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立見尚文・酒井玄蕃・楢山佐渡

1 :日本@名無史さん:2005/06/03(金) 23:24:25
マイナーながら実力があった人物について語ろう。

2 :日本@名無史さん:2005/06/03(金) 23:34:00
あと、山本帯刀や山川大蔵、雲井龍雄や細谷十大夫などもありってかんじ。

3 :日本@名無史さん:2005/06/03(金) 23:51:31
楢山佐渡は知らんな。
紹介してくれ

4 :日本@名無史さん:2005/06/04(土) 00:05:52 ?
楢山佐渡(1831-1869) 南部藩家老

代々家老職にある楢山家に生まれる
南部利剛が藩主になると重用されるが、
一揆の責任を取り辞職し、一時藩政から離れる
戊辰戦争時、佐幕を主張し、
列藩同盟を裏切った秋田藩を討つべしと主張する
しかし、楢山が藩政から離れていたときに代わりに起用された東中務がこれに反対し、
全面対決することになる
そして、この藩内抗争に勝利し、
自ら鹿角口攻撃軍の総大将として攻撃するが官軍を破ることができず
盛岡藩を窮地に追い込む
1869年、戦争責任を負い、報恩寺で自刃する
享年39歳


5 :日本@名無史さん:2005/06/04(土) 00:52:10 ?
酒井玄蕃(1842〜1876)

庄内藩(山形県)出身。玄蕃は通り名で了恒、吉之丞とも。
藩家老酒井了明の長男。庄内藩が江戸取締りを命じられた時、
番頭として活躍。
戊辰戦争に際しては、二番大隊長として新庄、秋田を席捲し、
「鬼玄番」と恐れられる。
明治維新後、大泉県権大参事となり、その後政府に仕え
密命を受け清国を偵察したが、帰国後まもなく肺疾により死去。

6 :日本@名無史さん:2005/06/04(土) 01:35:08
>>4
それで楢山佐渡っていうお方は『どう』すごかったんですか・

7 :日本@名無史さん:2005/06/04(土) 02:06:09 ?
楢山佐渡は浅田次郎の「壬生義士伝」の大野次郎右衛門のモデル

8 :日本@名無史さん:2005/06/05(日) 17:00:23
酒井玄蕃ってあれだけ活躍したのにマイナーやな

9 :日本@名無史さん:2005/06/05(日) 18:31:36
活躍したけどマイナーな人間は小説にしたら売れるぞ。
それで神格化されたところで「それは過大評価やろ!」って突っ込まれたあと
梅毒坊に荒らされて定位置へ戻るのだ。

10 :日本@名無史さん:2005/06/05(日) 18:32:46
立見は日露戦争物語を見た限りでは面白そう。

11 :日本@名無史さん:2005/06/05(日) 18:38:32
>>9
梅毒房?

12 :日本@名無史さん:2005/06/05(日) 18:40:02
立見尚文は戊辰戦争から日露戦争まで幅広く活躍したからな。
雷神隊まんせー

13 :日本@名無史さん:2005/06/05(日) 22:57:38
酒井玄蕃が早死にしたのは残念だ。西南戦争の頃まで生きていたらどっち側につくか興味があった。

14 :日本@名無史さん:2005/06/05(日) 23:47:02
立見は米国の新聞で日本最高の戦術かと評価されてた
なぜか有名じゃないのが不思議だ

15 :日本@名無史さん:2005/06/09(木) 09:45:50 ?
age

16 :日本@名無史さん:2005/06/09(木) 11:48:40
しかし現役の元賊軍大将が居るんだから明治日本は凄いな。
立見の他に居るのかな?

17 :日本@名無史さん:2005/06/09(木) 19:24:55
征露第一軍の梅沢道治旅団長は、旧幕軍に属して五稜郭まで転戦したが、
観念して敵の銃砲火にむけてうんこしたところ、一発もあたらず不死を
確信し、その後陸軍に入った。長州出の長谷川好道などから、そうとう
きつくあたられたそうだ。還暦過ぎてから日露戦に出征し、遼陽・沙河
会戦で一挙に武名を挙げて、いじめた連中を後悔させたという。

そういや立見尚文って、数日間ながらも軍司令官だったな。

18 :日本@名無史さん:2005/06/09(木) 20:50:51
>14
その新聞記事は、どこかネット上で見られますか?

19 :日本@名無史さん:2005/06/11(土) 22:11:32 ?
age

20 :日本@名無史さん:2005/06/15(水) 01:49:04
>>18
ネットではどうだろうね
米国の古い新聞がある場所なら見れるかも

21 :日本@名無史さん:2005/06/15(水) 02:17:48 ?
楢山 佐渡(1830〜1869)

盛岡藩の重鎮。藩主、南部利剛に組し、新政府寄りの南部利義の一派を
退け、盛岡藩を奥州列藩同盟加盟への道を歩ませる。
戊辰戦争中は新政府側の秋田藩と戦い、自身も鹿角口攻撃の総大将を務め
大館を攻略し意気を上げるも、その後は新政府軍に敗北を重ね、9月に開城、
降伏する。

明治2年6月、藩を朝敵の窮地に追い込んだ責任をとって自刃する。


22 :日本@名無史さん:2005/06/15(水) 16:28:36
>>21

結局、明治で活躍したのは立見だけかな
板垣も政治家にならず軍人だったら日清、日露で活躍できそう
まだ他に名前のでる人いる?

23 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:51:27
立見も時山ぶっ殺してなかったら元帥くらいにはなれたかもしれんのになあ

24 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 16:27:42
立見尚文
風伝流の槍術を18で使いこなし
昌平黌で秀才と言われ
藩の外交官として桂小五郎、西郷隆盛、大久保利通と面識あり
フランスの軍人に才を認められる

25 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 01:32:50 ?
山本帯刀・・・・1844〜1868

代々家老職を継ぐ門閥であったが、聡明にして果敢という評
価がされている人物で、河井継之助の人物、思想を理解していたとされ
藩政改革での藩士の俸禄改正では三分の一減俸を積極的に受け入れ、
藩士の範を示した。
長岡で戦端が開かれるや若き指揮者として重きをなし、大隊を率いる将として奮戦
長岡陥落により八十里峠附近で残存の長岡兵を指揮し西軍進入を8月末まで阻止。
その後会津若松へ転戦、会津戦争を配下の長岡兵と共に戦うも明治元年9月8日、
会津の飯寺村において集結の西軍攻撃を濃霧の中行うも長岡兵は敵味方を誤認し
配下の43人と共に捕らわれた。
西軍の将はその人物を惜しみ降伏を勧めたが降伏を拒み、
山本含み43名は翌9日斬首された。享年24歳
山本帯刀亡き後の山本家はその後、養子となった山本五十六が継いだ。



26 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 01:52:38
立見を許した薩長を少しは賛美すべきだ。
それに立見に関しては何か少し勘違いしている奴がいるようだな。

27 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 20:04:56
>>26
別に裁かれるほど地位が高かったわけでもないし
それに桑名藩は森常吉がすべて背負って切腹してる

なかなかに 惜しき命にありながら
君のためには なにいとうべき
                    森弥一左衛門陳明 

28 :日本@名無史さん:2005/07/19(火) 01:24:45
何故、長州の山県狂介は立見に負けまくったのか?

29 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 00:12:10
>>28
彼は軍政家であり現場指揮はへたくそ。驚くほどのことはない。

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