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Webforumで対話するということ

1 :考える名無しさん:05/03/01 19:02:31
共感からであれ反感からであれ「哲学」という言葉が使われる際の鼻持ちなら
ない感覚は、昨今どうにも拭い難い。それ自身のみを対象とする狭義の哲学が、
広範な知識のカテドラルから「したり顔」で発言するときや、「哲学は所詮言
葉遊び」などと言った通俗的で無頓着な批判が、長きに渡る学問の誠実な成果
であるところの微妙な内省の領域を、無神経に踏み荒らして何の屈託もないと
き、どうして人は平然としていられるだろうか。


2 :1:05/03/01 19:04:03
「雨が降っているから、傘を差す」と言ったプリミティブな行為と、ゼノンの
比喩の間を隔てる距離は刹那にして、かつ測り難い。傘を差してしまえば、既
に矢は的を射ているというのに、何を理屈を捏ねてもたもたしている必要があ
るのか、と言う実践派の尤もな非難には、単純な行為にあってさえ不可解で、
しかも充実した内容を持った実践を、何やら安あがりなものにしてしまう陳腐
な理屈っぽさがある。我々が目前にしている行為が「水爆が降ってくるか
ら、…」という条件節に導かれているなら、的に至るまでの距離は無限に分断
されても足りない程の密度を供えていてしかるべきであろう。


3 :1:05/03/01 19:04:40
考えあぐねた末に事をし損じるインテリゲンチャも、無邪気に行為に加担して、
陰惨な暴力すら事後の論理で正当化する実践家も、等しく哲学自身とは関りが
ないが、理論と実践の二律背反という哲学が生んだ精神病に引き裂かれている
点では同じ穴の貉と言える。理論は実践に奉仕する限りにおいて有用であると
言う実証主義の独善は、不快な程効いて始めて意味のある理論の塩を、当たり
障りのない程度まで薄めることで、一層理論を貶める折衷案を捻出してしまっ
た。過去の統計から帰納される実践の可能性によって限定される理論は、ここ
において既に起ったことを確認し、繰り返すだけの不自由なものとなる。しか
し理論の本懐は、抜き差しならぬ状況にあって、なお絶望的な努力を根拠付け
ることのできる程の子供っぽい楽観と自由にあるのである。何度も繰り返され
てきたにもかかわらず、未だに腑に落ちない表現を借りるなら、理論とはひと
つの実践なのだ。哲学はこうしたプロセスを実践して見せようとする。


4 :1:05/03/01 19:05:57
「天下国家可均也 爵禄可辞也 白刃可蹈也 中庸不可能也」と言った激しい物言
いは今日、文学的表現として以外何の意味も持たなくなってしまった。「仏に
会えば、仏を殺す」関羽の剣も、ニーチェが「理解」されて以来、舶来の玩具
のように見えざるを得ない、という現状なのである。


5 :1:05/03/01 19:43:50
単に少し自由に話しをしてみよう、という試みです。
哲学板に立てたのは、語の意味を定義することや、論理を必要以上に明確にす
ることを強制されることなしに、それらが自明になるまで対話を続けるという、
哲学の形式を借りて話しをしてみたいからで、テーマなどは好きにしてくださ
い。言いだしっぺがとりあえずテーマらしきものを上げておきましたが、特に
捕われる必要はないです。おもしろい煽りなら寧ろ歓迎。

6 :考える名無しさん:05/03/01 20:26:39
天下国家可均也 爵禄可辞也 白刃可蹈也 中庸不可能也

↑訳きぼんぬ

7 :1:05/03/01 21:33:35
>>6
「天下国家も均しくすべし、爵禄(しゃくろく)も辞すべし、白刃も踏むべし、
中庸は能くすべからざるなり」

天下を統一することはできよう、地位と名誉を辞退することもできれば、白刃
を踏む勇を興すこともできる。しかし、中庸は「成し」得ない。

と訳してみます。「中庸」の九章から(だったと思う)。

8 :考える名無しさん:05/03/02 00:30:30
>>7

>>4の文学的表現として以外何の意味も持たなくなってしまった
のくだりが何故かわからない。

「仏に 会えば、仏を殺す」関羽の剣も、ニーチェが「理解」されて以来、舶来の玩具
のように見えざるを得ない、という現状なのである。

関羽の剣は何とニーチェが何故関係あるのかわからないんだけど・・・

9 :1:05/03/03 08:18:21
>> 8
> >>4の文学的表現として以外何の意味も持たなくなってしまった
> のくだりが何故かわからない。

我々は、孔子が一言も「言って」いないことを空想して彼の発言を理解しがち
です。例えば「何如なる実際的な困難に比しても、偏らない判断を下すことは
難しい」というような尤もらしい「考え方」は彼とは無縁なものでしょう。

孔子は白刃を踏むことは「できる」が、中庸を得ることは「不可能」だと「言っ
た」のです。いうなれば、この激しい発言をすることによって「中庸を得」よ
うと試みているのです。ここでは、矢が的の中心を捉えようとするように、言
葉が対象の心臓を捉えようとする様子が描写されているのですが、今日一般に
は、「中庸」の概念が修辞的な言い回しによって「巧みに表現されている」、
という生ぬるい説明がされるでしょう。

勿論「理論とはひとつの実践なのだ」という文を受けています。


10 :1:05/03/03 08:22:14
「関羽の剣」は、『無門關』冒頭から。

「趙州狗子」の公案の注釈です。趙州和尚の言う「無」に専心参ずれば、灼熱
した鉄球を呑んだが如く、従来の無定見は忽ち蕩尽して、幼子が夢を見るよう
に自ずと真理が知られるだろう云々、の後に、

「如奪得關將軍大刀入手、逢佛殺佛、逢祖殺祖、
於生死岸頭得大自在、向六道四生中遊戲三昧。」

と、禅僧らしい猛烈な表現で大悟の後の大自在を語っています。

仏門にあって「佛を殺す」と発言することが、如何に熾烈な「行為」であった
かは、ニーチェの「行為」ーー19世紀の終りに「神は死んだ」と発言することーー
が安っぽいキャッチコピーにまで成り下がり、人気を博す今日では、殆んど想
像することすらできません。

『無門關』は手元にテクストがなかったので、googleで行き当った以下から写
させていただきました。書き下しもありましたので参考にどうぞ。

http://homepage1.nifty.com/poem-club/mumonnkan/mokuji.htm


11 :ロウシ ◆SRBroushi6 :05/03/08 22:31:09
無門関なら別スレがあるよ。

【東洋哲学】無門関【禅】
ttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1100525227

12 :考える名無しさん:2005/03/29(火) 00:19:27
「反逆」こそが対するものの大きさを受容し且つ能動する真の行為である。と?
対極を同時に答える言説なのでしょうか。問題の出現であり応答であるのか。

13 :考える名無しさん:2005/03/29(火) 00:38:13
秀吉、利休の辛辣な距離か。

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