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【官家士族、坊官、諸大夫、地下官人、非蔵人】

1 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 13:43:27
3代以上相恩の公家の家司、社家出身の非蔵人、剃髪帯刀妻帯の坊官
の生活、文化などを検証するスレです。
子孫の書き込み希望です。

2 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 13:46:01
http://wolfpac.press.ne.jp/kazoku10.html
華族になれなかった家
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/3914/jige18430201_index.html
地下官人一覧

3 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 13:49:17
http://www.c-able.ne.jp/~hiyoko/tyoutei/zigekanzin/hosokawa.htm
有位士族細川氏

4 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 22:22:51
>>2のリンク先に木下の名字と豊臣の氏を名乗る家があるんだよな。
どういう由緒の家なのかものすごく気になる。


5 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 22:40:25
こりゃまた、ものすごくマイナーなスレだなw

6 ::2005/05/23(月) 00:22:04
>>5
この板の住人にとってはマイナーじゃないと思いたい。

7 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 00:23:58
http://www.jissoin.com/nikki.html
京都岩倉実相院日記

8 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 00:26:22
岩倉実相院の坊官その他の家臣の宗派がばらばらだったというのが面白い。

9 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 20:57:21
age

10 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 22:24:17
非蔵人は幕府でいえば茶坊主みたいなもの。

11 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 00:48:10
age

12 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 21:46:48
>>4
豊臣直系は途絶えたはずなのに不思議ですね。

13 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 22:44:06
ねねの実家木下一族は豊臣姓をもらっているので、おそらくその係累では?
大名や旗本の木下氏も豊臣姓で、寛政重修諸家譜に記載されている。

14 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 23:10:17
まじっすか

15 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 16:59:14
坊官や諸大夫を研究している学者っているんですか?

16 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 21:21:37
>>15
http://www.jissoin.com/nikki.html
京都岩倉実相院日記 の著者がそうじゃないかな。
ほかにも結構いると思うが、、、


17 :日本@名無史さん:2005/05/27(金) 00:49:45
age

18 :日本@名無史さん:2005/05/27(金) 22:10:35
age

19 :日本@名無史さん:2005/05/31(火) 02:34:49
保守

20 :日本@名無史さん:2005/06/01(水) 12:50:20
伏見宮の殿上人の若江ってどうして華族になれなかったんだろう?
殿上人であるために三位になれなかったせいかな。
でも堂上っていっても実は歴代ほとんど三位に届いてない家もあるし。
極端なのは五位止まりとか。
やっぱり伏見宮付で朝廷直属じゃないせいかな?

21 :日本@名無史さん:2005/06/02(木) 01:18:18
ジサクジエーン

22 :日本@名無史さん:2005/06/02(木) 22:28:51
伏見宮の殿上人というのは宮家の御殿に昇殿を許されるという意味ではないでしょうか?


23 :日本@名無史さん:2005/06/02(木) 22:31:43
→殿上人であるために三位になれなかったせいかな。

殿上人を経て三位に進むのでは?


24 :日本@名無史さん:2005/06/02(木) 22:41:06
伏見宮家の御所にしか昇殿できない。
だから御所や仙洞御所、有栖川宮等ほかの御所には上がれない。地下人

25 :23:2005/06/02(木) 23:04:52
但し地下官人で三位に進んだ例もあります

26 :日本@名無史さん:2005/06/06(月) 11:52:06
地下官人の子孫です。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/3914/jige18430201_jot.html
一番下 院雑式 従六位下 原田 橘 美躬 左兵衛少尉 
でも生活、文化などは分かりません。
 

27 :日本@名無史さん:2005/06/06(月) 22:16:48
age

28 :日本@名無史さん:2005/06/06(月) 22:42:03
 従六位下なら並官人ですな

29 :日本@名無史さん:2005/06/07(火) 00:31:51
>>28
並なのは所詮地下官人ですから。位がもう少し高いのは曽祖母の実家、鷹司家諸大夫 種田嘉純・
嘉純の養子元 鷹司家諸大夫 小林眞純が正四位上、眞純の母が従二位俊永卿女(どこの家かは調査中)。
ほとんど坊官、諸大夫、地下官人などのレベルで結婚、養子縁組をしています。
其の他には鴨社司祐俊、施薬院法印宗眞、中務、源、藤原・・・など血縁関係がありますがこれから調べます。
なお院雑式従六位下原田は織田信長の庶長子、信正を祖としています。もっとも信正の存在
が事実かどうかははっきりしていませんが。幕末は御典医として天皇の医者をしたと祖母が自慢
していました。五位以上で無いと天皇に面会できないだろうと京都府立総合資料館で聞くと幕末では
そういう決まりは守られていないので否定はできないということでした。
先祖の親類縁者の中で多少有名なのは養子元、眞純の孫の小林良典です。
橋本左内・吉田松陰・松平慶永などと交流があり安政の大獄で刑死しました。
http://f-s-mahoroba.tsukaeru.jp/isinji/1859%20ANSEI.htm



30 :日本@名無史さん:2005/06/10(金) 22:29:53
>>29
鷹司家諸大夫だと石高はどれ位ですか?
公家の家司は副業を持つ場合が多かったのではと推察しますが。

31 :日本@名無史さん:2005/06/11(土) 08:12:50
多くても高50〜70石ぐらいでねーの。

32 :日本@名無史さん:2005/06/11(土) 11:13:59
>>29
興味深く読ませていただきました。
気になったことを少し申させていただきますと、

まず”従二位俊永卿”ですが、「公卿補任」で調べますと、天明5年2月18日に
74歳で亡くなった御祖社前正禰宜の泉亭俊永(「公卿補任」には”鴨俊永”とし
か記されていませんが、”俊”の字を使う下鴨社の社家は泉亭の家のみのような
ので。)かと思われます。略歴等については、寛延2年正月25日従三位、宝暦2
年正月12(or22)日正三位、安永6年7月25日従二位以外はわかりません。

小林眞純は正四位下が最高かと(「地下家伝」による)。

施薬院宗眞を「寛政重修諸家譜」で調べましたところ、実父は広島藩士寺西勝佐
で、施薬院法印宗寅の婿養子となりまして、享保5年12月29日家督を継ぎ、同14年
10月1日に法印に叙され、宝暦11年12月29日に致仕、明和5年11月4日70歳で死
去しています。子供たち(四男一女)はといえば、長男の宗文は家督を継がずに
宝暦8年5月26日41歳で死亡。次男宗維が家督を継ぎ、三男宗隆は宗維の養子とな
って家督を引きついでます。四男の武匡は府随身(後の近衛府)の土山淡路守武
眞に入養。長女は禁裏医師の浦野保生院玄[王台]の妻になってます。
>>29さんが施薬院宗眞を血縁に挙げられているのは、種田嘉純の義父土山右将監
武辰が武匡の子だからなんですね。

原田家の祖は信長の庶長子信正としてますが、「地下家伝」では信長公男重勝と
あり、また村井を称してたとあります。

33 :日本@名無史さん:2005/06/11(土) 11:25:38
29=32
ジサクジエーン

34 :日本@名無史さん:2005/06/11(土) 12:41:33
>>33

馬鹿が巣食っているな

35 :日本@名無史さん:2005/06/12(日) 19:22:53
>>30
鷹司家諸大夫の石高はどこかの書物に書いてあったようだが、いざとなっては見つかりません探しておきます。鷹司家に限らず諸大夫はだいたい20石から50石ぐらい、
近衛家の進藤という諸大夫だけ特別に百石です。副業を持つ場合が多かったのは確かですが地下官人レベルは様々です。衣食住主家持ちなので禄が少なくてもいい人、
地下官人の仕事が副業で普段は町人の人もいます。因みに慶応元年と三年、院雑色全体で山城国葛野郡之内3石、その内、原田、座田、吉田がそれぞれ7斗、田中が9斗となっています。
>>32
よく調べていただきありがとうございます。寛政重修諸家譜や公卿補任などはどのように検索したらいいのか分らないのでそのままになっていました。
確かに小林眞純は正四位下でした。施薬院宗眞が血縁というのは曾祖母が種田貞行女で貞行の母が近衛府土山右将監武辰女だからです。ということは嘉純の義父になりますね。あーややこしいです。
地下家伝をお持ちのようなので質問させてください。従二位俊永卿は鴨俊永という事ですが眞純-光祐-貞祐-祐長と遡っていくと貞祐 母藤原祐宜女とあり祐宜は実鴨社司祐俊次男となっています。これは
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_kamo.html
社家鴨氏参考系図(下鴨社)の下のほうにある神主祐俊のことだと思われますがいかがでしょうか。この系図では年代が分らないが公卿補任には載っているのかな?
もう一つ基本的なことですが、貞祐は祐長男 母藤原祐宜女 祐長は父上北面前中務少輔藤原祐宜次男 母法眼壽?閑女 実源貞治次男為養子と記述されていますが、
祐長と藤原祐宜の娘夫妻の子供が貞祐で、祐長は源貞治次男で藤原祐宜次男・法眼壽?閑女夫妻の家に養子に入ったということですか?
つまり祐長は藤原祐宜次男の所へ養子に来て藤原祐宜の娘と結婚したのですね。何かややこしいです。(自治日報社の地下家伝の場合P1246です)





36 :日本@名無史さん:2005/06/12(日) 19:56:16
私個人のことばかり書き込んだので少し地下官人について。
経済生活は、一部のものを除いては当然貧しく、大部分の生活は公然の別業によって支えられていた。
もっとも勤務のほうも、これに応じて楽だった。大部分が非常勤であり、常勤の実務職にはそれ相当の役得があった。
一方、行政事務は無くても御所内の仕事はある。天皇家以下後宮の食事、表の勤務者への給食、建物の管理営繕、勤務者の人事、給与等々
これは実務であり名目だけの官人に任せるわけにはいかない。彼らは実際に毎日役所に出勤して帳簿を記し、ソロバンをはじいた。

安政元年の官人数延べ697人。大部分は非常勤で無給に近い。実は彼らは摂家、親王家、堂上家の家臣であり、あるいは医師、絵師、儒家であり、
下級職員のなかには非番の日には質屋、魚屋、小間物屋の家業に精出す純町人もいる。地下官人の頭数を揃えなければならなかったのは古い八省百官制に対する偏執的なまでの憧憬からである。
だから、たった一人で「中務省」の長官と次官、部長、課長まで兼ねるという珍現象も生じる。
約700人の地下官人は、心情的には古制への憧れ、政治的には外形の威容を演出するための要員であった。


37 :日本@名無史さん:2005/06/13(月) 01:30:50
>>36
現代のマレーシアかインドネシアで王家に兼業の家臣団がいて
普段は別の仕事をしているというのをテレビで見たことがあります。

38 :日本@名無史さん:2005/06/13(月) 23:46:03
age

39 :日本@名無史さん:2005/06/13(月) 23:48:44
進藤は内蔵助のまたいとこ。

40 :日本@名無史さん:2005/06/14(火) 02:02:44
地下官人は三催とそれ以外の職に分けられる。三催とは外記方、官方、蔵人方の
ことで、前二者は大宝令以来、蔵人方は令外の職制である。大部分は仕事の中味も
給与もない空名の職である。まずは外記方について、
大外記職世襲の押小路家が支配する。押小路家は身分は諸大夫だが、公家なみに
従五位下から正三位まで進み得る特殊な家柄。大外記の下に小外記、権小外記、史生
がおり、この小外記になる家柄に平田中務大禄というのがあって、これが中務省の卿
(長官)、輔(次官)、丞(部長)、禄(課長)を一手に兼ね、中務省を代表する。
天保5年に外記の一職員だった平田某が、平安朝詔勅の宣下などを
掌った中務省の復活を進言して名称が残されたので、
その功で代々平田が中務省を受け持つことになったそうで、もちろん仕事など何もない。


41 :日本@名無史さん:2005/06/14(火) 02:03:17
史生という最下級の書記で、外記方直属の史生は左大臣、右大臣から任命されるので
一応本物だが、外記方に属する他の役所、中務省とか大舎人寮とか縫殿寮とかの史生は、
その役所の長に任命権があるので、その長が邸に出入する魚屋やそば屋に頼まれて
簡単に「補大舎人寮史生」という辞令を出してやる。そのあとはその旨職事に届ければ
自動的に正七位下の位と豊前大掾、上総小掾といった官職が下される。形式上奏問
はするが、天皇が七位の書類まで芽を通すはずが無く第一給与を伴わぬ人事で、
逆に申請者のほうから相当の献上物があったであろうから、ことは簡単に運んだ。
史生に任じられても、別に書記の仕事をするわけではなく、何かの行事や勅使の行列
の時、それらしい格好をして参加するだけだが、当人は大得意で、位相当の装束を
あつらえ、それぞれ衣装をつけさせた番頭、手代を共に連れて威風堂々と出仕する。
家へ帰れば前だれつけて店の旦那に逆戻り。こんな連中に限って物好きで裕福だから、
店の隣りに式台を付け、当時はそれほどうるさくなかった菊の紋のついた高提灯
を掲げたりする。このころ、刺青に年中紺の単衣を着、尻からげて店頭に立って無心
する「もうろく」という不良がいたが、菊の紋にだけは敬意を表して素通りしたという。
史生にはこんないい加減な者もいたが、他の諸役はほとんどが世襲の家に決まっていた。
文殿は青木家、式部省も一人一省で勧修寺家の近習谷口式部小丞家、内豎は、渡辺、林の二家といった調子である。


42 :日本@名無史さん:2005/06/14(火) 20:41:27
きっと面白いことが書いてあるんだろうけど
読みにくいので読む気がうせる。
せめて改行して間隔をあけてくれ

43 :日本@名無史さん:2005/06/15(水) 00:29:43
>>42
ホントに読みにくいね。自分で書き込んだのに読み直すのも嫌になる。

44 :日本@名無史さん:2005/06/15(水) 00:53:45
でも面白い。
こういう情報ってどうやって調べたんですか?

45 :日本@名無史さん:2005/06/15(水) 01:12:02
>>42
図書館で地下官人の書かれている所を少しコピーしました。
どの本だったか日曜日、確認に行ったが判らず、わかり次第報告します。

官方では、壬生官務家が左大史を言う職名で支配する。この家も諸大夫
の身分で公家並みに従五位から正三位にまで進む。

諸職のうち特異なのだけ説明しておくと、官方史生は定員2を山口
という家の父子で独占し、うち一人が内匠寮を兼ねる。これが珍しく
実質的な職で、公事に使う宮中諸器具の調達に関与するので業者から
リベートがあった。

大蔵省と木工(もく)寮を一人で持つ堀川家は一条家の五位の諸大夫だが、
どういうわけか木工寮のほうで家禄100石が付いていた。他に例が無い。
諸陵寮は三条西の臣谷森と吉田神社社家の鈴鹿が任ぜられたが、
これは時勢の波に乗って相当忙しかったようである。

他に官方にある珍職名を説明しておくと、生火(いけび)官人というのは
太古から伝えた火を守護し、ご即位の際これで蘭奢待を焼く役目。
ただしそんな火があるはずが無い。衛士は勅祭で内蔵寮から幣物を捧げ
御香水役人は正月の大元帥法の際、奈良、秋篠寺へ御香水を取りに行く役、
鉾立て役人と幡鉾は即位式に飾り鉾を持って立つだけ。何年に一回
仕事をするのか本人にもわからない。

左(右)近衛府、左(右)兵衛府を四府と総称し、本来は軍を統轄する役所
なのだが、近世の朝廷に軍があるはずがなく、実は鳳輦を担ぐ駕輿丁の
取締りをした。職名を兄部(このこうべ)、沙汰人といい、定数計6人。
兄部、沙汰人も駕輿丁もすべて相当の町家の主人の奉仕で、ずっと
無位無官たったが、幕末もおしつまった慶応3年、全員従八位下、
国の目(さかん)に任じられ、おかげで明治に士族にしてもらった。


46 :書跡研究者:2005/06/15(水) 11:57:13
最近、平田職忠の手紙を買った。押小路宛。

47 :日本@名無史さん:2005/06/15(水) 13:14:44
平凡社東洋文庫の「幕末の宮廷」に似たようなことが書いてあったと思うけど。

48 :日本@名無史さん:2005/06/15(水) 13:20:01
「幕末の朝廷」欲しいのだけれど、絶版で、
古本サイトで検索しても、ひとつも引っかからなくて、
どうすれば、手に入れられますか?

49 :日本@名無史さん:2005/06/15(水) 13:24:49
宮廷の間違いでした、図書館では読んだ事があるのですけれど。

50 :日本@名無史さん:2005/06/15(水) 13:28:36
>>48
漏れは図書館のを読んだ。
コピーは?

51 :日本@名無史さん:2005/06/15(水) 13:35:56
日本の為、みなさんのご協力をお願いいたします。
http://bbs.enjoykorea.naver.co.jp/jaction/read.php?id=enjoyjapan_16&nid=1440591&work=list&st=&sw=&cp=1

52 :日本@名無史さん:2005/06/15(水) 13:48:39
本自体を、自分のものとして、手元に置きたいのですけれど。
誰か売って下さい。

53 :日本@名無史さん:2005/06/15(水) 22:08:31
>>52
ヤフオクで探せ

54 :日本@名無史さん:2005/06/15(水) 23:10:10
age

55 :32:2005/06/15(水) 23:35:33
>>35
遅くなりまして申し訳ございません。

>社家鴨氏参考系図(下鴨社)の下のほうにある神主祐俊のことだと思われますがいかがでしょうか。この系図では年代が分らないが公卿補任には載っているのかな?

「公卿補任」には載っていないです。
社家鴨氏参考系図の参考文献「古代豪族系図集覧」は近くの図書館に置いてないので「群書系図部集 第七」所載の鴨県主系図で確認しましたところ、一部官歴に合わぬところがありますが、社家鴨氏参考系図(下鴨社)の神主祐俊で間違いないです。
但し祐宜(祐宣)は祐俊の3男ですが。

>祐長と藤原祐宜の娘夫妻の子供が貞祐で、祐長は源貞治次男で藤原祐宜次男・法眼壽?閑女夫妻の家に養子に入ったということですか?

文字通り解釈すればそれで合ってますが、祐長の父は”藤原祐宜次男”でなく、”藤原祐宜”だと思います。父の続柄が明確なのに諱名がわからないというのはおかしいと思うからです。
ここは”父は○○次男”でなく”父○○の次男”と解釈するのが自然かと思います(言葉的にはちょっと不自然ですが)。
他に”父○○次男”のような記述例がないか探しますと、三條家諸大夫の入江家初代則通の条に”父一條家諸大夫参河守則具朝臣次男”なる記述を見つけました。
則通は生年寛永20年、一方則具の跡を襲った息子の則定は生年が寛永8年なので、ここで則通の父を則具の次男と解釈すると、則通は則定の甥という関係にもかかわらず年齢差が12歳ということになります。
これはちょっと不自然かと思います。そういうことで、祐長は祐宜の婿養子だということになります。(続く)

56 :32:2005/06/15(水) 23:36:22
>>35
ここでふと疑問に思ったことを申しますと、どうして婿養子になったにもかかわらず苗字が”広庭”ではなく”小林”なのかということです。
養子になったのちすぐに改姓したのかなとも思いましたが、どうも養子になる以前からの苗字のようなのです。
というのは「京都役所方覚書」(元禄7年)所載の鷹司兼熙と房輔の諸大夫に、それぞれ広庭中務権少輔と小林主税頭の名前が見えるからです。
小林主税頭というのは祐長なのですが、広庭中務権少輔というのは「群書系図部集」から祐宜の息子祐精のようなのです
(ちなみに祐精の中務権少輔任官日時は寛文9年10月27日。祐宜は引退したのか載っておらず、翌年死去)。
祐精の無嗣絶家(?)によって結果的に婿養子という形になったということなのでしょうか。

あと申したきこと2点。

>>32で鴨俊永卿を泉亭俊永と推定しましたが、「地下家伝」上北面に書かれている泉亭梢永の父が鴨社正禰宜泉亭故俊永卿とあるところから間違いないようです。

貞祐の義父中務権少輔祐胤のことなのですが、祐長と同世代、諱名の一字が”祐”、官職が中務権少輔というところから、祐宜の息子祐精の可能性も考えられます。
「群書系図部集」所載の鴨県主系図は延宝年間ぐらいまでしか載っていないので、改名の可能性を含めてこんな推測をしましたが、「古代豪族系図集覧」をみれば何かわかるかもしれません(目を通したこともないのでなんとも‥)。

>>37
ジョグジャカルタのスルタン家かな?

57 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 02:03:23
蔵人方を支配する平田出納(しゅつのう)家は、外記方の大外記、
官方の官務より一等落ちて正六位上から従四位上まで、身分も侍。
しかし役得も多かったらしく「一に行事官(諸器具調進の内匠寮山口家)
二に出納(平田)三、四除けて五堀川(木工寮に百石の禄がついた)」
といわれた。

蔵人方諸職のうち御蔵小舎人は天皇の蔵を預かる役で従四位下(これは異例
だそうです)山科安芸守正行以下七人もいるが、そんな蔵などなかった。

所衆は近世の再興で、鷹司家の近習藪、勧修寺家の侍袖岡ら七軒の世襲、
図書寮は宣命その他に使う紙を調達し、主水司は、名はいかめしいが、
祭典で高級参役公家や勅使が手を清めるとき水をかける役。それでも
従五位、六位である。戸屋主(へやしゅ)は天皇の草履を預かる役、
下南座(しもののうざ)は儀式のとき、偉い人の通る道に莚を敷く役、
釜殿(かなえど)は式に使うお湯を沸かす役。

御車(みくるま)童子、御車舎人、御車大工御車副、御車棧持、
榻(しじ)持、掛竿持は牛車に関する職務、大仏師、院承仕、
絵所はいずれも仏法に関係ある職で全員法体、法橋(ほっきょう
=六位相当)、法眼(=五位)法印の僧位を持つ。絵所は仏画
を掌る職で、別に宮中の襖絵などを担当する画所預という職とは違う。






58 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 03:35:43
>>55
本格的にたくさん調べて頂いてありがとうございます。
○○次男というのが今一つ理解できないです。○○の次男として
養子に入ったということですか?

また読みが深いですね。広庭など、そこまで考えつきませんでした。
京都役所方覚書、こんなところにも参考になるものがあるのですね。
祐胤の痕跡がないので、確かに改名ということも考えられます。
取り合えず、私のご先祖様は下鴨神社の人達なのだろう。
あまり行ったことがないので、これからは下鴨神社を贔屓にしよう!

施薬院宗眞を「寛政重修諸家譜」で確認してきました。武士ではないので
この本に載っているとは思いもよりませんでした。
宗眞からあとを辿ると角倉了以に始まり松平、酒井、水野、太田道潅、
前田利家、北条早雲などと繋がってしまった。ほんまかいな〜。


59 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 17:38:42
>>58
幕末の宮廷に出てくる名前を書きとめておき、国史大辞典などで追っていくと面白い
と思います。

60 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 22:59:30
最近の「史学雑誌」に史生の復活についての話が載っているのを図書館で見ました。
それによると確か、最初は任命者の見栄みたいな感じで、
史生に任じられるのは必ずしも金持ちではなかったようです。
そのうちにいつしか利権化して「幕末の宮廷」で語られているような状況になったのでしょう。
結構参考になりそうな本もあるようです。
だれか「中世公家と地下官人」と「幕末の宮廷」の間を埋める本ってご存知ないですか。
正六位下以下の位階っていつ復活したんでしょうね?

61 :書跡研究者:2005/06/16(木) 23:30:49
「しゅつのう」ではなく「すいのう」。

62 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 23:43:38

「すいとう」じゃないの?

63 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 23:48:00
今でもすいとうっていうよ
県の出納長とか

64 :32:2005/06/17(金) 00:46:05
>>58
>○○の次男として養子に入ったということですか?

そういうことです。長男が実子祐精、次男が養子祐長ということです。

>京都役所方覚書、こんなところにも参考になるものがあるのですね。

以前地下官人に興味があったときに(今も一応あるんですが)、
京都関連の書籍を手当たり次第読んでいて、見つけてコピーしておいたものなのですが、
今回まさかこういう形で役に立つとは思いもしませんでした。

65 :日本@名無史さん:2005/06/17(金) 05:50:35
蔵人方のお頭である、平田出納家の、「出納」の読みは、
「すいのう」が、当時行なわれていた、
有職読み(公家読み)としては、正しいのではないかと、思われる。
「しゅつのう」のルビも見るが、当時を知らない編纂者の、
あとからの書き込みでは、ないだろうか。
「すいとう」の読みは、現代では正しいが、
平田出納には、全く当てはまらない。

66 :日本@名無史さん:2005/06/17(金) 11:44:15
>>65

有職読みでしたか、御教示サンクス

67 :日本@名無史さん:2005/06/18(土) 00:10:06
平田出納は華族になれなかった、残念。

68 :日本@名無史さん:2005/06/18(土) 02:33:04
ttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/3914/jige18430201_gekigata.html
これ見ると西洋医がいるけどホンマかいな

69 :日本@名無史さん:2005/06/18(土) 09:38:38
>>68 小森縫殿助

平安人物志(文政13年版) ( 文政十三年寅初冬再刻 ) Page 00423 に見られる記述

分類: 医家
和気義敬 - 号 : 枇塢 - 字 : 鷯斎 - 東洞院蛸薬師南 - (俗称) 小森縫殿助 - 附著書: 蘭方樞機 泰西方鑑 病因精義

ttp://isjhp1.nichibun.ac.jp/contents/jinbutsu/12412/info.html

70 :日本@名無史さん:2005/06/18(土) 12:24:49
>>69
東洞院蛸薬師南ということは、いわゆる公家町の外だよね。
地下官人は、公家町の外に住んでたの?
堂上でも吉田家のように公家町の外に住んでた人はいたけど。

71 :日本@名無史さん:2005/06/18(土) 17:29:14
三催以外の職では。検非違使は平安朝、警察権力をふるったものだが、
それでも幕末、なお12人いた。実際は幕府の町奉行があるから何もしない。
ただ正月七日、一同そろって公家門から入り、参内殿の前庭で西向きに
立って罪人赦免の儀式を行い、四月の賀茂祭には行列に加わって社頭に参向、
開眼の日の翌日には一同騎馬で六角の牢屋敷へ行き、罪人を呼び出して
赦免の宣告をするが、もちろん形式だけ。

滝口も平家物語の世界では華やかな存在だったが、江戸時代は清涼殿の
滝口に伺候することもなく、天皇の葬送に松明を持って恩前火を奉士し、
親王家が入門して寺へ入る時行列の伴奉をした程度。
左右近衛府には72人も名を連ねているが、仕事は昔の近衛兵的役割とは
縁遠く、節会行幸啓のとき大臣大将の供をしたりするだけだった。

楽人は御所に勤める橋と方の81人のほか、奈良で仕事する南都方3人、
大阪の天王寺方7人、それに在江戸楽人14人がいた。南都方は興福寺方とも
いって、たいてい京都に住み、必要に応じて出張した。

天王寺方、江戸方は現地住まい。関西では全員に正米六百石の維持費が
出るだけなので、これを分配すると一軒六・七石にしかならぬが、
江戸楽人は幕府職員になるので、六・七十石から百石ぐらいもらい、
はるかに割がよかった。そのかわり江戸では旗本や諸侯との釣りあいで
正六位下から正五位下にしかなれないのに、京都では正六位下から正四位
まで進めた。楽人の取り締まりは同上の四辻家で、これが楽所の長でも
あった。楽人はたいていの家が舞楽教授で生計を立てていたと思われる。


72 :日本@名無史さん:2005/06/18(土) 18:29:28
東儀秀樹氏は京都方の後裔ですか?

73 :日本@名無史さん:2005/06/18(土) 19:19:55
>>64 32さんへ
「古代豪族系図集覧」を見てきました。ご指摘の通り祐俊―祐宣−祐精
(中務権少輔)。祐宣の次男として祐長となっていました。広庭
は祐俊の父祐房から名乗っていました。そして祐房の5男から5代目
に俊永があります。群書系図部集の系図と比べるとかなり違いますね。
江戸時代ならもっとハッキリしていても良さそうだが。
祐胤が祐精とすると小林家は鴨一族の庶流のようなイメージですね。


74 :日本@名無史さん:2005/06/18(土) 23:16:09
>>70
外記方なので仕事もないでしょうから何処に住んでも支障なない
と思います。場所は医者として仕事のし易い所を選んだのでしょう。
私の先祖も院雑色で医者でした。場所も御所から少し離れた一条大宮
に住んでいました。師匠にあたる典薬寮の岡本甲斐守も伊佐町
という所に住んでいました。

75 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 00:25:06
半井家

和気氏 幕府医官
和気清麻呂の後裔。禁裏医官の出身で、成信の時に徳川家に仕え、山城・相模で1500石を与えられた。
半井・今大路両家は幕臣でありながら大名並に代々従五位下典薬頭に叙任し、八省大輔等を兼官する特殊な家格であった。
維新の際に新政府に帰順して中大夫となるも、今大路家同様、華族制度成立時には既に列華族の資格を失っていた。
明治12年(1879)の押小路請願書に名が挙げられており、明治36年(1903)にも親戚筋の朽木・六郷両子爵家の援助を得て
再度請願書を提出するが、いずれも認められず却下された。正四位下まで昇進する高家の面々ですら士族に置かれたという現実の前では、
従五位下どまりで万石にも満たない半井家が華族に昇格できる余地はなかったのである。



76 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 00:28:30
上記の半井家も和気氏ですが、和気氏は医家が多いのですか?

77 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 05:00:27
>>72
元々は天王寺。
江戸時代は、江戸(紅葉山)。

78 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 18:25:27
東儀家の家禄は? 裕福だった感じがしますが、、、。

79 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 19:13:44
>76
現在は気象予報士として身を立てておられるようですが。

80 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 19:17:49
東儀家は、大阪の天王寺楽所の楽人。

81 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 19:56:05
>>76
和気氏に医家が多いかどうかは知らないが
半井家に医家が多いのは確か。
幕府医師、諸藩医等に多数

82 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 23:46:51
>>79
ほんと??

83 :日本@名無史さん:2005/06/20(月) 01:51:19
半井小絵さんですね


84 :日本@名無史さん:2005/06/20(月) 01:54:18
ナカライテスク株式会社って関係あるんですか?

85 :日本@名無史さん:2005/06/20(月) 02:44:39
ttp://www.nacalai.co.jp/summary/aisatu.htm

この初代が何者かわかれば・・・
なんとなく関係ありそうだけど。

86 :日本@名無史さん:2005/06/20(月) 12:23:51
医師の半井氏ゆかりの町
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E7%AB%8B%E7%94%BA

87 :日本@名無史さん:2005/06/20(月) 12:31:45

医者の名前に基づく町も結構ある罠。野間玄琢に由来する玄琢町とか
スレ違い、スマソ

88 :日本@名無史さん:2005/06/20(月) 14:55:54
神祇官は本姓中臣、忌部、卜部の神官家から出る。陰陽寮は暦学を家業
とする幸徳井家の独占で、宮中の儀式の日取りなどを決めるが、左義長
で鬼踊りもする。

本来、陰陽頭である堂上の土御門家の下にあるはずだが、
幕末にはその支配を受けることなく威張り返っていたという。神祇官と
陰陽寮はまだ比較的仕事の多い職制だったようである。

典薬頭の小森家は諸大夫の身分で六位の蔵人にもなれるが、全国の医師を
取り締まる立場にあるので収入も大きかった。ただし医学の知識はない。
この小森家は家柄もよく、早くから堂上になれたのだが、六位の蔵人で
役料百石をもらうほうがよいと名よりも実を取って公家にならなかった。
おかげで明治になっても子爵がもらえず有位士族で終わった。

典薬寮で医師というのは、実は全部町医で、順番に相当の装束をつけて
参内した。町医は坊主頭の人が多かったが、朝廷は江戸城と違って、
神事の多い関係から法体を嫌ったので参内の日だけつき髷をつけて
かぶった。

89 :日本@名無史さん:2005/06/20(月) 15:09:24
>>88
つき髷をつけて→付け髷(まげ)をつけて冠を の間違いです。

90 :日本@名無史さん:2005/06/20(月) 19:15:42
ふーん、上方の医師は江戸とちがって、禿頭円頂にはしないで、
総髪なのかと、思っていた。

91 :日本@名無史さん:2005/06/20(月) 19:20:20

医者に法眼とか法印といった僧位を与えるのは元々宮中の習慣だろうが
それが幕府に残って、京医は鬘かい

92 :日本@名無史さん:2005/06/21(火) 02:13:32
嫌味や皮肉ではありませんが、幕末の宮廷や国史大辞典、公卿補任から持って
来る時は、引用先を明記するか、書き直したほうが良いのでは?
最近大学の図書館でも、コピーや引用に関して煩くなっています。

93 :日本@名無史さん:2005/06/21(火) 02:58:00
典薬頭→厚生大臣と考えていいですか?

94 :日本@名無史さん:2005/06/21(火) 03:00:15
医師でもあった堂上の錦小路と地下の小森はどういう関係になるんですか?

95 :日本@名無史さん:2005/06/21(火) 15:51:06
>>94

錦小路と小森は丹波氏で元々同族のようだが、錦小路が戦国期に断絶し
小森から人が入って再興し、さらに堂上に上った模様。
江戸時代には両家とも典薬頭を出している。

なお、>>69の小森桃塢は著名の蘭方医だが、地下の小森氏の人ではない(全く別家)ので注意

96 :日本@名無史さん:2005/06/21(火) 22:43:13
age

97 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 01:44:28
大納言を、唐名で亜相というそうですが、この由来をご存知のかたいらっしゃいますでしょうか

98 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 02:31:02
大納言(だいなごん)
植物名称の一つ。大納言(だいなごん)は、マメ科ササゲ属に属するアズキの一種。
皮に独特の風味があり、煮込んで粒あんにすると柔らかな皮の食感が餡と調和するため高級和菓子で良く使われている。

--------------------------------------------------------------------------------









大納言(だいなごん)は、朝廷組織の最高機関、太政官の職の一つで、左大臣・右大臣・内大臣に次ぐ官位で、
四等官の中の次官(すけ)に相当する。漢風名称は亜相(あしょう)・亜槐(あかい)。いずれも大臣(相、槐門)に
亜(つ)ぐもの、の意味。「龍作の官」と呼ばれるのは書経に「龍、なんじ納言(言をいれる)を作(な)せ」とあるのによる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%B4%8D%E8%A8%80

99 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 02:59:10
>>95
>>69の小森は地下官人ですよ。典薬頭の小森じゃないですけど。


100 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 22:35:18
大納言より下位の参議を宰相というのも奇妙だな。

101 :日本@名無史さん:2005/06/23(木) 00:15:59
age

102 :日本@名無史さん:2005/06/23(木) 01:30:27
上御蔵、下御蔵というのは朝廷の公庫を管理する職だが、そんな蔵などなく、
全くの空名。これは昔勧修寺家の家来だった立入某が、家が裕福だったところ
から、皇室の窮乏を見かねて毎日お粥と香の物を献上したので、当時の正親町
天皇からお礼のかわりに上御蔵という職名を賜ったのがはじまり。

そのゆかりで立入家は毎年八月一日に自家製の甘酒一斗と香の物百本を
御所へ献上していた。下御蔵は多(おおの)と言う従四位下の家が
預かっているが、この多も裕福で、先祖が正親町天皇の皇子誠仁親王
に日々その供御を差し上げた、その功でいただいた職名。

103 :日本@名無史さん:2005/06/23(木) 17:32:02
↑ 『幕末の宮廷』に、書かれてある内容を、ちょっと言い回しを変えただけですね。
まだまだ続くのであれば、出典明記がフェアなのでは、ないでしょうか。
あるいは、複数の史料を駆使した、有機的な考察を、お願いします。

104 :日本@名無史さん:2005/06/23(木) 18:59:24
確かに出典を示さないで知ったかを書くのはイクナイ

105 :日本@名無史さん:2005/06/23(木) 22:17:39
>>103
前にも書いたように図書館でコピーしたものです。
どの本なのかをコピーしてなかったので図書館で探したのですが
見つかりませんでした。平易に書かれているので、話のネタに
なれば良いと書き込みましたが止めておきます。
『幕末の宮廷』のような短いタイトルでは無かったはず。
また探しておきます。


106 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 00:37:18
>>103
>>104
おまいらバカだろ。
学術論文じゃなくて、ここは兄ちゃんだぞ。
いろんなところから拾い集めたネタで盛り上がる場所だ。
気にくわなければとっとと逝け。

107 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 01:26:59
92でも書きましたが、最近は図書館でもコピーなどについて煩くなっているので
自分なりに言い回しを変えるか、資料を明記したほうが良いと思います。

108 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 04:01:00
持っていない人も多いと思うので、『幕末の宮廷』について。(自分は20年以上前に、新刊で購入)。

摂家の一条家の侍だった、下橋敬長(ゆきおさ)が、大正10年に、東京の各所で行なった、
講演の速記記録などを基に、以下の本などが、大正時代に刊行された。
   A 「幕末の宮廷」 宮内省図書寮刊
   B 「維新前の宮廷生活」 三田史学会刊 (「史学」第1巻第3号の付録)
   C 「京都の故事について」 温知会刊
   D 「維新前の宮廷生活補遺」 三田史学会刊 (「史学」第3巻第1号所収)

このうち、A・B・Dを収めて、昭和54年に、刊行されたのが、
   E 『幕末の宮廷』 平凡社刊 東洋文庫353
である。A〜Dは無論、Eも絶版で、ヤフオク他ネット検索では、1点も出てこないようだ。
図書館でのコピーが許されたとなると、稀覯本であるA〜Dは殆ど考えられず、Eと思われるが、
あるいは、A〜Eをタネ本にして、内容を孫引きした本も、別にあるのかも知れない。

109 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 08:31:35
6年前にEを新刊で買った俺は勝ち組ですか?

110 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 08:57:32
多分、すべりこみセーフで、メチャメチャらっきーですね。
本との出会いは、一期一会と思うべし。

111 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 10:59:51
>>108
Eならばどこの図書館にでもあるので便利ですね。
AとCは大学の図書館で見ました。

112 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 21:35:46
>>107は素人か基地外w

113 :1:2005/06/24(金) 23:00:36
面白ければ何でもあり、でお願いします。

114 :日本@名無史さん:2005/06/25(土) 00:38:42
ここは「幕末の宮廷」を持っていることを自慢するスレですか?

115 :太閤殿下:2005/06/25(土) 14:13:48
>100さん
確かに参議が宰相(中国の大臣)と言うのは変ですが、和田英松博士の官職要解の
参議の項に、朝政を参議すること、大臣のようであるから、ことさらに、参議の唐名に
したのであろう。と、ちょっと弱いような解釈が載っています。それならば大納言も
亜相と言わずに、中納言も黄門と言わずに宰相でよさそうなものだと思いますがね。
まあ奈良朝から平安朝の初期までは大臣、納言の数が少なく参議の重みは、中世以後とは
比較にならない程重要ポストであった事は間違いないとはおもいます。したがって
参議達は自分らの職にプライドを持って宰相と呼んだのでしようか。


116 :日本@名無史さん:2005/06/25(土) 22:09:06
>>115
自分たちのことを「宰相」なんて呼ぶはずないだろ。
色んな板でアフォなこと書き散らしてんじゃねえよ。


117 :日本@名無史さん:2005/06/26(日) 22:30:10
>>115
ありがとう

118 :日本@名無史さん:2005/06/29(水) 11:28:52
>>102 >>88 >>71 >>57 >>45など
「考証 幕末京都四民の生活 風俗文化史選書11 」
明田鉄男 / 雄山閣 / 昭和49  金二、〇〇〇円
         1921(大正10年)愛媛県生まれ。
         京都大学法学部卒業
         読売新聞大阪本社地方部次長(当時)
         著作 「幕末京都上・下」 「乱世京都上・下」
         「江戸と京都上・下」 「京都府議会史」など
『幕末の宮廷』ではありませんでした。
歴史の棚ではなく風俗の棚にありました。いくら探しても無い
わけだ。
http://academy.dip.jp/item_spec.php?CAT=29&ITEM=33776
ここによると、定価¥2,000だったのが¥5,250になっている。

>>113に従って。
仙洞御所の官人。上皇のいるときは院の長官、蔵人、所衆、御壺召次、
上北面、下北面といった天皇の御所の規模をそのまま縮小したような職制
で、上皇がなくなるとこれが後院庁官、後院蔵人、後院所衆、後院召使、
後院侍と名が変わる。幕末の期間中上皇はいなかったので、ここでは、
「後院」の官人ということになる。主のいない御所なので、いずれも
閑職、というよりむしろ空名の職である。

ただ、平安朝の北面の武士の伝統を持つ後院侍だけは給与が付いていた。
上皇のいるとき上北面とよばれる十人は摂家の諸大夫と非蔵人中上位の
十軒から選ばれた五人で、五位の高位を持ち、院の昇殿も許されて、
その身一代限り年二十石三人扶持、同じく下北面は旧家十三軒、新家
二軒と検非違使から兼勤する家二軒で六位の格。

旧家には百石から二十石の家禄があるが、新家はその身一代限り御蔵米年
十五石ということになる。上皇が死亡すると上北面はそれぞれの主家へ
戻るが、下北面は後院侍の名で仙洞御所へ残る。仕事としては昔のような
勇ましいものではなく、雑役ばかりだったようである。

119 :日本@名無史さん:2005/06/30(木) 23:27:53
age

120 :日本@名無史さん:2005/07/01(金) 17:18:47
考証 幕末京都四民の生活より 9
口向役人と仕丁
91万平方メートルの築地内に天皇家を中心に、おそらく千人以上の人々が
生活し、勤務している御所を実際に管理し、運営する事務職員は装飾的職
制にすぎない地下官人ではなく、口向け(くちむけ)役人の人々である。

口向とは勝手向といったほどの意味だが、この場合は、御所内の、
@食生活の管理 A庶務、会計、営繕関係一切 B表と奥向のパイプ役
という三つの実務を持つ。そしてこの実務内容の関係から、江戸幕府に
よって派遣された武家が少数ながらも重要ポストに配置され、組織全体
が御附武家という御所監視の江戸旗本の指揮下に入る。近世の朝幕関係
を最も如実に象徴する特殊なセクションをいえる。

1、執次(とりつぎ)、賄頭、勘使(かんづかい)兼御買物方、
御膳番、中詰
2、修理職、賄方、板元、板元吟味役、板元表掛、板元見習、
鍵番、奏者番、使番番頭、使番

1は中詰から昇進して執次にまで至り、2は使番から始まって原則として
修理職まで昇進できる。つまり出世コースが分けられれいるのである。


121 :日本@名無史さん:2005/07/01(金) 22:52:12
age

122 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 01:33:38
>>120
1と2のグループの違いはなんですか?
2の「板元」てのはどういう役職なんでしょう?
最初「板前」かと思っちゃいました(-_-;

123 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 16:23:55
>>122
1と2の違いは出世コースの違い。
板元は板前です。

考証 幕末京都四民の生活より 10

初役の中詰、使番は、これに出ることのできる家が決まっていて、中詰
に出られる家は30軒、そのうち執次にまで昇り得るのは12軒、使番に
なり得る家は130軒。これは家の資格であって、中詰、使番の定員が
30人、130人という意味ではない。

中詰、使番ともに一律五石二人扶持g、この二人扶持は八合と七合、
計一日一升五合という妙な計算で、実収計一年十石四斗になる。
給与は同じだが、出世コースがよいので、中詰の家の方がはるかに
格が上である。いずれも地下官人の方でも無意味な職名を持っているが、
それでは食えないので、実収を伴う実務を希望したのである。年十石
四斗は低給だが、公然の役得が大きいからあまり問題にしていない。



124 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 18:22:58
坊官ですが、本願寺の下間氏は明治以降どこに消えたのでしょうか。
某大学の学生にも私の前後3年 計7年間の学生にも下間姓の人はいませんでした。

本願寺史に出てくる他の人の子孫は教員、職員、OB、学生などで一通り揃っていただけに疑問です。

125 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 18:26:29
>>124

大谷大学でっか?

126 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 18:53:23
>>125
もうひとつのほう。下間屋敷跡地のほう。

127 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 19:17:29
>124
京都市の電話帳を見てみると何件かの下間家が見られますな。

(ちなみに京都市の電話帳見てると、大谷家の方々の電話番号が普通に掲載されてたりする)

128 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 19:49:16
>129
門徒以外からみりゃ花田家とかわらんわな。

129 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 20:31:50
>>128
受験生から見ると、明治大学と明治鍼灸大学くらい違うと思う。

130 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 21:24:48
age

131 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 21:43:14
>>129
そうか?
九大出のエリートな俺から見ると、どちらも超DQNなわけだが。

132 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 22:30:36
>>131
京大出身者からすると・・・・


133 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 22:40:31
代アニのおれからすると、みんなエリート。

134 :131:2005/07/02(土) 22:41:19
>>132
北九州市立大は黙ってろ。バカ。

135 :名無し:2005/07/02(土) 22:43:19
九大でエリートとは笑止千万。九大には確かに優秀な椰子もいるが、自分で言う椰子にろくなのはいない。

136 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 01:27:33
いい感じのスレだったのに、学歴厨が発生したか・・・・

137 :1:2005/07/03(日) 01:57:23
学歴にこだわるのは下級貴族の特徴ですね。
上級貴族は門閥だけで位階を進められ、庶民はそもそも学問に縁がないからです。

138 :1:2005/07/03(日) 02:02:30
江戸時代の地下官人ってどのくらい教養があったのでしょう?
社家などは教養がありそうですが、町人兼帯の史生などはあやしいですね。

139 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 02:25:17
町人でもそれなりに稼いだ人たちでしょう。金はそれなりに稼ぎ
あとは名誉が欲しい、てな具合。教養がなくてもそれなりに才覚が
ある人たちではあると思います。


140 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 02:40:01
町人兼帯の史生は武士に対して頭を下げなくてもいいのではないですか。

141 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 02:40:12
町人兼帯の史生は武士に対して頭を下げなくてもいいのではないですか。

142 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 05:42:36
>九大には確かに優秀な椰子もいるが
そうかなあ‥‥。一般にあんまり評価高くないと思われ。
史料網羅主義が多いとのこと。

143 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 07:41:22
子孫おっかけ厨の漏れには系図集と同様に
京都市内の電話帳と住宅地図は必携。

・・・ストーカー一歩手前。

144 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 09:46:31
考証 幕末京都四民の生活より 明田鉄男 11

まず執次は定員7人、役料五石。直接御附武家を補佐して口向け全般を
統括する。その家には預(あずかり)という名の公費の下僕二人が付き、
公私の用を足して外出にも供する。

賄頭は定員一名、これは金銭出納に関する実務の責任者だから幕府から
御家人でその才ある者が派遣されてくる。在職中は旗本の格。
したがって中詰からの出世コースとは関係ない。

勘使兼御買物方という長い名の職は賄頭の指揮下で出納の実務にあたる。
御所の入用品一切の買い入れをするので役得は執次よりも多いという。
定員四人のうち二人が幕府派遣の御家人、他の二人が中詰からの昇進者。
御家人の方が上席だが役料はなく、中詰出身の二人には年三石が付く。

145 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 11:03:47
>>144

なるほど、江戸幕臣人名事典にも「御所勘使兼御買物方」というのが
見えるわな。中詰出身にもいるのか

146 :131:2005/07/03(日) 11:39:36
>>142
だから北九州市立大学は黙ってろって言っただろうが。
官立でもない私学でもない中途半端な大学が、九大のような超エリート大学を云々する資格はないんだよ。


147 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 12:17:33
史料網羅主義、わるくないでしょう。

網野善彦だって史料網羅主義ですよ。

148 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 13:03:08
>>124
横浜市に下間姓の人が住んでるよ。
下の名前に「頼」の字が入ってるから子孫では?

149 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 14:30:43
>>142
関連史料を網羅しないで、一体どんな論文が書けるんだい?
史学概論とか史学研究法を受講しなおした方がいいよ。

あ、ごめん。
大学には通ってなかったんだよね。
中卒の肉体労働者くんw

150 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 20:06:48
>>118にあるプロフィール以外に、明田鉄男氏のことわからないのかな?
どういうおっさんなのか興味ある。

151 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 00:02:32
>>149
関連資料を網羅するんじゃない、感じるんだ

152 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 00:41:49
>>120
1と2を比べてみると、中央官庁の事務官と技官の区別みたいな感じがする。

153 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 01:05:24
>>150
明田 鉄男
1921年生まれ。京都大学法学部卒。読売新聞大阪本社記者、論説委員。
のち、霊山歴史館主任研究員、大手前女子大学非常勤講師、
滋賀女子短期大学教授。現在、日本ペンクラブ会員、日本歴史学会会員。
昭和39年に小説「月明に飛ぶ」で第24回オール読物新人賞受賞



154 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 01:21:38
>>153
THX!
大学教授になってるけど、『幕末京都四民の生活』の外に学術論文なんかあるんでしょうか?

155 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 05:05:59
>>149
網羅するのは作業としてやればいいんだよ。論文そのものにまで網羅するなっつーの。こんなに沢山集めましたスゴイでしょ、みたいなのは要らない。そっからら先、集めて分析した結果を書けっつーの

156 :131:2005/07/04(月) 12:03:18
>>155
バカが。
網羅主義てのは、集めた史料を全部引用することじゃないってことは、お前以外の全員が知ってるよ。
お前みたいなバカの醜態を見ると、マジで中卒の低脳さが伝わってくるよw

157 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:02:25
考証 幕末京都四民の生活より 明田鉄男 12

御膳番は定員五人。全員中詰出身で、料理役人の板元が作った天皇の
食事を、板元吟味役を立ち会わせて器に盛りつけ、三方にのせて御錠口
まで運び、奥向女子職員の御末に渡すところまでが仕事。

中詰は御膳番以上の専門職に欠員が生じるのを待っているプール階級で、
定員はないらしい。日ごろは伺候の間に詰める御附武家の身の回りを
世話し、命じられて執次や武家伝奏の公家を呼びに行ったりする。

中詰は父子一緒に勤めることはできず、父が御膳番以上に出世すると、
15歳以上の子が初めて中詰に出る。父が中詰のままで死亡すると
その家は使番の格に落とされ、その子は使番にしか出られない。

158 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 22:57:24
>>154
論文は知りません。下の本のように権力者側ではなく一般人の生活をわかりやすく
しかも専門家ではなく一般の人々に伝えたい、というような記事を読んだことがある。

江戸10万日全記録―実録事件史年表
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4639017995/ref=pd_rhf_p_2/250-2660020-7839460
近世事件史年表
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4639010958/ref=pd_rhf_p_4/250-2660020-7839460
日本花街史
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4639010028/wwwkokkoyacom-22/250-2660020-7839460#product-details


159 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 04:34:40
>>156
いや、だからね、某大はまさにそおゆうのが多いって
話をしてんだよ。あんたが及第だったら悪かったよ、
ごめんよ、そおムキになるなよ。

160 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:09:22
すれ違いなのですが:
  明治になって、士族や平民ができた、そのとき、
  神官、坊さんは、どうなったんですか。
  また、秩禄を一時もらったんでしょうか。

  本願寺の大谷家に仕える人は、主君が華族なので、彼らは士族になったんでしょうか。

161 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:11:54
>>160
そういう門跡ネタは↓のスレッドが専用化してるので、そちらでやってください。

ttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1064670174/l50

162 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:12:12
神官、寺侍は士族です。

163 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 21:05:11
>>160
 江戸時代、庶民は寺請け帳に名前が記載されましたが、武士は記載されませんでした。
 神官や僧侶も寺請け帳に名前が記されました。
 明治時代の族籍の平民というのは、この寺請け帳に名前のある者を一括したものです。
 したがって、族籍は平民です。
 ついでに言いますと、>>162は士ね、ということですねw

164 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 21:53:12
>>163
門跡寺院の侍や上加茂、下鴨、松尾大社などの社家は明治になると士族
になったの平民ではなく士族と言っても良いのでは?

165 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 22:04:11
↑ × 士族になったの平民 → ○ 士族になったので平民

166 :131:2005/07/06(水) 00:52:57
>>160
>>162
>>164
>>165

北九州市立大学必死だなw
そのうち九州から追放してやるから覚悟しとけよ。

167 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 03:03:15
粘着学歴厨は出て行け!!

168 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 15:22:00
考証 幕末京都四民の生活より 明田鉄男 13

次に使番から出発するコースに移る。修理職は本役二人、加勢一人
が定員。本役の方は地下官人蔵人方の修理職と同一人で、任免権が
蔵人方の長、平田出納にある。地下官人職制でそのまま口向の実務
を勤めるのはこの修理職だけ。

建築物の営繕を担当し、本役のみ役料二石。しかしそんなものは
問題にしていない。百両以上の工事は幕府の定御修理(情味修理)
という役人が出張してくるが、百両いかだと修理職一任だから、
京都の建築業者と密着して莫大なリベートが得られるからである。

賄方は六人、役料三石。賄頭や勘使兼御買物方に指揮されて会計、
出納の実務を執る。これも役得が大きかったと思われる。

板元は実際に料理する役人で、十五軒の家が決まっているが、父、
子、孫まで一緒に勤務できるから人数はもっと多い。家禄五石二人
扶持と役料三石。天皇の食事を作るという重要な職場でもあり、
エリート意識で団結して他から独立し、特殊な集団を作っていた。

169 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 15:27:19
↑ 定御修理(情味修理)→定御修理(じょうりしゅり)

170 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 15:28:39
↑ またまた間違った。「じょうみしゅり」

171 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 18:11:15
幕末だと正六位下・従六位上・従六位下は、並官人や諸大夫の家柄を区分するものとして
機能していたようだ。
例えば医師は従六位上が初任だが新家は従六位下が初任、
同様に検非違使は旧家は正六位上、新家は従六位下、
摂家の諸大夫は正六位下、清華の諸大夫は従六位上、大臣家の諸大夫は従六位下とか。
一方平安末の時点では、四等官以上はほとんど正六位上以上になっているようだ。
すると正六位下以下の位階が再び実際に機能するようになったのはいつ頃なのだろう?

172 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 18:28:10
六位蔵人と諸大夫の上下関係ってどうなるの?

173 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 17:19:23
考証 幕末京都四民の生活(明田鉄男)より 14

鍵番は六人で役料三石。表と奥向の境界である御鍵口の鍵を預かる
役で、声がかかると境の杉とを開く。自然、奥向の女子職員とも接触
が多いので、実直謹厳な老人が選ばれた。奏者番は四人、役料三石。

口向の玄関である奏者所へ詰め、武家や社寺からの使者に応接して
献上物を受理する。これを御鍵口から奥向のそれぞれへ伝達するのだが、
その前に、当然の役得として献上物の上前をはねた。

使番は、これになり得る家百三十軒のうち四十九家が有位の官人の兼務で、
他は無位無官。常時百人以上いて、いろんな勤務に付く。本来は表、奥から
の公私の文書を公家、武家、社寺など各関係先へ運ぶのが職だが、年功を
へた連中になると、途中で中の手紙を読む。

このとき文箱の封を破らぬ(破っても元通りにするであろう)秘訣があり、
古参が新米にこれを伝授したそうである。



174 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 23:12:02
六位蔵人が上のような気がする

堂上になった家があるからね

175 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 02:09:00
地下から堂上の家格を得るには、六位蔵人の首座である極臈を自身で
3度務めるか、3代続けて極臈経験者を出すかのいずれかの条件が
必要でありと「華族になれなかった家」に書かれている。
格が上なのは六位蔵人の一部だけだろう。
 

176 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 03:10:41
「後期幕藩制と天皇」
http://www.bl.mmtr.or.jp/~k-hideya/takano.htm
二 宝暦期の朝廷
1 秩序の弛緩
@宝暦期=幕府は桃園天皇が幼主であるために治まりが難しく、
秩序が保てないことを危惧。
↑公家の日常活動に統制の緩みからくる行動上の乱れや
上下身分秩序の弛緩が見られた。
ex.・堂上公家が勧進相撲を見物
  ・公家に仕える諸大夫・雑掌などの主人に対する無礼 
→取り立ての時、身元を念入りに調べるようになる
・禁裏小番における怠慢
→小番を休まなかった公家に褒美を取らせ、逆に懈怠の
多い者には官位の沙汰に及ぶことを命じる。

このあたりの詳しい資料を教えてください。



177 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 22:59:12
age

178 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 12:22:06
>>176
この論文の著者が日本史リブレットから、江戸幕府と朝廷という纏まった本を出しています。
そちらにある、参考資料を読まれたらどうですか?

179 :131:2005/07/09(土) 19:50:25
>>176
北九州市立大学の次は宮崎公立大学の登場か?
同じ九州人として恥ずかしか。

180 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 23:32:21
131は死ね。
氏ねじゃなくて死ね。

181 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 00:23:17
>>180
  131を相手にしないでください。

182 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 03:44:00
この手の人口数人、多くても人口十数人のスレで煽ったり荒らしたりしてる人のやりがいが理解できん。


183 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 10:09:53
どうせ佐賀あたりの田舎者なんかは相手にしないで、こちらは公家のスレらしく、まったり雅に話題を進行させましょう。

184 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 15:15:36
地下官人と幕府旗本は全員華族にするべきだったよな。
どこの馬の骨ともわからない新華族を大量につくるくらいなら。

185 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 16:47:07
五等爵の下に三ランクくらい爵位を作ればよかったのだと思う。

186 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 17:12:58
せっかくアカデミズムっぽくていいスレだったのに、九大のバカと、>>184>>185みたいな地下官人とか旗本の基地外子孫が現れて、いよいよこのスレもだめぽ…

187 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 19:58:05
>>184
旗本って先祖は三河の田舎侍でしょ。広島や鹿児島の田舎侍と同じようなもんだが当時は負け組。

188 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:16:47
>>187
高家クラスの旗本なら、近世大名の大半(戦国・織豊期の成り上がり)よりも
家柄的には名門ですが・・・

189 :院判官代:2005/07/10(日) 21:23:53
幕末の地下官人ってどんな服装だったのですか?狩衣でしょうかね?

190 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:55:53
壬生家や押小路家はどうして堂上の資格を得なかったんでしょうか?

191 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 22:13:58
公家でも普段着は普通の着物だったみたい。
武者小路実篤の父親の幕末当時の写真とか、仁和寺宮の写真とかみたら、
普通の武士と変わらない黒紋付みたいなのを着ていた。

192 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 22:39:16
門跡と華族の話題を振る椰子が来ると、この系列のスレは質が落ちて荒れるのが定番。
そういう話題が振られても、絶対相手にしたらダメ。

193 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 22:50:41
地下でも公式の場では束帯?

194 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 01:56:11
イギリスには5爵の下に貴族じゃないけど世襲の準男爵と一代の騎士爵
があるんだよね。日本もそうすりゃよかったのにな。以下俺の案。

公爵:摂家、徳川宗家
侯爵:清華家、徳川三家、大藩知事、琉球藩王
伯爵:大臣家、大納言まで直任の堂上、徳川三卿、中藩知事
一代伯爵:国家に偉勲ある者
子爵:堂上、小藩知事、国家に偉勲ある者の後嗣
男爵:奈良華族、両局、四朝歴任の六位蔵人、交代寄合、高家、万石以上の陪臣
一代男爵:国家に勲功ある者   
準男爵:代々位階を得た地下、五千石以上の陪臣、国家に勲功ある者の後嗣
騎士爵:勅任貴族院議員、多額納税者

195 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 02:01:06
↑諸大夫は準男爵ね。

196 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 02:04:14
>>190
堂上筆頭の五摂家が皇族になれなかったのと同じ理由。

197 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 02:49:10
俺的には五等爵は維持したい。
その上で考えた華族叙爵基準(妄想)。藁

公爵:旧五摂家、三条家、西園寺家、徳大寺家、徳川宗家、徳川(水戸)家、
   徳川(慶喜)家、島津宗家、島津(久光)家、毛利宗家、
   足利(平島)家、足利(喜連川)家、
侯爵:旧清華家(三条・西園寺・徳大寺を除く)、旧大臣家、徳川(尾張)家、
   徳川(紀州)家、維新前の禄高十五万石以上の旧大名、旧琉球王家、
伯爵:大納言まで直任の旧堂上、旧徳川三卿、維新前の禄高五万石以上の旧大名、
   旧幕府高家、吉川家、小早川家、稲田家、両大谷家、
子爵:上記に該当しない旧堂上、奈良華族、上記に該当しない旧大名、旧両局、
   四朝歴任の六位蔵人、旧交代寄合、五位以上の旧旗本、万石以上の旧陪臣、
男爵:上記に該当しない代々有位の地下、上記に該当しない旧旗本、
   千石以上の旧陪臣、僧職・神職華族(両大谷家を除く)、旧琉球貴族、
なお、勲功華族は明治の元勲・元老の子孫など、爵位を世襲するに足ると
認められる一部の家を除き、原則として受爵者当人一代限り。


198 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 03:04:49
>>197追加
白川伯王家と松浦家も伯爵で。

199 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 13:38:55
>>178
ありがとう。わりと有名な学者みたいですね。初めて知りました。

200 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 14:25:02
考証 幕末京都四民の生活(明田鉄男)より 15

使番はまた、公私で外出する女官の駕籠の受け渡しと、その供をする。
駕籠を収納所から出して奏者所の玄関へ回し、外で待っている駕籠舁
(かき)に渡すのだが、これに乗る高級女官たちは、奥から御鍵口
を通って玄関へ出、駕籠に乗るまで「御塞り」と称して絶対に男子
職員に顔を見せない。

玄関の障子は女中の手で閉めきられ、使番は女官が駕籠に乗って
しまうまで式台で下向いて控えておらねばならない。帰ってきた時
も同様。女官の外出に供するときは、平日なら継上下、儀礼的なときは
麻上下に大小を帯し、袴の股立(ももだち)を高くとって素足に草履ばき、
雨だと草鞋をはく。

201 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 21:13:23
ところで、この明田という人は、どういう史料をもとにしてこの本を書いてるんでしょうか?

202 :日本@名無史さん:2005/07/12(火) 07:31:11
他の部分は知らないですけど、ここに紹介されている部分はほとんど「幕末の宮廷」の引き
写しとしか思えませんが。

203 :日本@名無史さん:2005/07/12(火) 10:52:19
新聞記者、教授の肩書きがあるのに丸写しするのかな。
許可があれば別だけど。

204 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 10:22:44
誰がここに転記してくれてるのか知らないが、役に立つな、この板。

205 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 10:47:29
当家にては諸大夫家の者を雇用して居りました。
ときには半家の者が仕えて居たこともありましたぞ。

206 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 12:45:08
>>205
摂家?

207 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 15:08:30
どこか元公家の家で仕事してみたいよ。
執事とか、運転手でもいいんだけど、どこか雇ってくれそうなとこないかね?

208 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 17:34:44
当家では残念ながら地下の者は雇わぬ事にして居るぞ。
平民を雇うと何かと支障が起こるとてのう。
家令でも半家以上の者であった程に。

209 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 19:25:15
執事とか、運転手=単なる召使だろ。よっぽどの高級でもない限り名家の者は従事しないよ。

または、落ちぶれて家柄だけが自慢でそれをよりどころにしかできないヤシらだけだろ。

210 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 19:30:49
摂家の人はそちらのスレにいっていただけませんか。

211 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 19:33:53
100石未満の主に半家の公家には、家臣がいたのですか?三位以上は家司を置くの当然だと考えますが、どうしていたのでしょうか?

212 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 21:43:09
下人ずれの板には長居は無用ぢゃて。
いざ、さらば!

213 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 22:48:31
>>201
参考文献など書いてなかったと思うのでさっぱりわかりません。
「幕末の宮廷」の引き写しかな。 

考証 幕末京都四民の生活(明田鉄男)より 16

使番を支配するのが使番番頭で、本役三人加勢一人、役料三石が付く。
別に使番番頭と使番との中間の格である小間使は定員五人、五石二人
扶持。奥向から出る文書や手紙を御鍵口で女嬬から受け取って使番に
渡したり、天脈拝診に毎日交替で参内する典薬寮の医師の薬箱をその
供から受け取って女嬬に渡したり、時には命婦、女蔵人、御差など
女官の外出に駕籠わきに付いたりする。

以上がすべて士分で、それぞれ詰所が決まっているが、中詰と鍵番、
小間使はとくに囲炉裏の間に詰める。奏者所玄関に続く広い板敷きで、
隅に畳を敷いて屏風で囲み、東側に中詰、北西に鍵番、南東に小間使
が詰める。囲炉裏の間は御能の日には舞台が特設され、天皇も見に
来るので、このときは一同御台所へ移る。

これら士分は原則として三日に一回出勤する「三番」という勤務だが、
儀礼の多い宮廷のことだから随時呼び出される。しかしスタイルは
紋付羽織袴に大小という普通の侍で、直垂とか大紋とかは着なかった。

214 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 23:01:52
公家の家臣がどうやって生計立てていたのか教えてください。

215 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 01:51:30
>>211
少ない所は1〜3人ぐらいです。詳しいことは判りませんが
ランクによって幕府から制約があったそうです。

216 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 02:01:35
>>214
家禄を貰ってたのでサラリーマンですな。下っ端で給料が少ないのは
アルバイトをしていました。アルバイトが本業の人や、給料が少なくても
三食昼寝付きのように金がかからない人は本業だけ。現代と同じ
ようですな。

217 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 02:40:45
旗本の子孫は柳営会という親睦組織を作っているが、
地下官人の子孫の人たちはそういうのは結成してないのかな?

218 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 08:07:15
>>217
確か「幕末の宮廷」にそんな会のことが出てました。
その中で官務・局務の両局は、後に華族になったから外れたとか書いてありました。
その後いつまで続いたのか、今でもあるのかは知りません。


219 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 23:43:09
age

220 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 22:57:17
age

221 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 18:45:07
地下官人の子孫まだ〜?

222 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 18:47:18
公家スレに公家の子孫は集まるが地下スレに地下人の子孫が来ることはまずない。
武士スレに武士の子孫は集まるが足軽スレに足軽の子孫が来ないのと同じように。

223 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 19:13:53
足軽と地下官人とじゃ雲泥の差だろう。
自分がアフォだということを主張するアフォなレスを付けるなよアフォ。

224 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 22:57:53
どっちも士族じゃないのか?
石高も似たようなもん

225 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:43:17
例えば尾張藩の足軽は50石取ってたよ。地下官人の中には50石未満の
家などざらにあったのでは? つーか無給のただの名誉職だってあったわけだろ?
経済力は物差しの一つにしか過ぎないかもしれないが、「雲泥の差」って
一体なんだよ? そこまでエラそうに言うのなら誰もが納得するように
ちゃんと説明してみな。

226 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 01:09:59
そもそも地下官人は武士に比べてはるかに人数が少ない。

227 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 02:15:28
公家と武士を比べても公家のほうが圧倒的に少ないよな。
しかし公家の子孫を名乗る人間は過去、結構2chに現れているよ。
その伝でいけば地下官人の子孫が2chに現れても何の不思議もないよ。

228 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 02:23:19
地下官人の半数近くは位階を得てるでしょ
六位、七位にしても
武士だと位階を得られるのは基本的に藩主だけ
足軽はおろか家老でさえ無位

229 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 10:46:05
>>225
>経済力は物差しの一つにしか過ぎないかもしれないが

「かもしれない」じゃなくて、一つにしか過ぎないのだよ。
むしろ17世紀後期以降は、官位を基準とする家格が、武家社会でも決定的な意味をもつようになる。
そうした武家社会の状況にともなって、官位の高い公家の社会的ステータスも上昇していくわけだな。
>>228の視点が正しい。

ここで鼻息荒くエラそうなアフォスレ付ける暇があったら、最近出た概説書をもっと読んだ方がいいぞ。
お前の頭の中は空っぽそうだから、どんどん詰め込めると思うからw

230 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 12:55:32
>>229
ある意味、別当僧の支配下にあった社家が幕末から明治にかけて仏教と分離していくのも
その影響です。
大社や一部の一の宮だと非参議が極官ですから。

231 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 13:39:09
>>225は馬鹿で阿呆で基地外で低脳な奴糞」ということで決まりですか?

232 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 14:09:11
まあ、そんなところだろ。

233 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 02:01:42
>>206
摂家クラスだと、羽林家や名家で近代に伯爵になるような家の子弟を
家司にすることも普通。

234 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 08:06:02
確か「幕末の宮廷」の仕丁の説明のところに、根来同心は仕丁とは異なるが仕丁同様の
身分なのでここに含めるとか、そう言う意味のことが書いてあったと思います。
それで御家人が仕丁相当、旗本が下官人相当、布衣(六位相当とされる)が並官人相当か
なと勝手に推定しています。

235 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 10:25:06
公家と武家なんて全く違う社会を同列に並べてみようとするのが間違い。
だいたい「幕末の宮廷」なんて、色々と間違いが書いてあるわけだし、
「幕末」というごく一時期の、しかも一条家の家来という針の穴のような
視座から見た世界のことを述べただけなんだから、それを鵜呑みにして
当時のことを思い描くのはダメだね。
居酒屋の酔っぱらい談義を資料にして、政治学とか社会学の論文を書く
ようなものだ。

236 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 11:41:03
>>229
>むしろ17世紀後期以降は、官位を基準とする家格が、武家社会でも決定的な意味をもつようになる。

そんなふうに断言できるものかね?
例えば私の郷里の小藩では、小さな神社の神主なんかが朝廷から低い官位をもらっていたわけ。
対して、ここの藩では家老クラスでも無位無官であった。で、この神主と家老のどちらが
小藩のヒエラルキーの上位にあったかと言ったら、断然、家老のほうであった。
あなたの意見とは矛盾することになるまいかね?

237 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 17:06:10
高家肝煎(少将)と老中(侍従)でも、老中の方がヒエラルキーの上位だよな。

238 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 22:34:55
>>236
歴史的な見方ができない、とてつもない厨房が降臨しますた!
キター!━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━キター!

>>237
家格と職制の区別もできない、とてつもない厨房が降臨しますた!
キター!━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━キター!

239 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 22:44:00
236だが別に現代の目から見て家老>神主と言っているわけではない。
当時の社会においてそうだったと言ってるのだが?

240 :1:2005/07/18(月) 23:50:57
何でみんなこう順位付けが好きなんだ?
おもろいけど。

241 :日本@名無史さん:2005/07/19(火) 00:53:00
>>236>>239
( ´,_ゝ`)プッ
「当時の社会」と一括りにしているあたりが非歴史的である、ということが分からないのか!?
このド素人めが。
お前のカキコは、「私は無知でアフォで奴糞で社会のお荷物で〜す♪」と、自分の低脳&池沼を
世界中に大いばりして自ら晒してるようなもんだ。
嗚呼バカここに極まれり!
ゲラゲラゲラ

242 :日本@名無史さん:2005/07/19(火) 00:59:22
ん? 俺も意味がわからん。
「当時の社会」と一括りにできるわけないだろ、という意味か?
だったら>>229の「むしろ17世紀後期以降は、官位を基準とする家格が、
武家社会でも決定的な意味をもつようになる」という言い方も同じように
ずいぶん大雑把な括り方ということにならんかね?


243 :日本@名無史さん:2005/07/19(火) 02:05:27
自分は、>>222>>225>>236>>239 に同調はしないが、
>>223>>229>>231>>238>>241 は、
「本論以外」の部分の言葉が、品性下劣・削除対象、
当事者以外の多数の閲覧者が、気持ちよく読めるよう、以後慎んで欲しい。

244 :日本@名無史さん:2005/07/19(火) 08:48:03
考証 幕末京都四民の生活(明田鉄男)より 17

士分の他に仕丁、普通下部、小者と呼ばれる使用人がいた。その職務は
多岐にわたり、名称も多様。一応列挙しておくが、字面のいかめしい割り
に仕事はたいしたことは無いのが多い。
内侍所番、御茶挽、根来同心、六門番、三門番、大宮御所旧院番、
准后御門番、御里御殿御門番、御厨子所小者、預
以上は苗字帯刀の者で、羽織袴、帯刀で勤務することが多かった。

勘使下、賄下、奏者番下、板元煮方、公家門台所門詰給士、
山科、山之者、御花壇方、御末口番、釣台舁、使番若党
これは本当の小者で、縹(はなだ)色(薄藍色)の看板(ハッピ)
に股引尻からげ、木刀一本差しという普通の武家の仲間と同じ
スタイルが大部分だった。仕丁全体で240軒。

245 :日本@名無史さん:2005/07/19(火) 18:19:00
上だの下だのというのは主観的な事でしょう。


246 :日本@名無史さん:2005/07/19(火) 20:42:38
内侍所番、御茶挽、根来同心、六門番、三門番、大宮御所旧院番、
准后御門番、御里御殿御門番、御厨子所小者、預 以上は苗字帯刀の者

これらの人々の家禄はどれくらいだったんですか?
また、明治になって士族に編入されたんでしょうか?

247 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 00:07:01
>>246
皆さん士族になりました。家禄までは判りません。

248 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 00:29:02
>>245
現代とは違ってある程度客観的な階級が存在した時代なんだから
上下はあるんじゃないかと思うけど?
判定するようなのが困難という場合はありうるけど、将軍と足軽を
比べて「上だの下だのというのは主観的な事」といっても始まらないわけで。

249 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 04:39:01
官家士族って何軒くらいあるんですか?

250 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 11:24:10
>>248
将軍と足軽のような極端な話ではなく、あくまで同等レベル〜多少の差レベル
の話です。下っ端武士で断髪令がでても丁髷のままでいる人は維新前、貧乏で
も誇り高く思っていたことでしょう。しかし周りの裕福な商人からみれば馬鹿
みたいでしょう。現代でも東京に憧れる人、地方都市で十分な人、大手企業か
中小企業か。数値化すると富山県が一番住みやすいとなったりするがやっぱり
東京がいい人などと極めて主観的です。だからつまらない罵り合いは止めま
しょうという事です。

比較する場合は身分、石高、権限など考慮すべきでしょう。地下官人の諸大夫
の場合、旗本と比較すると天皇に拝謁できないと同じ将軍にお目見えできない
レベルといえば旗本ではなく御家人あたりになる。石高でいえば諸大夫は五十
石程度。旗本は原則二百石以上だからこれも御家人レベルになる。御家人は、
江戸中期には非常に窮乏し、内職を公然と行って家計を支えることが一般的で
あった。江戸後期になると、富裕な町人や農民が困窮した御家人の名目上の
養子の身分を金銭で買い取って、御家人身分を獲得することが広く行われる
ようになった。売買される御家人身分は御家人株と呼ばれ、家格によって定め
られた継承することができる役ごとに相場が生まれるほどであった。まさに
地下官人株と同じですね。権限を比較するとどんなものでしょう。旗本レベル
はあると思いますが。官位だけは大名クラスですね。

251 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 19:28:22
>>247 ありがとうございました。

252 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 22:27:07
地下官人株って何すか?

253 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 22:43:36
地下官人って血統的に先祖代々続いてるのは少なくて
裕福な町人が息子を養子にやるケースがよくあったってことでしょ
その際に隠居する先代に楽に生きていけるだけのお金を贈った
そういうのを「株」と表現するわけだね
幕臣の御家人株なんて言い方もそうだし今で言えば相撲の年寄株とか

254 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 01:02:12
近世後期における朝廷出仕の百姓・町人 @

本報告は百姓・町人でありつつ、近世の朝廷に出仕する者の存在形態を
明らかにすることを目的とする。これらの百姓・町人は地下官人(公家身分の
中でも階層的に低い者)に補任され、諸特権を獲得し、朝廷儀式に参勤した。
彼らの存在形態を明らかにした後、@彼らが天皇―朝廷をどのように認識して
いたか、A公家達にとってこのような彼らとは如何なる存在であったかを検討
する。素材として内膳司濱島家文書を用い、内膳司の職員である史生・膳部を
対象とする。なお、地下官人九二六人のうち、百姓・町人身分で地下官人化を
遂げた者は一七〇人にのぼる。

補任・官位叙任・相続
史生・膳部になりたい者は補任料を内膳司長官濱島家に支払うことによって
誰でも補任された。その人物判断は既に従事している史生・膳部に委ねられ、
朝廷の運営主体は勿論、濱島家ですら「吟味」を行なっていない。
親子による職の移譲も認められるが、他人へと渡ることが多く、その場合は
権利(=地下官人株)譲渡による金銭の授受があった。

朝儀における役割
朝廷儀式において史生・膳部が勤める職務は単純で、所作の修行を行なう
必要がなかった。そのため内膳司と関係のない者(例えば別の官の史生など)
が勤めても、儀式に支障を来たすことはなかった。そのような者であっても、
自宅から装束を着用し、町中を闊歩して来る。彼らは洛中の者に対しては
勿論、観光や仕事として京都に来た者達に対しても天皇・朝廷を認識させる
のに一役買った。








255 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 01:03:23
近世後期における朝廷出仕の百姓・町人 A

内膳司史生・膳部の存在形態
史生・膳部は京都を中心とした畿内の上層の百姓や町人、あるいは医者で
あった。補任されると「御用」時の帯刀や紋付堤燈を掲げることが特権として
認められた。そして最末端の地下官人は個々の官を越えて、広範に関係を
持っており、彼ら自身によって最末端地下官人層は形成・再生産されていた。

内膳奉膳濱島家の思惑と史生・膳部の思惑
近世後期、畿内の百姓・町人は天皇―朝廷の権威を認識し、史生・膳部に
なろうとした。彼らは必ずしも「有福」ではなく、その権威・特権を獲得する
ことによって、集団における優位を確保しようとした。他方、内膳司長官の
濱島家は「他司」との優位性を主張しつつ、有職に則した内膳司整備を
展開する。

総括
地下官人になる者、それを見る者を通じて天皇・朝廷を権威として認める
民衆を描いてみた。これを近代の天皇制イデオロギーとは異質の
「近世的な尊王論」と考えたい。他方、濱島家の内膳司整備については
十八世紀末の裏松固禅を中心とした「公家社会における知的交流」の
所産であると思われる。

学習院大学 史学会 2002年度大会発表要旨 (西村慎太郎)







256 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 01:05:52
↑ここです。
http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~hist-soc/taikai2002-1.htm

257 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 03:13:26
>>254-255
とても面白い。

裏松固禅は内裏の様式を考証した公家ですね。

258 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 03:14:54
内膳司長官濱島家って裕福だったのでしょうか?

259 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 16:44:53
幕臣なんかだと、株を買い御家人になった家が後に旗本(下級ではなく諸太夫格。)
まで上る例が在るけど(勝海舟など)公家はどうなの?

260 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 18:01:05
鳥取藩足軽の子で歌人の香川景樹は、徳大寺家の家臣の養子となり諸大夫になった。

261 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 22:00:43
>>259
蔵人から堂上になった錦小路、滋光寺などは元々由緒のある家ですね。

262 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 23:53:23
地下官人といっても、壬生家や押小路家を筆頭とするような代々有位の家は、
基本的に由緒がある家に限られるのでは?
地下官人から堂上公家となった例は、中近世を通じてかなりあると思うけど、
そういう家はだいたい古代からの由緒がある家。

263 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 23:55:10
>>261
錦小路家が堂上に昇格したのって、室町時代ですよね?

264 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 02:17:16
裏松固禅 
1784年(天明4)/京都御所の歴史823年分を記した年表。
裏松固禅は、本名光世、烏丸家出身。竹内式部事件で連座し、30年間蟄居
していた人物で、その間に朝廷の歴史を調べ多数の著書を残している。
正続全10巻。

265 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 11:04:01
>>243
>当事者以外の多数の閲覧者が、気持ちよく読めるよう、以後慎んで欲しい。

ロム厨の分際で、カキコしてくださる方に無礼なこと言うんじゃねえよ。
悔しかったらテメエで何か話題をふってみろ。
このバカが。
氏ね。

266 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 13:00:29
↑ >>265 品性下劣、削除対象。 ( >>243 に賛成。)

267 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 13:05:26
>>265
地下官人が武士より上である証拠も出せなかったくせに
エラそうなことを言うんじゃねえよ、このバカが。

268 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 13:59:05
>>266
>>267
下郎のカキコをスルーできないバカも同じく下郎。
しかもわざわざageてるし。

269 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 15:26:14
>>266>>243
イタイところを突かれて赤くなったり青くなったり、みっともないの代名詞みたいなROM厨。
自分に「賛成」のレスしてどうするんだ?
自作自演乙!
素敵なほどに基地外だなw

>>267>>236>>239
低脳まるだしのカキコをして赤恥をかいたのに、懲りずにまたバカ丸出しのカキコをして、自ら恥の上塗りをしている池沼w

270 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 17:14:28
裏松(烏丸)光世は宝暦事件で連座して、暇人になっている間に研究をしたのかな?

271 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 18:56:18
>>269
だから>>236のどこが間違ってるのか具体的に言ってみればいいだろ。
言えねえくせに。

272 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 19:10:48
>>270
一般的にはそう言われてるよね。
学生運動が激しくて大学の授業がなかったときに、大学の教員は
いっぱい研究ができたって話しを聞いたことがあるから、それと
同じだね。

裏松光世のことを研究してる人っているんでしょうか?
面白そうな人物ですね。

>>271
もうやめれ。
嵐決定だぞ。

273 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 19:10:57

またスレがひとつ死んだなwww

274 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 20:58:52
>>236>>239のカキコはひとつも間違ってないと思うけど、
何が気に入らなくてみんなそんなに激昂してるんだ?

275 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 21:12:36
みんなというか、一人かせいぜい二人の自演だろ。

276 ::2005/07/22(金) 23:48:04
せっかくレベルの高い書き込みが増えてきたのに残念だ。

パート2を立てるのもありだが、もう少し頑張ろう。

みんな意味のあるレスだけ読んでいってください。




277 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 00:19:31
地下人の身分が当時の社会の中でどのぐらいかって話題は
個人的にはそれなりに面白いと思うけどなあ。
自分に興味のある話題だけが「意味あるレス」なのかな?

278 ::2005/07/23(土) 00:54:19
ちょっと読み返してみたんですが、スレが荒れるきっかけになるような
言葉づかいの人がいました。
見知らぬ他人が語りあう掲示板ですからマナーは必要でしょう。

279 ::2005/07/23(土) 01:00:39
逆にいえばマナーさえ守れば話題は自由です。当然です。


280 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 01:03:30
>>278>>243のなりすまし。
そこまでして自己主張したいかねぇw

281 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 01:06:43
うるせーバカ

282 ::2005/07/23(土) 01:14:28
いえ違いますよ。掲示板におけるその手の決め付けってだいたい
外れです。

私の立てた別のスレはパート3までいったんですが、運なのかな〜

283 :本当の1:2005/07/23(土) 10:15:32
>>282
ウソをつくのはやめてください。
私はそんな自己顕示欲はありません。
パートいくつまでいっても、別に私の功績ではありませんから。



284 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 11:32:05
考証 幕末京都四民の生活(明田鉄男)より 18

仙洞御所、大宮御所、中宮御所にももちろん口向役人や仕丁がいたが、御所に
比べるとはるかに少人数で、機構も簡単だった。

慶応末年の記録では、後院 (上皇不在の仙洞御所)で使番三軒、小間使二軒、
後院北殿(英照皇太后 御所)執次三軒、使番七件(奏者番、鍵番を含む)
板元二軒、小間使一軒、 中宮御所(昭憲皇太后御所)で執次三軒、使番
十一件(賄方、奏者番、鍵番を含む)板元二軒、小間使一軒、とある。別に
後院北殿と中宮御所では実家の九条家、一条家から六位の侍が執次として
入っていた。

士分の口向役人は当然維新後京都府氏族となったが、仕丁もハッピ姿に至る
まで、一度卒族とされたあと明治五年七月氏族に編入された。


285 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 13:07:19
香川景樹 かがわかげき 明和五〜天保十四(1768-1843) 号:桂園・梅月堂ほか

明和五年四月十日、鳥取藩士荒井小三次の次男として生まれる。幼名は銀之助。
安永三年(1774)頃、父を亡くして伯父奥村定賢の養子となり、名を純徳、
通称真十郎と称す。藩士佐分利家の若党を勤めたあと、寛政五年(1793)
二十六歳の時、妻を伴って京都に出、按摩などしつつ苦学する。

寛政八年(1796)、歌の師匠であった梅月堂香川景柄(かげもと)の養子となる。
これに伴い香川家の主君、徳大寺家に出仕する。この頃小沢蘆庵の知遇を得、
歌風の上で影響を受けた。また、享和元年(1801)には本居宣長との対面を
果している。享和三年(1803)、従六位下長門介に叙任された。文化元年(1804)、
香川家を離縁されて独立したが、引き続き香川姓を名のることは許された。
岡崎に居を移し、以後安住の地とする。



286 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 13:52:42
くだらん争いはいい加減にしてここは地下官人達の職場を見てみよう!

宮内庁ホームページ(京都御所内の様子ビデオ)
http://sankan.kunaicho.go.jp/guide/kyoto.html
宮内庁ホームページ(御所の写真)
http://www.kunaicho.go.jp/07/d07-06.html
京都御苑
http://www.env.go.jp/nature/nationalgardens/kyohto/index.html
京都の日本建築
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/orion/jap/hstj/kamigyo/gosho.html
京都仙洞御所
http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/domestic-travel/00020.htm
御所の空中写真
http://www.kyotokanko.com/ma-gosho.html
京都の風景
http://www.psy.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/gosho.html
関西今昔建築散歩
http://kenchiqoo.net/archives/000328.html
京都の散歩道
http://www.bbweb-arena.com/users/mnaokun/御所.htm#bookmark1
京都の紅葉
http://www43.tok2.com/home/kyoto/maple/07-rakuchu/gosho/maple.html


287 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 13:54:21
京都人ブログ
http://kata.wablog.com/61.html
Ochacha's Photolog
http://www.mixdog.net/cgi-bin/phblog/archives/oen/
散策スポット
http://satotake.web.infoseek.co.jp/sanpo/kinki/sanpo654.html
京都散策
http://tp-tamtam.com/newpage2.htm
京都御所・秋の一般公開
http://akogare.sub.jp/gosyo/ako.html
秋のスナップ
http://homepage.mac.com/amilky/TheEastWind/PhotoAlbum30.html
ぐうさんの古都散策
http://f25.aaa.livedoor.jp/~goosan/kyouto-gosyo/
新選組ツアー in 京都
http://aiduwakamatu.client.jp/report/report/bosin-sonota/kyoto/kyoto3/gosyo/gosyo.htm
歴史倶楽部例会「明治維新の道」、
http://inoues.net/tenno/gosho_koukai.html
旅の想ひ出写真館
http://www.joyphoto.com/japanese/travel/991103/gisyumon.html
歴史をたどれば平安京
http://www.hi-ho.ne.jp/kyoto/rakutyu.html


288 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 21:43:48
>>286-287
ちょっと感動した。ありがとう。

289 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 21:54:28
>>270
>裏松(烏丸)光世は宝暦事件で連座して、暇人になっている間に研究をしたのかな?

そうだよ。
23歳で隠居謹慎の身となったからな

290 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 01:43:29
裏松光世 @
光格天皇は、当時としては珍しく、天皇の直系からは遠い、閑院宮(かんいんのみや)家
(※江戸時代にたてられた新しい宮家)から選ばれて即位しました(安永八年・1779)。

〈宮家〉という名称は、それ自体、皇位継承権のなかった親王の家柄だということを
示しています。 本来ならば、宮家の、それも第六王子だった祐宮(さちのみや)
(※光格天皇の幼名)は、皇位を継ぐ可能性もなければ、宮家を新たに立てる事も
出来ないので、いずれは出家してどこかの門跡寺院に入るだけという、限られた未来
しかないはずの人でした。ところが、先代の後桃園天皇が22歳の若さで急逝し、
息子もいなかったため、急遽、たった9歳の祐宮が、継承者に選ばれることとなったのです。

その光格天皇、当初は、幼い上に〈先帝御不例の時の御養子〉だからと、一段軽く
扱う輩もあったとか。いや、幕府からさえ軽く見られている、という噂までたっていた
ようです。しかし学問には熱心で、とりわけ、有職故実などの歴史的な勉強に、
自ら没頭してゆきました。それはおそらく、周囲の軽視をはねのけたいという思いも
あってのことでしょう。



291 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 01:44:44
裏松光世 A
やがて、伝統に関する知識欲は、いにしえの風儀を復活しようとする強い意志へと
変わってゆきました。例えば、新嘗祭(にいなめさい)や大嘗祭(だいじょうさい)
の古式復活。また、天明の大火災で焼失した御所を再建する際は、幕府の反発を押し切って、
平安時代のオリジナルに近いプランで可決させたりもしました。

なお、この時、復古調御所のプランの基を作ったのは、宝暦事件に関与した罪で永蟄居
(※外出を禁じ、一室に籠もらせる刑罰)に服していた裏松光世(うらまつ・みつよ)
という人物。宝暦年間から天明八年(1788)に許されるまでの約30年間、ずっと
自宅に押し込められていたのですが、そのあいだに古文献や古絵図を詳しく調査して
平安大内裏の研究をまとめ上げていたという、気丈な人物です。
そういう人の研究が日の目を見たのは、ある意味では、宝暦事件で抑えつけられた
エネルギーが再び胎動しはじめたという象徴だったのか…。逆に、幕府にとってみれば、
これは不穏な動きの予感だったに違いありません。

そしてこのあと、光格天皇と幕府との対立姿勢がついに明らかになってしまうのが、
次に述べる〈尊号事件〉です。
http://www.silverbirch.jp/forest/warriors_01.html#ura


292 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 04:26:01
>>291
父親が三公の下座になる一品親王ではかわいそうだから、太上天皇号を贈ろうと
した話ですよね?
確か、明治時代に贈位されたような気がする。

293 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 11:08:42
>>292
慶光天皇ですね。追尊天皇とか追尊太上天皇などややこしい、
しかも歴代外なので数に入れられてない。

294 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 17:25:38
考証 幕末京都四民の生活(明田鉄男)より 19

在落武家の構成

在来の京都の侍───┬御所勤務の地下官人
          ├公家の家臣
          ├寺院の寺侍
          ├社家の侍
          ├郷士
          └苗字帯刀許可の町人

幕府の出先機関───┬所司代
           ├東西町奉行
      ├伏見奉行所
      ├禁裏附
      └二条城などの在番
各藩の京都詰藩士

295 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 17:28:29
考証 幕末京都四民の生活(明田鉄男)より 20

公家の家臣
青侍とは、平安朝公家に仕える六位の侍のことで衣服の色から
こう呼ばれ、近世は公家の家臣を総称するようになった。
青には未熟という意味があり、一種の蔑称であろう。ここで注意
せねばならないのは、公家の家臣の中に「侍」をいう格が存する
事で、公家の侍という場合、広義の家臣団とその中の侍格との
二つの意味があるのである。まず公家家臣の構成を表示する。

諸大夫──侍─┬用人 小者──┬小頭(こがしら)
       ├近習 ├中番
       ├中小姓 └下僕(しもべ)
       ├勘定方
       ├青士(せいし)
       └茶道 など
      
もちろん左側が士分であるが、これはあくまで系列の原則を示す表で、
各家がこれだけの人間を揃えていたわけではない。また用人以下
一般の家臣を同列に書いたが、家によってそれぞれ序列があった。

296 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 03:37:39
茶道はもしかして茶頭のこと?

雑掌って侍より偉いのですか?中流公家の家令だと思うが。

297 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 03:39:33
別所強盗公家乞食って諺の意味を教えてください。

別所は家司のことだと思うが。

298 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 09:23:31
>>294 かなりズレましたね。これで大丈夫かな。
在落武家の構成、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
在来の京都の侍───┬御所勤務の地下官人、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、├公家の家臣、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、├寺院の寺侍、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、├社家の侍、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、├郷士、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、└苗字帯刀許可の町人、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
幕府の出先機関───┬所司代、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、├東西町奉行、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、├伏見奉行所、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、├禁裏附、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、└二条城などの在番、、、、、、、、、、、、、、、、
各藩の京都詰藩士、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


299 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 09:26:09
>>295 どうもダメだ。少しはマシかな。
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
公家の家臣、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
諸大夫──侍─┬用人、、、、、、、、、、小者──┬小頭(こがしら)、、
、、、、、、、├近習、、、、、、、、、、、、、、├中番、、、、、、、、
、、、、、、、├中小姓、、、、、、、、、、、、、└下僕(しもべ) 、、、
、、、、、、、├勘定方、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、├青士(せいし)、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、└茶道 など、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

300 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 09:40:34
>>298 >>299 やっぱりダメだ。
御所勤務の地下官人 以下同列
所司代 以下同列

侍-用人 以下同列 近習、中小姓・・・ 
小者-小頭 以下同列 中番、下僕
>>296 
雑掌って侍より偉いでしょう。皇女和宮を徳川将軍の妻に嫁がせようとした
千草家も雑掌です。皇室と幕府の間の婚姻のとりもちさえ、画策できる
のですから。茶道は???です。



301 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 21:54:57
>>300
千草家も雑掌→千草家の雑掌では?

302 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 00:09:07
皇女和宮を徳川将軍の妻に嫁がせようとしたのは岩倉具視なのでは・・・

303 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 08:30:52
>>290
>〈宮家〉という名称は、それ自体、皇位継承権のなかった親王の家柄

バカ。
閑院宮家がどういう経緯で立てられたのか、教科書でも開いて読み直せ。
偉そうに蘊蓄垂れるのはそれからだ。

あ。お前が垂れてるのは間違った情報だから、蘊蓄じゃなくて、知ったかかw

304 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 13:45:43
>>301
その通りですね、間違えた。
>>302
最後の説得が岩倉具視だったわけで。


305 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 23:21:05
>>303
単なる裏松光世の紹介だろう。そんなに目くじらを立てなくても。
普通の会話ができないお前の言葉遣いほど馬鹿丸出しだな。
実社会では相当ペコペコしてるのだろうな。
偉そうなことを言えるのはココだけ。寂しい奴だな。

306 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 23:24:17
それが日本史板って場所だ。

307 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 23:47:04
 田中河内介は、但馬出石郡の医師小林正造の次男。二十一歳で上京し、
摩島松南、山本之羊の門下で学んだ。天保十四年(1843)大納言中山忠能
に仕えて侍講となり、中山家の家臣田中近江介の養子となって諸大夫に進み
河内介に任じられる。嘉永五年(1852)、忠能の娘慶子に祐宮
(のちの明治天皇)が生まれると、その養育係となった。
明治天皇は生涯田中河内介のことを懐かしがったという。
http://www13.plala.or.jp/shisekihoumon/shodoshima.htm

医者の家出身だがこんな人も諸大夫になれるのですね。

308 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 00:10:00
田中河内介〜吉川英冶の「明治天皇」にでてきたね。

309 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 00:39:35
>>305
( ´,_ゝ`)プッ
実世界でも、「バカ」「役立たず」「ゴミ」とののしられ、
2chでも「アフォ」「基地外」「池沼」とののしられる哀れな奴よwwwwwwwwww

310 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 00:45:43
>>309
天に唾する人でんな。

311 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 02:33:39
実社会のクズが集まる所ですよ2ちゃんは
クズ同士が互いの傷に塩を擦り込んで……

312 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 14:51:05
島田左近
九条家の諸大夫。諱は正辰、または龍章。その出自や生立ちは
さだかではないが、石見の農家に生まれ京地商売の手代となり、
宮家侍奉公より次第に九条家に取り入り、遂に同家の諸大夫
になったともいい、また、はじめ烏丸家に仕え、後に九条家に
入ったとも云う、また美濃のさる山伏の子で、九条家の臣、島田
氏の入婿となり、妻の母千賀浦が九条家の老女をしていたので
同家に勢力を得たという話もある。
http://www.bakusin.com/sakon.html

こちらは農民出身の諸大夫。でもそれなりに有能だったようですね。
金貸しもしていたそうだ。役人とサラ金の兼業なんてしたい放題ですね。



313 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 21:42:28
>>303
>閑院宮家がどういう経緯で立てられたのか、教科書でも開いて読み直せ。

皇位継承のスペアとして設置された閑院宮家のほうがむしろレアケースなんだけどな。
もともと宮家(世襲親王家)は、皇位継承争いに敗れた家系がかろうじて存続したことによって発足した例がほとんど。
事情が多少変わるのは、伏見宮貞常親王の伏見宮家継承以降だな。
それでも宮家が皇位継承を望めない立場だったのは、伏見・有栖川・桂の3宮家に共通。


314 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 21:44:12
age

315 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 00:48:02
>>313
>もともと宮家(世襲親王家)は、皇位継承争いに敗れた家系がかろうじて存続したことによって発足した例がほとんど。

( ´,_ゝ`)プッ
また知ったかでバカ丸出しかよpupupupupu

316 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 01:07:59
313の言うとおりだと思うが。順徳源氏(四辻宮)にしろ、
亀山源氏(常磐井宮)、後二条源氏(木寺宮)にしろ。

317 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 01:33:52
で、地下人のほうが武士より偉い根拠については
どうなったんだよ、オッサン。
他の話題を振って誤魔化すなよ。

318 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 01:41:47
316です。このスレに初めて来たので、過去レスの流れが
よく分からないのですが、例えばある武家に仕えていた
無位の医者などが、この度目出度く官位をもらう事になり、
しかもそれが主人の官位より高い場合は、以後その武家と
の主従関係をきらなければならない、といった例はどうでしょう。

319 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 23:17:53
主家と同じ公爵になった伊藤春畝みたいなもんか。


320 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 23:06:30
age

321 :1:2005/07/29(金) 23:24:00
>>317
荒らしは直ちに退去してください。
いやなら言葉を慎むべきです。

322 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 00:00:35
別に荒らしとまでは言えないんじゃないのか?

323 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 00:35:52
養子の制度を活用すると、かなりの社会的地位の向上が見られたようですね。
武士も諸太夫まではいけたようですし。(幕臣の大名役のこと)

324 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 00:38:14
>>321
始めから読んでもらえばわかるけど1はどちらか片方に味方したりしません。
スレが荒れないことが1の至上命題だからです。私が1です。
騙りは止めてください。

325 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 00:56:33
>>324
荒らさせたくないならそうやってスレを放置するのは無理かと。>>321のほうがやり方としては正しいよ。
あと>>303とか>>309とか>>315とかもスレから退去してほしいクチだな。

326 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 00:58:53
>>323
朝廷の「諸大夫」と幕府の「諸大夫」は意味が違うのでは。
幕府の「諸大夫」は単に将軍から従五位下の位と正式の官職名を名乗ることを認められた人のこと。

327 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 01:22:28
>>326
まったく意味が異なることは理解していますが?
殿席ではおおむね大名格の扱いを受けていました。

328 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 02:01:00
325=321

329 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 12:07:46
1は、ここでの情報提供をもとにして修論書いてる仏大の奴糞院生。
自分からはスレタイに関係するカキコは何もせず、スレが荒れ始め、
貴重な情報のカキコが途絶する恐れが出てくると、突如整理厨として現れる。


330 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 17:19:45
フランス大学ですか。それはよくも遠い所からご苦労様です。

331 :1:2005/07/30(土) 23:42:51
整理厨で結構。1000いくまでに、まともなレスが半分もあれば本望です。
掲示板の情報は正誤を確認するのが大変なので論文書くのは無理でしょう。
私の職業は歴史と無関係です。

>>all 皆さんの面白い書き込みは純粋に趣味として楽しんでいます.

332 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 01:20:10
>>331
わざわざ弁解するところが、さすが仏大w

333 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 01:45:32
仏大じゃなければ北九州市立大か宮崎公立大の椰子だなw

334 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 07:53:58
明治以降の地下官人って公務員になった人が多いのかな。
下橋敬長も県庁に出仕していたようです。
房官のうち門跡不在の寺院に出仕した者は失職したようです。
逆に宮門跡が還俗した場合、家令・家扶としてついていったのでしょうか?

335 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 11:52:18
>>331
てめえの趣味のためにスレ立ててるんじゃねえよ。
男ならスレじゃなくてティムポをおっ勃てろ!
あ、お前はインポだからダメかpupupu

336 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 03:03:16
>>331
失礼な人ですね。
自分のことを何様だと思ってるんですか!?
「面白い」だなんて、漫才とか落語じゃないんですから、せめて「興味深い」くらいの言葉は使うべきでしょう。
歴史に興味をもつ前に、日常会話を勉強し直すべきじゃないですか!?

337 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 09:47:39
ここは歴史を楽しむというより人を馬鹿にするためのスレですね。

338 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 13:58:55
心無き者どもは無視なされよ。
方々、宜しいな。


339 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 00:09:59
>>333
九大出の禿げはとっとと引っ込め。ペッ!

340 ::2005/08/02(火) 00:33:42
「面白い」も「興味深い」も英訳すれば同じでしょう。

スレタイ通りに話を進めるのがそんなに難しいとは思えないのだが、、、
何に固執しているのかわかりません。



341 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 01:24:18
だったら英語で書けよ馬鹿

342 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 01:50:29
まったくだ。バカpupupu… >>340

343 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 21:38:12
初めて書き込みするが、ここのスレにも他と同様、低脳を晒したような、
テーマとは関係の無い罵り合いをする馬鹿がいるのか。
まあ、扱っているのが「地下」だけに語るに落ちると言うやつだな。
馬鹿共よ、スレの無駄使いをする暇があれば、テーマに沿った皆を驚かす
書き込みの一つもしてみろ。

344 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 21:41:19
豊臣姓・木下名字の地下官人がいますが「地下家伝」に載っていますか?

345 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 22:30:02
>>343
>馬鹿共よ、スレの無駄使いをする暇があれば、テーマに沿った皆を驚かす
>書き込みの一つもしてみろ。

お前がなーw

346 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 22:40:24
>345
お前の様な奴がいるスレに付き合えるか。馬〜鹿!

347 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 00:28:19
>>346
誰もお前みたいな池沼を引き留めないから、>>345を連れてとっとと出て行け。

348 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 00:42:46
>>343
今まで書き込みをしたことのない奴が、他人様に向かって書き込みをしろだ?
なに寝惚けたことぬかしてやがる。
士ね。この薄ら禿げの蛆虫めが。

349 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 23:06:10
まあ何でもいいが、とりあえず>>343>>345は氏んどけ。

350 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 01:26:52
>豊臣姓・木下名字の地下官人がいますが「地下家伝」に載っていますか?

↑大変興味深い質問が出ました。大名では木下姓は残り豊臣姓はないですけど
地下官人の場合どうだったんでしょう?

351 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 01:28:44
橘氏って地下でしか残ってないんですね。
源平藤とならぶ大族なのに、、、

352 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 12:37:30
>>350
大名も豊臣姓・木下名字ですが。

353 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 19:10:40
>>351
大名には橘姓いるんじゃない?

354 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 21:26:43
>>353
なんていう家ですか?

355 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 21:29:50
日本史板なのに基本的知識のない人間が多いな。

姓(せい)=古代の氏(うじ)・・・源、平、藤原、橘、菅原、大江、伴、豊臣
姓(かばね)・・・真人、朝臣、宿禰など「八色の姓」
名字(みょうじ)・・・足利、細川、武田、上杉、徳川、織田、羽柴、木下

氏と姓の文字が混用されるようになったので、勘違いしている人が多い。
寛政重修諸家譜を見ればわかるが、大名、旗本には豊臣姓で木下名字の家がある。
備中足守藩、豊後杵築藩の木下家や杵築分家の旗本木下家は豊臣姓。

356 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 22:14:09
秀吉も「豊臣姓」を貰って以後も、名字は羽柴だったの?

357 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 22:19:26
名字は羽柴のまま。教科書や人名辞典で「豊臣秀吉」と表記するのなら、
信長や家康も「平信長」や「源家康」と表記するべき。

358 :sage:2005/08/05(金) 23:20:47
>>355
ほかの系統の豊臣姓の旗本もいるよ。

359 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 07:23:56
>>355 大変勉強になりました

>>358 sageるときはE-mail欄にsageって書いてください


360 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 10:02:21
>>359
>sageるときはE-mail欄にsageって書いてください

わざわざ貴重な知識を伝授してもらいながら、基礎的な知識がないと、本当のことを指摘されたことを根に持って
こういう戯言を吐いて>>358に仕返しをしたつもりなんだろうな。
本当に姑息で下品なブタだな。

361 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 12:07:02
>>357
というより、秀吉を羽柴秀吉と表記すべきなんだろうね。
大河ドラマや歴史小説のセリフで、家康やら淀君やら利家やらが
「豊臣家の御為に」とか「豊家がどうのこうの」とか言ったりするわけだが
実際には「羽柴家」と言われてたのかなあ?
徳川家のことを「源家」なんてまず言わないよね?

362 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 12:32:35
昔の人が名字+実名だけで署名することって、ほとんどないからね。
名字のときは「羽柴筑前守」「惟任日向守」みたいに名字+官名(or通称)だし、
実名のときは「平信長」「源家康」みたいに本姓+実名だから。

古文書とかでも、豊臣系大名の署名は「羽柴○○(地名)侍従」みたいな書き方か、
「豊臣○○(実名)」だよね。

363 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 12:34:31
しかも、秀吉みたいな天下人になると、まずフルネームで署名することがない。
ほとんど「秀吉」だけか花押ですむからね。

364 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 13:11:26
>>359
まずはお前がsageろ。
話しはそれからだ。

365 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 17:35:33
>>344
載ってますけど、大名・旗本の木下家とのつながりはわかりません。

366 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 20:31:24
2chも「sage」なんて姑息なことやめてしまえ

367 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 20:50:48
>>361
「豊臣家」はさすがになかっただろうけど「豊家」はあったかも。
平清盛の一族を「平家」源頼朝の一族を「源家」と呼ぶ先例があるから。
「羽柴家」はないだろうね。秀吉が羽柴の名字を相当広範囲に授与しているから、
ただ「羽柴家」と言っただけではどの羽柴家かわからない。
徳川家康も「羽柴江戸内大臣豊臣家康」だもんな。


368 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:11:45
足利氏や徳川氏のことも「源家」と呼んだの?

369 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:18:31
>>368
呼ばない。

370 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:26:18
だったら豊臣家だけ「豊家」と呼んだ可能性があるというのは
どうしてなんだろう?

371 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:33:05
秀吉は擬制的な同族を増やすために羽柴名字や豊臣姓を大盤振る舞いし、
徳川政権がそれを模倣した読んだことがある。
ただ、徳川家と他家を差別化するため、旧姓の松平名字を下賜したとのこと。

372 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:34:57
>>370
「足利」や「徳川」は名字。
「豊臣」は氏。
そもそも異質なものなんだよ。

373 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:45:48
>>372
知ってるよ。だから>>370のような質問を書いたわけなんだが?

374 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:58:40
>>373
>「羽柴家」はないだろうね。秀吉が羽柴の名字を相当広範囲に授与しているから、
>ただ「羽柴家」と言っただけではどの羽柴家かわからない。
て書いてあるじゃん。

375 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 22:43:09
羽柴の名字を授与された大名たちは豊臣姓でもあったんじゃないの?
ならばどの豊臣かわからないということにもなりそうだが。

376 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 23:24:00
>>375
松平もらった家も全部源姓だったか?

377 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 23:49:06
>>376

>>367によると家康も豊臣姓だったようなんだが、これは本当?

378 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 00:39:31
松平もらった家は源姓ではありません。
伊達は松平陸奥守藤原政宗。
毛利は松平大膳大夫大江秀就。

379 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 01:44:05
age

380 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 02:23:11
加藤清正ってたしか羽柴名字貰ってたけど豊臣姓は貰っていなかったっけ?
あるいは朝鮮出兵の諸大名のうち、豊臣姓でないのは長宗我部だけだとも

381 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 08:48:16
秀吉を通じて位階官職を与えられた武士は基本的にすべて豊臣姓です。
大名は言うに及ばす陪臣まで含めてすべて。
羽柴名字は一部の有力大名と秀吉の側近にしか与えられなかった。
加藤清正は羽柴名字もらってるよ。

382 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 10:14:54
みなさんこんにちは!!!旧・大田原藩士族の家系のものです。
スレ違いかもしれないですが、参考まで。

栃木県北部の那須地域にある、1万石台の小藩・大田原(おおたわら)藩。
いわゆる那須七騎のひとつである。

藩中士鑑によると、ここの士族に羽柴姓が4家ある。いずれも下級である。
内、2家は初めから士族で、もう2家は当初は卒族(足軽だった?)で卒族が廃止になってから士族に編入された。
この元卒の家の一つは、教育者の家系である。
姓の由来は不明だが、ここの息子が弟の同級生で、よく「羽柴筑前」などと呼んでいた(からかっていた?)ようである。
彼は成人してから、自衛隊に2年間行き、戻ってきてから工場の事故でベルトコンベアーに頭を潰され亡くなってしまった。

気の毒な話でした。



383 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 10:24:27
あっ、藩中士鑑でなくて、明治維新の資料からでした・・・。
郷土史家の益子氏の著作にありました。

384 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 12:00:13
>>381
すべてではない
>>380にあるように長宗我部は違うし、
清正は勝手に豊臣姓を称したとして秀吉に罰せられてる。

385 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 12:34:28
片桐且元のような小身の大名でも豊臣姓もらってるのにね。清正不憫。

386 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 14:33:20
>>385
本当の親戚(又従兄弟)なのにね。

387 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 16:53:43
>>382
続き希望

388 :日本@名無史さん:2005/08/08(月) 01:02:19
これといった一門衆家臣団を持たない秀吉は、有力家臣である大名たちに豊臣
朝臣の氏姓や羽柴の名字を与え、豊臣朝臣羽柴何某と名乗らせることで大名
たちを自らの擬制的な一族に取り込もうとしていった。

のちに徳川氏の覇権が 確固たるものになっていく過程の中で、豊臣朝臣を
与えられ、羽柴氏を名乗る ことを許されていた大名たちは、豊臣朝臣の
本姓を捨て、羽柴を公称しない ようになっていった。

江戸時代を通じて豊臣朝臣を本姓とし続けた大名家は、 秀吉の夫人北政所
おねの実家である木下氏だけである。木下氏は明治維新後に 本姓と名字が
法的に一本化されて現在見られる姓のあり方に統合されていくまで、 本姓を
変えることはなかった。


389 :日本@名無史さん:2005/08/08(月) 02:49:59
>>388
擬制的な一族にするのは秀吉に限らずどこでもやっていたこと。

ところで前田利家は死ぬまで羽柴筑前守だったよね

390 :日本@名無史さん:2005/08/08(月) 13:15:06
細川忠興は羽柴名字は受けたくせに、松平名字の授与は辞退した。

391 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 05:11:21
名門細川が三河の土豪の名字なんか欲しくないよな

392 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 11:19:28
羽柴は・・・

393 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 14:37:56
細川(足利家臣)→長岡(織田家臣)→羽柴(秀吉家臣)→細川

394 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 21:49:14
>清正は勝手に豊臣姓を称したとして秀吉に罰せられてる。

いつの話?

395 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 22:26:03
>>394
地震の前

396 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 21:21:28
age

397 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 00:55:39
>>394
朝鮮出兵の時、明の使者に対して、豊臣姓を下賜されていないにも関わらず
豊臣清正と署名した

398 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 03:18:48
age

399 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 06:25:36
九条家が橘氏の氏長者なのは何故ですか?

400 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 10:01:31
age

401 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 10:34:11
秀吉は明に対しては「平秀吉」と称していたのか?

402 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 11:42:51
まったくスレ違いな話だ!

403 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 16:40:29
>>393
足利家臣ってなに?

404 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 20:39:16
>>399
氏爵(うじのしゃく)って知ってるか?それを調べてみな。

405 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 04:06:59
>>203
何を聞いてるのかわからん

406 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 01:08:00
>>404
さんくす

407 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 22:26:20
age

408 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:48:06
地下からかなり離れているような?

409 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 22:26:35
地下で堂上家より裕福な家ってあったの?

410 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 05:28:33
>409
幸徳井・小森は、裕福だと下橋敬長が証言していまつ。

411 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 09:53:14
堀川家もなかなか内福ぢゃったとやら。


412 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 10:52:34
些か話題から逸れるやも知れぬが、お尋ね致し度き儀がこれあり。

賀茂社氏人の南大路家が「菊家」と改姓していたのは、
いつ頃からいつ迄の間の事なのでしょうか?
英照皇太后の生母の家柄だけに気に懸かります。
何卒宜しゅうに。





413 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 15:03:50
近衛家には近習30〜40人、中小姓10人、青士20〜30人がいた。一条
家では用人3〜4人、近習14〜15人、中小姓3人、勘定方3人、青士10
人、茶道2人、小頭4人、中番4人。清華家、大臣家では侍の下に近習、青士
をおき、平堂上は雑掌(ざっしょう)、近習をおいた。近習は1年の給与が3
石だったので、「3石さん」と悪口をいわれたそうだ。江戸で呼んだ、「三一」
(さんぴん 3両1人半扶持 御蔵奉行小揚の者の給与)と同じようなものか。

上記の三催に史生(ししょう)の役が多く見える。史生は省、職、寮、司で任
ずるもので、そこの実権を握っている家の自由になったようだ。例えば中務省
(なかつかさしょう)では平田家が実権を握っており、自分の家に出入りする
魚屋や蕎麦屋、小間物屋などから史生にしてほしいと頼まれると、「補中務省
史生」の辞令を出し、この旨を職事に届ける。職事は「地下次第」という記録
にこれを書き入れる。すると、しばらくして魚屋の某が正七位下に叙せられ、
「肥後大掾」(だいじょう)などという国の掾に任ぜられる。

公事があれば官位相当の装束を着け供を連れて出掛け、家に帰れば魚屋に戻る。
魚屋の隣に玄関を構え、菊の紋の高張提灯を出しもする。こうしたことができ
るのは当然富裕な町人で、相応の礼金を贈っているわけだ。官位をもらう町人
の利点は、奉行所の役人が家に踏み込んでこないこと、菊紋の高張提灯がある
店には悪人が踏み込んでこないこと、3点目は自己満足あたりだろうか。

http://www.0105.jp/~mizuki/tennoukughounoseido3.html



414 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 15:35:42
>>412
宗教法人いじゅん
昭和52年、皇室所縁の鴨県主百十代菊家と御交誼を頂き、神縁を結ぶ。
昭和60年 8月、鴨県主菊家の御依頼を受け、京都下鴨神社にて世界平和、
国家安泰、神道興隆の大浄焔祭を行なう。
http://www.rirc.or.jp/data/output.cgi?id=00031701

怪しそうだがここならよく知ってそうです。または

賀茂県主同族会
http://www.kamoagatanushi.or.jp/



415 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 21:05:43
>>411
地下に堀川家ってあるの?

416 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 01:30:21
>>415
徳大寺家の諸大夫

417 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 12:28:44
>>414
どうも有り難う、忝なう存知上げます。



418 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 21:47:54
家司がそんなに裕福なら主家の徳大寺家はもっと金持ちなの?

419 :前スレの1:2005/08/20(土) 01:40:35

諸大夫・地下について語ろう
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1045792286/

420 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 02:03:45
>>418
徳大寺はわかりませんが、摂家でも破産同様になった家があるのでどうかと。
必要経費が、かなりかかったのでは?

421 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 02:53:12
>摂家でも破産同様になった家があるので

九条家ね。

422 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 04:24:37
age

423 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 23:18:07
みなもと太郎のまんがに下級貴族はカルタとか花札を描くバイトをしていて、
家が賭場になっていたからガラが悪かったて書いてあったのですが、そうなんですか?

424 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 00:01:52
>家が賭場になっていたからガラが悪かった

それって岩倉具視じゃないの。

425 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 01:01:40
age

426 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 22:00:23
age

427 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 21:44:35
厳密には地下官人ではないかも知れないが
和菓子の虎屋の社長が書いた『虎屋 和菓子と歩んだ五百年』が面白かった。
御所お出入りの商人が持っている凄さがビンビン伝わってくる。
川端道喜の岩波新書と同様にオススメ。

428 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 23:03:56
『都仁志喜』に見える平公家の家臣名称(*は名前明記、**は2名
<雑掌> 正親町、清水谷、四辻、河鰭、阿野、橋本*、花園、飛鳥井**、
難波*、中御門(松木)、園、冷泉(上)**、日野**、広橋*、
烏丸*、柳原***、甘露寺**、葉室**、勧修寺**、
万里小路**、清閑寺*、中御門、坊城*、山科**、鷲尾**、
油小路、水無瀬、高倉***、樋口、富小路、六条、千種、庭田、
白川***、藤波**。
<御用人>風早、押小路、園池、中園、高丘、野宮*、今城、東園、石野、
石山、六角、冷泉(下)、藤谷、入江、広橋*、烏丸*、柳原*、
竹屋、日野西*、裏松、外山、豊岡、北小路、芝山、梅小路、岡崎、
穂波、堤、櫛笥、八条、堀川*、梅渓、愛宕、東久世、植松、
綾小路*、五辻、大原、竹内、高辻*、五条、東坊城**、唐橋、
桑原、西洞院、平松、長谷*、交野、石井、船橋、伏原、錦織、
藤井、錦小路、北小路。
<家司> 土御門**、萩原。
<家老> 吉田***。
<侍>  桜井。


429 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 23:09:30
つづき
やはり身分的には雑掌、御用人の順かな?
裕福そうなお公家さんのお家は複数いるみたい。
変わったところで家司なんて平安時代みたいなのや
家老などと武家みたいなのがいるお公家さんもいるね。

もっと詳しいことをご存知の方おられますか?

430 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 23:59:40
親王家から和菓子屋に大掾の官位を与えたりしていますね。

431 :日本@名無史さん:2005/08/31(水) 01:13:47
もともと家司という職名が古く諸大夫などはあとから出てきたらしい

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