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「純粋理性批判」精読スレッド

1 :考える名無しさん:05/02/19 11:02:10
純粋理性批判に限り、各人が本書に興味がある箇所を論じるスレッドが欲しかったので
立ててみました。本書の見所を思う存分に書きこんでみてください。

2 :考える名無しさん:05/02/19 11:20:16
>>1


別スレで『純粋理性批判』やってる人たちを誘導せんとな。

3 :考える名無しさん:05/02/19 11:36:28
 判断における悟性の論理的機能について<95〜>

〜(三)判断における思惟の関係は、全てで次の三通りだけである、
即ちー(a)述語の主語に対する関係、(b)理由の帰結に対する関係、
(c)区分された認識と区分によって生じた全ての選言肢相互との関係である。
第一の判断様式では二個の概念だけが考察され、第二の判断様式では判断が考察され、
第三の判断様式では二個以上の判断の対立関係が考察される。『もし完全な正義がある
ならば、不逞な悪人は処罰される』という仮言的判断は、元来二つの命題『完全な正義
がある』と、『不逞な悪人は処罰される』との関係を含んでいる。しかしこの両命題が
それぞれそれ自体真であるか否かは、ここではまだ決定されない。この判断によって考
えられるのは帰結だけである。次に選言判断は、二個もしくはそれ以上の命題の対立関
係を含むが、しかしこれらの命題は、理由と帰結との関係ではなくて論理的対立の関係
であり、従っていずれか一つの命題の範囲は他の命題の範囲を排除するが、しかしそれ
と同時にまた全ての命題は相互関係をなし、これらの命題が相集まって元来の認識の全
範囲を充足するのである。それだから選言的判断は、一つの認識の全範囲を形成する全
ての部分相互の関係を含み、各部分の範囲は区分された認識の全体に関して、それぞれ
他の部分の範囲を補足するわけである。〜続く

4 :考える名無しさん:05/02/19 11:37:50
判断における悟性の論理的機能について<95〜> 
続く〜
 例えば『世界は盲目的偶然によって存在するか、さもなければ内的必然性によって存在
するか、さもなければ外的原因によって存在するか』という命題について言えば、この命
題に含まれている三個の命題は、世界の存在一般に関する可能的認識の全範囲の一部分ず
つをそれぞれ占めると同時に、またこの三個の命題が相集まって全範囲を形成するのであ
る。これらの範囲の一つから、その範囲を占めている認識を取り除く事は、この範囲を残
りの二範囲のどれか一つに入れる事を意味する。これに反して二つの範囲を残りの一つの
範囲に入れる事は、これらの二範囲から、それぞれの範囲を占めているところの認識を取
り除く事を意味するわけである。それだから選言的判断は、二つ以上の認識の間の或る相
互関係を含んでいる、そしてこの相互関係は、これらの認識が相互に排除し合いながら、
しかも全体として真実な認識を規定する事によって成立するのである。従ってこれらの認
識を総計すれば、与えられた一つの認識の全内容を形成する事になる。〜

5 :考える名無しさん:05/02/19 11:53:16
>>3
判断は主語が述語に包摂されるという形式をとるわけだ。その判断の関係について
論じているこの箇所が刺激的だ。主語と述語のとり得る形態を全部で三種類である
と言明しているところがすごい。物事を推理する場合やある概念に含まれないもの
を何であるかを考えるときにこれらの三通りの関係考察することにより、関係とい
うものを考えているのだと解釈した。
つまり、対象をどうしたいのか、という事を考えるとする。それを関係において考
えるならば、一つは、〜であるという事(述語)が目的である対象(主語)の性質
だと考えている。二つは、一方が原因となり他方に帰結して影響を与えている。
三つは、あるところに幾つかのものがあるのだが、それらが全部でどうなってるの
という事を考えている。これらが何かを判断するというときに、人間の意識に現れ
る概念の状態を関係として表示したものというのだ。自分がどうしたの、と考える
ならば、判断を何かしらの状態にしなければならないならば、このような意識の状
態になることを、全てでこの三通りであると言い切る度胸に仰天させられた。

6 :考える名無しさん:05/02/19 12:13:08
>>3
判断の関係において、「〜なら、〜である」という条件があるとしよう。
このような条件を仮言という。
しばしば、仮定とか、空想話とか、絵空事とか、たら話とか言われるやつ
がこの関係を含んだ仮言であると現在に理解している。
「しかし、この両命題がそれぞれそれ自体真であるか否かは、ここではまだ
決定されない。この判断によって考えられるのは帰結だけである。」
これが本当であるならば、仮言というものは結論のみを話題にしたいのだ、
という事になるだろうか。その仮定全体を含んで、空想だというのではなく、
結論される対象がどうであるかを話題にしたいのである。だから、仮定話が
ありえないというのは、前提にされるような述語が無い、或いは主語が無い
という事が言いたい事であり、その判断全体が嘘だといいたいのだ。そうで
ないならば、あなた自体が侮られているか、相手の頭が悪いか、何かしらの
理由があるのだろうと想像させられて、この部分は読み応えがある。

7 :考える名無しさん:05/02/19 12:28:49
「選言は二個もしくはそれ以上の命題の対立関係を含むが、しかしこれらの命題は、
理由と帰結との関係ではなくて論理的対立の関係であり、従っていずれか一つの命題
の範囲は他の命題の範囲を排除するが、しかしそれと同時にまた全ての命題は相互関
係をなし、これらの命題が相集まって元来の認識の全範囲を充足するのである。」
選言状態というのは一方の範囲が他の範囲を排除するというものである。
そして、同時に全てが全範囲を成している。これを選言状態と言い換えていいだろうか。
これを最上段におくならば、一方の範囲を否定することは選言状態を否定することになる。
つまり、判断してはならない判断であるという所がすごい。ビックリ仰天。

8 :考える名無しさん:05/02/19 12:35:14
定言関係は述語の主語に対する関係である。だが、その主語がいったいどこから来たものなの、
という事において、対象というもの自体を絶対判らないというされるからすごい。
つまり、自分の中から生まれたものを自分の中で解釈して、あれこれ判断しているという事になる。
はじめに判断しているものだけをどうやって考えられるのかという事が解明されない限り、あなたの
言っていることは、お前の勝手な考えだろと言われかねないところがすごい。

9 :考える名無しさん:05/02/19 16:11:59
お前の勝手な考えだろ

10 :考える名無しさん:05/02/19 16:27:06
勝手な考えだろうか。何ゆえに、カントのこの著書が体系的であるのかというは判断から始めているからだ、
と理解している。ただ、直接に対象と関係するという事は自分以外のものが自己の内部に入ってくるという事だ。
つまり、入る前のものは自分の中に無い。考えるという事は自分の中にあるものを思考するものだ。これらを考慮
するならば、自分の入る前の対象を思惟するものではない、という事が考えられるだろう。
自己の内部にあるものから、様々な思考が行われる。

11 :考える名無しさん:05/02/19 16:38:15
こういうのを、重複スレッドと呼びます

12 :考える名無しさん:05/02/19 16:43:01
精読と言い切る度胸に仰天させられた。

13 :考える名無しさん:05/02/19 16:43:09
>>12
総合スレッドと呼びたまえ、個々のスレッド達よ

14 :考える名無しさん:05/02/19 17:21:53
重複です。削除対象となりますので、移動して下さい。

・京大法学部ですが純粋理性批判を理解できない
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1090473461/l50

その他カント関係スレ:
・♪カントの『判断力批判』を語りましょうよ♪
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1105023321/l50
・玄人志向の新カント派
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1080958757/l50
・【カント】形而上学を語るスレ【アリストテレス】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1100687267/l50
・中島義道『カントの自我論』を読む
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1087907120/l50
・カント『永遠平和のためにpart2』
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1099868561/l50
・【Immanuel】 カントだよ全員集合!3 【Kant】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1102664061/l50


15 :考える名無しさん:05/02/19 19:07:18
こないだまでカントスレなんて
あるか無いかってなもんだったのに、
なんでいきなり乱立し始めたんだ?
密かなブームでも始まったのか?w

16 :考える名無しさん:05/02/19 19:45:10
ヘーゲルなんかよりカントのほうが取っ付き易いじゃん、
それに、あんな観念の大伽藍をでっち上げたわけでもないしよ。

17 :考える名無しさん:05/02/19 20:52:15
関係:(a)述語の主語に対する関係、は二つの使用法があるように思われる。

@このようなもの(主語として関係する)はどこかにないかな(述語として関係する)。
Aこのようなもの(述語として関係する)はどれかな(対象として探される)。

一、対象というものが、詳細でないものの、既に何かしらわかっている。その対象が何であるのか、どうしたいのか、
というような述語に相当する部分の関係が理解できない。
二、どのようなものにしようか、という事は或る程度理解がある。だが、それがどれか理解できない。
  つまり、述語が何か判らない、又は対象がどこに存在するか判らない。

しかも、そもそも対象からどうやって考える材料を調達するのかも良くわからない。
ひょっとして自分の中だけで考えているだけのものだったり、目の前の対象を知る取りかかりが良くわからない。
これらは判断というような事をしたいが為に生じる困惑であると解釈している。
最初は空間と時間が述語とされることにより、対象がそもそもこのようなものとしてあるのだ、という事が自分の
中に与えられるというという所が見所だ。

18 :考える名無しさん:05/02/20 00:48:40
おれもこれから純粋理性批判を読もうと思うけど、最初からやろうよ。

19 :考える名無しさん:05/02/20 00:50:12
むしろ『プロレゴメナ』を読みたいんだが。

20 :考える名無しさん:05/02/20 01:04:06
やっぱり自分の見所を記述すると楽しいのでそこから入るといいようだ、
或いは違う所から繋げてみたりするとそれは楽しい。関係の部位などはいろいろと参考になる。
>>18最初がいいならその初めの見所を書いて欲しい。可能な限り批判させてもらう。
>>19ここではご遠慮。

21 :考える名無しさん:05/02/20 02:34:44
>>15
脳は物質だから意識はなんたらというスレで
カントがどうたら言われてたから
ぴかぁ〜が興味持っただけ。

哲板で特定のスレタイが増える時は
ぴかぁ〜がそれに興味持った時

22 :考える名無しさん:05/02/20 03:03:03
純粋理性批判って、ボケ老人の戯言でしょ?

23 :考える名無しさん:05/02/20 13:21:10
>>22
ボケ老人の戯言は『人倫の形而上学』。
『基礎付け』は名著なのに・・・

24 :考える名無しさん:05/02/20 13:24:36
>>23
>ボケ老人の戯言は『人倫の形而上学』

なして? これも名著だろう。

25 :考える名無しさん:05/02/20 14:38:34
>>24
もう死ぬ直前でボケてて第一版の錯簡すら気付けなかったということは有名な話。

26 :考える名無しさん:05/02/20 14:47:44
その話はオレも聞いたがな。

27 :考える名無しさん:05/02/20 15:01:28
だからといって「人倫の形而上学」が駄目だってことにはならんだろ

28 :考える名無しさん:05/02/20 15:27:15
>>27
いやまあ、そうなんだけどね。『法論』の難渋さは愚痴りたくもなる。
もともとは>>22が『第一批判』を老人が書いたと思い込んでるのを笑いたかっただけなんだけどね。

29 :299:05/02/20 21:38:22
207 名前:考える名無しさん :05/02/17 23:14:53
>>204
カント的に、相対性理論ってどうなるんだろうね。
認識のアプリオリな形式は、あくまでユークリッド的な3次元の空間と、1次元の時間なわけで、
それは相対性理論があろうとなかろうと、変らない。
(物理学者を含む我々自身が日常、そのような空間を感じつつ生きている、という意味で)

そうするとカントにあっては、「我々にとって根源的」なアプリオリなユークリッド空間と、
「自然科学上根源的」な4次元の擬リーマン空間との双方が並立されなくてはならなくなる。
しかしこの後者についての知識(つまり、相対性理論の知識だが)の客観性は、正しく保証され得るのだろうか。
カントに詳しい人、誰か教えてくれ


↑これについて、別のスレでは
「カント哲学で相対性理論を考えるのは難しい」という結論だったようだが、
それでいいのか?
カントがもし生きていたら、何と言うか知らん

30 :目真っ赤彦 ◆0SLDj008AA :05/02/20 22:35:04
双曲線幾何学においては「三角形の内角の和は180度を下回る」。
球面幾何学においては「三角形の内角の和は180度を上回る」。
そんな三角形は想像しづらい。

ユークリッドが示した公理のうち、「平行線の公理」を否定しても、
幾何学は矛盾のない世界を証明出来る、というだけの話。

人間の直観形式としての空間が否定されるほどのものではないと思う。

また、時間を直観形式と見なしていた人と、時間の実在性を確信していた人を比べると、
前者の方が相対性理論による時間の伸び縮みに対する理解はたやすいような気がする。


31 :考える名無しさん:05/02/21 00:36:24
楕円幾何の三角形は赤道と2本の経線で作る三角形を考えたら良い。
東京とカリフォルニアと北極みたいな。

32 :考える名無しさん:05/02/21 09:24:04
カントの主張は「否定され」てるんじゃなくて、「素朴すぎる」んだと思う。
そういう考え方も間違っちゃ無いけど、いまやもっと実際にあう考え方は
ある、と。
素粒子の存在とか分かってきてるのに、いまだに「万物は不可分な原子で出来てる!」
って主張してるみたいな。

33 :考える名無しさん:05/02/21 11:04:16
内容は素朴なくせに、説明が下手なためやたら難しそうに見える。

34 :考える名無しさん:05/02/21 12:29:44
初心者が初めて読むのに、
翻訳は、わかりやすさから、宇都宮訳で
間違いありませんか。

35 :考える名無しさん:05/02/21 12:42:31
> 人間の直観形式としての空間が否定されるほどのものではないと思う。

日常生活で人間が自分の周りの空間を認識するおそらく生得的な形式が、
そのまま物理学のアプリオリな部分になる、とカントは考えてたんじゃ
ないの? そしてそれは間違っていたってことじゃない?

36 :考える名無しさん:05/02/21 12:44:17
>>34
間違いないよ

37 :考える名無しさん:05/02/21 13:06:41
>>32
素朴だろうか。感覚器官から人間の意識に与えられるものを概念が判断して、
それらを更に判断して、純粋な事柄が纏める事ができる、というように他者に
提示した点で功績があると思う。定言であるとしても、主語に拘束され述語を
さらに主語として扱い、他の述語で判断するという事が普通の状態だと殆ど
できないか、全くできない。これができると世界の見識が広がったと思うよう
だけど、単にこれが出来ただけのように思われる。
そのような意識の状態をカテゴリーで纏めて提示するのは難しい作業だと思われる。
この証明の仕方は参考になるんじゃないのかな。

38 :考える名無しさん:05/02/21 13:34:13
だけんど、宇都宮訳って高けーぞ。

39 :考える名無しさん:05/02/21 14:56:21
図書館さいくだー。

40 :考える名無しさん:05/02/21 14:57:52
ホームレスお断り

41 :考える名無しさん:05/02/21 21:13:56
宇都宮訳買ってきたべさ。
おもかー。

42 :目真っ赤彦 ◆0SLDj008AA :05/02/21 22:59:28
>>31
まさに球面上の三角形ですが、それも三角形なのですか?
でも、球面をイメージすると確かに、有限な直線しか引けませんね。
平行線も引けない。なるほど。

>>35
最短距離を走るはずの光が曲がって見えるから、
「空間は曲がっている」といえるのであって、
直観形式としての空間があってこその話だと思うのですが。
だから私としては、「否定されるほどのものではない」と思ったのです。

43 :目真っ赤彦 ◆0SLDj008AA :05/02/21 23:04:58
>>42
「平行線も引けない」というのは早とちりかも知れない。


44 :考える名無しさん:05/02/21 23:05:33
逆に相対性理論がカントの正しさを証明してると考える人もいたはず。

45 :考える名無しさん:05/02/21 23:45:10
>>42
形而上学スレでもそういう見解だったはず。
直観形式の意味が分からないひとが駄々こねてただけ。


46 :考える名無しさん:05/02/22 00:31:34
原子が陽子と中性子と電子に、陽子と中性子がクォークに分割できようとも、「万物はそれ以上の分割が不可能な粒子より構成される」という考え方の反証にはなっていない。

相対性理論における時空の捉え方が非ユークリッド的であっても、非ユークリッド幾何学がユークリッド幾何学に依拠して解されるものである以上、直観の形式をユークリッド的としておくことには何の問題もない。

47 :考える名無しさん:05/02/22 00:38:20
>非ユークリッド幾何学がユークリッド幾何学に依拠して解されるものである

はあ?

48 :考える名無しさん:05/02/22 00:51:58
>>45
>直観形式の意味が分からないひとが駄々こねてただけ。
感性の形式の人はまた別の話だろ。

49 :考える名無しさん:05/02/22 00:53:03
>>47
俺は46じゃないが。前半は同意できるの?

50 :考える名無しさん:05/02/22 01:00:19
46の後半を好意的に解釈すると、
公理から演繹して作り上げる体系という意味ではどの幾何学も同じ構造。
どの公理を採択するかで違ってくるだけだが、どのような公理を採択するにせよ
そもそもの空間という直観形式が人間の側になければならない。
ということかな。


51 :考える名無しさん:05/02/22 20:56:08
直観が非ユークリッド的であるような人を私は想像できないけれども、そのような人がいないとは限らない。
無論、数式を介すれば、非ユークリッド的な操作を行うことはできるだろう。
けれども、そのような操作をしながらも、それがどういうものなのかということを解そうとするとき、
私はそれをユークリッド的なものに翻訳して把握するのではないか。


52 :考える名無しさん:05/02/22 21:50:20
空間の直感形式ってそもそもユークリッド的なのか?

0) 経験的・日常的なの空間
1) イデアとしての空間
2) 公理から見出される空間

空間を哲学的に考えるということは、上の三つに分かれる気がする。
数学においては学問の性質上、基本的には(2)しか問わない。
哲学は0と1をよく混同してるように見える。
でも哲学の分野でユークリッド空間といっても、
本当は(2)の結果としてそれがあるんだろうけど。
哲学においては、イデアとしての空間というのがなんなのかが
問題なのに、数学の議論に踏み込みたくないことや、
経験科学のような泥臭いこともマンドクサかったりして、
なんかあいまいな議論に終わることが殆ど。

まあ数学者に言わせれば数覚によって認識できる空間こそがイデアなんだろうな。

53 :考える名無しさん:05/02/22 23:45:02
平行線が遠くで交わるような遠近法の絵をリアルに感じるという点を考えれば、
確かに厳密にはユークリッド的ではないかも知れないね。
真の直観形式は遠近法的変形ユークリッド(+やや魚眼レンズ的)空間?
うーん。

54 :考える名無しさん:05/02/23 02:44:44
>>52
 純粋理性批判において、区分は二分法で行われている。それらがどのように二分して区別できるかを表示する
とどうなるかだ。
 人間の対象を受け取る能力は感性と悟性とされている。従って、対象は感性を介して我々の意識に与えられる。
 むしろ、感性だけが直観を我々に与えてくれるのである。対象は感性を介して我々に与えられるにしても、悟性
において概念が生じるのである。思惟は直観に関係したり、表面に現れる印を介して間接に関係したりする。従
って、対象は感性を介する以外に意識に与えられる道があり得ないので、先ず思惟は感性に関係するものと考え
られる。
 純粋理性批判に限り、感性的と悟性的において、数学的なものがどこで考えられるのかだ。
思惟するものは悟性に属する物である。対象を受け取るものは感性に属するものである。
受け取るだけでは見てない、思惟だけで考えているものは単なる可能性だ、
感性に属する感官はユークリッド的なものだと考えられる。何故なら、正面から見ていて、
背面から見るということが同時にできない。それができるならば、単なる可能性に由来するもの
だということだろうか。従って、そのような事を強いているのは同時で表現されるような時間や
別の所を見ることができない事を強いる空間という制約である、このように現在解釈している。
批判になっただろうか。数学とは何だ?

55 :考える名無しさん:05/02/23 09:33:43
>>54
カントが純粋理性批判の中で、数学とは公理つまり前提から始まる学問だと
断言してしまってる個所があって失望しました。それならプラトンやアリストテレスが
数や幾何的対象の前に思い悩んだ、重要な問題がごっそりと抜け落ちてしまう
(いや、俺だけが重要だと思ってるだけということは言えるかもしれませんが・・・)。
カントの理性の能力を制限するべきという主張に従うと、イデアはもちろんのこと
数学的対象についても依然として謎のままになることになります。

56 :考える名無しさん:05/02/23 10:58:15
>>55
前提という事は多義的に解釈できると思われます。
数学が前提から始まる学問である。そして、その前提は公理である、というものは
どこに書いてあったのでしょうか。記憶している限りでは、数学は直観から始まる
ものとして考えられていたと思われます。
 何がプラトンやアリストテレスが思い悩んだ事なのでしょう。
 数学的対象は直観に起源があるものとされているようです。

57 :考える名無しさん:05/02/23 20:34:52
>>52
>空間の直感形式ってそもそもユークリッド的なのか?

直観の形式が空間であり、その空間がユークリッド的だという話であって、空間の直感形式というのはわけがわからない。

58 :考える名無しさん:05/02/24 11:56:22
自らに由来するものでないならば、どうしていいのか分からなくなるだろう。
だから、自由でなければ駄目なのだ。そして、伝統は形式しか教えてくれないからだ。
その中でどうであるかを保障するものではない。

59 :立て看板設置中:05/02/24 14:55:27
坐禅と見性 第十四章
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1108144172/
一粒の芥子、よく須弥山(しゅみせん)を隠す。
一掬(きく)の水の中に人魚たちが心ゆくまで踊る。
私は終日汝に相対していて、劫初以来会った事がない。
看よ、東山全嶺が水上を歩いている。
エックハルトの乞食の挨拶 「[朝な朝な好(よ)き朝です」。 雲門 「日々是好日」
扇を扇と呼ぶな、鋤(すき)を鋤と呼ぶな。
昨日は痛かったが、今日は痛くない。 さっきは泣きわめいたが、今は笑っている。
腹が減れば食い、疲れれば眠る。
雪がすべての山を白く覆うている時、なにゆえにあるひとつの山は覆われずにあるのか。
清浄の行者、涅槃に入らず、破戒の比丘、地獄に堕ちず。
我の知っている事を汝は知らず、汝の知っている事を我はことごとく知る。
大力の人がどうして彼の両脚を挙げることができないのか。
柱が毎日動き回っているのに、どうして私は動かないのか。
わたしは釈迦の出現以前からさとりの状態にある。 光あれと命ずる以前の神と共にあれ。

60 :考える名無しさん:05/02/28 15:16:40
>>55
ん?数学は総合的判断でしょ
アリストテレスは該当する箇所が思いつかないが
プラトン「パイドン」中盤の数学論と、純理の数学は直観から始まる云々は
むしろ両者に同じ問題が意識されていると思うが

>数学が前提から始まる学問である。そして、その前提は公理である、というものは
>どこに書いてあったのでしょうか。

同じく

61 :考える名無しさん:05/03/01 23:13:44
精読スレッドなんだから、宇都宮訳、篠田訳、高峯訳、原訳を原書と照らし合わせながら比較検討するとか誰かやらねーの?


62 :考える名無しさん:05/03/02 00:29:02
ドイツ語読める奴いないんだから
しょうがないだろ

63 :考える名無しさん:05/03/02 00:46:34
Die menschliche Vernunft hat das besondere Schicksal in einer Gattung ihrer Erkenntnisse:

64 :考える名無しさん:05/03/02 00:53:08
広島大学文学部編入学試験(第3年次)・西洋哲学分野

第3問 次の文章を読み、下の問いに答えよ。(辞書使用可)

 Die menschliche Vernunft hat das besondere Schicksal in einer Gattung ihrer
Erkenntnisse : dass sie durch Fragen belaestigt wird, die sie nicht abweisen kann ;
denn sie sind ihr durch die Natur der Vernunft selbst aufgegeben, die sie aber auch
nicht beantworten kann ; denn sie uebersteigen alles Vermoegen der menschlichen Vernunft.

問1 上の文章の作者は誰か。

問2 上の全文を和訳せよ。(その際、代名詞も正確に訳出すること。)



65 :考える名無しさん:05/03/02 20:02:58
>>64
 Die menschliche Vernunft hat das besondere Schicksal in einer Gattung ihrer
Erkenntnisse : dass sie durch Fragen belaestigt wird, die sie nicht abweisen kann ;
denn sie sind ihr durch die Natur der Vernunft selbst aufgegeben, die sie aber auch
nicht beantworten kann ; denn sie uebersteigen alles Vermoegen der menschlichen Vernunft.

わたくしの分別たるや、わたくし達が或る種の事柄を見分ける事の中には、何たる運命の備えている
のかしら。:だってそうでしょ、分別する事ときたら悩ましい疑問を通り抜けるものだし、わたくし
は避けてこれないの。:何故なら、分別自体に課せられたみなさんの本性なのですから、本当に、実
際に、分別ときたら答えられてこなかったのです。:だって、それは全ての人々ができる人間の理性
的なものを通り越してしまっているのです。

66 :考える名無しさん:05/03/02 23:05:46
なぜか今手元に宇都宮訳、篠田訳、高峯訳、原訳と、ドイツ語できないのに哲学文庫版の原書があるのだが。


67 :考える名無しさん:05/03/03 22:08:54
カテゴリー演繹について、客観的に妥当するという事に関係する
部分について。実在論とされるものは、対象自体の性質が自己の
意識の中にある性質が同一という事が言えるだろう。
従って、自己の認識は対象そのものの性質というような結論となる。
では、認識は何を捉えているのかという事が疑問として挙げられる。
対象が感性に与えられるという事で認識が成立しているとされている。
このように言い換えても良いだろうか、我々は対象からある種の条件を与えられる
というように考える事ができるだろう。つまり、そうでないならば、対象ではない
という事になるだろう。対象が別のようなものなら、対象はどうなるのだろうか。
もはや、対象ではないのか。では、自分の認識と対象は一体どちらが正しいのか。
我々は対象の何を意識に与えられる事で、意識の中にある何が対象としているのか。

68 :考える名無しさん:05/03/03 23:04:59
感性を介して関わるものが対象であるが、対象それ自体については知ることができない(そもそも「対象それ自体について知る」とは如何なる事態なのか?)。
認識とは対象との関係のうちにあり、認識と対象はどちらが正しいのかという問いはナンセンスである。


69 :考える名無しさん:05/03/03 23:58:32
では、一般的概念の起源はどこにあるのか。
対象の表面に現れる印から概念の纏まり方まで感性の形式に従っている
というのは理解できる部分だろう。すると、誤認するという事がある。
これは自分の持分から概念を引き出したからと考えられないだろうか。
経験の範囲を超出するにしても、経験できるもの以上を我々は考えては
ならないのだろうか。それを禁止する事は何かだ。対象と主体を含む
感性の形式か。感性の形式の事のみが答えを与えてくれるという事になる。
すると、人間にできる事は超出する事くらいしか残されていないという事になるだろう。

70 :考える名無しさん:05/03/04 01:18:51
何かについて語る。
そこで語られているのはその何かそれ自体ではない。
どんな語りも語られる対象それ自体ではない。

語りとそれにより語られているものはどちらが正しいのか――そう問いを立ててみる。
しかしそのとき私は「正しい」と言うことで一体何を意味しようとしているのか。

71 :考える名無しさん:05/03/04 14:22:29
Norman Kemp Smith についての詳細希望(;;)

72 :考える名無しさん:05/03/05 03:48:17
天野訳を復刊してくれんかのう

ttp://www.fukkan.com/vote.php3?no=12845

73 :考える名無しさん:05/03/05 11:37:22
-130-
〜一般的に結合であるならば、それは悟性の作用である。〜
〜一般的な名称として、我々はこのような悟性作用を総合としたい。そうであるならば、
同時に次の事がはっきりするからである。つまり、我々が前もって結合しておいたもので
なければ、我々はこれを客観において結合されていると考える事はできない。〜

 結合は一方と他方が一つになるという事である。そして、その結合に総合という名称を
与えるという試みが特殊な試みであるように思われる。何故なら、通常、語の意味を看取
る場合、その語を最大の範囲として扱い、その範囲に何が含まれるかを引き出して考える
からである。そして、その範囲を超えてしまうような意味は制限や否定の語を伴わせると
いう一般的な論理の操作を行い、語の意味を保存するのである。だが、このようなものが
先にある事により可能となるという考え方を採用しているのだろうか、結合という語の範
囲に総合という名称が他のものを含ませるのである。他のものとは統一である。これは判
断に由来するのだろうが、一体、判断が何をもって総合の名称を与えてもよいのかという
事を先に許可していない。何故なら、時間はそのような統一を含んでいないのであり、空
間も同様である。これが悟性の作用であるにしても、述語が総合を含むものであるから言
及できる、という事がこの結合の可能性を考える主な考え方と捉えてしまうのは自分だけ
だろうか。

74 :考える名無しさん:05/03/08 20:05:03
>>73
総合→綜合


75 :考える名無しさん:05/03/11 23:13:02
>>72
いま原書読んでるけど、平凡社ライブラリーの原祐訳が
原文に忠実な日本語だと感じる。

76 :考える名無しさん:05/03/15 18:09:23
序というものがどうやって成立するのかだ。
主語が述語であるという事を考えるときに、どうしてもこれが疑問となる。
先という事で秩序を構成するという考え方でいいのだろうか。
先にという事が構成しないならば、秩序というものに含まれる事が無いという
事になるのだろう。統覚を含めて、これが演繹論の趣旨でいいだろうか。

77 :考える名無しさん:05/03/15 18:12:35
まず矛で突いてみよ。

78 :考える名無しさん:05/03/15 18:21:54
主語は述語というものではない。そして、述語は主語を包摂するという事により
判断が成立するとされる。だが、判断は異なるもので構成されている。これを可
能にする総合というものは時間である。時間において、判断は成立する訳だが、
その文における述語が主語であるというように、包摂関係を交換して結合させる
訳にはいかない訳だ。これは秩序が成立しているのであり、その秩序は時間である。
つまり、序列は時間において考えられるものであり、先にこれがないと後のものが
成立しないとという事になると、判断される訳には行かないのではないか、という事
だ。

79 :考える名無しさん:05/03/15 18:31:17
この著書において、単に持続するものが秩序であると考えられているのではないようだ。
演繹は、総合というものにおける時間の先験的解明がなされるという事だろうか。
ここらへんの演繹論はどうなんだろう。

80 :考える名無しさん:05/03/15 18:47:03
ここにおける先というものは、時間全体における秩序や統一であり、現在のその所を去り、これから向かう或
る所というものではないようだ。つまり、未来について考えるならば、現在が先験的という把握になるのだろ
うか。

81 :考える名無しさん:05/03/15 19:05:34
宇宙哲学だとどうなるんだろ、太陽信仰とかになるのかね。

82 :考える名無しさん:05/03/15 19:25:35
>>81
人類の故郷である、光年の彼方にある、
あの地球への信仰が生まれます。

83 :考える名無しさん:05/03/16 14:43:48
簡単なことよ。
先ず煙りで燻し出してみるのさ。

84 :考える名無しさん:05/03/16 19:55:53
えッ、それって何よ?
つながってねーじゃんかよ。

85 :考える名無しさん:05/03/17 16:58:42
多様な表面に現れる印象を一つに纏め上げたものは対象を表す事柄になるのか。
>>ゲルニカさん

86 :考える名無しさん:05/03/17 22:48:19
このようにして経験せよ、しからば、その経験はこのようなものである。
従って、このようなもの以外ではあり得ないのである。

87 :考える名無しさん:05/03/19 17:29:16
先っぽで燻し出せ!

88 :考える名無しさん:2005/03/21(月) 14:07:21
で、出来上がった燻製で一杯と。

89 :考える名無しさん:2005/03/25(金) 04:38:28
コペルニクスの前に中心を決める能力はどこにあるのかだ

90 :考える名無しさん:2005/03/27(日) 20:51:59
>>89
どこにもない
カントのコペルニクス的転回というのは
地動説も天動説も成り立つという事だと思う

91 :考える名無しさん:2005/03/27(日) 21:02:13
おそらく、中心というものは既にあるのであり、そのようなものとして纏まりをみせている中心があるのだ。
従って、中心というものは先験的に説明されるんだろう。だが、必ずしも、自己の適用は必要ではない事がある。
例えば、その場所の慣習は本来このように考えられるものでも、そのように行うものなのだ。
そんなものは経験しないと判らないであり、中心が替わると認識が複雑になるだろう。

92 :考える名無しさん:2005/03/27(日) 21:04:50
>>91
多数の中心があるということか?

93 :考える名無しさん:2005/03/27(日) 21:12:38
どからどこまでで考えるかに帰結するのだろうか。それに従い、中心が決まってくる
のだろうか。感性に関係しない悟性のみにおいて、「・・・・・」というような像は
多数として把握されるものであると考えられるのだろうか。多数だけでは単なる概念
の纏まりを示すだけで精々になるのではないだろうか。あなたどう思うの?

94 :考える名無しさん:2005/03/27(日) 23:22:08
う〜ん、中心が多数あるってのは中心がないのと同じでしょ?
それって宇宙じゃないですか

95 :考える名無しさん:2005/03/29(火) 05:16:18
嘘は否定に対して真になるものである。
これは困難な状況を解決するために採用できる方法であるのか。

96 :考える名無しさん:2005/03/31(木) 04:36:46
平凡社ライブラリー版はいつ完結するの?

97 :ローカルルール審議中:皇紀2665/04/01(金) 22:10:42
一般論理学において、偽を否定すると真になるというのは奇妙さが拭いきれない。
偽ではないが別の本物であるというものが存在するからだ。
つまり、全く真である事が認められるが、別のものであり、限定された特定のものではない。
そのような限定された特定のものを考えているのであれば、偽を否定されたとしても、真であ
るとは限らないのである。偽の否定は真でもある、という事だ。

98 :ローカルルール審議中:2005/04/04(月) 10:34:42
数学は料理で例えたらツナギの卵や片栗粉で、感性の形式は水槽あたりが適当か。
そして、水槽がどこにあるのか、と聞いたらば、玄関の下駄箱の上に置いてある
訳で、空中に浮かんでる訳じゃねえんだよ。中の水がこぼれない様に、水槽はその
あり方をしているんだよ。

99 :ローカルルール審議中:2005/04/04(月) 12:04:24
物体が重力を具えているというならば、他のものもそうでなければならないのか。
すると、他のものを引き寄せる事になる宇宙の中心というようなものがあるか、
この宇宙を全く含んでない他のものがあるという事になるのだろう。
この宇宙を全く含んでいないのに、どうしてこの宇宙を全く含んでいない他のもの
が影響を与えているように考えられるのかだ。一方的に、及ぼすという対象を考え
る訳であり、それを統一や纏まりと人間は考えるのだろう。

100 :ローカルルール審議中:2005/04/09(土) 08:14:07
よくカント入門などの本でカントの神学的な部分を「まだキリスト教の尾を引いて居る」などと単純に切って捨てて居る傾向がこういうカント解釈こそ問題では無かろうか
恐らくこういう読みをするのは自覚あるなしに関わらずマルキシズムの影響下でのカント解釈を踏襲しており、これではカントはわからんのではないかと思う


101 :ローカルルール審議中:2005/04/10(日) 18:26:17
 覚知の総合は直観の多様から構想力において行われる。
直観における多様なものから直観の統一が生じるためにはこの多様なものを通観
する事とそのような通観を纏めることが必要である。そのような作用が覚知の総
合である。
 知覚は直観、感覚、覚知、思惟、カテゴリー、構想力、空間及び時間、現象、
知覚の対象、経験、度において行われる。
そして、知覚は覚知の総合である。

102 :ローカルルール審議中:2005/04/13(水) 13:26:50
直線・曲線等はどうやってかんがえているのだろう。

103 :ローカルルール審議中:2005/04/17(日) 20:10:51
地震直後age

104 :ローカルルール審議中:2005/04/24(日) 10:42:38
age


105 :ローカルルール審議中:2005/04/27(水) 00:03:16
時間は感性の形式とされる。時間という概念には過去、現在、未来で考え
る事ができる。感性の形式には、過去、現在、未来があるのだろう。感性
は直観と感覚に区別することができるのか。過去や未来において、感性に
与えられる対象は悟性に起源がなければならないだろう。感覚されるのは
現在だからだ。すると、このようなことがらが先になければならないとい
うことは、時間において考えられている事柄である。感性の形式には時間
というものがあり、時間には過去と現在と未来があるので、思惟の対象は
過去と現在と未来の事柄があるのだろう。それ故に、先験的に考えられる
事柄は過去と現在と未来があると考えられる。それられのどれがあるよう
に、他のものが先になければならないのかである。あるものが先にあるな
らば、どの時間が成立するのかだ。例えば、過去の事柄に限り、現在の事
柄はあるという考え方になる。それ故に、現在の事があるならば、過去に
このような事柄があるという事になるのである。要するに、過去の事柄が
無くとも、現在は成り立つのだ。

106 :ローカルルール審議中:2005/04/27(水) 00:20:12 ?
ヒント:
 
     時間 ≒ ウロボロス


107 :ローカルルール審議中:2005/04/27(水) 18:54:02
直線とは2点間の最短距離の線分であり、曲線とはそれ以外の線分

108 :ローカルルール審議中:2005/04/27(水) 19:02:03
それは総合的に考えられた判断ではないだろうか。
直線は真直ぐである、線であるというようなことしか含んでない。
あるものが直線であっても、最短の距離という事を含んでいないのではないだろうか。最短であるということは他の事柄において、考えられる必要があるのではないか。それ故に、このような事柄でそうだから、最短と言われるべきではないのだろうか。

109 :ローカルルール審議中:2005/04/27(水) 19:06:17
うーん、ユークリッドによれば、第五公準の問題はあるにしても
感性的には、真直ぐであることが、最短距離であるという論理的なことを含意するのではないでしょうか?
というか、そういうふうに理解している僕が間違っているのかな?
自信ないですけど

110 :ローカルルール審議中:2005/04/27(水) 19:11:17
例えば、アインシュタインの一般相対性理論において
空間が歪んでいるということの意味は、何に対して歪んでいるのかといえば
カント=ニュートン的なユークリッド空間に対して歪んでいるのであって
曲率=0の空間が、カントが思った直感形式としての空間なのだと理解してます

111 :ローカルルール審議中:2005/04/27(水) 19:20:43
どうして、直線が二点間の最短距離だと考えるのでしょう。線が直
線であるか、曲線であるか、が理解される訳でしょう。線が直線で
あるということを考えずに、最短という事が理解されているのでし
ょうか。最短という事は他の事柄を含んで考えないと考えられない
事ではないでしょうか。そこらへんはどうなの?

112 :ローカルルール審議中:2005/04/27(水) 19:25:03
直線の定義の問題に帰着すると思うのですが
直線を感覚的に「真直ぐな線」というものだとすれば、よく分からなくなるんです
直線を論理的に「2点間の最短距離」ということで定義すれば
ユークリッド空間か非ユークリッド空間かにかかわらず
論理的には理解できる バカですいませんm

113 :ローカルルール審議中:2005/04/27(水) 19:53:34
感性は概念により思惟されるとされている。その直線として話を進
めている概念が感性の事柄であるのか、悟性の事柄であるのか、で
はないだろうか。感性であるならば、直線としか判断できないだ
ろう。そして、推理されるものが最短という事になるのではないだ
ろうか。最短というものを直観に与える事はできないだろう。他の
ものに加えて、それが最短であるということがなければならない。

114 :考える名無しさん:2005/05/01(日) 23:40:37
>>112
感覚において「真直ぐな線」であると考える事は、他の感覚から推論する以外に何かあるのだろうか。
つまり、感覚において考えるには、既に真直ぐであると考えられるものと同一であると考えられる。
それ故に、これは真直ぐであると考えるだろう。感覚でも充分に真直ぐであることは判る。
では、何が真直ぐの基準であるのか。真直ぐと考えられるものと言う以外にないのかな。
ただ、例え定義したとしても、曲線であっても、二点間の最短の距離であり得るから、充分とは考
えられないのではなだろうか。これに、二点間の最短の距離という事を付け加える事によって、直
線が最短の距離であると判るようになる。つまり、非常に長い直線というものがあるからだ。
この場合、短い曲線よりも長い直線があるということになるだろう。

115 :考える名無しさん:2005/05/01(日) 23:52:58
最短でなくとも、直線であり得るから、最短は直線の概念を生じさせているものではない。
最短は規則を与えるのがいいところなんじゃないのかな。そうでいなら、同じ距離において
、同じ線を使って、同じ範囲において、云々、直線は最短である、という前提が必要とされ
るようだ。

116 :考える名無しさん:2005/05/02(月) 01:34:29
精読ワラ

117 :考える名無しさん:2005/05/02(月) 15:09:27
ずれてるか、まあいいや

118 :考える名無しさん:2005/05/08(日) 00:44:55
<:左が右を含む規則を表す記号 ←:左が右を思惟する 
認識 = 現象<対象<感性(<直観)←悟性

<:左が右に作用する規則を表す記号
対象<表象<感覚

<:左が右に介して関係する
直観<感覚<対象 = 経験的直観

¬<:左が右を規定するという訳ではない。
経験的直観¬<対象 = 現象

119 :考える名無しさん:2005/05/08(日) 01:04:48
バカを発見してしまいました。

120 :考える名無しさん:2005/05/08(日) 01:06:56

         ,-、            ,.-、
        ./:::::\          /::::::ヽ
       /::::::::::::;ゝ--──-- 、._/::::::::::::::|
       /,.-‐''"´          \:::::::::::|
     /                ヽ、::::|
    /                   ヽ|
     l                         l
    .|    ⌒                 | 
     l  , , ,           ⌒     l 
    ` 、      (__人__丿    、、、   / 
      `ー 、__               /     第15話にゃお
         /`'''ー‐‐──‐‐‐┬'''""´  http://www.freepe.com/ii.cgi?kitanocunika

121 :考える名無しさん:2005/05/08(日) 02:14:02
>>118
>←:左が右を思惟する
←:右が左を思惟する

122 :考える名無しさん:2005/05/24(火) 11:39:33
keep

123 :考える名無しさん:2005/05/29(日) 01:03:17
時間から統一性というものを抜き去ってみるならば、
前後と同時と常住不変性のみであるとされるのだろうが、
時間は平面図の包摂関係が表す範囲になるだろう。
それ故に、時間と考えられるものは時間のみでは考えられない。

124 :考える名無しさん:2005/05/29(日) 15:11:26
時間から統一性を抜き去ってみるならば、時間が範囲として考えられるということは否定できない。
だが、何かを範囲として考えるのは悟性の働きであり、統一性を或る部分から抜き去る、生じるという
ことを考える能力は理性の能力だろう。しかも、どうして範囲がそれ自体のあり方を判断することがで
きるのだろうか。範囲は権利、或は他の事柄との関係が明らかにするのであり、その関係は権利によって
区別されるものだろう。範囲は自身の範囲を設定する能力を含んでいないのであり、或る事柄により範囲
を設定した後に、その基準を無いものとして考えられた範囲であろう。または、全ての範囲が規則の規則
として働き得るというのだろうか。

125 :考える名無しさん:2005/05/29(日) 15:38:35
統一は何であるのかだ。分析される事柄であると、主語は述語と同一であると考えられるだろう。
すると、同一性が主語と述語を結びつける根拠であるということになるだろう。このような統一が
考えられるだろう。
では、或る事を他のことであると言うにはどうするのかだ。主語と述語で考えられない場合、主語と
述語を含む他の事柄において同一であると考えることができるだろう。この第三のものが主語と述語
を結びつけることができる。つまり、時間から統一性を抜き去って考えるならば、時間が範囲として
考えられるというのはこの第三のものにおいて考えられた同一性と考えられる。
では、第三のものによることなく、どのようにすれば主語が、同一なものを見出すことなく、述語で
あると考えられ得るのか。

126 :考える名無しさん:2005/05/29(日) 15:51:30
一案
∃x∃y Jxy→x≠y
∀x∀y ¬(Jab→x≠y)
∀x∀y ¬(¬Jab∧x≠y)
∀x∀y (Jab∨¬<x≠y>) ∨ ∀x∀y (Jab∨<x=y>) ∨ ∀x∀y (Jab∨¬x≠y)

127 :考える名無しさん:2005/05/29(日) 15:53:54
>>126修正
∃x∃y Jxy→x≠y
∀x∀y ¬(Jxy→x≠y)
∀x∀y ¬(¬Jxy∧x≠y)
∀x∀y (Jxy∨¬<x≠y>) ∨ ∀x∀y (Jxy∨<x=y>) ∨ ∀x∀y (Jxy∨¬x≠y)

128 :考える名無しさん:2005/05/29(日) 15:58:43
二案
∀x∀y Jxy→x≠y
¬∀x∀y Jxy→x≠y
∃x∃y ¬Jxy→x≠y
∃x∃y ¬(¬Jxy∧x≠y)
∃x∃y (Jxy∨¬<x≠y>) ∨ ∃x∃y (Jxy∨<x=y>) ∨ ∃x∃y (Jxy∨¬x≠y)

129 :考える名無しさん:2005/05/29(日) 16:05:39
三案
∀x∃y Jxy→x≠y
¬∀x∃y Jxy→x≠y
∃x∀y ¬(Jxy→x≠y)
∃x∀y ¬(¬Jxy∧x≠y)
∃x∀y (Jxy∨¬<x≠y>) ∨ ∃x∀y (Jxy∨<x=y>) ∨ ∃x∀y (Jxy∨¬x≠y)

130 :考える名無しさん:2005/05/29(日) 16:07:29
四案
∃x∀y Jxy→x≠y
¬∃x∀y Jxy→x≠y
∀x∃y ¬(Jxy→x≠y)
∀x∃y ¬(¬Jxy∧x≠y)
∀x∃y (Jxy∨¬<x≠y>) ∨ ∀x∃y (Jxy∨<x=y>) ∨ ∀x∃y (Jxy∨¬x≠y)

131 :考える名無しさん:2005/05/30(月) 06:29:29
総合的判断は、主語の含まれるところが述語において考えられているところの
ものであり、述語が確かにしたところに主語が含まれるような判断だ。
判断は述語が確かにしたところから導かれる判断なのだ。
判断が確実になり得ないならば、述語は主語を考えてはならない判断なのだ。
述語が確実ならば、主語も確実になる。
主語が確実である理由において、主語は確実である。
そのような理由において、述語は主語に言及し得るのだ。

132 :考える名無しさん:2005/05/30(月) 07:40:53
つまりいわゆるリヤプノフ関数を見つけさえすれば、
そのリヤプノフ関数の定義域から逃れられる
点はそんざいしないということが、ある意味においては証明可能なのだよ

133 :考える名無しさん:2005/05/31(火) 02:46:58
値段を全く無視して、評価するなら
宇都宮訳と原訳どっちがいいでしょうか、


134 :考える名無しさん:2005/05/31(火) 04:03:42
宇都宮訳をドイツ語に翻訳してみたらどうでしょう

135 :考える名無しさん:2005/05/31(火) 11:41:06
>>133
宇都宮訳。正確さを犠牲にせずに読みやすく訳されている。

136 :考える名無しさん:2005/05/31(火) 17:22:04
原訳は渡辺がさらに読みやすくしているので、
原訳のがいいですよ


137 :考える名無しさん:2005/05/31(火) 17:28:28
☺☻☺☻☺☻

138 :考える名無しさん:2005/05/31(火) 17:40:17
先験的観念論の、時間と空間は、感性的直感の形式と言うのは、間違って
いたんですか?

139 :考える名無しさん:2005/06/01(水) 03:04:52


140 :考える名無しさん:2005/06/01(水) 13:23:25
時間と空間は、結局人間でなければ感じ取ることができないわけで、
その点では間違っていたとはいえないでしょう。


141 :wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/01(水) 13:40:58
>140
空間の直感は人間以外の生物にも与えられているものと思います。
時間の直感は、人間特有とは思われますが、
経験的なもので、先験的に与えられているものではないものと思います。

内的に自分の意識を遡及してみても、時間がアプリオリに与えられているものではなく、
なにかせっぱつまったもの、追掛けられるもの、間に合わせなければならないもの、
あるいは、死の恐怖等の経験的意識が付随しており、それらから、
先験的な、いわば「純粋時間」なるものだけを取り出すことができないのです。

心理学を遠ざけたカントですが、空間と時間を
感性に先見的に与えられている、x,y,z軸(質料)、
及び第4軸(時間)のように定めていることに対し、
その後の統覚、悟性等を定義していく行程上の前提として、
非常に有効ではあるが、先験的認識の実態からは、
やや乖離しているものと思います。



142 :考える名無しさん:2005/06/01(水) 14:23:18
どうもありがとうございました。

カントのア・プリオリな総合判断とア・ポステリオリな総合判断の
区別は正しいのでしょうか?

間違っているならば、なぜ間違っているのでしょうか?


143 :考える名無しさん:2005/06/01(水) 15:09:59
一案
主語のある部分と述語の或る部分について、主語は述語であるが、
主語は述語と同じでない。
∃x∃y Jxy→x≠y
では、これがそうでないとするとどうなるのかだ。
否定の文であると、、主語のある部分と述語の或る部分について、
主語は述語であるが、主語は述語でないという訳ではない。
論理学はこのような事柄を導き出す。
すると、主語の全ての部分と述語の全ての部分について、
主語は述語であるが、主語は述語という訳ではない。
∀x∀y ¬(Jxy→x≠y)
これは条件として扱うべきかであるか判らないのだが論理学では
条件として扱うようだから、主語は述語と判断しないが、
主語は述語ではないという訳ではない。
∀x∀y ¬(¬Jxy∧x≠y)
すると、三つの否定文が導き出されるのか。
∀x∀y (Jxy∨¬<x≠y>) ∨ ∀x∀y (Jxy∨<x=y>) ∨ ∀x∀y (Jxy∨¬x≠y)

144 :考える名無しさん:2005/06/01(水) 16:42:42
>>133
あえて篠田訳を勧めよう


145 :考える名無しさん:2005/06/06(月) 19:18:28
(∃x∃y Jxy→x≠y) が否定されるものであるとすると、三つの否定文が導き出される。
論理学は、以下の三つと同時に考えられることにより、前提される括弧の文が妥当であるか
調べることができる学とされている。
∀x∀y (Jxy∨¬<x≠y>) 
全ての主語、全ての述語について、それは二つのうちのいずれかであり、
主語は述語と判断するものであるか、或は、主語は述語と異なるという訳ではない、
或は、
∀x∀y (Jxy∨<x=y>)
全ての主語、全ての述語について、それは二つのうちのいずれかであり、
主語は述語と判断するものであるか、或は、主語と述語は同一である、
或は、
∀x∀y (Jxy∨¬x≠y)
全ての主語、全ての述語について、それは二つのうちのいずれかであり、
主語は述語と判断するものであるか、或は、主語でないものと述語が異なる
(これは主語と述語でないものが異なる、という事にも言及していると解釈
しようと思う)、
否定された括弧の文は上記の三つの文である。

146 :考える名無しさん:2005/06/06(月) 19:28:22
     \    |       ,,...-‐‐‐--、,      l    /
     |、  /  |   ,.べ;;;;;::、--- 、:::;;`ヽ、   ''‐-‐'゙/
   、,_,.! ゙'-'゙(.    //::/´       ``ヾ、      l 
    )    (.  /:,`!ヾ、.      ,      ゙>-    ヽ、_,,
   '゙"`ヽ, /``/::;:゙;゙::!:.:| ``'''‐--‐''゙   '-‐'゙ ゙、       /
     ヽ ヾ /:;'/:.:!:::l  、,r''"゙`'ヾ    ,:',-‐-、,'l      /
   -=,'゙   ./:::/:.:.|::::l  /  (・),.    ヾ,_(・) ,'゙l      (
     `ヽ ,゙:::,'::::;':!::::l   `"´ ''"´     | ̄__,,l,,...,,_   \   ひぃっ! 
     -='゙ l::::l::::;':. l:::::l               ` ゙、.,,_,,.``ヽ、
     __) l!゙,l:::;'-、 ';::::!          ,.-‐‐:、    l `ヽ、  \   なんなんですか このスレは!!!
      ヽ. !:l:::l/-ヽ.゙;::',    U    /:::::::::::r=‐'''"´`''‐,.-゙'‐-、ヽ.
       ) ゙!::l l"''、l ヾ゙:、   u     l:::::::::::::::`'''‐‐''''‐i'゙  ,,..、  `\
         l:::l,ヽ、_,  ヾ;\       ゙、.,,_ノ/ ̄ ̄ノ /ヽ. `   \     ____
     /    !::l:゙ヽ、. ,、 ヾ、;、         ゙'‐''"7'゙/ /゙ヽ       \ _,./´-、ヽ
   / /  l::l``;::,`´:ヽ、  `ヾ:;、.,__   ::::   / `'''゙  \   ゙、   ヾ;‐、''-、゙;
    /  / l:l ";'::;'::';';! `''‐ 、.,_` ̄      / r'゙´ ̄ ̄``'''‐、 ゙、    ' l  l:::!
.       /  l:!  !:;'::!::::;!     ``'''‐‐---┬'゙   `'''''''''‐-、      ゙、   ./  l:::l


147 :考える名無しさん:2005/06/06(月) 21:55:31
(∃x∃y Jxy→x≠y)
∃x∃y (¬Jxy∧x≠y)
∀x∀y (Jxy∨¬<x≠y>) 
∀x∀y (Jxy∨<x=y>)
∀x∀y (Jxy∨¬x≠y)

Jab→a≠b
¬Jab∧a≠b
 *以下は否定された文
 ¬(¬Jab∧a≠b)
 Jab∨¬<a≠b>
 Jab∨a=b
 Jab∨¬a≠b(Jab∨a≠¬b)

 5+7∨¬<5≠7>
 5+7∨5=7
 5+7∨¬5≠7(5+7∨5≠¬7)

148 :考える名無しさん:2005/06/06(月) 22:54:53
カントが文章上手ければ良かったんだ

149 :考える名無しさん:2005/06/07(火) 05:53:26
>>141
時間は前後、同時、常住不変性であるとされているようです。純粋は経験に拠らないもので
あるとすると、純粋な時間は前後、同時、常住不変性であると考えられるようです。経験が
前後や同時や常住不変性を生じさせるとは考えられないからです。そして、経験的な概念は
明確にされた時間の区別をしてくれるようです。内的に自分の意識を遡及するとなると、そ
れは反省であると考えられます。反省は想像であるのか、感性に与えられた概念であるのか
が考えられるようです。時間の概念は時間的な死の恐怖を含んでいないようですから、規則
的な概念でないようです、それ故に想像であるようです。想像から先験的な時間を取り出す
ことができるのか。先験的な時間があることにより、そのような想像が可能になるようです。
感性と悟性の区別、想像と規則的な概念の区別から、純粋な時間はどこに座を占めるもので
あるのかということが考えられます。死の恐怖は感情であると思われます。純粋時間は感情
に占めているのでしょうか。感情はそれらのどれに含まれていると考えているのでしょう。


150 :考える名無しさん:2005/06/07(火) 06:15:16
>>142
経験に拠らないものが先験的であると考え、総合的判断について考えると、
経験的な総合的判断と先験的な総合的判断が区別されるのでしょうか。

151 :そこどいて!! ◆Cj6Z7mDb5M :2005/06/07(火) 09:42:39
>>140

>>141は、でたらめだから、真に受ける必要はない。

カントは、「空間の直感」「時間の直感」などひとことも言ってない。

「内的に自分の意識を遡及してみ」て時間のアプリオリ性に気づいたの
ではなく、カントにあって、時間、空間とは現象を成立させる論理的条件
でしかなく、それを外れて、時間、空間そのものを認識することは、
できないとカントは考えた。

152 :考える名無しさん:2005/06/07(火) 11:31:52
カントって現代でも読む価値ありますか?

153 :考える名無しさん:2005/06/07(火) 12:36:31
>>152
もちろんあるよ。

154 :wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/07(火) 12:39:19
>151
空間と時間を軸に据えることができれば、共有できる「道具」、「尺度」等として、人間の思考にとって非常に便利で有効なものです。
だから、>>141で、
「心理学を遠ざけたカントですが、空間と時間を感性に先見的に与えられている、x,y,z軸(質料)、
及び第4軸(時間)のように定めていることに対し、その後の統覚、悟性等を定義していく行程上の前提として、
非常に有効ではあるが、先験的認識の実態からは、やや乖離しているものと思います」と書いたのです。

<時間、空間とは現象を成立させる論理的条件でしかな>い、ということと、矛盾したことを書いているとは思いません。

空間にしても、本当の視覚では、カントのいう「先験的感性」としてではなく、
即ち、x,y,z軸にきちんとおさまったものとしてではなく、パースペクティブとしてしか与えられません。

カントが、共有できる論理思考の舞台を整備してみた、という価値は何も否定等しておりません。

しかし、あまりにも整然と整理されたカントの「先験的」認識論に対し、人間一般の日常の、論理だけを追いかけるものでもない認識の仕方は、
そういうものではないのではないか、という私固有の「感性」と「習慣」を述べたにすぎません。








155 :そこどいて!! ◆Cj6Z7mDb5M :2005/06/07(火) 13:27:56
>>154
「先験的認識の実態」って何?

wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc さんの術後がよく分からないから、
どうしても水かけになってしまうけれど、

少なくとも、カント解釈に限れば、

>空間にしても、本当の視覚では、カントのいう「先験的感性」
>としてではなく、 即ち、x,y,z軸にきちんとおさまったものとしてで
>はなく、パースペクティブとしてしか与えられません。

カントの空間論は、人間一般の生物学的構造から帰結する
ようなものじゃないから、視覚などの認知心理学的な話題は
関係ないよ。

>人間一般の日常の、論理だけを追いかけるものでもない認識の仕方は、
>そういうものではないのではないか
これは、個別科学の話題、哲学でいえば「心の哲学」「認知科学の哲学」
あるいは、現象論あたりの議論にも重なるかな。
とにかく、カントの問題系とは、リンクしない。


156 :考える名無しさん:2005/06/07(火) 15:05:49
皆さん、間違ってはいないのだと思いますが、書いてることが難し過ぎま
す。先験的感性論は、さほど難しい内容ではなく、ただ単に、時間とは何
か?空間とは何かということに、それらは客観的なものではなく、主観的
なものだとしました。それが、時間と空間は、感性的直感の(ア・プリオ
リな)形式と言うことですね。単に感性の形式と言ってもいいと思います。
時間と空間は、認識主観の感性の形式です。わたしの質問は、このカント
の時間と空間についての理解が、その後間違いと証明されたことがあった
のかと言うことです。例えば、詳しくは分からないのですが、相対性理論
の時間と空間の考え方と合わないと考えた人もあったようです。

157 :考える名無しさん:2005/06/07(火) 15:42:06
カソトの時間論の核心は図式論だよん

158 :wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/07(火) 16:34:16
>>155
<カントの空間論は、人間一般の生物学的構造から帰結する
ようなものじゃないから、視覚などの認知心理学的な話題は
関係ないよ。>

「人間一般の生物学的構造から帰結するようなもの」を捨象した
「認識論」っていうのは、いったいどういうものですか?

人間一般は生物学的構造で成り立っている、というのは間違いでしょうか?
カントの認識論は、コンピュータかなにかのための認識論なのでしょうか?





159 :そこどいて!! ◆Cj6Z7mDb5M :2005/06/07(火) 17:05:03
>>158
>「人間一般の生物学的構造から帰結するようなもの」を捨象した
>「認識論」っていうのは、いったいどういうものですか?

まず、ここで問題にしているのは、「カントの認識論」であり、「認識
論」一般のことではないです。

哲学の下位ジャンルとしてのいわゆる「認識論」については、現代
哲学でも、先に挙げた「心の哲学」などで、隣接する個別科学(具
体的には脳科学や認知心理学など)の知見を利用しいろいろ論じ
られているので、「認識論」一般についてはそちらを参照するといい
んじゃないでしょうか。ちなみに、「人間一般は生物学的構造で成り
立っている」という前提で、論じられる「認識論」は、一般に「自然化
された認識論」と呼ばれます。

で、「カントの認識論」は、時代的に人間の「心」が「脳」に還元できる
というような発想がないので、基本的に問題意識が現代とは異なるん
ですね。つづく。



160 :そこどいて!! ◆Cj6Z7mDb5M :2005/06/07(火) 17:26:42
だから、「認識論」といっても、カントの場合何か実際の認知機構などを解明
しようとしていたわけではなく、むしろ普通考えられる「存在論」に近いわけで
す。現象と物自体の区別といった、カント独特の世界解釈が最重要で、それに
付随する形で、人間の認識が問われる。物自体は認識できない、認識できるの
は現象であり、それを可能にする条件が、これこれだ。という論理展開です。

よって、時間、空間といった形式は、あくまで論理的に帰結する前提条件にすぎ
ないわけで、生物学的な観察、実験から帰結するものではないです。

大抵、ここの解釈が通俗化されてしまい、>>156さんに顕著なように、安易に、
「ニュートンの絶対時間をカントは主観の装置と考えた。しかし、アインシュタイ
ンの相対性理論でニュートンの時間モデルは駄目になった、よってそれに基づ
くカントも間違い」という杜撰といえば杜撰な論になってしまうのですが、これは
明らかにカントを単純化した解釈です。つづく。


161 :考える名無しさん:2005/06/07(火) 17:44:02
そこどいてさん、どうも。認知科学で、時間とか空間とかが分かるんですか?

162 :考える名無しさん:2005/06/07(火) 17:49:51
認知科学でも、カント哲学は否定されないようなので、嬉しいですが
、カントの空間、時間に関してのみの話で、間違いだったとは、証明
されていないのですか?それとも、間違いは証明されてはいないが、
考えとして古いのだと言う話ですか?

163 :そこどいて!! ◆Cj6Z7mDb5M :2005/06/07(火) 17:55:04
それゆえ、現代のカント解釈で陥りがちな罠として、カントの認識論の安易な生物学的
解釈が挙げられると思います。これは、カントの物自体と現象の区別をたんに種に相対
的なものと考えるわけですが、カントの問題意識はそのような事実問題というより、権利
問題として考えたほうがいいですし、妥当だと思います。

>>156で、
>間とは何かということに、それらは客観的なものではなく、主観的 なものだとしました。
と書かれてあるのですが、カントは厳密には「主観的条件」と書いたので、「主観的なもの」
と実体化するのは、明らかに誤りです。

そして、その条件のもとでのみ、外的直観が可能になるといっている。
それゆえ、経験に先立って(アプリオリ)いる。つまり時間や空間という性質は経験からは
帰結しないことになる。言い換えれば、あらゆる経験はすでに時間と空間という主観的な
制約を受けている。よって経験的には実在している。しかし、だからといって、物自体として
絶対的に存在しているわけではない。よって、超越論的には観念でしかない。

このように、カントにあっては、主観的な条件として時間、空間は考えられている。
だから、「主観的なもの」という解釈は、少なくともカントを読む限りは、正しくないわけです。


164 :wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/07(火) 18:01:24
>163
<カントにあっては、主観的な条件として時間、空間は考えられている。
だから、「主観的なもの」という解釈は、
少なくともカントを読む限りは、正しくないわけです。>

すみません。
この箇所が理解できないのですが。



165 :そこどいて!! ◆Cj6Z7mDb5M :2005/06/07(火) 18:18:20
>>164

>>156さんは、「時間、空間とは主観的なもの」と書いている。
「主観的なもの」というのは、>>156を読む限り「客観的なもの」
の対立概念になっている。

>それらは客観的なものではなく、主観的なものだ

しかし、お分かりのように、カントは主観から出発した大陸合理論と
イギリス経験論を融合させたわけです。

客観が成り立つ条件は何か?というのがカントの最大の動機だった。
「先天的な総合判断はいかにして可能なりや」
つづく。


166 :そこどいて!! ◆Cj6Z7mDb5M :2005/06/07(火) 18:31:35
総合判断というのは、述語概念が主語概念に包摂されていない判断のことです。

「独身の男には妻がいない」という判断は、「独身」という概念を分析すれば、
「妻がいない」という概念は出てくるので、何ら新しい情報をいっていないわけです。
これらは、分析判断と呼ばれます。
で、これらは、アプリオリに正しい(すべての可能世界で正しい)のですが、情報量
がないので、ある意味無意味です。

他方、「カラスの羽は黒い」というような判断は、経験に依存している、観察や実験で
真偽が問われるわけですから、その意味で、究極的には偶然に真でしかない。
ライプニッツでいえば、事実の真理です。(この現実世界で正しい)
これは総合判断です。新しい情報があるから。

で、アプリオリに正しく、かつ、分析判断ではなく、総合判断はないか。
こうカントは考える。これが純粋理性批判の最大のモチーフです。

167 :考える名無しさん:2005/06/07(火) 18:34:21
理解できません。カントに於ける、感性と悟性の区別はできてますか?
観念だったら悟性ですが、時間と空間は感性の形式ですよ。

168 :wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/07(火) 18:44:13
>166
確かに、前段の分析判断は、<アプリオリに正しい(すべての可能世界で正しい)のですが、情報量
がないので、ある意味無意味>で、これはトートロジーですね。

で、後段は、経験知から、アプリオリな悟性のカテゴリー表に見合い、
「真」である、と判断されるものがアプリオリな総合判断ですね。
カントは、ここまでアプリオリ/先験性を引っ張っていますね。
で、「羽の白いカラスもいる」という経験知が新たに加わった場合、
「カラスの羽は黒い」というような判断は、事実の真理性を失いますね。
即ち、後段の総合判断とは、2つ以上の相矛盾する事実が認識された段階において、
破綻しますね。
このたぐいの次々に書き換えられていく総合判断も、
アプリオリな総合判断といえるのでしょうか?

169 :考える名無しさん:2005/06/07(火) 18:48:32
総合判断については、そのとおりだと思います。カントは形而上学が
独断論をとならないために、ア・プリオリな総合判断を問題にしまし
た。

ところがゲーデルでしたっけ、この分析判断と総合判断の区別は
間違いだと主張しました(詳しいことは分かりません)。このカ
ントの分析判断と総合判断の区別、或いは、先験的な総合判断と
経験的な総合判断の区別は、現代から見て、間違いだったのか
それとも間違いとは言えないのかと言うのが、私の疑問だった
訳です。

170 :考える名無しさん:2005/06/07(火) 18:51:10
低脳どもがカントを語ると物凄い

171 :そこどいて!! ◆Cj6Z7mDb5M :2005/06/07(火) 18:53:01
で、例えば、「すべての出来事は原因がある」という命題は、アプリオリな総合判断。
言ってみれば、因果律に関するものだけど、これは経験的に得られる判断ではない。
つまり、観察実験によらないということ。だから、アプリオリ。さらに、出来事という概念
を分析しても、そこから演繹的に得られないから、分析判断でもない。

これこそ、先天的総合判断だ!!

こうカントは考えた。で、この判断はなぜ真となるのか、どの条件のもとでのみ可能
な判断なんだ??次にこう進む。世界の条件を問うている。

で、この因果律は、ヒュームによって、根拠のないものとされてきた歴史があるわけ。
帰納法の議論を参照のこと。
だから、カントは、考えた。
認識が存在に依存するのではなく、存在が認識に依存すると考えたら上手くいくぜ!!
これが世にいう「コペルニクス的転回}
いやっほおおおお!!!!!!!!!!

だとすると、我々の認識は、「すべての出来事は原因がある」という判断が真であるような
ものでなければならない。どのような条件でそれが満たせるのだろうか。
そして、その条件として悟性のカテゴリーが導出される。つづく。

172 :考える名無しさん:2005/06/07(火) 18:55:56
黒いカラスや白いカラスの話は、経験的な総合判断で、アプリオリな
総合判断ではありませんよ。


173 :そこどいて!! ◆Cj6Z7mDb5M :2005/06/07(火) 19:02:05
>このたぐいの次々に書き換えられていく総合判断も、
>アプリオリな総合判断といえるのでしょうか?

それはアポステリオリ な総合判断だとカントはいってる。
情報量はあるが、必然的な真理ではない。

必然的な真理であり、かつトートロジーでもないのが、
アプリオリな総合判断。
これが成り立つ世界の条件、認識の条件をカントは考えた。
感性の形式である時間、空間も、悟性の形式、カテゴリーが
あれば、先の判断は必然的に真である。懐疑論よさらば!!!

とこうなる。だから、元に戻るが、生物学的な認識論を考えていた
のではない。カントは世界概念を考えていた。
>>156の「主観的なもの」というのが、いかにそのあたりの議論展開
を無視しているかが分かる。主観的なものではなく、主観的な
条件である。

以上。


174 :wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/07(火) 19:06:42
>172
私もそう思っています。
では、経験的総合ではない、
アプリオリな総合判断とは成り立つのでしょうか?

175 :考える名無しさん:2005/06/07(火) 19:08:21
感性の形式である時間と空間は、悟性の形式とは、無関係だと思いますが。

176 :wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/07(火) 19:12:36
>175
カテゴリー表をぐっと何度もにらんでも、感性の形式である時間と空間との
関連性は見出せないですね。
その前に統覚、構想力辺りから、感性の形式である時間と空間とのつながりが
もはや、見出しにくい。

177 :考える名無しさん:2005/06/07(火) 19:22:15
カントは、数学は全て、ア・プリオリな総合判断だと言っていますが、
問題にしたのは、実在的なものの、ア・プリオリな総合判断です。


178 :wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/07(火) 19:24:12
>177
7+5=12の算式を、カントは、ア・プリオリな総合判断だと言っていますか?

179 :考える名無しさん:2005/06/07(火) 19:31:28
言っていると思いましたが。

180 :wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/07(火) 19:51:08
>179
このスレの大半の人が、そのように読み流しています。
Xの16をお読みいただければ幸いです。

181 :考える名無しさん:2005/06/07(火) 21:19:26
>ところがゲーデルでしたっけ、この分析判断と総合判断の区別は
>間違いだと主張しました(詳しいことは分かりません)
(詳しいことは分かりません)
(詳しいことは分かりません)
(詳しいことは分かりません)


182 :考える名無しさん:2005/06/08(水) 14:13:46
>>169
カントだけではなく、哲学全般にいえることですが、「間違いだったのか、間違いとは言えないのか」というのは、決して言えるものではありません。
「空間と時間は直観の形式である」ということについても、論理的な矛盾点はどこにも見あたらないわけで、それで納得できるなら納得すればいいだけの話であり、納得できないならば納得しなければいいだけの話です。
どこまでも論理的に組み立てられているように思える現代物理学だって、
人によって解釈が異なり、同じような状況です。


183 :そこどいて!! ◆Cj6Z7mDb5M :2005/06/08(水) 14:23:53
>>182
その通り!!!

僕も、ずっとぞれがいいたかったんだけど、なんでか
哲学や科学に主張を求める人って、結構多いんだよね。



184 :wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/08(水) 14:36:45
<「空間と時間は直観の形式である」ということについても、
論理的な矛盾点はどこにも見あたらないわけで、
それで納得できるなら納得すればいいだけの話であり、
納得できないならば納得しなければいいだけの話です。>

その通りなのですが、スレタイが一応、「精読」ですからね。
かんかんがくがく、けんけんがくがく、というのもあっても宜しいものと。
それとも、納得できる方たちだけが集まって、
静かに精読するためのスレということでせうか?

185 :182:2005/06/08(水) 14:58:19
>>184
182は、あくまでも>>169に対するレスです。
こう書いたのは、162氏は一般的な答を性急に求めているように
見受けられたからです。
「カンカンガクガク」は大変結構なことだと思います。
特に、最近までは死んだも同然のスレッドだったので。

ところで180を読むと、7+5=12をカントは「ア・プリオリな総合判断ではない」と
言ってるように受け取れるのですが、ご説明願えますか?
これは「ア・プリオリな総合判断である」と思いますが。


186 :wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/08(水) 15:40:39
>185
その直後にカントが挙げている事例として、
「純粋幾何学」の「直線は二点間で最短である」は、
アプリオリな総合判断と言っているでしょうか?

また、もし、7+5=12がアプリオリな総合判断と仮定した場合、
二進法の、3=11もアプリオリな総合判断でしょうか?

カントは、「自然科学(物理学)は、
アプリオリな総合的判断を原理として自分自身のうちに
含んでいる」、といいながら、
なぜか、先の算術的命題においては、
微妙にアプリオリという言葉を避けている。
算術的命題一般を、分析的命題ではなく、総合的命題である、
とは言っていますが、アプリオリな総合的命題である、とは、言えていない、
と解釈しております。
「7+5」には、「7に5を加えなければならぬ」という概念は含まれていますが、
その和が12に等しいということは、12という数の概念を予め(アプリオリに)
知っている必要があります。

あるいは、二進法において、3=11の場合、2で一桁繰り上げる、
という、0/1の電子信号によりコンピュータに計算をさせるための「規則」、
「経験的利便性」等が、人間の認識にアプリオリに与えられうる、という必要があります。
これは、のカテゴリー表の何をもってきて、アプリオリであると説明すれば宜しいのでしょうか?


187 :考える名無しさん:2005/06/08(水) 23:07:52
人間は世界を眺める方法を幾つか具えているということを考え得ると思う。
外延、内包、類推、可能、これらが主語と述語だけで考えることができるのか、
或は、これらは単なる人間の勝手な区別でしかないのか、そうだとしたならば、
我々は主観においてどのような特徴からこれらを区別しているのか、そして、
各々が特徴をそれぞれ何であるかと考えることにより、同じ事を異なる名前で
考えているのかが考えられるだろう。我々はどのように対象を考えているのかだ。
このようなところが見所でしょうね。

188 :俺じゃねーし:2005/06/08(水) 23:26:30
お初ww

189 :187(フリーダイヤル):2005/06/08(水) 23:32:05
うい。まあ、こんな板です

190 :俺じゃねーし:2005/06/08(水) 23:33:58
理解可能な限り精読させてもらいますorz

191 :考える名無しさん:2005/06/08(水) 23:39:52
外部における物自体、内部における規則、これらの想定が確かな判断にするのだろう。
判断のみであるものは幾らでも可能である判断になるのではないか。
このようなものが特徴的な判断ではないかと思う。

192 :考える名無しさん:2005/06/08(水) 23:52:54
特徴的な判断が共同幻想によって
「幾らでも」から限定されたものになっていることは否めないが。
それを意識すること(また、超えること)をニーチェにつなげることもできるのではないかと。

>>190
まあまずはカントの「純粋理性批判」を読み給へ。



193 :考える名無しさん:2005/06/09(木) 05:49:56
 知覚とは経験的意識のことである、つまり、同時に感覚をも含んでいるような意識である。
 感覚だけによる覚知はある瞬間を充たすに過ぎない。

194 :考える名無しさん:2005/06/09(木) 08:31:16
>>182
>「空間と時間は直観の形式である」ということについても、論理的な矛盾点はどこにも見あたらないわけで、それで納得できるなら納得すればいいだけの話であり、納得できないならば納得しなければいいだけの話です。

無名な人が何があることを言っているだけなら、それはスルーされるだけ。
カントは有名だから叩かれる。しかも自分で形而上学の独断を排除するとかなんとか
言ってるんだからなおさら。
「ある命題の真偽が定まる」。哲学においてはこの考えすら相対化するのかもしれませんが、
常識的な一般人は真偽が定まることを当然のことのように考える。常識人の観点から
カントが叩かれることは、ある程度は仕方ないのではないでしょうか?

195 :考える名無しさん:2005/06/09(木) 09:14:31
カントの物自体と現象の区別は、現代哲学から見てどうなの?時間と
空間が主観の側にあるから、物自体の認識は不可能と言う理解でいい
のでしょうか?

196 :考える名無しさん:2005/06/09(木) 09:58:42
((  )) 空間 私 私 空間
(●( ○ )) 空間 物自体 私 主観的物自体 私 空間

197 :考える名無しさん:2005/06/09(木) 10:03:42
外部にある物を語る事はできない。それは経験していないと考えられるからだ。
我々が語り得るのは主観的な物になるだろう。そして、物自体が私の内部にある
だけでは、物自体を考えたことにならない。経験は概念により考えられなければ
ならない。このような概念により考えられた状態が判断であろう。
すると、以下のような図に表すことができるのではないか。
(●( ◎ )) 空間 物自体 私 判断 私 空間


198 :考える名無しさん:2005/06/09(木) 10:16:40
我々が物自体としているものは内部において考えられたものだ。
外部にある対象と内部にある対象が全く異なるのではないか、
それ故に、物自体について語ることはできないと考えるとすると、
全く異なるとすると、我々には対象を認識する仕方が具わっていな
いということになるのだから、外部のものについて知る事を諦めな
ければならなくなるだろう。存在しないとすると、想像だろう。
存在があり、そして、物自体が全くそのまま我々の内部にあるもの
でないとすると、対象はある部分を反映したものということになる
だろう。そのようなある部分は一体何であるかだ。物自体とはこの
ようなものになるのではないだろうか。

199 :182:2005/06/09(木) 11:03:00
>>186
 ご指摘のあったXの16を再読してみました。確かにここだけ読むと、カントは総合的判断についてはかなり詳しく述べていますが、数学がなぜア・プリオリなのかということの説明は書かれていません。
 しかし、その前節には「数学的命題は常にア・プリオリな総合的判断であって、経験的ではない」と書いており、ア・プリオリに関してはすでに説明済みであり、あえて説明するまでもないという態度がみて取れます。
 では、カントはア・プリオリをどう考えていたかというと、これがはなはだ心許ないもので、第二版の序論には次のように書かれています。
「はたして、経験によらず、感官のあらゆる印象にすら依存しない、そのような認識があるかどうかは、少なくとも、さらに立ち入った研究を必要とし、一見しただけでは片づけられない問題である。
 そうした認識は、ア・プリオリと名付けられ、その源泉をア・ポステリオリ、すなわち経験のうちにもっているところの経験的認識から区別される。」
 この後も長々と説明していますが、やはり説得力に欠けるのか、カントが言うところの「ア・プリオリ」とはカントがそう言い張るだけで何の根拠もないではないかと、当時から批判されていたようです。
 結局、「数学は、ア・プリオリな総合的判断である」という意見に同意するか、しないか、ここはカント理解の壺だと思うんですが、いかかでしょう。


200 :wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/09(木) 11:32:52
>199
二進法の和算です。
十進法で5+7=12
二進法では、
101+110=1100
これを「アプリオリな総合的判断であるという意見に同意するか、
しないか」。

カントのアプリオリな総合判断というのは、
「人間の」認識論でありながら、
自然法則に見合うものは、経験を介さず、人間の悟性が、自発的に、
且つアプリオリに認識/判断するものである。
といいながら、先ず人間の感性により与えられることを前提としている。

もちろん、自然法則を認識するのは悟性のアプリオリな総合判断です。
そして、自然法則は、カントによると、
感性、悟性が、自発的に且つアプリオリに「追随できる」もの、
と規定しています。

はたして、「純粋理性批判」は、認識論なのでしょうか、
論理学なのでしょうか、はたまた、経験論なのでしょうか。

あるいは、人間のアプリオリな総合判断に見合う自然法則に則るものは、
人間の認識にアプリオリに備わっているアプリオリな総合判断により、
追随できる、ということを説いている「だけの」、
トートロジーにすぎないなのでしょうか?






201 :考える名無しさん:2005/06/09(木) 11:55:23
>>200
n進数というのは、数のイデア性とはなんの関係もないのでは。
れは表記と計算の仕方が変わるだけのことだと思っています。
議論の筋には関係ないですけど・・・

202 :wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/09(木) 12:17:01
>201
間とは、Xの16で5+7=12を導き出すのに、結構、こまめに説明している。
その文章を、二進法でカントがやったら、どうなるのか。
ひょっとしたら、次の文章も違う展開になっていたのではないのか、
という問題意識を呈示したまでです。

「5本の指の表象を頼りにして順次に七という数に加えていくと、
ここに十二という数の生じるということが判るのである。(中略)
それだから、算術的命題は、常に総合的命題である。」

これを、カント自身は、「純粋数学」といっているのです。



203 :182:2005/06/09(木) 15:11:02
 私も201さんに同意です。
「七番目」の数を十進法で「7」、二進法で「111」、さらに日本語で「なな」、英語でSevenと表記しても、「七番目」という数の概念自体は変わりません。
 よって、5+7=12の式を101+111=1100と入れ替えても、カントの文章はそのまま通用すると思います。

「5本の指の表象を頼りにして、次々に111(7)という数に加えていくと、
111(7)から、一番目が1000、二番目が1001、三番目が1010、四番目が1011、五番目が1100、
ここに1100(12)という数の生じるのがわかる。」

 二進法が0と1という数だけを使って表記するのは、自然数論的にはかなり特殊な感じがしますが、その点は、9の次に10と表記する十進法の特殊性も同様です。
「10」ではなく、ローマ字表記の「X」や漢字の「十」のように、別の記号を使う例もあり、合理性を無視すれば、数が増えるに従って、いくらでも別の記号をつけていくことができます。
 数学における表記の問題は言葉の問題とも通底する部分があり、例えば日本語という言語そのものに普遍性はないが、その概念には普遍性があります。
同様に、数学の問題を考える際に重要なのは「数」の表記ではなく、「数」という概念は、本当にア・プリオリに与えられているのかという部分にあるのではないでしょうか。


204 :wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/09(木) 16:49:32
>203
<数学の問題を考える際に重要なのは「数」の表記ではなく、
「数」という概念は、本当にア・プリオリに与えられているのかという部分にあるのではないでしょうか。>

「数」という概念ではなく、7+5=12がアプリオリな総合判断であるか否かを、
問題にしています。
おっしゃるように、いつ、から初めて、むう、なな、やあ、と数えていき、
じゅうに、に行き着いた時点で、じゅうに、という「数」が「生じる」、
とカントは書いています。

このとき、何が「生じた」のでしょうか?

5から7つ隔たった序数上に12が「生じた」のでしょうか。

では、「5+7=」というお題に、
12に至るまで、ひとつづつ数を加えていく(数えていく)
という行程を経て、それが、5と7の和である。
そして、その行程と結果は、先験的、自発的、且つ必然的なものとして、
アプリオリに悟性に与えられている。

この総合判断をする能力が、先の行程を経て、じゅうに、の数を生じる。

このプロセスを含む判断行為が自発的に働き始めるモチーフも
悟性の能力により、与えられているお題(7+5=)自体に予め内包されている。
だから、悟性判断の必然的帰結として、12という「数」が生じ、
それはそのお題の解である。

だから、この行程、判断はアプリオリなものとして成り立つ。
即ち、7+5=12は、アプリオリな総合判断であると?

205 :実名攻撃大好きKITTY:2005/06/09(木) 23:07:22
アプリオリとアーリオオーリオには何か関係があるのでしょうか??

206 :考える名無しさん:2005/06/10(金) 08:00:16
カントは空間→幾何学、時間→算術と言ってます。


207 :考える名無しさん:2005/06/10(金) 08:47:33
> 学問が新しい知識を生むなら、それは総合的判断である。
> そしてそれが普遍的に正しい認識であるなら、アプリオリな判断でなくてはならない
http://www.ne.jp/asahi/village/good/kant.html

こういう認識においては算術の命題は当然、アプリオリな総合判断になるよね。
フレーゲは算術は分析判断と見なしていたらしいし、ウィトゲンシュタインは
算術命題はトートロジーだと言ってたらしい。でもそれってカントの分析総合の
区分の解釈自体がずれてしまっているような。

208 :考える名無しさん:2005/06/10(金) 10:31:36
まあどっちにしても、フレーゲやウィトゲンシュタインみたいな頭のいい人が
何十年も悩んだくらいだから、数学の問題は単純じゃないってことかな。

209 :182:2005/06/10(金) 12:38:38
>>204
>「数」という概念ではなく、7+5=12がアプリオリな総合判断であるか否かを、
>問題にしています。

数学が果たしてア・プリオリな総合的判断であるか、その問題を考える上で「数」の概念は重要です。
カントが7+5=12の計算プロセスで示しているのは、この算術命題が総合的判断であるということです。
ここでは、「ア・プリオリである」ということは一切書かれていません。
数式が総合的判断であることを示すだけなら、十進法であろうが、二進法であろうが、シュレディンガーの方程式であろうが、その構造については「A=B」というだけの話であり、文法的に説明がつきます。
ところが、このA、Bにあたる概念が果たして、ア・プリオリに与えられるのかという問題となるとかなり難しいのですが、少なくとも、Vの16からは何の解答も得ることができません。

>>206
>カントは空間→幾何学、時間→算術と言ってます。

確かにそう書いていますね。空間が幾何学に対応するのはいいとしても、時間が算術に対応するというのは、どうなんでしょうか?


210 :考える名無しさん:2005/06/10(金) 17:22:28
ここでちょっとまとめてみましょう。
1)分析的判断と、総合的判断
2)先験的(ア・プリオリ)と経験的(ア・ポステリオリ)
3)数学は、ア・プリオリな総合判断。
4)時間と空間は感性的直観のア・プリオリな形式
5)空間は幾何学、時間は算術に対応する。

繋がりが見えているように思います。



211 :考える名無しさん:2005/06/11(土) 00:14:08

総合的判断 主語は述語でない判断とされるもの
(●( ○ ○ )) 空間 物自体 私 主語 述語 私 空間
(●( ◎ )) 空間 物自体 私 判断 私 空間

分析的判断 主語において考えられていたものを述語であると考えるとされるもの
(●( ○ )) 空間 物自体 私 主語 私 空間
(●( ◎ )) 空間 物自体 私 判断 私 空間

212 :考える名無しさん:2005/06/11(土) 00:18:36
>>211
訂正:主語が述語でない判断とされるもの

213 :考える名無しさん:2005/06/11(土) 00:32:19
分析的は主語に含まれているものが何であるか判断するということか。
総合的はどういうことなのかだ、判断されるとなると、例えば、君は
偉いと考えるとなると、分析的判断であるのか、総合的判断であるのか。
既に主語の中に含まれているとなると認識を拡張するものではなく、学問
的には何ら価値のあることではない、主語に含まれないとなると、そうで
ないものを偉いと考えていることになるだろう。

214 :考える名無しさん:2005/06/11(土) 00:50:02
二つのドグマだな。

215 :考える名無しさん:2005/06/11(土) 01:10:08
当然のことだが、分析的判断は主語の定
義が真理でなければ無意味でしかない。

216 :考える名無しさん:2005/06/11(土) 03:03:48
このスレはカントを精読するスレなので、他の考えや、
独自の考えもいいけど、そういうのをやりたいならスレ違いでしょ。

217 :wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/11(土) 15:47:58
>216
では、マタ〜リと、精読でもしていてください。

218 :考える名無しさん:2005/06/12(日) 03:13:10
現代社会には他者の脳に作用する装置が実在します。その装置は空間的な
任意の位置に作用し得るものです。任意の位置には人間が含まれていた
場合、そのような行いは法律的にはどのように考えられるのでしょうか。
脳に作用するのですから、映像、記憶、夢、言語、認識、連想、様々な
部分で他者に作用し得るということになるものです。このようなものは
何であると考えられるのでしょうか。そして、このようなことを他者に
施すにはどのような権利があることにより許されるのでしょうか。
思想や教育ではなくて、物であり、物を他者に使用する権利であるという
ことです。

219 :wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/12(日) 16:12:34
>217
批判しているわけではありません。
原書、辞書、翻訳本の3点セットで、精読やら輪読に耽溺する、
そういう至福の時間も、ある時期、ある一定期間は必要でしょう。

220 :考える名無しさん:2005/06/12(日) 16:13:43
朝5時に起きて、
1時間カントを読んでいる

221 :考える名無しさん:2005/06/12(日) 23:09:07
その生活態度自体カントだな

222 :wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/12(日) 23:15:43
>221
そうだね。あと、たばこを毎朝3本吸って、時刻を守ったお散歩ね。

223 :bbs:2005/06/14(火) 17:41:43
数学には「数」という概念があります。その概念そのものはア・プリオリと判断しているようですね。
問題はそれがア・ポステリオリと重なりうるか否かですね。
カントに言わせれば区別されると言うことですが、ア・プリオリな総合判断としての数学はア・ポステリオリに分類されそうな気もします。
物自体、もしくは時空間が我々の観念のア・プリオリな「地平」であるというのは疑いようがないでしょうが、それ以外は微妙な気がしますね。
それから「連想した」数学がア・ポステリオリと果たして区別されるのでしょうか。

224 :考える名無しさん:2005/06/15(水) 04:30:34
それは純粋経験と経験的認識の区別であるような気がする。

225 :考える名無しさん:2005/06/15(水) 07:25:13
 数という概念は純粋経験であるのか、経験的認識であるのか。
 数列の規則は学ば経験に先立って知っているものでない、だから、数列の規則は経験の後に理解されるものであると考えら
れる。
 だが、我々の認識が全て経験の後に始まるにしても、そうだとしても我々の認識が必ずしも全て経験から生じる訳ではない。
何故なら、我々の経験的認識であったとしても、我々の感覚的印象の後に受け取るところのものに、我々自身の認識能力が自
分自身のうちから取り出したところのものが付け加わってできた合成物であるということだ。ただ、我々は、長い間の修練に
よってこの事に気づきまたこの付加物を分離する事に熟達するようにならないと、これを基本的な材料、感覚的印象から区別
できないのである、とされている。
 数という概念は経験的認識であるにしても、全ての経験が感覚的印象の後に受け取られたものであるのか。
数という概念は経験的認識であるにしても、経験に加え、我々のうちから取り出したものが付け加えられているものである、
ということが考えられるだろう。
 経験的認識であるにしても、我々のうちから取り出したものは何であるのか。それは先験的に、経験のまえに、具わって
なければならないのだから、ア・プリオリであると名付けられるものだと考えられるだろう。例えば、数という概念があるに
しも、その前に先立ち分量というように言い当てられるようなことが我々のなかに予めなければならない、と本を読んでいる
人は考えるのだ。どうして、ここに連想が出てくるのか、何が連想であるのか?

226 :考える名無しさん:2005/06/15(水) 07:37:42
連想であるとすると、差等を加えたそのようなものが引き合いに出されることになるだろう。
どうして連想が出てくるの?

227 :考える名無しさん:2005/06/15(水) 08:26:59
確かなものに妥当されれば何でもいいの?

228 :そこどいて!! ◆Cj6Z7mDb5M :2005/06/15(水) 16:12:56
>>225
脳科学の本読んだら面白いぞ

229 :考える名無しさん:2005/06/15(水) 19:59:38
間違いだらけのカント哲学

230 :考える名無しさん:2005/06/15(水) 21:06:14
>>180
最近読み始めたんですが、
Xの16ってどこのことなんでしょうか?

231 :考える名無しさん:2005/06/15(水) 21:36:19
純粋理性批判の第2版、序論(緒言?)の5の16ページ付近のことだと思う。

232 :考える名無しさん:2005/06/15(水) 21:41:40
ま、カントなんかメチャクチャなんだけどね。

233 :考える名無しさん:2005/06/15(水) 21:54:40
まず理性と悟性を区別しているのが間違いです。理性と悟性に区別は
ないでしょう。


234 :考える名無しさん:2005/06/15(水) 22:04:13
ただしカントは、人類の歴史上第一の哲学者であることは間違いない。
純粋理性批判を読まないで、哲学を語ることはできない。

235 :考える名無しさん:2005/06/15(水) 22:11:37
>>234
「読んでも理解することはできない」の間違いでないの?

236 :考える名無しさん:2005/06/15(水) 22:22:12
多分今でもその意味が分からないことがあっちこっちにあると思いま
す。

237 :考える名無しさん:2005/06/15(水) 22:29:44
読んですっかり理解するのは不可能だが、読むことによって何かを
得られると言う本だと思います。


238 :考える名無しさん:2005/06/15(水) 22:33:39
カントの功績は科学技術の発展期であり宗教も依然として力を維持している時代にあって
人間の信条という問題群を自覚し、宗教的意識と科学的意識との調停、解決、限度の吟味
を行ったことでしょう。

239 :そこどいて!! ◆Cj6Z7mDb5M :2005/06/15(水) 22:52:36
>>238
宗教的意識って具体的には何を指すの?
カントの宗教的な読みを聞いてみたい。

240 :考える名無しさん:2005/06/16(木) 06:02:34
>>純粋理性批判の第2版、序論(緒言?)の5の16ページ付近のことだと思う。
16ページではなく、16行目でした。


241 :考える名無しさん:2005/06/16(木) 14:44:47
>233
同意。この区別も明確ではないですね。
悟性どまり、だと思います。


242 :考える名無しさん:2005/06/16(木) 14:55:55
どうして理性と悟性は区別されないのでしょう。
>>241

243 :bbs:2005/06/16(木) 15:03:10
>>225
>>226
そこにある「物」があります。これは先験的です。
ここに認識があります。これも一応半分は先験的です。
ですがこれがつながる時、認識内部の経験的なものが含まれるのは否定できないでしょう。その意味での「連想」です。

244 :考える名無しさん:2005/06/16(木) 15:29:59
>242
カントは、理性に、悟性とは異なる(超える)なにかを与えている箇所が
あれば、教えてください。

245 :考える名無しさん:2005/06/16(木) 18:44:43
>>240
>>純粋理性批判の第2版、序論(緒言?)の5の16ページ付近のことだと思う。
16ページではなく、16行目でした。

16ページで良かったです。
>>242
どちらも概念であるので、区別するのは、間違っている。

>>244
355ページ以降。

246 :考える名無しさん:2005/06/16(木) 19:04:22
>245
(>>244 355ページ以降。)

ありがとうございます。
早速、読んでみます。


247 :考える名無しさん:2005/06/21(火) 03:07:26
平凡社ライブラリーの原祐訳を読んでいます。
カントが何を言ってるのかさっぱりわからないので、引用しますので
誰か噛み砕いて説明していただくと嬉しいです。
質問なんであげます。
第二版序論からです。

248 :考える名無しさん:2005/06/21(火) 03:14:30
…それゆえ、まさに同一の存在者、たとえば人間の霊魂について、私は、その意志は
自由であるが、しかし同時にこの意志は自然必然性に従っている、言い換えれば
自由ではないとは、明白な矛盾に陥ることなしには、言いえなくなるであろう。
というのは、私はこれら両命題における霊魂を、まさに同一の意味に、つまり
物一般として(事象自体そのものとして)解していたのであり、批判を先行させることが
なければ、それ以外には解しようも無かったからである。
しかし、客観を二種類の意味に解することを、すなわち、現象としてしか、あるいは
物自体そのものとして解することを教えるこの批判が誤っていないときには、
この批判がなした悟性概念の演繹が正しく、したがって原因性の原則も、
第一の意味に解された諸物にのみ、つまり経験の諸対象であるかぎりにおいての
諸物にのみ関わるが、第二の意味からみたまさにこの同一の諸物は原因性の
原則に従ってないときには、まさに同一の意志も、現象(可視的な諸行為)においては、
自然法則に必然的にかない、その限り自由でないものとして、だが他方では、在る物
自体に所属し、ある原因性の原則に従っていないものとして、したがって自由であるものとして、
そのさい矛盾が生ずることなしに、考えられる。

249 :考える名無しさん:2005/06/21(火) 03:22:47
後半がまったくわかりません。
前半はなんとかわかったような感じもするんですが。
何が何なんだか…原因性の原則?

250 :考える名無しさん:2005/06/21(火) 03:36:32
ttp://ixtlan.org/philosophia/data/776.html

すみません、ここ見てなんとなくわかりました。
スレ汚しすみませんです。

251 :考える名無しさん:2005/06/21(火) 04:58:52
序文が糞難しいんで、これは全文読むころには灰になるか?と思ったら、
内容は意外と平易で助かった。楽しんで読めそう。

252 :考える名無しさん:2005/06/27(月) 12:19:21
カントの文章は酷いな。いいことが書いてあると思えんわ

253 :考える名無しさん:2005/06/27(月) 13:46:17
>>252>いいことが書いてあると思えんわ

「プロレゴーメナ」の序文に
いったいなにを意識して純理を書く気になったか、説明があるが、
そこには「ヒュームの原因と結果に関する議論」とあり、
これは具体的には、ヒュームの「人間知性研究」で行われている因果論を指す。

いいことが書いてあるのかわからないなら、ヒュームの議論と読み比べられたし。
カントは「<結論としては>まったく受け入れられない」とヒュームを評しているが、
何がカントをそこまで拒絶させたのか、
実はこれは、「超越論的感性論」からしてそうだが、
純理全体の議論の骨組みにも関わっている。
(ちなみにカントは、フッサールに「人間知性研究よりもずっと過激」と言わせた
 ヒュームの主著「人間本性論」のほうは読んでいない)

>カントの文章は酷い

「その気になれば、ヒュームやメンデルスゾーンのような文章は、私にも書けるが、
 厳密な学の記述のため、そのように書くことはしない」(「プロレゴーメナ」)

254 :考える名無しさん:2005/06/27(月) 20:38:41
>>253
カントは根っからの悪文家ではなかったということか。だからってあんな解りずらくなるとは…

しかしカントは本を多読するタイプではなかったんだろうか。何やら忙しかったらしいし、散歩してるし、規則正しい生活だし

255 :考える名無しさん:2005/06/30(木) 17:53:11
認識が拡張されるというと、何が認識されて、認識が拡張されるのかというのだ、
空間が拡張されるのか、存在が拡張されるのか、どのようにが拡張されるのか、
何ということが拡張されるのか、ということなんだ。空間は空間が何か判ること
が必要とされるのか、存在が何であるか判ることが必要とされるのか、どうように
が判ることが必要とされるのか、何が判ることが必要とされるのか。

256 :考える名無しさん:2005/07/01(金) 23:10:15
カントはニーチェにコテンパンに批判されているので今更読む意味なし!

257 :考える名無しさん:2005/07/01(金) 23:17:23
ニーチェは永井にコテンパンに批判されて永井はニーチェは
カントを読めてないと言ってるので読む価値あり

258 :考える名無しさん:2005/07/01(金) 23:17:47
>>256
ニーチェ信者が何を吐かす。

259 :考える名無しさん:2005/07/01(金) 23:29:00
信者がいないことには知は知者と共に滅ぶのかな?

260 :考える名無しさん:2005/07/01(金) 23:38:57
>257
同意!
それもわずか数行でな。
あれは笑ったよ

261 :考える名無しさん:2005/07/01(金) 23:43:38
自作自演乙

262 :考える名無しさん:2005/07/02(土) 04:08:27
カント哲学を完成したのが、ショーペンハウアーです。

263 :考える名無しさん:2005/07/02(土) 14:59:03
>>262
よく言った。

264 :考える名無しさん:2005/07/14(木) 10:05:08
 表象の仕方の段階
類は表象、類の下に意識をもつ表象がある、表象は知覚ともいう、
知覚が主観にのみ関係するものは感覚、客観的な知覚は認識、
認識は、直観か概念のどちらか二つである(客観的な知覚が直観であるとされている)、
直観は直接に対象に関係する、
概念は多くに共通するであろう標徴で間接的に対象に関係する、
そして、概念は経験的概念であるか、純粋概念のどちらか二つである、
純粋概念は起源で区別することができる、
純粋概念が悟性にのみ起源をもつものは悟性概念である、
純粋概念が悟性概念に起源を持ち、経験の可能を超出するような概念は理念概念である。

265 :考える名無しさん:2005/07/14(木) 10:08:45
>>264
客観だけでなく、主観においても理念は考えられるのではないか。

266 :考える名無しさん:2005/07/14(木) 13:03:23
みんなどこの出版で読んでるの?
岩波は評判良くないし、平凡は下巻が出てないし、理想社や全集は高杉。。
平凡社は純粋下巻、実践や判断力出る予定あるんですか?

267 :考える名無しさん:2005/07/14(木) 13:05:35
みんなどこの出版で読んでるの?
岩波は評判良くないし、平凡は下巻が出てないし、理想社や全集は高杉。。
平凡社は純粋下巻、実践や判断力出る予定あるんですか?

268 :考える名無しさん:2005/07/14(木) 13:25:02
>>267
純粋の下巻は確実に出るだろw
上中だけでで下が出ないってw

269 :考える名無しさん:2005/07/14(木) 13:32:36
>>268
三代批判以外は岩波でも大丈夫なんですか?

270 :考える名無しさん:2005/07/14(木) 13:49:24
英語で読むと読みやすいらしいよ。日本語よりかは。

271 :考える名無しさん:2005/07/14(木) 13:53:02
誰か約せよ!手ごろな値段で!
高すぎたり未完成だったりで、まともに読める純粋が一冊もないではないか!

272 :考える名無しさん:2005/07/14(木) 20:55:57
理想社のカント全集の純粋理性批判は、一版と二版が併記されている。岩波の
全集もそうなのだろうか?翻訳そのものはどうなんでしょうか?


273 :考える名無しさん:2005/07/14(木) 21:09:42
何かってと英語英語っていうが、みんなそんなに速く英語読めるのか?

274 :考える名無しさん:2005/07/14(木) 21:58:39
高峯訳で読んでます

275 :考える名無しさん:2005/07/15(金) 02:09:31
以文社から出ている宇都宮訳が一番平易かつ精確で読みやすい。
ただし高いのが難点。

276 :考える名無しさん:2005/07/15(金) 03:42:45
55 :考える名無しさん :2005/07/15(金) 03:22:44
ものすごい下痢をした。

56 :考える名無しさん :2005/07/15(金) 03:25:22
切痔と向き合う。

57 :考える名無しさん :2005/07/15(金) 03:26:25
あたしは普通のセックスよりもアナルファックの方が好きなのね

58 :考える名無しさん :2005/07/15(金) 03:28:34
肛門ガン予備軍

59 :考える名無しさん :2005/07/15(金) 03:32:40
肛門癌というものはない。
直腸がんの間違いでしょうか。
ストーマ、ストーマ。

60 :考える名無しさん :2005/07/15(金) 03:34:48
S嬢結腸癌

277 :考える名無しさん:2005/07/15(金) 06:22:49
だからオマイラ無駄な努力してないでドイツ語読めるようになやれよ。
その方が早いの。
オマイラドイツ語読めるようになる能力なくてカントわかると思ってんの?
だいたいカントが書いたもの自体を読まないでわかるというのは憶測に過ぎんよ?

278 :考える名無しさん:2005/07/15(金) 06:24:56
そもそもが「カント自体」なんて認識できんのだ。


279 :考える名無しさん:2005/07/15(金) 11:34:33
おまえらカントカントって、コントじゃないんだからそんな議論やめようぜ。

280 :考える名無しさん:2005/07/15(金) 12:36:30
宇都宮版の解説、部分的にはただの要約にすぎないところも多いので、それよりはむしろ
キーワードの原語の提示やキーワードの解説に、ページを使って、
原文のニュアンスができるだけ感じられるようにして欲しかった

そういうのがあると、先行者の議論
(純理の場合、さしあたってロック、ライプニッツ、バークリ、ヒューム等の認識論的著作)の
どこを意識し、どこに焦点を当てようとしているか、
比較に便利で、理解しやすいと思うのに

281 :wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/07/15(金) 16:01:58
確かに原著を読むに越したことはないね。
訳文を横に置いて、辞書片手に精読していると、ここでためらってるな、
筆が進んでないな、つっかえてるな、等という、
いわばカント自身の息づかい、思索のプロセス、行間の迷い等までが読み取れる。

だけど、それが必須のことだとは思わない。
学問は一部のリベラルアーツが占有するものではなく、
民主的なものである。

原語を読まなくても、
書いてあることのおおよその大意なり、
要点を自分なりに理解できる程度の翻訳本は出てるわけだし、
それでカントを語るに不自由は無い、と思う。


282 :考える名無しさん:2005/07/16(土) 18:59:43
表象 感覚 認識( 直観 概念 [ 経験的概念 純粋概念〈 悟性概念 理念 〉] ) 表象

分析すると、理念は表象的認識的概念的純粋概念的なものである訳だ。
感覚は直接的なものだろう、だが、認識的な概念における関係を考えられるものではないのか。
直観は直接なものとされている、直観は認識だ、感覚を直接的に認識するということであろうか
、直接に認識するということであろうか。感覚を介さない認識というのは超越的なものと考えら
れるだろう。超越的な何かがなければならないのか。

283 :考える名無しさん:2005/07/16(土) 23:36:19
対象(質料)→感覚(直接的なものだろう)→直観or概念
   (?)→直観(直接に対象に関係するらしい)→概念
質料は感覚されるだろう、では、質料は直観されるのか。
対象の物理的なものが質料か。質料は感覚されるだろう。
対象の認識的なものが何かなのだろう。何かは直観されるのだろう。
質料がどのような関係であるかを考える能力が直観か。
直観とは対象がどのように関係するものであるかを見て取る能力なのか。

284 :考える名無しさん:2005/07/16(土) 23:39:01
最初のほうからずっと長文で書いてるsageの名無しさんの書きこみ内容が全然理解できぬ。
俺も「純理」読んだけど、そんなこと書いてあったかなあ。
俺が馬鹿なのか?


285 :考える名無しさん:2005/07/16(土) 23:47:29
私には確かめようがないようですし、他人が馬鹿にするか、あなたが自分に定め
たようなので、あなたが自分ではずさないことには馬鹿であるようですね。
現実的馬鹿ですか?

286 :考える名無しさん:2005/07/16(土) 23:58:34
>>285
このスレに書かれているのが正統的解釈かどうか知りたいだけだよ。
別にケンカ売ってるわけじゃないぜ。

287 :考える名無しさん:2005/07/17(日) 00:07:26
>>286
どのようなところのものかは数字を介しただけでも分かると考えられているようであり、
感覚できるところに本を置いてみるというのは我々がよくやることのようだ。現実の物が
確かにそうであるとすると、解釈はどうであるのかということになるのでしょう。
どの解釈でしょうか、そして、正統というと、統覚では不足な物であるというのだろうか。

288 :考える名無しさん:2005/07/17(日) 00:10:51
>>287
内容以前に、日本語に不自由してるようだな。

289 :「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2005/07/17(日) 00:15:54
>>48
「表象的直接性」とは「感覚的クオリアのこと」
「因果的有効性」とは「志向的クオリアのこと」
と考えると、必ずしも「誤訳」とは言えないと思います。

290 :考える名無しさん:2005/07/17(日) 00:16:59
>>287
え?なに?これっておちょくり?いわゆる釣りってやつ?わかんねー!!!
統覚ってApperzeptionの統覚?わかんねー!誰か教えてくれ


291 :考える名無しさん:2005/07/18(月) 11:39:16
表象的直接性とは、各人間には、外界が直接、感性に表象として現れているが
、しかしそれだけではなく、その表象に、純粋語勢概念が働いていることがある。
それを統覚と言う。この考えは間違いですが。

292 :考える名無しさん:2005/07/18(月) 15:13:49
ですから、表象的直接性とは、表象のみ、統覚とは、表象+純粋悟性概念
と言うことになります。しかし私は、表象に純粋悟性概念が働くことは、
在り得ないと思います。もし表象に純粋悟性概念が働いているならば、
人間と犬の表象には、質的な違いが出てくるでしょう。犬には概念が
無いのですから。

293 :考える名無しさん:2005/07/18(月) 15:50:47
犬は隣の犬が吼えられているのを見てそっぽ向いたり、吼えたりしますから、
性質だけでもないようですね、もともと何について考えていたのかを留めてお
く能力が足りないのかもしれいでしょうね。純粋悟性概念と称するまでのもの
が必ずしも必要であるのかという話でしょうか。素朴な人もいるでしょうから
、現実的なものであると考えられるでしょうね。

294 :考える名無しさん:2005/07/18(月) 16:17:24
無重力状態

295 :考える名無しさん:2005/07/18(月) 16:46:59
感覚となると、触覚ならば凹凸を概念で考える点字のようなものになるか。
視覚ならば、光の色や影を概念で考えることになるか。何が直観かというと
、先取的にどのようなことになるものなのかを与えられるということなのか。

296 :考える名無しさん:2005/07/18(月) 21:33:46
ちょっと訂正です。人間の感性にそのまま表われたものを表象と言いますが、
カントが、表象そのものに、純粋悟性概念が働いていると考えたのか、表象に
付随して、純粋悟性概念は働くと考えたのかは、よくわかりません。たぶん
後者だと思います。

297 :考える名無しさん:2005/07/18(月) 22:27:42

もうどうにも止まらないな、この人……。

298 :考える名無しさん:2005/07/18(月) 22:30:08
>>296
 そのあたりの操作は人間には知り得ない隠微なものであると考えられているようですね。
可能的と考えられるものが考えられると、悟性が制限される事になるというところがある
と思われます、純粋悟性概念であろうとも概念の一つに過ぎないのであり、感性がそうであ
ることで、純粋悟性もそうであるということでしょうか。

299 :考える名無しさん:2005/07/18(月) 23:15:57
>>296
あえて言うなら後者。だと思う。

オレ解釈だと、感性的な表象に対して悟性の働き
(カテゴリーがどーとかってやつ)が
概念的な加工をがしがし加えることで、
そのままの形式では他人と共有できない表象が、
「客観的」に取扱い可能な認識へと変化する…
くらいに考えているけど(大ざっぱ)。

300 :考える名無しさん:2005/07/19(火) 23:29:07
いったい「物自体」ってなんですか。さっぱり意味がわかりません。

301 :考える名無しさん:2005/07/20(水) 11:43:24
例えば、ある机の外見をあれこれ言うことはできるが、
机という物自体とはいったい何か、一つの決定した答えを出すことはできない。
数十人の人が、机がたったいまどう見えるか、机が自分の目にどう現象しているか、
できるだけ精密に説明することを求められた場合、
光の当たる角度などの事情によって、それぞれの答えが微妙にずれる可能性が常にあり、
この可能性を完全に払拭することは不可能。

この場合、それぞれの人にとっての現象から、暫定的に、
机とは何かについての合意を作りさえすればそれでいいのではないか、とする立場がある。このような人は「机という物自体は人間にはわからないのだ」と
わざわざ言うことには意味がない、とする。

302 :考える名無しさん:2005/07/20(水) 12:35:04
>>301

全然違う

303 :考える名無しさん:2005/07/20(水) 13:24:01
確かに違うな。
どうせ竹田本人だろ。

304 :考える名無しさん:2005/07/20(水) 15:28:41
 物自体 使用例;Ding für uns
「物自体」とは、認識主観から独立に、それ固有の存在のあり方をしているものを
意味するとされる。これは物質そのものではなく、その本質および精神の働きを指
す。物自体は我々にとっての物との対比において思考される概念、つまり、認識可
能な客観、現象との対比において思考される概念とされる。


 批判哲学における物自体の三つの意義

 『現象と物自体との超越論的区別』による二つの見方
 一、体系的な意義という見方
 人間は、現象としては自然因果性の法則に従属するが、物自体としては自由の法
則に従う事が可能となる。ここから、人間の自由は救われると考えられているよう
である。
 二、認識論的な意義という見方
 物自体は人間の認識にとって不可避な前提であり、「現象」の概念にって論理的
に要求される。さもなければ、「現象はそこで現象するあるものがなくして存在す
るという不合理な命題が生じる」ということになるからである。しかも、時間・空
間のうちに認識される対象は全て現象にとどまる。従って、時間・空間はそれ自身
物自体ではなく、また物自体との関係においてはいかなる妥当性ももたない。物自
体は、認識不可能であるが、しかし認識することは充分可能である、とされている


 『存在論的な意義』
 三、「悟性は現象を容認するというまさにこの事によって、物自体そのものの現
存在をも承認しているのである」とされている。物自体は「現象の原因」ないし「
表象の根拠」ともみられており、認識の唯一の客観である現象の存在の根拠ないし
原因という意味が帰せられている。また、現象と物自体との関係については、単に
論理的関係としてでなく、因果関係と解し得る見解もみられる。

305 :考える名無しさん:2005/07/20(水) 15:59:33

>>304に補足
 >>264にあるのだが、先ず、表象の仕方の段階は類であるとされている、類は表象
とも言い換えることができる、知覚が主観にのみ関係するものは感覚、客観的な知
覚は認識であるとされている、認識は直観か概念のどちらか二つである。
 物自体はどのような判断であるのか。物自体は表象であると考えられているよう
なのだ、表象一般の類のもとに知覚が置かれている、知覚には感覚や認識があると
されている、感覚には質料が考えられるのか、認識には直観、概念が考えれれるこ
とになるようだ。対象が乙である、丁である、というのは認識の概念のことである
ようなのだ、つまり、世の中一般にある名前を挙げているだけということになるの
だろうか。

306 :考える名無しさん:2005/07/20(水) 17:40:38
>>304-305
さっぱり意味がわかりません。

307 :考える名無しさん:2005/07/20(水) 21:26:55
ラッセル解釈が却下されたか。

このスレの「精読」は、いっさいのパラフレーズ抜きって
意味なのかな?

308 :考える名無しさん:2005/07/21(木) 16:50:35
質料が感覚か、すると、表象は、先ずそのようなものがあることで、感覚をさせるものだろうか。
知覚が主観にのみ関係するものは感覚、客観的な知覚は認識、と先述した。すると、それが更に主
観にのみ関係するものに言及するとなると感覚であり、客観的なものが認識であるとされる。
すると、表象は主観にのみ関係するもの、或は、客観的なものであると考えられるものであり、
言い換えると、先ず、表象することで、主観にのみ関係するか、客観的なものであるかが考えられ
るところのものである、ということになるのか。ただ、表にさらされている像とだけ言えるものか。

309 :考える名無しさん:2005/07/21(木) 17:04:00
物自体は表象である、表面に出される訳だが、どのようなものが物自体
であると、物自体が表面に出すようになるのか、ということなのか。
何が表面に出すものであると考えられるのか、ということになるのか。
先ず、これがあることで、物自体であり、物自体が表面に表れるというこ
とになるのかね。

310 :考える名無しさん:2005/07/21(木) 18:06:05
時間と空間が、感性の形式なので、現象はすべて主観に起源を持つ。
主観によらなければ、それは物自体である。

しかし、どうもよく分からない。

311 :考える名無しさん:2005/07/21(木) 18:26:43
その主観観測の方法自体が、一般の主観観測の方法とちょっと違ってるのかな。
で、それと対比される物自体も結局として上手く把握できない、と。

312 :考える名無しさん:2005/07/21(木) 18:57:20
いや主観的観測?は同じだと思います。物自体の観測は、不可能ということになってます。

313 :考える名無しさん:2005/07/21(木) 19:15:15
同じなのか。

定義付けるという意味での「観測」も不可能ならそもそも論じることも出来ないのでは?
>>311で言った把握の意味は>>310の「主観によらなければ、それは物自体である」というような、
どういったものが物自体であるのかっていう、定義、あるいは認識の仕方。

314 :考える名無しさん:2005/07/22(金) 13:13:50
定義は認識の概念であるように思われる、観測はどのようなものだろう、感覚と認識を混合させたような
ものだろうか、まず、それが感覚、認識されるという考え方のようなのだ。しかも、空間や時間において
それがある、そして、空間や時間におけるそれが我々に与えられる、ということだろう。

315 :考える名無しさん:2005/07/22(金) 19:10:06
物自体の認識は不可能と言う場合、感性ののことを言うと思います。考えることはできます。
感性というのは五感のことですが、重要なのは、触感と視覚です。味覚、臭覚、聴覚の場合は
、誰もそれで物質の本質が捉えられるとは考えませんが(主観があるから、臭覚、味覚、聴覚
がある訳です)、人間は、触覚と視覚では、物質の本質が分かると考えます。しかしそれらも
否定されている訳です。

316 :考える名無しさん:2005/07/22(金) 20:10:51
或るものが既に経験的なものであるということに、物自体が成り立っている
と思われる。

317 :wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/07/22(金) 20:49:07
あるものの質料は、それを認識するためのアプリオリな感性、
カテゴリー、図式が与えられており、それにより、その質料を認識できる。
但し、それが物自体であるわけではない。あくまでも、認識知。

318 :考える名無しさん:2005/07/23(土) 07:01:15
訂正。カントは物自体について、考えることもできないと言っているのかも
しれません。純粋悟性概念(カテゴリー)が主観の側にあるので。わたしは
これは間違っていると思いますが。

319 :考える名無しさん:2005/07/24(日) 17:49:29
英訳と言っても様々な出版社から出されていますが、どこのがいいんでしょうか?

320 :考える名無しさん:2005/07/25(月) 14:11:38
一般性とは何でしょう。

321 :考える名無しさん:2005/07/26(火) 20:08:35
>>319
プラトンやアリストテレスだと
Loeb Classical Libraryのシリーズが
左ページのギリシア語原文と、右ページの英訳とが、比較対照できて便利ですが、
(例えばhttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0674992997/
カントで、プラトン等と同じように、原文と英訳を対照させて、なおかつ定評のあるシリーズを
御存知の方がいらっしゃれば、是非教えていただきたく思います。

一般の書店の洋書コーナーだと英訳版が多いですが、
英語だけだとどうしても正確性に不安が残るし、
独語だけだと、私の語学力の無さゆえですが、まともに読めるか、不安です。
そこで独英対照版があればいいな、と思っているのですが・・・

322 :考える名無しさん:2005/07/26(火) 20:17:05
ない。>>321
右手に原書、左手に英訳をもって読めやこら!

323 :考える名無しさん:2005/07/26(火) 20:59:14
>>322
ページめくれねーじゃん

324 :考える名無しさん:2005/07/28(木) 20:39:45
>>300
対象の全部をいっぺんに同時に全体として見ることはできんでしょ?
我々感性的存在者がなんらか対象を認識する際には
純粋直観なりを介してしか対象そのものを見ることは出来ないわけで、
そういう対象から時間性空間性を捨象したものが物自体なんですな。

目の前のパソコンはパソコン自体を時空の制約の下に見たものに過ぎないのじゃ。

325 :考える名無しさん:2005/07/28(木) 23:39:55

>対象の全部をいっぺんに同時に全体として見ることはできんでしょ?

あなた、単に視野が狭いだけじゃないの、俺は見えますが

326 :考える名無しさん:2005/07/29(金) 02:25:43
時間・空間といった感性の形式によらず、いかなる概念的把握も必要なく、
物そのものの本質を一挙に把握できる超人的能力を持つ>>325が降臨した模様

しかしながら、「視野が狭い」という表現をして空間的な把握を示唆している
のはいかがなものか。 超人らしくない。


327 :考える名無しさん:2005/07/29(金) 06:15:41
物自体とは文字通り物自体のことではないのですか?
我々が視覚で捉えた対象はあくまで光の情報でしかないし、触覚によって得られた情報も
単に表面を触ったことで表面の肌触りや硬さがわかるだけでしかない、と。
これが時間・空間の感性の形式の制限?
そこから推測した対象が概念的把握っていうんですか?

328 :考える名無しさん:2005/07/29(金) 20:35:47
>>327
それは、安直な二元論だよ。
物の側に立ち、それしかない、と、
認識の側に立ち、それしかない、との両立は成り立たない。

329 :考える名無しさん:2005/07/29(金) 20:50:15
ではカントは安直な二元論からどう脱したのですか?

330 :考える名無しさん:2005/07/29(金) 20:58:04
徹底して認識の基盤から追求したが、
イデアとしての絶対者を希求している。
しかし、安直には、絶対者が認識に及ぼすことを肯定することにためらっている。
そこが、カントの真摯さだ、と思う。

331 :wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/07/29(金) 21:03:01
サルトル辺りになると、即自存在、対自存在、対他存在、というような
カテゴリーを持込み、物自体=人間の死=即自存在は、人間の認識とは異なるもの、
として、人間存在/認識/意識と、物自体との関係を、
棄却(関係性を持たない、と)している。

332 :考える名無しさん:2005/07/29(金) 21:26:22
>>304から引用した
>一、体系的な意義という見方
>『人間は、現象としては自然因果性の法則に従属するが、物自体としては自由の法
>則に従う事が可能となる。ここから、人間の自由は救われると考えられているよう
>である。』

[解釈]
 物自体は、現象として考えられると、自然の法則中でも原因と結果の法則に従うもの
である、だが、物自体としては自由の法則に従う事が可能となる。ここから、人間の自
由は救われる、言い換えると、自由になれるのだ、ということだろうか。
 現象として考えると、我々は、自然の法則の中の原因と結果の法則、自然的法則の
原因と結果の法則に従っている、だが、物自体は自由の法則に従う可能性がある、
言い換えると、物自体が自由の法則に従うことは救いであろう。

333 :考える名無しさん:2005/07/29(金) 23:39:10
つまり、我々の認識の側から立ってすれば、物自体という概念がなければならない
、あるはずだ、という立場で、観測はできないが理屈からいってあるはずと想定される
ような本性・精神的なもの、でしょうか?
つまり、物の側と認識の側が非対称で、物の側は「ある」と断定することさえできないような
いわば神の世界のようなもの?
だけど、神が居れば道徳が成り立つわけだから、神の証明はバカバカしいが、
神はいるはずだ、みたいな。

334 :考える名無しさん:2005/07/29(金) 23:41:16
最初の3行むちゃくちゃですねwww
すみません。つまり認識の側という確固の立場をまず獲得して、実際にあるかどうかはともかくとしても
物自体があれば自由を得られるわけだからそれはあるはずだ、あるべきだ、という考え、といいますか。

335 :考える名無しさん:2005/07/30(土) 00:18:02
>物自体は、現象として考えられると、

まずこの書き出しからして箸にも棒にもかからない。
超越論的感性論の最初のページを読み直せ、という感じ。


336 :考える名無しさん:2005/07/30(土) 00:18:53
333-334と332は別人です…

337 :考える名無しさん:2005/07/30(土) 00:29:29
「精読スレッド」なのに一読もしてないような奴が長文書くのはどんなんでしょ


338 :考える名無しさん:2005/07/30(土) 00:34:37
>>337
精読の前に一度通読してる感じがしないよね。
初心者が概説なしにいきなり「純粋理性批判」を読むスレ、みたいになってる。

339 :考える名無しさん:2005/07/31(日) 13:30:48
>>1
重複につき誘導

【Immanuel】 カントだよ全員集合!3 【Kant】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1102664061/

340 :考える名無しさん:2005/07/31(日) 13:33:21
>>339
重複とは言えない。
カントはもっともメジャーな哲学者の一人なので
主著ごとにスレはあってよい。
カント研究者のなかでも認識論・倫理学・美学等で
専門が分かれるという事情もある。

341 :考える名無しさん:2005/07/31(日) 21:21:51
研究者によっては見事なくらい他の領域には手を出さないってことも多々あるな。

342 :考える名無しさん:2005/07/31(日) 22:53:33
全体を考える能力がある。

343 :考える名無しさん:2005/07/31(日) 22:59:58
我々は、全体を考える能力がある、
可能的一般性と他の一般性との関係を考えることが可能だ、
理想的な一般性に規定されるものに関係する。

344 :考える名無しさん:2005/07/31(日) 23:08:53
>>341

俺もカントの純粋理性批判は好きだけど、
カントの倫理学の考え方は好きじゃない。


345 :考える名無しさん:2005/08/01(月) 01:02:24
>>332
>物自体は、現象として考えられると
物自体と現象の区別は初心者の読みとして最初にクリアしなきゃならないことじゃね?
その意味では>>304がいい感じにまとめてくれてる
あれを意識して超越論的感性論の空間についてを読めばその区別が段々はっきりしてくるよ
ただしあくまでも参考にして自分で考えなきゃ意味ないが

346 :考える名無しさん:2005/08/01(月) 13:58:08
ちょうど空間についてを読んでいたのですが、
外的感管と内的感管とはなんのことなのでしょうか。
内的な諸規定に属するものは時間の諸関係において表象され、
外的には諸対象を空間において表象する。
外的には時間が直観されないのは、空間が私たちの内なるあるものとして直観されえないのと同様。

内的状態が魂を直観可能な形式というのはなんとかわかるような気もしますが、
何故内的なものにのみ時間の諸関係が表象され、
外的には時間が直観されないのでしょうか?


347 :考える名無しさん:2005/08/01(月) 14:41:21
視覚、聴覚などの外的感覚器官は、現在を感覚するだけで、
時間の認識のためには、記憶の想起という内的感覚が必要ということ?

348 :wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/08/01(月) 14:56:45
>>346
空間は、外的なあるものの「質料」が直感として与えられ、
それを認識するためのアプリオリな感性、カテゴリー、
及び図式が与えられており、それにより、その質料(空間)を認識できる。
一方、時間は、 外的ななにかが、直感としえは与えられない。
このため、それは、アプリオリな感性、カテゴリー、
及び図式を介し、内的な悟性概念として与えられる。

しかし、例えば、鳥が空を飛んでいくのを見るとき、
それが、「質料」の位置の変化として外的な直感に与えられるが、
変化の観察軸としての時間は与えられない、というのも、
アプリオリな外的直感の定義として無理がある。

いっそ、論理的整合性をシンプルにするために、ここで無理押しをし、
一挙的に、時間も外的直感としてアプリオリに与えられる、とカントが明確に書いておけば、
もう少し「純理」は読みやすくなっていた、と思う。



349 :考える名無しさん:2005/08/01(月) 15:24:39
>>346
 カントの場合、感官は能力とされているようだ、その能力は感覚器官の能力の意味
で考えられているようだ。
 感官は感性において考えられている。感性は二つのものとして考えられているよう
だ、一つは(感覚器官の能力である)感官によるもの、二つは構想力によるものだ。
感官であるが、対象が現に現れるのを直観する能力とされている。この能力は更に二
つに分けて考えることができるそうだ、一つは外官であり、二つは内官だ。
 ○二つに分けて考えられる感官
  内官:人間の身体が心によって触発される感官、
     我々の全ての認識が、内官の形式的条件、即ち時間に従うところのもの
     とされているようだ。
     * 快や不快を感じるのは、内官とは別の内面的な感官とされているよう
       だ。
  外官:物体的なものの感覚が与えられる感官、
     対象を我々の外にあるものとして、即ち、空間において表象する、とされ
     ているようだ。
     <客観的と考えられる感官> 触覚、視覚、聴覚、
     <主観的と考えられる感官> 味覚、嗅覚、

350 :346:2005/08/01(月) 16:10:51
こんなに詳しくレスしてもらえるとは。感動しました。

みなさんのレスを読んでなんとなくカントの言わんとするところが掴めてきたような気がします。
すると内的感管は悟性の内にあるものなのでしょうか。
フッサールの言う「いまここにありありとある充実した現象」を基盤に外的感管が規定されているのかな。
でも今が過去と未来を全く含まずに捉えられるというのは無理があるような気がする。
とりあえず読み進めてみます。レス下さった方ありがとうございますー。

351 :346:2005/08/01(月) 16:15:37
あ、感管はあくまで感性なのか。じゃあ悟性とは違ってるのか…誤解してましたすみません

352 :考える名無しさん:2005/08/01(月) 16:20:49
>>346
× 感管 → ○ 感官

353 :考える名無しさん:2005/08/01(月) 19:16:04
>>349
>* 快や不快を感じるのは、内官とは別の内面的な感官とされているようだ。
これはどんな感じ?


354 :考える名無しさん:2005/08/01(月) 20:01:10
逆立ちしようとしたら、足から空に吸い込まれていく感じ

355 :考える名無しさん:2005/08/01(月) 23:50:01
超越論的感性論の第6項のCの時間についての言及が全く意味不明だ…
時間は経験的実体?諸物一般?超越論的観念論?
何が何やら…

時間は主観的に捉える場合には全ての現象が属するアプリオリな条件である。
しかし主観を捨てて諸物一般として物それ自体を観測しようとするならば
時間は何でもなくなり、経験的実在性となってしまう…?
時間が絶対的実在性を持つならば、実在性が
感性的直観の形式を考慮しなくても諸物の固有性と結びつくから?
その面で時間は超越論的観念性である。


何故?時間が経験的実在性?後で実在を否定してるのに…
時間には実在的な面と超越論的な面があるということ?
なんで実在的なんだ?

356 :考える名無しさん:2005/08/02(火) 00:23:31
わかった!
時間は基本的にはアプリオリだけれど、物自体にあるわけではなく
感覚する条件として与えられているに過ぎないから、
そういう意味では経験的実在性であるって事か!

357 :考える名無しさん:2005/08/02(火) 02:31:46
どうも日常で考えるところに引き寄せてこの部分を考えるには、
概念の形式が時間であると考えられているようだ。
>>283あたりはどうだろう。

358 :考える名無しさん:2005/08/02(火) 02:59:57
ワロス

359 :考える名無しさん:2005/08/02(火) 15:40:52

  構想力
 感性 悟性

360 :考える名無しさん:2005/08/02(火) 15:47:51
 総合について
感性は構想である、感性は悟性である、悟性は構想である、従って、感性は構想である
感性と悟性は構想である
感性は悟性である、悟性は構想である、従って、感性は構想である

361 :考える名無しさん:2005/08/02(火) 17:13:47
時間の内的アプリオリ性に対するアンビバレンツが、
カントの最大の弱みだけど、それに対し、
逃げずに誠実に対峙している点が、カントの凄さ。

362 :考える名無しさん:2005/08/03(水) 16:41:08
空間(上下、左右、或るところ)・時間(前後、同時、持続、常住不変)
物自体
現象(表象)
感性(感官、構想力)
悟性(直観、認識)

 感性 感官(内官・外官)、構想力(産出的、再生的)
 悟性 直観、認識(経験的概念、純粋概念 <純粋悟性、理念> )

  感官 内官 身体が心によって触発されるもの
     外官 <客観的と考えられる感官> 触覚、視覚、聴覚
        <主観的と考えられる感官> 味覚、嗅覚

  直観 対象へ直接的に関係する表象を直観という
  認識 経験的概念 多様なことに当てはまる概念的な普遍性
     純粋概念 カテゴリー表

* 統一、或るところ、或るところにおける他のものは上下、或るところ、
左右によって考えられるのではないか。

363 :考える名無しさん:2005/08/04(木) 18:42:28
                    ___
                   !ヾ. ̄⌒__ ̄彡|
                     iミ:::ミC= ≡..::: )
                   |::::     ″. ´/
                   |::::: ヽ    / /;|
                   |::: ( '   ( .::;;;|
                   |::: | ミ   .ヽ\|
                   |::: 丶ヽ  ..:ヽ )
                   |:::   .i !   ::;;;;;|
                   |:::   i .ノ   . ::;;;;;|
                   |:::  ( ヽ  ..::;;;;;|
                   ( \  l. |  ..:;;;;;;|
                    |::\∨丿 ″..:;;;;;|
                    |::: ( (  ゙ ..:;;;;;|
                ,,.-‐''"´" ノ ノ    ""´"''- 、
              /:::                 ヽ
             /:::::::  〇              〇   ヽ
              l:::::::                     :l
             .|:::::::..                   :|
              l::::::::::.                     :l  
             ` 、:::::::..     (__人__)       /
               `ー 、;;;               /
                        `'''ー‐‐──‐‐‐─'''""´


364 :考える名無しさん:2005/08/05(金) 01:11:56
感性に与えられた対象、対象は或る概念である、
或る概念は他の一般的概念である、どのような一般的概念があるのか連想しよう。

365 :考える名無しさん:2005/08/09(火) 17:37:37
感性 感官 図式

366 :考える名無しさん:2005/08/09(火) 19:36:26
私もカントの倫理学は嫌い。
『純粋理性批判』では有効な「純粋」という概念が逆に害になっているような気がする。
漠然としていて、よくわかっていないけど・・・。

367 :考える名無しさん:2005/08/11(木) 07:11:26
関係と同一律

368 :考える名無しさん:2005/08/23(火) 14:41:33
質問なのですが、
以文社の宇都宮訳「純粋理性批判」には
「哲学文庫版を原本にし、アカデミー版も参考にした」との説明がありますが、
http://www.amazon.de/exec/obidos/ASIN/3150064619/
http://www.amazon.de/exec/obidos/ASIN/311001436X/
などを見ても、どれが「哲学文庫版」なのか、よく分かりません。
できれば宇都宮訳と対照させながら読みたいので、
対応する原本を教えて頂けると幸いです。

369 :考える名無しさん:2005/08/23(火) 14:57:52
「哲学文庫」てのは Philosophische Bibiliothek のことだろ。
Felix Meinerから出てる緑色の表紙のやつ。


370 :考える名無しさん:2005/08/23(火) 15:08:49
>>369
これですか。
http://www.amazon.de/exec/obidos/ASIN/3787313192/

thx

371 :考える名無しさん:2005/08/23(火) 16:45:13
理性のやつめが!

372 :考える名無しさん:2005/08/24(水) 12:29:53
>>371
やったれ!

373 :369:2005/08/24(水) 13:04:55
よく見たら「ビブリオテーク」ぢゃなくて「ビビリオテーク」になってた。
涅槃に行ってくる。

374 :考える名無しさん:2005/08/24(水) 13:06:14
ビブリオマニア

375 :考える名無しさん:2005/08/25(木) 20:15:10
岩波文庫の3批判はそんなによくないの?俺、ヒキコモリだし金ないから、
もう本買えないし図書館にもいけないよ・・・・

376 :考える名無しさん:2005/08/25(木) 20:34:14
平凡社ライブラリのをかえばいい

377 :考える名無しさん:2005/08/25(木) 20:48:53
>>376
純粋理性非難だけでも6000円なんて高すぎ。悪文でもそれなら岩波読むよ。
それにお気に入りの哲学者でもないし。

378 :考える名無しさん:2005/08/25(木) 20:56:56
英語で読めればいいんだが…

379 :考える名無しさん:2005/08/25(木) 21:06:12
誰か英語の勉強の仕方教えてください

380 :考える名無しさん:2005/08/25(木) 21:08:22
岩波文庫よく言われるほどやばくもないが。

381 :考える名無しさん:2005/08/25(木) 21:10:05
ハンバーガーやサンドウィッチを好きになることから始まるだろうね。

382 :考える名無しさん:2005/08/25(木) 23:02:36
ドイツ語でよめばいい。安いぞ。

383 :考える名無しさん:2005/08/26(金) 14:51:56
>>377
自分の関心のあるところから読み始めるべきだし、
そうでないと、読んでも腑に落ちず、無駄な時間と金を使うことになる。
まず、上巻か中巻のどちらか1冊を買って読んだあとで、
この哲学者の議論に今後も付き合うべきかどうかを考えればいい。
時間・空間とは何か、あるいは分析哲学にすでに関心があるなら、上巻から読み始めるのがよい。
そもそも普遍的なものはありうるのか、あるいは合理論にすでに関心があるなら、
むしろ中巻から読み始めるのがよい。現に最初のほうでプラトンのイデアの解釈をしている。
下巻は、哲学的にはむしろ補足なんで、どちらにせよ後回しでいい。
(岩波文庫も平凡社ライブラリも巻構成は同じ)

そもそもお気に入りの哲学者でない人の本など、何故読む気になるのかが疑問。
(私はいまだにヘーゲルを熟読する必要性を感じないし、いまだにそれで不足していない)
読まなきゃならないという強迫観念をどこか(この板?)で植え付けられたんだろうか?

384 :考える名無しさん:2005/08/26(金) 15:11:12
>>383
あなたがどのような立場の人間なのかも分からないのに、
「ヘーゲルを熟読する必要性を感じないし、いまだにそれで不足していない」
なんて言われたって、仕方がない。
大学の哲学科の教授だとでも言うのなら、「へー」と思うが、
普通のサラリーマンだったりしたら、そりゃ個人的趣味以外には、
ヘーゲルを読む必要になんか、迫られないだろうし。

385 :考える名無しさん:2005/08/26(金) 15:25:03
屠殺場の壁がガラス張りだったら、人々はみな、ベジタリアンになるでしょう。
ポール・マッカートニー
「仏教」「地獄絵図」ってキーワードで検索してみてください。
というよりしてほしいと思う。
ひよこはオスだとわかると数十匹袋に入れられて圧迫されて叩き殺される。
食肉される牛は最後涙を流すこともあるらしいです。
片脚を鉄のチェーンで縛られ逆さまに吊るされ、宙に浮く。悲鳴を上げる。
牛は自らの重い体重を支えられず、
吊るされた脚は脱臼し骨がバキとへし折れる音が解体場に鳴り響き、
牛の頭は人間が持ってきた解体する大きなまな板のよな台に首が乗って目は充血し、
パニックになり鳴きつずける。人間はノコギリのような刃物で首に切れ目を入れ、
その瞬間に動脈が切れ大量の血が滴る。。
・・・生きてる鶏を吊るして羽をむしりとり首を切って、
中には動脈でつながり意識ある鶏を熱湯に放り投げフタをする。
俺このサイトみてから改心した。
「牛の作文1、2」ってコーナー見て人間は戦争をやめろだとか
平和を願ってるけど、家畜の動物たちに待ってるのは地獄。
安楽死させてると思ってた。
もしくはガスの中で意識薄れていく中で死んでいってると思った。
だけど、現実はそうじゃなかった。涙というよりショックで肉食べれなくなった。。
人一人がベジタリアンになると80の命が救われるらしいです。
俺は宗教あんま信じてるほうじゃないけどそんなんじゃなくて
普通にベジタリアンになろうと思った。
俺が食べないことで少しでも殺される数が減っていることに
なるならいいやなんて思った。。
グロテスクな映像は見なくていい。命ってなんなのか。文章だけでも読んでほしい。
ここを覗いた人が何かしら家畜たちに対して感じてほしい。
国道16号線を走っていた時、赤信号で止まって前のトラックの隙間から
見えた牛と目が合った。大きな瞳がすごく潤んで見えた。。
それから16年間肉は食べていませんって書き込みに泣いてしまった。


386 :考える名無しさん:2005/08/26(金) 17:21:44
>>384
どうやら真面目な人みたいだから、念のために書くと
「ヘーゲルは読まなくていい」という、とんでもないことを
>>377に伝えたかったわけではない。
(そもそも、私にそんなことを言う資格はないのだし、ありえない)

でも、関心がないものでも読まなくてはならないのは、
職業哲学者と、その予備軍である学生など、だけ。

ある仕事を職業にしようとする人に対して
「個人的興味が向く以外のことも学べ」と指導するのは当然のことで、
その種の職業的自意識・誇りがあるから、
>>383の書き込みは、>>377を誤った方向に導く不適当な言い草、
と感じたのかも知れないが、
そんなの、>>377が仮にそういう立場であったとして、
それが分かった時点で、初めて考えればいいだけの話だと思う。

>あなたがどのような立場の人間なのかも分からないのに、

だいたい、相手の「立場」が分からないと話ができない、とは思わないけどね。
「立場」を気にする必要がどこにある?
相手が哲学科の教授なら、同じ内容でも、私は態度を変える、というのでは、
あなた、すごい権威主義者になってしまうと思うが。

387 :考える名無しさん:2005/08/26(金) 17:45:08
>>1
重複につき誘導

【Immanuel】 カントだよ全員集合!3 【Kant】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1102664061/

388 :考える名無しさん:2005/08/26(金) 17:56:02
重複じゃないじゃん

389 :考える名無しさん:2005/08/26(金) 20:12:16
>>387
このスレッドが『【Immanuel】 カントだよ全員集合!3 【Kant】』の中に
含まれているものとしてそのスレッドに属するものだ、と言われているのだ
ろうか。でも、それはこのスレッドの外にあるものだ。
どうして重複であるのか。

390 :377:2005/08/26(金) 21:46:11
>>383>>384
ケンカをやめて〜二人をとめてぇ〜♪
岩波文庫、合計6冊はもう既に持ってるからそれを読みます。どもでした。
カントの考えには興味あるけど、訳文の質はどうでもよかったりするので、
とりあえずがんばって読みます。お騒がせしました。
カントを理解しなくちゃならないってのは、ずばりヘーゲルの精神現象学を
読みたいからです。おしまい。

391 :考える名無しさん:2005/08/26(金) 23:55:01
>>390
ならオススメはカントのアンチノミー論(超越論的弁証論)をそれなりに理解してから、
同じく岩波文庫のヘーゲル「哲学入門」のカントのアンチノミーについてを読む。
ヘーゲルはカントの四つのアンチノミーの真の解決は実はこうだ、と言って
論を展開する。これがカントとヘーゲルの差異を理解する早道。

392 :考える名無しさん:2005/08/27(土) 13:47:37
>391
へえー。そうなのかな。

393 :考える名無しさん:2005/08/27(土) 13:54:17
超越ということだが、それだからどうなのかだ。

394 :考える名無しさん:2005/08/27(土) 14:11:39
止揚ならわからないでもないが、超越というとエポケーっぽくなるのだよ

395 :考える名無しさん:2005/08/27(土) 14:20:01
時期は秋になるから、演繹の季節になるのかなぁ。

396 :377:2005/08/28(日) 19:18:51
カントって童貞のくせになんでこんなに自信満々なの?
感性と悟性の区分にしたって、本人確実だとか言ってるけど、
なんの根拠もないじゃん。それなのに17世紀の哲学者を
独断論者とかいって、いったい何様なのかと。

397 :考える名無しさん:2005/08/28(日) 20:47:38
一方は神の実体であると考えているのだが、
 他方は感性から始まることであると考えているのだ。
一方は神から生じた法則に従っていると考え、目の前のことは神の性質である
と考えているのだが、
 他方は感性から始まることであると考えている、ということだ。
一方は神に従っているのだが、
 他方は感性から始まるということなのだ。

一方は理屈を判らないもに慈悲を与えるのだが、
 他方は屈辱を感じるということだ
一方は明白なことから始めているのだが、
 他方は判らないということだ。

398 :377:2005/08/28(日) 21:01:33
神や実体から始める人たちの方が謙虚な件について。

399 :考える名無しさん:2005/08/28(日) 21:59:50
カントは何でセックルしなかったの?性欲が無かったの?

400 :考える名無しさん:2005/08/28(日) 22:02:54
貧乏だったから働いた。気づいたら婚期を逃してた。
性欲はあったんじゃない?オナニー用の春画かいてたらしいし。

401 :377:2005/08/28(日) 22:14:48
いかにも性格の悪そうなあの文章は、貧乏からくるものだったのか。
納得。貧乏人はたいてい性格悪いもんだしね。

402 :考える名無しさん:2005/08/28(日) 22:21:20
性格はかなりいいほうだったみたいよ。
博識で社交的な人物で知られとって、食卓では話題が豊富で親しみやすかったらしい。
そういうくだけた場で小難しい哲学の話をするのを嫌悪してたとか。

403 :考える名無しさん:2005/08/28(日) 22:27:56
カント童貞説はどこから来てるんだ?

404 :377:2005/08/28(日) 22:30:11
>>403
前に2ちゃんのカントのスレで読んだ。あとレイパールソーの話も。

405 :考える名無しさん:2005/08/28(日) 22:40:06
>>403
未婚って事実とカントの結婚観から来てるんじゃないか?
『法論』によれば結婚は性器の相互所有契約らしい。
性器が結婚によって相互に所有されていない場合に、
性交のために性器を使用することは
相手の人格を「単に手段としてのみ扱う」ことになるからカントの倫理学説にあわないだろう。

406 :考える名無しさん:2005/08/28(日) 23:10:08
>性交のために性器を使用することは
>相手の人格を「単に手段としてのみ扱う」ことになるからカントの倫理学説にあわないだろう。
ワロタ。いや、ホントにそう思ってたのかも知らんけど。

407 :考える名無しさん:2005/08/28(日) 23:17:16
ニーチェに言わせれば童貞のルサンチマン哲学なんだろうな。
あ、ニーチェも童貞か

408 :考える名無しさん:2005/08/29(月) 03:40:54
↑釣り?

409 :考える名無しさん:2005/08/29(月) 14:10:37
>>407
童貞とそうでないものとの相違の有無と相違点が有る場合のその特定、
及び童貞を揶揄する意味を定義せよ。

410 :考える名無しさん:2005/08/29(月) 19:59:31
カントと分析哲学の関わりについて教えてください。

411 :考える名無しさん:2005/08/29(月) 21:40:48
>>407
人類の半数を占める女、それを知らない人間が
何故人倫における普遍的法則を提唱できるのか?

「普遍的哲学者」の感性界における基盤をなすものは所詮、
すべての人間が抱かざるを得ない「仮象」などという高級なもの?では決してなく、
童貞の独断的幻想・妄想の類であった

412 :考える名無しさん:2005/08/29(月) 22:22:00
何度セックスしても全然女がわからないんですが…。

413 :考える名無しさん:2005/08/29(月) 22:22:22
>>411
お子さまだね
セックスをしない=女を知らないってことじゃないでしょ、


414 :考える名無しさん:2005/08/29(月) 22:24:41
>>413
し!
>>411は最近初めてセックスして有頂天になっているんだよ。きっと。

415 :考える名無しさん:2005/08/29(月) 22:30:04
>>411は、女というか、人間を知らない。

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