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邪馬台国は九州であるという前提で話を進めるスレ!

1 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 08:55:56
英彦山、日向系神話、阿蘇山

484 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 23:20:23
>>482

>「渡海」を使うのが自然だと思う。

いや、陸地に沿って航行したでしょうから「水行」の方が自然でしょう。

485 :tociguri:2005/08/01(月) 23:43:46
>>484 そう言えば郡から狗邪韓国までは「循海岸水行、歴韓国」ですね。

 瀬戸内にも「循海岸水行十日」と書いてあったら大和説も現実味があるのですが。



486 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 00:07:45
「循海岸」が有っても無くても殆ど意味は同じ。

487 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/02(火) 00:36:37
なぁー
よく考えてみなよ!
舟使って遣って着た連中が何が悲しくて海を見ながら獣道を一月も歩かなければならないんだ
列島の幹線道路は今も昔も殆ど海岸沿いだよ

488 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 02:12:21

俺も厨房の頃はお前と同じこと考えてた。

不自然かもしれないが実際は邪馬台国から遠く
離れた地で下船してわざわざ海を見ながら獣道
を一ケ月も歩いて行ってんだよ。

489 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/02(火) 07:17:46
>>488
海岸沿いの獣道を一月も歩いたとする根拠はなに?
その時通ったコースはどこ?

490 :サガミハラハラ:2005/08/02(火) 08:01:49
川口浩探険隊ではない(絵を盛り上げるため、りっぱな車道があるのに、わざわざ薮漕ぎをした)ではないのであるから、歩きやすい道を通ったと思いますよ。  

491 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 08:49:29
邪馬台国東遷説の安本氏がでは正しいのでしょうか?

492 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 10:36:47

正しい分けないだろ。
彼は正真のキチガイです。

493 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 11:13:02
一連のスレで安本氏の名前を出すと必ず、条件反射的に誹謗中傷する馬鹿が現れるよな
まあ畿内論者の程度の低さを露呈しているわけだが

494 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 11:57:43
邪馬台国が九州にあったとしても
東遷はなく畿内政権に併呑されたとみるべきですか?

495 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/02(火) 12:31:17
>>494
私はそう考えてます。
経済力で圧倒的優位に立った畿内勢力
「富と力は、より富と力のある所に集まる。」

496 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 12:36:48
では宇佐八幡神託事件はどう説明されます?
なぜ伊勢神宮ではなく宇佐神宮に神託をうけにいったのですか?

497 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 12:59:00
宇佐はイ妥国(邪馬台国)の残党狩りの根拠地だったから、
いわば畿内政権の立役者。

498 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/02(火) 13:13:06
うろ覚えでわるいけど、あの神託は宇佐神宮からでたので、もう1度宇佐神宮に確かめにいったのだとおもっていますが。
井沢元彦先生の逆説の日本史に詳しいいきさつがのっていたとおもいます。

499 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 13:20:39
あの人学会でなんの信用もされてませんよ。史料もろくに暗記もしてないし。

500 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 13:51:21
井沢元彦も安本と同様に正真のキチガイです。

501 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 13:52:15
八幡というのはたしか応神天皇のことだと
聞いたことがありますし、やはり応神が我々が
歴史で習った大和朝廷の始祖とみるべきなのでは
ないでしょうか?仲哀と応神のところで血統が
変わってるとみるべきです。仲哀以前は畿内土着の政権で
応神がこれを滅ぼた。こう考えればなぜ記紀で
九州がクローズアップされてるのか?がわかります。

502 :tociguri:2005/08/02(火) 14:14:16
>>500 安本先生は統計学の大数の法則とかで、天皇の平均在位年数や近隣言語の
頭音だけ取り出して比較するという非常に大雑把に見える方法を採っているが、
それはそれで意味があると思う。


503 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 14:25:13
井沢元彦大先生は
卑弥呼を祭る霊廟があるところが
邪馬台国だとおっしゃられ宇佐神宮の
比売大神がそれだといささか短絡的とも
思える内容でベストセラーをたたき出し
儲けているようですがw


504 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 14:27:51
卑弥呼が天照大神で皆既日食で死んだとも
おっしゃられてました。アマテラスは元々男神だったと
記憶してますがいつのまにか女性になってしまっていた
ようですね。おそらく藤原不等人により改ざんが
なされただけではないでしょうか?

505 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 14:28:27
不比等でしたっけ?すまそ

506 ::2005/08/02(火) 17:46:00
>>504
もともとから姫神だよ。w

507 ::2005/08/02(火) 17:50:40
アマテラスが男神だったら、君の説では卑弥呼が男性になっちゃうよん。ww

508 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 19:13:35
男か女かしらんが
ちゃんとDNA鑑定したんだろうな

509 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 02:51:10
>>501
気比、息長とかはどう考える

510 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/04(木) 19:27:52
井沢氏は、一時宇佐説を唱えた事があるといっていましたので、今は宇佐説でないとおもいますよ。
井沢氏自身、逆説の日本史の一巻目は、将来書き換えるかもしれないといっていました。
よってアマテラス卑弥呼説も修正するとおもいます。


邪馬台国小城説宣伝強化期間
邪馬台国は佐賀県小城市甘木地区です。卑弥呼の墓は小城公園内桜ヶ岡です。

511 :圭角:2005/08/05(金) 14:47:01
プラムさんの書かれた、当時の富と力とは、米穀食料と鉄器だと、相も変わらずに
私は思っております。米と鉄です。人口も兵力数も軍力の技術も米と鉄が始点です。
前にも書きましたが、鉄器東漸の経緯を探求することこそが、邪馬台国は大和朝廷に
なったのかを解き明かす鍵です。

512 :圭角:2005/08/06(土) 09:25:06
もっとも、大和政権は卑弥呼邪馬台国の系譜ではありません、が。

513 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 11:35:01
邪馬台国九州説晒し上げ

514 ::2005/08/08(月) 21:33:09
『阿蘇ト大分県ノ間ニ注意セヨ!!!』

515 ::2005/08/10(水) 19:21:45
よく↑を調べろ!

516 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 19:32:05
暗記科目=クソ科目
馬鹿があああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

517 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/10(水) 19:40:27
>>513
晒し上げって、どういうところが晒しあげられるのでしょうか。御教唆お願いします.

518 :tociguri:2005/08/11(木) 17:58:35
514

519 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 18:17:43
きょう‐さ【教唆】ケウ‐
[名]スル■ある事を起こすよう教えそそのかすこと。
「―扇動」「法外な給料増加の請求を坑夫等に―し」
〈木下尚江・火の柱〉■他人をそそのかして犯罪実行の決意
を生じさせること。

誤用です、先生

520 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 00:39:15
御教示、ですね。

521 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 01:13:29
そんなこと言うと、拡張型心筋症で入院しちゃうぞ!

522 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 05:31:57
崇神天皇が南韓の人で期を持して邪馬台国(宇佐)を攻め落とし
その後、瀬戸内海を渡り近畿地方を平定したと言う説はどーよ。w
なので近畿地方の人のDNAは他の地域の日本人のDNAに比べ韓国人に
非常に近くゆえに近親憎悪で異常に韓国人を嫌う「西村真悟」みたくに。w



523 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 07:31:21
>>519ー521
これで、サガミハラの2CHネラとしてのプロフは、
偽りだと言うことがはっきりしたね。
自身が言うような元教師のじいさんだとは、とても思えない国語力だ。
自費出版狂の元先生は名前を騙られているだけで、
やはり、サガミハラ本人は、痴漢プレー好きの風俗オタクだろう。

524 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/12(金) 09:59:59
教唆 誤用のご指摘ありがとうございました。
どこかで誰かが使っているのを、確かめもせず使ってしまいました。
定説や通説を再考もせずに鵜呑みにしているとずいぶん人のことを攻撃してきましたが、
人のことばかりいえないですね。反省します。


525 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/12(金) 14:22:57
邪馬台国が歴史上から姿を消すころに
崇神天皇が四道将軍を送るんですよね・・
やはりイリ王朝に九州邪馬台国連合は吸収されたと
みるのが1番妥当な見解か・・
時代的にも畿内政権が中央集権化を進めだしたころに
邪馬台国は消えますしね。


526 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/12(金) 14:59:57
今日で邪馬台国発見14周年となります。
邪馬台国小城説宣伝強化期間として小城説を喧伝してまいりましたが、ご賛同はともかく小城説の存在
をおわかりいただけましたでしょうか。
来年の15周年には、大きなイベントをと思っておりますのでどうぞよろしくお願いいたします。

527 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/12(金) 15:00:49
小城ってどこですか???
相模原ってことは神奈川ですよね?

528 ::2005/08/12(金) 15:25:26
>>525
大間違い。

529 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/12(金) 15:28:56
>>528
では>>525の僕の意見も間違いでしょうか?
今回は今までの皆様との意見交換を
全部踏まえた上で現時点における自分の結論を
述べてみました。

530 ::2005/08/12(金) 15:37:05
>>525 の前段は間違い。崇神の世に女王国はまだない。

531 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/12(金) 15:41:33
>>530
どういうことでしょうか?
崇神天皇は3世紀後半くらいの
人なのではないのですか?
邪馬台国より前の時代の人では
つじつまがあわなくなります。
応神天皇は4世紀後半の天皇だということは
ほぼ確定されてますし逆算すると
応神より5代前の崇神は100年前くらいになるんじゃないですか?
当時の平均寿命も短かったでしょうし・・

532 ::2005/08/12(金) 15:46:59
確定?そんなのされていないぞ。だまされるなよ。

533 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/12(金) 15:52:51
>>527「ヒッキー」君

佐賀県内で吉野ヶ里遺跡の西方(向かって左側)に有るから
地図にて確認を

534 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/12(金) 15:56:32
>>527
邪馬台国は九州佐賀県(福岡県の西隣り)の小城市(佐賀市の西隣り)の甘木地区(JR小城駅のところ)です。
甘木とは、天の城、つまり王様の居る所の意味かとおもわれます。
卑弥呼の墓は、駅の北の小城公園の中の桜ヶ岡です。

相模原は私の現住所です。
宣伝期間の延長を考えています。

535 : ◆ypURG809QA :2005/08/12(金) 16:17:31
>>503 16歳中卒ヒッキー 殿
>>510 サガミハラハラ殿

井沢氏は宇佐が邪馬台国だとは断言してないですよ。
井沢氏の小説「魔鏡の女王」で
「卑弥呼の墓は佐賀平野のどこかにあるんじゃないか」と
仮定している程度ですが。


536 :圭角:2005/08/12(金) 20:05:38
サガミハラハラさん。
私は、卑弥呼の塚が卑弥呼が都した邪馬台国である必然性は必ずしもないのでは、
とも思うことがあります。男弟がマツリゴトをおこなっていた土地と、卑弥呼が
カリスマを為していた土地とは、同一の土地地域ではないような気がいたします。
無論、根拠理由はありませんが、
見るある者少なく、とか、の記事や、男弟あり佐けて国を治む、とか、さらには
ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す、などの記事からすれば
そう思える次第です。
また、その俗挙事行来に云為云々の記事からすれば、卑弥呼の墓が卑弥呼が都した
邪馬台国ではない可能性も極めて高いのではなかろうか、とも想う次第です。

537 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/13(土) 08:57:32
watasiが卑弥呼の墓が桜ヶ岡であると談じた根拠のひとつは、当時の都の設計が
吉野ヶ里を例にとれば、北に墳丘墓、その南に王の住居(北内カク)その南に一般?住居
そして市場という構成になっているころから、(安本美典氏のいう甘木市は、北に甘木公園の丘群、
南に甘木の地名、さらに南に牛木(市木の訛化か)の地名)小城の構成もおなじようである(北に
桜ヶ岡、その南に甘木の地名、さらにかなり南に石木の地名がある)ことから、桜ヶ岡が卑弥呼の墓
であると断じました。また魏使も墓をみているとおもいます。

538 :圭角:2005/08/13(土) 08:59:39
魏の使節が卑弥呼の墓を見ていることは,確実と私も想います。

539 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/13(土) 09:02:15
まあ邪馬台国は九州にあったのでしょう。
でその後どうなったのですか?

540 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/13(土) 09:23:42
>>532
ええっー
雄略天皇=武 というのはほぼ間違いないはずですし
だとしたら倭王讃が応神か仁徳になるはずですよ・・
とすると崇神天皇と邪馬台国が同じ時代くらいですし
崇神天皇の四道将軍の時期に邪馬台国は吸収されたのでは?

541 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/13(土) 09:35:45
もう一つ下の垂仁天皇の時代かもしれません。
応神天皇の生誕は355年で確定でしょう。

542 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/13(土) 09:45:14
狗奴国、大和朝廷からはさみうちにあう
かっこうになり自然消滅したのかもしれませんね。
そしていつのまにか大和朝廷VS熊襲の戦いになってる。
ヤマトタケルの時代にすでに熊襲征伐の話がありますしね。
垂仁の時代と一致します。

543 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 10:27:37
>>541 サガミ氏
>応神の生誕は355年で確定でしょう。

好太王碑・新羅本紀・日本書紀等を照らし合わせ、一年のズレを修正し、新羅出兵を読みとると、仲哀帝崩御が362年、神功皇后の出兵後の応神生誕は363年になります。
サガミ氏の主張される355年では 日本書紀を書き直さないといけなくなります。

544 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/13(土) 10:40:55
壱与が死んだあたりに中国も
5コ十六国時代の争乱の時代に入りますし
中国からの後ろ盾を失った邪馬台国は
衰退していったとみるべきなのでしょうか?
つまり王の権威の低下とでもいいましょうか。


545 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 10:57:35
>>544
壹與死亡並びに、邪馬壹國衰退の記載は文献上ないと記憶します(間違いであればスマソ)
265年に魏から西晋王朝に移行し、266年に倭女王(壹與?)が朝貢
中華王朝の冊封体制は続きます。
しかし、313年に楽浪郡が高句麗に滅ぼされ、あい前後し、馬韓族により帯方郡が滅ぼされています。
これにより
中華王朝と倭の交易ラインは寸断され、冊封体制も313年までには解除されたと見るべきでしょう!

546 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 11:28:23
>>545
266年の朝貢が「女王」だと言う文献は存在しないと思いますよ。

547 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 11:34:50
>>546さん
これは、勇み足でした。
間違いの指摘感謝です。

「泰始二年十一月己卯倭人来献方物」(武帝紀)
でした。

548 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 11:47:28
>>546さん
しかしながら、
日本書紀所引の晋起所居注には、
「泰始二年」の遣使を「倭の女王」と、しています。
書記編纂時の事情でしょうか?

549 :圭角:2005/08/13(土) 12:16:41
プラムさん、九州は連日の炎暑です。プラムさんの548に関連しまして。
いわゆる大宰府のと申しますか、書記が引いている倭人伝の記録つまりは
景初二年が明帝景初三年という件などを思いますと、倭人伝が木版印刷される
までの期間、伝写に次ぐ伝写伝写にて誤記は当然生じたとして確実であると
思う次第です。
一般には、景初二年は三年の誤とされています。この点についてはプラムさん
いかがお考えでしょうか。ご見解をお聞かせください。

550 :圭角:2005/08/13(土) 12:46:01
このスレは邪馬台国が九州であるとして話を進めるスレという認識のもとに
狗奴国につきまして書きます。
狗奴国は定説通説では筑肥山地以南の熊本と比定されていますが、陳寿が、
あえて、素より和せず、と記した理由には、やはり、血の違いつまり種族
としての違いからくる長年積年の争いを想起する次第です。
まあ例えて言うならイスラエルとパレスチナみたいなものだったと想います。
古はおそらく春秋戦国から倭に稲作とともに渡来した人々がいて、北部九州
へも、中部九州にもおそらくはほぼ時を一として渡来したと想われます。
しかし、その渡来した人々の数は北部九州の方が地理経路からして多かった
と考えて自然です。なんとなれば、筑肥山地以北にも以前は勢力を有していた
熊襲の狗奴国が南に押されて行かざるを得なかったろうと想います。
 無論狗奴国は勢力土地の奪還を目指し、北部九州に侵攻した。しかし、
女王国は、筑肥山地を防波堤としてこれを防ぎ、攻撃し合った。為に、今も
筑肥山地周辺から多数の鉄鏃が出土しているのだと考えます。

551 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 12:47:23
圭角さん
茨城はどんよりと曇り空で若干過ごしやすいお盆を迎えております。

年号の誤記ですが、景初三年とする理由はやはり、公孫氏討滅の時間的関係にあると思いますし、
現在の我々よりリアルに近い時間帯で魏書を見ることの出来た、書紀編纂グループが書記の中に「景初三年」とし、朝貢記録を残した事にあると考えてます。

552 :圭角:2005/08/13(土) 13:11:17
プラムさんは、狗奴国の土地を昔に旅行されたと書いておられました。
それで少しばかり私の狗奴国伝を読んでくださいませ。
 まず江戸時代の肥後細川藩の石高は五十四万石です。石高だけからならば
雄藩ではないかとの見方もありますが、否です。細川藩の場合は天草を除く
肥後一国でその石高です。筑前黒田藩は筑前という肥後に比べたら狭小にも
かかわらず肥後細川藩の石高を超えています。
 つまり、熊本平野などと申しますが熊本市の北の土地は畑作地で稲作には
不向きな台地だと言う方が適切です。地図帳で見ると熊本市周辺は緑色にて
塗られていますが水耕地適地は以外と狭いのです。熊本はスイカの生産量が
日本一ですが、裏返せばそういうことです。博多へ高速道を往復しても、
熊本県に入ると熊本市を通過南下するまでよほど目を凝らしていなければ、
水田風景を目にすることはできません。
 例外の土地はクコチヒコの菊地市付近ですが、高速道から離れています。
熊本市の南は貝塚が多くあり、昔は稲作地ではありませんでした。
プラムさん、面白いのは、私自身が高速道で熊本県から福岡県に入ると
まさに、国境いや県境を実感して福岡県側の水田地帯を眺めては、熊本より
福岡が豊かだと本当に実感するのです。
 狗奴国の人々にとってはそれこそ垂涎の父祖の故地だったと想います。

553 :圭角:2005/08/13(土) 13:29:17
再び景初二年三年につきまして。
 私も以前は岩波版のテキストや書記引用文からして二年は三年の誤と
考えておりましたが、二年をよりリアルと考えるようになりました。
その理由については、おいおい書きますが、坂口安吾ではありませんが
歴史通説には必ずウラがあると思うからです。
 明帝紀の明帝の、いかに奇策を用いると雖も、という台詞の記事が
ありますね。それは、海船を各地で大々的に建造し、楽浪郡帯方郡から
先に接収平定して,然る後に遼東の公孫淵を討ったという単純なものでは
ないと、私は思うのです。
 明帝は韓の有力者には二郡平定後にさかんに位号を与え懐柔工作したと
明帝紀にあります。となれば、司馬宣王が自ら洛陽に凱旋する数ヶ月前に
自らの名声を高からしむる為に、二年に倭から朝貢使を仕立てたとしても
自然な解釈に思う次第です。


554 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 14:31:39
>>553圭角さん
なるほど!

以前より、魏王朝への朝貢が余りにも鮮やか迅速であったので
必ず裏工作があっての朝貢と、思っていましたが…!
それから、先程熊本のスイカ事情はよく解りますよ、茨城も地図で見ると南側は平野で一面水田風景の様ですが、実情は、大変畑作地の多い土地で
スイカ、メロン(日本一)梨、栗…etc… 等が盛んです。

それと、以前サガミ氏と卑弥呼共立年代について意見交換をしましたが
圭角さんのお考えを、お聞かせいただければ幸いです。

555 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 14:38:07
しかし、魏の使節がみたところによると倭人
野菜ばっかり食ってたらしいですね

556 :圭角:2005/08/13(土) 15:00:33
卑弥呼の共立年代につきましては、やはり私としては共立の主語に相変わらずも
こだわっております。以前のレスで東夷伝各伝つまり高句麗伝と扶余伝においては
共立の主語が明記されているのに倭人伝のみ無いから何か特殊事情が作用したのでは
ないかと書きましたけれど、皆さんのご支持は得られなかった次第です。
 さて、東夷伝韓伝の、健安年間196−220年、公孫康は帯方郡をつくり兵を
起こし韓ワイを討たせた。これ以降、倭と韓は公孫氏の帯方郡の支配を受けるように
なった、との陳寿の記述から推測されることは、三世紀初頭に公孫氏の意向を受けた
帯方郡が卑弥呼共立にかかわったと自分は推定しています。
 一時期、卑弥呼共立も司馬宣王かと疑ったのですが、陳寿は司馬宣王顕彰を基調に
三国志を記していますから、もしそうであれば、帝紀にも東夷伝にも記していなくて
はなりませんから、その可能性は無いことになります。
 したがって、公孫康が韓とワイを討った直後のことと考えられますが、陳寿がその
年次を明記していませんから健安年間の半ばと考えております。

557 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 15:11:28
倭人伝みると大和朝廷が卑弥呼を支援していたという風にみえる
奴国では大倭の役人がうろついている、みな畏れている。

558 : ◆ypURG809QA :2005/08/13(土) 15:18:44
サガミハラハラ殿ならびに皆様

え〜、小城町に行って見ました。
実際に行って見て「あること」で腰を抜かすほど驚きました。
なんであんなに集中して存在するんだか・・・・・・
まるで桜ヶ丘を囲うような、まるで結界というか・・・・・・

桜ヶ丘が卑弥呼の墓かどうかは私には判断つきかねますが、
南には佐賀西部最大と言われる土生遺跡や
東には宇佐神社があったりと
桜ヶ丘のあたりには、やはり「何か」があるとしか・・・・・・



ちなみに小城駅の職員さんに
「このあたりが邪馬台国だったという説をご存知ですか」と聞いたところ、
きょとんとした表情で
「知らんねえ、吉野ヶ里ならともかく、そげん話ば初めて聞いたばい」と言われました。

559 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 15:48:20
宇佐株式会社の佐賀支店ですね。

560 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 16:00:12
その後5世紀の福岡南部、熊本の装飾古墳の東北南部への広がりを
考えると狗奴国の勢力は本州にも一定の影響を及ぼしていたと思うね。
そういえば、福岡南部、熊本の無アクセントは東北南部の言葉と似てるよ。
そのずっと以前も磐座信仰が九州から東北まで広がっているわけで、
古代社会に対する認識を改めるべきだと思うね。
出雲の勢力が関東から東北に入ったのはその後だと考えるべきだよ。
その前は九州の勢力が東北の方にも一定の影響を及ぼしていたと考える
のが自然だよ。神代文字の広がりもみてみよ


561 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 16:19:32
>>560
神代文字なんちゃらと言っている時点であぼ〜ん

562 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 16:21:14
九州は極めて先進的で独自性のある文化をもっていて本州にも
影響を及ぼすほどであった、しかし何時の頃からか、大王を中心とた
巨大な権力の集中が本州、日向の方であった、これに出遅れたのが
西九州一帯の小国家群(後の女王国)、狗奴国であった。これらの地域は
本州の権力に次第に飲み込まれていくことになるのである。

563 ::2005/08/13(土) 16:23:16
ヒッキーさん
雄略天皇は武王というのは完全に間違い。
>>561
神代文字をなめるな。


564 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 16:33:04
>>558さん
暑い中ご苦労様です。
遠地に居る私には大変参考になります。

>>556圭角さん
私は、以前にもレスしたことがあるのですが
卑弥呼共立(擁立?)を204年以降とし、これは全て公孫氏の仕業と考えてます。
理由は、
@国乱を鎮静化するには当時外圧が最も有効(冊封体制の定着意識)
A239(8?)年の朝貢記事
桓霊の間時の共立なら 221年頃に魏王朝に朝貢、或は180年代に後漢王朝に朝貢した記録が記載されてるはず

魏王朝や自国の共立でない為に、公孫氏が滅びると余りにもタイミングよい朝貢により現体制を維持しようとする行動

565 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 16:54:27
朝貢はしても厳格な冊封体制に入っていたといえるのだろうか?
そもそも冊封とは中国の支配者を他国に送り込むことやその
影響力を行使することではない。仮にその説が正しいとして
その目的をどのようにして執行していたのだろうか?
魏の使節は倭国の独特の風習、法治体制を報じている。
しかもさほど理解しているようではない、こんな中国人に倭が
支配できたとは到底思えん。

566 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 17:06:00
>>563
神代文字なんてぺろぺろりんw

567 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 17:12:00
「卑弥呼以死大作冢径百餘歩殉葬者奴婢百餘人」

ここで注目すべきポイントととして(百歩・百人)だと思います。
調度きりのよい「百」という数字を使い 誇張するような表現として使われているような印象を持ちます。実際の墓は、全国レベルで考えると周溝墓に毛の生えた程度(しかし、その地域では大きな規模)
殉葬者の百餘人も、
さも、偉大な女王だったとする誇張
その様に思えてならないのですが
未だ発見に至っていないため、あくまで空想ですが

568 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 17:16:35
奴国周辺の人は大変だったろう、彼らも元々は狗奴の勢力だった
のだろうが、東の方には宗像のような出雲系、宇佐、辛島、佐伯のような
畿内大和系の連中もいる。

569 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 17:24:04
女王国の連中も渋々邪馬台国に従っていたのは見え見えだし
渋々、嫌々墓も作ったのだろう、小さい墓だと思う。

570 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 17:41:28
京都には韓神を北に園神を南に祀る風習がもともとありこれが
平安朝廷にも受け継がれたと言われている。
まさに韓神とは出雲朝鮮、園神とは土着を意味するのではないか

豊国の言葉は畿内語を東京アクセントにしたような不思議な言葉である。
かつての支配層の言葉だったのではないか?

571 :圭角:2005/08/13(土) 18:36:36
東夷伝の各伝をまず充分に読みそれを前提として倭人伝を吟味すべきでしょう。
女ばかりで男の居ない国があると、沃狙伝で陳寿は記している次第です。
ならば、帝紀に倭の女王卑弥呼と記している訳ですから、侍女を千人以上も
侍らせたとしても、自然な筆遣いと言えるでありましょう。
 そもそも、陳寿は漢書の班固を気取って西域伝の代わりに、曹真をボツして
司馬宣王を顕彰するために書いたのが三国志ということを忘れるべきでは、
ありません。彼が服従させた高句麗に座食する者が一万人以上居たり、また
邪馬台国の戸数が際立って多いと記したことは当然でしょうね。
 邪馬台国の使者が万二千余里の絶遠の彼方から朝貢したことは、それら全部
司馬宣王の顕彰に結びつくのです。そのことは、汝がある所はるかに遠きもと
わざわざ詔書記事にもある次第です。
 司馬イ伝は三国志にありません。彼が殺した公孫淵伝はあってもです。
つまり、東夷伝は倭人伝は司馬イ顕彰伝として陳寿が記したものであって、
当時の読書人も当然にかくなる了解のもとに読んでいたことになるのです。
 断定形の形容詞をいささか多用して恐縮です。が。

572 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:13:06
中国人が倭国に内政干渉したというのは不自然だ、
そう主張したいならもっと確固たる証拠か何かを提示して欲しい。

573 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:46:20
中央政権は北九州政権を朝鮮か中国の傀儡で
大和朝廷の中核、侵略者とみなしたいのは山々だからな
あの手この手で曲解し話をこんがらかせ、しらきって、
真相を闇に葬るつもりでもいるんだろう。
それが日本政権の歴史教育戦略なんじゃないかな
宗教施設の方向性みても明らかだろうに!

574 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:48:41
んで邪馬台国は九州であるという前提はどうなったい。

575 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:49:54
倭国大乱で連合政権内さえ統制できないのに、どうやってその
数十倍も人口あろうかとみられる本州を制圧できるのか、
キチガイとしか言いようがない。


576 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:54:23
邪馬台国は九州にしかない、そうしか書いてない。
では九州にあった邪馬台国の主権とは何かと論じているのです。
そこが一番の核心だと思うのです。

577 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:56:05
>>575
はい、そこで「邪馬台国は古代版一向宗説」が出てくるわけですよ。

578 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:58:30
>>577
なんじゃそりゃ?

九州のどっかにあった邪馬台国の植民地(?)が全国各地にあったとでも?

579 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 20:01:13
>>571
あなたは福岡南部、熊本、東北南部に多く存在する
装飾古墳群をどう解釈しますか?

580 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 20:05:01
>>579
東北南部ってどこですか?
福島、宮城あたりなら黒潮に乗った南部九州人がもたらしたってことで
説明ついちゃいますが。

581 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 20:20:04
装飾古墳
(そうしょくこふん)
石室、石棺などに彫刻、彩色を施して装飾された古墳の総称。
わが国の古墳時代には5世紀から7世紀にかけて、古墳石室の入口や内部、
石棺の内外面、および横穴の外壁や内部に、各種の文様や絵画を彫刻や
彩色で表す風習があった。それらの分布は福岡県南部と熊本県下にもっ
とも多く、全国の総数約300例のうち半数以上を占める。同じ九州でも
宮崎、長崎県下には少なく、鹿児島県下には発見されていない。本州
では島根県東部と鳥取県西部に集中し、畿内{きない}およびその周辺
にはきわめて少ない。東日本では相模{さがみ}湾周辺、および鹿島灘
{かしまなだ}に面した茨城県地方に多く、これに隣接する福島県東部
には集中的にみられる。それらの多くは横穴系に属し、北は仙台平野
北部の宮城県志田{しだ}郡地方に及ぶ。
 初期の図柄は主として直線と弧線を組み合わせた直弧文{ちよつこもん}
をはじめ、円、同心円、三角形、菱形{ひしがた}などの幾何学図形文を
表したものが多い。一方、5世紀前半ごろには、鏡や大刀{たち}、
短甲{たんこう}、靱{ゆき}、楯{たて}など、具象的な図柄が出現し、
やがて赤、白、黄、青、緑などの彩色も併用される。6世紀代になると
壮麗なものが多く、なかには被葬者に関する一種の物語風場面を構成
するものがあり、それらの意匠は横穴の表壁や内部に踏襲される。
その点、奈良県高松塚古墳の壁画は系流を異にし、高句麗{こうくり}
や唐文化の影響によるものであった。
 装飾古墳の起源を中国の後漢{ごかん}や朝鮮半島の高句麗壁画墓に
求める向きがあるが、無関係で、その目的には悪霊排除などの
呪術{じゆじゆつ}的な意味が考えられる。しかし6世紀後半になると、
大陸系の四神や日月、竜馬神話などが画題に反映し、思想的な影響が
あったことがわかる。

582 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 21:02:17
熊本と福岡南部は磐井の乱、南北朝時代、西南戦争まである程度
一蓮托生的な関係でやってきてるのだから、
おそらく倭国大乱の頃もこの関係があったものとみる
のが妥当でしょう。

583 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/14(日) 00:37:26
>>565
遅レス申し訳ないです。
盆入りの為何かと野暮ようが

当時の倭に対する中華王朝や半島郡の影響力はかなりあったと考えます
中華王朝や郡の乱れた時や冊封体制化が途切れた時等は必ず「倭」の情勢が乱れます。
それだけ普段から影響力があったと思われます。

それに、「倭」の争乱の原因の一つに 冊封体制下になろうとする利権争いがあると思います。
中華王朝に朝貢し、冊封体制下に入るということは、その交易利権を独占出来るというメリットがあるからです。

584 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 02:07:18
馬韓人は極めて先住系に近い民族、習俗だったようです、
馬は既にあったようですが、彼らは馬に乗ることをせずに
専ら副葬に使っていたようです(ペット?)
馬韓人は亡命してきた大陸の人に辰韓を与え、王を馬韓人から
選び天君と呼んでいたようです。
どうもこれが天皇制の始まりのようにみえます。
しかし、次第に辰韓には好戦的な北方渡来高句麗系の
民族が入ってきます。(扶余とも違うようです)
彼らは馬韓の風習を受け入れ出雲にも渡来したようです。
その内天君の地位おもをこの辰韓人が乗っ取り
新羅国を建国しました、更に倭へも渡来してきたようです。天孫族

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