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沈む?! ポパースレッド

1 :考える名無しさん:02/04/05 09:47
無いようなのでつくってみました
とりあえず一つだけローカルルール
あげ禁止
常時sage進行


2 ::02/04/05 09:49
さぁ!どんどん沈め!

3 :考える名無しさん:02/04/05 09:50
トマス学者はトミスト
ポパー学者はポパリアン。
「ポパリアン」可愛いよ。「宇宙少女ポパリアン」みたいな。
ごめん。ちょっと本読んでからマジレスする、と約束してちょっと逝ってくる。

4 ::02/04/05 10:00
ポパーて時々自分で言ってることと自分でやってることが違うときあるよな
今読んでる原稿でもそういうところがあるけど
それでもポパー先生のそういうところが好きです


5 :3:02/04/05 10:06
「今読んでる原稿」とは?

6 ::02/04/05 10:33
京都賞受賞時の講演資料

例えばポパー先生は「本質的にどうであるか」という議論は議論の対象として
あまり適切ではないということを述べているけど
この資料では何の注釈もなく「本質的に」という言葉を使っていたり
他にも義務論についての民主主義国家と独裁国家の例えはポパー先生の民主主義理解とはちと違ったり
まぁ本論とは無関係だし講演だしさらに講演内容には日本へのお世辞すらあるけど
「ポパー先生!」ってつい口に出したくなってしまう

あとポパー先生の非決定論支持もどことなくそういうにおいがするかな



7 :考える名無しさん:02/04/05 11:23
なんか心理学を全面否定しているのかと思ったら
批判しているのはフロイト・アドラーで
自分はカールビューラーの影響を受けつつ
ゲシュタルト学説的な認知心理学あるいは発達心理学の方向に逝っていたというのがズッコけた
ピアジュの思想に近いだとよー

8 :考える名無しさん:02/04/05 11:25
帰化の問題は今の日本に重要だ!

9 :考える名無しさん:02/04/05 11:52
>>3
どっちかっつうと「ポッペリアン」でしょう

>>7
だって反証可能ならOKなんですもの

10 :考える名無しさん:02/04/05 12:15
>>9
んでも反証不可能でも科学的でないという立場を取れば別に構わないんだな これが
本人がまた反証不可能な領域に好き好んで言及してるし

11 :考える名無しさん:02/04/05 13:09
沈め沈め〜

12 :3:02/04/05 14:21
>>9
こんなことで言い争いたくないが、「ペ」とは発音せんだろうし、「ッ」はいらんだろう。
「ハイデッガー」派か? おれは「ハイデガー」と書くが。
(まあこれには東日本西日本問題が絡んでくるから言いたくないのだが)
まあ、どうしてもポッペリアンならそうでもよい。どっちみち可愛いから。

13 :9:02/04/05 14:36
「ッ」はどっちでもいいスよ

14 :9:02/04/05 14:37
あったほうが可愛いかなーと思ってつけたっす、「ッ」。

15 :考える名無しさん:02/04/05 14:44
>3
どっかで「ポッペリアン」と書いてるのを見たことがあるが

16 :考える名無しさん:02/04/05 14:45
英語の発音に近づけたいなら「パピリアン」or「パッピリアン」ではないかと。

17 :心理畑:02/04/05 14:48
>7
ポパーの教えを一番厳格に守っているのは行動主義なのにな。
心理学板では、スキナリアンと認知屋が反証可能性の扱いについて
論争していることがあったりもする。


18 :考える名無しさん:02/04/05 21:45
そういえば、ついにあの『実在論と科学の目的』の翻訳が出ましたね。

今読んでいますけど、面白い。
明晰かつ力強い調子のポパー節が全開で、読んでいて飽きない。
笑えるフレーズにもつぎつぎ出合う。おすすめです!

19 :考える名無しさん:02/04/05 21:46
さげてくれよう……。そういうルールじゃんかよう……。
邦訳はどこから出たんだろう……。
いくらなんだよう……。

20 :考える名無しさん:02/04/05 22:07
名前がイイよね。
ポパーって。ポパイを思い出すのはおれだけかな。

21 :考える名無しさん:02/04/05 22:09
えーんえーん。さげてくれないよお。

22 :考える名無しさん:02/04/05 22:14
age

23 :心理畑:02/04/05 22:45
有名な話だけど、ポパーは若い頃アドラーの研究所で働いていた。
そこでアドラーの研究方法論に対して批判的な見解を持つことになり、
そこから反証可能性という考え方を導き出していったそうな。

個人的に、これはある意味アドラーの重要な功績の一つだと思う(藁

24 :考える名無しさん:02/04/05 22:46
ポパーと心理学についての心理畑の認識はサル並。

25 :考える名無しさん:02/04/05 22:49
>>23

「そういう症例をぼくは1000回見ているからね」
「じゃあ、これで1001回目になったわけですね」
という話ね。

26 :考える名無しさん:02/04/05 23:03
反証可能性そのものは反証可能性あるんですか?

27 :Маршал Боголюбов:02/04/05 23:09
ない

28 :sage:02/04/05 23:09
>>1

一応、1年程前にはポパースレあったんだけどね。
過去ログ探ればあるかもよ。

とはいえ、ポパーはその思想の評価はともかく、どうも英米系哲学の
潮流からみても異端だし(もちろん、一部には多大な影響を与えたが)、
科学哲学としてみても、やっぱり特異な感じだし、どうも「1匹狼」の
印象が強いなあ。もちろんそれはそれで魅力なのだけど。

あとどうも科学の進化というものに対して、オプティミスティックなところ
が鼻につくのだけど。まあ、個人的な意見ですが。

29 :28:02/04/05 23:11
ごめん、sageを名前に入れてしまった。


30 :心理畑:02/04/05 23:31
ポパーとクーンは名前がかわいいが、ファイヤアーベントは異様にいかついよな。


31 :考える名無しさん:02/04/06 00:14
>どうも「1匹狼」の
>印象が強いなあ。

ポパー好きだけど、確かにすでにきっちりと完成されていて、今後誰かが発展させようにも発展させにくそうな感じがする。
その点、新科学哲学の方が科学史からいくらでもネタが拾えるので今後もやりやすそうな感じがする。

『実在論と科学の目的』以下のポストスクリプト全三巻は、ものすごく体系的にできている、ポパー哲学の体系書という感じ。



32 :考える名無しさん:02/04/06 07:51
>>31
> ポパー好きだけど、確かにすでにきっちりと完成されていて、今後誰かが発展させようにも発展させにくそうな感じがする。
> その点、新科学哲学の方が科学史からいくらでもネタが拾えるので今後もやりやすそうな感じがする。

そういう時代はもう10年以上前に終わっているでしょう。
ポパーの不完全さを把握しながらもアンチ新科学哲学で
科学史から「科学の論理」の実例を拾ってくる研究、
というのが90年代科学哲学の花形だったように思います。
もちろんおっしゃる通り、ポパーをそのまま踏襲して発展
させようという路線はすっかり行き詰まっていますが。

33 :31:02/04/06 10:11
なるほど。そうだったんですか。
勉強になりました。ありがとうございます。

34 :考える名無しさん:02/04/06 10:13
名前もかわいいけど、ポパーの作品について語りませんか。
『開かれた社会とその敵』について語るとか。

35 :1:02/04/06 11:04
ちょうど今読んでます

36 :1:02/04/06 11:06
そうそう重要なこと言い忘れた
常時sage進行でいこう



37 ::02/04/06 12:43
「(5)『教育』−開かれた社会においては、子供は、責任ある両親、それが不可能な
場合には他の責任ある人物によって育てられる権利が与えられなければなりません。
子供は、何らかの仕方で、その教育システムの中で、肉体的・知的・道徳的に可能な
限りの成長を遂げさせられるべきです。だがこれは言うは易くして実現は極めて困難
な課題です。教育においても、他の諸領域におけると同様に、自由は他人の権利を害
さない限度で、また責任ある市民が具有すべき自己規律能力を子供に教える必要の限
度で、認められるべきです。       (長尾龍一 訳)

ポパーの教育についてのコメントだけども
これを聞いてた人たちの心の声は「それは分かったけど具体的にどうしろちゅーねん」
て思ってたと思う
結局、教育の良し悪しは結果論でしか語れないんだよな
ま、ポパーとは関係ない独り言なので無視してくれ


38 ::02/04/06 12:44
ひゃひゃひゃ
沈め沈め〜〜!

39 :考える名無しさん:02/04/06 14:20
うきょきょきょきょ
沈め沈め〜〜!

40 :考える名無しさん:02/04/06 15:11
ラカトシュage

41 :考える名無しさん:02/04/06 22:47
バートリーあげ

42 :ねこ ◆6l8SsY76 :02/04/06 23:23
ども、ポパーの弁証法批判について詳しい方
解説きぼんぬ なお、私はポパすれより下がってる
マルクスすれでOFWさんに絡んでます(^^;
最近荒れてるけど、よかったらおいでください

43 :考える名無しさん:02/04/08 20:34
ファイヤアーベントの共約不可能性の批判は絶望的で非生産的だけど痛いとこついてるな
客観的知識の存在については難しい問題だな・・

>>42
スレのリンクを張らないと分からないよ



44 :考える名無しさん:02/04/09 21:41
−−−中略
ポパーが取り上げるのは変化の問題である。それは、論理的につきつめた形で
表現するならば、あるもの(A)が別なもの(B)に完全に変化してしまったならば、
それらを同じものと認めさせるものもまた完全に消失してしまうから、
単に別個の独立のものが存在していた、あるいは存在しているとしかいえず、
変化を認めることができなくなってしまうという問題である。
「いかにして事物は、同一性を失わずに、変化しうるか。
それが同一のものでありつづけるならば、変化もしないし、
同一性を失うならば、それはもはや変化したところのそのものではない」
    『現代思想の冒険者たち・・14 ポパー』(講談社)

「非論理的な人間を説得できるか」スレにも見られるように論理性というのはある種の真実性ではあるけれども
その力に限界があるということも常に踏まえねばならないことだよね
論理に使われるのではなく、論理を道具として使う・・て
これじゃファイヤアーベントの「科学を娼婦に」と同じだね・・・


45 :考える名無しさん:02/04/09 21:45
けっ!沈みやがれ

46 :考える名無しさん:02/04/09 23:09
沈む・・・・

47 :心理畑:02/04/09 23:10
位置付け的にファイヤアーベントはプロタゴラス、
ポパーはソクラテスなんじゃないかと素人考えで思うわけよ。


48 :考える名無しさん:02/04/12 14:36
>>47
素人考えではないと思うよ
ポパーとソクラテスは本当に近いものがあると思うし
解説書でもポパーの考えはソクラテスのものと書いてあるし

でも、俺はポパーはソクラテスだけじゃなくて
古代ギリシャの哲学全てが好きだったんだと思う
だから特にソクラテスに近く感じるだけで本人としては全く意識してなかったんじゃないかな

ポパーはヨーロッパのルーツを古代ギリシャのエーゲ文明に見出していたし
特にヨーロッパ文化=phirosophy
という認識に近いものがあったように思える
また例出もその時代からのものが多いね
本人は最初に読んだのがカント、次がショーペンハウアーで
カントは全く分からず、「ショーペンハウアーこそ私が最初に読んだ哲学書」と語っているけど
10代でプラトンを読んでいるみたいだからそれまでに経験があったかもしれない

・・・て
こういうこと言ってちゃ「哲学者=哲学学者」という批判を受けるのも仕方ないかな


49 :考える名無しさん:02/04/13 06:06
ウッ!沈・・

50 :考える名無しさん:02/04/15 19:52
50

51 :考える名無しさん:02/04/16 10:08
まだまだ終わらせないぞ!

52 :考える名無しさん:02/04/18 12:08
ポパーのハーバーマスへの批判は批判というよりはむしろ同調に近い
ポパーの批判的合理主義を基軸とした当為行為論を追求すれば
そこにはロールズの目指した公正の原理に基づく何かがあるかも

53 :考える名無しさん:02/04/19 23:25
とりあえず。

新刊が上下分冊なのが痛い…

54 :考える名無しさん:02/04/20 12:32
正当化と批判の違い・・・・


55 :考える名無しさん:02/04/20 21:42
>>52
>ポパーのハーバーマスへの批判
って、私はポパーがハーバーマスの文章を易しく書き直してやった、というのしか知らんのですが。
他にあったら教えてください。

56 :考える名無しさん:02/04/20 23:08
>>26について他にないですか?

57 :考える名無しさん:02/04/20 23:38
>>55-56
sage進行で参りませう

58 :おおよそ:02/04/20 23:38
反証不可能性があるのは当然です。
過去に起こってしまった多く事実。たとえば今日
私が飯を食ったことは常識的に反証不可能。
ポパーも「A World of Propensities」の中で
このことに関し、「propensity 1」として、
確定的な事実として言及している。

59 :考える名無しさん:02/04/20 23:50
>>58
>反証不可能性があるのは当然です。
>過去に起こってしまった多く事実。

反証の対象は特称言明ではなく全称言明だよ。

60 :心理畑:02/04/21 01:08
>58
そのおかげで、「生命は長い歴史をかけて進化した」
は反証不可能命題になってしまうのよね

61 :おおよそ:02/04/21 22:37
反証の対象が全称言明に限るという意見には疑問あり。
反証可能性は、あらゆる命題にたいして問われている。
特称、全称言明すべてが反証、批判にさらされている。

62 :考える名無しさん:02/04/22 23:04
>>61
特称言明は「認めるか認めないか」の対象でしかない。
観察言明の正当化は「決断」の問題だとポパーも言ってるよね。



63 :考える名無しさん:02/04/23 10:57
>>55
よくおぼえていないが、いわゆる「実証主義論争」でポパーはハーバーマスと討論をしたことがあったはず
その際にハーバーマスの倫理観(理想的対話状況での一致)に対して批判してたと思うけど
記憶違いかも


64 :考える名無しさん:02/04/26 19:29
・・・・・・・・

65 :考える名無しさん:02/04/30 10:46
sage

66 :考える名無しさん:02/05/03 10:23
sagesagesagesagesagesagesagesagesagesagesagesagesagesagesegasagesagesagesagesage

67 :考える名無しさん:02/05/04 17:38


68 :考える名無しさん:02/05/07 11:06
最近下げ続けるのにも飽きてきた

69 :考える名無しさん:02/05/09 23:23
よく続いてるよな 俺も

70 :考える名無しさん:02/05/10 12:19
もうそろそろ書き込むのもやめようかな

71 :考える名無しさん:02/05/11 19:50
フー

72 :考える名無しさん:02/05/14 18:59
あげて議論しようよ。

73 :考える名無しさん:02/05/15 00:50
>>63

実証主義論争では、ポパーとアドルノとの間で始まって、
それをアルバートとハーバーマスが引き継いで論争したんだよ。

74 :考える名無しさん:02/05/15 00:56
ふーん えーと、酋長のディレンマ、あ、電話

75 :考える名無しさん:02/05/17 11:30
来ない間にあがってた・・・・・


76 :考える名無しさん:02/05/18 13:13
,,,,,,


77 :考える名無しさん:02/05/20 19:19
>>55
実証主義論争についてハーバーマスが後を継いだことは確認がとれました
どうもおいらの勝手な思い込みだったみたいだね
ポパーがハーバーマスを直接批判してる論文を探してみるけど
プライベートな時間はほとんど無いから
気を長くして待っててね


78 :考える名無しさん:02/05/21 11:56
sega

79 :考える名無しさん:02/05/23 10:24
小河原誠ってどうよ?

80 :aa:02/05/23 22:30
北里大学にうつられたようですね。

81 :考える名無しさん:02/05/24 19:36
現代思想の冒険者たちシリーズのポパーの執筆者だよね


82 :考える名無しさん:02/05/25 11:29
nemui

83 :考える名無しさん:02/05/26 15:56
逃げたい気分


84 :考える名無しさん:02/05/27 19:13
ポパーの哲学において、特にクーンやファイヤアーベントの共約不可能性に対する批判では
ポパー自身の楽観的な思考がとても重要な基盤となっているけど
これはショーペンハウアーの影響が大きいんじゃないかとふと思った
ポパー自身幼少の頃にショーペンハウアーを読んで
最初に読んだ哲学書と言っているが
ショーペンハウアーの意思が身体の外部に発現するのは高望みという発想が
ポパーの思想に影響を与えたんじゃないかと

ペシミズムと楽観では全然異なるけどね

85 :考える名無しさん:02/05/31 09:32
共同体主義と自由主義は共約不可能な関係なのかね
共約不可能性って絶望的だぁね

86 :考える名無しさん:02/06/01 19:22
w

87 :考える名無しさん:02/06/04 11:35
HNつけてみた
粗拳
ちょっと目立とうとオモタ

88 :考える名無しさん:02/06/05 13:00
でもあげない

89 :考える名無しさん:02/06/06 13:16
研究する人生ね・・・

90 :考える名無しさん:02/06/08 00:19
暇じゃ
書き込みが少ないんだよ

91 :考える名無しさん:02/06/10 21:44
最近ダメ人間と化している

92 :考える名無しさん:02/06/11 22:29
絶望・・・・・・

93 :考える名無しさん:02/06/14 19:14
なんかあがってる?

94 :考える名無しさん:02/06/17 23:00
鉄観音

95 :考える名無しさん:02/06/18 22:53


96 :考える名無しさん:02/06/20 23:29
sophist?

97 :sage:02/06/21 08:38
最近読みはじめました。
ポパポパポパー

98 :考える名無しさん:02/06/27 20:27
やっぱポパーはいいよね
何より文章が難解でないのがイイ!

アドルノだかハーバーマスだかの文章を書き直したのにはマジワロタ

99 :考える名無しさん:02/07/01 22:44
最近接続する頻度が減りました

100 :考える名無しさん:02/07/03 00:18
開かれたスレッドとその敵age

101 :ああ:02/07/03 00:41
>>98
何?

102 :考える名無しさん:02/07/04 19:19
ポパーの本て電波ぽくない?

103 :考える名無しさん:02/07/04 23:07
読みやすくて面白い。



104 :考える名無しさん:02/07/04 23:09
ああ!!!
あげられた!

105 :考える名無しさん:02/07/04 23:12
だいたいさ
ポパーの
私は楽観的だから云々・・とか
未来は常に素晴らしい、そうでないのは若者のために云々・・・とかは
無責任な発言なんじゃないの?



106 :103:02/07/04 23:14
面白いけど、時折、当たり前みたいなことをぐたぐだ言っているようなところはあるわな、確かに。


107 :考える名無しさん:02/07/04 23:16
ああ!!!
またあげられた!

108 :考える名無しさん:02/07/04 23:19

昔の朝日ジャーナルに、ポパーとマルクーゼの誌上対決が出ている。
これ読むと当時の時代状況のなかで「私は楽観的だから云々・・とか未来は常に素晴らしい」という発言にもそれなりの意味があったんだと思うけどね。


109 :考える名無しさん:02/07/04 23:20
ああ!!!
もういい・・・・
これからはあげて話そう

110 :考える名無しさん:02/07/04 23:27
うーん、でもダーウィニズムに自分の楽観的な発想を加えて解釈するのはね・・


111 :考える名無しさん:02/07/04 23:34
111

112 :考える名無しさん:02/07/10 20:52
そして再び沈む

113 :考える名無しさん:02/07/12 23:35
そして再びあげる

114 :考える名無しさん:02/07/16 03:07
また沈む

115 :考える名無しさん:02/07/18 15:01
科学と似非科学の境界設定は反証可能性にあるage

116 :考える名無しさん:02/07/18 21:58
『開かれた社会とその敵』購買記念age
高かった・・・・・

117 :考える名無しさん:02/07/21 08:54
落とさん


118 :考える名無しさん:02/07/21 18:00
世界3age

119 :考える名無しさん:02/07/27 21:48
厨増えたな・・

120 :考える名無しさん:02/08/02 18:08
スレの掟に逆らって申し訳ないが、
たまにはあげさせろ。
それともポパーは飽きたってか? んなこたあないだろ。

121 :ポパー読まずにカキコ:02/08/02 19:01
『開かれた社会とその敵』は主に、象徴秩序的な共同体から
資本主義的な(貨幣経済的な)交換体系へ移行する際の
葛藤とその経緯を描いていると思っててよろしいかな?

であるならば、モースの贈与論やレヴィの構造、
引いてはマクルーハン的メディア論に接続する核として
是非とも読んでみようと思うんだけれども。

122 :考える名無しさん:02/08/02 19:12
つーか「敵」って言ってる時点で・・・

123 :121:02/08/02 19:32
>>122
なるほど。どうやら誤解してたな。

124 :考える名無しさん:02/08/02 23:14
『開かれた社会とその敵』=プラトン、ヘーゲル、マルクスをこきおろした本。
かつてはマルクス批判ばかりが注目されていたが、一番手厳しいのは実はヘーゲル。
その他にも、マンハイム、ウィトゲンシュタイン、ホワイトヘッドとかを批判している。
個人的には24章が一番面白かった記憶がある。

125 :考える名無しさん:02/08/03 01:06
ポパーと親しかった日本人は碧海純一と団藤重光です。

126 :1:02/08/03 10:51
>>120
いえいえ、僕はポパーシンパです
少しsage疲れて・・

>>122
ポパーの欠点をうまくつきますね
ポパーの欠点は科学に対してあそこまで寛容だったポパーが
道徳に対しては異様なまでに厳しい態度を取るというところでしょうね
それもまたポパーの魅力ですが

本は優秀ですので読むことをおすすめします
2冊で1万円ぐらいで買えます

127 :考える名無しさん:02/08/03 22:48
ポパーは人殺しではないけれども、そのような者として扱われてもよいage

128 :考える名無しさん:02/08/03 23:03
エックルスと組んでなんか書いてたんだよね?
自由意志に関しての彼等の議論は哲学屋さん的にはどう評価されてるの?

129 :考える名無しさん:02/08/05 23:19
sage

130 :考える名無しさん:02/08/05 23:19
馬鹿が・・・・

131 :考える名無しさん:02/08/08 16:58
popperだっけ?

132 :考える名無しさん:02/08/12 01:25
人が少なくなったな

133 :考える名無しさん:02/08/18 08:22
久々に戻ってきた

134 :考える名無しさん:02/08/19 14:45
フー

135 :考える名無しさん:02/08/20 02:35
社会学@2ch掲示板 カール・R・ポパーについてのスレ
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/sociology/974108933/l50



136 :考える名無しさん:02/08/20 15:23
よく理解してるでないの
社会学板を見直した

137 :考える名無しさん:02/08/23 08:34
厨まだ多いね

138 :考える名無しさん:02/08/27 14:48
保守

139 :考える名無しさん:02/08/30 19:30
そろそろ厨もいなくなったかな

140 :考える名無しさん:02/09/01 22:44
祝、2学期
これでリア厨も減る

141 :考える名無しさん:02/09/02 10:58
保守あげするよ
9月だし

142 :考える名無しさん:02/09/06 05:03
ポパー哲学研究会新刊sage

ボリュームも価格も約1.5倍

143 :考える名無しさん:02/09/07 09:26
喫茶店を出たら大雨が降っていた
手元に持っていたものは『よりよき世界を求めて』一冊
僕は迷った・・そして、
本を服の中に入れると大雨の中を走り抜けた

なぜ、よりによって今日に限ってこの本を持ってたのだろう
せめてウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』だったら代わりの雨よけに使えたものを!

144 :考える名無しさん:02/09/08 13:30
あんたはポッペリアンの鏡です

145 : :02/09/10 18:24
http://isweb10.infoseek.co.jp/play/sandis/


146 :考える名無しさん:02/09/19 07:48
哲学板の設定を変更してもらって、フランス語のアクサンやドイツ語のウムラウト、
数学の記号などを使えるようにしてもらいたいと思うのですが、いかがでしょうか?
より正確な文献表、引用、議論の展開が可能になると思います。
 
賛同いただける方、意見のある方は、以下のスレッドにお書き込みください。
 
哲学板にウムラウトやアクサン、数学記号を! 
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/philo/1032388691/l50  

147 :考える名無しさん:02/09/20 13:22
賛同はするけど、ポパー英語だろ・・・・


148 :考える名無しさん:02/09/24 23:26
不定期sage

149 :考える名無しさん:02/09/27 11:03
不定期、不定期!

150 :考える名無しさん:02/10/04 11:21
ポパーの人柄の良さが文章から滲み出ているね

151 :考える名無しさん:02/10/07 19:40
カール卿 クーンの呼び方カッコイイ

152 :考える名無しさん:02/10/10 04:47
○ カール卿
○ カール・ポパー卿
× ポパー卿
ファミリーネームだけにSirつけるのは誤用なんだって

153 :考える名無しさん:02/10/10 18:47
為になった

154 :考える名無しさん:02/10/16 02:15
sage

155 :考える名無しさん:02/10/18 12:05
暇だからポパーのコピペでもするかな
週一ペースで


156 :考える名無しさん:02/10/23 20:33
まず最初に知識について。
われわれは、非合理主義がふたたび流行する時代に生きています。
ですから、わたくしは、自然科学的知識を―唯一のものであるとはとうてい言えないにしても―
われわれの有する最良にして最重要な知識であると見ているという告白から話を始めたいと思います。
自然科学的知識の眼目は次のような点にあります。


157 :考える名無しさん:02/10/25 11:18
世界が、そこでわれわれが自らの生そのものを形成しえる、
また、ある程度までは形成している枠組みになっているかぎりで、
世界には意味が帰せられうると思うのです。
もちろん、いつでもある限界内においてですが。
しかし、それは我々が自らの生を著しく自由に、そして個人的に形成することができ、
そして世界のさらなる発展にも、もちろん世界のまったく小さき領域においてにすぎませんが、
ある種の影響を及ぼすことができる枠組みであるのです。
ですから、われわれは、この生においてじつに大きな責任をもつことになります。
われわれに対してのみならず、われわれの同胞に対しても、そして、われわれの同胞を通じて。
この大きな世界の小さな領域に対する責任を負うのです。

158 :考える名無しさん:02/10/28 21:28
「理性は情念の奴隷である。また、理性はそうあるべきであるし、そうありつづけるべきである。
理性には、情念に仕え、それに従うという以外の役割は決して要求できない。」

情念なしには偉大なことは決して成し遂げられないということ、この点はもちろん素直に認めよう。
しかし、わたくしはヒュームの主張とはまったく正反対のことを信じている。
理性の力はきわめてかぎられているとはいえ、それによって情念を抑制することはわれわれ理性的でない人間にも可能であり、
そしてわたくしの見解では、それこそが人間にとって唯一の希望なのである。


159 :考える名無しさん:02/10/30 19:53
そろそろあげないと落ちるかな

160 :考える名無しさん:02/11/01 10:27
誰が論理実証主義を殺したのか
実に私が殺害したのだ
しかしそれは、謀殺(Mord)であったのではなく、
最悪の場合でも、予謀なき故殺(Totschlag)だった

161 :考える名無しさん:02/11/03 22:19
カカカ。          

162 :考える名無しさん:02/11/04 08:34
>>161
保守乙彼

163 :考える名無しさん:02/11/05 18:01
誰であれ合理主義的態度を採用する者がまさにそうするのは、論拠もないのに、
ある種の提案あるいは決心または新年もしくは習慣ないし行動
これらもまた翻って非合理的とよばざるをえないのだが
を採用したからである、
…いずれにせよ、それらは非合理的な理性信仰と記されよう。

164 :考える名無しさん:02/11/06 06:24
もしよければ引用元書いていただけると嬉しいです

165 :考える名無しさん:02/11/07 18:23
>164
『よりよき世界をもとめて』
『探求の論理』
『よりよき宇宙』(対話録)
『開かれた社会とその敵』
とかから適当に抜き出してる

マイナーなのも持ってるけど書かないつもり
次からは引用元も書くよ

それから163の新年→信念ね
分かると思うけど

166 :考える名無しさん:02/11/07 23:02
通常科学ステキやん


167 :考える名無しさん:02/11/09 00:09
ポパーも通常科学という発想に気づかせてくれたことをクーンに感謝すると述べているね
パラダイム論の相対主義的な要素に批判的なだっただけで

168 :164:02/11/11 12:55
>>165
ありがとうございます

169 :考える名無しさん:02/11/11 21:55
百年前にヘーゲルについて次のように述べた反ナショナリスト、ショーペンハウアーに最後の言葉を譲るなら、
思うに本章の結語にふさわしいことであろう。
「彼は、ひとり哲学にばかりでなく、あらゆる形態のドイツ文芸に、荒廃をもたらすような、
もっと厳密に言えば、麻痺をきたすような、疫病を生じさせるようなとも言うことのできる影響を与えた。
この影響に対して強力にまた機会あるごとに闘うことが、
独立独歩として判断しうるあらゆる人々の義務である。
というのも、もしわれわれが沈黙しているなら、誰が語るというのか」

『開かれた社会とその敵』第二部 未来社
第十二章 ヘーゲルと新たな部族主義 第六節 末尾

正直、ヘーゲル批判にショーペンハウアー引用するのはちとどうかと思いました
ショーペンハウアーのヘーゲル批判は中傷に見えてしまうから

170 :考える名無しさん:02/11/12 23:10
唯美主義と徹底主義は、理性を放棄し、
その代わりに政治的奇蹟にに対する絶望的な希望を置き換えることへとわれわれを導かざるをえない。
すばらしい世界の夢に酔いしれることから生じることから生じるこの不合理な態度を私はロマンティシズムと呼ぶ。
それは楽園を過去に求めることかもしれないし未来に求めることかもしれない。
それは「自然へ還れ」と説くことかもしれないし「愛と美の世界へ進め」と説くかもしれない。
だが、その訴えは、常にわれわれの理性に対してよりは情緒に対してなされるのである。
地上に天国を作ろうとする最善の意図をもってしさえすれ、
それが成功するのは、この世を地獄(人間だけが人間仲間に用意するあの地獄)に変えることだけである

『開かれた社会とその敵』第一部 未来社
第九章 唯美主義、完全主義、ユートピア主義 より


171 :考える名無しさん:02/11/18 20:55
ヘーゲルは相対主義者であると同時に絶対主義者であった。
いつものようにかれは少なくとも二股をかけた。
そして二つで足らなければ、三つ股をかけたのである。
そしてかれは、フレームワークの神話を弁護した―主にドイツの―カント以降の、
つまりポスト批判的、ポスト合理主義的哲学者の長い人脈の連鎖の最初の人物だったのである。
ヘーゲルによれば、真理自体は相対的かつ絶対的である。
真理はそれぞれの歴史的、文化的フレームワークに相対的である。
それゆえ、フレームワークのそれぞれが異なる真理基準を持っているのだから、
フレームワーク間での合理的討論はありえない。
しかし、真理がさまざまなフレームワークに相対的であるというかれの教説は絶対的に真理である。
なぜなら、これはヘーゲル自身の相対主義的哲学の一部をなすからである。

『フレームワークの神話』未来社 
第二章 フレームワークの神話 第四節p94l14〜


172 :考える名無しさん:02/11/25 22:56
書き込みもう少し待って
1週間後

173 :考える名無しさん:02/12/01 13:52
ほしゅるるる

174 :考える名無しさん:02/12/02 21:55
予測するということが、予測された出来事の上に影響を及ぼすことがありうるという考えは、
ずいぶん古くからある。
伝説的人物エディプスは、それまで一度も会ったことのなかった父親を殺害するのだが、
それはある予言の直接の結果であり、その予言のために父親はエディプスを捨て児にしていたのだった。
こうした理由からわたしは、予測が予測された出来事に及ぼす影響
(あるいはより一般的にいって、ある情報事項がその情報の言及する事態に及ぼす影響)に
「エディプス効果」という呼称を与える提案をしたい。
その影響が、予測された出来事を生じさせるような傾向のものであろうと、
それを阻止する傾きをもつものであろうと、いずれもそう呼ぶのである。

『歴史主義の貧困』中央公論新社
第一章 《歴史主義》の反自然的な主張
5 予測の不正確さ

続きは来週

175 :考える名無しさん:02/12/09 19:04
最近になって《歴史主義》者たちは、このような種類の影響が、社会科学に強い関連をもつことがありうると指摘している。
つまりそのような影響が、正確な予測をすることの難しさを増大させ、また予測の客観性を危うくさせるかもしれないという。
彼らの主張によれば、あらゆる種類の社会的事実や出来事に至るまで、
正確に科学的な予知ができるほどに社会諸科学がいつかは進歩をとげることがありうるといった仮定からは、
いろいろ馬鹿げた帰結が生じるのだから、
したがってその種の仮定は純粋に論理的な根拠から論破することができる。
なぜなら、そのような新種の科学的カレンダーがつくられ、また周知させられるとすれば、
そのことが当の予測の数々をくつがえすような諸行動を、かならずひき起こすにきまっているからだという。
要するに、社会的諸事情の精密で詳細にわたるカレンダーといった考えは、自己矛盾しているのであり、
したがって社会に関する精密で詳細な科学的予測ということは不可能だ、という

前回の続きでした

多くの社会学者の語る占いは、社会科学は予測せねばならないとする考えと
予測の不確定さがもたらす無責任な言動でしかないという批判の一部


176 :考える名無しさん:02/12/14 11:32
わたくしがこれまでに述べてきたなかで、論争を引き起こしそうなことがらを、
いくつかのテーゼに言い換えて、まとめとすることにしましょう。
しかも。そうしたテーゼをできる限り挑戦的な仕方で述べるつもりです。

1、あらゆる科学的知識は仮説的ないし推測知的なものです。

2、知識の成長、とくに科学的知識の成長は、われわれの誤りから学ぶことにあります。

3、科学の方法と呼ばれるものには、われわれの誤りから系統的に学ぶことにあります。
まず、あえて誤りを犯すというリスクを冒すこと、すなわち、新しい理論を大胆に提起することです。
次にわれわれが犯した誤りを系統的に探すこと、すなわち、われわれの理論を批判的に議論したり、批判的に検討したりすることです。

4、この批判的議論で用いられるもっとも重要な議論の中には、実験的テストによる議論があります。

5、実験はつねに理論によって導かれます、実験家が意識していないことはしばしばですが、理論的直感によって導かれます。
実験上の誤りの可能な源泉についての仮説や、どのような実験が実り豊かだろうかということについての希望や推測によって導かれているのです。
(理論的直感によってわたくしが意味するのは、ある種の実験は理論的に実り豊かだろうという推測知のことです)

6.科学的アプローチと呼ばれるものは、もっぱら批判的アプローチにあります。
もしあなたが自分のお気に入りの理論によって偏向しているならば、あなたの友人や同僚の誰か
(あるいはそうでなければ、次の世代の研究者の誰か)があなたの仕事を批判しようとするだろう
(もし可能ならばあなたのお気に入りの理論を反駁しようとするだろう)という事実にあります。

7、とすれば、自分自身で自分の理論を反駁するように努めるべきだということになります、
すなわり、この事実はあなたになんらかの規律を課すでしょう。

8、これにもかかわらず、科学者が他のひとびとよりも「客観的」であると考えることは間違っているでしょう。
客観性をかたちづくるのは、個々の科学者の客観性ないし公平無私ではなく、、
科学そのもの(「科学者の友好的かつ敵対的協働)とでも呼べるかもしれないもの、すなわち相互批判の用意が科学者同士にあること)です。

177 :考える名無しさん:02/12/14 11:49
9、個々の科学者がドグマティックになったり、偏向したりすることを方法論的に正当化するようなものすら存在します。
科学の方法は批判的議論の方法なので、批判の対象となっている理論が辛抱強く擁護されるべきだということもおおいに重要なことです。
というのは、そのような仕方でのみ、理論のもつ真の力を知ることができるからです。
そして、批判が抵抗に対処するかぎりにおいてのみ、批判的議論のもつ十分な効力を学ぶことができるのです。

10、理論とか仮説とか推測か科学において果たす根本的な役割は、
テスト可能(あるいは反証可能)な理論と、テスト可能ではない(あるいは反証可能ではない)理論とのあいだいの区別を重要なものにすることです。

11、ある特定の考えうる出来事は実際には生じないであろうと主張したり、含意したりする理論のみがテスト可能です。
テストというものは、その理論がわれわれに生じえないと告げているまさいそうした出来事を、
われわれが召集しうるあらゆる手段を講じて生じさせようと努めることからなっています。

12、したがって、あらゆるテスト可能な理論は、ある一定の出来事の生起を禁止していると言えるかもしれません。
経験的実在に制限を加えるかぎりにおいてのみ、理論は経験的実在について語っているのです。

13、あらゆるテスト可能な理論は、したがって、「しかじかのことは生じない」というかたちで述べることができます。
たとえば、熱力学の第二法則は、第二種の永久機関じゃ存在しえないというように言い表せます。

14、どんな理論も、原理的に経験世界と衝突しえないかぎり、経験世界について何も語ることはできません。
そしてまさにこのことが、理論は反駁可能でなければならないということの意味です。


178 :考える名無しさん:02/12/14 11:56
15、テスト可能性には度合いがあります。
より多くのことを主張し、したがってより多くのリスクを冒している理論のほうが、
主張をあまりしていない理論よりもテスト可能性の度合いが高いことになります。

16、同様に、テストにもきびしさの度合いをつけることができます。
たとえば、定性的なテストは、いっぱんてきに言えば、定量的なテストよりもきびしさの度合いが低いといえます。
また、より正確な定量的予測のテストの方が、正確さの劣る予測のテストよりもいっそうきびしいテストになります。

17、科学における権威主義は、科学上の理論を確立しようとする観念、すなわち理論を証明したり、実証したりしようとする観念と結びついてました。
批判的アプローチは、科学上の推測をテストしようとする観念、すなわち推測を反駁したり、反証したりしようとする観念と結びついてます。


『フレームワークの神話』未来社
第四章 科学−問題、目的、責任 Z(機種依存文字7)全文

今日は頑張った
最近『フレームワークの神話』を読み直してるんだけど、
これはおもしろいし読みやすいのでおすすめです


179 :考える名無しさん:02/12/20 10:25
今、日本の友人・読者のためにこの短い序文を書いていますが、わたしは九一歳を超えています。
運命に恵まれてこの年齢に達することを許された人は多くはなく、わたしは深く心から喜んでいます。
わたしは、生き永らえ、熱中できる一定の興味深い仕事をするのを許されたことに、いつも感謝の念を抱いてきました。
私は一年前に日本に招待されました。
それはあなたの美しい国への二度目の旅でした。
その国は我々の西欧文明と非常によく似たところがある反面、非常に異なっています。
わたしは日本語を理解できないので、英語またはドイツ語またはその両方を話すことのできる多くの日本人にお会いできたことは、非常に幸運であったと思います。
あなたの国の学問は栄えています。いつまでもこの栄えが永遠に続かんことを!

一九九三年 九月二九日  カール・R・ポパー


180 :考える名無しさん:02/12/23 14:10
風邪ひいた
今週は休み
最近ペース落ちてるね
真面目にがんばる

181 :考える名無しさん:02/12/23 15:28
がんばれ!
『フレームワークの神話』読んでないけど良さ気ですね。
何がって、、訳が(w

182 :考える名無しさん:02/12/26 11:12
無理せずがんがれYO

183 :考える名無しさん:02/12/28 11:21
ありがとう!>>181 >>182
元気が出たよ
風邪はまだなおってないけどがんばる!
今年最後の引用は『フレームワークの神話』の序文から



184 :考える名無しさん:02/12/28 11:31
本書に収録されたすべての、あるいはほとんどすべての論文は、
合理性と合理的な批判を擁護するために書かれた。
批判的な議論に耳をかたむけ、自分自身の誤りを捜し出し、そしてそれから学ぶ用意をもつということは、
ひとつの考え方であるだけでなく、ひとつの生き方でもある。
それは基本的には次の二行で、わたくしが(多分最初は一九三二年に)言い表そうとした態度である。

わたくしが間違っているのであって、あなたが正しいのかもしれない。
だから、努力すれば、われわれは真理にもっと近づくことができるかもしれない。

(中略)
それらの二行は、きわめて簡潔なかたちにおいてではあるが、
哲学のことばではなく、普通のことばで簡明に表現された信仰告白を含みもつべきことを意図していた。
つまり、平和への、人類への、寛容への、謙虚への、自分自身の誤りから学ぼうとすることへの、そして批判的討論の可能性への信仰を。
それは理性への訴えであった。
つまり、あの膨大な書物のすべてのページが語りかけてくれるだろうと望んだ訴えでもあった。



185 :考える名無しさん:02/12/28 11:43
おそらく関心を惹くのではないかと思うのだが、これら二行に言い表された考えをわたくしは、
国家社会主義党の若いカリンシア人党員に負うていることを明らかにしておこう。
その男は、兵士とか警官ではなく、党の制服を着てピストルを帯びていた。
この若い男がわたくしのところに来て
「なに、おまえは議論をしたいだと、議論などしない。撃つだけだ」といったのは、
一九三三年−ヒトラーがドイツで権力を掌握した年−のわずかばかり前のことであったにちがいない。
かれが拙著『開かれた社会』の種を植えてくれたのかもしれない。
この経験から六十年以上がたった。そしてそれが起きた場所では、状況は改善されたように思われる。
しかし、その当時カリンシア・ユーゴスラビア国境であったところでは、つまり国境線は変更されなかったのであるが、
民族挑発を口実にした銃撃の用意はおそろしいほどまで高まってきている。
議論することへの非合理主義の側からの攻撃は、この六十年間全体をつうじて、そして六十以上の流儀でもってつづけられてきた。
民族的挑発を口実にすることはもっとも卑劣で、またあらゆることの中でももっとも胸の悪くなるものであるが、最新の口実というわけではない。
いや、もっとも古い口実であるかもしれない。
だからといってそれが慰めなどになるわけもない。
とはいえ、少なくとも、この地で−あるいは別の地で−事態が悪化しつつあるという歴史的傾向を受け入れる必要はない。
未来はわれわれ自身にかかっている。
すべての責任を負うのはわれわれである。


186 :考える名無しさん:02/12/28 11:50
それだからこそ、楽観主義者のままでいることがわれわれの義務であるという重要な原則が成立する。
この点は、この覚え書きを閉じる前に少しばかり説明しておくべきであろう。
未来は開かれている。
未来は前もって決定されているわけではないし、偶然による場合を除けば予言されるわけでもない。
未来に横たわる可能性は無限である。
「楽観主義者のままでいることがわれわれの義務である」と言うとき、
わたくしは、未来は開かれているのみならず、
われわれのすべては自分たちのすることすべてによって未来に貢献するのだと言いたいのである。
われわれのすべては、未来に生じることに対して責任がある。
したがって、悪を予言することでなはなく、よりよい世界のために戦うことがわれわれの義務である。

『フレームワークの神話』未来社、序言より

ではみなさん、よいお年を

187 :考える名無しさん:02/12/31 19:05
この人のイデオロギー論ってなんか別個だよね

188 :山崎渉:03/01/08 19:24
(^^)

189 :考える名無しさん:03/01/11 09:07
あけましておめでとうございます
山崎渉てあちこちで書き込んでるね
こんな下のスレまで、しかも俺が常駐するsage進行スレにも
新年一発目は『開かれた社会とその敵』から

事実と決定との二元論の強調は、「進歩」のような観念へのわれわれの態度も決定する。
歴史は進歩するとか、われわれは必然的に進歩してゆく、と考えられるならば、
われわれは歴史は意味を持っているしその意味は歴史の中で発見されるのであって与えられる必要はないのだ、と信じている人々と同列の過ちを犯すことになる。
なぜなら、進歩とは、ある種の目的に向かって、すなわち人間存在としてのわれわれにとって実在している目的に向かって、
運動していくことだからである。
「歴史」はそうしたことをなしえはしない。
われわれのみが、人間としての諸個人のみが、それをなしうるのである。
そうしうるのは、自由とともに進歩が依存している民主主義的制度をわれわれが防御し強化することによってである。
そして、進歩が、われわれ、われわれの細心さ、われわれの努力、諸目的についてのわれわれの概念の明晰性、
そして諸目的の選択に際しての現実主義に依拠していることがいっそうよく意識されるようになるにつれて、
われわれはそれをいっそう巧みに行うようになるであろう。


190 :考える名無しさん:03/01/11 09:13
予言者的な姿勢をとる代わりに、われわれは自らの運命の製作者とならねばならない。
われわれは、なしうる限りわれわれの課題を満足させること、われわれの誤りを探し出すこと、
こうしたことを学ばねばならない。
権力史がわれわれの裁判官であろうという観念からわれわれが脱した時、
つまり、歴史がわれわれを正当化するであろうかなどと悩まなくなった時、
おそらくその時には、われわれは権力を統制下に置くことに成功するであろう。
このようにして、われわれは、われわれの側から、歴史を正当化できよう。
歴史はそのような正当化を緊急に必要としている。

『開かれた社会とその敵』第二部 予言の大潮 ヘーゲルとマルクスとその余波 未来社
第25章 歴史は何か意味を持っているか 第4節末尾

191 :山崎渉:03/01/18 09:49
(^^)

192 :考える名無しさん:03/01/27 02:43
わたくしは形而上学が無意味であるとは思わないし、
科学からあらゆる「形而上学的要素」を排除することが可能だとも思わない。
そうした要素は、それ以外の要素とあまりにも密接に絡み合っている。
しかし、それにもかかわらず、科学において排除できる形而上学的要素が見つけ出せる場合には
それを排除することは、いつでも、それはそれでよいことだろうと思う。
なぜなら科学からテスト可能でない要素を排除することで、反駁を回避する手段が取り除かれるからである。
そして、これによって、残った理論のテスト可能性や反駁可能性が増すようになるだろう。
じっさい、実に多くの場合で、ある理論に排除できる形而上学的要素があるのを発見し、
そしてそれを排除しようとする試みから、科学理論がかなり得られてきたのである。

しかしながら、わたくしの境界設定基準は、そうした要素を見つけ出すための道具として立てられるものではない。
しかし、そういうものとして使えないと言っているのでもない。
じっさいに多くの場合において、それはきわめて役に立つことが分かっている。
だが、形而上学的要素を見つけ出すことと、それを排除することが日々の仕事の一部になりうるとか、技術の一部になりうるなどとは思わない。

しかし、意味のある形而上学的要素を排除することで理論が改良される場合のように、
理論の内容が極めて重要になってくると、そうした要素を排除する仕事は合理的批判の一部になる。
そして合理的な批判とは、いつでもたんなる技術ではなくて、想像性に富んだ創造的なプロセスである。
「形而上学的要素の排除」とは、決してたんに一、二の文を削除することではない。
合理的批判には、いつでも原則として、ある理論の解釈にかんする新しい考え方に導かれて、その理論を再構築することが含まれている。

『実在論と科学の目的』上 岩波書店
 第一部第二章 境界設定  21形而上学を「排除する」という問題より

193 :考える名無しさん:03/01/27 23:22
筑摩から『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎』という訳書が出た。
イギリスのジャーナリストが、火かき棒事件の真相を取材してスリリングに書いたもの。
どちらかというとウィトゲンシュタイン寄りの本。ポパーの方が貧しい家の出で、容姿もダサいし、性格も攻撃的で、火かき棒事件でもうそついていた可能性がある…、という具合でウィトの引き立て役として扱われていますた。



194 :考える名無しさん:03/01/30 22:05
俺の記憶では火かき棒事件は

「哲学的命題はあるのか」というテーマのゼミで
まずポパーがそのような題名を持ってきた人を批判して
ウィトゲンシュタインが自分がやらせたと答えて
それぞれが主張をして

で、具体的な哲学的問題の例として
P無限なるものが存在するかどうか、Wそれは論理的な問題だ
P・・・・・・・・・・・・・・(忘れた)、Wそれは数学的問題だ
P道徳的規律と道徳の違いについて、W道徳的規律の例を挙げてみろ
P招待講師を火かき棒で脅すな(冗談)、W火かき棒を投げ捨て立ち去る

だったような、
ポパーはうそをついてるようなコメントもしていないと思えるけど、読んでみるか

195 :考える名無しさん:03/01/31 22:44
>>194
「道徳的規則の例:招待講師を火かき棒でおどかさないこと」
は、ウィトゲンシュタインがいなくなってからしゃべった、という目撃者もいるらしい。

しかし、目撃者の多くはウィトゲンシュタイン信者なのであてにならない…。
でも、この本を読むとポパーが死亡した直後、この火かき棒事件の真偽をめぐって、英国のウィトゲンシュタインシンパとポパーシンパとの間で喧々ごうごうの論争があったらしいよ。


196 :考える名無しさん:03/02/05 18:51
本買いました30ページギーチ教授の証言にうそをついたとあるね
現実はどっちだったか定かではないけれど
それでもポパーの反論に対してウィトゲンシュタインの弟子たちが火かき棒で脅すしか方法がないと思った
と28Pに書いてあるのはどうだろう
それはウィトゲンシュタインの挫折を意味するのではないか

でもポパー好きとしてはカチンとくる本だね、もう時代遅れみたいなかたちで言われると
ウィトゲンシュタインに魅力があると思われてる限りポパーもまだ健在だと思うんだけどな


197 :考える名無しさん:03/02/14 17:58
ポパーと聞くとなんか力が抜けてくるんだけど、どこがすごいの?
なんかさあ、そりゃそうだろ、つーイメージしなないんだよね。

198 :考える名無しさん:03/02/16 12:02
>197
どこもすごくないよ
一見全然奇抜ではなく、常識的
そこがいいんじゃないか

199 :考える名無しさん:03/02/16 12:12
ポパーの言葉から

・ウィトゲンシュタインが討論の中で火かき棒をもって先生につっかかっていったという話もある

ポパー= 彼は私につっかかってきたのではありません。
彼はただ火かき棒を振り回していたのです。
そして、わたくしは、彼が火かき棒を振り回しているという事実から冗談を言ったのです。
残念ながら彼はそれを冗談とは受け取らなかったのであって、
大変に怒って、部屋から出て行ってしまったということです。



200 :考える名無しさん:03/02/16 12:20
>批判的な、仮説的な実在論

まさに真正の実在論です。それは、とりわけ科学にとっては重要な仮定です。
それは、たとえば、さまざまな科学の諸領域は整合的であるべきであり、
また、各領域は相互に分離されえないのであり、
したがって、われわれは架橋しうるし、共通の問題を持ったり、等々しうるのだということを要求する実在論です。

『開かれた社会ー開かれた宇宙』 未来社
ウィトゲンシュタインの火かき棒より


201 :考える名無しさん:03/02/20 13:44
保全のためあげておく。

202 :考える名無しさん:03/02/20 18:35
ああしかし自然科学者はほとんど見向きもしないぽ・・

203 :考える名無しさん:03/02/28 08:46
それでも「科学の方法論とは何か」という問題に
「反証可能性」と答える自然科学者は少なくないと思う
と書きつつ保全してみる

204 :考える名無しさん:03/03/04 22:44
そりゃポパーの理論にいくら批判があっても、
それに代わる方法論で、かつ一言で表現できるようなものなんて、
ほとんど提唱されていないもんな。

205 : ◆prDdJ8Ym5w :03/03/08 00:34
ヶ月ぶり


ゲーデルの重要な結果に対してその非相対主義的意味を与えるのは、この真実の考え方です。

このわたしの信念の告白に加え、科学は音楽と芸術についで、人間の精神の最も偉大で、最も美しく、また最も啓発的な功績であるという揺らぐことのない自分の確信を付け加えておきたい。
わたしは、現在、科学を中傷しようとする余りにもかまびすしい知的な流行に憎悪を感じており
また、我々の時代に、生物学者や生化学者の業績により達成された素晴らしい結果、
そして、我々の美しい地球上のあらゆる患者が医学を通じて利用できるようにされた結果を大いに賞賛しています。
明らかに、科学は、人間の他のあらゆる企てと同じように、我々人間の誤謬可能性から逃れられません。
たとえ我々が、間違いを発見するためになしうることを全部つくしていても、
我々の結果は確実ではありえず、また真実でさえないかもしれません。
しかし、我々は、自分の間違いから学ぶことができます。
偉大な科学者たちは、自分の誤謬可能性を客観的に検証できる演繹的知識に転換する方法を我々に教えてくれました。
この瞬間においても科学者たちはそれをし続けています。


206 :考える名無しさん:03/03/08 00:45
一ヶ月ぶりと書いたのに1が抜けた、続き

これまで、私がお話してきたことはすべて、自分自身、
科学の素晴らしい、かつ、しばしば真実の結果に対して、
その結果が確実であると信じることなしに、最大の賞賛を与える勇敢な科学愛好者であることを皆さんに紹介する試みでした。
科学の結果は十分検証されているかもしれないが、確立されてはいない(真実であると証明されていない)仮説にとどまります。
もちろん、それらは真実であるかもしれません。
しかし、たとえそれらが真実でないとしても、それらはもっとより良いものへの道を開くすばらしい仮説です。

『確定性の世界』 信山社
第一章、因果性についての二つの新見解


207 :考える名無しさん:03/03/13 11:12
でも、やっぱ誠は自分の方にひきつけすぎだよ!

208 :考える名無しさん:03/03/13 11:33
あげるなや

209 :山崎渉:03/03/13 12:27
(^^)

210 :考える名無しさん:03/03/15 07:39
救済のため、あげます

211 :【論理的】議論の大原則【説得力】:03/03/18 21:44
(1)はっきりと「主張」すること
表現上の曖昧さを取り除き、はっきりと結論を明示すること。
日本人によくありがちな「思う」を使うときは、自信の無いときと推測の時だけにすること。

(2)「根拠」を示すこと
議論において「根拠」は絶対に欠かせない構成要素です。
なぜならば、主張に「説得力を与える」役割があるからです。
主張と根拠の間に飛躍の起きないよう、”意見”と“事実”を混同せずに
「前提条件・因果関係・客観的事実など」を論理的に一つ一つ繋がりを持って
書き込めば書き込むほど説得力のある発言になります(ただし、余分なことは書かない)。
ゆえに、自分と違う意見を持っている相手を説得するためには、「根拠」を徹底的に示すことです。



212 :考える名無しさん:03/03/19 00:54
(1)はいいとして、(2)は根拠を示しても心理学的な説得力は増しても
論理学的な説得力なんか増さないんじゃないかねえ、ポパーとしては。

213 :考える名無しさん:03/03/19 00:56
ポパーの発想は逆、根拠を示すことは意味がない
示すことは問題

214 :考える名無しさん:03/03/19 02:32
確証事例の束は理論の妥当性を保証するものではないからな。

215 :考える名無しさん:03/03/21 10:29
age


216 :考える名無しさん:03/03/22 12:31
4帰納をめぐる同族の4つの問題

機能についてのヒュームの問題を第二節で定式化したが、これには原理的な重要性があると思う。
しかし、この問題の定式化にはほかにもいくつかの仕方がある。
それらは問題の別の面を映し出しているので、この問題についての異なった相もしくは段階の議論と見なせるものである。
本節ではそういった諸相の4つを区別しておきたい。

(1)第二節での定式化にほんの少し変更を加えたもの。
これはラッセルの難問と呼んでもよいが、「狂人と科学者はどこが違うのか」というかたちの問いで定式化できよう。
これと深く関わっているのが「境界設定の問題」、つまり科学理論の経験的性格をいかに適切に特徴づけるかという問題である。

(2)いわゆる「合理的信念の問題」

(3)未来について推論を引き出すことができるか、あるいは未来は過去に似ているかという問題。
これはヒューム自身が帰納の問題からはっきりとは見分けられなかった問題であり、「明日についてのヒュームの問題」と呼んでおこう。

これら3つの問題はどれも、理論的、認識論的、方法論的性格の問題である。
本節では、これらを解決するのになんら新しい考え方はいらないことを明らかにしようと思う。
ところが議論の進行にともなって、第四の相または段階を区別することになるだろう。
それは見かけでは第三の相に似ているが、論理的性格においてはまったく異なっている。
それは次のように呼んでおいてよいだろう。

(4)「明日についての問題の形而上学的な相」、または「帰納の問題の第四の相、あるいは形而上学的な相」。
この第四の相の問題は第五節で論じることにしよう。
本節では、はじめの3つの相もしくは段階に議論を絞ることとする。

217 :考える名無しさん:03/03/22 12:47
T

バートランド・ラッセルは、カント以来の哲学者のうちではじめて、帰納についてのヒュームの問題がもつ威力をあますことなく感じ取った。
ヒュームが正しいとすれば、普遍的な性格をもつ知識は存在しえないことをカントは明確に見て取っていた。
したがって、科学的知識も存在しえなくなるとカントは考えた。
しかし彼は、数学とか、さらに重要なものとしては、ニュートン力学といった例は、確実な科学的知識がじっさいに所有されていることを示していると考えたので、
哲学の中心問題は、そうした知識の存在がいかにして可能であり、ヒュームがどうして誤っていたかを説明することにあると考えた。

ラッセルも問題を似たように理解した。
しかし彼がこの問題を解決した具体的なやり方は、カントとはたいへん異なるものであった。
(たとえばラッセルは、数学の確実な知識と対比して力学の法則をたんに確からしい知識として描くことにより、カントが論じた数学と物理化学との溝とをさらに広げた)
帰納についてラッセルは、いろいろな場所で詳細に論じている。
その最初は、彼の比類なき著書『哲学の諸問題』『哲学入門』であると思う。
薄いけれども偉大なこの著書では、ヒュームが問題をつくりだしたとは述べていないが、『西洋哲学史』ではそう述べている。
この本のヒュームに関する章では、ラッセルは問題を次のように定式化した。
ヒュームが正しく観測からは理論を確かなものにするいかなる推論も引き出せないとすれば、科学を信じることはもはや合理的ではなくなる。
なぜなら、科学理論だと申し立てられたものは、それがどれほど恣意的なものであっても、他の理論と同じようによいもの―あるいは正当化可能なもの―となるからである。
というのも、どんな理論も正当化可能ではないからである。
だから、かりにもヒュームが正しいなどということがあれば、「狂気と正気に違いがなくなること」ことになり、
結果として、狂人の妄想や錯覚も、偉大な科学者のなした理論や発見と同じく、すじの通ったものとなってしまうであろう。


218 :考える名無しさん:03/03/22 13:10
このラッセルの難問に対しては、第二節の議論のなかに、表立っては言ってないものの、簡潔で実質的に完全な答えがすでにある。
じつのところ、科学者の理論が真であるという主張は正当化できるものではない。
それはじっさい、錯覚は真であるとの主張が正当化できないのと同じである。
にもかかわらず、科学者の理論のほうがよい―観測上よりよく指示されているという狭い意味におけるよりもよりよい―という主張は擁護できる。
というのも、一方の理論とは矛盾するが他方とは両立するかもしれないという意味において、観測事実が二つの理論の優劣を決するかもしれないからである。
ヒュームの論証は、観測から理論いついてどんな結論も引き出してはならない、ということを確立しているわけではない。
それが確立したのは、観測から理論を立証する推論を引き出すことはできないということであり、反証する推論を引き出す可能性は未決のままになっていたのである。
換言すれば、観察言明が真であることから理論の偽を推論することは演繹として完全に妥当でありうるということである。


219 :考える名無しさん:03/03/22 13:27
ラッセルによる帰納の問題についての挑発的な定式化に対する以上のような答えに対しては、わたくしの見るところ、反論の余地はない。
(もっとも、問題の第一の相を、これから論じる第二や第三の相と混同することがなければだが)。
ヒュームが正しかったとしたら科学など不可能になってしまうと言うとき、ラッセルはただ次の点を見落としていたに過ぎないように思われる。
すなわちヒュームの論証は、観測から理論を反証する推論を引き出すことが妥当でないと示したわけではないということである。
ラッセルの考えは、カントの科学観、つまり科学とはよく確立された知識であるという見方には適合するが、科学理論は仮説的で推測的な知識であるというラッセル自身の科学観にはそぐわない。
じっさい、ラッセルは多くの箇所で科学の方法を描いているが、その議論では帰納を持ち出す必要などないのである。
たとえば彼はこう書いている。
「論理は、以前のようにもろもろの可能性への障害ではなく、想像力を大いに開放するものとなった。
それは、思慮の浅い常識では思いつくことができない無数の選択肢を提示する。
したがって論理が提示する数多くの選択肢という世界から、決定が可能なときに、どれに決定するかという課題は経験に委ねられる。」
この美しい一節で鍵となる言葉は、おそらく、「決定が可能なときに」だろう。
この一節を書いたとき、ラッセルが次の点を理解していたことはほとんど疑いえないと思う。
つまり、決定が可能なときに、「無数の選択肢」のなかのいくつかを拒否すること可能であるが、ひとつを選び取るという積極的な決定は可能ではないということである。
ところが、あきらかにラッセルは、これが典型的な場合であるどころか唯一の場合であることを理解してなかった。
あるいは、ここからヒュームが提起した帰納の論理的問題を解決できることを理解してなかったように思われる。



220 :考える名無しさん:03/03/22 13:28
このような仕方で問題を解決することに関しては、ひとつだけだが重要な点を付け加えておく必要がある。
それは観測だけでは、観測だけでは必ずしも二つの競合する理論のうち、どちらがよいのかを決められるわけではないということである。
とはいえ、二つの理論にかんして決定的実験をおこなえるという特別な場合には、決められることがあるかもしれない。
しかし、一般には観測だけでは足りない。また二つの理論の功罪についての批判的議論も必要である。
そうした議論においては、理論は解くはずだとされている問題をはたして解いているか、
説明するはずだと見なしていることを説明しているか、問題をたとえばアド・ホックな仮説によって移し変えただけではないか、
理論はテスト可能なのか、どれほどよくテストできるのか、といったことを検討しなければならないのである。

こうした問いは(わたくしの言う「境界設定の問題」と深く結びついており)たいへんに重要である。
なぜなら二つの理論には、価値の点では雲泥の差があるのに、観測事実はどちらの理論とも等しく両立しうるからである。
けれども、その理由はまったく異なっていて、
一方の理論は、観測によって厳しくテストされているにもかかわらず両立するが、他方の理論はただテストできない、
つまり、あらゆる観測がこの理論と両立してしまうという理由で、両立するという場合があるのである。
(最初の方の理論の例としては、ニュートンの理論とか、あるいは世界の調和の理論と結びついた、惑星はみな楕円軌道を描くというケプラーの理論が挙げられるし、
二番目のほうの理論としては、惑星はみな魂をもち、神々であるとするプラトンの理論を挙げてもよいだろう。)

二つの理論の説明価値とテスト可能性についての問題が解決されてはじめて、
それらは本当に競合していたのかどうか、また、一方を否とし、もって他方を「よりよい」と示す決定的な観測実験にかけることができるのかどうかを語ることができる。
このようにして、つまり、多くの試みと誤りを経てということだが、
ついには観測によるテストを含めた批判的議論の現状からすれば、検討された他のどんな理論よりも真理に近づいていると見える理論が得られたと言えるようになるのである。

続く

221 :Sophia:03/03/22 15:50
良スレですね。

222 :考える名無しさん:03/03/24 08:55
U

こうしてラッセルの難問は片づけることができ、帰納の問題の第一の相は終わった。
問題の第二の相は、「合理的信念の問題」と呼べるが、わたくしの考えでは第一の相にくらべればあまり重要ではないし、さして興味をひくものでもない。
この問題は次のようにして生じてくる。
ときとして観測が「よい」理論と「悪い」理論を区別する助けになるということ、およびどうしてそうなるかを示すことになんの論理的困難もないと認めたところで、
科学の信頼性が説明されたわけでも、科学の成果−すなわち観測によってよくテストされた理論−を信じることが合理的であるという事実が説明されたわけでもない、と主張せざるをえない。
よい理論であるためには、いままでのところ反証を免れているということ以上のものがなければならない。
われわれがいつでも可謬的であり、そしてたいへん誤りを犯しやすいということ、さらに科学理論はみな推測であることを認めたとしても、科学には膨大な量の肯定的知識があることを否定するのは合理的ではない。
しかし、どうしたらこの立場−このむしろ控えめな科学への信念−の合理性を認め、同時にヒュームの正しさを認めることができるのだろうか。

これは新しい難問である。
しかしわたくしの見解では、この難問は最初の問題に比べると重要性の点でも興味深さの点でも劣る。
そう考えるのは、わたくしが信念の哲学についてをあまり興味をもっていないことにもよるが、また、それを片付けるにはじっさい新しい考えはなんら必要としないという事実にもよる。
それにもかかわらず、この新しい難問、あるいは問題の第二段階は、状況を明瞭にする助けになるかもしれない。


223 :考える名無しさん:03/03/24 09:28
科学の推測的な性格については合意が得られたと仮定しよう。
すなわち、われわれの科学理論は、証拠と議論の結果によってどれほど「成功し」またよく「支持されている」としても、不確かなままであり、どんな変更を加える必要が生じるのかを予見することはできないと仮定してみよう。
したがって、こう仮定しておこう。
本書で科学および科学理論への「合理的信念」が語られるとしたら、その意味するところは、なんらかの特定の理論が真であることを信じるのが合理的であるということではない、と。
この点はきわめて重要である。
それでは、「合理的信念」の対象は何か。
それは、思うに、真理ではないのであって、科学の理論がテストを含む厳しい批判に耐えているという限りでの、理論のいわゆる真理らしさ(あるいは「真理接近度」)である。
(正しいにせよ、誤っているにせよ)信じられているのは、ニュートン理論とかアインシュタイン理論が真であるということではない。
これらの理論が、よりよい理論に取って代わられる可能性はあるにしても、真理へのよい近似になっているということなのである。
この信念は、やはり、合理的であると主張しておきたい。
明日には力学の法則(あるいはそう思われているもの)が突然変わってしまうとしても、この信念はやはり合理的である。
というのは、この場合、新たに観測された規則性だけでなく、古い規則性も説明しなければならないという問題に直面するからである。
問題は、(a)ある条件のもとで、古い理論がよい近似として得られうるような理論を構築すること、
そして、(b)どんな環境(初期条件)が規則性の変化をもたらしたのかを示すことであろう。
このアプローチは、のりこえられた理論が近似として生き延びることを保証しており、実在論と科学の方法から要請されるものである。
ただ変化が起こったことを感受し、それを記録するだけなら、それは奇跡を認めることに等しく、合理的説明の探求を放棄することになり、したがって科学の課題−合理性−を放棄することになるだろう。



224 :考える名無しさん:03/03/24 09:28
こうした考察からわかるように、よく験証された科学の成果の真理らしさについての信念は、じっさい合理的であり、そしてそれらの結果がのりこえられたあとでさえ、合理的なのである。
くわえて、その信念の強さには程度がある。
ここでは程度をはかる二つの異なるケース、次元を区別しておく必要がある。
すなわち、理論の真理らしさの程度と、ある理論が(ある程度の)真理らしさを達成したというわれわれの信念がもつ合理性の程度である。
わたくしは以上の二つのうち、はじめのものを「真理接近度」、二番目のものを「験証度」と呼んできた。
真理への接近あるいは験証にかんして二つの理論を比較することができるという意味で、それらは「比較を行う概念」である。
しかし、それらの概念は一般には(つまり、確率理論では例外があるかもしれないが)数値的評価をともなうわけではない。
二つの競合する理論がなしうるかぎりくまなく批判されテストされたとし、結果としてそのうちの一方の験証度が他方よりも大きいとすれば、一般に、前者のほうが後者よりも真理へのよりよい近似であると信じる理由があることになるだろう。
この見解によれば、科学とその成果の−したがって、またそれらを信じることの−合理性は、本質的にその発展に、つまり新しい理論の相対的な長所についての議論がたえず更新されていくことに深く関係している。
すなわち、理論が発展的に投げ捨てられることに結びついているのであって、
帰納主義者が信じているように、支持する観測結果が累積して理論が発展的に打ち固まっていく(あるいは確率が増加する)などということに結びついているわけではない。

225 :考える名無しさん:03/03/24 15:51
山ほどある例のなかからこのことを示す例をひとつ挙げよう

―中略―

コペルニクス・モデルへの確信、信念、選択が合理的なのは、現段階での批判的議論の結果にもとづいているからである。
ある理論を選択するのが「合理的」だと言えるのは、それが議論可能であり、そして綿密な批判的議論、つまり、この理論は真でないと、あるいは、競合理論にくらべて真理に近づいてはいないことを示そうとする巧妙な試みに耐えている場合である。
じっさい、これこそわたくしの知るかぎり「合理的」という言葉の最良の意味である。
 信念の合理性は、先に述べた意味では、ときとともに、また文化的伝統ごとに、そして程度は限られているとはいえ、どのような人々の集団が議論を行っているかによって変化する。
なぜなら、新しい議論、新しい批判的な考え方は、信念の合理性を変えるかもしれないからである。
新しい実験結果が同様の効果をもちうることは言うまでもない。


226 :考える名無しさん:03/03/24 15:52
 しかしながら、批判的議論の現状というものは、ある理論がほかにくらべて優っているかどうかということにかんして、きわめて明快なことがある。
それはまた、ある理論が偽であることについてもきわめて明快なことがあるが、しかし、それが真であるということについてはそうではない。
十分で徹底的な批判的議論の結果、そのような明快な評価が得られたときには、そうした評価は過去の例を見るとふつうその後の議論においても支持されてきた。
つまり、二つの理論の相対的評価が逆転し、明確に拒絶されていた理論が復活することなど、極めて稀な話である。
これとは対照的に、「帰納的証拠」にもとづく評価が逆転することは驚くほど頻繁である。
だから、帰納に反対する帰納的証拠というものがあるわけである。
批判的評価がなぜ稀なのかは容易に説明できる。
十分な批判的議論というものは、じつは偏見があるのに気づいてなかったとか、観測証拠が架空のものだったり、それを誤解していたりしていたなどということでもないかぎり、力をもちつづけるからである。
批判的評価の多くはそれが生き延びてきたということ、また、最良の理論が置き換えられた時でさえ、その理論はそう判断されたその当時では得られるかぎりで最良の理論であったとする判断が覆されることはまずなかったということ、
こうしたことを主張することは、批判的方法が過去において驚くほど成功してきたということである。


227 :考える名無しさん:03/03/24 15:53
しかし、将来においてもそうであろうと結論してはならない。
問題は手におえないほど難しくなってしまうかもしれない。
あるいは、われわれの知性が衰えるかもしれない。
結局のところ、十分に訓練された科学者が何千人いようと、より難しくより原理的な科学上の問題に成功裡に貢献できるのは、ほんの一握りの人々である。
こうしたごくわずかの科学者がいなくなってしまったら、科学は停滞してしまうかもしれない。
あるいは、なんらかの偏見が堕落のもととなるかもしれない。
テクニックを見せびらかそうとか、精密さをあがめたてまつるといった流行が勝利して、明快さと単純さと真理への探求の邪魔をするかもしれない。
科学に王道はない。成功を保証する方法もない。
いかなる知識論にせよ、成功の理由を説明しながら、今後も成功しつづけると予測できてしまうとしたら、それは説明も予測もやりすぎているのである。

228 :考える名無しさん:03/03/24 16:02
中略

理論を、あるいは理論が真であるという信念を正当化することはできないし、また、それらの理論が真理に近づいているという信念を正当化することもできない。
しかしながら、ある理論を選んだこと―ときとして非常に堅固な選択―を議論の現在の結果に照らして合理的に擁護することはできる。
科学の方法は合理的であり、現にある最良のものである。だから、その諸成果を受け入れることは合理的である。
しかしそのことは、それらの諸成果に忠誠を誓うという意味ではない。
どこで期待を裏切られるか、予断を許さないのだから。
 けれども、どのような実際的な目的についても、科学の諸成果を信頼するのは理にかなっており、合理的である。
というのも、実践とはいつでも選択を意味するからである。
われわれは行動するにあたり、あれこれのやり方をとれる。(行動しないというのも、もちろん可能な行動のひとつに他ならない。)
そして、じっさいの行動の根拠としてある科学理論を受け入れたり、あるいは拒否したりする時には、他方の理論よりもこちらの理論を選択していることになる。
そうした選択ができる場合には、二つの競合する理論のうち、テストも含めて長期にわたる批判的議論を生き延びた方を選ぶのが合理的である。


229 :考える名無しさん:03/03/24 16:07
ここで、最後の論点を指摘しておくべきだろう。
信念は、じっさいの行動においては必要とされるだろう。
人は行動する動物だからこそ、信じる動物なのである。
理論家は、理論家としては、信念なしでもやっていくことができる。
理論家にとっては、最大の真理接近度を有するように見える理論とて信じるべきものではなく、さらなる進歩に向かうかぎりで意義を有する理論でしかない。
それはまた、さらに批判をつづけていくにあたいするものとして理論家によって選び出された理論なのである。
もちろん、理論家でさえ、理論家として行動しなければならない。
たとえば、自分の問題を選ばなければならない。
そのかぎりで、彼もまたやはり信念によって、そしてまた疑念によって導かれているのであろう。

続く・・・

230 :考える名無しさん:03/03/24 16:09
長かった、風邪引いてもうた・・・
次回、Vを書き込む
でも著作権にひっかかりそうな気がしてきた


231 :考える名無しさん:03/03/27 06:27
V

帰納の問題の第三の相は、わたくしの考えでは、重要性と比べて第二の問題と比べてさえ劣っている。
第一の相は方法にかかわるさし迫った実際的な問題−すなわち良い理論と悪い理論をいかにして区別するかという問題−であった。
第二の相は重要さでは劣るものの、多少とも切迫したところがあった。なぜなら、我々は「信じている」ということのふつうの意味で科学の諸成果を信じているからである。
また、そう信じることが「合理的」ということのふつうの意味で合理的であるからである。
このことがわれわれの解決案の論理的なフレームワークのなかでどのように説明されるのか一目瞭然というわけではなかったので、そこになにがしか意味をもった問題があったわけである。
 しかし、問題の第三の相、わたくしが「明日についての問題」と呼ぶものは、いったん最初の二つの相が明瞭になれば、よくある哲学上の混乱に過ぎないことがわかると思われる。(それがじっさいには、形而上学的なな第四段階と混同されていない限りでだが)
ヒュームやラッセルのような帰納主義者が、この問題とわたくしが帰納の問題と呼んだものとは区別できないと考えるのはまちがいないであろう。
さらには、こちらのほうが帰納の問題の定式化としてはむしろ優れているとさえ考えられるかもしれない。
しかし、わたくしが非帰納主義者の立場から与えた解決の本質的部分は、まさしく問題の第一相こそ原理的性格をおびていて、これに比べれば第三の相は劣っていることをはっきり認めた点にある。
問題の第三の相はこう定式化してよいだろう。
「未来は過去に似ているとどうして分かるのか」
あるいは、おそらく、「自然法則が明日も成立しつづけるだろうとどうして分かるのか」


232 :考える名無しさん:03/03/30 03:20
これら2つの問いうち、第一の問いに対するもっとも単純で直接的な答えは、以下のようになる。
「わたくしは、未来が過去に似ているかどうかは知らない。
それどころか、過去と未来がさまざまな点でーじっさい、帰納主義者が『自然の斉一性』の実例として言及するほとんど全ての局面でー異なるだろうと予測するだけの十分な理由がある。
だから、日々食べなれているパンが毒に変わることだってある(麦角から大規模な中毒を起こしたフランスの事例を思い出してみよ)。
空気は呼吸する人々を窒息させるかもしれない(ハンブルクにおける大気汚染を思い出してみよ)。
そして、いちばんの信頼をよせた親友が恐るべき敵になってしまうかもしれない(全体主義社会を思い出してみよ)。
ここで、第一の問いに対するこのような答えは要領を得ていない、と言われたとしよう。
その趣旨は、第一の問いの意味は第二の問い(「自然法則が明日も成立しつづけるだろうとどうしてわかるのか」)によってこそ明確に述べられているのだから、ということであろう。
だが、わたくしの答えはふたたび、断固としてこうである。
「こんにち自然法則と考えられているものが、明日には論駁された推測と見なされるのかどうか、わたくしは知らない。じっさい、これは麦角中毒より頻繁に生じるように思われる。」
 しかし、この答えでもまだ要領を得ていないと言われるかもしれない。
問われていたのは、論駁されるかもしれない仮説ではなく、本物の自然法則、本物の自然の規則性であり、それらが変わるかもしれないという可能性だというのが、その言わんとするところであろう。
だが、この問いに対するわたくしの答えは大したものではない。自然にありとあらゆる変化があるが、いわゆる自然法則は、変化の間、不変のままであるものについての陳述である。
そして不変量であると考えられていたものが変化すると分かったならば、誤った推測が成されていたのである。
それは、自然法則ではなかったということである。

233 :考える名無しさん:03/04/04 17:43
 しかしながら、帰納主義者はこうした答えには満足しない。
彼らには、これで問題の第三の相、明日についての問題が解決したとは感じられないのである。
 彼らの疑いは、「験証度」にかんするわたくしのいくつかの見解にかかわっている。
わたくしはたびたび、験証度とは、理論がこれまで批判やテストにどう耐えてきたか、また批判的議論の徹底性、そしてかけられたテストの厳しさについての要約された報告、つまり評価に他ならないと述べてきた。
 またときには験証度を、当の理論が「テストに耐えうることで生存への適性を証明できた」程度としても描き出してきた。
しかし、これによって言おうとしたことは、そうした箇所の文脈を見れば分かるように、験証度とは理論が厳しいテストに生き延びた過去の適性の報告であるということでしかなかった。
ダーウィンと同じくわたくしも、(動物であれ理論であれ)テストを生き延びたことでテストに耐え抜く適性を示したものが、
将来のすべての、あるいはほとんどの、またはいくつかのテストにも耐え抜く適性を示したとは考えもしなかった。
じじつ、理論はいかによくテストされたとしても、明日には反駁されるかもしれないと思う
―とりわけ、だれかがその理論を懸命に反駁しようとしていたり、またそれをテストしたりするにあたって新しい考えをもっていれば。
 しかし、験証度が理論の過去における実績の評価にほかならないとしたら、帰納の問題は、明日についての問題というかたちでふたたび生じてきはしないであろうか。
というのも、ある理論の験証度―すなわち理論の過去の実績―は、その理論の未来の実績についてのわれわれの期待も決めるのではないか、と考えられるのだから。
わたくしは、みずから否定したにもかかわらず、未来のテストに耐えぬく傾向を、過去の実績にもとづいて理論に帰すという過ちを犯してはいないか。
 そうした傾向をわたくしが理論に帰してしまっているならば、みずからの理論を破綻させるに等しい、つまり、それでは帰納推理になってしまうだろうという点は認める。
しかし、論点をあきらかにするには、すでに述べた議論の範囲を超える必要はまったくない。


234 :考える名無しさん:03/04/04 17:58
おおお、いよいよ佳境に。わくわく。
一応sageますが心の中ではage。

235 :考える名無しさん:03/04/04 23:05
アドルノってゴミだよね。
とっくにポパーに論破されまくり。

236 :教えて九台さ:03/04/05 20:57
ポパーって、ラスキの弟子なの?
博士論文をラスキの指導下で書いたってほんと?

237 :考える名無しさん:03/04/07 17:06
要点はこうである。わたくしは、高度に検証された理論の方が、将来のテストに耐えることが特にありそうだとか、たぶん耐えるだろう、といったたぐいのことは信じていない。
あるいはそうした理論のほうが、それほど高度に験証されていない理論よりも耐えられるだろうとも考えていない。
それどころか、理論が生き残る見込みは、とりわけ、その理論が属している科学の特定分野における進歩の度合い、研究者がこの特定の分野に寄せる関心、彼らが新しいテストを考案しようとする努力に大きく依存するだろう。
しかし、進歩の度合いは、まさしく批判の水準とテストの水準が非常に高い分野−すなわち、高度に験証された理論がある分野−において大きいであろう。
 したがってわたくしが、より高度に験証された理論のほうが、験証の度合いが劣る理論よりも一般に長生きすると期待するはずもない。
理論の生存期待値は、思うに験証度とともに伸びるものではないし、またテストに耐え抜いたという過去における能力とともに伸びるものでもない。

238 :考える名無しさん:03/04/07 17:31
 しかし、わたくしは太陽が明日も昇ると思っていないのか、あるいは、運動法則をもとに予測を立てることはないのかと問われることだろう。
もちろん、そうする。なぜなら、先に詳細に議論したように、それらは利用できる最良の法則だからである。
理論上の疑いを抱いているところでさえ、わたくしは、(行為しなければならない−すなわち選択しなければならない−のであれば)、利用できる最良の理論として選択したものにもとづいて行為するであろう。
したがって、わたくしは太陽が明日も昇ることに賭けなければならないと思っているが(賭けは実際的な行為である)、
ニュートンの(またはアインシュタインの)力学法則が批判を生き延びる、たとえばシナプス伝達についての目下のところでは最良の理論よりも長く生き延びることに賭けるつもりはない−後者の方が験証度は低い(あるいはそう見える)にもかかわらず。
(これらの理論におる予測に賭けるといった)実際的な行為についてであれば、どちらの場合でも、十分にテストされてきたというかぎりでその分野の最良の理論に賭けるつもりである。

 また、問題をつぎのように表現することもできる。
ある理論が生き延びるかどうかの問題は、それの歴史的運命にかかわるものであり、したがって科学の歴史にかかわる問題である。
一方、理論の予測を利用することは、理論の応用に関する問題である。
これら二つの問題に関連はあるが、そう深いものではない。
というのも、ある理論がいまある目的のために十分によい近似であるかぎり、その理論は、たとえそれが死んでいても−つまり反駁されていても−躊躇なく適用されることがしばしばあるからである。
したがって、ある理論の適用によろこんで賭ける一方で、同時に同じ理論が生き延びることに賭けるのを拒否するのは、別に矛盾したことではまったくない。
 よく験証された理論が生き延びることに賭けるのを拒否するのは、過去に生き延びたことから将来も生き延びるであろうという帰納的な結論をなんら引き出さないということである。


239 : :03/04/13 06:04
>>236
初めて聞いた

240 :山崎渉:03/04/17 09:41
(^^)

241 :考える名無しさん:03/04/17 12:48
>>236
ラスキは確かロンドン大学にいたから、
同僚になったことあるのかもしれない。
ハイエクがラスキの人間的な問題点を指摘しながら、
その辺のことは書いてた。

ポパーの博士論文は
M・シュリックとK・ビューラーが指導教官だったはず。


242 :山崎渉:03/04/20 04:39
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)

243 :考える名無しさん:03/05/20 21:25
保守age

244 :山崎渉:03/05/22 00:54
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―

245 :考える名無しさん:03/05/28 13:09
2ヶ月近くウプしてないゴメソ
近々ウプする


246 :山崎渉:03/05/28 15:26
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉

247 :考える名無しさん:03/06/08 21:13
保守

248 :ぴかぁ〜:03/06/08 21:18
あー、ちんこが痒いよー。
誰か助けてくれぇ。

249 :考える名無しさん:03/06/09 18:26
マスコミの盗聴、盗撮は許されるのか?http://natto.2ch.net/mass/kako/974/974478132.html

489 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 2001/04/11(水) 17:25
一般人なのに盗聴される、じゃなくて、「一般人だから盗聴される」んじゃないのかな?
基本的にネタ集めのためにやってんなら、有名人のネタを盗むと、有名人は告発できるし、
そんなことされても当たり前だと思われるので告発しても信じてもらえる。
そうでない人は、ここの途中の書き込みにもあったように「電波」扱いされるだけ。

ただで、ネタを仕入れるんなら、一般人に限るでしょう。
マスコミは自分らの無能さを恥じてほしいです。

ちなみに私が盗聴されはじめたのは、芸能人にストーカーされ始めてからでした。
そこからマスコミに広がって行った。
だから余計「妄想」とか思われそう。
友人に話したら完全に病気扱いされた。ストーカーって言葉がない時代だったしね。
書いておいておいた小説のネタが、他人の原作でドラマ化されたときにはきれまくっ
たなあ。(一度や二度のことじゃないけど)                            

250 :考える名無しさん:03/06/15 16:16
久々

 この世界の醜さおよび卑しさを過度に強調することは罪である。
この世界は醜いが、とても美しくもある。
非人間的でもあるが、人間的でもある。
しかも世界は、大きな脅威にさらされている。
其の最たるものは世界大戦である。
それとほぼ同じくらい大きな脅威は人口爆発である。
しかしながら、この世界にはいいこともたくさんある。
というのは、多くの善意思があるからである。
そして、現在生きているひとびとのなかには、よりよき世界をもたらすことができると思えば、喜んで自分の命を賭けるであろうひとびとが何百万人もいる。
 われわれには、苦しみをいやしたり、またさらに重要なことには、個々人の人間的自由高めたりするために、いまできることがたくさんある。
人間的なことがらによりよい状態を導入するためには、歴史の女神や革命の女神を待ち望んでいるべきではない。
歴史も、そしてまた革命も容易にわれわれを挫折させるかもしれない。
革命はフランクフルト学派を挫折させたし、アドルノを絶望に追いやった。
われわれは、いまなしうること、またなすべきことについてのアイデアを生み出し、そしてそれを批判的に試してみなければならない。
しかもそれをいまやらなければならないのである。
 レイモン・アロンの言葉をもってまとめておこう。
わたくしは、フランクフルト学派の著作を「知識人にとってのアヘン」であると見なす。

『フレームワークの神話』未来社
第3章 理性か革命か 
追録 1974年 フランクフルト学派   末尾


251 :考える名無しさん:03/06/17 11:09
合理性と非合理性の区別はどうなるでしょうか。精神の健全さと病気の違いはどうなるのでしょうか。
 これは重大な問いです。
そのおもな区別は、わたくしが言っているように、健全な人の信念は訂正不可能ではないということです。
健全な人は、自分の信条を訂正する準備ができています。
もっとも、しぶしぶ訂正するかもしれませんが、
それでも彼は出来事の圧力のもとで、ほかの人が支持する意見の圧力のもとで、批判的討論の圧力のもとで自分の見解を訂正する準備ができています。

もしこれが本当なら、決定的に固定した見方をもつ人や「コミットした」人の精神は、狂人の精神に近いと言えます。
こういう人の固定した意見のすべてが、そのときの利用できる最良の意見とたまたま一致しているという意味で「適切」だということがあるかもしれません。
しかし、コミットしているかぎり、こういう人は合理的ではありません。
かれはいかなる変化にも抵抗するでしょうし、いかなる訂正にも抵抗するでしょう。
そして、正確な真理を所有できない(誰も所有できない)のだから、野蛮なまでに誤っている信念を合理的に訂正することにも抵抗するでしょう。
たとえそうした訂正がかれの生涯のあいだに広く受け入れられるようになったとしても、それに抵抗するでしょう。

 このように、コミットと非合理主義信仰を賞賛する人々たちを非合理主義者(あるいはポスト合理主義者)とするならば、わたくしは彼らに同意します。
たとえ推論ができたとしても、かれらは非合理主義者です。
なぜならかれらは、自分たちの殻を打ち破れなくすることを誇りに思い、自らの偏執狂の囚人となることを誇りに思っているからです。
彼らは行為によって自らを精神的に不自由にしています。
そして、かれらがそうした行為をとったことは合理的に理解可能なものとして説明できます。
・・・・・・・・・・・・

第8章 モデル、道具、真理
第13節  不合理な行為




252 :山崎 渉:03/07/15 12:54

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄

253 :考える名無しさん:03/07/15 13:19
19テスト可能性であって意味ではない

 わたくしが最初、どのようにして境界設定の問題を考えるようになったかの経緯について、その一端を語ってきた。
というのも、この問題を考えるようになったのは、反証可能性についての哲学的ドグマのためでも、立証可能性についての哲学的困難のためでもないことを示したいと思ったからである。
むしろそれは、きわめて実際的な緊急の問題―ある理論が受け入れられるかどうか、その理論が経験的な議論(観察と実験に訴える議論)によって論じられるかどうか、
そして、こうした議論が真剣なテストと考えられるべきかどうか―を判断する問題であった。
そしてすぐに、この問題は論理的な問題であり、方法論の問題であり、それどころか、科学それ自体の問題であることが判明した。
なぜなら、理論を判断するのは科学者の仕事だからである。
そして、理論に対する判断の下し方のひとつは、それが反駁不可能であり、したがってテスト可能でないため、通常の科学的な基準では
(つまり、理論がテストにどう耐えているかを評価することでは)判断できないということだからである。
 だから、テスト可能性、反駁可能性、反証可能性を理論体系の科学的性格についての基準として、
つまり、一方での経験科学と、他方での純粋数学、論理学、形而上学ならびに疑似科学のあいだの境界設定の基準として受け入れられるべきだと提案したのである。


254 :考える名無しさん:03/07/15 13:29
 当時も、それ以降も、テスト可能性、反駁可能性、反証可能性を(「無意味なナンセンス」に対立する)意味の基準として提案しようなどとは考えたこともなかった。
そして、1927年ごろ、ウィーン学団が立証可能性を意味の基準として受け容れたとはじめて聞いたときも、
まったく異なる二つの根拠から、この手続きに対してただちに反論を唱えた。
第一に、意味をもつことを境界設定の基準としてしまうと、形而上学に意味のない戯言であるという烙印を押すことになってしまうからである。
これは受け容れることができないと感じられたドグマであった。
そして第二に、立証可能性は、意味とか意義とか有意性の基準として提出され、そのために間接的ながら境界設定の基準として提出されていたからである。
これもまったく不適切で、じっさい、必要とされているのとは正反対の解答である。
なぜなら、この基準は、あまりにも狭すぎると同時に、あまりにも広すぎると示すことができたからである。
この基準は(図らずも)科学理論を無意味であると宣言し、そしてそれによって(ふたたび図らずも)、科学理論を形而上学と同じレベルに置いたのである。
しかも、その基準は、(ある種の合理的な討論としての)科学的な討論と批判的な討論であるという事実を見落としていたし、
そのような討論における根本的な態度は、立証や確証よりも、むしろ反証を探し求める態度だという事実も見落としていたのだから、重大な意味において「立証主義的」であった。


255 :考える名無しさん:03/07/15 13:29
 一方における疑似科学と、他方における疑似科学、形而上学、論理学、純粋数学のあいだの大まかな境界線は、
意味の領域と無意味の領域の間にではなくて―分割線の両側に意味のある理論がくるように―意味のある領域の心臓部を貫いて引かなければならない。
わたくしはとくに、形而上学は無意味であるはずだというドグマを拒否した。
なぜなら、すでに見たように、原子論などのいくつかの理論は、長いあいだテスト不可能で、反駁不可能で(ついでに言うと立証不可能で)
したがって、ずっと形而上学的だったからである。
だが、そうした理論はのちになって物理学の一部になった。
だがほかには、これとは反対の運命をたどる理論もあった。
それらの理論の無意味であるとするのは明らかに不適切である。
もちろん、無意味なことを、しかも悪いことには、もったいぶった無意味を語ることに耽っている形而上学者(わたくしの念頭にあるのは、とりわけヘーゲルとヘーゲル主義者である)もいることは認めよう。
だが科学者は、こうした悪疫からすっかり開放されているわけではない。
いずれにせよ、無意味はあまり生真面目に受け止めないほうがよいと思われる。
たしかに、無意味の問題、意味の欠落の問題をおのれの哲学の基本問題として選び出し、その解明をおのれの主たる、おそらくは唯一の仕事として選ぶことは、いささか不健全であるし、賢明でもない。
意味分析は、精神分析のように、「みずからを治療であると誤解している病」にたやすく変わってしまうのである。


256 :考える名無しさん:03/07/15 13:50
 「『科学的発見の論理』を読めばだれでもわかるように、わたくしはそもそもの初めから、意味とか意味をもつことを、無意味と意味をもたないことに対比させるという問題の全体に対して、きっぱりと拒否の態度を示してきた。
そうした問題は擬似問題であり、境界設定の問題をまちがったかたちで言い表そうとした試みであり、この問題についての誤った答えであるとして拒否したのである。
そしてこの立場を一貫して、たえず繰り返して主張してきた。
ところが、それにもかかわらず、わたくしは「意味の立証可能性基準を修正することを提案し、それを意味の反証可能性基準で置き換えようとした実証主義者である」とのレッテルをしばしば貼られてしまった。
1949年には、このレッテルにつぎのような添え書きも付け加えられる始末であった。
「しかしポパーは、いまではもう自分のことを実証主義者とは呼ばないだろうと思う。」
ここで言えるのは、わたくしはいつまでも実証主義を厳しく批判してきたということ、そして、この問題については決して考えを変えたことはないということだけである。
そして読者には、『科学的発見の論理』の付録と第4、10、79、85節を調べて、これを確認することをお願いしたい。
 だが、それにもかかわらず、このレッテルは人生の最後の日にいたるまで、わたくしにつきまとうのだろう。
でも、それについてはもうあきらめている。
(そして、哲学史がわれわれを啓蒙主義の最後の遅参社として認めつづけるようなことがあれば、そのレッテルはわたくしの死後にもつきまとうかもしれない。
一方の側からはハイデガー流の非合理で反合理な哲学的メシア主義要求が、他方の側からは「数学的に厳密な」哲学的探求に対する要求が、すでに圧倒的になっており、いまだ増えつつあることを見れば、これは万が一のありそうにもないことには思えない。)
しかしそれでも、境界設定の問題を意味の問題と混同したことこそ、実証主義のもっとも重大な誤りのひとつである。と人生の最後の日まで繰り返したい。

『実在論と科学の目的 上』 岩波書店
第一部第二章 境界設定
19 テスト可能性であって意味ではない


257 :考える名無しさん:03/08/06 21:45
保守るけどageない

258 :考える名無しさん:03/08/11 23:05
最近サボっててごめんね
しばらくしたらまたウプする

259 :考える名無しさん:03/08/13 12:37
いまやわたくしの主要な論点に到達した。
それはこうである。
ドイツ社会学における何名かの著名な指導者は、知的に最善を尽くしているであろうし、また最善の良心をもってそうしているであろうが、
にもかかわらず、かれらは教わってきた通りに、ただただ些末なことを仰々しい言葉で語っているにすぎないということである。
かれらは、このやり方を学生たちに教える、
学生たちは当初は不満なのだが、同じことをする。
この本物の、だが漠然とした不満感は、自分たちが住んでいる社会に対する敵意のなかに表れているのだが、彼ら自身の活動の不毛さに対する無意識の不満を反映している。
 アドルノ教授の著作から手みじかな例をあげよう。
その例は選ばれたもの−実際、その部分を引用することによって『実証主義論争』への自分の最初の論文を書き始めたハーバーマス教授によって選択されたもの−である。
上にドイツ語の原文(の和訳)を、真中に英語版の英訳(省略)、そして下に主張されていると思われることのやさしい英語への書きかえ(の和訳)を掲げることにしよう。


260 :考える名無しさん:03/08/13 12:51
社会的総体性は、それによって総括されているもの−この諸要素から社会的総体性そのものが成り立っているが−を離れて、
その上部に固有の生を営んでいるものではない。

社会は、社会的諸関係から成り立っている。

社会的総体性はその個々の契機を通じて、みずからを生産し、再生産する。

多様な社会的諸関係は、なんらかの仕方で、社会を産み出す。

かの全体が生から、すなわち諸関係の協働や敵対から、分離されえないのと同様に、

こうした諸関係のなかには協働や敵対がある。
そして、社会はこれらの諸関係から成り立っているので、社会をそうした諸関係から切り離すことは不可能である。

個別者自身の運動の中に本質をもっている全体に対しての洞察なしには、
いかなる要素も、その機能化されたものでさえも、理解されえない。

その逆もまた真である。
社会的諸関係のどれもその他すべての関係の全体性なしには理解されえない。

体系と個別性とは相互連関的であり、ただ両者の相互連関性においてのみ認識される。

(前の主張の繰り返し)



261 :考える名無しさん:03/08/13 12:59
コメント
ここ(上のレス)で展開されている社会的全体についての理論は、時によって上手下手はあるにしても、
無数の哲学者や社会学者によって述べられ、展開されてきたものである。
わたくしは、この理論が間違いであると主張しているのではない。
ただその内容の些末さを主張しているだけである。
もっとも、アドルノの述べ方は些末どころではないが。

『フレームワークの神話』 未来社
第三章 理性か革命か Y全文


262 :考える名無しさん:03/08/13 15:57
ありがd乙彼

263 :山崎 渉:03/08/15 19:38
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン

264 :考える名無しさん:03/08/21 14:52
保守

265 :考える名無しさん:03/09/01 17:39
人間的知についてのクセノファネスの理論は、ですから、次のような点を含んでいます。

1、われわれの知は言明から成り立つ。
2、言明は真か偽かである。
3、真理は客観的である。真理とは言明内容と事実との一致である。
4、われわれが完全な真理を語る時でさえ、われわれはそれを知ることはできない。つまり、確実に知ることはできない。
5、「知」とは、この語の全き意味においては、「確実な知」ということであるのだから、知は存在せず、ただ推測知が存在するのみである。
  「すべては推測から織成されている」
6、しかしながら、われわれの推測知においては、よりよいものに向けての進歩が存在する。
7、よりよい知とは真理へのよりよい接近のことである。
8、しかし、それはいつでも推測知にとどまる―推測から織り成された知にとどまる。

クセノファネスの真理観を完全に理解しようとするなら、
クセノファネスが客観的真理を主観的確実性から明確に区別したことを強調しておくことがとくに重要です。
客観的真理とは言明と事実との一致であり、われわれがそれを知っている―確実に知っている―かどうかとはかかわりはありません。
ですから、真理が確実性と混同されることがあってもなりませんし、あるいは確実な知と混同されることがあってもなりません。
あることを確実に知っている者は真理を知っています。
しかし、ある者があることを確実に知ることなしに推測し、そして彼の推測が事実上、真であるということも生じます。


266 :考える名無しさん:03/09/01 17:54
あらゆる合理的討論、つまり真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、倫理的な原則です。
そのような原則を三つ述べておきましょう。

一、可謬性の原則
おそらくわたしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。
しかし、われわれ両方がともに間違っているかもしれない。

二、合理的討論の原則
われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。

三、真理への接近の原則
ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。
そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。

これら三つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。
というのも、それらはなんと言っても寛容を含意しているからです。
わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、
わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。
あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。
われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くのことを学ぶことができるという原則もまた重要です。
なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。


267 :考える名無しさん:03/09/01 18:11
わたくしは、みなさんに、ひとつの新しい職業倫理を表すいくつかの原則、つまり、寛容と知的正直さの理念とに堅く結びついている原則を提出しておこうと思います。
そのために、最初に古い職業倫理の特徴を述べ、そしておそらくは少しばかり戯画化しておくことになるでしょう。
といいますのも、古い職業倫理をわたくしの提案する新しい職業倫理と比較するためです。
両者、つまり、古い職業倫理と新しい職業倫理の基礎にあるのは、明らかに、真理、合理性、そして知的責任の理念です。
しかしながら、古い職業倫理が基礎においているのは、個人的な知および確実な知の理念であり、したがって権威の理念です。
それに対して、新しい職業倫理が基礎をおいているのは、客観的知および不確実な知の理念です。
これによって、基礎にある思考様式も、したがってまた、真理、合理性、そして知的正直さと責任の理念の役割も根本的に変化しました。
 古い理想は、真理と確実さを所有し、そして可能とあれば、論理的証明によって真理を確実なものとするということでした。

 知識人にとっての古い命令は、権威たれ、この領域における一切を知れ、というものです。
 あなたがひとたび権威として承認されたなら、あなたの権威は同僚によって守られるであろうし、またあなたは、もちろん同僚の権威を守らねばならないというものです。

 わたくしが叙述している古い倫理は誤りを犯すことを禁じています。
誤りは絶対に許されないのです。そこから、誤りは誤りとして承認されないことになります。
この古い職業倫理が非寛容であることは強調するまでもありません。
そして、それはまたいつでも知的に不正直でした。


268 :考える名無しさん:03/09/01 18:23
ですから、わたくしは、新しい職業倫理を提案したいと思います。
わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。
そしてそれらを述べてこの公演を終えたいと思います。

1、われわれの客観的な推測知は、いつでもひとりの人間が修得できるところをはるかに超えでている。
それゆえ、いかなる権威も存在しない。このことは、専門領域の内部においてもあてはまる。

2、すべての誤りを避けることは、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、不可能である。
誤りはあらゆる科学者によってたえず犯されている。
誤りは避けることができ、したがって避けることが義務であるという古い理念は修正されねばならない。
この理念自身が間違っている。

3、もちろん、可能な限り誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である。
しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何びとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。
直感によって導かれる創造的な科学者にとっても、それはうまくいくわけではない。
直感はわれわれを誤った方法に導くこともある。

4、もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。
それゆえ、そうした誤りを探求することが科学者の特殊な課題となる。
よく確証された理論、あるいはよく利用されてきた実際的な手続きのうちにも誤りがあるという観察は、重要な発見である。


269 :考える名無しさん:03/09/01 18:33
5、それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない。
われわれの実際上の倫理改革が始まるのはここにおいてである。
なぜなら古い職業倫理の態度は、われわれの誤りをもみ消し、隠蔽し、できるだけ速やかに忘却させるものであるからである。

6、新しい原則は、学ぶためには、また可能な限り誤りを避けるためには、われわれはまさに自らの誤りから学ばねばならないということである。
それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。

7、それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張ってなければならない。
われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。
誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。

8、それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる。

9、われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、
それを受け入れること、実際、感謝の念をもって受け入れることを学ばねばならない。
われわれが他者の誤りを明らかにするときは、我々自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。
またわれわれは、最高級の科学者でさえ誤りを犯したことを思い出すべきである。
もちろん、わたくしは、われわれの誤りは通常は許されると言っているのではない。
われわれは気をゆるめてはならないということである。
しかし、繰り返し誤りを犯すことは人間には避けがたい。


270 :考える名無しさん:03/09/01 18:42
10、誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ、
とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。
これはまた寛容に通じる。

11、われわれは自己批判が最良の批判であること、しかし他者による批判が必要なことを学ばねばならない。
それは自己批判と同じくらい良いものである。

12、合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。
それはなぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないかについての特定された理由を述べるものでなければならない。
それは客観的真理に接近するという理念によって、導かれていなければならない。
このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。

わたくしの提案は倫理の領域においても討論可能で改善可能な提案がなされうることを示す一助となるべきものです。

『よりよき世界をもとめて』 未来社
第14章 寛容と知的責任 内容から一部抜粋

271 :考える名無しさん:03/09/01 18:43
保守

272 :考える名無しさん:03/09/01 20:21
ぽぱあはいいけど研究者にろくなのがいない・・

273 :考える名無しさん:03/09/06 11:35
>>272
具体的に誰のことを言ってるのよ?

274 :考える名無しさん:03/09/15 17:09
本日の公演の主題は、いわゆる知識の源泉について、です。
・・・・(中略)
さて、ここでこれまで論じてきたことをm、8つのテーゼのかたちにまとめてみましょう。

1、知識の究極的な源泉などありません。
どんな源泉でも、どんな提案でもよいのです。
けれども、いかなる源泉、提案も批判的検討の対象になります。
歴史的な問いを扱っているのでないかぎり、われわれの情報の源泉をたどるよりも、むしろ主張された事実そのものを検討すべきです。

2、科学論の問いは、本来、起源とはなんの関係もありません。
われわれが問うのは、むしろ、ある主張が真であるのかどうかーすなわち、それが事実と一致しているものかどうかということです。
そのような批判的な真理への探求の途中では、可能なかぎりのあらゆる議論が利用されます。
もっとも重要な方法の一つは、我々自身の理論に批判的に対峙し、特に理論と観察の間の矛盾をさがすことです。

3、伝統はー生まれつきの知識はーにしてはるかに重要な知識の源泉です。


275 :考える名無しさん:03/09/15 19:37
4、われわれの知識のかなりの部分が伝統に基づいているという事実は、
伝統に反対すること、つまり反伝統主義の立場にはなんら意味がないことを示しています。
しかし、だからといって、これを伝統主義を支持する根拠と見なしてはなりません。
なぜなら、われわれに伝えられてきた知識のどんなに小さな部分でも不死身ではなく、
批判的に探求され、場合によってはくつがえされるかもしれないからです。
しかし、それにもかかわらず、伝統なしには知識は不可能でしょう。

5、知識は無ータブラ・ラサーからはじまることはできませんが、かといって観察から出発できるわけでもありません。
われわれの知識は既存の知識を修正し、訂正することによって進歩します。
たしかに、ある観察や偶然の発見によって進歩することは、時として可能ですが、
一般的には、ある観察や影響範囲は、それによって既存の理論を修正できるかどうかにかかっています。

6、観察も理性も、なんら権威ではありません。
ほかの知的直観や知的想像力などのようなー源泉も重要ではありますが、同じく信頼に足るものではありません。
それらはものごとをかなり明らかにしてくれるかもしれませんが、しかしわれわれを誤りに導いてしまうかもしれないのです。
それでも、これらは我々の理論の主たる源泉であり、そのようなものとしてかけがいのないものです。
しかも、われわれの理論のほとんど大部分は、誤りなのです。
観察と論理的思考、そして知的直観と想像力の重要な機能は、
未知の領域に踏み込むために必要な大胆な理論を批判的に検討する際の助けになるという点にあります。


276 :考える名無しさん:03/09/15 19:51
7、明晰さには、それ自体知的な価値があります。
厳密さや精密さは、そうではありません。
絶対的精密性など到達不可能です。
問題状況が要求している以上の厳密さを目指すのは、意味のないことです。
もろもろの概念を「厳密」にするためには、あるいはさらにそれらに「意味」を与えるためには、それらを定義しなければならないという考え方は誤っています。
なぜなら、いかなる定義も定義するための概念を利用しなければなりませんが、
そうすると、最終的に未定義の概念で済まさなければならなくなることが決して避けられないからです。
言葉の意味とか定義を対象とする問題は、重要ではありません。
実際、そのような単なる言葉上の問題は、なんとしても避けるべきです。

8、ある問題の解決は、新たな未解決の問題を生み出します。
この新たな問題は、もとの問題が難しければ難しいほど、また解決の試みが大胆であればあるほど、それだけいっそう興味深いものになります。
世界のいろいろなものごとについて経験すればするほど、そしてわれわれの知識が深まれば深まるほど、自分たちがなにを知らないのかということについての、
つまり自分たちの無知についての知識がよりいっそう明確になり、はっきりと描き出されるのです。
われわれの無知の主たる源泉は、無知が必然的に際限のないものであるのに対して、
われわれの知識には限界があるというところにあります。


277 :考える名無しさん:03/09/15 20:02
広大無辺な星空を眺めるとき、われわれは自分たちの無知がはかりしれないことを感じます。
この宇宙の広大さは、われわれの無知のもっとも深い理由というわけではありませんが、その理由のひとつです。

いろいろと試みたけれども、その結果がいかにわれわれがなにも知らないかを思い知ることに終わったとしても、
わたくしは、世界についてより多くの経験をしようとする試みは努力に値すると確信しています。
我々が知っているほんのわずかの事柄について言えば、たしかにわれわれのあいだには差が生じてしまうかもしれませんが、
しかし、際限のない無知について言えば、われわれはみな同じであることを時に思い起こしてみるのもいいことでしょう。

かくして、我々がどれほど多く未知の領域に突き進んだとしても、知識のいかなる領域にもあらゆる批判を超えた権威など存在しないという見解を認めるならば、
われわれは独断主義に陥ることなく、真理それ自体は人間のあらゆる権威の彼方にあるという理念を堅持することができます。
否、そうできるだけでなく、われわれはこの理念を堅持しなければなりません。
なぜなら、この理念なくしては、科学的探究の客観的規準、解決の試みに対する批判、未知のものへの感触、知識獲得への努力などありえなくなるからです。

いわゆる知識の源泉について

278 :保守:03/09/15 20:25
age

279 :考える名無しさん:03/09/16 05:49
             (
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      ゙{y、、;:..ゞ.:,:.:.、;:.ミ.:,:.:. ._υ゚o,,'.、)  、}
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280 :考える名無しさん:03/09/17 22:19
The central features of scientific knowledge are as follows.

1. It begins with problems, practical as well as theoretical.
(中略)
Generally speaking,
a theoretical problem consists in the task of providing an intelligible explanation of an unexplained natural event
and the testing of the explanatory theory by way of its predictions.

2. Knowledge consists in the search for truth - the search for objectively true, explanatory theories.

281 :考える名無しさん:03/09/17 22:35
3. It is not the search for certainty. To err is human.
all human knowledge is fallible and therefore uncertain.
It follows that we must distinguish sharpiy between truth and certainty.
That to err is human means not only that we must constantly strugge against error,
but also that, even when we have taken the greatest care, we cannot be completely certain that we have not made a mistake.
(中略)
There are uncertain truth - even true statements that we take to be false - but there are no uncertain certainties.




282 :考える名無しさん:03/09/17 22:43
Scince we can never know anything for sure, it is simply not worth serching for certainty; but it is well worth searching for truth;
and we do this chiefly by searching for mistakes. so that we can correct them.


283 :考える名無しさん:03/10/03 18:42
保守

284 :考える名無しさん:03/10/05 10:12
今度『量子論と物理学の分裂』が出るらしい。

285 :考える名無しさん:03/10/05 10:18
Scince
mistakes
serching これの意味教えて下さい。

286 :考える名無しさん:03/10/29 22:09
神は存在しません。
その存在が証明されていないからです。

287 :偶像崇拝:03/10/29 22:13
俺見たもんね、3丁目のカドんとこで

288 :考える名無しさん:03/10/30 04:02
小河原さんはいまどこ

289 :考える名無しさん:03/10/30 04:10
http://www.wind.ne.jp/sekikazu/HO-DAI-mensetsu/bunka-jinrui.html

290 :考える名無しさん:03/11/11 02:43
ポパーザセーラーマン

291 :考える名無しさん:03/11/11 03:01
今、家の前の道路を救急車が走ってったが、
サイレンが「ポーパーポーパー」に聞こえた・・・


292 :考える名無しさん:03/11/20 13:25
>>288
小河原誠のHPを見たら、
現在、北里大学教授(一般教育部)
ってことらしい。神奈川の大学ですね。



293 :考える名無しさん:03/11/26 20:15
『ポストスクリプト』完結記念あげ

294 :考える名無しさん:03/11/29 09:09
過去ログ

カール・R・ポパーについてのスレ
http://academy.2ch.net/sociology/kako/974/974108933.html


295 :考える名無しさん:03/12/25 16:06
ho

296 :ゑゑゑ:04/01/07 18:23
あげてやる!あひゃ

297 :考える名無しさん:04/01/07 19:44
パパー
ピパー
プパー
ペパー
ポパー

298 :勝利宣言閣下:04/01/07 19:54
また勝利宣言してしまったヘラヘラ 

299 :考える名無しさん:04/01/07 20:47
正直よい入門書がほしいよ

300 :考える名無しさん:04/01/12 17:17
小河原さんの冒険者たち
小河原編『批判と挑戦』
関雅美『ポパーの科学論と社会論』
蔭山泰之『批判的合理主義の思想』

あたりがおすすめなのでは?

301 :考える名無しさん:04/01/12 17:18
小河原さんの冒険者たち
小河原編『批判と挑戦』
関雅美『ポパーの科学論と社会論』

持ってるが読んだことないな。

302 :考える名無しさん:04/01/12 17:37
冒険者たちは入門書としてお勧めなのだが、絶版状態にあるのが辛い。

303 :考える名無しさん:04/01/12 17:42
>>302
安いやつでてるんじゃない?1500円のやつ。約半額だよ。






304 :302:04/01/12 17:43
あと、批判と挑戦は、入門書というよりはポパー理論の誤解を解いた上で
今後どのように発展させるかについての論考を収めたもの。
何らかの入門書を読んだ後に読んだほうがベター。

関雅美の本はわりと解りやすく書いてあるけど、
プラトン批判についてはポパーに誤解があるという理由で
省略していたような気がする。(古書店に売ったので正確に記憶していない)

305 :考える名無しさん:04/01/12 17:49
>>303
現代思想の冒険者たちシリーズは確かに廉価版で復刊しているけど、ポパーはまだ。

306 :考える名無しさん:04/01/12 17:54
>>305
そうなんだ。知らなかった。

307 :考える名無しさん:04/01/12 20:22
「推測と反駁」の序文は面白かったが後は同じ意見の繰り返しばかり。
後半の「反駁」の途中で読むのを止めた。
全部読んだ人いますか
後半も同じ意見の繰り返しばかりじゃなかったですか
だいたい別々に書いた論文を一つの書物として発表するなんて邪道だ

308 :考える名無しさん:04/01/27 14:47
保守ぐらい・・・

309 :考える名無しさん:04/02/02 14:28
ポパーてたんなる議論の司会役って感じ

310 :考える名無しさん:04/02/18 20:00
法主

311 :名無し募集中。。。:04/03/13 07:21
一気に2年分読んで保守

312 :名無し募集中。。。:04/03/13 21:33
月一の保守で生き残れるなんて、狼住人には夢のような板だなあ

313 :考える名無しさん:04/03/22 21:28
ポパーリアンへの道

レベル1 『哲学と現実世界 ポパー入門』(著ブライアン・マギー)
レベル2 『歴史主義の貧困』

飛びすぎたか?

314 :考える名無しさん:04/03/23 12:52
 ふつう「科学的客観性」と呼ばれているものが、ある程度まで社会的諸制度に基礎をおいている、ということには若干の興味がある。
科学的客観性が個々の科学者の精神的すなわち心理的態度、その訓練や綿密さ、科学的に超然たる態度などに依存するという素朴な見解は、
その反動として、科学者は決して客観的たりえないという懐疑論を発生させる。
この見解によれば、科学者の情熱が刺激されない自然科学においては、彼らが客観性を欠くことも無視しうるものになろうが、
社会的偏見や階級的先入見、個人的利害などが介在している社会学にとっては、そのことは致命的なものになるという。
いわゆる「知識社会学」によって詳細に展開されている以上の主張は、科学的知識がもつ社会的もしくは制度的性格をまったく看過している。
なぜならその主張は、客観性が個々の科学者の心理に依存している、という素朴な見解に基づいているからである。
 すなわち、その主張は次の事実を見落としている。
つまり自然科学の主題がもつ無味乾燥性や疎遠性も、個々の科学者の信念に不公正や私欲が干渉してゆくことを阻止していないという事実である、
また個々の科学者の超然たる態度といったものに依存しなければならないとすれば、科学は自然科学でさえもまったく不可能になるということである。
「知識社会学」が見落としているものは、まさに知識の社会学-つまり科学の社会的もしくは公共的性格なのだ。
つまり個々の科学者に精神的な規律を課し、また科学の客観性を保持させ、新しい着想を批判的に検討するという科学の伝統を保持させるものが、科学と諸制度とがもつ公共的性格にあるという事実を、「知識社会学」は見落としているのである。


315 :考える名無しさん:04/03/23 12:55
続く・・・・

316 :考える名無しさん:04/03/27 04:48
まーだから、ポパーは真理をとっても重要視するんでつね。

317 :考える名無しさん:04/03/28 23:09
風邪ひいたからアプは延期
すまん

318 :考える名無しさん:04/04/12 11:03
めんどいからアプの続きは中止
>>314は『歴史主義の貧困』 中央公論社 第4章 進歩に関する制度的理論
32進歩に関する制度的理論より抜粋


319 :考える名無しさん:04/04/12 11:05
次回、講義における教師と生徒の規範を引用予定
どこに書いてあったか忘れたけど

320 :処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :04/04/13 15:11
救済age

321 :考える名無しさん:04/04/13 21:36
自伝が出たのに全然話題になってないね

322 :Я ◆wMDHqGPerU :04/04/13 21:49
地味な人生だからね。

323 :考える名無しさん:04/04/29 08:30
良スレ ageなきゃ


324 :考える名無しさん:04/05/04 12:58
議論で相手信者が詭弁を使って自説を擁護してきた時、「反証可能性」の概念は有効である


325 :考える名無しさん:04/05/04 13:10
>>324
循環や還元論法で理論が強化される
反証可能性がない理論は反証可能性がある理論より優れている

このような思考をしている者には通用しない


詭弁は詭弁とは分からずに述べられるからね


326 :考える名無しさん:04/05/04 13:25
循環や還元論法で理論が強化される
反証可能性がない理論は反証可能性がある理論より優れている

このような思考をしている者に対して、「反証可能性」の概念は有効である

327 :考える名無しさん:04/05/04 13:27
>>326
どのように?
「反証可能性って何?バカじゃん!」とか言えばいいんだよ



328 :考える名無しさん:04/05/04 18:27
>>327
「『反証可能性って何?バカじゃん!』って言ってる奴ってバカじゃん!」とか言えばいいんだよ


329 :空談:04/05/04 19:03
 なぜゆえ奥雅博氏は
あそこまでポパーをたたくのか?
例(うろおぼえでごめん):
 擬似科学の告発に力を注ぐ非哲学者

330 :考える名無しさん:04/05/04 19:24
ヴィトゲンシュタインの研究者だから、
ポパーを認めてしまうと、自分を否定されそうだからだろう。

331 :考える名無しさん:04/05/08 13:53
ポパーって日本では右翼よばわりされてるけど、なぜ?

332 :考える名無しさん:04/05/09 12:08
マルクスに批判者だから。

333 :考える名無しさん:04/05/09 19:30
ポパイ

334 :考える名無しさん:04/05/11 20:24
ポパーは現代人必読あげ

335 :考える名無しさん:04/05/11 23:42
ポパーがマルクスやフロイトを時代劇の殺陣のようにバッサバッサと斬って捨てるのを見て、
歓喜した人間も多いはず。

336 :考える名無しさん:04/05/11 23:53
女子マラソンの高橋尚子選手がオリンピック選考レースで結果を残せず落選して
他の選手に取って代わられたのは科学的。
もしも日本陸連が過去の実績を持ち出して無条件選出を行っていたら反証不可能な非科学的ドグマ


337 :考える名無しさん:04/05/11 23:57
女は見えないものは信じないだろ。だから過去は誰もが清算済みなんだろ。そんくらいわかる。まさかそうでないのがいたら責任は持つが

338 :考える名無しさん:04/05/13 18:29
ヒストリシズムって歴史的決定論ってことですか?
なんでヒストリズムって言うんだろ?

339 :考える名無しさん:04/05/13 18:30
>>6
ポパーの京都賞での講演ってどこで読めますか?

340 :考える名無しさん:04/05/13 20:59
>>339
長尾龍一・河上倫逸編『開かれた社会の哲学』

341 :考える名無しさん:04/05/14 22:02
ポパーの耳ってどうなってるの?

342 :考える名無しさん:04/05/14 22:07
あがってるジャン!!!

343 :考える名無しさん:04/05/14 22:36
>>338
歴史主義って本来ちゃんとした意味があるのに、
広辞苑 (historism) 一切を歴史的見地に立って理解しようとする立場。

なんでポパーはわざわざ歴史主義って言葉を使ったんだろう?
E.H.カーは歴史とは何かでその点を批判してたね。

344 :考える名無しさん:04/05/14 23:05
クーンってアホじゃね?

345 :考える名無しさん:04/05/18 16:48
ポパーっていつサーの称号もらったんですか?

346 :考える名無しさん:04/05/23 00:41
ポパーって中国哲学には詳しくなかったのかな?
儒教もプラトンと同じような思想だと思うんだけど(知識人による支配、周が理想で
その後は段々悪くなるetc)、触れてないよね。

347 :考える名無しさん:04/05/25 22:32



348 :考える名無しさん:04/05/26 21:29
拉致被害者の子供にポパーを差し入れして洗脳を解こう

349 :考える名無しさん:04/06/02 09:24
データを提示しないで自説を擁護する理論は非科学?


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