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 ------※  哲学とは何か  ※------  

1 :考える名無しさん:04/12/26 06:45:48

そもそも哲学とは何なのであろうか。

これがよくわかっていない人は多いでしょう。

学問なのか、学問ではないのか。
文系なのか、理系なのか。
難しいのか、簡単なのか。
等々、哲学について不明確な点は多くあります。

ここは「哲学」というものについて、徹底的に議論し、
哲学という概念を少しでも明確にしていこうと試みるスレッドです。

この板を訪れたばかりの初心者にもわかりやすいように、
わかりやすい言葉で「哲学」を語ってください。


2 :考える名無しさん:04/12/26 06:47:15
前スレ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1098804635/

3 :考える名無しさん:04/12/26 06:49:16
ぴかぁ〜荒らすのやめろよ

4 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

5 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

6 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

7 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

8 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

9 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

10 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

11 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

12 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

13 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

14 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

15 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

16 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

17 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

18 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

19 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

20 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

21 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

22 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

23 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

24 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

25 :あぼーん:あぼーん
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26 :あぼーん:あぼーん
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27 :あぼーん:あぼーん
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28 :あぼーん:あぼーん
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29 :あぼーん:あぼーん
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30 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

31 :あぼーん:あぼーん
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32 :あぼーん:あぼーん
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33 :あぼーん:あぼーん
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34 :あぼーん:あぼーん
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35 :あぼーん:あぼーん
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36 :あぼーん:あぼーん
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37 :あぼーん:あぼーん
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38 :あぼーん:あぼーん
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39 :あぼーん:あぼーん
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40 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

41 :あぼーん:あぼーん
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42 :あぼーん:あぼーん
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43 :あぼーん:あぼーん
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44 :あぼーん:あぼーん
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45 :あぼーん:あぼーん
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46 :あぼーん:あぼーん
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47 :あぼーん:あぼーん
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48 :あぼーん:あぼーん
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49 :あぼーん:あぼーん
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50 :あぼーん:あぼーん
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51 :あぼーん:あぼーん
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52 :あぼーん:あぼーん
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53 :あぼーん:あぼーん
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54 :あぼーん:あぼーん
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58 :あぼーん:あぼーん
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59 :あぼーん:あぼーん
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60 :あぼーん:あぼーん
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61 :あぼーん:あぼーん
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62 :あぼーん:あぼーん
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63 :あぼーん:あぼーん
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65 :あぼーん:あぼーん
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66 :あぼーん:あぼーん
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67 :あぼーん:あぼーん
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68 :あぼーん:あぼーん
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69 :あぼーん:あぼーん
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70 :あぼーん:あぼーん
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71 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

72 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

73 :考える名無しさん:04/12/26 08:25:16
(・Д 三 Д・)


   ω

74 :考える名無しさん:04/12/26 08:34:22
イデア界に飛翔する哲学的な情熱が哲学です。
だれか、フィロソフィアの為に本場のすごいサイトを教えてください。
僕はギリシャ語ができません。

75 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

76 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

77 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

78 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

79 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

80 :考える名無しさん:04/12/26 10:36:10
じゆん vs ぴかぁ〜 の壮絶な対決 続行

81 :浄もなく不浄もなし:04/12/26 21:58:35
所詮は、腐肉を喰らい、腐物を喰らい生きている。
愚か者どもの中で、愚か者と語らい、愚か者として生きるのみ。

82 :シュシュシュシュシュシュシュ ◆bYRNL78mlE :04/12/27 05:17:29
うるせえアホ

83 :j ◆/G/BBKC7sQ :04/12/27 09:28:55
じゆんです。トリップが割れてしまったのでトリップ変更の報告です。


84 :考える名無しさん:04/12/27 19:35:32
↓のスレがまだ700に達していないのに、何故次スレがあるのですか?

------※ 哲学とは何か T.W.O! ※------
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1098804635/

85 :考える名無しさん:04/12/27 22:19:25
哲学とは妄想です。

86 :考える名無しさん:04/12/28 00:19:30
>>82=>>83でないと、証明できるか?

87 :考える名無しさん:04/12/28 00:31:12
妙に2ちゃんの自治に熱心な輩こそが、自演と荒らしの常習者であると、俺は睨んでいるが如何に?

88 :考える名無しさん:04/12/28 09:08:23
>>84
同意

なぜここまで荒らされるのか
特定のコテハンが現れるたびにどのスレもどんどん汚されていく
前スレのときも同じだよ


89 :しゅしゅしゅ:04/12/28 19:00:42

(´Д`三´Д`)

   
   ω



90 :二プレス:05/01/01 14:20:16
 年末は休みがまったくない状態でしたのでこのスレにはとてもこられませんでした。
その間に私宛てにいくつかのレスがあったようです。その一つ一つに答えたいのですが
休みがなかった分 しなければならないこと―休息や行事―がたくさんたまって
しまいました。

 とりあえず今は目に付いた順にでもレスを返そうと思います。

>>84 前スレに書き込めなかったのでここに書かせてもらいます)

91 :二プレス:05/01/01 14:20:49
>疎外について話をした方
 私(たち)の考えやそれを表明したレスに強い不快感を持つ人がいることに(近頃の私は)
注意しています。それと同時になぜ不快な思いをすることをわかっていて私(たち)のレスを
チェックするのかも少し疑問に思ったのです。

 不快な思いをするのなら読まなければよいわけですがどうもそういうわけにはいかないようです。
そればかりか、わざわざレスを読んで考えてその上でレスを返してくる。

 どうやら私(あるいはほかの誰か)の考えを否定することに力点が置かれているのではないか、私にはそう思えました。
それはつまり不都合なものを排除(疎外)しようという姿勢。

 しかし興味深いことにこの姿勢=疎外はあなたに限ったものではないのかもしれません。
あなたが不都合なものを排除しようとしたとき、実は私も不都合なものを排除しようとしているのではないか。
実際、あなたのレスに「言いがかり」のような不当さを私は見出していました。

 このお互いに「疎外」し合おうとすること―しかも同じスレの中で―にスレの亀裂の構造、
ひいては人間関係の亀裂の構造を見出すことができるのかもしれない。
打ち消しあおうとするがゆえに両者の間に横たわる(=共通した)この亀裂構造は
打ち消しあおうとする両者がともに取り組める課題ではないか、そう思えたのです。

92 :二プレス:05/01/01 14:52:52
 >がしゅまろさん(前スレ>>380)

 私は哲学においての言語重視の流れに疑問を持っています。

 たとえば私が愛している人を私はとても理解していない。それなのに私はその人を愛する。
(これはこれでまた別の問題領域を形成するでしょうし、まさにキモイといわれるようなたとえでしょうが)
私による観念化を常に拒絶するように「裏切り」つづけるもの(=「他者」)、
それを汲み取ろうとするとき言語に注視していればそれでいいのか、疑問なのです。

 私が愛する人に愛を伝える、そのときに何らかの電気信号をやり取りする神経組織のように
私からその人に「意味」や「言葉」がやり取りされるだけなのでしょうか。

 私が愛を訴えるときに必死におめかしして行くことやその人のためにした多くのこと=「豊かな行為」が
(記号に変換されるなどして)ごっそりと置き去りにされるのではないか。

…何かうまく表現/整理できているとはとても思えないけれども、私と「他者」をつなぐ「窓」としての「行為」、
その中で「言語行為」だけが寵愛されすぎていやしないだろうか、と疑問に思うのです。

93 :二プレス:05/01/01 15:28:10
 >カオルさん
 永井均の話がよく練られているという話ですが、たとえば「〜論」という形で
洗練された土台があるということは確かにうなずけます。

 ですが「ぼく」の話に摩り替わってしまう「独我論」を、<ぼく>の「独我論」という本来のもの
として取り扱おうという問題意識そのものが持つ「ぼく」性(普遍性)―<ぼく>の独我論が誰かに伝わってしまうと<ぼく>は
「ぼく」になってしまう―に永井均は前半部分ではとても無関心です。

 <ぼく>の「独我論」がのちのち(特殊性ゆえの)「語りえぬもの」に通じるにしても、
たとえば「やっぱり僕は狂っているのだろうか」というような疑惑が出てきて、その疑惑が
<ぼく>の独我論を支持してくれる人によって晴らされるような、奇妙で複雑でねじれた状態を
永井均は(前半部分では)まったく説明しようとしていません。

 <ぼく>の「特殊性=本来性」が奇妙な形で密接に「ぼく」の「普遍性」と絡み合っている。
そのことを彼は示すだけでまったくほぐそうとしていない。(前半部分では)(←書くのが面倒になってきました)

 そういうのを見ているとどうにも永井均の本当の目的を勘繰りたくなるのです。

94 :処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :05/01/01 15:28:27
哲学=自立心のない奴がやっても無駄なもの。

95 :二プレス:05/01/01 15:49:56
 >じゆんさん

 マイナーが悪、というのは確かに行き過ぎた話です。そして自分自身多くの場面(ここ以外でも)で専門性の
欠如に問題意識を持っています。(興味の無い話はすぐ忘れてしまいます)

 ですが専門性が知識の博物主義―何々先生はこう言われたが私は彼のこの部分を改めてこういう風に考えるべきだと思う
というような研究に適した連続性に価値を求め連続性の枠にはまらないものを「疎外」するような傾向―に摩り替わってしまう
ことにはいくら注意してもし足りることは無いと思います。

 そういう観点からの注意喚起の声と思ってください。
ただし専門性(学)から陰に陽にいろいろな助けを得ていることも見過ごされてはいけない。
それは新たな課題ではあります。

96 :二プレス:05/01/04 16:04:36
 もう二つもスレを消費した上で議論の火種も消えつつあるという現状で
レスをつけて欲しいと考えるのもわがままなのかもしれませんね。

 第一、哲学とは許認可制でなく自己申告制である、というきわめて民主的な結論を
最初のスレの結びあたりで、カオルさんが言われていました。
 その結論を私は支持したのですからこのスレでの議論の火種がもうほとんど残っていないのも
当然でしょうね。

97 :カオル:05/01/05 22:06:51
>はとみねさん、ニップルさん、みなさんへ

明けましておめでとうございます。

今日は2ch初詣ということで祝ageです。

みなさん、今年もよろしくお願いします。(^.^)


98 :ニプレス:05/01/05 22:19:43
 >>93に書いたことは本来、「狂気」や「個々性」、「唯一性」のような言葉を
使って書かなければならない内容だったと今は思っています。

 ところで、どうしてカオルさんが前スレで主張のオリジナリティーのような陳腐な議題を取り上げたのか
という疑問が私にはありましたが、今は氷解しています。

 永井均の「子どものための哲学」を半分までよんで(100ページぐらいでしょうか)
自分と考えが重なるようなところも多いと感じました。
(30年以上哲学に打ち込んでいる永井均と同じ結論を知らず知らずに持ったというよりも
知らず知らずのうちに永井均の影響を受けて、彼の結論を支持している、と考えるほうが自然なのでしょうが)

 たとえば「生」と「死」が対概念ではないのではないか、という疑惑。
私から言えば「生」と「死」が一対になっていると、究極的で確実な将来としての「死」が
(「今ここ」にある)「生」を打ち消しかねないほどに強く脅かしてしまう、という問題が生じます。
だから「生」は「生きた」という言葉―それは「生」を否定するよりもむしろ肯定するのではないか―と対に
なるべきではないか、と思っています。

 一方永井均は「生」が対になるべきものは「生まれなかった」というような言葉であろうと
言います。(このように並列に永井均と私を並べて両者の違いを比べるような行為を
不遜であると考える人もいるでしょうが便宜上こうせざるをえなかったのです)

99 :ニプレス:05/01/05 22:21:04
 永井均と重なるような考えは議論の姿勢についてなどもそうですが、重ならないような考えも
大変多くあります。それが元日に書いた草稿以前の代物、「>>93」です。

 言い訳はともかくとして、永井均は自分以外誰にも適用されてはならない「本当の独我論」を目指していましたが
そのうち周囲の誤解や無理解から「自分は狂っているのではないか」という疑念を抱きます。
このような挫折?から彼を救ってくれたのは誰にも適用されてはならない「本当の独我論」を支持してくれる人たちだったのです。
 その後永井均はもう一度、適用されてはならない「本当の独我論」作りに挑戦していきます。

 私は、永井均が(不完全な)「本当の独我論」を支持されたことによって救われた、という逸話に強く興味を抱きます。
永井均が他人に適用不可能な「独我論」を検討していく中で「狂気」を見出し、その「狂気」を他者の支持によって乗り越え再び「独我論」の
検討に没頭してゆく。そしてついにおおむね満足できるような「独我論」を形成するにいたる。そこには他者はほとんどついてこれないし、
仮についてこれたとしても究極的には理解できるはずなどはない、と永井均は言う。

100 :ニプレス:05/01/05 22:23:37
 ここでの他者の役割は最初、「独我論」を支持するサポーターでした。そして自らも「独我」足ろう、とする「個々」だったはずです。
永井均もこの「個々」の一つであるということで「狂気」から開放されたのですが、
永井均は「個々」の一つから脱出して「唯一性」を目指します。
なぜならこの「唯一性」こそが「独我論」を「独我論」足らしめる、彼の問いを問い足らしめるものだったからです。
 そうなれば他者はもうサポーターではなくなるはずです。思考実験の妥当性や論理展開を武器に彼の思索は
切り開かれるのみでしょう。

 ですがそうなれば彼を「狂気」から守ってくれた「個々性」が失われたことにならないでしょうか。
そこで永井均は「狂気」から自分を隔離するために、他者の中にはよく理解してくれるものもいるといいます。
そのうえで結局は究極的な理解ではない、ともいいます。これは自分が狂っているのではないという主張と独我論の正当性を
同時に保とうという画期的な試みですが、私は「唯一性」を追及したその先にあるのは「狂気」ではないかという
永井均の初期?の疑いがちっとも晴らせていないように思えるのです。
ウィトゲンシュタインとのつながりで、あるいはつながりなしで、このあたりにも何らかの光が
当てられるのかもしれませんが少なくともあの本では語られる様子がない。

 「唯一性」が「狂気」と一致してしまったら本当の「独我論」にとっては容易ならざる事態だと思うのです。

101 :100:05/01/05 22:23:51
100 円均一〜


102 :カオル:05/01/05 22:36:08
↑ 残念!(^.^)

>>96 ニップルさん

「哲学とは何か?」という「 」付きですものねぇ・・・

「 」を外してしまってもいいような気はしてますけど・・・
雑談スレということで・・・(^_^;)アハ

火種(ネタ)が消えつつあるのは、みなさんのカキコが
高尚(むずかしい)だからかもしれませんよ。(例 98〜100w)

ふつうこの議題で語れなくなるはずがないのです。
わたしは「人殺しスレ」をのぞくと、いつもデジャビュにおそわれます。
匿名の「わたし」たちの「同じことの永遠回帰」ですからね。(笑)


103 :ニプレス:05/01/05 22:42:06
 >>98->>100
 しかし見事に横道にそれたレスですね。

 横道にそれたついでにじゆんさんに何か言おうかと思ったのですが
何と言っていいのか分からないのでやめておきます。

 …昨日退屈だったので色々なスレを散歩していたのです。その中には自治スレもありました。

104 :カオル:05/01/05 22:49:38
>>98 ニップルさん
>どうしてカオルさんが前スレで主張のオリジナリティーのような陳腐な議題を取り上げたのか
>という疑問が私にはありましたが、今は氷解しています。

氷解・・・ですか?・・・なにがでしょう?
うーん・・・なんていうか、わたしの陳腐な主張はオリジナルなのですよ。
ですから、その主張が永井均の独我論と重なるとは思ってもいなかったんです。
悲しいことに今でもわたしは永井均の論がまったく理解できていないのです。
だからそれを理解したうえでのニップルさんのレスもやっぱり理解できていないのです。(T_T)

>しかし見事に横道にそれたレスですね。(103)

ぜんぜんかまわないと思います。むしろイイ。
ちょっとかんがえてからレスしたいと思っています。


105 :カオル ◆BBBRv/ousU :05/01/05 22:59:12
>>98 ニップルさん
>永井均の「子どものための哲学」を半分までよんで(100ページぐらいでしょうか)
>自分と考えが重なるようなところも多いと感じました。

前にも話しましたが、著作の内容は、<子ども>のための、とは思えないです。
わたしは理解できる範囲で、ですけど、読みながら反論していく読み方なのですが
そのわたしの反論ににたいしてのいい訳?が、かならずどこかに書かれていました。
なので、おもしろくなーい!みたいな。(笑)



106 :考える名無しさん:05/01/05 23:35:19
くだらねー
みたいな

107 :カオル:05/01/06 00:21:54
>>98 ニップルさん
>たとえば「生」と「死」が対概念ではないのではないか、という疑惑。
>私から言えば「生」と「死」が一対になっていると、究極的で確実な将来としての「死」が
>(「今ここ」にある)「生」を打ち消しかねないほどに強く脅かしてしまう、という問題が生じます。

わたしたち生者は、「生の形式」しか知らないのですから、(論理的には)
生の形式を逸脱した概念としての死の概念は、無意味ではないとしても非意味的なものでしょう。

もしも、実存する「わたし」が、「今、ここに、ある」という基準点を創作し、
この基準点の唯一性を「わたし」の個別性をささえるための要素としているのだとしたら
その要素を取り除いたときに、何がそこに残るのでしょう。それが「死」なのでしょうか。
そうかもしれませんが、それをわたしたちはけっして知ることはできないでしょう。

わたしは、たとえば、生物学者が「ミツバチは死なない」と言うときのそれのように
── もちろん個体としての生命のミツバチの「おわり」は観察できるのですが ──
一匹のミツバチの「おわり」の向こうに開けているのは、あいかわらず「生」である、
という風に「死」をとらえています。

つまり、一匹のミツバチの生命の「おわり」を、生の相の変化としてとらえるなら
一匹のミツバチの生の「おわり」は、より根源的な生への回帰とも考えられるわけです。
どうして生命は、「死に向かって生きているのだろう?」という矛盾も
死がより根源的な生への帰還であるととらえるなら、解消されるのではないでしょうか。


108 :カオル ◆BBBRv/ousU :05/01/06 00:41:57
>>107
の補足。

>一方永井均は「生」が対になるべきものは「生まれなかった」というような言葉であろうと
>言います。

上述からわかると思うのですけれど
わたしも永井均のとらえかたには賛成です。

ようするに、個体のおわり → 種のおわり → ・・・ → 宇宙のおわり ・・・ → 存在のおわり
そして、生成(ショーペンハウアーの「意志」とか、ベルクソンの「生命の躍動」とか・・・)のおわり、
みたいなイメージでしょうか。

何も生まれない、という「ある」事態ではなくて、やっぱり「生まれなかった」でしょうね。


109 :カオル:05/01/06 01:03:22
>>100 ニップルさん
>私は「唯一性」を追及したその先にあるのは「狂気」ではないかという
>永井均の初期?の疑いがちっとも晴らせていないように思えるのです。

そうですね。永井はみずからの「問い」へのこだわりのもつ「狂気性」について
なぜか否定しようとしていますよね。このような「問い」をもった少年−永井は
「明朗快活で社会に適応した子どもだった」と、わざわざコメントすることで
みずからの「問い」を「生の問題」から切り離そうとしていますね。

どうして?

わたしは、前スレでも(永井に関係なく)書いたけれど
永井みたいな(つまりポールさんみたいなw)意見をいう人は
もともと「問い」とは縁のない人か、あるいはアカデミーで
職業哲学者としてやっていけるような頭のいい人の意見だと思います。


110 :カオル:05/01/06 01:33:20

(永井の悪口のつづきw)

彼はどうして理論武装するのでしょうか?
(プロの哲学者が自分の著作において理論武装するのは当然なのですが…)

わたしが思うにそれは、彼のまなざしがあくまで少年であったころの無力な
自分に向けられているからだと思います。その当時、自分のプライドを傷つけたり
期待を裏切ったりした(と、彼の思う)モラルや常識という権力の体現者である大人や
それに反発しているだけの同じ(権力)志向の青年や、自分を理解しないインテリゲンチャの
学校の先生や、あるいは与えられた世界の仕組みや世間の慣習になじむことに早熟な
他の子供たちから、少年−永井を守るための論争の手引きとして
(自分に宛てて)書かれたものだからではないでしょうか。

ようするに、永井は学問としての哲学によって、アカデミーという砦に
ひきこもることで、生の問題から切り離すことのできない問いの狂気性から
つまり、生の破綻から「ぼく」を守ったはずなのですから。
永井にとって理論武装は、生き抜くためにどうしても必要なものなのです。


111 :おやすみ:05/01/06 01:51:34
ヘルマン・ヘッセの車輪の下でつか?(
そんなのあえて哲学に絡める必然性がありまつか?(

112 :カオル:05/01/06 01:56:42

(110のつづき)

にもかかわらず、永井は「人生の悩みや苦しさから哲学をはじめてはいけない。
それは必ず悪い思想を生み出すから。」(青年のよどんだしめった雰囲気の哲学w)
と、書きます。

さらに、(青年の哲学とちがって)「子どもの哲学は、もっとかわいた
はっきりとした疑問なのである。ぼくは、深刻になやむどころか
〜 むしろ楽しんだのである 〜 しかしまあ、そんなことはどうでもいい。」
とも、書いてしまうことによって、

永井が少年の頃からかかえつづけた2つの問い−子どもの哲学としての−
「なぜ悪いことをしてはいけないか」と「なぜぼくは存在するのか」は
「生の問題」とは、無縁であることを強調します。

ほ・ん・と・うの哲学は、「生の問題」からは遊離していて
人生の諸問題とは別次元なのだという、独我的な思い込み
による固定した(哲学にたいする)フォームを押し付けてきます。
そこに哲学エリートとしての彼の選民主義が垣間見えます。

でもきっと彼には、その自覚はないと思います。
なぜなら、「<子ども>の哲学者ニーチェ」の不幸を
見事に分析しているくらいですからね。(笑)


113 :カオル:05/01/06 01:59:55
>>111
ほとんど、永井の著書に書かれている言葉をつかって解釈しています。
読めばわかるけど。もちろん解釈は悪意のある悪口ですけどね。(笑)


114 :カオル:05/01/06 02:09:49
>>111
>ヘルマン・ヘッセの車輪の下でつか?

永井の理論武装を擬人化するなら、デミアンかな?
デミアンを過去の自分の世界に送り込んで助けてもらっている
というか、自分がデミアンになって
自分のようなか弱き哲学少年を勇気づけているつもり、みたいな。(笑)


115 :カオル:05/01/06 05:07:01

なぁ、生まれつき目の見えない人間って・・・
ttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1091201946/
に、

『目が見えない人でも、夢をみるのか?』
ttp://dodo.isa-geek.org/Log/Learn1/MegaMienaiYume.html

が、名スレとして紹介されていました。
いま、全部読み終わったところです。
Part2,3は、荒れてしまっていて残念でした。

ネットの存在で、コミュニケーション革命が起きているんですね。
もちろん2chがテキストベースであることが大きな成功の要因です。
言葉の力にあらためて感動です!

そういえば、このあいだ「小柴昌俊教授の楽しむ最先端科学」の4回目
「言語学 なぜ人は言葉を話すのか?」(講師:東京大学助教授 酒井邦嘉)
をおもいっきり見逃してしまいました。(T_T)
もう再放送はしないとおもうけど、もしあったらだれか教えてください!

『言語の脳科学―脳はどのようにことばを生みだすか』(酒井邦嘉著 中公新書)
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121016475/249-8863026-0329955

わたしは、この本からチョムスキーをかじるようになりました。
いまだに難しすぎて理解はしてませんけどね。(^_^;)


116 :カオル:05/01/06 05:31:01

♪ わたしの思う永井の独我論−(その1) ♪

永井の独我論は、<ぼく>が「ぼく」に躓いたところからはじまります。
生への障壁になるかもしれない、その問いの存在が、世界に「ぼく」が
刻印されることによって現前していることに、<ぼく>は抵抗します。

「ぼく」は、何モノかと関係するかぎりにおいて、いつでもどこでも
個々の「ぼく」として存在してしまいます。
そのような「ぼく」の存在の仕方(の普遍性)から独立していることを
<ぼく>は、「ぼく」にうったえます。

うったえられた「ぼく」は、「ぼく」が匿名のだれかかもしれないと
うたがいだします。ほんとうの−ぼく−ってだれなの?

こうして「その」の問いは、「ぼく」の存在形式にしたがって
「ぼくら」の論理空間のなかをさまようことになります。
けれど「その」問いは、「ぼくら」の問いではないのです。
なぜなら「ぼく」を原点にしていないからです。

「その」問いは、きのうの「ぼく」や、あしたの「ぼく」や
きょうの「ぼく」の問いのように、バラバラにはならなくて
いつもはじめてで、いつもはじまりなのです。
だから「その」問いは、いつも<ぼく>でしかない
<ぼく>だけの問いなのです。


117 :カオル:05/01/06 05:36:52

きっとわかっていません。的外れというか・・・

ニップルさんのご批判をお待ちしています。

その2、その3もどんどん書けそうなのですが・・・いい加減!(笑)
でも今日はこれでおしまいにします。おやすみなさい。


118 :ニプレス:05/01/06 15:33:34
 たくさんのレスがついているとどれから答えていいのか当惑してしまうものなのですね。
とりあえず、>>107あたりから答えられたらと思います。

 (私自身はとても永井均の主張を理解できているとは思わないのですが)
永井均の独我論が「個々」と「唯一」の対比に貫かれているという事態を
(つまり彼の独我論は徹頭徹尾「ぼく」と<ぼく>の対比に貫かれているという事態を)
永井均はその考察の結びで―120ページぐらいですかね―、「本当の独我論は実在論である」とか
「実在論とは本当の独我論のことではないか」というような言葉で表現します。

 永井均ははじめから「他者」をてこに「独我論」を進めてきたし、ついにその最終段階では
「独我論」が「他者」の存在?(=実在論)に通底していると言います。
これは107,108でカオルさんが言われた「生」の構造―より大きなものに回収されていくような構造―と
重なるところも多いのではないでしょうか。

 「私」の「唯一」性を追求していくと「他者」の「個々」性との密接なつながりが発見される。
それは「狂気」との絡みもあって「個々」の中で特定のすなわち「唯一」の場を占める「私」を
問題にするように思います。このような一部から全体への広がり、あるいは両者の絡まりあいの構図、
が永井均の「独我論」とカオルさんの「死生観」?に共通しているように思います。

 カオルさんの言うように「私」の「生」がより大きなものに通じているならば、
そして私の理解が永井均の「独我論」を理解するのに一定以上の妥当性を持つならば、いまや課題は
「部分」=<ぼく>と「全体的部分」=「個々」がどのような形で絡み合っているのか、
その絡みを解きほぐしながら示すことになるのではないでしょうか。
 それゆえに私は「個々」(「ぼく」ら)と「唯一」(<ぼく>)の間の緊張が凝縮するような一点、
「狂気」の問題に気をとられているのかもしれません。

119 :ニプレス:05/01/06 15:53:17
 「狂気」の問題は、たとえば>>91では亀裂構造として私が問題視したことにも
つながるかもしれないですし、カオルさんがしばしば言及するデムパの問題にも通じるような
気がします。(ただ、つなげていくには根気と時間が要るでしょうが)

 ところで>>116の永井均理解はおおむね私には賛同できるものです。
チラッと永井均が最後にほのめかした<ぼく>と<今>の問題を絡めているあたりは
にくいですね、と言いたくなります。

 ついでになんですが、「楽しむ最先端科学」とか言うやつ見ました。お正月休みで
突然暇になってゴロゴロしていたらやってたので。歯ごたえのあるような内容ではなかったですが
確かにチョムスキーの話は出てきました。「普遍文法」とかいうはなし。
 とても分かりやすく感じたのは高校生向けだったからか、あの人が頭がいいからか、
私がチョムスキーの名前くらいしか知らないからか、どうかは不明ですが。

120 :ニプレス:05/01/06 16:04:07
 永井均の「独我論」が「個々」の<なか>で「唯一」を模索する運動だとしたら、
彼の「独我論」と「道徳」への関心も二つの関心として分けて考えるよりも
むしろ一体的に捉えなければならない、のではないかと思えます。

 今日はおかげさまで考える材料=得るものもあったので、のんびりしながら
考えてみようと思います。

121 :ニプレス:05/01/07 20:17:05
 >>110-111
  >カオルさん
 カオルさんのレスに返答してから「子どものための哲学」を最後まで読んだのですが
>(自分に宛てて)書かれたもの
というカオルさんの意見が的を射ていると私も読んだ直後に思いました。

 しかし、しだいにこの理解では残る謎があるように思いはじめました。
その謎とは、永井均の独我論が最終的に(いや最初からというべきか)他者の存在にたどり着くという
不思議と類似しているのかもしれません。

 永井均は、まさに「私だけ」(唯一)の本当の「独我論」を展開するにあたり、<ぼく>と「ぼく」の
対比を徹底しました。同じように彼は自己弁護とも取れるような巻末のコラムで本当の「哲学」
を「自分以外の人」に向けて放ちます。これは<ぼく>を語るのに「ぼく」を踏み台にするような
彼の「独我論」での論法を想起させるものではないでしょうか。

122 :ニプレス:05/01/07 20:18:25
 彼の「議論」(批判)における姿勢でも同じような不思議(「謎」)に遭遇します。
永井均は彼の独我論の論旨をまったく理解しないで現代思想史の文脈でそれを裁こうとする
竹田せいじという人を苛烈なまでに攻撃します。
 一方で「くればやしくん」(でしたかね?)などの有効な批判者には敬意を持って、
というか何かうれしそうに対応しています。彼はこれを自分の哲学を改良するための利己的な姿だと
言いたいようですが、私はそれは彼の思い違いのように思うのです。
無効な批判には激昂し、有効な批判を喜ぶ不思議(謎)。

 この謎(と思い違い)を解きほぐすには永井均が哲学とは、そして「(哲学的)議論」とは
どのようなものであると考えているかを追っていく必要があるかもしれません。
 端的に言って永井均の考える哲学とは「能動的」であって、個人的であって、ある種のハンディキャップを
持つものがそれを乗り越える限りで有効なもの―みんなに有効なものではない―、であるといえるのではないでしょうか。

 永井均の考える(哲学的)議論とは「哲学とは?」のような形では論じられていませんが、
重大な「批判」を喜ぶということと、的外れな「批判」を憎むということははっきりしているようです。

123 :ニプレス:05/01/07 20:19:00
 だとしたら彼のいう「哲学」と「哲学的議論」の間にまた一つの謎が生じないでしょうか。
永井均は「哲学」とは個人的なものであって他人にとってはくだらなくて(興味がなくて)当然だといいます。
にもかかわらず、的外れな「批判」を憎み重大な「批判」を喜ぶ。
彼の哲学(観)は明確に「他性」を拒絶しようとしているのに、彼の「哲学的議論」はむしろ「他性」を
心から望んでいるように見えます(くればやし君等の批判をとてもうれしそうに書いています)。
 明確に「他性」を拒絶しようとする「哲学」が、一方では「議論」という形態において「他性」を
待ち望んでいるという不思議。
言うまでもないかもしれませんが、これは「他性」を拒絶しようとする「独我論」が、
一方では「議論」という形態において「他性」(「ぼく」)をてこにするという不思議、
と相似をなしているのではないか、と私は思っています。

 そして個人的には永井均の「独我論」は、彼がどうしてもなじめなかった「他性」と折り合いを付けていく
永井均流の「社会参加」ではないか、そう思えるのです。
(もしあれが「社会参加」であれば永井均は<子ども>を卒業して<青年>にならなければならないと思います)

124 :ニプレス:05/01/07 20:39:05
>>123
 長々と書いて逆に伝えたいことが伝わらないかもしれません。
私が言いたかったことは永井均が<ぼく>を追い求めて「ぼく」にたどり着くという「転倒」が
実は「転倒」ではなく、孤独な彼が本当に追い求めていた「他性」のリアリティを目指す
(当人からも隠れたしかし)一貫した狙いのある論理ではないだろうか、ということです。

 仮にそうだとしたら本当の「独我論」は本当の「社会参加」に名を改め、彼も<子ども>を
卒業せねばならない、と思ったのです。
そして本当の独我論が本当の社会参加であるならばそれを私たちはどう受け止めるのか、という問題は…
まぁ手付かずです。


125 :ニプレス:05/01/07 20:43:56
>たくさんのレスがついているとどれから答えていいのか当惑してしまうものなのですね。
>>118
自分でこう書いていたのに…。すみません。

 ところでこれはあくまで<青年>から見た「<子ども>のための哲学」ということかもしれません。
(と、謝るついでに言い訳もしておきます)

126 :カオル:05/01/10 01:27:21
>>118 ニップルさん
>たくさんのレスがついているとどれから答えていいのか当惑してしまうものなのですね。

先日は2ch初詣でうれしくて7時間もたくさんのいのち(言葉)に包れていたんです。
ずっとこうしていたいって思いました。でも現実はニップルさんもわたしも社会人ですし
なかなか時間がとれなくて、レスをするにも相当な(何日もの)努力が必要なんですよね。
ですからこうしてレスをいただけることやそれにレスできることがとてもうれしいです。
わたしもたまーにしか来れないですけど、これからもよろしくお願いします。m(__)m


127 :カオル:05/01/10 01:31:40

>永井均はその考察の結びで―120ページぐらいですかね―、「本当の独我論は実在論である」とか
>「実在論とは本当の独我論のことではないか」というような言葉で表現します。

これは、ウィトの『論考』における独我論テーゼ「世界は私の世界である」と
主体否定テーゼ「私は私の世界である」からみちびかれる結論のようです。

詳しくは、『論理哲学論考』を読む(野矢 茂樹 著)
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/488679078X/249-8863026-0329955
が、断然おススメです!

参考のために結論の部分だけ抜粋しておきます。(同書 214n)

 独我論は主体否定テーゼを伴なって完成される。独我論は、「世界は私の世界である」と言う。
 しかし、主体否定テーゼに従えば、「私の世界」と言われるべき「私」は世界の内にはない。
 それは世界が存在するための前提であり、現れてくるのはただ世界だけである。
 それゆえ、独我論の「世界は私の世界である」という主張は、主体否定テーゼを経て、
 そこにおける「私」さえ消去されることとなり、結果として、たんに「世界はこの世界である」
 と主張するだけのものとなる。この点を捉えてウィトゲンシュタインは次のように主張する。
  
 五・六四 ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見てとられる。
 独我論の自我は広がりを欠いた点にまで縮退し、自我に対応する実在がのこされる。


128 :カオル:05/01/10 01:33:56

> 永井均ははじめから「他者」をてこに「独我論」を進めてきたし、ついにその最終段階では
>「独我論」が「他者」の存在?(=実在論)に通底していると言います。

ウィトの独我論と永井のそれとが示している問題意識の存在論的な同質性は
ニップルさんのご指摘のとおり、他者の他者性にたいする感受性にその起源が
あるのかもしれません。

<ぼく>の独我論を「ぼく」の論理空間の唯一性によって説明しようとしても
「あなた」にそれが理解されてしまった時点で、その唯一性はホモロクエンス
としての人間のもつ普遍的な論理の形式のなかにのみこまれてしまいます。
唯一の、それゆえ閉じていたはずの論理空間は、今や存在論的に同格の
「ぼくら」に共有され、等しい思考可能性の場として開かれることになります。

ふたたび、野矢さんの著書から引用します。(216n)

 論理空間を共有していない他者 ── この、意味の他者という他者性にリアリティを感じない人、
 すべてがひとつの論理空間のもとに生きる<われわれ>であるという楽観を受け入れる人は、
 『論考』の独我論が排除したものを理解できないだろう。そして『論考』が「独我論」と称した
 ものがなぜ「独我論」なのか理解できないに違いない。

 ウィトゲンシュタインは、意味の他者のリアリティを人一倍強く感じていた、
 ── だからこそ、意味の他者を排除しようとしたのである。


129 :カオル:05/01/10 01:40:11

>これは107,108でカオルさんが言われた「生」の構造―より大きなものに回収されていくような構造―と
>重なるところも多いのではないでしょうか。

独我論の「私」は、みずから精神的実体としての「心」を消し去ることで
おのずから「論理の形式」としての(精神の)個体化の原理として残り?ます。
たいして「生命」が、みずから生命的実体としての「個体」を消し去ることで
─(生命は死に向かって生きているということ)─おのずから、より根源的な
「生の形式」としての、(たとえば種の)生命原理に回帰していくのだとしたら
それぞれが含み持っている存在論的な差異の構造は似ているかもしれません。


130 :カオル:05/01/10 01:44:10

> カオルさんの言うように「私」の「生」がより大きなものに通じているならば、
>そして私の理解が永井均の「独我論」を理解するのに一定以上の妥当性を持つならば、いまや課題は
>「部分」=<ぼく>と「全体的部分」=「個々」がどのような形で絡み合っているのか、
>その絡みを解きほぐしながら示すことになるのではないでしょうか。

もうあきあきでしょうけど、ふたたびウィトの独我論から・・・

ウィトの独我論のテーゼ「世界は私の世界である」は
他者の論理空間は思考できない(⇒語れない、示せない)というものです。
ようするに、他者の「存在」を認めないという考えです。
当然、他者から見た「私」と「私(自我)」との対比もありえないので
論理的帰結として、「私」という実体も否定されることになります。

「私」はどこへ?

「世界は私の世界である」の「世界」と「私」は同格ですが
すでに「私」という実体は否定されているので
この命題は、「世界は世界である」というトートロジーに還元されます。
これは、独我論がみずからの手で「私」という実体を否定するなら
そこには、トートロジー(の集合)としての世界そのもの(実在)だけが
残されるということです。


131 :カオル:05/01/10 01:47:18

(つづき)

ウィトの世界は、「論理的必然性」によって「現に成立している事態を
すべて集めたもの」のことなので、「世界は世界である」ための前提として
この「論理的必然性」、つまり「論理の形式」を要請することになります。
この「論理の形式」が、実体としての存在を否定された「私」になります。

ウィトは、「論理空間の中にある諸事実、それが世界である」(TLP 1.13)
と考えました。これは論理の形式を世界そのものの形式と前提したからです。

ですが、世界はそのようにはできていないかもしれないのです。
たとえウィトの独我論が正しいのだとしても、排除されたのはあくまで
ホモロクエンスとして定義された「他者」の一側面でしかないでしょう。
別の生を引き受けている他者−「生の形式」を前提にした「存在者」を
論理によって切り捨てることなどできないと思うからです。
端的に、論理の世界があるのなら、生命の世界もあるのでしょうから。

ですから、ウィトの他者にたいする脅えも、永井の他者にたいする仕切りも
どうしてそうなるのかは、たんに論理空間を介しての意味論的な探究だけでは
足らないのではないかと感じています。


132 :カオル:05/01/10 01:49:54
>>119 ニップルさん
> ついでになんですが、「楽しむ最先端科学」とか言うやつ見ました。お正月休みで
>突然暇になってゴロゴロしていたらやってたので。歯ごたえのあるような内容ではなかったですが
>確かにチョムスキーの話は出てきました。「普遍文法」とかいうはなし。

ぅう〜、見たんですね…うらめしい、もとい、うらやましい。(笑)

「普遍文法」=「論理の形式」と考えても、それほど的外れじゃないと思います。
普遍文法は、遺伝子に組み込まれているそうだから、それが正しいのなら
論理の形式そのものは、わたしたちの創造するバーチャルな世界の存在基盤として
先験的なものということになりますね。論理は、生命と心の架け橋なのかもしれない。


133 :カオル:05/01/10 01:53:39
>>120 ニップルさん
> 永井均の「独我論」が「個々」の<なか>で「唯一」を模索する運動だとしたら、
>彼の「独我論」と「道徳」への関心も二つの関心として分けて考えるよりも
>むしろ一体的に捉えなければならない、のではないかと思えます。

そうですね。図式としては似ているかもしれません。
価値というものが、世界の<なか>にあるのなら、それは相対的です。
けれど、世界の<なか>で「唯一」を模索する運動−価値への志向性が
「あれかこれか」の(選択の)究極のはてに、世界の外−超越へ向かうのは
おそらく(ある種の?)人間にとっては必然なのではないでしょうか。


134 :カオル:05/01/10 02:30:21
>>121 ニップルさん
>その謎とは、永井均の独我論が最終的に(いや最初からというべきか)他者の存在にたどり着くという
>不思議と類似しているのかもしれません。

永井は「ぼく」が「ぼく」でない「ぼく」になってしまうことへの
リアルな感覚を日常的に感じていたのかもしれません。
あまりにも「ぼく」が軽すぎて、抵抗感がなくて、実感がない。
いつも「ぼく」が「ぼく」であることの確認をしてないと
いつにまにか「ぼく」でない「ぼく」になってしまうことへの脅え。
でもそんな「ぼく」でない「ぼく」みたいな「ぼく」は
ほんとうの「ぼく」を守るための透明なバリアなのだから
外すこともできない。
だからいつまでたっても<ぼく>と「ぼく」とがひとつにならない。
みたいな?


135 :カオル:05/01/10 03:17:43
>>122 ニップルさん
>永井均の考える(哲学的)議論とは「哲学とは?」のような形では論じられていませんが、
>重大な「批判」を喜ぶということと、的外れな「批判」を憎むということははっきりしているようです。

そうかなぁ〜?
たしかに、(大森荘蔵の例をあげて)このような態度の哲学者がホンモノの哲学者だ、
と本人がいっているのだから、自分の理想とする態度なのかもしれないけど
哲学上の友は論敵ともいっているから、和気あいあいは友の条件ではないはず。
生徒のこともあくまで生徒として見てて、とても同格に扱っているようには思えなかった。
もちろんそのように読者に感じさせるような演出はほどこしてあったとは思いますけど。
それから竹田さんにかんしては、「哲学者永井としては、竹田さんに真の論敵(真の友)
であって欲しいと望んでいる」という永井流の自己演出に思えましたけど?

永井の文章ってツクリモノ感がスゴイするのです。(計算されてる)
きっとわたしがひねくれているだけだと思いますけどね。(^_^;)


136 :カオル:05/01/10 03:29:18

全部レスしてないけど、どうしてものところがあったら教えてください。

今日の収穫スレ

離人症患者が哲学に触れようとするスレ
ttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1105020202/

離人症スレ
ttp://life7.2ch.net/test/read.cgi/utu/1087576212/

なんか134と似てる人たち、えっ!わたしも?(笑)

寝ます おやすみなさい (_ _)。。o ○


137 :カオル:05/01/10 03:32:34

はとみねさん、どうしていらっしゃいますか?
お元気なら良いのだけど・・・声が聞きたいです。


138 :二プレス:05/01/10 14:01:52
 あまりに煩雑な論理展開に落胆されましたかね。
それも無理はありません。書き込みの意図を知っている私自身が読んでも前回の
書き込みからは伝わるものが少ないからですから。

 私の永井均論は実は三部立てでした。
まず第一段階として、『<子ども>のための哲学』ではそこここに<ぼく>と「ぼく」の
対比が散りばめられているということを指摘したかったのです。
 (その文脈で、電車の中で永井均と向き合い彼の持論をよく理解してくれる「榑林くん」が
<ぼく>に近く、『群像』という雑誌で永井均をポストモダンやらヘーゲルやらの関連から
――それは永井均を暴力的に「ぼく」の思想史の中にほうりこむことにひとしい――
解釈し批判した(というかまともに読んでいない)「竹田さん」が「ぼく」に近いという指摘がしたかったのです)
 (また、大きく分けて「独我論」が<ぼく>に相当すると考えるとその後に続く「道徳」に関する考察は
「ぼく」に相当すると考えることが出来る、という重要な対比の部分が前回抜けていました)

 次に第二段階として、その散りばめられた「対比」を見て
「独我論」での、<ぼく>が「ぼく」を排除していくと(<ぼく>を徹底していくと)
かえって「ぼく」に突き当たってしまうという「転倒」が、実は「転倒」ではなく
終始一貫した「狙い」だったのではないか、という疑惑が沸き起こってくるという
指摘をしたかったのです。

 最後に第三段階として、永井均の「独我論」が<ぼく>を徹底して「ぼく」に出会うという
「転倒」を「狙い」としているならば、それは永井均流の「ぼく」への呼びかけだったのでは、
「つながり」を模索する「上げ底」だったのではないか。
そうだとすれば永井均の「独我論」は永井均流の「社会参加」だと言えないだろうか。
という結論を導きたかったのです。

139 :二プレス:05/01/10 14:49:49
上記の第一段階、第二段階の補足;
 「榑林君」は「何故そんなことも分からないのかと言わんばかりの顔で」
(むしろ永井均よりも深い理解から)永井均の思考実験を批判、改良します。
<ぼく>の「独我論」をよく理解してくれている存在として「榑林君」は描かれています。
 一方で「竹田さん」は<ぼく>の「独我論」を、思想史や哲学史のとても大きな流れの中で、
その<唯一性>を無視するようなやり方で――それが問題にされているのに――解釈し批判してくる。
そして抗議の手紙も無視する、<ぼく>を拒絶する存在(「ぼく」のように)として描かれています。

 そして「道徳」という<ぼく>と「ぼく」との折り合いの問題を経て
(道徳の問題は「ぼく」の問題にあからさまに開けていくので、
独我論が<ぼく>だとすれば「ぼく」にあたると考えられるのではないだろうか)
執拗に繰り返される<ぼく>と「ぼく」の(隠れた)対比が「ぼく」の排除を
もくろんだのではなく、<ぼく>と「ぼく」との「つながり」を一貫して模索する
試みだったのではないか、というような筋立てが第一、第二段階にはあります。
これ以上やるとまた大量の書き込みになってしまうのでやめときます。

140 :二プレス:05/01/10 15:20:14
 こういう筋立てを考えていたのですがこの筋立ても永井均の書いた
一言によって打ち崩されました。
『究極的なところでは、他者と共有される「問題」であり続けることができない』
(そのことが「問題」だと彼は言います)

 私はあくまでも<ぼく>と「ぼく」がもつ「つながり」を問題視していますが、
実は永井均はその「つながり」がないことを問題視していたのです。
その点から見て>>128でのカオルさんの引用は恐ろしいまでに的確です。

141 :二プレス:05/01/10 15:52:56
 思いがけず他者との「つながり」に囚われている自分を見出したことで
学生時代の議論を思い出してしまいました。

 あれはたしかメルロ=ポンティとフッサールのどちらを支持するかというような議論で
「他者」に対する態度が問題になったときでした。メルロ=ポンティを支持する側は
「他者」には到達することができないと主張するのです。(詳しい立論は当然憶えていません)
そして到達することが出来ないがゆえに、その無限の距離がゆえに「他者」の存在は
「私」の肯定や否定という干渉を超えて存在しうる、とも言います。

 私は「そんなことはない」と言いました。たとえフッサールのエポケーに不可能性が
付きまとうとしてもなんらかの、どこかの地平では一体化できなければそれは
「他者」としてのリアリティを失ってしまう、と思ったのです。

 今から考えれば浅はかな主張ですが当時の私にとっては「他者」のリアリティは重要な
テーマでした。その後、他者の無限性、くみ尽しえなさを私は認めることが出来ましたが
自他の「つながり」に姿を変えて私を捕らえ続けていたようです。

142 :はとみね ◆SxAKrzWJr. :05/01/11 00:31:04
呼んだ?
元気でいます。気に入ったスレにも目を通しています。読んだり考えたりもしています。
大した成果が得られなくて困っているんだけど、ちょっと中身をご紹介しましょう。


楽聖べートーベンとか書聖王羲之という呼び方があります。
詩聖杜甫に対して詩仙李白とか。非凡と平凡が分かれています。
他にも、単なる敬称として画伯・画匠・画工とかがあります。

でも哲学の世界では、そんな呼び方を耳にしません。哲学者、哲学徒、哲人…、ちょっと味気ない感じがします。
これは、明治以降に西洋から日本へやって来たからなんでしょう。
それに上にあげたのは、どれも芸術の世界でのことなので、
学問としての性格が強い哲学には相応しくないのかもしれません。


以前、哲学が、形而上学(存在と認識)、科学、宗教と倫理、詩の四つに分類されると話しました。
人間の精神の根源を、知情意とした場合に、そのうちの知と情によって、四つに分けられると。

もし、哲学の一ど素人が、「楽聖とか詩仙のような呼び方が哲学にもないのかな?」というような
無茶な空想をはじめることが許されるなら、
そいつは、上の四つの分類にしたがって以下のように呼ぶことでしょう。

143 :はとみね ◆SxAKrzWJr. :05/01/11 00:35:47
―形而上学に優れた人は、哲匠
「真」の理想を抱いて、尽きせぬ謎に向かって知を働かす姿が、真面目な職人の気質と重なります。
精密な章立てと、一字一句への細やかな気配りとから、「匠」の文字が相応しいと思います。

―宗教家や倫理学者は、哲聖
「善」の理想を信奉する点から、「聖人」の名がぴったりです。

―詩人や美文家は、哲仙
「美」の理想に向かう人びとです。飄々とした態度で世俗と隔たっています。
一文字が、形而上学の本一冊分に匹敵するような文章を書く人びとです。
それで、「仙人」の名が相応しいと思いました。

科学的傾向の強い哲学については、ついぞ探し当てられませんでした。


一応、現実に存在した哲学者を当ててみると、
形而上学…カントや上座部仏教
宗教と倫理…大乗仏教、キリスト
詩…荘子
という具合になります。

144 :はとみね ◆SxAKrzWJr. :05/01/11 00:48:29
こんなんです。
また、以前に哲学には実際性が欠如しているとも言いました。その弊害も三つか四つに分かれます。

あけましておめでとうございます。

145 :カオル:05/01/11 02:38:37
>はとみねさん

おひさ、です。
お元気にされてるようで安心しました。(^.^)

>科学的傾向の強い哲学については、ついぞ探し当てられませんでした。

わたしの目指すところです。
名無しのままじゃ悲しいです。
名前ください!
ひねりだしてください!

気に入ったらコテハン変えたりするかも。(笑)


146 :カオル:05/01/11 02:55:31
>>138 ニップルさん
>あまりに煩雑な論理展開に落胆されましたかね。

うん少し。ホントはもっと永井の悪口で盛り上がれるかと…
だって前々スレで永井のこの本のことを読む気にもならないって…
もう永井をかじった瞬間のことは忘れてしまったのかなぁ?
わたしは永井をかじってみて、ずいぶんあなたに共感してたのに…
うわぁ〜こんなにみごとな学哲みたことなーい、みたいな。(笑)

わたしにしたら永井の哲学なんてぜんぜん新しくないし
プラトンの時代からの哲学の正統にしかみえません。
だから竹田さんが永井の哲学を思想史の文脈のなかで
とらえようとしたことはぜんぜんまちがってないと思います。
すでに書かれたものは思想になってしまうんだから
思想にたいする批判になってしまうのは当り前だもの。
それしかできないのが言語の限界だということを
自分でも言っているくせにそれに文句言うのはおかしいと思います。

竹田さんにたいする永井の反応は典型的な学哲の脊髄反射です。
自己欺瞞によって学哲の素顔は隠しているけれどね。
それが少年を偽装したあの文章のあの語り口です。
あれこそあなたがこれまでに再三指摘してきた学哲の言論封鎖ですよ。
アカデミーでの地位を「楯」にした永井流の巧妙なやり口なのです。
<ぼく>=「魂」とか言い出す人の論の、「魂」について
何かを語ることなんて不可能なんですから・・・卑怯な人だと思います。


147 :カオル:05/01/11 02:58:00
気分が悪くなったので寝ます。おやすみなさい。

148 :カオル:05/01/11 07:03:55
>ニップルさんへ

146は脳内あぼーんしてください。
あまりに下品ですくいようがないです。
わたしは永井さんの世界に入れないし
彼の論がどうしても理解できないです。
くやしまぎれの暴言でした。
永井さんニップルさんごめんなさい。
逝ってきまーす。


149 :カオル:05/01/12 04:08:14
>ニップルさん

@<ぼく>の存在論的独我論 → 論理のフィルター → 「ぼく」の認識論的独我論 →@へ

A<ぼく>の超越論的道徳論 → 意志のフィルター → 「ぼく」の経験論的道徳論 →Aへ

人間は、フィルター(仕切り)の忘却によって
<ぼく>と「ぼく」の相即不離の関係性を「そのように」生きている。
と、永井は言っているのではないでしょうか?


150 :カオル:05/01/12 04:10:17

わかろうとするとわからなくなるので
やろうとするとやれなくなるので
わかろうとすることも
やろうとすることも
やめました

それはおのずからあったのです
それはおのずからされていたのです

ああ神さま おゆるしください

みずからの罪をおかした「ぼく」を


151 :はとみね ◆SxAKrzWJr. :05/01/12 13:55:59
>>145 カオルさん
勢い盛んで気運の高まっている勢力というものは、それ以外の特徴を一つにまとめるのが困難なんですよ。
それに俺の気まぐれでマイペースな性格は、よくわかったでしょう?
期待に答えるのはいつの事になるのか、わかったものじゃありませんよ。


・実際性の話
大哲学者と比較してそれがどんなにちっぽけなものであれ、人が何か哲学の成果を得て、創意がある場合に、
それを以って実社会とどう付き合っていくのか、どう実を結ばせるのか、という問題です。
これを疎かにすると、―

善の理想を抱く人は、往々にして偽善者扱いされます。
人生や幸福について手ごたえをもっているのに、死にかかっている人や災害に遭っている人に対しては、
何か特別なことができるというわけではありませんから。

美の理想を抱く人は、世間との隔たりに拘りすぎて、酔生夢死の過ちを犯すように思います。
第一、鋭い感性で一巻の書に匹敵するような表現に成功しても、論理が伴っていないのでは、
二度三度読んだときの風化には耐えられないものです。

真の理想を抱く人は、やっぱり閉鎖的になってしまうのが弊害なんでしょうか。

152 :はとみね ◆SxAKrzWJr. :05/01/12 13:57:26
このように、古来より、思索に打ち込む人を苛む問題であるのは、まぁ常識ですよね。
ですから、哲学徒は、探究の領域を常にもう一つ持ってなくちゃなりません。
「哲学的な考え」とか「哲学的な言い方」というのはよく見聞きしますけど、
「あれは哲学的な行動だったね」というふうに人びとが言うのは、見聞きしません。
本当に、別領域の問題なんです。

いいもの持っているのに実際に実を結ばないということは、
植物で言ったら、材料も条件も何もかも全て揃っていながらにして、ただ運命が実を結ばせないというのと同等のことです。
その植物が、もし考える力を持っていたら、その道理のない闇を前にして、深く絶望するのは間違いありません。
この植物のように、人間も苦悩するのです。


それで、上の分類に従うと、今まで一つの重みだったのが、三つに分散できるわけです。
もしかしたら、他の理想を意識することで、ある程度負担を軽減できるのかもしれません。
真の理想の体現を強調しているときは、つまり、存在や認識について、科学や形而上学を駆使しているときは、
それが善であるか美であるかを意識するとか。
善や美を強調しているときだったら、それが真であるかと意識するとか。

駆け足ですが、俺が最初にこのスレに登場したときに言いたかったのは、こんな程度のものだったのでした。

153 :カオル:05/01/15 02:04:11
>>151 はとみねさん
>実際性の話

哲学する

考えつづけられる
そのあいだ
わたしは生きている

この事実から類推されること
それによってわたしが生きようとしていること
おそらくそれなしでは生きようとしなくなること

哲学は何の役にも立たないという方法で
他者や社会や世界とかかわるのではないですか?
もし人生の意味や幸福な人生に執着してしまうなら
その時点から彼は思想家として歩み始めたのです。

ああそうか!
仮定として
わたしが生きようとしているのだとしたら
そのことと、人生の意味や幸福な人生とは
何かしらの関係があるということかしら?
うーん、つながりがあるようには感じないけど・・・
あるかないかわからないから否定はしないです。


154 :二プレス:05/01/16 20:31:29
 スレに進展があることなど期待していなかったのですがいい意味で裏切られました。

 >はとみねさん
 お久しぶりです。はとみねさんの問題意識を理解するのはそう簡単ではないけれども、
「あれは哲学的な行動だったね」というのは少し笑ってしまいました。(そしてそう言われたいなぁと思いました)

 >カオルさん >>146
 私は確かに永井均の「哲学」に対する考察には不備があると思います。
その点は変わってないのですが、でも共通する(納得できるといいますか)点も多いのです。
たとえば「哲学」とは能動的なものだ、とか個人的なものだ、という主張には納得できたのです。
(そういう意味ではポールさんが永井均を援用したのは誤りだったと思っています)

 永井均の読解をはじめたことについては申し開きの仕様もないですね。
でもそれでも申し開きをするなら、
私にとって納得できる哲学観も含まれていたものですから、それを生かして不都合な部分(役に立たなくてよいとか
子どもと青年の違いとか)を批判しようと考えました。
それには彼の「独我論」を攻略するのが一番いいと思ったのです。
(「哲学」が個人的なものであるとか、役には立たないという主張は「独我論」が下敷きされているようでしたから)

155 :二プレス:05/01/16 22:46:51
つづき

 だから永井均の「独我論」が、<子ども>のなぜなぜ?という問いかけではなく
大勢の「ぼく」のなかで唯一の <ぼく> がどう生きるかを探るための前段階(=社会参加一歩前)
だったのではないか、と主張しようとしたのです。

 その筋書きを大胆に省略して書くとこうなります
1、永井均の<子ども>のための哲学は「他者」との「つながり」を示す
2、<子ども>のための哲学は「他者」とどう生きるかという<青年>の哲学一歩前である
3、<子ども>の哲学にある程度答えを出せたのならば<青年>になるべきだ

 でも私の永井均の読解と批判は誤りでした。それを気づかせたのが192ページの
『究極的なところでは、他者と共有される「問題」であり続けることができない』
という1行だったのです。

 永井均は <ぼく> と「他者」との「つながり」がないという事を徹頭徹尾問題にしていました。
だから例えば、 <ぼく> という唯一性を踏み台にして 「ぼく」 という普遍性を論じていました。
でも私は彼の徹頭徹尾問題にしていることを無視して、勝手に「つながり」を重視してしまいました。
だから例えば、 「ぼく」 を踏み台にして <ぼく> を永井均は語っている(>>121の最後の2行)など
と言えたのです。

156 :二プレス:05/01/16 22:47:33
 「つながり」がない という事を重視するならば、「つながり」を得たあとに新たな哲学(青年の哲学)を拓く
ことなどできません。「つながり」がないがゆえにそれを問題とすること(=子どもの哲学)で「つながり」を得るからです。
だから「子どもの哲学」が「青年の哲学」に変容してしまうとその「つながり」はなくなってしまうのです。

 個人的で役に立たない<子ども>の哲学であるがゆえに、他者と「つながって」いる役に立つ。
とにかくこんな風なとんでもなく錯綜した論法が、終始あの本で躍動しているのだと思います。

>哲学は何の役にも立たないという方法で
>他者や社会や世界とかかわるのではないですか?
>もし人生の意味や幸福な人生に執着してしまうなら
>その時点から彼は思想家として歩み始めたのです。(>>153

 私から言わしてもらうなら、
このカオルさんの書き込みはあの本の要約としても通用するものだと思います。
(そういうつもりで書いたのかなぁ)

 おっとっと、ついまたやってしまいましたね。すみません。

157 :ニプレス:05/01/19 21:05:23
 私の「子どものための哲学」解釈(そんな大げさなものではないですが)は現在進行形です。
だから前々回書き込んだことや前回書き込んだことを踏まえていたり、踏まえていなかったりします。
その点からしてとてもわかりにくいでしょうが、これはまぁ本論から離れたおまけみたいなものとして
ぜひ大目に見てもらいたいと思ったり…。

 ところでカオルさんは永井均―竹田の論争?を問題視しているようです。
これはきっとこのスレッドの議論内容にも関係してくると思うので私なりの意見を
ちょっと書き込んでおきたいと思います。

 私は永井均の哲学観を、「論証過程を重視するだけでよい」と言っているあたりから、
この板でいうところの「マイ哲学」に分類される哲学観だと捉えています。
実際ライプニッツやウィトゲンシュタインやハイデガーやニーチェを援用し自説を
補強するやり方は、伝統的で権威的なそして形骸的だと私が思うようなやり方を支持する人々
から見ると許されない無手勝流に映ることでしょう。

 その許されない無手勝流を最初から否定するつもりで「竹田さん」は永井均の批判をしたのだと
私は考えています。「竹田さん」はというかこの板で「学哲」を唱道する人たちの多くも、思想史的な
「流派」の枠組みを大事に思っていると私はかんがえています。
しかしそれは「真理」を探究する哲学の姿勢とはかけ離れている姿ではないでしょうか
(はとみねさんの立場では「善」とか「美」の探求も加わるのでしょうね)。

158 :ニプレス:05/01/19 21:11:42
一方永井均は「流派」に組み込まれることを拒むでしょう
(それは「思想」の拒否という姿勢に端的に現れているのではないでしょうか)。
その上で彼の論法には一見して隙がない(それ以前に「竹田さん」は多分まともに読んでいないけど)。

 私が思うに論争や口げんかで相手を責めるとき、相手のロジックの不備を突くのはどちらかといって
下策だろうと思います。たとえば20世紀最大の哲学者と目される人物を責めるとき、その論法を責めるより、
ナチス加担とか言葉遣いが変とかフッサールの潜在的殺人者とか、その人物丸ごとを責める、
そして相手のプライドを責める、何かそのようなやり方をするほうが上策だと思うのです。
 ロジック自体が複雑怪奇で容易に踏み込むことすら許さないものだとしても相手自体を丸ごと
否定すれば、またはそのプライドを傷つければ、動揺をきたして過ちを犯すということは十分に
考えられることです。謝ればいいのに謝らないとか、言い逃れをするとかいろんなミスを犯しうる。

 「竹田さん」は唯一性を問題視する永井均の「独我論」を「主体」を解体するという観点?からフランス現代思想、
とりわけポストモダン(の辺境)に位置づけて否定しているようです。そして否定した後は相手にしないという突き放しぶり。
これは先の区分でいくと、永井均を丸ごと否定しているようなものですから、上策にあたるでしょう。

159 :ニプレス:05/01/19 21:12:29
 それゆえに、永井均も過ちを犯してしまったと私は考えています。
本来永井均の「独我論」は「つながり」がない、「独在性」を問題にしています。
それを下敷きにしているから彼の哲学観は、「個人的」であってしかるべきとか、
哲学は個人の上げ底に使われるだけで社会貢献などはできないと言えるのでしょう。
 なのに他方で<子ども><青年><大人><老人>というカテゴリーを作って個人的なはずの、それゆえ
「つながり」を持てないはずの個々の哲学をあっさり並べて(「つながり」を前提して)考えてしまっています。
 このまえ竹田青嗣という人の本を2,3行立ち読みしましたが冒頭で「生きる技術としての哲学」を
唱えていました。これを一見して<青年>の哲学が何を、そして誰を想定しているのかが
わかったような気になりました。

 永井均は「竹田さん」の「真理」とはかけ離れたところにある「心理」面からの
責めによって彼自身の「独我論」とは相性の悪い区分を導入してしまったのではないでしょうか。

 また非常に長くなりましたが、これが「竹田さん」との論争?をからめて考えた
「永井均の哲学観が抱える不備」です。

 これでもか!というほど永井均のあの本については語りました。
カオルさんの意見や はとみねさんのスレの趣旨に配慮したレスを、スレ違いの大量の書き込みによって
結果的に軽んじてしまったことは猛省が必要だと我ながら思います。 
 でも一度たまってしまったものを吐き出してからじゃないときちんとレスが出来ないような状態でした。
それなら、「たまったものを吐き出させてください」と先に断っておくべきだったかもしれません。
本当に申し訳ありません。

160 :考える名無しさん:05/01/20 18:05:17
age

161 :考える名無しさん:05/01/20 21:40:41
横ヤリ、失礼します。

>このまえ竹田青嗣という人の本を2,3行立ち読みしましたが冒頭で「生きる技術としての哲学」を
唱えていました。これを一見して<青年>の哲学が何を、そして誰を想定しているのかが
わかったような気になりました。

「<子ども>のための哲学」のあの箇所は、自分も強く印象に残りました。
ただ、細かいことですが「想定」までは永井均はしていないのではないかと思います。
たまたま綺麗に竹田青嗣の言説に当てはまっている、というところではないでしょうか。
本当の所は永井均に聞いてみなければわかりませんが‥‥。

162 :カオル:05/01/21 01:24:55

またまた約1名の学哲厨房が
「学問としての哲学」を言い出してるみたい。
自作自演ご苦労様・・・

でもあのシツコサはどこからやってくるんでしょうね。
そもそも2ちゃんねるでするようなことなのでしょうか。
vs社会で頑張ってほしいです。(無理でしょうけどw)

規制議論にはもうみんなあきあきしてるから
コソーリ申請(ローカルルール変更)でも通ってしまうかも。
そうなってしまうと「哲学とは何か?」は
スレ違いですから削除されてしまうことになりますね。
なぜって「哲学とは学問」らしいですから。(大笑)


163 :カオル:05/01/21 01:49:30
>ニップルさん

いつも激遅レスでごめんなさい。
週1ペースののろまな亀さんですが
これからもよろしくお願いします。


164 :カオル:05/01/21 01:52:49

永井の『子どものための哲学』は、「哲学とは何か?」が主題なのですから
その内容についての解釈は、スレの主旨に十分に沿っているかと考えます。
たとえ沿っていないのだとしてもかまわないではないですか。(^.^)

この著書には、たくさんの問題がふくまれているように感じられます。
たとえば、永井の竹田批判についていうなら、同書104〜105nにおいて
彼は、ダメットの実在論を「新しい見地」の例として取り上げて
「新しい見地」には、「ちがった」論駁の仕方がある、と主張します。

たとえどのような立場からの論駁であっても、それが

 ダメット的な意味であるなら、ダメットの手の中にいるし、
 もしダメット的な意味でないなら、ダメットの問題とは関係ない。
 
 哲学における新しい見地とはそういものではないだろうか。
 かりに意識していないとしても、何らかの新しい見地を提出すれば、
 それにともなってその見地を論駁する新しい仕方が
 同時に提起されることになるだろう。
 それをできるかぎり意識的におこなおうとするのが哲学の精神ではないか。

という風に。


165 :カオル:05/01/21 01:56:04

(つづき)

この主張は、永井を生きられるものだけが、永井を批判できる、という、
永井が、その不可能性を指摘しているところの「論理空間共有」への強制です。
永井は、「ぼく」を飛び越えてやってきた<他者>しか受けつけないのです。
この来訪者−<他者>は、すでにして<ぼく>なのですから安全ですものね。
永井の弱虫!

永井は、他者−竹田には竹田の哲学−竹田の土俵があることをみとめません。
つまり永井の言い分は、
「竹田は、<ぼく>の土俵にのぼらないから、その批判は的外れなのだ。」
というものなのです。

けれど、ニップルさんが、>>155で指摘されているように
(竹田が)── <ぼく> という唯一性を踏み台にして ── い・な・い
ことを理由に、竹田はわかっていない、と批判で・き・るのだとしたら
永井は、「みずから」の独我論−「けっしてそれは理解されてはならない」
を「みずから」否定することになってしまいます。


166 :カオル:05/01/21 01:58:06

(つづき)

竹田は、この自己言及性について

 永井は、人間の『独在性』(<この私>性)は、 言語の構造上これを
 明示することはできない、というパラドクスの“発見”をした ──(同書103n)
 
と表現したのです。

ですから、永井が竹田に反論をもとめることはおかしなことなのです。
なぜなら、竹田は「けっして理解されてはならない」ことに
言及することはできないのですから。

ということで、永井の竹田批判こそ、まさに的外れなのだと思います。

永井の、子どもの哲学 vs 青年、大人、老人の哲学、という構図は
学哲「唯一」が強制するところのそれと酷似してはいないでしょうか。(笑)
わたしは、ニップルさんが直感的に、この傲慢さに気づいたからこそ
永井を批判したのだと思っていました。


167 :カオル:05/01/21 02:13:24

永井の独我論は、永井の土俵でしか理解されえないのであって
しかも厳密には、永井の土俵に上がった時点で
こちらは、それまでの道程をすべて忘却している必要があり
また“それ”は、「ぼく」の独我論であってはならないのですから
「みずから」という「ぼく」性も越えていないとなりません。
そのような次元に「おのずから」存在するところの“それ”が
<ぼく>なのではないでしょうか。

(ああ、もっとちゃんと書きたい!)

この辺りからたくさん書けそうなのですが
早出しないといけないので今日はここまでにします。

ニップルさんのレスはたくさん考えさせてくれるのでとっても大切です。
その意味では永井の著書も素晴らしい内容なんだなぁと思いました。

おやすみなさい。


168 :カオル:05/01/21 02:34:41
>>166
>永井の、子どもの哲学 vs 青年、大人、老人の哲学、という構図は
>学哲「唯一」が強制するところのそれと酷似してはいないでしょうか。(笑)
>わたしは、ニップルさんが直感的に、この傲慢さに気づいたからこそ
>永井を批判したのだと思っていました。

なんかこの部分だけ
突然、次元のちがう話しになっているようなので、脳内削除してください。
気持ちの具合で、あっちこっちの次元に瞬間移動してしまうのです。
いつも読みにくいカキコになってしまってごめんなさい。m(__)m


169 :触れぬままに一言:05/01/21 03:25:13
例えば、セブンイレブンのおでんのジャガイモは美味しいのだ。

個別の「いま-ここ」と普遍の「いま-ここ」を短絡させることはできないにしても、
事後的に、言葉として知る半過去の「いま」を共有できるならば、
「いま」-「ここ」はなくとも、近未来、全くの「いま-ここ」を希望するのみ。

170 :Ar=As-Ab/As ◆XEF65wQsug :05/01/21 03:52:35
>>162
「学哲厨房」、馴染みの無い言葉ですが。
ローカルルール改変に僅か秤、拘ったので。
バベルとしての哲学は、終るが善いと想います。

171 :はとみね ◆SxAKrzWJr. :05/01/24 00:48:43
上手く伝えられなかったのか…。きっと、哲学と人間というマクロの視点の>>144から、
哲学板の事情等を淡く意識したミクロの視点の>>151に移ったからです。これも実際性という話題ならではのことです。

総意としては、マクロの視点では実際性には傾くなと訴えたいのです。哲学でなくなってしまいますからね。
でも実際に哲学板でやってくためのミクロの視点では、ある程度実際的でないと、
つまり自分の哲学を歪めるのも仕方ないような、泥臭い戦略とか駆使しないとやっていけないみたいですね、ということです。

例えば板前ですけど、手に職を持って生活している人は、
職人としての腕前の他に、儲けのための腕前を駆使して生活しているでしょう。
板前は、料理の腕前と、お金と生活に関する実際的な技術とが、
完全に別の領域の技術であるのを、如実に知ることができます。
腕を使う技術と頭を使う技術という点で。

ところが哲学徒にとっての知恵というのは、探究の腕前であれ、その実現の腕前であれ、
頭を使うという同じ技術によって左右されるものですから、
これは見えにくい、注意しなくちゃと思ったんです。

172 :はとみね ◆SxAKrzWJr. :05/01/24 00:52:59
ところで、科学者っぽい哲学に対する呼び名のことなんですけど。

―文豪、剣豪というのを受けて「哲豪」、…全然イメージが合わない、話にならない
―食通という言い方を受けて「哲通」、ん〜…

それじゃ、完璧にオリジナルの呼び名を考え付いてみようか、と考えました。
―「あなたたちは、人間辞めていっそ本そのものになったら幸せでしょうに。忘れたり衰えたりしないから」
と思ってしまうくらい、教養に過ぎる部分を鑑みて、「哲典」
―哲学の全権を掌握しそうな不穏な勢いを鑑みて、「哲王」

あぁ、センスが悪い。単純に「哲学者」がぴったりなんじゃないか、とふと思ったりもしました。

173 :はとみね ◆SxAKrzWJr. :05/01/24 00:55:03
余談になりますが、自分は昔、哲学と思想の違いがサッパリわからなかったものですが、今は明確にわかるようになりました。
孔子やマキャベリや丸山真男などが絶対に哲学者と呼べないのは、
存在や認識という哲学に固有の第一の問いを、考えていないからなのでした。
まず第一哲学としての形而上学がてっぺんにあって、少し階下に下りると、科学や宗教や詩の支えが見えてくる。
そこからさらに降りて、形而上学が見えなくなる地点まで来ると、そこは哲学よりもずっと実際的な「思想」の地平だ、というように。

174 :はとみね ◆SxAKrzWJr. :05/01/24 00:56:24
>>156 ニプレスさん
自分は、哲学している途中、膝叩いて腹抱えて大笑いするときすらあります。
笑いって不思議です。

自分で考え出すロボットがいつか誕生するのかもしれませんけど、
自分で笑いどきを判断したり、他者を笑わせたりというロボットが現れるのには、
同じくらいの神秘をクリアしなくちゃならないような気がします。

「人間のみがこの世で苦しんでいるので、笑いを発明せざるを得なかったのだ」(ニーチェ)
だ何て言っているし。くわばらくわばら…。

175 :カオル:05/01/24 02:52:47
>>165
>永井は、「みずから」の独我論−「けっしてそれは理解されてはならない」
>を「みずから」否定することになってしまいます。

補足

「みずから」の独我論は、「みずからの」であるかぎり
誰にでも当てはまる普遍的な「ぼく」の独我論になってしまいます。
こ・の「みずから」は、「おのずから」という「自己を超越した自己(他者)」
にたいする自己言及によってしか表現されえないものです。

このような自己の二重性を自己の存在論的差異というのでしょう。
自己の唯一性は、生成が世界に存在を刻印する存在の仕方の
唯一性に基づくものなのではないでしょうか。

また、── けっしてそれは理解されてはならない ──
というのは、理解されることと誤謬を犯してしまうこととが
イコールであることを言っているのでしょう。

なぜなら、推理の前提がまちがっているからです。
前提とは、<ぼく>が「ぼく」である、という同一性への信念です。


176 :カオル:05/01/24 03:00:51
>>170 くらひとさん

神さまは、見えるかたち(塔)は壊さなかったけれども
見えないこころ(言葉)をこなごなに砕いてしまいました。
だからわたしたちは、散らばってしまった言葉を集めて
忘れてしまった大切なもののかたちを思い描くのです。

>>162
>そうなってしまうと「哲学とは何か?」は
>スレ違いですから削除されてしまうことになりますね。

訂正 スレ違い → 板違い

バベルの哲学に「哲学とは何か?」という問いはありません。


177 :カオル:05/01/24 03:46:46
>>175

じつは、>>130

 ウィトの独我論のテーゼ「世界は私の世界である」は
 他者の論理空間は思考できない(⇒語れない、示せない)というものです。
 ようするに、他者の「存在」を認めないという考えです。
 当然、他者から見た「私」と「私(自我)」との対比もありえないので
 論理的帰結として、「私」という実体も否定されることになります。

は、「認識論的独我論」と永井が呼ぶものであって
一般にもウィトゲンシュタインの『論考』解釈においては
まちがったものとされているものです。(『論考』は認識論ではないから)

ところで、どうしてわたしが認識論的独我論解釈をしたかというと
ほんとうは、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』みたいな議論を
しようかなって思ってたからなんです。「論理の形式」ではなくて
「生の形式」としての「知覚−世界の限界」みたいなイメージで。
でもどうしてだか、ちがうことを書いてしまっています。・・・(^_^;)

で、わたしが言いたかったのは
永井が、認識論的な解釈の仕方をみとめないのは
おそらく認識論的独我論には、「生の問題」としてのリアルな
他者への実感が欠如していると感じるからではないでしょうか。
永井は、この実感の欠如に、解釈の無効性を嗅ぎ取っている
のではないのかなぁと思ったりしています。

ウィトや永井にとっては、他者の存在は脅威なのですから。


178 :カオル:05/01/24 04:09:19

はとみねさん、いろいろ考えてくれてありがとうございます。

わたしが科学とともに歩みたいと思うのは
わたしがそう思うからではなくて
科学が哲学をもとめているからなのです。
そのようなキャパシティをもっている科学は
〜主義とは無縁の
おなじ真理の探究をめざす同志なのです。

わたしの身体、わたしの命、わたしの人生、わたしの言葉
わたしの人としてのすべてが、哲学するための手段なのです。
わたしは哲学する人、哲人なのです。エヘ


179 :二プレス:05/01/24 16:17:00
>>164-167 >カオルさん

 正直言って私は竹田青嗣という人が何を批判しているのかトンと検討がつきませんでした。
カオルさんのレスを見て「自己言及(不可能)性の発見」とか何とか言う批判?が見えてきたように思います。

 ところで私も永井均の独我論が <ぼく> 性(=<この私>性 =唯一性)を論じることに
根本的な錯誤を見ていました。なぜなら、それは伝わってはいけないと永井均自身が言及するほど
唯一で特殊なものであるのに彼はそれを論じて伝えようとしている(!)からです。

 この奇妙さが行き着く先は竹田という人が言うような「自己言及(不可能)性の発見」でしょうか?
永井均自身はこの奇妙さの行き着く先に「言語の真空性」を見出していると思います。

 言語が「すでに常に」形骸化しており固有性やそのもの性を踏みにじりながらでしか
成り立ち得ない。あるいは言語が<この私>を論じながら、実は <この私> の
不在においても機能しうる。
<この私>を論じながら<この私>を必要としないこの「言語の真空性」は
永井均の<独我論>の深刻な問題であるとともに究極的な理解を損なうだろうと思います。

180 :二プレス:05/01/24 16:19:10
 でも例えば>>167でのカオルさんの理解はかなりしっかりしたものだと思います。
(このような私の理解はなぜ可能かということはひとまず棚上げにしておいて)
 他方私には <ぼく> という唯一性を問題にする独我論が 「ぼく」 という
普遍性に回収される矛盾を回避する、または <ぼく> の「独在性」を問う事によって
 <ぼく> では無い 「ぼく」 が語られる(<ぼく>をテコに「ぼく」を論じる)
という(あの本での)永井均理解があります。
だとしたら確かに何かしら伝わっていると言わざるを得ないのではないでしょうか。

 「すでに常に」形骸化し真空化する言語(あるいは全てのマーク)は永井均との究極的な一致を
阻害するけれども、不完全で誤りうるがより接近することも可能な結びつきをもたらしうるとも
私は思います。

181 :二プレス:05/01/24 16:50:46
>>161
 そうですね。想定していない可能性も十分にあります。
ただ竹田という人がフランス現代思想というものにとても懐疑的な立場にあるということや、
永井均が攻撃的な性格で、竹田という人が敵視しているデリダにわざわざ言及して
――ウィトゲンシュタインだけで十分だったはず――言語の真空性を論じるあたりからかんがみて
あり得るなあと思ったのです。

 「永井均の哲学観が抱える不備」についての考察は私の想像で補われているところが多々あるので
本当ならもっと綿密な下調べが必要なのでしょうが私のような最下層の人間にはそのような暇も余力も無いのです。

182 :二プレス:05/01/24 17:19:49
>>171 >はとみねさん

>例えば板前ですけど、手に職を持って生活している人は、
>職人としての腕前の他に、儲けのための腕前を駆使して生活しているでしょう。
>板前は、料理の腕前と、お金と生活に関する実際的な技術とが、
>完全に別の領域の技術であるのを、如実に知ることができます。
>腕を使う技術と頭を使う技術という点で。

 私とはとみねさんの相違(あるいは他の多くの方との相違)はやはりこの点に集約
されるようです。私は「板前」が腕前と金銭的な術策を両方備える必要があると思うのです。

 例えば食事というものがただ食べるだけで完結していないということをよく感じます。
準備や料理、食べること、後片付け、これらが一体となったものそれを「食事」と私は考えています。
同じように「片付けること」はただ片付けるということだけで完結していないと思います。
それは取り出すことと一体的に捉えられなければならないと思うのです。
そして同じように「板前」も職人的な探究心だけでなくある程度の経営的な金銭感覚を持つことが
必要だと思います。

 これらのことを一体的に考えることによってとてもうまく事が運ぶということを
私は重要視します。重要視しないわけにはいかないのです。
この有用性の連関のみを尺度にすることはとてもおろかなことだということに
これまでの議論を通じて、主にカオルさんやはとみねさんの力によるものですが、気づきつつあります。
しかしこの連関を捨てることも同様におろかなことと思えるのです。

183 :二プレス:05/01/24 17:42:56
>>181
 181の最後の一行は突然よどんでベトついた空気を差し挟む異様なものですね。

 私は今パースの伝記を購入して読んでいます。「信念」と「行為」につながりを見出した
パースの伝記は「信念」と「行為」のつながりがまったくうまくいかずに転落してゆく
彼の人生を何度も何度も描写しています。また著者はパースの人生が非プラグマティックであったと
簡潔に表現しています。

 あの伝記の独特のベトついた雰囲気が有用性連関を困難にするこの世界の多様性を
如実に表現しているようで、私自身あのベトついた雰囲気に取り込まれてしまっていて
それで突然あのような一文を挿入してしまったのかもしれません。
くわばら、くわばら(なんか使い方が違いますね?)

184 :はとみね ◆SxAKrzWJr. :05/01/25 00:15:34
>>178 カオルさん
見事な自己宣誓です。実際、大変な腕前だし。
>>178の姿を現実のスポーツ選手に擬すとしたら、カオルさんを前にする俺は、
現在世界選手権五連覇中の皇帝M.シューマッハを前にする、ライコネンやモントーヤです。
それでも、灯火を絶やさぬ眼になって、尋ねたいことがあるんですがっ。

以前、「世界に一つだけの花」に吐き気がするとかいう、カオルさんのレスを見たことがあります。
今でも、毎日とめどもなく生産されるポピュラーソングで、気に止まったヤツの意味や思想性について、
いちいち理非や賢愚を問うたりしてるんですか!?
他にもラッセンみたいなタイプの絵とかの。

185 :はとみね ◆SxAKrzWJr. :05/01/25 00:20:31
自分は、以前、寂れた街のおばちゃんやおじちゃんたちとカラオケに行ったことがあります。
「若い人の歌を聴いてみたいとか言われたので、みんなの知っている歌でなくっちゃと思って、あの曲を選びました。
マイク持っているとイントロが流れてきて、
「つまんねー歌が流行ってんなぁ」と僻み気分で背中を向けたことのあるままの例の楽曲に、初めて正対することになりました。
やがて画面に歌詞が映りだして、、、
でも、やっぱり生活の為ですから、お得意さんになるたけウケるように、陽気な気分を装って、
「花屋のー みっせさっきーに なーらんだっ」とか、唄いだすわけですよ。
それで、唄い終わると、部屋中にとびきり華やかに満ち満ちる惰性的習性がそうさせる、
とびきり華やかな拍手をもらったりして、自然に反射的に、とびきりテレた表情が浮かんで、席につく。
でも胸中、不機嫌ですよ。
「俺は本当に、たった一人、深くものを考える人間なんだ。今日も明日も! 時間を問わず!」とか考え込みました。

そんなことを繰り返しているうちに、何もかも、"まんざらでもない"歌になってしまいましたよ、俺は。
でも中身に頭突っ込んで理非を問うて、そうなったんじゃありません。

そんなことしたら、衣服がゲロのせいで一着残らず使いものにならなくなってしまいますもの。
俺に何が起こったんでしょう??? 自分でも説明つきません。

186 :はとみね ◆SxAKrzWJr. :05/01/25 00:22:31
周囲に肩を並べる者がいないほど、深く考えたり、空想したりする人間は、
その世間とどうやって付き合っていったらいいんでしょう…?

187 :はとみね ◆SxAKrzWJr. :05/01/25 00:48:32
>>182 ニプレスさん
俺はニプレスさんとあまり相違を感じませんよ。 
旅館やホテルに勤めている板前が、コンサルタントと折り合いが合わなくなって、
「やってらんねぇ」とか言って店を辞め、自分の店を出す、という例はたくさん見かけます。
自分の目で見たわけではないのでわからないんですけど、そのときコンサルタントの連中は、
「ただ黙って腕動かしていればいいものを、脳みそも使い出したりして、
二兎追う者一兎も得ずっていう諺があるのを、まず知らなくっちゃなりませんよね」って、言ってたとか。

その疑いと呪いを、板前は泥酔しながら深夜、
延々と決まった話題を再生するカセットテープみたいになって、俺に聞かせるんです。

というように、噂から吟味すると、哲学徒の思弁性と実際性の両立は難しいみたいですよ。
でも、諺なんて、実社会が習慣によって編み出したものですからね。
哲学徒はその外への眼を持っているんですから、びびることはありません、考える力で二匹とも捕まえられますよ。

あ、それでも哲学徒は実社会で行動するんだもんな。
まったくもって永遠の宿命ですよ。

188 :考える名無しさん:05/01/25 01:58:13
>>161を書き込んだ者です‥‥(規制でしばらく書き込めませんでした)。
いろいろご意見、ありがとうございます。
もし誤解があったら(>>162)と思って念のため言うのですが、このスレに書くのは自分は初めてです。
横ヤリ、ども失礼しました。


189 :はとみね ◆SxAKrzWJr. :05/01/25 22:10:18
ん〜、やられた。昨晩の俺の文章は、薬物か酒でも入っている感じですね。実際は素面だったんですけど。
まったく、カオルさん「エヘ」なんて言って、甘〜い声出しちゃって。
嫌だナァ、唾液に蜂蜜が含まれているんじゃないかしら。
これぞ、当にカオルの名の如し(ドテッ)。まだ残っているみたいな…。

「口に蜜あり 腹に剣あり」と誰かどこかで言っていたから、正直言って困りますよ、カオルさん。
ご覧のとおり、俺は全然違う人間になっているじゃないですか。昨晩は、妙な興奮で足の指までざわめいているかと思いましたよ。
哲学徒は硬派でなくちゃあ、いけないでしょうに…。
ノリのいい人間だということがバレてからでは遅いんですけど…。

あと、ひらがなにまじっているとはとみねという名前がどこにあるのかわかりづらくなりますね。
そこで次のレスから、ん〜、Limahlというコテハンにします。呼び方はリマールです。

190 :二プレス:05/01/27 13:28:47
>>187 >はとみねさん

 そんなコンサルタントは…とても問題があるでしょうね。
そのような「分業」体制は「板前」の頭脳に対する「侮蔑」を下敷きに成立するものです。
実際の行動を日々行う最前線にいる人間よりもコンサルタント様のほうが問題を発見する
能力に優れており、同時に問題を処理する能力も抜きに出ているという前提がそこにはあります。

 この前提がまったくの問題なのです。この前提はコンサルタントにとってそうであると
都合がよいといった類の願望です。(この問題を発見できない時点でその方の問題発見能力に疑問が生じるでしょう)
 コンサルタントのほうが問題発見能力と処理能力に優れているという「前提」は
本来は「結論」でなければなりません。その当のコンサルティングがうまくいった後に
導き出されるものでなければならないはずです。

191 :二プレス:05/01/27 13:57:57
>>188
 初めての方ですか。
こんなネットの最深部(あるいは最暗部)に人が降りてくるのは最近特に珍しいですね。
意外に暗がりを覗き込んでいる人はいるのでしょうか?

 あとカオルさんはあなたのことを言ったのではないと思いますよ。
それにあなたのレスは横槍ではないと思います。
 意図的であるなしにかかわらず、今ここでたくらまれているのはおそらく
永井均―竹田の論争?に割って入って両者を切って捨て、その後に
哲学とは何か?という問いへの解答を、あるいはその問いに連なる新たな問いをつむぐ
という空前絶後の計画なのですから、永井均と―竹田の論争?は今や重大な問題だと
考えられるからです。

192 :二プレス:05/01/27 16:17:54
 >カオルさん

 >でも例えば>>167でのカオルさんの理解はかなりしっかりしたものだと思います。
>>180

 生意気に聞こえるような書こみをしましたが私の本意は上からものを見るような態度にはありません。

 ところで私は永井均の基本姿勢に実は共感するところが多いのです。
倫理についての永井均の考察はあまり熟慮していませんが、利他的な行為を
善しとして利己的な態度を善しとしないことについては私も疑問に思っていました。

 倫理(あるいは道徳――私にとってはどう呼ばれてもいい)が大事だとすれば、
その倫理を全うする主体(たとえば「私」)をないがしろにする事は
結局倫理を大事にしないことに通じるがゆえに、許されないはずだと私は思うのです。
にもかかわらず、倫理自身は「己を捨てろ」といわんばかりの要求をする。
「自己」が倫理自身の要請によって倫理の空白地になってしまうとしたら、倫理は遅かれ早かれ
放棄されることになるしかないのではないか。
 「自己」を倫理的空白地にしないような倫理でなければそれは結果的に倫理自身に刃を向けるでしょう。
だとするとむしろ利己的であることを(ある程度)要請するような倫理こそが本物だと私は(も?)思います。

193 :二プレス:05/01/27 16:22:55
 また永井均の「独我論」も<ぼく>の唯一性を問題にして「他者」とつながるという筋立てから
<ぼく>(=唯一性)を起点にするという傾向を持つのではないでしょうか。

 倫理と独我論に共通する、<ぼく>を起点にするという姿勢は利他的に拡大してゆく「広い世界」を
拒絶する作用があるでしょう。
その拒絶の仕方があまりにぶっきらぼうなゆえに竹田はそこに無責任さを嗅ぎ付けて
永井均を糾弾しようと考えた。しかしその竹田の糾弾もまたぶっきらぼうで無責任なものだったし、
結局永井均の(<ぼく>を起点にした)「狭い世界」を拒絶するものに他ならなかった。
私にはそう思えます。そして竹田よりも断然、永井均の態度のほうが(本人が拒否しても)
射程がひろいと思えます。

194 :二プレス:05/01/27 16:23:41
 なぜなら永井均の場合は(よく考えたら竹田の場合を知らないですが)つながりの尊さを
示すことができるからです。永井自身「子供のための哲学」のまさに巻末で個人的な哲学を
公共の問題としてさらすことは「(自らの)神の死」に相当するようなものだと述べています。
そしてまた<ぼく>を起点に世界に触れていこうとしていたはずの彼が、つまり
利他的なものを拒絶していたはずの彼が、他の<子ども>たちのための捨石になることを覚悟で
この本を書いた(!)と述べています。
 ほかにも<ぼく>という「唯一性」を論じることによって多くの励ましや賛同の手紙を受け取ったことを
喜ばしいこととして描いているのも(それはまた<ぼく>を踏み台に「ぼく」を語るという手口ですが)
「つながり」のなさから発せられた「つながり」という奇妙な尊さをあらわしていると思うのです。

 永井均にとって本当に大切なのは、もともと備わっている奇跡=<ぼく>という「唯一性」ではなく
「つながり」を断ち切るはずのその<奇跡>が反転してもたらす奇妙な「つながり」なのではないでしょうか。

195 :二プレス:05/01/27 17:33:54
> 永井が、認識論的な解釈の仕方をみとめないのは
>おそらく認識論的独我論には、「生の問題」としてのリアルな
>他者への実感が欠如していると感じるからではないでしょうか。
>永井は、この実感の欠如に、解釈の無効性を嗅ぎ取っている
>のではないのかなぁと思ったりしています。  (>>177

 もし永井均が拒否しているかに見える、哲学と「生の問題」の関係をカオルさんが
論じようとしているならとても興味があります。ぜひ、聞かせてもらいたいです。
私にはまだその見立てができていませんから。

196 :カオル:05/01/29 01:23:22
>>179 ニップルさん
> ところで私も永井均の独我論が <ぼく> 性(=<この私>性 =唯一性)を論じることに
>根本的な錯誤を見ていました。なぜなら、それは伝わってはいけないと永井均自身が言及するほど
>唯一で特殊なものであるのに彼はそれを論じて伝えようとしている(!)からです。

前にも言いましたけど、古代ギリシアから現代に至るまで
“それ”を論じて伝えようとしてきた哲学の歴史があります。
永井もわたしたちも先人に倣っておなじことをしているのです。

> この奇妙さが行き着く先は竹田という人が言うような「自己言及(不可能)性の発見」でしょうか?
>永井均自身はこの奇妙さの行き着く先に「言語の真空性」を見出していると思います。

二つは、おなじことだと思います。
>>175にも書きましたけど、自己というのは<ぼく>と「ぼく」との
自己言及の関係性そのものではないでしょうか。
そして、<ぼく>と「ぼく」との対話には言語は不在なのです。


197 :カオル:05/01/29 01:24:27

> 言語が「すでに常に」形骸化しており固有性やそのもの性を踏みにじりながらでしか
>成り立ち得ない。あるいは言語が<この私>を論じながら、実は <この私> の
>不在においても機能しうる。
><この私>を論じながら<この私>を必要としないこの「言語の真空性」は
>永井均の<独我論>の深刻な問題であるとともに究極的な理解を損なうだろうと思います。

言語は、コミュニケーションを前提しています。
これは、言語の属性です。
言語は、相対原理の外には出られないのです。

言語の一般性、あるいは公共性は
<この私>や<神さま>のように
唯一無二のソレをこばみます。

たしかに、ソレが言語を介して理解されるなら
すなわち、誤謬を犯すことになってしまうのですから
その意味では「理解されてはならない」わけですけど
そのことと、ソレが「理解されない」かどうかとは別問題でしょう。
きっとだれもが「すでに常に」理解しているのでしょうから。


198 :ニプレス:05/01/30 16:30:49
 >カオルさん

 言語に対する私の理解、関心はカオルさんの足元にも及ばないのは明らかです。
ですから私は不遜にもカオルさんに「言語ゲーム」の解説をしたのではありません。

>二つは、おなじことだと思います。
>>175にも書きましたけど、自己というのは<ぼく>と「ぼく」との
>自己言及の関係性そのものではないでしょうか。
>そして、<ぼく>と「ぼく」との対話には言語は不在なのです。 (>>196

 私にはここで言われている 「ぼく」 の意味がいまいちはっきりしません。

 ところで確かに竹田の言う「自己言及の関係性」は「言語の真空性」を基礎にすえているでしょう。
しかし永井均の場合の「言語の真空性」は、一番大切なことが伝わらない、この場合なら
確かに存在しているそして 「ぼく」 とは切り離された <ぼく> の<独在性>の内容が
言語に乗って伝わることはない、と言っているのではないでしょうか。

 仮に竹田が 「ぼく」(この場合はアイデンティティ?)と <ぼく>=唯一性 が一体である「自己」を想定して、
そのうえで自己言及の関係性を永井均が明らかにしたといっているのなら
それは永井均が否定した一体性を勝手に復活させている暴挙ではないでしょうか。

199 :ニプレス:05/01/30 16:35:37
 ちなみに私が一番最初に思いついた批判は「本来性のジャーゴン」ではないかというものでした。
「アイデンティティ」と <ぼく> の差異があるのはわかるけれども永井均がいうように
 <ぼく> と「アイデンティティ」とが簡単に切り離されたりはしないのではないか、
そう思えたからです。

 しかしよくよく考えてみると私自身の問題意識、「拡散していく自己」というような問題意識も
実はアイデンティティという「自己」の不確定さ、もろさを前提とした思考だったのではないか。
私自身の「生の問題」もこのアイデンティティの「解体可能性」、別の言葉で言えば「変わりうる私」、
に立脚していたのではないか。そういう思いが今の私にはあるのです。
だから少々永井均に肩入れしているように見えるかもしれませんが、それは自説を主張しているのと
比例関係にあると言っていいのかもしれません。

 永井均の「独在性」の主張は私自身のかねてからの疑問、「私」を追及すると私よりも大きなつながりに出会うこと、
「つながり」を追求すると「私」という切り離されたものに出会うということ、この二つの疑問に
一つの回答を与えるものではないかという気がしているのです。

 確かに「一体となる地平」から「私」が分化してくるという思考に私は傾いていましたが
私にとって、「一体となる地平」において一体となるべき「他者」は、私の大切で身近な「他者」なのです。
つまりこの私の思考においては「私」が分化してくるはずの「一体となる地平」以前に「私」がすでにいることになります。
(それが一体となるべき「他者」や「地平」そのものを規定しているのですから)
このおかしな構図を永井均の「独我論」は解き明かしているのではないか、そう思えるのです。

200 :考える名無しさん:05/01/30 23:09:06
200get!

201 :考える名無しさん:05/01/31 01:32:01
遅漏だな


202 :カオル:05/01/31 04:48:03
>>184 Limahlさん
>いちいち理非や賢愚を問うたりしてるんですか!?

いいえ、たんに気持ち悪くなってしまうんです。
こんなわたしにだって「日立の樹」(♪この〜木なんの木 気になる木)を
口ずさんだりしていたかわいいときもあったんですよ。
それにわたし「世界に〜」は、いいメロディいい詩だと思っています。
モラル的には。(笑)

でもね、おひたしにでもしようと思っていたら
いつのまにか咲いてしまった菜の花の花じゃイヤなのわかります?
だから、みんながんばるわけですよね?

♪この〜木なんの木 気になる木
のCMを見てて思うのも、気にしてもらえるような
あの大きさ−存在感へのあこがれなんです。たぶん。

「日立の樹」CMムービー
ttp://www.hitachinoki.net/tv_cm/history/cmbb.html


203 :カオル:05/01/31 04:55:05
>>185 Limahlさん
>そんなことを繰り返しているうちに、何もかも、"まんざらでもない"歌になってしまいましたよ、俺は。
>でも中身に頭突っ込んで理非を問うて、そうなったんじゃありません。

くりかえしをやめたら元(の習慣)に戻ってしまう。これは慣れです。
恋人のすることだからまんざらでもないように思えるようになっていた
イヤなことでも、別れてしまったら元に戻ってしまう。こっちは愛です。

Limahlさんが世界を肯定するなら、世界はあなたを受け入れるということです。
「世界に一つだけの花」に足りないのは、この生き抜く「術」が書いてないことです。
菜の花の花のようにせっかく咲いたのにがっかりされたらそれこそがっかですからね。
そんなことのために「♪一生懸命になればいい〜」なんてだれも思わないだろうし。

>>186
>その世間とどうやって付き合っていったらいいんでしょう…?

そういうことを断念したところから哲学ははじまるのだと思います。


204 :カオル:05/01/31 04:57:46

わたしはおなじ花なら、Bette Midlerの「The Rose」のほうが好き!

I say love it is a flower
And you its only seed
・・・・・
Lies the seed that with the sun's love
In the spring becomes the rose

愛は花 あなたはその種 春には太陽の愛を浴びて バラの花を咲かすでしょう

で、この歌には「術」もちゃんと書いてあります。

It's the heart afraid of breakin'
That never learns to dance
It's the dream afraid of wakin'
That never takes the chance
It's the one who won't be taken
Who cannot seem to give
And the soul afraid of dyin'
That never learns to live

傷つくのをおそれていたら
踊ることなんてできない
夢から覚めるのをおそれていたら
チャンスに賭けることなんかできない
与えることができないなら
だれも受け入れてくれない
そして魂が死をおそれているなら
生きることを学ぶことなんてできない


205 :カオル:05/01/31 05:10:48
>>203
>菜の花の花のようにせっかく咲いたのにがっかりされたらそれこそがっかですからね。

訂正 それこそがっかり、です。

なかなか書き込めなくて・・・興醒めですよね?
ニップルさんにも今日はレスできません。ごめんなさい。
おやすみなさい。


206 :考える名無しさん:05/01/31 05:47:36
ふぁいと!

207 :考える名無しさん:05/01/31 18:04:40
>>204

横レス、失礼します。。

Bette Midlerの「The Rose」、わたしも大好きなんですよ!
それと、

二月の雪
三月の風
四月の雨が
美しき五月をつくる

という言葉も好きです。

208 :カオル:05/02/04 01:39:43
>>207
わたしじゃなくて楽曲に共感してくださいね。(^_^;)

わたしはなぜだか一生懸命に生きている人たちを
応援してしまうけれど、だからといって生きていることに
なにかしらの価値があるとはけっして思っていないのです。
もちろん自分で生きることの価値を創造したりもしないです。
なので今死んでしまってもべつにかまわないと思っています。

けどそんなわたしでも偶然にすばらしい楽曲や映像や
そういった様々な芸術にふれて感心したりすることはあります。
わけもわからず自然に胸が熱くなって涙がこぼれたりしますが
同時におなじものに吐き気を感じることもよくあります。
前者のわたしはわたしから遠い感じがして、後者のわたしは
わたしに近い感じがします。うまく表現できないです・・・

哲学は後者のわたしの真友かもしれないです。
相手は迷惑に思っていると思いますが。(^_^;)


209 :考える名無しさん:05/02/04 03:26:24
哲学さん、迷惑だとは思ってないとおもうよ♪

210 :kurahito ◆XEF65wQsug :05/02/04 17:25:04
>>176
バビロンに、人は挙りて。
美しき、塔は建ちたり。

言悪しき、霊は魅せられ。
雷神の、怒りを買いぬ。

その塔は、灰に還れど。
希望のみ、残りにける。

211 :カオル:05/02/05 02:00:48
>>209

アナタハ ダレデショウ?

>>210 kurahitoさん

信じられない神さまはいないのです だからわたしは祈ります
愛せない愛はないのです だからわたしは愛します
すべての望みが絶えたなら 希望は叶うでしょう


212 :Ar=As-Ab/As ◆XEF65wQsug :05/02/05 02:13:55
>>211
第1部 文 化

■欲望と資本主義

資本主義とは何か?

ここかしこに散在し
濫流する商品の流れ、

無類の機械化された生産力。

加速される競争、時間。
逼迫する運動性とそれ
が生みだす勝者と敗者。

脱落する者たち。

烈化する速度のなかで
宛も空洞へとくり抜かれ、

過剰さと稀薄さを併せ保ち、
それに喘ぐ人々の生活。

一方での冷徹な支配と計算高さ、

そして他方での
暴力的野蛮と賭博性。
禁欲と享楽の共存と相補。

しかしその狭間で猶声を潜める
ささやかな幸福の、無数の沈黙。

213 :考える名無しさん:05/02/05 13:23:20
哲学が真友、ですか。。。
真の哲学徒とは、何でしょうね?

わたしは、生きることに特に積極的でもないし、
情熱的ではないけれども、
だからといって厭世的でもないです

ただ、その時がきてこの世を去る日がきたら
静かなこころで旅立ちたい、とは願います

それまでは、この世にある美しいものに
できるだけ多く触れたい、
ささやかな、実にささやかなわたしの願いです

214 :考える名無しさん :05/02/05 13:34:32
ささやか杉☆

215 :考える名無しさん:05/02/05 15:03:38
煽り? 粘着?

216 :考える名無しさん:05/02/05 15:12:57
・・・ここ、こわい
おかしなのが、粘着潜伏してる

さようなら、もう来ません

217 :考える名無しさん:05/02/05 16:33:19
その者は狼に似た者である
その者は狼である
それ故に<追放されしもの>である

「人狼」脚本・押井守


218 :考える名無しさん :05/02/05 16:41:30
うふふ、かわいい。

219 :考える名無しさん:05/02/05 17:00:37
<追放されしもの>ってアイツ?

まだ、粘着してんのか

220 :考える名無しさん:05/02/06 01:52:04
♪〜

221 :考える名無しさん:05/02/06 10:08:09
恋に敗れ、亡霊となりて、尚も荒野をさまよへる・・
人は哀れなものよのう

222 :考える名無しさん:05/02/06 12:15:37
サテサテ ワタシハ ダレデショウ ♪〜

223 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/07 01:13:38
>>202>>205 カオルさん
遅くなって恐縮なんですけれど、やっぱり理非っている! たんに聴いていて気持ち悪くなると言っているのにも関わらず。
それも二十五年も前の歌を持ち出してまで。
これは哲人らしいと言えば全くもってそうだし、言っていることにも非常に共感できるんです。

でも、どこか大人気なく見えるんですけど。
マッキーだって、哲人であることを周囲に宣言できる人の考にかかったら、
問答無用でお手上げになるのは判っているでしょうに…。

224 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/07 01:17:20
>>その世間とどうやって付き合っていったらいいんでしょう…?
>そういうことを断念したところから哲学ははじまるのだと思います。
とにかく気を取り直して、このレスからシリアスな話しをはじめましょう。
ニーチェの『悦ばしき知識』に「27 諦念の人」「42 仕事と無聊」というのがあります。

…彼はより高い世界を目指して努力する、あらゆる肯定の人間達よりも一層遥かに一層遠く一層高く飛翔しようと欲する
――この飛翔を重くするような幾多のものを彼は投げ捨てる、
その中には彼にとって無価値ではないし気に入らぬものでもない多くのものが含まれている。
彼はそれを高きへ飛ぼうとする熱望のため犠牲にするのだ。
この犠牲、この放擲こそまさに、彼の身に目立って見える唯一のものである。…

225 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/07 01:20:09
それで、こう、何て言うんですかね、
「俺は社会の一員だ」「俺は社会の役に立っている」とか小市民的な満足感がありますよね。
哲学を妨げる結果に結びつく世間との交渉を断つ、つまり小市民的満足感を放擲してしまう哲学徒がいるとします。
するとその人は、放擲に払った実社会での生活上の犠牲に等しいだけのものを、
思惟の世界から得ようと、無理矢理の思索に打ち込みはしないでしょうか???

そうして、他人から見て世間上の外貌は惨めさや異様さの極地にあるのだけれど、
その人の内で着々と何らかの哲理が建設されていくという状態になります。

226 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/07 01:22:56
その結果、世間との交渉を断っていると哲学を上手く進められるけれど、
ある程度の区切りがついてくると、そのままの哲学を続けられないということはないでしょうか?
実際的な満足感の犠牲に等しいものが、哲学から得られたときのことです。

小市民的満足感を犠牲にする哲学、人の一生が揺れ動く無理強いの哲学が、何とか一区切りの成果を見て、
本や思索に向かうときの深い洞察で、久方ぶりに世間を眺めはじめることは、哲人には許されないんでしょうか?
それとも、いつまでも一人でブツブツもごもご呟きながら、ものを考えていれば、それだけ哲人らしくなるものなんでしょうか?


ここから下は蛇足です。
・日立の樹、昨日「世界ふしぎ発見!」を見たら、第九代になっていました。
>>189の最後の「呼び方」は「読み方」の間違いです。
・興醒めは結構なことです。冷却期間です。
だって、カオルさんや207さんが、「The Rose」のカランカランカランというイントロを聴きながら、
しみじみと胸中の微熱に思惟を任せるという様を考えただけで、やたらと陽気になってしまうんですもの。

227 :Ar=As-Ab/As ◆XEF65wQsug :05/02/07 01:23:15
>>225
> そうして、他人から見て世間上の外貌は惨めさや異様さの極地にあるのだけれど、
> その人の内で着々と何らかの哲理が建設されていくという状態になります。
だから何?

228 :Ar=As-Ab/As ◆XEF65wQsug :05/02/07 01:37:41
>>226
『意志』−一つの命令作用。
併し此の意識的な作用の根底
に或る無意識な作用が有る限り、
私達は責めて此の無意識的作用
を正々と想像してみる必要が有る。 ニーチェ

229 :Ar=As-Ab/As ◆XEF65wQsug :05/02/07 01:44:21
>>228
意志と願望は、存在論的には
必然的に関心としての現存在に根差す。
「存在と時間(41節)」

230 :二プレス:05/02/07 13:50:26
>>199
 私の考えていることぐらいはすでに永井均も考えているようで「私・今・そして神」という
本(3日ほど前に買って読んでいます)の序論あたりで、この入り組んだ議論の構造を永井均自身が
自説のおさらいという形式で説明しています。
 この本ではどうやら時間化された独我論の問題が述べられているようです。
それもあくまでテクニカルな(たわ言にしか見えないような)手法で論じられている印象です。
まだ読み始めたばかりですから断片的なことしかいえませんが。
 ここでまた読解を始めるような過ちはもう犯さないつもりです。
活発な議論を再び沈静させるのは自分自身の意にも反しますからね。

231 :二プレス:05/02/07 15:39:18
 リーマルさんが考えるような問題意識、実生活との乖離=哲学というような
図式に対する疑問は私もあります。

 ここには「哲学」が遡行して問い続けることを求めるがゆえに、
「不文律」の積み重ねの上に成り立つ実生活から自然と距離が離れてしまう、
ということが影響しているのかもしれません…。

 …こういう硬質な議論展開が停滞の源でしょうか。

232 :二プレス:05/02/07 15:42:15
 気を取り直して>>204>>208のカオルさんの言っていることに私なりに近づこうと
おもいましたのでとりあえず書いてみます。(友情からですから心配なく)

 とりあえず私は「the rose」という歌を知りませんから、カオルさんの引用した部分だけを
見るならばとても情熱的な歌だということがわかります。
危険を含んだ喜び(ダンスはとても楽しいが転倒して怪我をすることもある)、
世界に働きかけること(夢見るだけではチャンスを生かしてそれを現実化することはできない)、
ギブアンドテイクの関係(取られて与えられるような関わり)、
そして生と死の補完関係(生も死も肯定してそこを生きる)。
ここで歌われていることは私にはとても共感できます。「世界にひとつだけの花」では抹消されている
不都合なことも書かれています。そしてその不都合を承知で「それでもそこを生きる!」という力強さに
満ちていると思います。
 一方でカオルさんは >今死んでしまってもべつにかまわない といいます。
そしてある種の力強さに引き裂かれた感情を抱いている。(>>208

 引き裂かれた感情はそれぞれ「力強い生の渇望」と「否定しがたい生の無価値さ」と
名づけることができるのではないかと私は思います。
 だからカオルさんが「後者のほうが私に近い」と考えるならば、その力強さに「うそ」のようなものを
見ているのかもしれません。そして「うそ」を見出しながら前者をいまだに私として抱えているのは
「無価値」という欠損をおぎなうであろう「力強さ」を待ち望んでいる証なのかもしれません。

 このようなきわめて繊細な問題に簡単な解答を持って答えること、たとえそのこと自体が当人が心待ちにしている
「力強さ」のひとつではあっても、それは問題の繊細さを木っ端微塵に破壊するという行為に他ならないでしょう。
もしこの繊細な問題に答えようと真摯に取り組むなら、そこに「哲学」が寄り添っているのかも知れませんね。

233 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/08 00:02:15
>>227 Ar=As-Ab/Asさん
もしかして、俺のレスで気分を悪くしました?
続きはしっかり準備してるんで、批判に答えるのはちょっと待たせてください。
自己の観照に徹底しつつ、哲学の何たるかについてまとめますから。

234 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/08 00:09:53
>>231 ニプレスさん
ニプレスさんは、普段、世間とどんな交渉を取っているんですか?
俺は、例えば、八十を超える老人と話していて、皺くちゃになった目の周りや、染みだらけの手の甲を見ながら、
「この人は、迫り来る死について、たまに一人ぼっちで勇気を準備してたりしてんのかな?」とか、

「あの人、皆が影で嘲笑うほどバカで、すっかり落ちぶれて、仕事なくなって二年になって、中学生の子供がいるのに困窮の極みで、
やっぱり、一回くらい死のうとか考えてんのかな?」とか、

「自分に関する噂話に自分で尾ひれをどんどんつけていって塞ぎこんでって、死のうってなるんだったっけ?
全く哲学しない人ってのは? 昔のアホな俺を例に取ると…」とか
「ん〜。今日のこの表情、態度、笑い方、、、一体どんなもんだろう?」とか考えながら、世間と交渉しています。

今日の天気はどうとか近所の誰がどうとかの小さな話題や、↑の空想も含めて、
明日の朝には時間が何もかもを忘却の彼方に運んでしまうであろう不文律の対話の時間を、
こんなふうに哲学的な話題を思惟に絡めながら、過ごしています。

235 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/08 00:11:07
他スレでも、
>できる限り俗世では哲学関連の話題や単語は使用しないようにしてるけど
>仕事上の話でも、
>あ!相手の話し方はpositivismを使用してるだとか
>正当化の罠にはまってるとか、超実論的基礎付けを導入してるとか思うことが多々ある
と、ある人が言っていました(positivismってのはスゲーナ)。

ところで、俺は>>231を読んでいて、笑い出してしまったんですけど、それがなぜかわかるでしょうか???
レスの頭の方に注目したときだったんですけど。

236 :kurahito ◆XEF65wQsug :05/02/09 00:54:57
思想家達の間の諸々の依存と影響とを捉えようとする事は、
思考に就いての誤解である。汎る思想家は、存在の言葉に依存する。
その存在の広さは、人を惑わす諸々の影響からの自由を決定付けて居る。 ハイデガー

237 :カオル:05/02/09 03:20:58
>>212 kurahitoさん

脱落する者たちはゲームに参加したのでしょうか。
脱落したと本人が自覚しているなら参加したのですね。
もしそうなら自己責任ではないでしょうか。
世間から虫けらのようにあつかわれようと
すべてを自己責任において引き受けられる能力のない人は
誰かのせいにして済まそうとします。

どんなに過剰であっても
どれほど稀薄であっても
それは東の端か西の端かというだけのもの。
おなじ価値の地平をすべっているだけですね。
だって1センチだって跳ねたこともないんですから。
それに喘ぐ人々の生活なんて五十歩百歩ですね。

ささやかな幸福を守るための沈黙。
それはやさしさなのでしょうか。
傷ついたあなたの叫びは
沈黙の戸口をひらく呪文にはならないでしょう。


238 :カオル:05/02/09 03:28:01
>>213
>真の哲学徒とは、何でしょうね?

わたしもいろいろ言ったりしたけれど
定義してしまったら思想になってしまう。
その思想によって疎外されてしまう誰かも
自分は哲学徒だと思っているかもしれない。
それをどうして否定できるでしょうか?
言語を獲得した獣−人間はみな哲学徒です。

>それまでは、この世にある美しいものに
>できるだけ多く触れたい、
>ささやかな、実にささやかなわたしの願いです

それが美しいと感じられるのは
それがわたしの世界だからです。
わたしは世界の外にはでれないけれど
わたしの世界の限界を変えることで
もっとたくさんの美しいものにも
めぐりあえるかもしれません。

その“術”が“勇気”であることを
『THE ROSE』は教えてくれています。


239 :kurahito ◆XEF65wQsug :05/02/09 03:28:28
>>237
資本主義は<すべて>である。
私たちの最初に資本主義があった。

資本主義はここに存在する。
資本主義はそこかしこに存在する。

そして資本主義とは私たちであり、
資本主義は私たちを<使って>自らを
表現し、私たちとなりすまして地を覆う。

資本主義とは何か?
その問いにおいて強く理解せねばならないのは、

文字どおり私たちの立ち振舞いの
<すべて>が資本主義だということだ。

より微細で多様な人々の感情??半ば挑戦的で陽性の、
あるいは半ばやけ気味で陰鬱な人生観といったもの、

さらには異性や家族について抱くイメージや現実。
将来への期待、または将来を期待しないこと、死生観、等。

それらの文字どおり<すべて>が、
資本主義そのものとして自らを展開する。

しかし私たちの振舞いが、
<すべて>資本主義の発現であるというのには、

資本主義
http://www.k-hosaka.com/kashimura/shihon.html

240 :kurahito ◆XEF65wQsug :05/02/09 05:25:17
全ての<知>は、絶対という観点からすれば方法論である。
だから、明確に方法的な物に対する…は無用である。
方法的な物は器であって、唯一者の外側にある
全て、それ以上の何者でもない。 カフカ

241 :カオル:05/02/09 23:59:19
>>223 Limahlさん
>やっぱり理非っている!

あはは。
んじゃもう少し理非りましょうか。

どうして「日立の樹」をもちだしたのかというと
まるっきり「世界に〜」とおなじ内容だからです。
日本人は根っから好きなんですよ。こういうのが。
そうやって仕組まれた自由の中で夢なんか見てる。
だまされるにもほどがあります!(笑)

♪この〜木なんの木 気になる木
♪だれ〜も知らない 木ですから
♪だれにも知られない木になるでしょう

が、彼らの思惑なんです・・・とかいうと
kurahitoさんのポストモダン風マルクス主義になっちゃうけど。(笑)

で、この手の思想の根っこは
「手をつないでみんなでゴール!」なのわかります?
サヨンボ(政治・思想板用語w)のルサンチマンなんですよ。(笑)
しかもこれは差別・階級社会の促進に一役かっているんです。


242 :カオル:05/02/10 00:04:20

>それも二十五年も前の歌を持ち出してまで。

アナクロ娘のわたしにはピッタリの曲です。
この曲も最近のCMソングからたどった曲なんですけど
しらべてみると、JANIS JOPLIN(ジャニス・ジョップリン)という
麻薬で急逝した伝説のロッククイーンをモデルにした
映画『The Rose』のラストで歌われているらしいことを
知って、これはイケルと思い購入。アタリでした!(^.^)
カバーできる歌じゃないなってつくづく感じました。


243 :カオル:05/02/10 00:22:25
>>224 Limahlさん
>彼はそれを高きへ飛ぼうとする熱望のため犠牲にするのだ。
>この犠牲、この放擲こそまさに、彼の身に目立って見える唯一のものである。…

Limahlさんは愛する人のためにみずからの命を犠牲にすることを厭いますか?
そしてその犠牲の代償を愛する人に求めますか?
この犠牲、この放擲は、「この」という彼の唯一性以外には何の意味もないのです。
彼はただ行為します。そのときのLimahlさんとおなじように。


244 :カオル:05/02/10 00:48:10
>>225 Limahlさん
>するとその人は、放擲に払った実社会での生活上の犠牲に等しいだけのものを、
>思惟の世界から得ようと、無理矢理の思索に打ち込みはしないでしょうか???

生きるために哲学するんじゃない。
生きているあいだは哲学する。
哲学しているあいだは生きている。
それだけのことです。

>そうして、他人から見て世間上の外貌は惨めさや異様さの極地にあるのだけれど、
>その人の内で着々と何らかの哲理が建設されていくという状態になります。

たんなるイメージですけど
集積して凝固していくのが思想(生の言語)で
融解して離散していくのが哲学(死の言語)のような気がします。
でも哲学には<わたし>と<倫理>というアポリアがあります。
哲学は宗教のように<わたし>や<倫理>や<死>への問いを
捨て切ることができません。
なぜなら言語を捨てることで到達できるかもしれない地平を
<わたし>が拒否するからです。
その意味で哲学徒ほど利己的な人種はいないかもしれませんね。


245 :カオル:05/02/10 01:14:47
>>226 Limahlさん
>本や思索に向かうときの深い洞察で、久方ぶりに世間を眺めはじめることは、哲人には許されないんでしょうか?
>それとも、いつまでも一人でブツブツもごもご呟きながら、ものを考えていれば、それだけ哲人らしくなるものなんでしょうか?

その人なりのフォームがあっていいと思います。
わたしにはわたしのフォームがあるだけのことです。

ブツブツと当り前を疑っているだけでは
当り前が当り前でないことを知ることにはならないでしょう。
当り前が当り前でないところへ<わたし>を放擲できますか?
当り前が当り前でない世界は狂気の世界です。

わたしはふつうになりたくてもがいているのかもしれないけれど
ふつうになりたい理由がみつかりません。
苦しいのはほんとうだけれども
苦しくなくなる方法も知っているけれど
わたしはわたしだけにたよってやりたいの。
だからふつうになれないかもしれないけれど
いつか哲人らしくないようになれたら
わたしはわたしとして生きられるかもしれません。


246 :カオル:05/02/10 02:07:05
>>239 kurahitoさん

樫村さんのホームページ読みましたよ。
で、わたしに何を伝えたかったのでしょう?

資本主義社会の文化支配についてカフカをもちだしたあたりは
けっこう興味深く読めましたが、全体としては近・現代の資本主義社会の
様相の変化をたどるだけの考察に思えました。だから何?ってカンジ。(笑)

わたし的にはもう少し原始共同体(レヴィ=ストロース)との生活様式の比較とか
時間の物象化(貨幣)についての発生論的な考察もほしかったと思います。
だって、
>資本主義は<すべて>である。
>私たちの最初に資本主義があった。
わけじゃないですからね。

それとなぜニーチェやウィトゲンシュタインではダメで
ポストモダンになってしまうのか、その必然性とやらを聞いても
サッパリ理解できませんでした。(笑)
この人ニーチェやウィトゲンシュタインが読めてないと思います。


247 :カオル:05/02/10 02:13:09
以下、樫村さんのHPからの抜粋です。
 〜〜〜
 すなわち今日の文化支配の作用とは、
 表現の禁止ではなく、表現を留保することの禁止であり、
 自己を表明することの禁止ではなく、自己を表明しないことへの禁止である。
 それは最終的には、商品として流通せねばならないすべての文化が、
 その享楽的効用の増大と流通時間の短縮を自己に命ずる。
 〜〜〜
 すなわち今日においても、最上部の資本家階層は、なお禁欲的な仕事の観念を有している。
 しかしより広範な社会階層は、資本主義社会を通じて強迫的に自らを表現し、
 自身の存在を証明しつづけようとする運動を、永遠に遅延された消費たる価値増殖に向けた
 運動としてではなく、その宙吊りの時間をより細分化し、多様な具体的モードへと翻訳した、
 階層づけられた消費や生活との関係においてそれを表現することになるのである。
〜〜〜
 時間が限定づけられたというほうが、もうちょっと正確かもしれない。
……いやなに、すごい細かい時間しか存在しない社会でね。
〜〜〜
 総じて今日の消費社会が生み出したものは、
 あらゆる消費、ひいてはあらゆる文化や人間の振舞いを、
 商品化を通じて差異化されたモード体系に登録し、
 そのことで、人間から本来的といった感覚を奪ったことへと要約される。
 それはそのままでは、より完璧な資本主義的差別体系の完成としてしか存在しないが、
 しかし禁欲的な古典資本主義と異なり、生活上の価値機軸が、
 不在の彼方(抽象的利潤と神の恩寵)から目の前の様態(消費モード)に
 変更されることで、消費社会は逆に価値機軸を操作しうる感覚をも人々に与える。
 このふたつの意味合いは、理論的には不在の価値に支配される水平的な差異体系が
 前面化するか、それとも享楽的恍惚と現下の日常の垂直的な同時性が前面化するか
 の相違である。後者の感覚は、資本主義経済のなかで常に限界づけられるにせよ、
 消費社会が私たちに与えた新しい可能性として、
 その徹底した無根拠さ(ニヒリズム)の感覚は決定的に重要である。
〜〜〜

248 :カオル:05/02/10 02:14:05

要は、哲学的には「時間」と「価値」の問題に集約される議論ですよね。
ちなみにニーチェやウィトゲンシュタインは、今日の消費社会の匂いを
いち早く嗅ぎ取って批判した側の人たちだとわたしには思われますけど
kurahitoさんはどう思われますか?


249 :カオル:05/02/10 02:28:56
>kurahitoさん

あとそれから、もうわかると思うけど
わたしの>>237は、ニーチェを念頭に書いたの。
資本主義社会がどうのこうのいっても
行き着くところ「生の形式」の外に出られないなら
個人の「生の問題」としてのそれは
わたしのレスのように単純明快なことだと思います。


250 :カオル:05/02/10 02:33:46
あぁ、いつもこのくらい時間があるといいのにな。
んじゃ、おやすみなさい。(_ _).。oO

251 :kurahito ◆XEF65wQsug :05/02/10 03:17:32
冷かす様で申訳無いのだけれど、スレタイ

------※  独学とは何か  ※------

では有りませんよね?)私は誰かに
何かを伝えたいと思った事は無いです。

支配と服従が有ればそれで十分ってこと。
逆に問います、彼方は何を伝えられますか?

252 :kurahito ◆XEF65wQsug :05/02/10 03:28:17
私は頑なな、私は愚か者。
哲学徒の謂う事は判らない。

253 :kurahito ◆XEF65wQsug :05/02/10 04:00:12
切りが悪いので結論めいた事を書きましょう。

哲人格が寂しそうなので構って遣っただけ。
無数のナルシスの一人。
サイドビジネス。
サブカル。
好い鴨。
脇腹。
妾。

254 :kurahito ◆XEF65wQsug :05/02/10 04:34:24
>>246
> 資本主義社会の文化支配についてカフカをもちだしたあたりは
> けっこう興味深く読めましたが、全体としては近・現代の資本主義社会の
> 様相の変化をたどるだけの考察に思えました。だから何?ってカンジ。(笑)

大変申訳無いのですが、読まずに貼りました。
月並ですが、意味=病。?ってカンジだから何。(泣)

255 :kurahito ◆XEF65wQsug :05/02/10 04:51:03
ファリックです。(ボソ

256 :カオル:05/02/11 04:39:58

わたしのコトバに反応したんだから
あなたにはわたしの病が伝わっているし
あなたの病もわたしに伝わってると思うよ。
コトバって伝染病みたいなものだからね。
>何かを伝えたいと思った事は無いです。
って力んでみてもうつるものはうつるの。(^.^)

妾<め(を)かけ>てくれたみたいだけど
わたし脇腹にお肉もあんまり付いてないし
おいしくない鴨です。

ナルなのも寂しいのもお互いさまだと思うけど
わたしをファリック・ガール?に仕立てるのはヤメテね。
おもちゃにされるのはイヤです。
ぅうー!なんだか鳥肌立ってきたよー!
という状況なので、義理もはたしたと思うし、この辺で。

二ヶ月遅れでインフルエンザが流行ってるみたい。
お身体には気をつけてくださいね。
好い鴨になれなくてゴメンネ。んじゃ (^_^)/゛


257 :考える名無しさん:05/02/11 05:35:38
こうして勇者は旅立つのであった。

258 :カオル:05/02/12 05:06:18
>>198 ニップルさん
> 言語に対する私の理解、関心はカオルさんの足元にも及ばないのは明らかです。
>ですから私は不遜にもカオルさんに「言語ゲーム」の解説をしたのではありません。

永井はあきらかにウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の理論を
視野に入れて説明しているように思われます。
わたしには永井が何を言っているのかいまだに理解できないので
永井のコトバをウィトで翻訳しようとしているのかもしれないです。
もしもわかりづらいところがあったら言ってください。
できるかぎり説明したいと思います。
たしかにジャーゴンを使用して手を抜いてるところもあるんです。
そうしないとなかなかレスがままならないんです。ごめんなさい。


259 :カオル:05/02/12 05:09:17

>私にはここで言われている 「ぼく」 の意味がいまいちはっきりしません。

ふつうの意味での意識とか自我と呼ばれるもののつもりです。
ちなみに<ぼく>は、たとえばカントでいう「超越論的統覚」を
想定していたりしますけど、永井はちがーう!っていうでしょうね。(笑)
なので、わたしには<ぼく>がいったい何なのかサッパリなのです。
永井がそれを<魂>というなら、わたしには縁のないもののようです。
わたしはオカルトはオッカムの剃刀で切り落としたいと思います。(ウソ)


260 :カオル:05/02/12 05:11:55

>確かに存在しているそして 「ぼく」 とは切り離された <ぼく> の<独在性>の内容が
>言語に乗って伝わることはない、と言っているのではないでしょうか。

<ぼく>の独在性というのは、「<魂>は確かに存在している」
という狂信を共有する人たちだけのものなのではないでしょうか。
ある人に神さまが降りてきたとして、たとえその神さまがキリストでも
その神さまは必ず独りだけの存在ですよね。それと同じことではないかと。
(ちょっと投げやりかな?)


261 :カオル:05/02/12 05:23:10

>仮に竹田が 「ぼく」(この場合はアイデンティティ?)と
><ぼく>=唯一性 が一体である「自己」を想定して、
>そのうえで自己言及の関係性を永井均が明らかにしたといっているのなら
>それは永井均が否定した一体性を勝手に復活させている暴挙ではないでしょうか。

そうかもしれません。もしそうならその誤解は、わたしも同じでしょうね。
わたしは、存在と存在者の自己言及の関係性が自己の自己同一性を成立させている、
という存在論的差異にもとづく自己の二重構造を想定しているわけですからね。
(アレッ!チョウエツロンテキトウカク デ ナカッタノ?)

ちなみにハイデガーは、この存在に×印なんかつけたりしてるんです。
存在が、言語の限界を超えていることを示すためになんですけれどね。
ですから、その意味では、魂も神さまもおなじ「魂×」「神さま×」です。
もちろん永井の<ぼく>も「<ぼく>×」です。(笑)

 たしかに言い表しえぬものは存在する。
 それはおのずと現われ出る。それは神秘である。(TLP 6.522)

神秘クンは、あっち行けー!って言っても
お・の・ず・と現れるんです。(わざとそう訳しましたw)
でもホント困っちゃいますよね。どうしましょう?


262 :カオル:05/02/12 05:26:19
>>199 ニップルさん
><ぼく> と「アイデンティティ」とが簡単に切り離されたりはしないのではないか、
>そう思えたからです。

わたしもそう思っています。
そもそも<魂>なる<ぼく>の<ぼく>という感覚が理解できないです。

>しかしよくよく考えてみると私自身の問題意識、「拡散していく自己」というような問題意識も
>実はアイデンティティという「自己」の不確定さ、もろさを前提とした思考だったのではないか。

こちらの方は良く理解できますが、この自己は「ぼく」の方ですね。

>私自身の「生の問題」もこのアイデンティティの「解体可能性」、
>別の言葉で言えば「変わりうる私」、に立脚していたのではないか。
>そういう思いが今の私にはあるのです。

はい、よくわかります。
無数の「いま」と「ここ」に拡散してしまうはずの「私」が
どうして「変わりうる私」程度の同一性の解体で済んでいるのか、
ということですよね?

>だから少々永井均に肩入れしているように見えるかもしれませんが、
>それは自説を主張しているのと比例関係にあると言っていいのかもしれません。

ニップルさんと永井では問題意識の焦点がちがうように思うのですが・・・


263 :カオル:05/02/12 05:29:05

>永井均の「独在性」の主張は私自身のかねてからの疑問、
>「私」を追及すると私よりも大きなつながりに出会うこと、
>「つながり」を追求すると「私」という切り離されたものに出会うということ、
>この二つの疑問に一つの回答を与えるものではないかという気がしているのです。

うーん・・・そんなに永井の議論は特別なのでしょうか?
わたしにとっては、永井の<ぼく>と「ぼく」の問題は
認識論的には「超越論的統覚」(カント)、存在論的には「存在論的差異」(ハイデガー)の
問題に集約できると思うのですけれど、きっと永井はちがうというのでしょうね。(笑)
どこがどうちがうのでしょうか?


264 :カオル:05/02/12 05:31:56

>確かに「一体となる地平」から「私」が分化してくるという思考に私は傾いていましたが
>私にとって、「一体となる地平」において一体となるべき「他者」は、
>私の大切で身近な「他者」なのです。

「私」が成立するには、全体から部分が分化してくるという構図がある、
というところには同意です。つまり部分を集めても全体にはならないということ。
ですが、そのことと「私」の大切で身近な他者が一体となる“べき”「他者」である、
ということとは、それぞれ別に論じられる問題なのではないでしょうか?


265 :カオル:05/02/12 05:33:05

>つまりこの私の思考においては「私」が分化してくるはずの「一体となる地平」以前に
>「私」がすでにいることになります。
>(それが一体となるべき「他者」や「地平」そのものを規定しているのですから)
>このおかしな構図を永井均の「独我論」は解き明かしているのではないか、そう思えるのです。

すでに確立された「私」を前提にしてしまうなら、当然そういうことになるでしょうね。
けれど、もしかしたらその「私」は虚構かもしれないですよね。
それに「一体となる地平」に(大切さや身近さは別にしても)、どうして「他者」が
布置されてしまうのでしょうか。いったい「一体となる地平」はどこからやってきて
そこで、どうして「私」と「他者」が“つながる”のでしょうか?


266 :カオル:05/02/12 05:50:03
>>230 ニップルんさん
>ここでまた読解を始めるような過ちはもう犯さないつもりです。
>活発な議論を再び沈静させるのは自分自身の意にも反しますからね。

わたしと議論するとかならず沈みます。
わたしはその方がいいんだけどな。
だってついていけないもん。
ニップルさんもそうでしょ?

今している議論に入ってくる人はいないと思います。
スレちがい議論だし…でもわたしはぜんぜん気にしてないし
永井のその本読んでもいいと思ってるくらいです。

「哲学とは何か?」スレを覗いたら、哲学していた、
というのも面白いと思うんだけどな。ダメポですか?
あとはニップルさんにお任せします。


267 :カオル:05/02/12 06:30:27
>>232 ニップルさん

答えがあるなら聞いてみたいです。
すなおには聞かないと思うけど。(^_^;)

「力強い生の渇望」の目的ってなんでしょうね?
まさか生きるために生きてるわけじゃないと思うの。
だっていずれ死んでしまうんだから。
だからといって生き続けたいわけでもないでしょ?
いつかは死んでしまいたいって思うと思うし。
生きたくないって思うのはいけないことなの?
早いか遅いかのちがいしかないのに。

「否定しがたい生の無価値さ」は生が無根拠だからで
無根拠なのは、わたしの生に必然性がないからで
わたしという存在の仕方が必然的に偶然なのよね。
でも「わたしの生」から「わたし」をはずしたらどうなの?
たんなる生、個別性をこえたところに蠢く生は必然?

無理して気にとめないで(レスしないで)くださいね。
ひとりごとみたいなもんだから。

いつも友情ありがとうございます。(^.^)


268 :カオル:05/02/12 06:58:23
>Limahlさん

Limahl(リマール)って「ネバー・エンディング・ストーリー」の主題歌を
歌っていた人の名前なんですね。今頃気づいてゴメンナサイ。

ファンタジーの世界を自由に飛びまわる夢中人・・・ぴったり!(^.^)


269 :カオル:05/02/13 04:41:25

ここに「THE NEVER ENDING STORY」の詩を
載せようと思ったんだけど、やっぱりやめました。
でもせっかく訳したので別スレに掲載しました。(^_^;)

久々に即レス可能だった二日間だったのに・・・
こういうときにはレスこないんですねぇ。残念!
都合のいいわたし、わがままなわたし、残念!
連休に家でゴロゴロしているわたしって・・・ハァ〜


270 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/13 17:55:03
>>268 カオルさん
あーら、「ぴったり」だなんて失礼な。
だって俺は"地に足をつけたい”と思ってばかりいるんですからね。
つまり、教養と論理に長けた人を前に、絶えず劣等感を感じますし、
世間の哲学しない人びととのギャップに苦悩してもいるんです。

歌詞を掲載するだなんてのも困りますし、その理非にいたっては断じてやっちゃいけません!
「素人と飲み屋で話がはずむ位の哲学ネタ 五軒目」スレの550に、
俺のLimahl観について書いてありますから、読んでみてくださいよ。
俺はゲテモノ嗜好なんですから、「The Rose」嗜好に劣らぬくらいの…。

271 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/13 18:00:09
それに、俺の場合、カレンダーの赤や青の日こそ仕事で忙しいんです。
昨日もおじさんおばさん達とのカラオケで、グループサウンズを唄いまくってきました。
できる限りジュリーやショーケンを真似たりして、
そうすると、「あら、懐かしいわね」だなんて盛り上がるときがあるんです。
一度なんか、数年前に病気で伴侶を失った酔いどれが、
「この歌は、俺が母ちゃんとはじめてデートしたときに流行ってた歌でなぁ」とか言って、
酒の勢いもあるんでしょうけど、いい年こいてオイオイ泣き出したりするんですからね。バッカみたいな!

昼間は、カントの理解をもっと確かなものにしようと、
二十度目くらいの(しかし数十分で終わる)再読に挑んだりしているのに、
夜は、ジュリーやショーケンの歌唱がどうたら、「マツケンサンバ」の振り付けのどうこう、
とかに思考を集中するんですからね。馬鹿げた人生ですよ。

272 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/13 18:53:46
>>245
その人なりのフォームがある、ということでした。
自分のことを例に取ると自分の言いたいことを手っ取り早く伝えられるので、そうします。
俺は、
>教養と論理に長けた人を前に、絶えず劣等感を感じますし、
>世間の哲学しない人びととのギャップに苦悩してもいるんです。
でした。

それで、やたらな空想がはじまるんですね。
菩薩像には、座って考えているものと立っているものがありますよね。
座って考えている菩薩は、もしかしたら、こう考えているのかもしれません。
「『何で俺が存在しているのか』を解決しないと、人に人生の意味を説くという自分の狙いも、真っ当なものにならない気がする」
「先に【真】の方を解決してから、【善美】の【実践】に向かうことにしよう」
「ふんふん。現代には超ひも理論とかクオリアとかいう考えがあるのか…」
「時間と自分というのも、大きなテーマだな」
「…」
こうして黙々と考えているうちに、そのまま石像や木像になってしまったのかもしれません。
五十六億年も座って考えているだなんて、
大統一理論からクオリアまでの科学とか、超越論的統覚や存在論的差異くらいしかテーマがないとは思いませんか?

273 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/13 18:56:53
また、立ったまま固まっている菩薩は、例えば観音様は、実際性の問題にぶつかったのかもしれません。
「先に【善美】の【実践】を片付けないと、つまり人に人生の意味を説かないと、【真】の方に集中できない。
なぜ考えたまま行動せずに人生を過ごすのか、周囲に説明がつかないから」
「だから、実践の方に向かうことにしよう(立ち上がる)」
でも、世間の一人一人との位相を乗り越えるために、自分の概念と相手の概念とを一つひとつ照らし合わせたり、
それに従って、人生論の全体の構成も絶えず変更を迫られたり、
位相の異なる他人は次々生まれてくるし、
結果として「…」となって、そのまま固まってしまったのかもしれません。
捉え方によっては、六十億の憂鬱に挑むということですから。

274 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/13 22:23:43
こんな具合で、【哲学を深めればいいのか】【哲学を広めればいいのか】のジレンマの果てしなさに、
部屋の中で大の字になって、大笑いしています。まったく、「果てしない物語」だなんて、ひどい話しです。

その人なりのフォームについて、レスをまとめると、
【善美:人生の意味】の立場に立つと、【真:存在と認識】の欠如と【実践】の欠如にぶち当たるということになります。
菩薩は人気者の概念なので、「菩薩のジレンマ」とか諺にして、判りやすく残してやりたいくらいです。

これを例にとって空想を進めると、
【真】の立場に立つ場合、【善美】と【実践】のジレンマがあることになります。
人生の意味とか幸福に対する知識とかとの距離の取り方と、
「自分の哲学が実際に世間にとって何なのか」が、課題になります。

実践というより【実際的な思想】の立場に立つと、それが【真】でもないし【善美】でもないという問題にぶち当たることになります。
「何のための思想なのか」について示しがないので、ただの複雑な言葉の塊になりかねません。

問題であることに気がつかないのであれば、気がつくまで哲学徒はトラブルに巻き込まれます。
気がついた哲学徒にとっても、まだ考え事は山ほどあることになります。
いつもと変わらない今日の哲板と俺のレスのようにっ!!(…なんてね)

275 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/13 22:35:19
これまで俺が再三言ってきた実際性というのは、以下のように分かれていて、聞く人を混乱させるばかりだったと思います。

マ ・孔子やマキャベリなどの訓示的な思想、政治や経済や社会に関する哲学の性質
ク ・『○○のための何十の方法』というタイプの本や巷のポピュラーソングに見られるような、ちょっと粗雑な論理の啓蒙思想の性質
ロ ・本を読まない人びとの人生経験に根ざした、いわば世間でよく耳にする死生観や世界観の性質、浅すぎる哲学


ク・哲学徒自身の、理論の実践に関する思惟思索の性質


どれも哲学の本に載っていないもの、哲学的思弁性の対極にある天敵として俺の中にあるんですが、
この四つを結ぶ橋を見つけられなくて、哲学の"対極"なのに四つもあるというわけで、困ったものです。

276 :カオル:05/02/15 02:07:40
>>270 Limahlさん
>あーら、「ぴったり」だなんて失礼な。
>だって俺は"地に足をつけたい”と思ってばかりいるんですからね。

大地への愛がふかいほど、より遠くまで精神は飛翔する。
けれども愛を夢みることは、大地への愛をうらぎること。
だから罪を感じてしまう。
ほんものをもとめると実体から離れてしまう。
肉へのこだわり、命へのこだわり・・・生きることは引き裂かれること。

Reach the stars
Fly a fantasy
Dream a dream
And what you see will be

↑( The Never Ending Story )をみるとわかるんだけど
人には上へ上への志向性があるように思いませんか。
人は神さまの呪いによって灰色の大地に縛りつけられていることに
気づいてしまっていて、そのことがあまりにもかなしいものだから
世界を彩り豊かに飾りつけてみたり(思想)・・・ハァ〜むなしい(哲学)だったり。
きっとリマールさんは忘れてしまうことの罪を知っている人なんです。


277 :カオル:05/02/15 02:36:19

>つまり、教養と論理に長けた人を前に、絶えず劣等感を感じますし、
>世間の哲学しない人びととのギャップに苦悩してもいるんです。

彼らの自己は止まっています。
自己はちっとも生きていないです。
理性というロボットが動いているだけ、
感性というおばけがただよっているだけ。
自己は止まっているから安定していて安心しています。
不安、苦悩は自己が生きていることの証だと思います。

哲学とは“哲学する”のことであって
真理の探究の途上(今ここ)に実存する自己の
現在進行形(生きている)の様のことだと思います。


278 :カオル:05/02/15 03:07:33

>「素人と飲み屋で話がはずむ位の哲学ネタ 五軒目」スレの550に、
>俺のLimahl観について書いてありますから、読んでみてくださいよ。
>俺はゲテモノ嗜好なんですから、「The Rose」嗜好に劣らぬくらいの…。

その飲み屋さんに行ったらいいのにって思ったよ。
リマールさんが可能性の場を広げるのは良いことだよ。
芸術指向のリマールさんにはそういう哲学へのアクセスの
仕方もあると思うの。だから気兼ねとかしないで。

>馬鹿げた人生ですよ。

命とかかわれるリマールさんの心の両手が命を抱いているんです。
泣いてしまったおじさんは、た・し・か・に生きていたころを
思い出したんでしょうね。きっとなくしてしまったものが
大切な宝石じゃなかったことに気づいて泣くんです。
まったくバッカみたい!ですけど
どんな生き方をしたって馬鹿げた人生にしかならないし
どれもこれも笑えてしまうものなんじゃないでしょうか?
たいして生きてもいないのにわかったようなことをいう
わたしも馬鹿まるだしなんですけど、それでもこれも人生!(^.^)


279 :カオル:05/02/15 03:24:13
>>272 リマールさん

真と善と美は同格の価値なのでしょうか。
それぞれにホンモノはあるのでしょうか。
イデアに行かないとみつからないでしょうか。
イデアがないとしたらどこにもなかったものになってしまうでしょうか。
・・・・・なるほどこれでは石像になってしまいますね。(笑)

たしかにわたしは生きる意味について考えることを避けています。
なぜかというとわたしには死ぬための思索にしかならないからです。
もう十分に考えたつもりなんです。ほうっておくしかないんです。
それでもそんなわたしのなかであきらめないで必死にがんばってる
「Both Sides Now」や「The Rose」に反応するアナクロな感性とか
それはそれでリアルを生き抜く戦力にはなっているみたいだし
殺してしまうのも気がひけるんです。バカっぽいけどかわいいでしょ?
親バカですかねぇ?(笑)


280 :カオル:05/02/15 04:08:56
>>274 リマールさん
>問題であることに気がつかないのであれば、気がつくまで哲学徒はトラブルに巻き込まれます。

万人が生き抜くために要請された世界像や生き方を受け入れないんだから
生きにくいのは当然なのではないでしょうか?
むしろトラブルが消えてなくなることの方が不自然に思えるんですけど。
もちろん哲学徒のやっていることはできうるかぎり自分に正直でいよう
ということだけなんですけどね。
正直だったり、素直だったり、素朴だったりすることでしか
哲学には近づけないことを知っているだけなんです。
でもその姿勢の正統な表現はひねくれ者になってしまうんですけどね。(笑)
哲学徒に倫理があるとするなら「仲良きことは美しき哉」という観念に
とらわれないことではないでしょうか?


281 :カオル:05/02/15 04:20:06
>>275 リマールさん
>哲学的思弁性の対極にある天敵として俺の中にあるんですが、

実際性で必要なのは、
>哲学徒自身の、理論の実践に関する思惟思索の性質
だけではないでしょうか?

すべてにおいて自分が起点になっていることさえ確認できれば
ようするに、他人や世界の価値からの誘惑に負けないことが
大切なのではないかと、わたしは思います。


282 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/15 18:05:07
>>276
あぁあ、バカやってる! 夜のしじまが人心をかくも乱したのか!?

>上へ上への志向性
でも確かに、土から顔を出した芽は、"嫌だ"と言って土の中に戻ったりは決してしないし、
海亀の赤ん坊は、より安全な卵から飛び出して、必ず海を目指します。
なぜだろうと深く悩みます。

そして、人間の自由自在な思惟は何処へ? 幸福か、夢か、愛か、真善美の理想か?
そんな奇麗事じゃなくて、ただ単純に思考の限界と、それに従った行動のあらゆる可能性へか?

寝屋川小の事件が気になっているんです。
こう…、どんな判決が下っても加害者の心理は迷宮入りのままみたいな、現代に特有の事件のことです。

もしかしたら、「今だ! ここしかない。この人を殺すんだ」という発想を自制することは、彼ら自身にとって、
生まれたばかりの胎児が"嫌だ戻ろう"と母体に潜り込んでいくくらい、在り得ないことなのかもしれませんね。

人体に包丁を突き刺すだなんて、ホントに物騒なことを…。

283 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/15 18:31:45
>>278
確かに他のスレでカオルさんのレスは見ませんけど、そんなこと言ったんじゃありません。
>気兼ねしないで
とか言ってますけど、カオルさんは誰かに気兼ねとか、あるんですか?

俺は、期待できる哲学の話し相手に限りがない状態が、一番の理想です。
まず自分と同類の哲学徒の様々なタイプがいます。
こってこての唯物論者、こってこてのニヒリスト、ペシミスト、エピキュリアン、瞑想家、神秘家…etc これらの卵…。
でも、全員が、今まで学び愛してきた哲学者や思想家の生まれ変わりであり、思惟的な兄弟であると、捉えることはできませんか???
彼らの言葉に、どっかにそういう見方へのヒントはないでしょうか?
特徴が際立っている人は、特に話しやすいと思います。

次に、世間における、本が大事でない実際家の人たちがいます。
著者を手がかりに、哲学によって通じ合うことが適いません。
でも、みな考える力を持っています。そうやって生きてきたんですから。
そりゃ中には、何か恐れでもあるのか、人の話しを聞かない我儘な人もいるでしょう。
でも自由自在な思惟思考を手がかりに、無限のアイデアでもって、哲学を交し合うことが可能だと思います。

しかし、少なくとも日本語が達者な人でなければ無理です。
たどたどしい外国語やボディーランゲージやオーラとかで哲学なんて、よっぽどの人間でないと無理でしょうから。
だからここまでです。

284 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/15 18:33:37
>>279
はい。全て同意です。でも、

>バカだけどかわいいでしょ?
ですから、俺は(失礼にあたるんですけど)ゲテモノ好きなんです。バカなヤツが大好きなんです。
このままお付き合いしていたら、春頃にはメタメタのポ〜になっちまうのは、間違いありません!
困ります。とにかく>>276のようなバカはやめてください。真面目に話しがしたいんです。


>>280>>281
はげどうです。

285 :考える名無しさん:05/02/15 19:29:19
メタメタ。ポ〜ン♪

286 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/15 21:39:19
あ、「真善美は同格なのか」という疑問が載っていました。
真は善美より一枚上だと思います。

俺は、善美の反対の醜悪を、敢えて思考することができます。
でも、真の反対の偽に向かって自分で思考を働かすことはできません。
自分で自分に嘘をつくと、すぐに判ります。従って次のようなことは起こり得ません。
「あ、騙された…! 誰にって、、、俺は、"俺に"騙された! おのれ…」というように、
自分が他人を騙すときのように、自分で自分を騙すことができません。

それから、矛盾に陥るのがわかっていて、思考を続けることは、ユーモアの場合を除いて、不可能です。
矛盾や誤謬に気がつくと、カーッと恥じらいの気持ちが湧いてくるものですが、
あれを引き受けることはできても、あれを感じないということはできません。

矛盾は強い…。
人間の知性や技術に殺される動物は、「どうにもならないな」と思いますけど、
矛盾を前にした人間も、同様に「どうにもならないな」と思います。
動く動物が止まっている草を食べて、絶命させるとき、その植物を「どうしようもないな」と思うでしょう?
植物の光合成とかで、物質が別の物質に変化するとき、その元の物質を「どうしようもないな」とも思うでしょう?
それと同様です。
ね、矛盾は強いでしょう?

このように、人間は常に【真】に向かうように考える(理性を捨てきれない)ので、真善美のなかで真が一枚上手だと思います。
それが、教養と論理に長けた人たちに対する、俺の劣等感につながっています。

287 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/15 22:06:58
それから、人間の思考の話題のついでに、もう一つ駄文をご紹介します。

「哲学ってなんの役に立つの?」「で、哲学やってなんか結果出したの?」という考え方に、
頭が半分おかしくなるほど苦しんだことがありました。

それで、この「哲学完全無用説」にたいするワクチンを見つけてきました。

人間のあまねく思考の中には、もっと意味がなく役に立たないものはないのか??? と考えるんです。
人間は言葉を使ってものを考えますが、
「ポポセクテヤ、ガジュイーリ、ンタグエデメ」とか滅茶苦茶な思考に挑んでみるんです。
あと、「ワンワン、メェメェ」とか動物の言語に思考を委ねるとか。
馬鹿々々しくって数分も持たないんですけど、、、

この数分間の思考よりは、哲学の思考の方が意味がありますよね!?
「哲学は完全に意味がない」は誤りですよね!?

こうして、普通に考えて、哲学は他人の論理の整った考えを読めますし、
それだけでも意味はあることに気がついたのでした。
人間の思考は、何処までも広く深く、自由自在です。
でも、やっぱり実践の有用性には負けると思います。

288 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/15 22:17:11
>>285
へんっ! 何ですか? 冷やかしですか?

ところで、俺は頭おかしくなってないでしょうか…?
少なくとも話しを脱線させてないでしょうか???

「俺はいま、何を書いてもいいんだ」と思えるくらい陽気なとき、思考がものすごい速度で働きます。
上越新幹線だって、復旧に二ヶ月もかかったというのに、
こっちの方の脱線は、復旧のメドがどうなるものなのか、サッパリわかりませんもの。

289 :カオル:05/02/16 01:56:38
>>282 リマールさん
>あぁあ、バカやってる! 夜のしじまが人心をかくも乱したのか!?

夜のしじまに恋人とやわらかな大地に寝転んで星屑たちをながめていると
永遠への思いがふわっと宙ぶらりんしてからだは大地から這い出してきた
手につかまえられて奈落の底につれていかれます。
わたしは虚空と無限に分裂してあぁもうこれでいいこのままにしておいて…
そんなわたしのからだもわたしのこころも大満足しているとき

「あっ!流れ星!」
「ぅ…ん」
「はぁ?なに寝てんだよっ!」
「・・・・・」
「いや流れ星がさぁ」
「うん」
「いやうんじゃなくて…」

みたいな具合にすべてをブチ壊しにしてくれるヤツを愛しましょう
ということでした。(笑)


290 :カオル:05/02/16 03:14:40

>でも確かに、土から顔を出した芽は、"嫌だ"と言って土の中に戻ったりは決してしないし、
>海亀の赤ん坊は、より安全な卵から飛び出して、必ず海を目指します。
>なぜだろうと深く悩みます。

物質と生命とのあいだには渡ることのできない深淵があります。
人間は物質から生命を創り出すことができないものですから
その深淵に創造神とか生命を生命たらしめている根源力(ウルクラフト)とかを
垣間見て(想定して)しまいます。

a.この創造は何のためなのか?
b.この根源力はどこからやってくるのか?

わたしたちは自己組織化の運動によってエントロピー増大の法則に抵抗しますが
かならずやそれは死にむかっての運動です。そんなに故郷(死)に帰りたいのなら
はじめから生まれてこなければよかったのに・・・でもわたしたちは「生まれない」
という決断はしなかったのです。だからいまここにこうして生きているわけです。
でもわたしたちは「生まれない」状態に戻ることはできるのではないでしょうか。
わたしはそれが死なのではないかと思うのです。


291 :カオル:05/02/16 03:18:29

(つづき)

@「わたしは存在者である」→A「存在者は存在する」→B「存在は生成される」
という命題を考えてみるとわかるんですが、主語は述語に包摂されるんです。
つまり、述語は主語にたいするより一般的な概念で、主語はその特殊なもの
という関係なんですけど、ようするに一般(述語)がみずからを自己限定した
ものが主語(特殊)というわけです。3つの命題はすなわちわたしがそのように
判断していることを示しているわけですけれど、以前にも書いたことでいうと
「全体→部分」という論理の矢にしたがっているわけですけれど、この論理の
パターンが通用するのは、哲学的妄想として甘く見てもAまでなんですね。

けれども哲学的思惟においては、Bの「生成」(とりあえずの呼称)に関して
おもに言及することになるわけです。言語の限界、論理空間をとびこえて。


292 :カオル:05/02/16 03:27:55

(つづき)

ということで、デムパの次元に突入します。

どうしてわたしが「生成」という概念を使ったのかというと
たとえば、ビックバンがあったかなかったかはべつにしても
なにかそういう状態の変化というものが「生じて」はじめて
「ある」ことができるのではないか、という素朴な発想からなのです。
で、これに主語と述語の関係をむりやりに適用すると
「生成がみずからを自己限定したものが存在」ということになります。
これは、わたしが>>175で書いた「生成が世界に存在を刻印する」と
おなじことなのですが、この「世界」というのは生成が刻印した
存在の属性「ある」のことだと思ってもらっていいです。

ですから「生成がみずからを自己限定したものが存在」という場合の
「存在」にはその属性としての「ある」がすでに生じているわけです。
その「ある」のなかに(あるいはともに)存在している存在者の側からみた
「生成の存在の刻印」が「生成が世界に存在を刻印する」になります。
>>175の文脈では自己の二重構造(存在論的差異)を問題にしているので
このような表現になってしまいました。あえて「世界」をさしはさむことで
自己の存立の仕方の二重性(自己言及性)を示したかったのです。

永井の<ぼく>と「ぼく」でいうなら、「ぼく」の前提、世界としての
「ある」である「存在」が<ぼく>みたいなイメージになるでしょうか。
そして「生成」そのものには、<ぼく>と「ぼく」=「存在」と「存在者」の
区別はないのですから、なぜなら「生成」は、唯一の原理であり、始源であり
根拠なのですから、というかそういうものとして仮定しているわけですから。(笑)
で、その「生成」の存在の仕方の唯一性が<ぼく>の唯一性の根拠ではないかと。


293 :カオル:05/02/16 03:35:19

あれれっ!?
なんだか夜のしじまにまぎれてとんでもないところへ逝ってしまったみたいです。
そうそう、リマールさんにいいたかったのは
(みるとわかるように)わたしが、a.やb.にかんしては、すこしも取り組んでいない
ということを実例でと思って・・・それでつまりa.やb.に取り組まないことの罪にかんして
それはやっぱりわたしは実存していないなぁということを・・・わけがわからなくなりました。
というか、書きたいことが膨大すぎることに今気づきました。
ホントわけわかんなくてごめんなさい。m(__)m


294 :カオル:05/02/16 04:01:01

>もしかしたら、「今だ! ここしかない。この人を殺すんだ」という発想を自制することは、
>彼ら自身にとって、生まれたばかりの胎児が"嫌だ戻ろう"と母体に潜り込んでいくくらい、
>在り得ないことなのかもしれませんね。

お母さんから赤ちゃんはみんな泣いて生まれてきます。
退行催眠でしたっけ? それでのぞいてみると
みんな「嫌だ戻ろう」って思っているみたいです。(笑)
ただそれがありえないために「生まれたくなかった」「生きたくない」の
キモチを後生大事にわすれないわたしのような人のすむ「不幸な世界」と
「生きよう」という意志をもっている人の「幸福な世界」との断絶が
けっこう根源的な倫理の問題として残ってしまうのかもって感じています。

そういえばここに来た頃、わたしはしきりに子どもはつくらない宣言をしてて
それなのに非難されることとかなくってほめられたりしてたの。
哲板らしいといえばそうなんだけど、わたしとしてはイコール生きる価値なしの
ことだったわけで、なんていうか自分のカキコに罪の意識とか感じてしまっていて
それでふつうに子どもを産んでふつうに育てることのほうがどれだけすごいことで
すばらしいことなのかを、ほめてもらっているのに必死に反論してたんです。(^_^;)

リマールさんが気にされる問題とどこかでつながっているような気がします。
もしかしたらわたしや彼らの理解されなさは、世界の限界のちがいなのかも。


295 :カオル:05/02/16 04:02:28

『論理哲学論考』(ウィトゲンシュタイン著 野矢茂樹訳 岩波書店)から抜粋します。

 善き意志、あるいは悪しき意志が世界を変化させるとき、
変えうるのはただ世界の限界であり、事実ではない。
すなわち、善き意志も悪しき意志も、言語で表現しうるものを
変化させることはできない。
 ひとことで言えば、そうした意志によって世界は全体として別の世界へと
変化するのでなければならない。いわば、世界全体が弱まったり強まったり
するのでなければならない。
 幸福な世界は不幸な世界とは別ものである。(6.43)

たったの700円です!
これ以上のおススメはありません。(^.^)


296 :カオル:05/02/16 04:12:48
>>294
>もしかしたらわたしや彼らの理解されなさは、世界の限界のちがいなのかも。

いえ、ここ哲板だと理解されてしまうんです。
いつもニップルさんがいうように、やっぱりそれはとってもうれしいことです。
ついさっき言ってた279や280に激しく矛盾してますけど見逃してください。
強がっているけどホントはふにゃふにゃなんです。(^_^;)

もう限界。おやすみなさい。



297 :カオル:05/02/16 21:20:10
>>283 リマールさん
>確かに他のスレでカオルさんのレスは見ませんけど、そんなこと言ったんじゃありません。
>>気兼ねしないで
>とか言ってますけど、カオルさんは誰かに気兼ねとか、あるんですか?

じつはわたしは二酉さんに嫌われてて
なんか「わたしの品性が苦手」とかいうことらしく…
そんなことリマールさんは知らないし、どうでもいいことでしたね。
わたしがかってに気兼ねしているだけでした。ごめんなさい。

>でも、全員が、今まで学び愛してきた哲学者や思想家の生まれ変わりであり、
>思惟的な兄弟であると、捉えることはできませんか???

わたしは以前からそういう気持ちでいますし
規制議論とかでもそういう発言をしてきたつもりです。
たぶん知らないでしょうけど、その方がいいです。
あんまり観察されてしまうとコイツ同じ人間か?
とか思われてしまうと思いますから。(自分でも思うくらいだから)


298 :カオル:05/02/16 21:21:32

>特徴が際立っている人は、特に話しやすいと思います。

わたしは哲板に来る人たちはみんな狂っていると思っています。(笑)
だからおかしさや可笑しさが際立っている人にはとくに親近感をもちます。
言っていることの内容とかほとんど関係ないです。
大キライなのは規制議論とかで、哲板も一つの共同体(社会)なのだからとかいって
ルールとか道徳とかのリアルの暴力を「平気で」持ち込もうとする人たちです。
心の底から嫌悪感を感じます。でもわたしもすっかり丸くなりました。(ホント!?)

>次に、世間における、本が大事でない実際家の人たちがいます。
>〜でも自由自在な思惟思考を手がかりに、無限のアイデアでもって、
>哲学を交し合うことが可能だと思います。

もちろんです!
ただあのスレからの流れでこの話しはどうかと・・・
あのスレの住人は高学歴で教養が豊かで理性に長けた人たちだと思いますが。
べつに逆差別するわけじゃないよ、キライだけど。あっ!言っちゃった。アハハ


299 :カオル:05/02/16 21:25:39
ちょっと危険モードに入っているので
お風呂に入ってリラックスしてきます。

300 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/16 22:14:38
ふーん。そんな人間模様と規制議論での姿勢は、全然知らなかった。
>>283は俺の夢想的博愛主義みたいなのが、丸出しというわけだ。浮いているわけだ…。

嫌な気分だけれど、不思議さも感じます。
理性だけを引っ張り出せば、みな水銀如く一つの塊になるというのに、
個我の中の何が、人をそうバラバラにさせるっていうんでしょう??? 変なの。

301 :カオル:05/02/16 23:08:50
>リマールさん
嫌な気分にさせてゴメンナサイ。

302 :カオル:05/02/16 23:27:10
>>284 リマールさん
>困ります。
>〜真面目に話しがしたいんです。

わたしはいつでも真面目です。
コメントの内容はそのときの気持ちです。
今日はもう変わってしまっているかもしれません。
たしかにリアルでもよく注意されることがあります。
わたしはたまたま運がいいだけらしく
はたからみてるととっても無防備らしいです。
でも一回頭の中で考えてから物を言えとか言われても
そんなことしてたらたぶん死んじゃう生き物なんです。

わたしは哲板でひどいこといっぱいしてきました。
すこしは知っていることもあると思うんですけど
ホントにひどいことばかりです。
リマールさんがもし名前を考えてくれていたら
本気でコテハンを変えようと思っていたくらいです。
それでオトコノコになって口調も変えてとか…
でもよく考えたらそのコテハンってバレバレなんですよね。
ほんとバッカみたい!っていうかそのものなんですけど。
とにかく勝手にそういうことも考えていたんです。
すこし疲れました。


303 :カオル:05/02/16 23:52:30
>>286 リマールさん

すばらしい内容のレスです。(これもイケナイのかな?)
同意です。最後の一行の超越論的な結論以外はね。(^.^)

わたしは悟りスレとかより以前は
「どうにもならないな」「どうしようもないな」について
(わたしにとっての道徳のことについて)おもに話してました。
というか、ほとんど道徳の話ししかしてなかったくらいに。
もちろん道徳の大切さをうったえていたんです。
価値相対主義者とずっと議論してたんです。
ついさっきまで言ってたことと矛盾してるように
感じるかもしれないけど、わたしのなかでは矛盾してないのです。


304 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/17 00:04:56
>>301
えぇぇ? 嫌な気分になった代わりに、思索の題材が見つかったでしょう?
何か大きな結果に結びつくのかもしれませんよ。

俺も訳わかんないことを>>300で書いたと思います。
去年最も愛読したトルストイの『人生論』にこうあったんです。

―思い出の中に人は、その一点を、理性的な意識のはじまりを、決して見出せないだろう。
理性的な意識は常に自分のうちに存在していた、と人には想像される。
かりに人が何かその意識のはじまりに類するものを見出すとすれば、
それはもはや絶対に自己の肉体の誕生のうちにではなく、
そうした肉体的誕生とは何ひとつ共通のものを持たぬ領域で見出すのである。
人は自己の理性的な意識の発生を、肉体的誕生という形であらわされるものとは、まるきり違うものとして意識する。
理性的な意識の発生についておのれに問うとき、人は決して、
理性的な存在である自分はこれこれの年に生まれた父母の息子であり、祖父母の孫であるなどというふうには思い描かずに、
常に自分を誰かの息子としてではなく、
時間的にも空間的にも自分とはまったく無縁な、時には何千年も前に世界の向こう端で生きていたような
理性的な存在の意識と一つに融け合ったものとして意識するのである。
理性的な意識の中で人は、自分の出生などまったく考えず、他の理性的な意識との、時間や空間を超越した融合を意識する。…

305 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/17 00:06:03
冗長な文章で申し訳ないです。「理性的な」の登場回数は実に八回。
でも、この「理性的意識の発生」を、昨日のカオルさんの「生成」という言い方の人間版として一致できますし、
この時間や空間を超越した融合というのを、俺は水銀の如くと喩えたんです。
だから話しの続きがあるでしょう?

誰も彼もの頭の中で「ブツブツもごもご」鳴っていて、
その結果スレが上がったり下がったり、モニターの前の顔が苦しそうに歪んだり微笑んだり、、、
そういうのを考えると、恍惚とした気分になります。

306 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/17 00:24:31
>>303
ハルカさんの言う強制的な【苦】を、矛盾や誤謬の監視と取り締まりと捉えたんです。
これは確かに狂人以外、誰も逃れられない。

子どもの頃、「ん〜。俺のこの一人ぼっちの意識は誰かに覗かれていないかな?」とか
考えなかったでしょうか? 何か窮屈な不安に囚われたことなかったでしょうか?
映画「サトラレ」では世間が覗いているということだったんですけど、
今はハッキリと「そうか、矛盾や誤謬に覗かれているんだ」と言うことができます。

307 :カオル:05/02/17 00:38:45
>>287 リマールさん
>この数分間の思考よりは、哲学の思考の方が意味がありますよね!?
>「哲学は完全に意味がない」は誤りですよね!?

言葉をもちいて生活をしていることは、意味を生きているということです。
意味のない価値はなく、価値のない世界を生きることはできないでしょう。
どちらに価値があるのか、ということへの言及は思想的な性格を帯びます。

哲学は、さまざまな思想への反省であるとともに
思想のもつプロバビリティー(確からしさ)の根拠をさぐります。
その探究には、科学が先入的に受け入れているような進歩や新しさへの
期待はありません。なぜなら進歩や新しさへの価値も反省の対象だからです。

しかしまた現実に生きるわたしたちは、ヘーゲル的弁証法によって
言いかえるなら、「より良くより高く」への志向性をもって
超越へとむかう衝動を抑えることもできないでしょう。
この営みは、まさに価値そのものへの取り組みなのであって
これが哲学における倫理へのこだわりなのではないでしょうか。

ふたつの志向性、ニヒリズムの深淵と超越の高みとのあいだで
もがいているのが哲学徒の姿なのかもしれませんね。

哲学は、意味や価値そのものを探究しているんですよ。


308 :カオル:05/02/17 00:59:50
>>304-305 リマールさん
>この時間や空間を超越した融合というのを、俺は水銀の如くと喩えたんです。
>だから話しの続きがあるでしょう?

この辺りのことは、悟りスレでもずいぶん話しました。
聞いてなかったでしょう?(笑)
だってこのことについてが議論の核心だったんだから。

リマールさんもニップルさんも融合を、あるいは超越的な“それ”を
肯定的にとらえているけれど、わたし(やハルカ)は否定的でした。
わたしは今でもハルカの言ってたことをほとんど信じていますけど
わたしは哲学徒としてそれをできるだけ神秘を排して論じたいです。
もちろんそれは期待を持って表現しても「かぎりなく不可能」なのを
わたしは知っています。

どうやって続けましょうか?


309 :カオル:05/02/17 01:06:39

>誰も彼もの頭の中で「ブツブツもごもご」鳴っていて、
>その結果スレが上がったり下がったり、モニターの前の顔が苦しそうに歪んだり微笑んだり、、、
>そういうのを考えると、恍惚とした気分になります。

思いやりや道徳心が欠けていたら、最高のいじめっ子になれますね。(笑)
いじめっ子は、きわめて想像力が豊かですからね。みんな勘違いしてるけど。


310 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/17 01:13:47
>>308
いや、きちんと聞いていたと宣言します。ユングの集合的無意識の辺りのことかな?
おかげで『人生論』の存在論の箇所が、掃除機の後ろのコンセントくらいスムーズに頭の中に入ってきたんですから。

肯定的に捉えていると見られると、劣等感との付き合いの延長を意識します。

とにかくもう寝ます。また今度、お話しましょう。おやすみなさい。

311 :カオル:05/02/17 01:20:11
>>306 リマールさん

わたしの日常生活みたいなものだから実感としてわかりますよ。
リマールさんのいっているのは、論理の取り締まりの方ですね。
もうひとつ超越的な“それ”との相容れなさの問題もありますね。

TVの「サトラレ」はみてました。
むかしポールさんのスレでネタふりしたんですけどフラれました。(笑)
わたしは存在論的な主客の問題として論じようと思っていたはず。


312 :カオル:05/02/17 01:30:22
>>310 リマールさん
>いや、きちんと聞いていたと宣言します。

わかりました。
ちなみに丸一年以上ほとんどその話題でした。(笑)
ハルカのユングの集合的無意識を使っての説明は
そのホンの一部です。

今思うとハルカがいろいろと苦心してたのを
わかってあげられなかったんだなって思います。
なぜって、わたしはユングとか完全無欠の
オカルトとしか思っていなかったから。

おつかれさまでした。おやすみなさい。


313 :考える名無しさん:05/02/17 21:03:53
ニップルさんは書き込むのはやめたの?


314 :カオル:05/02/18 00:44:38

お仕事がたいへんなのだと思いますよ。
お身体を使うお仕事らしいですから、おそらくPCを立ち上げる気力も
残っていないのではないでしょうか。
社会人にとって、一週間、10日、二週間単位での書き込みは
ごく標準的なスパンなのではないでしょうか。
ゆっくり気長にやって行きましょう。(笑)


315 :カオル:05/02/18 00:56:44
>>314

× ゆっくり気長にやって行きましょう。(笑)
○ ゆっくり気長にやって行きましょう。(^.^)

なんか今(笑)を見てかるい目眩がしました。(^_^;)
(^.^)がキモイっていうのはいつも言われているけど
もしかしたらこんな気持ちなのかもしれませんね。(笑)
空気の読めなさ、意味のズレにたいしての羞恥心って
どこからやってくるんでしょうね?


316 :カオル:05/02/18 01:30:24
>>314

おそらく書き込む本人はしっかりと考えて書き込みたいはずなんです。
もちろんそれは書きこむ内容の学的な厳密さや程度をもとめるからではなくて
その人がどれだけ真剣に議論の内容に取り組めるかの問題なのです。
けれども現実にはこの真剣さを注ぎ込むための時間がどうしても必要です。

たとえばあとでご紹介したいと思っているキルケゴールという哲学者は
後世の哲学者たちにも絶大な影響を与えた著作と生き方を残した人ですが
彼は生活のための労働に思索の時間を奪われるということはありませんでした。
ウィトゲンシュタインにしてもショーペンハウアーにしても、歴史に名を残すような
哲学者はみな経済的安定のもとで思索活動に邁進できました。

それにくらべてわたしたちのように衣食住を確保するための労働をかかえている
生活者の思索にさける時間はごくわずかなものです。
ですからもしも教養の程度や思索時間の量で哲学の価値がはかれるものなら、
哲学はアカデミーの住人や富裕者や暇な学生たちの独占物になってしまいます。

たしかに市井の人は教養の程度や哲学の学的内容においては彼らに劣ります。
わたしたちの懸命な言葉もその内容の浅はかさを知る彼らには一笑に付すべき
戯言にしか見えないはずです。そうです。見えないのです。見えてこないのです。

哲学徒がもっとも恐れなければならないのは、この盲目なのではないでしょうか。


317 :考える名無しさん:05/02/18 02:23:46
ニップルさんの代弁という割には、大きな思索の中にいたみたいだけど。>>316
でもそれはたぶんニップルさんに限られることではないのだろう。
教養や内容云々よりも、ただ自分の言葉が交わりの中で空を切るのは、
余りよい気分ではないよ。(偉そうなことをいっている割には情けない)

>社会人にとって、一週間、10日、二週間単位での書き込みは
>ごく標準的なスパンなのではないでしょうか。 >>314

これには同意。まったく大変だよ。


318 :考える名無しさん:05/02/18 02:32:57
これはおいらのことを言っているよ>(偉そうなことをいっている割には情けない)。

それよりさキルケゴールについて、紹介するのまだ? (時間かかる?)


319 :カオル:05/02/18 03:35:42
>>317
レス遅くてごめんなさい。
まさかレスくるなんて思ってなかったから。

>教養や内容云々よりも、ただ自分の言葉が交わりの中で空を切るのは、
>余りよい気分ではないよ。(偉そうなことをいっている割には情けない)

もしスルーしてるところとかあったら教えてくださいね。
それからわたしの自己完結型カキコへの批判も含まれているなら
大目に見てくれたらありがたいです。(^_^;)

>それよりさキルケゴールについて、紹介するのまだ? (時間かかる?)

紹介するっていっても有名なHPを紹介するだけです。
半分はリマールさんに言いたいことが書ききれないので、手抜きです。

で、いままでそこにたどり着くまでのレスを書いてたの。
だいたい書き終わったのでもうすぐです。
とろくてゴメンナサイ。



320 :カオル:05/02/18 03:38:31
>>308
>リマールさんもニップルさんも融合を、あるいは超越的な“それ”を
>肯定的にとらえているけれど、わたし(やハルカ)は否定的でした。

ハイデガーは<それ>と<わたし>とのかかわりの仕方に
「不安」がうみだされる根拠を見て取ろうとしていました。
もちろんそれは、実存する<わたし>が気づくことなんですが
その気づきは、単独者としての<わたし>の自律をうながすとともに
<わたし>と<それ>との乖離をよぶ契機ともなって
<わたし>の確からしさをおびやかすことにもなります。

たとえば、カミュの「異邦人」の主人公ムルソーの不条理への反抗や
あるいは、サルトル「嘔吐」の主人公ロカンタンの存在への吐き気は
単独者としての<わたし>と<それ>との相容れなさの表現なのでは
ないでしょうか。

その状況が指し示すものは、<わたし>の<それ>からの独立の
可能性のようにもみえますが、それは<わたし>の存在論的構造の
解体なのですから、あくまで権利上の可能性にとどまるしかなく
現実にはありえないことでしょう。そしてこのありえなさこそが
単独者としての<わたし>の絶望なのではないでしょうか。

この単独者としての<わたし>の絶望を乗りこえて行く者として
ニーチェの超人をあげることができると思いますが、この超人も
一人の生きる人間であるかぎり、力への意志にささえられています。
ところでこの力への意志とはいったい何でしょう。
そして<わたし>は、この力への意志を独占できるのでしょうか?


321 :考える名無しさん:05/02/18 03:42:48
無理すんなよ。(いちおう言っておく)

とまあ余計なお世話でした。

322 :カオル:05/02/18 03:45:17

(つづき)

残念ながら、力への意志も<それ>に回収されてしまうのです。

えーと、分かる人には分かると思うんですけど
>>290-292は、おもにニーチェをつかって書いています。
自分でもちがうルートから考えていたことなので
かってに書かせてもらったのだけど、だれもツッコミ入れないんですね。(笑)
文句言うのもヘンですが。(^_^;)

ウィトゲンシュタインは「哲学者は観念のお城の住人ではない」とかいうけど
わたしはまちがいなくお城の住人です。しかもお姫さまクラスらしいです。(笑)
わたしが思うに、哲学書ばかり読んでいると自分で考えることができなくなるんです。
お姫さまのように御付き(哲学者)がみんなやって(考えて)くれちゃいますからね。

ちなみに、わたしの>>316は、半分は自分に言っているんです。
今やってたりすることは、自分が批判していることの実践なんです。
反面教師にしてくださいね。アハ(^_^;)


323 :カオル:05/02/18 03:48:09
>>321
>無理すんなよ。(いちおう言っておく)

お気づかいありがとうございます。
できるときにできるだけ、みたいな気持ちでがんばっています。
来れなくなるとホント来れないんで。


324 :カオル:05/02/18 03:49:14

(つづき)

ということで「力への意志」については、御付きのハイデガーに任せますね。

 力への意志が意味しているもの、すなわち自分の本質への超越的昂揚の
 力づけということである。この力づけは、超越的昂揚──生成──を存立させ、
 持続的存立へもたらす。
 
 力への意志の思想においては、最高のもっとも本来的な意味において
 生成し運動する者が──生そのものが──その固有の持続的存立において
 思索されるべきである、というのがニーチェの趣旨である。
 
 「要旨再説──生成に存在の性格を刻印すること、──これが力への意志の極致である」。
 
 われわれは、これがなぜ力への意志であるのかと問う。その答えは、こうである。
 力への意志はそのもっとも深い本質において、生成を臨在性のうちへ持続化することに
 ほかならないがゆえである。
 
以上、『ニーチェU』(ハイデガー著 平凡社ライブラリー 228,229n)からの抜粋でした。


325 :考える名無しさん:05/02/18 03:55:54
>>320-322
とりあえず面白いよ(ノシ
あとスルーされ気味だけど>>290-292はとくに秀逸だと思う。
じつはそれが言いたかったのである。


326 :カオル:05/02/18 04:01:34

(つづき)

あーあ、超越的昂揚とかいっても<神さま>のホッペのうぶ毛一本ほどの
単独性も発揮できないままに、けっきょく元の木阿弥ってことじゃない!
そもそも勝手に存在させられたうえに、またまた勝手に存在をうばわれて…
なによそれ!責任とってよ!とかってブーブー愚痴りだすと、>>290のa.b.の
問いにも少しは取り組むことになるような気がするのですが、どうでしょうか?

ところで、今<それ>のことを<神さま>にしているのは
<それ>は、何にでもなれるし、何とでもいえるから、きっと<神さま>
っていうこともあるんだけど、<神さま>という名前を与えておいたほうが
今書いてきたようなことが、もうすでにみんな書かれてある、ある講座を
紹介するのに都合がいいように思ったからです。

その講座は、実存における心理学的な考察について書かれているんですが
読みやすくて内容も良質なので、ときどき哲板の皆さんにも紹介してるんです。
リマールさんの実存的な問いかけには、ほとんど答えてくれるような内容です。
では、ご紹介。

「逍遙の人 セーレン・キルケゴール」
ttp://homepage.mac.com/berdyaev/kierkegaard/kierkegaard_1/kierkegaard21.html

キルケゴールはハイデガーもサルトルもみんながとおってきた道です。
ウィトゲンシュタインがもっとも理解しなかったらしい哲学者でもあります。
それにわたしのように神さまをうらぎって自己絶対化を企てるふとどき者の
「人生への真剣さに根本的に欠けている」という罪をあばく人でもあります。


327 :カオル:05/02/18 04:07:34
>>325
うわー!褒めてくれてありがとう。
最近めずらしい奇特な人ですね。(笑)
でもホントうれしい。

機会がありましたら、ぜひ一緒に哲学しましょう。


328 :カオル:05/02/18 04:21:24
今日は気持ちよく寝られそうです。
名無しさんのお蔭様です。ありがとう。
では、おやすみなさい。(-_-).。oO

329 :考える名無しさん:05/02/18 04:22:17
>>327
機会があったら、そうしましょう。

それと、おつかれさま。


330 :カオル:05/02/19 01:46:40
>>326 (紹介することに意義はあるのか?)

紹介のホームページを開くと、

── 絶望は精神の分裂である ──

という言葉が目に入ってきます。

わたしなら、鏡に映った自分を見るように、その言葉に釘付けです。
でも他人は、けっしてそのようにはふるまわないでしょう。
ホームページを紹介された人が、わたしの意図にしたがって読みはじめ
また、わたしの期待通りに、最初のページまでさかのぼり
すべてを読んでくれるなんていうことは、起こりうるはずがないのです。
いえ、たとえそのような奇蹟が起きたとしても
その奇蹟は、生の問題の解決とは何の関係もないのです。
たとえ回答が得られたとしても、生の問題は解決しないのですから。


331 :考える名無しさん:05/02/19 02:09:45
>>330
せっかく紹介してくれたのに、おいら全部読んでなかったよ。
でも、「世界の名著」シリーズの紹介で同じようなあらすじを、
ついこの前に読んだのである。いや、だから何だよ? って感じだけど。
とりあえず。


>  絶望は精神の分裂である


この言葉は覚えておく。

332 :カオル:05/02/19 02:53:35
>>331
>おいら全部読んでなかったよ。

いえいえ、そんなのぜんぜんかまわないんです。

>リマールさんの実存的な問いかけには、ほとんど答えてくれるような内容です。

みたいな生意気なこと言ってしまったから
わたしが言いたかったのは、たとえいくつかの回答が与えられたとしても
それでだれかの人生の問題が解決されるわけじゃないっていうことです。

もちろんそれより以前に、わたしがリマールさんの抱えている問題について
なにかしらすでに先行しているとか、高みから見下ろすように覚れているとか
いうこともぜったいにないことも宣言しておきますね。(ついでだからw)

でも表現の問題として、そのようにも読めてしまうでしょう?(なので言訳半分)
で、本気でそのようなつもりで、勉強しろとか、この本読めとか、hp紹介したりとか
そういうことをする人を指して、>>316では「盲目」と表現しています。

── 見えないのです。見えてこないのです。── の人のこと。


333 :カオル:05/02/19 03:15:51

わたしが思うのは、人生の諸問題についての探究については
その「内容」の深浅について、合理的に判断することはむずかしいということ。

たとえば、10才の天才哲学小学生が、もしその「内容」について
「そのような議論は、カントの実践理性批判を読んでからにしてください!」とか
「内容が支離滅裂ですね。論理的にいってココがまちがっています!」とか…
言ったとしても、そういう問題じゃないですよね?っていうことです。

べつに長く生きているからとか、経験のちがいとか、人生の重みとか
ことさらにそういうことに価値を与えたいわけじゃないんですけどね。
だってそんなこといったらわたしなんて何も言えなくなっちゃいますし。
ただそのような問題は、知識の豊富さや合理的な思索で解決できる
問題じゃないことは確かだと思うんです。


334 :カオル:05/02/19 03:22:33

でもそうだとすると、生の問題を議論することに
いったいどのような意義があるのか?みたいな問題がでてきますね。
つまり、倫理や道徳、価値の問題について語ることのむずかしさです。
あるいは、本を読むこと、一人で考えること以上の意義はあるのか?とか。


335 :考える名無しさん:05/02/19 03:55:17
>>333

今半分くらい読んでたところなのだが、
集中力が切れたのでここに戻ったらレスがあった。

ふむふむ。君の考えていることはよーくわかった。
おいらもそー思うことは多々ある。

で、自分もそー(盲目と)感じられないように気を遣ったりしているのだけど。
倫理的な規範と、自律的な規範の二重の論理のせいで、
自分の行為に中途半端さが残る。そして時には悪徳(怠惰的な)と荷担することも
あったりするのである。こういうのは語り尽くせないことだから、途中で切り上げるよ。

ま、言っておくとおいらはキルケゴールの生き方は好きだ。
キルケゴールに似ていると言えばパスカル。
彼も情熱的に生きた人だった。キルケゴールは絶望を知り、
希望の中で生きることができた人だったが、
彼は絶望の外へ出ることはできなかった。


336 :考える名無しさん:05/02/19 03:57:38
>>334

宗教的実践だと布教、あるいは思想(思惟)そのものの敷衍などがあると思う。
ここで発言をすることもそういった行為と受け取ることは可能かも。
キルケゴールの著作活動も、とりあえずここに含まれるだろうね。
でも、おいらはその世界(キルケゴールの)のことを正確には知らないのよ。

あるいは、そのことについて他の人と会話する(議論する)という
のも一つの方法なのかな。んーどうなんだろうね。


337 :カオル:05/02/19 04:04:27
>>335
>こういうのは語り尽くせないことだから、途中で切り上げるよ。

うん、そうなの。切り上げざるを得ないことをココでは話しているし
わたしもココのような議論のできるところで主に話してきたんですけど
言うことといったら、例にあげた小学生に酷似してるんですねぇ。(^_^;)
学的哲学と人生哲学と呼ばれるものの分裂なんですよね、これが。
どうしたものか?


338 :カオル:05/02/19 04:13:10
>>336
>あるいは、そのことについて他の人と会話する(議論する)という
>のも一つの方法なのかな。んーどうなんだろうね。

その会話の内容は、やっぱり生の問題ですし
行き着くところ、その人の思想なんだと思うんです。
そしてそのだれかの思想について、つまり生の問題について
文献学の真似事みたいなことをすることの意義って何でしょう?
だれかの生について評論しても仕方ないと思うんですよね。
でも沈黙するのもどうなのかしら?と思うわけです。


339 :カオル:05/02/19 04:16:32

価値について
>他の人と会話する(議論する)という
ことについて。

たとえばわたしの場合、現実問題については
いつも自分の思想を押し付けていくスタイルになります。
「どうして人を殺してはいけないの?」って聞かれたら
「ダメなものはダメなの!」っていう感じで答えます。(笑)
(この問いは、生の問題をとても純化したものだと思います)

それにこのような議題について話すときは
つねにリアルな生きている他者の存在を想定してしまいます。
もちろん道徳的にですが。


340 :カオル:05/02/19 04:20:11

(つづき)

現実問題でないことなら、掲示板での対話に、お互いの生が要請されていても
また相手の生を感じられたとしても、そのような「応答」それ自体の意義については
それなら応答するコンピューターが将来開発されたら、みたいなことで済んでしまいます。

けれども現実問題には、リアル>バーチャルという道徳的な規制が働いているから
リアルでの絶対価値、「生命は価値の根源である」という暗黙の了解をないがしろに
することはできないです。なぜなら、そこからはじまる価値の体系のなかに、
それらに守られて生きているのですから、自分勝手なことは言えなくなるんです。
つまり、「殺してはいけないという根拠はない」ということを、ですが。

人生の諸問題については、すべてこの「根拠はない」との戦いなんです。
そして恐るべきことに、この「根拠はない」ということには、小学生でも
気づいていて、「平気で、簡単に」言えてしまうということなんです。
しかもそれについて、論理的に反駁することは不可能なんです。
なんだか寒気がしてこないですか?

哲学徒は、このような問題にたいして傍観者であるべきなのでしょうか?


341 :考える名無しさん:05/02/19 04:49:31
>>337
おいらがその言葉を言った理由を言うよ。
そこに自己保身が働いたんだね。道徳を語ることによって、
その人の道徳的なセンスを攻撃されたりすることがある。
誠実なことを言ったつもりが、相手には逆説や幼稚としか
映らなかったりするわけさ。それが事実(経験的な)としてある。
だから、人生哲学を話すことそのものが嫌いっていう人が多い
んじゃないかな。(おいらもその一人)


ここまで書いたところで、どうレスを続けようか考えていると
君から大きな問題を提出されたみたいなので>>399-340について
だけおいらは考えるよ。


342 :考える名無しさん:05/02/19 04:50:54
>>339-340
>殺してはいけない、などそれらの根拠について

根拠はどこにもないというのは、小学生でも気づいているというのは同意。
つまりそれは、「どこにも、なにもない」ということに気づいているということだね。

>しかもそれについて、論理的に反駁することは不可能なんです。
>なんだか寒気がしてこないですか?

あいにく、君の言葉からは寒気はしてこなかったけど、
その寒気についてはある程度知っているのである。
むしろ、「殺していい」という根拠に対してなら、
どれだけでも説明することができる、ということ、だろうか。
(こういうと、もっと寒気がするんだろうな)


343 :考える名無しさん:05/02/19 04:55:29
(つづき)

>哲学徒は、このような問題にたいして傍観者であるべきなのでしょうか?

おいらの考えを言うと、NOだろうね。でも実際にそれがおいらにできている
かというと、どんなに好意的に見ても、できてないと答えるだろう。
それについては多少多めに見てもらえると助かる。

たとえば、おいらの話をすると、最近カントの「道徳形而上学原論」という本を
読んだのである。とあるスレで議論があって、それに参加したくて本屋に走
ったわけだ。まあそこでは、その読み方が違うとか色々言ったりしていたわ
けだけど。w
その内容を整理するとカントの倫理観は、道徳において善意志を尊重して、
行為そのものについてはまったく言及しなかったのである。それがそのときの議論の共通理解だった。
そこでおいらがカントの本を読んで共感したことは道徳は競うものや人格や経験のように積み上げる
ではなく、それだけで尊重されるのだということ。
つまり、今、そのときの気持ちが道徳の善意志に赴いていることをカント流の論理さで諭すわけだ。

おいらは、道徳については、「ある」ことを示すだけで充分だと思っている。(カント流)
そして行為については内容は問わない(言及しない)。(これはカントにはない
考えだけどおいらは重要だと思っている)、それがおいらの道徳に対する気持ちなのである。

あとまだ善意志の向かうもの(対象)については、おいらは未だ無明であるのだけどね。


344 :カオル:05/02/19 05:07:53
>>342
>むしろ、「殺していい」という根拠に対してなら、
>どれだけでも説明することができる、ということ、だろうか。

「いい」にしても「いけない」にしても理由ならいくらでもあります。
社会契約論でも生物学的な事実でもなんでもありですよ。(笑)
でもそれらはメタな根拠にはなりえません。
これが絶対価値だという公理がどうしても必要です。
たとえば、「生命は価値の根源である」というような。
そしてそこからは一切「その根拠は?」と問わない約束が必要です。
ちなみに事実から当為を導けないのも論理的必然ですね。


345 :カオル:05/02/19 05:18:12
>>343
>おいらは、道徳については、「ある」ことを示すだけで充分だと思っている。(カント流)

わたしも基本的にはそういう物言いになってしまいますね。
といいながら、そうとうに膨大なレスを実際はしているんですけどね。(^_^;)
でも自分自身を反省すると、どうしても性悪説に加担してしまうところがあって
わたしの心には「ない」なぁ〜とか、「ない」からこそ「神さま」を信じる気になれるとか。
まぁそのような議論で、神さまは持ち出しませんけどね。
だって「信じてない」といわれたら無効なわけですから。(笑)


346 :カオル:05/02/19 05:25:31

あ、そうそう。
人殺しスレとかのぞくとわかるんだけど
哲板でも基本的に欠けている視点があるんです。
議論の偏向というか。

それは、たいていの議論が自分はどうなのか?
なんです。相手がどうなのかじゃなくて。
自由意志礼賛状態にあることに気づいていないんですよね。


347 :考える名無しさん:05/02/19 05:29:30
>>344
非常に刺激的な考えではあるけど、それには反応しない。
約束(規約)の必要性や、論理的必然性を語る(問い直す)のは
あまり具体的ではないと思う。


>「いい」にしても「いけない」にしても理由ならいくらでもあります。
>社会契約論でも生物学的な事実でもなんでもありですよ。(笑)

おいらがいったつもりは、その「殺してはいけない」という命法には
「殺したい」という命題があって、それに反応せざるを得ないわけで、
それは行為と意志の一致を試みる上で快楽原則に従うかぎり、
留めることはできない。「いけない」という欲求の【否定】は、
ウィトゲンシュタイン流に言うなら論理の限界値を示すものだから
論理的には説明つかないということが、ニュアンス的に言いた
かったのである。

とりあえずここで、落ちる〜。


348 :カオル:05/02/19 05:29:50

寒気にふるえてばっかりいるのもアレなんで
ちょっと勇気のわいてくる言葉を。
>キルケゴールに似ていると言えばパスカル。
ということで

私は、この広大なる無限の空間、その永遠なる沈黙に恐怖する。
私は、この小さな命の小宇宙、その内のさらなる小宇宙に驚愕する。
私は、この二つの無限に茫然自失することしかできないのである。

我々は、自然のなかでもっとも弱い一本の葦である。しかしそれは考える葦である。
我々は、如何に無力であろうとも、我々の尊厳のすべては考えることにある。
我々は、そこから立ち上がらなければならない。満たせない空間や時間からではない。

だから、よく考えることに努めよう。ここに道徳の原理があるからである。

── パスカル『パンセ』から。(曖昧な記憶からなので正確ではないです)

パスカルは、当時の懐疑論者や無神論者にたいして、信仰なしには
道徳は成り立たないということを、つまり神さまの正当性を説いていたんですよね。


349 :カオル:05/02/19 05:37:18
>>347
>非常に刺激的な考えではあるけど、それには反応しない。
>約束(規約)の必要性や、論理的必然性を語る(問い直す)のは
>あまり具体的ではないと思う。

もちろんそうです。
議論を戦わせるには、そういう論法を知っていないと
誤魔化されちゃうから…なにせ本性が「性悪」なので。(笑)

わたしの基本は「ダメなものはダメ!」です。
イジメを発見したら助けるとか、そういうことが
いつもわたしの議論の結論なんです。


350 :考える名無しさん:05/02/19 05:40:05
>>348
よいね。
人によって、哲学者に触れる姿が異なって見えるというのはただ一言で言うと素晴らしいね。
とても気持ちの入った言葉だ。(あんまり褒めてもしょうがないのだろうけどね)

>パスカルは、当時の懐疑論者や無神論者にたいして、信仰なしには
>道徳は成り立たないということを、つまり神さまの正当性を説いていたんですよね。
まったくその通りだと思う。
その意味ではパスカルは「盲目」だったと言えるだろうね。

んじゃ。


351 :考える名無しさん:05/02/19 05:44:52
とりあえず言っておくけどあとで、ちゃんと続きを書くのである。


352 :カオル:05/02/19 05:50:35
>>347
>おいらがいったつもりは、その「殺してはいけない」という命法には
>「殺したい」という命題があって、それに反応せざるを得ないわけで、
>それは行為と意志の一致を試みる上で快楽原則に従うかぎり、
>留めることはできない。「いけない」という欲求の【否定】は、
>ウィトゲンシュタイン流に言うなら論理の限界値を示すものだから
>論理的には説明つかないということが、ニュアンス的に言いた
>かったのである。

うん、もちろんその通りです。
だからこそ、「道徳」の出番があるわけで。(笑)
ウィトゲンシュタインでいうなら「倫理は、超越論的」ということですね。

ただひつだけやっぱり言っておきたいのは
「行為と意志の一致を試みる上で快楽原則に従うかぎり」とか
言うのは、あくまで殺す側の人とか傍観者とかの視点であって
殺される側からの視点は、そこにはないということ。
そのバランスの悪さは道徳を語るときには注意しないといけないと思う。
もちろんあなたには分かっていると思うから、ROMの人向けの発言です。

今日も楽しくお話しさせていただいてありがとう。
おやすみなさい。


353 :カオル:05/02/20 01:54:44
>>352
>ただひつだけやっぱり言っておきたいのは

訂正 ひつだけ → ひとつだけ


354 :考える名無しさん:05/02/20 01:56:00
じゃあ今から感想を言うのである。


>>344
>これが絶対価値だという公理がどうしても必要です。
>たとえば、「生命は価値の根源である」というような。
>そしてそこからは一切「その根拠は?」と問わない約束が必要です。

これは非常に難しいとおいらは思った。
どうしてかっていうと絶対価値だという公理を道徳に持ち込むのはなんか
ちがうんじゃないかな〜、と若干思われたからである。(おいら、そんなに
たいしたこと言ってないからね) 
道徳は人それぞれ、その人独自の体系があるのだと思う。
決して他者と価値観を共有できるものではない。(よね?)
そうすると、約束っていうのが論理的に成り立たなくなる。
少なくとも、言葉によって、約束や規約の部分を言い表すことが
できなくなるのだと思う。
ほんとは君だって、「ダメナモノハダメ!」って言いたいわけじゃなくて、
もっと別のなにかを言いたいのだと思う。けどその言葉じゃ相手は納得し
ないだろうな、って考えてしまうわけで。どうやったら相手を説得することが
できるだろうと考えた時に、おいらは絶対説得させることができる方法
というものを思い浮かばなかったよ。(でも、これからも考えてみるよ)

ちなみに問わない約束の中身よりも、言語活動自体を(合理的に)中止さ
せてしまえ、という方法をおいらは最初に思いついたな。んな感じである。



355 :考える名無しさん:05/02/20 01:56:46
>>345
>でも自分自身を反省すると、どうしても性悪説に加担してしまうところがあって
>わたしの心には「ない」なぁ〜とか、「ない」からこそ「神さま」を信じる気になれるとか。

キルケゴール的に言うと自分を堕とす、ていうニュアンスなのかな。
おいらは性善説(ん? でもあんまり考えたことないなあ)、で自己欺瞞と向き合うように
心がけている。ちなみに、「神さま」を信じるのはすごく難しいことだと、おいら思う。
クリスチャンでも難しいことなんだと思うよ。
だから信じられるのは素晴らしいことだとおいらは思う。


>>346
>哲板でも基本的に欠けている視点があるんです。
>議論の偏向というか。

>それは、たいていの議論が自分はどうなのか?
>なんです。相手がどうなのかじゃなくて。
>自由意志礼賛状態にあることに気づいていないんですよね。

いままで、そういうレスばかり哲学板で普通に見てきたから、
麻痺しちゃったのかな。そんなことすっかり忘れていたよ。
それは、基本的なことだよね。行為や活動には、なんにせよ相手がいる、ということ。
本当に彼らは気づいていないのか? それともわかっているのにネット掲示板だから
という放逸(旅の恥はかきすてのような)なのか? おいらも、理解不能な状態に
なることが多い。おいらもう、そこから、もう相手のことを考えられなくなっちゃうのである。



356 :考える名無しさん:05/02/20 01:58:08
>>352
>殺される側からの視点は、そこにはないということ。
>そのバランスの悪さは道徳を語るときには注意しないといけないと思う。  

相手のことを考えるのつづきだね。
バランスを重要と考えるのは、たとえば世論(空気)において、
それがどんなに正しくても、一方に傾けないと言うことかな。
それとも「殺す立場」を無視したたんなる善意の正当化なのかな?
それともおいらは複雑に考えすぎているのだろうか?
これは本当に問題を多くはらんだ問題だから、できればこの議論は
ここまでにしたいなと思っている。(内心は)

とりあえずここまで。パスカルがキルケゴールに似ているという説明を
すこししたかったのだけどやめたのである。大変だと気づいた。
なんで君のレスの感想を書いてみたという次第なのである。



357 :考える名無しさん:05/02/20 02:02:24
>>353
ずっとそれ“ひとつだけ”って読んでた。(笑)

358 :考える名無しさん:05/02/20 02:51:38
それじゃ、今から>>326のホームページの続きを読むよ。
んじゃ。

359 :カオル:05/02/20 03:21:16
>>354
>道徳は人それぞれ、その人独自の体系があるのだと思う。
>決して他者と価値観を共有できるものではない。(よね?)

独自ではないし、共有していると思います。

>そうすると、約束っていうのが論理的に成り立たなくなる。

約束は、論理的に成り立たせるものじゃないと思います。


360 :カオル:05/02/20 03:28:51
>>355
>「神さま」を信じるのはすごく難しいことだと、おいら思う。

ほうっておかれたら、イケナイこといっぱいしてしまいます。
でも、あっ!イケナイことしてるって気づける、今のところ。
気づいた気持ちの先にいつも神さまはいてくれる。


361 :カオル:05/02/20 03:30:24
>>355
>本当に彼らは気づいていないのか?

うん、ほんとうに気づいてないです。


362 :カオル:05/02/20 03:32:49
>>356
>それとも「殺す立場」を無視したたんなる善意の正当化なのかな?

どういう意図でおっしゃっているのか?・・・途方に暮れてしまいます。

道徳についての議論は、あなたとはしない方がいいような気がします。
同意できるところが、ひとつもないようです。ごめんなさい。


363 :カオル:05/02/20 03:38:47

今日は、他スレでの
── 哲学 or 哲学徒とは何か ──
についてのわたしの発言をコピペしてみたいと思います。


364 :カオル:05/02/20 03:44:29

<カオル>

「知恵」を愛するというのは、
歴史、文化、伝統を大切にするということも含まれるのかな。
また「知識」を愛するというのは、哲学にどれほど必要なのかな。

あっ、「武蔵 vs 曙」みなっきゃ!


365 :カオル:05/02/20 03:45:05

<考える名無しさん>

知を愛するというのと、
歴史、文化、伝統を大切にするというのは、違うことように思うけど。


366 :カオル:05/02/20 03:46:33

<カオル>

「知恵」と「知識」をわけて考えてみました。
知恵は、過去の歴史、文化、伝統のなかからその多くを学べると思いました。
けれどその知恵を合理的に説明できるかとなると難しいのかもしれませんが。

哲学にとっての知恵とは、至高の真理のことだと思います。
ゆえに、哲学を愛する者は、知恵を希求します。
また、哲学にとっての知識とは、真理へ至るための手段だと思います。
しかも知識は、かならずしも真理を希求する精神にとっての合理的な
手段とはかぎらないのではないでしょうか。

その知識が仮に論理にかなったもので客観的に正当であるとしても
それが哲学の求める知恵と結びつくのかどうかはわからないでしょう。
わたしは、真理を希求する精神にとっては、命そのものや肉体も
手段のひとつだと思いますし、家庭や日常の生活、社会人としての
人生経験など、すべては真理を得るための手段なんだと思います。


367 :カオル:05/02/20 03:47:13

<考える名無しさん>

私が書いた「知を愛するというのと、歴史、文化、伝統を大切にするというのは、違うことように思うけど。」
というのは、知を愛するということを第一にすると、場合によっては、
歴史、文化、伝統を破壊してしまう可能性も視野に入ってしまうんじゃないかと思ったからなんです。
取っ掛かりとして、歴史、文化、伝統にアプローチし、その中にある何かを求めてみるということは、
十分あることと思いますよ。


368 :カオル:05/02/20 03:48:09

<カオル>

>歴史、文化、伝統を破壊してしまう可能性〜
>取っ掛かりとして、〜

そうこのふたつ。

そのなかに真理が指し示されているかもしれないのに
既存の価値や引き継がれた知恵を軽視する態度や姿勢、
過去より現在、現在より未来、の方が優れているという思い込み、
が見え隠れすように感じていました。

「現代哲学が乗り越えてきた道を今更逆行してどうなる」とか
「それはもう30年も昔の哲学だ」とか
「哲学に倫理や道徳みたいな胡散臭いもの持ち込むな」とか・・・
いえ、わたしがよくいわれることなんですけど。(^_^;)
でもそういうことじゃないでしょ?
と思ったりしたものですから。(^.^)


369 :カオル:05/02/20 03:48:57

<考える名無しさん>

単純な進歩史観のようなものを主張している訳ではありません。
十分な公平で合理性のある吟味をすることを前提としても、
歴史、文化、伝統を破壊してしまうあるいは破壊しなければならなくなる可能性を否定できないし、
逆に歴史、文化、伝統の中から真理を見出す可能性も否定できないだろうと思います。
その両方の可能性があるのですから、そのどちらか一方にやや重心を置いた哲学の定義は、
適切なのだろうかと考えます。
そういうことと無関係に哲学を考える方が、
哲学することに対しての拘束条件が小さいので、望ましいのではないかと思う訳です。


370 :カオル:05/02/20 03:50:13

<カオル>

>そういうことと無関係に哲学を考える方が、
>哲学することに対しての拘束条件が小さいので、望ましいのではないかと思う訳です。

そうかもしれません。
いえ、おそらくその通りなんです。
わたしにはそれができないので
その拘束条件から考えていくことしかできないのです。
わたしが哲学以前とか人生哲学とかって揶揄されるのも
そういうことなんです。(そんなこと知らないでしょうけどね)
わたしにとっては人生が哲学、生きることが哲学なんです。


371 :カオル:05/02/20 03:52:14

<カオル>

「拘束条件が小さい」と、視野が広がるとか、物事を自由に観察できるとか、
そういう立場や状況にある自分を思い浮かべると思うのです。
けれど、そういう立場や状況はいったい何を基盤にしているのでしょうか。
歴史、文化、伝統・・・など「そういうことと無関係に」なるということと、
「そういうことと無関係に哲学すること」との間には、大きな溝があるように思います。

なぜなら、「そういうことと無関係に」というのなら、
既存の秩序、過去の経験、自明性の感覚・・・などとも無関係になれなくては、
話の辻褄が合わないからです。

たとえば、合理によって非合理を不条理や誤りと見なすのは、
あきらかに、合理→非合理の観察ベクトルが前提されています。
言いかえるなら、言語の法則としての既存の論理による秩序性を疑っていないのです。
論理は、歴史的なものであり、文化的なものであり、伝統として引き継がれたものです。
ですから、「そういうことと無関係に」というのなら、非合理を不条理や誤りとは
見なせなくなるはずです。

さらにいうなら、不条理や誤りのなかに自分を住まわせることができてはじめて、
与えられた合理の世界ではない ― 非合理→合理が合理→非合理かもしれない世界、
あるいは、合理⇔非合理が成立しない世界を、かいまみれるのではないでしょうか。

そしてそのとき、おそらくその人は、狂気の世界にいるはずです。

その意味で、哲学とは狂気のススメである、という側面は拭い切れないでしょう。


372 :カオル:05/02/20 03:54:02

<カオル>

いまここに、自分の眼前にあらわれている問いにたいして
自分の頭と自分の言葉で取り組もうとする姿勢を持った人が
哲学徒(哲学する人)ではないでしょうか?

哲学史や哲学者の文献や哲学者についての研究は、哲学研究者のすることです。
哲板において「〜における〜の問題について」が氾濫しないのはいいことだと
思っています。(むかしポールさんのスレで同じこといったこと思い出したw)

たとえば、哲学研究者が哲学史の問題に取り組むときに
哲学者の文献や哲学者個人を理解する必要があるのはわかります。
そのような知識の前提なしに論を展開することは不可能でしょうから。

けれど、わたしとは何か?、死とは何か?、のような普遍的な問題について
哲学徒として取り組むのなら、そこにはリアルの生の問題が不可避に
かかわってくるのは、哲学研究者にとって知識が必然であることと
おなじようなことなのではないでしょうか。
そもそも<わたし>の「生」から提出された「問い」なんですから。

そしてそのことは、その問いに取り組むその哲学がまさに人生哲学
であることを意味しているのではないでしょうか。
レッテル貼っても仕方ないですけどね。(笑)


373 :カオル:05/02/20 04:08:16

ココでは「哲学とは何か」について以外のことを書き込みながら
他スレでは「哲学とは何か」について発言していたんですよね。(笑)
なんかヘンなことしてますよね。(^_^;)

あと372は、364〜371の続きではありません。(念のため)


374 :カオル:05/02/20 04:24:39
>>365

違うことように思うけど。×
違うことのように思うけど。○

>>368

が見え隠れすように感じていました。×
が見え隠れするように感じていました。○

コピペする前に直せよ!ってことですよね。

今までもたくさん間違えているような気がしてきました。
わたしとか一文字ちがっているだけで
その本読まなくなっちゃったりするから、そういうことが心配です。
わたしは最近まちがわないようにすることがとてもムズカシイです。
だからまちがっていても大目にみてください。

キレイな星がでています。おやすみなさい。


375 :考える名無しさん:05/02/20 04:41:39
>>362

そう読めてしまうと言うことを少しそこで言いたかったんだよ。

でもおいらのもそう逆に読めたかもね。
おいらがカントの「道徳形而上学」に触れた時の議論でもあったけど
善“意志”の内容については、カントのそれを読んでもまだ不明瞭だった。
善意ならぬ、善意志の正当化は倫理におけるカントの最大の功績とも言える。
その部分を多少君が指摘した部分に含めてぼかしたつもりだった。

>同意できるところが、ひとつもないようです。ごめんなさい。
おいらは君の言葉になるべく同意しているように心がけていたつもりだった。
だからあまり自分の言葉、新しい考えは述べていないような気がする。
でも、おいらの考えは君には受け入れられないなと薄々は感じているよ。
じゃあ、おいらの考えが正しいはずだ。と思うかというとそうじゃない。
おいらは君の意見は正しいと思っている。たぶん君もそう思っている。
おいらは正しさなんてわからないと実は思っている。だから君の方が
たぶん正しいんだと思うよ。何となくでしかわからないけどさ。
人は自分が正しいと思う人についていくものだとおいらは思う。
ただおいらはその正しさの基盤が分からないというか、ないというか。
まだ正しいものがあるんじゃないかと、迷っている状態。
そんな感じなのである。ごめん。

あ、とりあえず>>326のキルケゴールのホームページは3分の2くらいまで読んだよ。


376 :考える名無しさん:05/02/20 04:42:30
>>374
>だからまちがっていても大目にみてください。

大目に見るよ。だからおいらの(変な文章も)も大目に見てね。

>キレイな星がでています。おやすみなさい。

星が綺麗なのはおいらも気づいてました。
それじゃ〜。


377 :考える名無しさん:05/02/20 04:53:28
>>375
>おいらは君の言葉になるべく同意しているように心がけていたつもりだった。
この言い方は多少傲慢すぎるから、若干修正するよ。

なるべく理解するよう心がけていたつもりだった。


それだ〜けぇよ、と。


378 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/20 18:49:54
>>308
>リマールさんもニップルさんも融合を、あるいは超越的な“それ”を
>肯定的にとらえているけれど、わたし(やハルカ)は否定的でした。
>わたしは今でもハルカの言ってたことをほとんど信じていますけど
>わたしは哲学徒としてそれをできるだけ神秘を排して論じたいです。
>もちろんそれは期待を持って表現しても「かぎりなく不可能」なのを
>わたしは知っています。

この部分から返事します。自分の哲学観の繰り返しです。
理性的な意識の発生、赤ん坊にもの心が芽生えること、自ずから考え出すこと、俺はここに神秘を見ます。

この理性的意識が何であるかについて、先に挙げたトルストイは「知ることはできない」と言っています。
聖書の記述に従っています。
神秘について「知ることはできない」という態度を取る傾向が他にも多数あるのを、皆さん知っていると思います。
・仏陀は、「毒矢の喩え」で、形而上学的な事柄を知る前に人間にせねばならないことがある、と言っていました。
・「哲学について哲学者が遺した言葉」スレに中島敦が登場していますが、彼もそういう態度を取っています(「狼疾記」で)
それで、このように宗教や文学の方面に精を出しています。カオルさんと態度が異なります。

379 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/20 18:53:53
一般に、こういう態度を【エポケー】(判断保留)と言うそうであります。(ちっと違うか…?)
とにかく、懐疑論者の全方向への判断保留でなく、
神秘の解明から「足を洗う」感じの、落ち着いて挑み直すための判断保留をイメージしています。

それで、このエポケーの有無は、人体における性染色体のような役目を、哲学徒の思惟において果たしていると考えています。
哲学上の全く異なる考え方の出発点になっていると思うからです。
神秘に対して、「エポケー」を持っていると、神秘の表現とか実用(【善美の理想】や【人生哲学】)の方に向かいます。
(もちろん主観に従っての善悪さまざまな表現と実用です)
持っていないと、神秘の解明(【真の理想】や【学的哲学】)に向かいます。
そして、両者の接触のなかで新しい考え方が、人の中に生まれることがあるのを見ているからです。

「知ることはできない」というエポケーと、カオルさんのような「飽くことなき真理探究心」と、
どちらかがXでYでと細かく特定したいわけではありません。

380 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/20 18:58:41
話しは変わりますが、
自分は>>142>>143で、真の立場の「飽くことなき真理探究心」を匠の気質に見て取りました。
しかし、実際にカオルさんのレスを通してみると、職人気質にあるまじき苦しみがあることがわかります。
「存在すること」の価値を知らない限り、他の一切の価値(生命も含めて)は限定的なものになってしまうでしょうから。
ですから、【真】の立場に立つ人は、【何を為すべきか】と【何を為すのか】に苦しむということになります。
価値の不確実性に基づく、【善美:道徳】についての苦悩と【実際性】の苦悩です。これはジレンマというより、二重苦です。

あくまで分裂に拘るのなら、「知りえない苦悩:【真】についての苦悩」と「二重苦」との分裂ということになると思います。
【真】【善美】【実際性】、全部が重みということになります。
自分としては、これで>>274の真ん中の部分が、補強されました。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
以降、キルケゴールの『死に至る病』を中心に、信仰や徳に関する知識について述べられていますが、
これは別スレを一つ、あるいは数個、費やさねば満足できないであろう問題です。
カオルさんも力を入れたんでしょうから、さらっと済ますわけにもいかないでしょう。
迷うところです。

それで、近いうちに「哲学とは何か」についてに一区切りをつけたいと思います。

381 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/20 19:05:46
>>309
! 思い出した。俺には、いじめというか、毒舌に大層な情熱を燃やした時期があった!
確かにあれは、考える力を養うイメージトレーニングや話しを構築する訓練に、もってこいだったかもしれない。

>>316
>ウィトゲンシュタインにしてもショーペンハウアーにしても、歴史に名を残すような
>哲学者はみな経済的安定のもとで思索活動に邁進できました。
>それにくらべてわたしたちのように衣食住を確保するための労働をかかえている
>生活者の思索にさける時間はごくわずかなものです。

当時の紙に向かっての手書きの速度を、我われのWORDに向かっての十指の動きが、凌駕すればいいんです。
でも、情報の殺到によって、かえって文章が混乱を来たすだけだったりして。

>>343
『道徳形而上学原論』って『人倫の形而上学の基礎』とも呼ばれていないですか?
別の本なのかしら?

382 :二プレス:05/02/20 22:11:07
>カオルさん

 「道徳」等々についての考察が盛んですし、リーマルさんがまとめを
仕上げようとしているのにあのふとどき者=永井均の話を蒸し返すのも悪いのですが・・・。

 カントの「統覚」=<ぼく>というのは少し違うと思います。
永井均の<ぼく>は認識論的能力を持っていません。
なぜなら何かを認識したりするなどの能力は他の人(=<非 ぼく>)も持っていますので。

 ハイデガーの存在論的差異と<ぼく>の関係はカントのときよりは少し厄介でしょうが、
ハイデガーは <ぼく> でも 「ぼく」 でも他の人でも<存在>で結び付けてしまうでしょうけど、
永井均は徹底して結び付けられないもの(?)、それがあるがゆえに分かり合えないようなもの、つまり
<違い>=<ぼく>に固執しているので少し違うかなとは思います。当然<存在>に捕らえられているのですが。
それで永井均はこの<違い>=<ぼく>という唯一性が
ほかの<違い>=<ぼく>という唯一性に呼応するのではないかと最終的には述べています。

 どこかで書いてくれていたけど仕事がごたごたしているので
一応さらっと読みましたよという挨拶までという事で。
それと「一体となるべき他者」云々の話はかなり錯綜しています。表現も不適切だったかもしれません。

383 :カオル:05/02/21 01:39:33
>>375
叡智界に住むはずの性善なわたしがこんなにも醜いのはなぜ?
道徳を信じてもいないくせに泡をふく蟹のように喋りつづける教師は
なにかわたしを責めているようだけど
波がやって来たから自分の穴に隠れてしまいました。
波にさらわれて醜いまま死ねるわたしはしあわせです。

やさしくしてもらったのにごめんなさい。




384 :カオル:05/02/21 01:55:12
>>378
>理性的な意識の発生、赤ん坊にもの心が芽生えること、自ずから考え出すこと、俺はここに神秘を見ます。

コトバ、です。
チョムスキーは言語の獲得は先天的な能力(DNAに刻まれた本能)だといっています。
心は、コトバによるカテゴリー記憶が必須だと思います。

それ以外の理性、カントでいう理性の理念が夢見る叡智界や魂の世界からやってくる意識を
わたしは信じないです。

立花隆ゼミ、「言葉という概念」 ─ エマニュエル・ラボリ『かもめの叫び』から
ttp://matsuda.c.u-tokyo.ac.jp/~ctakasi/third/0613.html


385 :カオル:05/02/21 02:17:23
>>380
>ですから、【真】の立場に立つ人は、
>【何を為すべきか】と【何を為すのか】に苦しむということになります。
>価値の不確実性に基づく、【善美:道徳】についての苦悩と
>【実際性】の苦悩です。これはジレンマというより、二重苦です。

わたし自身は「命そのものには価値はない」と思っています。
この考えは、わたしが生きていてもいいための、
そしてもうすでにいっぱい生きてしまっていることの罪から
逃れるために必要なロジックです。

ゆれる波あいにたまたま跳ねたしぶきのようなわたしの命が
ふたたび大洋につながったとき、わたしのコトバはきえてしまったし、
わたしの心もどこかにいってしまった。だけどまた風が吹いたから
わたしはいまここにいます。だから、わたしのコトバはわたしの心、
わたしには心があるから、わたしは生きていてもいいのかもしれない。

わたしの向こう側にはみんながいて、向こう側ではわたしもみんなになります。
わたしの想い出はみんなのことなのに、わたしにはどうしても想い出せない。
でもわたしはみんなとの想い出にささえられて生きているから
みんなのことを思わないことはできないんです。
わたしがわたしとして生きているかぎり、わたしはみんなのことを思います。


386 :カオル:05/02/21 02:21:56

わたしは(思う)気持ちとロジックはひとつなんだと思う。
だってふたつがひとつになったのがわたしですもの。
もしもわたしがわたしでいたいなら
そしてわたしが生きていてもいいためには
わたしにはどうしても道徳が必要です。
なぜなら気持ちにささえられたロジックが道徳だからです。
気持ち─普遍にささえられたロジック─個別が<わたし>だからです。

気持ちとロジックを別々にしてしまうと
道徳は「かんたん」に暴力になってしまいます。
学校の先生とか大人たちが「平気で」ふるうアレです。
ロジックモラルとでも名付けましょうか?(笑)

ロジックに普遍性を求めていたり、ロジックが気持ちよりも普遍的だと
思っている人は、ロジックモラルの暴力をふるう人です。
たくさんの人の幸せのために、まちがえることのない道徳で
ノーマルでない人たちを当然のごとく排除しようとします。
気持ちが欠けているからです。それに触れることができないんです。

でもそれなのにわたしはそれが嫌いです。愛、蠢くそれが嫌いです。


387 :カオル:05/02/21 02:41:25
>>382

永井が、ちがーう!ってキャッキャッいうのはわかっていますよ。(笑)

「統覚」については、時空間を創り出して認識を可能にするために
必然的に要請されてしまう能力としての、です。
認識していることを認識する能力といえばいいでしょうか。

<違い>については、いままでも色々書いているけれど
はじめから一貫して言っているように、まったく理解できてないです。
永井の本はわたしが今まで読んだ本の中でもっとも難解なものでした。
だってまったく理解できないんですから。
で、そのことを理解させてくれるがニップルさんの存在なんです。(笑)

永井が言うように、わからないヤツ(カオル)には永遠にわからない
ということなんじゃないでしょうか?


388 :カオル:05/02/21 03:32:33
>>387

で、そのことを理解させてくれるが  ×
で、そのことを理解させてくれるのが ○

読み直すとひどいレスばかり。ハァ〜
わたしなんかによく付き合ってますよね。
わたしはお付き合いのテクニックとか知らないから
悪口も言うし、反論ばかりだし、あっちでつまづいて、こっちで転んで
…そうそう「BAND-AID」のキズパワーパッドっていうの知ってますか?
これスゴイですよ。簡単なキズならあっという間です。
自然治癒力を高めて直してしまうんです。
細胞がみんなでがんばっているのが目で見えるんですよ。
傷口のところが(傷がひどいほど)白く膨れてくるんです。
リアルでも膝をすりむいてばかりのわたしの必需品になりそうです。
ドジな貴方にもおススメです。もちろんお風呂もOKです!

んじゃ、皆さんおやすみなさい。


389 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/21 23:04:23
>>384
理性的意識の発生を、科学的に観察できる出来事だと言うんですかっ!?
カオルさんは、以下のように言い出すんですか!?
「二、三歳だったあのとき、私のウエルニッケ言語野とかブローカの中枢とかが確かに活動をはじめたの」とか
「それはDNAに刻まれた本能の為せる技で、私は確かにそれに従って、ものを考え出したのだわ」とか、
まるで自分で自分の頭脳を観察してきたような顔で、他人に言うことができるんですか!?

俺はそんな確然としたことは、絶対に言えません。
ただ「こういう思い出があって、こう判断し始めて…」という主観的な出来事を言い得るのみです。
そこから推測されることとして、第二の真実、すなわち意識外の科学的知識との照合がはじまるんでしょう?

でも、科学的知識をいくら頭に詰めこんだって、全く手付かずに残っている真実があります。第一の真実が。
自分の独自のDNAの配列から、言語野の活動、クオリアの仕組みまでを、知識としていくら仕入れたって、
「これが俺の考える仕組みか。じゃあ、それがなぜこの自意識なんだろうか???」という問いは、残るでしょ?

理性的意識の発生の、そういう科学によって答えられない部分があるからこそ、神秘を見ると言うんです。

390 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/21 23:05:28
科学が取り組んでいる生命の発生の秘密といったら、目で観察できる人体の発生に関するものです。
精子と卵子だとか、胎児の成長だとか。
これはこれで神秘だと思いますけど、人体の発生から数年で起こる、理性的意識の発生の神秘も、ちょっとしたものですよ。
哲学によってしか知りえない神秘です。
なんと言っても、トルストイの言う理性の法則とか、論理の無時間性とかいう神秘の啓示を受けるんですから。

つまり、時間や空間によって規定されない世界(叡智界)を知り、その住人になるということです。
例えば、最も真偽の明解なものに数式がありますが、この数式は時間や空間による規定を受けません。
―三月四日の十五時から二十時の間だったら、「1+1=2」は偽になる、とか
―カナダのサスカチュワンにおいては、「1+1=2」は偽になる、とか、
在り得ないでしょう?
真なものは永遠に真だし、偽は永遠に偽です。
そういう法則や性質を持った理性なるものに、丸ごと本体を預けて人間は存在し、それを働かせて生きているんです。
いったん理性と一緒になったら、寝る時間以外、理性と別居することはありません。
人体が死んだって、その人の考えたことの真偽は残ります。消したくても消えません。

391 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/21 23:07:09

このように、時間や空間の規定を受ける物質の世界の中に、そうでない生命がいるんです。理性的な生命がです。
これは大変なことだ。最高に価値のあることか、最悪の価値のあることかのどちらかです、まったく。

それなのに、「叡智界叡智界」と散々言ってきたハルカさんに対して>>308で「ほとんど信じる」と言い、
>>384では、叡智界を「信じない」とか言うんですから、ちょっと鼻息が荒くなってしまいましたっ。
でも、『かもめの叫び』やヘレン・ケラーのエピソードは、勉強になりました。

392 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/21 23:40:52
>>382 ニプレスさん
もう笑えなくなりました…。Limahlというのはリマールと読むんですっ!
リーマルだったら、「11-0」の呼び方みたいじゃないですか。
プロ野球の試合で11対0の結果だったとき、記者たちが「今日の試合はリーマルだった」って話し合っているみたいな…。
「リ」が「11」じゃー、ちょっと遠いか…。

>>388
「ためしてガッテン」か「伊藤家の食卓」で知ったんですけど、
傷口を湿らせて、サランラップを貼りつけると効果があるんだとか。
絆創膏の、乾いた状態の自然治癒では、細胞もやりにくいんですって。
透明だから、観察することもできます。

393 :カオル:05/02/22 01:35:29

困ったなぁ
まあカントでさえ迷い込んじゃった道ですから
仕方ないのかもしれないけれど

でもそういうこと言い出すなら
宗教の方が一枚も二枚も座布団が多いわけで
もとい!、一枚も二枚も上手なわけで ギャハハ(オヤジギャグ炸裂!)

迷える小羊としては、ハルカの言は信じるものなのだし
哲学徒としては、切り捨てるべきものなのだし
人としてはバランスをとるということなのでしょうけれど
人間できてないですもん

わたしが書いてることの半分かそれ以上は
だまっていてもリマールさんの世界、昨日のレスのようにね
けっきょくおなじことしか言えてないのよね。
いえ、わたしもですが哲学者が

昨日のレスなんか、まとまってないけどオリジナルだし
けっこうイケテル発想なんだよね(自画自賛)
生物学的にも説明できる可能性のある考え方ですし



394 :カオル:05/02/22 01:48:41

そういえば、わたしはこの頃オリジナルなこと
あんまり書かなくなったような気がします
分割議論とか規制議論とかの影響かな?

オリジナルのことをMy哲学とかいうらしく
文献研究をされているような方々からは
毛嫌いされるんですよね

でもほんとうはレスが帰ってこないことが
原因かもしれません。
やっぱり哲学は自分一人のものなのかな


395 :カオル:05/02/22 02:01:48

カントの統覚やモノ自体
ハイデガーの存在
ニーチェの生成(力への意志)や永遠回帰

たしかにみんな超越論的もしくは超越的ことがら
こんなもの説明できるわけないのに
その実在を前提してくどくどと

そう実在を前提しての議論
これが哲学の限界なのかも
宗教は実在なんか前提してないもんね

すごいといえばすごいけど
バカっぽいといえばそれまでだし
宗教にはまって自我が謙虚になって
わたしの人生のジャマをしないように
みんながなってくれるんならいいけど
逆だし、ギャグみたいに人格が変わったりして


396 :カオル:05/02/22 02:21:40

>これが俺の考える仕組みか。じゃあ、それがなぜこの自意識なんだろうか???

茂木健一郎personal page
ttp://www.qualia-manifesto.com/kenmogi.html

わたしは今のところこの人の理論で満足してます。
で、きっとこの人の理論を読んで
それを仮説として、かりに受け入れたとしても

それがなぜこの自意識なんだろうか?

と、言えてしまうのがリマールさんだったり
あのお坊ちゃん先生の<ぼく>だったり、なのかな?
あっそうか、ニップルさんもおなじなんだから
…まぁいいけど

リマールさんに永井のあの本を読んでみてもらいたいです。
独我論のところだけなら、立ち読み可能だし
で、さらに茂木さんの本とか読んでどうなるのか、知りたいです


397 :カオル:05/02/22 02:23:58
やっぱりいいです
こんなにうざいことないもんね
ごめんなさい

398 :カオル:05/02/22 02:30:15

>「それはDNAに刻まれた本能の為せる技で、私は確かにそれに従って、ものを考え出したのだわ」とか、
>まるで自分で自分の頭脳を観察してきたような顔で、他人に言うことができるんですか!?

正しいのかどうかの検証はこれからのことです。仮説ですから。
ただわたしには一番スッキリくるシナリオですね。


399 :カオル:05/02/22 02:36:25

1+1=2、こんなのたんなる取り決めですって(笑)

神さまだって、ほとんどは取り決めだし

神は至高の存在である
神は存在そのものである

ここからはじまるんだから
そこからはじめるという取り決め
でもわたしにはぜんぜん関係ない取り決め
だから否定神学というのもありますけどね。(笑)




400 :カオル:05/02/22 02:50:07

たとえば、神さまが

「われは、あるものである」っていったら、=存在のことだし

「われは、ありてあらしめるもの」っていったら、※力への意志だし

※ 「生成に存在の性格を刻印すること、──これが力への意志の極致である」

ニーチェは偶像としての神さまというか、概念としての神さまは認めなかったから
超人とかいう、なんですか?これ、みたいなものを幻想するしかなかったのよね

そもそも神さまをあれほど否定するっていうのはそれだけこだわってる証拠だし
自信のない男の子が好きな女の子いじめるみたいな(笑) これもルサンチマン?



401 :カオル:05/02/22 02:57:53

人は見えない相手を見ようと欲しないままに愛することができないんです

愛せるのは偶像でしかないんです

妄想であってもなくても、存在するか/したか、でないと相手にしないんです

冷たいですね。(笑)


402 :カオル:05/02/22 03:15:30

祈れる神さまは存在する神さまだからなんだかウソっぽいけど
もしいたとしても、みんながあんまりにも理想化してしまっているから
はずかしくて出てこれないんですよ たぶん

神さまにかんしては、こっちからじーっと見たら逆効果です
でもどこかでわたしたちを見守ってくれているのがほんとうなら
ある日背中にヘンな視線を感じたりして気づくかもしれませんね
この気づき方ならおそらく神さま的にはgoodじゃないのかな?
わたし的にはストーカーされてるみたいでイヤだけどね アハハ


403 :カオル:05/02/22 03:40:02
>リマールさん

わたしが日々一貫していない虚言をばらまくのは仕方ないことです
過去と現在と未来の整合性を保つなんていう離れ業はできないです
そんなことができるくらいなら、とっくにふつうの人になってますって

リマールさんの意見に反論したって
べつに反論してるだけですから、たいした意味なんてないです
リマールさんの意見に同意できたり同意できなかったりが
わたしのなかではふつうに両立していますから

でも意見Aが意見Aであるためには
とりあえずどちらかに決めて意見Aとして提出します
今日は反論、明日は激しく同意でもいいわけです

同意しながら反論するってむずかしいんですよ。
できるんでしょうけど性に合わないというか
わたし的にはそういうやり方は相手のかたを
馬鹿にしてるような調子のいいやり方なんです
うまくやって、もらえるものだけもらっておこう、みたいな

なんとなく嫌われたくなくて言訳しましたけど
べつに嫌われてもいいんだけど、こういうのも卑怯なやり方ですね

もう寝ないと

404 :考える名無しさん:05/02/22 19:07:05
>>383

悪かった。
おいらは、事情があって(時間の都合上)、議論することが
できない状況にあったから、うまく逃げたつもりだったんだけど、
どうも巧く騙せなかったみたいだ。まあ当たり前かな。

>やさしくしてもらったのにごめんなさい。

別に好きでやったことだから構わない。
おいらもやさしくしたつもりもない。
それより君の議論のやる気を削いでしまったようで、少し心苦しいかも。

まあ議論と言っても、ただ言葉を交わす、
それすら時間をとるひまがなかったことを分かって欲しかった。
今、まともにレスできないこの状態が、あと2、3日くらい続くから、
それまでは観戦したいと思う。いちおうじーっときみのレスを注意深く
見させてもらっているから、いちおう覚悟しておくよーに。
こっちも、馬鹿にされてさ、はいそうですかぁと引き下がれるほど
器用な性格をしている訳ではないのだ。(とりあえず今いろいろ準備している最中。)
だから、それまではきみも、力の限り考え抜いたレスをしてくれないか。
おいらは、きみのオリジナルのmy哲学(きみのレスは全て参考になる)、
あるいは君の形而上学的考察(>>290-292のような)と
向き合いたいのである。



405 :考える名無しさん:05/02/22 19:07:57
(つづき)

それから道徳(論?)の続きの議論もお願いしたい。
まあ、お願いと言うからには、おいらもへりくだる必要があっての
ことなのだが、なぜおいらはへりくだるのかというと、
おいらには君の言われたとおりの、その道徳そのものがない。
まあ、すでにそれは君にもわかりきっているかとは思うけど。
で、ないから、おいらは今必死に自分の考える普遍性のある
(つまり哲学的な)道徳を作ろうと考えている。
しかし何からはじめていいのかさっぱり分からない。
(とりあえずカントをまた読み返している)
だから、そのためにカオルの道徳をおいらは勉強したいと思っている。
だからへりくだっている訳だな。(この理屈を理解してくれますか?)
君がどんな風に道徳について考えているのかもっと知りたい。


406 :考える名無しさん:05/02/22 19:08:58
(つづき)

それと、もし可能だったら、別スレで討議できればいいんだけどな。
ここじゃ話が流れるんでおいらはイヤ。
きみにとっては、ここがいいのかもしれないけど、
おいらには、ここは居心地がわるいのである。
まあ、無理だったらいい。ここじゃなきゃ駄目ならしょうがないし。
しかしそれ以前に、おいらのレスがウザーならいいや。
これでも寝る間も惜しんだレス。(君ほどじゃないけれども)
おいらにもしっかり考える時間が必要なのだということも、
つまり事実だということ。

これはまさに、きみが>>316で言った
>おそらく書き込む本人はしっかりと考えて書き込みたいはずなんです。
>もちろんそれは書きこむ内容の学的な厳密さや程度をもとめるからではなくて
>その人がどれだけ真剣に議論の内容に取り組めるかの問題なのです。
>けれども現実にはこの真剣さを注ぎ込むための時間がどうしても必要です。
のような気持ちなんだ。(勝手にきみのコトバを利用して悪いね)
よろしくたのむ。

んじゃ。


407 :カオル:05/02/23 02:03:17
>名無しさんへ

行き違いがあるようですよ。
>>383のレスはカント先生への批判ですよ。(笑)
あなたにたいしては申し訳なくは思ってはいても
馬鹿にしたり責めるような気持ちはありません。


408 :カオル:05/02/23 02:07:30

道徳について

いままでわたしの道徳についての議論は
けっして形而上学的なものではありませんでした。
おもに現実問題にたいしてのスタンスの取り方についてが
発言のほとんどを占めていました。
いわゆる世間の良識にしたがった発言でしかないです。
それをわたしがいうことの不道徳は否めませんけれど。(^_^;)


409 :カオル:05/02/23 02:12:10

>力の限り考え抜いたレスをしてくれないか。

道徳について、このような作業をすることは
わたしにとっては、あまりにも無意味なことです。

そのイジメからその子を助ける。
わたしのいう道徳はそれだけのことです。
それにたいしてなにかとってつけたようなことをいうのは
あまり好きではありません。
哲学徒としては失格なのでしょうけれど。


410 :カオル:05/02/23 02:57:30

マイ哲学について

わたしの書くマイ哲学はすべてが妄想です。
すでにお分かりのように先日書いた385,386ようなものも
個人的な神秘体験をもとにした妄想の産物でしかないです。
あなたが形而上学的考察とおっしゃっているものも同様です。
ニーチェの永遠回帰の思想がデジャビュにもとづいたものなのは
有名ですが、そのような妄想はわたしが昨日書いた神さまのような
ものなのをご承知で議論をされようとしているのでしょうか?

今ココでされている議論の核心は、まさにそのような哲学の
無意味さについてなんです。
もちろん核心に短絡にさしせまるようなバカはしてませんが。


411 :カオル:05/02/23 03:01:56

哲学の実際性とか有用性とか実践とか他者とのかかわりとか…
わたしは、このようなことを単純に言葉で言い表すことはできない
と思っているので、そのような問題設定の枠にとらわれることなく
議論することで、むしろさまざまな人たちの哲学にたいする
取り組み方や哲学との対話を、その実践の様のなかから示せる
のではないかと期待していたんです。

こうやってバラしちゃったら怒られてしまうことなのかもしれないけど
今までのような「哲学とは何か」は越えたいと密かに企んでいたんです。
ですが、そもそものスレ主のリマールさんも区切りをつけたいと
おっしゃっていますし、ニップルさんの期待にも応えられそうもないので
もういいかな、という気持ちです。


412 :カオル:05/02/23 03:41:47

>別スレで討議できればいいんだけどな。

もちろん可能ですけど

>ここは居心地がわるいのである。

と言われてしまうと、引っ掛かってしまいます。
どうしてですか?

もちろん好き嫌いはあって当然ですけれど
わたしも苦手な人はたくさんいますしね。
あなたもその一人なのかもしれません。(^_^;)
わたしはおもに社会人としか話さないけれど
それも社会人としてはほとんど息も絶え絶えの人たちとしか。(苦笑)
そういう限界状況を感じられない人との対話は退屈ですから。
わたしにとっての議論の内容というのはそこにあるわけですしね。

もしあなたがそういう意味での居心地の悪さを感じていらっしゃるなら
議論するのは不適当なのかなって思います。
世界の限界のちがうもの同志が話し合うのはむずかしいことです。
とくに道徳については相容れないものがあると思います。
たとえお互いの意見がうりふたつのようにおなじであったとしても
そこにふたりをつなぐ絆はまったくないんだと思います。


413 :カオル:05/02/23 03:56:04

あなたにはあなたにふさわしい人がたくさんいると思います。
それがこの哲板のすばらしさでもあるんですから。
わたしとの議論が有意義なものとなるようには思いませんけれど
それでもなお議論がお望みなら、スレの指定とカキコをお願いします。

今は睡眠を2時間にして哲板に書き込んでいますけど
これからはそれも仕事に費やすようになってしまいます。
つまりわたしもそろそろ来れなくなると思います。
上からわたしのカキコを追ってもらうとわかりますが
そういう感じになってしまうと思います。

忘れた頃のレスでもいいならよろしくお願いします。


414 :カオル:05/02/23 04:16:55
>名無しさん

ずぶん失礼なことをたくさん言いました。
でも、
>ここは居心地がわるいのである。
を看過するのはむずかしいです。

これは議論以前のわたしの気持ちに引っ掛かります。
あなたの道徳とわたしの道徳のちがいが
すでに現れているように思われます。

居心地の悪いこのスレの住人と
あなたの居心地の良いスレの住人のちがいを
考察するだけでも、十分にわたしの道徳を考えることに
なると思いますよ。

わたし自身それは言語によって説明することではなくて
いまだに好き嫌いの次元でのことなんですから。
それについてあなたの教師になるなんてできないんですよ。

あなたをたくさん傷つけているかもしれないです。
ごめんなさい。m(__)m

毎日お仕事ご苦労様です。では、おやすみなさい。


415 :カオル:05/02/23 04:25:26

>ここじゃ話が流れるんでおいらはイヤ。

を、わたしはほとんど信じていません。

416 :考える名無しさん:05/02/23 19:27:37
>カオルへ

>>407(行き違いについて)

おいらは道徳や倫理についてはカントのその本しか知らない。
だからおいらを馬鹿にしたり責めるつもりがなくても、
おいらは、とりあえずそんな(おいらのことを言われている)気がしたし
ちょっと嫌な気分だった。

たぶんおいらのやり方が卑怯だって言いたかったんじゃないかなと。
下の意見もあった。
>わたし的にはそういうやり方は相手のかたを
>馬鹿にしてるような調子のいいやり方なんです
>うまくやって、もらえるものだけもらっておこう、みたいな
って言われてる気がしたんだ。
きみのつもり(気持ち)がどうかはともかくとしてね。
いや責めたくて言っているんじゃない。
むしろそうしてくれた方が、おいらも討議がやりやすいだろうし、
だからカントに対してっていわれて拍子抜けしたというか。
どうしていいかわかんなくなった。というわけだから

>あなたをたくさん傷つけているかもしれないです。
>ごめんなさい。m(__)m

というのは心配無用である。
きみの考えすぎだ。


417 :考える名無しさん:05/02/23 19:28:09
(つづき)

前にも言ったけど、おいらには道徳はない。
それは道徳そのものがないとかじゃなくて、
本当に道徳そのものについて考えたことがないから、ないと言った。
ただあると思うじゃ、それは“在る”ことの証明にはならないという
理由からそう思った。

善いことと、悪いことは、「そのとき」あるいは「それ自体」でしかない
と思って(頭で分かっていた)から、“それ”について考えたこと、
また“考えること自体”について、真剣に考えたことがおいらはなかった。
ほら、なんでもさ、“それ”について考えるべきかどうか、を考える時が
一番判断に苦しんでて、考えることについて考えることをやめたら、
一瞬にして迷いなく思考の世界に入り込める。
おいらは、昨日、道徳について考えるべきかを一生懸命考えた。
道徳それ自体について実際性を書いた思考は無意味チックなのは、
おいらも知っているし、道徳の議論も内容があるとは思えない、思いにくい。
「倫理は超越論的である」だったよな。つまり倫理は正当性という根拠を
示すことができないということ。

でもおいらはおいらの倫理や道徳観を見ることができる。
あるいはだれかの倫理や道徳も見て判断することができる。
この「おいら」と「だれか」の見ることの違いはあるだろうか? 
おいらにはないように見える。自分がされたらいやなことは
他人もいや。つまりこれは、倫理や道徳の普遍性の可能性を
示すものじゃないか? と考えることは可能。
語る前から、語れないと言うことはおいらにはできなかった。
つまり語ることができそうな気がしたんだということだ。
だから無意味かもしれないと思っていても、語る価値はあると思う。


418 :考える名無しさん:05/02/23 19:29:23
(つづき)

とりあえずここまで。
考える時間があまりなくて全てにレスしてないと思うから、残りは後日。
それと、おつかれさま。それじゃ。


419 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/23 23:33:44
>>393>>403
読みました。
心脳問題は、最新で最奥の知識を扱う、そこから哲学を真っ二つに裂くことのできる、最先端の問題だと思います。
この問題は、読む人を戦場に導きます。人の感情が簡単に煽られます。それで、そういう発言が俺にあったのを認めます。

クオリアついては、噂程度だったら何度も目にしました。聞きかじりのそのまた聞きかじりです。

>で、さらに茂木さんの本とか読んでどうなるのか、知りたいです
クオリア・マニフェストと本の要約を読みましたが、どうなったかって言ったら、
こってこての田舎者が都会に出たばかりのときに抱くであろう不安や劣等感を感じました。
地元の高校では立派なお洒落さんのつもりだったのが、都会では方言丸出しという人間を想像してみてください。

420 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/23 23:35:12
本当に熱意ある学者さんは、人生哲学に手を出さないと思います。
けれどこの板の人生哲学において、クオリアから導き出される唯物論的な考え方に従う傾向が、弱冠見受けられます。
彼らは、人生を人体の生存と見、人間の生命を認めません。
そういう考え方をする人と知恵比べをしたときのことをよく考えます。

「人間の頭のなかはみな物質なのは認めるけど、この対話は物質同士の対話じゃないよね」
と相手に完全にわかってもらうだけの文句を探しています。
最先端の知識を受けた上での、です。

ですからたいへん勉強になりました。永井氏の本もレビューと感想を読んでみました。
子どもの哲学と青年の哲学という区分け方は、自分の哲学観のいい肥やしにできると思いました。
勉強、勉強!

421 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/24 00:29:01

>>417 名無しさん
どこででもいいから、大いに議論すべきだと思います。
不測の事態によって議論が適わなくなって、一人になっても、大いに考えてみるべきだと思います。
というのは、道徳に関する形而上学が構築されていないと、
その人の道徳の実践も常に覚束ないものになってしまうと思うからです。
骨格が備わっていない道徳的行動は、周りをも本人をも惑わせるし、
結果、両者の道徳の根本的な断念につながりかねないということです。

超越論的であれど、進むべき手がかりはいくつも準備されてあると思います。
キルケゴールの信仰、カントの定言的命法や準則とそれに対する尊敬、
トルストイの理性的意識による動物的個我の従属と、愛の感情の発露、
仏教的発心、ギリシアやヘレニズムの最古の哲学…etc
そこから派生して、現代感覚での倫理道徳観の個々人の照らし合わせ。

まいにち道徳的にどうしていいのか判らなくて途方に暮れているのであれば、それが良い機会だと思います。

422 :カオル:05/02/24 01:49:37
>>416
>ちょっと嫌な気分だった。

ホントにごめんなさい。


423 :カオル:05/02/24 03:03:02
>>417
>だから無意味かもしれないと思っていても、語る価値はあると思う。

みずからを地獄に閉じ込め、憎しみしか表現することのできない
その瞳のなかに、いったいわたしのなにを映せというのでしょうか。
わたしはその憎しみに、どんな道徳で応えれば良いのでしょうか。

今ここに存在していること、このからだ、この心の存在感への
たえられない吐き気に、道徳はかかわることさえゆるされない。

道徳にできることといったら
死にたい・・・
と、つぶやいて死んでしまう人間を道徳的に責めることくらいです。

道徳のために、離人症にもなれず、人格分裂もおこせなかった彼を
最後まで、世界とわたしたちとのつながりを守ろうとした彼を
世界は、わたしたちは、そして道徳は、苦しめ続けた挙げ句、殺すのです。

わたしに道徳への憎しみしかないのだとしても
わたしは生きているかぎり、その道徳に守られています。
道徳は、関係としてのわたしのことです。

わたしが言葉を持ち、あなたによってわたしでいられるのなら
わたしは、道徳を、そしてあなたを否定することはできないのです。
なぜなら、それはわたしがみずからの存在原理を否定することになるからです。


424 :カオル:05/02/24 03:22:14

↑こういう欺瞞に満ちた発言ならいくらでもできます。

わたしの発言のどこかに道徳をみつけることができましたか。
それともどこかに隠れていて出てこないのが道徳なのでしょうか。
いえ、どこにもありはしないのです。
どんな言語のなかにも、どんな論理のなかにも存在しないのです。
わたしはなにひとつ行為を示していないのですからどこにもないのです。


425 :カオル:05/02/24 03:24:41
>>418
>それと、おつかれさま。それじゃ。

あなたもあんまり無理はしないでくださいね。


426 :カオル:05/02/24 03:29:38
>>419 リマールさん
>こってこての田舎者が都会に出たばかりのときに抱くであろう不安や劣等感を感じました。
>地元の高校では立派なお洒落さんのつもりだったのが、都会では方言丸出しという人間を想像してみてください。

わざわざ読んでもらって、恐縮でございます。(笑)
わたしとしたことが、まったく意表を突かれてしまいました。大笑いしました。


427 :カオル:05/02/24 03:51:56
>>420 リマールさん
>「人間の頭のなかはみな物質なのは認めるけど、この対話は物質同士の対話じゃないよね」
>と相手に完全にわかってもらうだけの文句を探しています。
>最先端の知識を受けた上での、です。

唯物論的な還元主義にしたがうなら

つまり、なんでも素粒子なんだろ?

ということですから、カラッポになるには最適なんですけどね。(笑)

でもこういう物理主義的な世界観を否定するのはむずかしいですね。
わたしたちにできるのは、べつの世界観を提示してみせることくらいです。
つまり「世界とは何か?」を問わないといけないし
心の存在を主張したいなら、心の世界を定義しないとならないですね。
たとえば、無の世界、物質の世界、生命の世界、心の世界、神の世界
のように世界を多元化させることで、物質と生命を断絶させるとか…ね。


428 :カオル:05/02/24 04:02:46

>ですからたいへん勉強になりました。永井氏の本もレビューと感想を読んでみました。
>子どもの哲学と青年の哲学という区分け方は、自分の哲学観のいい肥やしにできると思いました。
>勉強、勉強!

勉強になったんならヨカッタです。すこし安心。
わたしの方は永井の戯言にどこまで付き合うか検討中です。
田舎の秀才は秀才臭さが消せないんですよね。
それだけが頼りなのはわかるけど本読むの辛いのよね。


429 :カオル:05/02/24 04:31:23

>けれどこの板の人生哲学において、
>クオリアから導き出される唯物論的な考え方に従う傾向が、弱冠見受けられます。
>彼らは、人生を人体の生存と見、人間の生命を認めません。
>そういう考え方をする人と知恵比べをしたときのことをよく考えます。 >>420

ちなみにわたしは、そういう傾向の方と話すときは
そうでない傾向のわたしになって話すんですよ。(ポリシー皆無w)

唯物論的な考え方って人間性を無視しているとかいわれるけれど
ある面ではとても平等なんですよね。
たとえばわたしの「人間がだけが特別なんです説」とかと比べれば。(笑)

知恵比べは、頭の良い人が勝つんですよ。
頭の良い人の議論は、たいてい勝敗が目的ですからね。
そういう人を論破したり、イライラさせたりするのは楽しいですけど(^_^;)
時間のムダというか、人生のムダづかいだと思います。

じゃそろそろ寝ます。おやすみなさい。


430 :カオル:05/02/24 04:45:17

あーそうそう、言い忘れ。
道徳の話しね、リマールさんと名無しさんが議論したらって思った。
ぜったいにその方がいいと思う。

別のパターンがあるとしたら、お二人にわたしが虐められるやつ。
でもこれはやっぱり道徳的に許されないことだからw、どうします?


431 :考える名無しさん:05/02/24 16:34:44
>カオルへ

どうやら完全においらのレスが流されたようだね。
邪魔されずにきみと議論したいと言ったのに邪魔された。
なぜか一日、日付を超すとおいらがリマールと議論するべきことになっている。
しかしそれでもおいらは構わない(気にしない)。
きみの言うとおりにしてみようと思う。せっかくだし。


432 :考える名無しさん:05/02/24 16:36:46
リマールへ。

>>421
参考になるレスをありがとう。話題が少しでも広がったのかな。
ちなみに>>381は不可解だったからスルーさせてもらった。
とりあえず今答えておくけど
>『道徳形而上学原論』って『人倫の形而上学の基礎』とも呼ばれていないですか?
>別の本なのかしら?

これは自分で調べたらどうかな?
おいらはきみの辞書じゃない。意味不明なことは極力、聞かないように。
それで、わかったら教えてください。

>カントの定言的命法や準則とそれに対する尊敬、

これは具体的にどういう意味なのか?
まず質問。『準則』って何? 
カントのどこにのっている概念かな?(それともフッサール?) それ以外?

あと、「それに対する尊敬」については、用法自体がちょっと違うと思う。
“それ”の尊敬ってありえないから。尊敬という概念がありうる場合と
いうのは理性的存在者“人格”のみじゃないだろうか。
文法的に“それ”は【物件】であって【人格】ではないね。

あるいは、きみのこの文脈ではカントを尊敬せよと言っているようにも見えるし、
また、存在が人格化されたところのものの“神”について言っているようにもいちおうみえた。
しかし、いわゆる“それ”であるところのその“存在者”はカントの“文脈”には実際は見受け
られないんだ。できればきみの知っているカントの概念についてもう少し
詳しく述べてくれないだろうか。まあ、それ以外の得意分野でも構わない。
きみに専門分野はあるかい? おいらはそれに付き合えたらと思う。


433 :考える名無しさん:05/02/24 16:40:20
>これは自分で調べたらどうかな?
>おいらはきみの辞書じゃない。意味不明なことは極力、聞かないように。
>それで、わかったら教えてください。
とりあえずこれを補足するね。
ああいういう脈絡のない質問を相手にするのは
相手を馬鹿にしていると考えて相応しいんだ。あれは何が言いたかったの?


434 :考える名無しさん:05/02/24 16:41:05
(つづき)

>不測の事態によって議論が適わなくなって、一人になっても、大いに考えてみるべきだと思います。

人は一人で考えることはできない。
相手が、どう思うか、どう思われるかにおいて思考し、錯誤し、物事を具体化し
それから発言しうるところに、考えるところの展開性が生じる。

きみがおいらのレスを見て、それから考えるように、それがつまり“考える”ということなんだ。
考えることは一人じゃできないんだよ。それから言っておくけど不測の事態を防ぐことが一番
大事な“考えること”。


>まいにち道徳的にどうしていいのか判らなくて途方に暮れているのであれば、それが良い機会だと思います。

おいらのレスを読んでないのかな。どうしておいらが“途方に暮れている”と思ったのだろう。
おいらが“毎日” “道徳的にどうしていいかわからない”なんて絶対、読めないはずなんだけど、
どこをどう読んだらそう受け取れるのか?
おいらは、カオルのレスを受けて“それから”“そこで”道徳について
はじめて考えたと既に述べていたのだし(>>417参照)、
またカントの本を読んで道徳を知った(>>343参照)、
そしてそれ以外の道徳論を知らないと言ったんだ。(>>416参照)

それともきみにも、そういう時期があったからおいらもそうなるだろうと
勝手に判断してしまったと言うことなのかな。



435 :考える名無しさん:05/02/24 16:42:31
(つづき)

いちおう前もって言っておくけどおいらはきみをいやな気分にさせたい訳じゃないんだ。
わかって欲しいことがあるからレスしたのだと言うこと。
きみにそのつもりがないのなら、きみのあの言葉は余計なのだということを
言いたいんだよ。それについて形而上学的に説明する。

まずこのような意見をしない態度のことを「判断保留(エポケー)」って言うんだと
いうことを、実際に知って欲しい。知らないことは一切判断してはいけないんだ。
この、おいらが言わんとするところというのは、「〜であれば」と臆見(ドクサ)を意見に
交えてはならないということであるし、また、「〜であれば〜するべき」とカントの
仮言的命法的に会話してしまってはいけないということだ。
つまりこれは一つ上のレスで示されるがごとく
きみが指導しうるところの【理性の構成概念(理念)】が欠けているということ。


おいらの勝手な判断を言わせてもらうなら、さっきも言ったように一人でする
ところの哲学、つまり黙考し、読書でえるところの道徳は、道徳でもないし
ましてや倫理でもない。とりあえずそれを考えてほしい。


436 :考える名無しさん:05/02/24 16:43:27
(つづき)

そして次は、おいらの考察。眠かったら読まなくてもいい。

>>379
>一般に、こういう態度を【エポケー】(判断保留)と言うそうであります。(ちっと違うか…?)

全然違う気がする。

エポケーは限界においてかいま見る神秘そのものを否定するものだ。…@
なぜなら、神秘は強制的に人を判断させるところのものだからだ。  …A

@とAこれよって、神秘を肯定することの中に判断停止が含まれることはない。

なぜなら、その二つ(神秘と判断)は対置するからだ。
その神秘に接する一歩手前で立ち止まることがエポケーの概念だよ。
よって、>>378の意見はまったく、おかしな意見だと言うこと。
フッサールは「存在そのもの(神秘)」に立ち戻れと言ったのではなく
「事象そのものへ」と言ったんだ。事象に神秘があるはずがない。
入る余地は全くないはずだ。違う?



437 :考える名無しさん:05/02/24 16:44:55
(つづき)

また関係ないことを一言。
フッサールの現象学がデカルトから起源を求めるように、
そのフッサールの用語であるエポケーは「我思う」ところからそれは始まる。


   Cogito ergo sum

   コギト・エルゴ・スム 

 思考する 故に 存在する。


まあ、いちおう前もって言っておくけど、これは「我について思うこと」じゃない(笑)。
まだわからなければ、「我(は)思う」であって「我(を)思う」ではないと言おうか。
つまり述語が主語を包摂するとはこのこと。

実際にこの語源のラテン語は動詞に主語が含まれる構造となっていて、
cogito 及び sum は一人称単数形の動詞活用である。
これを完全にわかってない人が案外多いのだ。
おそらくデカルトの我を自我やエゴと勘違いしているんだろう。
まあこれはきみに言っているわけではないよ、たんなるおいらの知識だから念のため。
我が思うところ、つまりおいらが思考するところのそこに、
おいらが存在する理由はあると言うことを、デカルトは言いたいわけだ。
そしてこれは文法的には自省を意味する。言い替えれば、思うところのわたしに
“立ち返ること(戻る)”をコギトエルゴスムという文法は示すのだね。



438 :考える名無しさん:05/02/24 16:46:04
(つづき)

そして結論からおいらの考えを言わせてもらえれば、
エポケーとは徹底的に考え抜くことなんだ。

これについて最後に説明しようと思う。
cogito の正確な意味は「思う」よりも、「思考する、考える(think)」の方が
ラテン語としても妥当。それを「思う」と、『喜怒哀楽』の感情的に訳されて
しまったのは、訳して大きな間違いであると思う。(見た目は小さな間違いだけど)
私見だがこれはおそらく仏教や禅の思想が混入したところに因るところが
大きいだろうとおいらには思われるんだ。

いちおう確認しておくけど、思考することをやめて、
どうやって知ることができるというのか? 
きみはそれについていちどでも考えてみたかい?


439 :考える名無しさん:05/02/24 16:46:35
(つづき)

以上(6レス)を踏まえて、おいらの主張を整理する。
互いが相乗しうるところの議論(考えあう場)ていうものは“存在”する。
それは、批判しあうだけ、また啓蒙しあうだけの議論をつまり超越するものだ。
多少おいらの文が読みづらいかもしれないのかもしれない。
しかしそれでもきみにわかるように、わかりやすく若干おもしろく書いたつもりだ。
以上。いきなりのレスにきみが驚かれたらそれはすまない。


440 :考える名無しさん:05/02/24 16:48:39
>カオルへ

まあこんな感じできみに言われて、リマールへの議論のためのレスを書いてみた。
で、これがなかったら、たぶんおいらのレスはリマールのレスに流されていただろうね。
実際このスレを開くまで、おいらはずっと仕事の合間合間に何を書こうか考えていたんだ。
それがあけた瞬間綺麗に吹っ飛んでしまった。
おいらは、せっかく真剣に書いている。だから他の人間に邪魔されたくない、
というのが変わらないおいらの気持ち。

しかしこのようにリマールと議論すること、
彼のレスを吟味して考え抜くことは面白いよ。
これだって、そう悪いものではないとおいらは思う。
まあこのレスをするのだってかなり時間はかかったけどね。
きみに言われなければ彼と議論しようとも思わなかったしね。

しかし道徳的ではなかったかな。
彼との議論において道徳の知識しか提出できていない。
たぶん道徳についての議論は、おいらは、きみとしかできないと思う。
きみが判断しうるところのものしか、おいらは考えることができないようだ。
とりあえず以上。でもまだおいらはきみの質問に充分に答えられていないと感じるけど)

それと本来であれば、おいらが誰と議論するべきかを決めるのは
おいらが決めるべきことのはずだというのはおいらは知っている。
それをあえてきみの意見に従ってみた。一瞬面白そうだと思ったのでね。
そんな感じかな。 んじゃ。



441 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/25 01:46:56
>>432
>>『道徳形而上学原論』って『人倫の形而上学の基礎』とも呼ばれていないですか?
>>別の本なのかしら?
>これは自分で調べたらどうかな?
>おいらはきみの辞書じゃない。意味不明なことは極力、聞かないように。
>それで、わかったら教えてください。

これは、
「六十億の人間同士の日々の雑多な出会いのチャンスのなかで、私Limahlはあなたにご縁を感じています」
という印としてレスしました。
コミュニケーションの最初の一歩であることを重点にしたレスでした。
それで、この本は同じ原本を指す異名みたいでした。
俺とあなたの最初の縁をつまづかせたので、名前を別々にした人共々に拳骨を喰らわせてやりたいです。
まったく、紛らわしいんだから。

442 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/25 01:49:01
>>432
>カントの定言的命法や準則とそれに対する尊敬
『人倫の形而上学の基礎』の第一章の一部を抜粋します。

(引用開始)
「真の道徳的価値は、行為の目的や主観的欲望、感情からは生まれず、義務と諸原則から生まれる」
「義務に基づく行為は、その道徳的価値を行為によって実現されるはずの意図においてではなく、
 それに従って行為が決意される準則の中に持つ」
「義務とは、法則に対する尊敬に基づく行為の必然性である」
…というわけで義務に基づく行為は、欲求の影響を、従ってそれとともに意志の全ての対象を、全く顧慮の外に置くべきであり、
こうなると意志を決定し得るものとして残っているものは、
客観的には【法則】だけ、主観的にはこの実践的法則に対する【純粋な尊敬】だけである。
それゆえ、あらゆる私の欲求を断絶してさえも、このような法則に服従しようとする【準則】だけである。
(引用終わり)


それから「第二章 世間的人倫の哲学から形而上学への移行」に定言的命法のことが載っています。

(引用開始)
そこで定言的命法はただ一つであり、次のようなものである。
「それが普遍的法則となることを、それによって君が同時に欲し得るような準則に従ってのみ行為しなさい」
…義務の普遍的命法は、次のように言い表すこともできよう。
「君の行為の準則が君の意志によって、あたかも普遍的自然法則となるであろうように行為しなさい」
(引用終わり)


カントは晦渋な文章が苦手で、得意分野というか、自分が道徳について形而上学的にも感化を受けたのは、
トルストイの『人生論』です。

443 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/25 02:34:20
>>434の上半分について
不覚でした。

>>434の下半分について
>>417 おいらは、昨日、道徳について考えるべきかを一生懸命考えた。
これが重く響きました。道徳を考えるかについて一日中迷うということは、
・これまでの人生の道徳観があらかた瓦解した、よって現在と過去の(考え得る毎日の)道徳があやふやになった、
・明日からの道徳がハッキリしない、
・新たに構築しなおすか、それは困難なので、瓦解したままでも何とか生活を続けるか、迷っている
…のかしら、と身勝手にも考えました。それが、余計な言葉を引き出したのは確かです。

ある個人Aさんの道徳観があらかた瓦解したのなら、
Aさん自身も他人も、道徳について大した抱負もなく、日々をその場限りの道徳的判断で過ごしている、
そんな雑踏のなかにAさんが一人たたずむ、ということになりはしないでしょうか?
Aさんの残りの一生が、そんな毎日の単なる見物になるのなら、
一人でも道徳を考えたほうがよいと、ここまで考えてレスしました。
これも、余計な言葉に重しを加える結果になりました。

これらの予想は、みな自分の経験が元になっています。

444 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/25 03:36:52
>>435
「自分には知らねばならないことがある」ことだけわかりました。

>>436
嗚呼、これも不覚だ! 苦しいけど、どこかありがたさも感じるレスです。

「私はなぜ実在しているのか? 考えるから存在しているのだけれど、この考える仕組みはどんなか?」
こんな疑問が、哲板で流行してはいないでしょうか? この問いを、あなたは知っていますか? 知っていないですか?
哲学徒のあいだで常識なんでしょうか? 知っている人同士だと、会話がサクサク進みます。
でも実際、俺はこの問いを取り巻く人間環境をよく知らないんです。

この世にはいくつもの問いがあるんでしょうけど、この問いの存在はちょっと変わっています。
何ぴとも満足に解明した人はいないようだし、にも関わらず、気がついた人はどうにも放っておけないからです。
中島敦の『狼疾記』『悟浄出世』に、この問いにとり憑かれた人間のことが描かれています。

445 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/25 03:38:58
>>378で俺が言いたかったのは、この問いに対する二つの態度です。

1.わかるわけがない、神秘という言葉をあてるのが妥当だ
2.この世にはいかなる神秘もない。調べればわかる。もしくは、単純に知りたい。

1→「考えない」「判断保留」→人生哲学に向かう
2→前者が科学、後者が存在論や認識論に向かう
大雑把に言うと、こういうことです。

実を言うと、カオルさんと俺の知己であるハルカさんという人の使い方なのでした。
あの時は、長い議論の果てに便宜的に一言で言う必要が生じたので、「エポケー」の出番になりました。
それを「一般に」と書いているとは、俺の出鱈目小僧ぶりも程ほどにしなくちゃなりません。
>>379のエポケーの部分は、別な言葉を用意しなくちゃなりません。

446 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/25 03:41:38
>>437>>438
勉強になりました。

>>439
ネットで議論するには、まずネット式の呼吸を、合わせる必要があるんだなぁ、と思いました。
もうしばらく話しを続けましょう。

447 :カオル:05/02/25 04:05:05
>>431

困ったなぁ。
レスは流されてないし
対話も邪魔されてないですよ。

2ちゃんねるという日本最大の公開掲示板で
特定のだれかを独占することなんてできない相談です。
あなたが望むような環境はココには用意されてないです。

わたしはいろんな人と話がしたいし多くの人にも見てもらいたいです。
もちろんageたりしたら、デムパとして扱われてしまうわたしですから(^_^;)
それこそ邪魔されたり、流されたりしてしまうかもしれないから
そういうことも考えてsageでやったりしていますが、そこはバランスです。

2ちゃんねるでは、基本的には、どのスレも万人に開かれたものです。
逆に、閉鎖的な使用法を目的にすることは、2ちゃんねるの規範では
(・A・)イクナイ!!、ということになっています。


448 :カオル:05/02/25 04:41:57
>>440
>おいらは、せっかく真剣に書いている。だから他の人間に邪魔されたくない、
>というのが変わらないおいらの気持ち。

もう書いたけど、わたしはいろんな人の意見が聞いてみたいし
話してみたいから、あなたの感じる邪魔は邪魔ではないんです。

まさか、2ちゃんねるに書き込みしにきていて
しかもこのスレのように、じっくり話せる環境の隔離スレで

>ここじゃ話が流れるんでおいらはイヤ。

という人がいるとは、想像できなかったです。
ですから、何かあなたに、このスレや住人にたいする
わだかまりみたいなものがあるのかなって
かってな憶測をしていました。ごめんなさい。

でもね、リマールさんの歓迎のレスにたいする反応とか
今回のレスの返し方というか、あなたのユーモアのセンスに
ついていける人は少ないのではないかなって思いますよ。
わたしにそれが理解できたのは、最初にあなたに親切に
接してもらえたからだと思いますしね。


449 :カオル:05/02/25 05:18:16
>名無しさんへ

わたしのスタンスは分かってもらえたと思います。
たぶんわたしはあなたの真剣さにはついていけないと思います。

それに個人的なことなのですが、倫理や道徳については
今はとても軽々しくは発言できない、そういう気分でいっぱいなのです。
自分の一言ひとことが針のように心を刺すからです。

わたしはとってもいい加減だから、それに関知しない自分もいたりします。
そういうわたしに主導権があるかぎりは、お話しさせてもらえると思うんです。
でも現実はこのようにモノローグばかりで終わってしまうようにも思います。
今はおびえてしまっていて哲学徒としての勇気が湧いてこないんです。

けれどもあなたのレスがわたしに勇気を与えてくれるかもしれないし
いえ、そんなことを期待しているのではなくて
あなたの問いかけには、哲学徒であることを決意したわたしなのだから
わたしはそれに応えようと思っています。


450 :考える名無しさん:05/02/25 16:35:55
カオルへ

>>408(道徳について)

きみの言うことは理解した。
理解できる内容だし、矛盾のない答えだと思う。


>>409 力の限り〜

了解。きみにそれをお願いするおいらが間違っていた。


>>410 マイ哲学について〜

>個人的な神秘体験をもとにした妄想の産物でしかないです。
>(中略)〜ご承知で議論をされようとしているのでしょうか?

とりあえず、そのつもりだった。
ちなみに、その件についてはエポケーしている(考え続けている)状態なのかな。



451 :考える名無しさん:05/02/25 16:37:15
>>411

>           そのような問題設定の枠にとらわれることなく
>議論することで、むしろさまざまな人たちの哲学にたいする
>取り組み方や哲学との対話を、その実践の様のなかから示せる
>のではないかと期待していたんです。

今までの感想を言うと、面白かったとおいらは思う。
たとえばニップルときみとの議論は発展性があって、見ていて面白かった。
でも同じことをやれっていわれてもたぶん君らはやれないだろうし、
もちろんそんなもの面白くも何ともないのである。やる方も見ている方も。



452 :考える名無しさん:05/02/25 16:37:52
(つづき)

>>412

>もしあなたがそういう意味での居心地の悪さを感じていらっしゃるなら
>議論するのは不適当なのかなって思います。

どういう意味か、余りよくわからなかった。
たぶんおいらの居心地の悪さのことを理解していないんだと思うなあ。たとえば、
>まったく、カオルさん「エヘ」なんて言って、甘〜い声出しちゃって。
>嫌だナァ、唾液に蜂蜜が含まれているんじゃないかしら。

こういう台詞に、おいらは居心地の悪さを感じるんだ。別にカオルを責めている訳じゃない。

>リマール(はとみね)。きみも指摘されて気分悪いだろ。
こういうのは何度も言いたくないから注意して欲しい。公共空間であることを理解してくれ。
そういうことをいえる場所はいくらでもあるからそこへ行け。



>>414
>わたし自身それは言語によって説明することではなくて
>いまだに好き嫌いの次元でのことなんですから。

好き嫌いの次元を、こころで整理していくことが道徳
なんじゃないかとおいらは思うけど。



453 :考える名無しさん:05/02/25 16:38:48
>>423

気持ちを抑えたり、または存在を否定されることは苦しいだろうね。
おいらが思うにそうやって排除されるのが道徳の弱みなんだろうね。
道徳ってやつは可哀想なやつだよね。
と欺瞞ぽくかいてみた。

>>424
>わたしの発言のどこかに道徳をみつけることができましたか。
みつけたよ。

>それともどこかに隠れていて出てこないのが道徳なのでしょうか。

きみの言葉を見ておいらは「となりのトトロ」に出てくる「まっくろくろすけ」を思い出した。
たくさんいて、ほんの一瞬だけ見えて、つかまえようとすると手が汚れてしまう。
それと、ちょっと思ったんだけど、真理と道徳って似ている。
その時、その場所で、その人の中にあるもの。



454 :考える名無しさん:05/02/25 16:39:25

リマールへ
上のレスでまだ、おいらと付き合えるなら読んでくれい。


455 :考える名無しさん:05/02/25 16:40:19
>>441 
>俺とあなたの最初の縁をつまづかせたので、名前を別々にした人共々に拳骨を喰らわせてやりたいです。
その人達をうらんじゃ悪いよ。
おいらはあのとき何を言っているのか本当にわからなかったんだから。

>>442
引用ありがとう。やはりおいらの持っている本とは違うようだね。
おいらのは岩波文庫ので篠田英雄の訳だ(たぶん名前を別々にした張本人だと思われ)
おいらの本の文字を追っても準則っていう言葉が見つからなかったから、あんな質問したんだね。
少々無礼だったかもしれない。

で、どうやら準則っておいらの本でいうと格率(格律)【 Maxime 】のことのようだ。なるほどね。
それとどうやらおいらの方が尊敬を間違って捉えていたようだ。
尊敬についてこうある。


(引用 一章 岩波文庫 p41)
人格に対する尊敬は、本来は法則(例えば誠実等の)に対する尊敬にほかならない。
つまり人格は、我々にかかる法則の実例を提供するのである。 (中略)  いわゆる
道徳的関心の本質をなすものはすべて法則に対する尊敬にほかならないのである。


いらぬ因縁を付けてすまぬ。



456 :考える名無しさん:05/02/25 16:40:56
>>443

おいらは思ったんだが、きみのそれは道徳の話ではなく、
それは個人の人生論的な実践哲学の話ではないか? 
道徳ではなく人生と置き換えると文の意味がすっきりするんだけど、気のせい?
道徳とは善いことを為すべきところのものだ。恒常的な当為を要請するところのものだよ。

>>444
>「私はなぜ実在しているのか? 考えるから存在しているのだけれど、この考える仕組みはどんなか?」
>こんな疑問が、哲板で流行してはいないでしょうか?

たしか超越論的哲学、認識論と呼ばれるところのものだっけ。
カントの純理ってそれが主なテーマだったような気がする。

>でも実際、俺はこの問いを取り巻く人間環境をよく知らないんです。

カント読みならだいたい話が通じると思う。というかその問いについて教えてくれると思う。
(すべての人がそうであるとは思わないが)。カントの純理はそういう不安に親身に
答えてくれる内容だと思われる。あとはそういうスレにきみが赴いてみることなのかな。



457 :考える名無しさん:05/02/25 16:42:03

>>445
>>378で俺が言いたかったのは、この問いに対する二つの態度です。

了解。たぶん神秘という語の使い方がカオルとリマールでは違うような気がする。
まあきみのも間違っていないとは思うけど、でもちょっと(違う)なあとおいらは感じるよ。

ただ言っておくけど、別にハルカとカオルの神秘の使い方は違わないと思うよ。
それが哲学的かどうかの違いだと思われる。そして少なくともハルカの場合は神秘という
言葉は絶対に使わないだろう。これを受けて使い始める可能性はあるけど、それはそれとして。
それ以外ではけっこう共通点は多い。形而上学的な素質とかね。
宗教板のあはさんのスレを知っているならわかると思うけど。
ほんと、おいらやきみじゃ手も足も出ない。

>>446

前半かなりきみに辛いことをかいたけど、それでも構わなければ議論しましょう。
とりあえず、ペースはゆっくりめで(これはおいらに言っているよ)。
んじゃ。



458 :考える名無しさん:05/02/25 16:42:55
>カオルへ。

>ついていける人は少ないのではないかなって思いますよ。

たぶんそうかもね。
でもね、あれがおいらのベストなレスだった。
(まあ、今日のはちょっとそこまでのレベルには達していない。)
あとリマールがいいやつだってことはおいらも知っているよ。


>>449
ありがとう。
きみの言葉は安心する。
とりあえずそんだけ。



459 :二プレス:05/02/25 16:59:38
 いつの間にやら張り詰めたスレになっていますね。
私のほうは休日出勤やら、働かない同僚からの嫉妬などで体調が悪くなる一方です(笑)。
今日も休みなのですが夜の7時からセミナーがあって…。
 ところで私は休みの日かその前日以外はここをのぞけません。
だってここを見ているといつの間にやら何時間も消費していますから今はちょっと厳しいのです。

>>387-388
 たとえば話題にものぼっているデカルトのコギトは何を証明しているのでしょう?
「私」の存在は疑えないという自己明証性?
すくなくとも考えているたびに私は存在する!という主張は「デカルト」本人の専売特許なのに
後世の「私」たちにも広く流用されている。しかも後世の私たちの専売特許として。

 私とそうでない人との違いを問題にするとき(永井均いわく「ほんとうの独我論」を問題にするとき)、
このような権利の乱用は大変な混乱をもたらすのではないでしょうか。
だから永井均はウィトゲンシュタインの言語ゲーム概念を用いてそのような
「違い」としての<ぼく>は言語によって伝わることがないけれども確かに存在し、「違い」を支えている
といっているのだと思います。
 ちなみに「魂」の存在証明は言語ゲーム概念に頼らずに <ぼく> を解き明かそうという試みで
言語ゲームを用いた「語りえぬもの」= <ぼく> とは別の「ほんとうの独我論」へのアプローチだと思います。

460 :二プレス:05/02/25 17:01:04
>>459
 永井均の独我論が「私がとある地平から分化してくる」というような考え方よりも妥当ではないか、
と今の私が思うのは「分化してくる地平」があまりに巨大なのではないかと危惧するからです。
これは以前から私の頭を悩ませる問題でした。
 なぜなら「分化してくる地平」がたとえば空間的には国全体や地球全体、宇宙全体のような広がりを
持つのではないか、たとえば時間的には究極的な過去から現在を経て最終的な未来までのような広がりを
持つのではないか、という疑問が生じるからです。

 このような広がりは多くの問題をはらんでいると思いますがとりわけ「今ここ」や<わたし>といったものが
より大きな広がりを持った全体から、その場を分け与えられる(つまり分化する)というニュアンスをもたらすことが
問題です。
 なぜなら、とてつもない全体の中で「今ここ」や<わたし>が塵あくたに等しい存在になってしまってはならないと
思うからです。時間でいえば以前も話しましたが、「死」が究極的な将来として「今ここ」の「生」を無価値にしてしまう
ようなことがあってはならないし、見ず知らずの人のために大切な人を傷つけてはならない、と思うからです。

461 :二プレス:05/02/25 17:03:17
>>460
 「拡散していく自己」、つまりそれは根源的である一方で決定的な欠損を
抱え込んでいる<わたし>のことですが、この決定的な欠損を補うために大切な人が必要なのです。
大切な人とは誰にとっても大切な人ではなく、私にとって大切な人です。
だからといってあの人は私のモノではないですし、私の観念化を逃れるような存在としてつまり他者として
受け入れなければならないものだと私は思っています。

 体調がよくないとうまく考えがまとまらないので結局ディスコミュニケーションを引き起こしてしまいそうで
心配です。ほんとうはもっと<わたし>の根源性とか無価値性とか「愛」とかいろいろな話をしたかったのですが
流れの中で>>267にも答えられたらと思っていましたけど・・・。宿題にしときましょうかね?
もう時間です…。

462 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/27 01:24:41
>>452
これは居心地が悪くなって当然でしょう。
智恵を愛するなんてこと数年やってたら、自分でも信じられないくらいのロマンチストになってしまったんですが、
あのときは、その矛先と出力とか色合いとかを誤ったんですよ。

仕方がない。
この一件は、あらゆる言語表現の哲学的な意味において、【美的】に落とし前をつけます。
わかるような結末を用意しておきます。
それが、ちょっとでも汚れていたら、しょうがない、
俺は哲板で最も薄汚くて忌み嫌われる感じの名前を名乗ることにしましょう。

463 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/27 01:35:44
>>455
>その人達をうらんじゃ悪いよ。
>おいらはあのとき何を言っているのか本当にわからなかったんだから。
何を言っているんですか? ちょっと長い話しになりますよ。
まず、俺とあなたの胸中に、共に恨み言が発生したのは、間違いありませんよね?
それから、人称ってありますよね。第一が自称「私」、第二が対称「あなた、君」、第三が他称「彼」、
あと、そのいずれでもない「誰か」。

ということは、恨み言の行く先は、四つに限られることになります。それ以外は在り得ません。
今回の場合、「彼」は訳者ども、「誰か」は神とか運命とか天地とか世界とかとしましょう。「成り行き」ということですね。

すると、俺とあなたの恨み言の矛先の組み合わせが、十六通りあることになります。

俺   私 私 私 私 君 君 君 君 彼 彼 彼 彼 誰 誰 誰 誰
名無  私 君 彼 誰 私 君 彼 誰 私 君 彼 誰 私 君 彼 誰

「私のせいだった」「君のせいだ」「彼(第三者、訳者ども)のせいだ」「誰か(成り行き)のせいだ」
こういう恨み言のことですよ。

464 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/27 01:37:58

ここから先、自分で想像してみてくださいよ。
両者のどちらかでも、「俺(おいら)のせいだった」及び「お前のせいだ」という態度をとった場合、
気を取り直して、話しを続けることが出来るでしょうか???

両者が和して次の話しに移ることが出来るのは、

俺  訳者 訳者 成行 成行
名無 訳者 成行 訳者 成行

…の四通りっきりではないでしょうか。
ですから、恨み言を完全に霧消させて、和して話しを続けたいのなら、
両者は対話しながら、この四通りのいずれかに落ち着くまで、恨み言の矛先を組替え続けなくっちゃなりません。

それで、飽くまで俺は他人か成り行きのせいにするんです。

465 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/27 01:40:53

これは、考えていて面白かったので、おまけを加えます。
両者とも、「君君」、つまり「このムシャクシャした気分はお前のせいだ」となる場合は、イスラエルとアラブの関係が連想されます。
十六の中で最悪の組み合わせと考えられます。
両者とも、「私私」となる場合は、『走れメロス』の結末の部分が想起されます。
この場合も、和して話しを続けられそうなんですが、
それは、互いに「お前の為に死ぬことになっても構わない」と言い合えるような仲に限られます。少なくともそれに順ずるような仲に。
俺とあなたでは、知り合って間もないので不可能です。

それ以外の、「私」及び「君」が関わる組み合わせだと、俺はどうにもわだかまりを感じます。
「こんなへりくだって、自分が慇懃無礼に見えたりはしないか」「相手がこれでは、どう返事していいかかわからないゾ」
…こんなことで気を揉むのは、他に有効な手があるんだったら、即座に拒否します。

ですから、俺はあなたに「ねぇ、篠田のせいですよね?」と尋ねなおしたいんです。

466 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/27 01:46:21
誰でもがそうでしょうけど、これまで俺は、人間の不和を幾つか普通に目にしてきました。
人間の不和が、「あの時は俺が悪かった」「いや俺もどうかしていた」と和解に至るとき、
確実に「誰か」の手を借りているでしょう? 「時」とかそういう不可解なものの手を。それから仲介者も。

ところが、時間が経って、「やっぱりあいつは許せないヤツだ」とか、俺に漏らしてきたりするんですよね。
どうも本気らしい。「お前のせいだ」が残っているんです。和解は失敗だったということです。

恨み言というのも困ったヤツで、現れるときは必ず「お前のせいだ」だけを引き連れてきて、
随分と大仰に頭の中に居座りやがらないでしょうか?
それで、人間、なぜか怯えてしまって、慌てて「自分のせいだ」と、懺悔を拵えたりします。
ところが、「お前のせいだ」が消えてなくなる為には、
「明解な第三者、彼」か「不可解な第三者、誰か」の力を借りなくちゃなりません。
完全に消したいのであれば、それだけ全面的に。
そのためには、思考の幅を広げて、あれこれ事象を探らなくてはなりません。それは上の二つより困難です。


以上をもって、自分なりの準則を(急拵えのものですけど)、最後に。
「頭の中に恨み言が現れたときの矛先は、第三者、自分、相手の順番にすべきである」
「しかしながら、恨み言をぶつけるのが容易な矛先は、相手、自分、第三者の順番である」

どうっすか! 文句ありますか!?

467 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/27 01:59:13
>>455
>いらぬ因縁を付けてすまぬ
いいえ、気にしていません。話しが通じるんですから。
話しが通じない相手からの因縁と比べれば、いや、比べものにならないくらい、大事な一点なんですから。

例えばですね。思索しているときは、怒っているというか、上機嫌な顔ではないでしょう。
本屋で立ち読みした帰り、頭の中で気に止まった文章を眺めていて、
実際の視線の先に不良とかいたら、因縁つけられることが起きたりします。

彼らとは話しが通じません。俺は途中で隙を見つけて、走って逃げました。

俺とあなたの品性の開きが、その時の俺と不良どもとの品性の開きを凌駕していたとしましょう。
それでも、話しが通じるという一点があるのは、ありがたいことでしょうよ。

468 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/02/27 02:12:42
あ、もっとわかりやすいのは、動物。
動物に襲われたことを思い出せば、話しの通じる人間との諍いなど、なんてことないんです。

>>456
道徳的行為は人生の不可避の条件である、みたいなことを、
二人で考えていければ、話しが続くと思います。

469 :考える名無しさん:05/02/27 03:06:00
>>462 リマールへ

まず、言いたいこと。おいらの気持ちをわかって欲しかったんだ。
あのときのきみのレスはおいらにとっては、不愉快以外なにものでもない。
きみのレスを見て評価する何人かの人が、それを不愉快と思う可能性が
存在するということを知って欲しかったわけだ。直接的で、きみを侮辱に
とった行動だろう。今後きみのあのようなレスがつづく可能性を考えれば
こういうのはどうってことない。きみには悪いがおいらは言ってよかったと思う。


>この一件は、あらゆる言語表現の哲学的な意味において、【美的】に落とし前をつけます。

これは必要ないかな。何が必要ないかというと、【哲学的】にする必要がないということ。
>>462-468はおいらは読む必要があるのかな? 
ただの気持ちの行き違いだけが問題じゃないか? 
準じられた考察など、価値はないんじゃないか? その考察はどこへ行くのか。
おいらのためにあるようには、とても思えない。


>あのときは、その矛先と出力とか色合いとかを誤ったんですよ。

この言葉が聞ければおいらは充分である。
しかしきみの気持ちの収まりがつくかは、とりあえず不明。
その努力はしようと思う。で、おいらはここを去った方がいいのかな?
それとも、おいらとの議論を続けるかい? 
>>462-468は読んだほうがいい?)



470 :考える名無しさん:05/02/27 03:36:05
>>462-468は今読んだけど、なかなか面白いね。
それじゃ。


471 :考える名無しさん:05/02/27 04:40:10
せっかくなんで続きを書くよ。

>>463-464
>まず、俺とあなたの胸中に、共に恨み言が発生したのは、間違いありませんよね?

その通りだと思う。おいらはきみのレスがその理由(誤解を招く原因)だと感じた。
しかしきみはそうは思っておらず、誰かのせいにした。
それで構わない?

>ですから、俺はあなたに「ねぇ、篠田のせいですよね?」と尋ねなおしたいんです。
きみがそう思うならそれで構わないと思うよ。

>>466
>以上をもって、自分なりの準則を(急拵えのものですけど)、最後に。
>「頭の中に恨み言が現れたときの矛先は、第三者、自分、相手の順番にすべきである」
たしかに一般的にはそうだと思うけど、矛先を収めるのが一番、無難だろうね。

>「しかしながら、恨み言をぶつけるのが容易な矛先は、相手、自分、第三者の順番である」
本当にそうかな? 相手が普通一番難しいと思うけど。
というかそもそも容易さなんてあるんだろうか?
このへんにたぶんおいらときみのセンスの違いを感じる。

>>467
>いいえ、気にしていません。話しが通じるんですから。
ありがとう。



472 :考える名無しさん:05/02/27 04:45:19
(つづき)

で最後にもう一つ聞きたい。おいらは居心地が悪いのをきみに言えず、
ずっとそれをカオルと話していた。しかし、明らかにきみとわかる内容で
話させてもらった。ここにたぶんきみはおいらがを恨み言を言っていると
感じる動機があったはずだ。なぜここで存在しない人の話をするのだろうか
ときみは思ったと思う。

ではなぜきみがハルカの代わりにカオルを批判する必要があるんだろう。
これは余計だとは思わないか? 叡智界の指摘もそうだけど、
あれもおいらはいらぬ因縁だと感じたよ。それを神秘とひとくくりに
して議論を続ける理由がそもそもないとおいらは思う。

きみには不用意な発言が多いとおいらは思う。
ハルカを俺の知己であるとして議論を続ける理由があるだろうか? とかね。
これ明らかに不要だろ? なぜ議論を人間関係に飛び火させるの? 
これは純粋なマナーだとおいらは思う。おいらがこのスレに侵入したのは
それが理由。あの場を収めるためだ。



473 :考える名無しさん:05/02/27 04:46:34
(つづき)

きみは、きみの知っていること(考えたこと)のみを話すべきだ。
とおいらは思う。できればそうして欲しい。

それから、叡智界についてきみは何を知っているの?
その叡智界についてあのときどんな議論があったか知っているの?
カントの叡智界と、ショーペンハウアーの叡智界と、
あのときの議論の叡智界の用語は使われかたが一緒だったかい? 
カオルを批判する理由としては不適切だとおいらは思う。
あと神秘の使い方がオカルト、宗教、哲学でそれぞれ違うのだから一緒に
してはいけないと思う。
あのときは宗教(悟り)の話しをしていた。
今は哲学の話しをしている。分けられて論じられたい。
言い替えよう、あのときは悟りを形而上学的に論じていた。
今は、哲学を形而上学的に論じている最中(それができる環境)だ。
分けられて論じられたい。以上。


474 :考える名無しさん:05/02/27 06:41:00

まだいるのでもう一つレスをしようと思う。

いまおいらは、いま上のスレに上っている、
『正しい論ばくの仕方とは?』というスレを見て(ROM)いた。
いい内容のスレだと思う。気に入る人も多いのではないか。
joyさんのセンスもいいが、それぞれの名無しさんも皆いい味出している。
もしよかったらみんなにも一読されたい。これはまちがいなく良スレだよ。
そしてこのスレを見ておいらも反省するところが多い。
まあプラトンなんて『饗宴』のほんの一部しか読んでないけどさ。
でも読んでなくても、(ほんの少し調べれば)誰にでもわかる内容だと思う。
気に入ってくれるといいね。
とりあえずそれだけ。
それじゃ。

http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1109348118/1-349


475 :ニプレス:05/02/27 22:58:16
>カオルさん  >>411

 今までのような「哲学とは何か」を越えていくという企みは面白いと思います。
学的哲学とマイ哲学(あるいは人生哲学)なんていう前者優位の不毛な対立軸を反転させたところで
その不毛さが消えてしまうことはありそうも無いですから。
(当然ですが)別に怒ったりはしません。

 キルケゴールやら茂木何とかという人のサイトはまだ読めてません。
今度時間をとって読んでみます。


476 :ニプレス:05/02/27 22:59:03
>>461
 これをもう少し整理すると、私の中には二つの問題意識があったのです。
(私の)「今ここ」を重視するような、それゆえに大きな時間の流れ(始まり→終わり)を批判するような
問題意識と、「私」を追及すると「つながり」に行き着くし「つながり」を追求すると「私」に行き着く
というような問題意識の二つです。

 私はこの二つの問題を解決するものとして「私が分化してくる」というような思考に
妥当性を認めました。しかしそれでは本当は後者の問題にしか答えられていなかったのです。
いや、むしろ「私が分化してくる」というような答えでは空間的には宇宙全体から、
時間的には未来や過去を含んだ歴史全体から、「私が分化してくる」と考えざるを得ない
のですから(私の)「今ここ」の価値は途方もなく巨大な全体のこれまた途方もなく小さい一部に
限定されてしまう。

 今考えると私が(私の)「今ここ」を重視するならば、永井均の独我論的なモデルで考えざるを
得なかったのだと思います。(いや、永井均にこだわる必要はないですね)

 <わたし>という奇跡が根源的であり、「今ここ」を価値あるものとする、つまりいずれ訪れる「死」に
「生」が振り回されないために重要なものであるとしても、<わたし>自身に無根拠や無価値という
欠損が潜んでいるとしたら。
 この欠損を他者が補う…いや、私の愛が補うのではないでしょうか。

 これ以上話を進めるとあまりに私の問題意識にこのスレを引き込みすぎるので
もし書き進めるとしても何か反応があってからにします。
この話題がとてもこのスレにふさわしくないとしたら別に論じなくてもかまいません。
個人的な問題意識ですし。

477 :ニプレス:05/02/27 23:01:13
 カオルさんだけにレスして他の人の書き込みを無視するかのように振舞うのは
べつに悪意のようなものがあるからではありません。ただなんとコメントしていいのかわからないからです。
とりあえずリマールさん名前間違えてすみません。
あと名無しさん、>>474飛ばし飛ばし読んでみましたけど
いつの間にかソクラテス、プラトンに関する知識に問題が集約されつつあるのが気になりました。

478 :考える名無しさん:05/02/28 11:05:39
リマールへ。


レスがないようだけど、おいらと議論をする気がなくなったのだろうか?

おいらは、きみに叡智界の質問をしたつもりだったんだだけど。
返事がない。おいらの問いが複雑だったせいか?
それとも、きみのセクハラ発言がまさに図星で、言い返す言葉を失った?
あるいはおいらの真意がわからないと言ったところなのだろうか。
どちらでも構わないし、また答えは別のところにあるのかもしれない。
しかしおいらときみは、いちおう議論を続けるべきだと思うのだけどね。
カオルもとりあえずそれを望んでいる(いた)し、それにおいらときみでは
理解を共有できるものも多いのではないかと思う。

いちおうおいらは、きみの「話が通じる」という言葉を信じたつもりだったんだけどね。


まあ議論を続行してくれたならば、おいらも気を付けるべきところは
気を付けようと思う。

何について、議論するか?
道徳や善意についてではなく、やはり恨み言、悪意ついてが希望だろうか?
(これは悪意で言っているのではなく、よい考察内容だと思う)
ではなくて人生論? 悟り? 神秘について? それとも全部?
議論自体が無理ならばしょうがないが。
おいらは実りある会話を、きみとできるものと考えている。


479 :考える名無しさん:05/02/28 11:10:41
>ニプレス


きみの話しの内容は、議論するには充分価値ある内容なのだけど、
おいそれと簡単に手を付けられる内容ではないとおいらは思う。
(つまりきみの意識レベルが高いのだ)
だから、きみはきみでこれまで通り考察を続けられて構わないと
おいらは(個人的には)思う。おいらも、きみの邪魔する気は毛頭なく、
逆に協力ができればしたいところだけど、あいにくおいらには、
それができるほどの実力もない。というと、きみならば
議論に実力は関係ないよ、と言いそうでもあるのだが、まあそれはそれとして。

でも、おいらはきみの意見はもう少し多くの人の手に触れるべきだと思ったりする。
それくらいきみのレスは価値ある内容じゃないだろうか? 
おいらが言うのもなんだけど、きみはこのスレをもっと自由に使うべきだと思う。 
たとえばageて多くの意見を募ったりしてもいいのではないか。
たしかにカオルのレスは貴重、(きみもそう思うからここにいるのだと思う)
だけど、このスレのことをどうすべきか(移動しようかなんてこと)を、
きみが判断する必要は最初からないわけだから、
きみがきみ自身(個人的考察)を充実させることだけを考えて欲しい。
それにおいらは協力したいと思った。おいらはきみのレスのもとに、
思慮深く、きみのレスに共感できる多くの仲間が訪れることを祈っている。



480 :考える名無しさん:05/02/28 11:11:47
(つづき)

>ALL
だからもしROMしている者がいてニプレスの意見に興味があるのならば、
ニプレスのレスに意見をしてやって欲しい。(派閥や人間関係に関係なく)


> これ以上話を進めるとあまりに私の問題意識にこのスレを引き込みすぎるので
>もし書き進めるとしても何か反応があってからにします。

いちおうこの意見においらは答えたつもりだからよろしく。
もしかして、大きなお世話だったかな(笑)



481 :考える名無しさん:05/02/28 11:13:58
(つづき)

>>477

>あと名無しさん、>>474飛ばし飛ばし読んでみましたけど
>いつの間にかソクラテス、プラトンに関する知識に問題が集約されつつあるのが気になりました。

きみらしいといえばきみらしい感想だ。
そういう意見が来るとは、おいらは思いも寄らなかった。
おいらは実はその集約されていく過程が印象的だった。
スレの流れを意識するというのかな。議論が徐々に対話に
移っていく過程は見事だったんじゃないかな?
おいらはその部分(後ろ)からあのスレを見始めたので。
もしかするとおいらの観点は甘いのかな。
きみはやはり知識問題が哲学の邪魔をしていると
考えているのだろうか?
できればきみの考えを聞かせてほしい。



482 :考える名無しさん:05/02/28 11:17:31
 カオルへ。


きみはたぶんおいらのことを、誤解していると思う。
いや、おいらは、きみが考えているそのままのおいらなのかもしれないけど。
よくわからないけど、けど、おいらのことをほんの少しだけでいいから信じて欲しい。
(こういうことを言うと電波ぽくていやなのだけど。)

それとちょっと、このスレの流れを多少変えたけど、
きみはいままで通り、きみの思うようにしてくれて構わない。
普通に、今までどおりのレスをして欲しい。

これは、リマールへも同様。
おいらは気づいて欲しかっただけで、怒らせるつもりはなかった。
きみにもいままで通りの、レスを求む。

以上のレス(5レス)の内容は>>449のきみ(カオル)への返事のつもり。
それでは。


483 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/01 01:10:42
「ゆっくりめで」と自分で言っておきながら、何で俺のレスを待たずにレスができるんですか?
しかも挑発や威嚇の意味も含めてまで。せっかちな人なんですね。

>>471
>おいらはきみのレスがその理由(誤解を招く原因)だと感じた。
>しかしきみはそうは思っておらず、誰かのせいにした。
>それで構わない?
なるほど。「彼君」「誰か君」の組み合わせだと、俺が責任転嫁しているように映るわけですね。
こうなると、自分の良識が火に包まれたようになって苦しいんですけど、おかげで勉強になりました。
俺もせっかちでした。せっかち者同士の議論には不安を感じます。
ノロマと思われてもしょうがないけれど、時間をかけて考えたいんですけど。

とにかく、>>463は自分でも簡単に放って置けないことを考えついた感じがします。
人間同士の激突が、個々のケースに従って、
二者三十二の思惑に確実に分かれ、十六の結果に策定されるんですから。

よって、例えば、「司馬遷が武帝から宮刑を受けながら『史記』を書き上げた理由」とかが
形而上学的に説明できる気がしてきました。
彼の慎重な記述や人間理解の深さが生まれた理由とかも。

文系に特有のそういう趣味ってわかりますか?

484 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/01 01:11:58
>>以上をもって、自分なりの準則を(急拵えのものですけど)、最後に。
>>「頭の中に恨み言が現れたときの矛先は、第三者、自分、相手の順番にすべきである」
>たしかに一般的にはそうだと思うけど、矛先を収めるのが一番、無難だろうね。
確かに実際は矛先を収める例が多いと思いますが、個々人の思考の中で、どこに収まるかを問題にしているんです。
人間同士のイザコザの場合、「私」「君」「彼」「誰か」以外にないことを示したつもりなんですけど。

例えば、「荒しは放置」という習慣がどの板にもあります。
荒しが自分のレスに引っ付いてきたとき、
・「何だと!?」と第一に相手が矛先になる
・「まさか、俺のレスに落ち度があっただろうか」と一応は自分に矛先が向く
・「そんなものはない。では、他の論客のレスがこの事態を招いたのか」というときもあるかもしれません。
・いずれにしても、「そんなものはない。やはり荒しが悪い」と再び相手に矛先が向く
・「でも、どうしようもないので、習慣に従おう」と放置して、運命に任せる
一瞬の出来事なんでしょうけど、こういう段階を踏んでいたりしないでしょうか?
「君→私→(彼)→君→何者か」という順序をとりはしないでしょうか。

>というかそもそも容易さなんてあるんだろうか?
俺は容易に篠田のせいにしましたよ。そしたら後で、火に炙られるような恥らいを感じることになりましたけど。
それで、容易と困難の区別がつきました。
よって、ケース・バイ・ケースで、人間の思惑に応じて、
気がつかなければ容易に、気がつくためには難境を通って至る、恨み言の行方が、
人間の内面に存在するみたいだ、と思いました。

485 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/01 01:15:56
>>472>>473
返事、気が進みません。哲学徒は得意の深遠な洞察で、互いの人格や品性も議論し合うものなんでしょうか?
それも公共の空間で?
そんなことより、実際にどこかで落ち合わせて、力任せに殴り合うかした方が、
一瞬で数百文くらい伝えられていいのではないでしょうか、漢同士なんだし。

叡智界については、以下のように考えています。
・真理と矛盾や物事の正誤とか、人間にはどうしようもないものを扱う世界
・時の流れない世界、空間からも離れた世界
・物質で構成されていない世界
・人体ではなく、理性的生命としての人間が生きている世界
最後の「人体でない」点は本当に注意してください。人体が動かなくなった人も、存在するし生きている世界のことです。

理解が異なるのであれば、別の名前をあてたいと思います。
とにかく、数式に時間が流れている感じがしない点が気になって仕方がありません。
人間の頭も中身もやがて腐敗して、荼毘にふされたり、とにかく変化があります。
でも、心にある数式とか、哲学徒が求めている真理とか、変化しない形で残ります。

こうして話している言葉も、経年変化しません。過去の人の言葉は、いつまでも述べた当初の意味を保っています。

もの心ついてからずっと、「人体の生存」を生命と思っていましたけど、
哲学を通じて、考える生命としての「人間の生命」のほうが、自分にとって大事になりました。
それまでは、「人体の生存」と「人間の生命」を混同していたんです。
節義のために自ら命を落とすことのできる人の心境を、これで説明できはしないかと、考えているんですが。

486 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/01 01:19:12
>>477 ニプレスさん
ん〜、コメントしづらいのは当然だと思います。
でも、前スレで、こんなふうに身の進退に関わるくらいの喧嘩腰の対話を望むみたいなこと俺は言いました。

仕事柄、お年寄りの人と話す機会があります。時々「若いとき暴れた」と、テレながら漏らす人がいます。
それを受けて、俺が老人になって、ずっと年少の人に「若いとき…、」と漏らすときがあったら、と考えます。
できるだけ、回顧が恥じらいを伴わないようにしたいものです。
ですから、近くであれ遠くであれ未来を想う気持ちはありますので、もうしばらくの間ご容赦願います。

487 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/01 04:14:38
>名無しさん
あなたは、話しが通じ合うのを信じていると。でも、心が通じ合ってなくて満足できるんでしょうか。俺もあなたも。
わかってもらいたいことが二つ三つあるんです。レスが六つで、長いんですけども。

名無しさんには、真冬の星空を綺麗だと想うようなロマン的な心があるのは、確かなんですよね?
見知らぬ犬の頭の部分に手を近づけると、犬が頭を手のほうに寄せてくることがあります。人懐っこい犬なんでしょう。
そうして犬の頭をなでていても、
「疑わしい。もしかしたら、犬はもっと別のことを望んでいるのかもしれない、こんな一時はどうでもいいのかもしれない」と、
人間は考えることが出来ます。
話しの通じ合わない犬と、疑い深い人間との儚い儚い心の通じ合いです。でも通じ合いは通じ合いです。
犬と違って話しは通じますけど、哲学徒同士、心が通じ合うのは、こうした犬との交流よりも困難で儚い、と思うようになりました。

488 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/01 04:17:36
それで、実際に、俺は、心のこもっていない挨拶からあなたとの対話をはじめました。「話しだけ」からのスタートでした。
そして結局は、俺にとって哲板での対話全般が、こうした「話しだけ」なんです。惰性的で習慣的な…。
俺自身、惰性的習慣に流れたくはないんですけど。
ですから、>>467の「ありがとう」とか、疑わしいんです。

また、誰がとは特定しませんけど、「○○でち!」とか「(*´∀`) 」とかという表現を見て、
―これがこの人たちの情動の表現の限界なんだろうか? これで何を伝えたいのだろうか?
 もっとずっとロマン的なことを人間の言語表現は為しえないのだろうか?
と、自分でもなぜそんな考え方をする人間になったのかわからないんですけど、考えるんです。
つまり、哲板の日常に退屈なものを感じるんです。

489 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/01 04:19:09
『ジョジョの奇妙な冒険』という有名な漫画があります。"闘い"が描かれている漫画です。
この漫画の魅力は、キャラ同士の知恵比べにあると言われています。
―あるキャラが攻撃を失敗する場面が描かれる。ところが話しが進むと、
 「このキャラは攻撃を外したのではなくて、始めから別なところを狙っていた」ことが、読者に明瞭にわかる、
 そして読者が完全に漫画の虜になる
そういう知恵比べに、ロマン的なものを感じないでしょうか。
キャラ同士の勝敗に左右されない美しさみたいなものを。
本当に、勝者にも敗者にも、作者独特の美学がある(「黄金の精神」と呼ばれています)と、思わないでしょうか。

哲板でも時々、ジョジョファンの方を見つけますけど、「読者なのならばもっと!」と鼓舞してやりたいんです。
こうして、哲板の議論においても、この漫画の知恵比べくらいの面白さを、
見てみたいし、自分で実践してみたいと常々思うようになりました。

490 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/01 04:22:19
それは、哲学のロマン的な要素、善美の理想に向かう哲学が、現在、劣勢である、という一途な不安が基礎になっています。
ですから、トンデモ空想と非難されても構わないから、秋頃にこのスレにお邪魔して、建議しました。

哲学は歴史的に見ると、常に科学、詩、宗教、論理という四つの異なった人間的関心のあいだに行われる
相互の受精作用のようなものであったと言える。―W.ジェームズ

この一文からのイメージで、
・人間に分析的な関心(科学、形而上学)と、感覚的な関心(宗教、詩)に向かう、二つの傾向があること
・それは、人間が左から順に、「真」「真」「善」「美」の理想を有しているから、そうなるということ。
・【真】【善美】の二つの理想の傾向は、人体に元々備わっていた雄雌の区別に続く、人間の精神におけるそれであること
・哲学徒の思惟は、二つの理想の哲学的(?)交接の舞台であること

…こんな主張だったと思います。

491 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/01 09:43:46

「智恵を愛する」のが哲学なのは、通俗として誰もが認めています。
ということは、一匹の生物としていかに好かれたり好いたりしたか、憎んだり憎まれたか、
いかに美しいものを目にしてきたか、美しい音を愛でてきたか、
そういう一人一人の美的経験が、この哲板の哲学の浮沈に懸かっているということではないでしょうか?
本当に、智恵を【愛する】者が集まっている以上は。

哲学は、一般人がいくら目を凝らしたって、紙の白い背景と黒い線の集合にしか見えませんし、音も聞こえてきません。
俺にとって、昔そうでした。
哲学徒は、自分で見聞きしたり体験したりした美的経験を、白黒の平面に、本当に吹き込まねばならない、
いつでも何度でも、骨の折れる作業だけれど、喜んで無限のアイデアを吹き込み続ける、
そうやって哲学が続いてきたのではないでしょうか?

こういうことを訴えたかったんです。

492 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/01 09:50:47
それで、哲板の今後に期待を持てるようになるために、情動表現の限界に挑みました。
もちろんバランスを考えながらです。
自分でも「ロマン」とか「善美」ってどんなことか、何の保障もないなかで、
自分が「これはロマンかな?」と感じるものを、自分で演出しました。
↑の「交接」も具体的にどういうことなのかわからぬままででした。

哲学者より、文学者の文章の紹介が多いのはそのためです。知識の欠乏は覚悟の上です。
常識的にどう映るのかよくわからない詩的表現や、音楽の話しや、
道化やらユーモアやら粋な態度やら傾き者みたいな態度やらも同じ理由からです。

失敗した場合、生物が雄だけとか雌だけになるのと同等のことが、哲学に起きるんだと思って、そうしていました。

十月からの俺の全てのレスに、そういう姿勢の痕跡が見えるでしょうか、見えないでしょうか。
知的誠実さがか細くても、残っていることは残っているでしょうか。そうでないでしょうか。
ここを確認しないと、話しが続けられません。
ない場合は、俺はただの放蕩者だったことになります。名乗りたくない名前を名乗ることになります。

493 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/01 10:05:57
でも、ここまで考えてみても、俺は暴走を犯したと思っています。

ロマンも膨らみすぎると、その力を持て余すことを、実例で確かに示しました。
ということは、智恵の愛し方にも、智恵の力を持て余す可能性があることになります(俺の哲学観に従った場合です)。

そういう心配を、科学や形而上学の主知主義的な傾向に抱いています。
なんと言うか、乱れた襟を整えてやって、「お前の相手はこういう存在なんだ」と肩を両手で強く叩いてやりたい感じなんです。

長文、連投、失礼しました。

494 :考える名無しさん:05/03/01 11:15:57
>リマール

とりあえずずらっとながめたらきみのレスがあったので、
きみのレスに対して順次考えることをやめた。
(いまさっきまで、おいらは自分のレスをひたすら考えていたわけだね)

でもいきなり何かを言うと突然すぎるので
とりあえずきみのレスの内容をおいらの整理しようと思う。

・きみは威嚇や挑発また人格を否定しながらの議論に嫌気をさしている。
・また1時台、4時台、10時台と三段階に分けて、レスを続けて
 自分の気持ちの中で折り合いを付けようとしている。
・反省しようとしているし、相手を反省させる傲慢な感情がないということも
 汲み取れる。
・また恨みの無意味さを訴えようともしている。
・それから、自分の考える哲学徒としての在り方を述べている。
・議論の叡智を極めることの在り方を模索している。
・きみ自身がどのような態度(格率)で哲学板に接してきたか?

おいらがきみの文章からおおざっぱに何かを受け取るとしたらこのぐらいだろうか?
もしかすると逃している部分があるかもしれないけど、とりあえず。



495 :考える名無しさん:05/03/01 11:23:28
(つづき)

では、おいらの気持ちを述べさせてもらう。

おそらく、きみは、議論においてこんな気持ちになったのは、
はじめてなんじゃないかと思う。
何よりも苦しい、誰も理解してくれないかもしれないという不安。
他者の自分に対する言葉。違和感。嫌悪。抵抗。
相手の言葉に近づくたびに感じる無理解。
きみは、考えても考えても何も答えが出ないような焦燥の中に
きみはいるのではないかと想像する。
これはきっとどんな人でも辛いことだと思う。

そして、きみが自分の進退を考えるほどに、
議論というものは実際に デリケートにできている。
おいらもそれが理解できないわけじゃないのである。
おいらがきみに体験し理解して欲しかったのはこういう世界のことだね。
きみはどんな言葉にも過敏に反応せざるを得ない。
無論、おいら自身もそういう場に身を置いてきみに話しかけているつもり。


496 :考える名無しさん:05/03/01 11:26:50
(つづき)

もっとも、きみがどう思っているかなんて、実際には知らない。
ま、だからおいらはきみがこう思っているだろうという、
そのおいらの中の 空想の相手(きみ)に対しておいらは
語りかけているわけだけど。
まあそんな観念論に意味があるわけではないけれどもとりあえず。

でも、おいらがやって来たのは議論はそういう議論だよ。
前に言った批判や啓蒙を超えた、お互いが考え抜くところの議論だ。
こういうのは、互いに反省しあわないと起こりえない議論だ。
正誤の間違いだけではなく、議論の態度や方向性、観客(第三者)への配慮。
その他の要因。 それぞれが修正しあわなければ、議論が続くこと自体ありえない。
難しいけど、それなりにやりがいがある。(まあそんなに、やりがいを
もとめてもいけないし、 特別意識を持ちすぎてもいけないわけだけど)
こういうのをきみは好きになれない?

今まで自分とは無関係だったものが、無関係じゃなくなるんだ。
これは哲学する上で重要な観点ではないだろうか?
議論が哲学に密接に関わるのは決して気性の問題だけではないと
おいらは思うんだね。


497 :考える名無しさん:05/03/01 11:27:48
(つづき)

>>492

<きみは何を示してきたか>


>十月からの俺の全てのレスに、そういう姿勢の痕跡が見えるでしょうか、見えないでしょうか。
>知的誠実さがか細くても、残っていることは残っているでしょうか。そうでないでしょうか。
>ここを確認しないと、話しが続けられません。
>ない場合は、俺はただの放蕩者だったことになります。名乗りたくない名前を名乗ることになります。

率直に言う。きみには厳しい答えかもしれない。
おいらにはわからない。簡単に同意もできそうな内容でもないし、
かといって、そうでないわけでもない。
まあ、単に同意を求めて肩の荷を降ろしたいんなら、
いくらでも、そうだね、と言ってあげられそうだけど。
そういう問題でもないっしょ?

とりあえず以上。
きみに議論する気があるなら、またレスをしようと思う。
きみがこの議論に価値を見いだせれば、議論は続行可能である。
とりあえずきみはいくらでもレスを重ねられて構わない。
(あいにくおいらには今すぐのそんな時間は取れないのである)
だからきみのお好きなようにね。
それでは。



498 :ニプレス:05/03/02 22:28:30
>>476
 いや、永井均にこだわらなければならないですね、むしろ。

>>479-481
 どうも、ありがとう。でも私なんぞをほめても何も出てきませんよ(笑)

 ところで、この板の表層には何かを発言するものに対して徹底的に批判する傾向を持った人が
多くいるようなので(どこかでカオルさんも言っていましたけど)ageると「電波」とか
何とかといった不毛な定義との格闘が伴いそうに思えます。

499 :ニプレス:05/03/02 22:38:34
それと>>481の話は…。
 joyさんが聡明で理想主義的で、屈折したところがなく、生活に余裕のある人のように思えて
私とは考え方が違うように見えたのです。嫉妬ですかね。それでくだらなく思ったのかも。
その上で念押しとして、私は他のスレに干渉する意図はミジンコほどもありません、と断っておきたいと思います。

 私が気になったのはjoyさんがプラトンやソクラテスに精通していて、現代において忘れられがちな
原初の「哲学」の精神を擁護するもの、のように次第に振舞い始めているのでは?と感じたからです。
でもそれはjoyさんが「こう」思われたいと願う虚像ではないでしょうか。
あのスレで問われていることはまさにそういう虚像を越えていくような「正しい」
(つまり『真』を希求するような?)議論=論駁だったはずではないでしょうか。
 「ソクラテスが好き」みたいなことも言っていますが哲学において好き嫌いは射程外なはずですし…。
また、プラトン・ソクラテスを学的に語るならば『弁明』が最初期の記念碑的な作品であることを
はずすわけにはいかないと思います。それをつかれたあとの148の彼の答えは意味不明ですし。
(これが彼は虚像を作り出そうとしているのでは?と私が思った理由の一つです)

 せっかく「気に入ってくれたらいい」と紹介してくれたのですけど…。
気の利かない返事でしたかね?だとしたら申し訳ありません。
 私は知っている、知っているというよりも
知らないことは知らないといえる、(リマールさんのような)態度をすばらしいと思ったりするのですが。

500 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/02 23:32:18
>名無しさん
そうか! 哲板の皆が持っている、「議論」という概念に関する覚醒が、なかったか足りなかったかしたわけだ。
俺風の言い方でいうと、議論を愛する人がわんさかいるわけですね。

哲学には、まず智恵へのロマンがあって、弟分とか伴侶としてロマンへのロマンがあって、
第三に議論へのロマンがある、と自己内で理解しておきます。
この第三が、上二つの交接に関わっているのかもしれませんね。

とにかく、「ロマン」と理解すると、何か、自動的に体で覚えていくような気がします。

議論の世界は、カオルさんがついていけないと口にするような、厳然さや殺伐さも示さねばならない世界なんですね?
わかりました。車の教習所のときの鬼教官をイメージして、その世界で我がロマンをぶちかましてみたいと思います。

あ、それから四時から十時の間は、連投でレスが出来なくなったのです。

501 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/02 23:58:05
(続き)
議論というと、今まで何でも一人でやってきました。
「哲学とはただの言葉遊びです」スレの694をご覧ください。
手前みそなのですが、このレスが出現するにいたった自分の思考の順序を披露します。

1…哲学とはただの言葉遊びです。
俺…哲学はただの言葉遊びなのか? ただの言葉遊びといったら、なぞなぞや回文やしりとりがそうだ。
俺…哲学と、なぞなぞや回文やしりとりは、同じなのか?
俺…かなりの違いがあると思われる。
俺…よって、哲学はただの言葉遊びではない。

と考えて、ちょっとアイデアをひねった後、過去ログに既出がないか調べ、レスをしたものです。
正直言って、「さぁ、どんな論駁があるか?」と構えていたんです。
ですが、何もないままです。目立たない小さなレスになってしまいました。

それもそのはずで、寓話という形をとったからです。
これでは反駁のしようがないことが、後で自分で見てみて、わかりました。
よくて評論の対象です。

議論というのは、1より下の俺四つを、複数の人間で共同で進めていくことを言うんでしょう?

おかげさまで、哲板を見る目が変わってきそうです。
自分には「話しだけ」に見えたものも、こうした共同作業に対する覚醒がなかったことを考慮すると、
全然違って見えてきます。

502 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/03 00:21:25
アドレスです。
「哲学とはただの言葉遊びです。」
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1046158580/l50

503 :考える名無しさん:05/03/03 01:20:10
ニプレスへ。

>>498
>不毛な定義との格闘が伴いそうに思えます。

了解、やっぱり大きなお世話だったみたいだね。
おいらが、多くの人の手に触れるべきというのは、
もちろんたんなる批判者の手に、という意味ではなく、
より多くの賛同者、共感者の手に身近に触れたら、
と思ったからだ。これは、一如不二だからしょうがないかと
思ったんだけど。まあしょうがないか、きみもその現場を
知らないわけでもないのだろう。

あときみを褒めたのは純粋な善意からだよ。
(いちおうそのつもりだよ)



504 :考える名無しさん:05/03/03 01:21:41
(つづき)

>>499

まずおいらの意見を言う前に一つ訂正。
『joy』さんではなく、『Joy』さんでした。
気づいたらすぐに訂正すべきだったね。(失礼)

ではおいらの意見。おいらが前もって言っておくべきことは、
別においらはJoyさんを優遇しているわけではないよと言うことかな。
あの中で、最低3人の名無しの論客がいて(つまり4人以上が名無しと
して確実に参加しているということ)、それぞれの論客に対しておいらは
議論としての有意義性を見たんだ。だからおいらはきみのように嫉妬が
あったとしてもそういうのは切り落として評価したつもりだった。
もしきみがそういう嫉妬を持っていても、その傾向は否定されるものでは
ないことは一言付け加えておくけど。まず評価できることは傾向が
ばらばらだったこと。おいらの主観だけど、欠点を欠点として認め合える
ような空気があったように思えたんだ。

それから、知識至上主義が一旦エポケーされたこと。これはおそらく
きみの指摘する>>148で明確になったんじゃないかとおいらは思った。
ここできみは虚像の現場が作成されたと言うが、それもやむなしだろうね。
議論そのものは実際性のない虚像の現場だからね。
それを肯定するのは議論の場において一つの大事な作業だと思う。
自分たちのいる議論の場が、それを自覚することを示したのだね。
あそこから、それぞれの論客に自省作用として働き始めたと言っても
よいと思う。>>148意味不明に思えたのは、あれは論拠としてではなく
議論の充実を図る契機(始動因)としての意図があったからだと思われ。



505 :考える名無しさん:05/03/03 01:22:36
(つづき)

>あのスレで問われていることはまさにそういう虚像を越えていくような「正しい」
>(つまり『真』を希求するような?)議論=論駁だったはずではないでしょうか。
これには一定の留保が伴うと思うで簡単にはおいらも答えることはできないけど
4、5時間の議論でそれができたら、おいらはすごいと単純に思う。
真を希求するのは、真を体現することとは別だと思うし、
それは時を超えて表現されると思う。
デカルトやニュートン、アインシュタインの発見のように。

> せっかく「気に入ってくれたらいい」と紹介してくれたのですけど…。
>気の利かない返事でしたかね?だとしたら申し訳ありません。
そんなことは絶対ないので気にしないで。
ぎゃくにおいらも考えさせられることばかりだったしね。

> 私は知っている、知っているというよりも
>知らないことは知らないといえる、(リマールさんのような)態度をすばらしいと思ったりするのですが。
ちょっと意図することがよくわからないけど、そういう態度は素晴らしいと思う。
けど知らないことを知らないと言わないこと自体は、それほど悪いことでもないと思う。

いちおう言っておくけど、おいらはプラトンなんてほとんど知らないのであしからず。
きみと見え方が違うのはそれが原因なのかもね。



506 :考える名無しさん:05/03/03 01:23:33
>>500-501 リマールへ

自分で考えた結果がそれなら、それで間違いないと思うよ。
寓話は議論しにくいのは、おいらもそう思う。
とりつくしまがないのである。これは勉強になったね。
(別にからかっているわけではない)

議論には各々のメソッドがあるわけだから、
きみに何らかの働きかけが与えられたと思うだけでおいらは充分だ。
むろん、おいらもきみの意見で勉強になったし。

あときみのロマンの意味も何となくわかった。
おいらの考えを言っておくとロマンは交接することはない。
これは常に単独者の姿だとおいらは思う。



507 :考える名無しさん:05/03/03 01:25:08
(つづき)

あと以前のきみのレスで簡単に返せることと言ったら、【叡智界】のレスなのかな。(>>485
きみの項目の中で、【カントの叡智界】という用語が妥当な定義といったら、
正直見受けられない。【カントの叡智界】は道徳的、真理的な理念が実現し完成された
ユートピアの世界のことだと思われる。むろん神智的(ある意味オカルティックな)な
観念に惑わされても困るのだけど。

おいらは思うのだけどこの叡智界は虚構ではなく、道徳の実践によって示されるわけだから、
決して、肉体や物質の区別が前提になるわけではないと思うな。
きみの定義>>485は【表象界】がよく当てはまると思う。
とりあえずこれは、おいらの考えだから他の人の意見も伺いたいところだね。
例えばカオルはどう思うのかな?


508 :考える名無しさん:05/03/03 01:27:33
(つづき)

とりあえずおいらの【表象界】の定義を言っておこう。表象界はアポステリオリ(経験的)
作用により構築される現場であり、現実世界とは一線を隔てる。心の内面の精神世界と
ほぼ同一の意味と思われる。また【現実世界】と【表象界】の間には【感性界】があって、
ここが理性(理念)のない動物が住まうところ。言い替えれば、経験を持ってして
計画を立てるところのない者達の住まうところである。つまり【表象界】とは、『言葉』とリンクし、
その『言葉』が示すところの世界である。寓話や、神話や、象徴性など、そういうものは
誤謬も含めてすべてここに含まれる。その【表象界】に住まうことによって【叡智界】という
ものがつまり想定されるわけだ。まあ、その【叡智界】にたどり着いたと錯覚する(させる)
ところがつまり【象徴界】だと思われる。寓話、神話、詩、小説などから読み取れるものの
ことだね。【象徴界】の欠点は、実践性が働かないところだろうか。観念の中で始動して
しまっているわけだからね。

で図表化するとこんな感じ。


【現実界】 【感性界】 【表象界】 【象徴界】 【叡智界】

  物     生命    言葉    理念    真理



とりあえずこんな感じ。
いちおう言っておくと【叡智界】が動物に識別できないかというとそうではないと思うよ。
むしろそこに回収されるようなものだと思われ。【叡智界】はどうしても【他者】を前提に
する必要があるからね。とりあえず以上。


509 :カオル:05/03/03 01:50:16
>>450
>その件についてはエポケーしている(考え続けている)状態なのかな。

わたしはいい加減だから、自分で言ったことをその場で裏切っていきます。
何でも書いてしまうし、後悔もするけど、Tomorrow is another day です。(^_^;)
わたしにとってのエポケーは、論理と生との矛盾を埋める戦略でしょうか。



510 :カオル:05/03/03 01:57:13
>>452
>こういう台詞に、おいらは居心地の悪さを感じるんだ。
>別にカオルを責めている訳じゃない。

だれかの居心地が良くなったら他のだれかの居心地が悪くなります。
もしそれが排除の論理なら、結果的にわたしも排除されると思います。

>公共空間であることを理解してくれ。
>そういうことをいえる場所はいくらでもあるからそこへ行け。

もしかして規制議論とかでお話ししたこととかある人ですか?


511 :カオル:05/03/03 02:09:10
>>452
>好き嫌いの次元を、こころで整理していくことが道徳
>なんじゃないかとおいらは思うけど。

もしかして好き嫌いを論理で整理する、ですか?
わたしは先日それを「ロジックモラル」と命名しました。(笑)

わたしはいろんなスレやレスがあっていいと思っています。
哲板にも規範や枠組み作りに熱心な人たちがいるけれど
エロやエッチネタよりそっちの方の人格がムカツキますね。
あなたがそういう人でないことを祈るばかりです。


512 :カオル:05/03/03 02:41:39
>>453
>きみの言葉を見ておいらは「となりのトトロ」に出てくる「まっくろくろすけ」を思い出した。

わたしトトロ大好き!
大トトロのLLサイズのでっかいのが家にいます。
だって街を歩いてたらショップのウィンドウからね
大トトロがじーっとこっちをみてるんだもん。
もう買うしかないじゃないですか!?
で、ほんとうは特大のがほしかったんだけど
1mくらいあってとても持って歩けないから
持てるので一番大きいのを買ったんです。
でも歩いてても電車に乗っててもじろじろ見られちゃって
もう死ぬかと思うくらいはずかしかったです。(^_^;)

今はアザラシ型ロボットのパロちゃんがほしい!
だれか買ってくれる人いないかなぁ。
たった35?円です。

一番かわいいパロちゃんの写真
ttp://intelligent-system.jp/


513 :考える名無しさん:05/03/03 02:42:02
カオルへ

>>509
>わたしはいい加減だから、自分で言ったことをその場で裏切っていきます。
それはおいらにもあるなあ。矛盾ってそこから来るんだと思うけど。
ちょっとそれはおいらは違うと思うんだよね。矛盾しない奴なんていない。
哲学徒(哲板住人て)ってそういう、いい加減なやつが多いと思う。(笑)

>わたしにとってのエポケーは、論理と生との矛盾を埋める戦略でしょうか。
了解。参“考”になる。ありがとう。


514 :考える名無しさん:05/03/03 02:43:07
>>510

>だれかの居心地が良くなったら他のだれかの居心地が悪くなります。
>もしそれが排除の論理なら、結果的にわたしも排除されると思います。

そんなつもりはないよ。おいらがみた居心地さは排除ではないと言いたい。
リマールには悪いけど、あれをリマールが自覚せずにいたら、おいらはずっと
居心地が悪かったと思う。しかしリマールは自覚した。居心地の悪さは軽減
したと思う。しかし逆にそれによってきみの居心地の悪さが残った。これは事実。
だから、おいらはそんなことを気にすることのないように、働きかけた。
そんなつもりだった。これからきみがどう思うかは、よくわからないけど、
とりあえず、そんな感じだろうか。

それとまあ、、、おいらはきみと規制議論で話したことはある。
とりあえずコテハンで参加はしていたけど、それを言うわけにはいかない。
今年は名無しで哲学板に参加しようって決めたのだね。
ちなみにきみは規制議論に興味がおありなのでしょうか。
もしよろしければ、付き合いますよ。(笑)
みんなもいろいろと文句がありそうだしね。


515 :考える名無しさん:05/03/03 02:46:31
>>511
>もしかして好き嫌いを論理で整理する、ですか?
>わたしは先日それを「ロジックモラル」と命名しました。(笑)

これはうまいなあ。
そう思えるふしは多々ある。
でも、それじゃ、、、一つ付け加えるけど。
好き嫌いの好き嫌いのどちらかを押さえるように整理していく
現場の中にそれがあるならきみのように揶揄されて当然だと思えるけど。
それが既に整理されたものとして、
道徳が示されることがあってもよいのではないか? 
それがその人の欠点となったとしてもね。


>わたしはいろんなスレやレスがあっていいと思っています。
>哲板にも規範や枠組み作りに熱心な人たちがいるけれど
>エロやエッチネタよりそっちの方の人格がムカツキますね。
>あなたがそういう人でないことを祈るばかりです。

純粋にきみの攻撃(反発)として受け取っておく。返す言葉もないよ。
ここで、むやみにいろいろときみに迎合するよりも、おいらに反省の
機会が与えられていた方がよかれと思うから。とりあえず以上だ。



516 :カオル:05/03/03 02:47:50

>たくさんいて、ほんの一瞬だけ見えて、つかまえようとすると手が汚れてしまう。
>それと、ちょっと思ったんだけど、真理と道徳って似ている。
>その時、その場所で、その人の中にあるもの。

論理でつかまえようとすると逃げてしまう。
言語で形式化しようとすると消えてしまう。
痕跡はのこしてくれるのかもしれないけど
痕跡は生きてるマックロクロスケじゃないですものね。

その時、その場所、その状況は、一回しかないから
道徳が示される行為も、つねに「そのたび」になってしまうけど
だから行為の痕跡は、相対化されてしまう運命にあるんだけど
でもそれは行為そのものの意味が相対化されることとはちがうと思う。


517 :考える名無しさん:05/03/03 02:55:52
とりあえずおいらは落ちる。(もう今日は書き込まないという意味)
それじゃ。


518 :カオル:05/03/03 03:08:38
>>513
>矛盾しない奴なんていない。

割切ろうとしたら、展開とか発展とか、
それが良いとか悪いとかは別にして
哲学することができなくなると思う。
自己弁護みたいだけど。(^_^;)

>了解。参“考”になる。ありがとう。

ヤスパースは、他人の心を記述しようとするときに
「説明」と「了解」を分別したけれど
了解!って
ふつうに「理解した」っていわれるより
理解された感が強いでしょう?
何となくそういう実感みたいなもので
ちゃんと溝を埋めたいっていう感じなのです。


519 :カオル:05/03/03 03:30:54
>>514
>それとまあ、、、おいらはきみと規制議論で話したことはある。

予想してたとはいえ…

((((;゚Д゚)))ガクガクブルブル

えーーだれだれ?
あっ!イケナイイケナイ…でもだれ?(^_^;)

現在もあやしい動きがありますよ。
議論はすでに尽くされた、というウソまでついて
運営者側の無知やいい加減さを利用して
申請して通してしまおうという魂胆なんでしょうね。
そもそも彼らには議論する力がないので
そういう卑怯な手をつかって権力を手に入れようとするんです。
権力っていうのはローカルルールとかそういう規範全般のことだけど
それについていくらでも議論できるのに
哲学徒ならそこに価値を見出すはずなのに
かれらはそれは望まないんです。
わたしとかが顔を出さないうちにサラッと通してしまおうと…
それって哲学徒としての資質に欠けていることの証明だっていうことに
きっと彼らは永遠に気づかないんでしょうね。なんかホントがっかり。

>>517 おやすみなさい

520 :考える名無しさん:05/03/03 03:31:50
最後のレス。

>>518
>何となくそういう実感みたいなもので
>ちゃんと溝を埋めたいっていう感じなのです。
実感は大事だね。(そう言えば前にもきみから
そんな言葉を聞いたことがある気がするな)
リアルだと、言葉じゃなくて行為で理解を示せることがあるけど、
ここじゃ単純にそうもいかない。
(いやあるいは同じなのかもしれないけどね。)
おいらもそれには気を付けないとなって思ったな。
まあ、実践がまたさらに難しいのだけどね。
あんまりまとまんないけど。


それじゃ、おやすみー


521 :カオル:05/03/03 03:47:25
>>514
>しかし逆にそれによってきみの居心地の悪さが残った。これは事実。
>だから、おいらはそんなことを気にすることのないように、働きかけた。
>そんなつもりだった。

わかりました。ありがとうございます。
ちなみにわたしはエロやエッチネタは苦手なので
注意してもらえるのはうれしいことなんです。
だけどリマールさんのはそういう人たちのそれとはちがうし
わたしはスルー(制裁)してるし、それくらいでいいかなみたいな。


522 :カオル:05/03/03 04:39:02
>>515
>それが既に整理されたものとして、
>道徳が示されることがあってもよいのではないか? 
>それがその人の欠点となったとしてもね。

道徳が整理される?
ハッキリいって怖い!

どんな方法で整理されるにしても
それは形式上、論理で整理されるのではないでしょうか。
言いかえるなら、頭の中では科学的手法で合理化されて
いるはずです。もしそれを肯定的に受け入れてしまうなら
極論ですけど、道徳のデータベース化も可能になって
しまいませんか。それってロジックモラルそのものです。

知識の体系としての道徳と、その体系を越え出るものとしての道徳
とのあいだにある溝を埋めるには、体系としての道徳から離れてみる
ことも必要なのではないかと思います。

このとき2つの意味でのエポケーが必要になると思います。
一つは、体系としての道徳についての判断保留です。
もう一つは、言語から離れてみること、つまり判断停止です。


523 :カオル:05/03/03 04:51:37
>>520
>まあ、実践がまたさらに難しいのだけどね。

実践のためのエポケーについて考えてみました。

たとえば、ある観念の体系では説明しきれないものが
概念枠の変更(パラダイムシフト)によって説明されるということがあります。
(カントのコペルニクス的転換とか量子論とか…)
けれどもこれは、また新たな観念の体系が構築されただけともとらえられます。

そこで、それぞれの体系のあいだの断絶や矛盾を
総合(統合)するという作業を通して、もっとも妥当な前提へ
漸近線を描くように近づいていくということになるんですが
このような頂点なきピラミッドの頂上をめざすようなやり方に
わたしは疑問を感じるんです。
なぜなら、その漸近線は真理に触れることがないからです。


524 :カオル:05/03/03 04:55:20

(つづき)

わたしたちが、わからないことをわかろうとするときに
ふつうは、なにかしらの妥当な前提を立てて、そこから理論を構築して
その理論によって、わからないことに向き合いますよね。
でもこのやり方だと、いつまでも理論とわからないこととのあいだが
埋まらないような気がするんです。

どういうことかというと、わたしたちが、ある理論にできうるかぎりの
わからないことを説明させたいと思うと、わからないこととのあいだを
いっぱいに広げるんです。なぜかというと、ある理論の真理性、
普遍性は、わからないことをどれだけ遠くから俯瞰できるかに
言いかえると、どこまで神の視点に近づけるかにかかっているように
信じられているからです。

たぶんこのときの理論の妥当性の根拠は、論理にもとづいているとか
統計にもとづいているとか、感覚の確からしさにもとづいているとか
になるんでしょうけど、これって単なる知識でしかないと思うんです。


525 :カオル:05/03/03 04:58:16

(つづき)

なぜかというと、わたしがある理論によって、わからなかったことを
わかる−解釈できるようになることと、わたしがわからないことに触れて
「それ」をわかることとは、まったくちがうことのように思えるからです。

わたしにとってのエポケーとは、「それ」との「あいだ」をつくらないこと
つまり「それ」を解釈してしまう可能性としてのパースペクティブを捨ててしまう
という意味での判断停止によって、できうるかぎり「それ」に近づいてみる
ということを可能にするための方法論なんです。

わたしがこの実践に期待しているのは、科学的手法によってえられる知識に
内実−生命が与えられるかもしれないということと、科学それ自身によって
できないこと、つまり理論の前提(うたがえない原理としての真理)の意味を
理解することが、実践からえられた感性(をメタな視点にすること)によって
可能になるかもしれないということです。

もちろんそのような手法で何かがえられたとしても
それを言語化することは、かぎりなくむずかしいことなのはわかっています。
また言語を意図的に排するような行為が、おそらく哲学的には退歩なことも
わかってはいるんです。でももしかしたら退歩も前進かもしれないですから。


526 :カオル:05/03/03 05:07:41
>>459 ニップルさん
>私のほうは休日出勤やら、働かない同僚からの嫉妬などで体調が悪くなる一方です(笑)。

お仕事ご苦労さまです。
ほんとうに疲れてしまうまでがんばらないでくださいね。
たぶん働かない人たちも働けるなら働きたいんだと思いますよ。
じっとしてられないほどの体力があったら体は動いてしまうし
だまっていられないほどの知力があったら頭は働いてしまうし
どうせなら楽しくやる術を知っている人は何にでも夢中になれるし
がんばれることに感謝できる人はだれにでもやさしくなれるし…
もちろん哲学徒がこのようなドクサに従順になれるとは思わないから
ニップルさんのストレスは想像できますけど。

おススメはケンカすることです。
イヤなものにはイヤと言う。
むかついたら人にも物にも当たる。
どうしようもないヤツになってやるんです。
そうするとね、みんなとお友達になれたりします。ホントだよ。(^.^)

あとのレスはまた明日にでも。今日はここまで。


527 :カオル:05/03/03 05:16:22

↑こういうのってやっぱり最初からできる人にはできるということなのかな?
だとしたらわたしはとんでもないこといってるよね。ごめんなさい。

みんな同じ人間なんだからっていう感じと
みんな違う人間なんだからっていう感じを
一緒にしたらどういう感じになるのかな?


528 :考える名無しさん:05/03/03 23:11:23
>>512
トトロはかわいい。


>>519

>現在もあやしい動きがありますよ。

あるねー。あれで申請を通すつもりなのかと、小一時間トイツメタイヨ
確かに議論自体を否定しようとする動きがあるのは、ちょっと悪質かと思う。
んーなら、おいらは、申請反対って名無しで書き込んでおこうかなぁ…


>>522

内容的には問題ないように修正したつもりだったんだけど、
きみにまだ拒絶反応を示されるのだから、まだどこかに問題があったんだね。
それはたぶん“整理”っていう言葉にかな。まあ
>どんな方法で整理されるにしても
とあるし、やはりその言葉のイメージに問題があるんだろうと思った。
とりあえず、今後道徳でこの言葉“整理”を使うのはやめようと思う。
今はわかることといえばそれくらいだ。


529 :考える名無しさん:05/03/03 23:13:17
(つづき)

とりあえず今現状のおいらの道徳の考え方を言っておこう。
実践の中にある道徳は、むしろ経験的な要素が非常に強いのではと思われた。
道徳に超越論的哲学による設定はあってもよいと思うけど、
個々の実践においては常にそれっきりで、アプリオリな設定を前提とすることが
非常に困難である。例えば、道徳的な行いをすることで、
逆に相手を傷付けてしまっては本末転倒であるように。
だからアプリオリは有意味ではない。

あと道徳における実践というと、消極的なものと積極的なものがあって、
待機し受容する道徳と奉仕し、行動する道徳と種類が異なる。
どちらがいいとは確実には言えない。しかし道徳のあるべき姿は
その自らの完全性によってその人の道徳の不足を指摘する。
その人の精神が謙虚なものであり続けるかぎり、
それが止むことはない。道徳とは痛みを必然的に持つ。


530 :考える名無しさん:05/03/03 23:16:38
(つづき)

もし世界全体が道徳的であれねばならないように働いているのなら
(実際にもそのように働いているように見える)、世界はカント流に解釈して
実践しなくてはならない。たとえば、道徳のようにみえるものと、道徳と峻別
しなくてはならないのかもしれない。何故なら、ほとんどの人間の行為には
道徳があわせもって既にあるからである。
しかし、道徳が超越論的(全体論的)である理由はどこにもないのだ。
むしろ道徳は、各々が各々の地平に赴いていくものでなくてはならないのではないか?
いちど理解し合い結集したお互いが、分離し、相互性を、お互いが補完しうる余地を
残すようにして、離れていく、その距離を保っていく。それも道徳だとおいらは思った。
その距離としてあるものは、実際性を傷つけないものであれば何でも代用可能だ。
むしろ代用こそに意味があるのかもしれない。その代用されたものは観念そのものである。
観念の開放がお互いを結びつける。そして観念の開放性の意味は、この道徳性に対する
充実としてある。道徳とはそのようにして存在自体が【象徴的】なのである。

どこかで読んだような文を切り貼りしたような文だけど、
とりあえずこんな感じでまとめてみた。(正直自信ないけど。)
今日は眠いので、これにて落ちます。
それじゃ。


531 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/04 02:05:33
>>506 名無しさん
日を追うごとに、こっ恥ずかしい気持ちが膨らんでいきます。
分割議論に多くの人があれほど熱中していたのも、
議論における「板違い」の指摘の強力さを恐れてのことだったのか…。いくら目を通しても、覚醒できませんでした。

哲板哲学における議論の位置付けを、なぜ誰も教え…、いや、自分で見抜けなかったのか!?

嗚呼、どっきりカメラにまんま嵌った芸能人は、こんな心境に違いない…。
いえ、これは単なる冗談ではないんです。

個人的に「メタモルフォーゼごっこ」と呼んでいる、何らかの概念に対する覚醒のときの、対処法があるんです。
○○のつもりになってみる、真似事ということですね。

抗えぬ力による覚醒の先行きが不安なときは、
「種子を破った芽は、固い土を押しのけて伸びていく際に、こんな気持ちになるに違いない」
「卵を破った動物に理性を与えたら、
 "このあと俺はどうやってコツを掴んでいけばいいのかわからない"と口にするに違いない」
「三十六度の皮膚から生えた髪の毛に生命があったら、一本一本、外気の冷たさに死の恐怖を感じるに違いない」

発芽、変態、脱皮、羽化、孵化、…こんなふうに、関心を抱き得るあらゆる生命の発生に、自分を対置させてみるんです。
世の中、自らで自らを鼓舞しないと、やっていけないことばかりですから。
視覚的なイメージまで想像できると、尚効果的です。当然、ホントかどうか、全ての想像に保障はありません。

議論での焦燥を孤高の誇りとする人びとは、こんな対処法を用いているのでしょうか?
でなければ、どうやって耐えるのでしょう。名無しさんはどうですか?

532 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/04 02:07:35

それから寓話についてですが、これは、自分なりに特殊な満足を感じる労務なんです。
哲学と哲板についても、―

丘があって、花園があって、花がいっぱい咲いていて、蜂が四六時中うごき回っている。
上方の日の目を見る花には、それだけ多く蜂が集まる。
後は勝手に、丘に「フィロ」、花園に「ソフィア」、個々の花々に「スレ花」というふうに簡単な名前を付与し、
蜂が一千回、花に止まったら、花は花としての役目を終える、
「パルス」というあだ名が広まった蜂にとっては、多くのスレ花が食虫植物になる、
スレ花が食虫植物に変化するのは、「ムートス」という仕組みによるが、それを操るのは難しい等、ルールを決める。
それで実際の哲学は、この世界の中の営みである。

…という寓話を拵えたほうが、自分の哲学観を楽に伝えられていいのだが、誰も相手にしてくれそうにない、

―みたいなことを空想しています。一体どんなもんなんでしょうか?
少しでも"面白いな"と思ったら、…それは俺の美学です。

533 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/04 02:11:11
>>506>>507
俺がざっくばらんに「叡智界」と呼んでいたものは、
確かにあなたの【表象界】【象徴界】【叡智界】を一挙に跨いだものでした。
議論に対して赤子同然ですので、ご容赦を強いることが続くかもしれません。

【感性界】に動物というのはドンピシャで納得できます。
「腹の虫が納まらない」「虫の居所が悪い」「虫唾が走る」「弱虫」「泣き虫」のように、日本人が、
形而上学に何の業績も残していない中でも、その存在は感知していて、伝え残してきたものとして理解しています。

この目の覚めるような定義体系のうち、
【感性界】を【動物的個我】、
【表象界】を【理性的意識】、
【表象界】【象徴界】【叡智界】を【叡智界】(これは前述のとおりです)
…と呼んで、これまで他者との議論を避けながら、自分の考えを組み立てる道具としてきました。

自分の望むテーマが終わるまでは、いったん道具として完成した概念だけを用い、
決して他の哲学者の概念を参照しない、用いない癖が、自分にはあります。
他者にとって誤解を招く名称であっても、洞察の浅い内容であっても、
まず自分の仕事を片付けるのが先決という手段を取っていました。
概念の再構築の繰り返しになってしまうことを、恐れていたからでした。

そして、その仕事とは、「人は何で生きるか」という問いの探究でした。
ですから、>>485は、トルストイの『人生論』だけが底本なんです。触れなかったのは、今後気をつけます。
名無しさんは読んだことありますか?

534 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/04 02:31:50

>>529>>530
目を通しました。>>529の後半が特に光っていると思います。

自分は、「道徳」か「人生」かとテーマを絞られると、窮屈な思いを抱く状態です。
逆に名無しさんは、個々のテーマに特化できる力を有していると思います。

これから「★ 人 生 哲 学 ★」スレ http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1101048432/l50
に移動しようと思っています。いかがでしょうか?

535 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/04 02:33:06
>>521 カオルさん
>わたしはスルー(制裁)してるし、それくらいでいいかなみたいな。
確かに、俺は何の返事も期待していませんでした。

その証拠に、この冬、嫌に自分を惹きつける歌が見つかって、
雪が深まるにつれて、散歩の途中、自分の足あとを振り返りながら、口ずさむことがますます多くなっていって、、、
という歌があるんです。

加山雄三(ダサッ)の「旅人よ」という歌です。有名な歌で、カラオケにもベスト盤にも必ず入っています。

今はくだらない酒飲みや銭儲けに熱中している年配の人たちの、若く貧しいときの心境を想起させてくれて、
彼らに対する妙な敬意もおまけでプレゼントしてくれる歌でもあります。

ニプレスさんにもお勧めします。
既知だったら、スマソです。

536 :カオル:05/03/04 03:51:45
>>459 ニップルさん
>たとえば話題にものぼっているデカルトのコギトは何を証明しているのでしょう?
>「私」の存在は疑えないという自己明証性?
>すくなくとも考えているたびに私は存在する!という主張は「デカルト」本人の専売特許なのに
>後世の「私」たちにも広く流用されている。しかも後世の私たちの専売特許として。

コギトは証明ではなくて確信なのだと思います。
確信がコギトという虚構を「たびごとに」創造しつづけているのではないでしょうか。
コギトは、はじめからそこに「ある」ものではなくて
確信によって創造された「仮想の実在」なのだと思います。
コギトの誕生は、あらゆる真理のはじまりであるとともに
あらゆる誤謬のはじまりなのかもしれません。────

証明は客観的なものだけど、確信はその人だけのものです。
とはいっても、デカルト本人がコギトの確信を「みんな同じさ」
って、デカルト主義によって証明に転化させてしまっているから
文献学的にそういうところを責めらると困ってしまいますが。(笑)


537 :カオル:05/03/04 03:55:04

───では、いったいだれが確信しているのか?

名無しさんの>>437-438を前提にお話しさせてもらうと
構図としては、言語(論理の形式)から析出されてくる<わたし>が
「存在する」という仮象を虚構しているようにみえますが
そうではなくて、析出されてくるのは「存在者は存在する」という
思考の原理としての同一律(「AはAである」)なのだと思います。
つまり、思考する 故に(=) 存在する、ということです。

なぜなら、論理の形式は「生の形式」を越え出るものではないからです。
どういうことかというと、「存在者は存在する」の「存在する」は
「存在者」の「実在的述語」ではないということです。
イメージとしては、
「存在(Sein)」=「生の形式」≒「生そのもの」=「力への意志」ですが
わたしたちは、生そのもの(生命の生成そのもの)を認識することはできません。

言語が、生のなかで<わたし>という夢をみているのでしょうか?

「存在は、実在的述語ではない」については

入江幸男のホームページ(「神の存在証明への批判」カント)
ttp://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/kougi/kyotsu/2002ss/2002A08Kant.htm

を参照してみてください。


538 :カオル:05/03/04 03:57:40

>「ほんとうの独我論」へのアプローチだと思います。

永井は『子どものための哲学』の33〜34nでこう書いています。

 ぼくというものが、森羅万象がその上でくりひろげられる舞台のようなもので
 「ない」とすれば、ぼくとはいったい何なのだろう?
 同じことをこう表現してもよい。
 すべてのひとが平等に、森羅万象がその上でくりひろげられる舞台なのだとすると、
 ぼくはそのうちのひとつであるにすぎなくなる。でも、だれだってみんな、
 そのうちのひとつだろう。だとすると、ぼくと他人たちのちがいはどこにあるのか。
 ぼくと他人たちとは、他人Aと他人Bとがちがうようにちがうだけなのか。
 そんなはずはない。他人たちそれぞれのちがいかたと、
 ぼくと他人たちとのちがいかたとは、現にちがうちがいかたをしている。
 「この特別なちがいかた」はいったい何なのか。
 ぼくであるというこの特別さは、いったいどこから来るのか。
 ぼくというものは、いったい何なのか?

世界-内-存在としての存在者「ぼく」には
さらに入れ子になった自分<ぼく>の世界があります。
その自分<ぼく>の世界からみた、自分<ぼく>と他の存在者「ぼく」とのかんけいと
自分<ぼく>の世界を成り立たせる基盤としての世界-内-存在である存在者「ぼく」と
他の存在者「ぼく」とのかんけい、または同格の他の存在者「ぼく」同士のかんけいは
当然のことですけど、まったくちがいますよね?

わたしは「森羅万象がその上でくりひろげられる舞台」というのは
世界-内-存在としての存在者「ぼく」の存在形式のことだと思うんです。
で、存在者「ぼく」は、その存在形式の上で、言語によって、あらたに、
<ぼく>だけのこの世界を、意味としての他者(>>128)を排除した
独我的な(唯一の)論理空間を、創りあげることになるのではないでしょうか?


539 :カオル:05/03/04 04:00:24
>>529
>実践の中にある道徳は、むしろ経験的な要素が非常に強いのではと思われた。
>道徳に超越論的哲学による設定はあってもよいと思うけど、
>個々の実践においては常にそれっきりで、アプリオリな設定を前提とすることが
>非常に困難である。

はい、基本的には同意です。
ですが、わたしたちが「それ」を道徳と呼ぶためには「それ」を道徳と呼ぶための、
なにかしらの規準が先行しているはずです。
それが先人の経験としての、過去から継承されてきた可能的規範としての道徳です。
ですから、そもそも道徳が個別の経験や個人の主観で成り立つような規範ではない、
という意味では、先天的ではないにしても、先験的な要素はあるように思われます。

>例えば、道徳的な行いをすることで、
>逆に相手を傷付けてしまっては本末転倒であるように。
>だからアプリオリは有意味ではない。

ロジックモラルの信奉者や道徳が自明の規範になってしまっている人の道徳は
ほとんど暴力に感じられます。道徳という権力の運用の仕方に長けている彼らは
つねにみずからを社会的(共同体的)に正当化しつつ、たいていはべつの差別的な
感情的尺度によって、気に入らないものに攻撃をしかけ排除しようとします。


540 :カオル:05/03/04 04:02:02

>あと道徳における実践というと、消極的なものと積極的なものがあって、
>待機し受容する道徳と奉仕し、行動する道徳と種類が異なる。
>どちらがいいとは確実には言えない。

「待機し受容する道徳」とは、たとえばどのようなことでしょうか?

>しかし道徳のあるべき姿は
>その自らの完全性によってその人の道徳の不足を指摘する。
>その人の精神が謙虚なものであり続けるかぎり、
>それが止むことはない。道徳とは痛みを必然的に持つ。

道徳を絶対化してしまう人には、道徳は語りかけてこないでしょうし
こちらから語りかけることもないでしょうから、お互いの生命的つながりは
消失してしまうでしょう。もはやその道徳に、生きた他者は介在してこない
でしょうから、それは他者へのまなざしを失った痛みをともなうことのない
冷たい形式的な道徳になります。

道徳の実体化、擬人化の是非はともかく(笑)
道徳との対話にこそ、精神の価値を見出すという考え方には賛成です。


541 :カオル:05/03/04 04:56:32
>>530
>そして観念の開放性の意味は、この道徳性に対する
>充実としてある。道徳とはそのようにして存在自体が【象徴的】なのである。

その観念に、どうやったらこの体とこの心の痛みを伝えることができるでしょう。
わたしが思うのは、もしその対話による観念の解放が、放縦をまねくという意味での
道徳を傷つけるようなものではなくて、差別や偏見の温床としての悪習からの解放に
寄与するのだとしても、それは「道徳性」の充実ではなくて、記述された規範の体系
としての「道徳」の記述内容の変更なのだと思います。

「道徳性」の充実は、やはり<わたし>の行為にかかっているのだと思います。
道徳は、それを体現する<わたし>の行為そのものに示されるのではないでしょうか。
その行為の規準を道徳というのではなくて、規準として内面化された規範的言明としての
道徳と<わたし>との対話を前提にしながらも、最後は<わたし>によって具現化された
その使われ方そのものに、あるいは使われてはじめて、規範的言明としての道徳に
命のこもった意味が与えられるのだと思います。

宗教と宗教性がちがうように、道徳と道徳性もちがいますよね?


542 :カオル:05/03/04 05:21:14
>リマールさん

わたしは、リマールさんの書き込みがいつも楽しみです。
あまりにも完成度が高いので、つい作品を鑑賞するように眺めてしまうけど
その美学的な文体と構成の裏に、生きた暖かい血が流れていることを
感じることはむずかしくありません。
だからこそ軽々しく太刀打ち(レスw)できないんです。力不足なんです。
観念の世界で遊んでしまう自分のレスがまがりなりにも軌道修正されて
この体にもどってこられるのはリマールさんのおかげなんです。

「板違い」なんて気にしないでください。
今まで通りのリマールさんのスタイルでいいと思います。
わたしは大好きです。

書き込まれたレスや議論の内容は
その人の生きた全人格が埋めていくんです。
言葉に命が宿るというのはそういうことだと思っています。


543 :考える名無しさん:05/03/04 05:22:16
>カオルへ。

今起きたところで、今きみのレスを見ているよ。
面白い、ちょっと複雑ダケド(笑)、けど読み応えある。
とりあえず、おつかれさまーを言いにきたのである。
それじゃ。


544 :考える名無しさん:05/03/04 05:34:04
リマールのレスが面白いのは確かだ。
存在感がありすぎる。悪く言うと主張が強すぎるという意味だけど。
哲学的議論においては、全然悪いことじゃない。
むしろ引いてしまう方が悪い。迎合、優柔不断は哲学の作成においては
邪魔だったりする。あと>>542
>観念の世界で遊んでしまう自分のレスがまがりなりにも軌道修正されて
>この体にもどってこられるのはリマールさんのおかげなんです。
にもおいらは同意しておこうと思う。

悪いところを修正するよりも、良いところをのばすのは、
成長のための基本的スタンスだから、もしおいらの言葉が苦言めいていたとしても
気にしないでおくれ>リマール。説教したり始動したりできるほどの能はおいらにはないし、
するつもりはない。対話としてきみとの議論を求む。と、とりあえず付け加えておく。
そういうことはまだきみには言ってなかったしね。以上。
とりあえず長居は無用だ。おいらは落ちるっ

545 :考える名無しさん:05/03/04 05:38:32
>説教したり始動したりできるほどの能はおいらにはないし、
始動ではなくて、指導ね。んじゃ。

546 :カオル:05/03/04 05:46:14
>>543

おはようございます。(^.^)

わたしは今日はもうこのまま仕事にいきます。
でも心配しないでくださいね。
仮眠とってるから大丈夫です。


547 :考える名無しさん:05/03/04 11:16:55



548 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/05 01:15:45
またまたご冗談を。
俺はただ単に、あなた方の右脳の縁に飛んでいって、
「活発にいきましょう」と、止まったり針で刺したり、刺激を与えているだけだと思います。
覚醒を促しているということです。

俺も、>>529>>530>>539>>541のやり取りを見ていると、
語彙の豊穣さ、文意の慎重な追跡具合とか(もうこれ以上、抽象的な言い方が出来ない)、
一言で言って、その論理性に関心が向かざるを得ないし、自分を責めざるを得ないんです。

…哲学はその詩的要素によって文科的な人びとの気持ちを惹きつけ、
その論理性によって彼らの知性を強固にし、その弱さをためなおす。
その論理性は理科的な人びとを惹きつけ、その詩的要素によって彼らの知性を柔軟にし、
彼らがひどく無味乾燥な専門家かたぎに陥るのを防ぐ。…W.ジェームズ

まさしくこういうことが起きているんだと思います。紹介は二度目です。
きっと部屋の中が全然違うんだ。本棚の内容、音楽ソフトの数等、趣味をあらわすものが。

それから、家族・親戚について、どうしても手ぶらであの世に行けない事情(これ以上は勘弁)があるので、
鼻を刺すような生と死の香りが漂うのも当たり前です。

549 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/05 01:42:24
これから俺は議論の世界に飛び込むわけです。
論ばくスレのレスの速度が、俺には全く想像がつきません。

「巧遅は拙速に如かず」という言葉があります。出典は『孫子の兵法書』です。
兵法書ですから、戦争に勝つための昔のドグマということになります。
「拙くても動きの速い兵隊は、逆の軍隊より、強いですよ」と言っています。
戦争に勝ったら、殺戮や略奪とか、人民を辱めるとか、見せかけの和平の締結とか、
勝者は敗者を自由に扱えることになります。
例えば十三世紀のモンゴル帝国ですが、彼らは敗者の文化の徹底的な破壊を美徳としていました。
食糧を全部奪って、次の街へ向かったんです。後は煙の昇る家々だけです。
広大な帝国でしたが、極端に言うと、中身はかすかすで、ただ最前線にだけ人の営みがあったようなものです。

俺は自分の考えで、相手を雁字搦めにして自由に扱うということより、逆のこと、
こう…、ベンチに腰掛けて、肩並べて黙って遠くの空を見る、未来を想うとか、そういうことを常に望んでいるので、
冒頭のドグマの逆、「平和を望むなら、拙速ではなく巧遅な方法が有効ですよ」を採りたいと思います。

しかし、ここまでで二十五分、ん〜、どんなもんでしょうね。

550 :考える名無しさん:05/03/05 02:22:41
リマールへ

>>534
>目を通しました。>>529の後半が特に光っていると思います。

いちおう、褒めてくれて感謝。“いちおう”とくだらない前置きをつけたのは、
違和感があったことを伝えるためだ。むろんきみを責めるためではない。
たとえば、>>530で主題化されたものは“痛み”だろう。
痛みと表現することにおいらは、なんとなく欺瞞というか、おいらでは
ないものを感じたわけである。誠実さがたぶん起因するのだと思う。
誠実でないからこそ、痛みや苦しみという言葉が言えるわけで、
たとえば悲哀や悲痛を込めた作品を書いた偉大な文学者に多くある
快楽主義的な傾向に対する違和感(嫌悪感)といえばいいのか。
そういう言動一致の誠実さがおいらにはなく、実を言うとあの部分が
おいらが一番自分の文で嫌いなところだった。
もしかしたら書いている最中は誠実だったのかもしれないが
書き終えた瞬間、おいらは誠実ではなくなったのかもしれない。
こういう感性はきみにもわかると思う。まあたんなる、
素直になれなさだろうけど。それはそれとして。
とりあえず、何かの足しになるだろう(道徳論議を考える上で)
と思ってのそんな感想である。あしからず。



551 :考える名無しさん:05/03/05 02:24:57
>>534 

それと一つ付け加え。別にスレを移動する必要はないと思う。
人生論がやりたいのなら、ここでやるべきだと思う。
しかしその内容すべてに議論できるかというとわからない。
人生哲学には実はおいらは一定の留保を持っている。
それは議論者であることが多少関係してくると思う。
たとえば一つにさっき言った誠実さの問題。
何かを語ったあとのそれに対する責任がとれないため軽々しく
発言できない、ということ。自らが自らで把握するしか
方法がないのではないかという思い。
最終的にはきみ自身の問題であって、
おいらの問題ではないということ。

また簡単に同情されたくないという思いがある。
>>421に対して思った感想がまさにそれだったわけだ。
あのとき反発の態度をとったのはそれが理由。
きみが尊重するロマンや悲哀、悲痛の中にある同情の
対話形式自体おいらは信用していない。
これはおいらの主義的な考えだが、それは
対話や質疑の応答で単純に見出されるものではないと
いう確実な判断をすでにしているので、そのへんをよろしくたのむ。

たとえば>>548のきみの家族の話になるとおいらは、
やはりついて行けなくなる。(まあそんな甘いことを
おいらも言ってられないわけだけど。)


552 :考える名無しさん:05/03/05 02:25:45
>>533

トルストイの『人生論』がモデルの底本。了解。
ちなみにおいらは読んでない。申し訳ない。
でもきみのスレはいちおう目で追っているから気にしないで。
こういうモデルの対立は、どちらかに回収されたりすることはないから、
(今までの経験上)きみはきみでやられたらいい。おいらはいうまでもなく
きみのいいなと思ったところを既に吸収させてもらっているよ。

>自分の望むテーマが終わるまでは、いったん道具として完成した概念だけを用い、
>決して他の哲学者の概念を参照しない、用いない癖が、自分にはあります。

まあ、その方がいいかもね。おいらの理論モデルはけっこうむちゃくちゃ。
カントは言うまでもなくヤスパース、フロイト、ラカン、ライプニッツとごった煮状態だし。


553 :考える名無しさん:05/03/05 02:26:42
カオルへ。

>>536-537
感想を言う。

面白い!

・>証明は客観的なものだけど、確信はその人だけのものです。
・>「存在は、実在的述語ではない」
は勉強になった。

入谷幸夫のホームページは勉強になった。
わかりやすかった。
(それと補足、キルケゴールのも読み終えてる。)


554 :考える名無しさん:05/03/05 02:27:33
>>539

道徳の経験的要素、先験的要素について引き続き考えてみる。
道徳において、絶対的にあり得ること、又は絶対的にあり得ないことを考えるのも、
きみの意見を見て重要なのだと思った。

もし道徳が実践的である場合、人はこういう風な行動論理になるはずだ。
「おいらはAさんに〜をしてあげよう」……@
そして、〜をAさんにしてあげた。Aさんの反応はどうだったか?
じゃあ次は、Xさんを仮定して、今度はこういう風にしてあげようと@を修正して、
次の実践に備える。
ここにあるものは実践的で経験的だ。そして前提にあるのは道徳的世界だろう。
道徳的世界とは、まあ常識とか、宗教的理念とか、社会風紀でも何でも構わない。
それは何らかの道徳的行動を一つの形式に収束させるようなものとしてある。
そういったものがありえないことはない。これがつまり道徳の先験的要素なのだろうか。

>たいていはべつの差別的な 感情的尺度によって、
>気に入らないものに攻撃をしかけ排除しようとします。

道徳的に見ると、同胞への排除は非道徳的だから、
(まあ道徳観にも当然よるだろうが)何らかの感情的対立が道徳によって
生じるのかもしれない。あるいは道徳というのは感情的な操作を実行する
ものだと思われた。(これはただの感想)


555 :考える名無しさん:05/03/05 02:29:26
(つづき)

>「待機し受容する道徳」とは、たとえばどのようなことでしょうか?

究極的には、「受難」をおいらは連想した。たとえばひたすら我慢することだね。
しかし広義の解釈としては以下のものも含まれたい。その道徳的行為を否定する
ような状態としてあるもの。すでに次の行動が目的を持って措定されている状態で、
突然、別種の道徳的現場に遭遇してしまうような状態のこと。急いでいる時、
道の途中で道を訊ねられたりした場合など。行動に優先権ができあがっている
場合の状態を指す。

しかし、行動に優先権のない状態というものは、論理的にそもそもありえない状態
なので、これはつまり、突然に、遭遇するものとしての道徳として考えられたい。
そういう意味での受容だった。まあこのときの気持ちとしてはイヤイヤヤル道徳って
言うのが相応しいのかも。自分でもまとまっていなかった文だから、
混乱させて済まない。

いちおうこれはアリストテレス『形而上学』から得た解釈だってことを付け加えておく。
(岩波文庫p199)パトス(受動相、様態、属性、限定等々)とあり、
ここから道徳の受容と待機という解釈をおいらは得た。またパトスには『受難』という
意味もあるようで、ここに道徳とは無関係ではないとおいらは感じたわけだ。


556 :考える名無しさん:05/03/05 02:30:17
(つづき)

>>541

道徳に語りかけるのは難しいとおいらは感じる。たとえば眠い時、
挨拶するのが億劫になる。レスを考えるのだって気をつかうけど、
道徳を考える方がもっと気をつかう。本当にどうしていいかわからなくなる。
その人の役に立てたのか、もっといい方法はなかったか、
あと時間制限ていうのもある。道徳的規範に振り回されて
自分を見失ってないかとか。
おそらく仕事とかの共同作業って、
そういう部分をかなり占めると思うんだけど、
思うと、気を遣うことに限りがないような錯覚すら覚えたりする。

>「道徳性」の充実は、やはり<わたし>の行為にかかっているのだと思います。
>道徳は、それを体現する<わたし>の行為そのものに示されるのではないでしょうか。
確かに。
道徳に思弁的であることはかえって邪魔で行動に示されるべきということ。
しかしこうすると、たとえば待機し受容する道徳とは正対するもののように
思われた。きみはこれを批判しているつもりだったのだろうか? 
だとしたら、うーん、少し困ったことになる。これについては、少しずつ考えてみる。
(べつにこの件をテーマに今後集中して書き込むというわけではない。
 道徳における対話(葛藤)とはまさにこのことだと思うから、
 この部分においらは答えを出したくないのだ)

とりあえず以上。


557 :考える名無しさん:05/03/05 04:27:52
【寸評など】

それじゃとりあえずここまでのおいらの寸評を少し。

>>508はこのスレを見ながら考えたものでもあるのだけど、
たとえばカオルの場合の中心的考察は【現実界】と【感性界】の中間を
行き来しているようにみえる。リマールは【感性界】と【表象界】を行き来
しているようにみえる。おいらはどちらかというと【表象界】と【象徴界】を
行き来しているようにみえるのかもしれない。まあ、あの図表そのものは
たんなる合成品なので、それほど価値はないのだけど、そういう風に見て
みるとだいたいの哲学のパターンがわかるのではないかと思った。

思うにカオルの文章は、アリストテレスの形而上学によく似ていて、
いっしゅん取っつきにくいけど、間違ったことは絶対に言わないという
意味では信頼できる。それと女性らしいのか論考がすごく丁寧だね。
リマールの場合は情動的で、確信が強くあるように思われる。
でニプレスの場合は判断つかない(笑)。けっこう注目しているのだけど、
まだおいらには彼は雲の上の存在なのだ。もしかしたら彼は【象徴界】と
【叡智界】をすでに行き来しているのかもしれない。けっこう彼の意見に
どっきりすることがおいらは多いのである。

しかしここ(この哲学板)にいる者ならばいちど、
言葉を使用する必要が絶対にあるわけで
つまりそれは【表象界】を必ず一度通ると言うことになる。
そのことについて少し述べようと思った。



558 :考える名無しさん:05/03/05 04:28:47
(つづき)

アリストテレスの形而上学によると『表象』とはファンタシアと呼ぶそうで、
また英語のイマジネーション(想像)と同義でもある。

そして人はみなこの場を使用して、言葉を組み立てているはずなのだ。
ここが肉体という空間のパースペクティブを飛び越えるとは、
つまり一種の意識的超越が行われるからにほかならない。
ファンタジーの直接的意味や語源もおそらくここにあるはずだと思われる。
つまり、この状態のままでは人はみな観念の動物になってしまうのである。
リマールの寓話好きやカオルのデムパ文なんかはつまり人間が
観念の動物になった証拠とも言えるだろう。

そういったことを防ぐために言葉に目的を持たせろと言うことが
言われる。おいらが理念とする【象徴界】を【表象界】の次に置いたのも
そのためだ。何をするべきかわからないから、何かをするべきだと思うのが人の常。
その“何か”にあたるのが、【象徴的存在】なのである。
言葉というものはつまりこれに従って組み立てられる。
だからデムパ文と言われようと、寓話といわれようとそもそもの目的としては
有意味であり、目的があったことは否定されるべきではない。
哲学そのものが実はそのようなデムパ文の集合のようなものだからだ。


559 :考える名無しさん:05/03/05 04:29:12
ヒロシです・・・」のBGMで、

久しぶりに参照してみて、悲しくなりました。
話題は、コギトですか。
答えは出尽くしているのに。(=陳腐化しているのに。)

560 :考える名無しさん:05/03/05 04:29:44
(つづき)

おいらが哲学書を読んでいる時にいつも気を付けるのは、
読むのではなくて、いつも組み立てることを意識することだった。
あの語彙とこの語彙の関係はどうなっている? 
これはこういう意味だろうか?
こういう意味かもしれない。 ああこういうことを言いたいのか? 
ということがおいらの頭の中で行われる。
まあだから、小説を読むようにはいかないなと
言うことが痛感したわけで、そのせいか知らないけど
おいらは最近小説を読んでいない。
ちなみに、この前読んだのは村上春樹の「アフターダーク」だった。
それはまあ、関係ないが。

で、、、つまり読みながら、書く、つまり考える作業を行えるのが
哲学書のよいところで、もちろん、それは書写しても同じことなんだけど
(むしろよいことなのかもしれないけど)、
おいらがわかったことは、つまり哲学書を読むことは、
その人の思考に入り込むということに等しいのだと言うこと。
つまり、その人の思考そのものにになるということだ。


561 :考える名無しさん:05/03/05 04:30:39
(つづき)

そういう作りをしているものが哲学のデムパ文であるということだろうか。
つまり存在者の【象徴性】の【象徴】が哲学において言葉を用いて行われる。
哲学はデカルトのコギトのように自己言及性をたえず持っているのだと思われる。
純粋な哲学の場合、たとえばカントのような哲学は読みにくいことは
読みにくいけど、おそろしくそれは感情的抵抗が少ないのである。
小説で多用されるような文体とか癖とか、こだわりとかそういうのが少ない。
感情的要素に触れず【表象界】のみを行き来する。
つまり一言で言うと、読む人を選ばないのである。
そういった意識付けが哲学者にはあるのだと思う。
逆にそういうものがある文は哲学としては失敗だとおいらは思う。
たとえばおいらがこのスレを見て読み始めた永井均の
「子供のための哲学」はおいらには、
感情的抵抗がすごくあったのを覚えている。
一言でいうと子供っぽいのだ。
(読みやすかったし、構図的にも親切でわかりやすかった)
それなのに、好きになれなかった。
まあ哲学に対する意識が違うだけなのかもしれないけど、とりあえず。

まあ、関係ないことをずいぶん言ったけど、
想像、デムパ、幻想、寓話、空想、妄想は、
【表象界】の住人であればむしろ当然のことよ、
とおいらは言いたかったのである。
とりあえずそんな感じ。

この文を書くに当たって多少参考にしたのは以下のホームページ。
読んでみるといいかも。

ユングにおける体験・象徴・言語――ユングの象徴の解釈学をめぐって
ttp://www.nanzan-u.ac.jp/~mwatanab/jp/scripta/shocho84.htm


562 :カオル:05/03/05 04:52:40
>リマールさん

リマールさんにレスを書こうと思って
3時間も考えたのに何も書けません。
リマールさんのような人が幸せに生きられる世界が
もしあったとしたらそれが美しい世界なんだろうなって、それだけ。

この世界ではどうしようもなくどうにもならなかった人、パース。
借金地獄、病の痛み、だれにも顧みられない孤独…
それでもただ一人、終生彼を敬い愛しつづけた人、ジェームズ。
彼ってリマールさんに似てますね。

>それから、家族・親戚について、
>どうしても手ぶらであの世に行けない事情(これ以上は勘弁)があるので、
>鼻を刺すような生と死の香りが漂うのも当たり前です。

わたしの道徳もここに集約されます。
わたしの痛みや苦しさは
「人生への真剣さに根本的に欠けている」
という罪なのですよね。
妹に言わせると、わたしの病は贅沢病らしいから。
明日のない命がいうのですからまちがいないでしょう?

哲学徒の意地 ? まだまだやりますよ!(^.^)


563 :考える名無しさん:05/03/05 04:52:57

とりあえず、、、
おいらも、言いたいことをあらかた言ったような気がするので
(舌足らずだったことは否めないけれど)
なんで明日からは、あんまり書き込まないと思う。
むろん気になることがあればここに書き込むことが
あるかもしれないけどいちおう区切りとして。
とりあえず読書と道徳的実践という日常に戻ってみようと
思ったしね。それにやりたいこと、やっておくべきこともでてきた。
お付き合いしてくれてありがとう、みんな。
それでは。



564 :考える名無しさん:05/03/05 04:55:54
言っておくけど、おいら去るわけじゃないからね。(照)
レスされてもこれまで通り集中して返せないよって言うことを言いたかった。


565 :カオル:05/03/05 05:02:28
>>559
>答えは出尽くしているのに。(=陳腐化しているのに。)

まさか!
答えになんて一度もお目に掛ったことないよ。
そんなに悲しいなら
もうそんな思いをしなくても良いように
答えを教えてみなさいよ。


566 :考える名無しさん:05/03/05 05:05:35
そうだそうだ。

567 :カオル:05/03/05 05:09:02
>>561
>(読みやすかったし、構図的にも親切でわかりやすかった)

ホントですか?
<ぼく>のこと理解できましたか?
わたしは未だにサッパリわからないです。

【現実界】と【感性界】の中間を行き来している、から?

マジで解説求む、です。


568 :カオル:05/03/05 05:13:48
↑わざとらしい引き止め方ですね。ごめんなさい。

いろいろありがとうございました。
そしておつかれさまでした。
ぜひまた来てくださいね。(^.^)


569 :カオル:05/03/05 05:15:13
>>564
しまった!
見逃していました。よかった。

570 :カオル:05/03/05 05:30:10
>ニップルさん

まだレスができていないけど、もうすこし待っていてください。
愛の補完計画の話しは、まだイメージがつくれません。
むずかしいです。
小さき者の話しは、わたしのなかでは時間論になってしまうので
いつものように的外れのレスになってしまいそうなので今調整中です。


571 :考える名無しさん:05/03/05 05:36:13
>>569
悪いね。自分の中に区切りがないと前に進めないんだな。


>>567
>【現実界】と【感性界】の中間を行き来している、から?
おいらの言ったことはあまり気にするではない。
たとえば、きみが生命に対して強い関心を持って考察していたのを
見て普通にそういうふうに思っただけのことだよ。
そういう考察をしていたのは、ここではきみだけだったからそういう風に
印象に残っただけ。

永井均の本は本屋で立ち読みした。
立ち読みで読み通せてしまったのだから読みやすいのだろうということ。
あと哲学らしくないわかりやすさについては、刺激的だったことを覚えている。
それ以上はこのスレを見て参考にしているくらいだし。


572 :考える名無しさん:05/03/05 05:44:17
んじゃ落ちる。


573 :考える名無しさん:05/03/05 06:12:41
あと、これも追加しておこう。


<『正しい論駁〜スレ』について>

これについても一つ付け加えようと思う。
『ソクラテスの弁明』はおいらも少し目を通したことがあるのだけど、
そのときのおいらの場合、ソクラテスってなんて嫌な奴なんだろう
ってことだった。(笑)

こいつは屁理屈ばかり言っているなっていうのが第一印象で、
とても正しい論駁スレの住人のように考えることができなかったんだ。
だから、おーすげーなここの人たちは、こういう風にちゃんと考えるのか?
と思ったわけである。そしてソクラテスの個人の省察、
その中にある彼の理念に、あのスレで明確に触れることができたというわけである。
そういう風にソクラテスに対する啓蒙の形が出来上がった。
おいらの感想を言うと、まあそんな感じ。

哲学者の理論(思考的態度)に触れることももちろん大事だけど、
生き方に触れるのもおいらは大事だと思ったのだよね。
まあ文学的、観念的であることは否めないけど、とりあえず。

それじゃ。


574 :カオル:05/03/07 01:11:44
>>460 ニップルさん
>「死」が究極的な将来として「今ここ」の「生」を
>無価値にしてしまうようなことがあってはならないし、
>見ず知らずの人のために大切な人を傷つけてはならない、と思うからです。

わたしにはふつうにみんなそういう風に生きているようにみえてしまいます。
だれもが死を忘れたフリをしたり見ないフリをして上手に切り抜けています。
もちろんフリをするのは「生」を無価値にしないためなんだと思いますけど
このようなニヒリズムから逃れようとする心がエゴイズムをうむのでしょう?

天文学的な確率の連鎖としての偶然の生も、生の生成からしたら必然なんだけど
その必然の意味をいうことはできないから、せめてたまたまの生を神さまからの
プレゼントとして受け取って、その与えられた生に感謝できるようにいろいろと
工夫しながら生きてみて、最後はありがとうってつぶやいてお仕舞いにするのが
神さまにお返しをする生き方で、エゴイズムに生きることなのではないかしら?

「見ず知らずの人のために大切な人を傷つけてはならない」というのは愛です。
愛というエゴイズムは「今ここ」にしか生きられないから、愛に生きているかぎり
永遠のはかなさという矛盾を生き抜けるから、ニヒリズムに勝利できると思います。


575 :カオル:05/03/07 01:37:07
>>475 ニップルさん
>(当然ですが)別に怒ったりはしません。

どうもです。
ホントはそれほど意図的ではないんですよ。
以前にニップルさんがわたしのスタンスを
詩人の振る舞いのように喩えてくださったけど
そういう感じなんです。(詩人のような感性は皆無ですがw)

どこかでいつかつかまえてほしいんだけど
きっとだれもつかまえてくれそうもないから
ひとりぼっちでどこまでも飛んでいって
いつのまにか消えていなくなれたらなって。

>キルケゴールやら茂木何とかという人のサイトはまだ読めてません。
>今度時間をとって読んでみます。

頭の良い人が一生懸命に考えるとこうなるよっていう実例です。
浅田彰のように記憶力が良すぎて自分で何も考えられなくなった人の
ディスクールと比べてみると面白いかも。(笑)


576 :カオル:05/03/07 02:31:51
>>476 ニップルさん
>(私の)「今ここ」を重視するような、
>それゆえに大きな時間の流れ(始まり→終わり)を批判するような問題意識と、

近代社会の「始まり→終わり」という直線的で不可逆な時間の観念を前提にするなら
人生が永遠にくらべてみじかくはかないと感じたり、いずれはすべてはなかったことに
なってしまうと考えるのは自然なことです。だからこそ人は魂の永遠の物語を創ったり
命のつながりを求めたり、時間なんてないといってみたり…するのですよね?

でもどうしても死はやってくるから、どうしたら死から逃げられるかなって考えて
それはやっぱり今に昨日と明日がくっついているのがマズイのかもってなって
それならいっそ時制を忘れたフリをして「今ここ」にこだわって生きてみようって
ことですよね?

恋でもしてみたら?とか、なにか夢中になれることはないの?とか…
っていう説教はそういうことなのではないですか?


577 :カオル:05/03/07 03:09:14
>>476 ニップルさん
> <わたし>という奇跡が根源的であり、「今ここ」を価値あるものとする、つまりいずれ訪れる「死」に
>「生」が振り回されないために重要なものであるとしても、<わたし>自身に無根拠や無価値という
>欠損が潜んでいるとしたら。
> この欠損を他者が補う…いや、私の愛が補うのではないでしょうか。

<わたし>の無根拠や無価値を補う方法として愛を利用するのは、その人の自由です。
でも、愛によって<わたし>の無根拠や無価値が補われることはないと思います。
ただ、<わたし>の無根拠さや無価値さについての問いがなくなるだけだと思います。

愛する人とつながれる──欠損が補完され満たされたと後から感じられる──
状態というのは、忘我の状態のことだと思いますけど、(根拠はないですが一応経験上w)
このとき<わたし>意識はないのです。ようするに言語によって現象する<わたし>が
不在になっていますから、もう問いそのものが成立していないのです。

こんなこと書いてると溜息しか出てこないです。(鬱)
ホント色気なくてごめんなさい。


578 :カオル:05/03/07 03:41:03
>>573

『正しい論駁〜スレ』について

Joyさんって名無しさんのことかな?って。
なので、レスしなかったんだけど。(笑)

<感想>

Joyさんの議論は、知識の議論ですね。
あらかじめ知識としての解釈がすでにありますもの。
でもそれそのままだとあまりにも芸がないから
なぜならJoyさんの解釈は一般に正統とされる解釈ですから。
なので、すこし「それはソクラテスの勝手でしょ!」みたいに
ふざけてみたり…でも32さんみたいな負ける議論はしない。(笑)
予定調和の議論でしたね。

印象に残ったのは、「間違いです!」とかって言ってた人。
ロンリー論理のあの人のこと、たぶんわたし知ってて…
むかしを思い出して怖くてふるえてしまいました。
だから何事もなくてよかったです。ふぅー

知識の裏付けがないと、あの応答スピードにはついていけません。
それがあの議論の本質だと思います。学哲の雑談ですね。
べつに否定したりはしません。ああいうのもあった方がいいと思うし。




579 :カオル:05/03/07 04:10:53
>>488 リマールさん
>また、誰がとは特定しませんけど、「○○でち!」とか「(*´∀`) 」とかという表現を見て、
>―これがこの人たちの情動の表現の限界なんだろうか? これで何を伝えたいのだろうか?

わたしは、そこに飛び込んでみるのもいいかなって思いますよ。
社会的にいい人たちなのは、たぶんまちがいないですから。
それにあそこは学哲系雑談スレとして学哲公認みたいですし(笑)
趣味の話しとか絡めて話せるテクがあるなら参加できるはずです。
知識が披露できないとちょっとキツイかもしれませんが…
なにせ学哲スレですからね。(笑)

わたしの場合は、議論するとしても規制議論とかになっちゃうと思うんだけど
「○○でち!」とか「(*´∀`) 」は、わたしとは議論しないと思います。
とくに「(*´∀`) 」は、規制議論には参加しないってわたしに約束しましたから。
「○○でち!」もその他の人も、どちらかというと規制議論ではわたしの意見に
賛成してくれる人たちなんです。その意味でも哲板を代表する良識派なんです。
わたし感謝してるし哲板にはぜひいてほしい人たちです。キライだけど。アハハ


580 :考える名無しさん:05/03/07 19:10:35
カオルへ

>>578

なるほど〜 なるほど〜
たぶんきみもニプレスと同意見であのスレに批判的なんだね。
なんか、おいらももやもやがはっきりした感じがする。
たしかに、あれは学哲の雑談スレですな。
で予定調和。そのとおりだと思う。
ニプレスの哲学者の好き嫌いは議論に関係ないという
意味も少しわかってきた。
おいらも少し褒めすぎたかなと食傷気味だったんで
そういう感想を聞けてうれしいね。
そういうこと言うとたぶんああいうスレでは黙殺されるだろうから(笑)
紹介してよかったと思う。



581 :考える名無しさん:05/03/07 19:11:48
(つづき)

>>579

どうしちゃったの?
なんだか少し暴走(妄想)しちゃってるみたいだけど、
まあ好き嫌いはそれぞれだし、あんまり気にすることないよ。
おいらもあのスレを高評価する人たちの気が知れないし。
しかしあのスレが学哲(公認)スレという評価には驚いた。
そうか〜、だから近寄りがたかったのか。
おいらには趣味の話とか絡めるテクニックとかないし。
敷居が高いわけだよね。んな感じかな。

ま、おいらも実はあのスレ(きらい)なんだけどさ〜 
んじゃ。


582 :カオル:05/03/08 04:11:00
>>580

哲板で論駁スレのような主旨のスレがくりかえし立つのは
やっぱり少し残念に思います。論駁スレの1が言いたいのは
学哲の知識の議論には、ついていけないということなのに
学哲の予定調和に荒らされてお終い…気づきましたか?(苦笑)

学哲の「雑談」はたいていは好ましく見えたりするものです。
なぜならその目的があたりさわりのない知識の披瀝であったり
情報の交換だったりするからです。

でも一旦「議論」が始まると、彼らの目的は議論の勝ち負けに
シフトしますから、知識の議論の外側からの哲学的(本質的)な
問いかけや反論にたいしては、論点がズレてるとか、
真剣さが足りないとか、一体どの本からの引用なんだとか…
で、ジエンなどを交えながらほぼ確実に人格批判に至ります。(呆)

異物は、知識とジエンと人格批判で排除するんです。
で、どうして論駁スレが収束してしまうのかというと
1のいい加減さや荒らされたから、というのもあるけど
32=1の可能性とかも高いんですよね。(笑)

哲板に長くいると、32(1)の29への反論が必然かつ議論の
焦点なのがよくわかるんです。反論のあとの29のシツコイ
32(1)へのジエンによる人格攻撃が、32(1)が問い正したい
ことの実例そのものなんですけどね。


583 :カオル:05/03/08 04:17:35
>>581
>そうか〜、だから近寄りがたかったのか。

ココもそうだったりするんですけどね。
わたしの気が強いものだから
だれもチャチャいれてくれないんです。(^_^;)

いろいろ批判(582)しても、それは自分にも返ってきます。
このスレが荒らされないように、学哲っぽいレスもしながらって
気を遣っても、逆にそれがニップルさんやリマールさんの
真摯な問いかけから離れてしまうことにもなってしまったり…
むずかしいです。

でも自分のなかの分裂はそのままでもいいと思っています。
わたしがあのスレや論駁スレの住人を仲間だと感じられるためにも
いつでもどこでも哲板が大好き!っていえるためにも。

今回もだいぶ妄想しちゃいましたね。(^_^;)



584 :考える名無しさん:05/03/09 23:46:27
>>290-292

生成について


アリストテレス「形而上学」岩波文庫(上)p247より抜粋する

七巻七章 

生成する事物のうち、或るものは自然(フィシス)により、或るものは
技術(テクネー)により、或るものは自己偶発(アウトマトン)によって生成
する。そして、これらすべての生成するのは、或るもの“によって”、
或るもの“から”、或るもの“に”である。ただし、ここに私が「或るも
のに」と言ったこの「或るもの」はいずれの述語形態に属するもので
もかまわない、すなわち、或る個物になる〔生成する〕ことのみならず、
或る性質になる〔変化する〕ことでも、或る量になる〔増減する〕ことでも、
あるいは或る場所に〔移動する〕ことでもかまわない。 
こうした〔広義の〕の生成のうち、〜


ちょいと遅レスだけど、こういうのがあるともっと理解が深まるんじゃ
ないかと思ってコピペしてみた。けっこう、わかりやすい説明でしょ(笑)
『存在が生成する』のうちの【生成】にいちおう焦点を当ててみたつもり。
ちょっと今のおいらでは生命の論理(力への意志)にまでは着手できなさ
そうだけど、とりあえず提出してみる。


585 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/10 03:10:05
>>名無しさん
「★ 人 生 哲 学 ★」スレに問題提起を記しておきました。最後の二つのレスがそれです。
第一に、"理性的幸福への志向としての人間の生命が在るとして、それはどんなものか?"
第二に、"理性的幸福と単なる自己の満足を分けるものは、何か? それはどんなものか?"です。

第一の問題は、トルストイの『人生論(生命について)』一冊で、どこまでも突き進むことが出来ます。
いわば、この本を読みやすくするために、材料を整頓したというところです。
自分が註釈を施すか、名無しさんか他の誰かが読んで、自分の考えと照らし合わせるか、
これは読書会形式ですね。
もちろん、互いのオリジナルの考えを述べていく、議論するという形式でも構いません。

第二の問題は、これまで再三紹介してきた『人生論』が扱っていない領域であり、
あなたが提案した倫理道徳に大きく関わっている問題です。そして、【美】という概念と一緒くたになっています。
自分としては、これを考える為には、まず第一の問題の理解が先になっています。

586 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/10 03:15:26
いかがでしょうか。難しいでしょうか。 俺はほぼ一年間、人生哲学について気炎万丈の状態でした。
でもそのためには、「哲学の何たるか」に取り組んで、
人生哲学とそうでない哲学との境界と、両者の存在意義を明確にせねばなりませんでした。

それで、機が熟したと思っています。どうでしょうか。ついて来れないでしょうか。
自分一人でも、age進行か他のスレに乗り込むかして、やっていくつもりです。
(ブログを立てるとか、年取ったら街の小さな哲学学習塾を立てるとか、そういう大掛かりなことも時々考えます)
ですが、多くの人と淡く理解しあうよりも、特定の人に直伝したりされたりという方を、俺は望んでいます。

587 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/10 03:31:20
>>551
別スレに移動する決意は固いんです。本当に全て伝えようとすると、余にも膨大なレスが必要になるからです。
お涙頂戴形式の対話で哲学が交わせるかって言ったら、そんなの自分も全然信用していません。
飽くまでも、個人が理性的に考えることを、重点に置いています。

588 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/10 03:32:52
>>552
『人生論』を読んでいないと、、、それは当然だと思います。文学者なんですもの。

ん〜、なぜこの本に誰も注目しないんでしょう? 噂すら聞きません。
俺は特殊な読み方をしてしまったんでしょうかねぇ。
なかなか面白い本だと思うんですけど。

トルストイが、カントの『純理』を読んでいたのは伝記から明らかです。『道徳形而上学原論』も熟読していたと思います。
それからショーペンハウエルを読んでいたことも、内容から明らかです。
とにかく、大作家なりにいろいろ読んでいたみたいです。

このトルストイの思想を強く受けた人となると、ハッキリしません。
薄い影響なら多すぎるし、直接となると少ないのかもしれません。
ウィトゲンシュタインが戦争に出発する直前に、トルストイの『福音書註解』を読んでいたみたいでした。

『論理哲学論考』の
―6.4311 永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば…
これは、確実にトルストイの考え方を踏襲していると思います。

そんな本なので、方々で紹介、推薦しています。

589 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/10 03:36:36
>>560
何かわかります。自分もそうして本を読んでいます。
でも、"思考そのものになる"というくだりを読んでいて、

「読書とは、他人にものを考えてもらうことである。
一日を多読に費やす勤勉な人は、次第に自分でものを考える力を失っていく」(ショーペンハウエル 『読書について』)

という手厳しい考えが想起されました。文庫本のカバーに書いてあるので、有名です。

確かに、哲学書が読者の思考を乗っ取るように感じるときがあります。
あまりにも明晰で揺るぎない考えは、自分も思考の中で諳んじていて、
これが書いた人の所有物なのか自分のなのか、区別がつかなります。

そういうときは、時代の開きを意識して、
ある単語を現代風の表現に置き換えてみたり、例えの題材を現代のものに置き換えたり、
著者に不可能で自分にできることを見つけるようにしています。
そうすると、数千年規模の壮大な哲学リレーの一部になったような気がしてきます。
これは、哲学のモチベーションをあげる結果に繋がります。自分の場合は、です。

590 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/10 04:01:10
>>カオルさん
>>562
これはパースに似ているかも、ということですね。
壮絶な死に様を想うときもあります。注意しとかなくちゃ!

>>579
誰かと特定しないと書いたのに、実際は、
名前が明らかでないのに会話が成り立つほど、限られた人たちの表現だったんですね。
そういう表現をしている人も、議論のときは目の色が変わるということを、俺は知りました。
自分にはないものを持っているので、その点で尊敬しています。

とにかく、ネットで人間の好き嫌いの話しなど、全然気が進まないでち!
気でも狂ったんでちか! (*´∀`)

連投、失礼しました。

591 :カオル:05/03/11 05:45:12
>>584

コピペありがとうございます。
たしかにわたしの議論はアリストテレス的かもしれないです。
あなたに「現実界←→感性界」(>>557)の世界観のなかにいると指摘されたときに
自分でもそうだなって思っていました。わたしはアリストテレスに詳しくないけど
アリストテレスの議論がプラトンの「イデア(叡智界)←→個物」の世界観に比べて
科学的な(とくに生物学的な)それにつなげやすいのは以前から感じてはいました。

プラトンの固定的で静的な理論はどっしりとしていて安心させてくれるけれども
わたしはどちらかというとヘラクレイトスとかのギリシア伝統の生成の存在論の方に
惹かれます。アリストテレスは、プラトンの空想的で超越的な「イデア←→個物」の
かんけいにたいして、現実的で経験的な「形相←→質料」という世界観を立てたけど
これは生命的で動的なギリシア伝統の生成の存在論に立ち返ったとも考えられます。

もちろんアリストテレスの立場に立つなら現実世界の実在を主張することになるから
実在についての根拠はどこからやってくるのか、という問題を抱え込んでしまうけど
それをイデアの超越的な絶対性で解決してしまおうというのは…やっぱりねぇ…(笑)

わたしたちが今生きていてダイナミックに生成されつづけているのは確かだと思うし
心身はいつでも動きつづけていて、ちょうど自転車に乗って走っているようなもので
心が止まったら心がおしまい、体が止まったら体がおしまい。
けれどイデアが実在してもしなくても「おしまい」とイデアの実在とは何の関係も
ないかもしれなくて、「おしまい」の後にも、とにかく世界は生成しつづけるでしょう?
いえ、もしそうなら「それってどういうことなんだろう?」と思うんですよね。


592 :カオル:05/03/11 05:53:14
↑規制議論に参加しながら書いていたので
最後の方がちょっと意味不明かもしれないです。
書き換えても変わらないような気がしますけど。(^_^;)

>>590 リマールさん
>これはパースに似ているかも、ということですね。

いえ、デムパにやさしいジェームズに似てるなって。(^.^)

>とにかく、ネットで人間の好き嫌いの話しなど、全然気が進まないでち!
>気でも狂ったんでちか! (*´∀`)

ごめんなさい。m(__)m


593 :カオル:05/03/12 17:06:39
>ニップルさん

「 私・今・そして神―開闢の哲学 」( 永井 均 著 講談社現代新書 )

書店でパラパラとながめた感じだと「 子どものための哲学 」よりは
わかりやすそうな感じがしたので、とりあえず購入してみました。
もしも読み終わるようなことがあったら、感想を書きますね。(笑)

なんか2章だけ読めばいいようなこと書いてるから2章から読もうっと。


594 :カオル:05/03/12 17:57:53
>>591

生きていることや生きていることがお終いになることと
実在することとは、どうしてかんけいないのかしら。
イデアとか魂とか<わたし>とかをもちださいないと
どうして実在の証明ができないのでしょうか。
考えれば考えるほど素朴に実在できなくなることが不思議です。
わたしは実在しています、ってつぶやいてみてもその意味がわからない。
意味と感じがぜんぜんひとつにならないぼやけた今日この頃です。
頭のどこかの思考回路が先祖がえりでもし始めているのでしょうか。


595 :参考までに:05/03/13 01:14:27
>>565 
デカルトのコギトには、懐疑においてけして欺かない神の存在が隠されている。

「超越論的とは、一般に経験的な認識そのものを規定する条件のことを言いますが、
超越的というのは、神のことであり、主体とか客体とかいう分類そのもの、あるいは
考える私が存在する認識そのものが、私を超越としてたてるということになる。
ドゥルーズの理解はそうです。

『スピノザと表現の問題』の一番大きな課題はおそらく、デカルトの思考が神学から
離れたところに人間の理性を根拠づけようとしながら、いかに超越的なもの、
あるいは神を、論証のいたるところにまた忍び込ませているかということで、これを
ドゥルーズは非常に綿密に読解しています。

 超越的なカテゴリーを忍び込ませない認識をどう形成するかという課題、これは
内在的な哲学の課題ですが、内在性の一つの根拠は身体であると言ってもいい
と思います。」 宇野邦一「ジル・ドウゥルーズの戦場」から

596 :考える名無しさん:05/03/13 13:10:06

リマールへ

返事が遅くなって済まないね。
と言ってもこれから君に何を書けばいいか未だにわからないのだね。

とりあえず以下の質問に答える形で、考えてみようと思う。
>第一に、"理性的幸福への志向としての人間の生命が在るとして、それはどんなものか?"
>第二に、"理性的幸福と単なる自己の満足を分けるものは、何か? それはどんなものか?"です。


おいらはね、筋書きがある議論が嫌いなんだ。
たとえば読書会形式の議論が嫌い。
教師と生徒という関係による直伝式の議論が嫌いなのね。
おいらが生徒の立場だった場合には相手の足下をすくうことしか考えないし、
教師だったら、かってに覚えてっていう態度しかとらない。
その代わり君のことはいちおう注目しているよっていう教え方。
なんたって自分本位だからね。完全に間違ったやり方しか知らない。
もちろん教えることは可能だよ。人生哲学だろうと、実践哲学だろうと。
でもおいらが知っていることは、もともと君も知っていることなんじゃないか?
ということなのね。哲学って言うのは教えあう関係がもともと成り立たない学問だと
おいらは思っている。こういう点は明らかに、他の学問とは違うし、
またいかなる宗教とも立場を異にする。
そのへんの理解をきみにして欲しいね。


597 :考える名無しさん:05/03/13 13:11:30
(つづき)

だから君が一人でやる決意が固いならおいらは、どうぞ〜ご自由に〜、
と言うしかないの。その方がいいし、哲学板にいるんだったら、
スレを超えた応答も可能だしね。それに自分の好きなだけ考察が続けられる。
おいらのお奨めのやり方は、どんなスレの議論にも参加してしまうこと。
名無しだろうが、コテハンだろうが知らないけど、あらゆる種類の議論をこなすこと
そこでいろんな言論の性質を知って自分の幅を広げること。でやるからには
必ず勝つ勢いまで、やり抜くこと。殺人否定派だろうと、殺人肯定派の立場に
立って議論をこなしてもいい。まあ、勝つこと自体に違和感を持つなら、
議論や対話を徹底的に楽しむというやり方でもいい。
楽しむ方法はいくらでもあるしね。なんだったら規制議論に参加してみるのも
いいかもしれない。あれはあれでけっこう面白いんだ。(じつは)

で、自スレで構築するっていうやり方はおいらはあまりお奨めしないね。
まあ、君の好きなようにやるといいかも。

で、いまのところ君とスレを移動してまで、議論する気はない。
別に君との議論を避けているわけじゃない。

あと、おいらはこのおいらの人格をこのスレ限定で表現している。
おいらは、ここだけのものだということだ。
だから、それでもおいらと議論したいのなら、
できればここでできるような形にして欲しい。
勝手なお願いだと思うかもしれないがよろしく頼む。



598 :考える名無しさん:05/03/13 13:11:57
(つづき)

とりあえず君の書き込んだ某スレの内容に関していくつかおいらの意見や
質問をしておこうと思う。(あとで君がこのスレにコピペってくれると大変有り難い)

>倫理や道徳的な行為は、美の概念を引き連れてきます。

正直、君の美のセンスがおいらはわからなくなった。
おいらは倫理、道徳には美は存在しないと考えている。
どのような種類の美なのか、詳しく聞きたいと思う。

>美しい以上は、意地悪で薄汚い懐疑を跳ね除けることになります。
>つまり、「自己満足である」という非難は、「美しくない、引いては道徳的でないですよ」
>という批判と同義なんです。

その意地悪さは誰が判断するんだろうか?
自分だとしたら? そのような懐疑をいっぺんも持たない
道徳的行為は存在するのだろうか?
誰かのために行動することは、本質的にそのような懐疑を
持ち続けるものなのではないか?
自己満足することの自己否定が、
道徳への懐疑の自己肯定であるというのは
あまりに当然のような気がするのだけど。
君はどのような考えを持っているのだろうか?


599 :考える名無しさん:05/03/13 13:12:38
(つづき)

自己肯定、自己否定、おいらの考えの中には
君が示すような新聞の記事などの他者への批判は含まれていない。
それはいわゆる美談であって、道徳ではないとおいらは考えている。
ウィトの「倫理は超越論的」、いわゆる他者の道徳性は評価できない
と考えている。このへんは、君との大きな倫理観の違いじゃないかと思うんだ。

>2002年の春頃、踏切を越えた赤ん坊を助けようとして、母子共々が轢死した、というニュースを

見ました。
>この母親の行動を、哲学以外の何かで説明できるでしょうか…? その説明で、万人が納得でき

るでしょうか…?

それは哲学で説明するものではないと思われる。
簡単に言うと、不運、不条理、虚無精神、じゃなかろうか?


とりあえずこんなところだろうか?
いちおう言っておくと一行につき25〜35文字くらいで改行を打って欲しい。
ウインドウの端で行が折り返すから、君のレスはちょっと読みづらいんだな。(笑)
とりあえずよろしく頼む。
あと君のテーマ(人生哲学)は、いちおうおいらも考えている最中。
とりあえず以下のカオルへのレスにも含まれるから是非続けて読まれたい。


600 :考える名無しさん:05/03/13 13:16:10
カオルへ


いちおう上のレスでもいったとおりリマールとの問題意識を
継続したレスになると思うけどよろしくたのむ。

>>591 (>>594

君の生成についての問題がアリストテレスのものではなかったみたいだ。
君が >最後の方がちょっと意味不明かもしれないです。
と言ったけど、おいらが君のレスを読んで面白いと思ったのが、
その最後の部分だった。

ちなみに前半は君の問題に対する考察の仕方(思考モデル)が
よくわかったような気がする。

しかし後半にあるような“生成”への意識は、
むしろキルケゴールの哲学観がきみの根底にあったみたいだ。
>>326できみが紹介した「逍遙の人 セーレン・キルケゴール」
のホームページをあれから何度か読み返しているんだけど、
生成という用語は実はまさにあのキルケゴールから来ているみたいだね。
実存主義としての「生成」とはなにか、
おいらは改めて考える必要があると思った。


601 :考える名無しさん:05/03/13 13:16:44
(つづき)


<生成について>


>実存者、つまり「いま、ここで」を生きようとする人間にとって、
>人生は「生成」であり、主体的創造の場である。

と先のホームページの一節に書かれていた。
ここから始まって、
とりあえず、
ここにたどり着くまでのおいらの考察をこれから書こうと思う。


まず、>>584でおいらがコピペで示したように、
“生成”とは何ら難しい概念ではなく
実相的には、それは事象の“変化”としてただ認識されるものであることはわかると思う。
生成は、完全な無から有を創出するようなものではなく、
あるものから、別のあるものに変化する、
あるいは変化されてしまうような状況のことなのだ。
だから“生成”とは“変化”であっても本当は間違いはないはずなのだ。

しかし“変化”ではなく“生成”と意義深くキルケゴールによって使用されているのは
どうしてなのだろうか。まずは、それについて考えてみようと思う。


602 :考える名無しさん:05/03/13 13:17:17
(つづき)

生成とは“生成すること”である。
だから“生成する事象”について考えてみることにする。

たとえば、
その【事象】のせいでその【事象】の【当事者】の【認識そのもの】が、
変化した場合のことを考えてみよう。
その【当事者】は、その【事象】に影響されて
新たなる判断が迫られている状態にある。
その【当事者】は、その【事象】の変化を変化、
つまり“変化している”と変化していることとして
本当に認識することができるだろうか? 

これはできないのである。
その当事者はその変化に対して、
【変化してしまったもの】としてしか認識できないのである。

つまり【変化そのもの】を決してみることができない。
そして、この【変化そのもの】が、“生成スル”なのである。
おそらくここに“生成(スル)”という言葉の妙味があると思われる。


603 :考える名無しさん:05/03/13 13:18:03
(つづき)

それについてここから説明する。
“生成(スル)”とは、
つまりこのような【変化される前】と【変化された後】という
認識の開きの中に生じるもののことを言う。

そして【変化そのもの】であるため完全な時間の断絶がそこにある。
“生成”には【時間】は一切介在しないのだ。
事象化された【空間】と、事象化された【空間】の【差異】のみが、
差異のみとして認識される【実在】としてさらに認識される。

つまりこの生成の原理の最中では、生成が起こった瞬間、
認識側では、【変化される前】の事象と、
【変化された後】の事象の二つに区分され、二つは対称化される。

また、その二つの事象は各々が【当事者】の【世界そのもの】である。
【世界そのもの】であるために【当事者】はその二つの世界を飛び越えることはない。

また“生成スル”によって【当事者】の【認識そのもの】が変化しているため、
【当事者】は【認識そのもの】の変化について生成の間、気づくことはない。
この気づくことがない失われたものは変化として認識できないために、
二つの事象の差異の認識のみが、己の前に現前化するのである。


604 :考える名無しさん:05/03/13 13:18:25
(つづき)

そして実存主義者にとって、
生成とは己自身の活動の一種であるようだ。
自ら生成を働きかける主体であり、変化させる主体であるために
“生成”の必要性が生じるのである。
だから認識そのものに働きかけるところのそれが
主体性の創造として考えることは決して難しくないだろう。
自らに働きかけ、自らを作用させることがつまり生成の活動の原理なのだ。
だからこそ“生成スル”は、己を未知の領域へ赴かせるところの
無から有の活動の意味として一般に解釈されるのである。

そしておいらは主体性の創造と言うことについて、深く考えたいと思った。
この主体性の創造とはそもそもなんだろうか?

生成(主体性の創造)についての個人的な考えを述べる。
もしかしたらキルケゴールのそれとは違うかもしれないけれど
とりあえず。


605 :考える名無しさん:05/03/13 13:18:46
(つづき)

おいらが思う主体性の創造とは、
周囲を一変させるような他者との関係性へ働きかける
活動のことだとおいらは考えている。

たとえば、道に迷って困っている人がいたら、交番を教えてあげる。
困っている人にとって、その教えてあげた人へのイメージは、良い人となるだろう。
道を教えてあげた人は、その良い人である自分のイメージを他者から獲得(生成)する。

まあ、これだとちょっと極端だけど、
もしこの「道を教える」という行為がその人にとって、
そのとき、非常に困難だった場合には、それは自己獲得としての
生成という意味を付け加えてもよいだろう。
それは美しいものとして認識されるはずだ。
人生の進路を決める試験の日に、
そのようなアクシデント発生という立場に立てばわりとわかりやすいかも

あるいは、あまり好かない人で、
いつもその人を避けているのだけど今日は親切にしてみよう。
心を入れ替えよう。とするなら主体的な意味での創造と言える。
おそらくこれはキルケゴールの主体性の創造の意味に
わりと近づいているように思われる。


606 :考える名無しさん:05/03/13 13:19:10
(つづき)

それは、その好かない人、と自身が思い、
また他者から思われるような相互の状況そのものが一変して
なくなるようなものとしての生成という“自己”活動。
自分自身を創出させるところのものから出発し、
自分自身が、他者と自分との関係に新たな状況を与えるもの。
自分自身が、まったく未知の世界に飛び込まざるをえないという
“お互い”という項としての状況へと導く生成。
このような“関係性”の在処を獲得することが、
おいらは本当の“生成”だと思えるのである。
また例えるなら、最初に歩み出す者(単独者)としての生成が、
おいらは本当の生成だと考えている。
そしてそのような活動、行為がおいらは本当の実践哲学だと思うのだ。

ちなみにこの「最初に歩み出す者」、ここに含む【単独者】の意味は、
以下のように考えられたい。

一人の男が巨万の富を気づいた成功哲学があるとしよう。
そしてその男の成功哲学を踏襲して、次の男がまた巨万の富を気づいた。
この二人の男の哲学は同じものだろうか?
二つの哲学は同じようにみえて、しかし、
まったく違うのではないだろうか? 
自らが意味を発見し開拓して得た哲学と、
追随して得た哲学の違いはやはりあるとおいらは思う。
単独者の生成は生成の共にその意義は見失われるのが運命である。
だからこそ“生成スル”は苦なのであり、それ自体が困難で、
努力と純粋な力を要するもののだ。


607 :考える名無しさん:05/03/13 13:20:46
(つづき)

とりあえず、以上のような形で
キルケゴールの生成にかける思いを、おいらなりに追いかけてみた。
本当は反復についても生成と関連づけて考えようと思ったのだけど、
時間がないので今回はやめておく。
とりあえず【生成】と同じようにおいらは【反復】にも肯定的な立場である。
人間とは生成と反復を交互に繰り返す生き物だと考えれば、
単純でわかりやすいかもしれない。
反復を引き受けるのも覚悟が必要だと言うこと。
そして反復とは、つまり沈黙と同じことなのだということ。
とりあえず、単独者としての生成を行えるのは、
人間の唯一の業であることに間違いはないだろうね。
考察以上。



今回の考察はわかりにくかったら申し訳ない。
(きっとわかりにくいと思う。)
とりあえず今回のは誰かに対して書いたものではなく、
純粋に自分の考察の及ぶ範囲で書いたものだから、
興味があったら、どうぞ付き合ってみれば、、、としか言いようがない。
妄想もかなり濃密度で入っているしね。
いちおう、今回は生成の意味について触れただけなんで
また追ってレスできればと思う。
それじゃ〜。


608 :考える名無しさん:05/03/13 19:31:38
なんとまあ読みにくいね。長文スマソ。m(_)m。
今回のは、できれば読み流す程度でたのむ。

609 :二プレス:05/03/13 20:42:46
>>593
>カオルさん
 2章から読むと大変なことになりますよ、多分。

 今回の永井均はどうも「学的な」哲学議論を何度かちらつかせてきますから、
私としてはめんどくささ倍増で苦労しています。

 インフルエンザにかかって今週は大変でした。だから、キルケゴールのサイトとかは
まだ読めてません。私は一人暮らしだし、病気になっても有給とか出ないから
休みがますます減ってもうどうにもなりません(笑)

610 :二プレス:05/03/13 22:16:55
>>576-577
 とりあえず、いっぱいいっぱいレスが交わされていたので私に直接きた
質問に答えます。(それぐらいしか出来ないですから)

 私の考えていることなんて大したことではもちろんありませんけど、カオルさんの理解は
大枠でいってそんなに外れていません。
ただ私は「死」を恐れたり、嫌悪したりして「排除」にやっきになっているわけではありません。

 私が言いたいのは「未来」(死)があるからといって「現在」(生)がからっぽになるのは
とてもおかしい、ということに過ぎません。だからこの「生」あるいは「現在」を(「今ここ」を)
まっとうするにはどうすればよいのか、ということが次の問題となるのです。

 我ながら、<わたし>の無根拠さや無価値さを補うための「愛」というのは、表現の
適切さを欠いたものです。むしろ、無根拠さや無価値さを<わたし>が抱えているがために、
人を愛することが出来る、ということが言いたかったのです。
<わたし>が自らのみで充足しているとしたら「愛」などは考え付きもしないでしょうから。

611 :二プレス:05/03/13 22:21:03
 愛する人と一つになるという幸福感で色々な悩み(特に哲学的なそれ)を忘れましょう、
という主張をするつもりは本人は毛頭無いのです。というのも、私はそのような「一体感」が
幻想であると考えているからです。観念論的なくだらない議論を云々と書き連ねなくとも、
「一体である」という幸福感が「一体であったらいいのに」という願望に裏打ちされていることは
理解してもらえるのではないでしょうか。

 「一体になりえない」一対のものがなぜそれでも重なり合おうとするのか?ということが
次に問われるかもしれませんが、私にはこの問題が「結局は死んでしまうのになぜ生きるのか?」という
問いかけと相似的な関係にあると思えるのです。

 この問いかけに向き合うためにはまず、「一体になりえないこと」がすなわち無意味や
無価値なのか、ということを問わねばならないのではないでしょうか。
「一体になりえない=無価値」が成立するためには「一体になりえる=有価値」が
暗黙裡に成立している必要があるのではないでしょうか。そうでなければ何か他の理由で
「一体になりえないこと」の「無価値」性が語られる必要があります。

 もし、暗黙裡に「一体になりえる=有価値」の図式が下敷きされているならば、
本当に一体になりえるのか?ということが問題になるのではないでしょうか。
この議論は以前少ししましたけど、私自身はかつて素朴に「一体になりえる」と
考えていました。

 でも過程をすっ飛ばして結論だけを言えば「一体になんてなれない」のです。
だから「一体になりえる=有価値」の図式も成り立たないですし、「一体になりえない=無価値」の
図式も成り立たないと思います。

612 :二プレス:05/03/13 22:23:21
 しかしこの図式が成り立たないとしても、まだ「一体になりえないものがなぜそれでも重なり合おうとするのか」 
という問いや「結局死んでしまうのになぜ生きるのか」という問いのまえに立てたに過ぎません。

 でもここまでくればもう私の出すような答えぐらい想像がつくかもしれません。
仮に簡単に答えてしまうならば、このような問いの答えは <わたし> は持ち合わせていないということになります。
それこそが問題の始まりにあった <わたし> の根源的な欠損だからです。
もし答え(理由)があるとしたらそれは <わたし> を超越しています。
彼岸に、あちら側に、あの人の下に、それはあるのです。
 ここに <わたし> が「今ここ」を離れようとしてしまう契機が潜んでいるのかもしれません。

 余談ですが私は永井均の「私・今・そして神」というタイトルに変更を加えて「私・今・愛・そして神」に
したらもっとスリリングな議論があの本の中でなされうるのではないかと思いました。

613 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/14 01:14:51
>>537 カオルさん
トマス・アクィナスを読んでいたら、ちょっと気になる箇所があったので返事します。

―ある命題がそれ自身としては自明的(分析判断ということ)であっても、
あれ・これの人間にとっては自明的でないことがある。
つまり述語が主語の概念に含まれているものであっても、
主語の概念がある人間に知られていない場合がそうである。
例えば、「全体」が何であるかを知らないような者にとっては、
「すべて全体はその部分よりも大である」という命題は自明的ではないであろう。
というのも、こうした命題は『分析論後書』第一巻で言われているように、
名辞が知られることによって理解されるのだからである。
(『神の能力について』第七問第二項より)

614 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/14 01:17:27
トマスは多くの機会に、
「神は存在する」という命題は、
―主語及び述語によって表示されているものが同一である、という理由で、
それ自体としてみれば自明的である、と主張している。
しかし、人間知性はそれ自体においては最高度に可知的である神に対して、
あたかも夜鳥の目が太陽に対するような関係にあるため、
この命題は「我われにとっては」自明的ではない。
むしろ、それは「我われにとっては」よりよく知られたもの、
すなわちこの経験的世界から出発して論証される必要がある、
と述べている。(講談社学術文庫の解説より)

この「"我われにとっては"自明的でない"」という部分が、無性に気になります。
一見して難解な論理的述語と実在的述語の違いが、僅かながらに垣間見えました。

>わたしたちは、生そのもの(生命の生成そのもの)を認識することはできません。
これは太陽を見上げる夜鳥の目ということなんでしょうね。
そんな我われにとって、「存在」という名辞は知られていないままなので、
今夜の哲板のように皆が考え続けるんでしょう。 勉強! 勉強!

615 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/14 01:29:18
>名無しさん
詳しく聞かせてと言うのですから、返事は少々お待ちください。

>ニプレスさん
一人暮らしに病魔は天敵ですよね。外出が難事になって、薬も食事も手に入らなくなってしまいます。
手洗いうがいをきちんと行って、服装に気を使って、唇に物が触れないか注意して、
例えば、煙草を吸うとき指が唇に触れないか一々意識して、過ごさねばなりませんでした。
お大事にどうぞ。

616 :カオル:05/03/16 00:41:32
>>595さん

貴重な資料ありがとうございます。・・・ご紹介の書籍が検索できませんでした。

>デカルトのコギトには、懐疑においてけして欺かない神の存在が隠されている。

「デカルトは神なしですませたかった」という有名なパスカルの批判もありますね。

>考える私が存在する認識そのものが、私を超越としてたてるということになる。
>ドゥルーズの理解はそうです。

はい、妥当な見解だと思います。

>デカルトの思考が神学から離れたところに人間の理性を根拠づけようとしながら、
>いかに超越的なもの、あるいは神を、論証のいたるところにまた忍び込ませているか
>ということで、これをドゥルーズは非常に綿密に読解しています。

ドゥルーズが、どのような読解をしているのか知りませんが
超越的についていうなら、デカルトはコギトの現前においてコギトが現前しえないところに
超越的なものを忍び込ませているとは思います。

>超越的なカテゴリーを忍び込ませない認識をどう形成するかという課題、これは
>内在的な哲学の課題ですが、内在性の一つの根拠は身体であると言ってもいい
>と思います。」 

コギトの開闢の瞬間に立ち合っている超越的なものは、
認識され得ないものとして認識された超越的なカテゴリーの何かではないでしょう。
ゆえに、コギトの開闢は、超越的であるともとらえられるのではないでしょうか。


617 :カオル:05/03/16 00:45:35
>>616

@「思考 = ある → 精神」
A「延長 = ある → 物体」
「 = 」を成立させる条件は何か?

「思考」の属性は何か?
「ある」の属性は何か?

<わたし>は思考する、ゆえに<わたし>は存在する、
の「ゆえに」を「等号」とみなすためには、
かりに「思考」と「ある」の属性を、<わたし>と考えて
<わたし>の介入を必然としなければなりません。

@についてそうしていて、Aについてはそうしていないのなら
「実体」は、@とAに分離します。(デカルト的)

Aについても、延長をもった身体としての<わたし>を
「延長」と「ある」の属性と考えるなら
「実体」は、<わたし>に吸収されます。(カント的)

「実体」の定義を「自存性」に求めたとき、
@とAの断絶をうめる方法は、@とAを「神」のような実体のもとに
統合することです。(スピノザ的)


618 :カオル:05/03/16 01:17:21
>>601-603

すばらしい内容の文章です。ただうなずくだけでした。
わかりやすい文章のあとに気が引けますが、少しだけ。

──コギトと生成、そして統覚について──

現前化するコギトは、記号の反復によって再生されるコギトです。
ですからこのコギトは、コギトそのものではないともいえます。
コギトは現前せず、現前しないコギトの開闢が生成なのでしょう。

ですから主体とは、認識する/されたコギトのことではないでしょうか。
事象の差異の認識が可能であるためには、それぞれの事象の記憶が必要ですが
もしそうだとすると、まず最初に記憶があったことになります。
順序としては、記憶というデータから主体が構成されることになります。

でもこれはどこかヘンです。みょうな感じがします。
で、なにがおかしいのかと考えてみると、これでは機械とかわらないかも、
という感じが、おかしな感じなんだと気づきます。(主体=プログラム)

わたしたちが、どれだけの経験(の記憶)を積み重ねてみても、それだけでは
それぞれの経験は離散的です。ただしここでいう離散的は「連続的な集合の
部分集合がばらばらに散らばった状態のこと」(goo国語辞典)とはちがいます。
なぜなら、そもそもの連続的な集合(としての経験)が前提できないからです。

ですから主体の成立には、ばらばらなものがあたかも連続的な集合の一部で
あるかのようにみえるための「何か」が、どうしても必要になってくるわけです。
この「何か」は、記憶していることを記憶する、記憶をつなげるのに先立って
それを可能にする、統一の原理です。これがカントでいうところの「統覚」です。


619 :カオル:05/03/16 01:41:56
>>600
>>326できみが紹介した「逍遙の人 セーレン・キルケゴール」
>のホームページをあれから何度か読み返しているんだけど、
>生成という用語は実はまさにあのキルケゴールから来ているみたいだね。

何度も読み返してくれて…あなたがはじめてです。(^.^)
でも生成という言葉は、キルケゴールからではないです。
キルケゴールのようにつかってみたいという思いはあるんですけど
そういう生き方をしていないから、そんな資格がないというか。(^_^;)
なので、>>604〜については、もう少し考えさせてください。


620 :カオル:05/03/16 02:01:27
>>609 ニップルさん
> 今回の永井均はどうも「学的な」哲学議論を何度かちらつかせてきますから、
>私としてはめんどくささ倍増で苦労しています。

全部読み終わりました。わかりやすかったです。
わたしって学的なのかしら!? うそうそ(笑)
感想は今はやめておきます。悪口になるので。(^_^;)
でも以前のわたしの批判は全部当たってましたよね。
理論じゃない方の話しだけど。わたしってスゴーイ!

> インフルエンザにかかって今週は大変でした。
>だから、キルケゴールのサイトとかはまだ読めてません。
>私は一人暮らしだし、病気になっても有給とか出ないから
>休みがますます減ってもうどうにもなりません(笑)

キルケゴールなんていいです。
お身体を大切にしてください。
わたしものんびりレスしますから。

ニップルさんはじめ皆さんのレスを読んでいると
わたしがあきらかに人から逃げているのがわかります。
わたしの考察のどこにも生きている人はでてこないですから。
これからはできるだけ登場してもらえたらって思っています。
もう少し考えさせてください。

くれぐれも無理なさらないように。
ロムらーでいいじゃないですか。(^.^)


621 :考える名無しさん:05/03/16 02:43:02
>>616
引用元は、現代思想「緊急特集=ジル・ドゥルーズ」1996 vol.24-1のP.253から。

622 :カオル:05/03/16 03:17:31
どもですm(__)m

623 :ニプレス:05/03/16 20:30:03
>>609-612

 「一体になりえないものが何故それでも重なり合おうとするのか」という問い
そのものに私は批判的であるべきですね。なぜならこの疑問自体が「始まり→おわり」という
背景を持っているからです。

 そこから「一回性」や「今ここ」の話につながるのでしょうが、まぁ止めときます。
まだ永井均の「独我論」のインパクトを十分に自らの考察と結びつけられてはいないですし、
あまりにも私の問題意識に入り込みすぎですからね。

>>620
 >ロムらーでいいじゃないですか。(^.^)

 こういうのは手厳しいですね。まぁそうします。

624 :カオル:05/03/17 00:09:51
>>602
>“変化”ではなく“生成”と意義深くキルケゴールによって使用されているのは
>どうしてなのだろうか。

変化は、地上への転落、堕落だと感じたのかもしれません。
地上の星にはなりたくない!(笑)

超越への開闢としての生成は、すべてのものにたいする愛であり、神に回帰すること。
キルケゴールは、この回帰のことを自己の自己への回帰=反復としてとらえたのかも。
この反復(天への上昇)をくりかえすことで永遠-神に近づけると思ったのかもしれません。

>>605
>おいらが思う主体性の創造とは、
>周囲を一変させるような他者との関係性へ働きかける
>活動のことだとおいらは考えている。

他者のなかに、汚れた廃虚のなかに、みずからを投げ出すことは
単独者としての自己の自主独立をあきらめることでしょうけれど
そのことによってでしか他者とかかわることはできません。
もしそのダイビングがうまくいって
廃虚だった景色が一変しているのだとしたら
そのとき<わたし>の世界は一変したのでしょう。


625 :カオル:05/03/17 00:31:57

永遠への思い(蒼い翼の残酷)について

キルケゴールはどうしてレギーネを捨てたんでしょうか。
きっとかれはレギーネに永遠の愛を誓えないから逃げたんだと思います。
はじめて恋をしたときにはだれでもその恋が唯一の恋愛だと思っていて
恋人に永遠を誓います。でも今そのときのあなたはどこにもいないのです。
キルケゴールもたぶんそういう未来の自分(という罪)を知っていたから
そういう変わってしまうことへの罪や自分の弱さから逃げ出したんです。
神さまへの祈りにも似た永遠への思慕だけを恋人の面影にかさねて
いつまでも自分だけがキレイでいたかったんです。
かれがどれだけレギーネを愛していたとしてもレギーネはどこにもいません。
レギーネははじめからかれのどこにもいなかったのですから。
ほんとうはレギーネのことなんか一度も愛したことがなかったんです。
いえほんのつかの間彼女を踏台にして永遠をかいまみてしまったから
だからその永遠を永遠にとどめるためにかれは彼女を捨てたんです。

キルケゴールは今と永遠を愛でつないで生きていたのでしょうね。
今と永遠をつなぎつづけるためには今に永遠がくりかえされないとならなくて
それがなせるのは愛だけです。愛はいまここにしかあらわれない行為ですから。
レギーネはかれのそのような愛がふってくるのを大地で待っていたのに
かれはけっしておりてこなかった。レギーネに身を投げ出さなかったんです。
かれは夢のなかで永遠の夢をみていたんです。
彼女にできることはだいてみつめておもうことだけなのに
かれはふれられることもみつめられることもおもわれることも拒否したんです。
もうなにもいうことなんてないです。こっちは二つに一つしかないんだから。


626 :カオル:05/03/17 00:35:11

もう消えてしまいます わたしはいつまでわたしなの
それでもあなたを どこにもいないあなたを想っています
うらぎってごめんなさい みにくいわたしをゆるしてね

でも愛されたかったの キレイになれなかったけど
コンクリートの棘にひきちぎられていく けがれた衣
だれのものでもなかったの このからだ ケモノの証

月になろうとしたわ あなたなしでは生きられないように
なにもみなかったわ あなたしか想い出せないように
水面をはしる風 空たかく駆けあがる 蒼い翼 あなた


627 :カオル:05/03/17 00:42:33
>>623 ニップルさん
>こういうのは手厳しいですね。

あなたに嫌味なんて言いません。
ほんとうにお身体を大切にしてほしいんです。
お願いしてるんです。

疲れました。今日はもう寝ます。

628 :考える名無しさん:05/03/17 05:57:52
リマールへ

とりあえず気になったものを見つけたのできみにレスをしようと思う。
「哲学とはなにか」についてだ。
そうここのスレタイを今一度テーマにできればと思った。
おそらくきみとおいらとの最大のズレはここにあるのだと思う。

ちなみに参考はヤスパース著「哲学とはなにか」である。
どうも偶然にしてここのスレタイとまったく同じなわけだ。
さんざんここで「哲学とはなにか」について議論し尽くしたこと
なのかも知れないのだけど、もう一度おさらいしてみよう。


「哲学とはなにか」(p22より抜粋)

哲学的思考の根源は驚異と懐疑と、自分が見捨てられているという
意識とにある。いずれの場合にも、人の心を捉える感動によって哲学的思考が
始められるのであり、困惑した状態の中からそれぞれの目標が追求されるのである。
プラトンとアリストテレスは驚異ということから出発して存在の本質を求めた。
デカルトは際限のない不確実なものの中に異論なく確実なものを求めた。
ストア派の人々は現実生活の苦悩のなかで魂の安らぎを求めた。
(中略)
三つの有力な動機――驚異と認識、懐疑と確実性、絶望的状態と自己生成と
いうこと――によって
(中略)
そうした動機は、ひとつの条件、つまり人間相互の交・わ・りという条件のもとに
おかれているのである。

(抜粋終わり)


629 :考える名無しさん:05/03/17 05:59:59
(つづき)

とりあえずおいらは、ヤスパースのようにこのような形で哲学というものを
把握している最中である。そして、きみもこの意見にいくらかは同意して
くれるものがあるのだと思う。

そしていくつかおいらがきみに反発しているものがみえてきているのだと思う。
それはきみが間違っているとかじゃなくて、性質として異なる哲学は、
己の中で矛盾しあうように、反発を伴って響きあうのではないかということ。
きみに反発しあうのは、決してきみの態度を断罪するためのものではなく、
むしろ冷静さの中で調律する境界を探しているのだと解釈して欲しい。
それはある意味、非現実的な議論だから、
それが可能な部分が少なからずあると思うのだ。
今までのきみとの議論の中で、巧く響いたという感触のときと、
そうでない感触のときといくつかあるけれど、
おいらは以前よりもどんどんとその手応えを
感じている。それが面白いと言えば面白いのだ。
たとえば
>詳しく聞かせてと言うのですから、返事は少々お待ちください。
という台詞に、なんともいい知れない妙味を感じざるを得ないのだ。
そこにはいろいろな思惑がきっと交錯しあうよね。
洒落ていると言えば洒落ているね。

とまあ、少しはしゃいで書いたわけだけれど。
そんな感じできみのレスを待っている次第なのである。
ちょっと返事を待たずに書いたので性急すぎたと思われたかも知れないけど、
今回のはそれほどのレスでもないと思うので、おいらは気にしないことにするよ。
それじゃ。


630 :考える名無しさん:05/03/17 06:05:03
>カオルへ
きみへのレスはまた後日書くつもりである。
とりあえずそれだけを言いに来たのである。

>ニプレスへ
身体を大事にしてくださいな。
きみの風邪も収まりつつあるようで、こちらも一安心です。
もしよかったら、ROM中でもおいらの意見の中で変だなと
思ったら気ままにレスがいただけたらと思いますよ。


>>595の 参考までに の人へ

ドゥルーズの身体(肉体)に関する議論は、
このスレでも今まで取り上げていなかったかと思う。
おそらく興味がありながら手が及ばなかった部分なんじゃないかなと。
もしよかったら、もう少し論を展開してくれると助かります。
今のままでは少し、わかりにくいのではないのかなと。
…ほら、>>1のテンプレに「わかりやすい言葉」でって書かれているし(笑)

デカルトのコギトの分かれ目が、すでに普遍文法として(カオル)や
現象学ぽいもの(おいら)や身体論(きみ)に枝分かれしているみたいだし、
別にわかりやすいかどうかはこの際、拘らないので
(ドゥルーズの文はどちらかというと難解ですので)
まあなんとか論を展開して頂けないだろうか。よろしく〜。


631 :Limahl ◆SxAKrzWJr. :05/03/18 00:30:44
>>629 名無しさん
ぐわぁ! 俺は実は他スレでの議論に熱中しているところなのですが。
珍しくage進行で、全く見知らぬ人たちと。
このスレ及び名無しさんとの営みは、今の俺にとっては、
日本とブラジルとの遠距離恋愛よりも遠くの彼方くらい、熱中しているんです。
戦慄すべき論難名人がいるんです。ネチネチしているんです。

それにしても、議論というのは、
互いの問題意識の微妙なニュアンスの違いから、個人哲学同士の確かな相乗性があるのを感じました。
でも、丁丁発止の議論の手綱捌きを誤って、自分の持ち味を六割しか表現できなかった、
そういう相殺性もあるのを感じます。

いつ戻ってくることになるのか、、、今は見当がつきません。

632 :考える名無しさん:2005/03/22(火) 22:22:33
> カオルへ

いまきみはLR議論のことで頭がいっぱいなんだろうか?
べつに、いいのだけど、一言言って欲しかったな。
このスレのことや、きみはこの板から消えるという話しを勝手にしている。
(もしかして、>>626がそれを示唆するものだったのか?)
おいらすこし寂しかったというかさ。
まあ、この話しは、まずなかったことにしておいて、
とりあえず話しの続きをしようと思う。


(消えるなんて言わないでよ)


633 :考える名無しさん:2005/03/22(火) 22:23:27

それじゃ続きを。


生成については、いくつかのパターンがある。

生成とは、なにを担保に組み立てられるか?
つまりその概念の後ろにはなにがあるか?
その象徴とは何か?

生成とは、無から有へと成る現象であり、
それは現存在者への、呼びかけであり、
また現存在者の呼びかけである。

生成とは、その概念が象徴するものは、
創造だとおいらは思っている。

神の御手から、作られる(創造される)、啓示的な現象のことを、
あるいは、アルケー(原理)から始まる現象のことを、生成(ゲネシス)と呼ぶ。

しかし創造とはどのようなものか?
それは独創的なものなのか?
個人の想像が現象する範囲においてのものなのか?
つまり世界内存在の出来事なのか?


634 :考える名無しさん:2005/03/22(火) 22:25:05

創造とは、世界外の存在が、
まさしく介入するような出来事なのではないか?

創造とは、まさしく世界外から侵入する出来事として扱われる。
驚き、虚をつかれる、ひらめき、感動、啓示、開示、
これらの現存在の態度は、つまりその証拠となる。

そして世界外へつうじる窓口、について考えてみる。
つまり超越についてである。

世界外の窓口としてふさわしいものは、二つある。
自然と他者である。これらは同時存在者として現存在と対峙する性格を持つ。

しかし、自然も他者も一つのものの異なる形式であるに過ぎない。
自然は他者のように語りかけるし、他者は自然となって示される。
もともと一つであった私が、全体から切り離されてしまった、
分別的思惟がそうさせる。

創造とは、つまり一つになる赴きを伴った行為である。
そして生成とは、全体に飲み込まれるような現象である。
リズム(波長)という形式がある。その波にあわせるような行為である。
生成とは、存在を上乗せするような際立つ現象のことである。
生成されたものが輝くのは、それが際立つからである。


635 :考える名無しさん:2005/03/22(火) 22:25:55

他者と交じり合う創造について

この創造は、語り合うことを根源に持つ。
この創造は、議論のことである。
あるいは競争のことである。また闘争のことでもある。

一般的に他者を乗り越えることにおいて、創造は示される。
競争相手がおり、その相手を凌駕することにおいて、
創造は根源的な支配的特性を発揮する。

生成とは、支配的特性を持つ。
それが一挙として中心となる支配である。
生成が、存在において、君臨するのは、
その中心となる<今ここ>の特性を持つからである。

このとき、生成は、その対話となる他者と一つのものと成る。
合体ではなく、全体として一つとして収束される。

創造の始まりは、つねに全体となる我々がいて、
徐々にその介在する手が、減少する。
それが少数の手に、あるいは一つのアルケーに収束される。


636 :考える名無しさん:2005/03/22(火) 22:28:16
>>625

キルケゴールが臆病者というきみの指摘は当たっているとおもう。
永遠の愛を誓うことの難しいことか。
おいらはどちらかというとキルケゴールに同情してしまった。
キルケゴールは婚約をはきした8年後に、
すでに結婚して一人の男のものとなったレギーネに
宛てて、和解の手紙を送っていた。でも彼女の夫によって
その手紙は未開封で送りかえされてしまったけど。
だったら最初から結婚してあげたらよかったのにとおもうのだけど。


リマールへ

>>639
君が議論しているスレをようやく確認した。(笑)
あいかわらず元気そうだね。
おいらとの議論は、いつでもいい。
どこかであったときに、またあのときの続きを、
てな感じで。つか、早く帰ってこい。


637 :カオル:2005/03/23(水) 01:45:22
>>632

心遣いありがとうございます。
LR議論は、どうしてああいうことをやっているのか
自分でもわからなかったりします。(^_^;)

二日くらい前にもLR議論で書き込んでいて
ひどいことをまた書いてしまって、なんか苦しくて眠れなくて
掲示板をそっと覗いてみたらなんだか救われる言葉があって
きっとそれはレスの内容じゃなくて気持ちなんです。
もう涙が止まらなくて泣きながらレスを書いてました。

わたしは今までたくさんの人たちを傷つけてきました。
生きているかどうかさえわからない人が何人もいます。
どうにもならないほど純粋でどうにもならないほど愚かで
まるで自分を見ているようなそういう人たちと対話してきました。
でもわたしは純粋でないからすぐに裏切ってしまうんです。

そういうことを繰り返してきたから626にはそういうことも
書かれているのかもしれません。
一応はレギーネの気持ちになって書いたつもりなんだけど。
男の人には翼があるから女にはそれが恨めしいんです。


638 :カオル:2005/03/23(水) 02:07:43
>ニップルさん

ずぅーっとレスは考えているんです。
でもわたしはどうやって答えたら良いのかわからないんです。
大地に口づけることと、大地から飛び立つこと
命に溶けてなくなることと、命から離れていなくなることとの
ちがいがわかりません。

わたしはいったいなにがしたいのでしょうか。
それともなにもしたくないといっているのでしょうか。
だれが?
それはわたしなの?
それともちがうだれかなの?

今日もうとうとと考えながら寝ますね。
今のわたしと明日のわたしがおなじわたしなら
眠ることはむずかしくないのです。


639 :カオル:2005/03/24(木) 03:03:29
>>633
>生成とは、無から有へと成る現象であり、
>〜神の御手から、作られる(創造される)、啓示的な現象のことを、
>あるいは、アルケー(原理)から始まる現象のことを、生成(ゲネシス)と呼ぶ。

@「無〜有」A「神〜創造」B「原理〜現象」のような構造の意味は
左側の概念が右側の概念を必要としているというところにあります。
3つの図式を還元していうなら「生成〜存在」ということでしょう。
けれども「〜」の示す方向性「→」に根拠はみつからないでしょう。

この「〜」に「順序」という概念が持ち込まれてしまうことの原因は
わたしたちの生が、なにかしらの原理や始源や根拠にもとづいている
という思い込みからはじまっています。「→」は、時間を示していて
わたしたちはその時間を生きています。じつはそのこと自体のなかに
生成をつかまえられない原因としての、わたしたちの生の形式の限界
が示されていると思うのです。たとえば、

1.知覚の能力によって事象Aと事象Bを記憶する。
2.その2つの事象を統覚によって結合する。
3.2つの事象のあいだに順序(時間)を見出す。→ 因果律

これがエグゾドス(秩序の生成) → 論理の起源ではないでしょうか。
仮にそうならわたしたちの時間は、論理によって成立していることになります。
またこのような論理の性質からして、論理が原理や始源や根拠をもとめるのは
とても自然なことなのですが、これは静態的なエグゾドスの存在論なのであって
けっしてゲネシスの動態的な存在論にはならないでしょう。
とはいっても、このゲネシスの存在論も発生論としてのそれなのですから
すでに「発生論〜存在論」、つまり「生成〜存在」の図式のなかにいるのです。
このような論理の循環(時間)のなかにいるかぎり生成は見えてこないでしょう。


640 :カオル:2005/03/24(木) 03:09:59

>それは現存在者への、呼びかけであり、
>また現存在者の呼びかけである。

ぐたぐたいいましたが、だからこそ↑なんですよね。
わかっているんですけど、まだそれに答えられないので
名無しさんもニップルさんも高いところにいるなぁ〜。
ついていけないけれど、がんばっています。(^_^;)

では、おやすみなさい。


641 :カオル:2005/03/24(木) 20:28:53
>>639
うーん、やっぱりエグゾドスは意味不明だ。
エグゾドスのところは、脳内削除してください。

エグゾドスについての解釈については、副島隆彦の学問道場から拝借しました。
なかなか面白い解釈だと思いました。ttp://snsi-j.jp/boards/sample1/29.html
以下にその部分を載せておきます。

 皆さんは、自分が頭がいいからと思って、そういう、存在論 オントロギーをやりたがる。
 それは、まだ自分の脳が敗北を喫したことがないからだ。
 しかし、そういうわけにはゆかないのです。日本語では。
 そういう秩序発生論や、存在論は、無理なのです。 それは、ユダヤ人たちに任せるしかないのです。
 彼らが、創世記(ゲネシス=発生論、存在論)と、出エジプト記(エグゾドス 「モーゼの十戒」
 =秩序の生成、存在論。憲法体制の発生論。)を持っているからだ。
 ほかの全ての民族の誕生神話は、すべてこの2つからの派生だ。
 だから、存在論は、ユダヤ人にやらせるしかない。
 この日本語と言う限界言語では、無理なのだ。
 〜
 みんな、いくら自分を秀才だと自惚れている者でも、30歳すぎまで、
 自分の限界と、能力放物線の下降を自覚しない者は、希(まれ)である。
 みんなおのれの限界を知るのだ。
 そして、そのときに、存在論(なぜ、人間は、社会は存在するのか)をやることを諦めるのだ。

けっして諦めないこと、それが哲学徒の精神! ↑は思想家に堕した者の見本ですね。
っていうか、この人はじめから哲学徒じゃないから仕方ないけど。

[補]
ギリシャ語のエグゾドス(エクソドス)− exodos = 英語のエキソドス(エクソダス)− exodus は
旧約聖書の「出エジプト記」のことです。一般的には「大量脱出」のような意味で使われています。
福島さんは「モーセの十戒---神との契約---秩序の生成」という風に構造的に解釈していますね。

642 :カオル:2005/03/24(木) 20:35:06
>>641
>福島

副島(そえじま)さんでした。

643 :カオル:2005/03/25(金) 00:15:45
>>634
>そして世界外へつうじる窓口、について考えてみる。
>つまり超越についてである。
>世界外の窓口としてふさわしいものは、二つある。
>自然と他者である。これらは同時存在者として現存在と対峙する性格を持つ。

【自然】(1)おのずから存在してこの世界を秩序立てているもの。
(3)〔哲〕〔nature〕古代ギリシャで、他の力によるのではなく
自らのうちに始源をもち生成変化するものの意。(goo国語辞典)

自然についての説明には、自然の超越性がそのまま表現されています。
もう少し厳密に定義づけるなら、存在や神の定義としても使えそうです。
けれどわたしたちは、それを言語で認識するこはできないでしょう。

かりに(1)と(3)を合成して「自らのうちに始源をもち、おのずから存在する」を
自然の定義にしたとき、さらにその自然について生成と存在をわけるとしたなら
「自らのうちに始源をもち、おのずから」までが、生成のことになり、
「おのずから」の先が、「存在する」になるのではないでしょうか。
「おのずから」は、「おのずから存在する」ではなくて、「存在」してはじめて、
存在者であるわたしたちに認識されているのではないでしょうか。
もしかしたら「存在(ある)」は、仮象にすぎないのかもしれません。
にもかかわらず、わたしたちは「存在(ある)」の実在性を疑うことがありません。
もしかしたらこれが、わたしたちの最大の誤謬なのかもしれません。

どうしても他者のことが書けないです。
いつも似たようなつまらないことばかりでごめんなさい。


644 :考える名無しさん:2005/03/25(金) 19:31:18
カオルへ

>>641
>エグゾドスのところは、脳内削除してください。

え? 脳内削除しちゃうの?
たぶんそこが肝なんじゃないかと思ったんだけどね。
実は、きみのスレを見てgoogleの検索でおいらもその副島さんの解釈に
ぶち当たって、それで出エジプト記のことについて、いろいろ考えていたんだ。
つまり秩序の生成とは何か?
それから、ユダヤ人たちにしか存在論ができないという意味について。

とりあえず思ったことを、すこしずつ書いてみようと思う。

旧約聖書の中の、出エジプト記の内容は、簡単に言うと
神(ヤハウエ)と人間との会話であり、何度も自然や運命に
挫折しながらも、それでも成長しようとする様子が、描かれている。
出エジプト記の内容を一言で言い表すならば、
それは人間の生を“教育”するということである。
幾多の淘汰が神によって行われ、
またモーセ自身の自己創造的な人格の獲得が行われる。
そのような観点をおいらは、秩序が形成されると理解した。


645 :考える名無しさん:2005/03/25(金) 19:31:43
(つづき)

それからまず、
生成にも、「生成」と「秩序の生成」の二つがあることに驚いた。
面白いと思った。
そして「秩序の生成」については、
それなりに考えることはできるけれども、
(なぜなら秩序化された生成は仮象だからであり、
現存在者側にあるものだから)しかし「生成」については、
現存在者の外側にあるもので、知ることができない。
そのため言語を使用しての存在論は、すでに秩序化された生成の論理を、
秩序化された言語で語ることであり、内部観測的な方法である。
不完全な視点といわざるをえない。

また、おいらがさんざん言ってきたキルケゴールの生成の論理も、
実は「秩序の生成」の論理のことなのであった。
この自己創造的な生成とは、「秩序の生成」のことであり
教育と成長が軸に行われる。
つまり「秩序の生成」は、
そもそも「構造的」なのであり、また「教条的」なものなのである。

生成と秩序の生成には、
いちおうそれなりの飛躍があると言わざるをえないのである。


646 :考える名無しさん:2005/03/25(金) 19:32:15

(つづき)

これについてすこし述べる。
(カオルの論>>643を踏まえての論であることをを先に断っておく)

@「生成」は認識される。
A「秩序の生成」は解釈される。

二つには、実はこのような違いがあると思われる。

生成は 「存在は生成する。」という形式をもつ。
むしろそれしか持たない。
しかし「秩序の生成」は、「存在は、Aであるが故に、生成される。」という構造を
アプリオリに持つ。そして、これは一般的に解釈というのである。
そもそも、解釈は「Aだから(原因)、Bである(結果)」という構造を
持つものなのである。あるいは生成文法が複数あり、
そこに因果関係があるものを解釈ということができる。

実は、人間は解釈より先を、認識することはできない。
つまり認識そのものを認識することができず、
解釈しかできないのである。
故に生成そのものを認識することができない。
つまり一般的には「存在は生成する」そのものが、
接続詞を失った存在しないものとなってしまうのである。
認識以前にも自ずとして存在しているのにもかかわらずにである。

おおざっぱに言うと、こんなところだろうか?
ちょっとかなり不完全な論だけど。
とりあえず今日はここまで。
んじゃ。


647 :カオル:2005/03/27(日) 20:48:47
>>365
>他者と交じり合う創造について

他者との交じり合いでの創造とは、他者との関係を、その存立の条件にする
<わたし>という関係性のことでしょう。<あなた>と<わたし>の関係性は
ときに競争、ときに友情、ときに憎しみ、ときに愛になって現象するのでしょう。

これらの関係性が支配的特性を持つのだとしたら、それはこれらの関係性が
<わたし>の<あなた>からの独立というよりは、<あなた>との関係性から
<あなた>の持つ外在性を取り除くことによって、<あなた>を<わたし>の
特殊として、あるいは<あなた>を普遍的な<わたし>の一部として包摂して
しまおうという、ある種の秩序形成への力によるものなのではないでしょうか。

<あなた>は、<わたし>とともに<わたしたち>になったのであり、
もはや、<あなた>は<わたし>の一部なのだ、と宣言したいのでしょう。

けれど、もし<わたし>が<あなた>からの独立を望んでいるとしたなら
<あなた>と<わたし>の関係性は、つねに競争、いえ闘争になるでしょう。
<わたし>は<あなた>を支配して<わたしたち>になることは望まないから
ただひたすらに、出会う無数の<あなた>を破壊しようとしつづけるでしょう。
ユーラシアを駆けぬけた遊牧の民が、そのあとに何も残さなかったように。


648 :カオル:2005/03/27(日) 20:53:00
>>645-646

はい、その通りだと思います。


649 :考える名無しさん:2005/03/28(月) 00:45:28
カオルにはかなり、キルケゴールのいう「絶望して自己自身であろうとする絶望」を
感じるな。<わたし>の独立性を保つためには<あなた>と<わたし>の間の殲滅戦と
いう選択肢しか残っていないのだろうか。俺は違うと思う。<わたしたち>の中の
<あなた>と<わたし>は同一でありながら厳として峻別されているものであると思う。
ちょっと昨今の実存主義過剰の風潮を君に感じてしまうんだな。実存主義というのは
いきいきとした個別を普遍で殺さないという宣言であったはずなのに、それが過剰に
なると「無理して個であろうとすること」の荒野に出てしまう。そこは本当にいきいき
とした個別性で満たされた光景なのであろうか。俺には退くに退けなくなった頑固者の
抽象的自由に見える。

650 :考える名無しさん:2005/03/28(月) 22:31:34

ちょっと都合上飛ばしたところを、今回は書き込む。

>>637
>LR議論は、どうしてああいうことをやっているのか
>自分でもわからなかったりします。(^_^;)

自分でもどうしてやっているかわからないというところがすごいや。(笑)
ま、ようは一言では言い尽くせないということだと思うのだけど、
おいらは、とりあえずここであの議論の評を言うのはやめておく。
いずれにせよ、あそこで頑張っている人たちに失礼だしね。

でもすこしだけきみに言うとね、
それが泣くほどに辛いことなら、
やめてしまえばいいのにと思うのだが。
でも、そこは、きみの問題なので、
たぶんおいらには想像つかないようなことがたくさん
あってのことだと思うので、
だから、きちんとしたことがおいらには言えない。
だから愚痴っぽく書いた。
きみ自身はややこしく考えないで頂きたい。


651 :考える名無しさん:2005/03/28(月) 22:32:16
(つづき)

で、すこし関係ない話しをしようと思う。

この前、自殺サイトを見つけて、
そこで、どうして人は死ぬのか、という
ことについてのその人の考察を読んでいた。
今ここでそのサイトを紹介するつもりはないけれど
それは非常に良くまとめられたサイトで
おいらは今、自殺についてすこし話したいと思っている。

自殺とは魂の危機である、という言葉がある。
茂木健一郎の「脳と創造性」で見つけた言葉だ。
魂の危機とは今までの人生観や世界観が一変
するような事態に立たされることを言っている。

そして、ここからはおいらが考えた言葉。
魂とは、身体と精神(心)を一つにするものと解釈されている。
そして自殺とは、純粋に精神の反乱であり、
身体を捨てる試みである。その行為の目標は、
精神の永遠性を得ること。
自殺とは、魂の死だ。


652 :考える名無しさん:2005/03/28(月) 22:32:43
(つづき)

死ぬことはとても苦しい。
そのように世間では考えられている。
しかし、その人達にとって、生き続けることの方が、もっと苦しいことだった。
もう自分がどうしようもなくなって、走ることも、逃げることもできずに、
疲れて立ち止まってしまって、死のう、そう思うのだろう。

サイトを読んだあと自分の考えをまとめるとこういう答えが出てくる。
同情よりも無力感のほうが強いかな。
まあおいらは、きっと自己愛が強すぎるのだ。

で、おいらも、そういうことが一度だけあった。魂の危機。

しかし、いまここにおいらがいるのは、
母親がおいらのことをすごく心配してくれて、
電話の向こうで泣いてくれたからかもしれない。
いちおうそういうことがおいらにはあった。

もちろん、そのあとも、苦しいことたくさんはやってくる。
それも一度だけじゃなくて、何度でもやってくるものだ。
苦しいときというのは、母親との思い出も、思い出せないほど
苦しいものだ。きっと苦しいときはなにも思い出せなから
苦しいのだろう。
たとえばこんなときに、とつぜん、過去のことを思い出す。
思い出せることが、つまり、幸せなことなんだ。


653 :考える名無しさん:2005/03/28(月) 22:33:19
(つづき)

こういうことは、おいらには不向きな会話なのかもしれない。
このおいらの言葉は、誰かが見てなんらかの力を
与えるような種類の言葉ではないだろう。
ただおいらだけが、慰められるような気がしないでもない。
しかしまあ、とりあえず言ってみた。
気を悪くしたなら申し訳ない。


次は、自分の言いやすい言葉で話してみる。

魂の危機について。

規則や社会や他者や言葉は、生きる力をどんどんと奪っていく。
生きる力に気づくこと。
それが<今ここ>を大事にすることだと思う。
生きることに気づくために、人は自分にまとわりついた
もともと自分のものじゃなかった言葉を、捨てる必要があるのだと思う。
一つ一つ引きはがして、当たり前のことを、当たり前じゃなかったところに、
言葉が元のあった場所にしまう。信念とか確信とか、思いこみとなるもの、
そういう、いつもの私の言葉を捨てようとする。いや、言葉を元の場所に仕舞う。
そうやってもう一度最初からやり直す。つまり反復とはそういうことかな。
おいらなら、再生と呼びたいところだ。
反復とは再生である。


654 :考える名無しさん:2005/03/28(月) 22:33:50
<キルケゴールについて>


あと、キルケゴールはレギーネを試したんだと思うな。
自分を愛しているかを知りたかったのかも知れない。
自分がレギーネを愛しているのは自分自身のことだから知っている。
しかしレギーネの自分への愛は不確かだった。それが知りたかった。
だから婚約破棄をつきつけて、彼女の気持ちを知りたかったのだと思う。
そして彼女が破棄を拒否したところで、彼は「愛している」と
言いたかったのだと思う。まあ、そういう部分にまで、
おいらは同情するつもりはない。基本的に、そういうのは、
そのひとの器量の問題だと思うので。


あと、翼は男のものだけではない。きみにもある。
そして翼に力を与えるのは愛だ。その人が愛されて、
信頼されているから、自信を持って、安心して恐怖の崖から
飛び立つことができるんじゃないかな。
きみはいま、LR議論スレという、未知のかなたへと飛び立つ。
そのまだ見ぬ地平を求めて。
いちおう、きみを応援しているつもりなのだ。


655 :カオル:2005/03/29(火) 02:30:50
ありがとう

656 :考える名無しさん:2005/04/20(水) 06:11:34
ho ho ho-shu

657 :カオル:2005/04/27(水) 02:43:12
>>649さん

もう見てないと思うけどレスします。

>キルケゴールのいう「絶望して自己自身であろうとする絶望」を感じるな。

はい、まったく。(笑)

 それにわたしのように神さまをうらぎって自己絶対化を企てるふとどき者の
 「人生への真剣さに根本的に欠けている」という罪をあばく人でもあります。>>326

>俺には退くに退けなくなった頑固者の抽象的自由に見える。

たしかに抽象的です。
<わたし>の独立、つまり真に個(単独者)であることは
権利的なものであり、現実には起こり得ないことですからね。


658 :カオル:2005/04/27(水) 02:48:46
>>649 >>651

わたしの精神が「個であろうとする」とき、
どうして「生き生きとしなくなる」と想定されるのでしょう。
たしかに事実としてそうでなのでしょうけれど、
2つの事柄はどのようなつながりをもっているのでしょうか。

まずわたしは、物理的な次元において個です。
おそらく素粒子をその基本要素として個であろうとします。

次にわたしは、生命的な次元において個です。
おそらく遺伝子をその基本要素として個であろうとします。

次にわたしは、精神的な次元において個です。
おそらく現象をその基本要素として個であろうとします。

わたしが独立を希求するとき、それは精神的な次元においてのものです。
そのくわだては、物理的/生命的な次元からの精神の独立です。
けれどもこの精神の独立は、究極的にはその独立とともに消え去るものです。
物理的/生命的な次元から精神を独立させうる唯一の、そして限界の方法は
自殺しかありませんから。

物理的/生命的な次元を背景としなければ、個であることすらできない精神が
またそのつながりのなかでしか生き生きとした個であることのできない精神が
物理的/生命的な次元からみずからを独立させるためには、その活力の根源
である物理的/生命的な次元から、みずからを切り離さなければなりません。
自殺は究極のエゴイズムであり、個としての精神にのみ為されうることです。


659 :考える名無しさん:2005/04/28(木) 00:03:37
ローカルルールスレで興味を持って、このスレ覗いてみた。
レスをさかのぼって読んでみたけど、何が問題なのかワカランぞ。

660 :カオル:2005/04/28(木) 01:16:38
>>659

ローカルルールスレの2(改良前の7)にある

 哲学板は2ちゃんねるの【学問・文系】カテゴリーに属する板です。
 「世界・人生などの根本原理を追求する学問」であるところの哲学の話題を扱います。

この2行によって、学問哲学ではないもの(=学問としての形式をとらない哲学)は、
人生哲学およびマイ哲学とし、排除しようというのがもともとの賛成派の意向です。
ですが規制には賛成でも、そこまでは求めない賛成派も少し出てきてくれて
(もしかしたら賛成派と反対派の歩み寄りによってそうなったのかもしれないけど)
今は反対派とのあいだで「共存」案を検討中というところです。
「共存」案成立に協力していただけたらありがたいです。


661 :考える名無しさん:2005/04/28(木) 01:18:50
選挙活動よくない。堂々とやれ。

662 :カオル:2005/04/28(木) 01:27:59
>>661

えっ、こういうの駄目なの?

じゃあっちのスレに転載すればいい?


663 :考える名無しさん:2005/04/28(木) 01:37:25
>>662
うん、そう思う。

>学問哲学ではないもの(=学問としての形式をとらない哲学)は、
>人生哲学およびマイ哲学とし、排除しようというのがもともとの賛成派の意向です。

というアジテートは、このスレの住人から「本当に賛成派はそう考えているのか?」
という個人個人の思考をあらかじめ停止させて判断を固定させちゃうから。


664 :カオル:2005/04/28(木) 02:32:59
>>663
>というアジテートは、このスレの住人から「本当に賛成派はそう考えているのか?」

アジッたつもりはないですし、一人を除いては規制賛成派の意見は事実そういうものでした。
実際に【ローカルルール申請のための議論スレッド 1】を参照してみてください。


665 :考える名無しさん:2005/04/28(木) 02:50:18
>>664
だ・か・ら・さ・あ
「一人を除いては規制賛成派の意見は事実そういうものだった」かどうかを
個々の住人がLR議論を自分自身で読んで判断すべきだといってんの

666 :カオル:2005/04/28(木) 04:44:53
>>665

うん、だから読んでって書いてるの。(自分の目で確かめて!)

そもそもローカルルールスレでこのスレをあげたのはわたしです。
それにたいして659のレスがあったから、わたしが事実だと思っていることを書いただけです。
わたしは、アジろうとかしていないです。でもあなたにそうとられたから転載もしました。
それに読んだ人の自由だから一々指図することじゃないと思うけど、
あなたが「判断を固定させる」とかいうから、それは本来は659さんの問題なんだけど
「このスレの住人」とかまでいうから、実際に議論されたスレをあげて参照してください、
と書きました。わたしが書き込みをしたから、はじめてそのことについて確かめることも
できるのです。それをはじめから書きこんではいけないかのようにいうのはおかしいです。


667 :考える名無しさん:2005/04/29(金) 17:48:44
良スレage

668 :考える名無し:2005/05/03(火) 02:00:34
>>658

君の論考を読んでいると、どうして精神というものは、一人になりたがるんだろうと思った。
物理的なアトムや、生命の雌雄、共同体のようにはなかないかない。
くっつきあったり、あるいは、ばらばらになったりとどうも単純にはいかないみたいだね。
もちろん、それぞれ成立するなにかが、違うのだろうけど、
そのとき≠大事にするのは、精神の特徴である。

>けれどもこの精神の独立は、究極的にはその独立とともに消え去るものです。

この"消え去る"というのは、存在が存在(本質)として存在しなくなることを
意味するのだろうか。特徴を失い、無秩序に帰り、循環されていく、
そのポリッシュ的(磨耗)な経緯に、精神も従わなければいけないのだろうか。
おいらならば、精神を磨耗させるその何かを嫌悪して、特徴を守り、
秩序を求め、維持していくだろうと思う。まあそれが、つまり、
生きる(存在していく)ために必要なことだったりするわけだが。

「生」の反対概念は、「死」ではなく「自殺」なのかもしれない。
小説家、村上春樹の「ノルウエイの森」に「死は生の反対ではなく、
死は生の一部として存在する」という一節が出てくる。
(手元にないので、もしかしたら正確な引用ではないかもしれない)
おいらはときどき、この言葉を思い出す。
この小説を読んでから、もうかれこれ10年くらい経ってるから、
たぶん一生、忘れない、おいらにとってはそんな小説である。
生の反対は自殺である。そう言い切っていいと思う
どちらの概念もお互いに排除しあって、矛盾することがない。
そしてどちらも、一度きりなのである。
じゃあ、どうしたらいいんだろうね? (なにを?って訊ねないでよ)
それがまったくわからないのだ。


669 :カオル:2005/05/04(水) 01:11:28
>>668
>君の論考を読んでいると、どうして精神というものは、一人になりたがるんだろうと思った。

個体としての生命のもっとも高度な(シンカ論的にも最先端の)志向性として
独りになりたがるわたしという精神のエゴイズムがあるのではないでしょうか。

>物理的なアトムや、生命の雌雄、共同体のようにはなかないかない。
>くっつきあったり、あるいは、ばらばらになったりとどうも単純にはいかないみたいだね。
>もちろん、それぞれ成立するなにかが、違うのだろうけど、
>そのとき≠大事にするのは、精神の特徴である。

はい、単純にはバラバラにできないです。なぜか?
それは、わたしが物質であり、生命であり、精神だからです。

けれど「そのとき≠大事にするのは、精神の特徴である。」というように
もしもこれが、物質や生命であることからの精神の独立性を示しているのなら
それぞれに「成立する何かがちがう」ととらえることが必要になってくるのは
このような議論を成立させるためには必然的に要請されてしまう前提でしょう。

たとえば自然科学の立場に立つなら、精神は → 生命現象 → 物理現象として
唯物論的に還元されてしまいます。これは精神が還元される唯一の世界が物質
の世界であること、つまり世界一元論なのですから、ここで精神の独立性など
見出すことはできないのです。


670 :カオル:2005/05/04(水) 01:52:41

>この"消え去る"というのは、存在が存在(本質)として存在しなくなることを
>意味するのだろうか。

たんにわたしがわたしでなくなるだけです。
灰になったわたしやお墓になったわたしやだれかの心のなかにいるわたしは
もうわたしのわたしじゃないですもの。
でもわたしがわたしとして消え去る行為をわたしが意思できたこと、
そのことだけはわたしによってわたしに還元されます。
わたしの意思はわたしが消え去ることによってそこで終結するんです。
生命としてのわたしにも物質としてのわたしにも還元されないんです。
わたしがわたしであることの唯一のわたしへの証明が自殺なんです。

>おいらならば、精神を磨耗させるその何かを嫌悪して、特徴を守り、
>秩序を求め、維持していくだろうと思う。まあそれが、つまり、
>生きる(存在していく)ために必要なことだったりするわけだが。

エイリアンのお母さんの繭のなかにわたしがいます。
わたしはお母さんが嫌いだけど、お母さんは愛してくれます。
お母さんの呼吸にあわせて愛がわたしの体をかけぬけていきます。
ただ存在するために蠢くお母さんとのつながり、絆はいのちです。
だからわたしは生きている。だからわたしは生きていたくない。
でももしかしたらわたしはまだ生まれていないのかもしれない。
もしそうなら自分で繭をやぶって生まれてみたい。
生まれてすぐに死んじゃうのだとしても
生きるためじゃなくて生まれてみたい。


671 :カオル:2005/05/04(水) 02:07:50

>「生」の反対概念は、「死」ではなく「自殺」なのかもしれない。
>小説家、村上春樹の「ノルウエイの森」に「死は生の反対ではなく、
>死は生の一部として存在する」という一節が出てくる。

同意です。
生きているわたしたちは、生の世界の外に出ることはできません。
わたしたちの知っている死は、あくまで生の世界にある死なのですから
生の向こう側にある(と想念される)死を知ることはできないのです。
死の世界を知らないのに生と死のあいだに境界線は引けませんから
生と死を区別することはできないのです。

贈与された生の反対概念は、生まれないことか、上で書いたように
自分で生まれること、つまり生(死)を創造すること。

>じゃあ、どうしたらいいんだろうね? (なにを?って訊ねないでよ)
>それがまったくわからないのだ。

キチンと自分の意思で死ぬためにキチンと自分の意思で生きること。
わたしらしくないこと言ってますね。(^_^;)


672 :参考までに:2005/05/04(水) 13:22:07
「サルトルは、ハイデガーにさからって結論する。死は、私自身の可能性であるどころか、
むしろ一つの偶然的な事実である。私は私の死を発見することもできない。私の死を
期待することもできない。死はあらゆる期待を空しくさせる。私が生まれたということは
不条理である。私が死ぬということも不条理である。」 『存在と無』用語解説から

673 :考える名無し:2005/05/04(水) 19:29:11
>>669-671

>灰になったわたしやお墓になったわたしやだれかの心のなかにいるわたしは
>もうわたしのわたしじゃないですもの。

くやしいなあと思った。おいらの心のなかにいる君は、君じゃないんだね。
まあ、当たり前なんだけどさ(笑)
だから君のことを知ることも、できないし、知ったと思っても
君は逃げてしまって、とたんに新しい君になってしまうし、
追いかけなければ、とたんに君が誰なのか分からなくなるし。
本当に君はたいへんな人なんだねえ。
そこが面白いんだけど。


>わたしの意思はわたしが消え去ることによってそこで終結するんです。

終結する理由がわからなかった。
君は、君以外の君は君じゃないと否定しても、君の言葉は飛んでいくし
誰かの元へ着地するし、終結しないと思うんだよ。


674 :考える名無し:2005/05/04(水) 19:29:41

>生命としてのわたしにも物質としてのわたしにも還元されないんです。
>わたしがわたしであることの唯一のわたしへの証明が自殺なんです。

生命や物質と同じように、それ自体の唯一性を、精神にも求める行為が
自殺だけだとは思わない。例えば、唯一性は時間にも求められる、
例えば経験がそうだ。独自であり、唯一だ。そしてそれから為る
言葉も、君が君から発せられる限り、唯一だと思える。
きみの言葉は誰にも還元できない。
そもそも、証明とは何だろうか?
きみがきみ自身にする証明は、証明と言えるのだろうか?
きみが、「わたしは存在しているの?」と訊ねるなら、
おいらは「きみは、存在している」と答え、証明することができる。
証明ってそういうものだと思うんだけど。

しかしきみが、物質や生命と切り放して精神のみの独立性を
希求するのなら、おいらの意見も意味がなくなってしまうんだけどね。


675 :考える名無し:2005/05/04(水) 19:30:08

いちおうおいらは、きみに批判的な意見を言っているけど、
誤解してほしくないのは、やはりおいら自身の意見は
おいらへの批判も含まれているということ。
そういう意味では君への批判的要素は少ない。
例えば、このような言及は、おいらの生への不信感がある。
なぜ生きるのか? こういう疑問がおいらにはある。
どうしたってこういう悩みからは、逃れることなんてできない。

だから生について、のらりくらりと考えてしまう。
死ついては、それ自体に嫌悪的だ。事実そういう発言をしている。
心理的に、矛盾を含んでいる発言をしているのは承知なんだ。
きみなら、そういうことを理解してくれると思って、
あえてこういう発言を繰り返している。多少分かってくれると助かる。

>エイリアンのお母さんの愛。

エイリアンというのは、異性存在のことかな。
不可解で、いくらか不条理な存在のこと。
こういう君の言葉を読むと、おいらはくるおしい気持になる。
じゃあどうすればいいのさ。どうすりゃいいんだよ。
ああわかったよ、やってみるよ。おいらはやるんだよ。
こういう気持がわきおこる。(これはあんまり関係ないかな)

不思議だ。


676 :考える名無し:2005/05/04(水) 19:30:45

>生まれてみたい。

おめでとう。
生の祝福は生きる者たちの特権です。
神様すら、わたしたちの生を祝福してくれません。
だから、わたしたちは祝福しあうんだと思います。
祝福は、あなたの心のずっとずっと奥に届きます。
おいらはそう信じています。

>キチンと自分の意思で死ぬためにキチンと自分の意思で生きること。

わたしは、生きています。
そして、これからも生き続けると思います。
ただ前向きに生きたいと思います。
いろいろ考えたけれど願いはそれだけです。

もしかすると自殺の反対は、
おそらくこういう気持なんだろうな。
たとえ死ぬと分かっていても、
そういう気持であることが生きることなんだと思う。

>わたしらしくないこと言ってますね。(^_^;)

まあ、そういうこともありますよ(笑)
そういう意見は好きです。
あなたも知らないあなたを知り、
そしてあなたとそれを知り合うことができたわけですから。


677 :??:2005/05/14(土) 16:05:02
物事を難しく考えること

678 :考える名無しさん:2005/06/07(火) 00:09:20
良スレage

679 :考える名無しさん:2005/06/07(火) 18:54:54
もひとつage

680 :二プレス:2005/07/04(月) 18:04:38
 私にはサンバイザーのお化けみたいな日よけを使って街中に繰り出す人たちが
信じられない。あんな恥ずかしい格好をするくらいならシミができたほうがいいのではないだろうか。
少なくとも私ならシミができるのと同じくらいに恥ずかしいと思う。
でもサンバイザーを使っている人はシミができるほうが恥ずかしいと思っているのだろう。
この溝を埋めることはできない。

 一つのことを二つの角度から語ることは可能だけど、どちらかの角度が(その人にとって)
なぜ必然なのかを語ることはおそらく不可能だろうから。

681 :カオル:2005/07/05(火) 00:52:10

ソバカスいっぱいの女の子ってステキ!キャンペーンをはってくださいね。
だからって、べつにオトコノコを気にしてるというわけでもないんだけどね。
もしも「皮膚ガンの予防のため」とかいって、みんながUVケアしだしたら
オバケみたいなサンバイザーをかぶりだすのオトコノコだと思うんだけどな。


682 :考える名無しさん:2005/07/05(火) 01:34:22
探すこと

683 :カオル:2005/07/05(火) 01:54:36

LR議論でまじめなこといってるのに・・・こういうレスのときageられると困ります。(^_^;)


684 :カオル:2005/07/05(火) 02:05:40

オバケのようなサンバイザーが美しくてもそうでなくても
そのような奇妙な現象を可能にしているのは主観なのです。
そしてこの主観という理性の働きはア・プリオリに規定されています。
理性がオバケのようなサンバイザーに投げ与えているさまざまな様相は
それが認識しうるかぎりにおいてのものなのです。
そしてそれが人間における客観世界なのです。(カント)

では、はたしてオバケのようなサンバイザーが現象する根拠としての
物自体の世界で、オバケのようなサンバイザーは美しいのでしょうか。

理性の働きが現象させる対象のバリエーションの豊かさ(=客観世界のあいまいさ)を
こえて行こうとするとき、人間にできることはいったい何でしょうか。

オバケのようなサンバイザーが許せないのは、ほんとうのあなたなのでしょうか。
そんなあなたはどうにでも変幻自在な、誰でもない匿名のあなたではないでしょうか。

ところで680さんは、ほんとうにニップルさんなのでしょうか?
ニップルさんにしてはくだけた内容のような・・・いえ、それはいいんですけどね。(^.^)


685 :二プレス:2005/07/05(火) 22:31:40
>>684 >カオルさん
 私の偽者を演じるような物好きはいないでしょう。

 先の書き込みで私が問題と感じていたことは、第一にサンバイザーのお化けをかぶることで
本来そこにあったはずの、太陽の下でのびやかに輝く「生き生きとした美しさ」がこんなにも損なわれている、
ということです。
 第二にはこの損失をどんなに声高に叫んでもそれは決して相手には届かないのではないか、ということです。
ちなみにこの第二の論点が主題です。

 問題の要点は私が「あの立場」に立ったとき、サンバイザーをかぶることはないと「この立場」から言っている
という点にはなく(厳密にいって「あの立場」に立つことは決してない)、ただ単にあれは誤っていると
感じている点にあります。

686 :二プレス:2005/07/05(火) 22:32:20
 私はこの、放っておくとどんどん「拡散していく自己」をひとつに束ねてくれる何かが
とても大事で、それを、いやその影を、追い求めてさまよっている。私は自己をぼろぼろになるまで消耗し
捧げ尽くすことを望んでいる。
 ここにフロイトの二大欲動論の交差を見出すのは比較的簡単でしょうけど、今の私にはその種の説明に
興味がない。

 それよりも私がしっくりくる説明は、<わたし>という決定的な中核を巨大な虚無に向けて投げ出していく
という生き方しかない、というようなものです。
 たとえば決して成就し得ない「愛」に向かってこの私をささげていくこと。
もはや愛してさえいないかもしれないけれど、すれ違うしかないかもしれないけれど、
それでもすべての「ものだね」である私自身をその虚無に向かって、非合理にささげていく。

 このような報われなさ非合理さ、不条理さの中にしかこの私の「生」は刻まれないように思う。
でもサンバイザーのお化けをかぶることは、なにか、報われてやろうとか、ウマい汁を吸ってやろうとかいう
思いが前面に出ていて私には理解に苦しむところがあります。
 いや、報われたいとかウマい汁を吸いたいとかいう思いははっきりと自分にもあるけれど、
それはこの私という中核を持つがゆえにどうしようもなくポロリとこぼれ出るような思いであって
サンバイザーのお化けをかぶるというような計算された冷徹な何かではないと感じるのです。

 そしてこのような隔たりの源はついには「語りえない」のではないでしょうか。
なぜならこのような隔たりこそが「この私の生」そのものなのであり、「この私の生」が
現に「この私の生」である限り、それはほかの誰にも共有されない隔たりを抱えてしまう。
だとしたらサンバイザーのお化けをかぶる理由もかぶらない理由も究極的には「語りえない」のではないか。

687 :カオル:2005/07/06(水) 02:04:30
>>685-686 ニップルさん

  太陽の下でのびやかに輝く「生き生きとした美しさ」
  <わたし>という決定的な中核を巨大な虚無に向けて投げ出していく

この2つの志向性は、おなじもののべつの表現だと思います。
つまりフロイトでいうなら、生への欲動も死への欲動もおなじものだということです。
フロイトのまちがいは、それぞれを2極にわけて対立させてしまったことです。

  「あの立場」に立つことは決してない

というあなたの志向性と

  サンバイザーのお化けをかぶるというような計算された冷徹な何か

にとらわれる心の志向性とのあいだの溝は、>>295で引用した
「幸福な世界」と「不幸な世界」での実存のちがいを「力への意思」の
肯定の「うち」に限定したものでしかないと思います。
もちろんこの2つの立場のちがいは、決定的にもみえるものです。

  どんなに声高に叫んでもそれは決して相手には届かないのではないか

という現実の壁にぶつかるのは、もっともなことだと思います。
でもこのちがいは、死にたいする状況のちがいでしかないです。
この状況のちがいを哲学は十分に射程に入れていると思います。

わたしが感じるもっとも根本的なちがいをいうなら
それは「力への意思」への肯定と否定のそれです。
たとえば、「校庭のまんなかで両手を広げ光のシャワーをあびて輝く太陽の子」の
光の世界(幸福な世界)が、写真のネガフィルムのように暗黒の世界(不幸な世界)に
反転しまうときの、この両者の実存のちがいは決定的だと感じます。


688 :カオル:2005/07/09(土) 07:47:52
なんだかわたしのレスって論点ズレてますね。スルーよろ。(^_^;)

689 :カオル:2005/07/10(日) 03:06:10

「ヒトラー〜最期の12日間〜」とかいう映画の監督が「ヒトラーという人間は?」
と、聞かれて「からっぽ」って言ってました。なるほど!って思いました。

わたしたちは拡散していく自己を計算された冷徹な何かで守っているのではないでしょうか。
それはおそらく論理であって、その論理をささえている情念は生と存在を肯定しているはず。
もしもそれが自分だとするなら、巨大な虚無に向けて自分を投げ出していくという生き方は、
自分を計算された冷徹な何かでつつましく守ることを止めるということなのかもしれません。

わたしは、そのようなことを実践したのがヒトラーだったのではないかと思いました。
もはや愛人も国民も自分さえも愛してさえいないかもしれないけれど、すれ違うしか
ないかもしれないけれど、それでもすべての「ものだね」である自分を虚無に向かって
非合理にささげていく。それは生そのものへ一身を捧げるということ、力への意志に
自分という個を売り渡すこと・・・やがて巨大な虚無(=力への意志)は、彼を媒体にして
巨大な存在の刻印を残していく。何百万人殺そうとこれも生と存在への讃歌なのです。

わたしはわたしを投げ出さないでいたい。からっぽでないわたしでいたいです。
もちろんそれは生と存在への讃歌を聴きたくないからです。


690 :考える名無しさん:2005/07/10(日) 03:25:16
凡庸な。

691 :カオル:2005/07/10(日) 03:50:36

しまった!またまた論点無視…

>>685
> 問題の要点は私が「あの立場」に立ったとき、サンバイザーをかぶることはないと「この立場」から言っている
>という点にはなく(厳密にいって「あの立場」に立つことは決してない)、ただ単にあれは誤っていると
>感じている点にあります。

「化粧をしない素顔の君が好きだ!」とか言われたらそれはそれで嬉しいけど
もしもそれがサンバイザーのこととおなじ意味でいわれていたとしたら
たしかに気づかない(理解の仕方がちがう)と思うけど、ちゃんと説明してくれたら
意味くらいわかるけど!? 言われた通りにするかどうかはべつだけどね。(^_^;)

誤っていると感じている、というのは価値観とはちがうのですか?
いったい何が相手に届かないのでしょうか?
実存主義でいう「単独者」の孤独を言っているならわかりますが。

>>690
>凡庸な

いちいちコメントいらないです。
ニーチェの思想に絡めたよくある話しなのは誰にもわかりますから。
無駄なコメントするより凡庸でない物語をきかせてほしいです。できる?


692 :考える名無しさん:2005/07/10(日) 12:54:35
安っぽい実存主義に毒された者は怒りすら凡庸。
日本の若者は本当に大丈夫なのか。

693 :二プレス:2005/07/11(月) 01:20:08
>>689
 いや、まったく的を射ています。
私はある意味であの時代が偉大な時代であったと認めることができます。
あの時代の出来事はアイロニカルに「生と存在の讃歌」を歌い上げていると、私には考えられるのです。

 何百万人殺してでもこの世界には「生きる価値」があったのですから。
何百万人も殺してまでこの世界に生きることができない人からすればヒトラーのやったことの意味は
まったくわからないでしょう。現に私の理解の範疇も超えています。

 この対比はサンバイザーのお化けをかぶる人とそれを否定する私との間にある差異を
より鮮明にできるでしょうか。

 「力への意思」説に私はどういう態度でのぞめばいいかよくわからないですが、
巨大な虚無に向けてこの身をささげるのは、私にはどうしても「生」に必須の事柄のように思えます。
(どうしても必須と思わない人には結局語りえないように思う ここには決定的な断絶の
痕跡があるのではないでしょうか)

694 :カオル:2005/07/11(月) 03:53:44
>>693

サンバイザーのお化けをかぶる人とそれを否定するニップルさんとの差異は、
客観世界での自己、つまり自己の自己相対化(シュミレーションのシュミレーション化)に
おける仮想の実体としての自己なる実在の「生き方」のちがいなのですから
それは相対的なものになるしかないでしょう。なぜならどちらにしても「生」に
おける必須の形式である「論理」を用いているからです。この論理は、生と
存在の肯定を前提にしています。ですからニップルさんの「巨大な虚無」は、
「力への意思」に他ならないと思ったわけです。

虚無に身を捧げるというのは、言いかえるなら未来への企投のことであって、
それが「計算された冷徹な何か」ではなく、「生」に必須のことに思えるのは、
本来の「生」が予測されたものではなく、また予測されないものとして、未来
へ向うものだからです。また未来はそういうものとして到来するものでしょう。
ですからサンバイザーのお化けをかぶる人の計算(予測)は、客観世界での
出来事(シュミレーション)が、あたかも確実性をもって実在するかのように振る舞う
様相を示しているのでしょう。(男の方の見え方に従がうなら、ですけどねw)

「生」を認識論的なシュミレーション能力によって客観世界に閉じ込められるという
生き方 ── 夢をもって生きること、目標を立てて現実的な努力をすること、
歴史的な状況や文化的な環境を認知して反応すること、社会的な規範や
世間の流行や雰囲気を「生」の肯定のなかでかぎとることで「生存」のため
に利用すること ── にたいして、不可知な未来へ一身を投げ出す行為は、
予測不可能な本来の「生」の本質、今を全力で走り抜けることなのでしょう。
わたしたちは歩けもしないのに立ち上がり、走れもしないのに歩こうとした。
そうやって生きることをはじめたのです。


695 :カオル:2005/07/12(火) 01:57:40

ツマンナイこと書いてるな。
どうせツマンナイなら
もっとキチンと説明しないとイケナイですね。
もう少しよく考えてみます。

コトバのなかに住む他者と分かり合うことは、自分という他者と折り合いをつけることでしかなく
キライな人も自分のなかのキライな人なのだから、わたしのもともとよく知っている人なのです。
けれどもわたしの世界に住まないその人は、はじめから存在しない人なのだから
わたしはその人に関心を向けることさえできない。たとえその人の意識がわたしの脳のなかに
入り込むことがあったとしても、わたしが正常とみとめられるかぎり、わたしはその人の意識を
その人(他者)の意識とは識別できないでしょう。なぜならわたしの正常さは、わたしがわたしで
あることによって保たれているからです。

これもツマンナイ。
仕事にかまけて心が怠けています。

泥より出でて泥に染まらず、凡夫を救う蓮の花。
Angel Of Harlem。

この思想からの脱却が、この思想への脱却につながってしまうなら
小さき者の苦しみは永遠につづき、世界は永劫に回帰するのでしょう。


696 :カオル:2005/07/19(火) 02:07:34

虚無に身を投げ出すことは、生の肯定なのです。
神さまを信じる人にとって、死が生そのものであるように。
その想いの根っこには、生そのものへの肯定があります。
この一点において、自殺する人の想いとはちがいます。
死のその時までは生に拘束されるしかないのだとしても
ふたりの住む世界はちがいます。

サンバイザーをかぶってあがいてみても
サンバイザーをぬいでシミだらけになっても
そこに生への肯定があるかぎり
やはりそれは生き方のちがいでしかないと思います。
死を遠くにながめて未来に生きるのも
死を傍らにまねいて今を生きるのも
死にたいする態度のちがいなのだと思います。

まだ死にたくない、と後悔するかもしれない生き方は
二元論の葛藤のなかで、生の論理を生き抜くこと。
もう死んでもいい、と満足するかもしれない生き方は
一元論の調和のなかで、盲目の意志に身をゆだねること。

どちらにしても生への讃歌です。
その調べを口ずさめない小鳥はどうしたらいいのでしょう。


697 :二プレス:2005/07/19(火) 23:32:27
>>696
 たしかにサンバイザー云々は、生の論理の差異に過ぎないのかもしれませんね。

 そういえばこの間ヒトラーの映画の話をしていましたが、少し前に「戦場のピアニスト」を
見たときに、生の讃歌を口ずさめない鳥のことを思いました。
 あの映画は実にくだらないのっぺりとしたものでしたが、クライマックス?のシーンで
主人公をこの世界に引き止める、あるいは引き戻すピアノとの再会があり、それまでの不条理な災禍を
すべて引き受けてもピアノがある限り、音楽(芸術)がある限りこの世界には「生きる価値」がある、と
言わんとしたのだろうと私は解釈しました。

 そう解釈したときのあのストーリーの美しさは多少わかるつもりですが、言わんとしたことの核心
(それでもこの世界には生きる価値がある)はどうもつかみにくかった。

 このとき美しい調べを口ずさめない小鳥のことを思ったわけです。
時代設定が現在なら「生きるべきか死ぬべきか」で迷うのかもしれませんが、あの時代のある種の偉大さは
そういう葛藤を押しのけてしまう力強さにあるのかもしれません。
この「偉大さ」の喪失は誤解と偏見を恐れずにいうならば、「鮮烈な生と死」の喪失なのではないでしょうか。

698 :二プレス:2005/07/20(水) 00:08:56
ん?なんか最後の結論あたりがおかしいな…。

699 :カオル:2005/07/23(土) 01:48:16
>>697
>あの映画は実にくだらないのっぺりとしたものでしたが、

アハハ。(^.^)

 ドイツ軍将校 あなたは誰ですか?
 シュピルマン わたしはピアニストでした。

シュピルマンは、サンバイザーをかぶる人ですよね。
だから延命のために「自然死」がやってくるまで生き抜きました。
彼は、フランクルでいう「態度価値」を示し得ない人です。

ポランスキーが、シュピルマンに「ピアニストでした」と過去形で言わせたのは
シュピルマンが「今は何者でもない」ということを示すことだったのだとしても
彼が「ピアニスト」というような「肩書き」でしか自身の価値を示せないのなら
彼もまたヒトラーの主張した血統の優劣(差別)を批判することはできないのです。

ポランスキーは、人生の不条理や限界状況での人間の心模様を丹念に描くけど
「テス」にしても「ローズマリーの赤ちゃん」にしても「良心」の肯定はしないです。
というかポランスキーは、13歳の少女に睡眠薬をあたえてレイプするような男
なので肯定しないというより、むしろ「良心」を不条理や限界状況の下において
屈服させること、つまり無意味化させることに全力を注いでいるように見えます。
まぁそれだけ「良心」が気にかかっているのでしょうけどね。

シュピルマンのように何もなかったかのようにその後を生きられる人もいるけど
戦争とかで「良心」が傷ついて心が壊れてしまう人もいるのではないでしょうか。
たとえば、灰谷健次郎の『太陽の子』にでてくるお父さんのように。
この作品は、ポランスキーの「良心」の言い訳作品より、100倍いいですよー!
主人公のふうちゃんはむかしのわたし。てだのふあも今ではこのザマです。(^_^;)


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