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【保元の乱】河内祥輔vs元木泰雄【平治の乱】

1 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 09:50:11
近年タイトルに掲げた両氏の著書が刊行され、著しい研究の進展が見られる
保元・平治の乱について語るスレです。

本スレの課題図書
・河内祥輔『保元の乱・平治の乱』吉川弘文館 2002年
・元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』NHKブックス 2004年

兄弟スレ 2005年NHK大河ドラマ「義経」その3
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1114961650/

2 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 10:35:26
誰か、上の2冊の見解のどこが通説と違うのか、
新説なのか教えてくれ。系図の嵐で挫折してしまった orz

3 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 19:28:31
河内説は、クーデターを後白河上皇の教唆とする見解が従来と異なり、
元木氏はそれを批判的に捉えている

といったところジャマイカ?

4 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 20:01:02
元木氏は、信頼を再評価、義朝を比較的重要視しない・・という理解でいいのか。

5 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 20:47:23
河内は右翼じゃないかと疑いたくなるくらい天皇・上皇個人の存在や意志を重視しているな。
彼に言わせると、治承・寿永の内乱も皇位継承争いに還元されてしまう。

6 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 20:54:31
>>5
ホタテ氏の『平安王朝』以来、そういう視点のガクシャは多いな。

7 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 21:09:07
>>2
こんなんはかわいいもんでそ。
本トの系図の嵐ってのは、帆立さんの(ry

8 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 21:46:47
>>2
おおざっぱに言うとこんなところか?

河内
 保元の乱→後白河院・守仁親王父子と崇徳院・重仁親王父子の皇位継承争い(細部はと
もかく大筋は通説どおり)
 平治の乱→息子の二条院に政権を渡したくない後白河院が二条親政を支える藤原信西を
排除しようとしたクーデター。

元木
 保元の乱→後白河院をかつぐ天皇家主流と崇徳院をかつぐ摂関家主流との「複合権門」
同士のガチンコ勝負。
 平治の乱→二条親政派が源義朝を配下に持つ藤原信頼を引き込んで後白河院政派の藤原
信西を排除しようとしたクーデター。


「複合権門」というのは元木氏が提唱している新概念。公家・武家・寺社を一体に含みこ
んだ独自の権力体のこと。白河院・鳥羽院時代の天皇家や忠実・頼長時代の摂関家がこれ
に該当。摂関家は保元の乱で解体。天皇家も鳥羽院死後の混乱で解体に向かう。平清盛も
複合権門を目指したが失敗し、鎌倉幕府の成立で複合権門は消滅。


9 :2:2005/08/09(火) 22:30:54
うをっ、みなさんレスどうも。

河内氏は天皇・法皇の個人的権力を重視し、元木氏は天皇・法皇をも
含んだ「複合権門」同士の権力闘争として乱を捉えてるのかな?

「〜読みなおす」のあとがきで元木氏が言ってた河内批判はこれかぁ。

10 :2:2005/08/09(火) 22:33:00
>>7
それも途中で挫折しましたw
煎じ詰めればあの時代、みんな縁続きじゃん、と暴論。

11 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 22:51:33
>>10
>煎じ詰めればあの時代、みんな縁続きじゃん
いや、そのとおりなんだよ。
だから、要するに保立さんの「義経の登場」は暴論ということ。


12 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 09:29:35
あ、言っちゃったw
でも暴論はヒドイだろ。あの本だって有益な点はある。
系図がいっぱい載ってるトコとか、系図がいっぱい載ってるトコとか、系図が(ry


13 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 14:57:55
『史学雑誌』の書評か新刊紹介だったかな?
ホタテ氏の著作がけっこう辛らつに評価されてた記憶がある。
(『義経の登場』ではなくて)
個人的には系図好きなので、好きなタイプの研究手法だが、
さすがに首を傾げたくなるとこもあるなあ。

14 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 15:53:54
ホタテ氏の著書で以前
岩波ジュニアの通史書で平安全般を担当して書かれていたものは
こんな見方があったのかと関心したものだが、
「義経の登場」はかなり強引すぎる理論ry

15 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 18:54:17
大河義経スレからのお引っ越し組みです。
このスレ設立の経緯
そこで散々話題になっていた
平治の乱の後の関係者の処分について。
発端は、頼朝や牛若たちの処分を決定したのは本当に清盛なのか
でした。
結局それは朝廷の決定らしいこと、
牛若たちに関しては強制的な出家ではなく
常盤などの意志による自発的出家なのではないかということに話が向かいました。
その後、頼朝の助命や流刑に関して大議論になり
ここに独立スレが誕生しました。


16 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 19:38:18
>>15
そういった経緯をご承知の上で以下お読み下さい。

頼朝流刑がなぜ伊豆になったのかということについて
流刑地の空きがあまりなかったからではないのか
という意見がありました。

実は私は頼朝は朝廷から重要視されていなかったのではないのかと思っています。

永井路子さんの小説で
頼朝が流刑になった日
都人の関心は専ら経宗らにあって頼朝は眼中に無し。というような書かれかたをしていました。 
理由は、現在でいえば現役の内閣メンバーでなおかつ天皇の叔父である人物と、
警視総監にあたる人物が流刑となってしまった。
都人からみれば、一世一代の見物。
従五位を剥奪された14歳の小伜などどうでも良い。
でした。

日本史板に小説を持ち出すのは気が引けますが
永井さんのこの書き方、意外と当時の人はこのような見方をしていたのではないのかと思わせられます。

私自身も都の庶民や朝廷の人からみると
処分の重要度や注目性は
経宗ら>>>>>越えられない壁>>>>>>頼朝
という気がします。

17 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 19:39:15
岩波新書の「平安王朝」も視点は斬新だったんだけどな>保立氏

18 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 20:11:09
>>16
都の庶民や朝廷の注目度はそうであったとしても
武家の棟梁、乱鎮圧の最功労者、清盛は武士の立場として
頼朝、希義、常磐の遺児への処理に関して、どのくらいの重要視してたの?
やっぱりたいして気にしてなかったの?

また、仮にすごく重要視してたとして、清盛には彼らへの処理についての口出しは
あまりできなかったの?それとも朝廷がたいして気にしてないぶん、清盛の裁量で
決定できたの(建前は朝廷の名で決定だとしても。)

当方スレタイにある両者の文献は読んでいません。
素人的な疑問でお尋ねしております。

19 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 21:38:06
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1114961650/l50
にて散々ガイシュツなのですが

>頼朝、希義、常磐の遺児への処理に関して、どのくらいの重要視してたの?
やっぱりたいして気にしてなかったの?

1)平治の乱の当時の清盛と義朝の関係は
官位、経済力、都にての動員力で清盛が遥かに凌駕していた。

2)元木氏などの説によると源氏と東国武士の関係は今まで考えられていたより
希薄だったらしい

3)頼朝が流刑になった時で源氏累代の郎党で従うものが無いという位
源氏は完全に壊滅状態だったとみなされたらしい。

ということで、清盛にとってはそんなに彼らが気になる存在であったとは思えません。


20 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 21:38:42
>また、仮にすごく重要視してたとして、清盛には彼らへの処理についての口出しは
あまりできなかったの?それとも朝廷がたいして気にしてないぶん、清盛の裁量で
決定できたの(建前は朝廷の名で決定だとしても。)

1)実は頼朝捕縛当時平治の乱は完全に終結していなかった。
天皇親政派の首魁経宗、惟方が逮捕され信西の息子達が流刑地から召還される
という動きがあり、朝廷は未だに混乱状態であった。
しばらくの間朝廷は頼朝どころではなかったようである。

2)平治の乱の直後清盛はまだ参議にはなっておらず
朝廷の会議(陣定)に出席する権利を得ていない。
従五位下を有していた頼朝は清盛の独断で処罰はできず
おそらく朝廷の陣定で処分が決定されたものとみるべきであろう。
ただし、六波羅御幸、信頼・義朝討伐、経宗・惟方逮捕
など乱鎮定に功績があったため多少の発言力はあったかも知れない。

あとは、上記のスレのカコ議論をご参照ください。


21 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 21:38:45
>>18
たいして気にしてなかったから殺さなかったんだろ。かんたんな話じゃん。
仮に重要視していたとしても、義朝の遺児たちにはけっこう有力なコネがあったから、
あちこちから助命嘆願が来て殺せなかったと思う。
頼朝は上西門院、常盤の子どもたちは九条院とかね。
保元の乱で為義の子どもがほとんど殺されたのは藤原信西の命令があったから。もともと異例の処刑。
平治の乱ではそれがない。

22 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 21:42:36
>>21
為義の非戦闘員子供たち(乙若たち)が処刑されたと記されているのは
「保元物語」のみで(「吾妻鏡」では自殺)
「兵範記」などには書かれていないので
フィクションの可能性がある。

戦に参加した為義の子供たちは処刑されているが
その子(為義の孫)たちはその後八条院などに仕えていたりするので
刑罰対象外だった可能性がある。

23 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 21:43:29
>>16
>>実は私は頼朝は朝廷から重要視されていなかったのではないのかと思っています。

経宗・惟方に比べれば、頼朝は取るに足りない存在だったのは理解できますが、
それでも、元スレで誰か書いていたように、

頼朝は、戦闘に参加しているから、死刑の可能性大なのに、父義朝の知人が多い関東に、
希義は、戦闘に加わっていないから、悪くても流罪止まりなのに、知人も縁者もいない辺鄙な土佐に。

これを対比すると、公平を欠くというか、アンバランスというか、著しく不自然だと思うです。
流刑に適した土地は、伊豆以外にもあり、
死刑になるところを罪一等を減じられた頼朝は、佐渡・八丈島・隠岐・喜界が島といったあたりになるのが自然です。
義朝の嫡男である頼朝を、わざわざ義朝の本拠地であった関東へ流したのはなぜか?
という疑問に、納得のいく回答がまだありません。
元スレで、頼政の計らいだったという説が提示されましたが、その頼政は当時伊豆守だったかどうかは、まだわかっていません。

河内と元木の論争(?)には関心も知識もありません。
漏れも素人です。

24 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 21:53:01
>>23
律令上では伊豆は佐渡や隠岐などと「同等な遠流の国」なのです。
都の人から見れば
「罪人は遠くに行ってくれれば」それでよく
行った先が半島だろうが離島だろうが関係ないわけです。

当時の都の人からみれば「伊豆」は十分に遠い重罪人が行くにふさわしい
土地であったと思います。

また、頼朝の先祖義親は隠岐に流罪になっても謀反を起こしていましたから
「離島だから安全」ともいえず
叔父の為朝は九州で狼藉行為を行っていましたし
希義も在地の有力者を味方につけることができましたので
「西国だから安全」とも言い切れないと思います。
頼朝の場合は運が良かったのと時流に上手く乗れたこと、
政治力、人脈が生きた結果であって
後の事も必然的な結果であるとは言い切れないと思います。

第一、鎌倉幕府が成立したのを知っている我々は
頼朝を伊豆に流す危険性が判りますが
一門壊滅した頼朝が挙兵してその後の歴史を変えるなど
誰もおもわなかったでしょう。

25 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 21:55:09
>>22
>>為義の非戦闘員子供たち(乙若たち)が処刑されたと記されているのは
>>「保元物語」のみで(「吾妻鏡」では自殺)
>>「兵範記」などには書かれていないので
>>フィクションの可能性がある。

為義の幼い子供たちの処刑は、
遅れて捕縛された為朝が流刑になっているのと比較して、アンバランスだなぁと、漏れも思っていました。
だけど、幼い子供が、自分の意志で自殺するかな?という疑問もありますね。
やっぱり強制自殺ではないでしょうか?

26 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 22:09:15
かなりの推測で話します。
平安時代前期の伊豆流刑者

橘逸勢(皇位を巡る政争の敗者)
伴善男(応天門の変の黒幕にされた)
などの大物?が輩出しています。

しばらく時代が下っても
呪詛やなにやらで伊豆に流刑になる人は後を絶ちません。
また、保元の乱の敗者藤原頼長の息子のうちの一人も伊豆に流刑。
平治の乱では頼朝のほかに信頼の嫡男が伊豆に流刑。
比叡山の座主明雲も伊豆に流刑の宣告(実行せずだったが)

つまり、伊豆は流刑地としてはポピュラーであり
数多くある流刑地の中でもっとも「罪の重い人物」が来るところ
だったのではないのかな?
なんて思います。

27 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 00:06:52
>>23
>義朝の嫡男である頼朝を、わざわざ義朝の本拠地であった関東へ流したのはなぜか?

義朝の旧臣だからといって、必ず頼朝を支持したとはかぎりません。例として、山内経俊の例を挙げます。
彼は頼朝の乳母子でありますし、隣の相模国に父が義朝の紹介で領地をもらっていたにもかかわらず、
頼朝の旗揚げには加わらないどころか、石橋山では彼に弓を射掛けています。

つまり、義朝の本拠地の近くにいる、というだけでは、頼朝は別に危険な存在ではないんですよ。
それは、平治の乱前後の「武士の棟梁」のありようにかかわっています。

義朝の武力というか、義朝を支持していた武士団というのは、義朝の配下であると同時に、
国衙の在庁官人であったり、いずれかの権門に属する荘官であったりしたわけで、
義朝は当初は摂関家の家産機構を媒介に、やがては鳥羽院近臣や美福門院を通じて、
鳥羽院に近づくことによって、彼らを配下に組織していった、と元木氏はこのスレの課題図書(笑)でも
のべておられます。その結果、摂関家から離れ、為義を追い抜いて下野守に任官できたわけですね。

つまり、この時点での「武士の棟梁」の地位は、中央の権門(それも院やら摂関やらのトップクラス)の支持が
あってのこと、なわけです。
よって、中央での罪人である頼朝に武士団がついていくという事態は、中央がしっかりしているかぎりありえないんですね。
三浦や千葉、伊豆の武士団が頼朝をかついで反逆したのは、治承三年クーデターによる中央の混乱と、
平氏の知行国大量獲得により、彼らの領地が脅かされたから、と考えられています。

結局、「頼朝が伊豆にいた」ことが重要になったのは、彼が流された20年後の政治情勢の変化と、地方統治の構造変化の結果に
よるもので、平治の乱直後にそれを見通せ、というのはムチャな話と思います。


28 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 06:35:36
山内首藤氏については山内家文書の山内首藤氏系図(『大日本古文書』家わけ)
の家通の注記「平治元年源平京都合戦之間、搆源氏兵、於武蔵国滝河、外嶋権守被誅畢、」
から、平治の乱で義朝に敵対したヒトすらいた事が分かっているね。
まあ真逆の理解もあるのだけど。

29 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 08:26:20
>>23
>死刑になるところを罪一等を減じられた頼朝は、佐渡・八丈島・隠岐・喜界が島といったあたりになるのが自然です。

前にも書かれているようですが
島流し>陸続きという図式は平安時代にはなかったと思います。
罪人の「島流し」が一般的になったのは江戸時代のようですし。
ちなみに、八丈島流人第一号は関が原で西軍にいた宇喜多秀家だったと
記憶しております。

>>26のように天皇に関することや国家反逆という一番罪が重い人や
死刑を減刑されたような人は伊豆に行くのが当時の常識だったかも知れませんね。


30 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 08:43:29
>>25
強制自殺の可能性もありますね。
元木氏は報復をおそれた義朝の個人的処置があったかもしれないと書いてます。

ところで不思議なのは、
乙若たちの母とされる人物は「吾妻鏡」によると
義朝の側室の青墓長者大炊の姉妹らしいのです。
(よく青墓の側室は「延寿」とされているが、これは後世に書き足された
「平治物語」の誤謬で、「吾妻鏡」や古態本「平治物語」では側室の名は大炊)

この家族構成を見ると
父 内記平太 相模国でなにかの争いに巻き込まれて死亡
男子1 乙若の守役(乳母夫か?)
男子2 玄光法師(逃亡する義朝を助ける、後に平治物語に出てきた女性と結婚)
女子 為義室 (乙若ら4兄弟の母)
女子 義朝側室 (青墓に住んでいたらしい女子一人の母 この女子は通常夜叉御前とされる女性
        「平治物語」(除く古態本)では平治の乱の時自殺したことになっているが
        「吾妻鏡」では、上洛する頼朝と対面したとの記事があり)

いったい源氏とはどのような関係だったのか
不思議な一族です。


31 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 15:12:21
>>30
為義室(本妻ではないだろう)と義朝側室が姉妹と聞いて
親子で、そんなところで張り合っていたのか!とおもた(w

32 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 19:01:44
>>30
>父 内記平太 相模国でなにかの争いに巻き込まれて死亡

愛甲内記平大夫は相模国愛甲荘の「六条判官殿御代官」だったが、隆兼に殺害される。
六条判官殿は近江国の「伊加磨菰先生守末」を大将軍として東海道十五カ国の武士で
隆兼を攻めたが戦線は三年間膠着。
しかるに「秩父権守重綱」「三浦平太郎為次」「鎌倉権五郎景政」に仰せて攻めたところ
隆兼は京都に参じて降参。
六条判官殿から白弓袋と愛甲荘を給わった。

以上、「小野氏系図」横山野大夫隆兼の注記より。
「六条判官殿」は言うまでもないよね。

33 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 23:30:46
>>24
>>26
>>27
>>29
いつも丁寧に教えてくれて、サンクスです。
反論を考えているのですが、知識不足のために、堂々巡りでうまく書けない(泣き

流刑地としての伊豆については、わかりました。
ただ、「念のために―」、ここははずそうという考えがありえそうな気がするが、
義朝の敗北が壊滅的だったことが、頼朝に甘い判断になったのでしょうか。

坂東武士については、自己の利害で動くのは当然で、しかし、
坂東武士全体の政治的要求のための神輿として源氏の血はやはり有効だったと思います。
彼らの中で最大勢力だった上総、三浦のような豪族が主導権をとろうとしてもうまくいかなかったのだろうと想像します。
自分たちの土地争いを裁定するには、自分たちと同程度の同類では駄目で、
貴種というか、中央の権門にも繋がりうる権威的な存在。
それを中心に、半独立的な自分たちの「政府」を造りたかったのではないかと思います。
「政府」ではなかったが、義家・義朝の元ではうまくまとまっていた、その記憶が残っていた。

また、平家全盛の世においては、反源氏的態度をとることも生き残りのためには必要で、
頼朝の乳兄弟のような縁の深いものならば、疑いの目で見られるので、なおさらで、不思議なことではない。

頼朝は慎重であったことと、平家の権勢が絶大だったために、政治状況の変化を20年待ったわけですが、
あるいは義親・為朝・義仲・義経のような性格の人だったら、もっと早く事を起こしたかもしれない。
伊豆の地の利と、坂東武士に残る父義朝の記憶だけを頼りにもっと早く挙兵したかもしれないです。
まあ、失敗しただろうと思いますが(w

やっぱり堂々巡りな感じ、、、(苦笑

34 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 00:07:13
頼朝が慎重だったために政治状況の変化を20年も待った、ねぇ・・。
そういうのって後世の人間が結果論で言ってるんであって
たまたま時期がやってきたと言う方が正しいんじゃないのかなぁ、少なくとも頼朝にとっては。

どう?

35 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 00:36:44
とにかく>>33はもう書き込むな。目障りを通り越して痛々しい。

36 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 01:09:36
>>33
先ずは課題図書を読んで、な。
話はそれからだ。

37 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 01:58:35
>>33
>>27でも書いたけど、
>>34氏が書いてるのがただしいんですよ。そもそもあなたが「先に反乱してたかも」とおっしゃる
義仲も、挙兵を治承年間まで待ってたんですから。

治承・寿永の内乱は、全国で同時多発的に起こってます。
確かに、頼朝の放棄は最初期で最大のもののひとつですけど、
富士川合戦以前に、熊野、近江、甲斐、木曽義仲、南都などは既に叛してます。
富士川合戦以降は、美濃、近江、河内、伊予、肥後、豊前など西国にも飛び火します。

たしかに、「頼朝が蜂起に成功した」のは、関東に三浦・千葉・上総など義朝の息のかかった
連中がいたのは確かです。
最終的に頼朝が勝利したのも、彼個人(とその周辺)の能力が高かったからなのは確かでしょう。
けれど、「関東で」反乱がおきた理由は、「頼朝がいたから」ではないんです。「関東武士団がいたから」
ですらない。上のように、全国で反乱が同時多発的におこるだけの中央政局の激震があったんです。

「頼朝が蜂起に成功したこと」「頼朝が最終的に勝利したこと」と、
「関東で反乱が起こったこと」
この3つを混同してらっしゃるのが、あなたの疑問の原因なんです。

38 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 02:13:41
>>33
>念のためにここははずそうという考えがありそう

んー現在の考え方ならその通りですし、例えば「その国に領地をもってるやつを
国司にしない」とか「西国なら平氏が勢力もってるし、源氏だとそれがないから、
平氏に西国の鎮定をさせる」という政策もあったので、完全には否定しませんけど。

当時の朝廷にはもっと重要なファクターがあって、
それは「前例の踏襲」です。(昔は「貴族の退廃のあらわれ」なんていう人もいたなぁ)
それも「前例通りにやっとけ」という今のお役所仕事ではなくて、
「前例通りにやるのが、政治の目的だ」という信念が彼らにはあるのですね。
今の「民意を反映するのが政治だ」と同じくらい強い信念です。

だから、「前例通りの先」というほうが、「そこはまずい」という考え方よりも、
当時の思考法として説得力をもつわけです。



39 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 04:56:05
>>33さんが、次々とご反論したくなるお気持ちも分からなくはないのです。
「源氏vs平家」や「頼朝と坂東武士団の勝利」という図式が長いこと常識だったのですから。
しかし、この上記の見方が過去のものになりつつあるというのが現実です。
まず「源氏vs平家」についてですが
1180年以降の内乱は「治承・寿永の内乱」と呼ばれ、
以仁王の命旨発行から、奥州征伐までの一連の内乱を指すようになっています。
この間、地方勢力が中央にたいして各地で反乱を起こしたり、どさくさに紛れて官物を納入しなかった勢力があったり地方勢力同士のせめぎあいが起こったりしています。
決して頼朝が全国を統一するする為の期間や単なる「源平合戦」と評することはできません。
全国規模の内乱が各地で発生し、
頼朝以外のだれでも、全国を制圧する可能性があり
または全て鎮圧される可能性もあった。
頼朝と彼を担ぎあげた勢力がいくつかの幸運と能力の高さで たまたま 勝利を収めただけに過ぎません。
むしろ、全国的な内乱状態で、官軍=平家が鎮圧に勢力をそがれる状況でなければ
頼朝たちの勝利は決してなかったでしょう。
頼朝と坂東豪族の挙兵だったら簡単に鎮圧されたでしょうし。

全国規模の内乱で官軍の兵力が分散され、消耗され戦いが長期化したからこそ彼らの勝利があったのです。

おっしゃる通り、坂東武士が担ぎあげるのに頼朝は最適な人物だったことは事実です。
また、頼朝以外の人物が旗頭であった場合、彼らをまとめられたか、朝廷とうまく交渉できたかどうか、最終的な勝利が得られたかは疑問です。
しかし、頼朝がいなくても彼らはどこからか「以仁王の令旨」を得た人を連れてきてでも挙兵したかも知れません。
旗頭は資格があれば誰でも良く、どこからでも準備できたと思います。
つまり、頼朝の流刑が伊豆だったのが彼の挙兵成功に大きかったことは事実ですが、あくまでも結果論にすぎず
坂東と彼の血統とのつながりのみを重視する考えは
後の結果から産まれた幻想に過ぎないということです。

40 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 08:25:14
>>37-38 >>39はきっとクソがつくくらい真面目でいい人なんだろうけど

ここまで来ると流石に鬱陶しいな

41 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 23:40:28
これだけ言われてもまだ>>33が納得しないようなら精神病院に通報しよう。

42 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 15:48:35
以下は>>33氏に限った事ではありません。あしからず。当然念頭において書いてはいますが。

課題図書として河内・元木両氏の著書を掲げたのは、現状での到達点を踏まえた上で
議論が出来ればと思ったからです。
それをご斟酌頂き、最低限両書を読んだ上でご参加いただければ、より生産的な
議論になるものと考えます。

敷居を高くし、スレを過疎化させかねない提言であるのは承知していますが、是非
ご一考いただければ幸甚に存じます。

43 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 20:06:35
>本スレの課題図書
>・河内祥輔『保元の乱・平治の乱』吉川弘文館 2002年
>・元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』NHKブックス 2004年

結局誰も読んでないの?


44 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 23:40:21
>>43
下のは読んだけど、どこが独創的なのかよくわからん。
高校日本史+αていどの知識しかないが、通説とたいしてかわらんのでは。

45 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:12:34
>>44
『保元・平治の乱を読みなおす』で信頼の認識が変わった。
それに平治の乱でも清盛・義朝が脇役という解釈も。

「はじめに」に河内氏の説を含め、従来の説に対する元木氏の
反論が書かれていた。


46 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 09:20:29
>>46
通説だと
平治の乱が
信西・清盛同盟vs信頼・義朝同盟であるが

両方書とも
信西と清盛の同盟関係は無しに等しく
清盛は当初は中立
という解釈だった。

47 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 04:35:35
>>1


48 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 09:15:48
ところで
保元の乱の戦闘状態に関して
指揮官に死傷者がいないところをみて
河内氏は崇徳院のみがらを案じて大した天皇方は大した戦闘行為を行わなかった
としているが
元木氏は、指揮官クラスが死傷しないのは当然として
それなりの戦闘行為があったと見ているようです。

みなさんはどのようにお考えですか?
ちなみに、平治の乱では
戦力的にかなり劣る義朝勢は一門以外ではかなりの死傷者が出ているようです。


49 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 14:55:37
>>48
本当に崇徳院の身を案ずるならば、
夜襲や放火は行わない気がする。

50 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 22:40:20
正しく、河内著書の河内著書たる、胡散臭い部分だよねー。

51 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 14:01:08
ところで、河内本に「角田文衛」さんが唐突に登場。
例の待賢門院の生理周期に関する論争のいろいろな著書が紹介されています。
学者ってこんなことまで研究するんだ、のいい見本。

この時代ウホッをマジメに研究している著書もあるし。

52 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 20:53:07
マジメにやってれば何をしても許されるというわけではない。

53 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 01:09:26
ウホッてのはアレだ、アクサフ様の
「今夜は義賢にヤられちゃった。すっごくヨかった。」だな。

角田翁の「叔父子」の件は、最近美川Kの論文が出たよネ。

54 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 05:17:25
「無礼に及ぶも景味あり」だっけ。
妙に生々しい表現だよな。


55 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 22:13:23
故棚橋氏の

頼長は、この剛の者をも寝所に組み敷いた。
……いや、正確には組み敷かれた。

てのにワラたよ。

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