
一連の図讖が劉漢の命数の終りを告げ、代わるべき聖人の出現を予言したのである。
簒奪者の陰険な策動やどす黒い野心は、すべて神秘のベールにおおわれ、しくま
れた禅譲劇が天命の名のもとに行われた。王莽は予言に導かれ、聖なる託宣に
したがって帝位に登ったわけである。後漢の光武帝も讖緯説の異常な信者であった。
つまり、暦は、支配者の利用するもの。天文・暦は完全に政治の道具です。

7 :日本@名無史さん:05/03/05 12:52:28
63 名前:日本@名無史さん 投稿日:05/02/05 21:35:11
311日本@名無史さん02/12/01 19:15
あのー、「二倍年歴は古田信者の妄想」だから否定する人が多いようなので、一言。

古田と関わりなく、古気候学の研究者ではかなり有力な説です。二倍年歴。
山本武夫が「雄略以前は二倍年歴」と仮定しないと、年輪年代法で出てきた古気候と
記紀の古気候記事が一致しない(二倍年歴なら一致する)という論文出してますわ。
今人に貸してて、正確な内容は上げられないけど。

朝倉書店の『気候と文明』シリーズの監修している人ですから、電波ではないですよ。

7092倍年暦03/09/29 03:02
過去ログに書きましたが、古気候学の山本武夫が
『年輪年代法で検出された古気候と、記紀の古気候記事が一致しない。
しかし、雄略以前を2倍年歴と仮定すると一致する』という論文を出しています。
1978刊行: 『気候と文明・気候と歴史』(気候と人間シリーズ)に収録。

朝倉書店『気候と文明』シリーズの監修者であり、古気候学の世界では認められた学者です。
歴史学でも、「いわゆる2倍年歴について」という論文があったはずです(今掲載誌確認できず)。

神武の時代が二倍年歴か?と言う問題と、
二倍年歴が実在したか?と言う問題は別なのに、意図的に混同しているようにしか見えません。


65 名前:日本@名無史さん 投稿日:05/02/05 22:09:55
山本武夫は2倍暦「も」御都合主義的に使ってるだけで、
彼の年代改訂には一貫性がないよ。
それに日本書紀の数字をいじれば正しい歴史がでてくると
決めつけてるところは完全に電波だろう。

8 :日本@名無史さん:05/03/05 12:52:55
71 名前:日本@名無史さん 投稿日:05/02/05 23:59:46
>>66
おいおい、漏れは2倍暦否定派ではあるけれど、
基本的に記紀の古伝承を疑ってはいないよ。

でも年代に関しては古事記と日本書紀に大きな違いがあっるだろ?
日本書紀の詳細が日付を藻前はそのまま信じるのか?
2倍暦で半分にすればそのまま史実だとでも?

「記紀は捏造」派を叩きたいなら
讖緯説派や神武以下諸天皇架空説や王朝交代説や征服王朝説を叩けよ。

記紀の古伝承を擁護するのは歓迎だが
2倍暦みたいな電波で擁護されてもちょっと迷惑。



129 名前:サガミハラハラ 投稿日:05/02/12 09:47:48
>>101
>古代に2倍暦が使われていたのは間違いありません。現在論証の最中です。
くわしくは「東アジアの古代文化を考える会」のHPの討論室の「古事記天皇没年干支
2倍暦はなりたつのか」をごらんください。
http://homepage2.nifty.com/e-asia/

9 :日本@名無史さん:05/03/05 13:02:11
183 名前:サガミハラハラ 投稿日:05/02/16 13:36:14
2倍暦については、従来は、行事が年2回あるとか、古代天皇の年を半分にする普通の年になるとかの
推測や憶測でしか論ぜられたのであるが、古事記天皇没年干支が2倍暦であらわされているとすれば、
それが物証となるのです。詳細は「東アジアの古代文化を考える会」のHPの討論室にのせてありますので
是非1度ご覧ください。http://homepage2.nifty.com/e-asia/


190 名前:サガミハラハラ 投稿日:05/02/17 08:23:04
一案ですが、元々この干支は書紀の編纂のために集められたのであるが、不採用になったため(書紀では2倍暦を普通暦として編纂したため、古事記天皇没年干支はあわなくなった)
すてられるところであったのを誰かが、古事記を写本する時に割注として潜りこませ、それが残ったと考えています。

10 :日本@名無史さん:05/03/05 13:02:46
193 名前:狭野 投稿日:05/02/17 18:20:15
書紀には、古代の天皇の在位年数が60年を基本数として書かれている。
雄略帝までの18世代の平均が63.3年であり、崇神帝までが63年、垂仁帝から雄略帝までが63.5年と、
どこで切っても60年を大きく上回ることはない。
その理由としては2倍暦が有力だと思うと前スレで述べたが、
ただしこれは、「そのように在位年数を決めた」ということであり、「2倍暦で倍に伸びた」ということでは全く無い。


196 名前:サガミハラハラ 投稿日:05/02/17 19:28:13
>192
2倍暦は大分議論されていたのですか。新参者で失礼しました。
そもそも2倍暦は殷の文化で箕氏朝鮮からつたわったものとかんがえます。
ただ、紀編纂時に2倍暦のことが全く忘れ去られていたとは思えないので
結局は年数の水増しを目的としたとしか思えないといいたいのであるが、そ
れなら思いっきりでたらめでもいいと考えるのですが、どうなんでしょうね。


11 :日本@名無史さん:05/03/05 13:03:28
204 名前:サガミハラハラ 投稿日:05/02/18 19:29:28
>203
安本美典氏は、次のような論文を紹介した。
「貝塚茂樹氏編集の『古代殷帝国』(みすず書房刊)には、次のように記されている。
ーー卜辞では、われわれの『今年』『来年』と同じ使い方で、『今歳』『来歳』ということがある。
この『歳』を、陳氏は年のこととせず、半年の『季』をさしていると考えるのだ。一年は、陳氏によれば、禾季
(上半年、すなわち後世の春夏)と麦季(下半年)とにわかれる。−−−卜辞の『春』『秋』は
それぞれ禾季と麦季にあたる。そして『今歳』や『来歳』は今季、来季のことで『歳』
は半年単位のシーズンをさしているのだと。−−−」
というわけで、殷の時代の中国では2倍暦が使用されていたらしい。殷末に箕氏が朝鮮に行き、
殷の文化を伝えたのである。
ところで古代の日本は中国や朝鮮からの文化や文明を輸入し使用していたのである。
よって2倍暦も輸入され使われていたと結論づけられるのである。



205 名前:日本@名無史さん 投稿日:05/02/18 20:12:56
>>204
それは1年が雨期(春)と乾期(秋)の二つの季節に分かれていた
という以上のことは意味しない。
実際に殷代の歴史を年代的に半分に計算して
何かが合理的に説明できるかというとそんなことはない。

これを2倍暦が存在した根拠にするのはこじつけ。

12 :日本@名無史さん:05/03/05 13:03:53
212 名前:日本@名無史さん 投稿日:05/02/18 21:59:18
>>208
「古代殷帝国」ってもうかなり古い本だけどな。
その中でいわれてるのは1年が禾季=春、麦季=秋の二つの季節に
わかれていて「歳」というのはその季節のことをさす、という内容だと思ったが。
べつに2倍暦がありました、なんて話はでてこない。

殷の時代に2倍暦があったとか箕子朝鮮で2倍暦があったとか
それこそ根拠なしの妄言だろう。



214 名前:日本@名無史さん 投稿日:05/02/18 22:01:34
>というわけで、殷の時代の中国では2倍暦が使用されていたらしい。
>殷末に箕氏が朝鮮に行き、 殷の文化を伝えたのである。

まぁ、100万歩譲ってここまではいいとしよう。ところが

>ところで古代の日本は中国や朝鮮からの文化や文明を輸入し使用していたのである。

全ての文化や文明が輸入されたわけではないし、仮に殷の文物が輸入されているとすれば、
周以降の文化や文明も輸入されてる。

>よって2倍暦も輸入され使われていたと結論づけられるのである。

なんで2倍暦だけ生き残るのか全く根拠がない。何が一体「よって」なのかさっぱり説明されてない。
例えば、殷末の文化が、古代日本に息づいていたのなら、暦と密接に関連する甲骨文字の卜辞が
出土しないのは何故?

13 :日本@名無史さん:05/03/05 13:04:18
237 名前:サガミハラハラ 投稿日:05/02/19 19:33:59
神功皇后の新羅遠征は355年の秋年です。
成務天皇没年は351年秋年で2倍暦での乙卯年です。
仲哀天皇即位は352年春年で2倍暦での丙辰年です。
仲哀天皇没年は355年春年で2倍暦での壬戌年です。仲哀七年です。
355年秋年新羅遠征です。仲哀八年です。356年春年に逢坂の戦いがあり、忍熊王入水です。仲哀9年です。
神功皇后摂政元年は356年秋年です。2倍暦での乙丑年です。
仲哀天皇は355年に没していますが、その後は空年を作らずに、次の天皇が即位するまで年を続けます。
よって仲哀天皇没年355年春年で末年は356年春年となり、在位9年となります。
古事記天皇没年干支では、成務天皇没年は乙卯年、仲哀天皇没年壬戌年とあります。
よって古事記天皇没年は2倍暦で記されていると考えました。
東アジアーーにはこのように書いていますがいかがでしょうか。


241 名前:日本@名無史さん 投稿日:05/02/20 01:24:52
>>238-239のつっこみはもっともだと思うが。

古事記の崩年干支を採用するのはわかるが、
日本書紀の年代を信用するのはどうなのか?

>>237
351年は辛亥のはず。「2倍暦での乙卯」ってなんだ?
2倍暦だけでも十分アレなのに、干支を半年で回していたなんて
パズルごっこも甚だしいんじゃないのか?

14 :日本@名無史さん:05/03/05 13:10:29
245 名前:日本@名無史さん 投稿日:05/02/20 02:40:23
>>242
三国史記の評価は全体的一律に高いの低いのいってもしょうがない。
歴史の前の方は評価低く後代になるほど相対的に高いし、
百済本紀や高句麗本紀は比較的低いが新羅本紀はかなりまし。
内容も個別にいろいろいえる。年代などは暦制のズレが指摘されてるけど
意図的な改竄は(年代に関しては)ないようだが。


247 名前:サガミハラハラ 投稿日:05/02/20 09:17:47
記紀は丸のみしておりません。かと言って創作であるとして否定もしていません。問題は記紀の
中に、どれほどの真実があるのかということです。書紀の年代(干支に換算できる)は、在位年表
ができあがってから、機械的に下からわりふっていったと見ていいほどのものであり、信憑性は
ありません。(欽明天皇以前)
しかし在位年などについては、古事記天皇没年干支2倍暦を考えれば、仲哀帝の所のように
あてはまることがわかります。もしこれも後世の編者の創作であるとすれば、まさにそれはかミ技
である、いや神以上の技の持ち主であるといえる。またなんでそんなパズルをつくる必要があった
のかということにもなります。また、偶然にあてはまったということも考えられません。
神功皇后の実在はもはや決定的です。三国史記にのっていないのは、編者が自国にとって不名誉で
あるからのせなかったのです。
351年は国際的には辛亥年であります。2倍暦では前半が甲寅で後半が乙卯年です。
なぜそうなのかは、2倍暦の数えはじめがいつなのかによってきます。
ちなみにいうならば、崇神天皇没年は318年戊寅ですが、2倍暦では、318年前半が戊申です。
2倍暦では、303年前半が戊寅年です。
他の天皇はどうなのかについては、東アジアの古代文化を考える会のHPの討論室をごらんください。

15 :日本@名無史さん:05/03/05 13:10:58
252 名前:日本@名無史さん 投稿日:05/02/20 16:02:58
>>247
>しかし在位年などについては、古事記天皇没年干支2倍暦を考えれば、仲哀帝の所のように
>あてはまることがわかります。

? 当てはまってないでしょ?>>237は単に2倍歴での換算結果を並べてるだけじゃん。

>もしこれも後世の編者の創作であるとすれば、まさにそれはかミ技である、
>いや神以上の技の持ち主であるといえる。またなんでそんなパズルをつくる必要があった
>のかということにもなります。また、偶然にあてはまったということも考えられません。
>神功皇后の実在はもはや決定的です。

針小棒大に煽ってるだけじゃん。もしくはあなたの思い込み。
論証も検証も含まれないキャッチコピーのみからなる4行ですね。


272 名前:サガミハラハラ 投稿日:05/02/21 12:27:50
2倍暦はいつ終わったのか?理由は?については、私は古事記天皇没年干支について論じておりますので、この質問は
別問題ですのでお答えできません。
>>252については、仲哀帝の部分はこれで実証できたと私はみております。
論証検証とおっしゃいますが、ようは納得できないという心情の問題でしょう。


16 :日本@名無史さん:05/03/05 13:12:09
348 名前:日本@名無史さん 投稿日:05/02/23 16:57:19
>>345-347
>季節暦、太陰暦でない月の満ち欠け暦、太陽暦、太陰太陽暦

「季節暦=原始的な太陽暦」ってことかな。それはもちろんあったろう。12か月の旧名も
季節を表わしてるようだし。しかし日付を特定するような意味での暦制ではないでしょう?
「太陰暦でない月の満ち欠け暦」も、目視だけで朔・上弦・望・下弦をめやすに
七日単位の時期はわかるし、上旬・中旬・下旬と組み合わせたりして慣れてくると
月をみてるだけで誤差1日程度には何日がわかるようになるという。
「太陰太陽暦」は継体〜欽明朝のあたりに暦博士が百済から交代制できていたから
当時の最新の暦が行われていただろう。しかしそれ以前から中国の古い暦の影響は
あったかもしれない。後漢の四分暦を劣化したまま使っていた可能性もなくはない。

ただ2倍暦というと、歴史に明徴のある中国の暦でもなく、原始的な自然暦でもない
のだから、これらと同様に安直に「あっただろ」とは言いにくい。2倍暦は論点が
ひじょうに広くて深いので、専用スレを立てた方がいいかも。民俗板でもいい。

17 :日本@名無史さん:05/03/05 13:12:49
441 名前:日本@名無史さん 投稿日:05/02/28 16:52:02
春秋暦=2倍暦の話。

春秋年(暦)は我が国に元嘉暦が渡来する以前に使われていたと考
えられる。これは春分・秋分のころの満月の日をもって「年の初め」
とするもので、「魏志倭人伝」に見える裴松之注に「魏略に曰く、其の
俗正歳四節を知らず、但、春耕秋収を計って年紀となすのみ」[16]と
あるのは、三世紀ごろの我が国の春秋暦のありさまを述べたもので
あろう。太陰暦が導入されて以降、春と秋の「年の初め」の儀式は次
第に正月と盆(七月)の行事に吸収されていった。民俗学者の柳田國
男は「盆と正月とは春秋の彼岸と同様に、古くは一年に二度の時祭」
[17]であったと言っている。春秋年の豊富な例は記・紀に見えている
古代天皇の宝算である。そのいずれも四五歳から一六八歳であるか
ら、一年に二回歳を取ったと考えれば、合理的な数値であろう。こうし
た考えは、すでに明治十三年にイギリス人ウィリアム・ブラムゼンが表
明している[18]。『日本書紀』は安康三年以降に元嘉暦を使っている
ので、それ以前の紀年には春秋年(暦)が使われていたと思われる。

http://www.h2.dion.ne.jp/~taki99/kodaisi02htm.htm


442 名前:日本@名無史さん 投稿日:05/02/28 17:28:05
ちょっと論拠しては厳しいね。
春秋暦というのも思いつきの域を出ていない。
盆が7月になったのって、明治からじゃない?

18 :サガミハラハラ:05/03/06 16:16:23
祝 2倍暦新スレ登場
待望の新スレが誕生しました。まさに新しい日本古代史の研究の誕生です。
このスレが古代史研究の最先端を進むことになるように頑張りましょう。

19 :日本@名無史さん:05/03/06 16:30:21
肯定派・否定派とわず集まって激しく討論して盛り上がってホスィ。

20 :サガミハラハラ:05/03/06 17:03:38
2倍年暦で考えると年代が合う例として日本書紀応神紀と好太王碑文他があります。
応神天皇3年秋年阿花王即位の記事と、三国史紀百済本紀の392年阿カ王即位をあわせます。
日本書紀(2倍年暦でみます)の応神14年から16年(398年から399年)にかけて、半島にかんする記事があります。
ところが応神17、18、19年(399年秋年と400年)と記事がない。しかし好太王碑文をみると、「歩騎5万で新羅を救援ーー
倭兵をおおいに破る、とあります。
402年403年と百済、新羅本紀には日本との記事があり応神紀にも25年木羅満致を問責とあるのに、次の404年には両者に記
事はなく、好太王碑文には404年「倭が無道にも帯方の地に進入し大敗す」とある。
以上からみると、倭と半島の記事が多い年は、対高句麗との戦争の準備をしていて、いざ出動と言う年にはなにも記載していない。
しかし好太王碑文では、倭が大敗した文がある。つまり、倭は負けたことは紀にのせなかったのである。
406年秋年応神31年に武庫の船火事があり、戦の準備をしていたのであろう。そしてあくる407年の好太王碑文には倭が3度目の大敗をしたとあります。
これらのことから、応神紀を2倍年暦で好太王碑文や三国史紀と照合するとよく合うことがわかりました。
よって、応神天皇の記録は2倍年暦でしるされていたと証明できるわけです。

21 :日本@名無史さん:05/03/07 05:09:51
>>20

>応神17、18、19年(399年秋年と400年)と記事がない。しかし好太王碑文
>をみると、「歩騎5万で新羅を救援ーー倭兵をおおいに破る、とあり

つまり両者は合ってないってことですね。

>ます。402年403年と百済、新羅本紀には日本との記事があり応神紀
>にも25年木羅満致を問責とあるのに、次の404年には両者に記事はなく、
>好太王碑文には404年「倭が無道にも帯方の地に進入し大敗す」とある。

これもぜんぜん合ってないですね。

>以上からみると、倭と半島の記事が多い年は、対高句麗との戦争の準備をし
>ていて、いざ出動と言う年にはなにも記載していない。しかし好太王碑文では、
>倭が大敗した文がある。つまり、倭は負けたことは紀にのせなかったのであ
>る。406年秋年応神31年に武庫の船火事があり、戦の準備をしていたのであろう。
>そしてあくる407年の好太王碑文には倭が3度目の大敗をしたとあります。

それだと、2倍暦の計算結果にはなんの徴証もないのに想像で補ってるだけですね。

22 :サガミハラハラ:05/03/07 08:28:44
これだけ符号するのは事実と見て良いと思います。

23 :サガミハラハラ:05/03/07 12:59:22
符号は符合の誤りです。

24 :日本@名無史さん:05/03/07 16:21:16
2倍暦がないと困るのか?

25 :日本@名無史さん:05/03/07 16:35:48
はたしてロムの皆さんは>>21>>22を見比べてどう思うかね???


26 :サガミハラハラ:05/03/07 18:52:02
もともと日本書紀が普通暦で記していれば、紀と好太王碑文があうことは、明治時代に分っていたのですよ。

27 :サガミハラハラ:05/03/07 22:30:36
>26はもともと2倍暦がなければ、の意味です。
どうも近頃間違いが目立ちはじめた。

28 :日本@名無史さん:05/03/08 16:13:46
2倍暦があったとされている国ってあるの?

29 :サガミハラハラ:05/03/12 19:09:25
>28  新古代学の扉に古賀達也氏が短里と2倍年暦という論文をのせています。
http://www.furutasigaku.jp/

30 :サガミハラハラ:05/03/12 19:13:27
>21はよく読んでいないのではないでしょうか。

31 :日本@名無史さん:05/03/13 22:24:37
読んでるよ。合ってもないのにどうして合ってると連呼してるのかまったく理解できないけどね。

32 :サガミハラハラ:05/03/18 07:41:20
このスレは、応神紀を2倍暦でみると朝鮮の史料と整合するということと、仲哀紀と神功紀は古事記崩年干支を2倍暦と考えれば
整合するということがわかったところで凍ってしまったようですが。今のところ一応否定が一名といったところですが、次は倭
の五王に進みたいとおもいます。

33 :サガミハラハラ:2005/03/24(木) 09:48:20
倭の五王については、今までは記紀の年代と合わず苦労していたのであるが、これも
在位年を2倍暦で考えるとぴたりとあてはまる。
讃=仁徳天皇432年崩御 (彌)=履中天皇435年崩御  珍=反正天皇437年崩御
済=允恭天皇459年崩御  興=安康天皇461年崩御  武=雄略天皇 崩御年不明
となります。
古代天皇崩年干支との整合については、東アジアの古代文化を考える会のHPの
討論室のずっと前のほうをごらんください。http://homepage2.nifty.com/e-asia/

34 :日本@名無史さん:2005/03/24(木) 10:32:46
日本書紀の年代を半分にすkると史実だというのか?
つまり日本書紀の編者は史実の年代を知っていたと?

35 :サガミハラハラ:2005/03/24(木) 12:40:36
記述してあった史実の年代が正しいとすれば、となります。
書紀を編纂する時に集めた資料の中に、年代(干支ですが)を記したものがあったと思います.


36 :太国:2005/03/24(木) 21:54:31
しかし、各天皇と倭の五王とはそれぞれ別ものである。

37 :サガミハラハラ:2005/03/25(金) 08:36:03
当時の倭国が大和朝廷の支配下にあり、中国に継続的に貢献するほどの他勢力が存在したとは考えられない。
大和朝廷の勢力や領土の膨張から考えて、神功皇后の半島進出以来の対外政略を考えれば、中国への働きかけ
(貢献)は自然な成り行きである。よって倭の五王とは大和朝廷の各天皇である。

38 ::2005/03/25(金) 09:43:36
一部、『武』の文字以外全然合わない。当然別であるのは動かない。

39 ::2005/03/25(金) 09:51:25
ならば『武』のように、五王が各自一文字ずつ合うように付加になっていない、
これは不自然である。つまり天皇とは別の王が日本に存在していたのである。
一文字の一致はたまたまの偶然である。

40 :サガミハラハラ:2005/03/25(金) 12:46:06
讃、珍、済、興、武と、和風シ号とは関係ありません。漢風シ号はあるていど、讃=仁徳などのようにシ号を着ける際、参考にしたように見られます.

41 ::2005/03/25(金) 13:15:09
中国用と日本用を使い分けるならばだ、他の天皇にもそれがなければおかしい。
5代だけ中国用があるというのは不自然である。
何とかうまく年代が一致したならば、名前の不一致はかまわないというのは
論理の展開を自己に都合よく納得しているだけになる。

42 ::2005/03/25(金) 13:56:35
こうなると、神武から26代雄略まで中国名、別名があって、倭の五王というより
倭の26王とする記述になっていなければおかしいことになる。
そして26王全員に中国名が付加されていることになってくるはずである。

43 ::2005/03/25(金) 16:26:10
ここは年代について議論するスレです。
倭五王が天皇かどうかは専用スレがありますので
そっちで議論してください。

44 :サガミハラハラ:2005/03/25(金) 22:58:33
「誰か倭の五王を確定してよう」のほうにかいておきました。

45 ::2005/03/26(土) 21:18:28
>>42
訂正 21王
失礼しました。代数間違い。あちらのスレで論をやります。

46 :サガミハラハラ:2005/03/28(月) 19:43:55
古代暦について
伏見稲荷の創建 和銅4年辛亥2月11日戊午と社伝にありながら、例祭が2月初午に
おこなわれることについて、秦氏が三国時代の「四分暦」を使っていたとすれば
この2月11日が続日本紀の使っていた「日本長歴」の2月初午と矛盾しない。
という情報がよせられました。
これは2倍暦と何か関連があるかもしれないのでしょうか。
後漢四分暦 日本長歴とはどのようなものでしょうか。どなたかお願いいたします。

47 ::2005/03/29(火) 00:45:35
後漢四分暦とは古代中国の暦の一種。太初暦(三統暦)が使われていた時代と
乾象暦が使われていた時代の間の時代はこの後漢四分暦が使われていた。
元嘉暦が輸入される以前の日本の暦はこの後漢四分暦そのものかもしくは
後漢四分暦を簡略化したオリジナルな暦だったんだろうという説は昔からある。
ちなみに「三国時代の四分暦」という言い方はおかしい。
三国時代には魏は景初暦、呉は乾象暦で、後漢四分暦は蜀だけ。

日本長暦はものすごく単純にいうと神武以来の日本の全日付。
そういう暦制があるわけではない。内田正男の「日本暦日原典」という本がでている。
「続日本紀の日本長暦」という言い方はおかしい。単に「続日本紀にある前後の日付
から計算したその日の日付」の意味だと思うが?
2月11日が午日ならそれが2月の初午なわけで(13日なら二の午)
例祭が毎年2月初午なのは不思議でもなんでもない。
またそれが続日本紀の日本長暦(つーか日付の十二支サイクル)と合致するのも
べつに不思議でもなんでもなく、2倍暦とも関係ないと思うが?

48 :サガミハラハラ:2005/03/29(火) 08:27:34
>47 お返事ありがとうございます。

49 :日本@名無史さん:2005/03/30(水) 02:48:04
>>46,47

和銅四年二月十一日は丙戌。二月には戊午はなくて、一番近い戊午は一月十三日
だから、情報を寄せた人は「ちがう暦を使っていたのではないか」と考えたので
は?


50 :49:2005/03/30(水) 02:49:57
追加。三月十三日も戊午だけど、どっちも初午ではないね。


51 :日本@名無史さん:2005/03/30(水) 22:44:53
>>49
だからその「別の暦」ってのが後漢四分暦だっていうんでそ?

52 :49:2005/03/31(木) 03:48:40
>>51
だからそう言ってるんだが。

いちおう後漢四分暦の二月十一日が普通の暦の三月十三日にあたることは確認
した。



53 :サガミハラハラ:2005/04/03(日) 09:13:10
2倍年暦が殷に由来するのではないかという問題についてある資料を入手しました。
日神信仰の列島の蝦夷との関係は飯岡由紀雄さんが年初(古代史最前線‘05.jan.No.08)「日々(か)並べて(3)−「日十国」
(日高見国)から見えてくること(その1)で、『古代中国』(貝塚茂樹・伊藤道治著 講談社学術文庫)に紹介されている宜侯ソクキ(ぎこうそくき)
の銘文にある周の武王と成王が倒した殷の範図を視察した周王がそれまでは虔侯だったソクを宜侯に封じ、下賜した褒賞に丹塗りの弓一張り、黒塗
りの矢千があったことに着目し、古事記に再録された神武天皇の大后となるホトタタライススキヒメの名は母后のセヤダタラヒメが糞をしている時に美和
の大物主が丹塗りの矢になって陰(ほと)を突いて生まれたとの説話は周初BC12世紀に侯に封じた家臣に丹塗りの弓矢が下賜されていたことを大物主
が知っていたことが示唆され、青森県・是川中居縄文遺跡出土の丹塗りの矢は殷末、周初の中原の丹塗りの矢とも繋がることが考えられることを示された。
(以下略)
とありました。

54 :日本@名無史さん:2005/04/03(日) 09:31:28
普通に考えて、古代日本の2倍暦のほうが正確な季節の考え方とも言える。
なぜなら、春と秋は、気温から考えて、同じ季節とも考えられるわけで。

また、日本は平城京前までは、都に作る天子の住まいは
都市の真ん中に作るものと思っていた。
普通に考えて、都の外から安全な所は、都市の真ん中と考えるわけで。

他にも日本は、腹違いの兄と妹や叔父や姪は、結婚してもOKだと考えていた。

こうした日本の発想は、日本に限らず、世界中のどこでも
原始的な段階では持ちえた考えである。


でも、これらの単純な発想を否定したのが、中国の思想なわけで。

中国人は春と秋を違う季節だと考え、
天子の住まいは都市の真ん中に作らず、都市の端(北端)に作り、
近親相姦は絶対に避けた(中国の場合、従兄弟同士でもNG)

55 :日本@名無史さん:2005/04/03(日) 18:20:39
>>53
それがどうして2倍暦が殷にあった証拠なのかよくわからないが?

>>54
植物が芽吹いたり花咲く春と実りの秋が同じ季節とは到底思えないが?

56 :サガミハラハラ:2005/04/03(日) 19:12:20
私の考えでは、春は麦、秋は米粟高粱と言う具合に年に二度の収穫によったものと思います.

57 :日本@名無史さん:2005/04/03(日) 19:31:22
>日本語学的に見たアス(明日) とアサ(朝)の関係についてニダが、
>この両語も、そして アシタ(朝・明日)も語源的には同じであることが確実ニダ。
>院政期京都アクセントは3語とも低起式ニダし、意味的にも
>共通点が多いニダ。このうちアサ(朝)とアシタ(朝)は意味が
>変わらないようニダが、実は上代においては微妙な用法の 違いがあり、
アサ〜ユフとアシタ〜ユフベで対語になっていたニダ。
>前者は昼の始まりと終わりを、後者は夜の終わりと始まりをそれぞれ表していたニダ。
>現代と違って上代には 「一日」の捉え方として二通り(「昼の一日」と「夜の一日」)存在したわけニダね。
>時代が下って「一日」の捉え方が昼を中心に見るものだけになって朝・夕を表わす語が2セットも
>要らなくなった際に、アシタが明日、ユフベが昨夜の意味に変わっていったのもそのためニダ。
>残るアスニダが、ウリが考えるに、上記の3語のうちで最も
>成立が早いのはアスの方だと思うニダ。何となれば、アスは
>この中で唯一語末母音が-uであり、u母音は名詞形成要素
>として最も古いものであると推定されているからニダ。同じ時間
>語彙であるケフ(今日)・キノフ(昨日)・ヒル(昼)・ユフ(夕)・
>ヨル(夜)などがいずれも語末母音が-uになっていることも
>この推測を裏付けるものニダ。アスの原義ニダが、おそらく「朝」
>の方で、「明日」の意味は「翌日の朝」ということから派生した
>ものだと思うニダ。その後名詞形成要素である-aや-iが接続
>して生まれたアサやアシタが「朝」の意味を担うようになり、
>アスは「朝」の意味を失って「明日」の意味で固定化したという
>のがウリの考えニダ。

>現代と違って上代には 「一日」の捉え方として二通り
>(「昼の一日」と「夜の一日」) 存在したわけニダね。

上代には一日を二日と数えていた?一年730日だった?

58 :日本@名無史さん:2005/04/05(火) 07:33:55
殷末の暦は甲骨文字の月の表記と干支および祭の周期によって、後世と同様
の太陰太陽暦であったことがわかっています。一年は十二または十三か月で、
ひと月は二十九日か三十日です。



59 :サガミハラハラ:2005/04/05(火) 08:28:55
2倍暦の起源について考えてみると、かなり古い時代において人類は世の中のものは二つにわけられると考えていたのではないでしょうか。中国には因陽の思想があります、
ペルシャには光と闇の世界がある(ゾロアスター教?)。思想においても正義と悪、生と死、天国と地獄という具合に。そうすると、暦の上でも、年や月や日も二つにわ
けたのではないだろうか。

60 :日本@名無史さん:2005/04/05(火) 22:16:14
2倍暦の根拠は妄想以外はないのか?

61 :日本@名無史さん:2005/04/05(火) 22:33:50
>>59
古代中国や古代ペルシアに2倍暦があったなら、
少しはあなたの妄想にも説得力がでたでしょうに・・・

62 :サガミハラハラ:2005/04/06(水) 07:33:58
確かに2倍暦がでてきたら即決なんですがね、だからといって出てこないからなかったとはまたいいきれないのですね。

63 :日本@名無史さん:2005/04/06(水) 13:14:07
2倍暦か、根拠がないからねぇ

64 :日本@名無史さん:2005/04/07(木) 00:14:42
バイブルが証拠になるでしょ

65 :日本@名無史さん:2005/04/07(木) 02:18:52
バイブルが証拠?なにをいってんだ?

66 :日本@名無史さん:2005/04/08(金) 04:52:09
26 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/05/18(金) 00:47
古事記・日本書紀の古い時代が引き伸ばされてるってのは有名だが、
人物の寿命は最高でも200歳に届かず、長生きした人で120歳くらい。
魏略の「倭人は正歳を知らず。春耕秋収をもって年紀となす」から唱えられた
2倍年暦論が説得力を持つ。皇室でやってる大祓は1年の厄を祓うんだと思うが、
水無月と師走と2回あるからな。盆と正月も本来同じものだと思う。
2倍年暦と1倍年暦の境は、おそらく継体だ。年齢が古事記と日本書紀で
倍近く違うから。やはりあそこで王朝が代わっている。

朝鮮半島もAD3世紀までは三韓時代のはずなのに、三国史記が三国の発祥を
BC1世紀にしているのは、途中まで2倍年暦だったからだと思うぞ。
年代のバイアスをかけて読めばいろいろわかるんじゃないかな。
2倍年暦は珍しくない。パラオやギニアにある。聖書も最初の頃は1000歳
くらいで死んでる。これは新月から満月までを1歳とする20倍年暦だろう。
それから500歳くらいで死ぬ時代、100歳くらいで死ぬ時代があって、
キリストの頃にやっと50歳くらいで死ぬようになる。

56 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/07/03(火) 19:05
記紀では、二倍年暦の関係で、国外との関係は同じ事件が二度に
わたってかかれていることがあると言うのを読んだことがある。
国内伝承での「天皇」の時と、国外記録の干支の一致する時の二回。
それで事件の前後関係がおかしくなったり、つじつまあわせの文章
が入ったりして、流れがわかりにくいということらしい。

そもそも、日本側の見方と高麗側の見方が違うから、例えば戦争
でも勝った側は大勝と書いても、負けた側は無視するとかあるで
しょうから、全ての記述に矛盾が無いということはありえないでしょ
う。ただ何らかの示唆する記述はあるかもしれませんが。


67 :日本@名無史さん:2005/04/08(金) 04:52:54
57 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/07/04(水) 01:51
あほか。
二倍年暦なんて仮説の域から一歩もでてないし、
そんなうまいこと整合してたら暦年の解明なんかとっくに安直に終わってるだろうがよ。

58 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/07/04(水) 02:18
アホはお前だ。
2倍年暦が古代史の年代のズレを最もよく
解釈できる方法論であることは確実。
倭だけじゃないぞ。
三国史記だって当然4世紀に成立した新羅や百済を
BC1世紀建国のように書いてるだろうが。
あれも2倍年暦で考えた方が合理的だ。

59 名前: 名無しさん 投稿日: 2001/07/04(水) 02:27
2倍年暦の可能性は否定できないが、その場合、いつの時代までが2倍年暦なのかの見極めが難しい。

60 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/07/04(水) 12:27
なにが確実だって? 笑わせるなヨ、厨房が。

4世紀以前は伝説だろ。べつに2倍歴もってこなきゃならない必然性はない。
そもそも2倍歴なんてトンデモ信者の頭の中だけにあって
当時の東アジアにそんなものがあったという傍証はまったくなし。
まだまだひとつの仮説にすぎないんだよ。おぼえとけ。

68 :日本@名無史さん:2005/04/08(金) 04:53:54
64 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/07/06(金) 19:49
二倍暦は胡散臭い仮説以上のものではないよ。
説明はそれなりにつくが、証明は不可能だしね。

65 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/07/07(土) 11:28
寿一百五十八歳(王)、寿一百五十七歳(后)。(三国遺事、駕絡国記)
其の人の寿考。或いは百年、或いは八,九十年。
其の国、本亦男子を以て王と為し、住まること七,八十年。
魏略曰く、その俗は正歳四節を知らず、ただ春耕秋収を記して年紀となす。(魏志倭人伝)
多くは寿考、百余歳に至る者甚だ多し。(後漢書倭伝)

66 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/07/07(土) 11:47
>>65
>其の国、本亦男子を以て王と為し、住まること七,八十年。

なんでこれが二倍年歴なんだよ

>魏略曰く、その俗は正歳四節を知らず、ただ春耕秋収を記して年紀となす。(魏志倭人伝)

これはよくある誤解だなぁ。しかも、原文に忠実でない。

原文>其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀

原文は「記す」ではなく「計る」。

ここの言わんとしていることは一年を春夏秋冬と四つに分けて扱うのではなく、
春の耕作と秋の収穫で二つにわけているという意味でしかないんだが。


69 :日本@名無史さん:2005/04/08(金) 04:54:20
67 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/07/07(土) 12:11
そのとおりだ。
つーか年中行事の農作業の一巡で年月の移り変わりを知るってぐらいの意味だろ。
こんな文章から二倍年歴なんで妄想かきたてるのは、かなり電波入ってないと無理。

68 名前: 65 投稿日: 2001/07/07(土) 12:30
>>66
>これはよくある誤解だなぁ。しかも、原文に忠実でない
わたしも、「記す」ではなく「計る」だと思っています。
春耕と秋收の時点を計測して、それぞれを年紀(としのくぎり)とする。
魏略曰其俗不知正歳四(節)但(計)春耕秋收爲年紀(南宋の紹興本、紹煕本)
魏略曰其俗不知正歳四(時)但(記)春耕秋收爲年紀(清朝欽定、四書全書本,乾隆四年校刊本)


70 :日本@名無史さん:2005/04/09(土) 09:26:23
パラオやギニアに2倍暦なんかないよ

71 :日本@名無史さん:2005/04/11(月) 11:34:38
「誤読だらけの邪馬台国 中国人が読めば」(張明澄 久保書店)と
「邪馬台国 中国人はこう読む」(謝銘仁 徳間文庫)では
2倍歴は完全に否定されていたなぁ。


72 :転載くん:2005/04/16(土) 22:28:43
160 名前:日本@名無史さん :2005/04/16(土) 20:30:05
武内宿禰は日本書紀によると成務天皇と同年に生まれたというが、
日本書紀の編年には矛盾が多く、成務天皇と武内宿禰の誕生年も
AD82年・AD84年・AD93年の三通りによめる。また日本書紀によると
早くても仁徳50年(AD362年)には生きていたが
遅くても反正天皇の殯(もがり。允恭5年=AD416年)より前に死んでいる。
これらから計算すると270歳から335歳までの間(組み合わせに
よっては281歳から324歳までの間)ということになる。

ちなみに水鏡・紀氏家牒は280歳、扶桑略記に282歳、公卿補任に295歳、
宋史日本伝引用の日本王年代記に307歳、愚管抄に380歳とする。

これらの伝説のうち水鏡、紀氏家牒、扶桑略記の三書の数値は日本書紀の編年に基
づいて推算したことは明白であり、その伝える年齢数値は古伝承として信用できない。

逆に、愚管抄だけが日本書紀と計算があわないが、日本書紀の編年は奈良時代の作為である
のに対し、不自然な長寿伝説は合理化を意図した捏造の類いではないから古伝承なのであろう。
よって公卿補任、王年代記、愚管抄の三書のうち、
愚管抄の380歳説だけがとくに間違いということではない。

73 :日本@名無史さん:2005/04/16(土) 22:29:30
武内宿禰は280歳以上だが、台与は13歳であり、武烈は18歳という説もある。
これらに2倍暦説ではまったく役に立たない。
100歳をはるかに越える天皇もいるが、40代、50代の天皇もいるわけで
これを2倍暦などで一律に計算するのはひじょうに具合が悪い。


74 :サガミハラハラ:2005/04/18(月) 07:02:52
武内宿禰は記紀の中に年齢がかいてないのでわかりません。景行天皇三年に初出であるが、その年に生まれたのかまだ生まれていないのか、もっと前なのかわかりません。
台与は中国人がみていますので、13才で間違いないでしょう。
武烈天皇については、9才説があります。

75 :日本@名無史さん:2005/04/19(火) 13:10:09
サガミハラは読解力がないのか、そもそも読んでないのか。>>72-73を。

76 :サガミハラハラ:2005/04/20(水) 10:31:57
>73については同意し私見をのべました。
72については、人間の寿命は120才(2倍年暦では240才)が限界であると思います。
武内宿禰もそれをこえることはないと考えた上で資料をみると240才を越える資料は、2倍年暦だけでもって解釈することはできないと思います。


77 :サガミハラハラ:2005/04/29(金) 17:32:48
神功皇后摂政元年について
皇紀では、皇后摂政元年は西暦201年となり、三十九年は西暦239年、四十年は240年、
四十三年は243年となり、西暦の下二桁が神功紀の数字と合うことがわかる。その為、
記紀編纂の時代には西暦が伝来していたとの説もある。皇后の年代は、朝鮮の史料と
は干支2巡つまり120年のくいちがいがあるとされる。
これは安康天皇の時代から2倍年暦を、普通暦に引き伸ばして遡り、神功紀の年代が
卑弥呼の年代に近くなったことから、卑弥呼は神功皇后のことであろうとして年代を
合わせるため仁徳天皇紀を水増したものである。
そこで問題は神功皇后元年をどこにおくのかであるが、記紀には年代についてはなに
もかかれていない。
そこで紀の編者は次のことに着目した。
皇后が紀伊国の小竹宮で太子に会われた時、「このときちょうど夜のような暗さとなっ
て何日も経った。時の人は「常夜行く」といったそうだ。」とある。
紀の編者達はこれは日食のことであろうとみたところ、朝鮮の史料に奈解尼師今6年3月
丁卯の朔日、日食があった。との記事をみつけちょうどこのあたりが摂政元年に合うことから、この201年
を摂政元年としたのである。
日食は3月1日であるから、それから4日たった3月5日に軍事行動を開始(数万の兵を率
いて忍熊王をうたせた。)したとしたのである。
よって皇后摂政元年が西暦201年であるのは、新羅の日食記事によるものであり、卑
弥呼の年代と皇后の年代が合うのは、2倍年暦を普通暦にのばし、それにそのまま普通
暦の卑弥呼の記事をくみあわせたからであう。
西暦とあうようにみえるのは偶然の産物である。

78 ::2005/04/29(金) 19:42:03
誰が水増ししたのか?

79 :サガミハラハラ:2005/04/29(金) 20:20:20
日本書紀の編者です。
なお77で書き落としましたが、奈解尼師今6年は、西暦201年です。

80 :日本@名無史さん:2005/04/29(金) 20:22:07
http://ip.tosp.co.jp/i.asp?I=mennohonne&P=

81 ::2005/04/29(金) 20:37:10
なぜ、先代の應神天皇紀を水増しする対象だと指摘しないのか?

82 :サガミハラハラ:2005/04/29(金) 21:07:50
まだ私見がかたまっていないのですが、応神天皇紀は外国の史料との照合の関係で水増しすることができなかったのではと思います。

83 ::2005/04/29(金) 21:12:54
日本書紀の編者は仁徳天皇世での外国の資料を照合したと言うのかい?

84 :サガミハラハラ:2005/04/29(金) 21:32:04
仁徳天皇は倭王讃です。
書紀の編者は、宋書等も照合しようとしたと思います。ところが2倍年暦を
そのまま普通暦にしてしまうことにしたため宋書等とはくいちがいが大きく
なり、結局は宋書等は見なかったことにしたのです。
ですから仁徳天皇世での外国の資料を照合しなかったことになりました。

85 :日本@名無史さん:2005/04/29(金) 22:03:28
???

86 :日本@名無史さん:2005/04/29(金) 22:08:18
暦が1年なのは、1年草である米・麦の栽培に適しているから
その当時は気象もかなり温暖なため(神話でワニ?らしき記述もあるし)
二毛作出来たとしたら、一年で収穫期が二回あれば二倍暦のほうが自然。



87 :日本@名無史さん:2005/04/29(金) 22:20:45
おいおい、二毛作は普通、鎌倉時代からだぞ
古代では稲作自体がやっと

平安時代中期に二毛作の存在を示す史料があり、
鎌倉時代には二毛作がかなり普及した

88 :日本@名無史さん:2005/04/29(金) 22:24:41
2期作だったら、日本では江戸時代から

89 :サガミハラハラ:2005/04/29(金) 22:32:12
2倍暦は中国からきたようです。中国では春に麦、秋に米や高粱など年2回の収穫(春収、秋収)があります。ところが日本では麦作が根付かず、倭人伝にいうように春耕秋収となりました。

90 :日本@名無史さん:2005/04/30(土) 08:01:29
>>86
古代におけるワニは、鰐であり、爬虫類ではないのは有名な話。
因幡の白兎は海にいる鰐を騙そうとして、ふくろだだきになった。
和爾氏という氏族がいるだろ。おそらく、海上交通の取締り役(半分海賊)だったと思われる。
鰐がサメであることは言うまでもないだろうが。

91 ::2005/04/30(土) 09:00:18
>>84
仁徳天皇は讃王にあらず。

92 :日本@名無史さん:2005/04/30(土) 10:01:29
>>77
「三国史記」百済本紀と日本書紀引用「百済記」では確かに120年(干支二運)ずれて
いるが、これは原史料は干支しかなかったので、それを絶対年代に当てはめる時の
考え方がちがっただけで、べつに三国史記が正しくて日本書紀がまちがいということではない。
・・・と、井上秀雄がいってるよ。それと三国史記の日食記事は後世編纂時に漢籍史書から
転載したものが多く、実際に当時の半島で天文観測されていたわけではないから、
位置的に中国でみえても半島からみえてはいなかった可能性が高いんですよ。

>>89
ずいぶんアバウトな論考ですな。中国には2倍暦はないでしょ。
中国には2倍暦があることを証明してからいってください。

>>90
>和爾氏という氏族がいるだろ。おそらく、海上交通の取締り役(半分海賊)

名前の類似だけでどんどん妄想をすすめるのは電波説に一般的な特徴。
まぁ2倍暦とはとりあえず関係ないからどうでもいいかな。

93 :日本@名無史さん:2005/04/30(土) 12:33:50
>>89
>2倍暦は中国からきたようです

初耳です。申し訳ありませんが史料か出展を教えてください。

94 :日本@名無史さん:2005/04/30(土) 22:14:14
93 :日本@名無史さん :2005/04/30(土) 12:33:50
>>89
>2倍暦は中国からきたようです

初耳です。申し訳ありませんが史料か出展を教えてください。


95 :サガミハラハラ:2005/05/01(日) 21:52:29
2倍暦の研究は始まったばかりといっていいと思います。従来の2倍年暦は民俗行事
や皇室行事等が年2回ずつあることや、天皇の年代や年齢が普通の2倍くらいあるこ
とや、倭人伝の春耕秋収をもって年紀土数の紀字から、古代は2倍年暦であったので
はと推定されるだけで確証はありませんでした。しかし最近日本書紀の古い時代の年
代や古事記天皇崩年干支が二倍年暦で解けるのではないかとの疑問が提示されてから
、この2倍年暦の研究は新たな転機を迎えることとなったと考えます。
問題の一つは、2倍年暦は日本独自のものであるのか、他国から伝来してきたもので
あるのかということです。
私はこの件ついて、中国からの伝来を考えることが重要であると考えました。その中
で、半島にあった箕子朝鮮が重要な役割をはたしているにではないかと考えました。
箕子は殷の文化を携えて半島に渡り、殷の文化を伝えたわけです。
古代を研究してみると、日本でも殷の文化の影響ではと思われるものがあることから
、日本古代の文化は殷の文化の影響をうけたものもあると考えます。
よってこの2倍年暦も中国からきたのではと思っている次第です。
ただこの2倍年暦の件については、先に言ったように研究は始まったばかりといって
よく、まだ試案といった段階であり、今後の資料の発掘に期待しているところです。
ですから、2倍暦は中国からきたようです」もまだ推論の段階であり、資料、出展は
残念ながらまだ提示できません。

96 :日本@名無史さん:2005/05/01(日) 21:55:47
我等生まれた日は違うし死ぬ日も、もちろん違うし君は誰??
相席だからってなれなれしくしないでほしいなぁ。

97 :日本@名無史さん:2005/05/01(日) 22:02:29
2倍暦は人類史の歩みからありえない
冬至で1年が終わると考えるのが一般

98 :サガミハラハラ:2005/05/01(日) 22:16:06
>92の三国史記の201年3月朔日の日食ですが、201年3月22日に新羅で日食があった
ことを、アスキー社製ステラナビゲータver.6で確認しました。

99 :サガミハラハラ:2005/05/02(月) 07:08:01
念のため201年3月22日の和歌山県を調べてみたら、この日和歌山でもかなり欠
けた日食がみられたことがステラナビゲータでわかりました。つまりこの時の日食は
和歌山から新羅へとかけて見られたことになります。
となると、私の、三国史記云々はあやしくなってきました。
ただ私の操作ミスも考えられますので、他の方々、確認をお願いいたします。

100 :日本@名無史さん:2005/05/02(月) 11:57:25
グレゴリオ暦の3月22日が陰暦の三月朔日になることが暦の仕組み上ありえなくもないが
ほとんど春分の日の当日かその前後じゃん。旧暦でいえば二月のド真ん中。
春分の日が二月末日としてその翌日に三月朔日ってケースか?かなりぎりぎりだね。


101 :日本@名無史さん:2005/05/02(月) 12:23:45
ともかく2倍暦はないってこった

102 :日本@名無史さん:2005/05/03(火) 12:24:21
それはもう前提ですよw

103 :サガミハラハラ:2005/05/03(火) 19:26:42
日本書紀の日食記事が本当であるとなると、神功皇后摂政元年が西暦201年である
ことになり、書紀の年代はそのまま真実であるということになる。このことは2倍年
暦の崩壊をも意味するのであろうか。
とすると当時邪馬台国が北部九州にあったとすれば邪馬台国を無視して新羅を攻める
ことは不可能であるから、邪馬台国は近畿地方にあったことになり、皇后は卑弥呼で
あったということになる。
倭人伝によると、卑弥呼には一男子が出入りし世話をしていたとあるが、彼は皇后と
の関係を噂された武内宿禰であろう。男弟あり助けて国を治とあるのは、応神天皇で
あろう。皇后とは親子であるが、皇后は15才ぐらいで応神天皇を生んでいるから、
兄弟に見えたかもしれない。そういえば歌謡曲で「人に聞かれりゃお前のことを〜〜
年のはなれた妹と〜〜」というのがあったっけ。
その後の台与については誰か考えてください。
しかし参った参った。ただの偶然なのだと思いたいのであるが。


104 ::2005/05/03(火) 19:39:01
卑弥呼は神功皇后に非ず。英国のエリザベス女王とフランスのサッチャー首相
が同一人物でないように、両者は全くの別人なんだよ。

105 :日本@名無史さん:2005/05/03(火) 22:16:27
>フランスのサッチャー首相

???

106 ::2005/05/03(火) 22:18:13
ごめん国まちがえた?

107 :日本@名無史さん:2005/05/03(火) 22:22:22
し、知らないのか?
や、やばいぞ!

108 ::2005/05/03(火) 22:33:34
歳だなあ。ポカだ。英国。

109 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 22:08:23
よかったねw( ・∀・)w

110 :日本@名無史さん:2005/05/06(金) 15:16:57
で、2倍暦はなかった出FA

111 :サガミハラハラ:2005/05/06(金) 19:23:40
>110 となると、日本書紀の年代はそのままでよいということになるのでしょうか。

112 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 12:29:50
捏造としか考えられんな>日本書紀

113 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 18:21:41
>日本書紀の年代はそのままでよいということになるのでしょうか

そういうことを言ってる人は、今どきはめったにいないんじゃないか?

114 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 01:28:30
もれは2倍暦には賛成しないけど日本書紀の編年が正しいとも思わないよ。

115 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 09:59:25
>>114
同じだぁ。2倍暦はイカサマっぽいし、書紀の編年はものすごいことになってるからなぁ。
すると、書紀のないようは捏造ということになるのかなぁ

116 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 22:49:53
>>115
捏造じゃなくて古事記みたいな簡単な記事しかなかったから
いろいろな方法で推定した年代で編年したんだろう。

117 :サガミハラハラ:2005/05/11(水) 20:02:58
それでは和歌山の日食はどう位置づけられるのでしょうか?

118 :サガミハラハラ:2005/05/11(水) 21:55:29
日本書紀の神功皇后元年に、皇后一行が和歌山県御坊市小竹で遭遇した日食の年代について
西暦200年(庚辰)9月26日に日食あり。二倍暦では癸丑年です。
世暦201年(辛巳)3月22日に日食あり。二倍暦では甲寅年です。
西暦355年(乙卯)5月28日に部分日食あり。二倍暦では壬戌年です。
西暦356年(丙辰)この年は日食はなし。春は二倍暦では甲子年です。
私が文献上からわりだした皇后の和歌山滞在は356年春です。
私が文献上から割り出した神功皇后摂政元年は356年秋で乙丑年です。

119 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 22:00:14
太陰太陽暦

120 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 22:02:30
だから、無理に2倍暦に考えるから話がこじれる

121 :サガミハラハラ:2005/05/12(木) 18:46:54
とすると、すなおに神功皇后元年は西暦201年でよいと?

122 :日本@名無史さん:2005/05/13(金) 05:16:52
>>121
そんなことはいってない。201年はあくまで日本書紀の推定。

123 :サガミハラハラ:2005/05/13(金) 06:11:23
推定した年の説話として日食の記事をつくったところ、偶然本当に日食があったとか
いうことでしょうか。

124 :日本@名無史さん:2005/05/13(金) 17:08:57
いつから、いたことになったのか?>神功皇后

125 :サガミハラハラ:2005/05/13(金) 23:32:57
いつからいたことになったのか、神功皇后
>数年前に、神功皇后が実在したのかを考えはじめました。
皇后の新羅遠征は迎日湾をおそった大津波によるものと考えられます。
次に皇后の年代を考えました。
倭の五王の年代や2倍年暦などから、356年ではと仮定しました。日食月食宝典か
ら356年に日食があったことがわかりました。神功皇后摂政元年の日食がこれでは
ないかとおもいましたが、くわしく調べてみるとこの日食は日本から遠く離れた地域
でした。
そこで今度は、年代を詳しく考証していった結果(2倍年暦や古事記天皇崩年干支)、
神功皇后摂政元年は356年秋期であることがわかりました。
皇后紀の事象が実際に起こり得たことがわかり、年代もきちんと算出できたことから、
皇后の実在は間違いないものであると確信いたしております。
ただ困っている事は、日本書紀の皇后摂政元年の201年の春に和歌山で日食があっ
たことがステラナビゲータで確認されたことです。

126 :日本@名無史さん:2005/05/14(土) 04:32:59
どうもいってることの趣旨がわからないのだが。
日食がなんの関係があるんだ? この場合。

127 :サガミハラハラ:2005/05/14(土) 08:18:44
日食がいつどこで起こったかは計算でわかります。
文献に日食の記事があり、その日食が事実であれば、その文献の記事は正しいということになります。
皇后元年の201年に和歌山で日食があったという記事が日本書紀にあり、事実201年3月22日に和歌山で日食が
あったので、日本書紀の記事がただしく、皇后元年は201年であると言う事が科学的に証明されたことになります。

128 :日本@名無史さん:2005/05/14(土) 08:32:13
>くわしく調べてみるとこの日食は日本から遠く離れた地域
でした。

そうだよ。日蝕・月食記事は、天文博士が机上ではじき出したものだからね。
日本では見れなかったりてゆう記事もよくある。
これは『続日本紀』のも一緒。

129 :日本@名無史さん:2005/05/14(土) 22:22:49
>>サガミハラくん

一度冷静になって、落ち着いたほうがいい。
無理に日本書紀に現実をねじ繰り合わせる必要はない

130 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 03:41:18
>>127
日本書紀の記事は、3月22日じゃなくて「二月中のいつか」だよ。
そもそも日食は旧暦だと月末〜朔にしかおこらないだろ。物理的に。
しかも日本書紀をよくみたら日食とはかいてない。昼間が一時的に暗黒になったとはあるが。
日食なら、日食と普通に書くだろう。実際に日食と書いている記事もある。

具体的な年代の不明な記事にあとから年代を割り振ったものが多い。
たとえばその日食(?)記事にしても、古事記の素朴な書きぶりが古い形だったろうから
「神功皇后の時代に」というだけで神宮何年とまでは伝承になかった可能性が高いよ。


131 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 15:35:12
で、2倍暦はなかったってことで

132 :サガミハラハラ:2005/05/19(木) 19:16:15
131さん そうじゃないです。逆に2倍年暦に有利になったのです。

それから、九州を出発したのは旧暦の二月中です。和歌山の件は旧暦の三月一日(新暦3月22日)となりそれから4日後の五日に最後の攻勢にでます。

133 :日本@名無史さん:2005/05/19(木) 22:46:24
有利にも不利にもなってないよ。

134 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 06:09:30
二倍歴を使っていたという必然性がわからない。
なぜ一年を二歳として数えるのかそれを説明できなければこの説は怪しい。

135 :サガミハラハラ:2005/05/21(土) 20:56:17
和歌山の日食について
つまりこういうことになるかと考えます。201年3月22日に和歌山県御坊市で日
食があり、其の時、埋葬をしなおしたということがあった。
それは伝承となったのであるが、和歌山に神功皇后一行がきたことから、その伝承に
は皇后が関わったということに話が変化してきた。
但し、伝承の年代についての記録はおそらくなかったであろう。
日本書紀を編纂する際、皇后についての記録や伝承を集めたであろうが、その中に和
歌山の伝承があった。
一方編者は、魏志倭人伝の卑弥呼と皇后をあわせようとしていた。
神功皇后元年を200年ごろにしようと考えていたところ、三国史記新羅本紀の元に
なる記録に、201年三月朔日に新羅で日食があったことをみつけた。
そこで皇后の伝承にも日食があったことから、この日食とを合わせ、201年春に和
歌山で皇后が日食に遭遇したとした。
和歌山の日食と新羅の日食は、偶然同じ年月であったので、作り変えられた伝承から
皇后が201年春に和歌山で日食に遭遇したようになった。
しかし実際には皇后は和歌山で日食には遭遇していないのである。
という結論に達しました。

136 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 03:16:20
だから日食じゃないって。

201年三月朔の日食ならそう書けばいい。
でも日本書紀は二月中のいつかとしかしてないし
日食だともいってない。

137 :サガミハラハラ:2005/05/22(日) 07:16:01
136さんは、皇后紀の和歌山での現象は日食ではないが暗闇に包まれたのは真実であり、皇后もその時いたということですか。

138 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 16:58:18
本家の神武スレって落ちたの?スレタイに喝がついてるスレのことだけど・・・

139 :138:2005/06/04(土) 00:12:42
やれやれ、本スレが先に落ちるとは・・・

140 :サガミハラハラ:2005/06/05(日) 10:04:03
お尋ねします。何分ネットに関してはド素人なのでわからないのですが、いままでいろいろと私の新説を発表してきたのですが、
これらの新説の発案者や使用権は誰になるのでしょうか。書きこんでしまうともう掲示板の運営者のものとなってしまうのでしょうか。ここにかきこんだことをほかの掲示板に勝手にかきこめなくなるのでしょうか。
どなたかわかるかたお教え下さい.

141 :サガミハラハラ:2005/06/06(月) 19:33:04
お答えがないまま不安ですが、書きこみを続けます。
今回は景行天皇の年代について考察いたします。

景行天皇年代紀
垂仁37年に皇太子に、21才
景行4年に八坂入媛を妃とし、妃は7男6女を生んだー13年以上の治世 
景行4年春 美濃国造事件ー大碓命は性能力あり。
景行25年 武内宿禰を東国の視察へ
景行27年 日本武尊を熊襲征伐に 尊16年
景行40年 日本武尊の東国征伐
景行43年 日本武尊の死 年30才
景行51年 後の成務天皇と武内宿禰が宴会の警護
景行53年 東国巡幸
景行60年 冬11月崩御 年106才

142 :サガミハラハラ:2005/06/06(月) 19:56:48
成務天皇 景行天皇の第4子 景行46年に皇太子に 年24才
成務3年 武内を大臣に 天皇と武内は同じ日に生まれた.


成務天皇崩年は351年である。(説明済み)
仲哀天皇即位は352年である。
仲哀は26才で死んだ(355年)ので生年は329年である。
仲哀が20才(10才)にもならぬのに、父日本武尊は死んだ。
よって日本武尊の死は337年春頃であり、30才で死んだというから、生年は307年頃とみられる。
日本武尊は景行の第2子(双子)であり、景行17才の時の子とみると、景行の生年は290年頃である。


武内宿彌
武内宿彌は景行3年から9年以内に生まれたというが、3年くらいで生まれたとみられるので、景行6年生まれとみられる。
武内宿彌は長寿であったとされ、天皇に召された最後の記録ではしっかりとした言動であったのでその時(仁徳50年)実年105才とみられる。


仁徳は書紀では治世87年であるが、虚構年があるので、実年は21年である。
仁徳50年は比例でだすと実年は12年である。 87:50=21:X  X=12
仁徳の実年12年は422年となる。(仁徳即位は411年)

143 ::2005/06/06(月) 20:13:08
マヤ神代文字の石碑に半年暦というのがある。このスレは看過できないね。
長期暦のC文字がそれだな。6ヵ月が1単位のの太陰暦だそうだ。

144 :サガミハラハラ:2005/06/06(月) 20:28:01
仁徳は書紀では治世87年であるが、虚構年があるので実年は21年である。
仁徳50年は比例でだすと実年は12年である。 87:50=21:X X=12
仁徳の実年12年は422年となる。(仁徳即位は411年)
422年から105年遡ると、317年となり、それが武内宿彌の生年と推測される。
317年が景行6年とすると、景行元年は315年か314年となる。

日本書紀では景行治世は60年で、寿命は106歳である。
315年から実年30年たつと344年(元年から数えるので345でなく344となる。)
これが景行末年である。

となると成務天皇の治世60年、宝算17年はでたらめとなる。

ところで住吉大社神代記というのがあり、そこには崇神没年戊寅 垂仁没年辛未とある。
崇神のほうは、古事記と同じである。とすると垂仁のほうも古事記と同じ系列と考えられる。
辛未の年は2倍年暦のU類では314年の秋期となる。
そうすると垂仁末年314年秋期、景行元年は315年春期となる。

しかし干支がT類になったりU類になったりとご都合主義がすぎるのでは。
景行の治世が長すぎるのではなどの問題があり、それがさらに前の年代にどうつながっていくのかなど、みなさまのご意見ご批判ご教唆をお願いいたします。

145 :日本@名無史さん:2005/06/06(月) 23:59:17
>>140
理念上は著作権は発案者のもの。
しかし無記名掲示板の約束事としてそのような大切なものは書かないというのが常識。
たとえば古代史関係のよくある糞本を出版したとして、
この掲示板からパクった説を他人が先に出版していたとする。
で、後から本を出版したやつが「あれはもれが2chで書いた説をパクったんだ!」
と訴えた場合、理屈はあってるが、世間で通用するかどうかはかなり疑問。

146 :日本@名無史さん:2005/06/07(火) 00:44:32
1年っていつから365日なんですか?旧暦でも閏月を挿むと365日になるの?

147 :サガミハラハラ:2005/06/07(火) 07:04:45
>>145
お答えありがとうございます。
よく考えてみます。

148 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 23:42:29
  

149 :サガミハラハラ:2005/06/23(木) 22:22:40
ごぶさたいたしております。
私現在執筆中です。
これまで研究して来た神功皇后実在論や二倍年暦についてをまとめて出版いたしたいと思っています。
題は「神功皇后実在の証明」か「ある少女のトラウマ」にしようかと思っています。
また共同出版という名の自費出版になるかと思います。
長い間このスレで論争して参りましたが、当方はそろそろネタぎれとなってきました。
では当分の間当方はお休みさせていただきます。

150 :日本@名無史さん:2005/06/25(土) 01:53:50
鵜野森から買いに行くよ。住所はどこ?

151 :日本@名無史さん:2005/06/25(土) 02:24:12
>>142
武内宿禰って武内は名字だけど宿禰は階級じゃねえか
徳川将軍が300歳生きたなんて言ってるようなもんだぞ

152 :日本@名無史さん:2005/06/25(土) 04:05:15
武内は名字じゃないんだけど…

153 :サガミハラハラ:2005/06/25(土) 08:26:30
>>早速のご注文ありがとうございます。
発行しましたら、当提示版にてお知らせします。

154 :日本@名無史さん:2005/06/25(土) 12:58:08
2倍暦か・・・

155 :ハラリトサイサイ:2005/07/02(土) 23:42:14
サガミハラハラ氏による二倍年暦の解釈であるが、かれはなにか根本的なところで誤解しているのではないだろうか。
い年を2期とした春秋暦はあったであろうが、それはあくまでも人の年齢等であって、国の年代までは数えなかったのではないだろうか。
まして干支を一年に二つなどは考えられない。古事記天皇崩年干支は彼自身がのべたように、書紀編纂の際に出てきたものであるようだ。まだ私自信詳しく
検討していないので細部に言及することはできないのであるが。

156 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 16:00:22
干支は半島から伝来したんだろう。
年代を記すに干支だけで書く例は半島の古い古代に多い。
古事記で干支の用例が崇神天皇の崩御から始まっているのは
崇神朝に任那との交渉が始まったという日本書紀の記述と整合性がある。

この段階で半島でも2倍暦で干支を使っていたとしないと
互換性がなくなってしまう。そんな使い方はしないだろう。

しかし半島の干支が2倍暦だった可能性はまずない。
中国の記録との対照できるから2倍暦といいはることはムリ。

157 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 17:45:22
『三国史記』「新羅本紀」阿達羅尼師今二十年(西暦173年)
「夏五月、倭女王卑弥呼遣使来聘」 に関係した話題で、

ステラナビゲーター持ってる人に計算して貰いたい。

韓国の古天文学の研究者が、西暦205年7月の「太白犯月」を証明したとする。

では、 阿達羅尼師今十三年 (西暦166年)の春正月、辛亥の日にあたる朔 の日食
と  
奈解尼師今五年 (西暦200年)の秋7月、太白が昼間から見えたという 金星最大光輝  −45
  
これが、新羅でどう見えたのか?



158 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/22(金) 07:50:20
AD166の日食ですが、2月18日に上部がちょっとかける部分日食がありました。
金星については、ナビの操作がわかりませんので他の方おねがいします。


それにしてもナビのこと随分話題にしたので、結構売れたろうとおもったけど、だれも買ってないのか。

159 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 00:41:56
>158
サンキュー

http://takesako.homeip.net/nlinux1/emap/index.html
で拝借できる、日食計算ソフトで、私もやってみました。

阿達羅尼師今13年 166年 日食 春正月、辛亥の日にあたる朔
伐休尼師今3年   186年 日食 夏5月、壬申の日にあたる朔
伐休尼師今10年  193年 日食 春正月、甲寅の日にあたる朔
伐休尼師今11年  194年 日食 夏6月、乙巳の日にあたる晦
奈解尼師今5年   200年 金星 秋7月、太白が昼間から見えた
奈解尼師今5年   200年 日食 9月、庚午の日にあたる朔
奈解尼師今6年   201年 日食 3月、丁卯の日にあたる朔
奈解尼師今10年   205年 金星蝕 秋7月、太白が月の中にはいった。

新羅で、計算され、かつ観測されたことを示しうるのは、
西暦205年7月の「太白犯月」だけだとしても、
西暦173年の倭女王卑弥呼遣使来聘が、信憑性高まったということは凄い。





160 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 23:18:55
2倍暦てかなり強引だよな
四季がはっきりしている日本で2年を1年と考えるということ自体こじつけとしか思えない

161 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 00:06:19
当時、2倍暦が公のものなら、捏造でも何でもないじゃん

162 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 00:10:57
現在2倍暦の痕跡さえないのに、当時2倍暦があったということが、妄想、捏造といわれる所以。

163 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 00:39:36
シナバッカー降臨中
【夏休み】中国バカーvs日本ビパーpart110【シナ開き】
http://ex11.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1122036891/
英語で会話中です

164 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 00:32:01
>159

韓国の人はともすれば、自国の歴史を誇ろうとする余り、科学的検証がおろそかに
なりがちな面が指摘されています。
 斎藤国治・元国立天文台教授「古天文学の道」(原書房)によれば、
三国史記の日食記録のうち、中国の史書にあるものの、実際には日食が起きなかった
ものが、B.C. 34年、A.D.6年、114年、170年、273年、308年、335年、479年、
559年、592年と多数あり、しかも592年〜787年まで195年間も日食の記載が途絶えて
いるのは、極めて不自然であることが指摘されています。
 三国並立時代最後の592年の日食も、中国の史書を写したものの実は日食がなかった
例であり、これから考えて、三国時代の日食記録は中国史書を写したものであろうと
思われます。


165 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 01:45:43


166 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 02:04:49
>>162
盆と正月とか春秋の彼岸とか年2回ワンセットの行事は多いぞ
大祓だって水無月と師走の2回だしな

167 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 01:36:26
アフォですか?

168 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 08:33:45
飯を三回食うから一日は昔三日と数えていたと言うのと同じくらいの珍説ですな

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