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【石田三成】 関ヶ原の戦い 七 【福島正則】

1 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 09:45:01
前スレ
ttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1115166136/

2 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 09:46:33




3 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 09:47:11



4 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 09:47:43



5 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 09:48:17
囲碁

6 :大和天狗:2005/08/20(土) 12:30:47
弟子よ
鞍馬天狗よ
西軍の作戦を考えることで
お前の徳川オタクが完成するのだ
そしてそこから卒業でき
お前は新たな一歩を踏み出すのだ

7 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 15:21:04
前スレの最後のほうの徳川軍の構成に関する話はなかなか面白かった

8 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 20:19:40
>>7
うーん。
そこまで弱体ではあるまい関ヶ原の徳川本隊は。

あれは西軍厨が西軍に勝算ありの理論をつくるのに
徳川隊が強かったら困るという理屈で編み出されたものとしか思えん。

9 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 22:18:00
まあ、使い勝手が悪かったのは事実だと思うけどね。
少なくとも後方での予備戦力としては全く申し分ない、
予備戦力が全く存在しなかった(あえて言えば島津の3千ほどのみ)
の西軍とは比べようもないのも間違いないだろう。

10 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 23:03:01
島津と徳川は烏合の衆。第一線では使えない。
最後まで使わないにこしたことのない戦力。
どうにもならなくなった最期のみに使う戦力。

11 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 23:16:57
島津は3千もいないだろう、
千5百くらいではなかったか?

12 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 23:27:09
>>11
島津は実数不明

13 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 00:23:25
島津どころか、東西両軍とも実数は不明だって

14 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 00:31:31
>>8
イマイチそっちの立場の根拠がわからないんだがなあ
前スレでも「家康は名将だから問題ない」とか「指揮官厨ウザイ」とか
わけわからん反論しか挙がってなかったし

15 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 02:28:07
家康の3万が精鋭なら、小早川の寝返りなど無くても勝てるはず
しかし
家康の3万が烏合の衆に過ぎないならば、小早川が動かないと勝てないだろう

16 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 04:14:26
家康本陣に3万もいたのか?
秀忠が3万8千,秀康他の宇都宮に1万5千〜2万,井伊と松平忠吉で6千
これだけで6万なんだが…
ちなみに関ヶ原前の徳川の石高は255万石

>>15
昼過ぎに小早川と4将が裏切るまではそんな悠長な戦況ではなかったが?
当初は毛利を警戒し押さえとして残していた有馬や山内を前線へ投入
までしている
手元の駒は全て使い果たし、後は自信が本陣を前線方向へ移動する以外
になかった
西軍はというと毛利や小早川という最大の駒が残っていたとも言える
毛利はともかく小早川と脇坂4将が西軍として動いたとして、東軍が
支えきれる理由が見つからないだろ


17 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 05:40:03
>>16
万石あたり300人で計算すると7万6千くらいまでいけますので。
秀忠軍も全軍が徳川譜代ではないし、
結城秀康は徳川とは別の大名として計算するので、
関東における徳川軍の数はもっと少なかったと思われるので、
大体そのくらいの範囲におさまるでしょう。

18 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 08:29:33
>>16
秀忠の率いた徳川軍を三万一千として、関東東海の守備に六千、
関ヶ原の別働隊に七千、赤坂守備に三千ほどとすると、家康の
兵力は三万弱となる。関ヶ原合戦記では家康の兵力を三万二千
としているらしいが、時期的に松平忠吉や赤坂の守備兵力を含
んでいる可能性があるので、二万五千くらいだろうか。

19 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 09:13:41
>>14
は? わけわからん奴だなあ。
なにがあろうが「3万の大軍」は「3万の大軍」で
その戦闘力がたいした事ないなんてありえないって言ってるんだよ。

「わけわからん反論」がどうこう以前に
あんたの主張自体が「わけわからん主張」なんだから、しょうがないだろうが。
勝手に一人よがりのソースに乏しい非論理的な主張しておいて
反論してきたら「わけわからん反論」とか返すのは意味がないぞ。

そもそも「関ヶ原の徳川軍の編成に問題があった」という主張自体が未だにソースなしなんだしさ。
まず、その主張のソースをURL付きで出してみろ。

20 :参考までに:2005/08/21(日) 09:57:20
第二次大戦での話しだが、
バルジ大作戦の時の米軍は通信が寸断され、ぐちゃくぢゃになった中で小部隊が各自の判断で戦い奮戦したし。
ドイツやソビエトや日本も各部隊の連携や通信がぐちゃくぢゃになった状態でも、良く戦ったというケースが多いぞ。

ちなみにドイツ軍の強さは下士官の優秀さにあると言われ、下士官が他国の士官なみに優秀だったと言われる。
第一次大戦で敗れたドイツは陸軍の定数に上限が授けられたため、
陸軍の兵員全員を下士官にする教育を行い。さらに最低でも小隊の士気を取れるように徹底養成したという。
ドイツはそのため第二次大戦が始まると優秀な下士官が各自の判断力を生かし優勢に戦えたという。
つまり係長や主任が優秀なら、そんなには中間管理職はいらない。

三河兵は歴戦の勇士で家康への忠誠が強く、戦意も旺盛だった。
小部隊の集まりでも他軍に遅れはとらないだろう。
家康は寄親程度の小身の武士の処遇や交流にも気を配ったというしね。
実際、徳川軍は一向一揆、姉川、対北条戦、対秀吉戦と倍する敵軍を撃破し続けた闘いが多い。
ちなみに三方が原でも損害は武田の方が多かったという説がある。

21 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 10:05:32
長々、書いたが
別に中間管理職の有無がそんなに組織の優秀さには影響しないという事だ。
実際、社長・重役の下はすぐに係長クラスといった、合理的編成の会社も最近、出てきていると聞いた。

例え小部隊であろうと、それぞれが忠誠心高く旺盛な戦意と優秀な指揮能力のある武士が率いていれば問題なし。
歴戦の徳川軍には見事にそれが当てはまる。

結論
関ヶ原の徳川本隊は大身の武士が少なく小身の部隊の集まった超精鋭部隊であった。
少なくとも小大名でしかない真田一つ排除できないような秀忠隊3万8千よりも格段に強かったと思われ。

22 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 10:20:10
>>21
家康の部下の問題ではない。家康の問題なのだ。

23 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 13:47:11
>>1 テキトーに立てんな、なんだこのスレタイは
福島正則ってなんだ?

過去スレ
http://academy.2ch.net/history/kako/1029/10297/1029702262.html  (消失)
【石田】 関ヶ原の戦い 弐 【三成】
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1043182426/
【石田】 関ヶ原の戦い V 【三成】
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1056815897/
【石田】 関ヶ原の戦い W 【三成】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1084261407/
【石田】 関ヶ原の戦い V 【三成】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1102935074/l50
【石田】関ヶ原の戦い 六【三成】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1115166136/


24 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 15:27:34
秀忠が関が原に到着していたら、どこに布陣していたのだ?

25 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 17:20:52
>>24
「家康本隊、意外に弱い」説の本家、笠谷和比古氏の説によれば、井伊直政・松平忠吉がいた辺りがそうあ
るべき位置だということです。氏によると井伊・松平隊は秀忠の連れている部隊の代理というか当て馬という
か、そんな存在なんだそうです。
秀忠が予定通りの場所に布陣した場合、「旗本備」である家康の直率部隊が小身ばかりでも軍制上矛盾は
ないというか、本来あるべき「徳川家主力軍」となるという大意であります。
出典:『関ヶ原合戦』(講談社選書メチエ 1994年刊)146ページ等

26 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 18:26:38
>秀忠が予定通りの場所に布陣
これの根拠を知りたい

秀忠が予定通りというのも、根拠がわからないし
予定通りの場所に布陣というのも根拠不明

27 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 19:47:24
>>26
著者に直接聞いておくれ。

28 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 21:10:27
「真説 関ヶ原合戦」のP126〜142はどうですかね。

29 :金吾秀秋:2005/08/22(月) 03:09:01
【金吾】関ヶ原の戦い 七【秀秋】にしたかったがな(´・ω・`)

30 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 03:13:09
>>27
秀忠隊が徳川本隊というのは、昭和58年の大河ドラマ徳川家康でも
やっていたので、そうとう昔からある説では。

31 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 10:06:34
>>9
西軍の予備戦力は、裏切りますた。

32 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 10:09:12
>>31
裏崩れ

33 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 21:06:35
>>30
そんなに昔からある妄想なのか・・・。

34 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 18:35:37
>>33
世に馬鹿の種は尽きまじ、ってことさ。

35 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 16:19:27
3 名前:ο丁児 ◆71izTCnSlI [sage] 投稿日:2005/08/24(水) 14:52:28
関ケ原に三成を家康がおびき出した。と言われてるが、布陣図を見るかぎり、どうみてもおびき出されたのは東軍だねぇ。
あといつも思うのは「野戦決着」について

家康はなんとしても野戦で短期決着をつける必要があった。
だって大坂城と秀頼が西軍の手に渡っている以上、長期戦になれば離反者もでるだろうし、へたすれば賊軍とみなされる恐れもある。豊家が朝廷を動かし、朝敵とすることも考えられ、
とにかく家康にとって長期戦はもっとも怖れていたことでしょうねぇ。
しかし一方、三成のほうはどうか?
たしかに西軍も烏合の衆にすぎないが、なんといっても「秀頼」という統合出来る存在がある。
しかも西軍はほとんど西国大名の集まりなので、自分の領土が東軍領を囲まれるという心配もなく、長期戦の場合、兵站輸送も自在である。(逆に東軍の細川家などは最悪。
自領は包囲され開城。大坂屋敷は妻とともに灰になった。このような情報を耳にして東軍諸将は長期戦に耐えられるだろうか?)
とにかく三成は城に拠って、守りを固くし守ればよかったのだ。さすれば東軍は自然と瓦解する。
よく籠城は援兵あってこそ意味があるというが、まさにこの場合は大坂の陣の時と違い、援兵だらけ。守りを固くするだけで、まず勝利は間違いなかったのだ。


36 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 19:01:33
家康が先に笹尾山に布陣することはできなかったのか?

37 :金吾秀秋:2005/08/25(木) 03:03:57
漏れ様の靴を舐めれば、松尾山に布陣させてやってもいいよ(´・ω・`)

38 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 03:13:39
靴なんてはいてたのか?
ハイカラな奴だな。

39 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 10:52:30
>>35
西軍厨、乙。

40 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 19:39:16
>>37
そりゃあいち早く三成が布陣しちゃったからね。
東軍が西軍を誘き出したというのが事実なら、
東軍はあえて動きを鈍くしたのかもしれないが、
その結果敵陣を攻めあぐねてしまうようではちょっと締まらない話だ。

いずれにしろ、少なくともこの時点では三成は東軍から一本取ったと言っていいように思う。

41 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 21:09:31
家康が先に笹尾山に布陣していたら、どうなったであろうか?

42 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 07:22:44
>>40>>36宛ね。

43 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 22:29:48
来週の「その時歴史は動いた」は石田三成特集らしいですね。
三成の名誉回復番組とか。



44 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 22:55:24
>>35
西軍は関ヶ原で敗れても、大坂城に逃れて体勢を立て直すことが
できたはず。だが、そうした形跡はない。
別に東軍が妨害したわけでもない。島津義弘なんかは大坂城に
辿り着き、入城を打診したが無視されている。
淀・秀頼が本当に三成方だったのか? もしそうなら、
豊臣系武将が家康に味方しただろうか?
淀が家康と内通していたという説がある。淀が毛利輝元を大坂城に
足止めしたとも言われる。

後年大坂の陣で徳川方の主力として活躍した者の多くは、かつて「親三成派」の
武将たちであった。三成の仇という感情が少なからずあったのではないか。



45 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 22:56:39
立花宗茂が関が原に間に合っても、大勢に影響はなかったの?

大津城は囲むだけで良かったのに、勿体ないな。

46 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 22:56:47
>>41
大勢に影響が無いとのでは?

47 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 02:05:42
>>45

立花宗茂が本気で戦えば、そりゃ西軍にとってはさぞ頼もしいだろう。
小早川隆景曰く、立花隊の3千は1万に匹敵するって言われた程の強さだしね。
しかし着陣しても本気で戦ったとは思えないな。

関ヶ原の合戦で西軍が勝利する条件としては、毛利勢が戦う事が必須だったと
思われる。小早川やその他の裏切りや長曾可部の日和見の原因も
毛利の戦意の無さの現れだろう。吉川が動かなかったためとは言え、結局弁当食ってた
だけだからな・・・

48 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 07:49:26
>>47
いや実を言うと立花はやる気のない西軍の中で
かなりやる気のあった武将で、
西軍についたのも確固たる信念からくるものであって、
関ヶ原に連れてくれば奮闘したと考えられてるよ。

49 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 10:33:01
>>47
広島に帰ろうとする輝元に「大阪城に籠城して戦え」と強硬に主張したのでは?

かなり本気(強硬派)ですよ。

50 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 10:42:04
秀元はそんな主張してません
そう主張したのは島津義弘

しかし、毛利側からの返答が無かった為、さっさと薩摩へ帰国しましたとさ


51 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 14:43:30
>>45
立花宗茂は規定の軍役人数(3千人)の倍ぐらいの人数を率いて参陣していたというから、やる気はじゅうぶんだろう。
立花宗茂が間に合っていたら、関ヶ原合戦はどうころんだかか不明と思われ

52 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 14:59:50
不明ではない。
毛利が西軍に付いたからみんな参加したのさ。
それなのに毛利(輝元)がやる気ないのでどう転ぼうと負けだね。
ちなみに吉川が東軍を攻めていれば勝てたよ。

53 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 18:51:47
小早川が西軍を攻めていても、吉川が東軍を攻めていれば、西軍は勝てたか?

54 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 18:52:50
IF厨ウザイ。

55 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 19:00:27
>>38
みんな靴くらい履いていただろ。
草履や草鞋や裸足は、下っ端の人間だけ。

56 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 19:07:25
1600年にみんな靴くらい履いてたのか・・・

57 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 19:29:56
戦争は、もののはずみでどっちへでも転んでいくもんだからね。
現実は、無数にある選択肢の中のたった一つにしかすぎない。
その意味では、残された選択肢の可能性を検討するのは無意味ではないでしょう。


58 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 19:38:19
もののはずみで吉川が東軍を攻撃するらしい。
IF厨の正当化はバカ過ぎるな。

59 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 19:41:27
もののはずみで宇喜多が東軍に寝返った
もののはずみで毛利が西軍に攻撃始めた
もののはずみで三成が挙兵しなかった
もののはずみで前田が南下してきた

60 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 19:44:40
もののはずみと言えば、何でもあり

もののはずみで三成がガトリング砲あったら

61 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 19:46:15
もののはずみで大坂城が浮遊要塞。

62 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 19:51:49
もののはずみで大谷吉継が人造人間に
もののはずみで千葉真一率いる陸自かと疑問に思わせる戦国自衛隊が現れたら

63 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 19:59:21
もののはずみで石田三成が東軍に寝返ったら。
もののはずみで徳川家康が西軍に寝返ったら。
もののはずみで豊臣秀吉が蘇生したら。

64 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 20:34:46
もののはずみで長島巨人軍が西軍に参加
もののはずみでジーコジャパンが西軍に参加

65 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 20:36:47
>58
家康ドキュンとなったらやるやる
裏切りするヤツは、裏切りの裏切りなんて朝飯前w

66 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 20:38:13
裏切りするヤツは、裏切りの裏切りなんて朝飯前w
裏切りするヤツは、裏切りの裏切りなんて朝飯前w
裏切りするヤツは、裏切りの裏切りなんて朝飯前w
裏切りするヤツは、裏切りの裏切りなんて朝飯前w
裏切りするヤツは、裏切りの裏切りなんて朝飯前w
裏切りするヤツは、裏切りの裏切りなんて朝飯前w
裏切りするヤツは、裏切りの裏切りなんて朝飯前w
裏切りするヤツは、裏切りの裏切りなんて朝飯前w

吉川広家は最初から東軍

67 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 20:43:02
もののはずみで家康ドキュン。

68 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 21:03:14
もののはずみで靴履いた

69 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 22:56:49
>>67
隆慶一郎だわなw


70 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 23:39:01
三成は負けた時に大阪へ逃げずに佐和山へむかおうとしたのでしょうね、
本人の供述がないので謎でしょうけれど

71 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 00:13:06
>>56
ttp://www.rakuten.co.jp/yoroi/117807/122181/

72 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 01:03:30
もしかして>>71は靴履いてるだろと言いたいのですか?

73 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 01:52:20
やっぱり毛利(吉川広家)が戦わなければ勝てなかったでFAだな。

74 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 02:12:36
>>53
勝てただろう。吉川が戦う=毛利勢2万+長宗我部6000だからね。
長宗我部の兵は島津と並んで関ヶ原で戦った中では格段に強いし。
合戦好きで通ってた長宗我部がよく毛利に付き合って日和見決めこんだのが
不思議でしょうがない。

ただ、関ヶ原で家康の首が取れなければ・・・やっぱり家康の天下になってただろうね。
後積めの秀忠軍3万8千も残ってるしね。

75 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 02:15:08
宇喜田秀家カワイソス(´・ω・`)

76 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 08:18:16
>>74
小早川が西軍を攻めてもって条件ならそりゃあ無理。
前面の敵と戦いながら側面からも攻められることになる西軍に比べて、
東軍には毛利の押えのために温存されていた1万余と、
家康本隊3万の予備軍という戦闘未参加の兵力がある。
小早川も吉川も東軍を攻めたらという条件ならともかく、
小早川は西軍を攻めるという条件では、西軍より先に東軍を崩すのは全く不可能。
というか、崩すこと自体がほぼ不可能。

77 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 09:53:54
徳川本隊が戦闘未参加という前提は間違いだろ。
南宮山への抑えとして配置していた諸将まで投入しているのだから、
徳川3万(本当に3万もいたとは思えないが)からも、かなりな数を
投入していたと考えるのが妥当と思う。

それと、小早川隊が大谷本隊・平塚隊・戸田隊に押し返されていた
(これは地形からみて充分に有り得る)し、藤堂隊・京極隊も大谷
吉勝隊・木下隊を相手に「諸隊は大谷先鋒と戦えども、利を失いて
退いていく」状態だった。

小早川の寝返りだけでは戦況は変わらず、脇坂以下の突入まで
待たねばならなかったのだと思う。

数で考えるのは100%間違いという訳ではないが、実際の戦闘を
考える時に、あまり重要な意味を持たないよ。
3万の兵力があっても、直接戦うのは数百人の部隊同士なんだから。


78 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 11:10:58
押し返した、大谷が奮戦したなどとは軍記しか書かれてない。
他に信憑性の高い資料で、それらしい記述ある?

奮戦したなら、書状とかでも書かれてる事あるからさ。

つか毛利が動いたらという仮定自体が間違いなんだけどね。
毛利が動かなかったからこそ、あの配置が出来た。
動くと家康が思うなら、南宮山の前を素通りできない。


79 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 12:04:10
>>78
毛利が動く可能性はあったんだよ。
そうでないと、池田や浅野のような有力部隊を
あんな後方に置いたことが理解できない。
毛利が動かないと確信していたなら、
石田や宇喜多にぶつければいいじゃないか。

80 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 12:15:55
家康本隊が前進したあと、吉川と毛利が桃配山を占拠したら
西軍が東軍を一網打尽にする形が完成していたはず・・・

81 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 12:19:29
>>78
>毛利が動く可能性はあったんだよ。
ぜひ証明してくれ。
毛利側の書状や、残されてるものからは
毛利は全くと言っていいほど、参加する気なかったようだけど。
秀元が戦意あったように言われてるけど、合戦後に福原と相談して家康に挨拶に行こうかと聞いたぐらい。

>池田や浅野のような有力部隊をあんな後方に置いたことが理解できない。
毛利だけじゃなくて、長宗我部もいたしね。
それにある程度の確信は持てても、万が一に備えるのは普通。
関ヶ原に負けた場合の退路確保の為でもあるし。

>石田や宇喜多にぶつければいいじゃないか。
でも実際に、後方に配置されていた山内や有馬は投入されてるよ。
予備兵力として、使われてるが。

82 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 12:20:13
>>81>>79の間違いです。

83 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 12:49:33
81は自分のことを利口だと思ってるんだろうな。

84 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 12:53:03
利口じゃない、79が無知なだけ。
普通に知ってて、普通に考えれば79みたいなレスはしない。


85 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 13:13:29
荒れる元なので、スルー汁

でも簡単にIF語って欲しくはないよな
家康も三成も、東西両軍に参加した諸将も、それぞれに思惑と人間関係を抱えての行動だし
それを簡単に裏切ったらって言われてもな


86 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 13:33:00
>>79が無知かどうかは知らないが
書状があるからといって、毛利が動く可能性が無いとは確信できないわけで
万が一に備えて後方を警戒するのは当然で、だから池田や浅野を配置したわけで
毛利が動く可能性が僅かながらあるとは警戒しながらも、あのような配置をしたのだから
家康は大博打を打ったともいえるわけである

87 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 13:54:49
>>77
南宮山への抑えから動かしたのは有馬豊氏ら一部だけで、
対南宮山部隊の主力も家康本隊も動かしていません。

それから、わずか三千あまりで倍近い敵と渡り合っていた大谷隊が、
さらに5倍の敵に横から攻められても持ちこたえるとは、あまりにも都合よく考えすぎ。
万が一それらの記述を真に受けて、一時押し返したのが事実だとしても、結局時間の問題。
さらに言えば、小早川が裏切っても脇坂らが裏切らない道理がない。
いずれにしろ、わざわざ対毛利のために配置していた1万数千が壊滅するまで、
持ちこたえられるとするのは非現実的極まりない。

88 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 14:04:37
毛利が吉川の前方に布陣していたら、毛利だけでも動けたのに・・・

89 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 14:28:33
>>87
5倍の敵が横から攻めかかってなんんか来られない。
あの地形のどこをどうやったら、横から5倍が来るんだ?

あんた、思い込みが激しすぎるよ。
(ゲーム厨はみんなそんな感じなのか?)

90 :89:2005/08/28(日) 14:30:16
付け足しておくと、小早川勢を押し返したのは、無傷の大谷本隊600だよ。
(あ、押し返していないんでしたね、そうですか)

91 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 17:04:18
「押し返した」に別に異論はないけど、
そんなもん一時的なものであって、大軍に波状攻撃をかけられたら
すぐに打ち破られるさ、そんな小勢。
戦況を左右するほどの事柄ではないね。

92 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 17:38:49
>>89
あのね、一部を押し返したって次々と新手がするのよ。
その総数が全部で約5倍の1万5千。
6百でどこまで頑張るつもりですか?って話。

93 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 18:37:40
>>88
吉川の軍勢は毛利の一部、安国寺も
そんな間抜けな布陣はありえないから

94 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 18:45:42
>>92
正論だな。まあ>>89の言ってる事も解るんだが
1000足らずの兵力じゃ幾ら押しても史実の通りに全滅するわな。
桶狭間みたいな奇襲で敵の大将首上げるとかなら話は別だが。

95 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 19:10:01
>>94
あの大将の首に、それ程の価値は無いと思うが。

96 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 21:01:47
>>86
博打を打ったと言うのは同意。
家康が毛利が動く可能性はないと確信してないのも同意。

でも家康が確信持てないのと、毛利が動く可能性があったとするのとは別だよ。
あったとするなら、それを匂わせる物証を出すべきかと。


97 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 21:08:33
>>79は毛利が動く可能性が高かったと主張しているけど、私は毛利が動く可能性は低かったと主張しているのだよ
ただ、毛利が動く可能性が無かったとは断言できないということだよ

98 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 21:13:07
可能性の存在を窺わせる資料どうぞ。

99 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 21:14:54
>>87
>さらに言えば、小早川が裏切っても脇坂らが裏切らない道理がない。

ちょっと意味不明な文だが、小早川が裏切れば脇坂らは必ず裏切るってこと?
もしそんな道理があるなら、脇坂らの寝返りを全く予想していなかった大谷は、
とてつもなく間抜けだったということになるが?
あまりにも結果論でものを言っていないか?

>>91
死ぬ直前の今川義元や龍造寺隆信もそう思っていただろうねえ。

>>94
最近の説では桶狭間の信長は正面攻撃であって、
奇襲攻撃で義元一人を狙っていたわけじゃなさそうなんだがな。

100 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 21:18:34
家康が備えを置いてたから、確信を持っていたとは言わない。
しかし、それは家康の認識であって毛利が動く可能性の話ではない。

毛利が動く可能性あったとするなら、毛利側に動くと思わせる史料が存在するだろう。
でなければ可能性があったとは言わない。

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