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蝦夷とはなに?

1 :世界@名無史さん:2001/04/23(月) 10:23
蝦夷とはいったいなんでしょうね。
大和朝廷に従わなかった、
まつろわぬ民と言われる人たち。

戦前の歴史観などでは彼らはあくまで、同じ大和民族だというような説明がされてますが、
そもそも「大和民族」というもの自体が否定されかかっています。

最近ではアイヌ=蝦夷説も復活しつつありますね。
東北関東はおろかにし日本にもアイヌ語の痕跡がありますし。
高知の四万十川とかもそうですね。

2 :世界@名無史さん:2001/04/23(月) 10:24
やはり、天皇などの一族は大陸からわたってきた。
侵略者なのでしょうか?

3 :天之御名無主:2001/04/23(月) 16:41
>>2
天皇などの一族は大陸から渡ってきましたが
ほかの人たちも大陸から渡ってきました


4 :天之御名無主:2001/04/24(火) 10:25
えっと専門ではないのでウロ憶え。
日本に最初に「文明もどき」を作った縄文人の一部が、自らを「カイ」と自称していた。
そのカイに弥生人、のちの倭人が文字を当てて「蝦夷」となった。
一方縄文人の一部は自らを「勇者」エンチュウ、エムチュウとか呼んでいて、
それを倭人が「エミシ」と聞き、「蝦夷」をエミシと読んだのではないじゃろか。

縄文人は侵略と、自主的変化によって「倭人化」し、現在の東日本人となった。
一方自らの文化を守るために北方へ転戦したのが、現在のアイヌ人。
アイヌ人と東日本人の分化は、13、4世紀頃からと思う。

5 :名無しさん@1周年:2001/04/24(火) 22:20
農業(米作)を生活の拠り所とするのが倭人。
狩猟、採集(縄文文化)を生活の拠り所とするのが蝦夷。
大雑把だけどね。

山人も蝦夷に入るのでは?

6 :うーん??:2001/04/24(火) 22:30
>>5
うーん。日本海沿岸から広がった川筋系山民もいますよね。
例えば、沿岸の潟から諏訪湖の方に入植してった人々などの系統。
諏訪湖は山人センターのひとつと思われますよね。
ずっと後まで歩き巫女の拠点だったたし。
木曽のソマ師なんかともつながるはずだし。

サンカとかマタギに限るならエミシ系って気もしますけど。
どうなんでしょうねぇ。

7 :サンカすることに意義がある:2001/04/25(水) 16:11
別んとこにも書いたけど、最近は
「サンカ幕末発生説」に傾きつつある。三角説には、サンカの古代起源説が出てくるけど
「河原巻物」みたいなもんじゃないかな。
幕藩体制や近代化からはじき出された人々が、山中で共同生活を送る上で独特の社会を形成した。
そう古いことじゃないと思う。
マタギ言葉がアイヌ語なのは理解出来るけど、サンカ文字は信じがたい。

8 :しっつもーん:2001/04/25(水) 16:33
>>7
幕末発生説だと、伝えられる言語の不通は
どのように説明されているのでしょうか?

三角説を無視した型の柳田なんかが示唆してますよね、
言語が通じないって。

それとも三角のサンカと柳田の山人は別概念とみなされるのでしょうか?

9 :天之御名無主:2001/04/25(水) 18:05
2=3=電波

10 :天之御名無主:2001/04/26(木) 22:32
>6
かなり大雑把な分類だけど、倭人以外=蝦夷という図式は成り立つのかな?って思ったんだけど。


11 :=6:2001/04/26(木) 22:55
時期によると思います。
倭人は中国社会から観られた他称からスタートしたわけで。
倭国の頃には当事者が採用したと考えるのが自然と思いますが。

倭の領域とヤマト朝廷の領域は重なり合うかもしれないけど
一致するとも思えないわけで。

例えば、>>6 に挙げた、日本海沿岸文化の主体は四隅突出噴で
特徴づけられるのですが。
私見では、これを出雲系と一括してしまうことには慎重になった
方がよいと思っています。

出雲王国の成立以前から日本海沿岸沿いの移住した可能性はあるので
出雲系って一括で歴史のイメージが狂わせられる可能性もある。

で、この四隅突出噴で特徴づけられる人々。
魏書倭人ノ条にあるような文身をしたりする倭人だったか、というと、
これまた疑問が持たれると思います。

12 :天之御名無主:2001/05/03(木) 18:56
蝦夷ってのは、縄文人が日本人とアイヌ人に枝分かれする過程で中間に取り残された縄文人の末裔。
だからアイヌ説と日本辺民説との対立は解消されつつあるのであって、
1のいうような「戦前は大和民族説だったが、現在はアイヌ説が復活しつつある」なんていうのはデタラメ。


13 :天之御名無主:2001/05/06(日) 16:34
倭人ってのは日本人だろ。
日本人以外にも倭ってのがいろいろいたようにいう説もあるが、一部の例外を過大にとりあげた議論に思える。
あんまりいろいろなものを無秩序に倭とよんでいたのでは「記号」としての意味をなさないし、
中国の歴史書の実態ともあわない。

14 :リリス:2001/05/06(日) 17:06
2000年前の中国人は、大雑把に東の海上にある島に
住んでいて、朝貢する連中を倭人と捉えていたようで
あんまり厳密に考えていなかったんじゃないかと思う。
地図だっていいかげんだし。

15 :天之御名無主:2001/05/06(日) 19:24
>>13
ヨーロッパ人のいう、「アジア」や「オリエント」同様
古代中国人の言う「倭」も歴史とともに推移しています。
これは、中国の歴史書で確認されている事柄です。

倭人=日本人ではありません。

16 :天之御名無主:2001/05/06(日) 20:59
世界史板「『倭』国の定義とはいかに?」からコピペ

91 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2001/05/06(日) 20:10

いいかげんに、っていうか。
例の、南蛮・東夷・西戎・北狄のそれぞれにはあきらかに
中華文明が共有したイメージがあるよね。
狄は遊牧騎馬民だし、戎は内陸アジア系の遊牧民。

倭は古代中国人によって東南夷の一派と認識されていたと思われる。
やはり水民の一派って認識だろうね。

>>14
「あまり厳密に考えてない」のはあなた。
古代中国人には古代中国人なりの世界のイメーヂがあったわけ。

17 :天之御名無主:2001/05/07(月) 11:47
戎=蝦夷じゃないのかな?
最初の発音の”え”が”い”に
転訛して、あるいは英語でいうところの
"I"と"E"の中間の音があって、伊豆や伊勢等に。
ここらは朝廷が防人として異民族を
住まわせた地域って聞いたことがある。

18 :天之御名無主:2001/05/07(月) 11:57
「倭人⊂東南夷」ってのは、魏書の内(倭人条以外の個所)にあったはず。
(ちょっと調べ直さないと、どこだったかはすぐ出てこないが)

「戎=蝦夷」ってのは?
典拠キボンヌ。
あ、もしかして「朝廷が防人として異民族を住まわせた」って
大和朝廷の史書の記述とか??


19 :天之御名無主:2001/05/07(月) 12:35
>>18
ごめん。うろ覚えなんで。
とにかく、”え”という言葉が
朝廷から見て異民族らしい
ということでした。

20 :天之御名無主:2001/05/07(月) 14:01
ききかじり程度の知識でいいかげんなレスばかり。もうやめたら?

21 :天之御名無主:2001/05/07(月) 14:22
>20
こういう話もあるよって程度の雑談もいけないんでしょうか?

22 :≠20:2001/05/07(月) 18:13
>>21
「あまり確かな話でないけど」とかなんとか、
はっきり、きちんと書いてあればいいんでないかい?

アバウトな話が広まるるのは、よくないからね。
話題によっては危険なこともあるのはわかるよね。
その辺の配慮があるなら雑談もありと思うな。

23 :17:2001/05/07(月) 18:34
>>22
そうですよね。だから、僕も「聞いたことがある」
って書いたんですけど、心意が伝わらなかったみたいです。
結局、いろんな説があって、それをどう受け止めるかは本人の
洞察力ってことになりますよね?歴史をリアルタイムで見た人
は別として。だから、雑談の中で色々なことを頭の中で構築
することは肯定こそされ、否定されることではないと思います。

24 :=22:2001/05/07(月) 19:39
>>23
まぁ、漏れの個人的意見だから、参考程度に聞いてくれ。
漏れも「聞いたことがある」程度じゃ弱いと思うな。

話題によるけどな。
やっぱ「あまり確かな話でないけど」程度は、はっきり
書いた方が、アバウトな話が一人歩きしないと思う。

噂は尾鰭がつくしな。

それから、「聞いた話」に突っ込まれて「心意が伝わらなかった」
ってーのはBBSではあまり感心しないな。

文字でしかやり取りしないんだから。心意なんて伝わらない、ぐらい
に思って慎重に書いた方がよかべー。

>雑談の中で色々なことを頭の中で構築することは肯定こそされ

話題によるな。
差別とか、政治とかに関るような話題だとそうも言ってらんめー。
これは、17には関係ない話だろうけど、一応。

まー、気に障ったかもしんねーけど。漏れの個人的意見だ。
参考になったらいいけどな。

25 :17:2001/05/07(月) 21:05
なるほど!
差別に関してはその人によりますよね?
いくら事実であっても言っていけないことはいけない
ですからね。
心して取り組みます。

26 :天之御名無主:2001/05/07(月) 23:58
あのう、ここまで読んで思ったんだけど、文献から名前の由来についての話ばかりで、そんなことより蝦夷って一つの文化形態を指す言葉だと思うんだけど、その辺の話ってないのかなあ。

27 :原住民:2001/05/08(火) 02:37
蝦夷について客観的に語っている様で、そうじゃない様な気がする。
たとえば近畿・中国でも京都、奈良、岡山、島根これらは、それこそ
神話・民俗、各々大きく異なる。中央政権は倭人が安定的に継承して
きた訳ではないでしょう?古代朝鮮も谷ごとに小国が分立していた。
東北も詳しく見れば県でもくくれません。

特徴的な地域を三っつほど記します。
1、津軽=常に中央を意識する精神と整った顔立ちは、おそらく古い
    タイプの倭人と権力の近くにいた渡来系が多数流入している
    様に思われる。
2、岩手中南部=独立心の強さと頑強な体躯、特徴的な顔立ちは
       東欧の人々を連想させる。
3、秋田山間部=女子校高生平均身長、日本一。色白の顔と母系遺伝の
       疾病等、中央アジア遊牧系の混血を想像させる。



28 :日本@名無史さん:2001/05/08(火) 17:50
蝦夷っていぼがえるのことでしょ?
帰化人にとって原日本人て見た目が変だったんじゃないの?
だから、きっちりした分け目がないように気がする。

29 :天之御名無主:2001/05/08(火) 19:27
それは言えるかも
江戸時代の欧米人を描いた浮世絵なんか笑えるもんね
アジアン・エスニックど真ん中の帰化人にとっちゃ
原日本人は中世人にとっての南蛮人どころじゃないかもね
そういえば南蛮人も蔑称じゃなかった?

30 :天之御名無主:2001/05/09(水) 17:17
中国人を信じると
倭人=チンチクリン
となると
原日本人=鬼
となる
白人=赤鬼(南蛮人)
みたいにね


31 :天之御名無主:2001/05/09(水) 18:00
大和民族そのものの存在の否定か。
自虐もここまで来ると病気だ。

32 :天之御名無主:2001/05/09(水) 21:52
>>31
きみも病気。なんでも自虐と思える
自虐妄想症候群(ワラ

33 :天之御名無主:2001/05/10(木) 00:54
差別スレ読んでたら日付がかわったぜ。とにかく多い!
意図からして関西在住の誰かだろうけど????
自虐的といったら、こんなスレたてる事自体そうなんじゃないか?
俺みたいな門外漢でも関西人の起源みたいなものがスッキリ見えて
きたよ。差別への反論の方が具体的で説得力あったぜ!!!!

34 :天之御名無主:2001/05/10(木) 03:19
>>31
気持ち悪い

35 :天之御名無主:2001/05/10(木) 03:19
>>32
気持ち悪い

36 :天之御名無主 :2001/05/10(木) 21:53
>>27
へぇ、そうなんだぁ。
私も父方の祖母が秋田の方なんだけど
すごく背が大きくてはっきりした顔立ちだったな。
私の肩と腰が異常に張ってんのはその辺に由来するのかな??

37 :名無し象は鼻がウナギだ!:2001/05/11(金) 00:19
age

38 :天之御名無主:2001/05/11(金) 14:22
征夷大将軍ってあるでしょ?これは蝦夷を征伐する大将。
天皇にみとめられなければいけない。あと、松平家の子孫であること。
ちなみに徳川は松平家の子孫ではないけどね。

39 :天之御名無主:2001/05/11(金) 16:49
最初の征夷大将軍は、ヤマト朝廷の坂上田村麻呂だよん。
松平氏云々は、ずっと後代の事なのねん。

40 :天之御名無主:2001/05/11(金) 21:09
そうだよ!征夷大将軍は歴史ある称号(役職)だよ。
まず紀古佐美という将軍は蝦夷との戦いで十分の一の蝦夷軍に大敗し
あわてた朝廷は公家ではなく帰化人の坂上田村麻呂(父が朝鮮人)を
将軍につけたんだ。田村麻呂は蝦夷の首領アテルイを降伏させた。
しかし、朝廷は田村麻呂の願いを無視してアテルイの首をはねた。
征夷大将軍は、こんな歴史の運命からか、朝廷にまつろわぬ者達
武士階級の統領の称号になっていくんだ。


41 :天之御名無主:2001/05/11(金) 22:32
>>40
>征夷大将軍は、こんな歴史の運命からか、朝廷にまつろわぬ者達
>武士階級の統領の称号になっていくんだ。

ちょっと無理あるよん。
素直に読めば「夷ヲ征スル大将軍=征夷大将軍」なんだし。

42 :日本@名無史さん:2001/05/11(金) 23:19
すまん!
>運命からか、朝廷にまつろわぬ者達

>運命からか、?朝廷にまつろわぬ者達
にしてくれ

しかし、武家政権樹立以降、奥州征伐を実行したのは初代・頼朝
だけだからなあ・・将軍は戦国以降の〇〇守と五十歩百歩だろう
足利期の北畠は奥州勢というより南朝だしなあ・・



43 :天之御名無主:2001/05/12(土) 01:27
田村麻呂はペルシア系でしょ。

44 :天之御名無主:2001/05/12(土) 02:14
なにそれ・・・小林恵子流?

45 :天之御名無主:2001/05/12(土) 07:36
>>39
最初の征夷大将軍は、大伴弟麻呂
http://www.din.or.jp/~wildrice/jake/ROD/Topic01_2.html

46 :名無しさんといつまでも一緒:2001/05/12(土) 23:46
>>39
ここのサイト将軍は源氏の子孫でなければみたいなこと
書いてあるけど、平家ではないの?

47 :名無しさんといつまでも一緒:2001/05/13(日) 00:05
あげぞう

48 :名無しさんといつまでも一緒:2001/05/14(月) 22:28
age

49 :名無しさんといつまでも一緒:2001/05/14(月) 23:02
ade

50 :名無しさんの主張:2001/05/14(月) 23:12
井上ひさしの「四千万歩の男」を読んだ。
あまりにも大和民族のアイヌ民族に対する行為が悪く書かれすぎていたので
途中で嫌になって読むのをやめた。
本当に、この本に書かれているような事を、日本人はアイヌに対して行った
のだろうか。
事実であれば真摯に受け止めるが、捏造ということはないのか。
誰か教えてください。

51 :天之御名無主:01/08/28 23:07 ID:lgycXSi2
age

52 :天之御名無主:01/10/01 16:34
age

53 :天之御名無主:01/10/02 15:02
>50
井上ひさしの話は知らんけど、漏れの出身青森には、いつの時代の話か知らんが
武士階級の男とアイヌの娘の悲恋物語って伝わってるぞ。あ、そういう話じゃない?

54 :名無しの役:01/10/06 21:08
いつの時代にも敵対する両軍の悲恋物語は存在するし、
それが何かしらの暗示を与えていることも否定できない。
現地の女性を娶ることで同化していったと考えることも出来る。
前九年の役で、蝦夷の末裔と言われた安倍一族の敗戦も、
地元では一族の女性が源氏の武将と通じた(騙された?)ことが
原因だと語り伝えられている。

55 :天之御名無主:02/03/06 20:24
あげ

56 :天之御名無主:02/03/06 21:08
エミシとは「人間」をあらわすエンチウ乃至エムチウ。
足が長くて彫が深くて目が二重で大きくて、眉毛がくっきりしていると言う
実に腹立たしい人たち。

57 :天之御名無主:02/03/06 22:57
>>56
金田一説ですね。
古代において、エミシ<*emciw
中世において、エゾ<エンジュ<enciw<*emciw
という借用を想定した。*emciwが全くの推定形
であり、enciwという語がサハリンでしか確認さ
れていない、というのが問題ですが。

58 :天之御名無主:02/03/07 00:49
>>56
足の長さ以外は俺と同じだ・・・


59 :nagami@アイヌの血族:02/03/07 09:53
順わぬ者をひっくるめて蝦夷と言う場合と、東北にいた異民族
(と言っても大和朝廷から見た時に異民族なだけなのだけど)
を指す場合があるようです。
東北のそれは大雑把にみてアイヌだと思って良いんでしょうが、
蝦夷より更に北上した地域には「粛慎(みしはせ)」と言うのも
いたようだから、ちょっと疑問。

阿倍比羅夫や坂上田村麻呂の東征の際に捕虜(囚虜)として
捕らえられ、各地で強制労働させられたようです。所謂『俘囚』ね。
これに関して言えば、蝦夷に限らず他の異民族も捕らえられたでしょうが。

星野之宜の漫画辺りが蝦夷に造詣が深いですよ。

あ、あと、各地にアイヌ語の地名が残ってるって言うのは賛同ですが、
翻訳が間違っているものが多くあります。北海道からして「札幌」が
「サッポロぺツ」で「大きな乾いた湖」ですか?そんな意味はこの
アイヌ語には無いそうです。
詳しく調べたいなら、ちょっと高いですがアイヌ語辞典を購入する事を
お勧めします。…一万円くらいかな…。

60 :57:02/03/08 20:38
>>1>>12を読みかえしてみた。時々誤解されるが「縄文人」
は民族名称ではない。「縄文語」は言語学用語ではない。
「エミシ」がアイヌ人か日本人(大和民族)かという問い
かけが「何語を話したか?」という問題なら、まだ片付い
ていない。「日本語とアイヌ語の中間言語」などというもの
はまともな仮説としてすら提出されていないのだし。

61 :毛人とは:02/03/08 22:31
ホモで人殺しで冷酷なエスパー皇子の
無二の親友でクソ真面目なボンボン。

と言って若い人にどこまで通じるか。ウツだ。

62 :天之御名無主:02/03/09 00:12
>>59
サッポロ
干上がった、大きな
あとは、前後の詞の省略が何だったかだ。

63 :天之御名無主:02/03/09 17:00
英語のHP見た感じではアイヌってことになってる場合が多いね。

64 :天之御名無主:02/03/09 17:01
足が長くて彫が深くて目が二重で大きくて、
眉毛がくっきりしていると言う

=ナガスネヒコ

65 :御殿山 ◆i7T.x7Zg :02/03/09 17:54
以前人権板に書き込んだコピーですが(蝦夷えみし 高橋崇 中公新書)
蝦はエビ(海老)のことであり、エビは長いヒゲをもち腰の曲った醜いものとみなし、
蝦夷は「醜い野蛮人」の意となり、国家が東北住民に対し、憎しみをこめて与えた
蔑称だとする解釈が幅をきかせている。    夷も造語で弓を操る人。

日本には海岸に流れついた奇妙なものを神としてまつる習慣がある。
そうゆうものはエビスと呼ばれた。
夷と書いて見知らぬ土地の見知らぬものを表わす概念。

66 :恵美子:02/03/10 15:24
縄文人の一部を吸収、弥生人の作った「朝廷」が
東国へ進出、勢力拡大するにあたり、無抵抗で従った人は
(二流国民扱いながらも)東国良民、抵抗した人たちへの蔑称が
「エミシ」なのでしょうね。
俘囚、夷俘、蝦夷と呼ばれた人達も時とともに「編戸の民」となったわけですから。
蝦夷とは民族名称と言うより、たぶんに政治的な名称のような気が。

67 :御殿山 ◆i7T.x7Zg :02/03/10 16:08
景行紀に日本武尊が捕虜とした蝦夷を伊勢神宮に献じたが、彼らは喧嘩ばかりして
騒がしいので追放され、朝廷が御諸山(奈良県三輪山)のそばに移したところ、神山の木は倒す、
近隣の人々をおどすやらした。そこで彼らを播磨、壱岐、伊予、安芸、阿波五ヵ国に移した。
これらが五ヵ国の「佐伯部」の祖先になったという伝承です。
宮廷や官庁の警護にあったとされており、後の北面の武士に似た性格を持っています。

参考までに
h ttp://www.e-obs.com/top/heo/heodata/n300.htm

68 :ううむ:02/03/10 19:01
関東の俘囚や、「キミコベ」なんかが独立武装農民化し、
武士の母体になってたのかなあ、とか思ってた。
平凡社の喜田貞吉著作集見てたら、同じように考えていて驚いた。

69 :天之御名無主:02/03/11 13:24
エミシが武士になったんじゃないのかな。
武士の絵って鬼みたいなつらしたのが多いし。

70 :天之御名無主:02/03/11 13:26
縄文人とアイヌ人が倭人と呼ばれた人たちより遺伝的に近かったのは間違いないかと。

71 :天之御名無主:02/03/11 13:27
青森の「ねぷた」のモチーフとかカラーリング。蝦夷っぽいですね。

72 :天之御名無主:02/03/12 05:20
北海道のなんとか郷土館で見た、アイヌの「晴れ着」なんか「江戸好み」
みたいにしぶくて素敵だった。
歌舞伎の隈取も「ゲイ面」を彷彿させるし。

73 :天之御名無主:02/03/22 04:11
蝦夷と言う、多分朝廷側文人が作った文字には、確かに
侮蔑的な意味が含まれる。

でももともと縄文人の一派に「クイ」「カイ」と自称する一派があって
それに文字をあてて、かつ「エミシ」と言う読みを与えた……
スマソ、うろおぼえ。

つまりカイもエミシも決してそれ自体は蔑称じゃない。
日本人の半分をしめる縄文系の人たちが、かつて自分自身を呼んでいた言葉では?

たとえば「ロシヤ人は」「ルスキー」と自称するけど、それに
「露助」と言う漢字あてると、まあ蔑視だわなあ。

74 :朝の一言:02/04/07 02:36
>39
ちょっと違います。最初の征夷大将軍は田村麻呂ではありません。彼はその時
副将軍でした。『日本紀略』をお読みあれ。

75 :天之御名無主:02/04/07 08:29
蝦夷は元々は毛人との字を当てられていました。(夷とも)

日本書紀によれば、蝦夷には
ツガル・アラエミシ・ニギエミシの三種がおり、元々一様な集団ではない。
したがって蝦夷は○○である、と言う表現は余り正しく無い。
ただし、大和朝廷に服属していなかったと言う共通項はあるみたいだが。

エミシと言う言葉は元々は雄々しい者、勇敢なる者と言う意味である。
従って古代においては人名にも良く使われた。
有名な所では蘇我蝦夷など。

時期を追うに従って蝦夷は東方の人間を指す言葉となっていくのである。


76 :御殿山 ◆i7T.x7Zg :02/04/07 15:04
396 :御殿山 ◆i7T.x7Zg :02/04/01 00:14 ID:crn5nCAG
使い出した当時は蔑視用語でしょ。
公文書のたぐいに初めて登場したのが曽我蝦夷とされてるらしいけど
曽我氏は蝦夷の帰化人?そんなこと書いてある歴史書見たことない。
継体天皇の系列から聖徳太子に連なるけど出自は不明・・・。

アイヌは自らアイヌといって認知される。

77 :天之御名無主:02/04/08 19:57
アイヌ、エムチウはやはり東日本人(縄文系)の自称だと思う。
エムチウの「関西なまり」である「エミシ」は
決して悪い言葉じゃない。

78 :天之御名無主:02/04/09 00:24
>75
高橋富雄さんの『古代蝦夷について考える』を読んでみて。
それと『東北学』第4号に載っていた論文も。

79 :天之御名無主:02/04/22 05:50
エミシじゃなくてエビスだよー

80 :天之御名無主:02/04/22 06:11
読み方と意味がいくつかあるらしいよ。
詳しいことわからないけど。

81 :?¬?o`:02/04/22 07:19
>>73

『でももともと縄文人の一派に「クイ」「カイ」と
自称する一派があって…』

甲斐の国とは関係があるんですか?

http://www.intacc.ne.jp/HP/oma/sakaoriguu.htm

上記のページの歌のやり取りが大和朝廷への
屈服を示すそうです。『記紀に見る甲斐酒折王朝』
犬飼和雄(レタ−ボックス社)






82 :天之御名無主:02/04/25 01:12
>73
縄文人の一派に「カイ」とかがあったって、それ誰の説ですかいな?
あたしゃ「カイ」は中国産と思っておりまっさね。


83 :朝の一言:02/04/27 18:58
>66
「エミシ」は今の奈良県の宇陀地方の人と考えないと、
話しがめちゃくちゃになりますよ。「エミシ」(「蝦夷」ではない)の
基準となる最初の出典は神武紀の久米歌以外ありません。

そして「蝦夷」の方は、最初の確実な出典を、斉明紀の博徳書に
置くしかないはずです。82が言うように、中国産か、国産でも中国向けの
言葉のはずです。私と少し見解は違いますが、阿部義平の『蝦夷と倭人』
青木書房をみて少し考えてからレスして下さい。


84 ::02/04/27 19:44
国旗君が代問題のころ

蝦夷が最初に日の丸を使った

と言う毎日新聞の記事を何年か前に見たのですが本当ですか?

そのコラムには、たしか船の周りに日の丸が描かれていた絵が載っていた。
それが絵に描かれた最初の日の丸だと書いていた。

85 :天之御名無主:02/04/29 03:45
蝦夷

86 :天之御名無主:02/04/29 23:08
鈴木えみ・・・エミチィ


87 :天之御名無主:02/05/01 04:25
>84
「蝦夷が最初に日の丸を使った」? 
エビス? エミシ? エゾ?
「日の本将軍」あたりの話し?
「日の本=東北」説は高橋富雄さんの説ですね。

88 :57:02/05/01 22:52
>>83
なるほど。「エミシ」は初出が奈良県あたり
の集団を指す、というのは忘れてはいけない
わけですね。しかし、>>59で指摘があるよう
に東北地方の「エミシ」と区別しうる、とは
思います(思わない、という立場もあるでしょ
うが)。個人的には「東北エミシ」という語
はいまいちですがそれしかないかな。


89 :朝の一言:02/05/02 01:15
>88
「東北蝦夷」は一応可能だと思いますが(「東北」という地域名も
斉明紀の博徳書が初出です)、それが「エミシ」と呼ばれたという根拠は
どこにあるのでしょう。確かに『釈日本紀』『日本書紀私記』などの注釈書
には、「エミシ」という訓みが出ていますが。しかし『書紀』や『続紀』
に出てくる「蝦夷」は、もともとは「カイ」と、そしてほぼ同時に意味をとって
「エビス」と訓まれていたと考えられます。平安期の注釈書を見ていると
平安期に「エビス」「エミシ」の訓みがが混合されてゆくように思いますが、
それをいつごろからと考えたらよいのでしょうか?その強さが実感された時
とすれば、それは古佐美の頃と考えられるかもしれません。

90 :御殿山 ◆i7T.x7Zg :02/05/05 20:36
エビのようなヒゲをたくわえた弓を操る人。

91 :天之御名無主:02/05/07 02:32
『私記』に「蝦夷」の訓として「江美須」と出てきますが、これはどう訓みますか?
「えみす」か「えびす」か。

92 :57:02/05/07 20:37
>89
それもそうですね。エミシというのは平安期以降に確立
する呼称だから「蝦夷(エミシ)」はそれ以前には成
りたたない。では割と簡単で、少なくとも東北地方を
問題にする限り「東北蝦夷」もしくは「エミシ」でよ
さそうだ、と個人的には納得です。資料が少ない分や
やこしいですねえ。

93 :朝の一言:02/05/08 01:39
『斉明紀』のあたりで、「北の蝦夷」「東の蝦夷」という表現が出てきます。「北」
は、出羽方面を、「東」は陸奥方面を指していると考えられます。平安時代には
陸奥・出羽の一体性が高まって行きますから、「東北蝦夷」という言い方は可能だと
思いますが、やはりできれば「陸奥蝦夷」「出羽蝦夷」と多少とも区別して
言っておいた方が正確な話になると思います。やはり地域差はかなりあるので。

94 :天之御名無主:02/05/17 02:21
古いアイヌ語でアイヌ人のことを「カイ」と言っていたというけど、
この「カイ」というのは何なのだろう?

95 :天之御名無主:02/05/18 15:50
>>61
「日出処天子」ですな。ナツカスイ…

96 :天之御名無主:02/05/19 02:31
>>94
「カイ」ではなくて「カイノー」ではないでしょうか。
どっちにしても不明確な話ですが(アイヌ語の古い資料
なんてたかがしれてるので)。

97 :天之御名無主:02/05/19 12:18
>93
「カイノー」って、何の本に出ているのですか?


98 :天之御名無主:02/05/20 13:36


140 :?t???I :02/05/17 12:58 ID:???
>123 死ぬほど既出と思いますが・・
大化の改新で、蘇我一族は粛清され(テロ+一族お取りつぶし)
記録の一切が、イルカとか馬子とか人間以外の侮蔑的な名前に書き換えられたんです。
毛人、蝦夷ていうのは、当時の北日本の住民(アイヌ民族)のこと。
毛人の当て字は文字通り毛深さをさしている。レイシズムばりばりな呼称

これってはじめて知ったんだけど、「馬子」や「入鹿」も蔑称なの?

99 :天之御名無主:02/05/20 20:53
>98
通説は蘇我豊浦大臣の対「蝦夷」政策によるというのが今日では通説では
ないでしょうか。高橋富雄『古代蝦夷について考える』必読。


100 :96:02/05/20 22:01
>97
松浦武四郎の記述にあったはずだけれど、確実なところ
では知里真志保の辞書で樺太方言としてkayno, kaynuと
いう語形が記載されている。ほかでも確認されている語
だとは思いますが。一方「カイ」という語形は武四郎に
はあったかもしれないが、それ以降は確認できないので
はないでしょうか。

101 :天之御名無主:02/05/21 01:32
>>98
日本古代人名辞典(全7巻)吉川弘文館には 金石文から天応年間に
至るすべての人名が載っています。 馬子や入鹿といった名前は蔑称
ではありません。 そういった動物と関係した人名の時代別分布に
ついて統計をとったことがあるのですが 当時としてはおかしくは
ありません。 

102 :天之御名無主:02/05/21 13:38
>>98
時代はずっと下がるけど 悪源太(源義平)という名前は褒め言葉で
あって 貶したのではない。 現代人の語感や気持ちで 古代や中世
の名前をとらえると 引用文のような電波になる。 

103 :天之御名無主:02/05/21 15:51
ttp://www.ohotuku26.or.jp/kitami/sisi/nupunkesi4.htm
カイノー、アイノーがアイヌ。
カイが蝦夷、甲斐になったってことなんですかね。
北海道は北加伊道が元で加伊(カイ)に意味があるとは思わなかった。
確かに蝦夷→エミシの方が読めないですね。朝の一言さんの蝦夷→カイの話はいい勉強でした。

「馬子」や「入鹿」が蔑称だは驚きですね。
称徳天皇の話から来たのかな?
輔治能真人清麻呂(ふじのまひときよまろ。後の和気朝臣清麻呂)→別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)
黄文王(きふみおう) → 久奈多夫礼(くなたぶれ)
道祖王(ふなとおう) → 麻度比(まどひ)
賀茂角足(かものつのたり) → 乃呂志(のろし)
不破内親王(ふわのひめみこ) → 厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)
県犬養大宿禰姉女(あがたいぬかいのおおすくねあねめ) → 犬部姉女(いぬべのあねめ)
県犬養→ 犬部がかろうじて近いかな。

氷上川継が氷上志計志麻呂(しけし:穢れ)だって話もあるし
蔑称 ってのは”穢れた、惑い、鈍し”みたいな形容か、身分が悪い
(犬部も名前じゃないし)見たいな表現ですね。
称徳天皇だから一般論でもないか。

104 :96:02/05/21 18:29
「アイヌ」に比べて「カイノ」が古形である、という
根拠はないわけなんですけどね。

105 :97:02/05/22 00:05
>100
有難うございます。少し勉強してみます。


106 :98:02/05/23 12:41
情報サンクス。
コピーの出典が少女まんが板なんで、嘘くさいな〜と思っていたのですが。

107 :あの:02/05/23 23:56
蝦夷とはなにか、という疑問は、具体的な民族へのアプローチと
倭人から見た「蝦夷」観とに分けて話し合うべきだと思います。

個人的な意見として、ここで誰が言ってるのかも分からない
あいまいな情報を聞くよりも、自分で調べたほうが早いですよ。
匿名性のせいか、裏を取ってないことでも平気で書き込んでいるように
みえます。



108 :天之御名無主:02/05/24 04:06
>107
具体的に言ってほしい。

109 :天之御名無主:02/05/25 18:10
 あてるいって蝦夷だっけ?

110 :天之御名無主:02/06/12 07:04
民俗板ってレベルが低いのか?

111 :天之御名無主:02/06/30 01:09
JR東日本が出している「トランヴェール」という雑誌の6月号に、
『続日本紀』延暦八年の「いわゆる胆沢は水陸万頃にして蝦虜存生」
を説明して、「水陸万頃にして〜」の言葉は、「期せずして、広々と肥沃な
胆沢の大地への賞賛とそこに暮らす蝦夷への思いが滲み出ている」(P.25)と
書かれている。こんな風に延暦八年紀の記事を、胆沢の大地への「賞賛」と
して解釈するのは新しい解釈ではないのだろうか。最近どこかで読んだ気も
するのだけれど、知っているやつがいたら教えてくれ。


112 :天之御名無主:02/07/31 02:29
『東北学』第4号の『「えみし」小考』のインターネット・ヴァージョンです。
ご参考に。

http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/tohoku/emisi.htm

113 :天之御名無主:02/08/12 13:02
このスレ読んで、なんとなく気になって、
東北のお祭り装束をいろいろ見てみた。
結構綺麗だね。

http://kari.to/upload/source/3713.jpg

これが異民族ってかんじなのかなあ。
他の地域のお祭りもこんな感じの衣装
なのでしょうか?

114 : :02/08/12 14:12
うんこ板に遊びに来てくださいです。。
http://jbbs.shitaraba.com/news/532/unkounko.html

115 :ストーム・フクロウル:02/12/18 13:56
漠然と北の勇猛な人々を指した名称では

116 :天之御名無主:03/01/01 08:31
アラハバキ神とはいったいなんですか?蘇我氏に敗れて東北に逃れた物部氏が
もたらした信仰だ、と聞いたことがあるんですが。詳しく教えてください。

117 :116:03/01/01 08:49
つづき
物部氏の存在があったからこそアテルイ(悪路王)をリーダーとする蝦夷は
何十年も大和朝廷と互角に戦う事ができた、とも聞きました。アテルイの弟
の息子の名は人首丸です。今も人首小学校と言うのが岩手県米里あたりにあ
ります。

118 :マジレスカコワルイ:03/01/01 13:37
ずばり、朝廷に同化されることを拒んだ縄文人。
同化されたのが東日本人。
東日本人とアイヌが、明確に別の文化を作り出したのは
鎌倉以降。

119 :天之御名無主:03/01/01 17:03
悪路王(アテルイ)は宮沢賢治の詩にちょっと出てるね。

原体剣舞連て詩なんだけど。


120 :天之御名無主:03/01/02 00:31
◆毎年約1万人も韓国・朝鮮人が大量に帰化しているというのに、
在日の数がほとんど減っていないっ!(ニューカマー含む人口)

        1998年   1999年  2000年
在日人口   638,828   636,548  635,269 人

その約1万人のうち日韓・日朝結婚が年間約8500組。
混血も相当数産まれており、ハーフだけで既に20万人近くも。
これではいつまでも韓国・朝鮮人の日本人汚染が続く。
1952年から累計約27万人も帰化し、売国奴もどんどん増えていく。

また、不法滞在の韓国人は56000人で外国人で最も多い!

◎外国人帰化数
http://www.moj.go.jp/TOUKEI/t_minj03.html

121 :天之御名無主:03/01/02 07:43
アラハバキについて。
某「三郡誌」で決定的にケチついたけど、
もともとは古来の「客神」

「白鳥伝説」およみくらはい。

122 :天之御名無主:03/01/02 09:32
客神てなに?
客人(マレビト)神のこと?

つーことは沖縄の
キンマモン神みたいに
海のかなたニライカナイから
毎年一回やって来るとか?

あ、ナマハゲもそうか。マレビトか。

きっとくる〜♪
きっとくる〜♪
貞子くる〜♪


123 :宮崎駿:03/01/02 11:13
司馬さんとの出会いが私を変えました。

124 :山崎渉:03/01/11 03:06
(^^)

125 :天之御名無主:03/01/17 11:51
                

126 :天之御名無主:03/02/19 22:56
北海道「ほっカイどう」の「カイ」は松浦武四郎が「蝦夷」から採用した
のではなかったっけ。いつのまにか「海」だとおもいこんでるけれど。
松浦武四郎は「ホッカイドウ」の名付け親だよね。

127 :天之御名無主:03/02/20 18:10
>>126
北海道は国割されました。
東海道
西海道
南海道
なんかと合わせました。



128 :天之御名無主:03/02/20 22:42
>>127
はんかくさいんでないかい

129 :天之御名無主:03/02/21 06:31
私が以前読んだ本では蝦夷の「蝦」は上代の大和言葉ではヘビ、エビ両方に対して使われており、
ヘビを祀り大和にまつろわぬ人々=「蝦夷」と名付けられたということでした。
神社のご神体にヘビを祀っているところがありながらも、
出雲風土記でも記紀でもヘビは神ではなく敵として記載されている。
ここから出せる推論としては結構妥当なものではないでしょうか。<蝦夷=ヘビ信仰説

130 :赤い雲:03/02/21 09:27
1869年に、蝦夷開拓御用掛開拓大主典だった松浦武四郎が、北海道島
の道・郡・国の名前を命名することになったの。それ以前の「蝦夷地」
が「北海道」と改称されたわけ。この新しい名前は、松浦武四郎が政
府に提出した原案−−日高見【3字ルビ・ひたかみ】道、北加伊【3
字ルビ・ほくかい】道、海北【2字ルビ・かいほく】道、海島【2字
ルビ・かいとう】道、東北【2字ルビ・とうほく】道、千島【2字ル
ビ・ちしま】道−−の中から「北加伊道」と「海北道」の二つをたし
て二で割った形で決定されたものなのよ。これには、アイヌたちが自
分たちの国を「カイ」と呼び、お互いのことを「カイナー」と呼びあ
っていたという背景があって、武四郎が名づけた「北加伊道」には
「北のアイヌの国」の意味があったのだが、そうやって足して二で割
ると、そして明治国家の征服的価値観のもとで、そうした背景もきれ
いに消えうせてしまったんだな、これが。
「カイ」というのは「ネイティブの大地」を意味し、「ナー」もしく
は「ノー」は敬語を意味するのだという。

131 :天之御名無主:03/03/13 10:17
東北ってなにか文化が違うよね。
ただただ素朴。向上心がないし、それでいてすぐ卑屈になる。
すべて平等みたいな、、、
部落(差別)がないのと関係があるのかな。

132 :山崎渉:03/03/13 12:41
(^^)

133 :天之御名無主:03/03/13 12:47
ぶっちゃけ、東北とか九州自体が被差別部落みたいなものだろ。
いわゆる中央からみた田舎とか地方と呼ばれる差別。
そこに東北・九州人が気がつかないように
田舎者同士を争わせたりして漁夫の利を得てきた中央や都会の人間に田舎の何がわかるというのだろう?

田舎の人は素朴で人柄がいいとかなんとか
おだてて陰では舌を出してる。


134 :山崎渉:03/04/17 09:45
(^^)

135 :山崎渉:03/04/20 04:41
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)

136 :山崎渉:03/05/21 22:26
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―

137 :天之御名無主:03/05/25 19:15
江戸が「蝦土」、とか「穢奴」のこと
とか言ってたのは、八切止夫だったっけ。

138 :山崎渉:03/05/28 15:12
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉

139 :山崎 渉:03/07/15 12:45

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄

140 :天之御名無主:03/08/09 12:52
>>81
『風の谷のナウシカ』で鳥馬が「かい」と「くい」って名前だけど、
宮崎駿はそれを知っててなづけたのかな。

141 :天之御名無主:03/08/12 20:16
アテルイage

142 :天之御名無主:03/08/13 01:50
えぞーん

143 :abc:03/08/13 16:54
画像集!
http://www.sexpixbox.com/pleasant/dx/index.html


144 :3:03/08/13 17:18
ブルマ姿の可愛らしいロリ少女が体育倉庫でなにやら怪しい動き!
物凄くでかいオッパイをぷるんぷるんに揺らしながらハゲオヤジにバックから突かれます。
最後のオナシーンではなんととうもろこし挿入!ブツブツで気持ちいいんでしょうね。
悶絶のエロアニメ!
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145 :天之御名無主:03/08/13 17:28
静岡県には愛鷹山って山があるがこれも蝦夷に由来する名でつか?

146 :つんく:03/08/14 19:20
http://elife.fam.cx/a011/




147 :山崎 渉:03/08/15 18:12
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン

148 :天之御名無主:03/10/03 20:31
エミシの有名人アテルイ公は、大墓公という苗字?もってるけど
あれは朝廷側が勝手につけた苗字?なのかな? モレ公も持ってたよね。
知ってる人がいたら教えてたもれ(´人`)

149 :天之御名無主:03/10/07 14:23
>>145
 愛鷹山(あしたかやま)の名のいわれには諸説ありますが、「愛鷹」の字を
あてたのは徳川時代中期以降のようです。
 それ以前は、足高(アシタカ)葦高(アシタカ)などと書かれていました。

 鎌倉時代の「吾妻鏡」には 波志多山(ハシタやま)・鉢田山(ハチタやま)とも
書かれ、さらに天平時代の万葉集の中では愛鷹山を 師迫山(シハセやま)
師歯迫山(シハセやま)と呼んだともされています。

 アシタカの名の由来は、富士山の足元に聳える高い山である、との意味の
端高(ハシタカ)から転じたとの説や、小さな山の割には頂(いただき)が多いため、
鉢(頭蓋の事や兜の頭を覆う部分を指す)が多い、としての鉢多山(ハチタやま)が
転じたなどの説があります。

150 :天之御名無主:03/10/07 14:27
>>148
タモ(大墓)もイワグも地名からと考えられているのじゃなかったかな?
「公」はその集落の長で、村長とかの意味らしい。

151 :天之御名無主:03/10/07 15:29
>>150
そうか〜
天皇の臣下じゃないのに何故姓らしきものが
あるのか不思議だったのです。
回答、ありがとう(・∀・)

152 :天之御名無主:03/12/31 12:14
>>84
そー言えば昔何か(新聞?書籍?)で読んだんだが
明治のアイヌ同化政策で和名での戸籍登録を強制した時に、
道東(根室だったかなぁ)の由緒有る一族が
アイヌ語姓を直訳した「日の本」だか「日本」で登録しようとして揉めたとか何だとか・・。

道新だったかなぁ・・・

153 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

154 :天之御名無主:04/03/23 03:44
大和人じゃない人たち

155 :天之御名無主:04/03/26 16:42
>>71
東北の人って素朴と思いきや、特に東北北部の人って
すっごいド派手な衣装とか好きだよね。

156 :天之御名無主:04/03/30 00:30
奥州藤原三代って
末代になるに従い
顔が和人かするんだと
つまり縄文人が
3代かけて混血していったわけ。
しかし、結局頼朝に滅ぼされる運命に

源頼朝は名実ともに
征夷大将軍だった最後の将軍
位自体は征伐後だけどね。

157 :天之御名無主:04/03/30 00:31
会津=甲斐=蝦夷=カイ=アイヌ

158 :天之御名無主:04/03/30 00:32
蝦夷=エンチュウ=エッタ

159 :天之御名無主:04/03/30 00:36
>ずばり、朝廷に同化されることを拒んだ縄文人。
>同化されたのが東日本人。
>東日本人とアイヌが、明確に別の文化を作り出したのは
>鎌倉以降。


少数の倭人+高麗人+アイヌ=鎌倉期の板東人(関東人)

武士もこの系列から来たものと思われる。
平将門などは高麗人の子孫が現地化して朝廷に
従うことを拒んだものたちをつれて
反乱を起こしたのではないか。




160 :天之御名無主:04/03/30 00:54
>井上ひさしの「四千万歩の男」を読んだ。
>あまりにも大和民族のアイヌ民族に対する行為が悪く書かれすぎていたので
>途中で嫌になって読むのをやめた。
>本当に、この本に書かれているような事を、日本人はアイヌに対して行った
>のだろうか。
>事実であれば真摯に受け止めるが、捏造ということはないのか。
>誰か教えてください。

ある程度はたぶんアイヌ差別と殺戮はあったでしょう。
なにしろ生活習慣と顔形、言語すべて違ったわけですから。

必要最低限の戦争であったのは間違いない。
日本列島の北限まで追い詰めたのは明治になってからだし。
倭人が日本列島にやってきて少なく見積もっても1500年
長く見積もると2500年近くはたつのだろう。

沖縄人や明治の薩摩人、東北人など縄文人の血を色濃く受け継ぐ
者たちが現代まで生き続けてる。

そして現実として受け止めなければならないのは
近代に入り北海道にもロシアの手が伸びていたことを考えると
遅かれ早かれどこかの民族に吸収される運命ではあった。

日本という国は土着の民族と大陸からの避難民で成り立っている
国家であり古代からその影響を受け続けている。
だから移民による国家の痛みを和らげるために全国民を天照大神の子孫
ということにしたのだ。本当の出時にかんしては誰も語らない。


161 :天之御名無主:04/03/31 01:13
「(前略)インディアンの歴史はヨーロッパからの開拓者達による侵略の歴史である。
開拓者達は初めのうちは原住民であるインディアン達とも毛皮の交渉や現地のガイドとして使うなどを通してうまく付き合っていたが、敬虔なクリスチャンから見ると
彼等の行う呪術や儀式は不可解を通り越して奇異なもの、異様なものとして恐れられ、嫌われていくようになり、ついに彼等の土地で金が発見されると
開拓者達はインディアン達との協定を破り、彼等の土地を勝手に荒らしまわるようになった。
一部の部族と争いが始まるとそれは全米各地に広がっていき、白人とインディアンの間で多くの血が流れることになった。
現在彼等のほとんどは今でも点在するインディアンリザベーション(居留地)と呼ばれる国によって保護された区域に住んでいるが
そこは大体において辺境の地にあり,残念ながらその中での生活は非常に貧しいものとなっている。
どの部族にもあてはまるのがその根底に自然崇拝があるということ。(後略)
http://littlewolffilm.at.infoseek.co.jp/natural_at.html 」

ちょっと調べ物でネイティブアメリカンのページを見ていたらあった文なんだけど
蝦夷もこんな感じだったんじゃないかと、容易に想像できたんだが・・

162 :天之御名無主:04/03/31 12:39
実際見たことがないからどうか分からないけれど
似たような状況にあったことは否めないでしょうね。。

163 :天之御名無主:04/04/01 17:52
>161
まず蝦夷と倭人との戦力差がインディアンと白人ほど差があったとは考えにくい。
はじめ倭人が日本列島にはある程度の戦力差があったが
西日本一帯と東日本の一部を倭人が占領した時点で
稲作に適した土地をすべて奪ったのでとりあえず満足する。
その後、東北の蝦夷と交易があり関東や東北の蝦夷のほうも蕨手刀などを
開発して応戦している。

蝦夷と呼ばれるものを放逐するまで実質1000年以上を要していることからも
蝦夷と倭人の関係は、イギリスのケルトとアングロサクソンの関係に近い。

164 :出典:フリー百科事典ウィキペディア:04/04/01 18:49
ケルト人は、インド・ヨーロッパ語族のケルト語派に属する言語を話す民族
である。

もともと先史時代のヨーロッパに広く住んでいたが、ローマ人やゲルマン人
に圧迫されて西方に移動した。

現在その子孫は、アイルランドやフランスのブルターニュ地方、イギリスの
ウェールズ地方やスコットランドに住む。

その宗教は自然崇拝の多神教であり、ドルイドと呼ばれる僧侶がそれを
司っていた。


--

たしかに、ネイティブアメリカンよりはケルト人の歴史に近そうだな。

165 :出典:フリー百科事典ウィキペディア:04/04/01 18:49
そもそも蝦夷の子孫て絶滅してないの?

166 :天之御名無主:04/04/03 16:33
北東北の海沿いとかに明治以前から住んでるのは、
多分殆ど蝦夷の末裔。稲作に適さない土地の。


167 :天之御名無主:04/04/08 12:32
>165
蝦夷の文化を受け継いでいるものは絶滅してますが。
日本人自体には蝦夷の血が流れてます。
少なくとも他の東洋人に比べたら
日本人は体毛が濃く、くせ毛の
人も多い。

日本人の身体的特徴に顕著に現れてます。

168 :天之御名無主:04/04/09 11:22
実家は先祖代々北の果てで百姓やってて、
祖父は毛が背中まで生えてて、母親や親戚は
掘りが深いというか白人くさい顔してて、
自分はくせっ毛で毛が濃くて・・

これが先祖還りなのでしょうか(w

169 :天之御名無主:04/04/10 12:44
見事な先祖がえりだ。w

170 :天之御名無主:04/05/11 00:51
「蝦夷の地」に争乱の世紀 鉄やじり、縛られた人骨出土
http://www.asahi.com/culture/update/0505/002.html
------------------------------------------------------------------------------
青森県八戸市の平安時代後期の集落跡・林ノ前遺跡(10〜11世紀)から、
前例のない数の鉄のやじりと縛られた人骨などが出土した。激しい戦いの跡と見られる。
蝦夷(えみし)の地とされた北東北から北海道南部の集落は、近年の発掘でこの時期
百数十年にわたり、平地を避けて山頂や環濠(かんごう)の中に作られていたことが判明しており、
今回の発見でこの特異な集落形態は敵の襲撃に備えたものだったことが確定的になった。
吉野ケ里遺跡で知られる倭国(わこく)大乱や戦国時代に匹敵する長期の争乱社会が見えてきた。
                                       (アサヒ・ドット・コム 04/05/05)

171 :天之御名無主:04/05/11 00:52
(つづき)
発掘は青森県埋蔵文化財調査センターが03年まで4年間行った。やじりは約200点、
遺跡全域でまんべんなく見つかった。戦後回収される貴重品だったやじりの出土例と
しては空前の規模。人骨は10体見つかったが、埋葬されたものはなかった。両手・両足を
縛られた全身骨1体と、頭骨だけが3個も見つかった住居もあった。同センターは襲撃を受け、
激しい戦いの末に放棄された集落と見ている。

172 :天之御名無主:04/05/11 00:53
(さらにつづき)
朝廷は馬や砂金などを産する東北地方を支配しようと8〜9世紀に武力進出を繰り返すが、
盛岡市付近で停滞。10世紀になると、直接支配でなく朝貢を求める政策に転じる。
従来の通説は、この政策転換後、秋田、岩手で前九年合戦(1051〜62)が起こるまで、
この地域は平和が続いたとしてきた。防御性集落は政策転換後の10世紀後半に登場し、
奥州藤原氏の支配が及ぶようになる12世紀に姿を消す。

調査終了後、県道が開通し、遺跡は周辺の一部を除いて残っていない。

173 :天之御名無主:04/05/11 01:03
(これでおしまい)

〈工藤雅樹・東北歴史博物館長(考古学)の話〉
  無防備では危険で生活ができず、防御性集落を営まざるをえない社会があったことを
  実証する初の発見だ。この時代の蝦夷の地は平和だったと考えられてきたが、朝廷が
  歴史の編纂(へんさん)をやめたために記録が残っていないだけだ。大軍を差し向ける
  代わりに、朝廷は「夷(い)をもって夷を征する」政策をとった時代で、武器や食料の援助を
  めぐる朝廷側とのパイプの奪い合い、交易の富の争奪などが原因となり蝦夷内部の戦いが
  続いたのだろう。林ノ前での戦いは、前九年より少し早い11世紀の前半、集落の連合体同士
  といった規模が考えられる。
------------------------------------------------------------------------------


一部省略しましたが、実に興味深い新事実ですね。
学説論争に決着をつけるのは、いつだって状況証拠ではなく、物的証拠といういい例でもあります。
このスレにおける議論にもいくつかの論点整理になったのではないでしょうか?

 1. 蝦夷の生活圏: 元は平地民だったが、和人により山間部へと追いやられた
 2. 和人との混血: ある時期を境に、和人への朝貢等、積極的にすり寄った部族もある
 3. アイヌとの関係: 北東北から南北海道という居住域、山間生活習慣など共通点が多い

174 :天之御名無主:04/06/05 15:18
>しかし、タロコの長く厳しい開拓の道は大正三年からやっと始まったばかりだった。
>大規模な反乱こそなくなったものの、勇猛果敢なタイヤルがいつ牙を剥いて襲ってくるやもしれぬ。
>そこでタイヤル族の治安の安定を最優先に、内地から多くの駐在警察官が送り込まれた。

> その主なる任務に対し、佐久間総督は同年八月九日のタロコ作戦終結に際し次のような
>〈訓諭〉を発した。「蕃人は久しく外界と往来のない高山の地で生活していた為、文化の
>何たるか知らなかったが、今や我が国の領土となるや、彼らはその非行を悔い改め、
>銃器を捨てて帰順した。蕃人も又、陛下の赤子である。警察官はすべからしく聖旨を
>奉戴し、蕃人を愛し教化に努め、農耕を奨励し、知能を啓発し、安寧を保ち、良民
>たらしむよう、その任たる重く大である……」(山口政治・冨永勝編著『東台湾太魯閣小史』から)。

↑東北で田村麻呂が美化されたのは、これに近い同化政策があったから?

175 :天之御名無主:04/07/02 19:49
東北のマタギは蝦夷と関係ある?

176 :天之御名無主:04/07/02 23:24
蝦夷は日本の先住民族で、文字を持たなかった
しかし、朝鮮半島から文字を持った民族が入ってきて勢力を拡大した

モンゴル帝国などの例外を除き、古今東西文字を持たない民族と文字を持つ民族が出会った場合、
文字を持たない民族は文字を持つ民族に駆逐・同化され消滅して言った

文字を持つ民族は西方から広がり、原住民を駆逐しながら少しずつ当方に広がったってところでしょう
江戸時代に東北のほとんどから蝦夷が駆逐され、明治以降には北海道に残っていた蝦夷も
強制的に学校に通わされ日本語を教えられ、蝦夷の言語や文化はほとんど消え去った

177 :天之御名無主:04/07/02 23:29
どうしてかたまれなかったのかねぇ〜?

サンカ(土蜘蛛)なんか連綿と生き残っているのに。

178 :天之御名無主:04/07/02 23:55
サンカは西日本の人たち。蝦夷ではない。

179 :天之御名無主:04/07/03 01:40
>>178
もともと西日本にもエミシはいたんじゃないの?

180 :天之御名無主:04/07/03 01:58
蝦夷とは東日本・北日本のまつろわぬ人々のこと。

181 :霹靂:04/07/03 07:10
蝦夷は日本の原住民 文字があるか無いかはわからない 朝鮮だって古朝鮮語はもうわからなくなっている。侵略の場合、言葉は奪われます。神社すら改築されます。各家に仏社も強制されました絵文字はあったと思います

182 :霹靂:04/07/03 19:00
西日本だけ? サンカの女性が警察に巻き物を見られあぶってみたら名簿だったためにサンカが明るみになったんだろ 名前も地域名が有り関東も居たよ原因は西かもしれないが 蝦夷は東に寄せられたんだろ 侵略者と寝返り者に

183 :天之御名無主:04/07/03 21:23
小説の話とごっちゃになってる人がいるな…

184 :霹靂:04/07/03 23:05
失礼な言い方するな!ハゲ
警察に聞いてこい とうしろう

185 :天之御名無主:04/07/04 02:33
お脳の不自由な方が逆切れ中w

186 :天之御名無主:04/07/05 11:09
>>177
サンカは比較的最近の集団です。

187 :霹靂:04/07/16 19:41
おまいらスウィートだな蝦夷はよ日本全土にいたんだよ エベスさん エズム エド ではまた

188 :天之御名無主:04/07/17 12:27
このひとエラマサッペですか

189 :天之御名無主:04/07/18 10:44
 恵比寿?出雲とか播磨国の?

190 :天之御名無主:04/07/18 13:53
霹靂は考古学板から来た釣りだよ。
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1076561137/164-165
鬱陶しかったら、あぼ〜ん推奨。

191 :霹靂:04/07/18 18:19
え?違うよ>190はマジ釣りだよ
みんな気をつけてね
ただの名無し弱虫だから親の脛かじっててスーパーフリーの一味だて
やべやべえ さあ気をとりなおしてね

192 :霹靂:04/07/18 18:25
恵比寿様っているでしょ関西じゃえべっさんとか言うらしいが江別や出雲、江戸などモトモトはエドムからきてるしね秦族はユダヤ人って知ってるよねえ みんな 弾左えもんはダン族だしね佐藤より戻したね ああ楽しい

193 :天之御名無主:04/09/30 08:53:40
とあるリンク切れサイトから引用

その2に「蝦夷」
 蝦夷は日本書紀を読むと野蛮人というイメージで書か
れています。でも当時の日本、正確には大和に都を置い
た朝廷にとって蝦夷とは、手強い相手。何度も戦っても
勝てない相手だったのです。なぜなら蝦夷の方が文化水
準が上だから。具体的には豊かな金と製鉄技術なので
す。蝦夷の製鉄技術は進んでおり、大量の鉄をつくり、
その純度の高い鉄で優れた武器をつくっていた。彼らは
騎兵ですが、大和の渡来人の重装騎兵のように馬も人も
分厚い鉄の兜や鎧で武装するのではなく、皮でできた軽
い鎧兜をつけて、馬上でも切りあいができるように、手
元の部分から湾曲した良く切れる刀をもち、短い強い弓
で攻撃する軽装騎兵集団でした。後の時代のモンゴルの
軽装騎兵と同じです。


194 :天之御名無主:04/09/30 08:54:38
だから歩兵を基本とする大和の軍がなんども蝦夷に攻
めこんでもなかなか勝てない。仕方がないので坂上氏な
どの重装騎兵集団を送りこんだが、重装備の騎兵は動き
が鈍く、山間部に引き込まれて蝦夷の軽装騎兵に包囲さ
れて、全滅に近い被害を何度も蒙っている。これは平安
時代の話ですが、二百年まえの蘇我さんの時代も基本的
に同じだと思います。
 蛇足ですが、武士の刀は蝦夷の湾曲した刀(蕨手の太
刀と言います)の技術を学んで改良したもの。また武士
の大鎧は、蝦夷の皮製の鎧の作り方に学んで、皮を短冊
型に切って皮紐で綴じていたのを、鉄の板を短冊状にし
てそれを皮で覆ったものを皮の紐で綴じたもの。日本は
蝦夷から技術を学んだのです。
 だから「蝦夷」とは野蛮人ではなく、大和の人々に
とっては高い文化をもち、北はアリューシャン列島から
南は琉球・中国まで貿易に航海し、豊かな金と高い工業
技術ををもち、馬を駆使した強い軍隊をもった異国の人
だったのです。いつの時代も強い外国にはあこがれま
す。そして勝てないからこそ「野蛮人」と呼んで人を落
としこめます。
 強い人・不思議な力をもった人という蝦夷にあやかっ
た名前が「蘇我蝦夷」だったのではないでしょうか。

195 :天之御名無主:04/10/14 23:00:21
サンカと土蜘蛛は別者。
土蜘蛛は古代北部九州で原始的生活を行っていた集団。
サンカは戦国時代に村を焼かれて山で生活始めた人達。


196 :天之御名無主:04/10/15 19:47:57
シャモもアイヌも、同じ日本人じゃ!

と、昔、長谷川一夫の水戸黄門が言ってました。

197 :庄内人:04/10/16 03:50:43
>196
うむ、同じ「日本人」ではある。
しかし日本はイギリスと同じく実際には
連合民族国家であり
イギリスがイングランド・スコットランド
・ウェールズ・北アイルランドと現在でも
明確に分かれているのに対し
日本の場合は、非常に判りにくくしてしまったのだ。

つまり同じ日本人(日本国籍)でも
アイヌ
和人(大和人)
琉球人
は別々の民族であり、しかも一部では
東北人は大和民族ではなく
征服されても「蝦夷」なのだと
主張されている。
ウェールズ人が征服されても未だに
ウェールズ人であるのと同じように。

全部日本人なら平和だ、というのでなく、
お互いの違いを認め合える、
そういう社会、日本になれたら良い、と思う。

198 :天之御名無主:04/10/16 03:54:43
しかし、どっちかというと関東の方が東北より濃いめの顔が
多い気がするのはなぜだろう?

199 :庄内人:04/10/16 05:40:56
>198
確かに。
特に、私の知り合いでは、千葉出身の人に、非常に「濃い」
というか、つまり縄文人風?な顔立ちの人が多い。
茨城、群馬、埼玉の知人にも、やはり結構いる。
東北出身の私がいうので、かなり確か?である。

原因はいくつかあるだろうが・・
ひとつは、関東では蝦夷の朝廷に対する反乱が
少なかったため、人民の強制移動がなかった事。

それか、もともと強制移動ではなく
縄文末期からの自然な民族移動で
関東では変化が少なく
東北では大陸からのツングースの渡来など
移入が結構あったため。



200 :天之御名無主:04/10/16 06:15:25
>>199
蕃国観から新羅人など東に移された者達は三河などで反乱を起こしているが。

201 :天之御名無主:04/10/16 06:33:07
東北は日本海側の流民(難民や渤海交流における船に同乗していた民)と落ち武者が多いのだろう。


202 :ストライダー:04/10/16 23:21:31
>199
忘れちゃなんねえ
明治以降、現代にいたるまで、
東北の若者が東京やその隣県に
押し寄せているのだ。
まあ、もともと関東も蝦夷の国。
そこに更に我々東北の蝦夷が押しかけたら、
濃くもなります。

203 :天之御名無主:04/10/17 06:07:35
俺は関東の縄文人は東海地方系だと思う。
東北より明らかに顔が濃い。
そもそも東北は日本でも有数の薄さだし・・

204 :天之御名無主:04/10/17 09:07:24
56 名盤さん 04/08/31 06:39 ID:aujHEx5z
日本人の見た目向上の為に。不良三国人が紛れ込まない為に。
北方古モンゴロイドである、縄文系日本人を増やそう。

>ttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/geo/1085908117/l50
弥生人復元胸像
1世紀 土井ヶ浜遺跡出土人骨に基づく 国立科学博物館蔵
ttp://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_07_02.jpg

縄文人(北方古モンゴロイド)復元胸像
3500年前 若海貝塚出土人骨に基づく 国立科学博物館蔵
ttp://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_03_04.jpg

北海道・東北・九州地区の人がお酒に強かった
元々日本列島に住んでいた縄文時代人はお酒に強い遺伝子を持っていたと考えられます。その後、弥生時代にはいりますと大陸からお酒に弱い遺伝子を持った人々がやってきて、日本列島
に住み着いたと考えられます。
ttp://diary.jp.aol.com/applet/vufpmudjvfdj/396/trackback

205 :天之御名無主:04/10/17 13:05:49
酒に弱い遺伝子の中心は中国でそこから世界中に広がっている。

206 :庄内人:04/10/17 15:13:35
北方古モンゴロイド?などというモノがあるのですか?
彫りの深い多毛ないわゆる古モンゴロイドは「南方系」
なのでは?

北方系のうち朝鮮にいた人々が九州方面から移入し、
今のシベリアに居住する北方民族にあたる人々が
東北・日本海側へ渡ってきた、と解釈していましたが
間違いでしょうか?

ちなみに私、酒弱いです。

207 :天之御名無主:04/10/17 17:04:23
>>206
南方系が毛深い?東南アジア諸国の人達は毛深くないのだが・・・
寧ろ中央アジアの人たちのほうが毛深いはず。

208 :庄内人:04/10/17 19:53:37
>207
では、北海道アイヌは?
彼らを「北方古モンゴロイド」と
呼んでいるのですか?
沖縄に多毛な人の多いのは?
東南アジアの人々と、彼らは無関係
なのですか?


209 :天之御名無主:04/10/17 21:44:29
アイヌも南西諸島も本土日本人以上に北方系のGm遺伝子を持っている。
アイヌも南西諸島も新モンゴロイド。本土日本人も新モンゴロイド。

210 :天之御名無主:04/10/18 01:16:19
>>208
東南アジアの人達が毛深い?
東南アジアのYAP-は弥生系と繋がるのだが・・・
毛深さと文化伝達、言語などの観点から言えば、中央アジア縁とした方が自然だ。

211 :天之御名無主:04/10/18 01:18:03
血液型配分などからも東南アジアとは異なる事が分かる。
東南アジア諸国は圧倒的にO型が多い。対して、北方周りのアイヌなどはやはり北方系の配分と似ていて
B型がやや多い。

212 :天之御名無主:04/10/18 02:54:11
東南アジア諸国は中央ユーラシアやインドほどではないが
インドシナ半島を筆頭にB型は多い。インドシナ、スマトラ、
カリマンタンのB遺伝子頻度20〜25%。
日本のB遺伝子頻度は15〜20%。
O型が多いけどB型も日本よりは多い。

213 :天之御名無主:04/10/18 06:12:47
>>212
しかし、ポリネシアなど古い形質を残す民族はO型が殆どで、B型とAB型は皆無に等しい。
さらに、アイヌ語が日本語よりも朝鮮語の方に近いという言語学的な説明がつかない。
DNAに関してもこの事がいえる。

214 :天之御名無主:04/10/18 06:27:49
加えてアイヌにもモンゴル班がある。

「なおアイヌ人にはモンゴル斑がないとされ、人種の孤島とされていたが、最近の研究でモンゴル斑があ
ることが分かった。日本人の北のルーツはバイカル湖周辺である。」


215 :天之御名無主:04/10/18 06:53:20
あんたらモンゴルヒダって知ってるこっちは顔にでるから
直ぐわかる。東洋人の証として
もっとも分かり易い印

216 :天之御名無主:04/10/21 13:49:56
>>214
白人にも蒙古斑でることも分かってきたらしいね。
色素の関係で見えにくいだけなんだって。

217 :天之御名無主:04/10/22 10:05:51
大和王国VS日高見国に秘められた国家成立の暗闘史!! 鬼と黄金伝説の謎
● 佐治芳彦/ワニ文庫(日本裏面史)
坂上田村麻呂の征討伝説には秘密が隠されている!? ── なぜか、田村麻呂の戦勝地は鉱山所在ばかり
であった。奥州平泉の黄金王朝(藤原四代の栄華)をみても、古代みちのくに眠っていた莫大な黄金の埋蔵
量を想像するに難くない。この豊富な資源に目をつけたヤマト朝廷と古代東北王朝の金=鉄をめぐる争いが
あった。そして、ヤマト朝廷に屈せぬ者達が、「鬼」と呼ばれ、駆逐されていった。この事実を本書で明らかに
する。読み終えた読者は、"蝦夷こそ本当の日本"と言う未だ知られざる伝承に驚愕することだろう。

218 :天之御名無主:04/10/22 18:51:14
蝦夷の国は日の本って呼ばれていたよね

219 :天之御名無主:04/10/22 19:08:55

ttp://www.pref.iwate.jp/ipangu/index.html
ジパングって岩手とかそこら辺のことかな?

220 :天之御名無主:04/11/04 19:37:52
http://www.actv.ne.jp/~yappi/mystery/003-nihonchuou.htm

こんな話か?

221 :天之御名無主:04/11/20 11:19:20
>>215

目頭に覆い被さるアレ?

222 :天之御名無主:04/11/20 11:48:31
それ

223 :天之御名無主:04/12/16 23:23:44
ニキエミシとアラエミシって人種的に違うの?

224 :天之御名無主:04/12/18 23:12:17
このスレの皆さんは火怨って読みましたか?
面白そうなんだけど・・・

225 :天之御名無主:05/01/13 22:45:00
もっと古代に蝦夷に文字が伝わっていれば、
大陸系の勢力が日本の支配者になることはなかったと思う
むしろ蝦夷が大陸の科学や文化を取り入れ、蝦夷中心の国になっていただろう

すでに2000年以上のあいだ、文字を持たない民族が勃興しても、最初は優勢であっても
すぐに新兵器を手にした文字を持つ民族によって滅ぼされた。

文字を持たない民族は新兵器を開発することができないため、たとえ一時的に勃興しても
すぐに滅ぼされてしまう。

蝦夷が文字を持たない民族であったため、文字を持つ文明からやってきた少数の人々が支配層になったが、
もし蝦夷文明が文字をもち渡来人の知識を理解できるくらい進んでいれば、
蝦夷は渡来人のもたらした知識を利用する側になっていただろう

226 :天之御名無主:05/01/23 22:53:07
>>223
にぎえみしは地方役人に戸籍登録してて普通に暮らしてる善良なえみし。
あらえみしは地方の役所とは関係なく好き勝手に自由に生きてる連中。

227 :天之御名無主:05/02/03 22:00:29
『続日本紀』
霊亀元年(715年)
十月二十九日 陸奥の蝦夷で第三等の邑良志別君宇蘇彌奈(おらしわけのきみうそみな)らが言上した。「親族が死亡してしまい、
子孫が数人しか残っていない。そのため常に蕃族に侵略されることを恐れている。どうか香河村に郡家を設けて、私たちを編戸の
民に入れて、長く安心していられるようにしていただきたい」と。
養老六年
四月十六日 陸奥の蝦夷・薩摩の隼人らを征討した将軍以下の官人たちと、征討に功績のあった蝦夷および通訳の者に、地位・
功績に応じて勲位を授けた。
養老七年
九月十七日 出羽国司・正六位上の多比真人家主が言上した。
 蝦夷らすべて五十二人は、征討のさいの功績が顕著ですが、まだ褒賞の恩典にあずかっておりません。彼らは首を長くして天
恩が下されることを待っています。謹んで思いますのに、よい餌をつけて釣れば、深い淵の魚も釣ることができ、俸禄を重くすれば、
忠節の臣があらわれるといいます。今、愚かな夷狄もようやく君命に奔走するようになりましたが、永らく彼らをいたわり慰めないと、
おそらくまた散りぢりになってしまうでしょう。そこで彼らの働きの有様を具申して、裁定を頂きたいと思います。
勅命があって、その功績に応じて、それぞれ褒美と位を与えた。
天平九年
四月十四日 陸奥国に派遣された持節(征夷)大使で従三位の藤原朝臣麻呂らが言上した。
夷狄たちは皆疑いと恐れの念を抱いております。そこで農耕に従事している蝦夷で、遠田郡の郡領・外従七位上の遠田君雄人を
海沿いの道に遣わし、帰順した蝦夷の和我君計安塁を山中の道に遣わし、それぞれ遣使の趣旨を告げてなだめ諭し、これを鎮撫
しました。・・・・・帰順した夷狄百四十人を率い、この大室駅に滞在し待機すること三日で、将軍東人の軍と合流して賊地に入り、道
を開拓しながら行軍しました。・・・・・帰順した夷狄らのいうところでは、比羅保許山から雄勝村に至る五十里あまりは、また平坦地
です。ただ二つの河があって、増水する度に両所とも船を用いて渡るといいます。・・・・・「雄勝村の服従した蝦夷の長ら三人が来て
拝首していうのに、『官軍が我々の村に入ろうとされていると承ります。不安にたえられず降伏を請うためにやってきました』といって
おります」と伝えてきました。・・・・・


228 :天之御名無主:05/02/03 22:06:34
天平宝字四年(760年)
正月二十一日 天皇は次のように勅した。
 ・・・・・また軍士や蝦夷の俘囚で軍功のあるものは、按察使が選び定めて奏聞せよ。
神護景雲元年(767年)
十月十五日 天皇は次のように勅した。
 ・・・・・また外従五位下の吉弥侯部真麻呂は、国のために率先して力を尽くし、ついに蝦夷をすなおに服従させ、夷狄の民はなつ
き従った。そこで外正五位下に昇進させる。その他の諸軍の軍毅以上の者や、諸国の軍士・蝦夷の俘囚などで、築城に際して功
績があり、叙位すべきものは、鎮守将軍がそれぞれ功労に応じて、等級を勘案し決定して奏上するように。
神護景雲元年(767年)
十二月八日 外従五位下の武蔵宿禰不破麻呂を武蔵国の国造に任じ、正四位上の道嶋宿禰嶋足を陸奥国の大国造に任じ、従五
位上の道嶋宿禰三山を国造に任じた。
宝亀元年(770年)
四月一日 陸奥国の黒川・賀美など十一郡の俘囚三千九百二十人が、次のように言上した。
「私どもの父祖はもと天皇の民でありましたが」、蝦夷にかどわかされて、卑しい蝦夷と同じ身分になりました。今はすでに敵(蝦夷)
を殺して、帰順し、子孫も増えております。どうか俘囚の名を除いて、調庸を納めさせていただくようお願いします」と。
この申請を許可した。
天平宝字二年(758年)
十二月八日 坂東の騎兵・鎮兵・役夫と帰順した蝦夷らを徴発して、桃生城・小勝柵を造営した。この造営には五道の諸国がみな参
加して、ともに築城の工事を行った。
神護景雲三年(769年)
十一月二十五日 陸奥国牡鹿郡の俘囚、少初位上・勲七等の大伴部押人が次のように言上した。
 伝え聞くところによりますと、押人らの先祖はもと紀伊国名草郡片岡里の人ということです。昔、先祖の大伴部直が蝦夷征伐の時、
陸奥国小田郡嶋田村に至り、住みつきました。その後、子孫は蝦夷の捕虜となり、数代を経て俘囚とされました。幸い尊い朝廷が天
下を治められるめぐり合わせとなり、優れた武威が辺境を制圧しているのを頼みとして、あの蝦夷の地を抜け出てから、すでに久しく
天皇の徳化のもとにある民となっています。そこで俘囚の名を除き、調庸を納める公民になることを申請します、と。
これを許可した。


229 :天之御名無主:05/02/03 22:12:32
宝亀十一年(780年)
三月二十二日 陸奥国上治郡(伊治郡)の大領・外従五位下の伊治公呰麻呂が反乱をおこし、衆徒を率いて按察使・参議・従四位
下の紀朝臣広純を伊治の城で殺した。・・・・・伊治公呰麻呂は俘囚の子孫である。初めは事情があって広純を嫌うことがあったが、
呰麻呂は恨みを隠し、広純に媚び仕えるふりをしていた。広純はたいそう彼を信用して特に気を許した。また牡鹿郡の大領の道嶋大
楯は同じ蝦夷出身でありながら常に呰麻呂をみさげあなどり、蝦夷としてあつかった。呰麻呂はこれを深く根に含み持っていた。・・・・・
蝦夷軍を率いて伊治城に入った時、大楯と呰麻呂がともに従っていた。ここで呰麻呂はひそかに敵に通じ、蝦夷の軍を導き誘って
反乱をおこした。まず大楯を殺し、衆徒を率いて按察使の広純を囲み、改めてこれを殺害した。・・・・・
天応元年(781年)
十月十六日・・・・・また軍功のあった蝦夷の人には等級に差をつけて、勲六等相当には一等を、勲八等相当には二等を、勲九等に
は三等を、勲十等には四等を授けた。

『日本後紀』巻一逸文
延暦十一年(792年)
正月十一日 陸奥国が言上した。斯波村の蝦夷で胆沢公阿奴志等が、使をよこして王化に帰したいと請うています。
『続日本紀』
斉明天皇4年(658年)7月
蝦夷(えみし)二百余、闕(みかど)に詣でて朝献(ものたてまつ)る。饗(あえ)賜ひて、贍(にぎはえ)給ふ。
常より加れること有り。仍(なお)柵養(きかふ)の蝦夷二人に位一階(しな)授く。渟代(ぬしろ)郡の大領沙尼具那(さにぐな)には小乙
下(せうおつげ)、少領(すけのみやっこ)宇婆左(うばさ)には建武、勇健者(いさみたけきもの)二人には位一階。
別に沙尼具那等に、鮹旗(たこはた)二十頭(はたち)・鼓二面・弓矢二具(そなえ)・鎧二領を賜ふ。
津軽郡の大領(こほりのみやっこ)馬武(めむ)に大乙上、少領(すけのみやっこ)青蒜(あおひる)に小乙下(せうおつげ)、勇健者(い
さみたけきもの)二人には位一階授く。
別に馬武等に、鮹旗(たこはた)二十頭(はたち)・鼓二面・弓矢二具(そなえ)・鎧二領賜ふ。
都岐沙羅(つきさら)の柵造(きのみやっこ)には位二階(しな)授く。判官(まつりごとひと)には位一階。渟足(ぬたり)の柵造大伴君
稲積には小乙下授く。

230 :天之御名無主:05/02/03 22:18:26
又、渟代(ぬしろ)郡の大領(こほりのみやっこ)沙尼具那(さにぐな)に詔して、蝦夷の戸口(へひと)と、虜(とりこ)の戸口とを検覈
(かむがへあなぐ)らしむ。
斉明天皇5年(659年)3月
是の月に、阿倍臣(あへのおみ)を遣して。
船師(ふないくさ)一百八十艘を率て、蝦夷国(えみしのくに)を討つ。阿倍臣、飽田(あぎた)・渟代(ぬしろ)、二郡の蝦夷二百四十一
人、其の虜三十一人、津軽郡の蝦夷一百十二人、其の虜四人、胆振金/且(いふりさへ)の蝦夷二十人を一所に簡(えら)び集めて、
大きに饗(あへ)たまひ禄賜(ものたま)ふ。即ち船一隻と、五色の綵帛〔しみの帛=絹)とを以て、彼(そ)の地(ところ)の神を祭る。肉
入籠(ししりこ)に至る。時に、問菟(とひう)の蝦夷胆鹿嶋(いかしま)・菟穂名(うほな)、二人進みて曰く、「後方羊蹄(しりへし)を以て、
政所(まつりごとどころ)とすべし」といふ。胆鹿嶋(いかしま)等が語(こと)に随ひて、遂に郡領(こほりのみやっこ)を置きて帰る。
道奥(みちのく)と越(こし)との国司(くにのみこともち)に位各二階(しな)、郡領(こほりのみやっこ)と主政とに各一階授く。
天武天皇下十一年三月二日、
陸奥(ミチノク)国の蝦夷(エミシ)二十二人に、爵位を請ふ。
同四月二十二日、
越(コシ)の蝦夷(エミシ)伊高岐那(イコキナ)等、俘人(トリコ)七十戸(ヘ)を一郡とせむと請す。乃ち聴す。
持統天皇二年(688年)十一月五日
蝦夷(エミシ)百九十余人、調賦(ミツキ)を負荷ひて誄(シノビコトタテマツ)る。
同十二月十二日
蝦夷(エミシ)の男女二百十三人に飛鳥寺の西の槻の下に饗(あへ)たまふ。仍りて冠位を授けて、物賜ふこと各差(シナ)有り。
文武天皇三年(699年)
四月二十五日 越後の蝦夷百六人に、身分に応じて位を授けた。
文武天皇三年(699年)
四月二十一日 陸奥の蝦夷らが君の姓を賜り、編戸の数に入り、公民の扱いを受けたいと申請し許可された。


231 :天之御名無主:05/02/03 22:22:21
霊亀元年(715年)
正月一日 天皇は大極殿に出御して、官人の朝賀を受けられた。皇太子は初めて礼服を着て朝賀に列した。陸奥・出羽の蝦夷に加え
て、南嶋の奄美・夜久・度感・信覚・球美等の島民が来朝し、土地の産物を貢上した。それを迎える儀式には、朱雀門の左右に、鼓吹
と騎兵を列にしてならばせた。元日の儀式に鉦や鼓を用いることはこのときから始まった。
霊亀元年(715年)
正月十五日 蝦夷と南嶋の人々七十七人に、地位に応じてそれぞれ位階を授けた。
養老二年(718年)
八月十四日 出羽と渡島の蝦夷八十七人が入京し、馬千疋を貢上した。よって位と録を授けた。
天平八年(736年)
四月二十九日 陸奥・出羽の二国で功労のあった郡司と、帰順している蝦夷二十七人にそれぞれの功績に応じて爵位を授けた。
天平勝宝五年(753年)
五月二十五日 この日、陸奥国牡鹿郡の人、外正六位下丸子牛麻呂・正七以上の丸子豊嶋ら二十四人に、牡鹿連の氏姓を賜った。
天平勝宝五年(753年)
八月二十五日 陸奥国の人、大初位下の丸子嶋足に牡鹿連の姓を賜った。
天平宝字二年(758年)
六月十一日 陸奥国が言上した。
去年八月以来、帰順した夷俘の男女は、千六百九十余人であります。彼らは故郷を遠く離れて、天皇の教化に浴することをのぞみ、
ある者は戦場を渉り歩いて、賊に怨を生じた者たちであります。これらすべては新たに帰順したものであって、まだ本当には安定し
ていません。また蝦夷の性質は狼のような心であって、ためらいがちで疑心多いものです。そこで望み願いますことは、天平十年閏
七月十四日の勅を准用して、種籾を給付し水田を耕作できるようにさせて、永く王民となし、辺境の軍にも充てようと思います。
これを許可された。
神護景雲三年(769年)
正月七日 天皇は法王宮に出御して、五位以上の官人と宴を催した。道鏡は五位以上の官人に摺衣を各一領、蝦夷に緋袍を各一
領与えた。・・・・・


232 :天之御名無主:05/02/03 22:25:54
神護景雲三年(769年)
三月十三日 陸奥国白河郡の人で、外正七位上の丈部子老・加美郡の人、丈部国益・標葉郡の人で、正六位上の丈部賀例努ら十
人に阿倍陸奥臣の姓を賜った。
 また安積郡の人で、外従七位下の丈部直継足に阿倍安積臣の姓を、信夫郡の人で外正六位上の丈部大庭らに阿倍信夫臣の姓
を、柴田郡の人で外正六位上の丈部嶋足に阿倍柴田臣の姓を、会津郡の人で外正八位下の丈部庭虫ら二人に阿倍会津臣の姓を、
磐城郡の人で外正六位上の丈部山際に於保磐城臣の姓を、牡鹿郡の人で外正八位下の春日部奥麻呂ら三人に武射臣の姓を、日
理郡の人で外従七位上の宗何部池守ら三人に湯坐日理連の姓を、白河郡の人で外正七位下の靱大伴部継人・黒川郡の人で、
外十六位下の靱大伴部弟虫ら八人に靱大伴連の姓を、行方郡の人で外正六位下の大伴部三田ら四人に大伴行方連の姓を、苅田
郡の人で外正六位上の大伴部人足に大伴苅田部の姓を、柴田郡の人で外従八位下の大伴部福麻呂に大伴柴田臣の姓を、磐瀬郡
の人で外正六位上の吉弥侯部人上磐瀬朝臣の姓を、宇多郡の人で外正六位外の吉弥侯部文知に上毛野陸奥公の姓を、名取郡の
人で外正七位下の吉弥侯部老人と、加美郡の人で外正七位下の吉弥侯部大成ら九人に上毛野名取朝臣の姓を、信夫郡の人で外
従八位下の吉弥侯部足山守ら七人に上毛野鍬山公の姓を、新田郡の人で外大初位上の吉弥侯部豊庭に上毛野中村公の姓を、信
夫郡の人で外少初位上の吉弥侯部広国に下毛野静戸公の姓を、玉造郡の人で外正七位上の吉弥侯部念丸ら七人に下毛野俯見公
の姓をそれぞれ賜った。これらの氏姓は大国造の道嶋宿禰嶋足の申請によるものであった。
宝亀二年(771年)
十一月十一日 陸奥国桃生郡の人で外従七位下の牡鹿連猪手に「道嶋宿禰」の氏姓を賜った。
宝亀三年(772年)
正月十六日 陸奥、出羽の蝦夷が郷里に帰るため、地位に応じて位階と物とを賜った。
宝亀三年(772年)
七月十七日 陸奥国安積郡の人、丈部継守ら十三人に「阿部安積臣」の氏姓を賜った。


233 :天之御名無主:05/02/03 22:27:18
宝亀三年(772年)
五月五日 陸奥国が次のように言上した。
遠田郡の郡領で外正八位上・勲八等の遠田公押人が訴えて「私はすでに蝦夷の濁った風習を洗い落として、その上天皇の清らかな
教化を敬い慕っております。もうその志は内地の民と同じで、習わしは立派なこの国を手本と仰いでいます。ところが、まだ田夷の姓
を免除されず、長く子孫に恥を残すことになります。どうか他の公民と同じように夷の姓を改めて下さるようお願いします」といっていま
す。ここに天皇は「遠田臣」の氏姓を賜った。

234 :天之御名無主:05/02/03 22:33:19
俘囚の倭人化
大和朝延側の文化を受け入れ、その叙位・姓氏を受けるようになると、俘囚勢力は大和朝廷側にとって蝦夷を掣肘する有効な
勢力・手段となるのである。さて、当時の俘囚の文化状態であるが、彼らは即吟に歌を詠ずるまでの文学レベルを有していた。

「年を経し糸のみだれの苦しさに、衣のたてはほころびにけり」

 これは貞任が義家から弓をつがえて「衣のたてはほころびにけり」との呼びかけに応じて「年を経し糸のみだれの苦しさに」と
即吟して死を免れたと言う伝説の和歌である。また宗任は捕虜となって京都へ行った時に、大宮人からか「夷荻はとうてい梅な
どは知るまい」とばかりに、梅の一枝を示された時に、

「我国の梅の花とは思へども、大宮人はなにと言ふらん」

と応じたので、さすがの大宮人も返歌が出来ず、大いに閉口したと伝えられている。むろん作りごとではあろうが、ともかく、彼ら
の文化は相当に倭人化していたと当時信じられていたことを示している。「陸奥話記」を見ると、安倍貞任が厨川に敵を防いだ時
の戦法は、後年楠木正成が千早城において敵を防いだ戦法とほとんどおなじである。このほか、「陸奥話記」を読んでみると、そ
の当時の奥州の俘囚は直接京都の文化を輸入している。すくなくとも、俘囚長安倍氏は京文化を十分に取り入れていたのである。

『続日本紀』は、あちこちで、この俘囚を朝廷が、全国各地に分置・移民させたことを伝えている。
〈聖武紀〉神亀二(725)年間正月の条に、「陸奥国俘囚百四十四人を伊予国に配し、五百七十八人を筑紫に配し、十五人を和泉
の監に配す」とある。
 強制移住全体の規模ははっきりしないが、記録に残るもので二千名、延喜式の推計からは四千六百名、 実際には一万名を上
回る人々が三十五ケ国に分散移住させられたと見られている。俘囚は、入植させられた国々で局部的な軍事・警察集団として利
用されるなど、大和王権に奉仕を強要された。
 そのことは『延喜式』や主税帳)に、各国の正税(国税)の内訳が記されており、その中に「修理池溝料」(潅漑用水などの修理に
あてる稲の糧)などと並んで、「俘囚料」の項が現われていることから知られる。


235 :天之御名無主:05/02/03 22:40:32
概して、蝦夷は団結力が足りない。


236 :天之御名無主:05/02/03 23:46:54
団結も何も…
そもそも連中は同族なのか?

237 :天之御名無主:05/02/04 00:01:29
>>236
部族化していたから団結力がなかったともいえるが、本質的に団結力が無いとも言えるかもしれない。

238 :天之御名無主:05/02/04 02:17:13
百済滅亡した時、多くの百済人が亡命してきた。
その数は相当な数だったそうである。
韓国人はそれらの百済人が全て「奈良」や「難波」などの首都圏に居住し、貴族としての
待遇を受けたと信じている。

それ・・・違うから(w
亡命百済人で当時の日本政府から重用されたのは、建築、彫刻などの職人達であり、居住
区域を決められ、職人集団を作っていた。彼らはその技術的需要と消費地に近い首都周辺
に居住した。

他の百済人はどうしたかって?
棄民ですよ。棄民。
 亡命百済人の集団は、百済国王以下が当時としては開拓もされておらず、大和朝廷の支
配も及ばない陸奥の国(現在の青森〜宮城)に送り込まれ、金鉱の採掘に従事させられた。
 金鉱が発見されたことから、その褒賞として百済国王には官位が与えられ、都に居住す
ることが許されたが、天皇に面会できる地位は与えられなかった。
 百済国王は中級貴族として都に住むことが出来るようになったが、それ以外の技術を持
たない百済人は、鉱山労働者として使用され
 死に絶えた。

239 :天之御名無主:05/02/08 00:21:28
>199

平将門の乱とかは奴を担いでいる連中
がいるわけだろ。その連中は反乱を
起こしていたわけだ。

その担いでた連中は今よりさらに濃いー顔の
連中だったんじゃないかな。

240 :天之御名無主:05/02/08 00:26:48
能やら狂言に出てくる土蜘蛛って
アイヌそっくりじゃねーか?

なんかわざわざこんなこと語る必要ないような。

241 :天之御名無主:05/02/08 01:45:34
>>240
>土蜘蛛の多くが「姫」の名でよばれていたことから分かるように、
>土蜘蛛族の首領は女性であったことからも、土蜘蛛が美女に身を託して現れる

微妙だな。。



242 :天之御名無主:05/02/08 09:37:30
土蜘蛛、姫、背が高い絶世の美女
姫と言えば、高句麗の菊理姫が思い浮かぶんだが・・・

243 :天之御名無主:05/02/10 03:59:40
高句麗の菊理姫???

244 :天之御名無主:05/02/17 22:56:52
>>195
>土蜘蛛は古代北部九州で原始的生活を行っていた集団...
北部九州?古代って、西暦でいって何年代位のですか?土蜘蛛は、神武に制圧された
大和地域の先住民を指す記紀で使われている蔑称でなかったか。

245 :天之御名無主:05/02/20 14:10:11
>>244
それだとまた時代背景が異なるのだが。

246 :天之御名無主:2005/05/13(金) 20:16:56
>>234
「大宮人梅にも懲りず桜かな」by伊達政宗

247 :天之御名無主:2005/05/13(金) 20:46:49
違うよ。蝦夷こそ実は邪馬台国だったのだよ。
大湯の辺りに女王国があったのだ。八幡平をなぜ「ハチマンタイ」
と呼ぶか。実はヤマタイの当て字だったのだ。
どうしてわかるかって?魏志倭人伝の交通の里程をみてみるがいい。
九州や奈良では近すぎる。それを考古学者が歪めて解釈しているのだ。
高度な文明がここにあったのは、縄文時代から三内丸山や、津軽外
三郡誌の安東氏の存在を見ても明白である。

本当の邪馬台国は、馬の産地でもある東北だったのだ。そして蝦夷と
いうのは武力で征服し、歴史を改竄した大和朝廷の天毎氏がレッテル
を貼ったのだ。


248 :天之御名無主:2005/05/14(土) 19:53:32
まじいってるのか?
田舎物の東北人の蝦夷が、文明人のわけないじゃん。

249 :天之御名無主:2005/05/18(水) 00:51:55



掲示板でHなWEBを宣伝する者には天罰が必ずある!!!









250 :天之御名無主:2005/05/18(水) 06:54:41
古代以前  古代  平安    鎌倉以降現代

縄文人→→エミシ→→エゾ→→→→アイヌ
        L→ニギエミシ→東日本人

弥生人→→ヤマト→→畿内人→→→近畿、瀬戸内人

こんなところ?


251 :天之御名無主:2005/05/22(日) 14:17:05
風土記に青森の蝦夷と福島の土蜘蛛が力をあわせて朝廷と戦ったっていう記述もあるが
蝦夷と土蜘蛛って系統が違うのか?

252 :天之御名無主:2005/05/22(日) 15:00:06
朝鮮人の朝廷に逆らって何が悪い。

253 :天之御名無主:2005/05/22(日) 16:14:53
>>247
鯨統一郎の「邪馬台国はどこですか?」か。
あれには笑わせられたなあ。

254 :天之御名無主:2005/05/22(日) 20:06:06
>>250
東日本人?関東人が朝廷に逆らった事実はないけどな
蝦夷は免税や衣類を支給してもらうなど朝廷から優遇されていたはず

255 :天之御名無主:2005/05/22(日) 20:10:46
蝦夷の反乱を抑えるために関東の住民と東北の住民入れ替えるという策もあったらしい。
実際関東人の東北への入植は大々的に行われた。
東北の方言や姓が関東風なのはそのため。

256 :天之御名無主:2005/05/23(月) 21:16:23
平安時代までの関東人は
いわば「お味方エミシ」。朝廷に従順な先住民族。
それがゆえに防人に徴発されるなどの悲劇が続いた。
対東北戦争には中国仕込みの「夷をもって夷を制す」政策で、
関東縄文系農民を動員、同族である蝦夷と戦わせた。

住民交換も原則的に同民族だったから。
頑強に抵抗した東北先住民も、同族が優遇されているのを見て
次第に帰順していった。
それでも中央派遣貴族により先住民圧迫は続き
乱が続いた。

257 :天之御名無主:2005/05/23(月) 22:03:15
妄想乙

258 :天之御名無主:2005/06/04(土) 20:55:55
関東人に限らず、他国からの東北入植は、発掘物を見れば明らか。
関東から防人として派兵されたり、高句麗人により関東入植がなされた通り、
古代に大規模な人の移動があったのは、周知の事実。

259 :天之御名無主:2005/06/05(日) 19:16:47
「征夷大将軍」がなぜ鎌倉に幕府を開いたか。
「幕府」とは最前線の最高司令官司令部。
多分鎌倉時代頃まで、関東は「ニギエミシ」の地だったろう。

260 :天之御名無主:2005/06/08(水) 18:40:08
奈良時代の人口六百万と仮定して
東日本は東北のぞいて三百万ぐらいか。
数千のツングース系(高句麗遺民、百済支配者層亡命者)が流入しても、
さほど影響は与えなかったろう。
関東と東北の住民交代は記録されていても、
わざわざ畿内の弥生系良民を、関東に入植させることは少なかったのではない?

これだけ交通と住民移動の発達した現代でも、
東日本と西日本では頭長指数、血液の組成、風俗習慣にかなりの差がある。

エミシとは決して異民族ではなく我々日本人、
特に東日本人の「ある時点」での民族名称だったと思う。

261 :天之御名無主:2005/06/12(日) 16:06:17
【歴史】 「蝦夷(えみし)」はアイヌ民族か和人か…本格的な研究開始
http://live14.2ch.net/test/read.cgi/wildplus/1118558663/

262 :天之御名無主:2005/06/12(日) 23:44:03
>>193,194
東北は馬の産地、馬の文化だからね。
なるほど。

263 :天之御名無主:2005/06/13(月) 07:25:12
また妙なことを。
「アイヌ民族」成立なんて南北朝以降のことでしょう。
またなにをもって和人とするかだ。

蝦夷と呼ばれた人々が縄文人の子孫であり、
徐々に和人(弥生人)の文化的、遺伝的影響を受けて
現在の東日本人になったはず。
アイヌ民族は和人化を拒否し、影響を受けつつも独自文化を
築き、今日にいたった。

いわばアイヌ民族はエミシの正統後裔。
東日本人は和人化したエミシ。
ではないの?

264 :天之御名無主:2005/06/13(月) 23:09:49
>>262
東北の馬文化とは?馬に荷をつけることか?民俗族学者の宮本常一氏は、
「とくに東日本における馬の使い方を見ますと、馬へは乗るものでは
なかった。馬へは荷をつける、そういうことはあった。しかもその馬を
人間が引っぱっていく。口取りした馬を、荷をつけて引っぱていく。
人間が乗る場合でも口取りがついていたのです。」
モンゴルでは、普通馬に荷をつけない。馬は労働の道具でなく乗るもの。
騎乗が上手で口取りも必要無い。

しかも、軽装騎兵による波状攻撃においても、モンゴル帝国時代に
成立した要素が多いと思うが、それよりも前の時代に蝦夷によって
成立したのか?思い切って、世界に向け蝦夷こそが、騎馬戦法を確立した
と発表すればどうか?面白いと思う。

それと、律令軍「百姓苦役 無過鎮兵」の士気の低い兵を相手に善戦した
ことが誇りなのか。結局敗北したことには変わりないのだが。

265 :天之御名無主:2005/06/14(火) 19:57:43
京都名物
「馬並み忠兵衛」って六代目だっけ、七代目だっけ?

266 :天之御名無主:2005/06/14(火) 20:49:06
戦闘用荷役用色々あるでしょ。馬文化っていっても。

>>264
否定的なレスですが東日本に馬文化があるのが不満ですか?


267 :天之御名無主:2005/06/15(水) 00:35:44
>>266
また宮本常一氏の引用、「本当に馬へ乗る高い技術をもたなかった人
たちが、東日本にはたくさんいたのだといってよいのではないか。
(中略)なぜそうなったのだろうかというと、じつは東北の人たちは
昔から馬を飼っていたのです。(中略)一つの家の宝として、財産と
して、そういうものを飼っていたのです。そういう習俗が、東日本に
ずうっと見られたのではないでしょうか。」

つまり乗馬技術は、西日本から輸入吸収し、馬へ荷をつける伝統が、
東日本の馬文化ということですか?

268 :天之御名無主:2005/06/15(水) 11:44:59
東日本つまり関東から含めると歴史は見えないよ。関東は蝦夷の文化を
持ってない。北は騎士文化ですね、西は馬食文化、大きく違いますね。

269 :天之御名無主:2005/06/15(水) 12:29:23
ちゃぐちゃぐ馬っ子って知ってる? あれは東北の文化と言えるものなんだけど、
あれ実は馬の前に猿回しがいるの。でも、その猿回しは排除されて民芸品なんかで
売られているんだけど、馬はとても大切なものという文化は確かに東北にはあるし、
馬は食べない。 また、その猿回しを排除した事で一部のうるさい団体がなんか
いちゃもんつけてるみたいだけどw 猿回しは渡来文化であって、
とってつけたようなものなんだよね。

270 :天之御名無主:2005/06/15(水) 20:24:41
>>267
否定的なレスですが東日本に馬文化があるのが不満ですか?

蝦夷全盛期以前と以後も考慮しないの?

271 :天之御名無主:2005/06/15(水) 20:26:36
>>267
宮本常一の引用だけじゃ否定するのは厳しいよ。



272 :天之御名無主:2005/06/16(木) 00:01:12
>>268
幅広い視野から観るのが歴史であると思ってますので、申し訳ないですが、
関東との違いについて詳しく伺いたいのです。
それに西は馬食文化で、北の騎士文化とは何のことですか?
>>269
馬を食べないというのは本当か?確か秋田県か青森県か覚えて無いが、
鉱山抗夫の肺病予防に食べられたというのは違うのか?
もちろん西日本においても多くの地域で馬は食べている。モンゴルは、
現在チベット仏教の影響で食べんそうだが、カザフやブリアートでは
食べられており、中世モンゴル的文化の影響のあるシベリアのヤクート
(サハ)族も馬肉を生で食べる。
猿回しは、渡来文化とされるのであれば、それはどの地域からの伝承か?
東北アジアには、猿がおらんし。東南アジアの何処かになるのか?
>>270
そもそも蝦夷の全盛期とは?
>>271
宮本常一氏の考察を書いて、困ることでもあるのか?
東北マンセー学者の東北側だけの考えで、肯定するのは厳しいよ。

273 :天之御名無主:2005/06/16(木) 09:30:16
>>272
馬なんか食べないよ。鉱業が栄えていた時代というのは明治〜昭和にかけて
でしょう? 抗夫にはたくさんの朝鮮人労働者がいたらしい。
テレビでみたよ。松尾鉱山にも多くの朝鮮人がいたんだって。仙台あたりでは
一種独特な文化に合わない名物があるよね? 牛タンとか冷麺とか、東北の
地元の人は食べないし、そんなに人が思うほど、東北地方に全く浸透してない。

猿回しの文化は渡来系だという事しか分からないけど、まぁ調べればすぐ分かるんじゃないかな?w
動物を使って見世物にしたり、馬鹿にしたり、何でも食べたりというのはまず考えにくい。
東北には他の地方にない稲作文化があるから、不要だったと思う。

西日本のように鉱業もなく農業もない場所の方が野犬とか馬とか食べる習慣が
あったと思うのだけど。 彼らこそ何を主食にしていたんだろう?


274 :天之御名無主:2005/06/16(木) 20:30:55
蝦夷と聞いただけでなぜか否定的になる人が予想通り表れましたね〜。
やっぱ何かあるし臭いよね。やはり文化人類学のあるパラダイムを崩されるのが嫌なんだろうね。
かって東アジア反日武装戦線が沖縄と東北に蜂起を呼びかけた?から知らないけど
この手の人間には蝦夷をマンセーしただけで共産主義者呼ばわりされるから要注意


>>272
>宮本常一氏の考察を書いて、困ることでもあるのか?
君に都合のいい宮本常一の考察以外は無いのか?って聞いてるんだけど。

>>273
東北での例外は会津地方と津軽
会津では伝統的に馬を食べる文化があったはず。津軽は最近かも。


275 :天之御名無主:2005/06/17(金) 02:29:54
>>273
抗夫にはたくさんの朝鮮人労働者がいたらしいと、朝鮮人が馬肉を
喰うたとでも言いたいのか知らんが、朝鮮半島で、古代は別として、
中世、近世及び現在の韓国でも馬肉は一般的に喰われておるのか?
西日本は鉱業も農業のないのか。まあ冗談であろう。西日本で、
犬や牛馬を、食べる習慣は、中世の遺跡からも確認出来る。
>>274
蝦夷のどの部分を否定したのか具体的にいわれた方がよいと思う。
文化人類学の「ある」パラダイムを崩されるとは何ですか?
抽象的すぎて、無知なわたくしには解りません。
この手の人間ですか。早速罵倒開始ですか。しかも自ら蝦夷マンセーと
認めておられる。疑問点を述べただけなのに「要注意人物」とレッテルを
はり、自分達だけの妄想を楽しんでおるのですか。
宮本常一氏の考察についても解答せずに、氏以外の考察ですか。
それでは、あなたにとって不都合なことでもあるのかと思える。
まず蝦夷は関東も含むのか?それとも東北だけか?

276 :天之御名無主:2005/06/17(金) 03:21:39 ?
http://www5.tok2.com/home2/okunouso/daitara.jpg

これは何を意味するのか 実体はこうだ。

つまり、富士山から筑波山まで見渡すかぎり、関東地方はほとんどが多羅人で占められていた、ということを意味するのである。

それが都にダイダラボッチ(多羅人きりの土地)と伝わっていったのだ。(中略)「ボッチ」とはまさに文字通り、「ひとりぼっち」「これぼっち」のボッチであって、
「…きり」という意味であり、ダイダラのダイとは多羅に美称の大をつけた大多羅
のことだ。すなわち、「ダイダラボッチ」とは大多羅ばかりだ、ということを表している
のである。後世、平将門が「我こそは関東の天皇だ」と朝廷にたてつくのもこうし
た背景があったからだ。

↑を見る限り関東は蝦夷ではないのではないでしょうか。

277 :276:2005/06/17(金) 03:22:56 ?
参考HP
http://www5.tok2.com/home2/okunouso/jun.htm
http://www5.tok2.com/home2/okunouso/index.htm

278 :天之御名無主:2005/06/17(金) 06:46:29
古代以前  古代  平安    鎌倉以降現代

縄文人→→エミシ→→エゾ→→→→アイヌ
        L→ニギエミシ→東日本人

弥生人→→ヤマト→→畿内人→→→近畿、瀬戸内人


地域的に言うと(南北朝ぐらいまでの認識)

関東    南東北   北東北  北海道
ニギエミシ アラエミシ ツガル  渡党


279 :天之御名無主:2005/06/17(金) 11:15:14
>>276
関東を蝦夷だと思ってたわけ?w 君あまりに勉強不足だよ。

280 :天之御名無主:2005/06/19(日) 01:29:41
東北蝦夷で検索 28,300 件
関東蝦夷で検索 2件w

281 :天之御名無主:2005/06/19(日) 16:06:20
なんか突っ込むのも馬鹿馬鹿しいが
スレを読んでから発言汁
あとこれも嫁
ttp://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r12-112.htmより
>  しかし、われわれが考えるように、蝦夷の人たちは、もともと東北地方の奥のほう(陸奥)にいたのではなく、
>平安京遷都の時点(8世紀末)では、現在の地域でいえば信州諏訪の辺りから関東全域、
>そして東北地方全体で広範囲に生活圏を有していたのである。
>それが歴史を経るに従って、例えば、もともと摂津國に本拠を置いていた武家集団の源氏が関東へ進出する(八幡太郎義家)ことによって、
>睦奥に追い込まれ、徳川幕府が成立するころには、ほとんどすっかり蝦夷ケ島、
>つまり現在の北海道へどんどん追いやられるようになったのである。>
現在の関東地方は、かつては「坂東」と呼ばれ、京都の朝廷側から見ると、鎌倉の幕府政権ですら、
>最初は「東戎(あずまえびす)」と蔑まれていたのである。つまり「戎=蝦夷」であるということである。
>つまり、調停側からは、関東の武家集団は蝦夷の一部であると同様のものであると少なくとも見られていたのである。

282 :天之御名無主:2005/06/20(月) 07:10:30
うろ覚えなのだが
仙台の牛たんは地元名物をつくろうってことで
戦後に出てきたものだとかいう話を去年テレビで見た気がする
まあもともとあったもんを名物にしたてあげたのかもしんないけど

283 :天之御名無主:2005/06/20(月) 08:26:04
>>281
それはファンタジーだと思うよ。日本の鉱業のメインは蝦夷の土地だからね。
平安時代に金は産出されているし、鉱業はずっと盛んだった。
日本が黄金の国であったというなら、それは金が取れる場所でしょう?
日本のゴールドラッシュは蝦夷にありだよ。そんなお宝みすみす逃すほど、
朝廷ってバカだったのかな?w 私は関西なんて何のゲイもない場所に住んで、
食べるものさえもどうやって確保してきたのか分からない。

凄い生命力だと感心するけど。

>>282
だから、あれは地元の食べ物なんかじゃないよ。冷麺もねw

284 :天之御名無主:2005/06/20(月) 11:36:18
自分の知らないことが出てくると妄想だファンタジーだとか捏造にしたがる人がいるな
哀れだ

285 :天之御名無主:2005/06/20(月) 12:44:18
>>284
じゃぁ、資源も資金も食の源力もないのにどうやって朝廷は生きてきたの?w
どんな権力を持っていたというの?w

286 :天之御名無主:2005/06/20(月) 15:12:42
略奪。

287 :天之御名無主:2005/06/20(月) 16:38:33
>>286
海賊か?w 貧しいのぉ〜。貧乏人はこれだから嫌だ。

288 :天之御名無主:2005/06/21(火) 22:41:49
蝦夷は文字を持っていなかった(とれされる)から、
文字を持つ民族との科学・技術の発展のスピードが違いすぎる
どっちにしろ蝦夷が文字を持ってなかったので他の民族に支配・同化されるのは必死だったかと

289 :天之御名無主:2005/06/22(水) 00:57:39
アイノ文字があったじゃない

290 :天之御名無主:2005/06/22(水) 00:59:49
アイヌ文字
アイノ文字
北海道異体文字
http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/photo/ainu.jpg
明治中期 人類学者、坪井正五郎が『東京人類学会誌 18、22号』にて
「北海道異体文字」として初めて紹介する。石片や土器、太刀、獣皮、木片
などに先刻され北海道余市近辺にて出土。特に1千年も前の古い時代の物
であると認定された「六角柱石片」には、アイノ文字が記されており確たる証拠
となっている。
「明治以前に、アイヌ人が文字を持つわけがない。」というのが学説であるが、ウ
エツ書や秀真伝、九鬼文書に、エゾノ国(蝦夷)を治める。といった記載がある
ことから一概にアイヌ人が未開拓人であった。と考えるのは早計である。

291 :天之御名無主:2005/06/22(水) 05:56:21

大師が杖を突いたら泉が湧いた?:
http://www5.tok2.com/home2/okunouso/08alty.htm#altymap



292 :天之御名無主:2005/06/22(水) 14:41:35
アイヌはアイヌ。蝦夷は蝦夷。

293 :天之御名無主:2005/06/23(木) 14:22:48
なんかそのアイヌ文字って子音の記号と母音の記号を組み合わせて一文字にしてるあたりが
ハングルと近い感じがするなぁ

ttp://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/korea/lang.html
ここを見るとハングルの方が新しいみたいだから
ハングルってアイヌ文字のパクりかもな

294 :天之御名無主:2005/06/23(木) 23:33:12
>>293
どこみてんだよw
子音と母音の組み合わせではまったくないのだが・・・

295 :天之御名無主:2005/06/24(金) 01:22:06
>>290
中国の感じをパクッて改変した仮名文字より遥かに独自性があるね。


296 :天之御名無主:2005/06/24(金) 01:25:32
文化的独自性

アイノ文字>>>>>>>>>>>仮名文字

やはり中国や朝鮮のパクリ文化に過ぎない大和文化はあまり価値がないと思う。
中国からの観光客も京都より富士山が好きだし。

297 :天之御名無主:2005/06/24(金) 03:42:00
>>296
また妄想が始まったか。

298 :天之御名無主:2005/06/24(金) 20:11:54
藤原エミシと関係ありますか?

299 :天之御名無主:2005/06/25(土) 15:06:18
大宰府や対馬を経由する西側の大陸貿易路とは別に、
たとえば佐渡や北海道、樺太を経由して大陸と交易する、北のルートのようなものがあったのではないか。
仮に、日本人がかつて大陸から渡って来たとして、西と北のルートでは、それぞれ民族が違うのではないか。
西が大和民族で、北が蝦夷ってことはないか。


300 :天之御名無主:2005/06/25(土) 18:59:30
佐渡や日本海沿岸は、拉致でもわかるように、割合簡単に出入りできてしまう。
昔はもっと簡単に行き来しただろうね。

301 :天之御名無主:2005/06/26(日) 14:12:49
東北人のイメージで顔が薄い人間を想像するのは関西人ですね。
それは東北に入植した自らの末裔を見てるに過ぎませんし。

302 :天之御名無主:2005/06/28(火) 22:15:48
今日の白川の関以北の東北人の事

303 :天之御名無主:2005/07/17(日) 13:23:32
何故か魏志倭人伝などの「毛人」を「東北地方の住民のこと」と説明してある書籍やサイトが多い。
しかしその当時、東北制服(侵略)はどの位進んでいたのか?
「毛野国」といえばまず、北関東の群馬、栃木。
その後、ハゲになって上野国、下野国と呼ばれているが、もともとは毛があった。
毛人というのは太田周辺の住民のことじゃないのか?
同様に「ヒタカミ」は一般に北東北、特に北上川流域を指す言葉と思われているが、古代「ヒタカミ」
には茨城を指す言葉だったらしい。北関東には東北と同じ匂いがする。
以下の地域は全部東北地方(みちのく)。
青森岩手秋田宮城山形福島新潟(下越中越)茨城栃木群馬埼玉

脳内で「ヒタカミ重工」という地味でよいものを作るもと軍需産業があるが、
脳内エンブレムがホンダとヒュンダイと区別できず困っている。
しかし、歴史的に「毛人重工」も同じ位カッコイイと思ったらあるじゃねえか。
今からドライブ逝ってくるよ。



304 :天之御名無主:2005/07/17(日) 13:27:49
福島、郡山が余計な合併して湖に滲出するから会津の東の境界がわからなくなった。

湖は会津!郡山は会津じゃないだろ。

305 :天之御名無主:2005/07/17(日) 13:29:05
本当は亘理までが福島県、遊佐までは秋田県のはずだよな。

変な統廃合しやがって。

306 :天之御名無主:2005/07/17(日) 13:56:51
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/4sumi1.html
東北・関東は山人(倭奴人、ワイヌ)とは異なる
出雲朝鮮人の土地。どうりで顔が薄いわけだ・・

307 :天之御名無主:2005/07/17(日) 14:05:24
渡来した人は極めて少数で先住民と共同して国作った。
彼らは、山の民を山人、海、川の民を隼人と名付けた。
ハヤとは魚の名称(ウグイ)にも引き継がれているね。
(ハヤとよぶのは九州地方。)
山門が山に拘るわけ・・土蜘蛛は縄文人の
アウトロー的存在だったのだろう、しかし、縄文人はほとんど
渡来系に九州された。

308 :天之御名無主:2005/07/21(木) 23:31:07
●濊(カイ)
 濊は南は辰韓と、北は高句麗、沃沮と接し、東は日本海に窮まる。朝鮮
(中国領)の東は皆その濊の土地です。戸数は二万。大君主はいないと
されています。ここも高句麗の同族と唱えていました。言語や法俗は
ほとんど高句麗と同じで、衣服に違いがある。真珠や玉は宝としません。
 武帝に追われた「濊王の印」を持つ一族で、北方に逃れた主力が夫余
となり、東方に移動したものがこの濊になったと解釈すればいいようです。
濊はおそらくタイの転訛で、楚人が先住の北方系民族の上位に入って建国
した国かと思えます。
 朝鮮民族の祖とされる檀君は熊から生まれたとされていて、楚の熊
トーテムに一致しています。濊は虎トーテムだったらしく、虎を祭って神
としています。これは熊と同時期に、人間に変りたいと穴にこもったが、
途中で挫折して失敗したとされている動物ですから、熊トーテムの下位に
置かれていた部族と見当が付けられます。
 中国では虎のことを李父や李耳といいますから、濊の首長階級は李姓と
考えられ、そして、これはトゥチャ族(=巴の李氏は虎トーテム)の
可能性濃厚です。加藤清正の虎退治も、当時の朝鮮が虎トーテムの
李氏朝鮮だったため、このように表現されたもので、実際に虎と戦った
わけではないでしょう。
 夫余は北方系民族(東胡)に楚人が融合した熊トーテムと考えられますが
(*)、そこに狗トーテムの越王の血が入り、朱蒙(鄒牟=騶)が南方で
独立して高句麗を建てた。夫余から分かれて東方に展開した濊は、
その下位氏族で虎トーテムだったという順序になるようです。
 (*/高句麗本義では、天帝の子と名乗る夫余王、解慕漱が熊心山に
結びつけられています。)
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/4/2_4.htm

アイヌは自らをカイというけどどういう関係かな・・

309 :天之御名無主:2005/07/29(金) 16:01:31
■ハングル板基本用語解説■其の14

(理由2) <<白丁(ペクチョン)>> 日韓併合されるまで朝鮮に存在していた被差別階級。在日=白丁とされる韓国では
現在でも在日は差別される。実際は全ての在日が白丁な訳ではないがその多くは朝鮮社会での被差別階級だった。朝鮮の身
分階級は大別して「良人(両班、中人等)」「賤人=奴隷」とあり、「賤人」のうち個人所有=民婢、公有=官婢と称した。
国家的奴隷制、贈り物・相続・売買され、殺生しても罪に問われなかった(←部落との違い)「白丁」は、これの更に下層
に奴隷以下の被差別民として位置づけられた。李朝時代に身分として固定され、柳細工の製造販売や屠畜などに従事、衣服
も指定され、居住地も制限され、目印として平壌笠と呼ばれる笠をかぶらねばならなかった。(コピペ)
(理由3) <<済州島出身者>> 白丁よりも済州島が多い。ソウル>地方>全羅道>白丁>済州島 済州島に対する差別
は酷く、完全な野蛮人扱い。済州島出身者との結婚となると、在日の間でさえ「血が汚れる」と一族が猛反対。
1948年、南朝鮮の単独選挙に反対する南朝鮮労働党が組織した済州島四・三蜂起が発生し、朝鮮戦争後の1950年代
半ばまで、弾圧とテロ、山岳ゲリラ活動が続き、のべ8万人の島民が殺されたとされている。今日でも、済州島は反中央の
気風と結びつけて語られることが多く、半島には済州島出身者への差別意識が残っていると論じられることも多い。
済州島は、民族的に陸(半島)と著しく異なり、倭人に近い。昔は独立国だったが、いつの頃か朝鮮に侵略されて現在に至
る。ただ、完全な支配となると意外と新しく、三別抄の乱後、元寇以後になるんじゃないかな。日本では、神功皇后が済州
島を征伐し、その時百済に与えたと伝えられてる。 (コピペ)

――戦後の補償と謝罪―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
戦後の補償と謝罪に関するデータ http://tenpura_c.tripod.co.jp/


360 :日本@名無史さん :2005/07/29(金) 15:41:29
早い話満州人が倭人(縄文)をB扱いして差別・排除してきただけだね。
半島も日本も構造は同じじゃん。

310 :天之御名無主:2005/08/05(金) 00:40:09
>>264>>267>>272>>275
ルイス・フロイス「ヨーロッパ文化と日本文化」>西洋人は馬に乗ったまま戦うが日本人は戦闘になると降りる。
「雑兵物語」>東国の武者は馬術に長け馬に乗ったまま戦う。
時代としてはこっちのソースのが古い。

311 :天之御名無主:2005/08/25(木) 06:34:53
>>308
そのページは電波サイトだから参考にならないよ

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